鹿兒島縣史 第三巻/序説


序  説

 薩摩藩は、藩主島津齋彬の出るに及んで、漸く徳川幕府の覊絆に抗して獨自の立場に卓立し、擧藩大義名分を重んじて朝廷尊崇の旗幟を鮮明にした。 爾後、よく人力と財力とを傾け、産業に、國防に、文化に、常に時代の先達となつた。 更らに轉じて、國體の本義に則り、討幕の大旆を掲げて王政復古の天業を扶翼し奉り、版籍奉還より明治四年の廢藩置縣に及んだのである。 而して、維新後、益藩内庶政の改革を断行して人物を中央に送り、以て率先新政府を誘導して其の支柱となつた。 實に幕末より維新にかけて一聯の本縣人最活動時代であり、また志士・人材雲の如くに輩出し、其の名聲天下に鳴響いたのである。

 置縣後、縣民一致協力して其の治績大いに擧り、西郷隆盛等歸郷して人材訓育のため私學校を起し、益盛大に赴いたのであるが、不幸にも漸く中央との疏通を闕き、遂に西郷が私學校徒に推されて首途北上するに至つて、此處に謂はゆる丁丑の役を生んだのである。 要するに、一は幕末以來庶政を革新し、時代の先登を切つた本縣の立場と、之に對する中央の方策との齟齬による所であり、一は征韓論が惹起した國内騒擾の終末を劃する國家の苦杯とも稱するべきであらう。 役後、中央政局の安定と縣當局の施政よく人心を安んじ、また中央との融和に萬全の力を致して新しい縣政時代に入つたのである。

 明治四年廢藩置縣に際して、舊鹿兒島藩の全地域を以て鹿兒島縣と稱し、同年、其のうち島嶼二郡を除く大隅國及び日向國諸縣郡の大部分を都城縣に入れ、一部を美々津縣に屬したが、明治九年、更らに宮崎縣を擧げて本縣に合併し、薩摩・大隅・日向三國を管して丁丑の年に際會したのである。