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クサイ
朝、目が覚めると、船は停っている様子である。すぐに甲板に上って見る。
船には既に二つの島の間にはいり込んでいた。細かい雨が降っている。今まで見て来た南洋群島の島々とはおよそ変った風景である。少くとも、今甲板から眺めるクサイの島はどう見ても、ゴーガンの画題ではない。細雨にけむ長汀ちょうていや、模糊もことして隠見するみどりの山々などは、確かに東洋の絵だ。一汀煙雨杏花寒とか、暮雲巻雨山娟娟とか、そんな讃がついていても一向に不自然に思われない・純然たる水墨的な風景である。


食堂で朝食を済ませてから、また甲板に出て見ると、もう雨はあがっていたが、まだ、煙のような雲が山々のはざまを去来している。
八時、ランチでレロ島に上陸、すぐに警部補派出所に行く。この島には支庁が無く、この派出所で一切を扱っているのである。昔見た映画の「罪と罰」の中の刑事のような・顔も身体も共に横幅の広い警部補が一人、三人の島民巡警を使って事務をとっていた。公学校視察のために来たのだと言うと、すぐに巡警を案内につけてくれた。
公学校に着くと、背の低い・小肥こぶとりに肥った・眼鏡の奥から商人風の抜目の無さそうな(絶えず相手の表情を観察している)目を光らせた・短い口髭くちひげのある・中年の校長が、何か不埒ふらちなものでも見るような態度で、私を迎えた。
教室は一棟三室、その中の一室は職員室にあててある。此処ここは初等課だけだから三年までである。門にはいるや否や、色の浅黒い(といっても、カロリン諸島は東に行くにつれて色の黒さが薄らいでくるように思われる)子供らが争って前に出て来ては、オハヨウゴザイマスと叮嚀ていねいに頭を下げる。
教員は校長に訓導の一人と島民の教員補一人。但し、一人の訓導とは女で、しかも校長の奥さんである。
校長は授業を見られたくない様子だ。殊に己が妻の授業を。私もまた、それを強要して、心理的な機微を観察しようとするほど、意地が悪くはない。ただ、校長から、此処の島民児童の特徴や、永年の公学校教育の経験談でも聴くにとどめようと思った。ところが、私は、何を聞かねばならなかったのか?徹頭徹尾、私が先ほど会って来た・あの警部補の悪口ばかりを聞かされたのである。
此処ばかりには限らない。離島りとうで、巡査派出所と公学校との両方のある島では、必ず両者の軋轢あつれきがある。そういう島では、巡査と公学校校長(校長ばかりで下に訓導のいない学校が甚だ多いので)と、島中でこの二人だけが日本人であり、かつ官吏であるので、自然勢力争いが起るのである。どちらか一方だけだと、小独裁者の専制になってかえって結果は良いのだが。
私は今までにも何回となくそれを見ては来たが、ここの校長のように初対面の者に向って、いきなりこう猛烈にやり出すのは初めてであった。何の悪口ということはない。何から何までその警部補のする事はみんな悪いのである。魚釣(この湾内ではもろ鰺が良く釣れるそうだが)の下手なのまでが讒謗ざんぼうの種子になろうとは、私も考えなかった。魚釣の話が一番後に出たものだから、少し慌てて聞いていると、警部補は魚釣が下手故この島の行政事務を任せては置けないという風な論旨に取られかねないのである。聞いている中に、先ほどは何とも感じなかった・あの横幅の広い警部補に何だか好感が持てそうな気がして来た。


島を案内しようというのを断って公学校を退却すると、私は独りで、島民に道を聞きながら、「レロの遺跡」という名で知られている古代城郭のあとを見に行った。今まで曇っていた空から陽が洩れ始め、島は急に熱帯的な相貌を帯びて来た。
海岸から折れて一丁も行かない中に、目指す石の塁壁るいへきにぶつかる。鬱蒼うっそうたる熱帯樹におおわれこけに埋もれてはいるが、素晴らしく大きな玄武岩の構築物だ。
入口をはいってからがなかなか広い。苔で滑りやすい石畳路が紆余曲折うよきょくせつして続く。室の跡らしいもの、井戸の形をしたものなどが、密生した羊歯しだ類の間に見え隠れする。塁壁の崩れか、所々に纍々るいるいたる石塊の山が積まれてる。到る所に椰子ヤシの実が落ち、或るものは腐り、或るものは三尺も芽を出している。道傍みちばたの水溜にはえびの泳いでいるのが見える。
ミクロネシヤにはもう一つ、ポナペ島にこれと同様な(更に大規模な)遺址いしがあるが、共にこれを築いた人間も年代も判っていない。とにかく、その構築者が現住民族とは何の関係も無いものだということだけは通説となっているようだ。この石塁については何らまとまった伝説が無い上に、現住民族は石造建築について何らの興味も知識も持たぬのだし、またこれら巨大な岩石を何処いずこよりか(この島にこういう石は無い)海上遠く持ち運ぶなどという技術を、彼らよりもはるかに比較を絶して高級な文明をつ人種でなければ不可能だからである。そういう文明をもった先住民族が何時いつ頃栄え、いつ頃亡び去ったか、或る人類学者は渺茫びょうぼうたる太平洋上に点在するこれらの遺址(ミクロネシヤのみならずポリネシヤにも相当に存在する。イースター島の如きは最も有名だが)を比較研究した後、遥かなる過去の一時期は西は埃及エジプトから東は米大陸に至るまでの広汎こうはんな地域を蔽うた共通の「古代文明の存在」を仮定する。そうして、その文明の特徴として、太陽崇拝、構築のたえの巨石使用、農耕灌漑その他を挙げる。こうした壮大な仮説は、私に、大変楽しい空想の翼を与える。私は、太古埃及から東漸した高度の文明を身につけた・勇敢な古代人の群を想像することが出来る。彼らは、真珠や黒曜石こくようせきを追い求めては、果てしない太平洋の真蒼な潮の上を、真紅な帆でも掛けて、恐らくは葦の茎の海図を使用しながら、あるいは、今でも我々の仰ぐオリオン星やシリウス星を頼りに、東へ東へと渡って行ったに違いない。そうして、愚昧ぐまいな住民の驚嘆を前に、到る処に小ピラミッドやドルメンや環状石籬せきりを築き、瘴癘しょうれいな自然の中に己が強い意志と慾望との印を打建てたのであろう。……もちろん、この仮説の当否は、門外漢たる私に判る訳が無い。ただ私は今、眼前に、炎熱と颱風たいふうと地震との幾世期の後、なお熱帯植物の繁茂の下に埋め尽されもせずにその謎のような存在を主張している巨石の堆積を見、また一方、巨石の運搬どころかごく簡単な農耕技術さえ知らぬ・低級な現住民の存在を知っているだけである。
巨大な榕樹ようじゅが二本、頭上を蔽い、その枝といわず幹といわず、つたかずらの類が一面にぶらさがっている。
蜥蜴とかげが時々石垣の蔭から出て来ては、私の様子をうかがう。ゴトリと足許の石が動いたのでギョッとすると、その蔭から、甲羅のさしわたし一尺位の大蟹がい出した。私の存在に気が付くと、大急ぎで榕樹の根本の洞穴に逃げ入った。
近くの・名も判らない・低い木に、つばめの倍ぐらいある真黒な鳥がとまって、茱萸ぐみのような紫色の果をついばんでいる。私を見ても逃げようとしない。葉洩陽はもれびが石垣の上に点々と落ちて四辺あたりは恐ろしく静かである。
私のその日の日記を見ると、こう書いてある。「たちまち鳥の寄声を聞く。再びげきとして声無し。熱帯の白昼、却つて妖気あり。佇立ちよりつ久しうして覚えず肌に粟を生ず。その故を知らず」云々うんぬん
船に帰ってから聞いた所によると、クサイの人間はねずみを喰うということである。


II
ヤルート
とろりと白いあぶらを流したような朝凪あさなぎの海の彼方、水平線上に一本の線が横たわる。これがヤルート環礁かんしょうの最初の瞥見べっけんである。
やがて、船が近づくにつれて、帯と見えた一線の上に、まず椰子ヤシ樹が、次いで家々や倉庫などが見分けられて来る。赤い屋根の家々や白く光る壁や、果ては真白な浜辺を船の出迎えにと出てくる人々の小さな姿までが。


全くジャボールは小奇麗こぎれいな島だ。砂の上に椰子と蛸樹たこのきと家々とを程良くあしらった小さな箱庭のような。
海岸を歩くと、ミレ村共同宿泊所、エボン村共同宿泊所などと書かれた家屋があり、その傍で各島民が炊事をしている。此処は全マーシャル群島の中心地とて遠い島々の住民が随時集まって来るので、それらのために各島でそれぞれ共同宿泊所を設けている訳だ。


マーシャルの島民は、殊にその女は、非常にお洒落しゃれである。日曜の朝は、てんで色鮮あざやかに着飾って教会へと出掛ける。それも、恐らくは前世紀末に宣教師や尼さんが伝えたに違いない・旧式の・すこぶるひだの多いスカートの長い・贅沢ぜいたくな洋装である。はたから見ていても随分暑そうに思われる。男でも日曜は新しい青いワイシャツの胸に真白な手巾ハンケチのぞかせている。教会は彼らにとってまことに楽しい倶楽部クラブ、ないし演芸場である。
衣服の法外な贅沢さに引換えて、住宅となると、これはまた、ミクロネシヤの中でも最も貧弱だ。第一、ゆかのある家が少い。砂、あるいは珊瑚さんご屑を少し高く積上げ、そこへ蛸樹の葉で編んだむしろを敷いて寝るのである。周囲に四本の柱を立て、蛸樹の葉と椰子の葉とで以てそれを覆えば、それで屋根と壁とは出来上ったことになる。こんな簡単な家は無い。窓も作ることは作るが、至って低い所に付いているので、ちょうど便所の汲取口のようである。このようなひどい住居にも、なお必ずミシンとアイロンとだけは備えてあるのだ。彼らの衣装道楽に呆れるよりも、宣教師と結託したミシン会社の辣腕らつわんに呆れる方が本島なのかも知れないが、とにかく、驚くべきことである。もちろん、ジャボールの町にだけは、床を張った・木造の家も相当にあるが、そうした床のある家には必ず縁の下に筵を敷いて住んでいる住民がいるのだ。マーシャル特産の蛸葉の繊維で編んだ団扇うちわ、手提籠の類は、おおむねこうした縁の下の住民の手内職である。
同じヤルート環礁の内のA島へ小さなポンポン蒸汽で渡った時、海豚いるかの群に取囲まれて面白かったが、少々危いような気もした。というのは、おどけた海豚どもが調子に乗ってはしゃぎ廻り、小艇の底を潜っては右に左に現れ、うっかりすると船が持上りそうに思われたからである。時々二、三尾揃って空中に飛躍する。口の長く細く突出た・目の小さい・ふざけた顔の奴どもだ。船と競争して、とうとう島のごく近くまでついて来た。
島へ上って見ると、ちょうど、ジャボール公学校の補習科の生徒がコプラの採取作業をやっている。増産運動の一つなのだ。島内を一巡して見たが、島中、椰子と蛸樹と麵麭パン樹とがギッシリ密生している。熟した麵麭のが沢山地上に落ち、その腐っているのへはえが真黒にたかっている。側を通る我々の顔にも手にもたちまちたかってくる。とても堪らない。途で一人の老婆が麵麭の実の頭に穴を穿うがち、手で{{{2}}}に似た麵麭の葉を漏斗じょうご代りに其処そこへ突込み、上からコプラの白い汁を絞って流し込んでいた。こうして石焼にすると、全体に甘味が浸みこんでいて大変旨いのだそうである。


支庁の人の案内でマーシャルきっての大酋長カブァを訪ねた。カブァ家はヤルートとアイリンラプラプとの両地方にまたがる古い豪家で、マーシャル古潭詩の中にしばしば出て来る名前だそうである。
瀟洒しょうしゃたるバンガロー風の家だ。入口に、八島郭嘉坊と漢字で書いた表札が掛かっていて、ヤシマカブァと振り仮名が附けてある。この地方の風と見えて、厨房ちゅうぼうだけは別棟になっているが、それが四面皆竪格子たてごうしで囲んだ妙な作りである。
初め主人が不在とて、若い女が二人出て来て接待した。一見日本人との混血と分る顔立だが、二人とも内地人の標準から見ても確かに美人である。二人が姉妹だということもすぐに判った。姉の方がカブァの細君なのだという。
程なく主人のカブァが呼ばれて帰って来た。色は黒いがちょっとインテリ風の・三十前後の青年で、何処か絶えずおどおどしているような所が見える。日本語は此方の言葉が辛うじて理解できる程度らしく、自分からは何一つ言出さずに、ただ此方の言うことに一々大人しく相槌あいづちを打つだけである。これが年収五万ないし七万に上るという(椰子の密生した島をっているというだけで、コプラ採取による収入が年にその位あるのだ)大酋長とはちょっと思われなかった。椰子水とサイダーと蛸樹のをよばれて、ほとんど話らしい話もせずに(何しろ向うは何一つしゃべらないのだから)家を辞した。
帰途、案内の支庁の人に聞く所によれば、カブァ青年は最近(私が先刻見た)妻の妹に赤ん坊を生ませて大騒ぎを引起したばかりだとのことである。


早朝、深く水を湛えた或る巌蔭で、私は、世にも鮮やかな景観ながめを見た。水が澄明で、群魚游泳のさまの手に取る如く見えるのは、南洋の海では別に珍しいことはないのだが、この時ほど、万華鏡のような華やかさに打たれたことは無い。黒鯛くろだいほどの大きさで、太く鮮やかな数本の竪縞(たてじまを有った魚が一番多く、岩陰のあならしい所からしきりに出没するのを見れば、此処が彼らの巣なのかも知れない。この外に、透きとおらんばかりの淡い色をした・あゆに似た細長い魚や、濃緑色のリーフ魚や、ひらめの如きはばの広い黒いやつや、淡水産のエンジェル・フィッシュそっくりの派手な小魚や、全体が刷毛はけ一刷ひとはきのようにほとんどひれと尾ばかりに見える褐色の小怪魚、あじに似たもの、いわしに似たもの、更に水底をねずみ色の太い海蛇に至るまで、それら目もあやな熱帯の色彩をした生物どもが、透明な翡翠ひすい色の夢のような世界の中で、細鱗をひらめかせつつ無心に游優嬉戯しえちるのである。殊に驚くべきは、碧い珊瑚礁リーフ魚よりも更に幾倍か碧い・想像し得る限りの最も明るい瑠璃るり色をした・長さ二寸ばかりの小魚の群であった。ちょうど朝日の射して来た水の中に彼らの群れがヒラヒラと揺れ動けば、その鮮やかな瑠璃色は、たちまちにして濃紺となり、紫藍となり、緑金となり、玉虫色と輝いて、全く目もくらむばかり。こうした珍魚どもが、種類にして二十、数にしては千をも超えたであろう。
一時間余りというもの、私はただ呆れて、茫然と見惚みとれていた。
内地へ帰ってからも、私はこの瑠璃と金色の夢のような眺めのことを誰にも話さない。私が熱心を以て詳しく話せば話すほど、恐らく私は「百万のマルコ(マルコ・ミリオネ)」とわらわれた昔の東邦旅行者の口惜しさを味わねばならないだろうし、また、自分の言葉の描写力が実際の美の十分の一をも伝え得ないことが自ら腹立たしく思われるであろうからでもある。
ヘルメット帽は、委任統治領では官吏だけのかぶるものになっているらしい。不思議に会社関係の人はこれを用いないようである。
ところで、私は、余り上等でないパナマ帽をかぶって群島中を歩いた。道で出会う島民は誰一人頭を下げない。私を案内してくれる役所の人がヘルメットをかぶって道を行くと、島民どもは鞠躬如きっきゅうじょとして道を譲り、うやうやしく頭を下げる。夏島でも秋島でも水曜島でもポナペでも、何処ででもみんなそうであった。
ジャボールを立つ前の日、M技師と私は、土産物の島民の編物をあさるために、低い島民の家々を―もっと正確にいえば、家々の縁の下を覗き歩いた。前にちょっと言ったが、ヤルートでは、家々の縁の下に筵を敷いて女どもがごろごろしており、そういう連中が多く蛸樹の葉の繊維で編物をやっているのである。M氏より十歩ばかり先へ歩いていた私は、或る家の縁の下に一人のせた女がバンドを編んでいる所を見付けた。帯はなかなか出来上りそうもないが、傍には既に出来上ったバスケットが一つ置いてある。私は、案内役の島民少年にバスケットの値段を聞かせる。三円だという。もう少し安くならないかと言わせたが、なかなか承知しそうもない。そこへM氏が現れた。M氏も少年に値段を聞かせる。女はチラと私と見比べるようにして、M技師を―いや、M技師の帽子を、そのヘルメットを見上げる。「二円」と即座に女は答える。オヤッと私は思った。女はまだ自信の無いような態度で何かモゴモゴと口の中で言っている。少年に通訳させると、「二円だけど、何なら一円五十銭でもいい」と言っているのだそうだ。私が呆気あっけに取られている中に、M氏はさっさと一円五十銭でそのバスケットを買上げてしまう。
宿へ帰ってから、私はM氏の帽子を手に取って、しげしげと眺めた。相当に古い・既に形の崩れた・所々に汚点しみの付いた・おまけに厭な匂のする・何の変哲も無いヘルメット帽である。しかし、私にはそれがアラディンのランプの如くに霊妙不可思議なものと思われた。


III
ポナペ
島が大きいせいか、大分涼しい。雨がしきりに来る。
綿カポックの木と椰子ヤシのとの密林を行けば、地上に淡紅色の昼顔が点々として可憐だ。
J村の道を歩いていると、突然コンニチハという幼い声がする。見ると、道の右側の家の裏から、二人の大変小さな土民の児が――一人は男、一人は女だが、切って揃えたような背の丈だ。――挨拶をしているのだ。二人ともせいぜい四歳よっつになったばかりかと思われる。大きな椰子の根上りした、そのひげだらけの根元に立っているので、余計に小さく見えるのであろう。思わず此方も笑ってしまって、コンニチハ、イイコダネというと、子供たちはもう一度コンニチハとゆっくり言って大変叮嚀ていねいに頭を下げた。頭は下げるが、眼だけは大きく開けて、上目使いに此方を見ている。空色の愛くるしい大きな眼だ。白人の―恐らくは昔の捕鯨者らの―血の交っていることは明らかである。
総じてポナペには顔立の整った島民が多いようだ。他のカロリン人と違って、檳榔子びんろうずを嚙む習慣が無く、シャカオと称する一種の酒の如きものをたしなむ。これはポリネシヤのカヴァと同種のものらしいから、あるいは、此処ここの島民にはポリネシヤ人の血でも多少はいっているのかも知れぬ。
椰子の根元に立った二人の幼児は、島民らしくない小奇麗こぎれいな服を着ている。彼らと話を始めようとしたのだが、生憎あいにく、コンニチハの外、何も日本語を知らないのである。島民語だって、まだ怪しいものだ。二人ともニコニコしながら何度もコンニチハと言って頭を下げるだけだ。
その中に、家の中から若い女が出て来て挨拶した。子供らに似ている所から見れば、母親だろう。余り達者でない・公学校式の角張った日本語で、ウチヘハイッテ、休ンデクダサイと言う。ちょうど咽喉のどかわいていたので、椰子水でも貰おうかと、豚の逃亡を防ぐための柵を乗越して裏から家の庭にはいった。
恐ろしく動物の沢山いる家だ。犬が十頭近く、豚もそれ位、その外、猫だの山羊だの鶏だの家鴨あひるだのが、ゴチャゴチャしている。相当に富裕なのであろう。家は汚いが、かなり広い。家の裏からすぐ海に向って、大きな独木舟カヌーがしまってあり、その周囲に雑然と鍋・釜・トランク・椰子殻・貝殻などが散らかっている。その間を、猫と犬と鶏とが(山羊と豚だけは上って来ないが)床の上まで踏み込んで来て、走り、叫び、吠え、漁り、あるいは寝ころがっている。大変な乱雑さである。
椰子水と石焼の麵麭の実を運んで来た。椰子水を飲んでから、殻を割って中のコプラを喰べていると、犬が寄って来てねだる。コプラがひどく好きらしい。麵麭の実は幾ら与えても見向きもしない。犬ばかりでなく、鷄どももコプラは好物のようである。その若い女のたどたどしい日本語の説明を聞くと、この家の動物どもの中で一番威張っているのはやはり犬だそうだ。犬がいない時は豚が威張り、その次は山羊だという。バナナも出してくれたが、熟し過ぎていて、あんこめているような気がした。ラカタンとてこの島のバナナの中では最上種の由。
独木舟カヌーの置いてある室の奥に、一段ゆかを高くした部屋があり、其処そこに家族らがうずくまったり、寝そべったりしているらしい。明り取りが無くて薄暗いので、隅の方は良く判らないが、此方から見る正面には、一人の老婆が傲然と―誠に女王の如く傲然と踞座こざして煙草を吸っている。そうして、外からの侵入者に警戒するような・幾分敵意を含んだ目で、私の方を凝乎じっと見ている様子である。あれは誰だと、若い女に聞けば、ワタクシノダンナサンノオ母サンと答えた。威張っているね、と言うと、一番エライカラと言う。
その薄暗い奥から、十歳ばかりの痩せた女の子が、時々独木舟の向う側まで出て来ては、口をポカンとあけて此方をのぞく。この家の者は皆きちんとした服装なりをしているのに、この子だけはほとんど裸体である。色が気味悪く白く、絶えず舌を出して赤ん坊の様にペロペロ音を立て、よだれを垂れ、意味も無く手を振り足をる。白痴なのであろう。奥から女王然たる老婆が喫煙をやめて、何か叱る。烈しい調子である。手に何かの白いきれを持ち、それを振って白痴の子を呼んでいる。女の子が側へ戻って行くと、怖い顔をしながら、それをはかせた。パンツだったのである。「あの児、病気か?」と私がまた若い女に聞く。頭が悪いという返辞である。「生れた時からか?」「イイヤ、生レタトキハ良カッタ。」
大変愛想のいい女で、私がバナナを喰べ終ると、犬を喰わぬかと言う。「犬?」を聞き返す。「犬」と女はその辺に遊んでいる・痩せた・毛の抜けかかった・茶色の小犬を指す。一時間もかかれば出来るから、あれを石焼にして馳走しようというのだ。一匹まるのまま、芭蕉の葉か何かに包み、熱い石と砂の中に埋めて蒸焼にするのである。はらわただけ抜いた犬が、そのまま、足を突張らせ歯をむき出して膳の上にのぼされるのだという。
ほうほうの態で私は退却した。
出がけに見ると、家の入口の左右に、黄と紅と紫との鮮やかなクロトンの乱れ葉が美しくむらがっていた。


IV
トラック
月曜島には、公学校校長の家族の外に内地人はいない。
朝、校長の官舎で食事をしていると、遠くから歌声が聞えて来る。愛国行進曲だ。多くの子供らの声とすぐに分った。声がだんだん近付いて来る。あれは何ですと聞けば、同じ方面の生徒らは一緒に登校させるのだが、その連中が、合唱しながらやって来るのだという。声は官舎の近くまで来ると、やんだ。途端に、トマレ!という号令が掛かる。玄関から外を見ると二十人ほどの島民児童がちゃんと二列に縦隊を作ってやって来ているのだ。先頭の一人は紙の日の丸を肩にかついでいる。その旗手が、再び、ヒダリ向ケヒダリ!と号令をかけた。一同が校長の家に向って横隊になる。と、一斉に、オハヨウオザイマスと言いながら頭を下げた。それから、また、先頭の腫物はれものだらけの旗手が、ミギ向ケミギ!前ヘススメ!をかけて、一行は、愛国行進曲の続きを唱いながら、官舎の隣の学校の方へと曲って行く。官舎の裏には垣根が無いので、彼らの行進が良く見える。背丈が(恐らく年齢も)恐ろしく不揃いで、先頭には大変大きいのがいるが、後の方はひどく小さい。夏島あたりと違って余り整ったなりをしている者は無い。みんあ、シャツを着ているとはいうものの、破れている部分の方が繋がっている部分より多そうなので、男の子も女の子も真黒な肌が到る所から覗いている。足はもちろん全部跣足はだし。学校から給与されるのか、熱心に鞄だけは掛けているようだ。てんでに、椰子ヤシの外皮をいたものを腰にさげているのは、飲料なのである。それらのおんぼろをぶら下げた連中が、それぞれ足を思い切り高く上げ手を大きく振りつつ、あらん限りの声を張上げて(校長官舎の庭にさし掛かると、また一段と声が大きくなったようだ)朝の椰子影の長くいた運動場へと行進して行くのは、なかなかに微笑ほほえましい眺めであった。
その朝、他に二組同じような行進が挨拶に来た。


夏島で見た各離島の踊の中では、ローソップ島の竹踊くーさーさが最も目覚ましかった。三十人ばかりの男が、互いに向いあった二列のを作り、各人両手に一本ずつ三尺足らずの竹の棒を持って、これを打合わせつつ踊るのである。あるいは地を叩き、あるいは対者の竹を打ち、エイサッサ、エイサッサと景気のいい掛声をかけつつ、めぐり廻って踊る。外の環と内の環とが入違いに廻るので、互いに竹を打合わせる相手が順次に変って行く訳だ。時に、後向きになり片脚を上げてまたの間から背後の者の竹を打つなど、なかなかに曲芸的な所も見せる。撃剣の竹刀しない撃合うちあうような音と、威勢のいい掛声とが入り交って、如何いかにも爽やかな感じである。
北西離島のものは、皆、仏桑華ぶっそうげ印度インド素馨そけいの花輪を頭に付け、額と頰に朱黄色の顔料タイクを塗り、手頸足頸腕などに椰子ヤシの若芽をき付け、同じく椰子の若芽で作った腰蓑こしみのを揺すぶりながら踊るのである。中には耳朶みみたぶあな穿うがち、そこへ仏桑華の花を挿した者もある。右手の甲に、椰子若芽を十字形に組合せたものを軽く結び付け、最初、各人が指を細かくふるわせて、これを動かす。すると、たちまち遠くの風のざわめきのような微妙な音が起る。これが合図で踊が始まる。そうして、掌で以て胸や腕のあたりを叩いてパンパンという烈しい音を立て、腰をひねり奇声を発しつつ、多分に性的な身振を交えて踊り狂うのである。
歌の中でも、踊を伴わないものは、全部といって良い位、憂鬱な旋律ばかりであった。その題名にも、すこぶるおかしなものが多い。その一例。シュック島の歌。「他人ほかの妻のことを思わず、おのが妻のことを考えましょう。」


夏島の街で見た或る離島人の耳。幼時から耳朶を伸ばし伸ばしした結果らしく、一尺五寸ばかりもひものように長く伸びている。それを、鎖でも捲くように、耳殻じかく三廻みまわりほど巻いて引掛けている。そういう耳をしたのが四人並んで、すまして洋品店の飾窓を覗いていた。
その離島へ行ったことのある某氏に聞くと、彼らは普通の耳をもった人間を見るとわらうそうである。あごの無い人間でも見たかのように。
また、こういう島々に永くいると、美の規準について、多分に懐疑的になるそうだ。ヴォルチエル曰く、「蟾蜍ひきがえるに向って、美とは何ぞやと尋ねて見よ。蟾蜍は答えるに違いない。美とは、小さい頭から突出つきでた大きな二つの団栗眼どんぐりまなこと、広い平べったい口と、黄色い腹と褐色の背中とをつ雌蟾蜍のいいだと。」云々うんぬん


V
ロタ
断崖の白い・水の豊かな・非常に蝶の多い島。静かな昼間、人のいない官舎の裏に南瓜カボチャつるが伸び、その黄色い花に、天鵞絨ビロードめいた濃紺色の蝶々どもが群がっている。


島民の姿の見えないソンソンの夜の通りは、内地の田舎町のような感じだ。電燈の暗い床屋の店。何処からか聞こえて来る蓄音機の浪花節なにわぶし。わびしげな活動小屋に「黒田誠忠録」がかかっている。切符売の女のやつれた顔。小舎の前にしゃがんでトーキイの音だけ聞いている男二人。のぼりが二本、夜の海風にはためいている。


タタッチョ部落の入口、海から三十間と離れない所に、チャモロ族の墓地がある。十字架の群の中に、一基の石碑が目につく。バルトロメス・庄司光延之墓と刻まれ、裏には昭和十四年歿九歳とあった。日本人にして加特力カトリック教徒だった者も子供なのであろう。周囲の十字架に掛けられた花輪どもはことごとく褐色に枯れしぼみ、海風にざわめく枯椰子ヤシの葉のそよぎも哀しい。(ロタ島の椰子樹は最近虫害のためにほとんど皆枯れてしまった。)目に沁みるばかり鮮やかな海の青を近くに見、なみの音の古い嘆きを聞いている中に、私は、ひょいと能の「隅田川」を思い浮かべた。母なる狂女に呼ばれて幼い死児の亡霊が塚の横からチョコチョコ白い姿を現すが、母がとらえようとすると、またフッと隠れてしまうあの場面を。
あとで公学校の島民教員補に聞くと、この子の両親(経師屋きょうじやだったそうだ)は子供に死なれてから間もなくこの地を立去ったということである。


宿舎としてあてがわれた家の入口に、珍しく茘枝れいしの蔓がからみ実が熟してはぜている。裏にはレモンの花が匂う。門外橘花猶的皪、牆頭茘子巳斕斑、というのは蘇東坡(彼は南方へ流された)だが、ちょうどそっつくりそのままの情景である。但し、昔の支那シナ人のいう茘枝と我々の呼ぶ茘枝と、同じのものかどうか、それは知らない。そういえば、南洋到る所にある・赤や黄の鮮やかなヒビスカスは、一般に仏桑華ぶっそうげといわれているが、王漁洋の「広州竹枝」に仏桑華下小廻廊云々とある、それと同じものかどうか。広東カントンあたりなら、この派手な花も大いにふさわしそうな気がするが。


VI
サイパン
日曜の夕方。
鳳凰樹ほうおうじゅの茂みの向うから、疳高かんだかい――それでいて何処(どこ)か押し潰(つぶ)されたような所のある――チャモロ女の合唱の声が響いて来る。スペインの尼さんの所の礼拝堂から洩れてくる夕べの讃美歌である。


夜。月が明るい。道が白い。何処やらで単調な琉球りゅうきゅう蛇皮線じゃびせんの音がする。ブラブラと白い未知を歩いて見た。バナナの大きな葉が風にそよいでいる。合歓ねむの葉が細かい影をハッキリ道に落としている。空地につながれた牛が、まだ草を喰っている様子である。何か夢幻的なものが漂い、この白いみちが月光の下を何処までも続いているような気がする。ベコンベコンという間ののびた蛇皮線の音は相変らず聞えるが、何処の家で鳴らしているのか、一向に判らぬ。その中に、歩いていた細い径が、急に明るい通りに出てしまった。
出た角の所に劇場があって、その中からしきりに蛇皮線の音が響いて来る。(だが、これは、先刻から私が聞いて来た音とは違う。私の道々聞いて来たのは、劇場のそれのような本式の賑かなのではなく、余り慣れない手が独りでポツンポツンと爪弾つまびきしていたような音だった)此処は沖縄県人ばかりのための―従って、芝居はすべて琉球の言葉で演ぜられる。―劇場である。私は、何ということなしに、小屋の中へはいって見た。相当な入りだ。出しものは二つ。初めのは標準語で演ぜられたので、筋は良く判ったが、極めて愚劣なくすぐり。第二番目の、「史劇北山風雲録」というのになると、今度は言葉がさっぱり分らない。私にはっきり聴き取れたのは「タシカニ」(この言葉が一番確実に聞き分けられた。)「昔カラコノカタ」「ヤマミチ」「トリシマリ」などの数語に過ぎぬ。かつてパラオ本島を十日ばかり徒歩旅行した時、途を聞く相手が皆沖縄県出の農家の人ばかりで、全然言葉が通じないで閉口したことを憶い出した。
芝居小舎を出てから、わざわざ廻り道をして、チャモロ家屋の多い海岸通りを歩いて帰った。この路もまた白い。ほとんど霜が下りたように。微風。月光。石造のチャモロの家の前に印度インド素馨そけいが白々と香り、その蔭に、ゆったり牛が一匹ている。牛の傍にいやに大きな犬が寝ているなと思って、よくよく見たら山羊だった。




 

注釈 編集


 

この著作物は、1942年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


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