「『杜律』の裏の見開きに書いて妹の蘭雪軒に
寄越して見せる」。杜甫の律詩の選集『杜律』の裏の見開きに書いた文で、その本ごと妹の
許蘭雪軒に贈ったもの。許篈の詩文集『荷谷先生雜著補遺』の跋文を集録した「跋」の項に収められている。
本文の出典は:
荷谷集 - 荷谷先生雜著補遺 - 韓國學綜合DB
杜律一冊、邵文端公寶所鈔、比虞註尤簡明可讀。萬曆甲戌、余奉命賀節、旅泊通川。遇陝西擧人王君之符、接話盡日、臨分、贈余是書。余寶藏巾箱有年。今輟奉玉、汝一覽 其無負余勤厚之意、俾少陵希聲復發於班氏之手可矣。
萬曆壬午春 荷谷子識。
|
『杜律[1]』一冊、邵 文端公 寶の鈔する所、虞註に比し尤も簡明にして讀むべし。萬曆甲戌[2]、余 命を賀節[3]に奉じ、旅して通川に泊す。陝西の擧人 王君 之符に遇い、話に接して日を盡くし、分かるるに臨んで、余に是の書を贈る。余 巾箱に寶藏して年有り。今 玉を奉ずるを輟め、汝 一たび覽て、其れ余が勤厚の意を負う無くして、少陵[4]をして聲を希めしむるも、復た班氏の手より發せしむれば可ならん。
萬曆壬午[5]の春 荷谷子 識す。
|
この『杜律』1冊は、文端公 邵宝が抜き写ししたもので、元の虞集が集註した『杜律』に比べて、ずっと簡明で読みやすい。万暦甲戌の年、私は慶賀使[6]としての命を承け、中国に旅して通川[7]に滞在した。陝西省の挙人王之符君に出会い、話し込んで丸一日が過ぎ、分かれる際、この一書を贈ってくれた。私は、布貼りの箱に入れて宝のように保管して何年か経った。いまこの宝物を推し頂いておくのはやめて、あなたが一度見てみて、それで私の勤めて大切にする気持ちを尊重することなく、杜甫がその声を薄められても、再び両班[8]の手から発せられれば良いのだ。
万暦壬午の年の春、私、許篈 号は荷谷 識す。
- ↑ 杜甫の律詩を精選して抄出した本。
- ↑ 明の万暦2年(西暦1574年)。
- ↑ 慶賀節。特に明の皇帝の誕生祝いのこと。
- ↑ 杜甫の通称。由来は、漢の宣帝と許皇后の陵墓「杜陵」、特に、小さい方の許皇后の陵墓「少陵」のそばに住んでいたことから、自ら「少陵野老」と称したことにちなむ。
- ↑ 万暦10年(西暦1582年)。
- ↑ 明の皇帝の誕生祝いに送られる使節。
- ↑ かつて陝西省に存在した。
- ↑ 朝鮮王朝時代の世襲の士大夫(文臣)階級の事。本来は武官の家系である武班と文官の家系である文班の二つ(両班)に分かれるが、朝鮮王朝では武官は一等下に扱われており、文班だけを両班と呼ぶ場合もある。今日では紳士の代名詞。
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
Public domainPublic domainfalsefalse