青木繁書簡 明治36年7月3日付 熊谷守一宛
七月三日 東京駒込千駄木町六五 桑垣方
岐阜縣岐阜市西の町 熊谷守一殿
この紙面は御讀了の後何分兄の宜しきに取斗被下度何分懇願候
靑木繁
三十六年七月三日
熊谷守一親兄 玉机下
謹 呈 陳 者
この頃を汝如何暮らして居給ふか
お別れをして早や幾旬日をか經た事に候はずや 我無異無爲暮らして了つた事に候
斯う書出して我はどう何から言はうかお佗をしようか甚く迷󠄁ひ惑ひ申候 嘗ては汝に情󠄁に强か
れ剛かれを白せし我の以下物白さむとする剛からぬ强からぬ我の餘りに平󠄁靜を失ひたるを願はく
ばとがめ給ふな
我は斯う書來つて何から我は我は汝に謝して何から我れの奥底に潜んで居る眞情󠄁を吐いて汝の
親みに嫌〔ママ〕しむ事が出來のやら轉た迷ひ〳〵する 願ば我の己れの健かならぬ處をとがめて呉れ給
ふな
嘗つては我が大誘惑物の慘膽たる飜弄に强からぬ我れの痛き痛き苦悶に少なからぬ日子を過󠄁ご
せしは言はずもあれ 「君は人に許す方なんだなア」といふ汝が言葉を始めて切通󠄁し裏の汝が寓に
耳にせし時其時は巳に業に我れ昔日の我に非らざりしなるべし、否思へば汝に遇󠄁ふ以前、熊谷守
一を我れ何にも識らぬ以前󠄁の我も或はまことの我に非ざりしには非ずやを疑はしむる
小さき行李に身の姬りの物をたゝみて孤り見も知らぬ長がき〴〵旅︀に立ちたりし甞つては稚
なき我れの環界の寂寞に其味の僅かを知りし時あゝ甫めて天地の寂寞に包󠄁まれし時、あゝ何とせ
んかな、生まれて儘のはらからに別かれ、生まれて儘の父母に離なれて我れは今如何に恐ろしき
影を逐ひつゝ東都には上らむとするかを空しき孤りの前󠄁後を顧み〳〵しては甫めて知りし運󠄁命の
影の果敢なさに泣きぬ、あはれ我は歸へらむかな、來し路を辿りて辿りて再び故家の影を見ばそ
こには再び親しき人々の影を見るなるべきか、其つゝがなき人〻に見えて我れの恐ろしき懼ろし
き影を逐ひつゝ果敢なき果敢なき路に手を痛め足を傷けつゝ遂󠄁に如何なる運󠄁命の迷󠄁路に狂ひ入る
事もありなむ事の甚く〳〵誤れるをひた〳〵に謝して我決して以後決して空しき想にあこがれて
あゝ思ふだに恐ろしき念ひを斷ちて老ひ先も多からぬ父と母とに事かへてはかり知れぬ恩のせめ
ていくらかを返󠄁へしなば、あゝ我れ誤てるには非らさるなきか、其處は洪茫太古のまゝの須磨の
泊り明石の宿り重ねて大和路に入りて宇宙の寂寞に幾度か顧みてはひた泣きに泣きし
斯くて弱󠄁はき弱󠄁はき力の何時か東都︀に日を暮らす身とはなりしか、めくらせばあはれ其後夢の
如く歲と日は過きぬ過ぎぬ、人の顏を見るも何とやら恥かしかりし我は、年違󠄁へる人と語ふにも
胸何時かとゞろきし己れは、其處に幾何かの人と語らひし、其處に幾何かの人と遊びし、其處に
幾何かの人と親まむとせし
我今廿ニ歲の春暮れて五尺四寸八分强十五貫一百匁 あゝ我今何をか爲さむとはする、否〻我
今如何情󠄁緒をか胸に藏せるなるか、思へば果敢なき事なり
斯くてぞ我れ眞とに汝に謝せんなり、誠にして我汝にお佗び致さむ 過去幾々の事願くば許
せ、願くば問ひ給ふな
願くば宥せ、我れ他に何物をも有せさるなり、我れは今、甫めて熊谷を知つたではなからう
か、我今我れの信ずる熊谷にしてまことの熊谷守一汝なりせば、己れはまこと欽敬をく能はさる
なり
願くば憐れなる過去の經浮を宥せ、そこに汝に弱き〳〵靑木の猶涸れ殘れる淚と共に、小さき
わさき眞のまことの影を見出し給ふならむ事か、かしこ。謹言