靑空同人印象記

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忽那に就て

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忽那はクツナと讀む。奇妙な名だ。こんな話がある。高等學校では彼を敎場を下駄穿きで步く方だつた。獨逸人の敎師が、
「何故下駄で敎室へ入るのだ」と或日彼に云つた。
「靴がないのです」
そこでヘルフリツチユ先生が
「道理(ナチユールリツヒ)でクツナ」
忽那の生國は伊豫だ。彼は犬神の話を持つてゐる。鬪鷄の話。海上の婚禮の話。おこぜの話。――そんなところから郷土的な「肥料盗人」のやうなものが生れた。
高等學校ではラグビーをやつてゐたことがある。應援團の中にもゐた。それでゐて畫をやる。かなり多方面だ。高等學校でも大學でも獨逸人には「能筆(シエーンシユライバー)」と云はれる。
情に脆く人なつこい性質とその半面の孤獨――時として彼はまいまいつぶらの樣に蓋を閉じてママしまふ。
私は彼の印象から龍を畫くことが出來そうだ。然し晴を點じることは忽那よ、それは私一人ではやれないことだ、友情を力にして、二人で晴を點じやうママではないか。


飯島に就て

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寄宿舎の受付には外國からの映畫雜誌に澤山來る。古顏の生徒が勝手に開封して「シヤンだな」などと云つて頁をまくる。飯島はそれを一番嫌つた。活動から歸つて來ると、「義俠のらつふるず」といふ風にノートへ役割からシネリオから何から何まで書き入れる、――そんな熱心さだつた。佛文科へ入ることは一等最初から極めてゐた。同質だつた自分は随分影響をうけた。それが京都で三年、私が遲れて東京へ來てからも、まだ續いてゐた。そして飯島の名は人々の知るところとなつてゐた。小方又星、伊部武彦、淺見晃、そんな人々と新思潮を據り戲曲をどし發表し出した。その人が病氣になつた。確か一昨年の冬だつたと思ふ。それから此方まだ快くならない。
飯島ははつきりした人だ。たくらまない表現がそれを語つてゐるやうに、正直に淡泊な人だ。そのなかから自からの含蓄を持つてゐる。
詩を作るやうになつたのはやはり病氣になる前後だつた。高輪の家で君の枕頭ではじめて君の小説は讀んだ。君の制作力は健康な私達を壓倒する位だ。毎日二三頁を書いたとか。大部の未完原稿が此の間屆き、私は驚いた。君は病から病へ苦しみ續けて來た。そして私達の知らない樣な心境に到達したと見える。その間の心の步ゆみは尊く涙ぐましい。
私は君の學殖に敬意を拂ふ。そして君の素質に大きな期待を持つ。早く快くなつて呉れ。
 

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