雪之丞変化/闇太郎懺悔

闇太郎懺悔 編集

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冷え冷えと、胸の底に沁み入るような、晩秋の夜風が、しゅうしゅうと吹き抜いている、夜更けの町を、吉原冠り、みじん柄の素袷、素足に麻裏を突っかけた若い男、弥蔵をこしらえて、意気な声で、
道ちまたの
二もと柳
風にふかれて
どちらへなびこ
思うとのごの
かたへなびこぞ
なぞと、菅垣(すがかき)を鼻うたにしながら、やって来たが、これが、常夜燈のおぼろかな光に、横がおを照されたところで見ると、まぎれもない、大賊闇太郎だ。
江戸中の、目明し、岡ッ引き、この男一人捕るために、夜に日を次いで狂奔(きょうほん)しているにも拘らず、どこに風がふくかと、相変らずの夜あるきをつづけている彼、しかも爪先を向けているのが、ついこないだ、門倉平馬に連れられて無理に引き込まれた、松枝町、土部三斎屋敷の方角だった。
闇太郎、弥蔵を解いて、片手で、癖の顎(あご)の逆撫(さかな)でをやりながら、ブツブツと、口に出してつぶやきはじめた。
――どうしても、今夜は、もう一度、ゆっくり、あの屋敷をたずねてやらなけりゃあ、ならねえんだ。人をつけ、泥棒こそはしていても、天下にきこえた闇太郎さまさ、まるで化ものあつけえに、物珍しげにあっちから眺めたり、こっちから眺めたり、明け方までつき合せやあがって、あげくの果てが、二十五両包一ツ、えらそうによくも投げてよこしなんぞしやがったな。そのお礼を、早くしてやらなけりゃあ、闇太郎、腹の虫がおさまらねえや。
と、急ぐでもなく歩いていたが、ふと、行く手に、黒い塀をめぐらした角屋敷を見つけると、
――おッ!そういううちに、とうとうやって来てしまやがった。どれ、まず表から、ぐるりと拝見に及びかな。
さしかかった表門前――それが、こんな夜更けだというのに、半開きになっているのを見て平気で通りすぎながら、小首をかしげて
――こいつあ、妙だぞ。なるほど、三斎も変りものだな。もうおッつけ丑満(うしみつ)だろうに、門内に、お客かごがあって、供侍に、灯がついているので見ると、例の手で夜明しの客というわけか。
通り越して、鼻先で、へんと、笑って、
――だが、お客で、家の中が、ざわめいているなんざあ、闇太郎さんに、わざわざ仕事を楽にさせてやろうというものだ――まっていろ、今、目のくり玉の飛び出るような目に合せてやるから――。
闇太郎、塀について、屋敷横にぐるりと廻って出ながら、
――こう見えて、このおれが、一度足を踏み込んだ以上は、屋敷ん中の隅から隅まで、蔵の中、小屋の蔭、すっかり瞳に映して来ているんだ。門倉平馬も、恩人とやらの三斎さんのところへ、とんだ客を連れ込んだものさ。ふ、ふ、ふ。あの宝ぐらの中にゃあ、公方さまからの頂きものから、在役中の不浄な財宝まで、うんと積んであるだろう――少し今夜は慾張って、貧乏人助けをしてやるか――寒さに向って、まだ単衣ものでふるえている奴もあるんだ。


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闇太郎、盗んだ宝は、一物のこさず、片っぱしから、恵んだり、使ったりしてしまう性(たち)で、新らしい施しがしたくなると、どこからか仕入れて来なければならないのだ。
今夜、その目的(めど)に選んだのが、三斎屋敷――この家こそ、彼に取って、いわば、わざわざお得意として存在しているようなものだった。彼の主義として出来る限りは、ふところ手で、楽々と大きな富を慾の熊手で掻(か)き込んで暮しているような相手にしか、手を出さぬことにしているので、その点で、三斎隠居のような人物は、なかなか二人と見当らぬはずであった。
屋敷の横手から、裏にまわった闇太郎、まん中ごろに立ち止って前後を見とおし、ちょいと耳を傾けるようにしたと思うと、
――案の定、家の中が、みんなお客に気を取られていやあがる。よっぽどの珍客らしいが、どれ、ひとつのぞいてやろうか――
と、独りごとをいうなり、ぴたりと、土塀に貼りついて、指先をどこかに掛けたが、いつかからだは、塀内に、ついと、飛び下りている。
塀下に、つつじのこんもりした灌木(かんぼく)――その蔭に、ぐっと一度うずくまって、気配をうかがうと、植込みの幹から幹、石から石を、つうつうと、影のように渡って、近寄った軒下。
その軒下づたいに、たちまち辿りついたのが、こないだ通されたのとは別の、書院仕立の大きな客間の外だった。
耳を澄まして、家内の容子をうかがったが――
――はてな――
と、闇太郎、いぶかしそうに、
――はて、こいつあ、いよいよ以って面白いぞ。なるほど、こないだ、猿若町を見物するとかいっていたが、今夜、あの雪之丞が、ここに来ているとは、思いもかけなかった。一芸一能の人間に逢って見るのが楽しみだと、生意気をこといっていたが、三斎め、妙な道楽を持っていやがるな。それにしても、あの雪之丞という役者、只のねずみとも思われぬが、どこか、好いた奴――あの男ならこのおれも、一度はゆっくりと話して見てえとおもっていたんだ。
闇太郎は、いつか、盗み本来の目的を忘れてしまったように、中から洩(も)れて来る話しごえにばかり耳を傾けはじめた。
――あの男が、いつぞや平馬の奴いん、暗討の迎え打ち、タッと斬りつけられたとき、ひらりとかわして、短刀であべこべに、相手の二の腕を突いて退けたあの手際は、なみ一通りのものではない――聴けば御蔵前(おくらまえ)の脇田の高弟とのことだが、一てえ、何のつもりで、そこまで剣法なんぞ習い覚えたのか、人間、あてのねえことには、なかなか手を出さぬもの――しかも、あの気合には、すばらしいけわしさが含んでいる――さすがのおれにも、あいつの胸の中だけは解けねえが――
と、腕を組んでいるところへ、だしぬけに、う、う、うーと、低く唸りながら、怪しい奴――と、いうように近づいて来た一頭の大犬――それと見ると、闇太郎、巧な擬声(ぎせい)で、う、う、うーと、小さく挨拶するように唸り返す。大犬は不思議そうに、しかしもう敵意を亡くして、尾を垂れて足元に手の平に唾を吐いて嘗めさせて、
「黒、温和しくしろ――これからときどきたずねて来るからな――まあ、少しの間おれに中の話を聴かせてくれ」


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闇太郎は足許にまとわってくる黒犬を、片手で頭をなでてやりながら、おなじ軒下にじっとたたずんだまま、なおも家内からもれてくるかすかな気配に耳をかたむけつづける。
――それにしても、あの雪之丞もこんな屋敷に引っぱりだされてくるようじゃ、やっぱり高のしれた芸人根性の奴だったのかな。この三斎屋敷に出はいりをするような奴は、きまって、あの隠居の、髭のちりをはらって、何か得をしようと、目論んでいる奴等に、きまっているんだ。おい雪之丞しっかりしろ。娘が公方の妾になっていたって、それがなんだ。全体、芸人なんてもなあ、公方や大名の贔屓をうけたって、何の役にもたたねえものなんだ。それより、世間一統皆々様の、お引立にあずからなけりゃあならねえのは、頭取の口上できいたってわかるじゃねえか。却て、こんな屋敷に出入りなんぞすると、気っぷのいい江戸ッ子たちからは笑われるぜ。
なぞと、例の調子で、心の中につぶやいていたが、
――おッ、何かざわざわしだしたぜ、ふン、雪之丞が、いよいよ暇乞(いとまご)いをしているな。ところでおれはこれからどうしたものか、折角もぐりこんできたこの三斎屋敷、小判の匂いがそこら中にプンプンして、どういもこうにも堪えられねえが、といって、なんとなく今夜のうちにあの雪之丞の面が一目見てやりたくってならねえ。どうしようかな、おい、黒!
と、闇太郎は、黒犬の頭をもう一撫(な)でしたが、やっと決心がついたように、
――やっぱりおれは、雪之丞のあとを付け、しおを見て話しかけてやろう。それにしても上方くだりの、あのなまっ白い女形がなんだって、おれの気持を、こんなに引付けるのか、宿場女郎のいいぐさじゃねえが、大方これも御縁でござんしょうよ。
闇太郎は、書院づくりの客座敷の軒下を、ついとはなれると、またしても、例の蝙蝠(こうもり)が飛ぶような素早さで、ぐるりと裏庭に廻って木石の間をかけぬけ、見上げるばかりな大塀の下に来て、そこまでついてきた黒犬さえびっくりするような、身軽さで、声をもかけず塀の上に飛上ると、もうその身は往来におりていた。
おりた瞬間からこの男、どこぞ遊び場のかえりでもあるような、悠々閑々たる歩きぶりだ。素袷(すあわせ)にやぞうをこしらえて、すたすたと表門の方へと廻っていった。
門前にさしかかると、恰度、たったいま、一挺の駕籠が出たところ――
なかなか結構な仕立の駕籠の、土部家の客用乗物に相違ないが、陸尺(ろくしゃく)が二人でかいているだけで、供はない。
闇太郎は門中をちらりと覗いてすぎる。供待ちにはまだ三四挺の駕籠が残っている。
――あの駕籠に乗っているのは、てっきり雪之丞だ。そら、この辺にすばらしく好い匂いがプンプン残っているじゃあねえか。
と、鼻をひょこつかせるようにしながら、この磊落(らいらく)な大泥棒は、そのままいいほどの間合をおいて、雪之丞の乗物を跟(つ)けはじめた。
駕籠は、早めもせずゆるめもせず、ころ合な速度で、松枝町から馬喰町(ばくろちょう)の方へ東をさしてゆくのだった。闇太郎は首を振ってつぶやいた。
――さあそろそろ一声かけてやろうかな。


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雪之丞を乗せた駕籠と、それをつける闇太郎とは、しゅうしゅうたる晩秋の夜更の風が吹きさわっている夜道を、いつか駒形河岸(こまがたかし)にまで来ているのだった。
闇太郎は、だしぬけに小刻みな足早になって、駕籠のそばまで駆けつけて、わざと息をきりながら、かぶった手拭をとって小腰をかがめ、
「お陸尺さん、お前さんたちの足の早さにゃあびっくりしましたぜ」
だしぬけにいいかけられて、陸尺の足が一度とまる。後棒が変な奴だというように、眉をひそめて、
「おめえは一体なんだ。何用だ」
闇太郎は、にこりと笑って見せたが、この男の笑顔には、一種独特な、どんな人間でもひきつけずにはおかない朗らかさがあった。
「およびとめもうして済みませんが、実はあっしはこの駕籠の中の太夫さんに逢いたくって、松枝町のお邸の前から跟けて来たものなんです。通りすがりに御門前で、駕籠に乗る姿を、ちらと遠くから見て、こいつあてっきり、雪之丞さん、ぜひ一目とおっかけたんですが、何しろ駕籠が早いんで、やっと追いついたわけ――」
「おめえさんは、太夫さん御存じのお人か」
と、先棒がふりかえってじろりと見る。
「そりゃあっもう、よく御承知の男ですよ。ねえ太夫さん、あっしだが――」
今日の初日の幕が明いてから、次々と我身の上におこっていた、思いがけない種々(さまざま)な出来ごとを、胸のうちにもう一度くりかえしながら、かくもたやすく、仇敵どもに接近することの出来たのも日頃信心の神仏や、かつはなき父親の引きあわせと、心で手をあわせるように、いま更に、復讐心(ふくしゅうしん)に燃えつづけていた雪之丞、突然駕籠を呼びとめたものがあるのを知ったその瞬間、早くも胸に来たものがあった。
――おお、この声は、たしかに二三度聞覚えのある声じゃ。
と、考えてみて、
――たしかにこないだ、所も恰度この界隈(かいわい)で、悪浪人にいいがかりをつけられた時、割ってはいってくれたお人の声がこれだ。それからその晩、脇田先生の道場を出て、平馬どのに斬りかけられたあと、供をなくして困っていたとき、駕籠を呼んでくれたお声がこれだ、してみれば、呼びとめたお方は、あの闇太郎とやらいう、江戸名代の泥棒さん――
と、思いあたると、彼の胸は不思議ななつかしさにとどろいて、白い手が駕籠の引戸にかかる。
白く匂うような顔が、窓から出て、
「おや、あなたは、いつぞやの――」
「へい、あっしでございますよ。是非に今夜、お前さんとお話したいことがあって、ここまであとをしたってきましたが、迷惑でしょうがほんのちょっとの間、そこまでお付合いが願えませんか」
雪之丞はためらわなかった。相手が泥棒にしろ、’やくざ’にしろ、二度まで恩をうけた上、どういうわけか、その後もずっと心から離れぬ面影だ。それに彼の渡世がら大泥棒につきあっておくのも、いつかは屹度芸の上でも役に立とう。
「わたくしもお目にかかりたく思っておりました。何処なりと、お供いたしましょうが――」
「あっしの住居は浅草田圃(あさくさたんぼ)、ここからついじきです。そこまひとつ、来ちゃあくださいませんか」


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闇太郎はそういいながら、雪之丞の顔に――例の愛想笑いをあびせかけて、
「あっしは、なにしろ変人なもんだから、町家住居が大きれえで、田圃の中の一つ家におさまっていますのさ。太夫さんのような花やかな渡世をしていなさるお方にゃけえってめずらしいかもしれません、来てくださりゃあ、このあっしの、一世一代の冥加(みょうが)というもの、ぜひに聞入れておくんなさい」
雪之丞は、にこりを笑いをかえして、
「わたくしもどちらかというと、稼業(かぎょう)ににあわず静かが好みでございます、早速おともいたしましょう」
そういって、ふっと、闇太郎の顔を見詰めたが、
――このお人は泥棒だといえば居どころを他人に知られるのは都合がわるかろう。このさびしい秋の夜更けを、江戸一番の大盗賊と、たった二人で歩いてみるのも一興じゃ。
と、心でいって、
「お陸尺御苦労になりましたが、これからさきは、このお方と、ぶらぶら歩いて見るつもり、御酒をいただきすぎたので、そのほうが酔がさめてよいだろうと思いますから――」
「それでも、それじゃあ殿様から、たしかに宿までお送りもうせと、いいつけられた役目がすみません」
と、先棒がかぶりを振ったが、
「いいえ、御前様の方へは、宿まで送り届けたといっておいてくだされば、それで済んでしまいます。ほんの僅少なものですけれど」
小さく包んだものを、早くも大きな掌に握らせてしまった。
「後棒、それじゃ太夫さんのお言葉にしたがったほうが――」
「その方が気持がいいとおっしゃるなら――」
一人が揃えた雪駄に、内端な白足袋の足がかかる。
「じゃあ、気をつけてお出でなすって」
「御苦労さん」
そこで駕籠にわかれて、二人連れにあった雪之丞、闇太郎。河岸通りを北へ千束池へほど近い、田圃つづきの方角さして、急ぐでもなく歩きはじめた。
闇太郎はさびしい田圃道に出ると、
「太夫さん、寒かありませんか?この辺も、夏場は蛙がたくさん鳴いて、なかなか風情があるのだが、ここからさきは、空っ風の吹き通しで、あまりほめた場所じゃあなくなりますよ」
「いいえ、わたしは先刻も申した通り、賑やかな渡世をしていながら、どうもさびしい性分、ことさら御当地にまいってからは、ただもう御繁昌をながめるだけで、上ずって心がおちつかず困っておりましたところ、このような場所こそ、一番保養になる気がいたします」
「そういってくださりゃあ、あっしも鼻が高けえというものさ。そら、あすこにこんもりした森があって、そばに小家が二三軒あるでしょう、あの右のはずれが、あっしの御殿でさあ」
闇太郎はひどく上機嫌で、こんなことをいいながら、雪之丞の足許を気をつけながら、くだんの一ッ家の方へと、導いてゆくのだった。
いよいよ小家にたどりつく。
「女房ども、只今もどったぞ――と、いうなあ、実は噓で、猫ッ子一疋いませんのさ」
そんな戯言(じょうだん)をいいつつ闇太郎、入口の戸をがたびしいわせはじめた。


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建付けのわるい戸を、がたびし開けると、振りかえって、
「いま燈りをつけるから、ちょっと待っておくんなせえ」
と、いった闇太郎、室内にはいって火鉢を掻きたてて、付木に火をうつすっと、すぐに行燈がともされて、ぱあっと上りはなの一間があかるくなる。
「さあ、どうぞ、おはいり」
雪之丞は長旅にゆきくれた旅人が、野っ原の一ッ家にでもはいってゆく時のような気持で、
「ごめんくださりませ」
と挨拶して、土間に立つ、
家は三間ほどの小じんまりした建てかたで、男手ひとつだというのに、さっぱりと掃除もゆきとどき、長火鉢に茶だんす――その長火鉢には、ちゃんと火が埋(い)けてあり、鉄瓶も炭をたせば、すぐに煮えがくるほどになっている。
闇太郎は八端がらの、あまり大きくない座布団を、雪之丞のために進めた。
「ごらんの通り、さっ風景な綬許なんで、おかまいは出来ませんが、そのかわりどんな内緒ごとを大声でしゃべりあっても、聞く耳もねえ。あっしはこれでも堅気一方な牙彫師(けぼりし)というわけで、御覧の通り、次の間は仕事場ですよ」
闇太郎は面白そうに微笑して、合の襖をあけて見せた。
行燈の灯がさし入る小部屋には、なるほど厚い木地の仕事机、いちいち鞘をかけた、小形の鑿やら、小刀やらが、道具箱のなかにおさまっているのが見えた。現に机の上には、根付けらしい彫りかけの象牙が二つばかり乗さっている。
「あなたは、なんでもお出来になる方と見えますな」
雪之丞がそういうと、闇太郎はいくらか、’きらり’とした瞳を、一瞬間相手になげて笑いだした。
「こいつあいけねえ、実は、お前さんはまだあっしの身の上を、なんにも御存じねえと踏んで今夜こそ打ちあけ咄(ばなし)もし、また伺いもしてえと思ったのだが――」
彼は別に声をおとしもせず、
「それじゃあ、お前さんは、あっしが闇太郎とかいうあだ名をもった、泥棒だということをしりながら、平気でわざわざついてお出でになったんですかい」
「この間、御蔵前というところでお目にかかったとき、お別れしたあとで、ついした事からそのお名前を、他人から伺いましたので――」
闇太郎は頭を掻いてみせて、
「隠すより現れるはなしっていうが、その諺は、ちょいとこちとらにゃ辻占のよくねえ文句さ」
そんな戯言をいいながら、茶道具を並べて、器用な手つきで、きゅうす湯をそそぐのだった。
雪之丞は、苦い、香ばしい茶を、頂いて服んだ。今夜一晩、飲みたくもない酒を強いられたあとなので、この一椀にまさる美味はないように思われた。
闇太郎は、雪之丞が心おきなく、目の前に坐っているのを見るのが、嬉しくてたまらぬというように見えた。
「それにしてもお前さんが、あっしの身許をしりながら、家まで来てくれた気持は、この闇太郎一生の間わすれられねえだろう」
と、人なつッこい眼付きでいうのだった。


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雪之丞はさり気なげに、
「たといあなたが、どのような御商売をなさてお出なさろうと、あなたとわたくしの間は、そういう方にかかわりなく、御縁があったのですから――あなたは最初から、わたくしに御親切でござりました」
「なあに、あの並木の通りで、つがもねえ素浪人が、お前さんに喧嘩を売ったとき、お前さんの目のくばり、体のこなし、差出たことをするにはおよばねえとは思ったのだが、なにしろ、お前さんにははじめての土地ではあり、遠慮をなすっていると見てとったので、ちょいと口出しをしたばかりなのさ。それはそうとして雪之丞さん」
と、闇太郎は、これまでにない真面目な目つきになって、対手を見詰めて、
「これはあとから、ある人の口から、はっきり聞いた話なのだが、やっぱり、あっしの目に狂いはなく、脇田先生の道場で、免許皆伝だというじゃあねえか。いまじゃ、三都で名高けえ、女形のお前さんが免許とりだと聞いちゃあ、誰だって驚かずにはいられねえ。お前さんも不思議な道楽をもっていなさるね」
「海田などとはめっそうな」
と、雪之丞は白い手を振るようにして見せたが、
「一体、わたくしの身について、どなたがそのようなことを、もうされておりました」
雪之丞は、我身についた武芸について、世間に評判が立つのは好ましくなかった。門倉平馬の告口で、三斎一党に知られてしまったのにもすくなからず当惑を感じたが、しかし、対手方が自分を松浦屋の一子雪太郎の後身とは、すこしも気がついていないのだから、まず警戒する必要はないとして、そうじて復讐というような大事業は、こちらが目立たぬ身でなくては不便だ。世間の注目があつまればあつまるほど困難だ。彼は、女形という仮面のもとにかくれて、專ら繊弱優美を装っていてこそ、どんな、あらあらしい振舞いを蔭でしても、それが自分の仕業だと、一般から目ざされるわけがないのを喜んでいたのに、この闇太郎の耳にさえ、脇田一松斎皆伝の秘密が洩れるようでは、ともすれば、今後の行動に不便が生じるかもしれぬ。
「どなたからお聞及びかはしりませぬが、どうぞそのようなことは、お胸におさめておいてくださるよう、女形の身で、竹刀をふるなどということが、世間さまに知れわたりましては、それこそ、御贔屓の数がへります」
と、重ねていうと、闇太郎は、にこりともせず瞶(みつ)めたまま、
「だがなあ、雪之丞さん。おれの目には、お前という人は、舞台の芸も、世の中の人気も、あんまり用のねえ人間のように思われてならねえんだよ」
と、これまでとは違って、ざっくばらんな敬称ぬきの言葉でいいかけるのだった。
「どうしてでしょう。親方」
と、雪之丞も親しげに、
「わたしは上方の女形、芸術一途でいくらかは、人さまにも知られてきましたが、もとはといえば親一人、子一人、長屋ぐらしも出来かねた体、芸と人気だけが、命のような身の上ですのに――」
「どうにもおれには解せねえんだ。こうして行燈の薄暗い光で眺めていても、お前のそのうつくしい顔や体に、なんとなく殺気が感じられてならねえ」
闇太郎は長火鉢のふちに、両手にかけるように、強い目で、艶麗(えんれい)な女形の顔を真すぐに見据えるのだった。


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闇太郎から、自分の体に殺気が感じられると、だしぬけに言われた雪之丞、目を反らして、にわかに笑いにまぎらした。
「それははじめてうかがいます。かえって師匠などからは、いかに女形だというて、平常はもっと、てきぱきしなければならぬ。そなたは兎角(とかく)因循(いんじゅん)すぎるなどとさえもうされておりますのに――」
闇太郎は、大きくかぶりを振るようにした。
「誰がなんといおうと、おれの目にゃあ、ちゃんと感じられるのだ。実は今日も、中村座へ、おまえの芸見たさに、そっと覗きにいったが、他人の目にはいざしらず、舞台の上でさえ、おまえは剣気をはなれられぬ。滝夜叉が、すっかり恋にうちまかされ、相手に取り縋って、うっとりするときでも、どうも今にも懐中から刃ものが飛出しそうで、おれにゃ危なくってならなかった」
雪之丞は、まじまじと、呆れたように相手を見詰めたが、だしぬけに、からからと、ひどく朗らかに笑って見せた。
「まあ、お前さまは、渡世のほかに、人相も御覧になるのかえ」
「はぐらかしちゃいけねえ。おれは真剣にいっているのだ」
と、闇太郎はどこまでも、逃さぬ顔色で、
「もしやおまえが、天下を狙う、大伴の黒主なら、おれも片棒かついでやろうかと、遠から心をきめているのだ。どういうものか、はじめて顔を見たときから、他人とは思われなくなったのが因果さ」
「わたしが大伴の黒主ですって?」
と、美しい女形は微笑して、
「そういう役は、わたしとはまるで縁がない筈ですよ。それにしても、わたしの舞台に、そんな凄味(すごみ)が出るようでは、芸が未熟な証拠です。矢っ張り道楽でならった武術の方が、表芸に祟ってくるのですねえ。有難いことを聞きました」
闇太郎は、雪之丞を険しすぎる目で、睨むようにしたが、これもがらりと気を代えて、
「は、は、は。なるほど、こいつあおれが出過ぎていた。実はな、雪之丞さん、おれは、たださえ気短な江戸生れ、そこへもってきて、こんな境涯になってからは、何時なんどきどんなことがあるかもしれぬと、一日一刻を、ゆるがせに出来ないような、気持に時々なって困るんだ。考えて見りゃあ、おまえさんが、たとい、どんな秘密に苦しんでいても、はるばる遠い、東の都で、だしぬけにあった赤の他人、しかも大泥棒から、なにもぶちまけて、胸の中を見せてくれと頼まれても、すぐにべらべらしゃべるわけにもいかねえだろう。おれが悪かった。免(ゆる)してくれ。これで、せめて、このおれが、昔の身分で両刀を腰にさしてでもいた時なら、お前も、もっと信用してくれようが――」
闇太郎の言葉は、妙に理につんで、その面上には、いつも見られぬ寂しさが、薄暗くさまよっているのだった。
雪之丞は、気の毒そうに、
「ゆるせの、謝びるのと、まあなんというお言葉です。わたしとてもお前さまの真心を、感じぬわけではありませぬ。それにしても、今うかがえば、昔はお武家であったらしい――そのお前さまが、まあどういういきさつで、今のようなお身の上に――」
「また、しくじった。詰らねえことを――どうも愚痴(ぐち)っぽくなっていけねえ」
闇太郎は、両手で頭を抱えるように、苦く笑った。


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「お前さまは、わたしのことを、かれこれ言ってくださいますが、わたしの方でも、いつか、わたしの難儀を救ってくだされたときの御様子を、たしかに、由緒のある方と見てとってはおりました」
と、雪之丞は一歩を進めた。
「矢っぱり、このおれも、いくら素性を隠そうとしていても、あらそわれねえものがあるのかな」
と、闇太郎は両手で、顔をつるりと撫でるようにして、
「おれが、おまえの身の上を、根ほり葉掘り聞くのは、なる程、無理かもしれねえが、おれの方は、もうとっくに、大泥棒と知られてしまっているのだ。今更、何をかくしだてしても仕方があるめえ。不思議な縁で、こうやって、田圃の中の一ツ家で、秋の夜長を語りかわす仲になったのだ。下手な作者のくさ草子を読むつもりで、じゃあ、面白くもねえ昔話をきいて貰いましょうかね」
闇太郎は冷えた茶で咽喉をしめすと、煤けた天井を見上げるようにして、
「つい、いま、口がすべったように、おれの家は、これでも代々御家人で、今だって弟の奴は、四谷の方で、お組屋敷の片隅に、傘(からかさ)の骨削りの内職をしながらも、両刀をたばさんで、お武家面をしているのだ。父親はなかなか仲間うちでも聞えた才物だったとかで、一時は、お組頭にも大変寵愛あれた身だったそうだよ。なにしろ、筒持ち同心といやあ、ご家人仲間では幅のきいた方で、一時は随分暮しむきもよかったのだ。ところが、おれが十七の時、元服のついあとだったが、ちいさいながら呑気な一家に、だしぬけに思いがけない、ばかげた不幸が見舞って来たのだ。なあにそれも、父親の奴が悪堅かったからだがね。あたりめえの人間なら、なんとでも切りうけられたのだが――」
雪之丞は天井を見詰めながら、そこまで話してきた闇太郎の表情に、暗い憤怒が、ひとしきり漲るのを見た。
闇太郎はちょいと黙って、唇をかむようにしたが、
「いまいう通り父親(おやじ)の奴は、依怙地(えこじ)のくせに算筆も人より長けていたというので、お組頭の側にいて、種々(いろいろ)な仕事があるたびに、帳付けをさせられていたというが、そのころ異人の黒船が日本国の海岸に、四方八方から寄せてくるという噂󠄀が高く、泥棒を見て縄をなうというような腰抜けな政府も、狼狽(あわて)くさって、それ大砲、それ鉄砲と、えらい騒ぎをはじめたものだ。筒持ち同心組頭の佐伯五平という奴が、これがまた上役に取り入るのが上手な奴、異国の鉄砲を見本にして、江戸中の大きな鍛冶屋たちに、鉄砲造りを仰せつけるとき、その検分の役に廻されたそばに、何時もついていた家の父親――衣笠貞之進というのだが、律儀の根性から、これも一生懸命になって、頭の仕事を手伝っていたわけさ。そのうちに曲りなりにも異国まがいの鉄砲が、だんだん山と積まれて来た。御上納も、二度三度と無事にすんでいったのだが、その鉄砲を、兵隊にもたせて、いざ、ためし打ちをしてみると、どうも工合がよくねえんだ。そこで、その道で、音に聞えた、秋帆流の達者たちが、一丁一丁を、きびしく吟味ということになるてえと、困ったことになったのだ、形こそ見本通りに出来ているが、中の機械がやってつけで、とても役には立たねえという――当然、御上納のときの検査方から、職場検見の役人たちに、お咎(とが)めがくることになったのさ」


一〇 編集

闇太郎は、これまで誰にも口外したことのなかった身の上ばかしを、話しだしてはみたものの、矢張り持って生れた気質で、自分のこととなると、
――こんな泣きごとをならべたって、今更どうなるんだ。ばかばかしいじゃあねえか。
というような自嘲に、言葉がとぎれそうになるのだったが、雪之丞が熱心に聞入っている姿にはげまされて、
「なあに、いつの世にだって、ざらにある話なんだ。長いものは短いものを巻くし、強い奴は弱い奴を食う――今更、ありきたりのことなのだが、そのころ、おれはまだ十七にしかなってなかった。ども、このごろ父親(おやじ)の様子が変だ変だと思っているうち、或る夕方、剣術の道場から、何気なく帰って見ると、家の中がざわついているのさ、駆込んでゆくと、父親の奴腹を切っていやがったんだ。書置きで見ると、佐伯五平が検査する筈の上納鉄砲は、そのころ五平が病気をしていたので、全部父親が代って、吟味をし、上納を許したのだとか、そのとき懸りの鍛冶屋から、貧にせまっていたので、つい、賄賂(わいろ)を飼われたのだとか、そんなことが書いてあった。父親が死んだので、佐伯五平の奴は、軽いお咎目があっただけで、なんの事もなく済んでしまった。だが、おれも、もう、物心がついていたから、本当に父親が不浄の金を商人から取ったとかとらなかったぐれえなことは、よく分っていた。おれの家は、父親が死んでも、葬式(とむれえ)の金にも詰っていたんだからね。おれにゃ、ばかばかしくって、家督をもらう気になんぞなれなかった。ただ父親がどんな成行で死んだのか、その本当のことが知りたかった。こんな気質(きしょう)のおれだから、何度でも五平の家へ押しかけていっては、面会を願ったのだがきてくれねえ。若いも若いし、かッとして、ある日、五平の外出を狙って、素ッ首を叩きおとしてやろうとしたが、かすり疵をつけただけさ。おれは父親が憎らしかったよ。馬鹿な奴だと口惜しかった。お役目の上から、いかに日頃、側につかえていたって、その上役がやった不正(いかさま)を、だまって自分で背負いこんで、腹を切り、女房や子たちにまで、嘆きをかける唐変木があるものか。おれは、代々、僅少な扶持をもらって、生きている為に、人間らしい根性をなくしてしまった、侍(さむれえ)という渡世が、つくづく厭になったんだ。そこで五平を叩っきりそこなうと、すぐその場から、おさらばをきめて、それからはお定まりの、憂き艱難というやつさ。身体は身軽、年齢は若し、随分乱暴な世界を平気で歩いたが、しかし、まだそのころは、泥棒だけはしなかったよ」
闇太郎はそっこまで話してきて、火鉢の火を見詰めるように、うつむいている雪之丞を見て、
「どうも、あんまり結構な話でねえ。面白くねえだろうから止めにして、台所には白鳥が一本おったっている。熱燗(あつかん)をつけて、これで中々好い音声(のど)なんだ。小意気な江戸前の唄でもきかせようか」
「どうぞ、お差支えがなかったなら、もうすこし話してくださいまし。わたしも、身につまされることもあるのですから」
と、雪之丞が顔をあげて、いくらか翳(かげ)ったような瞳で、相手を見上げた。
晩秋の真夜中の風が、田圃を吹きわたして、背戸口の戸をかすかにゆすぶっていた。
「そうか、じゃあ、もう少し聞いてもらおうか」
と、若き盗賊は、ふたたび話をつづけた。


一一 編集

闇太郎が、それから例の鉄火な口調に、しんみりした侘しさもまじえて、話しきかせたのはおおよそこんな事であった。
彼は、父衣笠貞之進の上役、佐伯五平を暗打ちにかけようとして、流石(さすが)、年のゆかぬ彼、あんまと斬りそこね、その場から家も、母親も、弟も捨て、何処となく逐電(ちくでん)してしまったのだった。
闇太郎の貞太郎は、それまでは極めて物堅く育てられ、世間のことはなにも知らなかった。素無垢(すむく)な、武術文学に、貧しいながら身を入れてきた少年だった。しかし、今や、彼は突如として、これまでの一切に背中をむけ、まるで反対な方角へ駆込もうとするのである。
彼は、出来るだけ権力から、武門から、今まで彼が、もっとも尊敬せねばならぬとしていたものから、離れようとした。憎もうとした。
そこで当然、落込んでいったのは、市井無頼の徒のむらがっている、自由で放縦な場処だった。てんな仲間にはいるのに、なんの手間暇がいるであろう。四谷舟町の彼の家に、二年前まで折助をしていて、打つ、飲む、買うの三道楽に身がおさまらず、さんざん一家を手こずらせたあとで、主家に毒口を叩いて出ていった、弁公という若者が、つい、内藤新宿のある小賭博(こばくち)うちのもとに厄介になって、ごろごろしているのを、彼は知っていた。その弁公が、不思議にも若旦那の彼に好意をもっていて、その後偶然であうたびに、さも懐しえに話しかけることも度々あった。
「若旦那、お前さんが、町人に生まれりゃあ――町人も、せめて、人入れ稼業か、賭博打ちの伜に生まれりゃあ、てえしたものなんだが――貧乏じみた御家人の、左様しからば家の跡取りじゃ一生お気の毒というもんだ。かっぷくといい面つきといい、気合から、腕前、ひとの上にたてる人なんだが――お前さんも何かのきっかけがあったら、あんな渡世はお見切りなさいよ。扶持切(ふちぎ)り米(まい)でしばられていたんじゃあ、この世の中はわかりませんぜ。一番汚ねえところばかり一生覗いて過すのが、――お前さんの身上が、そうだという訳じゃあねえか――三人扶持一両手当の、駄三一(さんぴん)という奴さ」
そんな事を、弁公は、憎まれ口のようでいて、そのくせ心から、市井生活を謳歌(おうか)するようにいいいいするのだった。
生家を飛出した貞太郎、いきどころがないので、弁公をたずねると、相手は額を叩いて、飛上ってよろこんだ。
「そうだ、そうこなくっちゃあいけねえ、なるほどなあ、親父さまも、とうとう腹を切んなすったかい。あの人は、そんな人だったよ。お前さんは、好い時に見切りをつけなすった。これから、おれが、弟分にして、この江戸中を、ぐんぐんと引き廻してやるから、勝手気儘に羽根をのばしなせえ」
そして其日から、彼は弁公の親分のもとに寄食する身となった。
賭博も、女買いも、酒も――世の中で、これほど訳もなく進歩してゆく、修行の道はすくなかった。半年もたたぬうちに、いかさま賽のつかいかたも覚えれば、そそり節の調子も出せ、朝酒の、腸(はらわた)にしみわたるような味も覚えた。喧嘩ときては、そこらの度胸一方のやくざどもが及びもつく筈がなかった。もともと若いながら、叩きにたたき上げた武術なのだ。
「そんなこんなで、十九の声をきくころにゃ、内藤新宿の宿場じゃ、めっきり、これで顔が売れてきたものだったのさ」


一二 編集

だが、闇太郎は、売れっ児の若い衆として、地廻りのなかで、顔を利かせてばかりはいられなかった。ひょんな事から、元は家来で、今は兄貴分の弁公が、親分を縮尻(しくじると、彼ばかり、もとの土地に居残っているわけにも行かなかった。
気早で、ひょうきんで、兎角、やり損いの多い弁公と彼との、大江戸の日影から日影を、さ迷い歩くような、流浪生活は、それからはじまった。
「おれ達は、随分、ありとあらゆる世間を、経めぐったものさ。おれは、武家が嫌いだから、渡り仲間にこそしなかったものの、小屋者の真似さえ、やらかしたよ。どんな事も平気でやッつけて、幾らでも銭になりゃ、そいつを摑んで、方々の部屋をごろついて歩いた。なんしろ、弁公の奴が、ちっとも顔負けのしねえ男なので、とうとう二人で、吉原のチョンチョン格子の牛太郎にまであったこともあるんだ。ところが、何しろ二人とも、野放図もない我儘者だったから、何処にも永く尻が落付く筈がねえ。仕舞には、流れ流れて奥州街道を、越ガ谷の方まで、見世物の中にまじって落ちて行きさえしたのだ。その越ガ谷で、えらい目に逢うことになったのだ」
闇太郎の口元には、苦いくるしい思い出を、まぎらそうとするような笑いが浮かんだ。
「その越ガ谷で、見世物師同士がぶっつかって、思いがけなく飛んだ修羅場(しゅらば)が始まったのさ。両方何十人という若い奴等が、あいつ等の喧嘩のことだから、生命知らずに切っつはっつだ。その時、間抜けな弁公の奴、鈍刀(なまくら)で、横っ腹を突かれたのがもとで、身動きも出来ねえことになる。喧嘩は仲直りで済んだが、一番手傷の重い弁公は、もう見世物に、くッついて、旅から旅を歩くわけにゃあ、いかねえ。拠(よんどこ)ろなくこのおれも、あいつと一緒に越ガ谷に、居残ることになったのだ。あの小さな宿場町の、裏町の棟割長屋(むねわりながや)の一軒を――一軒といったって、たった二間の汚ねえ汚ねえ家だったが、それでも小屋の親分から、別離に貰った二分や三分の銭があったので、そこを借りることは出来たのさ。だが、弁公の看病から、薬代、その日その日の暮しの稼(かせぎ)まで、おれ一人で稼がなければならなかったので、直きに、いいようのねえ、みじめなことになってしまった。しかし、町が町、猫の額のようなところだ。おれたちのようなごろつきを食わせるような仕事があるわけはねえ。貧乏な、御家人風情ではあっても兎に角両刀(りゃんこ)を差したあがりのおれが、水(みず)ッ洟(ぱな)をすすりながら、町内のお情で生きている夜番の爺と一緒に、拍子木をたたいたり、定使いをする始末だ。それもいいが、その内に、弁公の奴は、だんだん身体が弱る、傷から毒がはいる。いや、もう、浅間しい姿になって、あの野郎、強情を張って、唸りをたてめえ、音をあげめえとするのだが、嚙みしてま歯の間から洩れる呻(うめ)きが、長屋中に聞える程になって、今まで、時々は外の稼も出来たおれも、始終そばについていてやらなければ、どうにもならなくなってしまった。そりゃ、貧乏人同士の交際で、軒並(のきなみ)の奴も出来るだけのことはしてくれたが、向う様だって、その日その日に追われているのだ。そこへ持って来て、何しろ、こっちは流れの身。土地に馴染があるわけではなし、仕舞には、医者どのさえ診に来てくれはしなくなった。恨めた身ではねえ、喧嘩にもならねえ。おれは、その時ほど、この世の中が、辛く思えたことはなかったよ――」
闇太郎は、もう笑わなかった。彼は、じーっと、空を見つめるようにしたまま、腕を組んだ。

一三 編集

闇太郎は思い深げに、話しつづけた。
「渡る世間に鬼はなし――なぞというが、といって、仏の顔も三度というからね。世間だって、そうそういつまでも、おれ達をかまってくれるはずがねえ――まえかた懇意にしてくれた、江戸のごろつき仲間にも、飛脚を立てたり、手紙をやったりして見たのだが、ろくに返事も来なかった。売食いするにも種もなし、二人とも――病人ばかりか、この俺まで、もうアゴが干上りそうになっちゃたのだ――とうとう、これまで、あわれみをかけていてくれたような、差配さえ、いつか出てゆけがしのそぶりを見せないでもなくなった。そいつが、ピーンピーンと、こっちの胸にひびくんだね――そこで、おれも考えたんだ。こりゃあ、もうよんどころない――うちへ帰って、おふくろに、何とか泣きつく外にはない――友だち一人の、一命にかかわることだ――この決心がつくまでには、ずいぶん苦しんだのだがね――」
闇太郎の顔に、苦笑がうかんだ。
「あの頃の、おれのように、捨て身になり切っていても、人間って奴あ、やっぱし人間らしい気持がこのっているものでネ。生みの親、親身の兄弟なんでものに、どこかこころが引ッかかっていると見える――おれは、弁公を、合壁(がっぺき)に頼んで置いて、のこのこ江戸まで引ッ返したのさ。秋ももう大分深いころで、左様さ、ちょうど今日このごろの季節だったが――」
雁(かり)が、北の方へ、浅草田圃の、闇の夜ぞらを、荒々しく鳴いてすぎた。
主人も客も、その声のひびきが、遠ざかってゆくまで、黙り合っていた。
若い盗賊はしんみり聴き入っている女形に、
「風邪でもひかせちゃあ済まねえ。どてらを掛けて上げようね――」
と言って、立ち上って、押入れから、南部柄の丹前を取り出すと、ふうわりと、細そりした肩先にかけてやって、火鉢に炭をつぎ足したが、
「さて、久しぶりの江戸入りをしたおれは、さすが、日の高いうちには、うちの近所へは近よれなかったので、日ぐれまぐれを狙って舟町の生家(うち)の背戸の方へ、まるでコソ泥のように、びくびくもので忍び寄ったわけさ。すっかり日が暮れかけていたが、こっちは、もう冬ぞらがくれかかっているのに、洗いざらしの縞(しま)の単衣(ひとえ)ものを引ッ張っているだけなんだ。手拭で鼻までかくして、裏の方へまわってゆくと、幸い人ッ子一人、あたりに見えない――おふくろか、せめて、弟の奴でも出て来たらと、塀のふし穴に耳をつけるようにしていると、茶の間で夕飯中らしく、皿小鉢の音がしたり、一家中で、何か、面白そうに話し合って、笑っている声までが聞えて来るんだ。もう、親父が腹を切ったことも、おれが、佐伯を斬りそこなって家出をしてしまったことも、家督を、次の弟がついでしまって見りゃあ、もう大風が吹いたあとのように、かえって、さっぱりしたというようなありさまなんだ。そんな中へ、おれが、首を突っ込んだら、晴れた空に、黒くもが射すようなものだ――はいつてゆきたくねえなあ――とためらって、大凡、小半(こはん)ときもそうしていたろうか?その中に、夕飯がすんだらしいから、思い切って、台どころから、おふくろに声をかけようか――ここで、気を弱くしちゃあ、友だちが、どうなると、決心すると、塀をはなれようとすると、そのとき、妙なひそひそばなしが、ついうしろの方で、きこえたんだ――一てえ、どんな事をいっていやがったと思う?」


一四 編集

そこまで話して来て、闇太郎の目は、異様にふすぼり、語調はためらい、低まるのだった。
「「そのとき、おれの耳を打ったひそひそばなしというのが、何だったと思うね?つい裏の、小さく並んでいる組屋敷の勝手口の方で、御新造が娘にいっているんだ――あれ、変な奴が、衣笠さんのお裏口をのぞいている。このごろこまかい物が、よくなくなるが、屹度あいつが盗るんだよ、泥棒だ、早く衣笠さんに知らせて上げたいが――その囁きが、耳にはいると、おれは、あわてふためいて、カーッとからだ中が熱くなって、前後の考えも無くして、そのままバラバラと逃げ出してしまったんだ。ねえ、雪之丞さん、お前にも、その時の、おれの気持はわかってくれると思うが――」
いかにも、雪之丞にも、それはよく呑み込めるのだった。一度、家も世も捨てて、零落して果てた青年が、冬空に、浴衣を引ッ張って、親、兄弟の家に、そっと裏口から、合力を受けようと忍び寄って、中部(なか)の歓語にはいりかねていたその折、合壁から、泥棒よばわりを、されたとしたら、どうして、その顔を、そのままなつかしい家人たちの前に曝(さら)すことが出来るだろう!彼は、一さんばしりに、逃げ去るの外はないのだ。
雪之丞は、涙があふれかけて来た。
「わかります、わかります――まあ、そのときの気持は、どんなでござりましたろうね?して、それからどうなされまして?」
闇太郎は、突然、きょとんとした目つきになって、雪之丞をみつめた。
「それから?それから――その晩から、おれは泥棒になろうと決心したのさ。どうにも、友だちのいのちにゃ代えられねえと思ったのでね――」
彼は、平然として言って退けて、
「おれは内藤新宿を長くうろついていたので、その界隈のことはよく知っていたから、強慾非道な質屋の蔵をすぐに荒してやたわけだ。生れてはじめてって程の大金をつかんで、夜道をかけて、越ガ谷に引返して、さて、翌日から、人参を、山ほど積んで浴びせかけるようにしてやれば、江戸から通しかごの外科も呼んだが、もう手遅れで、弁の奴、二三日して、死んでしまやがったが――しかし、あいつあ、何もかも知っていやがった――かたじけねえ、貞太郎、だが、悪いことはこれからはしてくれるなよ――って、涙をボロボロ流しゃあがったよ。それでも、息を引きとる真際まで、うれしそうに、おれの両手を握りしめていたが――その顔は、今も忘れられねえんだ――」
闇太郎は、また、耳を傾けるようにした。ふたたび雁が、過ぎていたが、その淋しく荒々しい声の中に、わが魂の悲泣を聴き分けていでもするかのように――
雪之丞は、これ以上、この新しい友だちの秘密に触れたがる必要はなかった。
「でも、その弁さんとやらは、仕合せな人でござりましたな。お前さまのような、お友だちを持って――」
「おれも、弁公のような奴と、この世で知り合えたのは、一生の思いでさ。いい奴だったよ。こんなおれのような人間を、あいつだけは、人間つき合いしてくれたんだ――生きていると、お前にもひきあわせてえ奴だった。一度、ほんとうにつき合ったが最後、いのちがけだったぜ――」
大賊のひとみが、無限のなつかしみで、うるんで来るのだった。
雪之丞は、この人間に、ますます新な良さというものを感じて、はなれがたなさを覚えたのである。


一五 編集

「面白いもんだね。俺がこんな泥棒渡世になったのも、いってみれば、あの時、お長屋の女房が、俺のことを、こそ泥と間違えて、あんなことをいやあがったからだともいえるんだ。その後の俺は、ずうと、その商売をやりとおして来た。一度その道にはいってみると、他人にはわからねえ好さも、嬉しさもあるものなんだよ、有りあまる所に有るものを、だまってとってきて、足りながっている所へ、配ってやる――勿論、俺も、その間で、手間賃だけは貰うんだが――」
闇太郎は、又もいつもの、呑ん気な調子になって、しゃべり出した。
「俺は、理屈は一切抜きにしているのさ。早い話が、理屈で世間がどうか、なるならもう、とうに人間はみんな幸福になっているだろうと思われるんだ。日本にゃあ、神の道があるし、唐天竺(からてんじく)にゃあ、孔子、孟子、お釈迦さんもおいでなのだ。そして、何千、何万という、代々の学者が、理屈をこねつづけて、人間てもなあ、こうすべきものだ、こうありたいものだとしゃべりつづけ、書きつづけてきた、それなのに、この世の中が昔に較べて、どう違った?いつでも強いもの勝ちで、こすい奴が利得を占めて、おとなしい、正直な奴がひどい目に逢いつづけだ。俺は江戸の生れで、気短だからもう、下手談義(へただんぎ)を聞いて、じっと辛抱していろ、明日は今日より、きっとよくなる、なんていう、だまし文句にのっているわけにゃあ、いけなくなっているのさ。俺は、こんなけちな奴だから、大したことは望まねえし、又、出来もしねえと諦めている。そこで、ちょっくら、有りすぎる所から、小判を捉み出しちゃあ、無さすぎる方へ撒いて歩くのよ。それが、今の俺の仕事さ」
雪之丞は、今は、ますます心をひかれて行く。この新しい友達の考え方が、羨ましくてならぬのだった。
――江戸の生れの方は、何とキビキビ思った方へ、突き進んで行くことが、できるのだろう、それに較べて、このわしは、小さな望みを果すために、二十年を傾けてきて、まだ、何にもしていはしない。
闇太郎の、対手の、そうした心の中を、見てとったかのように、云うのだった。
「俺は、お前が胸の中を割ってみせて呉れねえと云って、先程も云う通り、少しも恨みに思いはしねえ。だが、一度思い立ったら、ぐんぐんとその方角へ、とびついて行く外は、仕方がないだろうと思うのさ。ためらっていても、どうせ、老少不定(ろうしょうふじょう)のこの世なんだ。今この一時が、人間は、一番大切だとしか思われねえんだ。お前は、ただの役者として、日本一になりたけりゃあ、そのつもりでおやんなせえ。それとも、何か他に、望みがあるなら、何もかまうもんか。明日の無え命と思って、やんなせえ。へんな気焔を上げるようだが、この俺も、お前のためには、どんな時、どんな場合でも、命をかけて、後見をするつもりだよ。それにしても、お前は今度三斎隠居の屋敷へなんぞ、何だって、出掛けたのか。俺にゃあ、あんな奴が一番胸くそがわるく思われるんだ」
と、いって闇太郎は、ジロリと対手を見たが、急に笑って、
「イヤ、こりゃ、とんだいらねえ世話だ。冷酒で一杯景気をつけて、もう夜も更けた。お前の宿の方へ送って上げるとしようか」
彼は、そういうと、立上って、台所から大振りな白鳥徳利をうら提げて来た。


一六 編集

闇太郎は、白鳥徳利の酒を、燗もせずに、長火鉢の猫板の上に、二つ並べた湯呑みに、ドクドク注ぎ分けるのだった。
「うちの酒は、三歳隠居の邸の奴より、うまくはねえかも知れねえが、又、別な味があるかも知れねえ、夜寒しのぎに、ひっかけて行って下せえ」
雪之丞は、白く、かぼそい手で、なみなみと満たされた湯呑みを取り上げた。そして、美しい唇で、うまそうに、金色の冷酒をすすった。
ごくごくと、咽喉を鳴らしながら、一息に湯呑みをあけた。闇太郎は、そのさまを、さも満足そうに眺めて、
「並木の通りで、はじめて逢ってから、一度は、ぜひ胸を割って話してみたいと思っていたお前と、やっとのことで、今夜逢えた、これで、俺の、この世の望みが、まあ、果せたというものだ」
雪之丞は、相手のそうした言葉を聞くと、この人の前に、自分の秘密をかくし通しているのが、何となくすまぬように思われてならぬ、せめて、輪郭(りんかく)だけでも話してしまおうか。どんな事を、告げ知らせたところが、他人の大事を、歯から外に洩らすような男ではない。
とは、思うものの、さりとて、云い出しかねる話だった。ことによれば、対手の一身一命まで、自分の運命の渦巻に、巻き込んでしまわねばならぬかもしれない――
闇太郎は、例の鋭いかんで、こちらの気持を、素早く見て取ったのでもあろう。
「なあに、太夫、俺たちの交際は今日明日に限ったものでもない。お前も知らぬ土地に来て、当分、苦労を仕様というには、俺のような男でも、いつか又、用になろうも知れぬ。その時には、これこれだから、急に、お前の命が欲しいと知らせてくれれば、どんな所へでも飛んで行くよ。男同士が、好き合ったからには、遠慮は少しもいらぬことだ」
闇太郎は、そんな事を云って、二杯目の茶碗酒をほすと、フーと息をはき散らすようにして、
「それじゃあ、そこまで送ってゆこうか。朝の早い渡世の人を、引止めてすまなかった」
と、云ったが、ふと、思いついたように、
「折角、此処まできて貰って、何の愛想もなかった代りに、一つ上げてえものがある」
彼は、立上って、次の間にはいった。そして、象牙彫の仕事場の隅におかれた、手簞笥をゴトゴトやっていたが、やがて、小さな象牙彫の印籠(いんろう)を持って来た。
「御覧なせえ、なかなかの上手な細工だろうが――」
雪之丞は、掌のひらに受けて見つめた。それは、とても器用な、素人細工とは思われぬ、三つ組みの、親指程の印籠で、細かく楼閣から、人物やらが刻まれていた。赤い、細い緒が通って、緒じめには、何やら名の知れぬ、青く輝く珠がつけてあった。
「まあ結構なお品で。お前様がお彫りになったので――」
闇太郎は得意気に微笑した。
「代々、観世よりの細工をしたり、から傘を張って暮してきたりしたお蔭で、これで、滅法手先きが器用なんだよ。何でも世間じゃあ、変った彫りだといって、珍しがっているそうだが、彫り師の本体が、泥棒と知れた日にゃあ、大事にしてくれる者もあるまいが――それはそうと、その中子(なかご)をはずして見ねえ。とほうもねえものがはいっているよ」

一七 編集

雪之丞は、いわれるままに、印籠の中子をあけて見た。するとそこには、吉野紙で、丁寧に包んだ丸薬がはいっている。
茶褐色の粒々を、彼はそっと嗅(か)ぐようにして見た。すると、甘く、香ばしい匂いが、かすかに感じられて来るのだった。
「わかるかね?何の薬か、見当がつきますかね?」
闇太郎は、おもしろそうな調子でたずねる。
「いいえ、とんと――」
と、雪之丞は、やさしく、小首をかしげて見せる。
闇太郎は、いくらか重い口調になって、
「それはね、実は系図ものなのさ。ある強慾な紅毛流(オランダりゅう)の医者の家に、ちょいとお見舞申したとき、さも大事そうに蔵ってあったので、序でに持って来て置いたのだが、まあ、なかなか珍しい効能があるのだ。怖ろしいほど、利く奴サ」
「どんな病気に利くのでございましょう?」
「病気?いんや、病気とはあべこべに、達者な奴に利く薬なのだ」
「まあ!」
と、雪之丞が、美しい目をみはる。
「まあ、その薬をたった一つぶ。そっと誰かに飲ましてごらんなせえ、ついじきにこくりこくり居睡りをはじめて、叩いたって、ぶったって、目をさましっこはねえんだよ。飲ませる間がなかったら、その薬をこんどはふた粒、莨盆(たばこぼん)の火入れの中にでもくべて御ろうじ、たちまち一座がその場で睡ってしまうんだ」
「ホ、ホウ、じゃあ、ねむり薬で――」
「ねむり薬も、ねむり薬、こんな利くのは天下に類がねえ――しかも、こっちは、明礬(みょうばん)をしめした布で鼻をふさいでいれば、いっかな薬をうけつけずに済むというのさ。おれはが、実地をためしているのだから、間違いはねえのだ」
そうした秘薬を、何のつもりで与えようとするのだろう?――雪之丞は、何となく、もうとっくに、相手が、こちらの望みをすっかり見抜いてしまっているような気がしてならぬのだ。
闇太郎は、平気でうづける。
「お前は、聴けば、武士の表芸の中でも随一番の、剣法ではだれにもひけをとらねえという――だが、世の中は、すべて表裏があるもので、裏の用意もなけりゃあならねえ。忍術の方でもねむりの法は大切なものだ。まあ、用心のために、身につけていて、決して損はねえだろうよ――おれの細工物の中に入れたまま、たえず、からだをはなさぬがいいぜ」
「何にいたせ、すばらしい印籠に、かてて加えて、世界一の珍薬までいただいて、お礼の言葉もござりませぬ」
と、雪之丞は、素直におしいただいて、すぐに腰をつける。
「では、もう、夜明けも近いことこれで今夜はおいとまを戴きましょうか?」
「おお、この田圃のはずれのかご屋まで、おれが見送って上げましょう。まあ、もう一ぱい引っかけて行きな」
名残りの茶わん酒を汲みかわして、いつか、露が深くなって、それが薄霜のようにも見える暁闇(ぎょうあん)の浅草田圃を、二人はまた辿って行った。
吉原がよい専門の、赤竹というかご屋で、乗物をしたててくれて闇太郎、
「じゃ、また逢おうぜ」
「その日をたのしみにいたしております」
雪之丞は、しんからそう答えたとき、たれが、ぱらりと下りた。
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。