牙と肉

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闇太郎の、思い掛けない救いの手で、急には逃れ出ることが出来ないかも知れぬと、覚悟していた真暗な陥穽(おとしあな)から、やすやす抜け出すことの出来た雪之丞、その翌日、舞台から見渡した土間の一隅に、さも呪わしげな目つきをして、めっきり靑ざめてさえ見えるお初が、どこぞの内儀(おかみ)らしい扮装(よそおい)でまじっているのを見出しても、別に、気にも止めはしなかった。
彼は、自信を得ていたのだ。
わしが、一生、一念を賭けた大望、そなたなぞが、身から出た執着の悪念で、どのように呪って見たとて、どうにもなるものではないぞ。神、ほとけが、さまざまなめぐみの手を差し伸べて下されて、わしをあらゆる難儀から救うて下さるのじゃ。
雪之丞の、昨夜(ゆうべ)の、生き死にの難儀に対する恐怖すべき追憶なぞは、どこにも残っていないような態度で、自由闊達(じゆうかったつ)に、演技をつづけているのを、じっとみつめて、唇を嚙んでいるお初の胸の中は、さてどんなものであろう?
彼女は、いきどおりに燃えて、三斎隠居一味に、彼の秘密を告げ口する決心が、ますますかたまってゆくのであろうか?
と、ばかりは言えなかった。
彼女は、美しく、たわやかで、その中に限りない凛々(りり)しさをほの見せている雪之丞の舞台すがたに、食い入るような瞳を投げつづけながら、罵しり、もがき、もだえているのだ。
――意気地なし、甲斐性(かいしょう)なし!何という、しッこしの無いおいらなんだ!なぜ、あの小生意気な、上方(かみがた)ものを、あのままにほうって置くのだ?ああやって、昨夜(ゆうべ)の今日、平気なかおで人を馬鹿にするように、舞台を踏みつづけているあいつを、どう始末をする気にもならないのだ?お初、おめえは、この場から駆けつけて、申し上げます――あなたさまの、おいのちを狙っている奴が、ついそこにおります――と、言いつけることが、なぜ出来ないのだ?お初、おめえは、馬鹿か、阿呆か?
だけれども、彼女には、それが出来ぬ。雪之丞の、五体から発散する、微妙精美な光の糸のようなものに、ますます縛呪(ばくじゅ)されてしまって、身じろぎが出来ないのだ。
――うう、くやしいッ!
と、お初は、わが身をつかみしめる。
――どうして、あいつの、あの色香や、あの心意気を、蹴飛ばすことが出来ないのだ!畜生ッ!
呪えども、憎めども、彼女が、不思議な恋の蠱(ま)じの環を、どうしても抜けることが出来ぬうちに、大喜利も幕になった。
しおしおと、引かれた幕をみつめて、出てゆかねばならぬお初――
雪之丞は、雪之丞で、楽屋に戻る――この興行も大入の中に、明日が千秋楽――十日ほど休んで、新しい狂言の蓋が、あけられる予定だ。
さまざまな思いが、湧き乱れて来る胸をしずめて、鏡台の前に坐って、おしろいを軽く落していると、外から飛び込んで来た男衆の一人が、だれにいうともなく……
「いや、おそろしいことだ!浅草から下谷へかけて、大変な騒ぎですが?」
「何、大変な騒ぎ?」
と、居合せた若い役者が、
「一たい、何がはじまったのですね?」
「何でも、日本ばしの方で、ぶちこわしが始まったとかで、あぶれものたちが、血相を変えて走っているのですよ」


――ぶちこわしが、はじまったといって、あぶれものたちが、町を走っている――
この言葉を耳にしたとき、雪之丞には、ハッと、思い当るものがあった。つい昨日、今日、彼は聴いているのだ。
――日本橋、通三丁目の米屋が、打っこわされるそうじゃあねえか――あんまり高価を、ボリゃあがたからだ。ざまあ見ろ!
――うん、おれッちも、暇がありゃあ、一さわぎ、さわいで来てえがなあ。
そんなことを、道具方が、並べているのだった。
通三丁目の、米屋というのは、長崎屋三郎兵衛が、仲間と組んで、出している米穀問屋、つまり、この二、三年の、関東、東北の不作状態を見込んで、上方西国から高い米を廻し、暴利をむさぼって、恒、日ごろから、市民の恨みを買っていたのだ。
しかし、市民たちは、これまでこの大問屋が、殆んど唯一の配給の元だったので、いわば、咽喉を絞められているかたち、直接に反抗手段を取ることも出来なかった。
が、今は、まっさきに、広海屋が、数艘の大船の舳艫(じくろ)をあい接させて、西の貯蔵米をまわしはじめたのを切ッかけに、富裕の商人がこの流儀を学んで、市民の心を得ようと企てたので、急に米価は墜落し、江戸の民衆は、久しぶりで、たッぷりと鼓腹することが出来たのだった。
こうなると、長崎屋たちが、今更、値を下げて見たとて、恨みが晴れるものではない。
――やッつけろ!あの大問屋をやッつけろ!こんな安い米が食えたのに、あいつ等が、それを食わせなかったのだ!
――ぶちこわせ!ぶちこわせ!悪どい奴等を根だやしにしろ!
――やッつけろ!やッつけろ!
いつの世でも、リイダーはある。それに盲徒する暴民はある――今や、彼等は、これまでの憤怒を晴らす、当然の機会を得たように、めいめいに起ち上った。
それに、裏長屋の軒並から――大江戸の隅の隅のどぶという、溝(どぶ)の近所から、急に発生(わ)き出した、毒虫のように、雲霞(うんか)のように飛び出して来た。
男も、女も、老いたるも、稚なきものも――
みんなが、みんな、何か、桝(ます)や笊(ざる)のようなものをつかんで、振り立てて、冬の宵の口を、大通りを目ざして、駆け出すのであった。
――どれほどでも、蔵にあるだけ奪ってやれ!
――これまで、高値で買わせられただけの損を、今夜一度に取りかえせ!
この騒ぎは、昨夜も、小さく起ったのであったが、検察の当局も見て見ぬふりをしたのであった。彼等とても、お蔭で、扶持米(ふちまい)を切り替えるのに、大分損をしているのだから、恨みは、民衆と同じであった。
長崎屋たちが、取締りを求めても、
「いや、当方では、言うまでもなく、十分に警戒する。騒ぎは今夜だけであろう。が、めいめいに、十分に気をつけるように――何しろ江戸には、何百万とない貧民がいるので、こちらの手でも、そう完全に押し伏せるわけにいかない」
こんなたよりない答えがあるだけだった。
大問屋すじでは、びくびくして、今夜、夜が深まるのを迎えていたが、案の定、第二夜の騒擾(そうじょう)は昨夜に輪をかけたものだった。
薄暗い横町という横町から、貧しげな男女が、わめき立てながら押し寄せて来た。
――米をくれ、米をくれ、米をくれえ!


そうした市民どもの、荒くれたぶちこわしさわぎが、楽屋の雪之丞の耳に、今、あらためてはいったのだった。
彼はさらに――と、思い当ると躊躇もなく、男衆にいいかけた。
「その押し入れの、下積のつづらの中に、目立たない糸織縞(いとおりじま)の着物がありますから、黒繻子(くろじゅす)の帯を添えて出して見て下さい」
そして、着ていた舞台裏の、帯紐(おびひも)を解きはじめた。
「え?糸織の縞物を?何になさるんで!」
男衆は、異様な、のみこめぬというような目つきをした。
「何でもいいから、出して見て下さいよ」
質素(じみ)な縞の着物に、黒繻子の帯、何かの役の都合で、必要もあるかと用意してある自前の衣裳――町家のかみさんにでも扮するときしか、用のないものだ。
重ねて言われて、男衆が、それを、取り出すと、雪之丞は、手早く着更えて、手拭いを吹きながしに冠ると、褄(つま)をちょいとはしょって見て、姿見にうつしたが、
「すっかり、江戸前のかみさんでしょう?」
「ほんとうになあ――ちょいとしたとりなしで、かわるものだ」
と、男衆の一人は感心したようにつぶやいて、
「で、そんな扮装(なり)をなすって、どうするおつもりで?」
雪之丞は微笑した。
「まあ、黙っていて下さいよ。今夜、これから、この姿でおたずねして、ある方を、びっくりさせるつもりなのだから――」
そして、彼の姿は、啞然(あぜん)たる、弟子や男衆の前を、すぐに消えてしまった。
楽屋番のじいさんさえ、雪之丞の、簡単な変装を見やぶることが出来ないようであった。どこの女房が楽屋へ来ていたのかという表情で、ちらりと見たッきり、二度と目もくれない。
雪之丞は、ありあわせた、尻切れ草履を穿いたまま、寒風が、黒く吹いている通りへ出て、少し行って、辻かごで、日本橋近所まで来て、乗りものを捨てた。
もう、このあたりまでくると、町家の大戸という大戸は、びったりと閉されていて、軒下に、小僧や手代が、軒行燈のおぼろな光の下に三人、五人たたずんで、近所の人達と、妙にひそめたような声で、話し合っている。
「ほんとうに、物騒千万なことで――あの人達が、うらみのある米屋ばかり、狙っていてくれればいいが、とばっちりが、こっちまで飛んで来てはやり切れません」
「ああ、多分大丈夫と思いますがね――物産屋の長崎屋とやらは、大そう狡猾(こうかつ)な人だそうで、米商いにまで手をのばし、一息に大もうけをしようとしたのでしょうが、こうなっては滅茶苦茶ですね」
「ほんとうに――上方出のあきんどは、目先きが大そうするどいようですが、今度は味噌をつけましたね」
そして、だが、聴け!
行手に当って、真黒な潮騒(しおざい)のような、何とも言えずすさまじいわめきの声が、地を這うようにひびいているのだ。
雪之丞は、その方角が指していそいで行った。
逢う男女は、みんな走っている。目をきらめかしている。人波が前方で押し返し、押し返しこんなことを叫び立てていた。
「火の用心を忘れるな!火を出さねえようにぶちこわせ!手向ったら、半殺しにしろ!」


片褄(かたづま)をはしょって、吹き流しの手拭を銜(くわ)えるように、暴動市民の群から少しはなれて佇んだ雪之丞――
じっと、みつめる目の前では、市民どもが、かがんでは小石を拾い、拾っては、十間間口、大戸前の表の戸を、すっかり下しいて、灯という灯を、ことごとく消してしまった、米問屋に向って、バラバラと投(ほ)おりつけ、すさまじい憎悪の叫喚(きょうかん)をつづけている。
「出ろやい!長崎屋!人鬼!生血吸い!出ろやい!」
「手めえに、ひと言いってやらねえことにゃあ、ここをどくおれッちじゃあねえぞ!」
すると、一人の指導者格が、煮るしめたような手拭を、すっとこ冠り、素肌の片肌脱ぎ、棒千切れを、采配のように振り立てて、
「やい!みんな!うしろへまわれ!石をほおっていても仕方がねえ!うしろの米庫をたたきこわせ!米庫は板がこいに、屋根がしてあるだけだ――たたきこわして、ふんだんに頂戴しろ!長崎屋さんは、今まで儲けたお礼に、おめえたちに、いくらでも、拾っていけっておっしゃってるぜ!」
「わあい!米庫だ!米庫だ!米を貰え!米を貰え!」
叫び、わめきつつ、指導者の棒千切れのゆび示(さ)すままに、群集は、建ちつづいた、蔵の方へ走ってゆく。
しかもその群衆を制するものが、殆んどないのだ。
「騒ぐな!退け!騒ぐな!退け!」
と、御用提燈を振り立てて、同心どもに率いられた下役が、棒を突き立てているが、その人々は、群集とは、かなり距離がへだっている。彼等も亦、心の中では、このぶちこわしを、無理もないことと、思っているに相違ない。
雪之丞は、群集とは反対に、問屋の内部を覗こうと、右にまわって行った。家内に、何となしに、いい争うような声が聞えるように思われたのだ。
右手の、隣家の土蔵との庇合(ひあわい)から、すべり入って、暗がりを、境の板塀を刎ね越すと、奥庭――この辺によくある、大店(おおだな)の空家を買って、そのまま、米問屋をはじめたわけなので、なかなか凝った茶庭になっていたが、大きな木槲(もくこく)の木かげから、じっと見ると、奥座敷では、今は浅間しく取り乱した。長崎屋が、着物の前もはだからせて、立ち上って、何か大ごえで騒ぐのを、左右から、二人の番頭が取りすがるように、前には、雪之丞、見覚えの武家が、立ちふさがっているのが見える。
武家は、長崎以来、長崎屋等と、悪因縁を持つ、浜川平之進にまぎれもなかった。
「もう滅茶滅茶だ!滅茶滅茶だ!畜生!役人さえ、あぶれ者の味方なのだ――見ろ!聴け!空地に建てならべた米庫を、あいつ等は荒しているのだ。大手をふって盗みをはたらいているのだ――それなのに止めようとするものがない。見世(みせ)の手代、小僧、みんな逃げて行って、誰も防ぐものはない――ああ、滅茶滅茶だ!これというのも、みんな、あの広海屋の畜生のなせるわざ――あいつを、取り殺す!食い殺す!さあ、放せ!おれはこれから竜閑町(りゅうかんちょう)の、あいつの家へ行って来る――あいつの咽喉ぶえを食い破ってやる――」
燭台の赤茶けた燭の火を宿す、血ばしった目つきの怖ろしさ――それを鎮めようと、浜川が、
「ま、下にいなされ!そう狂っては、却てお身の不為――あぶれ者の目にも触れなば、いのちが厶らぬぞ」


哮(たけ)り狂う長崎屋の形相は、いよいよ物すごく歪むばかりだ。
「いえいえ浜川さん、おはなし下さい。わしはもう、腹にも、肝にも据えかねた、あの憎らしい広海屋を目の前に、いってやる――呪ってやる――肉を食(くら)ってやる――そうせずには置かれませぬ。元――元をただせば、わしの助けがあったればこそ、傾いた広海屋が、松浦屋を破滅させて、独り栄えることが出来たのだ――それは、浜川さん、あなたがよく知っているはずではないか――さ、はなして下さい、遣って下さい!」
「わかっている――貴公のいうことはわかっている」
と、以前に長崎代官をつとめて、これも暴富を積み、お役御免を願って、閑職につき、裕福に暮している旗本、三郎兵衛の前に、立ちふさがって、
「だが、商人の戦いは、そう荒立ってもどうもならぬ――口惜しかったら、やはり、商いの道で、打ちひしいでやるがいい――ま、下に――」
「何とおっしゃる!浜川さん!じゃあ、そなたも、あッち側なのだね!広海屋の仲間になってしまっているのだね!」
と、長崎屋は、歯を嚙んで、浜川旗本を睨みつめ、
「商人は、商いで戦えと!それを、こうまで、ふみにじられた、わしに言うのか!わしにどこに、商いで戦える力が残っている?十何年の月日をかけて、一生懸命働いて来た黄金という黄金、江戸に見世を移すに使った上、短い一生、出来得るだけ富をふやそうと、さまざまな方角へ資本を下し、その上、今度こそ、最後の決戦と、手を出した米商いに――乗るか反るかの大事な場合と、知り抜いた広海屋にハメられたのだ。うしろから突き落されたので、もはや起き上る力もない――それを知らぬ、あなたか?浜川さん、あなたにしても、長崎以来、わしのためにも、利を得ていられるお人ではありませぬか――それを、広海屋ばかりを身贔屓して――」
物蔭に、窺う雪之丞、長崎屋の、血の涙のくり言を、苦い微笑で聴きながら、老師孤軒先生の、先見に、今更感動を禁じ得ぬのだ。
――何もかも、老師のおおせられた通りだ。広海屋、長崎屋、商いの道で自滅する。嚙み合って共だおれになろうとのお言葉――長崎屋は、もはや、あのざま!
そのとき屋敷のうらの空地の、俄立(にわかだ)ての米庫の方で、わあッと起る、民衆の喊(とき)のこえ――さえぎるもののない彼等は、今や、戸前という戸前を破壊して、存分に米穀を摑み出しているに相違ない。
「あれあれ!あの、あぶれどもたちの大騒ぎ!あれを、わしに、じっと聴いていられるか――」
と、三郎兵衛は、左右の袖にすがっている手代どもを、振り切って、浜川の方へ、突ッかかるように、
「出して下され!邪魔立てなさると、おぬしとて、許しはせぬぞ!」
ふところに、手を突ッ込んだと思うと、キラリとひらめく匕首(あいくち)――
「あッ、あぶない!」
と、たじろぐ浜川――
「長崎屋、気ばし狂ったか!」
「狂おうとも――気も、こころも――」
匕首をひらめかして、三郎兵衛、人々を威嚇(いかく)しながら、雪之丞が身をかくしている裏庭に跳ね下り、そのまま、非常門から、暗い巷路に駆け出してしまったのだった。


雪之丞の姿は、咄嗟(とっさ)に、塀を越えて、長崎屋のあとを追う。
動顚(どうてん)したのは、浜川はじめ手代たちだ。
「あぶない!ほうって置いたら大変だ!」
「浜川さま!どうかなされて!」
と、叫ぶ家人たち。
浜川はうなずいて、
「仕方のない奴だ。ああ取り乱してはどうにもならぬ。よし、拙者、あとを慕って、間違いのないように致そう」
「どうぞ、お願いいたします」
「あまりその方たちが、騒ぎ立てると、却て気が立つ――拙者にまかせて置け」
浜川平之進、大刀を、ぐっと腰に帯びると、そのまま、これも非常門から出たが、敢て、三郎兵衛をじかに追おうとはしない。
「かご屋!」
と、巷路で通りすがった、辻かごを呼び止めて、
「急用だ――竜閑町まで行け!」
立派やかな侍、いい客と思ったので、かごが、すぐに矢のように走り出す。
狡いのは、長崎屋三郎兵衛であった。彼は塀外へ出ると、すぐには広海屋の住居(すみか)を差して駆け出そうとはせずに、物影に身を潜めてしまったのだ。
こんな場合でも、日ごろの悪どい知恵がはたらいて、必ず迫って来るにきまっている人達を撒いたあとで、何か、怖ろしい行動に移ろうとするものに相違ない。
雪之丞は、影のように、ぴったりと、彼にくいついている。
とは、流石(さすが)に知らぬ、長崎屋、浜川が、露路に出て、かごに乗ったのを見ると、ニタリと、白い歯をあらわして、闇に笑って、
「ふうむ、広海屋に先ばしりをして、告げ事をしようというのだな!おのれ、にくい奴だ!」
――だが、何の!
と、いうように、忽ち、ぐるりと、尻をはしょると、目あての、竜閑町を差して、これは細い抜け道から、抜け道を、夜のけもののようなすばやさで、走り出した。
なるほど、辻かごが、どんなにいそいでも、抜け裏から抜け裏を、駆け抜けたら、この方が、早いにきまっているのだ。
――どおうするつもりか?
雪之丞、小妻(こづま)も、ちらほらと、踏み乱して、軒下から軒下、露路から露路を、目の前を翔(かけ)りゆく、黒い影をひた慕いに慕う。
とうとう出たのは、掘割を、前にひかえた、立派な角店――総檜の土蔵(くら)づくり、金看板を夜中ながらわざと下さず、堂々と威を張っているのが、いわずと知れた広海屋の本店だ。
その前まで来て、白く光る目で、あたりを見まわすようにした長崎屋――
「そうら、見ろ、こっちが早かった!」
もう一度、じろりと眺めて、見つけた天水桶――黒く、太ぶりなのが、二ツ並んだ間の、犬のように潜(くぐ)り込んだ。
雪之丞の背すじを、ぞうッとした戦慄が走った。
――こりゃ、浜川が、あぶない!
若し、広海屋に、すぐにあばれ込むつもりであれば、身を忍ばせる必要はないであろう。待ちかまえて、何かするつもりに相違なかった。
彼は、河岸に積まれた、空箱でもあろう、うずたかい物に身を貼りつけた。
と、聴け!
「ホイ!ホイ!」
と、かなたの闇から近づく辻かごだ。


――いよいよ、浜川が、着いたな。
と、雪之丞の、冷厳な瞳が、闇を貫いて、広海屋の店前をみつめたとき、飛ぶように駆けつづけて来た辻かご――
「ホイ!ホイ!ホイッ!」
と、先棒、足が止まって、タンと立つ息杖、しずかに乗りものが、下におろされる。
「旦那さま、お約束のところまで――」
と、先棒が、汗をぬぐって、いいかけたとき、突然、天水桶の間から、ぬっと魔物のように現れて、ふところに、右手を――恐らく、匕首の柄をつかみしめているのであろう――つかつかと、かごに歩み寄った長崎屋――
その、髷(まげ)がゆがみ、鬢(びん)はみだれ胸元もあらわなすがたに、びっくりして、かごかきが――
「わりゃあ、何だ?気ちげえか――」
息杖を取りなおすひまもない――キラリと、白く、冷たく光る短い刃が、鼻先きにつき出されたので、
「わああッ!」
と、後、先、そろって、大の男が、しかもからだ中、文身(がまん)を散らしているのが、一どきに、五間も飛び退いてしまう。
そのさわぎに――
「何じゃ?」
と、聴きとがめたが、まさか、まだ、三郎兵衛が、先き潜りをしているとは、思わぬ浜川平之進、左に刀を抱いて、
「下りる――穿きものを」
と、垂れを自分で上げかけたとき、
「へ、お穿きもの――」
妙に、掠れた、笑うような、ばけ物ごえで言った三郎兵衛、かごに引ッついて屈む。
かごにはさんであった雪駄が、揃えられているのへ、足をのせて、やがて、上半身が外へ、出かかったその刹那、
「おのれ?片割れ!」
ぐうッと、抱きすくめるようにして、切ッ先きを、脇腹に、突ッ込んだに相違ない。
「わあッわあッ」
と、叫んだが、平之進、引く息を、一つ大きくして、
「う、う、う、う――」
と、叫びが、呻きに変って、地面にのめる。
「人殺しだあ!」
と、駆けゆくかご舁(かき)。
平気な三郎兵衛――
――トン、トン、トン、トン!
と、大戸を叩いて、
「お願いだ!あけてくれ!」
――トン、トン、トン!
「松枝町からまいッた!広海屋!あけてくれ!」
いつか、平之進の、頭巾を奪って、顔だけ包んで、臆病窓のところへ、わざとその頭を近づけて置いて、武士らしい作りごえ――
「おい、広海屋!急用じゃ!松枝町じゃ――」
松枝町とは、勿論、土部三斎屋敷を言っているのだ。
相変らず、狡い手口――
中では、寝入りばなを起されたらしく、やがて、案の定、大戸の臆病窓が開いて、寝とぼけたこえが――
「どなたさま?」
「松枝町というが、聴えんうか?主人(あるじ)に急用で、お文を持ってまいった」
「松枝町さま――それはそれは」
じきに、大戸が開くようだ。


――行(や)りなされ、お行りなされ!どんなことでも、おぬしの望むままに、お行りなされ!
広海屋、見世うちにはいろうと、開けられた大戸の潜り、腰をかがめてもぐりこむ長崎屋の、異様なすがたを見返って、雪之丞が、そう呟いたとき、かかり合いになるのを怖れたか、かごかき達は、浜川の死骸はそのまま、かごを引っ浚って、またたく間に飛んで行ってしまったが、こちらは、まんまと、手代をあざむきおおせた三郎兵衛、中にはいると、すぐにまた、血みどろの短刀で、何か、行(や)ったに相違ない――
飛鳥のように、広海屋軒下に近づいて、耳をすました雪之丞は、つい、その土間で、突然――
「うおッ!う、う、う」
と、いう、かすかな、押しつぶされたような、うめきを、又も聴いてしまった。
戸をあけてやった手代、薄くらがりで、相手を何ものとも見分けぬ暇に、もはや、匕首の一突きを背中に受けて、高く叫ぶことさえならず、そのまま、どたりと、倒れてしまったものと見えた。
それなり、しいんと、ひそまりかえった家内――
大方、三郎兵衛の音ずれを聴きつけたのは、見世番の手代でほかの店のものは、寝入ばな――これまでの一切に、気がつかず、つい、そこで、同僚が殺害されたのも知らず、ぐっすりと、寝込んでしまっているのであろう。
――これで、二人目!
と、雪之丞は、心にかぞえた。
三郎兵衛、何を行(や)ろうとするのであろう?広海屋のいのちを狙うに相違ないが、まさか、易易と、あの剛腹な男を殺すことは出来まい。
彼は、しかし、三郎兵衛が、成し遂げえぬことを今夜自分でやりおおせようとはしなかった。三郎兵衛、広海屋――この二人は、孤軒老師が予言したとおり、十中八九は、ガッと組み合ったまま、いのち尽きるまで、嚙み合い、食らい合うであろう。
――どっちが強いか――おぬし達、二匹の狼――弱い方から、死ぬがいい――
じっと、いつまでも、聴きすます、雪之丞――
と、かなり長い時が経って、一たい、どうしてしまったかと、心にいぶかしみが湧き出したころ、だしぬけに、奥の方で――
「火事だあ!」
と、いう、叫び!
「火事だあ!起きろ!」
と、けわしい声が、つづいて起って、急に、しいんとしたしずけさが、一どきに破れたかと思うと、まだ、火は見えぬが、物の爆(は)ぜ続けるひびきが、ピチピチ、ギシギシと、いうように、雪之丞の耳を掠めた。
――点(つ)けたな!火を!
「油樽に気をつけろ!油樽に燃えつきそうだ」
と、あわただしい声々。
広海屋は、その頃、紅毛油(オランダあぶら)を盛んに売り出していた。橄欖(かんらん)という果の実、木の皮をしぼって作ったという、香りのよい、味のいい、すばらしい油――富みたるものは、それを皮膚のくすりとして塗りもすれば、料理にも使って、こよない自慢にしているのだ。
その貴重な油樽が、見世億奥に積んであったのへ、長崎屋、いみじくも、火を点(さ)したものと見えた。
たちまち、ズーンという、樽の爆(はじ)ける音。もう、駄目だ!ぼうぼうと激しい炎が唸りを立てて、猛火が、家内を一ぱいにきらめかすのが見えるのだった。


放(つ)けたな!火を!点(さ)したな!火を!ほ、ほ、ほ!
さすがに、雪之丞、家内(やうち)から洩(も)れる炎のいろ、爆ぜ燃えるひびきを感じると、胸が躍った。その業火は、いよいよ彼の一生の悲願が成就する、幸先を祝った篝火(かがりび)おようにも思われるのだ。
退って、例の河岸の空荷を積んだ物影に立って、なおも、成りゆきをみつめていると、だしぬけに、横手の塀を、ムクムクと、乗り越えて来る、黒い人影――
瞳を定めると、人を殺し、火を放って、しかもうまく、現場の混雑に乗じて、逃げおおせた長崎屋三郎兵衛の、浅間しい狂いすがただ。
その三郎兵衛、ふところに、妙なかたまりのようなものを、しっかと抱いたまま、一さんに、河岸まで来た。雪之丞の近くで、立ち止まって、その抱きしめたものを、両手でかざすようにしたが、
「は!こりゃどうじゃ!死んだかな!死にはすまい!たった今まで、おぎゃおぎゃいっていたんだ――おい、目をさませ!赤んぼめ!」
ハッとして、雪之丞は、目をみはった。思いがけなや、何と、それは、やッと当歳か、それとも生れて年を重ねたばかりのむつき児なのだ。
三郎兵衛は、ようやくにして、屋根廂(ひさし)のあわいから、赤黒い火焔の渦を吐き出しはじめた広海屋の方をも、突如として起ったあたりの騒擾(そうじょう)をも、見向きもせず、
「ふ、ふ、ふ、あの馬鹿乳母め――火事と聴いて、動顚(どうてん)しくさって、店の者と間違ったか、このおれの手に、広海屋が六十の声を聴いて、やっと出来た一つぶ種――あの若い後妻に生ませた大事な赤児を、うまうま渡して行きやあがった。広海屋を殺(や)られなかったのは、残念(ざんねん)だが、これは、いいものが手にはいったわい――と、思って、盗んで来たが、死なせてしまっては仕方がない――」
と、独り言――ここまでは大分正気らしかったが、やがて、また、異常な笑いを笑って、
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!これ赤児!きさまは、やっぱり、あの後妻の、間男の子でもなかったな――似ているぞ、広海屋に――あの与平の奴に――おや、何だって、友だちでも、仲間でも、商いの道は別だって――商人は、商いの道で戦うのだって?長崎屋、つぶれて消えろ――だって?よくもいったな?が、まあ見ろ、おぬしの家も店も、そうら、あの通りの大火事だ!ヒ、ヒ、ヒ、あれをよく見ながら、畜生!おのれ、冥途へゆけ!」
気を失っている赤んぼの、咽喉を絞めかける三郎兵衛――
雪之丞は、思わず、それへ飛び出して、長崎屋の腕の中から、あわれな、肉のかたまりを引ッたくった。
「おや!貴さまは何だ!乳母か?乳母が取りかえしに来やがったか?」
と、血走った目で、摑(つか)みかかろうとする三郎兵衛を、雪之丞はなだめるような微笑で、
「まあ、心を落ちつけて、あの火の燃えている方を御覧なされ!それ、あそこへ、お前があんなにさがしている、広海屋のあるじが逃げてゆく――赤児なぞに、かかわっている時ではあるまい――それ、あそこへゆくのが、わからぬか!」
片手で、指さして見せる、火事場の方角、三郎兵衛は、口をあけて、
「どれ、どれ、どこに?」
と、呟きながら、フラフラと、その方へ歩み出すのだった。


一〇

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もはや、炎々と燃え熾って来た広海屋の大屋台――そのほむらの明るさは、既に、そこら中人の顔、眉毛の数までがわかるほどだ。ごく近い、火の見では、激しい摺(す)り半鐘(ばん)のひびき!
雪之丞は、今にも、咽喉笛に、爪を立てられ、いのちを落そうとした広海屋の、老いの初児(ういご)というのを、長崎屋三郎兵衛の手から事なくうばい取ったが、あとの、成りゆきを見さだめるために、いつまでも、この河岸に佇ずんでいることが出来ない。怪しげなすがたが、何ものかの疑いをまねくかも知れないのだ。
彼は、ぐったりした赤んぼをふところに、抱き締めるようにして、わが体熱に温めながら壕端添いに、一切の騒擾からとおいところまで逃れ来て、さて、捨石の上に腰を下した。
ふところの赤児は、ますます冷え切ッてゆく。が、どこにか、いのちの種の火は、辛うじて、残っているのが、感じられはするのだ。
膝に載せて、星あかりに、じっとみつめると、この愛らしい、ふっくらと肥えた嬰児(えいじ)のいずくに、親どもの、あの剛腹な、ふてぶてしいものが見出せるであろう!
武術の活――それを、そのままソッと、指さきが、絶気している子どもの、鳩尾(みぞおち)に当てられる。かすかに、その先に力がはいるとピリピリと、小さい、和らかいからだが、神経的にうごめいた。
そして、しばしばと、まぶたがうごいて、
「――ぎゃあ、ぎゃあ!ぎゃあ!ぎゃあ!」
と、息を吹っかえすと、すぐにもう、むずかり泣きだ。
「誰がよ誰だよ」
雪之丞は、あやして見た。ぎゃあぎゃあと、反りかえるのを、思わず、ソッと頰ずりしてやったが、この刹那、彼の内心に、激しい争闘が行われているのは、美しい眉目の歪みでも知れるのだった。
――どのように、愛しげに見えても、かたきの片割れだ!
と、いう思念と、
――いいえ、かたきの片われにしろ、かくも無心な、いじらしい赤児を――
どうして、憎み苦しめられようかと感情と、相打ちつづけているに相違ない。
が、彼は、泣き止んで、やさしい、むちむちした手を出して、顎のあたりを、つかんだり、なでたりしている赤児に気がつくと、もう、複雑な、あらゆる気持から解放されることが出来た。
――広海屋へ、返そうにも、今夜は仕方がない――どのみち、今のところは、わしがあずかって、あとで何とかしてやる外はないであろ。
両手に、ふたたび、抱上げて、
「ほいよ、ほいよ、だれが泣かした!わるい奴のう――さ、わしと一緒に、あたたかいふしどにまいりましょうの、泣くでない、泣くでない――」
揺り上げ、揺り下げしながら、雪之丞は、歩き出した。
長崎屋や広海屋――また、長崎屋の狂刃に仆(たお)れた、浜川平之進に対する追憶さえ、このやわらかい小さい生もののためには、忘れさせられてしまうのだった。
彼は、かごを拾って、赤児に頰ずりをしてやりながら、山ノ宿のわが宿をさして急がせた。
広海屋を焼く業火は、まだ、後方遠く赤黒く夜空をこがしているのであった。


一一

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扨も、暴富を積んで宝が恒に身の仇、いつ何どき、いかなる禍が身に及ぶかと、絶えず畏怖心(いふしん)から離れられぬ広海屋の主人は、居住坐臥(きょじゅうざが)、一刻一寸も警戒を忘れることが出来なかったので、とりわけ夜の居間や寝室は、念に念を入れたいかめしい用心ぶりだった。
彼と妻女との部屋は、店と、文庫蔵との間の、七間ばかりの別棟で、廊下で四方に連絡されているのだったが、樫の部厚な板戸で仕切った上に、荒目な格子、その内に木襖(きぶすま)、更に、普通の唐紙や障子が入れてあるという工合で、更に、寝室の池袋戸棚の中には、地下へ下りる道が出来ていて、それが、裏庭に通じるような仕組になっていた。
そうした要害を、あらかじめ知りながら、憤怒のあまり、夜よ中に、広海屋の屋形へ飛び込んで行った長崎屋が、易々(やすやす)と、憎い相手に行き合って、恨みの匕首を、肥え肉づいた横腹に、突き込むことが出来なかったのは無理もないが、しかし、何分、紅毛(オランダ)油の大樽に、わざわざ火を点(さ)されたこと、火の手の廻り方が存外に早かったので、
「火事だあ!火事だ!」
と、叫ぶ店の者どもの大声に、寝入りばなを目をさまして、パッと刎ね起きたときは、夫婦とも、尋常では、幾重の締りを潜って、逃げおおせることは出来ないのを知ったのだった。
「まあ!どうしましょう!八方が、すっかり火になってしまったようですが――」
と、おろおろごえで、取りすがる女房の、顔には血の気もなかったが、さすが、主人は驚愕(きょうがく)の中にも沈着さを失わず、
「落ち着け!落ち着け!こんなときは落ち着きが何よりだ――日ごろから、そなただけに知らせてある地下道――今夜のような場合のためだ」
そう言いさま、広海屋は、寝巻の上にどてらを羽織って、脚のすじの抜けたような妻女を引ッかかえるようにしたまま、池袋にくぐり入って、秘密のバネを押して床板を刎ね上げると、真暗(くらやみ)の中を、ゆるやかな傾斜を辷(すべ)るように、真直に辿りはじめた。
恐らくそのときには、さすが広海屋ほどの狡猾(こうかつ)な人間も、また失火の原因については知らなかったろう――知らぬも道理、店の次に、大勢寝ていた若者たちさえ、魔物のようにはいって来て、たった一人目ざめて大戸を開けて手代を差し殺し、主人夫婦に接近しがたいと知るとすぐに目にはいった油樽に火を入れた、三郎兵衛の姿に気がつくものはなかったのだ。現に主人たちの密室から、廊下を隔てた一間に、うない児を抱き寝していた乳母さえ、前後をいかに忘失したとはいえ、当の長崎屋に、この一家に取っては、何ものにも変えがたい一人息子の赤児を渡してしまっている位ではないか!
そんなわけで、広海屋は、闇を辿りつつも、まだ、心のどこでか高をくくっていた。
――なアに、総檜、五百坪の普請(ふしん)とはいえ、店の一棟二棟、焼け落ちたとて、何を驚くことがあろう、うしろに建ち並んだ、蔵の中には、江戸中の、いかなる大名高家、町人一統が、どんな注文をよこそうとも、すぐ間に合うだけの材料(しろもの)は積んであるのだ。その十棟の土蔵は、コテを取っては、日本(ひのもと)一といわれる左官が塗ったもの、どんな猛火も怖れることではない――
「さあ、しっかりせい!そなたも広海屋ほどのものの女房――高が、火事ぐらいに、身ぶるいをしてどうするのだ。そら、もう抜け道もおしまいだ。外へ出れば、明かるすぎる程あかるくなろう――しっかりせい!」
そう女房をはげましつつ、地下道のどんずまりまで来て手さぐりで、揚げ蓋を起す枢機(くるま)をまさぐるのだった。


一二

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地下道の揚蓋を刎ね上げて、縋(すが)り合いながら、裏庭、築山蔭に出た広海屋夫婦。二人とも、その瞬間、瞳を射るあまりに猛烈な焔の色に、思わず目を蔽(おお)うた。
見よ!眼前に聳えた広海屋本店の、厳丈堅固な大廈(たいか)は、すでに一めんに火か廻って、吹き立って来た北風に煽られた火焔(かえん)は、天井を焼き抜き、廂(ひさし)を匐(は)い上って、今しも、さしもの大廈の棟が、すさまじい轟音ともろともに、がらがらと焼け落ちつつあるのだった。
「あれもう、屋の棟が!」
と、又しても、泣き叫ぼうとする妻女。
「ええ!泣くなというに!高の知れた小家一軒、そなたがそんなに惜しく思わば、明日が日に百軒建てて見しょう!見るがいい――あのいろは庫(ぐら)――まだ「る」の十一戸前だが、あの通り立派に建ち並んでいる。それなのに、何が――つまらぬ小店、どうせ建て直さねば手狭になったところ、却ていい折の火事だと思えばいいのだ」
広海屋は、妻女を抱き寄せるように、裏庭のはずれ、川岸に近い方角に、黒く輝いてつづいた土蔵を指し示す。
ガチガチと、歯の根も合わぬながらに、女房も、いくらか落ちついて、広海屋の指先の示すあたりに眺め入って、やっと泣き止んだころ、主人夫婦のすがたを見かけた手代、小僧、出入りの職人どもが、畳、屏風、火鉢なぞを、運んで来る。
「何とも、申し上げようのないことで――」
「火の用心、念には念を入れておりました――」
なぞと、自分たちの失策でもない――と、いうこことを、言外に匂わせて、口々に言うので、広海屋は、苦わらいで止めて、
「よいよい、店だけで、焼け止まる模様、幸い横手は河岸だし、隣は間あいがある。一軒焼けで、近所に迷惑をかけねば、それが何より――」
と、さすがに大腹中らしく言って、
「それよりも、これが震えている。早う、温かい着る物と、湯なり、茶なり持って来てくれるがよい」
妻女は、和らかもののどてらなぞを、誰かが運んで来て、着せかけると、いくらか人心地がついたようであったが、ふと、急に思い出したらしく、あたりを見まわすようにして、
「坊はどうしましたでしょう!坊が、見えませぬが――」
「おおそう言えば、庫前の座敷に寝ていたはずの乳母――誰ぞ、そこらで、すがたを見なんだか――」
と、広海屋が、訊ねる。
「わたくしが、火焔のひびきにびっくりして、目をさまし、大声で火事よ、火事よ――と、叫びを立てているうちに、乳母どのが、坊さまをお抱きして、廊下を駆け出したのはたしかに見ましたが――」と、手代の一人。
「そうか――それはよかった」
まず焼き殺されぬということが、わかったので、広海屋が、ホッとしたようにいう。
「火には捲かれずとも、こんな寒さに、屋外(そと)にうろうろしていたら、大事な坊やに、風を引かせてしまいます――誰か、早く、さがして来て――」
と、妻女は、なおも、気もそぞろに。
「女中たちは、どこにいるのやら――女たちの立ち退き場所へ行ったなら、坊も乳母(ばあや)も見つかるでしょう――早う、行って見て下さらぬか!」


一三

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母親は、きょろきょろと、あたりを見まわしながら、いかに広海屋がなだめても、しずまろうともせぬ。
「坊やを早く!坊やはどこへ行ったのだろう!ねえ、早く連れて来てくださいよ!」
その不安を唆(そそ)り立てるように、赤児と乳母を探しに行った小僧出入りも、なかなか戻っては来ない。
とうとう、主人までが、落ちつかなくなってしまった。
「一たい、抱き乳母はどうしたのだ?誰か、ほかを探して見ぬか?」
と、伸び上っていったところへ、手代ども女中の一団が、これも、気も狂おしげに、何やら叫び立てている、年増おんなを、手を曳き、袂を取って近づいて来る。
見れば、乳母のお種、髪も褄も乱れがちに、こんなことを口走っているのだ。
「お坊ちゃまあ!お坊ちゃまを、あたしから取ったのは誰だろう!あたしがお抱きしていたのではあぶないといって、取って行ったのは誰だろう!お坊ちゃまあ!お坊ちゃまあ!」
「一たい、この始末はどうしたのか?」
と、さすがの、広海屋、わが一人むすこ、世取りのうない児のこと、サッと、顔いろが変って訊ねた。
手代の一人が、
「何ともはや、妙なはなしでござります。お種どのの申しますには、煙に捲かれて、廊下まで来ると、ゆき会った一人の男――あぶないゆえ、お坊ちゃまを渡すがよい――と、無理に、お種どのから奪い取るようにして、そのまま、お坊ちゃまを抱いて、どこへか行った――と申しますので――」
「その相手が、誰とも見当がつかぬというのか?覚えていないというのか?」
と、広海屋が、焦ら立たしげに――
手代は、笑止げに、
「それが、何分、動顚した折――男とのみしか、覚えてはおらぬと申します」
「と、いっても、うちの中に、他人さまが、はいって来ているはずはなし――火事が大きくなってからは知らぬこと――あのときなら、店の者たちばかりの筈だ。さあ、急いで、探して見ろ!店の者で、誰か、見えないものはいないか!」
広海屋は、真赤な火の手のひかりをうけながら、靑ざめて叫んだ。
――ことによったら、一つぶ種――救おうとした者と一緒に、炎に捲き込まれてしまったかも知れぬ。
と、いう予想に、胸もつぶれるばかりである。
母親は、広海屋の袖をつかんで、
「ごらんなさい、申さぬことか!このごろ坊やが夜泣きをして、考え事に邪魔だというて、あたち達の寝間から遠ざけ、乳母と一緒に、庫前なぞへ寝かしたから、こんなことになりました。万一、坊やが、火に焼かれて死にもしたら、あたしは、恨みます。お前をうらみますぞえ――お前が、何もかも悪いのじゃ――坊やが、若しもいなくなってしまったら、どうしよう!どうしよう!」
――うわあ!うわあ!
と、とりみだして、泣き叫ぶ内儀(おかみ)のすがたは、いじらしさの限りだ。
「ま、落ちつけ!居ないはずはない!これ、みんな、火事なぞどうでもいい!坊を探してくれ、坊を抱いて見えなくなった男を探してくれ!」
広海屋は、とりすがる女房を、突きはなしもし兼ねて、呼びつづけるのだった。


一四

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広海屋、その人までが、わが子の失踪に、平生の落ちつきをなくして、何やら、荒々しく、癇癪ごえで叫び立てているのだ。暗い予感が当って、ことによれば、二度と可愛い顔が、見られなくなったかも知れぬと知った、内儀(おかみ)、もはや、真正の気違いだ。
彼女は、立ち上って、髪をふりみだし、目をいからせて、これも気も狂わんばかりの、乳母を目がけて、つかみかかるようにして行くのだ。
「これ、お種!あの子をどこへやった!坊やをどこへやった!誰に渡した!お種、さ、言っておくれ!早く言っておくれ!さては、お前、日ごろ、あんなに目をかけていたのを忘れて、坊やを、火の中へ置き逃げして来たのだな!焼き殺してしまったのだな!」
と、むしゃぶりつこうとすると、相手の乳母これも、気がうわ釣ってしまって、主か他人か、見境もなくしたと見えて、あべこべに嚙みつくように、
「おお!お前さんか坊ちゃまを盗んで行ったのは!食べてしまったのは!さあ、坊ちゃまを返せ!坊ちゃまを返してくれ!おのれ!返さぬか」
と、飛びついて、嚙みつこうとする。
それを引き分けるに、懸命な女中たち。
「わあん!わあん!」
「ひい、ひい、ひい!」
と、引き分けられて、泣きわめく、女房、乳母!
主人(あるじ)は主人で怒号している。
「早う捜し出せ!早う!坊を捜し出せ!えい!火の中へなり水の中へなり飛び込んで探し出せ!手ぬるい奴等だ――貴さまたちが、出来ぬなら、わしが行(や)つ!どっ、放せ!」
鳶(とび)の者、手代たちが、しっかと抱きしめていても、それを擦り抜けて、今や、淡々と燃えさかっている、火の中をめがけて突進しようと狂いもがく。
こうして、凄惨な光景を、小高い築山の、灌木の蔭から、じっとみつめて、にたりにたり、白い歯をあらわして、笑っているのが、いつの間にか、ふたたび、広海屋の屋敷うちに忍び入って来た、長崎屋だ。
火事と、赤児の行方不明とに、自分の方を注意するものなぞあろうはずがないと安心してか、からだを半分以上のり出して、真紅な火光を、すさまじく引き歪んだ顔に受けて、いわば赤鬼の形相――声に出して、嘲りつぶやいている。
「は、は、は、ざまを見ろ!広海屋が、あばれおるわ!女房が狂いおるわ!気の毒だな!可哀そうだな!おぬしのように、鬼よりも、けものよりも、情よりも、涙のない奴も、友だちを売って、破滅させ、おのれ一人高見の見物する奴も、やっぱし子供は可愛いか?は、は、は、ほ、ほ、ほ、わめきおるわ!あばれおるわ!もっともっと、さわげ!狂え!もっともっと、苦しめ!もがけ!泣け!畜生!まだまだ泣き足りぬわ!もだえ足りぬわ!は、は、は、ざまろ見ろ!」
彼自身は、まるで、狂気もしておらぬように、冷徹な審判者でもあるように、みつめつづけて、額を叩いてよろこんでいる。
「へ、へ、へ、どんなに騒ごうとあの赤児が、帰って来るものか――このおれが、盗み取って、とっくに、賽の河原の婆さんの使に渡してしまってあるのだ。へ、へ、へ、なんと、広海屋、こたえたか――胸に、胆に、たましいにこたえたか!ひ、ひ、ひ、へ、へ、へ、――ざまあ見ろ!」


一五

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嘲けり、蔑み、憎み、呪い、目を剝き出し、歯を現し、片手の指を、獲物を摑もうとするけだもののように鈎(かぎ)なりに、曲げ、片手に、浜川平之進の血しおで染んだ短刀を握り締めた、長崎屋、相手に気取られようが、気取られまいが、そんなことは少しもかまわずに、今は、大ごえに、ゲラゲラと、不気味な笑いをひびかせるのだ。
「黄金(こがね)のためには、どんな友だちに、どんな煮湯を呑まそうと平気な広海屋――黄金の力さえあれば、人間、買うことは、何でも出来ると、高を括(くく)っている広海屋――へん、どれほど、黄金を積んだとて、可愛い子はかえらぬぞ!この長崎屋、ちゃんと、奪衣婆(だつえば)の手に渡してしまったのじゃ!ふ、ふ、ふ、あの子が生れたときには、有頂天によろこんで、これで、広海屋万代だなぞと、大盤ぶるまいをしおッたな!あれからたったまる一年、へ、へ、へ、もうそななに子なし、もとの杢阿弥(もくあみ)――思い知ったか、この長崎屋、仇をうければ、仇をかえさずには置かぬ男じゃぞ!」
広海屋夫婦の、狂態が、つのればつのるほど、いよいよ面白さ、うれしさ、小気味よさに堪えかねて来る長崎屋、とうとう、いつか築蔭から、すッかりすがたをあらわしてしまったのは愚か、血ぬられた短刀を振りまわしながら、だんだんに近づいてゆく。
はじめて、彼の狂笑に、気がついた一人の手代、ホッとばかり、目をみはって、
「おのれ!何物だ!」
と、大声にとがめる。
夫婦をかこんだ一同の目が、一ように三郎兵衛にそそがれる。
しかし、一目では、何人にも、それが長崎屋だと、わかろうはずがない。散らし髪同然に、鬢髪(びんぱつ)は乱れ、目は洞(うつ)ろに、顔は歪(ゆが)み、着物の前はすっかりはだかって、何ともかとも言いあらわしようのお無い体らくなのだ。
「何奴(どいつ)だ!手めえは?」
と、気早やな鳶の者が一人、この気味の悪い闖入者(ちんにゅうしゃ)の方へ飛んで行ったが、手にした匕首――しかも血みどろなあのを眺めると、
「わあッ!」
と、叫んで、あとじさりをして、
「貴さまあ、人を殺して来たな!」
「ふ、ふ、ふ、ふ――おのれ等に用はない――広海屋に逢いに来たのだ――」
三郎兵衛の皺枯(しわが)れた声――
番頭が、広海屋を、押しへだてるように、
「旦那、あっちへまいりましょう――血のついた短刀を、あの変な奴は持っているようで――あぶのうございます」
「それでは、浜川の旦那を殺ったおはあいつだな――」
と、一人が、口走ると、
「ナニ、浜川さまがどうなされた?」
と、狂奮の中にも、広海屋が訊ねる。
「実は、加地の揚句(あげく)が、坊ちゃまのこともあり、申し上げずに置きましたが、つい、店の前に浜川平之進さまが、何ものかに、脇腹を刺されて、お果てなされていでになりましたので――」
「何だと!浜川さまが!うちの前で!そりゃ又、何ということだ!」
と、叫んだ、広海屋の前に、フラフラと近づいて来た三郎兵衛――
「広海屋、そのわけか?あいつが、おぬしに、忠義立てをしようとしたからよ」
「誰だ!お前は?」
と、広海屋は、日ごろの面影をすっかりなくした、三郎兵衛をみつめて目を睜(みは)った。


一六

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「ハ、ハ、ハ、広海屋――それから、手代衆、これだけ大きな篝火(かがりび)を焚いてやっても、家庫(いえくわ)を焔にしてやっても、この明るさでも、わしが判らぬか?わしが誰だか、わからぬか?」
と、長崎屋は、歪み曲った顔を突き出すようにして、
「さてさて明きめくら、このわしが、わからぬといったら!」
ぐっと、差しつけるようにした、その形相のすさまじさ!
広海屋は、飛びしさるようにして、
「おッ!おのれは、長崎屋!」
「ほんに、長崎屋の旦那じゃ――こりゃ、又、どうしたこと!」
と、手代、小僧も、あっ気に取られる。
広海屋は、恐怖の声をふりしぼって、
「さては、おのれ、浜川さまを手にかけた上、この家に、火を放(つ)けたのも、われだな!」
「う、ふ、ふ、いかにも、おれじゃ、長崎屋じゃ――な、わかったか?業を積みおって、今更何を!ふ、ふ、ふ――わしが、人を殺したければ、どうじゃというのだ?火を放ければ、どうじゃというのだ?それよりも、いのちよりも家庫よりも、おぬしには、もっと大事そおうな、あの、やにッこい生きもの――一つぶ種――あれが、ほしゅうはないかい?これ広海屋、ほしゅうはないかい?」
と、嘲けり叫ぶ。
「おのれ、憎さも憎し――それ、みんな、こやつをからめ取って、さんざんに打った上、お役人に突き出せ!」
広海屋が、おめくのを、妻女が、泣きながら、押しとどめて、
「まあ、あなた、しずまって下さいまし、みんなも手出しはなりませぬぞ」
と、いって、長崎屋の前に、地べたにひざまずいて、
「これ、長崎屋さま、三郎兵衛さま――どんな恨みが、主にはあるかも知れねど、赤子には、罪というてあるはずはなし、どうぞ、お腹が癒(い)えるよう、わたしの身を存分になされて、あの子だけは返して下さるよう――お返し下さるよう――」
「は、は、は、その御愁嘆(ごしゅうたん)は、ごもッともごもッとも」
と、芝居がかりで、三郎兵衛は、あざみ笑って、
「さりながら、聴かれよ、御内儀、あれも敵の片われ、どうも、お言葉にしたがうわけにはなりませぬ」
「でも、一体、あの子をどうなされて?」
若しや、やはり、たずさえている匕首で、咽喉ぶえを切り割かれてしまったのではないか――と、内儀は、必死の想いでたずねる。
「どうなされたと言って、たった今も言うとおり、通り合せた賽の河原の奪衣婆に、渡してつかわしたほどに、今ごろは小石を積んで、あそこんでいるにちがいない」
と、三郎兵衛は、けろりと答える。
「それなら、そなた、手にかけたのでは、ありませぬな?」
「つかみ殺そうとしたなれど、ほしいというて、奪衣婆がねだったゆえ、つい、河岸でくれてやった」
「これ、みなの衆――どうやら、長崎屋どののいうことは、ほんとうらしい。さあ、早う、手わけをして、この人から子供を受け取った人を、さがして来て!どんな礼でもその人にしましょうほどに――」
妻女が足ずりしてわめくさまは、ことわりせめて道理に見えた。


一七

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広海屋内儀は、主人と、長崎屋との間柄が、現在どのように悪化していようと、三郎兵衛が今はもう火つけ、人殺しの大罪人となっていようと、また、哀れや宿業の報いるところ、狂人となり果ててしまっていようと、そんなことを考えて見るひまはない。
ただ、大地に跪ずき、額で地べたを叩き、遂には、血の匕首を持っている三郎兵衛の、物ずごい表情に怖れもせず、裾をすら摑んで哀願しつづけるのだ。
「長崎屋どの!三郎兵衛どの!この広海屋一家に対して、どのようなお恨みを持っておいでかは知りませぬが、あの子には罪はない!あの子が、悪さをする筈がない!あの子をお返しなすって下さいまし、家も惜しくはありませぬ!この、わたしが、殺されようと、助かろうと、それもかまいませぬ!あの子だけを、お返し下さいまし!」
「は、は、は!泣きおるわ!わめきおるわ!うらみがあったら、そこにおる広海屋に言え!亭主に言え!」
と、こんな言葉だけは、すじが立つことをいって、長崎屋は、ふたたび、ゲラゲラ笑いになって、目をあげて、闇空を焦す炎が、大波のように、渦巻き、崩れ、盛り上り、なびき伏せ、万態の変化の妙をつくしつつ、果しもなく、金砂子を八方に捲き散らすのを眺めながら、
「ほほう、ほほう、黄金の粉が、空一めんにひろがって行くぞ!広海屋、見ろ、おぬし一代の栄華、贅沢――日本一の見物じゃぞ!すばらしいのう!これを見ながら一ぱいはどうじゃ!酒を持って来い!は、は、酒肴の用意をととのえろ!ほほう!ほほう!何ともいえぬ眺めじゃなあ」
「おのれ、何をぬかすぞ!それ、この人殺し!火つけの罪人、早う、お役人を呼んで――」
と、番頭の一人が、手代どもにいうのを、フッと、何か、思い当ったような広海屋、狂奮の中にも、キラリと、狡(ずる)く目をはたらかせて、
「待った!お役衆に、このことを、お知らせするのは、まあ、待った!」

「じゃと、申して、みすみす、この科人(とがにん)を――」

「待て言ったら!」
と、止めて広海屋は、手鍵を持った出入りの鳶に、
「おぬし達、この長崎屋を、くくり上げて、ソッと、土蔵(くら)の中へ、入れて置いてほしい」
「でも、お役人のお叱りをうけては――」
「よいと申したら――気が昂ぶっているによって、落ちついてから、わしが、必ず自首させる――さあ、あまり、人目に立たぬうち――」
広海屋はセカセカしくいった。
と、いうのは、長崎屋を、このまま、検察当局の手に渡したなら、長崎以来のもともとの悪事をべらべらと、しゃべり立てるは必定、それこそ、わが身の上の一大事と、ひそかに監禁して、誰知らぬ間に始末をつける考えが起きたからだ。
鳶の者は、そう聴くと、これは、悧巧(りこう)な江戸ッ子流――三郎兵衛の側に近づいて、鉢巻を外して、
「こいつは、お見それいたしやした。長崎屋の旦那でごぜえますね。あっしは、鳶の、八と申しやすが、どうも大した御機嫌さんで――」


一八

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いなせに、腰低く、べらべらと並べて立てて近づく鳶の者、片手に、こぶしを固めて、いざと言わば、張り倒そうとしているのだが、気の上ずつた、心の狂った長崎屋には、それが、気取れない。
釣り込まれたように、血まみれの短刀を持った手をぶらりと下げたまま、額を突き出すようにして、
「おや、おまえさんは?とんと、見馴れない人だが――」
と、うっとり言う。
若者は追従笑いをして、
「それは旦那、あっし達は、吹けば飛ぶ、どぶ浚(さら)い、あなたさんは江戸で名高い大商人、あッしの方では、そりゃあもう、御存知申上げておりますんで――」
と、いって、ますます近づいて、さすが、大胆者、長崎屋の短刀を持った手の二の腕を、やんわり、いつか、つかんでしまって、
「ねえ旦那、今夜はお騒々(そうぞう)しいことで、さぞ、お疲れになりましたろう――さあ、あちらで、御休息の用意がしてありやすから、お供を申しやしょう」
妙なもので、凶暴な、けだもののようでもあれば、また、無邪気な子供のようでもある。俄気違い、たちまち、
「おお、そうか?なるほど、咽喉もかわいたし、足もくたびれた。じゃあ、一つ、御造作になろうかな?」
と、曳かれるままに、立ち並んだ、いろは蔵の方へ歩き出す。
その三郎兵衛が、たしかに、塗り込めの中に、封じ込まれたとまで、血走った目で見届けた広海屋与平――
「ざまを見ろ!人殺し!火放(ひつ)け!かどわかし!」
と、嚙みしめた歯の間から、うめくように叫んだが、
「よいか、みんな、あいつを蔵から出すことはないぞ!坊やがかえるまで、あいつを出すことじゃあない――いいえ、坊やがかえっても、あいつだけは、あそこから外へ出してはならぬ。このわしが、成敗してやる。何という人鬼だ!」
「わああ!かなしいのう!かなしいのう!わああ!わああ!」
と、いまだに、地にまろび伏して、泣きわめく女房――
広海屋は、そのあわれなすがたを、今は腹立たしげに、睨めつけて、足をあげて、蹴とばしもしかねぬ形相――
「うるさい!そなたが、わめかずとも、わしの心まで、狂いみだれてしまいそうじゃ――坊の行方は知っての通り、多くの人たちに頼んで、探し求めているではないか――殺されていない限り、天にかけり、地に潜っても、かならず、見つけ出さずには置かぬのじゃ。そなたが、泣いたとて、何になる。泣きやめ!泣きやめ!泣きやみおらぬか!」
「じゃと申して、かなしいのう!かなしいのう!これを泣かずにいられる、お前こそ、鬼じゃ、鬼じゃ!かなしいのう!」
広海屋は奥歯を、ギリリと嚙みつづけていた。
さすがの猛火も、油樽(たる)がはじけて、油が行き渡ってたせいか、却て、速かに大きな店づくりを焼きつくして、そして、だんだん、下火になって行った。
広海屋は、ガクガクと、全身に悪寒(おかん)を震わせずにはいられなかった。何かしら、自分達、長崎以来の一味徒党の上に、恐ろしい破滅悲惨の運命が迫って来ているように感じられはじめたのである。


一九

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こちらは、広海屋いろは庫の、どん尻の、河岸添いの一棟の二階に投げ上げられた、長崎屋三郎兵衛――
「これ、若い衆、約束の、酒は持って来ぬか?茶はどうじゃ?咽喉がひりつく。声が苦しい――これ、何か、飲みものを、早う持て来い持って来い!」
と、呼べど、叫べど、返事もなく、もとより塗り籠めの中、火事場の騒ぎさえ、ひびいても来ず、しんかんと、ひそまり返っているままに、わめきつかれて、いつか、睡魔が、うとうとと襲って来て、そのうちに、我れ知らず、眠ってしまえば、狂も、不狂も、おなじ夢の境。
だが、その夢の中でさえ、もはや、ただ美しい、ただ優しい、ほんのりとした幻しは漂うては来ぬ。それは、遠い遠い、少年の日に、置き忘れてしまった。情なや、五欲煩悩の囚人(とりこ)である身は、やはり、現(うつつ)も少しも変らず、恐ろしい。激しい不安や恐怖の餌じきにならずにはいられぬのだ。
彼は、見た――こんな夢を。
おのが放け火の、すさまじい炎の渦に、押し捲かれそうになって、逃げに逃げて、やっと辿りついた崖の上、日の下は、鰐(わに)も棲みそうな血潮の流れで、それが、フツフツと沸きたぎっているから、追う火先きをのがれるために、それに飛び込むこともならぬ。
が、どうにも、背すじが焦げつきそうになる、苦しまぎれ、ざぶんと躍り込んだ、熱い流れ――ぬらぬらと、五体にぬめりつき、目口にはいろうとする血潮を、やっと吹きのけて、対岸に上ると、足の裏を、突き刺すばかり尖った、小石原――その小石原の果てに、こちらに、背を見せて、小さな子供――それが、その尖った小石を、杉なりに積み上げては、揺りくずされ、積み上げては、揺り崩され、それでも何か、消え消えに、うたって、積み重ねている。
歌うを聴けば、儚(はか)なげに――
こん、こん、小石は、
罪のいろ。
つん、つん、積った
罪とがの
数だけ積まねば
ならぬ石。
永劫つきせぬ
この責苦、
こん、こん、小石は罪のいし。
何となく、可哀そうになって、つい、うしろに近づいて、何かいいかけようとすると、子供の方で振り返ってニーッと笑ったが、その顔が、盗んで、遣り捨てにした、広海屋の赤んぼう――
――やあ、おのれ!迷い出て、恨みをいうか!
と、睨めつけようとした途端、その子供の顔面が、急に、妙に歪んで、ぐだぐだと、伸び皺ばんだと思うと、浅間しく、ねじくれた、黄色い老人の顔――
――見たような?どこかで、いつか?遠い昔――
と、考えをまとめかけた刹那、思いがけなく、その顔が、もぐもぐと、土気いろの唇をうごかして、
――久しいのう、三郎兵衛――
と、いいかけたようだ。
長崎屋、そのとき、ハッと思い当って、両手で顔を蔽(かく)そうと、もがいたが、手足が緊縛されて、それさえならぬ。


二〇

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赤ん坊の顔を思ったのが、見る見る変って、伸び歪んで、世にも苦痛に充ちた老人のそれとなった、その夢裡(むり)の変化(へんげ)が、両手で顔を蔽(かく)して、恐怖に五体がすくみ、声を出すことも出来ぬ長崎屋を、嘲けるが如く、追いかけて、呟くのだった。
「わからぬかな?忘れたかな?このわしの顔を――」
ぐっと、顎を突出すようにして、
「いかに忘れっぽいそなたでも、まさか、わしを忘れもしないがな?」
「わ、わすれはせぬ――わすれはしませぬ――あなたは、もとの――」
言い訳をせねばならぬような気がして、長崎屋、ここまで言いかけて、舌が硬ばってしまった。
「もとの?もとの、何じゃ?わしは、そなたの、もとの、何じゃ?」
「も、もとの、御主人でござります」
と、やっとの思いで、三郎兵衛は、答えて、逃げ出そうとしたが、膝がしらの力が抜けて、動かれぬ。
「もとの主人?うむ、覚えていたか?して、その名は、何と言うた?忘れたかな?」
「いえ、いえ、何で忘れましょう――あなたは、松浦屋の旦那さま」
「ひ、ひ、ひ、なるほど、思い出したな?よくぞ思い出しおったな?その松浦屋、そなたの手引きで、奸(よこ)しまの人々の陥穽(おとしあな)に陥り、生きながら、怨念(おんねん)の鬼となり、冥府(めいふ)に下って、小やみもなく、修羅の炎に焼かれての、この苦しみ――おのれ、この怨み、やわか、晴らさで置こうや!三郎兵衛、おのれ、いで、魂を引ッ摑んで、焦熱地獄へ――」
と、いい表わし難い、夜叉とも、たとえようのない異形を見せて、長い鈎爪を伸ばして、つかみかかろうとするのを、
「わあッ!おたすけ!」
と、突き退けようとして、身じろぎのならぬ哀しさに、大声をあげた、その拍子に、やっと、目が醒めた、長崎屋だ。
油汗が、顔をも、肌をも、水を浴びたように湿(ぬ)らして、髪の毛さえ逆立って、醒めて、かえって、夢の中よりも怖ろしく、気味わるく、今にも、旧(もと)の主人の怨霊(おんりょう)に、取り殺されでもするかのように、
「もう、駄目だ!あの方が、姿をあらわして、お責めになるようではもう駄目だ!怖(こわ)や、怖や!」
と、叫びながら、どうにかして、この蔵二階から、のがれだそうとあせりもがいて、部屋を、ぐるぐると走りまわりはじめた。
壁に突き当る、壁を押す、戸に打ッつかる。戸を蹴り飛ばす、窓を見つける、鉄網、鉄格子を拳(げんこ)でなぐる――が、どうして、それが壊れるものか!開くものか!いたずらに、手の生爪、足の指先を傷つけて、だらだらと、血がしたたるのを見るばかり。
「怖や!怖や!わしは、一人ではおられぬ。身の毛がよだつ!おおい!広海屋どのう!浜川どのう!横山どのう!土部さまあ!土部三斎さまあ!わしばかり、こんな恐ろしい目に逢うわけがない。わしを助けてくれ!お助け下され!松浦屋どのが、わしを責めます――わしを嚙みます――引き裂きます!早う助けてえ、みなの衆、同じ悪事をして来ながら、わしばかりを怨ませようとは!ああ、堪えがや、怖ろしや!」
わめき立てて、部屋中をのた打ちまわる、長崎屋、やがて生死も知らず、気を失ってしまうのだった。


二一

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そこで、生きながら、鬼に化したような、長崎屋三郎兵衛から、河岸の暗まぎれに、広海屋の赤ん坊を受け取った、雪之丞は、どうしたろう?
彼は、三郎兵衛が、赤子の咽喉に、手をかけて、摑み殺さんばかりの有さまを見て、われ知らず、狂い果てた相手を撫(だま)して、敵(かたき)の子をわが手に抱き取りはしたものの、そして、西も東もしらない、頑是(がんぜ)なく、いたいけなこのむつきの子供に、罪も怨みもないと、ハッキリ自分にいい聴かせはしたものの、さりとて、そのまま、広海屋一家の手に戻してやる気にはなれなかった。
かごで、わが宿を差して戻りながら、赤ん坊を抱きしめて、乳母のふところと思っているのか、スヤスヤと、眠りはじめた、ふッくらした寝がおに見入りつつ、彼は、詫びるように、心につぶやいたのだ。
――坊や、堪忍おし――ほんとうは、このまま、お前を、おふくろさんの胸に、かえして上げるのがよいのかも知れぬ。けれども、それは、わしには、出来ないのだ。お前には、すまないと思うけれど、お前の親御の、広海屋に、どうしても、この世で、怨みをかえさねば、死なれぬ身――その広海屋に、苦しい、悲しい想いをさせるには、お前をあずかって置かねばならぬ。お前の親御は、わしに取っては、仇なのだ、敵(かたき)なのだ。わしの父母の家をつぶし、辱しめをあたえ、狂い死にをさせたほどの人なのだ。お前も、そういう人の子に生れたが因果――そのかわり、わしは、いのちに代えても、お前に、辛い目は見せぬ、あたたかく、大切に育ててやる――わしの遣り方を大きくなって考えてくれば、お前もうなずいてくれるだろう――そうじゃ、そうじゃ、いつまでも、わしのいうままに、スヤスヤと、ねんねしておいで。わしも、心が責めるが、しかし、お前を、このまま、ふた親の側へは、どうも返せぬ。
赤子を、責道具に使うことの、よしあしがいってられる場合ではないのであった。
さて、宿に着くと、出迎えた女たちは、まず、雪之丞のいつに変った身なりに驚かされた――どこの長屋のおかみさんかと思われるすがたに、びっくりした。それから、ふところに抱いている、赤ん坊に好奇の目をみはった。
――若親方は、ことによると、ほんとうに女子で、こんなかわいい赤ちゃんが、あったのかしら?
なぞと、口の中にいって見た者さえあった。
内儀がいぶかしんで、たずねると、ニッコリと、さり気なく、雪之丞は笑って、
「ほ、ほ、ほ、さぞびっくりされましたろうが、実は、今夜、米屋のぶちこわしとやらがあると承り、物ずきに、現場が見とうなり、わざと、こうしたなりをして、駆けつけましたが、いやもう恐ろしい大騒ぎ、胆も身に添わぬ気がしましたので、すぐに戻ろうとしますと、道ばたに、捨子――寒さに、泣くこえが、あわれでなりませぬで、拾い上げてまいりました。ね、かわいい子でござりましょう」
「まあ、では捨子で――こんなに、やわらかい寝巻を着せていながら、どうしたわけで、道ばたなぞへ――まあ、ほんとうにかわいらしい――抱かせて下さいましな」
子無しゆえに、一そう子煩悩らしい内儀が、手をさしのべて抱き取ると、赤子は夢を破られて、むずがって、おぎゃあおぎゃあ泣き出すのだった。
雪之丞は、内儀に、乳母の世話をたのんでホッとした。
 

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