暗刃(あんじん)

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ここは、浅草山ノ宿、雪之丞が宿の一間、冬の夜を、火桶をかこんで、美しい女がたと、ひそひそ物語っているのは、堅気一方、職人にしても、じみすぎる位の扮装(なり)をした象牙彫師の闇太郎――
「どッち道、いよいよ、枝葉の方は、おのずと枯れて来たわけだね」
と、闇太郎が、いっている。
「浜川の奴は、抜きも合わしねえで、何ものとも知れぬものに、殺されたというので、これは、土部の一味が、骨を折ったにも拘らず、多分、倅まで、取りつぶしになるだろうという事さ。いかにのん気な老中以下の役人どもとて、大凡(おおよそ)、浜川たちのして来たことに、気がついているらしく、これを機会(しお)に、絶家させるのだろうといっているがね――」
「それにしても、広海屋が焼けている最中、塀を越して忍び込んだ、浜川殺しの当の長崎屋――一たい、どうしてしまったのでござんしょうね?」
と、雪之丞、気にかかるように、伏目になる。
「そいつが、おめえに頼まれてから、手を代え品をかえ、探って見ているのだが、どうにも、見当がつかねえのさ」
と、小首をかしげるようにした大賊。
「おお方、おれのかんげえじゃあ、広海屋の悪だくみで、火の中に投げ込まれたか、それとも、ひょッとしたら、河岸(かし)から舟に載せられて、海へ突き流されたか――たった一ツ、生き残っているとすれば、倉庫(くら)に閉じこめられているものか?この方も、そのうちにゃあ、調べ上げてしまうがね――」
「どうぞ、お願いいたします」
と、雪之丞は会釈したが、
「それにしても、おっしゃるとおり、だんだん枝葉が枯れてゆきませば、大根を絶つのも難くはないと思いますけれど――一がいに、根をねらい、末々を討つことがかなわねば、これまでの苦心もと存じ、怺えている苦しさも、長いものでござりました」
「おお、これで残っているのは、武家で土部をのぞけば、横山ばかり」
と、闇太郎が、口をはさむ。
この二人、その横山五助、時も今夜、あの恋に狂った浪路のために、一息に殺されてしまったとは知る由もない。
「それもおッつけ――」
と、雪之丞、含笑(わら)ったが、その笑いが凄い。
「だが、やっぱし、油断がならぬのは、あのお初の奴と、門倉平馬だ――お初は、おめえが、今でも諦め切れねえから、感づいている大望についちゃあ、平馬にも洩らしてはいめえが、でも、あいつ、おめえを殺すか恋を叶えるか、二つに一つと、思いつめているんだから、油断はならねえ」
雪之丞は、白い顔を伏せる。
彼は、因果を感ぜざるを得ぬ――敵の娘の浪路の、いのちかけての狂恋――おたずねものの女賊の必死の恋――いずれも、あわれはあわれだが、どうにもならぬ成行だ。
と、屋外(そと)で、深夜、暁闇(ぎょうあん)のしずけさを破って、
――ドン、ドン、ドン、ドン!
と、旅宿の雨戸が鳴る。
ハッと、身を起し、耳をすました闇太郎、みじん、油断のならぬ身の上だ。
――ドン、ドン、ドン、ドン!
「何だ?今時分?」
大賊は、囁いて、階下(した)の容子に耳をそばだてた。


立ち上って、階下をのぞき下すように、耳をかたむけた闇太郎――
「何だって!妙なことを言っているようだぞ」
と、つぶやいた。
つぶやいたも道理――まだ、起き出さぬ家人を、目ざまそうと、
――ドン、ドン、ドン、ドン――
無遠慮に雨戸を打ち叩きながら、太いこえが、呼ばわっているのだ。
「このおうちに、大阪役者が、泊ってはいないかな!大阪役者、雪之丞――」
闇太郎は、振り返って、
「何かと思ったら、おめえをたずねて来たものがあるらしいぞ――おめえの名を言っているが――」
「いまごろ、何人が?」
「そら、言っているだろう――聴くがいい」
外のこえは、つづいている――
「大阪役者の雪之丞どの、用のあるものが来たのだ――」
「おッ!なるほど、たしかに、わたしに――」
と、雪之丞の、美しい眉がひそむ。
「待っていなせえ。おれが、のぞいて来てやろう」
深夜の、雨戸の音――もしや、自分をいつ何どき襲って来るかわからぬ、怖ろしい敵の手が、迫ったのではないかと、渡世柄、ハッと、心を引きしめたらしい闇太郎、そうでないとわかると、すぐに階下(した)へ出て、やがて、はしごを表口の方へ下りて行った容子だ。
寝入りばなの家人は、まだ、起き出さぬらしい。
雪之丞も、おのずと、聴き耳が立つ。
階下のこえ、闇太郎が出て行ったので、低くなったので、ハッキリとしなくなったが、気になるので、雪之丞、はしごの下り口まで出て行った。
すると、屋外(そと)の、太いこえが――
「――でね、どうあっても、その、雪之丞という人に、今夜中にあわなけりゃあ、生きるの、死ぬのと、いうわけなので、おいらあ、ただ親切で、ここまでつれて来たのだが――」
「で、その女子(おなご)という人のお名前は、おところは?」
と、闇太郎、すっかり職人になって、丁寧な口をきいている。
「そいつがわからねえんでね――実あ、おれの方も、途方に暮れていますのさ」
と、屋外。
闇太郎が、嗤(わら)うように、
「困りますねえ――そんな方を、よるよ中引ッぱッておいでなすっちゃあ――こちらは、役者渡世、そんなお人にかかり合っていては、夜の目もろくろく合えませんよ。へい」
「何だって!じゃあ、おいらが、そのかわいそうな女子を、連れて来たのが、迷惑だって言うのかね!」
「まあ、そんなものでございます」
闇太郎が、こんなに言うのも、冗談沙汰ではないので――雪之丞にも、お初という、今は大敵のようなものがいる。その方から、どんないたずらを、仕掛けて来ないともわからないのだ。
屋外(そと)の声は怒った。
「何だと!迷惑だと!人でなし!てめえが、かわいそうな女のすがたを一目見たら――おい、てめえ、当人か、番頭か!」
と、わめくと、闇太郎、そのとき、
「おや、おめえの声にゃあ、聴きおぼえがあるようだが――」


――たしかに聴き覚えのある声だ――
と、闇太郎が、思わず、そうつぶやいたとき、戸外の相手も、ギクリとしたもののように叫んだ。
「ああ、そういゃあ、おまえさんの声にも、覚えがあるが――」
「誰だ?名乗れ」
「おッ!」
と、外の男は、わめいた。
「こいつぁいけねえ!おまはんは!」
逃げ足が立った容子!
闇太郎もハッキリと、今こそ思い出して、ガラリと、遠慮なく、雨戸をあけると飛び出して、
「おめえは、法印!何で逃げる――」
島抜け法印、まるで思いも懸けぬところで闇太郎に再会したので、尻尾(しっぽ)をつかまえられている相手――怖い相手――お初を捕え得ぬうちは、顔の合せられぬ相手――逃げようとして、足が動かず、立ちすくみになってしまったところを、闇太郎の、すばやい手が、グッと、腕をつかんだ。
「何で逃げる――法印!」
「親、親分、許しておくんなせえ!」
と、法印、白い息を吹き散らして、しどろもどろだ。
「貴さまあ、何だな、法印、あの女(あま)ッ子の――お初の奴の手引きをして、不細工に、夜よなか、この宿屋まで、引ッぱって来やがったのだな?」
と、闇太郎の声は刺すようだ。
「あの女、手をかえ、品をかえやがって、さもしおらしい娘ッ子が、恋に狂って飛び込んで来たもののように装いやがったのだな!馬鹿め!」
「冗、冗談じゃあねえ――親分――おらあ、あれから、あの女(あま)ッ子の行方をさがして、どうにかしておめえに詫びが入れてえと、夜の目も寝ずに、寒い寒い江戸の町を、それも、このおれが、大ッぴらいにゃああるけねえおれが、ほッつきまわっている気持を知ってくれたら、おめえは、そんなにまで、いわねえだろうに――親分、そりゃあ、全く、思いちげえだ」
と、島抜け法印、泣かんばかりのオロオロ声だ。
「いいや、そんな泣きごとで、胡魔化そうとしたって駄目だ――思いもかけねえこの宿屋に、ちっとは骨のあるこの俺が居合せたんで胆を抜かれて、いい加減な出たら目で、人をだまそうとしやがるんだ――法印、悪どすぎるから俺の方でもゆるさねえぞ!」
「い、ち、ち――」
と、法印の盤大づらが、闇の中で歪むのだった。
「そんなに、腕をつかまねえでも、逃げやあしねえ、ゆるめてくれ――」
「弱虫め!ちっとも力なんぞ入れてやしねえ――その弱虫が、何でまた、あんな女ッ子とグルになって、おいらほどのものに煮湯を呑ませようとしやがったのだ!して、連れて来た、お初は、どこにいるんだ?」
「お初じゃあねえよ――親分――お初なんかじゃあねえのだ――ふとしたことから、雲助に、ひでえ目に逢っている娘を助けて見ると、そいつが、この辺の宿屋に泊っている、上方下りの雪之丞という、役者に惚れて、何でも、気が狂っているらしいのよ。あんまり可哀そうだし、けえる家もねえようなので、よんどころなく軒別に、宿屋を叩いて、その雪之丞を探しているんだ。お初なんかじゃあありゃあしねえよ」
法印は、一生懸命にしゃべり立てた。


思わぬところで、顔と顔を見合せた、闇太郎と島抜け法印、宿屋の軒下の暗がりに、声はいくらか潜めながらも性急な、隙のない会話のやりとりだ。
「ふうむ、役者をたずねて、雲助にかどわかされた、あわれな娘をたすけたというのは、なかなか後生気が出たものだが、一てえ、その娘の身許は、何ものなのだ?」
「そいつが、何しろすっかり気が昂(たか)ぶって、取り止めもねえことばかりいっているので――大した高慢な口を利くだけで、わけがわからねえ――」
と、法印は、しょげて、
「何でも、舞台を見て気がふれた、芝居気ちげえに相違ねえ――人にさんざ苦労をかけながら、早う雪どのの、ありかを探してたも――早う逢わせや――と、来るんだよ」
「へええ――」
と、闇太郎は、笑いそうになったが、急に何を思い当ったのか、六(むず)かしげに眉を寄せて、
「して、その娘は、どこにいるんだ」
「あすこの横町にかごを置いて、おれが方々、宿屋を叩いているわけさ」
「どれ、一目、その娘をのぞいてやろう」
「親分がか?」
「うむ、まん更心当りがねえでもねえのよ。まあ、逢って見ねえことにゃあ――」
闇太郎は、三斎隠居のまなむすめ、大奥で飛ぶ鳥を落すといわれた浪路が、すがたをかくしてしまったことを知っている――その失踪の原因についても、雪之丞から打ち明けられている。
彼としては、恋に狂い、恋に生き、恋に死のうとして、一身を牲(にえ)にしてはばからぬ、その浪路という娘の、激しい執着の心根を、あわれなものに思わぬことはなかったのだ。
同時に、どこまでも雪之丞が、彼女を愛を、払いのけて行かねばならぬ、胸の中をも察して、思いやりの腕組を、何度したかわからぬのだった。
――若し、法印が、救った、高慢な口を利く娘が、浪路とやらであったなら!
その時には、どうしたものか、まだ、咄嗟(とっさ)の場合、闇太郎にも決心はついていない。しかし、このまま知らぬかおで、突ッぱなすこともならない気がした。
「親分が、肩いれをしてくれるとなりゃあ、おいらあ、安心だ――大船へ乗った気になれる――さあ来て下せえ――あすこの軒下にいるのだから――」
法印は、闇太郎の、手を取らんばかりにして、物蔭につれてゆく。
かごが一挺――
法印が、近づいて、バラリと垂れを投げるように上げると、その中に、ぐったりとうつむいていた砕けかけた花のような、白い顔が、ハッとしたように、急に上って、
「お!雪どののありか、わかったかや!」
「これだ、親分」
「うむ」
闇太郎は、のぞいて見て、つと離れると、
「法印、この娘にゃあ、おれがちょいとゆかりがあるんだ――あとで判る――一時、このおれに、あずけてくれ」
「えッ!親分に、ゆかりのある女!これがか?」
と、法印は、呆気(あっけ)に取られた。
「うむ、まかせてくれ――なるほど、あわれな身の上の女なんだ」


闇太郎はもう一度、かごの中をのぞき込んだ。
「お娘御、お前さんのたずねる人は、あっしが、よく知っていますがね、今のとっころ、ちょいと、逢ってはならねえことになっています――そりゃあ、芝居をのぞけば、何でもねえのだが、お前さんも、人に顔を見られちゃあいけねえからだだろう――屹度、このあっしが、一度は逢わせて上げますから、今夜だけ、辛抱しちゃあおくんなさるめえか?ねえ、お娘御、何分、夜更けだし――」
浪路は、かごの中から、強い目つきで、闇太郎をみつめたが、大分、気が落ちついて来ているようだった。
「そなたのいやる言葉は、うそのないひびきがあるように思われます――屹度(きっと)、うけ合ってたもるのう――でも、あまり長うは待ってはいられぬような――何となく、もういのちの火がつきかけて来てしまっているように思われてならぬゆえ――」
と、それこそ、消えがての、ともしびよりも果敢(はか)なげな風情(ふぜい)でいった。
闇太郎は、わざと、笑って見せて、
「冗談いっちゃあいけませんよ。その若さで、いのちの火が消えるのなんのと――そんな、馬鹿なことを――」
と、いって、
「じゃあ、法印、このお人を、一あし先に、おれのうちへ連れて行っておいちゃあくれめえか――おれの細工場えよ――」
「あい、じゃあ、田圃へ、連れて行くが、おまはん。すぐに、あとから来るかね?」
と、法印は、かよわい女一人をあずかっているのが、心許(こころもと)なげだ――見かけによらぬ気の弱い奴。
「行くとも、すぐ、用をすまして行く。お娘御、狭くッて、きたねえが、あッしのうちで、ゆっくり手足をのべて、おいでなせえ」
かごの垂れを下げて、
「法印、そんなら、人目に立たねえように、たのんだぜ」
「あいよ」
淋しい、提燈の灯火(あかり)を見せて、遠のいて行くかごを見送って、闇太郎暗然として呟いた。
――おれにゃあ、どうも、あの娘ッ子は、憎めねえ気がしてならねえ、妙なめぐり合せで、わが産みの親を、かたきと思うものとも知らず、いのちがけで惚れてしまった、あの子に、何のとががあろう――あわれな女だ。どうにかして、たった一夜でも、みょうとにしてやりてえが、それもならぬか――浮き世だなあ――
闇太郎に言わせれば、彼自身もほんの行きすがりの邂逅(かいこう)が縁となって、こんなにまで打ち込まねばならなくなった雪之丞だ――まして浪路は、夢多き一少婦、身分も、境涯も、この恋のために忘れてしまったのも無理からぬことと思われ、そして同情(おもいやり)の念を起さずにはいられないのであろう。
宿屋ね戻って行くと、二階の雨戸が、細目に開けられていたのがピタリとしまった。
――太夫も、気がついていたらしいな。
二階へ上って、雪之丞の、白い顔と合うと、
「何ともどううも、あわれな人と逢って来たぜ」
「御面倒ばかりかけまして――」
と、雪之丞も暗くいった。
「いいや、そんなこたあどうでも――だが、どうも、こう見えておれという奴が、気が弱くっていけねえのよ。は、は、は」
笑いにまぎらして、闇太郎が、
「鬼の目に、涙ッて奴なんだろうな」


二人は顔を見合sるのを怖れるように見えた。
「まあ、仕方がねえや――不運だなあ、あの女一人に限ったことじゃあねえんだ――だがなあ、雪さん」
と、闇太郎は、思い込んだような調子で、
「お前のからだがあいたあとで、たった一度でも、ゆっくり逢ってやってはくれるだろうなあ――それだけは、約束して置いてもれえてえのだが――」
「おたがいに、いのちがありましたなら――」
と、雪之丞は、かすかに言った。
彼の魂としても、感じ易く、わななき易い――そして、これまで、押え押えして来て、一ぺんも、激しく攪き立てられたことがないにもせよ、青春の、熱い血しおは、心臓に漲(みなぎ)っているのだ。
――あのお人は、境涯のためにどんなに汚(けが)されているにしても、わるい方ではなかった。わたしを思ってくれるこころに、まじり気はなかった。
雪之丞の、胸も淋しい。
闇太郎は、急に、語調を、ガラリと変えた。
「は、は、は、とんだ幕が、一幕はさまってしまった。それじゃあ、又、あいましょうぜ。もう、風は、得手だ。潮は、一ぺえに充ちている――思い切って、帆をあげて、突っぱしりなせえよ。蔭ながら、じっとみつめているぜ」
「ありがとう、今度こそ、立派に大詰まで叩き込んでつとめて御覧に入れましょう」
と、雪之丞も、強いたほほえみで答えた。
すんありと、送って出た雪之丞を、あとにのこして、闇太郎、さも律儀な職人らしく、寒夜に、肩をすくめるようにして、出て行った。
部屋に戻ると、一間はなれた部屋の、菊之丞の、皺枯れた咽喉が軽く咳くのがきこえて、ポンと、灰ふきの音――
「おや、お師匠さま、お目がさめてでござりますか?」
「おお、たった今、醒めたところ――」
と、しずかに答えて、
「何やら、人が見えたようであったな――あの牙彫(けぼり)の親方のほかに――
ハッと、赧くなって、雪之丞――
「はい――」
「まず、これへ、はいるがいい」
かすかに炷(た)き捨ての、香の匂うたしなみのいい、師匠の寝間にはいると、菊之丞、紫の滝縞(たきじま)の丹前を、ふわりと羽織って、床の上に坐っていたが、
「たずねて来たのは、女子衆の使でもあったようだが――」
絶えず、愛弟子(まなでし)の上に、心をくばる、老芸人の心耳に狂いはない。
「は――はい」
と、雪之丞はうなだれて、
「不仕合せなお人が、たずねてまいったように見えましたが――」
「わしはな、何も、そなたの胸に、やさしい波がうごいたとて、それを、責めるのではありませぬぞ――が、女子のことが出れば、わしは、そなたの母御の、かなしい御最後のものがたりを、思い出さずにはいられないのじゃ。そなたの母御が、松浦屋どのの御零落に際して、あの土部三斎どののために、どのような虐(しいた)げをうけられて、御自害をなされたか――」
菊之丞の声は、掠(かす)れた。が、彼は語らねばなるまい――愛弟子の魂に、僅かでも弱まりがあらわれたのを見た瞬間には――


思いがけぬとき、菊之丞が語り出した、なつかしい母親の、長崎表での、悲惨な最後の物語――
その限りもなく、暗く、いたましい追憶を、今更、思いださせようと強いるのは、浪路の身の上があまりに哀れに、かなしく、それゆえ、彼女に対するおもいやりから、ほんの少しでも、雪之丞の復讐心に、弛緩(ゆるみ)が来てはならぬとの、懸念からであるには相違なかった。
しかし、母親の死に方がは、あまりに怖ろしかった。
「のう、わしが、事あたらしゅう、いうまでもないことじゃが――」
と、老いたる師匠は、煙管を捨てて、
「悪党ばらの、甘言奸謀(かんぼう)の牲となった、松浦屋どのの、御不運のはじめが、密輸出入(ぬけに)の露見――それと見ると、あの人々は、これまで、おだて上げ、唆(そそ)ち立てていたのとうら腹に、おのが身の、身じん幕をまたたく間につけ、父御(ててご)にのみ、罪を被せたばかりか、お取調べの間の御入牢中をいい機会に日ごろから、そなたの母御の容色に、目をつけていた、土部三斎――浪路どのの父御を、何ともいいこしらえて、のがれ得させようとの強面(こわもて)――そのときの、母御のおくるしみ、お嘆きは、いかばかりであったろうぞ!三斎の意をうけた同類が、どのように、母御をおびやかし、おどかしつづけたかも、思うてもあまりがある――とうとう、長崎一の縹緻(きりょう)よし、港随一の貞女とうたわれていた母御は、あたら、まだ成女(おんな)ざかりを、われとわが身を殺してしまわれたのじゃ――な、雪之丞、それを忘れはいたされまいな?」
「は――い――」
と、雪之丞は、とろけた鉛が、五臓六腑(ぷ)を、焼きただらせるばかりの苦しみを、じっと押し怺(こら)えながら、
「おぼえておりまする――母親の、あのむごたらしい死にざまを、子供ごころに、ただ怖ろしゅうながめました晩のことは、ありありと胸にうかびまする」
「そうであろ、いかに頑是ないころであったにいたぜ、生みの母御所の、知死期(ちしご)の苦しみを、ひしと身にこたえなかったはずがない――かの三斎どのこそ、父御を陥しいれたのみではなく、母御を手にかけたも同然のお人じゃ――」
と、菊之丞は、きびしく言ったが、ふと太い息をして、
「とは申すものの、あの浪路どのに、何の罪もないのは、わしとても、よう知っている。あわれは、あわれじゃ――が、これが、宿業――因果――と、申すもの。せめて、敵討を遂げる日までは、かの人の父親を、仇と思うそなただということを知らせずにすませるのが情でもあろうが――」
そう言った菊之丞、自分も、限りない淋しさ、はかなさに打たれたものか、
「いや、はなしが、沈んで来た。そなたも眠うないならば、その棚に、御贔屓(ごひいき)よりいただいた、保命酒がありました。あれなぞ、汲みかわして、しばし語り合おうぞえ。幸い、芝居も休みであれば――」
雪之丞は、涙をおさえて、茶棚からとり下す、酒罐(さけ)、杯――
――いよいよ、大事の迫った今日お師匠さまと、こうしてお杯をいただくも、これが限りとなろうとも知れぬ。
甘い、とろりとした杯をしずかに傾けながら、言葉少く語り明していると、ふと、階下で、又しても、荒々しく、戸を叩く音。


深更、曉明(ぎょうめい)、二度目の、音ないの響い、今度は、宿屋の、不寝番(ねずばん)も、うたたねから目を醒(さま)されたのであろう――
臆病窓があく音がして、何か小さい、囁きがしたが、やがて階段を上って来る足音――
「おお、どうやら、そなたのところへ、また人らしいが――」
と、雪之丞を見て、いった、雪之丞のこえを耳にしたか、若い衆が、
「若親方、起きておいでですか?」
「はい。起きておりますが――」
と、雪之丞が答えると、障子の外で、
「浅草田圃から、急の用で来たという方が、お見えで――」
もう、来訪者は、何人か、二人にはわかった。
「ここでも、いいだろう」
と、菊之丞が言った。
「では、どうぞ、これへ――」
雪之丞の言葉に立ち去る若い衆――すぐに、入口の戸が開いて、上って来たのが、廊下で、
「若親方、わしだが――」
闇太郎の声だ。
雪之丞が、障子をあけて迎え入れる。
闇太郎と菊之丞――名乗り合ったことはないが、以心伝心、雪之丞を中心(なか)にしてもうとうに、其の底まで読み合っている。

  「親方、御免なせえ」

と、曉明(よあけ)の客は、菊之丞に、ちょいと、頭を下げると、
「雪さん、あの人は、いのちが覚束(おぼつか)ねえ――」
と、ひと言。
「えッ!いのちが!」
と、さすがに、美しい女形の面上に、驚きのいろがうかぶ。
「うむ、いままで、張り詰めていた気持の糸が、もうやり切れなくなって、切れかけちまったようにおれにゃあ見えるのだが――」
闇太郎は、低い、すごい調子で、
「なにしろ、人一人、あの人は、今夜殺して来ているのだ」
菊之丞も、息を詰めた。
雪之丞は、
「ま!人を――」
と、叫びかけて、声を呑む。
「うむ、あれから、田圃のうちへ連れて行って、無理に、横にならせると、すぐに、大熱で、うわ言だ――そのうわ言が、只の台詞(せりふ)じゃあねえ――」
と、闇太郎は、いつもの快活さをすっかり失(な)くして、
「途切れ途切れに言うのを聴くと、あの人は、隠れ家を、横山五助に見つかって、つけ廻され、うるさくいい寄られるので、カッとなり、突き殺して来たらしいのだ。そういわれて、気がつくと、右の袖裏(そでうら)、襦袢(じゅばん)の袖に、真黒な血しぶきのあとがある――たしかいん、横山を手にかけて来たものにちげえねえのさ」
雪之丞の頰は、紙よりも青ざめた。彼には頓(とみ)には返事も出来ぬ。
何という、怖ろしい輪廻(りんね)だろう――彼が自分みずから手を下さぬのに、若し闇太郎の言葉が真実とすれば、二人の仇敵(かたき)は、すでに他人の刃でいのちを落してしまったのだ。
長崎屋に殺された浜川。
浪路に突き殺された横山。
――そなたの怨念が、人に乗りうつッての仕業(しわざ)なのだ。
と、老師匠の、じっとみつめる目が、言っているように思われた。


人間、怨執(おんしゅう)のきわまるところ、わが手を下さずして、おのずと、仇敵を亡ぼすことすら出来るという、この怖ろしい実例(ためし)を、まざまざと耳にして、雪之丞はもとより、師匠菊之丞、肌えに粟を生じ、髪の毛も逆立つ思いで、見えざる加護者に対して手を合せないわけにはいかない。
雪之丞は、さも、こころよげな、亡き父、亡き母の、乾いた笑いが、修羅の炎の中から聴えて来るような気がして、涙が流れて来た。
「あッしも、全くびっくりしやしたよ」
と、闇太郎は、菊之丞を眺めて、
「まあ、あのやさしい細い手で、横山五助のような荒武者を、一突きで、突き殺せるたあ、だれにだって、思いもよらねえこッてすからな」
「うむ、なにごとも、み旨(むね)でござりましょう」
と、菊之丞が、うなだれていう。
と、闇太郎が、語調をかえて、
「で、そんなわけだから、どうも、あの娘のいのちが、おいらにゃあ、気になってならねえのさ。人間、とても及びもつかねえことを仕遂げると、そのあとじゃあ、命脈がつづかねえこともある――な、だからよ、雪さん、ちょいとでいい、あの人の枕元にすわって、さぞ辛かったろうなあ――と、たったひと言、言ってやった方が、いいだろうと思うんだが――」
雪之丞も、かあいそうだ、あわれだ、このままに捨て殺しには出来ない気がする――けれども、彼は、師匠から、つい、今し方、言われたばかりだ。心弱くては、この復讐の大事を成し遂げられぬであろうことを――そして、まだ、まだ、大敵は、残っているのだ――土部三斎は、立派に栄えをつづけているのだ。
返事をしかねていると、師匠が、襦袢の袖口を、そッと目にやったが、
「そういうわけなら、雪之丞、行って見て来てやるがいいと思うが――」
「は、では、まいッても――」
「うむ、浪路どのとやらは、あまりに可哀そうだ――わしもな、長い浮世を見て来たが、こんなに涙が出たことはこれまで覚えがない――」
「お師匠さんのお許しが出たら、雪さん、ずぐに行ってやってくんなよ――そりゃあ、よろこぶぜ。あの人にゃあ、この世で、おめえだけしか用がねえんだ――おめえが顔せえ見えてやりゃあ、よろこんで、地獄へでも、血の池へでも、下りて行くだろうよ」
闇太郎は、もう、膝を立てて、
「支度も何もいらねえ、そのままで――かごは、拾って来た」
「では、お師匠さま、行ってまいりまする」
と、雪之丞は、手をつかえて、愁然(しゅうぜん)と立ち上がる。
門口から、すぐに、かごに乗る、雪之丞、かごに引き添って、片褄を、ぐっとはしょって、走りだす、闇太郎、
「おい、若い衆たち、いそぐんだぜ。生き死にの病人が待っているんだ!」
「合点だ!」
またたく間に、山ノ宿から走せつけた、田圃の小家――
かごが着くと、肩をすくめるように、出迎えた法印――
闇太郎は、いつになく囁くように、
「どうだ?病人は?」


一〇

編集
しお垂れ切った顔をして、出迎えた法印を眺めて、闇太郎が
「ど、どうした?病人は?」
「それが、だんだん、もう、高い声も出さなくなってしまったんだ――おあらあ、いつ息を引き取るかと、一人で、心ぺえで、おっかなくってならなかったよ」
「おっかねえッて!何をいってやがるんだ――さあ、雪さん、お上り」
男手で、それでも、温かい臥床(ふしど)に、横にしてやった、浪路、髷も、鬢(びん)も、崩れに崩れて、蠟のように、透きとおるばかり、血の気を失い、灯かげに背いて、目をつぶっていたが、どうやら、なるほどもう、死相を呈してしまったらしく、げっそりと、頰も顎を削(こ)けていた。
「なあ、かわいそうじゃねえか――公方さまの、寵姫(おもいもの)と言われたひとがよ――」
闇太郎は、嘆息した。
雪之丞は、そう言われると、まるで、手を下さずに、この人を殺して行くような気がして、何とも言えぬ罪科(つみとが)を感じないではいられぬのだ。
「でも、この人は、言っているんだぜ。おめえに逢って、ほんとうの色恋ッてものを知ったのだからかなしいけれど、満足だって――もう、命脈が、たえかけていることもちゃあんと知っていなさるんだ――さあ、雪さん、何とか、言ってやんねえな――医者を呼ぶより、薬より、それが一ばんだ――生きけえるものなら、おめえの一声で生きけえる――なあ、何とか言ってやれよ!」
闇太郎しきりに気をもんでいる。
雪之丞は、背けた顔を、のぞき込むようにして、
「浪路さま!浪路さま!わたくしでござりますぞ!浪路さま!」
それこそ、このまま灰白く、凍って行ってしまいそうにも見えた、まぶたが、かすかに動いた。ある痙攣(けいれん)のようなものが、窶(やつ)れ果てた美女の口元をただよって、そして、やっとのことで、いくらか目が開けられた。
雪之丞は、顔を近々と、迫ったこえで、
「浪路さま!浪さま!雪之丞で、ござりますぞ!おわかりになって下さりませ!」
「いいえ」
と、いうように、彼女は死色(しにいろ)を呈しながら、かぶりをふるようにした――出来るなら、近づけられた顔を、遠のけがっているようである。
「どうなされたのでございます!しっかりなされませ」
かぼそい、聴えるか聴えない程のこえで、生気を失いつくした美女はいった。
「わたくしは、人殺し――どうぞ側におよりにならずに――」
闇太郎も、法印も、むこうを向くようにして、拳固で、目を引っこすっていた――苦労を積んだ男たちだから、恋に狂い、恋に死ぬおんなの、世にもあわれな気持は十分にわかるに相違なかった。
「わたくしに、寄らずに――ね――」
雪之丞は、浪路の、細い細い手くびをにぎった――
「いいえ、このお手で、人を殺しなされたとて、わたくしが何でいといましょう――それもこれも、わたくしが、おさせ申したことですもの――」
「じゃ、人殺しでも、いいと、お言やるのか?」
やっとの努力で、彼女はいっていくらか微笑のようなものを、土気いろの唇にうかべるのであった。


一一

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「あなたが、どんなことをなされましても、何で、わたくしが、さげすんだり、厭ったりいたしましょう」
握らせた手を、じっと握り締める力もなく、ただ、精一ぱい、思い一ぱい、瞳をさだめて、みつめていたいという、努力だけが、関の山のように思われる、浪路を、雪之丞は、わッと泣いてやりたい気持を、無理に押し怺えて、やさしく見返してやるのだった。
「ねえ、浪路さま、しっかりあそばして、快(よ)くなって下されませ――な、その中に、屹度、楽しい日もまいりましょうほどに――」
彼は、こうした言葉が、とてもこの世ではかなわぬ夢を語っているのだとしか思われない。そしていつわりを口にせねばならぬ自分を、責めずにはいられぬ。けれども、彼自身の魂の奥底を、そのとき流れている真情に噓はないのだった。
――そうだ!来世で、わしたちは仕合せになれるかも知れぬ――未来というものがあるならば、そして、父さまも、母さまも、先の世では、このひとと、したしくすることを、許してくださりもしよう。
「雪――雪どの――」
浪路の口元が、そう動いて、凹んだ目には、涙が一ぱいにあふれかけていた。
「わたくしは早う、失せとうてならぬ――死んでしまえば、魂とやらのみのこるという――そうしたら、いつもいつもそなたと一緒にいられるほどに――」
そう言ってしまうと、もう、精魂もつき果ててしまったように、彼女は、目をつぶた――涙が、見栄もなく、目尻から流れて、雪之丞の手先をやっと握っていた指が、異様に痙攣しはじめた。
「あッ!いけねえ」
と、法印が、あわてたようにいった。
「医者を!どこからか!医者を見つけて来なければ――」
立ちさわごうとするのを、闇太郎が、低く、沈痛に制した。
「止せ――」
「だって――」
「止せってことよ!このひとのいのちは、太夫に呼びもどすことが出来なけりゃあ、誰にだって、呼び返すことは出来ねえのだ――」
彼は、涙が頰を洗うにまかせていた。
「それに、なあ、この世ってもなあ、だれに取っても、そんなに無理に、生きのびることもねえものじゃあねえか――生き伸びたって、苦しいばかりよ――な、法印、そうじゃあねえか――」
「うむ、そう言やあ、そうだな?」
と、島抜けが、うめくように呟いて、うなずいた。
「かあいそうなお人なんだ――だから、たった今だけでも、しずかに、やすやすと眠らせて上げてえと、おらあ、思うのだよ」
そうだ――闇太郎こそ、この権門に生れて、父兄の欲望の餌となり、うわべだけの華麗さに充たされながら、煩わしく、暗く、かなしい半生を送らねばならなかった美少婦の、真実の心の悩みを知っていたのであった。
彼は、安息しようとするものの眠りを、妨げるのを忘れるように、うつむいて、じっと膝の上をみつめてしまった。
雪之丞は、衰えゆく女の手を握り締めてやっていた――細ッそりした、やさしい手先が、だんだんに、冷えてゆくようであった。
どこかで、もう、三番鷄(ばんどり)が、孤独そうに、時を告げていた。


一二

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かぼそいからだと、細い神経で、あらゆる苦難を急激に経験し、人、一人をすら手に殺(か)けて、今は活力を失いつくさねばならなくなった浪路は、恋人に、指先を握られたままで、最後の断末魔と戦うように、荒々しい息ざしを洩らすのだったが、やがて、その、呼吸すら、だんだんにしずかになってゆくのであった。
島抜けの法印は、くわしく、浪路の身の上を知らないに相違なかったが、いわば、因縁のあさからぬものがあるにはあったのだろう――なぜなら、この荒法師の、心やりがあったればこそ、たとい、最後(いまわ)の際(きわ)にしろ、彼女は、雪之丞に、一目だけでも逢うことが出来、その抱擁の中に、いのちを落せたのだった。
だからこそ、彼の、どんぐり目からも、滝のように、荒々しい涙がたぎり落ちた。
闇太郎は、唇を嚙みしめていた。うつむけた顔は、一めんに、湿(ぬ)れて、熱いものが、あとからあとから、きちんと並べて坐った膝の上に、ぼとりぼとりと落ちつづけた。
雪之丞が、叫んだ。
「浪路さま!」
そして、声を落して、
「浪さま――これ、今一度、お返事を――」
だが、返事はなかった。しずかに、燃えつきた、美しい、細い灯光(あかり)のようにっも、彼女のいのちの火は、燃えつきてしまったのだ。
闇太郎が、涙を、邪慳(じゃけん)に、振り落すようにして、
「いけねえか?駄目か?」
雪之丞は、顔をそむけてるようにして、うなずいた。
法印が、立って行って、茶碗に水を汲んで来た。
「さあ、口をしめしてやんねえ」
雪之丞は、ふところの紙のはしを、水でひたして、浪路の、土気いろの唇をぬらした。
闇太郎と、法印も、同じようにした。
「不思議な緣だったなあ――おれたちもよ」
と、闇太郎が、つぶやいた。
「おらあ、可哀そうでならねえ――」
と、法印が、声を呑んで、
「死ぬめえによ、たったさっきよ、あんな雲助なんぞに、いじめられて――こんな、綺麗なひとが生きるにゃあ、この世の中は、あんまり荒っぽいんだなあ――」
そうかも知れぬ。この世の中が、ある人々に取って、あまりに、生き難く出来ていることは、いなみがたいのかも知れぬ。
たしなみのある、言わば、風雅な職人でもある闇太郎は、香炉に、良い匂いのする練香をくべた。
さみしい香りが、かすかにかすかに、部屋に立ちこめて来た。
人々は、黙り込んだ。
が、間もなく、闇太郎が、
「ところで、このほとけの始末だが――」
ためいきをして、
「枕許で、すぐに言うことではないか知れぬが、このまま、土に入れてしまうわけにもいかねえような気がするが――」
雪之丞は、闇太郎をちらりと見たが、答えなかった。
「このほとけだって、もとのままのからだなら、公方さまに、手を取られて死んだ人だ――それに、いかに何でも、三斎が鬼でも、蛇でも、親子だからな――どうしたもんだろう?なあ、太夫――」


一三

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若くして、悲しく逝(ゆ)いた、浪路にして見れば、一たん、そこから遁れて来た、松枝町の三斎屋敷になき骸(がら)を持ちかえされて、仰々しく、おごそかな葬(はふ)りの式を挙げられようより、いのちを賭けた雪之丞の、やさしい手に手を握られながら、うれしく呼吸(いき)を引き取ったこの小家から、誰にも知らさず、そっと墓地へ送られてしまった方が、百倍もよろこばしいものであったには違いない。
けれども、残された人々にして見れば、それは出来なかった。第一、闇太郎には、この小家に、いかなる人物が住みついているかということを、世間の人に知られてはならなかった。
一日、引っ込んで、仕事場にばかりいる、変人の象牙彫と、どこまでも、思い込ませて置きたいのだし、島抜けの法印は、当分の間、人前に、顔を曝(さら)せたものではない。
雪之丞が、浪路の最後の床に侍していてやった、なぞということが知れたら、それこそ大問題なのだ。
「ほとけは、気に染まねえか知れぬが、こいつは、一ばん、この俺の手で、三斎のところへ、連れて行ってやる外はあるまい」
闇太郎は、しばしして、モゾリと言った。
雪之丞は、答えなかったが、それよりほか、仕方なさそうに思われる。
闇太郎は、ふと、屹(き)ッとした目で、女がたを見た――悲哀に閉ざされた横がおを、強く見た。
「太夫、なるたけ長く、枕元にいてやった方が、いいにはいいだろうが、やがて、夜が明けると、人目に立つぜ」
雪之丞は、ハッとしたようだった。
あまりに、浪路の散り際のはかなさに、物ごころがついてから、強く激しく抱き締めて来た、もちつづけて来た、復讐の執着さえこの刹那、淡びはてようとしていたのだった。
闇太郎、それと見て、ぐさりと匕首(あいくち)を突きつけたものに相違ない。
「はい」
と、彼は、涙を払って、かたちをあらためて、闇太郎を見返した。
「では、もはや、おいとまいたしましょう」
と、言って、なき骸に、一礼すると、法印に、
「あなたさまには、何から何まで、お世話をかけまして――」
「ううん、何でもねえ――やっぱし、おいらお坊主のうちだったのかも知れねえよ。この女(ひと)が、こんなことになって見りゃあ、最後を始末するのが、おいらの役だったのだろうよ。あ、は、は」
法印は、わざと笑った。
「なあ、雪さん、このほとけは、たしかにおいらが、あずかった。そしてな、大方、ほとけも、悪く思わねえように、何とかはからってやる。安心しな」
と、闇太郎。
「どうぞ、何分にも――」
雪之丞は、闇太郎のはからいで少しはなれたところに待っていたかごに、身をゆだねた。
――あわれなあわれな、人ではあった。
と、彼は萎(しお)れる花のようにうなだれる。
――不運な、不運な人ではあった。なぜ、敵(かたき)同士のわしのことが、そんなに恋しかったのか?
が、それゆえこそ、浪路が、大奥まで捨て、父三斎に限りない苦痛をあたえたのだと思うと、今更輪廻の怖ろしさを、たのもしく思って、亡き父母の怨念(おんねん)に、手を合せずにはいられない。


一四

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翌日、浪路の、北枕の亡骸(なきがら)の側に、法印を居残らせて、どっこへか出て行った闇太郎、道具屋の小僧らしいのに、大きな箱のようなものを、大風呂敷で、背負わせて戻って来たが、ひろげて見ると、中から出たのは、丹塗(にぬり)に、高蒔絵(たかまきえ)で波模様を現した、立派やかな、唐櫃(からびつ)だった。
丁度、人、一人、屈(かが)んではいれようかという、ずッしりした品物――
法印が、目を丸くして、
「すばらしい物だなあ――一てえ、何にするんで?兄貴」
「まあ、黙っていろッてえことよ――とにかく、この櫃を浪路さんの部屋へはこんでくれ」
そして、死体の側に据えると、蓋を刎(は)ねて、
「さあ、この中へ、ほとけを入れるんだ、手を貸せ」
「あ、そうか、棺桶がわりか――」
法印、命じられるままに、やっと、死後硬直が、解けかかったばかりの、浪路のからだを、重たそうに抱き上げて、そッと、櫃の中に坐らせる。
「おッ!丁度いい、すっぽりと、あつれえ向きだ――」
と、闇太郎が、言って、
「浪路さん窮屈だろうが、ちょいとの間、辛抱してくんなせえよ。じき、楽になれるのだから――」
蓋をして、錠を下しいてしまうと、別に、鼠いろの頭巾に々布子、仕立てしたしたのを取り出して、
「法印、このサッパリしたのに着けえて、櫃をしょッて、おれと一緒に来てくんな」
「一たい、この死骸を、どこへかつぎ込もうというのだね?」
「いわずと知れた、親のうちへよ――公方さまのお伽(と)ぎをしたという人を、こんなあばら家から、とむれえも出せねえじゃあねえか――」
「よし来た――少し、重いが、背負って行こう――」
「まだ、すこし早いや――日が暮れてからの仕事にしねえと、おいらは大丈夫だが、おめえはブマだ――島抜けが通っているなんて、善悪(さが)ねえ岡ッ引きの目にでも触れちゃあならねえ――」
「大きにな」
哀しい、欝陶(うっとう)しいことがあったあとなので、景気直しに、一口やって、ほのぼのすると、もう、冬の日は、とっぷり暮れかける。
「いいころだ――出かけよう」
萌黄(もえぎ)の風呂敷に、櫃をつつんで高々と脊負った、一見寺男の、法印をしたがえて、闇太郎は、職人すがた、田圃のかくれ家を出て、さして行くのは、松枝町の、三斎屋敷。
隠宅ながら、見識ばった門番が迂散(うさん)くさそうにするのに、二分にぎらせて、玄関にかかると、この関門はなかなかむずかしい。
「いかなるものかは知れぬが、御隠居さまは、このごろ、ずうっと、御病気、お引きこもり――かまえて、来客をお受けなさらぬ。早う、かえりましょう」
「ところが、あッしの顔を、一目ごらんになりゃあ、御病気も屹度、よくなるんで――それにこの男にかつがせてまいった品を、どうしても、じきじきお渡ししなけりゃあなりませんし、そこを、どうか――」
「いかに申しても、お取り次ぎ、出来ぬと申すに!帰れ!」


一五

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「へえ、不思議なことをおっしゃるものだね?」
と、闇太郎、玄関ざむらいに、
「折角、御隠居さまの御病気に、かならずきき目のあるものを、持って来たというあッしを、かたくなに木戸をつくたあ、こいつあ変妙だ。いやしくも、家来眷族(けらいけんぞく)というものは、旦那の身に、すこしでもためになることと聴きゃあ、百里をとおしとしねえのが作法――それを、どこまでも、突っ張るなんて――」
「何と申そうと、姓名、町ところも名乗らぬ奴、お取りつぎは出来ぬぞ!帰れ!帰らぬか!」
玄関の若ざむらいは、いつぞや門倉平馬ともども、たずねて来た人間と、知る由もないので、ますます怪しんで引ッぱなす。
「おさむらいさん、お前さんも、融通の利(き)かないお人だね――こうして、表から、是非とも、お目にかかりたいとへえッて来るからには、まとまった用事があるものにきまっている。見ねえ、この男がしょッているこの大きな箱――御注文の品なのだよ、御隠居さん御注文の――おい、法印」
と、島抜けを、闇太郎は見返って、
「その、この家に取っちゃあ、大事な品を、玄関へ置いて、てめえは帰ってしまえ!」
「よし来た」
法印は、一刻も早く、こんな場所は立ち去ってしまいたいのだ。大ごとになって、身許がばれては彼として、それッ切りだ。
荷を下そうとすると、
「こりゃこりゃ、左様な品、お玄関へ!」
と、さむらいが、さえぎったが、闇太郎、突きのけて、
これ!この品へ、指でも差すと、この屋敷の家来として、腹を切らねばならぬぞ!」
「何を、申すにことをかいて――これ、持ち帰れ!」
さわぎは激しいので、詰所から二、三人、どやどやと、家来どもが出て来る。その中で、年輩のが、
「青井うじ――何じゃ、かしましい――御隠居さま、お引きこもり中に――」
「こやつが、こんな荷をかつぎ込みまして、どうしても、御隠居に拝謁(はいえつ)をと、いいはりますので――」
じっと、見て老臣(おとな)が――
「ふうむ、こりゃ、この荷は、何であるな?」
闇太郎、急に、小腰をかがめて、
「へ、へ、へ」
と、笑って、
「あなたは、話がおわかりになるようでごぜえますね――ちょいとお耳を拝借――」
「ふうむ」
老臣が、闇太郎の目つき、顔つきに、何ものかを認めたか、式台に下りて来る。
「お耳を」
そして、低く、
「御当家で、鐘、太鼓で、お探しになっているかけげえのねえものが、ござんしょう?」
「うむ」
キラリと、老臣(おとな)の目が光る。
「それについて、是非とも、御隠居さまに――御隠居さまに、闇が来たと、おっしゃって下せえ」
「ナニ、闇――」
「申し上げればわかりますよ」


一六

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老臣は、しぶりながらも、家中(なか)へはいって行った。闇太郎は、あたりを眺めまわすように、
「ふん、やっぱし、年は取らせてえな――ね、お若い方々、ごらんなせえ、あのお人はじきにむくれ出しはしねえよ、ちゃあんと、用を足して下さるよ――」
そういって、式台にしゃがんだが、そのときには、もう、島抜け法印のすがたは、無かった。
「ほ!法印の奴、すばしっこいな」
闇太郎、殆んど、押ッ取り刀で、取りかこんで、睨め下している若侍たちの中で、平気で腰をさぐって、莨入(たばこいれ)を取りだすと、
「済まねえな。火を貸して下せえな」
「何をこやつ!」
先程から、威光を損(そこ)なわれたように、じりじりしていた家来が、いきり立ったとき、脇玄関の方から、廻って来た、一人の人影。
闇太郎と、目を合せると、
「やッ!貴さまは!」
と、鋭く叫ぶ。
「これは、門倉さんでしたね?平馬さんでしたね――ひさしぶりだね」
闇太郎は、立ちはだかった、黒小袖に、同じ紋付、いかめしげな男を見上げて微笑した。
この人物、まぎれもなく、門倉平馬――闇太郎とは小梅廃寺での出会い以来、敵味方に対立してしまっていた。
「こりゃ、おのれ、こないだは、ようも煮え湯を呑ませたな!」
と、ぐっと目を剝(む)いた平馬、
「おのおの方、こやつ何か、ゆすりがましいことでもいうて、まいったのでござろう。お手を下すには及ばぬ――拙者が――」
立ちかかって、襟髪(えりがみ)をつかもうとすると、
「これ、平馬さん、この俺に、指でもふれると、御隠居から御勘気だぞ――見ろ、大事な品物を、御前にとどけに来ているのだ」
平馬が、大きな風呂敷包に、手をかけかけたとき、さっき、奥にはいった老臣が戻って来て、狽てたように、
「これ、門倉、何をなさる!」
思いがけない一声に、
「はッ!」
と、平馬が、すくんで、
「夜陰怪しからぬ者がまいって、お玄関をさわがしております様子ゆえ――」
「心添いはうれしいが、貴公、お出になるところでもない」
老臣(おとな)は、ぴしりといって、ふくれる平馬には見向きもせず、
「その方、伺ったことを、御隠居さまに申し上げたところ、とにかく逢うてとらせようとの思召し――お庭先きにまわれ!」
「へえ、庭先きへね――へ、へ、へ」
と、闇太郎は笑って、
「この前とは、大分、もてなしぶりが違うが、その中に、御隠居の方で、屹度、この俺を、お座敷へ上げることにあるよ。ときに、若い人達――」
と、家来どもを眺めて、
「この函は、この屋敷に取って大切のお品だ。粗末のねえよう、あとから持って来てくれ」
渋ったが、老臣が、
「いうままに、致しつかわすがよい。さあ、こちらへ来い」
と、闇太郎を伴れて、玄関から、庭木戸を取って、奥庭に面した座敷の、廊下外に導いた。


一七

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庭上に突ッ立った闇太郎、奥を見込んで例の調子で、ベラベラとやっている。
「いい気なものだぜ、御隠居も――あんなに猫撫ごえで、いつぞやは大事にしてくれたのに、今夜は打首にでもする積りか、庭先きへまわれは、おどろいたな――おッとッと、そんなにその函に手荒くあつかっちゃあならねえぜ。御隠居が、中を御覧になったら、その荷物は、たちまち奥広間に大切に持ち込まれるにきまっているんだから――」
やがて、小姓達の少年が二人、厚い錦の褥(しとね)と、莨盆を縁側にもたらしたと思うと、鞘形綸子(さやがたりんず)の寝巻に、紺羅紗(こんらしゃ)の羽織を羽織った三斎、なるほど、めっきり窶(やつ)れを見せて出て来た。
「闇、久しぶりであったな!」
「へえ、お久しぶりでごぜえます。お変りもなくってと申し上げてえが、何だか、どこかおからだがいけねえそうで――実は、ちょいとそのことを伺ったもんですから、夜分ながら出向きやした。お目にかからせていただいて、ありがとう存じます」
「ふん、それについて、何か見舞の品を持って来てくれたそうだが、大分大ぶりな荷物だの?」
と、浪路が失踪してから、絶えざる不安懊悩におびえつづけていながらも、いつもの好奇癖で、闇太郎が、何か売り込みものを持って来たと取ると、すぐに、もう内容が見たくてたまらない三斎だった。
「へえ、ちと、かさばっておりますが、まあ、御覧下すったら、ずい分およろこびだろうと思いますんで――」
と、闇太郎が言う。
三斎が、側の若ざむらいたちに
「これ、荷物を開けろ」
と、言いつけると、闇太郎が、
「いけねえよ、それに手をかけちゃあ、大事な品ものだ。あッしが自分で蓋を払いますが、御隠居、人ばらいをお願い申してえんで――」
「ナニ、人払い?」
と、三斎は、いぶかしげな目つきをした。
「なにか秘密の品か?」
「まあ、そんなもので――」
三斎の顎がうごくと、若ざむらいや、小姓たちは、退いた。
「さあ、人目もない」
「御隠所」
と、闇太郎は、じろりと三斎老人を見上げて、いくらか、こえの調子が変って、
「人間、いつ、どんなものが手にはいらねえともかぎらねえんで――中身を御覧になって、びっくりなさらぬようおねげえいたしますぜ」
三斎の目口は、好奇の昂奮にわななき、物ほしげな微笑がただよった。
「闇、わしもこれで、六十年、天下の珍物を採集するに骨を折ってまいった。わしの蒐集(しゅうしゅう)品はまあ、どんな貴顕(きけん)の宝蔵にも劣りはせぬつもりだ。大ていの品では、わしをおどろかすことは出来まいよ」
闇太郎はうなずいて、
「それはそうでしょうとも――御隠居さんの御宝蔵は、まだ拝見はしておりませんが、大凡の見当はついているんで――なかなか品えらみに、あっしも骨を折ったつもりですよ」
そう言いながら、縁側に置かれた、大きな風呂しき包の方へ近づいて、結び目をおもむろに解きはじめるのだった。


一八

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闇太郎、浪路のなき骸(がら)を入れた唐櫃の蓋に手をかけたが、三斎隠居を見て、
「さあ、御隠居、立ち添って、御覧が、願げえてえんで――」
「おお、大分、前口上のある品、定めて、目をおどろかす珍物であろうな?」
ツと、立って、太いのべ金の長ぎせるを手にしたまま、縁側、唐櫃の側に寄る。
「さあ、蓋を払いますが、どうぞお目をお止めになって――」
闇太郎、そう言って、ギギと、蝶つがいをきしらせて、蓋を開けると、一足、あとにさがって、例にない、つつしんだ調子で、
「御覧(ごろう)じ下さいまし」
「ふうむ――」
と、三斎は、美(い)い香の匂いが、ぷうんと立ちのぼる、函をのぞき込む。
中身は何か?それを蔽(おお)うているのは、美しい、女の着物だ。
「は、は、燻(た)きこめた香の匂いは、ゆかしいな」
持っていた、延べのきせる――それをのべて、雁首で、蔽いを、少しかかげるようにしたと、思うと、ギョッとしたように、目を見はった、三斎隠居――
「おッ!これは!」
グッと、闇太郎を睨んで、
「闇、これは何じゃ!うなだれて、髪のみ見えて、面体はわからぬが、たしかに、死骸と見えるが――か、かようなものを何ゆえなれば!こりゃ、そのままには捨て置かぬぞ!」
「御隠居さま」
と、闇太郎のこえは沈んだ。
「御隠居さま、まず、とっくりと、お目をお止めなすって――だれの死骸(なきがら)だか――どなたさまの、おなきがらだか、御覧なすって下せえまし」
三斎隠居は、青ざめた。思い当ったことがあるかのように、身をこわばらせて、丁度、唐櫃のそばにかがやいている大燭台の光をたよりに、もう一度、見込んだが――
「あッ!これは!これは、浪!浪路ではないか――」
さすがに、声が、つッ走って、その場にヘタヘタとすわってしまいそうな身を、やっと、ぐっと踏み止めて、
「これは、浪路だな!」
今は、汚(けが)れをいとうひまもなく、延べのきせるを投げ捨てて、掛け衣(ぎぬ)をつかんで、投げ捨てると、両手で、死骸の首を抱き上げるように――
「まぎれもない、浪路!ま、何で、このような、浅間しいことに――」
と、うめいたが、闇太郎を、食い入るような目で、グッとねめつけて、
「申せ!いかなれば、この品を、手には入れたぞ!申せ!申しわけ暗いにおいては、きさま、その場には立たせぬ」
「御隠居さま、やっぱし世の中は、廻(めぐ)り合せというようなものがござんすねえ――このお方さまと、あっしとは、何のゆかりもねえお方――そのお方が、たった昨夜(ゆうべ)、息を引き取るつい前に、あっしと行き合ったのでござんすが、あなたさんの御縁の方とわかって見りゃあ、見すごしもならず、死に水は、このいやしい手で取ってさし上げましたよ――御臨終は、おしずかで、死んでゆきになされるのを却てよろこんでおいでだったようで、あの分では未来は極楽――そこは、御安心なすって下せえまし――」
三斎隠居は、この闇太郎の物語が、耳に入るか入らぬか、ただ、ジーッとわが子のなきがらを、みつめつづけるのみだった。


一九

編集
「ど、どういたして、又、このなきがらが、きさまに運ばれて、わが家にかえることになったか――闇、くわしゅう、申せ!」
三斎、パタリと、唐櫃の蓋をとざして、叫ぶ。
「だから、何もかも、只、浅からぬ因縁だと言っているじゃあありませんか――何でも話を聴くと、どこかに隠れているうちに、横山五助とかいう、お屋敷出入りの悪ざむらいにつけまわされ、操を守るために、その男を、突ッ殺したとかいうことで――」
闇太郎が、そこまで言うと、三斎が、
「えッ!横山を、むすめが――」
「へえ、よっぽど、しつッこくしたらしいんでごぜえますよ。浪路さまも、堪忍がしかねたと見えますね――何しろ、そこまで決心なさるにゃあ、なみなみのことじゃあなかったでしょう――おかわいそうに――それと言うのも、ねえ、御隠居、おまえさんが、わが子の心を汲むことを知らねえで、わが身の出世のために、お城へなんぞ上げたからですぜ――」
「む、む」
と、隠居はうめいて、
「して、むすめは、どこに隠れていたのじゃな?やはり、雪之丞にかくまわれて――」
「とんだお間違いでごぜえます。雪之丞は浪路さまから、何度呼び出しをうけても、義理をお屋敷へ立て抜いて、お言葉にしたがわなかった容子で――」
「では、むすめは、いのちを賭けて恋いした、雪之丞に、逢わずに死んだというわけか――」
と、さすが、わが子のあわれさに、暗然として、三斎がつぶやいた。
「ですが、そこには、神もほとけも、ねえわけじゃあござんせん――浪路さまは、あっしの小家で、御臨終になるときに、雪之丞に、手を把(と)られているような、夢を見ていたようでござえますよ」
闇太郎は、こう言いつくろって、
「何でも、未来はかならず一緒とか、言っておいでのようでした」
「で、その最後の際は、わしのことは、この父親のことは、何も申してはいなかったか?」
隠居は、だんだんに流れて来る涙を、どうすることも出来ずにたずねた。
「何でも、父御、兄御の方々にはうらみのひとつもおっしゃりたいようでしたが、そこは、おたしなみで、何の御遺言もござんせんでしたよ」
「う、うむ」
と、隠居は腕を組む。
闇太郎は、膝を立てて、
「じゃあ、たしかに、この唐櫃は、おとどけ致しやしたから、あッしは戻していただきますが、まあ早く、縁側から、お仏間へおうつしになった方が――」
「おお、闇、貴さまには、はからず世話になったのう」
と、隠居は目を上げて、
「実は、この死骸が、他人の手に落ち、公けへ届け出しもいたされたら、当家として、とんだことになったところ――講義からのおとがめも、おかげにて、事なく済むであろう。きさまには礼もしたい。まず客間に通って休息するよう――」


二〇

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辞し去ろうとする闇太郎を、三斎老人は、強いて引き止めて、
「いかに何でも、この唐櫃を届けてくれた仁を、このまま返すことは、わしには出来ぬことだ、それは、ようわかっていよう――さ、ずっと通るがよい――これ、誰か?」
と、手を拍つと、あらわれた二人の小姓に、
「客仁を、座敷に通し、酒飯の馳走をいたすように――まだ聴きたいこともある」
二人の小姓が、闇太郎を庭口から、離れめいた、小間の方へ、無理に導くのだ。
闇太郎は、振り切れず、広からぬ瀟洒(しょうしゃ)な部屋に坐る。
そこは、一切、茶がかかった造りで、床の掛ものは、沈南蘋(chんなんびん)の花鳥、花生けは、宋窯(そうよう)の水の垂れるような青磁、磬(けい)がかかった造りで、その幅が二尺あまりもあって、そのいずれを見ても、闇太郎の鑑識眼では、上乗無類、値打の程も底知れぬものだ。
娘のなきがらを一目見て、前後を失った三斎は、世にもあわれな一老父にすぎなかったが、この部屋の豪奢さを眺めると、闇太郎、たちまち又、暴富に対する憎悪を感ぜざるを得ぬ。
――ふん、じじいめ!若し、雪之丞の仕かえしということがなけりゃあ、この屋敷から、大よそ目ぼしいものは、このおれさまが、みんな抜き取らずには置かねえのだ。あの仕事の邪魔になってはと、遠慮しているが、癪(しゃく)だなあ、この贅沢は――
唇を食いそらすようにしていると、いかなる美女も羞(は)じらう容色の振袖小姓が、酒肴を運んで来て酌を取る。
「どれ、じゃあ、折角n御馳走だ。一ぺえいただこうか?」
と、やけ気味で、闇太郎は杯を取り上げる。
そのころ、件の縁側の唐櫃は、丁寧に、老臣等の手に依って、浪路の居間へと担(かつ)ぎ込まれた。
浪路には、兄に当る、当主駿河守の許へも急使が飛ぶ。腹心の老女どもが、三斎から耳うちをされて、顔いろを失くしながらも、錦繍のしとねを、いそいで延べて、驚愕と恐怖とに、ブルブルと震えながら、美しい若い女あるじの死体を窮屈な函から出して、そのしとねに横たえるのであった。
三斎老人は娘の枕元に坐って、暫く、何か考え込んでいたが、やがて、ふッと、思い出したように立ち上って、わが居間に戻ると小姓に、
「門倉が、まいッていたようだが――」
「はい。溜りの間に、おいでになりまする」
「呼べ」
「は」
間もなく、門倉平馬、これも、思いもよらない椿事が、いつか耳にはいったものと見えて、顔色が変っているのが、閾外(しきい)に手を突いて、
「召されましたか?」
「うむ、近う」
老人は、唇を、えの字に引きしめて、六かしげに言った。
「平馬、異なことになった」
うなずくように、頭を下げる。
「で、そのあと始末じゃが――」
と、三斎はいつならず、重たい口ぶりで、
「この事が、他に急に洩れては、当家として困るすじがある。じゃによって頼みたいことがある――まそッと近う」


二一

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「わかったな!善悪(さが)無い口をふさいでくれるよう、よきに頼むぞ」
と、三斎隠居は、苦(にが)みを嘗(な)めるような口つきをしていって、門倉平馬を、ジッと見て、
「但し、仕損ずるにおいては、恥辱の上塗り――貴さま、二度と出入りを許されぬばかりか、きびしい目に逢うであろうぞ」
「ハッ、委細、わかりましてござりまする」
「のみならず、このことを知るもの、かの者のみでは無いと思う。用意をおこたらず、十分に手当して、根だやしにいたせ」
「ハッ、ようわかりまして厶りまする」
「行け!」
隠居はそう言って、かたわらの蒔絵の手箱から、取り出した、紫ふくさの包みを投げるように渡した。
ズシリ――と、重たい黄金(こがね)――
押しいただいた平馬――闇太郎の技倆(ぎりょう)は、すでに知ったことではあり、高の知れた仕事に、これは過分の前褒美(ほうび)と、胸をとどろかして、御前を辞して出る。
こちらは闇太郎――
小姓の酌で、遠慮もなく、飲(や)っているところへ、侍が、眼も綾な、錦をかけた三宝をささげてはいって来た。
「御隠居さま、お目にかかるべきところ、何かと取り込み、今晩はこれにてお引取りを願うなれど、これは寸志、おおさめ下されるように――とのこと――」
と、前に、三宝を置いて、
「おおさめなさい――」
と帛紗(ふくさ)を取る。
下には、杉なりに積んだ、二十五両包が五つ――
「ほう、これは、立派なお引き出ものでござりますが、今晩のところは、こいつをいただいては、心にすみませぬ」
と、闇太郎は、突っかえして、
「御隠居さんに、そう言って下さい。いずれ何かいただきたいものがあれば、改めて、いい時刻にひとりでうかがって、黙っていただいてけえるから――と、ね。は、は、は、そうおっしゃって下さりゃあ、わかるんです。どうも、おとり込みのことろを、とんだお邪魔をいたしやした」
持っていた杯を、カラリと捨てた闇太郎、あっけに取られている侍をあとにのこして、まるで自分のうちを歩くような勝手なかたちで、脇玄関に出ると、揃えてあった下駄を突ッかけて、そのまま、屋敷の外へ出てしまった。
――ふ、ふん、さすがの三斎もおどろいていやがった――いかに悪党でも、むすめの死げえをだしぬけに見りゃあ、びっくりするに無理はない。ところで、この機会(しお)に、雪之丞に、この屋敷に乗り込ませて、ばたばたと、事をすませてしまった方が、いいと思うがな!いかに悪徒(しれもの)の隠居だって、天運が尽きたのを知れば、思い切りよく往生するかも知れねえ――
彼の足は、山ノ宿の、雪之丞旅籠の方を向いて進むのだ。
そのあとを跟(つ)けているのは、師匠門倉平馬から、闇太郎の行方を、つき止めるように命じられている、悪がしこそうな、二人のさむらい――ぐっと、間を置いて、ブラリブラリと、歩いてゆく。
さすがに、闇太郎、心に思うところがあるので、うしろに、目が無かった。跟けられるとは知らずに例の暢気そうなふところ手、のめりの駒下駄をならしてゆくのだった。


二二

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何も知らぬ闇太郎、山ノ宿、雪之丞旅籠の門をくぐると、見知り越しになっている店番の若い衆に――
「若親方はいねえかね?雪之丞さんは――」
「おッ!親方――」
若い衆はいつも切ればなれのいい、象牙彫の親方と思うので、目顔で、歓迎の意を表して、何もかくさず、
「生憎でござんしたねえ、若親方は、ついさき程、どこへかお出かけになりましたが――こないだ火事に逢った、お贔屓さんへ、見舞にゆくとか。大師匠に話しておいでのようでしたよ」
「おお、そうかい――じゃあ、また来ますよ」
のれんを分けて出て、闇太郎、暗がりにたたずんだが――
――こないだ焼けた贔屓といやあ広海屋にきまっているが、さては、いよいよ、三斎屋敷に乗り込むまえに、あっちを荒ごなしにかけようといするのだな。
と、こころにつぶやいて、
――よし、のぞいて見よう。
海運橋の、広海屋までは、かなりあわいがあるから、辻かごを呼ぶ。
いつともかく、また跟けはじめていた二人ざむらい――これも亦、かごを小手まねきして、
「こりゃ、あれへまいる乗りものを、見えがくれに追うのじゃ――とまればとまり、進めば、進すむ――よいか?」
「へえ、あのかごをね?何でもござんせん。やりましょう」
「うまくやれ、酒手をつかわすぞ」
闇太郎は、広海屋の間近まで来ると、かごを捨てる。
二人も降りる。
闇太郎の方は、心耳すませば、軒下に立つ家の中のことは、心の瞳に、ありありと映り、柱の干割れるのまで、きこえて来るという男だ。
広海屋の、仮宅の前にたたずんだが、
――変だぞ!
と、小くびが、かたむいて、
――何も聴えねえ――それに、表が、こんなにきびしく閉っているところを見りゃあ、なみのやり方で、訪ねて来たわけじゃあねえな――
うすわらいが、唇にうかんだが、それから、軒下をはなれて、店に沿って、ぐっと河岸にまわると、塀になる。
その塀の下を、しずかにあるいているうちに、何を感じたか、足が、ぴたりと大地に吸いついて、
――やッ!何か気配がする。
片手が、土塀に触れたか、触れぬかに、全身がすうと軽く舞い上って、もはや、塀の上――上でちょいと、前後を見たかと思うと、音もなく、ふわりと、向う側へ――
塀の曲り角に、この容子をうかがっていた二人ざむらい――
「貴公!早かごで、この赴きを先生へ!拙者は、のこって、あとを見張る!」
と、一人が言う。
「かしこまった。その間に動き出すようであったら、貴公、ゆく先きをつき止めたまえ!」
と、言いのこした今一人、韋駄天(いだてん)ばしりで駆け出すと、河岸で、かごを拾って、
「いそげ!松枝町まで、一息にいそげ!」
かごは、矢のように走り出した。


二三

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跟け人は、いかにもせよ、闇太郎は、広海屋の、焼け残りの、倉つづき――その一ばん端の土蔵の方を目がけて、まるで、足裏に毛の無い、夜のけもののように、ツウ、ツウと、伝わってゆく。
そして、入口の土扉(とびら)が、僅かの隙を見せて開いているのを見出すと、ためらわず、ツイと押してはいって、しめっぽい埃(ほこり)くさい、闇の中を、二階への階段を上って行った。
二階の奥の、金網窓の中に、たよりない赤茶けた灯火(あかり)がさしていて、そこから、人ごえが洩れているのだ。
窓口まで、走り寄って見て、闇太郎、何を見出したか、さすがのつわものが、目いろを変えて、
――!アッ!あれは!
と、叫び出しそうになって、狽てて口をおさえた。
奥部屋の、異国物産が、うずたかく積まれた中に、闇太郎は見つけたものは何であったろう。
そこには、見るかげもなく、痩(や)せ衰えた、長崎屋三郎兵衛が、敵味方同然になってしまった、この広海屋の主人の与兵衛と、こともあろうに、お互にすがりつくよう、取り付き合って、強雨に充ち、苦痛に歪められた表情で、目の前に立つ、一人の男をみつめているのだ。
二人のからだは、遠くからわかるほど、ガタガタと戦慄し、ときどき、
「おおッ!」
「ううッ!」
と、いうような叫びさえ、咽喉の奥から洩れて来る。
二人の目がそそがれるあたりに立った人影は、年のころ、五十あまり、鬢髪(びんぱつ)はそそげ、肩先は削(そ)げおとろえ、指先が鈎のように曲った、亡霊にも似た男――
「おのれ!三郎兵衛、ようも、子飼の恩を忘れ、土部奉行や、浜川、横山、これなる広海屋と腹を合せ、わが松浦屋を亡ぼしたな――ようもようも、むつきの上から拾い上げ、手塩にかけて育てたわしの恩を忘れ、編笠一蓋、累代の家から追い出したな!おのれ、そのうらみを、やわか、やわか、忘れようか!」
と、一足、すすめば、
「うわあ!おゆるし下され!おゆるし下され、わたくしがわるうござりました」
と、長崎屋は、広海屋にすがりつきながら、手を蔽(おお)う。
「いっかな許さぬぞ!」
と、乾き、しわがれた、恐ろしい声がつづく。
「何をゆるされよう!恋しい妻は、おぬしの手引きにて、土部屋敷にいざなわれ、くるしめにくるしめられ、舌を嚙んで、死んだのじゃ――舌を嚙んで――舌を嚙んで死ぬ、痛さ、つらさ――どうあったろう、のう、三郎兵衛――おぬしの、今のくるしみは、物のかずではないわ――これ、三郎兵衛、おぼえたか!」
一足、すすめ、またしりぞく、此の世のものとも思われぬ、浅間しい怨念のすがた。
「いいえいいえ、あれはみんな、わたくしの罪のみではござりませぬ――こ、ここにいる広海屋――采配は、みんなこやつが、振りましたので――」
「なにをいうか、長崎屋――あれあれ、あの恐ろしい面相――」
広海屋は、怨みをのべるものを、指さして、顔を蔽うた。


二四

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「三郎兵衛が申すまでもなく、広海屋どの――そなたには、また、いうにいわれぬ、お世話になったものでござりますな――」
と、怨霊に似た、黒い影は、うめくようにいう。
「土地でしにせの松浦屋、いかにそれが目のかたきじゃとて、甘い口でわしを引き寄せ、もろともに密輸出入――御奉行が承知の上のことゆえと、いやがるわしに、あきないをさせ、どたん場で、わが身は口をぬぐい、わし一人を、欠所投獄――して、只今では、この大江戸で、大きな顔をしての大商人――さぞ楽しゅうござろうな、なう広海屋どのう――」
怪しげな手つきで、相手の首を引ッつかむのごとく近づくので、広海屋は、たましいも、身にそわぬように、
「あ、ああ!怖ろしい!怖ろしい!わしにはわからぬ――信ぜられぬ――たしかにみまかられたはずの松浦屋どのが――ああ!怖ろしい――」
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
と、黒い影が、笑って、
「わかりませぬか!信じられませぬか!与兵衛どの――この顔をじーッとごらんなされ、おみつめなされ――牢屋から出されて、裏屋ずいまい、狂うてくらましたゆえ、さぞおもかげもちがったであろうが、これが、だれか、そなたにわからぬはずがない――のう、ようく、この顔を、御覧なされや!」
「あッ!ゆるして下され、松浦屋どの、清左衛門どの!わしがわるかった。が、わしばかり、わるかったではない。第一に、悪謀(わるだくみ)をすすめたのは、これなる三郎兵衛――」
「又しても、わしをいうか!広海屋!」
と、長崎屋は、火災後、この一室に檻禁(かんきん)されて、骨ばかりになった両手をのばして、広海屋につかみかかる。
「あたりまえじゃ。貴さまゆえ、このわしの迷惑――気違い、失せろ!」
と、広海屋も、いつもの落ちつきも、狡猾さも失って、歯がみをして、相手の咽喉にしがみつく。
二人は、お互の首を絞め合ったまま、ごろごろと、床を転げて、苦しげなうめきをあげつづける。
「おおッ!」
「うわあッ!」
「う、う、う、う!」
「む、む、む、む」
それをこころよげに見おろしている、黒い影――
「は、は、は、何とまあ、二人とも、いさましいことのう――たがいに、咽喉をつかみしめた手先をばはなすまいぞ――ぐつと、ぐっと、絞めるがよい――おお、いさましいのう――」
と言ったが、
「この松浦屋を、くるしめた人々の中で、端役をつとめた浜川どの、横山どのは、めいめいに、楽々と、もはやこの世をいとま乞いして、地獄の旅をつづけておいでじゃぞ――それに比べて、これまで生きのこった二人、さ、もっと、もっと、苦しめ合い、憎み合い、浅間しさの限りをつくすがよい。ほ、ほ、ほ、まあ、何と、江戸名うての、広海屋、長崎屋――二軒の旦那衆が、狂犬(やまいぬ)のようなつかみあい、食いつき合い――おもしろいのう!いさましいのう!ほ、ほ、ほ、ほ!」
のぞいている闇太郎、身の毛がよだって、背すじが寒くなった。


二五

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全く、おぼろかな金網行燈の光に、朦朧(もうろう)と照らされた中で、二匹の夜の獣のようなものが、互に、両手で首を絞め合って、歯を剝き出し、うめき立てている。その有様ほど凄惨(せいさん)なものはなかった。
闇太郎ほどの、大胆もの、それさえ顔をそむけずにはいられないのに、二人の争闘を、じっと見おろしながら、さもこころよげに、笑いつづけている、この黒い影は何ものだろう?
「ほ、ほ、ほ――とうとう、狼が噛みあいをはじめましたね!
その声は、もはや、怨霊っじみたものではなかった。美しい、女のような、韻(ひび)きの深い声であった。
「もうお二人が、お互に絞め合った、その手の力は、尽未来緩みませぬぞ!お二人はそのまま御一緒に、遠い、暗い旅にお立ちなさりませ!ほ、ほ、ほ、まあ、そのようにお目を剝きになって――油汗を流されて――お歯を嚙み鳴らして、お苦しゅうござりますか――お二人とも――あれ、お息が、すっかり詰まって、咽喉笛から、血が流れ出して来ました。お二人の手は、血だらけでござりますよ――お苦しゅうござりますか?お互に、もっともっと、ぐいぐいお絞めつけになれば、つい、じきにお楽になりますよ。そう、そうもっともっと――もっともっと、きつくあそばせ――ぐいぐいと、お絞めあそばせ。ほ、ほ、ほ――お二人とも、お目が、飛び出しておしまいになりましたね。あれ、お口から血が――もっともっと、指にお力をお入れなさいと申しますに――ほ、ほ、ほ――お二人とも、案外お弱いのねえ――ほ、ほ、ほ――とうとう、身うごきもなさいませんのね――お鼻からお口から、血あぶくが、吹き出すだけで――」
と、いいつづけた、黒い影――格闘する二人が、互に、咽喉首をつかみ合って、指先に肉を突ッ込んだまま身をこわばらせてしまったのを、しばしがあいだ、じっと見つめていたが、やがて、もはや呼吸もとまり、断末魔の痙攣(けいれん)もしずまったのを見ると、ぐっと側に寄って、睨めおろして、
「覚えたか!広海屋、長崎屋――人間の一心は、かならずあとを曳いて、思いを晴す――松浦屋清左衛門が怨念は、一子雪太郎に乗りうつり、変化自在の術をふるい、今こそここに手を下さず、二人がいのちを断ったのじゃ、わからぬか、この顔が――かくいうこそ、雪太郎が後身、女形雪之丞――見えぬ目を更にみひらき、この顔を見るがよい」
サッと、垂らした髪の毛を、うしろにさばいて、まとっていた灰黒い布を脱ぎすてると、見よ、そこに現れたのは、天下一の美男とうたわれる、中村雪之丞にまがいもなかった。
が、すでに魂魄(こんぱく)を地獄の闇に投げ入れてしまった二人の悪徒(しれもの)、そのおもかげを見わけることが出来たかどうか?
もし見かけ得たならば、因果の報いるところのすさまじいのに、いまさら驚かずにはいられなかったろう。
雪之丞は、二人の死骸を照らす、金網あんどんの灯を消した。
そして、真の闇の中を、三郎兵衛檻禁の部屋をぬけいで、そのまま、はしご段を下りて行こうとするのだった。
と、その闇の中から、声があって、
「おい、太夫、待ってくれ」
「え!」
と、さすがにギクリとしたようだったが、
「ああ、親分でござんすね?」


二六

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土蔵二階の、湿っぽい廊下――内部(なか)には浅間しい二ツの亡きがらが、お互の喉笛を、摑み合ってころげている、その窓の外で、雪之丞は、思いがけなく闇太郎を発見して、はずかしそうにいうのだった。
「まあ、では、親分、只今のさまを、そこから御覧になっていたので、ござりますか?」
「おお、おれは今夜、かわいそうな人を、生みの家へ届けてやって来たのだが、何しろ先も、名だたる猛者(もさ)、ことによると、これがきっかけで、こっちの秘密を、ハッと推量するかも知れぬ。そうなると、おめえの仕事も、むずかしくなるによって、この機会をはずさず、三斎屋敷に乗り込んで、始末をつけてしまった方がいいだろう――と、そういおうと思って、山ノ宿をたずねたのだ。そうするとおめえさんが、こっちへ出て来たようだとのこと――やって来て見ると、何がな秘密がありそうな匂いが、この蔵でしたものだから、つい癖が出て、へえり込んで、思わぬ場面を見たわけなのさ」
闇太郎は洒然(しゃぜん)としていったが、
「それにしても、さすがのおらも今のを見ちゃあ、少しばかり肌が寒くなったよ」
雪之丞はいいわけをするように、
「わたしも、何も、こんな仕儀になろうとは思わず来たのでござんす。只、あの後、どう考えて見ても、長崎屋は、この屋敷の中に、おし込められているに相違ないと思い、今夜、ソッと忍び込み、蔵から藏をしらべて見ますと、この内部(なか)でかすかな人ごえ――のぞいて見れば、案の定、長崎屋は日の目も見られず閉じこめられ、恰度、そこへ、広海屋が、家人の寝しずまった頃を見はからって、嘲弄(ちょうろう)にまいったところ――二人の会話(はなし)を立ち聴けば、いやもう、汚(けが)れはてた、浅ましいことばかり――ことさら、長崎表の昔が、口に上り、お互に罪をなすり合ううち、しかも、わたしの目の前で、天が言わせるような言葉ばかり――それを聴いていますうちに、ふと、思いついて、日頃の渡世がら、髪をみだして顔を怖くし、ありあわせた黒い布を身にまとい、おぼろげな灯火(あかり)の光の中にすがたをあらわし、さんざんおどしてつかわしましただけ――しかし、かようなことになろうとまでは、思いもかけぬことでござりました」
「いや、因縁だな、応報だな」
と、闇太郎は、陰気くさきったが、急にガラリと語調をかえて、
「そりゃあ、もう、悪事を働いた奴が、満足に畳の上で死ねねえのはあたりめえだ、浜川、横山、広海屋、長崎屋――おめえが狙うほどの奴が、手も下さねえのに、ひとりでに、他人(ひと)の手で亡びて行ったのも、悪人の運勢が、尽きてしまった時が来たのだ。この分じゃあ、一ばんの強敵、三斎隠居だって、怖れるこたあねえ――一気に、どしどし成敗してやるがいい」
「はい、明夜は、あのあわれなお人の身の上に、何か変事があったよし、駆けつけてまいったという口実で、たずねてまいるつもりでございます」
「それがいいそれがいい」
と、闇太郎はうなずいたが、
「しかし、用心はどんなにしても損はねえ――早まらず、しっかりさっし」
二人は、土蔵を出た。

  しずかに、星の光が降って、天地はすっかり死の沈黙――二人は塀に近づいた。そして同時に、手が壁にかかって、飛び越えの体構えになる。


二七

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雪之丞、闇太郎、二人とも身は羽根よりも軽いことゆえ、片手が、壁にかかったと思うと、まるで釣り上げられるように、フワリと、土蔵の上に軀(からだ)が浮く。
闇太郎の目が鋭く、あたりを見まわして、さて、向う側に跳ね下りると、つづいて、雪之丞が、ひらりと飛ぶ。
振りかえると、土蔵の屋根に、曉によろこぶには、早い、夜がらす、黒い影が二羽――
「早い奴だの!黒い鳥め!」
闇太郎はつぶやて、肩を並べるように、河岸を歩いて、さしかかる屋敷はずれ、曲ろうとしたその刹那だった。
真黒な、野獣のようなのが、
――タッ!
と、飛びついて来たと思うと、闇太郎の真向めがけて、
「えい!」
と、斬りかかる、すごい白刃。
「プッ!」
と、口をすぼめて、かわした闇太郎、かがみ腰に、ふところへ右手を、
「妙なものが出て来たぜ」
「一ツ、二ツ、三ツ、五ツ、七ツ――沢山影が見えますが、怖うございますこと」
ちっとも怖くない風で、そう答えた雪之丞、ぐっと、裾をかかげたとき、どこに身をひそめていたか、うしろから、
「とう!」
と、肩先へ来る。
スッと、わずかかわした雪之丞の雪白の手が、右に動いたと思うと、
――ズーン!
と、地ひびきを打って、前に飛ぶ人つぶて。
雪之丞、闇太郎、二人の背中がぴったりと合せられて、八方から、いつでも来いの構えになる。
それをめぐつて、十本あまりの、抜きつれた刃が、低く低く地を匍(は)って来る毒蛇の舌のように、チラチラと、ひらめきながら、一瞬一瞬、迫って来る。
が、雪之丞、闇太郎、ほんとうの敵は、その一群の中にはいないのを知っているのだ。これ等の十本あまりの剣には、必死、必殺の剣気がみなぎってはいない。
むしろ、何ものかの命令で、おっかなびっくり、押しつけて来るものに相違ないのだ。
二人は知っている。
――どこか、見えないあたりに、だれかがいる――この刺客隊の頭はほかにいる――それにしても何で、二人を付け狙うのか?
三斎だ!土部一族だ!そして、その土部一族に使われて、暗殺を引き受けるのは、言うまでもなく、門倉平馬――小梅以来の敵手(あいて)であろう。
十本あまりの毒刃は、ズ、ズ、ズと、趾先(つまさき)ですり寄る刺客たちと一緒に、二人の前後に押し迫る。それが、二間に足らぬところまで来ると、おのずと止って、シーンとした静寂――死の沈黙。
「ふ、ふ、意気地なしめ!ドラ猫だって、獲ものを見りゃあとびかかるぜ!やって来ねえか?おい!」
闇太郎が、冷たく笑った。
「遠慮せずに、斬って来い!今夜はこっちも容赦しねえぞ。少し疳(かん)が立っているのだから――」
と、それに、そそられたように、一条の白光が、群れの中ほどでひらめいて、黒衣の一人が、ピュッと、大刀を振り込んで来るのだった。


二八

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「なア、太夫、遠慮はいらねえよ、今夜こそ、毒虫を征討しようぜ」
「あい。わかりました」
うなずき合った、雪之丞、闇太郎――二人の手のうちに、今は、ギラリと小さく白く光る匕首――
その匕首のきらめきに、吸いつけられたように、よって来るのが飛んで灯に入る虫のような、門倉平馬部下の剣士たちだ。
「たっ!」
「とう!」
と、四方から隙間もなく斬ってかかるので、こちらの二人も、いつか背がはなれて、自由なかけ引き。
引きつけて、突き、退りながら、斬り揮(ふる)う短刀に無駄がなく、またたく間に、その場に倒れてしまわぬものは、いのちからがら逃げのびて、河岸にへたばって、呻いている。
「さあ、出て来い。隠れん坊は、もう沢山だぞ!」
闇太郎は、意気軒昂(いきけんこう)、てっきり、そこに伏せ勢があると認めた、河岸小屋の方へ呼びかけた。
のそりとそこから出て来たのは、黒覆面、黒衣ながら、からだの恰好で、一目に、平馬とわかる男――左右に二人の部下をつれている。
闇太郎は、しつっこく斬って来る若侍をあしらいながら、
「太夫、おいらにあ、平馬は苦手だ。矜羯羅制吨迦(ニコガラセイダカ)――二人の方はおれがやるから、心棒は、おめえが、おっぺしょってくれ」
雪之丞は、身近っくのこった最後の一人を、わずらわしげに、突き伏せて、目をあげて、平馬を見ると、
「おお、門倉さま、おひさしぶり」
「ふうむ。死にいそぎをしたがる奴――」
と、平馬はうめいて、
「一度、二度、三度――よいほどにして置いたが、今夜、闇太郎と一緒にいたは、貴さまの不運――いかにも、息の根を止めてやるぞ」
「同門のゆかりこそあれ、うらみはないと思うていましたが、ことごとに、敵にまわる門倉さま、こちらももう辛抱ならぬ――今宵(こよい)は遠慮いたしませぬぞ!」
手ごわい相手とわかっているゆえ、二人の部下も、闇太郎の方へ手を分けようとはせぬ。
真中に門倉平馬――少し先行して、二人の弟子、大刀を抜きつらねて、押し並んで迫って来る。
敵手(あいて)を片づけてしまった闇太郎、匕首の血を、拭い清めて、別に呼吸(いき)も切らしていない。
三人を引きうけて、匕首をぐうっと引きつけてかまえた雪之丞のうしろから、
「よッ!花村屋あ!」
と声をかけたが、
「いい型だなあ、御見物衆が、おいでにならねえのが残念だ」
が、二人の弟子を前に並べた門倉平馬の、覆面のあいだから漏れる眼光は、刺し貫くようだ。今夜こそ、彼は雪之丞を仕止めねば――闇太郎を斬らねばならぬ。一人、自分に取っての憎悪の的、一人は、三斎から斬れといわれた当の敵手だ。
雪之丞は、引きつけていた匕首を、サッと揚げた。そこに隙が出来たと見たか、も一人の弟子、ダッと、躍り込んで、薙(な)いで来る。
かわしたと見ると、もう、匕首の切ッ先きが、相手の首すじへ――


二九

編集
大向うを気取った闇太郎、いい気そうに声はかけているが、胸の中は不安におののいている。
――門倉って奴あ、おいらにゃ歯が立たねえが――雪なら大丈夫だろうが、何しろ狡い奴だ!どんな卑怯な手を使うかわからねえ――
ジーッと、みつめていると、雪之丞の方は門弟一人を斬って落して、息もはずまさず、次のかかりを待っている。
が、二人目は出られない。
――やッ!
と、鈍い気合――これでは、敵に迫れないのだ。
雪之丞、ズーッと、匕首を揚げて、爪先立ちになる。
「退(ど)け!」
と、平馬、奥歯を嚙んで、門人を押しのけるように、ギラリと、大剣を上段に引き上げて、
「雪、今夜はのがさぬぞ!」
「十分に――」
さすがに、雪之丞のうしろすがたに、サーッと、凄味が添わる。
「う、うむ」
と、平馬の息が、引きしまって、上段が、正眼に下ったが、
「やあッ!」
と、誘って、大刀をきらめかす。
ジーッと、動かぬ雪之丞。
闇太郎が、焦(じ)れて、
「太夫、やっちめえ――夜があけるぜ!」
と、言ったのは、あべこべに、平馬を煽(あお)ったのだ。
平馬の切っ先きが、案の定、動揺した。
「や、やあッ!」
「とう!」
二人の気合が、一どきに、物すごく、空でカチ合って、重ねて、
「たッ!」
と、迫った叫びが、平馬の咽喉をほとばしったと思うと、二尺五寸の刀と八寸あまりの刃が、微妙にからみ合って、赤い火花を、チリチリと、細かく照したが、いつか二人のからだが、入れかわって、ジリジリと押しつけ合う。
と、持って生れた、平馬の根性だ――その刹那、やり損ったと、気がついたのだ。
たッた今まで、敵意に燃えていたが、思い当ると、自分は今夜、闇太郎を斬りに出ただけだ。だのに、強敵に打ッつかって、今更、これは身の上だ――
ハッと、おびえが来たに相違ない。
――退(ひ)くなら今だ!
と、いう気配――雪之丞に、いつ通じたか、冷たい微笑がうかんで、ツ、ツと、付いて行ったと思ったが、
「御免!」
ビュッと、匕首が斜めに飛ぶと、平馬の頰先へ――
タラリと、流れる血――
――もう駄目だ、逃げられう。
と、思い知ったに相違ない平馬、窮鼠(きゅうそ)、猫を嚙もうと、
――ガ――ツ!
と、大刀を突くと見せて、胴に来る。
雪之丞の全身が、飛び立つ鳥のよう、
「えい!」
烈虎の気合――うしろにいた闇太郎さえ、ズーンと、恐怖が、背すじを走るのをおぼえたが、
「うおッ!」
と、いううめきが荒っぽく平馬の咽喉を洩れた。


三〇

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門倉平馬の、咽喉の奥から、雪之丞の匕首の一閃と同時に、
「うわあ!」
と、いう、知死期のうめきが洩れて、やがて、上半身がうしろにのけぞったと思うと、腰がくだけて、ドタリと横ざまに朽木のように仆れたが、それと間髪いれず、今一人の、生きのこりが、われにもなく、磁鉄に吸われたように振り込んで来る。
雪之丞は、かわしもせず、ビュウンと、大刀を、匕首の鍔(つば)ぎわで刎ね返して置いて、腰元を一突き――蹴返して、スッと、片入身(かたいりみ)に立って、あたりを見まわした。
もはや、立ち向って来る者もない。冴えた腕に、処理されたこととて、いずれも、一突き、一薙(な)ぎで、そのまま、うんともすうとも息を吹くものもない。
「やっぱし、千両役者だなあ!」
と、闇太郎は、太い息をついて近づいた。
「これだけの騒ぎに、返り血も浴びねえというのだから驚いたもんだなあ――」
「これで、まあ、長いこと、つきまとった、毒蛇のようなものを、始末をつけてしまいましたが――親方」
と、雪之丞、なだらかな呼吸で、闇太郎をかえりみて、
「もう、残ってはおりませぬか」
「おいらが斬ったのは、フヨフヨしていたが、それも大てい片づいたようだ。おまはんの刃にかかった奴は、ぎゅうも、すうもなくまいッているよ」
「では、人目にかからぬうち、引きとるとしましょうか――」
「おお、一刻も早く逃げようぜ」
血なまぐさい、生ぬるい風がただよう河岸を、いかつい影と、やさしい姿が、肩を並べるようにして立ち去った。
みちみち、闇太郎が、
「何しろ、このいきで、ずんずん突ッ込んで行くことだ。あしたはかまわねえから、三斎屋敷に乗り込みねえよ――なあに、万事、スラスラ片づくにきまっている」
「何分相手は、土部一族、強敵に相違ありませぬが、一生をかけての仕事、かならずやりとげて、御覧に入れましょう」
「うむ、その決心なら大丈夫だ」
と、闇太郎ははげますようにいったが、ふと、しんみりした調子になって、
「ところで、おいらは、自分のことを、ふッと思い出したんだが、不思議なもので、おまはんと懇意に成ってから、妙に、盗ッとごころがなくなったような気がするのだ。自分ながら、変てこでならねえのだが――」
雪之丞は、黙していた。
「これまでは、夜道ばかりじゃあねえ、まっぴる間でも、外をあるいていて、屋敷、やかたが目につくと、すぐに黄金(かね)の匂いが鼻に来て仕方がなかったものだ。それが、このごろは、まるで気がつかず通りすぎてしまって、あとで、オヤと思うようになったのさ――こんな風じゃあ、商べえは上ったりだ――思い切って、転業でもしてしまわなけりゃあなるめえよ」
「まあ、親分、それは、本気でいって下さるのですか?」
と、雪之丞は、うれしげに、手を取らんばかり、
「それが、ほんとうなら、どんなにうれしいか知れませぬ」
「ウム、おまはんも、よろこんでくれるに相違ねえと思っていたが、しかし、やっぱし、さびしい気がしてなあ」
闇太郎は、はかなそうに、白い前歯をあらわして笑った。
 

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