緒言

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本邦隠居の新たなる其来る尚し、武門政権を執りてより、其制倍々盛んに行はれ、上下一般之に由る、維新以還文物制度驟かに其面目を改め、古例旧慣の廃絶に帰せんとするもの頗る多し、就中隠居の制の如きは著しき変化を現はし、今や殆んと其旧態を存せさるに至る、唯た其れ然り、今に迨て隠居制法の輯録を図らされは、陳編往々散逸し、後ちに至り、断簡零冊に依りて僅かに其豹斑を徴するの悔あるに至らん、是れ著者か浅識寡聞を以て敢て本著に従事せし所以なり。

著者曾て法科大学沿革法理学の講筵に於て家族制のこと[1]を説く、隅々隠居のこと[1]を述ふるに当り、材料頗る乏しくして立論の根拠を得るに苦しむ、爾来汎く内外の諸書に就き旁捜甄査し、随て得れは随て録し、猶ほ疑義ある毎に之を諸先輩に質して更互参酌し、随録の久しき遂に巻を為すに至れり、此に於て沈思研求し聊か卑見を加へて之を公にす、独り懼る渉猟未た周からす、稽査未た尽さす、誤謬欠漏極て尠からさるを、冀くは読衆諸氏の指教を俟つて之を補正せん。

書中往々諸先輩と意見を異にするものあり、是れ心理探究の際止むを得さるの事にして、素より著者当仁の微意たるに過きす、諸先輩若し其不遜を咎めすして教を賜はゝ特り著者の幸のみにあらさるなり。

  明治二十四年十一月上浣  穂 積 陳 重 識

隠居論目次

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  • 第一編 隠居の起原
    • 第一章 食人俗
    • 第二章 殺老俗
    • 第三章 棄老俗
    • 第四章 退隠俗
  • 第二編 隠居の種類
    • 第一章 宗教的隠居
    • 第二章 政事的隠居
    • 第三章 法律的隠居
    • 第四章 生理的隠居
  • 第三編 隠居の名称
    • 第一章 隠居の事質
    • 第二章 隠居の名称
  • 第四編 隠居の年齢
    • 第一章 第一期の隠居年齢
    • 第二章 第二期の隠居年齢
    • 第三章 大三期の隠居年齢
  • 第五編 隠居の効果
    • 第一章 身分上の効果
    • 第二章 財産上の効果
  • 第六編 隠居の将来
    • 第一章 廃隠居論
    • 第二章 優老俗

目次終

隠居論

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第一編 隠居の起原

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本編に於ては隠居俗の由来を述べ、隠居俗は其第一源を食人俗に発し、一変して殺老の俗となり、再変して棄老の俗となり、進化変遷して、竟に老人退隠の習俗を生じたること[1]を論証せんとす。

第一章 食人俗

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「弱肉強食」の語は、文明社会に於ては、単に比喩の文字たるに過ぎずと雖も、蠢愚矇昧、僅かに禽獣を距るの原人社会にありては、能く当時の実況を討つし出したるものと謂ふべし、盖し原人社会に於ては、或は讐敵を屠戮して其屍肉を啖ひ、或は幼見を裂き、老人を殺し、甚だしきに至りては祖父の肉を以て鮮膾の美味とし、之に舌を皷つが如き、其残忍無道、固より文明人の甞て想像する能はざる所なりと雖も、此俗たる広く蛮民間に行はれ、*《O.Pesohel―Voelkorkunde II.》[2]現今東西両洋に文明を以て誇揚するの諸国に於ても、亦た太古往々食人の醜俗行はれたる事は、輓近人類学者、社会学者の斉しく論証する所なり、‡《Boyd Dawkins―Die Hoehlen u. d. Ureinwoehner Europas III. s. 207》[2]而して原人社会の食人習俗たる、一は原人の無智矇昧にして、事理を解せず、人道を弁ぜざるの致す所なりと雖も、抑も亦た社会生存上の必要之が主因たらずんばあらず、盖し太古の原人は未だ耕耘の術を知らず、又た牧畜の法を解せず、或は山野に狩猟して鳥獣を追ひ、或は河海に漁して魚介を撈へ、或は草木の果実根葉を拾収して食料となし、以て僅かに一族の口腹を充すを得るに過ぎず、故に一朝草木実らず、魚鳥亦た稀少なる時は、全族忽ち飢餓に瀕するに至る、此に於て、生活の必要上より、或は老幼を屠り、或は死人の肉を啖ひ、辛ふじて餓死を免るゝを得、加之斯の如き食料缺乏の時に当り、老人病者の如き自ら山海に狩漁して魚鳥を獲る能はざる者にも食料を分与せんか全族為めに餓死して亦た遺類なきに至らんとす、故に老人病者の如き者は巳むに得ず之を殺し、必要ある時は其屍肉を以て全族の食料に充つるの智俗を生ずるに至れり。

註釈

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  1. 1.0 1.1 1.2 合字を使用している。
  2. 2.0 2.1 本文の枠外に記してある。