第一囘
三月二十日、今日は郡司大尉が短艇遠征の行を送るに、兼ねて此壮図に随行して其景況並びに千島の模様を委しく探りて、世間に報道せんとて自ら進みて、雪浪萬重の北洋を職務の為にものともせぬ、我が朝日新聞社員横川勇次氏を送らんと、朝未明に起出て、顔洗ふ間も心せはしく車を急せて向島へと向ふ、常にはあらぬ市中の賑はひ、三々五々勇ましげに語り合ふて、其方さして歩む人は皆大尉の行を送るの人なるべし、両国橋にさしかゝりしは午前七時三十分、早や橋の北側は人垣と立つどひ、川上はるかに見やりて、翠かすむ筑波の山も、大尉が高き誉にはけおされてなど口々いふ、百本杭より石原の河岸、車の輪も廻らぬほど雑沓たり、大尉は予が友露伴氏の実兄なり、また此行中に我社員あれば、此勇ましき人の出を見ては、他人の事と思はれず、我身の誉と打忘れられて嬉しく独笑する心の中には、此群集の人々にイヤ御苦労さま抔と一々挨拶もしたかりし、これによりて推想ふも大尉が一族近親の方々はいかに、感歓極まりて涙に咽ばれしもあるべし、人を押分くるやうにして辛く車を向島までやりしが、長命寺より四五間の此方にて早や進も引もならず、他の時なればうるさき混雑やと人を厭ふ気も発るべきに、只嬉しくて堪へられず、車を下りて人の推すまゝに押されて、言問団子の前までは行きしが、待合す社員友人の何処にあるや知られず、恙がなく産れ出しといふやうに言問の前の人の山を潜り出て見れば、嬉しや、此に福岡楼といふに朝日新聞社員休息所の札あり、極楽で御先祖方に御目に掛つたほど悦びて楼に上れば、社員充満ていづれも豪傑然たり、機会にあたれば気は引立ものなり、元亀天正の頃なれば一国一城の主となる手柄も難からぬが、岸に堤に真黒に立続けし人も皆な豪傑然たり、予はいよ/\嬉しくて堪らず、川面は水も見えぬまで、端艇其他の船並びて其が漕開き、漕ぎ廻る有様、屏風の絵に見たる屋島壇の浦の合戦にも似て勇ましゝ、大尉が大拍手大喝采の間に、舟より船と飛び渡りて、其祝意をうけらるゝは、当時の源廷尉宛然なり、予も肉動きて横川氏と共に千島に行かばやとまで狂たり、舟は大尉萬歳の歓呼のうちに錨を上げて、此帝都を去りて絶海無人の島をさして去りぬ、此の壮んなる様を目撃したる数萬の人、各々が思ふ事々につき、いかに興奮感起したる、ことに少壮の人の頭脳には、此日此地此有様永く描写し止まりて、後年いかなる大業を作す種子とやならん、予は集へる人を見て一種頼もしき心地も発りたり、此一行が此後の消息、社員横川氏が通信に委しければ、読みて大尉の壮行と予も共にするの感あり、其は此日より後の事にして、予は此日只一人嬉しくて、ボンヤリとなり、社員にも辞せず、ブラ/\と面白き空想を伴にして堤を北頭に膝栗毛を歩ませながら、見送り果てドヤ/\と帰る人々が大尉の年は幾つならんの、何処の出生ならんの、或は短艇の事、千島の事抔噂しあへるを耳にしては、夫は斯く彼は此と話して聞せたく鼻はうごめきぬ、予は洋杖にて足を突かれし其人にまで、此方より笑を作りて会釈したり、予は何処とさして歩みたるにあらず、足のとまる処にて不図心付けば其処、依田学海先生が別荘なり、此にてまた別の妄想湧きおこりぬ。
第二囘
おもへば四年の昔なりけり、南翠氏と共に学海先生の此の別荘をおとづれ、朝より夕まで何くれと語らひたる事ありけり、其時先生左の詩を示さる。
庚寅一月二十二日、喜篁村南翠二君見過墨水弊荘、篁村君文思敏澹、世称為西鶴再生、而余素愛曲亭才学、故前聯及之、
巨細相兼不並侵、審論始識適幽襟、鶴翁才気元天性、琴叟文章見苦心、戯譃諷人豈云浅、悲歌寓意一何深、梅花香底伝佳話、只少黄昏春月臨
まことに此時、日も麗らかに風和らかく梅の花、軒に匂しく鶯の声いと楽しげなるに、室を隔てゝ掻きならす爪音、いにしへの物語ぶみ、そのまゝの趣ありて身も心も清く覚えたり、此の帰るさ、またもとの俗骨にかへり、我も詩を作る事を知りたるならば、拙ながらも和韻と出かけて、先生を驚かしたらんものをと負じ魂、人羨み、出来ぬ事をコヂつけたがる持前の道楽発りて、其夜は詩集など出して読みしは、我ながら止所のなき移気や、夫も其夜の夢だけにて、翌朝はまた他事に心移りて、忘れて年月を経たりしが、梅の花の咲くを見ては毎年、此日の会の雅なりしを思ひ出して、詩を作らう、詩を作らう、和韻に人を驚かしたいものと悶へしが、一心凝つては不思議の感応もあるものにて、近日突然として左の一詩を得たり、
往年同須藤南翠、訪依田学海君濹上村荘、酒間、君賦一律見贈、今巳四年矣、昨雨窓無聊偶念及之、即和韻一律、録以供一笑之資云、
村荘不見一塵侵、最好清談披素襟、游戯文章猶寓意、吟嘲花月豈無心、新声北部才情婉、往事南朝感慨深、我亦多年同臭味、待君載筆屡相臨、
ナント異に出来したでは厶らぬか、此詩を懐中したれば、門を叩いて驚かし申さんかとは思ひしが、夢中感得の詩なれば、何時何処にても、またやらかすと云ふ訳には行かず、コレハ/\よく作られたと賞揚一番、その後で新詩を一律また贈られては、再び胸に山を築く、こゝは大に考へもの、面り捧げずに遠く紙上で吹聴せば、先生髯を握りながら、フムと感心のコナシありて、此子なか/\話せるワエと、忽ち詩箋に龍蛇はしり、郵便箱に金玉の響ある事になるとも、我また其夜の思寝に和韻の一詩をすら/\と感得して、先生のみか世人を驚かすも安かるべしと、門外に躊躇してつひに入らず、道引かへて百花園へと赴きぬ、新梅屋敷百花園は梅の盛りなり、御大祭日なれば群集も其筈の事ながら、是はまた格別の賑はひ、郡司大尉の壮行をまのあたり見て、子や孫に語りて教草にせんと、送別の外の遊人も多くして、帰さは筇を此に曳きしも少からで、また一倍の賑はひはありしならん、一人志しを立て国家の為に其身をいたせば、満都の人皆な動かされて梅の花さへ余栄を得たり、人は世に響き渡るほどの善事を為したきものなり、人は世に効益を与ふる大人君子に向ひては、直接の関係はなくとも、斯く間接の感化をうくるものなれば、尊敬の意をうしなふまじきものなりなど、花は見ずして俯向ながら庭を巡るに、斯く花園を開きて、人の心を楽ます園主の功徳、わづかの茶代に換へ得らるゝものならず、此園はそもいかにして誰が開きしぞ。
第三囘
此の梅屋敷は文化九年の春より菊塢が開きしなり、百花園菊塢の伝は清風廬主人、さきに国民之友に委しく出されたれば、誰人も知りたらんが、近頃一新聞に菊塢は無学なりしゆゑ、詩仏や鵬斎に詩文にてなぶり者にされたりといふ事見えたるが、元より菊塢、世才には長たれど学文はなし、詩仏鵬斎蜀山真顔千蔭春海等、当時の聞人の幇間半分なぶり者にせられしには相違なし、併し諸名家が菊塢を無祝儀で取巻同様にする間に、菊塢はまた諸名家を無謝儀にて使役せしなり、聞人といふものは何の世にても我儘で高慢で銭も遣はぬくせに、大面で悪く依怙地で、自分ばかりが博識がるものなり、菊塢は奥州よりボツト出て、堺町の芝居茶屋和泉屋勘十郎方の飯焚となり、気転が利くより店の若衆となり、客先の番附配りにも、狂言のあらましを面白さうに話して、だん/\取入り、俳優表方の気にも入り、見やう聞真似に発句狂歌など口早く即興にものするに、茶屋の若者には珍しい奴と、五代目白猿に贔屓にされ、白猿の余光で抱一不白などの許へも立入るやうになり、香茶活花まで器用で間に合せ、遂に此人たちの引立にて茶道具屋とまでなり、口前一つで諸家に可愛がられ、四十年来の閲歴に聞人達の気風を呑込たれば、只で諸名家の御休息所を作り、其の御褒美には梅一本づゝ植て下されと、金と卑劣に出ざる名案、梅一本の寄附主が、和尚如何だナ抔と扶持でもして置くやうに巾を利かせて、茶の呑倒しを、コレハ先生よくこそ御来臨、幸ひ左る方より到来の銘酒、これも先生に口を切て頂くは、青州従事が好造化などゝ聞かぢりと、態と知らせて馬鹿がらせて悦ばせれば、大面先生横平たく、其面を振り廻し、菊塢は可笑い奴だ、今度の会は彼処で催してやらうと有難くない御託宣、これが諸方へ引札となり、聞人達の引付で、諸侯方まで御出になり、わづかのうちに新梅屋敷の名、江都中に知られ、夫のみならず先生々々の立こがしに、七草考の都鳥考のと人に作らせて、我名にて出版せしゆゑ、知らぬものは真の文雅の士とおもひ、訪よるさへも多ければ、忽ち諸国にも園の名を馨らせ、枝葉の栄え、それのみか、根堅き名園を斯く遺して年々の繁昌、なみ/\の智恵、生才学にて此の長栄不朽の計画のなるべきや、気を取りにくき聞人の気をよく取りて皆我用となしたるは、多く得がたき才物なり、もし戦国の時にあらば、うまく英雄の心を攬りて、いかなる奇功を立たるやはかりがたし、殊に此地に一名園を加へたるは私利のみなりといふべからず、偖此の菊塢老年には学問も少しは心がけしと見え、狂歌俳句も左のみ手づゝにはあらず、我が蔵する菊塢の手紙には、梅一枝画きて其上に園の春をお分ち申すといふ意味の句あり、また曲亭馬琴が明を失してのち、欝憂を忘るゝために己れと記臆せし雑俳を書つらねて、友におくりし中に、此菊塢の狂歌二首発句一句あり、(手紙と其書も移転まぎれに捜しても知れぬは残念)兎にも角にも一個の豪傑「山師来て何やら植ゑし隅田川」と白猿が、芭蕉の句をもじりて笑ひしは、其身が世の名利に拘はらねばなり、此日見るもの皆嬉しく、人の為る業を有難く思ひしは、朝の心の快濶なりしうつりか、其飛々の独笑み隅田の春光今日新し。
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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