門人傳說
上人或時、しめして曰はく、聖道淨土の二門を能く分別すべきものなり。聖道門は煩惱即菩提、生死即涅槃と談ず。我も此法門を人にをしへつべけれども、當世の機根においてはかなふべからず。いかにも煩惱の本執に立かへりて[1]人を損ずべき故なり。淨土門は身心を放下して、三界六道の中に希望する所ひとつもなくして往生を願ずるなり。此界の中に一物も要事あるべからず。此身をここに置ながら、生死をはなるる事にはあらず。
又云、三心といふは名號なり[2]。この故に至心信樂欲生我國を稱我名號と釋せり。故に稱名する外に全く三心はなきものなり。
又云、至誠心は自力我執の心を捨て彌陀に歸するを眞實心の體とす[3]。其故は貪瞋邪僞奸詐百端を釋するは衆生の意地をきらひすつるなり。三毒は三業の中には意地具足の煩惱なり。深心とは、自身現是罪惡生死凡夫と釋して、煩惱具足の身を捨て本願の名號に歸するを深心の體とす。然れば至誠心深心の二心は衆生の身心のふたつをすてて、他力の名號に歸する姿なり。囘向心とは、自力我執の時[4]の諸善と名號所具の諸善と一味和合[5]するとき、能歸所歸一體と成て、南無阿彌陀佛とあらはるるなり、此うへは上の三心は即施即廢[6]して獨一の南無阿彌陀佛なり。然れば三心とは身心を棄て念佛申すより外に別の子細なし。其身心を棄てたる姿は南無阿彌陀佛是なり。
又常に長門顯性房[7]を稱美して云、三心所廢の法門はよく立られたり。されば往生を遂られたり。
又云、至誠心を眞實といふこと、菅三品[8]の云、「物を讀むに事の樣によりて、訓に讀事あり。訓に讀ざる事あり」と。至といふは眞なり。誠といふは實なりと釋したまひたる、故に至誠をば訓にかへりて讀べからず。唯名號の眞實なり。是則彌陀を眞實といふ意なり。わが分の心よりおこす眞實心に非ず。凡情をもて測量する法は眞實なし。所以はいかんとなれば、能緣の心は虛妄なるゆへに不眞實なり。ただ所緣の名號ばかりを眞實とす。故に名號を不可思議功德ともとき、又は眞實とも說なり。理趣經の首題は大樂〈大日〉金剛〈阿閦〉不空〈寶生〉眞實〈彌陀〉三昧耶〈不空成就〉經といふ。本より眞實といふは彌陀の名なり。されば至誠心を眞實心といふは、他力の眞實に歸する心なり。
又云、深心の釋に自身現是罪惡生死凡夫、曠劫已來常没流轉、無有出離之緣といふこと、世の人おもへらく、此身の爲に種種の財寶をもとめはしり、妻子等を帶したるをこれ凡夫のくせなり。かかる事をえすてねばこそ罪惡生死の凡夫の物の用にもたたぬ身ぞと釋せられたりと。此義しからず。惡きものの出離の用にも立ねばこそ此身をばすつべけれ。されば下の釋には佛の捨しめたまふをばすて、去しめたまふをばされと曰へり。わろしとは知ながら、いよいよ著してこころやすくはぐくみたてんとて、財寶妻子をもとめて、酒肉五辛をもてやしなふ事は、ゑせものと知りたる甲斐なし。わろきものをばすみやかにすつるにはしかず。
又云、自身現是罪惡生死凡夫[9]、乃至無有出離之緣と信じて、他力に歸する時、種種の生死はとどまるなり。いづれの敎にもこの位に入りて生死を解脱するなり。今の名號は能所一體の法なり。
又云、淨土を立るは欣慕の意を生じ、願往生の心をすすめんが爲なり。欣慕の意をすすむる事は、所詮稱名のためなり。しかれば深心の釋には使人欣慕といふなり。淨土のめでたき有樣をきくに付けて、願往生の心は發るべきなり。此心がおこりぬれば、かならず名號は稱せらるるなり。されば願往生のこころは名號に歸するまでの初發のこころなり。我心は六識分別の妄心なる故に彼土に修因に非ず[10]。名號の位則往生なり。故に他力往生といふ。打まかせて人ごとにわがよくねがひ、こころざしが切なれば、往生すべしとおもへり。
又云、深心の釋に佛の捨てしめたまふものをば卽捨てよといへる。佛といふは彌陀なり。捨てよといふは自力我執なり。佛の行ぜしめたまふものをば卽行ぜよといへる。行とは名號なり。佛の去しめたまふ處をば卽されといへる。處とは穢土なり。隨順佛願といへる。佛願とは彌陀佛の願なり。
又云、念念不捨者といふは、南無阿彌陀佛の機法一體[11]の功能なり。或人の義には機に付といひ、或は法に付ともいふ。いづれも偏見なり。機も法も名號の功能と知ぬれば、機に付れどもたがはず。法に付れどもたがはず。其ゆへは機法不二の名號なれば、南無阿彌陀佛の外に能歸もなく又所歸もなき故なり。
又云、上六品の諸善[12]は他力所成の善體をとき、下三品は煩惱賊害のすがたを說なり。その實は行福[13]の者は上三品ととき、戒福[14]の者をば中三品ととき、世福[15]の者をば下三品と說べし。そのゆへは一明三福以爲正因二明九品以爲正行と釋して、九品ともに正行の善あるべきなり。囘向心の諸善は名號所具の諸善と、衆生自力の時の諸善と一味になる時をいふなり。
又云、隨緣雜善恐難生といへる隨緣[16]といふは、心の外に境ををいて修行するなり。よその境にたづさはりて心をやしなふ。故に境滅すれば成就せず。是卽自力我執の善なり。これを隨緣雜善といふ。
又云、我といふは煩惱なり。所行の法と我執の機と各別する故に、いかにも我執あらば修行成ずべからず。一代の敎法是なり。隨緣治病者各依方といふも、是自力の善なり。
又云、今他力不思議の名號は自受用[17]の智なり。自受用といふは、水が水をのみ[18]火が火を燒がごとく、松は松、竹は竹[19]、其體をのれなりに生死なきをいふなり。然に衆生我執の一念にまよひしより已來既に常没の凡夫たり。爰に彌陀の本願他力の名號に歸しぬれば、生死なき本分にかへるなり。これを努力飜迷還本家といふなり。名號に歸する外は我とわが本分本家に歸ること有べからず。
又云、能歸といふは南無なり。十方衆生なり。是すなはち命濁中夭の命なり。然に常住不滅の無量壽に歸しぬれば、我執の迷情をけづりて、能歸所歸一體[20]にして、生死本無なるすがたを六字の南無阿彌陀佛と成就せり。かくのごとく領解するを三心の智慧[21]といふなり。その智慧といふは、所詮自力我執の情量を捨うしなふ意なり。
又云、我體を捨て南無阿彌陀佛と獨一なるを一心不亂といふなり。されば念念稱名は念佛が念佛を申なり。しかるをも我よく意得我よく念佛申て往生せんとおもふは、自力我執がうしなへざるなり。おそらくはかくのごとき人は往生すべからず。念不念作意不作意。總じてわが分にいろはず。唯一念佛に成を一向專念といふなり。
又云、本より已來自己の本分は流轉するにあらず、唯妄執が流轉するなり。本分といふは諸佛已證の名號なり。妄執は所因もなく實體もなし。本不生なり。
又云、世の人おもへらく、自力他力を分別してわが體を有せて、はれ他力にすがりて往生すべしと。云云。
此義しからず。自力他力は初門の事なり。自他の位を打捨て唯一念佛になるを他力とはいふなり。熊野權現[22]の信不信をいはず。有罪無罪を論ぜず。南無阿彌陀佛が往生するぞと示現し給ひし時より、法師は領解して、自力の我執を打捨たりと。これは常の仰なり。
又云、自力の善は七慢[23]九慢[24]をはなれざるなり。故に憍慢弊懈怠、難以信此法といひ、三業起行多憍慢とも釋するなり。無我無人の南無阿彌陀佛に歸しぬれば、擧べき人もなくくだるべき我もなし。此道理を大經[25]には住空無相無願三昧といひ、或は通達諸法性、一切空無我、專求淨佛土、必定如是刹とも說給へり。
又云、極樂はこれ空無我の淨土なるが故に。善導和尙は畢竟逍遥離有無と曰へり。往生人を說には皆受自然虛無之身無極之體といへり。されば名號は靑黃赤白の色にもあらず。長短方圓の形にもあらず、有にもあらず無にもあらず、五味[26]をもはなれたる故に。口にとなふれどもいかなる法味ともおぼへず。すべていかなるものとも思ひ量べき法にあらず。これを無疑無慮といひ、十方の諸佛はこれを不可思議とは讃たまへり。唯聲にまかせてとなふれば、無窮の生死をはなるる言語道斷の法なり。
又云、自力の時我執憍慢の心おこるなり。其ゆへはわがよく意得わがよく行じて生死を離るべしとおもふ故に、智慧もすすみ行もすすめば、我ほどの智者われ程の行者はあるまじとおもひて、身をあげ人をくだすなり。他力稱名に歸しぬれば、憍慢なし卑下なし、其故は身心を放下して、無我無人の法に歸しぬれば、自他彼此の人我なし。田夫野人尼入道愚癡無智までも平等に往生する法なれば、他力の行といふなり。般舟讃に、三業起行多憍慢といふは自力の行なり。單發無上菩提心、廻心念念生安樂といふは三心をすすむるなり。自力の行は憍慢おほければ、三心をおこせとすすむるなり。
又云、中路の白道は南無阿彌陀佛なり。水火の二河は我等が心なり。二河にをかされぬは名號なり[27]。
又云、阿彌陀經の一心不亂といふは名號の一なり。もし名號の外にこころを求めなば、二心不亂といふべし、一心とはいふべからず。されば稱讃淨土經には慈悲加祐[28]、令心不亂ととけり。機がおこす妄分の一心にはあらず。
又云、安心といふは南無なり。起行といふは阿彌陀の三字なり。作業といふは佛なり。機法一體の南無阿彌陀佛に成りぬれば、三心[29]四修[30]五念[31]は皆もて名號なり。
又云、決定往生の信たらずとて人ごとに歎くはいはれなき事なり。凡夫のこころには決定なし。決定は名號なり。しかれば決定往生の信たらずとも、口にまかせて稱せば往生すべし。是故に往生は心によらず。名號によりて往生するなり。決定の信をたてて往生すべしといはば、猶心品にかへるなり。わがこころを打すてて一向に名號によりて往生すと意得れば、をのづから又決定の心はおこるなり。
又云、決定といふは名號なり。わが身わがこころは不定なり。身は無常遷流の形なれば念念に生滅す。心は妄心なれば虛妄なり。たのむべからず。
又云、〈飾萬津別時結願の仰なり。〉名號は信ずるも信ぜざるも、となふれば他力不思議の力にて往生す。自力我執の心をもて兎角もてあつかふべからず。極樂は無我の土なるが故に、我執をもては往生せず。名號をもて往生すべきなり。
又云、萬法[32]は無より生じ[33]、煩惱は我より生ず。
又云、名號に心をいるるとも、こころに名號をいるべからず。
又云、生死といふは妄念なり。妄執煩惱は實體なし。然るに此妄執煩惱の心を本として、善惡を分別する念想をもて、生死を離れんとする事いはれなし。念は卽ち出離のさはりなり。故に念卽生死と釋せり。生死を離るるといふは念をはなるるなり。こころはもとの心ながら、生死を離るるといふ事またくなきものなり。
又云、漢土に徑山といふ山寺あり。禪の寺なり。麓の卒都婆の銘に念起是病不續是藥。云云。由良の心地房は此頌文をもて法を得たりと。云云。
又云、名號を念佛といふ事意地の念[34]を呼で念佛といふにはあらず。ただ名號の名なり。物の名に松ぞ竹ぞといふがごとし。をのれなりの名なり。
又云、念聲是一[35]といふ事、念は聲の義なり。意念と口稱とを混じて一といふにはあらず。本より念と聲と一體なり。念聲一體といふはすなはち名號なり。
又云、念佛三昧といふ事、三昧といふは見佛の義なり。常の義には、定機[36]は現身見佛。散機[37]は臨終見佛する故に三昧と名づくと。云云。此義しからず。此見佛はみな觀佛三昧の分なり。今の念佛三昧といふは、無始本有常住不滅の佛體なれば、名號卽これ眞實の見佛、眞實の三昧なり[38]。故に念佛を王三昧といふなり。
又云、稱名の外に見佛[39]を求べからず。名號すなはち眞實の見佛なり。肉眼をもて見るところの佛は眞佛にあらず。もし我等當時の眼に佛を見ば魔なりとしるべし。但し夢にみるには實なる事も有べし。夢は六識を亡じて無分別の位にみる故なり。是ゆへに釋には夢定といへり。
又云、魔に付く順魔[40]逆魔[41]のふたつあり。行者の心に準じて魔となるあり。行者の違亂となりて魔となるあり。ふたつの中には順魔がなを大事の魔なり。妻子等是なり。
又云、攝取不捨の四字を三緣を釋するなり。攝に親緣[42]の義あり。取に近緣[43]の義あり。不捨に增上緣[44]の義あるなり。
又云、如來の禁戒をやぶれる尼法師の行水をし、身をくるしむるは、またくこれ懺悔にあらず[45]。ただ自業自得の因果のことはりをしるばかりなり。眞實の懺悔は名號他力の懺悔なり。故に念念稱名常懺悔と釋せり。自力我執の心をもて懺悔を立べからず。
又云、他力稱名の行者は、此身はしばらく穢土に有といへども、心はすでに往生を遂て淨土にあり。此旨を面面にふかく信ぜらるべしと。云云。
又云、慈悲に三種あり。いはく小悲中悲大悲なり。大悲といふは法身の慈悲なり。今の別願成就の彌陀は法身の大悲を提げて衆生を度したまふ。故に眞實にしてむなしからざるなり。これを經には佛心者大慈悲是、以無緣慈攝諸衆生ととけり。
又云、往生といふ事。往は理なり。生は智なり。理智契當するを往生といふなり。
又云、唯信罪福のものは佛の五智を疑ひてみづからが情をもて往生を願ずる故に。往生はしながら花合の障あり。六識の凡情をもてたとひ功德を修し觀念を凝すとも、能緣の心虛妄なれば、所緣の淨土も亦實體なし。極樂は無我眞實の土なれば、自力我執の善をもてはまたく生ずべからず。唯弘願の一行をもて往生を得べし。しかれば凡夫の意樂をもては生ずべからず。畢命爲期の稱名の外に種種の意樂をもとむるは、眞實の佛法をしらざる故に往生すべからず。
又云、無心寂靜なるを佛といふ。意樂をおこすは佛といふべからず。意樂は妄執なりと。云云。此風情は常の仰なり。
又云、念佛の機に三品あり。上根は妻子を帶し家に在ながら、著せずして往生す。中根は妻子をすつるといへども、住處を衣食とを帶して、著せずして往生す。下根は萬事を捨離して往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨てば定で臨終に諸事に著して往生をし損すべきなりと思ふ故にかくのごとく行ずるなり。よくよく心に思量すべし。ここにある人問て曰、『大經の三輩は上輩を捨家棄欲ととけり。今の御義には相違せり如何。』答てのたまはく、『一切の佛法は心品を沙汰す。外相をいはず。心品の捨家棄欲[46]して無著なる事を上輩と說り。』
又云、法照禪師の云、『念卽無念聲卽無聲。』と。されば名號は卽名號なし。龍樹菩薩は爲衆說法無名字といへり。無名字とは是名號なり。又名號は壽の號なり。故に阿彌陀の三字を無量壽といふなり。此壽は無量常住の壽にして不生不滅なり。すなはち一切衆生の壽命なり。故に彌陀を法界身といふなり[47]。
又云、無量壽とは、一切衆生の壽不生不滅にして常住なるを無量壽といふなり。これ則所讃の法なり。西方に無量壽佛ありといふは能讃の佛なり。諸佛同道の佛なるが故なり。
又云、皆人の南無阿彌陀佛をこころえて往生すべきやうにおもへり。甚謂れなき事なり。六識凡情をもて思量すべき法にはあらず。但し領解すといふは領解すべき法にはあらずと意得るなり。故に善導は三賢十聖[48]弗測所闚と釋したまへり。
又云、十方三世の諸佛は不可思議功德と讃歎し、又大經には諸佛光明所不能及と說たまへり。光明は智相なり。しかれば諸佛の源智も及ざる所なり。いかにいはんや凡夫の妄智妄識をもて思量すべけんや。唯仰で信じ稱名するより外に意樂の智慧を求べからず。
又云、南無とは十方衆生なり。阿彌陀とは法なり。佛とは能覺の人なり。六字をしばらく機と法と覺との三に開して、終には三重が一體となるなり。しかれば名號の外に能歸の衆生もなく、所歸の法もなく、能覺の人もなきなり。是則自力他力を絕し[49]、機法を絕する[50]所を南無阿彌陀佛といへり。火は薪を燒にたきぎ盡れば火滅するがごとく、機情盡ぬれば法も又息するなり。しかれば金剛寶戒章と云文には、南無阿彌陀佛の中には機もなく法もなしといへり。いかにも機法をたてて迷悟ををかば、病藥對治の法にして眞實至極の法體にあらず。迷悟機法を絕し自力他力のうせたるを不可思議の名號ともいふなり。
又云、南無は始覺の機、阿彌陀佛は本覺の法なり。しかれば始本不二の南無阿彌陀佛なり。
又云、一念も十念も本願にあらず。善導の釋ばかりにては猶意得られず。文殊の法照に授給ひしは、經に一念十念の文有といへども、一念十念の詞もなく、ただ念佛往生を仰べしと。云云。念佛といふは南無阿彌陀佛なり。もとより名號卽往生なり。名號の所には一念十念といふ數はなきなり。
又云、往生は初の一念なり。初の一念といふもなほ機に付ていふなり。南無阿彌陀佛はもとより往生なり。往生といふは無生なり。此法に遇ふ所をしばらく一念といふなり。三世裁斷の名號に歸入しぬれば無始無終の往生なり。臨終平生と分別するも、妄分の機に就て談ずる法門なり。南無阿彌陀佛には臨終もなく平生もなし。三世常恆の法なり。出る息いる息をまたざる故に、當體の一念を臨終とさだむるなり。しかれば念念臨終なり。念念往生なり。故に囘心念念生安樂と釋せり。おほよそ佛法は當體の一念の外には談ぜざるなり。三世すなはち一念なり。
又云、有後心無浮心といふことあり。當體一念の外に所期なきを無後心といふ[51]。所詮は待心[52]の區なるを失ふべきなり。此風情日日夜夜の仰なりき。
又云、念佛三昧は無色無形不可得の法なり。功能なし。名號も能成の法なり。萬法は所成の法なり。故に法もすなはち三賢十地の萬行の智慧を熏成すと釋せり。彌陀の色相[53]莊嚴のかざり皆もて萬善圓滿の形なり。依正二報[54]は萬法の形なり。來迎の佛體も萬善圓滿の佛なり。往生する機も亦萬善なり。萬善の外に十方衆生なし。一座無移亦不動[55]とは、念佛三昧すなはち彌陀なり。彼此往來なし。無來無去不可思議不可得の法なり。いかにも來迎の姿は萬善の法なり。諸行往生と云も實なり、諸行の外に機なし。往生は機こそすれ、諸行を本願といふこそ、無下に法の仔細をしらずしていふ事にてあれ。
又云、行者の待によりて佛も來迎したまふとおもへり[56]。たとひ待えたらんとも、三界の中の事なるべし。稱名の位が卽まことの來迎なり。稱名卽來迎と知ぬれば、決定來迎あるべきなれば、却て待るるなり。およそ名號の外はみな幻化の法なるべし。
又云、一切の法[57]も眞實なるべし。其故は名號所具の萬法と知ぬれば、皆眞實の功德なり[58]。これも功德の當體が眞實なるにもあらず。名號が成ずれば眞實になるなり[59]。功德といふは出離の要道にあらず福業なり。故に觀經には萬法をつかねて三福の業と說り。正因正行[60]といふ時は名號と一味するなり。
又云、大經に住空無相無願三昧と說り。此卽名號なり。我等は無相離念の觀法もならず。自性無念[61]のさとりもならず。底下愚縛の凡夫なれども、身心を放下して唯本願をたのみて一向に稱名すれば、是卽自性無念の觀法なり。無相離念の悟なり。これを觀經には廓然大悟、得無生忍と說り。およそ名號に歸しぬれば、功德として不足なし。是を無上功德ととき、これを他力の行といふなり。
又云、罪といひ功德といふこと、凡夫淺智のものまたく分別すべからず。空也の釋に云、『智者の逆罪は變じて成佛の直道となり、愚者の勤行はあやまれば三途の因業となる。』と云云。しかれば愚者は功德とおもへども、智者の前には罪なり。愚者は罪とおもへど、智者の前には功德なり。微微細細なり。我等愚痴の身のいかでか分別すべきや。なに況や善惡の二道はともに出離の要道にあらず。ただ罪をつくれば重苦をうけ、功德を作れば善所に生ずる故に、止惡修善ををしゆるばかりなり。しかれば善導は罪福の多少をとはずと釋したまへり。所詮罪と功德の沙汰をせず、なまざかしき智慧を捨て、身命をおしまず。偏に稱名するより外に餘の沙汰有べからず。
又云、善惡の二道は機の品なり。顚倒虛假の法なり。名號は善惡の二機を攝する眞實の法なり。
又云、有心も生死の道、無心は涅槃の城なり。生死をはなるるといふも心をはなるるをいふなり。しかれば淨土をば無心領納自然知ともいひ、未藉思量一念功とも釋し、或は無有分別心ともいふなり。分別の念想おこりしより生死は有なり。されば心は第一の怨なり。人を縛して閻羅の所に至らしむと。云云。
又云、佛法を修行するに近對治遠對治といふことあり。近對治といふは、臨終正念にして、妄念をひるがへし一心不亂なるを云り。遠對治といふは、道心者はかねて惡緣ひとつもなくすつるなり。臨終にはじめて捨ることはかなはず、平生の作法が臨終に必現起するなり。故に善導は『忽爾に無常の苦來逼すれば、精神錯亂して始めて驚忙す。萬事家に生ぜば皆捨離して、專心に發願して西方に向へ。』と釋せり。
又云、苦をいとふといふは、苦樂共に厭捨するなり。苦樂の中には、苦はやすくすつれども、樂はえすてぬなり。樂をすつるを厭苦の體とす。その所以は樂の外に苦はなきなり。しかれば、善導は、是れ樂と言ふと雖も然も是れ大苦なり。必畢じて一念眞實の樂有ること無し、と釋せり。或は、總じて勸む此人天の樂を厭ふことを、と釋せり。されば樂の外に苦はなき故に、樂をいとふを厭苦といふなり。
又云、三界は有爲無常の境なるが故に、一切不定なり。幻化なり。此界の中に常住ならんとおもひ、心やすからんと思はんは、たとへば漫漫たる波のうへに、船をゆるかつてをかむとおもへるがごとし。
又云、一念彌陀佛卽滅無量罪現受無比樂後生淸淨土といふ事。無比の樂を世の人の世間の樂なりとおもへるはしからず。これ無貪の樂なり。其故は決定往生の機と成ぬれば、三界六道の中にはうらやましき事もなく、貪すべき事もなく、生生世世流轉生死の間に皆受てすぎ來れり。然れば一切無著なるを無比樂といふなり。世間の樂はみな苦なれば、いかでか佛祖の心愚にして無比の樂とは曰ふべきや。
又云、心外に境を置て罪をやめ善を修する面にては、たとひ蓙劫をふるとも生死をば離るべからず。いづれの敎にも能所の絕する位に入て生死を解脱するなり。今の名號は能所體の法なり。
又云、生ながら死して靜に來迎を待べしと。云云。萬事にいろはず一切を捨離して孤獨獨一なるを死するとはいふなり。生ぜしもひとりなり。死するも獨なり。されば人と共に住するも獨なり。そひはつべき人なき故なり。又わがなくして念佛申が死するにてあるなり。わが計ひをもて往生を疑ふは、總じてあたらぬ事なり。
又云、念佛の下地をつくる事なかれ。總じて行ずる風情も往生せず。ただ南無阿彌陀佛が往生するなり。
又云、聞名欲往生といふこと。人のよ所に念佛するをきけば、わが心に南無阿彌陀佛とうかぶを聞名といふなり。しかれば名號が名號を聞なり[62]。名號の外に聞べきやうのあるにあらず。
又云、我みづから念佛すれども南無阿彌陀佛ならぬ事あり。我體の念を本として念佛するは、これ妄念を念佛とおもへばなり。又口に名號をとなふれども、心に本念あれば、いかにも本念こそ臨終にはあらはるれ、念佛は失するなり。然れば心に妄念をおこすべからず。さればとて一向に餘念なかれといふにはあらず。
又云、從是西方過十萬億佛土といふ事。實に十萬億の里數を過るにはあらず。衆生の妄執のへだてをさすなり。善導の釋に、竹膜を隔つるに、卽ち之を千里に踰ゆとおもへり、といへり。ただ妄執に約して過十萬億と云。實には里數を過る事なし。故に經には阿彌陀佛去此不遠と說り。衆生の心をさらずといふ意なり。凡大乘の佛法は心の外に別の法なし。ただし聖道は萬法一心とならひ、淨土は萬法南無阿彌陀佛と成ずるなり。萬法も無始本有の心德なり。しかるに我執の妄法におほはれて其體あらはれがたし。今彼の一切衆生の心德を願力をもて南無阿彌陀佛と成ずる時衆生の心德は開くるなり。されば卽ち心の本分なり。是を去此不遠ともいひ、莫謂西方遠唯須十念心ともいふなり。
又云、まよひも一念なり。さとりも一念なり。法性の都をまよひ出しも一心の妄心なれば、まよひを飜ずも又一念なり。然れば一念に往生せずば無量の念にも往生すべからず。故に一聲稱念罪皆除ともいひ、一念稱得彌陀號至彼還同法性身とも釋するなり。ただ南無阿彌陀佛がすなはち生死を離れたるものを、これをとなへながら往生せばや〳〵とおもひ居たるは、飯をくひ〳〵、ひだるさやむる藥やあるとおもへるがごとしと。これ常の御詞なり。
又云、およそ一念無上の名號にあひぬる上は、明日までも生て要事なく、すなはちとく死なんこそ本意なれ。然るに娑婆世界に生て居て、念佛をばおほく申さん。死の事には死なしと思ふ故に、多念の念佛者も臨終をし損ずるなり。佛法には身命を捨ずして證利[63]を得る事なし。佛法にはあたひなし。身命を捨るが是あたひなり。是を歸命と云なり。
又云、衣食住の三は三惡道なり。衣裳を求めざるは畜生道の業なり。食物をむさぼりもとむるは餓鬼道の業なり。住所をかまふるは地獄道の業なり。しかれば三惡道をはなるべきなり。
又云、信といふはまかすとよむなり。他の意にまかする故に人の言と書り。我等は卽法にまかすべきなり。しかれば衣食住の三をわれと求る事なかれ。天運にまかすべきなり。空也上人の云、『三業[64]を天運に任せ、四儀[65]を菩提に讓る。』と。云云。是則他力に歸したる色なり。古湛禪師の云、『煩しく破を轉ずること勿れ、只天然に任せよ。』といへり。
又云、本來無一物なれば、諸事において實有我物のおもひをなすべからず。一切を捨離すべしと。云云。これ常の仰なり。
又云、臨終念佛の事。皆人の死苦病苦に責られて、臨終に念佛せでやあらむずらむとおもへるは、是いはれなき事なり。念佛をわが申がほに、かねて臨終を疑ふなり。旣に念佛申も佛の護念力なり。臨終正念なるも佛の加祐力なり。往生においては一切の功能皆もて佛力法力なり。ただ今の念佛の外に臨終の念佛なし。臨終卽平生となり。前念は平生となり、後念は臨終と取なり。故に恆願一切臨終時と云なり。只今念佛申されぬ者が臨終にはえ申さぬなり。遠く臨終の沙汰をせずして能く恆に念佛申べきなり。
又云、名號には領せらるとも、名號を領すべからず。およそ萬法は一心なりといへども、みづからその體性をあらはさず。我目をもてわが目を見る事を得ず。又木に火の性有といへども其火その木をやく事をえざるがごとし。鏡をよすれば我目をもて我目を見る。これ鏡のちからなり。鏡といふは衆生本有の大圓鏡智の鏡、諸佛已證の名號なり、しかれば名號の鏡をもて本來の面目を見るべし。故に觀經には如執明鏡自見面像と說けり。又別の火をもて木をやけば則やけぬ。今の火と木中の火と別體の火にはあらず。然れば萬法豐かならず因緣和合して成ずるなり。其身に佛性の火有といへども、われと煩惱の薪を燒滅する事なし。名號の智火のちからをもて燒滅すべきなり。淨土門に機を離れて機を攝するといふ名目あり。是をこころえ合すべきなり。
又云、名號は諸佛已證の法なり。されば釋には諸佛の覺他が彌陀となるといへり。
又云、法華と名號と一體なり。法華は色法。名號は心法なり。色心不二なれば、法華すなはち名號なり。故に觀經には若念佛者、是人中芬陀利華ととく。芬陀利華とは蓮花なり。さて法華をば薩達摩芬陀利經といへりと。云云。
又云、或人問て云、『諸行は往生すべきやいなや、亦法華と名號といづれか勝れて候。』と。云云。上人答て云、『諸行も往生せばせよ、せずはせず。又名號は法華にをとらばをとれまさらばまされ。なまざかしからで物いろひを停止して、一向に念佛申ものを善導は人中の上上人と譽たまへり。法華を出世の本懷[66]といふも經文なり。又釋迦の五濁惡世に出世成道するはこの難信の法を說むが爲なりといふも經文なり、機に隨て益あらば、いづれも皆勝法なり。本懷なり、益なければいづれも劣法なり、佛の本意にあらず。餘經餘宗があればこそ此尋は出來れ。三寶滅盡[67]のときはいづれの敎とか對論すべき。念佛の外には物もしらぬ、法滅百歲の機になりて一向に念佛すべし。これ無道心の尋なり。』
又或人淨土門の流流の異義を尋申て、いづれにか付候べきと。云云。上人答云、『異義のまちまちなる事は我執の前の事なり。南無阿彌陀佛の名號には義なし。若義によりて往生する事ならば尤此尋は有べし。往生はまたく義によらず名號によるなり。法師が勸る名號を信じたるは往生せじと心にはおもふとも、念佛だに申さば往生すべし。いかなるゑせ義を口にいふとも、心におもふとも、名號は義によらず心によらざる法なれば、稱すればかならず往生するぞと信じたるなり。たとへば火を物につけんに、心にはなやきそ[68]とおもひ、口になやきそといふとも、此詞にもよらず念力にもよらず。ただ火者をのれなりの德として物をやくなり。水の物をぬらすもおなじ事なり。さのごとく名號もをのれなりと往生の功德をもちたれば、義にもよらず心にもよらず詞にもよらずとなふれば往生するを、他力不思議の行と信ずるなり。』
又云、熊野の本地は彌陀なり。和光同塵して念佛をすすめたまはんが爲に神と現じたまふなり。故に證誠殿と名づけたり。是念佛を證誠したまふ故なり。阿彌陀經に西方に無量壽佛ましますといふは、能證誠の彌陀なり。
又云、我法門は熊野權現夢想の口傳なり。年來淨土の法門を十二年まで學せしに[69]、すべて意樂をならひうしなはず。しかるを熊野參籠の時御示現にいはく、心品のさはくり有べからず。此心はよき時もあしき時も迷なる故に、出離の要とはならず。南無阿彌陀佛が往生するなりと。云云。我此時より自力の意樂をば捨果たり。是よりして善導の御釋を見るに、一文一句も法の功能[70]ならずと云事なし。玄義のはじめ先勸大衆發願歸三寶[71]といへるは南無阿彌陀佛なり。これよりをはりに至まで、文文句句みな名號なり。
又云、一代聖敎の所詮はただ名號なり。其故は天臺には諸敎所讃多在彌陀と云、善導は是故諸經中廣讃念佛功能と釋し、觀經には持是語者卽是持無量壽佛名と阿難に附屬[72]し、阿彌陀經には難信之法と舍利弗に附屬し、大經には一念無上功德と彌勒に附屬せり。三經ならびに一代の所詮ただ念佛にあり。聖敎といふは此念佛を敎たるなり。かくのごとくしりなば、萬事をすてて念佛申べき所に、或は學問にいとまをいれて念佛せず。或は聖敎をば執して稱名せざると。いたづらに他の財をかぞふるがごとし。金千兩まいらするといふ券契をば持ながら、金をば取ざるがごとしと常の仰なりき。
又云、伊豫國に佛阿彌陀佛といふ尼ありき。習もせぬ法門を自然にいひしなり。常の持言にいはく、知てしらざれとて愚痴なれと。此淨土の法門にかなへり。
又云、披佛今現在世成佛、當知本誓重願不虛といへる。重願といふは、かさねたる願とよむなり。おもきとは讀べからず。披佛今現在世成佛當知本誓といふは四十八願なり。重願不虛といふはかさねたる念佛往生の願なり。一一願言と釋するも此意なり。
又云、夢と現とを夢に見たり。〈弘安十一年正月二十一日夜の御夢なり。〉種種に變化し遊行するぞと思ひたると夢にて有けり。覺て見れば少しもこの道場をばはたらかず。不動なるは本分なりと思ひたれば、これも又夢也けり。此事夢も現も共に夢なり。當世の人の悟ありと匉訇はこの分なり。まさしく生死の夢覺ざれば此悟は夢なるべし。實に生死の夢をさまさんずる事は、ただ南無阿彌陀佛なり。
又云、菩提心論にいはく、『筏に遇うて彼岸に達すれば、法已に捨つ應し。』極樂も指方立相[73]の分は法已應捨の分なるべし。
又云、三業起行皆念佛といふ事。禮拜意念等の體をおさへて、すなはち念佛といふにはあらず、手に念珠をとれば口に稱名せざれども、心にかならず南無阿彌陀佛ととのふ。身に禮拜すれば心に必ず名號を思ひ出らる。經をよみ佛を觀想すれば名號かならずあらはるるなり。是を三業卽念佛ともいふ。讀誦等を五種の正行[74]といふもよく是を分別すべし。
又云、『或は福慧[75]雙べて障を除くと敎ゆ』といふは眞言なり。『或は禪念[76]坐して思量せよと敎ゆ』といふは宗門なり。靜遍の續選擇にかくのごとくあてたり。『念佛して西方に往くに過るは無し』といふは、諸敎に念佛はすぐれたりといふなり。他力不思議の故なり。
又云、當麻の曼陀羅[77]の示現に云、日來の功は功にあらず、德は德にあらず。云云。善惡の諸法これをもて意得べきなり。當體の南無阿彌陀佛の外に前後の沙汰有べからず。
又云、聖衆莊嚴卽現在彼衆、及十方法界同生者是といふ事。名號酬因[78]の功德に約する時と十界の差別[79]なく、娑婆の衆生までも極樂の正報につらなるなり。妄分に約する時は淨穢も各別なり。生佛も差別するなり。
又云、少分の水を土器に入れたらば則かはくべし。恆河に入くはえたらば一味和分してひる事あるべからず。左のごとく命濁中夭の無常の命を不生不滅の無量壽に歸入しぬれば、生死ある事なし。人師の釋にいはく、『花を五淨によすれば風日にもしぼまず。水を靈河[80]に附すれば世旱にも竭ることなし』と。云云。
又云、名號の外には總じてもて我身に功能なし。皆誑惑と信ずるなり。念佛の外の餘言をば皆たはごととおもふべし。是常の仰なり。
又云、大地の念佛[81]といふ事は、名號は法界酬因の功德[82]なれば、法を離れて行べき方もなし。これを法界身の彌陀ともとき、是を十方諸佛國、盡是法王家とも釋するなり。
又ある人問云、『上人御臨終の後御跡をばいかやうに御定め候や。』上人答云、『法師のあとは跡とす。跡をとどむるとはいかなる事ぞわれしらず。世間の人のあととはこれ財寶所領なり。著相をもて跡とす、故にとがとなる。法師と財寶所領なし、著心をはなる。今法師が跡とは一切衆生の念佛する處これなり。南無阿彌陀佛。』
又上人空也上人は吾先達なりとて、彼御詞を心にそめて、口ずさびたまひき。空也の御詞に云、『心に所緣無ければ日の暮るに隨つて止み、身に所住無ければ夜の明るに隨つて去る。忍辱の衣厚くして杖木瓦石に痛ず、慈悲の室深くして、罵詈誹謗を聞ず。口を信じて三昧市中是れ道場なり。聲に隨つて見佛息精卽念珠たり。夜夜佛の來迎を待ち、朝朝最後近づくと喜ぶ。三業を天運に任せて、四儀を菩提に讓る。又云、名を求め衆を領して身心疲る。功を積み善を修して希望多し。孤獨は境界無きに如かず。稱名は萬事を抛つに如かず。間居隱士貧を樂と爲し、禪觀幽室靜を友となす。藤衣紙衾は是れ淨服にして求め易く更に盜賊の怖無し。上人是等の法語によりて、身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ、機緣に隨ひて徒衆を領したまふといへども、心に諸緣を遠離し[83]、身に一塵をもたくはへず。絹帛の類をふれず。金銀の具を手に取事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠[84]をみがきたまへりと。云云。
又上人筑前國にてある武士のやかたにいらせたまひければ、酒宴の最中にて侍りけるに、家主裝束ことにひきつくろひ、手あらひ口すすぎておりむかひ、念佛受けて又いふ事もなかりければ、上人たち去たまふに、俗の云やうは、『此僧は日本一の誑惑の者や。なんぞ貴き氣色ぞ。』といひければ、客人の有けるが[85]、『さてはなにとして、念佛をば受給ふぞ。』と申せば、念佛には誑惑なき故なりとぞいひける。上人の云く、『おほくの人に逢ひたりしかども、是ぞまことに念佛信じたるものとおぼへて餘人は皆人を信じて法を信ずる事なきに、此俗は依法不依人のことはりをしりて涅槃の禁戒に相かなへり。珍しき事なり』とて、色色ほめたまひき。
又上人鎌倉にいりたまふ時[86]、故ありて武士かたく制止していれたてまつらず。殊さらに誹謗をなし侍りければ、上人云、『法師すべて要なし。ただ人に念佛をすすむるばかりなり。汝等いつまでかながらへてかくのごとく佛法を毀謗すべき、罪業にひかれて冥途におもむかん時は、念佛にこそたすけられ奉べきに』と。武士返答もせずして上人を二杖まで打奉るに、上人はいためる氣色もなく、『念佛勸進を我いのちとす。然るをかくのごとくいましめられば、いづれの所へか行べき。ここにて臨終すべしと曰へり』と。云云。
又或人紫雲たち華降りけるを疑をなしてとひ奉りければ、上人答云、『華の事は華にとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず』と。
又尾州の甚目寺にて七箇日の行法を修したまひけるに、供養の力つきて寺僧等なげきあひければ、上人云、『志あらば幾日なりともとどまるべし。衆生信心より感ずれば其志を受るばかりなり。されば佛法の味を愛樂して禪三昧を食とすといへり。もし身のために衣食を事とせば、またく衆生利益の門にあらず。しばらく在家にたちむかふと。これ隨類應同の義なり。努努歎たまふ事なかれ。我と七日を滿すべし』と。
又上人は勢至菩薩の化身にておはしますよし唐橋法印靈夢の記を持參られければ、上人云、『念佛より詮にてあれ。勢至ならずば信ずまじきか』といましめたまふ。
又御往生の年の五月の頃、上人云、『機緣すでにうすくなり、人人敎誡をもちひず。生涯いくばくならず。死期ちかきにあり』と。云云。
又御往生の前月十日の朝阿彌陀經を誦みて、御所持の書籍等を手づから燒捨てたまひて、『一代の聖敎皆盡て、南無阿彌陀佛になりはてぬ』と仰られける。
又御往生の前、前後遺誡の法門をしるさせたまひて、重て示して云、『わが往生ののち身を海底に投るもの有るべし。安心定りなばなにとあらんとも相違あるべからずといへども、我執盡ずしては然るべからざる事なり。受難き佛道の身をむなしく捨ん事淺ましき事なり』と。云云。
又御往生のまへ、人人最後の法門承らんと申しければ、『三業の外の念佛に同ずといへども、ただ詞ばかりにて義理をも意得ず。一念發心もせぬ人どもの爲とて、他阿彌陀佛、南無阿彌陀佛はうれしきか』とのたまひければ、他阿彌陀佛落淚したまふと。云云。
又御往生のまへ、〈正應二年八月九日より十日にいたる。〉紫雲のたち侍るよしを啓し奉りければ、上人云、『さては今明は臨終の期にあらざるべし。終焉の時はかやうの事はいささかもあるまじき事なり』と。上人常の仰にも、物もおこらぬ者は、天魔心にて變化に心をうつして、眞の佛法をば信ぜぬなり。何も詮なし。ただ南無阿彌陀佛なりとしめしたまひぬ。
又上人云、『わが門弟子におきては、葬禮の儀式をととのふべからず。野に捨て獸にほどこすべし。但在家の者結緣のこころざしをいたさんをばいろふにおよばず』
又或人かねて上人の御臨終の事をうかがひたてまつりければ、上人云、『よき武士と道者とは死する御事をあたりにしらせぬ事ぞ。わがをはらんをば人のしるまじきぞ』と曰ひしに、はたして御臨終その御詞にたがふ事なかりき。
一遍上人語錄卷下 終
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- 附 錄
上人わかかりしとき、御夢に見たまひけるとなん、
- 世をわたりそめて高根のそらの雲たゆるはもとのこころなりけり
熊野權現より夢に授けたまひし神詠、
- ましへ行道にないりそくるしきに本の誓のあとをたつねて
大隅正八幡宮より直授の神詠、
- 十こと葉に南無あみた佛ととなふれはなもあみた佛に生れこそすれ
淡路國しつきと云所に、北野の天神を勸請し奉る社有けるに、上人をいれ奉らざり。されば忽社檀より顯したまひける神詠、
- 世にいつることもまれなる月影にかかりやすらんみねのうき雲