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長篠合戦物語 小幡勘兵衛覚書トモ云
 

天正三年五月廿一日

三州先方につくで田みね長篠と言ふて有是を山家三方衆と言

奥平九八郎有年妻子を捨甲州へ走り入奉公被申所ニ家康公御家来に菅沼新八郎妻子甲州へ取来る其後左右方和談にて右奥平妻子〈本書不分明〉橋の上にて取かゆる其後信玄公御他界を聞九八郎妻子を捨家康公へ帰参有る此由信長公被為聞武田方より降参の者初るなり是は目出度事也とて念頃に被成候様にと被仰則信長御きも入にて家康公御息女被遣聟に被成長篠に指置るゝ依之九八郎を勝頼御悪み深き故奥平が甲州に残し置妻子を長篠近辺にはた物にかける九八郎を御攻可有とて長篠へ人数被進勝頼も御出馬也此時一万七千のよし内千は長篠一里計脇武田方持分の鳶巣に武田兵庫殿に和田兵部指添諸牢人雑兵人数千指置るゝ扨長篠を攻らるゝに付城中かてつき難儀に及に付家康公へ加勢を度々に及ひ乞然とも家康の御人数計にては中々後詰成りがたく信長へも後詰被成被下候様に両度被仰遣といへとも信長よりの御返事には信玄他界有る上は甲州は多く此方の手に入る国なるに甚敷勝頼にかけ合不入人数を費し其上もし負て今勝頼に利をもたせなば後々の損なるべしと被仰両度の御使には御出無之三度目の御使御近習に被召仕る小栗大六被遣大六参り右の旨被仰遣る所信長返事にいらさる家康の被仰様や九八郎切ぬけ参り候はゝ其通攻殺さるゝならは其通に可被成夫は長篠城一ツの損なるべし其上上方に隙入ども有之候オープンアクセス NDLJP:343間御出被成間敷と有に付大六是非なき被仰様にて御座候家康に罷帰此旨可為申聞候と申罷立扨次へ参候て信長公今度の後詰不被成上は家康と数年の御入魂も無に罷成候日頃御取かはし被成候御誓紙も此度信長公より御やぶり被成候間各左様御心得可有之候然る上は後日に一戦の上にて各へ可得御意候と大六申す家老衆聞て是は思不寄義を申其子細はと有時大六申は信長金が崎浅井合戦の時分も手前の儀を指置御用に罷立候所に今家康難義の時御見継も無之候上は御誓紙御破りと相見へ申候然上は此度上州を勝頼へ進上可申其替地に尾州を可申請候左候得ば勝頼を旗元にして家康先手に働候はゝ尾州は手間入間じく候其時は信長も御難儀可被思召候と申を信長立聞給ひ大六御呼出し被成様(子脱カ)御聞夫程の儀に大六存候はゝ手前の用指置此度後詰を可仕候間早々罷帰此旨申候得と被仰候大六かたく約束仕候て罷帰家康公へ右之旨申上る扨信長五六万計の御人数にて川上村に御陣取被成る御父子三人にて御共には池田勝入柴田修理滝川伊予守丹羽五郎左衛門佐久間右衛門等也家康卿はやつるぎの宮御陣所也両陣の間に小高き台有是へ信長家康卿上り勝頼の陣所御見分有て信長被仰候は勝頼是へ出間敷候此方より仕掛候はゝあの切所へ仕掛ては中々勝利有間敷候左有ては爰に大軍長陣張事成間敷候爰を以出間敷と存候に家康の覚悟故せざる軍に負るとはか様の事にて候と被仰家康公被仰候は思召御尤に候勝頼に於は必定明日は出る敵にて候間御気遣被成間敷候由被仰勝頼是へ出るに於ては勝利可有候扨両陣の内にて此度の手たてに存寄有之者は誰に不依申上候得と信長被仰る処に斎藤武兵衛と申人信長の者なるが申けるは勝頼小勢とは乍申此大軍を見て備を持候は必定軍すべきと見へ候中々剛敵にて御座候間堀をほり柵を付候て両陣に一万挺の鉄炮をかけ並へむたひにかゝるを引付柵際にて打候いゝいかなる甲州勢もひるむべく候其所を見切柵の内より打出候いゝ御勝利うたかひ有間敷候と申上る此義尤と被仰其夜中に俄に柵を三重付る夜酒井左衛門尉殿被申上るゝは鳶巣に武田方より人数千諸浪人を籠め置被申候明日の御合戦半に山のあなたより味方の後へ廻候はゝ難儀たるべき由被申上る信長公被聞大きに御腹立有て左衛門尉は若輩なる者か卒忽なる事を申す牢人しきが千計籠りたるとて何程の儀が可有家康の先手をもする者が左様の事を申かと被仰殊之外御腹立也家康公左衛門尉すさり候へと被仰左衛門尉大場にて面目を失ひ信長の機嫌悪きに付家康公御酒を上り候様にと被仰信長一段可然候明日の門出を祝可申と被仰御酒数献廻時信長被仰候は左衛門尉は何方に居候哉其身も心に掛り可申候間罷出御酒給へ候様にと被仰家康公被仰候は信長左衛門尉召候間罷出候様にと被仰時左衛門尉被罷出信長被仰は左衛門尉先程の儀心にかゝり可申候盃を指可申候間給候様にと被仰御指有る左衛門尉謹て三度たべらる欠文小謡被遊る其時盃を持立可被申と被致候時信長被仰は其盃是へ持て参候様にと被仰じたい有り家康公被仰は達てと被仰上は信長の御意次第に仕候様にと御指図有依之左衛門尉盃を持て御側へ参近く召て左衛門尉に暫く御陰密の御咄有り終てすさる信長御盃にて一ツ召上る家康公仰らるゝは今一上り候様にと仰らるゝ時左候はゝ左衛オープンアクセス NDLJP:344門尉肴と信長仰らる時肴を持立んと仕給ふ時信長いや其肴は不珍と仰らるゝに付謡をうたはんと被致候を信長左衛門尉は狂言が名人と聞及候間狂言をと御所望也左衛門迷惑仕候処家康公仰らるゝは左衛門尉は不調法者にて中々狂言は存間敷候由被仰信長被仰るは我本望のかゝり候事に候間是非所望可申候左候はゝ今夜中に稽古仕候へ明朝門出に見候はんと有り左衛門尉罷帰候て夜中に猿楽共に稽古仕候様にと家康公被仰御前を罷立信長も御陣所へ御帰り有るさて左衛門尉は夜中に忍て一万の人数召つれ鳶が巣へ被参る

武田方にては信長家康両旗にて後詰に御出のよし勝頼被為聞家老中を呼明日の軍評議有り勝頼被仰るゝは明日は此方より押懸て一戦を可仕と被仰馬場美濃内藤山県目を見合申さるは明日の御合戦の儀御尤とは不被申上候其子細は敵は両旗にて殊に大軍也其上他国へ蹈越之事候得は一として味方勝利見付不申候今度爰にてをくれを御取候はゝ弓矢の御損多く可有御座候此度は御馬を被入候はゝ信長家康両人も馬を可被入候又少しの間を置御出候はゝ信長も手前の上方の用とも欠き候て度々は被出間敷候其時は長篠は思召の儘に御手に入べきと申上る勝頼被仰は武田の家に合戦をまはし敵に押付を見せたる事無之其上信長家康大軍にて被押入なば家の疵といひ敵にいきほひ可付と被仰馬場申上るは跡をしたひ押入候はゝ猶以願処也信州伊奈へ引入防戦仕候はゝ地戦にて勝利うたがひ有間敷候と申上る勝頼一円御聞入無之処馬場山県内藤申上るは左様に候はゝ明日長篠を力攻に仕候ばゝ人数千計は損可申候得共即時に攻落し可申候門城の掃除仕候て屋形様を入置我等共前の山へ出張防戦仕候間左様被遊候得は利可有と申上る勝頼被仰候は武田の家にて籠城仕たる義無之今我籠城思ひも不寄と被仰内藤申候は左候はゝ長篠には押二千置可申候屋形様は此上の山に御陣城を御構可被成候先手の者共はあの山に備敵を引うけ合戦可仕候と申上る勝頼被仰るは押かけ合戦有之ば勝利と被思召候異な儀を申と被仰る時長坂長開申は乍憚我等共も左様に存候法性院様の時分に候はゞ何れもか様の儀は申間敷候と申内藤腹を立口論に及勝頼被仰るはいや不入口論也旗たてなしも上覧明日の合戦まわさぬと仰らるそこにて家老衆此誓言の上は無了簡下々へも明日の合戦可申触とて罷立其刻長​本マヽ​​閑​​ ​馬場に申はひかへ御異見申は我々は明日の合戦に討死可仕候各は我々討死を見候て甲州へ罷帰御物語候へと申候て罷立皆々と別れさまに申は扨々法性院様の御在世の時はあはれ討死をも仕候て御奉公申度と心懸候得共終に討死不仕候て今に存命にて罷在候当屋形様には是非死候へと思召に命をしきは大将の心入は可有義也と申からと笑候て立別也扨諸手へ明日御合戦の儀申ふるゝ翌日未明に旗元より掛り貝鳴也押大皷なる其時前の山へ押出し馬場申は山県内藤其外侍大将に馬びしやくに水を取よせ老人役に我等給候て最期の盃可仕候と申水酒盛を仕候て段々押出す扨押大皷にて押懸け一戦を初る処に初合戦に造作もなく柵の内へ追入さく一重押破引取一​いカ​​の​​ ​き入候時馬場早川弥惣左衛門を使にて此上なからも存寄を申上候御誓言の通り味方一​本マヽ​​応​​ ​旧勝利にて候上は御引取可被成候跡の儀は御気遣被成間敷候御先手の者共申合心安引取可申候と申上る早川参オープンアクセス NDLJP:345此旨申上る勝頼兎角の御返答なし早川申は馬場には何と可為申聞候やと長閑に向て申けれは長閑是程の御勝軍に左様の被申上様は御挨拶は有間敷候と申早川早々帰り候て此通り馬場に申美濃聞て此上ながら御為と存申上る処に御承引なきは不及是非仕合なりと申

勝頼又前のだいへ御うつりかゝり大皷御うたせ被成時内藤修理鉄炮に当り死する真田兄弟常々権を争ひ中悪かりしが爰にても互に権をあらそひ四人ともに討死也

二度目迄は甲州勢能見ゆる三度目より人数うすく悪し

信長家康両陣の間二十町計也

勝頼山県備へ御越此上は何と仕勝利も可有かと仰らる山県此上にもまた仕様はいかほとも可有之由申勝頼とも角もよき様にはからひ候得と仰らる左候はゝ馬場を是へ参候様に被仰遣候へ馬場参候はゝ相談申候て馬場が一手は信長を押させ残る者共は一手になり家康へ切かゝり御旗元を以無二に御掛り可被成候山県は勝楽寺の瀬を渡り家康の旗元へ横合より切り懸り可申候左有に於ては家康を追ちらし可申候左有に付ては信長必定引取可被申候其所を馬場定て心得可有と申上る其義尤と被仰馬場を呼に被遣候得共馬場不参山懸承り左様に可之候参間敷と存候右衛門尉は日頃中能候間右衛門尉を遣可申と申候て右衛門尉を呼此由申勝頼も是非つれて参候様にと被仰右衛門尉馬場が備へ参此由を申馬場申はか様の時節見苦敷あなたこなたとせぬ者に候若き人の見苦敷と馬場申土屋聞て尤に候我等法性院様御逝去之時分是非御供と存候得共各御異見に付左様の時節可有之と被仰候に付延引仕候定てか様の時節と思召て被仰候と存候と申候へば若き人のよき気を付様と馬場申候へば右衛門其儘駆入柵にとり付き討死なり

扨山県申は馬場は不参候と相見へ申候と申処へ土屋討死と申来る山県申はこの上は不及相談候私人数を引上げまとめ可申候と申釆配を取人数を上るを家康公御覧被成三郎様を御呼被成敵惣て一になり我備へかゝると見る間無是非味方まけに成たる間早々三郎は引取三里跡に本多平八可罷在候此人数をつれ浜松へ可参候左候はゝ往々信長も見捨被申間敷候我等は信長への言訳に討死を可仕と被仰る是は勿体なき御諚にて御座候御前の御座候てこそ信長も入魂めされ候へ中々我には入魂可有信長にては無御座候間御名代に我等討死可仕候御前には早々浜松へ御引取可被成と御父子互に度々の御辞退有三郎様仰らるゝは左候はゝ兎角私も討死可仕候御前にも左様に被成可然候と被仰候を石川伯耆御聞涙を流しどなたをどなたに何れを何れ共不被申上候と被申内山県討死と御先手より申上るさては味方利運也と被仰御父子ともに御きほひ御本陣に御帰り御下知被成る山県は人数を上げんと釆配取り下知仕候処に鉄炮にて鞍の前輪より打ぬかれ馬上より落る処に山県備へ悪くなり崩るゝを馬場はるかに見てあれ若き者共見候へ運の末にはあの様なる山県か一世にあの様に見苦敷人数を仕ふたるを不見と申て暫見ていや尤也山県討死と見ゆると申処にはや家康公の御手より勝どきをつくり懸け敗軍也

勝頼は討死可被成と被仰少も退給ふ気色もなし然る処に穴山梅雪来り早々御のき候へとオープンアクセス NDLJP:346申上らる勝頼聞入不給そこにて梅雪大に腹を立日頃我儘にて家老の申事をも不聞入候故今如斯の仕合也此上にも承引なき事不覚悟なる仕合とて刀にそりをかけ給へども勝頼敢て聞入不給然る処初鹿野伝右衛門御両人の間へ入刀にそりをかけ梅雪に悪口す梅雪被申るは伝右衛門かく言は此上にも勝頼をのかせ申度間申也早々馬にのせ申せと被仰そこにて伝右衛門畏り梅雪様の被仰候儀御尤に奉存候今の不礼御免被成候得と申て小性共それと申候て馬にいだきのせ申勝頼も左候はゝ力なし乗候はんと仰られ夫より押大皷にて行義に段々のき給ふ也

てんきうのほろの事家​本マヽ​​老​​ ​尾張侍也

初鹿野伝右衛門すわの甲を田の中へ捨たるを小山田弥助ひろひ持来る

むくげ垣の間へ馬頭を入る初鹿野刀のむねにて打つ其時勝頼仰らるゝ様あり

かさい肥後我馬と勝頼の馬と乗かへる返して討死仕る

馬場美濃孫馬場孫次郎十六歳也是をあわれみつれて帰る夫より取てかへし右の所にて討死也孫次郎も取て返し討死する

さる橋総敗軍也

たい川の新橋此時かゝる

夫より長篠の城を押ゆる人数二千御供申也


 明治三十五年一月再校了             近藤圭造

 
 

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