長亨年後畿内兵乱記
○長亨元年九月十二日、義尚将軍至㆓江州㆒動座、廿五日東大寺火、
○同二年
○延徳元年三月二十一日北野廟火、同二十六日、若公薨㆓於江左陣中㆒、九月義材将軍〈後号義尹〉江州進発、
○同二年正月七日、東山相公義政薨、
○同三年正月七日、今出川殿薨、八月今出川嫡男作㆓将軍㆒、江州御動座、
○明応元年十二月、相公自㆓江州㆒御帰陣、
○同二年四月二十二日、細川政元立㆓香厳院㆒為㆓相公㆒、由㆑是河内軍潰。畠山左衛門佐自殺、物部紀伊擒㆓義材㆒、六月廿八日、義材脱㆑身入㆓越中㆒、
○同三年三月七日大震動、
○同四年十月廿二日長谷寺火、
○同五年
○同六年十月十一日寅刻、大地震、
○同七年六月十一日大地震、八月二十五日、大地震、伊勢大湊諸国浦、高潮、
○同八年義材至㆓坂本㆒上洛、〈合戦失㆑利依㆓頼防州㆒〉七月二十日、山門中堂講堂炎上、卯刻、
○同九年九月二十八日後土御門崩、
○文亀元年四月二十一日、雨雹如梅子、七月廿八日、失火洛中、
○同二年
○同三年日野蒲生城、京勢立開陣、六月一日、八月大洪水、真浄院流、
○永正元年、天下飢、冬徳政、是歳薬師寺与一、背㆓政元㆒陣㆓于淀河㆒、
○同二年
○同三年
○同四年六月二十三日夜一福井四郎竹田孫七殺㆓政元㆒、同二十四日、香西一党囲㆓阿波六郎於京㆒、六郎潰逃㆓江左㆒、九郎自㆑丹入㆑京、為㆓細川惣領㆒、八月朔日、細川右馬助同民部少輔殺㆓九郎澄之㆒、香西以下戦死。波々伯部伯耆自殺、六郎自㆓江州㆒上洛、為㆓細川惣領㆒、
○五年二月二十三日子刻、八幡宮炎上、三月十七日、東寺講堂火、民部少輔高国、号㆓参宮㆒逃㆓伊賀㆒、四月十六日、義澄入㆓江左甲賀㆒、高国自㆓伊賀㆒上洛、為㆓細川惣領㆒、義材相公六月八日入洛、
○同六年、三好筑前守如意岳出張、六月十七日則没落、
○同七年、江州二月二十日、雲龍軒出張、同二十九日打死、八月八日大地震、天王寺石鳥居、河内堂塔崩裂、人民多死、
○同八年於㆓舟岡㆒細川右馬助殿遊佐赤沢孫二郎山中討死、八月十六日、将軍並右京兆大内左京大夫逃㆓丹波神吉㆒、同二十四日、将軍以下入洛、舟岡山戦、義澄疾薨㆓于江左㆒、是歳、諸兵同時入京、官軍失㆑利
【 NDLJP:52】○同九年
○同十年三月十七日夜、義植甲賀御出、五月朔日御入洛、二月七日、那智山千手堂火、
○同十一年二月十九日、伊庭貞説父子没落、二月二十五日、鋳㆓天王寺石鳥居笠木㆒、
○同十二年
○同十三年八月、伊庭自㆓北郡㆒出張、同月敗北、同冬、玉松自㆓岡山㆒出仕、四日雨㆑電如㆓梅実㆒、
○同十四年十月、義植相公至㆓有馬㆒湯治、細川畠山大内供奉、義興至㆑堺滞留、次夏下㆑国、
○同十五年四月四日、山門中堂供養、義植相公御成、近江守氏綱公薨、同冬高国与㆓岡山㆒日々合戦、十月十三日、栂尾春日住吉両神開帳、限㆓十日㆒、十二月十三日、八幡棟上、
○同十六年冬、澄元至㆓兵庫㆒、西宮出張、
○同十七年、高国二月十七日自㆓池田㆒没落、三月三好以下上洛、高国自㆓江州㆒山上、同四月十六日出張、五月澄元敗北、三好父子三人、於㆓三条㆒生擒自害、六月十三日、囲㆓岡山㆒、七月二十七日、行貞請㆓取城㆒、伊庭九里退出、
○大永元年三月七日、義植相公潜行至㆓淡路㆒御出、三月二十一日御即位四月三日高国出張、同五日入京、
○同二年、定頼公七月囲㆓日野蒲生城㆒、
○同三年、北郡上坂治部信光没落、閏三月京極宗意出奔、
○同四年
○同五年、定頼公浅井城大津見江発向、九月浅井亮政没落、
○同六年、波多野柳本、阿州江通、三好衆至㆓堺津㆒出張、
○同七年二月、義晴将軍至江州長光寺、道永供奉移御座、同七月至㆓坂本㆒御進発、十月至㆓東福寺㆒被㆑進㆓御馬㆒、定頼公供奉、
○亨禄元年四月、義晴将軍自㆓東寺㆒至㆓相国寺㆒御帰座、六月至㆓坂本㆒又御下向、九月高島郡朽木 江移㆓御座㆒、細川道永四月江州山上江下向、九月定頼公帰陣、
○同二〈己丑〉年二月、高野瀬家澄為㆑使、細川六郎殿江婚姻礼有之、
○同三〈庚寅〉年、柳本賢治至㆓播州㆒依㆓藤城㆒発向、於㆓陣中㆒浦上村宗以㆑賄通㆓近侍士㆒、刺㆓殺賢治㆒、常植至㆓有馬郡㆒進発、八月義晴相公光(先カ)勢三雲資胤蒲生至㆓坂本㆒出陣、木沢反、上洛、
○同四〈辛卯〉年正月、義晴自㆓朽木㆒至㆓堅田㆒進発、二月至㆓坂本㆒被㆑進㆓御座㆒、六月赤松心替、常植生擒、自殺、八月相公至㆓長光寺㆒下向、四月六日、箕浦合戦、浅井敗北、定頼得㆑勝、
○天文元〈壬辰〉年八月二十四日山科本願寺焼敗、
○同二癸巳年、上野玄蕃頭至㆓高雄畑㆒着陣、六月十八日、薬師寺備後其外法華衆陣立攻㆓玄蕃㆒、々々得㆓勝利㆒、薬師寺備後於㆓仁和寺㆒討死、
○同三〈甲午〉年六月二十九日、義晴相公至㆓坂本㆒進発、七月二十日、木沢左京三好甚五郎西山谷山城囲㆑之、西芳寺地蔵院最勝寺等炎上云々、
○同四〈乙未〉年、将軍自㆓坂本㆒南禅寺江被㆑移㆓御座㆒、佐々木四郎被㆓供奉㆒、細川六郎建仁寺被㆓供奉㆒、九【 NDLJP:53】月九日、木沢左京亮以㆓人数㆒発向、
○同五〈丙申〉年三月二十一日、御即位、七月二十三日、自㆓叡山㆒日蓮党為㆓退治㆒、佐々木定頼人数等軍㆓于東山㆒、同二十七日、落居、下京悉火、同二十八日、上京並誓願寺火、八月十七日、於㆓清水寺㆒大施食、
○同六〈丁酉〉年四月、細川右京兆、与㆓佐々木定頼㆒婚姻、於㆓山科河原㆒、三上下笠後藤百々木沢波多野池田請取之、
○同七〈戊戌〉年、於㆓嵯峨釈迦堂㆒自㆓三月十八日㆒万部経、
○同八己亥年、三好柳本背細川晴元云々、囲六月逃于高雄山、七月二十五日至嵯峨陣、八月十六日大洪水、同二十一日至㆓山崎㆒出陣、十月佐々木定頼上洛、於㆓万松㆒御成、定頼為㆑扱、三好柳本出仕、十二月定頼下㆑国、六月二十三日大心院殿三十三年忌、
○同九〈庚子〉年、天下悉疾疫、人民多死、天子御悩、相公若公病、五月十三日、於㆓北野経堂㆒諸五山大施食同十四日夜、洛中大洪水、上京家屋多流、人民死、八月十日大風、同皇帝御悩、
○同十幸丑年八月十日夜、大風、内裏公方建仁相国伽藍吹倒、其外民屋倒、
○同十一〈壬寅〉年三月十七日、木沢左京亮討死、同二十八日、公方様自坂本入洛、八月四日、弘源寺殿百年忌、就㆓于弘源㆒追善、天龍当住天用和上拈香、
○同十二〈癸卯〉年
○同十三〈甲辰〉年七月九日、大洪水、山岳崩裂、同六日、公方様細川殿依㆓和睦㆒、佐々木少弼殿上洛、
○同十四〈乙巳〉年五月十三日、畠山尾張守死㆓去於北野経堂㆒、十月四日万部経、
○同十五〈丙午〉年四月二十五日、霰降、八月十八日、右京兆晴元於㆓嵯峨㆒出陣、九月十三日、河内勢衆同上野玄蕃頭乱入于洛中、即同十四日嵯峨取懸、同十五日三好宗三高尾着陣、同十六日丹波江晴元御伴、十一月洛中徳政、十二月九日、若君御元服於㆓坂本㆒、同御参内
○同十六〈丁未〉年三月三日、三宅城落、四月相公義晴、東山御城江三好宗三四国衆取懸、慈照寺打破、五月五日芥河城取懸、六日落、又七月十二日、晴元御入洛、東山城江州勢衆相伴取巻、
○同十月五日、上野玄蕃河島城攻、同六日至大将軍討死、
○同十七戊申年四月十九日、清水寺塔供養、千部経有之、六月七日相公自坂本御入洛、同八日佐々木少弼殿上洛、同十四日祇園会、相公少独細川殿御見物、於㆓四条道場㆒、同二十八日霰降、同廿九日於㆓細川殿㆒相公御成、池田生害、
○同十八〈已酉〉年、三好長慶謀反、六月二十四日、於㆓中島江口㆒与㆓宗三㆒及㆓合戦㆒、宗三山中高畠伊豆平井丹後波々伯部左衛門尉兄弟打死、右京兆自㆓三宅城㆒被㆑引、退㆑自㆓丹波㆒、二十五日上洛、同二十七日相公御伴被㆑申、自㆓白河㆒至㆓坂本㆒、廿八日御下向
○同十九〈甲戌〉年五月四日、万松院殿曄山道照大居士義晴他界、天龍寺開山夢窓国師二百年忌
○同二十辛亥年三月十四日夜、於㆓勢州貞忠宅㆒与㆓三好長慶並諸侯之衆㆒遊宴、進士九郎擒㆓長慶㆒欲㆑殺㆑之、雖㆑然手数ヶ所負之、長慶不㆑死、九郎者即座自殺、五月五日晩、遊佐河内守長教生害也、遊佐帰依之時宗有㆓珠阿弥者㆒、不㆑計殺㆓遊佐㆒、珠阿弥即席打㆓殺之㆒、自㆓敵人㆒以㆑賄頼㆓彼珠阿【 NDLJP:54】弥㆒如㆑此作㆑策者歟云々、一時之渉汰也七月十四日早天、晴元諸兵楯㆓籠于相国寺㆒、則三好筑前将㆓摂丹阿三ヶ国諸勢㆒責㆑之、其夜晴元諸勢敗北、于㆑時相国寺悉炎上、
○同廿一〈壬子〉年正月二十八日、上意義藤御入洛、同聡明殿御上洛、四月十三日雹降、五月二十三夜、丹波多紀郡高城雖㆓三好長慶取巻㆒、芥河池田小河依㆓逆反雑説㆒取退、十一月十二日三好筑前丹之城取退、同十三日夜建仁寺西門前自火、其火自㆓西門㆒至㆓方丈寝堂法堂仏堂殿五頭首維那寮山門僧堂護国院並西来院㆒、其外東塔頭等焼却、同二十八日于㆑時冬至、晴元士卒自㆓丹波小持山口㆒将㆓諸兵㆒郡西院城破却、公方御城霊山取懸、五条口放火、其火建仁寺之十如大龍南塔頭放火如㆑此本マヽ東 払及㆓夜蔭㆒勤之、
○同廿二〈癸丑〉年、上意四月廿四日御帰座、七月至㆓水坂㆒御退陣、同霊山山口城放火、松田監物自殺、
○同廿三〈甲寅〉年冬十月、至㆓播州明石城㆒、三好豊前同筑前人衆取懸、
○弘治元〈乙卯〉年九月十九日、愛宕祭礼延在㆓斯日㆒、暴大風起法輪寺同塔婆吹倒、
○同二〈丙辰〉年
○同三〈丁巳〉年四月卅日、尊氏将軍二百年忌、就㆓于等持院㆒有㆓追善㆒、于㆑時院主常徳内有㆓牧軒臻長老㆒、慣㆓相国々例㆒行道、諸五山之先云々、南禅天龍無㆑謂旨申㆑之、両寺者不㆑赴㆓行道㆒、立班而逢㆓半斎㆒、大旱、八月大地震同、二十五日、大風大洪水、九月四日、帝崩、十月二十八日践祚、後奈良院於㆓安全寺㆒中陰、就㆓于彼寺㆒諸五山渡諷経、十一月二十三日葬、
○永禄元〈戊午〉年二月廿七日改元、五月九日、松永弾正三好日向守其外摂丹之衆、吉祥寺四条道場七条千乗寺中堂寺梅小路陣取、同廿日、上京下京打廻各退散、三人衆、寺町松山岩成残置、同晦日、勢州三好久助三人衆、陣㆓取于勝軍㆒、六月四日、至㆓如意峰㆒、公方衆三好下総香西越後甲賀衆自㆓坂本㆒出張、陣㆓取浄土寺㆒、鹿谷放火、其夜中、松弾為㆓大将㆒摂丹衆出張、同八日、勝軍衆取退之処、如意峰衆白河表打出、双方可㆑及㆓一戦㆒処、大雨降、人馬羸疲、双方退也、如意峰衆其儘勝軍陣取也、如意峰松永同法雲攻上、其夜陣取、三人衆也、伊丹池田典廐衆神楽岡取張也、明九日、公方様晴元御出陣、勝軍籠城、則松弾法雲者如意峰打下、白河西方取退、神楽岡衆帰陣、上京打入処、勝軍衆田中村焼。神楽岡居取処、松永弾正其外摂丹一同取帰、白河村内外乱戦、公方衆討死、松田右衛門大夫松任殿亀井岩室其外五十人許、三好方松山内衆卅騎許討死也、十一月廿七日、自㆓勝軍城㆒上意御入洛、御伴大舘上野大館兵庫〈子也〉於㆓御殿㆒、則氏綱典厩馬頭三好筑前松永弾正伊勢守其外帰参奉公衆御対面、翌日自㆓相国寺徳芳㆒、御帰城、十二月三日、於㆓二条之本覚寺㆒、公方様御座ノ大舘両人上野三好筑前典厩五騎御伴云々、閏六月六日、公方衆栗生新介、小将松山内土山打取、七月二日大雹降、
○同二〈己未〉年六月二十六日、三好松永到、十七ケ所出陣、同畠山高屋城入城、松永大和入国、
○同三〈庚申〉年臘月七日、自㆑暁雷電、正月廿七日御即位、七月三日三好豊前入㆓河内㆒、趣㆓高屋㆒合戦、十月八日、香西越後守於㆓宇治五ヶ庄㆒出張、九日木幡焼、十日三栖鳥羽深草焼、同十日逢雲自㆓丹州㆒出張、同十二日、香西越後波多野右衛門兄弟惣領〈波多野弟〉塀和源三郎大沢神太郎其外馬廻【 NDLJP:55】討死、即炭山放火、及㆓三四五六月㆒、旱天不㆑堪㆓其愁㆒、六月十八日入㆓土用㆒雨降、種苗稲生長、民蘇㆓天下㆒、
○同四〈辛酉〉年三月十三日、御参内、七月二十八日六角承禎父子出張子勝軍、同十一月廿四日、三好諸勢取㆓懸於白川口㆒合戦、永原安芸守薬師寺弟柳本兄弟其外諸士討死、同日於㆓泉州㆒畠山殿安見美作守根来衆、与㆓三好豊前入道実休四国衆㆒合戦、四国衆随分数多射死、同十一月廿五日勝軍鹿谷修学寺放火、自㆑山一人人数不㆑出、
○同五〈壬戊〉年三月五日、於㆓泉州㆒畠山高政安見美作根来寺衆三好豊前入道実休〈号物外軒〉合戦、実体当㆓于鉄炮㆒死去、数百余討死、即敗軍、同六日、三好筑州松永弾正少弼至㆓山崎㆒被㆓取退㆒、松山新介池田衆居㆓陣西岡㆒、勝隆寺之城、今村紀伊守高野瀬備前守等相籠、同十日比、三好筑前松永弾正至㆓鳥養柱本㆒居陣、畠山高政安見根来衆等囲㆓飯盛城㆒、同廿九日徳政之札、松尾之鳥居打㆑之、公方様六日至㆓八幡㆒被㆑移㆓御座㆒、岩成主税助為㆓御警固㆒御件申、又徳政之札、嵯峨釈迦堂大門四月十一日打㆑之、梅津正法院一揆等被㆑破㆑之、同十六日一揆等悉上寿寧院責、其ヨリ後日ニ倉方責㆑之、又自㆓佐々木承禎㆒、徳政之札四月廿日比洛中ニ被㆑打㆑之、京中徳政悉行也、
○五月十四日、為㆓飯盛城後巻㆒、三好筑前松永弾正松山池田衆伊丹安宅阿州衆二万余被㆑越㆑河、同二十日合戦、高政安見根来衆敗軍、紀州湯河討死、根来大将岩室坊逃忍㆓信貴山㆒、数日後、岩成方為㆓討手㆒相越、岩室ヲ討取、飯盛ニハ三好修理大夫籠城、同籠衆岩成寺町左衛門大夫吉成以下也、安宅者至㆓泉州㆒、則彼国属㆓安宅方㆒、松永弾正ハ至㆓和州多聞山城㆒、即彼国属㆓松永弾正方㆒、
○六月二十二日、自㆓八幡㆒公方様御入洛、一番若君様板興、御伴御劔典廐、後陣上野民部少輔五騎御出奉行松田主計助御、出同朋春阿弥、大御所様御馬也、御伴御劔大舘十郎、後陣松永弾正少弼以下五騎、同日三好筑前上洛。伴加地権介奈良一右衛門二騎、於㆓泉州㆒正元安見根来寺衆出張、阿波河内衆同松永対陣、
○七月十三日若君様御他界、同二十一日、丹波多地郡竹内下総植木一双出陣、一揆起即退、
○八月二十五日、伊勢守柳本薬師寺諸牢人於㆓上意㆒取懸、北山ニ在陣、同二十六日取懸、御所近辺焼畢、為㆓上意㆒御警固、多羅尾山本今村武衛陣々居陣、其後三好久助為㆓警固㆒在㆓陣西院㆒、小泉城同名助兵衛入城、徳政為㆓上意㆒同廿八日被㆑打㆓高札㆒、又自㆓伊勢守㆒被㆑打㆓白札㆒、
○九月十二日、伊勢守同息兵庫於㆓水坂㆒籠城之処ニ、松永諸勢八千許引催、則上意被㆓伺候㆒、即時取㆓懸水坂㆒、伊勢守父子討死、其外百余討死、公方徳政雖㆑被㆑懸㆑之、三好筑州依㆓訴訟㆒徳政不㆑行、至㆓十二月㆒以㆓公人㆒洛中洛外至㆓辺土㆒、徳政不㆑行旨被㆓相触㆒者也、然間倉役各出㆑之也、
○同六〈癸亥〉年二月三日、至㆓杉坂㆒柳本薬師寺長塩以下出張、安井木辻常磐等所々放火、翌日退陣
○四月二日暁丑刻、雷大鳴而落㆓懸于東寺之塔㆒則炎上、国中明如㆓昼時㆒、人云以㆓放火㆒焼㆑之、自㆓往代㆒至㆓今時㆒及㆓三ヶ度㆒云々、焼自㆓丑刻㆒至㆓卯刻㆒、猶以焼、燄及㆓翌日㆒、
○五月三日夜、星入㆑月、時人謂為㆑凶、
○八月二十五日、三好筑前守義興逝去、于㆑時城山在城廿二歳、十月一日、為㆓佐々木四郎殿㆒後藤【 NDLJP:56】父子三人生害、然者永田刑部少輔三上池田進藤平井其外後藤家来衆自焼、面々舘江取退、于㆑時観音寺騒動、八日暁、四郎殿二千計日野蒲生舘御退、九日巳刻、御親父承禎、三雲舘江御退、于㆑時軍卒観音寺乱妨、一宇不㆑残焼失、観音寺本堂迄回禄、麓石場寺三千家屋一時焼却、自㆓北郡㆒軍勢至㆓愛智川四十九院㆒取懸、其日軈而打帰也、一其時浅井者至㆓高宮㆒居云々、永田刑部三上池田平井進藤与㆓北郡㆒同心也、
○十一月十五日、三好筑州葬礼、下炬大徳守大林和尚、于時泉堺南宗寺住持、其外諸仏事大徳寺紫衣衆勤往、代㆓諸大名㆒葬礼下炬、一人者依㆓檀那㆒勤㆑之、諸仏事諸五山之衆被㆑勤㆑之云々、下炬其外諸仏事之事、為㆓会下衆㆒勤㆑之事不㆑聞㆑之、一時之沙汰也、号㆓瑞応院前筑州太守光岳璉公大禅定門㆒云々、
明治十四年八月 近藤瓶城校
明治三十五年一月以東京大学本再校了 近藤圭造
長亨年後幾内兵乱記終
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。