目次
 
 
家中諸役心得を示す収民の吏を諭す知行の家士を穿鑿役に用ふ新に寺社の建立を禁ず敬に過ぐるを戒む狂気自殺の跡目相続を許す時習館を建つて文武の業を奨励す衣服の制を定む刑法の改正堀吉勝の殉死堀勝名医学の美励重臣等奉行所に於て事を執らしむ宝暦改正奉行所の政治蒲地正定世禄の制を改む養子の法改正母出奔の子の家督相続納税法の改正毎年家中の勤書を出さしむ田地の境界を正す備荒儲蓄天明の賑恤蚕業獎励重臣の家来の不法を取締る農事の妨害を慮りて禁猟の期を定む家中知行の者に遍く馬草料を課す幕府より天草警備の命を受く天明二年の倹約令重賢自ら粗食に甘んず
 
篤行者旌表及ひ敬老の典賦税を軽減す凶作地の徴税租税滞納者の処分を緩にす殿様祭能く人を用ふ竹原玄路堀勝名を推薦す善く臣下の諫言を聴く家士の等級を分つ時習館教授米田松洞宝暦五年の洪水稲津頼勝萩原堤を築く大慈寺を再興せしむ
 
将軍吉宗を追慕す勉学服部南郭重賢に仕ふ武芸に習熟す動植物の学に通ず土木の冗費を節す衣食の冗費を節す家臣の小過を咎めず寸陰を惜む学習の道馬を好む善く養母に事ふ穀物を大切にす臣下の小過を咎めず静証院の婦徳静証院資給の金額を削減せしむ重賢夫人の婦徳家臣の進退に就き婦人の容喙を許さず重賢の兄弟姉妹
 
鷹狩家士に対する恩情重賢の宿札粗末なる鞠場冗費の節約奢侈の風俗を憂ふ老臣を敬ふ肥後に鳳凰自然を愛す中将となる希望重賢倹約の本旨政の要は人を得るに在り書牘遺著詠歌詠詩名声支那に及ぶ
 
 
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銀台遺事
 
 
凡例
 

、此冊子、政務にあらはれたる事は、頗る年の次第によりて記す、先後する所を知らしめんとなり、其余は思出づるまゝにして詮次なし、

、身よりして家、家よりして国は、極りたる次第なるに、こゝには国の政務を首に挙げたるは、世の遍く知れる所を先にせるなり、江河の浩々たるを見ん人の、漸く濫觴を尋ねんことを思ふのみ、

、松井・米田・有吉三氏は、いづれも万石以上を領して、譜代の家老なり、其外時の家老・中老など、嘉謀嘉献さこそは多かりつらめ、然れども惟幄の機密は、末臣の知るべきにあらず、たゞ堀勝名等が擢用の次第は、あら記しぬ、

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銀台遺事 
 
細川越中守源重賢君は、霊雲院殿〈宣紀君〉第二の御子なり、御兄隆徳院殿〈宗孝君〉の御養子として、延享四年、封を襲ぎ、肥後の国并に豊後三郡の内、総べて五十四万石を知ろしめし、従四位下に叙し、侍従に任じ、明和六年、左近衛権少将に転任し、国を保ち給ふこと三十九年、御年六十八歳にして、天明五年十月廿六日卒去ましましき、武州品川東海寺地中、妙解院に葬し奉り、御墓に霊感院殿前羽林次将中大夫徹巌宗印大居士と題す、

君の別館、芝の白銀台にありしかば、世に銀台侯とも申しき、此冊子の名、それを借れり、

家中諸役心得を示す、寛延元年の夏、初めて入国し給ひき、其冬、家中諸役の者、心得べき条々を、自ら書きて、示させ給ふ、其第一の箇条に、

諸事清廉に取計ひ申すべき段は、先代よりの趣の事に候、然る処、近年まゝ不直の輩も之あり、差通し難き儀に付、其段申付け候、此儀、人の撰宜しからざるは、我等不肖に候哉、又は役頭々々依怙贔屓よりの申立により候哉、正道を取失ひたる儀と存じ候、兎角私欲の筋専らにて、申付け置きたる筋道違ひ候故、末方の者、迷惑に及び候へども、末方の者は、役頭を恐れ、是非なく訴へ出でず候に付、第一我等為に相成り申さず候、依つて此以後、軽輩たりとも、志之ある者は、其人の高下によらず、支配々々まで、存寄封印を用ひ、差出し申すべく候、国政の儀は、我等存念計りにても、相行はれず候、貴賤一和を以て、治国に至り候儀に候、何れも相考ふべき事、

総べて我意を立て、権を争ひ、功を奪ひ候は、未練の至と、深く戒め給ふ、斯かりける後は、聊も存寄ある者は、皆封印の書付を奉りければ、下の情も能く上に通じ、役々の司などいふ者も、皆恐れ謹みて、不法の事なかりけり、

収民の吏を諭す一、同役数多あるもの、事を同じ様にせむとすれば、互にためらひて、職掌を闕如し、賢愚の分ちも見えず、自ら世の衰と成行く事、唐土にいへる陵夷の類なるべし、かゝる理をや思召しけん、寛延三年八月の頃、領分の郡代仕うまつる家士オープンアクセス NDLJP:97を、皆御前に召して、仰せらるゝ旨あり、云く、

在中の儀、郡奉行共心得次第、締り方精粗あるべく候、郡村の風俗は、其所々々に違もあるべく候条、預け置き候郡村は、一統の見合なく、銘々存寄に、締り方申付くべく候事、

其日、老臣もまた申伝へたる事あり、こゝに註す、

御帰国以後、御国中の儀、追々聞召され候処、在中の儀も、未だ締り方得と之なき様、思召上げられ候、去々年仰出され候趣に付いては、各委しく心を付け申さるゝにては之あるべく候へども、猶ほ又怠なく取計ひ、追々相改り候様、仕らるべき旨、仰出され候、別紙頭書の御書付、各へ急度仰せ渡さるゝにては之なく、拙者より申聞くべき旨にて、御直に御渡し遊され候に付、之を写し、相渡し候間、拝見仕られ、弥〻以て油断なく、取計らひ申さるべき事、

  八月

   頭書

一、在中風俗宜しからず、今以て下役人執計の内、不直の儀も之ある趣、相聞え候、定めて郡奉行共、委細心を付け申すにては之あるべく候へども、はきと改め候程の事も之なき段は、未だ何れも心懸薄き故にては之なく候哉、其上善悪を糺し候様なる儀も、相聞えず候は、広き在々の事に候故、旁〻不審候事、

一、郡奉行共執計の儀、下々の儀を委しく存知せず候ては、間違の儀も之あるべき処、平生権高に心得候て、下方の儀に疎く、下役人の申立計りを拠として、執計ひ申す者も、之あるにてはなく候哉、さ候へば、不埓の至に候事、

 但、新役・古役の差別之なく、随分腹蔵なく、申談ずべく候、

一、事を恐れ、無事を好め、身構を仕り候ては、支配行届き申すべき様之なく候、此儀何れも覚悟の前たるべき事、

 以上

夫れ民は邦の本なれば、仕置の初め、殊更之をこそ沙汰し給ひつらめ、夫より愈〻本固くして邦安かりき、

知行の家士を穿鑿役に用ふ一、此国にて囚人を糺問する者を、穿鑿役と名付けて、昔より徒の者の職なり、其身賤しければ、唐土に云へる、獄を鬻ぐ類なきにしもあらざりけるに、此役はオープンアクセス NDLJP:98大事の役なり、若し聞き誤りつる事ありて、殺すまじき者を殺しては、再び生くべからず、天道の恐、是に過ぎたることなし、せめては所領持ちたらん侍に申付けて、其司とせよとて、宝暦元年、平野権九郎・村上市右衛門といふ侍にぞ命じ給ふ、是よりして、いよ推問私なくして、無実の罪かうむる者なかりけり、中にも此権九郎時成といふ者、殊に其任に堪へたり、或時一人の囚、白状極まりて、此上は如何様の厳科に処せらるとも、恨なき由、手摹をもしければ、首切らるべきに究まりけるに、権九郎いかゞ思ひけん、此囚の罪決せらるゝ事、今暫く待ち給へといふ、時の奉行、此の如く罪明白なる上、何条事を構へつべきといへば、権九郎、いや、思ふ子細有りと、あながちに申せば、其旨に任せたり、夫より三年計りありて、果して首罪の者露れて、初の囚は命助かりぬ、さてこそ権九郎見る所ありけるよと、人皆感心しけり、総べて君の人を召仕ひ給ふに、各其器に当れる事、此の如くなりき、

新に寺社の建立を禁ず一、新規の寺社建立停止の由は、公の御掟なれば、領内にて、もとより厳重に沙汰ありけれども、猶いかさまに拵へて、寺院めかしき所出来る事、絶えざりしかば、宝暦三年四月、有司御旨を受けて、本寺々々に申伝へける牒書、

在中に居住の坊主の儀に付、先達て寺院一統沙汰に及び候処、段々願の趣も之あり、今以て相究まらざる儀之ある条、猶ほ左の通、

一、願に依つて、在中居住、追々御免成し置かれ、又は前々よりの住所、川塘の障に相成り、中興所替仰付け置かれ候坊主の事、

右は、其僧一代の居住は、御免成され候、跡入相続叶ひ難く候事、但し隠宅等の儀も右同断、

一、真宗寺通ひ寺と名付け、在中所々に之あり、又は往古寺跡と申伝へ候由を以て、居住致し候坊主の事、

右は、元禄十五年、寺社本末改の節、何方通ひ寺と書出し、其通り仰付け置かれ候儀、畢竟小庵を御免なし置かれ候、然る処自然と堂舎数を建て、門徒も之あり、内証は其寺号を唱へ候由相聞え、不届の至に候、之に依つて此節は所を引払ひ、仰付けらるべく候へども、数年居住致し、急に参向も之あるまじく候条、当時の住僧一代は、今迄の通り、御免なされ候、跡入相続叶ひ難き事、

オープンアクセス NDLJP:99但右の内、往古より訳之ある庵室は、相続仰付けらるべく候条、右類の庵室、二間梁に七間以上は、之を停止す、且又相続以後、庵室に妻子は申すに及ばず、女人の居住無用たるべし、尤も相続の僧、当時住僧の子にて、母姉妹の類之あるは、其節に至り、相達し次第、吟味を遂げ沙汰に及ぶ筈、

一、在中に前々より小社・小堂之あり、堂守等の坊主据ゑ置きたき由、尤も寺号唱へ申さず、仏壇も仕らず、仏事・説法も仕るまじき由、下方より、願に依つて、御免なし置かれ候坊主の事、

右は、其社内、若くは其堂社の近辺に、小家を建て、居住る分は、今迄の通り、堂社を遥に隔て候ての居住は叶ひ難く候間、社内に晶地之あるは、其社内に、畾地之なきは、其近辺にて、相応の所柄に家を移し申すべく候事、

一、元禄年中改の節、書出に洩れ、又は其後いつになく、庵室を構へ、在中に居住仕り候坊主の事、

右は急度其所引払ひ申すべき事、

右の条々、支配の寺々より、申渡さるべく候、畏り候書付・由来の書付をも、五月十五日限り、洩れざる様取揃ひ、相達せらるべく候、若し相違の儀之あり、又は後年ともに、沙汰之ある筋、相背き候僧は、早速其所を追立て候筈に候、総ベて支配の寺々より、兼ねて委しく申付けらるべく候、違却之あるに於ては、支配の寺々にても、越度たるべき事、

かくて今まで違犯の者二百人余を、或は本寺、或は師の房に返し遣り、六十人余は、住居其身を限る抔、汰汰せしかば、還俗して農民になるもの多かりき、

敬に過ぐるを戒む一、礼は尊卑を分つものなり、恭しうして体なからんは、いたつがはしく、はては諂になり行きなんことをやおぼしけん、宝暦三年三月、有司申伝へけることあり、

御発駕前、監物殿へ御意之あり候は、総体御家中の面々、座席又は役方に対し、余り敬ひ過ぎ候歟と思召し上げられ候、是に依つては、自然と諂ひがましき風俗も、夫に応じ申すべしと、思召し上げられ候、尤も人により、当時程能く相心得候も之あり、又は無礼の体の者も之あるべく候へども、敬し申さゞる様、偏に申聞け候はんとにては之なく候〔彼是見合せ候て、心を付け候様にと御意之あリ候イ〕、此段水知置き、寄々申聞け候様に、去る三オープンアクセス NDLJP:100日、監物殿へ御申聞け候事、

一、家中の者の申状、思ひにして、一定ならざりければ、宝暦の頃、文式を作りて、組頭抔に授けらる、元服・婚姻より始めて、其事々々の文案あり、又公事の消息に用ふる殿文字の品を分けて、打見るにも、其段・其格と知らせたり、初めは、くだけたる様に、人も思ひつれども、頓て習はしとなり、事よく調へり、

狂気自殺の跡目相続を許す一、狂気にて自殺せし者は、昔より子孫相続を許されざりしに、君不便に思召して、宝暦三年、命じ給ふ事あり、其旨を老臣伝へて、家中に知らしむ、其詞に云く、

乱心にて自殺の跡目、前々より相続仰付けられざる事に候へども、畢竟病気の儀に付、此以後、跡目相続仰付けらるべき旨に候事、

但、右自殺の節、通り難き始末之あり候はゞ、病乱紛之なく候とも、断絶仰付けらるゝ筈候事、

誠に気血禀けたる者の、病に犯されんをば、如何はせん、然るに自殺せし跡には、老いて子に離れ、幼くて父に離れ、偕老の契の夫に離れ、悲の中に、所領をさへ没収せられて、寄方なき身とならんは、如何計りの歎ぞや、然るに此君の御情によりて、かゝる不幸に遭ひても、人並みに所領たびて、行末めでたく召仕はるゝ者、今までも幾何ぞや、それらは子々孫々に申伝へて、此君の仁恩、暫しも忘るまじき事なり、

時習館を建つて文武の業を奨励す一、宝暦四年、熊本の城二ノ丸の内に、学校を建て給ひ、文を学ぶ所を時習館と名付け、一族長岡内膳忠英を総教とし、秋山儀右衛門定政を教授として、訓導師・句読師などいへるもの十余輩あり、武を習ふ所を東樹、西榭と名付け、数多の武芸の品を分けて、それの師あり、其数後は八十余人に及べり、家中にて侍ほどの者の、年若からんをば、皆々こゝに於て、文武の事を習はしめ、其内に分きて秀でたるを、常に館中に居らしめ、居寮生と名付け、之を養ひて、専ら勤学せしむ、たとひ農商たりとも、俊秀ならんものは、館樹に入る事を許さる、明くれば宝暦五年正月七日、君学校に入らせ給ひ、定政孝経を講ず、畢りて文武の師を御前に召して、懇にねぎらひ聞え給ふ、之を例にて、在国の年の始には、必ず入りて講談を聞かせられ、又参観の門出前、帰国の始には、先づ登城ありて、直ちに学校に入らせ給ふ、斯く自ら勤めて導かせ給へば、其下たらん者、誰かは志を励まざらオープンアクセス NDLJP:101ん、されば講日の聴衆など、年月に数そひて、所狭くなりたりければ、宝暦十年六月、重ねてかうしき堂を建て、之を講堂として、尊明閣と名付け、君自ら筆を染め、仰止といふ字を書かせ給ひて、扁額とせらる、月の三八の日、講師一人、経書を爰に講ず、其日は家老一人、必ず席に臨む、忠英老を告げられし後は、之を総教と定む、侍頭・番頭・奉行・日付などいへる類、役毎に必ず一人宛出で、東席に列座す、老臣の嫡子以下、皆北面して講を聞く、其出入座作を使番指揮して威儀を正し、物いふ事なからしむ、講師の座には毛氈を設けたり、君入らせ給ふ日は、氈をば徹すれども、なほ君と差向ひ座して、臣下の列を離れしめらる、是れ先王の道を君に告ぐるに、北面せずといへる礼を思ひ給ふなるべし、

一、宝暦七年・同十三年、館樹に於て、子弟の文武の業を自ら試み給ふ、之を例として、其後も折々御覧あり、江府にまします年は、春の末・夏の初に、総教必ず之を試む、かくて皆々勤め励む中に、殊に勝れたるを、年に一度、講堂に呼び集めて、総教其聞えある由を称揚す、又其中に勝れたるを選びて、君に告げ奉る、宝暦十三年正月十五日、講堂に召して、君の褒賞に与るもの、百十人に余れり、其中五十余人は、家の紋の服を給ふ、是よりして、或は二年・三年の内には、必ず此事あり、人数もひたすらに増して、今は年毎に勧賞を賜る事になれり、総べて此家中の子弟、才・不才によりて、巧拙はあれども、・形の如く、文武の業を習はざるものなく、或は経書・詩文に長じ、或は武芸に名を得るものゝ多くなりたるは、まさしく此君の恩徳なり、されば安永六年の頃、国中の詩を集めて、楽洋集と名付けて梓行せしに、作者二百余人なりき、一国の集には多しや少しや、今は、其数を二つ合せたる計りはありなん、

衣服の制を定む一、宝暦五年亥の二月、諸士を御前に召して、衣服の制度を仰付けらる、されども事俄にしては、中々下々の煩とならん事をおぼして、今より三年の間は、有り来りのまゝにてあれよかし、寅の年よりは、堅固に守るべしとなり、たとへば、侍の衣服は、総べて表は紬木綿を用ひ、裏は絹をも許す、其外は裏・表共に布木綿たるべし、女の衣服も大やう是に準ふ、但し七十歳以上・十歳以下、并に医師・出家は制外たるべしとぞ、猶ほ細かなる制あれども、事繁しければ略す、

刑法の改正一、此国にて人を罪なふには、死刑・追放の二つのみを用ひ来れるを、宝暦五年オープンアクセス NDLJP:102の頃より、笞・徒・墨の刑を始め給ふ、家臣堀平太左衛門勝名、御旨を請けて、刑法草書一巻を綴りて奉る、其序に云く、

夫れ刑は一人を罰して、万人を治むる道なり、一人を殺すこと、至重なりと雖も、化を梗り、俗を敗るの徒は、其天誅を如何、故に唐虞三代以来、刑法ありて、聖人の最も重ずる所なり、古は墨・劓・判・宮・大辟の五刑にして、異罪同罰、合せて三千条なり、漢の相国蕭何、律九篇を造り、罪の軽重細微に分ち、音楽の調、十二律の外に出でず、正声各和すると云ふに比して、律と云ふ名始めて起れり、歴代損益ありと雖も、大柴此九篇に本づくと云へり、近代に及びては、大明律尤も其精詳を極む、本朝公家の代、淡海公藤原不比等、和律十二巻を作る、其後武家の世となり、此律も陵夷して、海内戦国の風余に因循して、今に至る、我藩には、死刑・追放の二刑ありて、盗者の初犯を専ら追放に行はれ、郭外方幾里、或は幾郡と限り、禁錮遠近の差ありて、一旦懲悪に似たりと雖も、禁以外の地にては、衣食の便を失ふこと弥〻切なれば、縦令悪を改悛せんと欲する者も、飢寒に堪へざるの憂已むことなく、盗心遂に復生じ、所在の地の害となる、此の如くなる時は、何を以て悪を懲し、何を以て害を去らんや、唯一国中に於て、害の処を遷すのみなり、是れ白圭が水を治むる、鄰国を以て堅とするに近からずや、然れども初犯は死を宥め、再犯は死に処し、其差ありと雖も、已むことなきの再犯を、死刑に処する時は、則ち之を奔に陥れて殺すに似たり、此の如きは、其罪戻、彼にあらずして此にありと、謂はざることを得ず、是れ旧典なりと雖も、治平久しく、今に至りては、時勢・人情に齟齬し、処置の当らざることあり、此に於て、君侯厳命を下し、革めんことを議せしむ、大なる哉、民を恤むの徳、封内に布くこと、永々不朽の善政と云ふべし、蓋し今綿密の律を作らしめ、国に施さるゝこと、其美言ふべからずと雖も、恐らくは頓かに行はれ難かるべし、故に先づ的大の弊を救はしめば、其余は類推すべし、臣愚なりと雖も、敢て固辞することを得ざるの職に列す、故に古今の刑法を増損し、これを簡易にして、僅に数条を左に録し、稽類して執政の府下に呈す、其精詳なること、大明律の如きは、伏して後の君子を俟つと云爾、

  宝暦四年甲戌夏五月             堀勝名頓首謹言

オープンアクセス NDLJP:103罪の軽きは、笞刑のみにて已む、やゝ重きは、既に笞ちて刺墨し、眉を剃り、或は一年、或は三年の徒役に就く、之を徒刑と名付く、徒刑のものは、有る限り一つ小屋に養ひ置き、日毎に警固の者引連れて、辰の刻、匠作の所に至り、工匠の助になるべき事を営ませ、未の中刻には、また警固のもの連れて、小屋に帰る、扨一日の賃銭を定め置きて、其内三つの二つは、其日々々に与ふ、今一つは止め置きて、其者の年季満ちて免さるゝ時、都合して授く、小屋の中にて、沓を打ち、席を織るなど、己々が業をして、市に売る事を許され、年限満ちて帰る者は、授け給ふ賃銭と、己が手業の代を貯へ持ち、之を本にして、形の如く、世渡る業に就き、前非を悔いて、良民となるもの多し、

堀吉勝の殉死一、此堀平太左衛門は、曽祖を平左衛門吉勝といひて、本は越前の者なりしを、君の御先祖妙解院殿、〈忠利公、〉未だ豊前におはしゝ時、御家人になされ、御子光丸みつまる御曹司に付け置かせ給ふ、此国に移らせ給ひては、所領二百石給り、其後加増して七百石になりて、光丸君家督まし、肥後守〈光尚君〉にならせられしかば、いよ恪勤しけるに、慶安二年、吉勝当国にありける頃、守殿、関東にて、御所労以ての外なる由、聞えければ、取る物も取敢ず、関東に馳せ下りけるに、はや卒去ありて、御領に葬り奉らんとて、御柩の成らせ給ふ道にて、行遭ひ奉り、悲歎の涙を抑へ、御柩に向ひて申しけるは、此まゝ御供仕るべく候へども、今暫し存生へて、御跡の事をも、慥に見届け参らせて、三年と申さん頃、必ず殉死仕りて、事のやうをも地下に告げ奉らんとて、其身はおつすがうて江戸へ下りぬ、其由聞えければ、此国の老臣共、大いに驚き、吉勝が日頃奉公の様、此家中に並ぶものなし、今守殿卒去ありて、御世嗣いとけなくまします、かゝる時節、吉勝なくては叶ふまじ、急ぎ馳せ下りて、申し宥め候へとて、番騎衣笠形右衛門といふ侍を江戸に差下し、書簡をも寄せて、さまに申し留めけれども、用ひずして、身に承りたる職務を、夜昼となく勤めて、今は事果てぬとて、慶安四年三月廿四日、殿の菩提寺妙解院にて、腹切りて本意を遂げたり、堀勝名遺言に任せて、所領を子供に分ち給ふ、嫡子丹右衛門勝安、三百石、後加増して五百石、其子次郎太夫勝行、其子平太左衛門勝名なり、君の御家を継がせ給ひける頃、勝名未だ小姓組の頭にて勤仕しけるを、用人に移され、幾程なく、宝暦二年七月、擢き出して大奉行になし給ひけるよりオープンアクセス NDLJP:104以来、一国の仕置、此人と計らひ給はざる事なく、遂に中老を経て、家老になし、所領をも加へ賜ひて、三千五百石に至り、国の政事を委任し給ふ事、凡そ三十年計り、君の人を知らせ給ふ事の明かに、人に任じ給ふ事の専らなりし事、此の如し、勝名が其任に堪へたる程は、此国の政事に付けて、自ら見えければ、必ずしもいはず、

医学の美励一、宝暦六年の頃にや、郭外の角井といふ所に、医学寮を建て、再春館と名付く、 〈此寮明和六〔八イ〕年郭内に移さる、〉村井見朴・岩本原理を師として、領内の医者に、医学を勧めらる、また医業吟味役といふ役を立てゝ、領内の医者共、年々療治せる内に、大病・奇疾は医案を書き、世の常の病は、たゞ其人数を記し、正月毎に、必ず医業吟味の許に遣すべしと、掟て給ふ、是より医師も益〻書籍を考へ、業を励む事になりぬ、扨又医道を学ばん者、薬草のやう、知らではあるべからずとて、建部といふ所に、薬園を開きて、繁滋園と名付け、さまの薬草を植ゑて、物産を知る便りあらしむ、是皆仁慈の御心より出でゝ、病悩を救はしめん為めなり、

重臣等奉行所に於て事を執らしむ一、此国のおとな達、昔より月番といふ事を定めて、番に当りたる人、其月の国て事を執務を沙汰す、又君国にまします時は、日毎に屋形に出仕をもしつれども、江府にましませば、家にのみ居籠りて、家中の者の賞罰をも、家に召して申渡抔せしを、かくては事の体たらく、宜からずとやおぼしけん、奉行所とて、城内に局務の所ありけるに、宝暦六年五月より、家老共日毎にそこに詣でゝ、万の事をも沙汰すべき由仰付けらる、かゝりし後は、おとな達、月番をやめて、日毎の用番を定め、一人・二人宛、必ず奉行所に詣でぬ、さて君の在国・在府をいはず、侍以上の褒美の類は、皆屋形にて申渡し、貶罰のみをぞ奉行所にて申渡しける、斯くてこそ、国務もいよ滞りなく、事の体も所を得たりけれ、宝暦改正抑〻此宝暦六年の頃、領内の仕置を改められし事、挙げて数へ難し、是を此家中にて宝暦改正と云へり、此頃君の御心尽されける事、いはん方なし、勝名以下、心合ひたる者から、さま書付物などもて参りて、夜中にも御旨申請ひければ、まどろみ給ふ間もなくて、明け終てける事、常にありきとぞ、

奉行所の政治一、此奉行所といふは、昔よりありけれども、さきは、奉行所を物頭の兼帯政治などにせし事もありて、猶おろしき様なりき、又勘定奉行・郡奉行抔を始め、オープンアクセス NDLJP:105其下の役迄、奉行の名を付けたりしに、此改正の頃、もろの役の奉行といふ事をとゞめて、専ら此役の名とし、段格抔も進めて、蒲地喜左衛門・清田新助・村山何某・志水才助抔いへる、才ある者共を、ひたと挙げて、此職に補し、選挙・刑法・勘定・郡村などゝ、職掌を分けられ、皆日毎に詣でしめて、其職分々々の事を議す、又郡頭・勘定頭の局をも、やがて作り続けたり、たとへば、家中の者、如何なる事もありて、申状を棒ぐれば、組頭持ちて、こゝに来て、奉行に渡す、奉行取りて、家老の座に持ち行きて、事の様を申次ぎ、評議すべき由を、家老申せば、奉行退いて、根取などいふ者を召して、旧例を考へさせ抔し、又は勘定頭・郡頭抔を呼びて、沙汰する事もあり、議やゝ定りて、又家老に告げて、大事をば必ず君に申して、御旨を受け、小事は家老裁判す、家老・中老の座に大目付、奉行座には目付副ひ居たり、家老の附属に佐弐の役あり、奉行に根取あり、何れも物書あり、かくてこそ奉行所も事調ひけれ、公の職員・唐土の周官抔は、天下の御政にて、はしばしの国々にて、準へ云はん事は、傍痛けれども、有司を先にすとの、聖の教には叶ふべくもや、此時の奉行共の議定したる事は、今も人の口にありて、目出たき事多かりき、中にも志水才助清冬は、世々三百石を領したる士なり、清冬の父金右衛門致仕し、清冬家督したる日、即ち奉行役に命じ給ふ、果して其職に叶ひ、後には大奉行になされ、所領加へ賜ひ、千石になし、猶役料二千石を添へて、三千石の高にて、中老となれり、蒲地正定又蒲地喜左衛門正定は、世禄百石の侍にて、隆徳院殿の御時より近侍し、君の御代になりては、納戸役の事を司りてありけるに、或時、鷹野に具し給ひて、此犬暫し牽きてよとありければ、犬は犬牽にこそ牽かせらるべけれとて牽かず、又或時、御傍を掃くべき由宣ひければ、それは掃除坊主にこそ申付けめとて掃かず、かく何事も、むくつけに言ひければ、おのづから御覚もよからぬ様に、人も見なし、其身も役を辞退などせしに、幾程なく、役料五百石の高給びて、奉行になし、後は所領を加へ給びて、三百石、猶ほ役料六百石添へて、九百石の高になされ、ゆゝしかりしに、身にいたはる所ありて、辞職しければ、六百石の高賜りて、休らはせたり、改正の時、殊更心を尽して、此国にては、平太左衛門と共に高名なりき、大方度量ある人にて、物語多き事なり、すべて此頃より、人の器用を選びて、あながちに禄の多少、族の盛衰によらず、元より士たらんオープンアクセス NDLJP:106者は、いふにや及ぶ、緒方何某・田添何某といふ者は、農民なりしかども、其道に委しかりければ、侍となして、領内の勧農を司らしめ、後は所領をも給ひたり、斯かる類挙げて数へ難し、

世禄の制を改む一、同じ年の事に、諸臣を屋形に召し集めて、諭し示さるゝ旨を、自ら書きて、授け給ふ、其文に曰く、

家中知行代々相続の事、大体当国の高に応じ、古代の定之ある処、中古より我等に及ぶまで、新知・加禄等も、総べて世禄に申付け、当国不相応の高に至り、後年勲労の者之あるとも、賞すべき禄乏しく、数世前代の本意に背き候、之に依つて、慶安二年以前の知行は、旧故の家に付け、相違なく相続せしめ、右以後の新知・加禄は、代々相続の高を斟酌して、申付くべく候尤も其身抜群の功労によつては、旧故の家に準じ、或は子孫の材芸によつては、あながちに世禄減ずべからず、新知・加禄の儀に付、近年申渡し置き候趣も之ある条、何れも存知の為め、申聞けるものなり、

此条、有来りつる禄を減じ給ふ事を、君の御心には、愧ぢ恐れ給ふなど、承りし事もあれども、誠に節度なくては叶ふべからず、古の禄を世々にせしも、限りありての事なるべし、此君一代の内、人の器用に随ひ、相応の禄を与へて、挙げ用ひ、又は昔より功労ありし者の子孫、不肖にして、所領放たれたるを、ゆかりを尋ねて扶持し、召仕ひ給ひたる類、挙げて数へ難し、初に此条の掟なかりせば、いかで是等の事、心に任せ給ふべき、されば善政といはざらめや、

一、右の条、定められて後、慶安三年より此方、御被官になされたる家は、親致仕を請ひ、又は死にたる時は、家を嗣ぐべき子の行状は、いふに及ばず、文学・武芸の程を、委しく封事にして、組頭より奉る、父の功労と子の材能とを計り、抜群の者には、新禄とても減ぜられずして、親のまゝ給はり、さあらぬ限りは、譬へば、千石の所領、九百石・八百石抔、程々に随ひて給ひければ、勧懲著しく、家中の子弟恥ぢらひ、相勤め学びて怠らず、大方は文学にも疎からず、武芸も二品・三品、奥儀を極めたり、殊に医師・馬役などは、技芸を以て奉公する者なれば、世禄すべからずとて、皆糜米を給へり、家を嗣ぐ子、不肖にして、業拙なければ、纔に口米を与へ、猶ほ其道を学ばしめ、年を経て、上達するに随ひて、禄を加へらる、或は親オープンアクセス NDLJP:107に勝りて、堪能なるものは、家督を嗣ぐ日、親の禄に倍して給ひたるもあり、是は稽其医事以制其食といへる本文の心にや、斯かりければ、是らも家業を益〻、励ましけり、

養子の法改正一、家中の侍、男子なうして、人の子を養ひ、子にしつれども、さりがたき由ありて、家を嗣がせざらん者の事に付けて、宝暦六年の頃、仰せらるゝ旨あり、老臣家中に伝へて云く、

士席以上、養子願書付、尊聴に達し奉り、願の通り、仰付けられ、養方に引取り候上、御暇願ひ奉り、願の如く、仰出され候へば、何方へも達之なく、実方へ差返し、別人養子願ひ奉り来り候へども、一度父子契約致し候上は、病気たりとも、容易に実方へ返し候事は、之あるまじき儀と、思召され候、向後養子病気等にて、御奉公相勤め難き体に候はゞ、其旨書付を以て、御暇願ひ奉り、同居成り難く、久離に成り候はゞ、右の旨趣、前以て双方より、書付を以て、相達せらるべく候、以上、

  六月 日

是も人倫を厚くせんとの御事なるべし、但し当国にては退身を暇といへり、又養子に娘を妻する事はさらでもありなんと思ふものから、今は天下の習はしとなりぬれば、あながちに禁じ給ふべうもなし、其内にても、名義の斯かる所をや思召しけむ、明和五年、老臣伝申す御旨に云く、

男子之なく、婿養子相願はれ候面々、今までは、往々娘と嫁娶仕らせたき段、相願はれ候事に候処、右之通りにては、間々存違の輩も、之ある様子に付、以来は婿養子に仕りたしと、相願はるべく候、此段支配方へも達せらるべく候、以上、

  明和五年六月

母出奔の子の家督相続一、往にし延亨四年の頃、母出奔の子は、家督相続、又は他の養子に遣し候事も、成り難き由、公儀の御掟定められし後は、襁褓の中の子も、母斯かるまさなき振舞しつれば、罪に及されて、一生沈落せしを、君不便に思召して、宝暦六年、家中に命じ給ふ旨を、老臣伝へて云く、

母出奔致し、行方相知れず、其子部屋住にて能在り、縦ひ幼少にて、右の訳存ぜずとも、家督相続の儀は、相成り難く候、尤も他へ養子に遣し候儀も、成り難くオープンアクセス NDLJP:108候事、

 但、母家女にて候はゞ、其沙汰に及ばず候、

右の趣、寄々相達すべく候、

右の通り、先年公儀より御触之あり、御家中へも沙汰に及び候、然る処御触紙面は、大略の趣にて、御家中の面々は、一概に右の通り、仰付けらるべき様も之なく候に付、右体の儀之ある節は、右の父母、其子共に、始末の様子、委細書付を以て、頭々支配にも、如何相心得申すべくやの趣、其時々相達すべく候事、

其後宝暦十年に、重ねて公儀より、向後出奔候とも、其子家督相続、并に他へ養子に遣し候儀も、苦しからずとの御触ありけり、されば公も私も、御心を合せ給ひて、有難かりける御代なりけり、

納税法の改正一、民の租税、さきは、其年の内に、三の二を納め、今一つは、明の年の七月を限りて、貢ぐ事なりき、世降り、民の心も直ならざりけるにや、近き頃は、其つは、春夏の程に用ひ尽し、七月になりて、俄に弁へんとすれども叶はず、租吏責めさいなめども、誠に無き物なれば、せんすべ無く、上下の悩となりければ、宝暦六年より定めて、其の年の内に、残なく納めさせらる、凡そ民の情は、物の改るを、うけひかぬ習、殊に今迄長閑なりけるを、俄にきはしく、掟てなん事と、如何ありなんとて、上中思ひ煩ひたれども、此頃は例の賦など、軽くなりける折柄なればにや、兎に角に、いなむ者もなくて、安らかに事行はれけり、斯かりければ、冬の程は、誠に事繁けれども、春にもなりぬれば、民の心も長閑にして、一筋に耕し耘る業を勤めけり、是等や姑息をとゞめて、誠に仁政にも叶ふといふべからん、

一、宝暦七年の頃、役々の条目を授け給ふ、其役たらん者、之を旨として守るべしとなり、されども之を明地あからさまにしては、浅々しくなりなむ事を恐れて、其後の者、封じて深く秘し置き、新に役に就かんものには、先づ之を見しめ、又其役除かりては、封のまゝに、奉行所に納むる抔、細かに作法を立てられたり、是よりして、役々の者、詮とする所を知りて、心惑なく、職に死するの守あり、

毎年家中の勤書を出さしむ一、家中の者の恪勤の程をも、詳に知ろし召さむとて、宝暦七丑の年、仰付けらるゝ旨あり、老臣伝へて曰く、

オープンアクセス NDLJP:109

各当六月朔日より、来年五月晦日までの内、奉公の趣等書付け、来年六月朔日より、三日までの内、相達せらるべく候、尤も以来年々沙汰に及ばず候間、毎年右の通り、御逹あるべく候、相達せらるゝ様の文案、則ち別紙相添へ候、

、今迄御奉公差出被相達来候衆、当正月より同五月廿九日迄の御奉公の趣は、是又被相達来候、見合之通、差出相調、来年六月、前条之通、書付一同に可御逹候、以上、

  四月

   覚

私儀、何御役、去六月朔日より当五月晦日迄、日勤又は隔日罷出候内、当前一日も無懈怠出勤仕候、又斯様々々の儀にて、日数何日不参仕候、又忌中にて、何日出勤不仕候、

、何月何日、為江戸詰、此許被差立、何月何日、江戸著仕、当前之御奉公、或は斯様之儀相動、当何月何日、江戸被差立、何月何日、此許に著仕、何日より出勤仕、当五月晦日迄の内、斯様々々、

、当年何十歳に罷成申候、

、両親有無、年月付共に、

〈嫡子養子〉何之何某、当年何歳に罷成申候、稽古事何々、何某之弟子にて、時習館両樹に罷出、斯様々々、

右之通御座候、以上、

  何年六月

   何之何某殿

斯くて三年の内、一日も怠らず、恪勤せし者には、末が末に至るまで、必ず勧賞あり、其程に随ひて、家の紋の服をも給び、銀銭をも取らせたり、是よりして、其身其身はいふに及ばず、子弟も愈〻文武の業を怠らざりき、

田地の境界を正す一、仁政は境界より始むとは、孟子の金言なり、誠に田の境界定かならずんぼ、いかで賦租も均しかるべき、されども又、後の世の暴君汚吏は、検地といふ事をして、余畝を捜り求めて、それに租税を責めはたらんとす、此二つは、事の様似たれども、誠に仁と暴との違あり、されば公の御掟に、検地を深く禁じ給ふ、有難き仁オープンアクセス NDLJP:110政なり、抑〻境界を正さんとするに、古の井田は、畝数定あれば、煩しからざるべし、今はさる事なければ、田毎に名を付けて、夫を以て分けなんとす、其名記したる物を、公の御図帳に傚ひて、見図帳とぞいふなる、当国は前主加藤氏の見図帳ありけるを本として、妙解院殿所領となりし初め、改め記されたり、夫より此方百余年、徒に文庫に収め置きけるを、君の御時、取出でられたれば、虫喰ひ、敗れ朽ちて、物の用に立たず、是なくては、いかで境界を正さん、されども悪しく計らはゞ、検地にや紛ふべからん、すべて田の広狭をいはず、たゞ其名をのみ正すべしとて、田添源次郎とて、此道に賢き男に命じ給ふ、源次郎打迴りて、沙汰しけれども、さすがに広き領内なれば、宝暦七年より始めて、明和六年まで、十三年の星霜を経て、やう事果てたり、斯くてこそ、境界正しく、租税均しく、畔を犯すの憂なかりけれ、

備荒儲蓄一、宝暦八年の頃より、領内に仰せて、租税の内を、程々に随ひ、籾ながら貢がせて、凶荒の備とし給へり、されども一所に蓄へ置きては、頓の事あらん時、便なからん事を計りて、そこに倉を立て、納め置かせらる、其数九十七箇所となん、上に誘はるゝ下なれば、百姓共、己が物の中をも、思ひにさゝげて、此倉に納め置く、かくて凶年は云ふに及ばず、すべて麦の実りなど、思ふやうならで、夏秋の種乏しき所々へは、此籾を与へて、民の飢を救ふ、又米の価貴くして、商人苦む時は、殿の御倉の米を取出し、価を賤くして、売り与へらる、されば天明の頃、天下凶荒なりしにも、此国の民は、餓死する者なかりけるこそ有難けれ、扨も此籾を蓄ふ様こそたやすからね、悪しく取計らへば、却て民の煩となり、又は虫ばみなどして、徒に成行く、斯様の事まで、細かなる掟あり、

天明の賑恤一、此凶荒に疫さへ打添ひて、民飢に悩みしかば、遍く物を分ち給ひて、救はせらる、其数左に註す、

   米五百石二十余       籾五万八千〔百イ〕九十石余

   栗二千百三十石余      大麦四石二斗

   蕎麦四拾二石余       銀二十貫目余

   銭一万四百九十三貫文余

    右天明癸卯甲辰両年分

オープンアクセス NDLJP:111斯くても、兼ねて田畑抔も持たざりける者は、猶さまよひければ、国府の傍、白河の辺に、仮屋しつらひ居ゑ置き、下司に仰せて、粥を煮させ、朝夕配り与へ、若し病む者あれば、医師をして薬を与へしむ、すべて此料は、右の員数の外なりき、

蚕業獎励一、此国の民は、昔より蚕飼の業に疎かりければ、宝暦十年の頃、領内に申触れて、桑を植ゑさせ、蚕飼の事を勧めらる、されども糸を取るべき術を知らぬ者多かりければ、繭にて持ちて参らん者には、価を給ふべしと申触れ、城下の市中に、糸取り機織る所を定めて、やう見習ふ様にし、又島已今とて、本は志賀小左衛門といひし侍、今は致仕してありけるが、兼て此道に志ある由を聞召して、事の様委しく伝へて来れとて、京へ登せらる、巳今、京より近江に下りて、織工をも召具して来りぬ、其後又糸を採る事に、堪能なる女を三人迄、近江より呼下して、国中の男女に、其業々を学ばしむ、されども城下より遠き所の者は、なほ習ふに便なからん事をおぼして、折々已分を差週して、今日へさせらる、かくまで御心を尽されければ、今は領内の者、遍く此業を知りて、営む事になれり、

一、領内の山々を司る者、木を植うべき由は、昔より掟ある事なれども、年々に伐取る事は繁く、植うる事は、自ら忽せなりしに、水足五郎兵衛重房といふ侍、兼ねて栽培の道に委しかりける由聞召して、是に命じ給ひければ、絶えず打迴りて、其土地相応の木を植ゑさせ、養ひ育つる道まで、細やかに教へ諭しければ、皆よく茂れり、又城下より始めて、道端・川岸などにても、聊かの空地あれば、楮・櫨などいふ木を植ゑさせ、夫々の役人を立て、司らしめしかば、年々に生ひ茂りて、国用の助けとなれり、

重臣の家来の不法を取締る一、おとな達、家にて国務を沙汰したりし程は、そこの筆役などいふ者、いたうしたり顔にて、君の家士の進退をも、己が手に握りたる風情して、内々は財をも貪りしに、かく改正ありければ、さる事ひしと已みたり、又其頃は、其家の下部迄も、勢ひ猛に振舞ひて、人の煩となりしを、おとな達、心憂き事に思ひて、宝暦九年、時の奉行に示し合せて、国中に申流しゝ事あり、左に記す、

御家中家来々々、諸事相慎み候様、主人々々より申付けらるゝ儀は、勿論の事に候、別して御家老中・御中老は、御役柄の儀に付、家来々々へも、兼ねて稠しく御申付、之ある事に候へども、間には心得違の者も之あるべく哉、外向にてオープンアクセス NDLJP:112の儀は、右屋敷々々へは、相知れざる儀も之あるべく候条、右家来々々、町・在、其外にても、万一法外の事之あり候はゞ、下々は勿論、刀差したりとも、総べて用捨なく、其筋に随ひ、手強く取計ひ、事により候ては、其所に押へ置き、如何様にも取計ひ、右屋敷々々へ知らせ候はゞ、早速役人罷出で、引取り申すにて之あるべく候、其外軽き事たりとも、相替る儀之あり候はゞ、善悪によらず、其所の役人方より、内々知らせ申すべく候、御役柄と申し候ても、其役人、遠慮仕るべき訳は、之なき事に候、此段内意申達し置き候間、支配々々へも、寄々知らせ置かるべく候事、

農事の妨害を慮りて禁猟の期を定む一、鷹野を好み給ひて、御庭にも、所々に鳥屋をしつらひ、朝夕玩び給ふ、されども狩に出で給ひても、稼穡の妨となりなん事を恐れ給ひて、御供の者共をば、本道を打たせて、近習僅かを召具せらる、夫も必ず畔伝ひして、仮にも田畑の内に、入るまじき由、又本道を打つ者は、待遠にあらざれば、其処の村、彼処の小屋に、休らひてもあれよかし、但し茶一椀にても請ひたらん所は、必ず代を与ふべしと、深く戒め給ふ、無下に間近く渡らせ給へども、耘る者変らず、耕す者已まず、道に行き遭ひ奉りて、君とも知らず、行き過ぐる者もありけれども、狩装束は主従同じ様なれば、誰とも見分かぬこそ理なれとて、物咎めし給ひし事、一度もなし、又春の物伸び立つより、秋の実り苅り納むるまでは、川添ひに鷺など羽合せし、粟の穂風に鶉など打ちしきるをも、皆余所に聞きなして、立寄らせ給はざりき、されば此事家中にも制し給へば、宝暦十三年、老臣申触れて云く、

春作生長の頃に成り候はゞ、鷹野の網懸け等に罷出で申すまじき旨、仰出さるる趣、相触れ候通りに付、此節に至り候ては、何れも罷出で申さゞるにては之あるべく候へども、作方の障をも思召され、太守様にも、此節は御出で遊されざる御事に付、弥〻以て右の趣承知奉り、鷹野の網懸けに限あらず、張網等にも罷出で申さゞる様、触支配方へも達せらるべく候事、

  三月十一日

一、国侍の江戸に勤番せる者には、月々の扶持米を、時の価を計り、金子をもて給び来れるを明和〔宝暦イ〕六年の頃よりは、此国の米を運漕して、給はる事になれり、凡そ人の情、事の改る際は、うけがはぬ習なれば、初めは兎に角に呟く者もありけオープンアクセス NDLJP:113るに、君卒去の後、天明七年、米の価騰貴して、江戸殊更に甚しく、飢に臨む者もありて、物騒しかりけるに、此家中のみぞ、其憂なかりける、さてこそ君の遠慮の程も顕れ、有難がりし事なりけり、

家中知行の者に遍く馬草料を課す一、侍の乗馬持ちたる者は、其所領に仰せて、馬草の料を納めさする諚なりければ、所領少き者は、民の煩とならん事を、いたはり思ひて、心ならず馬をも飼ひ置かぬ者多く、百姓共も、また己が主の分限に随ひ、料を出す事均しからず、又新に馬を求めたらん人の所領は、昨日までなかりし事の、俄に出て来にければ、心感しけるに、明和八年の頃より、遍く国中に沙汰し、家中の所領の者には、少しづゝ此料を出させ、夫を勘定役の者請取りて、馬持ちたらん侍には、年の八月・十二月に分ち与ふ、所領の高に合せて、馬の数も定ありけりとぞ、斯く改めて、諚ありけるにより、小身の者も、心安く馬を飼はせ、民も煩なかりけり、凡そ斯様の物、押渡して出すべき程定りければ、民も兼ねて其支度をして、愁訴もなし、野路の時雨の、所をわきて、俄に降り来らん様なるは、立寄る蔭なき心地して、民の煩、大方ならず、かゝる理を、深く知らせ給ふにこそ、

幕府より天草警備の命を受く一、明和六年九月、台命を松平右近将監武元君伝へ給ふ、其詞に云く、

揖斐十太夫当分御預所、肥後国天草郡の儀、離島に付、唐船漂著等の節、其人数・船等入用の砌、且つ御用に付、十太夫渡海致し候節、往来船等、同人より申達次第、差出され候やう、心得らるべく候、尤も平日さし出し置かれ候に及ばず候、

以上、

君謹んで領掌あり、速に家中に申触れ給ふは、夫れ武士たらん者、其程々に随ひて、物具・打物など、誰かは備へ置かざらん、然れども治れる世の習、家の子・郎等まで、出立せんには、事足らぬ者なきにしもあらざるべし、異国の船は、今もや漂著せんずらん、斯かる仰を蒙ぶりては、片時も油断すべからず、速に用意仕れ、然れども家貧しからん輩は、思ふまゝには、力に及び難き事もありなんか、さあらん際は、用途与ふべし、但し弓矢執る程の者、武具全たからざる由、若し顕して申さん事は、深く恥だ思ふべければ、其組の頭、密に承りて、取計ふべしと、世に有難き御情に、皆々勇み立ち、馬の口取、陣具運ぶ雑人に至るまで、思ひに支度しぬ、さて用意調ひたらん者をば、かつ名乗らせて、著到に記す、明くれオープンアクセス NDLJP:114ば、明和七年より始めて、年毎に一備宛、此手当を定められたり、遥に程経て、天明三年、天草郡を島原城主に御預ありて、今は此事を已むべかりしを、治平久しき世には、武備疎かに成り易し、猶此年月の旨を守れと有りしかば、今以て怠らず、

一、家中の番方数百人、其外に組々の指物の事、先々は人々私に弁ふ定なりしに、斯くては、均しからぬ方も有りなんとて、明和七年、悉く公物をもて制せさせて、一人々々に授け置かる、若し組替り、或は死などすれば、速に組頭受取りて、奉行所に納む、是より組々の差別も著しく、且は事厳重になりて、人々の心も怠りあへず、又此家中には、昔より軍令の宝螺を吹く者を定めず、時に取りて、傾内の修験者などを用ひらるべしと、聞えけれども、今は山伏共、其道捗々しく得たる者なかりしかば、家士横田勘左衛門景一とて、兵学に達したる者に命じて、先づ山伏に其式を伝へ、夫より歩小姓に教へさせられければ、堪能の者余多出来、始めて貝吹の役を置かれたり、是等は皆治世に武を忘れぬ設なるべし、

一、明和七年の頃、熊本城下度々火起りしかば、物頭に命じ、組の歩卒を引具し、火を防ぐべき出立して、夜昼となく打週り、盗賊風情の者あれば、問ひ詰り、搦め抔しければ、城下火も鎮り、盗も少なくなれり、是より定例として、物頭の内にて、三人づゝ選びて、其年此役を勤むべき由を、必ず正月十一日に命ぜらるゝ事になりて、今もしかなり、又衣服の制度を犯せる者をも、此後より糺問せしかば、法令能く行はれたり、

天明二年の倹約令一、飲食を非し給ひし事は、又世に類あるべしとも覚えず、天明二年の頃、家中に倹素を勧むとて、老臣達申伝へたる事あり、左に記す、

諸事質素に相心得べき旨は、兼ねて仰付け置かれ候通りに候処、今年は非常の不作に付、四民共に困窮の手柄に付、弥〻以て稠しく、勘略仕り候様仰付けらる、左の通り、

、平日の飲食、奢がましき儀は、之あるまじく候へども、此節は猶又心を附け、勘弁之あるべき事、

、年始・五節句、其外祝事に付、一類中集会候とも、吸物看二種、料理は一汁・二菜を限り、酒宴長ぜざる様、致さるべく候事、

オープンアクセス NDLJP:115、平日の出会、以て軽く致し、酒宴がましき儀、一切無用の事、

、衣服の品、弥〻質素相心得らるべく候、御制度を相守られ候上は、子細之なき事に候へども、其内にも品を択び、著用の輩、間々之あり、小禄の面々は、猶以て不都合の至に候条、家来々々の衣服ども、急度其心得あるべき事、

、音信・贈答、親類の外、一切無用の段、先年相達し置き候通り、弥〻堅く相心得らるべく候、旅行の節、銭別・土産も同前たるべき事、

 十一月

に添へたる覚書あり、

重賢自ら粗食に甘んず、太守様召上がられ物、朝御膳は御茶漬の飯・御香の物・御焼味噌・梅干の類にて召上がられ、御料理物は申すに及ばず、御汁も召上がれず候、

、夕御膳は、御一汁・御一菜、

、御夜食前、御吸物の外に、御有合の軽き御肴一種にて、御酒召上がられ、御夜食は御香の物・御焼味噌等なり、

右の通りの御様子は、当時の御規定にて、御保養の為にも、在らせらるべく候へども、兼ねて飲食の奢侈を御意遊され候に付、御誠旁〻の思召にも在らせらるべく、有難き儀に御座候、恐れながら、右の御様子、御家中の面々は、申すに及ばず、末々に至るまで、存じ奉り候はゞ、分々の心得にも、相成るべく候に付、今年手柄の儀、彼是組々へも、急度寄々申聞け置かれ候様存じ候、以上、

又一年、天下凶荒して、家中の扶助など、例の様にあらざりける頃、朝の物に、例の味噌・香の物参らせければ、其内一品を取除け給ふ、御前に侍ふ者共、倹約も限りは有るべうもや候ひけん、夫までは余りにやと申しければ、いやとよ、今程は家中の者共、難儀たらんに、せめては斯かる事をもして、艱苦を共にせんと思ふなりと、宣ひしぞありがたき、

 
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銀台遺事 
 
篤行者旌表及ひ敬老の典一、忠孝を賞せらるゝは、珍しからぬ事なれども、君入国の初め、先づ善良の民を尋ね、孝子・忠臣より、勤業の者に至るまで、其程々に随ひ、恩賞ありしより、風移り俗易り、恩賞に与る者、年々に多くして、四十年計りの間に、殆ど六百人に及べり、中村忠亭といふ者、其行状を書綴りて、肥後孝子伝前後編として、世に流布せしかば、爰には略す、又年老いたる者を、殊に憐み給ひて、士にもあれ、農商にもあれ、齢九十に満つる者あれば、其人の品に随ひて、衣服・金銀の賜物あり、又百歳以上は、年毎に之を賜ふ、初めは年々六月、此事行はれけれども、夫までは又半年なり、老木の風を待たぬ例もあれば、命の内にこそとて、総べて正月十一日を、定例となされたり、又一年、関東にて尚歯会とて、七十歳以上の人を招ぎて、終日饗応あり、御内の者共、其齢なるをば、皆々召して酒賜り、三井孫兵衛親和とて、その頃高名の能書あり、是も七十余なりけるに、寿字を篆文に書かせて、夫を蒔絵にしたる杯を、万歳杯と名付け、各引出物として、下賤の者には、金子に此の日の駕の料まで添へ賜ふ、扨又御内には、女の其齢なるをば、小君の許に召して、同じ様にもてなされたり、

御客

有馬備後〔筑後イ〕守殿七十九歳 〔沢イ〕播磨守殿八十二歳 津軽〔蘭イ〕策老七十六歳 森宗乙老七十二歳 森雲禎老七十一歳 戸田五助殿七十九歳 水上楠左衛門殿七十三歳 林宇〔森卯イ〕兵衛殿七十一歳 〔町イ〕百庵八十三歳 三井孫兵衛七十八歳 高安是竹七十三歳 馬場〔存イ〕七十三歳 谷口桜〔八イ〕七十九歳

家臣

成瀬尉内八十一歳 野坂源助七十六歳 遠山瀬兵衛七十二歳 奥田五郎助七十一歳 桂助四郎七十歳 蒲野文助七十九歳 白井平治七十九歳 吉沢要助七十二歳 林庄五郎七十二歳

雑人七人

オープンアクセス NDLJP:117

五郎兵衛 喜左衛門 甚四郎 平吉 喜右衛門 半兵衛 弥右衛門

女十九人

賦税を軽減す一、民に賦・税の二つは、古へよりある事にて、式・令にも、租・庸・調など沙汰せられしにや、されば当国にて、賤き詞に、懸り物といふは、賦の類にやあらん、其品数多ありけるを、君聞召して、民の苦みは、賦の重きによれり、いかにもして、れを軽くせよとて、有司に仰せて、兎角に計らはせ、三品まで除かれたり、其米一年に一万五千石計りなり、斯く云へば、聊かなる様なれども、宝暦四五年の頃、此賦免されて、君卒去の天明五年まで、三十二年計りの間、其高を算ふれば、四十五万石余なり、猶ほ行末は計なかるべし、又郡代の職務に用ふる料紙・筆墨は、其郡の民共、弁ふる定なりしを、安永七年よりは、其料を皆国府より下し賜ひて、聊かも民よりは出さしめず、是も年毎に銭三千貫計りの物にやあらん、又田に虫多く生じて、笛を損ふ年は、鯨油を遍く配り与へて、それを田に差して、虫を除かしむ、其料も又幾許ぞや、是等の物、自ら領内の民を潤して、春雨の普き恵の如し、民草の生ひ茂るも、宜べならずや、

一、稲の未だ熟せざるに苅取りて、糄米やきごめとなす事、いづくにもある事なるを、明和六年の頃、此領内には停止せられたり、されども所領の主〔所々の鎮守イ〕、先祖の祭抔に備へん料ならば、稲熟して苅り、納めん時、初穂を速に貢ぐべしとなり、是は殊更聊かなるものなれども、領内にて、年毎に二千石計りは、其物になりたりとぞ、誠に凶年には、一束をだに、たやすく得まじき稲の、色づくをも待たずして、徒らなる物にせん事、空恐しき業なりき、

凶作地の徴税一、民の租税を納むる事、年により所によりて、実り好からずして、定式のまゝに、事行くまじきは、検見を望み申す事あり、此検見こよなき大事なり、聊も辛ければ、民苦み、余りに弛みぬれば、民怠る、鳥の子を握りたらん様なるべしとぞ、されば君の御代に、様々御心を尽されて、見積り・ためしとて、二品の法を立て、兼ね用ひさせらる、たとへば、見積りは、田面はる見渡して、其賦を沙汰す、誠におほどかなる法なり、斯くしくも、民うけひかず、猶あらがひぬれば、畝を分けて、実りをためす、其法至つて細やかなり、おほよそ民の事には、かく寛弘の度あオープンアクセス NDLJP:118りて、精密の規なくんばあるべからず、良法といふべし、委しくは短き筆に述べ難ければ、洩しつ、

一、民の家宅は、地の善悪によらず、なべて其渡りの上田に準へて、賦税を出す習なりしを、古は一夫毎に五畝の宅を与へきと聞く、さまでは叶ふまじきが、せめて其地の程に随ひて、物を出させてよ、過分に責取らんは、勝れたる不法なりとて、此御時より、制を改められたり、

租税滞納者の処分を緩にす一、いつの頃よりか、此国の民、年貢合期せざる者は、所の庄官、其親族を召捕りて、永牢といふに入れて、責めはたる習なりき、其牢の様こそ、むげに痛はしかりつれ、四方に埓を厳しく結ひ迴し、内に膝を過ぐる計り、水をたゝへたり、通税の民あれば、其父母・妻子を是に籠めて、水の中に立たしむ、厳冬の頃なれば、雪の夜、霜の朝、堅氷肌を貫きて、かの紅蓮・大紅連の苦みも、是にはいかで勝るべきと覚えたり、斯く老いたる親、幼けなき子をさいなまれて、主は涙に暮れながら、富家に向ひて、手を摺り、物を借り求むるなど、申すも胸潰るゝ有様なりき、君此由を聞召して、大に驚き給ひ、思はざりき、我国に、さまで惨酷の事あるべしとはとて、速に仰せ流して、永く此事を停止し給ふ、斯かりけれども、民の貢は中々滞なく、いち早く納めけり、爰に知る、民を責めさいなむは、愛しいとほしむに如かざる事を、

殿様祭一、仁愛の御心を以て、仁愛の政を行ひ給ひければ、民の竈も、年に増して賑ひ、誰勧むとはなけれども、宝暦の中頃より、家毎に殿様祭といふ事を始めて、年に一度必ず仕けり、古の紀伝博士共が、いかめしく申伝へたる、生祠などいへるも、かゝる類にやと覚えぬ、其祭、定れる日はなくて、たゞ己が暇あるべき程を計りて、一里示し合ひ、餅を搗き、酒を作るなど、其身の程に随ひて営み、それを神に奉る如く供して、其日は、一里の者、己が業をせず、酒呑み歌ひて、此君に御代に、生れ合ひたる身の悦を述べ、一日の楽に、百日の労を慰めけり、

能く人を用ふ一、或国の主、年若くおはしましゝが、召仕ふ者をば、いかに択び候はんかと、問ひければ、別の事も候はじ、我物好を立てず、人の善しと申さん者を、私なく用ひ給うべうもや候はんと答へ給ふ、常にも、誠に善からん人をば、我は天に誓ひて、捨つまじと、思ふなりと宣へり、斯かる御心ばへなればこそ、遍く人の器用を尽オープンアクセス NDLJP:119されたり、たとへば、藪市太郎安といひつる者などは、堅固の昔人むかしうどにて、今の世に叶ふべしとは、誰も思はざりしに、聞召す所やありけん、奉行になし給ひてこそ、器用の程も顕れたれ、此類数多あれども、今世にある人は、思ふ所あれば、漏しつ、又昔御曹司にてましける時、懇にもてなし奉りたる者もあり、悪しく当りたる者もありけれど、御家継がせ給ひては、少しも差別し給はず、懇なりし者も、不法あれば、速に斥けられ、つれなかりし者も、器量の程に随ひて、いみじく召仕はれたり、

竹原玄路堀勝名を推薦す一、君御家継がせ給ひし初に、いかでさるべき者を得て、家中の仕置をも任せてんやと、思ひ煩ひ給ひける頃、竹原勘十郎玄路といふ者ありけるが、堀平太左衛門勝名こそ、其任に叶ふべき者にて候へ、とく厚禄を与へて、挙げ用ひ給へと薦む、又或者今一人を薦む、君も内々は、今一人の方に、御心引かれけるを、玄路あながちに執し申しければ、御気色損じて、つと奥に入らんとし給ひけるに、御袖を控へて、諫め奉りし事、二度までありければ、終に玄路が申すに任せて、大奉行といふ職になし、政事を任せ給ひしより、年月につれて、其績顕れ、世に誉ある国となれり、之をや管仲・鮑叔といふべき、此玄路が先祖竹原下総惟政までは、当国阿蘇の累代の家人にて、侍頭たりけるが、天正の頃、阿蘇と相良との戦に、嫡子勘五左衛門惟房と共に討死す、惟房が子上総宗守、故あつて阿蘇の家を退き、薩摩の国に往きて住む、文禄四年、幽斎君、豊臣家の仰を受けて、薩摩に渡らせ給ひし時、島津義久入道龍伯の御許にて、連歌ありけるに、宗守が嫡子市蔵惟成、齢僅に八歳にして執筆し、勝れて利根の者なりければ、幽斎君、御あるじに請ひ受け、召具して丹後国に帰り、所領百石たびて、側近く召仕ひ給ふに、万に賢かりければ、天下に隠れなき幽斎君の歌道を、此者に伝へ、書札式をも教へて、常に代筆とし給ひ、又武田宮内少輔信重主〈幽斎君実方の姉婿、此主より弓馬の故実、御当家に相続せらる、事長ければ略す〉の弟子に付けられて、弓馬の故実、残りなく受け伝へ、更に仰を受けて、伊勢流の仕付方を一色一遊斎に学び、庖丁の術を大草氏に学ぶ、皆奥儀を極めたり、所領加へ賜ひて、二百五十石、後には致仕して、墨斎と号し、玄可と名付く、夫より此方、右の品品の道をも禄をも伝へて、玄路まで六代に及べり、玄路家の道は云ふに及ばず、才学もありて、世に多能の者なりければ、君の御時、用人になされ、参観の度毎オープンアクセス NDLJP:120に、必ず召具せられ、総べて御側に恪勤せし事三十年余、賢を薦めては、上賞を蒙るといふ本文によらば、更に殊なる加恩もあるべきに、役料こそ千石にも満ちぬれ、所領は、僅に二百石を加へ賜ひ、合せて四百五十石のみにて、君の御代を過しつるは、如何なる故なりしぞと、いぶかる者もありけれども、始めて勝名を薦めける時、玄路申上ぐる子細ありて、後まで加禄を辞し申したりとぞ、其人今猶ほ職にあれば、例の委しくは記さず、

善く臣下の諫言を聴く一、明和七年冬の頃、君の寵臣、聊か不正の事ありければ、罪し給ふべき由、家老・奉行抔申しけれども、御許なくして、其年も暮れぬ、法は人によりて抂ぐべからず、あながちに申行ひなんとて、明和八年正月十一日、奉行職の者、朝とく参りたり、其朝しも、夜深く鷹野に出て給ひて、辰の刻計りに帰らせ給ひ、未だ御湯をも引かせられぬ程なりけれども、近習の者に就きて、某御旨伺はんとて、参りたりと申させければ、御前の人を除けて、とくと召す、奉行則ち事の由を申しけれども、猶受ひき給はざりければ、一向諫めて、御詞にあらがひ奉る事余多度、終に申し叶へて、御前を立ちけるに、今日しも、御具足の鏡餅参らすべき次の間には、近習の者共、膳具居ゑ並べて、評議の終るを、今やと待ち居たる風情を見て、打驚き、日影を見れば、はや午の刻計りなり、御鷹野の帰り、夫まで朝御膳をも参らざりげれども、怒り給ふ色、倦み給ふ色も、見えさせ給はざりきとぞ、

一、治れる世の習、君と臣との間、おのづから遠ざかりて、国の老臣抔は、君の御前に、召さるゝ事も間遠になり、側近き用人などいふ者、御旨を受けたりとて、万の事を取計ふこと、諺にいふ、虎の威を借る狐となりて、思ふまゝに振舞へども、君のあたり近きを恐れて、制する者もなきを、社の鼠に譬へたるは、唐も大和も同じ程の事なり、君深く此禍を恐れて、仕置の事、近習・外様の隔なく、皆老臣に任じ給ひ、月に六日宛、用日と定めて、家老を始め、奉行・目付・郡頭・勘定頭など、替る御前に参りて、其職々の事を、直ちに申して、御旨を受く、又近習の者には、側近く召仕ふとて、外様の者に、無礼すべからずとて、朝夕戒め給ひければ、何れも恐れ慎みて、虎の威を借るべうもなく、社の鼠の議も絶えて、政の筋乱れざりき、

オープンアクセス NDLJP:121家士の等級を分つ一、朝廷には、位階・官職の筋を分けられて、官位相当せざるは、位署にも、行・守と申すなど、密に承り及びぬ、夫に準へ云ふべきにはあらねど、一国一家の内にても、役と席との二つは、さすがに定められずしては、事整ひ難かるべし、されば此家中には、家老侍頭抔の役席の外は、昔より大概段別を四品に分つ、著座・物頭・平士・軽輩といへり、君の御時に、夫が中の等級を分けて、著座に上・中・比あり、物頭は、元来足軽五十人の頭より、十人の頭まで次第す、平士は、所領ある者と、中・小性といふ者と違あり、之を大概にして、軽輩まで、程々の等級を定めらる、其役を命ぜられて、其席に就くは、常の事なり、或は席上りて役下り、或は役上りて席下り、又は其職に適ひたる者は、役を易へずして、席を進め抔せられしかば、選挙の道自在にして、大方は其人其職に適へり、又役によりて、本役・副役あり、権・正といはんが如し、更に当分役あり、仮に其役に付けて、器用の程を試み、適はぬをば除き、適ひたるは、五十三年を経て後、定に命ぜらる、唐土に摂真の沙汰あるが如し、

一、朝鮮の者の、我朝に聘使たらん用意を書きたる、日観要考といふものに、我国の事を評して、痒序もなく、四礼もなし、良知ありとても、いかでか道を弁へ知らん、士・農・工・商の外は、医を上とす、僧是に次ぐ、儒を末とす、たとひ祭酒たらん人も、尺寸の地なしなどゝ、飽くまで、あざみたるは、我朝の風を知らぬ夷共、己が国に引較べて、口に任せて、荒涼云ひ散らすとは、思ふ物から、いはゞ云ひぬべき節なきにしもあらざるべし、然るに当国には、学館を建て給ひける事は、先に申したるが如し、時習館教授前教授秋山定政、一名儀、字子羽、五山と号す、高名の者なり、君殊に寵遇ありて、関東参観の度にも、必ず召具しなどし給ひて、ひたすら教育すべき暇もなかりき、斯くて宝永十三年、身まかりにければ、藪茂次郎といふ者を、教授となし給ふ、茂次郎、名懲、字子厚、朝陽・孤山と号す、先に申しつる市太郎が弟なり、父を久左衛門弘篤、号を慎庵といひき、同時に大塚丹右衛門久成、号を孚斎、致仕して退野といひし者あり、此二人、心を合せて、程朱の学を研究して、頗る精奥を極めたり、其文集を慎庵遺稿とて、世に梓行す、茂次郎兄弟、幼きより、庭訓に習ひ、家学を伝へ、教授になりし時は、年未だ三十に足らざりき、是より学徒弥〻盛にして、余所の国より来りて、物学ぶもの多かりしかば、君の老臣計ひて、オープンアクセス NDLJP:122教授が許に塾を建て、遊学のものを居ゑたり、隣国の教職・儒臣、此門より出てたる者、数多ありき、此家中の例として、本家ありて、別に子弟を召仕はるゝ者は、所領を賜はぬ習なれば、懲にも、年毎に廩米五百俵をたび、物頭の一に座せしめたり、君卒去の後、猶加へ給ひて、六百俵、番頭格とぞ聞えける、其次に助教あり、訓導あり、皆程々に随ひて、所領を賜ひ、物頭格にもなれり、句読師は、専ら其役なるものあり、又は番方とて、暇ある侍共の兼帯にもし、遊倅をも加へ用ひらる、今の世の習はし、儒者を家業としては、薬師くすし・茶道にたぐへたるものとすれば、此国もしかなりけるを、儒の道は人の道なり、何条かたへの家業と定むる法あるべしとて、武士も文任になし、文儒も武職に通はして用ひ給ひき、斯くいへば、をこがましけれども、僅か一国の家中に、かばかり儒道をもてなし給ひたる事を、朝鮮の夷共に知らせて、鬚口ふたがまほし、

米田松洞一、米田波門是著は、芸能多きものなり、弓馬・軍術、皆奥儀を極め、殊に幼きより、学問を好みて、詩の道を南郭に学び得て、其名高し、君命じて家集を梓行せしむ、四時園詩集とて、世に流布せり、書画・印篆まで、人に勝れ、しかも心静にして、極めて無欲なり、長岡助右衛門是福とて、一万五千石領せし、譜代家老の弟なりしを、例の二千俵賜ひて、中老までなされたり、年若き程に、妻を失ひて、二度要らず、唐の王維などが風情してぞ有りける、君も又なきものにして、御覚え浅からざりき、歳既に六十に過ぎぬれば、幽閑を楽まほしとて、わりなく致仕を望み申しゝかば、憖に許し給ひ、家をば其子に嗣がせて、猶老を養ふ料とて、八十人扶持賜ひけり、かゝりし後は、みづから松洞と号して、西山のほとり、水石をかしき所に、幽棲を構へ、避竹園と名付け、風に吟じ、月に嘯きて、春秋を送り、城下も頓て見渡す許りの所なれども、年を経ても出でず、節々の屋形の慶賀も、人して申させけり、助右衛門妻は、君の御妹なり、其許に渡らせ給ひける時、あながちに召しければ、辛うじて参りたり、君打見させ給ひて、いかにやいかに、汝は誠の隠居にてありけるよと、繰返し讃歎し給ひて、上段なる所に召す、恐をなして、登らざりければ、いや、仕へてありける程は、さもありぬべし、隠居の身なれば、我上に座したりとも、何か苦しかるべきとて、強ひて御側に召して、盃たび、のどやかに物語し給ひ、興じ給ふ事斜ならず、其時、詩の続集を参らせよ、梓にもオープンアクセス NDLJP:123せんなど仰せらる、君の寛大にして、人を愛せられし事、此類にこそ、抑〻此波門、未だ仕へてありける時、事に触れて、誉めさせ給ふを承りて、ある者、さまでいみじく候はんに、など平太左衛門に並べて、国務を任じ給はざりしかと、申したりければ、いやとよ、麒麟に田は鋤かせられぬはと宣ひき、

宝暦五年の洪水一、宝暦五年、当国の洪水こそ、夥しかりつる事なれ、六月朔日より降出したる雨の、篠を束ねて、衝くが如く、九日まで、をやみだにせず、川々の水、皆溢れけるに、蘆北郡の瀬戸石山とか、忽ち崩れて、球摩川を堰き留めければ、川浪逆巻きて、山をつゝみ、陵に登るといへる、古への様、眼前に見えける程に、やがて其堰押流し、一時に川下の方へ打出でければ、八代の萩原といふ所の堤数十町、忽ち切れて、田も畑も澪になり、神社・仏閣を始め、数多の人家流れ失せ、溺死する者数百人、目も当てられぬ有様なり、今年は君東にましければ、急ぎ其由を註進す、君則ち公儀に言上し給ふ、其状に曰く、

私領分肥後国の内、六月朔日より同九日まで、追々強雨・洪水・山崩、損毛破損の覚

一、高廿三〔七イ〕五百六十余名  潮入・石砂入・洗剥・山崩

    此田二万〔七イ〕千七百五十三町余畑七千六百廿五町余

一、塩浜          九十七町五反

一、塩塘          三千四百十五間

一、川塘          十三万二百九十間

一、井手塘堤        八万七千八百九十九間

一、水除石垣        八百五十間

一、磧所          一万九千五十七間

一、水除柵         四千二百八十七間

一、山岸崩所        一万七千百四十三間

一、土橋          百五十五箇所

一、往還道筋        一万九千七百四十六間

一、井樋          百八十七箇所

一、流舟          百一艘

オープンアクセス NDLJP:124一、流失番所        二箇所

ー、右同社         二箇所

一、右同辻堂        八箇所

一、右同八代蜜柑木の内   二百四十本余

一、流家          二千百十八間

一、流木          三千八百廿二本

一、溺死男女        五百六人

一、怪我人         五十六人

一、溺死牛馬        五十八疋

右損毛破損の儀、水引候上相改め、国許留守居の者より申越し候、右損所、郡村の内、蘆北郡球摩川筋に之あり候、瀬戸石山、高さ二百間、横百五十間程崩落ち、川迎に之あり候山に、右の崩れ先、高二百間、横百間程突上げ、是又崩落ち、球摩川突埋め候間、洪水却て逆流仕り、水かさ三四十間程磧上げ小山抔は、山上を水打越え候程の水勢、半時余も右の通りにて、程なく右突埋め候所を洗切り、押落し候水勢、一同に川下に溢れ候故、塘上道幅十五間余、根張四十間程之あり候塘筋、悉く崩れ申し候、右は先祖越中守入国以後、遂に之なき損所にて、別して水先の村々、亡所に及び、溺死の者も多く之あり候由、註進仕り候に付、申上げ候、以上、

  宝暦五年八月五日

やう水は落ちけれども、渺々たる曠原となりて、又もや雨降り、水かさ勝らば、其わたりの里人は、皆魚の餌となりぬべくぞ覚えたる、されば此堤速に築かずんばあるべからずと、老臣評議す、稲津頼勝萩原堤を築く抑〻此川は木綿柴川とて、世に聞えたる大河なるが、しかも球摩の高山より落ちて、流の急なる事、矢を射るが如く、萩原の堤は、其的に準へたれば、之を築き留めむ事、又なき大事なり、前国主加藤肥後守忠広朝臣の時、加藤右馬允正方とて、文武兼備の老臣、心力を尽して築き立てたり、今の世には、正方程の者あるべくもなし、如何せんと、案じ煩ひたるに、稲津弥右衛門頼勝とて、郡目付なりけるもの進み出で、其正方とても、鬼神にては候まじ、同じ人ならんには、夫がしたらん程の事、何条得せぬ事の候べきと云ふ、実に此オープンアクセス NDLJP:125男は言葉に恥づまじきものなりとて、君に其由告げ奉りければ、則ち頼勝に任じ給ふ、頼勝承りて、凡そ男女年十五以上、土を運び、石を負はん者には、皆銭を取らすべき由、郡中に申触れ、其強弱を三品に分つ、たとへば、

 男 上  百五銅   中 八十四銅   下 七十銅

 女 上  八十四銅  中 七十銅    下 五十六銅

右の定にて、日毎に与へければ、我もと、きほひ集る男女数万人なり、頼勝遠慮を迴して、水際より三四十丈こなたに、本の広さ二十丈余、頂四丈五尺程の堤を、数十町築きたり、斯くてこそ、いかなる大雨にも、水溢れずして、川添ひの里人も、夜を安く寝ね、思ふまゝに、農桑を営みたりけれ、此堤を築くとて、頼勝夜昼馳せ迴りて、下知をなし、かの門を過ぎて入らずといへる様なりければ、民も悦び勇みて、頓て頌を作りて、口々に歌ひ、土石を運ぶ、こゝに伊形庄助、名質、字大素とて、高名の詩作りあり、之を聞きて、詩経の雅頭の類なりとて、韻語に移して、湯々九章とす、既に楽洋集に入れて、世に梓行せしかば、爰には漏しつ、又ざれ歌に取なしたるものあり、左に記す、

いづれの年にか有りけん、卯月・五月の雨、久しく降り続き、萩原の堤崩れにければ、松江・城岡の里、皆淵瀬も分かずなりにけり、家を流し、身を流したる人、

  いくら計りとも知らず、古へにも、斯かる例は、いと稀なる事になん、

  熊川の水かさまさる五月雨にまつ江の城は沖のなかじま

  熊川やゆふ葉のつゝみ水こえてなみのそこなる岡のべのまつ

  たらちねの行方をとへばしら浪の八百の汐合に立ちさわぐみゆ

  浪のうつ磯辺の蘆のあしも手もいはにくだけてふせる子はたぞ

  ゆく川のこの水底はちゝの里ははのすみかと聞くはまことか

  わたつ海のもくづとならばもろともに我も水泡とけなしものを

或は曰く、父母を流し、妻子を失ひ、或は、はらから、友達など流し、一方ならず、悲しめる人の心なるべし、

君聞召して、深く歎かせ給ひける余りに、誰か此水を治めてんやと、宣ひければ、稲津某が承りて、死ぬるを弔ひ、生けるを憐みつゝ、堤を築きて、田畑の荒れだるを正して、よく調へければ、民皆悦びて、神の如く、仏のやうにぞ敬ひけオープンアクセス NDLJP:126る、則ち歌へる歌を、萩原堤築の歌といふ、其歌にいはく、

ともつきは堤築きなるべし、堤をともといへるは、此国の民の言葉にして、堤とも、ともとも、兼ねていへるになむ、

  秋の田のいなづの神のなかりせば死ぬる命を誰か助けん

  萩原のつゝみつくとや手弱女のはなずり衣まくり手にして

  手勇女の我身にしあれどいくひ打ち石をも引かむ男によりては

  あなたふと君は神かもほとけかも死ぬるいのちを救ひ給へば

  萩原やつまこひかねてなく鹿の声聞くらんかつゝみつくいも

  あはれなり妻恋ひかねて鳴く鹿の人目つゝみを中にへだてゝ

  あけのたすき藍の前垂誰とだに知られぬ人をかけて恋ひつゝ

  わきも子はけふも堤をつきはぎの衣たちぬふ暇やなからん

  白糸のよるこそきぬをたちぬはめ堤つく日は幾日もあらじを

  死ぬる命生としいへば仏ともかみともなどか仰がざらめや

  けふ幾日くしげの小櫛とりも見ず身を八代のつゝみつくいも

  うたの声きけばなつかしから衣たちぬふ手さへ忘れてぞきく

  吾せこがらき思をなぐさめて甘きもらひを贈りてしがな

  わぎもこが贈りし餅の甘ければからきしわざも知られざりけり

  はね馬にねたき男を打乗せて心地よげにもおとしてしがな

  しにもいきも君が心に任すれば神とやいはん仏とやいはん

  今よりは紙子のてゝら身につけじ川し渡れば人わらへなり

稲津某の下司に、いと腹あしき男なん有りける、ともすれば、腹立ちて、杖を振立てつゝ、怒りけるに恐れて、歌を作れり、それが名をば、けにけちとなん呼びければ、歌の頭に置きて、

  けはしくも昼飯くふ間もあらせじと杖振立てゝ怒る君かも

  になひかね引きかねにける石よりも君がこゝろの角ぞ激しき

  梳るともあぐるともなき黒髪のとけぬ恨はいふかひもなし

  ちゝはゝの撫でし我身ぞあらちをの荒きたぶさの杖なふれそね

いなづの神といふ事を頭に置きて、

オープンアクセス NDLJP:127  いたづらにしぬる命を永らへて嬉しき世にもあひにけるかな

  なみの上磯辺のつゝみ今よりは動かぬ国のかためにぞつく

  つゝみてふ堤はあれど嬉しさを袖につゝむはこれのはぎ原

  のゝ末に山のきはみに住む民も皆おり立ちてつく堤かな

  かみつ瀬の清き流をくむからに心濁れる民はあらじな

  みつぎものまたとゞこほる秋もあらじ耕す民の力つくして

斯くて民の力を尽しけるを、稲津の神いたく憐みて、公に、申して、御倉の銭を出して、民に与へられしかば、皆悦びて、此塘は、海山の石を引きもて、築きたれど、公の金の塘なりといへりければ、

  うみの石山の土もてつくめれどつくは黄金の堤なりけり

塘築き終りて、松を植ゑられける時の歌、

  山となる磯のつゝみに松植ゑて千年の末も波はこさじな

是は文字を合せたれば、歌めきたり、誠はあのや稲津様は、仏か神か、死ぬる命を助けさすなどとぞ歌ひける、此事終てゝ後、君殊に悦び思召され、頼勝にさま恩賞を賜りけり、或時の家の宴に、君自ら此歌を謡はせ給ひける由を、頼勝伝へ承りて、有難く辱しとて、涙をこぼし、老の後まで、之を思出にして、凡そ君の臣たるもの、此国に満ちたれども、まさしく其名を様と呼ばせ奉りしものは、恐らくは我のみならむと、人にも語りて、喜び合へり、此弥右衛門頼勝といひつる者は、世々三百石を領したる侍なりけるが、天性心猛くして、而かも智恵あり、隆徳院殿の御時、領内の租税滞りて、国用足らざりけるに、頼勝自ら薦めて、臣に此事を任せ給ひなば、三年の内には、裕になし奉らん、若し其時に至りて、申しゝ事違ひなば、腹仕うまつらんと、あながちに望み申しゝかば、郡頭といふ役になされけるに、みづから国中を打迴り、主官などの邪なる者を推問し、中にも咎の重きものを、数人搦めさせて、首斬りたりければ、其類の者共、雀の鷹にあへる如く、皆息を詰めて屈まり、今日は弥右衛門、此あたりに来べしなど聞えては、色を失ひて、うつし心もなかりき、日頃それらが為めに、痛められし民共は喜の声、巷に満てり、されば濁れる水の、俄に澄みたらん心地して、物事改まりぬべく覚えたる程に、いかなる故かありけん、未だ二年も経ざるに、郡頭の役を罷められ、頼勝オープンアクセス NDLJP:128も番方と云ふものになされ、徒に籠り居たるを、君の御代になりて、郡目付といふものになし給ひければ、果して其任に叶ひ、かゝる際にも、たやすく功成りにけり、

一、こゝに阿蘇大宮司といへるあり、神武天皇の第二の御子、綏靖天皇の御兄を、神八井耳命と申し奉る、天が下知ろしめさるべかりけれども、事の由ありて、御弟綏靖天皇に譲り奉らる、此命の第六の御子、健磐龍命、火の国の国造に下らせ給ふ、是れ則ち阿蘇大神なり、景行天皇筑紫巡狩し給ひし時、大神御夫婦、阿蘇津彦・阿蘇津媛とあらはれ給ひしかば、大神の御孫、惟人命に勅して、その祭を司らしむ、是れ大宮司の元祖にして、今惟典に至るまで、七十九代、連綿として絶えず、後奈良帝の御代までは、国郡数多領し、勅を受けて、内裏造営などをも仕うまつり、時の大宮司惟豊宿禰、従二位に経昇り、目ざましき事なりしに、天正の頃にや、従四位惟種宿禰、世をはやうして、世継の子、未だ幼かりし程に、世の乱打続き、家忽ち衰へて、矢部といふ山の奥に、身を隠し居たるを、前国主加藤主計頭清正朝臣、求め出して、形計り所領を寄せて、其家を継がしむ、かゝりけれども、さすがに皇別神孫の、類稀なる家なれば、代毎に、鷹司殿の執奏にて、五位より進みけるに、今の曽祖正四位友隆宿禰、久しく都にありて、馴れ睦びける故か、吉田兼連の執奏にて、叙位せしかば、其後何となく、世の常の社司・はふり子などの様に、人も思ひなしたるを、今の惟典宿禰、あながちに歎きて、古に返さまほしき由を、君に訴へ申しければ、君領掌まして、さまに計らひ、鷹司殿・輪門の宮などに愁訴し給ひ、年を重ねて、辛うじて事なりぬ、さればこそ、惟典思ふまゝに、鷹司家の執奏にて叙任し、君の御代に、従四位まで経昇り、其子の幼きをも叙爵して、伊予守になされけり、又妙解寺・泰勝寺とて菩提寺あり、この住持を皆紫衣の和尚となし、中にも妙解寺は、代々公卿の君達を申下して、嗣法となし、其外神護寺などゝて、必ず僧綱に昇る寺院余多あり、其等も皆先規のまゝに沙汰せらる、大慈寺を再興せしむ中にも大梁山勅賜大慈禅寺といへるは、開祖を寒巌和尚とて、後鳥羽帝第三の御子、順徳帝同母御弟なり、叡山に出家し、台教を極め、改めて道元禅師に禅を学び、再びまで入宋して、名師碩徳に遭ひなどして、類なき智識なりければ、亀山帝、殊に御信仰ありて、紫衣・宸翰を賜り、官寺になされけり、世に之を法皇長老とぞいオープンアクセス NDLJP:129ふなる、然りける後は、世々紫衣の一本寺にて、京の五山などゝ、同じ程の事なりしに、関東御治世の始め、如何したりけん、其由言上せざりければ、寒巌より七十七世の住持白堂、参内せんとて、京へ登りしを、越前永平寺より、さゝへ申す事ありて、空しく帰寺し、猶ほ御咎蒙りなどして、八十八世龍谷和尚は、永平寺の下に就けられ、当時の御掟のまゝにして、和尚、位に昇る事になりぬ、斯くて九十一世太初和尚、君の時に当りて、さばかりの古跡なれば、常恒会を行ひなん事を願ひて、関東に赴くとて、君に其由訴へ申しければ、君殊に執し思召し、寺社御奉行及び関東の僧録達に、御使ありて、懇に頼み聞えさせられければ、遂に免牘給はりて、太初本意遂げたり、すべて斯かる類に用ひ給ひたる資財は、夥しき事なりき、御身は常に奢を斥けて、此際の事には、聊かも吝ならざりけり、是れ唯事の廃れたるを興し、絶えなん事を憂ひ給ふ御心ばへにして、神に諂ひ、仏に迷ひたる節は、露計りもましまさず、さればいはれざる祈祷、よしなき追福をば、皆永く停められたり、誠に寺院の斎会に、酒を用ふる事を一切禁じ給ひつるなど、風俗の為めにも、いとめてたかりき、

 
 
銀台遺事 
 
将軍吉宗を追慕す一、君、常に公儀を敬ひ給ふ事、世に勝れたり、新春佳節は、いふに及ばず、月次の慶賀・御廟の参拝など、数十年聊も怠り給はず、殊に有徳公の御徳を慕ひ給ふ事深かりき、事に触れて、徳廟は斯くこそ遊しつれ、さはなかりつるなど、宣ふ事多かりき、

勉学一、若くましける程より、学問を好み給ひ、常に書籍を遠ざけ給はず、狩に出で給ふにも、必ず斎しむ、日毎に朝御膳済みては、必ず書を御覧あり、又月に六度の会業ありて、近侍の人々を召しつどへて、読み給ふ、凡そ会読は、予め読み置きてこそ、其甲斐もあれとて、下見といふ事を、一度も怠り給はず、されば御身一代に、会読ありける書籍、経史子集数百巻に及べり、其内論語・詩経・書経・左伝・漢書などをば、繰返し数多度読み給ふ、若し会の日、障る事あれば、必ず日を易へて、六度の数を満て給ふ、又其書の難儀をば、皆考へて、手づから書き加へ給ふ、オープンアクセス NDLJP:130今も文庫に手沢の残れる書、数知らずありとなん、

一、経書を尊み給ふ事、殊に深く、仮にも畳に置き給はず、常に諸々の書を堆く積み置かるゝにも、必ず経書を上に置かせらる、又すべて巻の次第を乱さず、積ませられしな、近習の者、闇き夜にも、紙燭しそくさゝずしても、取達へざりき、

服部南郭重賢に仕ふ一、詩を好みて作らせ給ふ、遺稿数巻あり、楽洋集にも聊か載せたり、御年若くましし時、服部元番・高野蘭亭など召して、詩会度々ありき、此人々をば、先生とて尊み給ふ様、唐土にいへる、布衣の交の例などにやと覚えき、殊に元喬は、詩のみにはあらで、万の事をも問ひ謀らひ給ひければ、贈肥後侯序とて、心を尽して書きたるものなどもあり、其文集に載せて、遍く人の知る事なれば、こゝに略す、号を南郭とて、其頃天下に名高く、彼方此方にもてなされし者なり、身いたく老い屈まりては、世の交らひも、ものうしとて、いづくへも参らざりけれども、細川殿は、今の世の賢き国土にて、老をよく養ひ給へば、並にいふべきにあらずとて、唯此殿のみにぞ、絶えず詣で来ける、身まかりし後は、其妻子詫しき住居して、事問ふ人もなかりしに、君のみ有りし世の事忘れ給はず、常に音づれさせ、其孫のいとけなくてありけるに、五人扶持をさへ与へ、大輔殿〈治年公〉の召しおろしの御衣をも、年毎に賜りなどして、終には御家の士の養子となし給ふ、又蘭亭が娘も、はやく父に別れて、寄方なかりしを、小君の御許に召させ、憐みはぐゝみ給ひて、今は姆になされたり、

一、常に御気色さはやかにして、晴れ渡りたる空に、朝日の差出でたらんが如くなりき、一年、披雲閣の会集に、青天開鎮西と遊したるや、よく御気色に適ひぬらん、

武芸に習熟す一、御力強くして、武芸をもさま習熟し給ふ、中にも弓馬は、勝れさせ給へり、未だいとけなくおはせし頃、御厳父霊雲院殿より、附け参らせられたる侍に、木原惣兵衛正明といふ者あり、竹林流の射芸に達したりしかば、君十年余り、怠らず是に学び給ふ、漸々二十をも過ぎさせ給ひて、元文五年の頃、此惣兵衛、身にいたはる所ありて、職を辞し、肥後に帰るべかりしかば、君年来の名残を惜み給ひ、重ねて遭ふまでの忘形見に、手並の程をも見せばやとて、家士溝口三五といふ者を、手番にて、八寸的を矢数百五十射させ給ひけるに、百四十九筋当りて、たオープンアクセス NDLJP:131だ一筋ぞあだ矢はありけりとなん、惣兵衛、老の後は、帰雲といひけるが、常に此事を語りて、感賞し奉りき、又常には、七分五厘計りの弓を引かせ給ひけれども、誠には強弓にてましき、其由は附録に見えたれば、こゝに略す、馬は大坪・解龍二流の奥儀を究め給ひ、世の馬乗とて、それを業にしたるものも、及ばぬ際なりき、

動植物の学に通ず一、猿楽・俳諧を慰にし給ふ、いづれも堪能なりき、又物産を知る事を好み給ひ、鳥獣草木の少しも様変りたるを、皆写し絵にせさせ給ふ、虫などは飼ひ置かせて日にそへて、変り行く様を御覧じけるに、果は蝶になるもの多かりけり、此図を躍淵海錯など、部類を分けて、数十巻もやあらん、されども斯様の事に付けて、財費し給ふ事聊かもなし、或時大名の訪ひ来給ひて、物語の序に、飼鳥の事になりしかば、重賢も形の如く好みて候、是に入らせ給へとて、奥の方に伴ひて、数多の鳥ども見せ参らせらる、次の日、其大名の許より、昨日は珍しき見物して悦び入り候、但し籠の余り疎かに覚え候に、折節こゝに候ひけるとて、美しき籠十二三参らせられたり、其籠は皆朱に塗りて、金を鏤め、色々の紐を著けて、心も及ばず結構せり、君御覧じて、御志の程、忝う候とて、使を帰し、頓て庫に納めさせて、一つも用ひ給はず、其後珍しき鳥求め出し候へども、籠の候はぬと申す人ありければ、此籠を取出して、三つ四つ給びぬ、其余は今も御庫にありとなん、常に我は鳥を飼ひ、草木を植ゑさせて、其様を見る事を好めども、籠と盆とは好まず、世には鳥よりは籠、植物よりは盆を好む人多きぞと宣ひき、是や櫃を買うて、玉を返すの譬ならん、猿楽し給へるにも、鳴物など、皆御内の者仕うつまり、其内には堪能もありけれども、其れによりて、勧賞かうぶりし者、一人もなし、たゞ文武の業を勧むる者は、御覚も深く、殊に御恩かうぶりしに事、前にいへるが如し、

土木の冗費を節す一、此君、土木の好み、聊かもましまさず、今其一つ二つを挙げて記す、傾内なみ野といへるは、方六七里計りの萱野なり、昔は筑紫野とて、武蔵野と、東西に名を並べたりなど、所の人は言ひ伝へり、君の参観には、いつも其野を行きかひ給ふに、暫し駕を停め給ふべき陰もなければにや、笹倉といふあたりに、昔より旅館を設けたりけるを御覧じて、御身一つの為めに、民を煩して、此館を建て置かん事、恐れある業なり、道行き疲れたらんには、芝草の上にて事足りぬべしとて、実暦四オープンアクセス NDLJP:132年、名残なく解き除けらる、又国府の屋形南面に、三階に作り重ねたる楼ありて、遠望勝れて佳かりしを、不用のものなりとて、同じ六年、毀たせらる、殊に国府より一里計り隔てゝ、水前寺村といふ所に、成趣園とて、致景勝れたる別荘あり、砌より清き泉湧き出で、やがて広き渡りとなり、舟をも浮べたり、向には、富士の形に、芝山を築きなどして、当国の内には、類なき所なり、君も此景趣をば殊にめで給ひ、政事の暇には、常にこゝに遊び、参観の道すがら、他所の勝景を御覧じても、わが水前寺には、いかゞあらんなど、宣はせしとぞ、かばかり執し思召せば、異所はいかにもありなん、此処計りは、造りも琢かれぬべう覚えけるに、思ひの外、昔よりありける広き別館を、皆毀たせ、たゞ酔月亭とて、聊かなる亭のありけるをのみ残されたり、それも水の上に、をかしく作り出したる所をば、毀たせられしかば、並々の人の心には、無下に浅ましくぞ覚えける、是に付けて、思合せたる事あり、一年、参観の道に、江州醒ヶ井に宿らせ給ひけるに、其宿いたく荒れて、詫しき所なりければ、大野万平といふ近侍の者、今宵の御宿のいぶせさよ、何とて斯かる所には、点じけんといふを聞召して、さな思ひそ、総べて人は衣食住の三つさへ足りぬれば、其上を願ふは、皆奢なり、衣は寒暑を凌ぎ、食は飢を止め、居所は雨露に濡れざる程にだにあれば足れり、今宵の宿も、それには余りあり、何かいぶせく思ふべき、兎にも角にも、人は奢を制すべき理、よく心得べしと、諭し給ひき、斯かる御心にてましければ、うべも峻宇彫牆の御好みなかりしなり、

一、国主の常に居給ふ所は、おほむね金銀珠玉をもて、飾もあるべう事なるに、この殿の有様こそ、思ひの外なりつれ、壁をば渋を引きたる紙をもて張らせ、畳の縁も、やがて渋布を用ひらる、欄間などいふ所には、雲閣・水紋などを彫らする事、常の事なるを、こゝには何のやうもなく、篠竹を間遠に打たせたり、一年、江戸龍口の館焼亡して、新に営ませられける時、客殿の柱などは、節なき材を選び、用ふべしと申す者ありしを聞召し、唯堅固ならん事を思ふべし、見懸けの麗しからん事を思ふは、よからぬ事なりとて、其選已みにき、又梯の下など、聊かも不用の所あれば、棚をしつらはせられ、少しもいたづらの所なからしめんとなり、

衣食の冗費を節す殿の御服の料は、都の呉服所にて選びて、上の品を奉らする定なりしを、君オープンアクセス NDLJP:133の御時、次の品を参らすべき由仰せ遣さる、君常には紬木綿をのみ召しけるを、御年老い給ひ、御病さへ著きぬれば、人々諫めて、やう世の常の縞などいふ類を奉りたり、それも垢附けば、洗はせて召しけり、

一、或時、関東にて、御身に等しき大名二三人伴ひ給ひて、君の別荘に遊び給ひしに、余所の割籠わりごは、さまの物、取認めて、きらしかりしに、君のは例の二品なりければ、扈従の者共いかゞはせんなどゝ、云合ひけれども、俄にはせんすべなくて、其儘参らせしに、君は恥ぢらひ給ふ気色もなし、やがて客人まろうど達、割籠取出して、もてなし給ひけり、夕さり帰らせ給ふ道すがら、さても今日は客人達の御もてなしにて、味よき物たうべて候、去ながら、今より後は、かゝる事ひしひしとやめ給へ候へかし、我も人も、家の子・郎等数多持ちて候へば、斯様の事に奢を斥けてこそ、心よく扶持をもし候はめと宣ひける、此類の事、常にありしかば、其頃の大名達、此殿に見参ありて、帰らせ給ひては、家老・用人などを召して、各も承り候へ、今日も細川殿斯くこそ申されつれ、かくこそ振舞はれつれ、是れなん賢人といふ者ならんなど宣ふは、いつもの事なりきとぞ、又見参の時も、此殿をば、先生・親父様などゝ、崇め給ふ方々多かりき、

一、台所の一月の料を、兼ねて定め置かれて、若し其料尽きぬる時は、客人招請などをも、暫し留めて、更に倹約し給ひ、其定を越えぬ様にし給へり、

一、或時、大輔殿の方にて、御酒参らせられければ、是は能き酒なり、常に之を参らんは、過分にや候べきと宣ひ、暫しありて、さりながら、おことは鷹を好み給はねば、是程の事は許してもありなんか、我は鷹の費もあればと宣ひき、

一、御参観の程にてやありけん、或宿にて、夜になりて、例の様に、御酒参らせたるに、いかにして取違へけん、調味に用ふべき七年酒を参らせけれども、とかくの仰もなし、其残を近習に賜りて、始めて其れと知りぬれば、台所に其由告げけるに、膳部方大に驚きて、畏りて申しければ、いや、我飲みたるは、毎の酒とこそ覚えつれと宣ひき、

家臣の小過を咎めず一、江戸にて、雨の降りける日、登城し給ひけるに、御傘に参りたる者、過りて傘の爪を御ぐしに打当てたり、下城ましければ、供頭、御前に出でゝ、今日の御傘の者を、いかゞ申付け候はんやと、伺ひければ、今日は常より時刻遅れたりと、オープンアクセス NDLJP:134覚えければ、急ぎ参りし程に、我過ちたるにてこそあれと宣ひき、又御鷹野にて、調度持ちたりし下部、いかにしけむ、転びて、調度を散々に打損ぜしかば、御気色いかゞあらんと、近習の者、恐れ其由申しければ、其転びたる下部は、怪我はせざりしやとのみ仰せられき、

一、御手跡は、初め細井文三郎、号を九皇といひし者、御手本参らせたり、藍より出づるとかや申すべからん、或時、水戸治保卿、此君の人となりを慕はせ給ふ余りにや、常に住み給ふ所の額の文字をあつらへ給ひけるに、辞退ましけれども、強ちなりければ、玄々亭と遊して参らせらる、其頃、かゝる事、是のみならずありけれども、請ひ給ふ方の御名も文字も、忘れたればかひなし、

寸陰を惜む一、寸陰を惜むといふ本文、常に宣ひ、暫しも徒にましまさず、御齢傾ぶかせ給ひても、日課怠らせ給はず、御内の者共、宿番仕うつまる程も、なす事なくてはあるべからずとて、書を読み、手習はせ、さる事も得せざる者は、せめて網を結ふ業をもせよ、猶已むには勝りなんと、掟て給ひければ、宿番する程も、皆己れが業をしけり、

学習の道一、近侍の者共に、其事彼事を学べなど、仰ある時、性質さることに疎く、齢も程過ぎ候、今よりはいかでかなど申せば、さこそ思ふらめ、されども唯ひたすらに学び候へ、我も一切の事にさとからず、然れども人十度すれば、己れ百度すといへる理を思ひて、若かりし程より、物に怠らず、形の如く、勉めぬれども、今六十に余るまで、一として為し得たりと思ふ事なし、さりとても、猶ほ倦む心はなきものを、まして汝等は、行末遥なり、学ばゝ何事かは成らざらん、事を左右に寄せて、せざらん者は、憎さげなりと、常に諭し給ひければ、近侍の者共、齢の程をもいはず、諸芸を学びぬ、或時、何某といふ近習の者に、梳る職を命じ給ひけるに、其者、固より其事に不堪なりければ、辞し申しけれども、許し給はず、同職の者をも措きて、日毎に是れにのみ梳らせらる、一日の中に、ゆるぎ解けなどするを、幾度も其人に結はせられしかば、或者何とて彼にのみ命じ給ふぞ、堪能の者も候にと申しゝかば、実に彼は不堪なり、さればこそ、ひたすら梳らすれ、すべて若き者は、物毎に仕習ふが能きぞと、宣ひき、後には果して、かしこう仕うまつりたり、おほよそ髪をば、不堪の者に、結はせたらんは、心地煩しく、覚ゆる習なるを、堪へ忍オープンアクセス NDLJP:135びて、斯く計らはせ給ふ御心ばせの程は、万事得せぬ事とて、思ひ捨つまじき由を、若き者共に、諭し示し給ふ御心なりけんと、有難くこそ、

一、未だ幼くおはせし程より、昼寝し給はず、日長き頃などは、いたく疲れ給ひては、書をひろげながら、儿に凭りて、暫しまどろみ給ふのみなりき、馬召し給ふべき日など、昼の程、事繁くして、叶はざれば、立明たてあかしをさせて、夜中にも乗り給ふ、総べて学び給ふ程の事は、必ず熟し給ふ、又其程より、勤倹は古の人の教といふ事を、深く執し給ひきとぞ、

一、下賤の者を指して、われと呼ぶは、賤しき詞なれども、今はやむごとなき人も、自ら宣ひけるに、此君は仮にもさは宣はず、近習の者をも、必ず名を呼び給ふ、是は其初め、秋山定政が、我とは、自らを呼ぶ詞にて、人を指すべき詞に非ずと、諫め申しゝを、御生涯守らせ給ひきとぞ、

馬を好む一、馬を好み給ふ事、世に勝れたり、草飼・口取の様まて、委しく知ろし召したり、されども駿足を求めず、常に宣ひけるは、馬は乗る人だに能ければ、たとひ驚馬なりとも、其生付きたる程の業は出づるものなり、乗る人桃尻ならば、駿足も要なし、されば我は其馬の程々に随ひて、性分を尽させん事をのみ心とすれば、馬の善悪は、さまで思はずとて、代料二十両に過ぎたるをば、求め給はざりけれども、皆々足色をかしかりき、実にや人を仕ひ給ふにも、夫々の器量の程を尽させられたり、其御心の物にも及べるなるべし、

一、一年、領内柳水と云ふ所より出でたる馬を、頓て其名に呼びて、殊に愛し給ひ、参観に引かせられけるに、川を渡す所にも、船嫌せしかば、馬役・口取数多打寄りて、兎角しけれども乗らず、君御覧じて、初めに悪しく取成せば、永く癖になる物なり、そこ退き候へとて、御自ら口取らせ給ひぬれば、すらと乗りたり、斯かる業まで、何時馴れさせ給ひけるにや、人皆驚き合ひたり、

善く養母に事ふ一、静証院大夫人は、紀州大納言宗直卿の御女にて、隆徳院殿に嫁し給ひ、君の御養母にて渡らせ給ふ、御齢は同じ程の事にましけれども、敬ひ仕うまつり給ふ事、誠の御母の如し、此国にまします年は、厳寒の頃、必ず御鷹の鴨を参らせらる、其鴨は腹を割りて、わたを抜き、小豆を隙間なく詰めて、口にも啣ませなどす、斯くすれば、日を経ても、味替らずとなん、たとへば、鴨二つ参らせられんには、オープンアクセス NDLJP:136先づ四つ、斯くの如くしつらへ、二つを飛脚にて江戸へ参らせ、其飛脚のもて著かん日数を教へて、残る二つを調せさせ、恭しく座して聞召す、是れ大夫人に侍食し給ふ御心ばへにして、且は味の損ねもやすると、恐れ試み給ふなり、穀物を大切にす一年、例の如く、試み給ひける序に、配膳の者に向ひて、是に込めし小豆をば、如何はすると問はせ給ふに、知る者なかりければ、調味せし者に問へとて、問はせらるゝに、いつも捨て候と答ふ、其由申上げければ、忽ち御気色変り、何条さる奇怪の振舞するやうやある、夫れ小豆といふは、五穀の類ならずや、是れ天の人を養ひ給ふたなつものなり、然るを徒には振捨つる輩、天罰遁るまじと、怒らせ給へば、御前に伺候せし用人共、それを粗略にするにては候まじ、君の御拳にて取らせ給ふ鳥の内に込めたるものなれば、下部等に食はしめん事は、勿体なしとて、清浄ならん所に、納むるにてこそ候はめと申しゝかば、いやとよ、人の食料にせんに勝りたる清浄なる事やある、斯かる事申す汝等も、心得違ひたりとて、弥〻御気色悪しく、以後の懲に、其小豆を捨てし者ども、急度慎み居よと、申付くべしとありしかば、皆々籠り居る事七日計りして、やう御免かうぶりけり、常にも供膳の事に就きて、過せし事は、さまありけれども、聊かも咎め給ふ事はなかりき、臣下の小過を咎めず或時、御一族の人、侍食せられけるに、其膳の箸、末損ねてありしかば、配膳の者に、取換へて来べき由を申されければ、君聞召し、いやとよ、其れは本を末になして、用ひられよ、あらはに云はんには、膳部などの罪かうぶらんは、不便なるにと宣ふ、又昔より、殿の御膳の料は、稲の品定りて、領内より貢がする掟なりしに、斯くては、下の煩となりなん、只世の常の貢の中にて、然るべきを参らすべしと、仰付けられたり、又或時、朝夕の物に、白き真砂の多く混りたる事のありけれども、色紛ひぬれば、膳部も見咎めず、其まゝ参らせしに、配膳の者の目をも忍びて、密に真砂を御袖に入れられて、知る者なかりしに、御衣の事とりまかなふ者、いつも御袖の底に、斯かる真砂あるにこそ怪しけれと、申すに心付きて、御膳参る様を、よくよく心付けて伺ひ見て、始めて其れと知られたり、総べて米穀は、粒々皆辛苦なる理を、深く知ろし召しけるにや、一粒なりとも、徒になる事を、恐れ慎み給ふ、或時、御鷹野にて、柴折り敷きて、乾飯かれいひ参りける折柄、一二粒、地にこぼれたれば、小堀治助為貞といふ近侍の者、拾ひて戴き、たうべけるを御覧じ、甚だ御感あオープンアクセス NDLJP:137り、すべて米穀の、人の口に入るまでは、いか計りか、民の辛苦を積むらん汝よく此理を弁へたりと覚えて、誠に神妙なり、我も常に畳に落ちたるをば、必ず拾ひて食ひぬ、盤にこぼれたるは、膳部の者、よも捨つまじと、其まゝ置く事もありと、宣ひき、

静証院の婦徳一、右に申しつる大夫人、婦徳まして、常に経書を好み給ひ、かたへの女房達には、密に説きても聞かせ給ひけれども、女の身にて、真名読み給ふ事、深く包み給ひて、御内の者にも、知らせ給はざりき、殊に慎み深くまして、隆徳院殿失せ給ひし日に当りては、月毎に蔬菜をも参らず、又諸寺・諸社に代参とて、御内の者を遣されては、其者の帰り来るまでは、茶・烟草の類をも絶ち給ふ、初の程は其れと知る者もなかりけれども、度重りて、著しかりければ、女房達、いかなる御心にやと、問ひ奉りけるに、女の身にて度々物詣せんも便なければ、代を参らせたり、されば心計りは、自ら拝み奉る思をなすなりとぞ、答へいらひけりとぞ、昔より家老・用人など、小君に見え奉れば、手づから熨斗を賜る式なりけるを、男女は自ら授けずとこそ聞えつれとて、必ず物に入れて給りぬ、かく物事に正しくましまして、君聊かも過あれば、必ず諫め給ふ、君も内の政は、常に此御気色を伺ひて、計らひ給ひけり、

一、安永九年秋の末、当国にましける頃、静証院大夫人、御悩以ての外の由聞えければ、君大きに驚き給ひ、急ぎ関東へ使者を参らせて、嘗薬の為め、罷下りたき由を愁訴し給ひ、従者共も、皆旅支度して、使者の馳せ帰るを、今やと待ちける折に、早や十月四日、かくれさせ給ふ由、告げ来りければ君の御歎、申すも中々愚なり、つれと喪に籠り給ふ頃、御句に斯く、

   枯蘆の塒も寒し夜の鶴

静証院資給の金額を削減せしむくだしけれども、此大夫人の御事、又思出でたる事あり、明和五年の頃、非常の事共、さま打続きて、国用殆ど乏しからんとす、此事等閑に打過すべからず、いでや主従艱苦を共にせよとて、今年より五箇年を限り、更に倹約して、君の御同胞はらからを始め、親しき方々の分料、家中の賜物まで、押渡して其数を減ぜらる、唯大夫人の御方のみ、親にて渡らせ給へば、其沙汰なかりけるに、大夫人聞召して、斯かる際には、我とても漏れぬべきかは、並々に減じ給へと、ひたすらに宣へオープンアクセス NDLJP:138ば、君もいなみ難くて、其御旨に任せ給ふ、かくて安永二年の冬にもなりしかば、君の御使として、堀平太左衛門を、大夫人の御許に参らせられて、ありつる事も、早や五年の期過ぎて候、此年の暮よりは、昔に返し奉るべき由を、仰せ遣されければ、大夫人より、勝臣草野兵太夫御使にて、仰辱なう承り侍る、但し此五年の間、雨風など障る事多くして、御領の貢も、豊ならずと聞え侍り、又さりし頃、焼失せたりし龍口の屋形、再び作り出され、昨日今日までに、やう事終てぬるに、白金の御曹子を、公方の御所の見参に入れ奉るべき御催、御元服の御企さへありて、めでたき御事、打つどひたり、されば其用意幾何ぞや、斯かる折しも、分料昔に返し給はらん事は、ゆめ侍るまじき事になん、たゞ此程のまゝにてこそ侍らめと、申させ給ふ、君謹みて聞召し、重ねて平太左衛門を参らせられて、仰の旨畏り、誠に有難き御情に候、この上はとかく申さんは、其恐れ浅からず候へども、此度は、異方の分料、皆返し遣し候に、御母公の御許のみ、元の儘にて候ひなん事は、孝養の道にも違ひ、冥罰の程も、空恐しく候へば、枉げて御許かうぶりて、本意のまゝに、仕りたくこそ候へと、宣ひ遣されしかば、大夫人も辞譲の御詞なくや思しけん、其旨に任ぜられたり、されども御身の分料とて、あなかしこ、外に過ぐべからずと、平太左衛門に仰付けさせ給ふ、又一年、君中風の御心地とて、御足悩ませ給ひける頃、物事御心短く、近習の者共に宣ふ事も、例に変りて、あわただしかりければ、大夫人其由聞召して、身に病付きては、誰もさる習にては侍れども、召使はるゝ者共もいたはしきに、今少し御心せさせ給ひ候へかしと、諫めさせ給ひければ、君大に恐れ謹み給ひ、引替へてのどやかに、昔のまゝにならせ給ふ、其頃は御齢も、はや六十に近く渡らせ給へども、児の親を恐れたらん様なりき、斯かる事、見もし聞もし奉る者、この子この母といへる本文に思合せて、感涙を拭ひけり、

重賢夫人の婦徳一、小君は久我内大臣通兄公の御女にて渡らせ給ふ、いかなる御事にや、御年盛にましし頃より、御目を煩はせ給ひて、さま療治を尽させ給ひけれども其験なく、終に癈ひさせ給ふ、されども聊かもすさぶる御気色ましまさず、偕老の契違ひさせ給はざりしかば、小君も亦婦徳まして、御自は日月の光をも、見奉らぬ御身とならせ給ふに、君未だ御子をも渡らせ給はねば、いかならん女をオープンアクセス NDLJP:139も、とく召し給へと、あながちに諫め聞え給ひければ、此井と申す女房を召して、此腹に御世嗣生れさせ給ふ、今一人は、かもんとて、女の童にて、幼きより、馴れ仕へ奉りける者の腹に、男子生れ給へども、三歳と申すに、世をもはやうし給ひ、幾程なく、かもんも身まかりにけり、此二人の外には、御側近く召したる女房もなし、さても世には、斯かる類には、禄多くたびて、栄耀を極めさする習もありけるに、君の此女房達を扶持し給ひけるこそ、得も言はず、かすかなりし事なり、初めの程は、二人扶持に、金十両にも満たざりしが、御子生み奉りては、聊か加へられきとは聞えけれども、猶ほ乏しかりき、大輔殿、御世嗣に定り給ひてこそ、やうやう二十人扶持に、五十両などゝ聞えつれ、それすら世の例に較べては、九牛の一毛なるべし、

一、唐土にも、婦に長舌ありなど云へる如く、大名の側近く、召仕はるゝ女房は、口さかしく、人の上をも云ひ、果ては仕置をも、内々取計らふ例なきにしもあらず、君深く斯かる事を悪み給ひければ、此女房達はいふに及ばず、御内にさぶらふ者は、中間者はしたものまても、常に述めて、仮にも人の上友と言ふ事なかりき、

家臣の進退に就き婦人の容喙を許さず一、君の御姉、或国の守の許に住み給ひけるに、年久しく著け参らせられたる片山何某といへる侍、一年君の御計らひにて、役を移さるべかりけるに、守殿、年頃馴れ仕へける者なれば、返し給はん事、心うくや思しけん、御使して、今暫くは抱へて置かせ給へ、妻にて渡り給ふ御姉君も、さこそ宣ふものをと、云はせられければ、君の御返事に、仰承り候、但し家士共の役は、器量を計りて、申付くる事に候、其片山は、此度の役に適ふべく思ふ子細候間、御旨に任せ難う候、抑〻姉君の宣ふやうこそ、心も得候はね、総べて女の身にて、国務の事、兎にも角にも、ないろひ給ひそとこそ、兼ねて諫め候ひつるを、いかでさる事宣ひつらん、重賢が身に取つても、面目なう候と、宣ひ遣されける、御同胞はらからの御事さへ、かく諫め給へば、御内の女房達、宣べも恐れ謹みけり、

重賢の兄弟姉妹一、をのこの御兄弟は、隆徳院殿を始めにて、御身共に四人渡らせ給ひき、差次の御弟紀休主は、御心地世の常ならずして、はやうより引籠りてまします、季の興膨主は、御一族の家を継がれたり、御姉妹は数多ましけれども、かつ君に先立ち給ひて、関東に清源夫人、当国に寿鏡院の御方までに、見なし参らせオープンアクセス NDLJP:140られしかば、本より友愛深き御心に、猶更他事なく思召しけり、一年清源夫人、此国の歌枕をも見ばやとて、下らせ給ひければ、君の御悦なのめならず、諸共に彼方此方に渡らせ給ひき、これや老らくの御思出なりけん、君の在国の程は、興膨主絶えず見参し給ふに、いかに寒き頃なりとも、君の御炉の辺には、さすがに恐れをなされければ、客殿の方に、火燵しつらはせて、休息の所と定め置かれたり、一族の家を継がれては、自ら君臣の類にて、疎しくもならせらるべきに、少しも御隔なかりし事、大方類なかりき、されば興膨主も、一筋に敬ひ奉らる、殊に哀なりし事は、天明三年、君、関東の御首途の程にやありけん、興膨主に向はせ給ひて、おことの許に、茶室しつらはせられよ、やがて帰り来て、必ず住み給ふ所をも見ん、其折茶給はらばやと宣ひしかば、興膨主、有難き御事にこそとて、斜ならず喜び、程なく茶室営ませられ、思ふまゝに出来にけれども、君の渡らせ給はん時、始めて入れ奉らんとて、其身計りにも、立入られず、明暮御帰国の程を待たれけるに、御所労ありて、滞府まし、同五年十月、終に関東にて卒し給ひければ、其設けも徒になりて、興膨主の歎、いはん方なし、やがて其年の十二月に、これも身まかり給ひぬ、紀休主も、現なき御心にて、一向君の御別を歎き給ふなど、聞えし程に、御病もいやまして、同七年九月、空しくなり給ひ、寿鏡院の御方は、君に一年先立たれき、天明四年二月の頃なりき、

イニ、霊雲院殿の御男子、すべて八人なれども、四人は亡失、爰には後まで御存生の数を挙げて、四人と記す、

 
オープンアクセス NDLJP:141
 
銀台遺事 
 
鷹狩一、御鷹野にて、鳥の落草を打園まんとて、御供の侍共を催さるゝには、必ず走りて呉れよ、急ぎて呉れよと宣ふ、是は侍程の者を、遊猟の為めに、厳かに差遣ひ給はん事を、憚らせ給ふなるべし、又外様の者の心ばせをも、知ろし召さんとにやありけん、御狩の度毎に、必ず番方を一組・二組宛、召具せらる、或時、昼の程、暫し鷹を休めておはせしに、そこに鶉の候と、申す者ありければ、戯に投網にて取らせ給はんとて、御臂に懸けて、忍びに立寄らせ給ひ、早や間近くなりける時、かたへにありける番方の者、いかゞ心得違ひけん、御鷹の折の様に、やり声をふと立てしかば、鶉驚きて飛去りぬ、あはや御気色損じぬべしと、見奉る程に、からと笑はせ給ひ、声はいらざりけるものをとて、御臂の網を卸させ給ひければ、人々打どよみ笑ひて已みぬ、其日の夕さり、休らはせ給ひける所にて、近侍の者、過りて鷹の足緒に、そと触りければ、大きなる御声にて、ことしく叱らせ給ひき、此二条を愚なる心に考へ奉るに、外様の者は、御気色を損ずる程ならば、恐れ思ひて、畏りを申すべし、近侍は馴れ奉りて常の事に思ひなし奉れば、御心置なかりけるにこそ、苟且の事にも、かく御遠慮の程、大方ならざりき、されば御供の者共も、皆労を忘れたり、或時、鷹匠、御鷹を居ゑて参るとて、細道の所にて、御供の侍共に行き遭ひて、御鷹にて候ぞ、そこのき給へと申しければ、御侍に候ぞ、そこ退き給へとぞ答へける、君間近き程にて、此問答を聞召して、打笑はせ給ひ、咎め給ふ御気色、聊かもなかりき、

一、御鷹のみにはあらで、さかしき山の鹿狩、広き原の追鳥狩など、数多度の事なりき、それは家の子・郎等共の、歩立の達者・馬上の自由の程を見そなはして、武事に怠なからしめんとなり、其狩場駈引の様、誠に勇ましかりき、こと長ければ漏しつ、

一、殿の狩に出で給へる時、其所の郡代、必ず御代に仕うまつる定りなりしを、郡代は民を治むる職なり、民の事は暫しも免すべからず、遊猟に従ひて、もし職務闕如せば、計りなき民の煩なるべしとて、君の御時より、此事永く停めらる、又オープンアクセス NDLJP:142阿蘇といふ所にて、山方築きて、狩暮し給ひければ、其わたりの民共、手に続松さして、星の如く出来たりしかば、いかなる事にかと、所の長に問はせ給へば、斯かる時には、君の御帰るさを明し奉らんとて、昔より斯く仕うまつる掟にて候と、申しゝかば、夜昼暫しの暇なき民を、我狩の為めに、煩さん事、ゆめあるべからざる業なりとて皆々返しやり、例の提灯計りにて、帰らせ給ひ、やがて国中に触れて、此事をも永く停められたりけり、

一、御狩にて、俄に雨の降り来らん時、侍共、御傘など申せば、我は濡れたりとも、脱ぎ替ふべきものも乏しからず、供に候ふ下郎共は著る物一つをだに、得持たぬ者も多かりなん、それすら猶ほ濡れ行かんに、我れ独り傘さすべき理なしとて召さず、又終日ひねもす狩り行ひ給ひては、さこそ疲れ給はんずれども、たどしき夜の道を、五里も六里も、必ず歩より帰らせ給ふ、風雨烈しき夜など、今宵計りは馬にも駕にもなし奉らんと、御供の者共、ひたすらに申せども、疲れたるは、我も人も同じ様の事なり、独りやは左様の物に乗るべきとて、終に一度も召さゞりけり、

家士に対する恩情一、家士不破万平昌之、常に語りけるは、安永の頃、山鹿の郡代仕うまつりしに、君其辺に、三日・四日おはしまして、狩し給ふ事のありき、山鹿は国府より遥に隔りたれば、斯かる事は、いと稀なり、殊更職務も暇ある程なりしかば、御許かうぶらば、日毎に御供に仕うまつらん、若し頓みの事も候はんには、御狩場にても、御暇たびてんと、近習に就きて、望み申しゝかば、子細あらじ、但し職事も、苟且の事は、御前にて裁判仕れなど、いとも懇に宣ひき、或日、十三部原といふ所を狩らせ給ひて、乾飯かれいひ参らんとて、猿川塚といへる渡りに、暫し打休みておはしゝに、原の彼方あなたに、烟夥しく立ちたり、火災にやあらんずらんと、いぶからせ給ひて、誰かある、見て参れとありければ、近習の者、万平疾く馳せ向つて候と申す、心早き者なり、さありつらんとて、御気色よかりきと、後に承りぬ、程なく馳せ帰りて、別の事も候はず、畑の者の、殻を焼き捨つるとて、山の如くに積みて、火を懸けたるにて候、あたり近く、君渡らせ給ふも憚らず、今日しも斯かる事仕出で候こそ、恐れ存じ候へ、且は臣等も、戒め疎かなるに似たりと、近侍に就きて、畏りを申しゝかば、農民共の、己が業を営まんに、何の憚かあるべきとて、御気色オープンアクセス NDLJP:143弥〻善かりき、さる程に、其万平は、糧遣ひ果てたりや、見て参れとて、近習の者を遣さる、其者馳せ来りて、斯くと申しゝかば、とく遣ひはてゝ候と、申しけれども、猶ほ覚束なくや思しけん慥に承れとて、重ねて遣されければ、昌之謹みて、誠に有難き御掟にて候、但し食事は形の如く仕つて候と、申上げければ、さらばとて、立出て給ひけり、昌之、誠は未だ食せざりけれども、さ申さんには、食事の程、待たせ給ふべき御気色なりければ、かくは申しつとぞ、其処より烟を立てし所までは、十四五町もやありつらん、夫を引きて帰る程、待たせ給ひつれども、異なる事なしと聞召しては、とく立たせ給ふべきを、猶ほ小臣の食事の上を、思召し忘れ給はざりける事の、心肝に銘じて、辱く覚えつと、涙を拭ひけり、此物語、等閑に聞きては、さばかりの事は、世の常のことなり、昌之が感激、余りなる様にも聞きなさるれども、すべて大名の御内にては、外様の者は、常に君の御あたりに、さむらふ事もなく、偶〻斯かる御情を身に受けては、さこそ思ひつらめ、されば人の君たる方は、一言の下に、人の心を得させ給ふ事、重禄厚賞にも勝れり、それをいかにといふに、重禄厚賞は定れる式もありなん、たゞ苟且の御詞の端にこそ、御情の程は顕るれ、さては一言の下に、人の心を失ひ給ふ事も、準へて知るべし、抑〻将たる人は、士卒未だ食せざれば、飢ゑたりとも、敢て食はずとこそ承れ、太平の御代には、御狩などにこそ、斯かる事も思ひ合さるれ、此君の御心ばせの如くならましかば、誰かは死を軽くせざらん、

一、参観の折柄は、常に豊後国の内、君の領分、鶴崎といふ所より御船出し、播州室津に押渡して、夫より陸路を打たせ給ふ、御供の船は、播磨の沖を追ひて、難波に著くる定なり、安永四年、例の如く、室津に著け給ひし時、御船の指揮仕うまつる野間文左衛門・鏡寛治といふ者を召して、いつも難波に著きぬべき御供船は、君の船に遅れ奉らじと、雨風も厭はず、押渡るとか聞召す、志の程は、誠に神妙なれども、斯くてはいかなる過もあらんずらんと、御心痛め給ふこと、一方ならず、船路の習、雨風にさへられて、遅れ奉らんは、何か苦しかるべき、今よりは相構へて、よく空の景色も見定めて、船出すべき旨命じ給ふ、又常に宣ひけるは、郎等共の難波に渡海せんに、思はざる難風に遭ひたらんは、むげに力なし、それすら水主・楫取、心を合せ力を尽さば、恙なくもなりなん、たゞ船の修復疎かにオープンアクセス NDLJP:144して、朽損ねたる所あらんは、自ら招ぐ災なり、常に心を尽して、ゆめ怠るべからず、此旨船手の者共に、よく諭し置くべしとなん宣ひき、

一、殿の御座船は、昔より聊も節なき材を選びて作れり、さばかりの大船の材は打任せても、たやすかるまじきに、まして節なからんを求め出でん事、さうなき大事なり、されば常に天下に求め、たま式に合ひたる材あれば、数千金を擲ち、必ず買ひ得て、不時の用に備ふ、君此の由聞召して、従者共の船をば、いかゞはすると問はせ給ふ、それは節をゑり抜きて、跡を補ひ候と申しゝかば、さらば我船も其定にせよ、さりとても、たやすく損ねはせじ、節ある材は、必ず危き程ならば、従者共の船をも、皆節なからんをもてこそ作らめ、さらでは、従者共を危きものに乗せて、我れ独り堅固に構へたらんは、何心地かせん、若し節ありても、危からずば、今までの様に、徒に財宝を費して、国の煩となりなん事、奢の沙汰なるべしとて、夫よりは御船の材も、節の嫌なく用ひさせられたり、

一、いづくにかありけん、やむ事なき御方、動もすれば、御内の者を手討し給ふ由、君聞召して、同じ人なる上、主従とまで頼みつれば、わきて不便にこそ仕給ふべかめれ、何とて斯くまで、つれなくは渡らせ給ふらん、そこに召仕はるゝ者共、さこそいぶせかるらめ、されども累代の主君なれば、義を思ひて、え離れ奉らぬなるべし、余所に聞くも、胸苦しきわざなりとて、そゞろに涙を落し給ふ、

一、君の御月代に参りたる者には、いつも過して、血あへても苦しからぬぞ、月代の疵は、早く癒ゆるものぞと宣ひき、

重賢の宿札一、いつの年の参観にか、木曽路を打過ぎ給ひけるに、ある客館にて、あるじの男、昔御先祖三斎君の御宿に点ぜられし事の候ひし、其時の御名札とて、持ち伝へて候とて、取出し御覧ぜさせしに、紛らふ方なきものながら、今の世国主達の関札といふ物には、遥に長劣りたり、扈従の者に仰せて、其寸尺を取らせて、今より後は此式に仕るべき由、仰付く、東海道などの客館に、家々の関札、懸け置きたらん時、見苦しかるべしと、申す者ありけれども、かうやうの物、先祖に超過せんは、よからぬ事なりとて、用ひ給はざりき、少将に任じ給ひければ、御宿札にも、肥後少将と書かせ申さん、通例しかなりと申す者ありけるに、誇らしき事なせそとて、本のまゝに書かせられたり、

オープンアクセス NDLJP:145一、御養生の為めにやありけむ、桑の飯とて、桑の若葉を加へて、炊ぎたるを、好みまゐりければ、夫をだにとて、旅行の宿々にても、割子取賄ひける者共、必ず営みて進めけるに、一とせ、木曽路にて、其物まゐるまじき由、仰ありければ、御供の者共、嗜みは誰とても限りある習、今は飽かせ給ふにこそと、呼きけるに、二宿・三宿程過ぎさせ給ひて、又参らすべき由、仰ありけり、事のやうを、つらつら考ふれば、其参らざりけるあたりは、専ら蚕飼を業とする里なりき、さては仮にも、民の業を妨げじとの事なりけるよと、始めて思ひ知られたり、

一、ある日、台命の御使あるべきにて、とくより礼服かひつくろひて、客殿に出で、待ち居給ひけるに、やゝ時刻移りければ、こづけ参るべき由宣ひて、急ぎ奥の方に入らせらるゝに、村松長右衛門といへる近習の者、飱飯もて参るとて、大廊下の曲途にて、はたと君に行合ひ奉りて、御胸のわたりより、こづけをしたゝかに打懸けたり、其折しも、はや上使只今なりと告げゝれば、あわてゝ御衣脱換へて出で給ふ、長右衛門大きに恐れて、近習の長に、いかゞはせんと計らへば、君の世に勝れて、上使など敬ひ慎み給ふ程は、御辺も兼ねて知りつらん、常は兎もあれ、今日に当りて、斯かる不思議仕出したらんには、いかなる御咎、蒙むるべきも計り難し、先づ畏り居よといへば、長右衛門弥〻恐れて、とある所に、ひそまり居たり、程なく上使を門送りして、立帰り給ふや否や、長右衛門と召す、長右衛門恐れ恐れ、御前に参りたれば、よかりつるぞ、間に合ひたり、さても危き事なりき、然れども忙はしき時は、斯かる事もある習ぞ、くやしくな思ひそと宣ひて、御気色常に変らせ給はざりき、

粗末なる鞠場一、一とせ、関東の館にて、蹴鞠の遊せんとて、物の用に立つまじき、歪みたる木・細竹にてかゝりしつらはせられたり、常に心安く参られける人々、君に向ひて、此頃松平何某殿に、蹴鞠に参りて候ひしに、かしこのかゝりは、麗しくこそ候ひつれ、君は夫には勝りたる大名にて渡らせ給ふに、余りに見苦しく候、御内の人々に仰せて、作り換へさせ給ふべうもやと申されければ、君打うなづきて、斯くまで隔なく聞え給ふ御志は、悦び入り候、但、某国貧しくして、家中の者共をさへ、思ふやうに扶持し候はず、斯かる遊事に、結構を尽し候はん事、思も寄らず候、少しにても徳づきて候はゞ、家来共に、物をも心能く喰はせたしと、存ずる計りに候と宣ひしオープンアクセス NDLJP:146かば、申しゝ人も、暫しは言葉なくて、感涙を流されけり、

冗費の節約一、常に鷹を居ゑ給ふ袖に、革を裁たせて、縫付けさせられけるを、或時、公儀の御鷹匠、何某とかいひける人、見参らせて、何の御為めに、斯くはと申されければ、別の事なし、やゝもすれば、鷹の喰ひ破るが、うるさきにと宣へば、げにかしこき御計らひなり、今よりは己も斯うこそ仕らめとて、重ねて参られける時は、誠にはなしく付けられたり、君御覧じて、此事は費を救はん為めなれば、某は、鉄炮など入れたらん古き皮袋の、用に立たざらんを取りて、付けさせたり、然るに人々は、新しき革を求めて、付けられたりと見ゆれば、費はなか勝りなんとて、笑はせ給ひぬ、

一、先々殿の御飯は、二釜づゝ炊ぎ、其内出来のよきを奉り来りしに、君聞召して、炊ぎ損じたらん時は、ともかうもすべし、常に其用意したらんは、奢らしきわざなりとて、一釜づゝに定めらる、又夜の物も、必ず其時営みけるを、夕げの残りにて、事足りぬとて、冷飯参りたり、

一、薬方の役人といふ者、昔より定めありけるを、君聞召して、ことしき業なり、薬を服せん時は、茶屋などにて、事足りなんとて、夫をもやめられたり、

一、常に宣ひけるは、世の中に多きものを、水火とぞいふなる、されば水をば、いか程使ひても、妨あるまじけれども、其水を多く使ひ捨つるものは、なべての物をも、費す事、必ず多きものなり、能く心得べしとなん、又料紙も、たやすく求めらるゝものなれども、さりとて、ゆめ疎かにすべからずとて、物を包みて奉りたるをも、皆々其儘取置かせて、内々の御消息などは、それに書かせ給ふ、又近習の者共、簿帳など綴ぢぬる事あれば、其たちはしを必ず竹釘にさゝせて、御傍に置きて、苟且の事は、皆それに書かせ給ひき、

一、宝暦の頃にや、武具・薬器ならざらん雑具に、金銀用ふべからずと、家中に掟出し給うて、御身も厳かに、かしこく守らせ給ふ、或時、御傍に宿番仕うまつる者共、用心の為めとて、ひねりといふものを作らせける、其飾に銀を用ふべきかと申しゝかば、君聞召して、夫は武具の類なれば、さもありぬべし、但しそれに用ひん料をば、我れ貯へ持ちたれば、与ふべしとて、袋戸の内より、一つの箱を取出し給ふ、見奉れば、銀にて作りたる、こはぜといふ物を、溢るゝ計り盛りたり、さてオープンアクセス NDLJP:147宣ひけるは、若かりし時より、鼻紙袋・烟草入などいふ物に、此こはぜ付きたるが、あたらしく覚えしかば、常に取り置きたりけるが、今斯かる事に、用ふる計り積れりとて、たびたりけるに、裕に其物に用ひても、猶ほ余りありき、実に露ばかりの物も、徒になすまじき事なり、

あるじまうけし給ひける時、肴の品、無下に少かりければ、用人等、斯くては疎かなるやうにや候ひなん、今少しは加へて参らせばやと申しゝしかば、いやとよ、大名は好ましき物をば、我宿にていかさまにも召しなん、人の方へ行きては、静に物語せんずるこそ、心慰むわざなれ、然るにさまの物取り出で、煩はしく進めんは、尾籠の振舞なりと、ある老人の申されしこそ、心にくゝ覚えきとなん宣ひき、

一、御寝所に入らせ給ひつる時も、宿番の者共、声高くのゝしるを、かしがましなど制せられし事は、一度もなくて、安らかに寝ねさせ給ふ、たゞさゝやく事あれば、御耳に響くとて、御目を覚し給ひし、故黄門光圀卿、斯くおはせしと申す者あり、いかなる故にか、

一、江戸にて、ある国主の舘に渡らせ給ひけるに、供膳進められし時、御箸取らんとし給ひける程に、ふとあるじに向ひて、年の寄りて候へば、暫しも用を忍びかね候、無骨御免候へとて、つと立ちて、障子の外に出で給へば、配膳の者、案内申さんとて、御跡に付きて参りけるを、側近く召して、誠は用を叶へんとにはあらず、唯今飯椀の蓋を取りたるに、いかゞしたりけん、未だ飯を盛らぬにてありしかば、本のまゝに、そと蓋をして立ちたり、我れ暫くこゝに有りて、座敷に直らんずる時、物皆冷えはてつらんとて、汝取換へて参らすべし、あなかしこ、主の殿にな知らせ奉りそ、かくと知り給ひたらんには、今日のまうけ承りたる者、罪かうぶる事もあらんと、私語き給ひければ、仰のまゝに計らひたり、かしこの侍共、密に此事聞伝へて、有難き御情なりけりとて、皆涙流しけり、其内に何某といへる者、次の日、龍口の屋形に参りて、近習に付きて、昨日の畏り申して、今にも不思議候ひなば、譜代相伝の主に、一命を奉らんずる事は、言ふにも及ばず、それに差続きては、物の用に立たずとも、此殿の御為にこそ、涯分がいぶんをも尽さめ、誰誰も申し合へりとぞいへる、

オープンアクセス NDLJP:148一、或時、柳川城主立花殿、見参し給ひける御設に、卯月頃にやありけん、茄子を供しければ、あな珍し、今ほど世にあるべしとも覚えぬにとて、興ぜられしを、君聞き給ひて、誠に今日は其許の徳にて、重賢も珍らしき物たうべたり、総べて物の世に珍しき頃は、価殊に高し、暫く日を経て、多くなりてたうべんに、何か苦しかるべき、されば常には初物などいふもの、ゆめ求むべからず、されども客人のもてなしには、志の程をも、見せ参らせんずれば、其限りにあらずと、兼ねて台所の者共に申し示したり、今日其許来り給はずば、いかで斯かる物たうべんと宣ひき、

奢侈の風俗を憂ふ一、又国の菩提所妙解寺にて、寺主あるじ設けせられけるに、花豆腐といふものを参らせたり、それは豆腐ををかしく拵へて、紅にて色絵などして、興ある物なれば、下法師などは、之を今日の設の詮と思ひたるに、君御覧じてかゝる鄙の果まで、喰物に徒らの巧をして、財をも暇をも、費す事こそうたてけれ、いかにしたりとも、味は変るまじきものをと宣へり、又此寺〔奉勝イ〕に詣で給ふには、塩屋〔壺井イ〕町といへる市を通り給ふ、そこの店に洗粉といふものを、絵など押したる紙の袋に入れて売りけるを、ある時、君駕の内より御覧じて、我領内にも、斯かる物を売買ふ計り、はや華奢になりたり、これ国の貪しからん基なりと宣ひて、憂へ恐れ給へり、

ー、同じ寺にて、松洞といへる遁世者、侍食する事のありしに、此頃は当国の豆腐の制法、委しくなりて、都にもゆめ劣るまじう覚え候と、賞し申しゝかば、君聞召して、我は夫をうたてしく思ふなり、田舎は田舎にてあらんこそよけれとぞ宣ひし、又或時の御物語に、此国の若者共、何とやらん、物に移るひ易き風情の見えぬるは、人の心の軽薄に成り行くにこそと、いと口惜しと宣ひき、松洞退いて、親しき者にいへらく、昔、仕へて候ひし程は、朝夕に徳音を承りけれども、常の事に思ひなし奉りて、過ぎつる事のくやしさよ、今隠退の身となりて、たまさかに御掟承りては、心肝に銘ずるものをとて、此二箇条をぞ挙げける、

老臣を敬ふ一、明和九年二月の火災に、龍口の屋形焼亡して、白金に移り住ませ給ひける頃、そこに富士見の亭とて形計りの亭のありけるに、大輔殿住ませ給ひける、ある夜君渡らせ給ひ、つれ慰めんとて、候ふ人々を御前に召して、酒給ひければ、皆皆酔ひて、笑ひさゞめき、君も深く興に入らせられける時、いかなる頓の事かあオープンアクセス NDLJP:149りけん、堀平太左衛門勝名、龍口より馬を馳せて参れり、近習其由申しければ、忽ち御形を改め給ひ、夜も更け、殊に寒きに、老人のはる参りたれば、さこそ疲れつらめ、暫し休らはせて召せとて、御座を正しくして待ち給へば、ありあふ人人、息を詰めて、潜まり居たり、やがて御前の人を退けて、勝名を召し、事のやうを聴かせ給ふ、やゝ久しくして、御暇給はりて、龍口に帰りぬ、すべて今宵、勝名参りしより、罷出づるまで、諺にいふ、沸きたらん湯に、水差したらん様に、雑人原まで、ひそと鳴を静めたり、君の、老臣を敬ひ給ふ事、此の如くなりしかば、勝名に委任し給ふ事、三十年計り、中をさゝゆる者もなかりけり、

肥後に鳳凰一、紀伊中納言治貞卿、いみじくまします御聞えありける頃、紀州に麒麟、肥後に鳳凰など、市童共申し触らせしを、ある時、近習の者共、世には斯かる諺の候と、申しも果てざるに、何条肥後に鳳凰なるべき、近頃は凶年打続きて、家中の扶助をすら、心に任せざりけるものを、左様のうきたる事は、言ひも伝ふまじき事なりとて、以ての外、御気色損じたり、

一、或時、微禄なる近習の者に、汝は父母ありやと、問はせ給へば、老いたる母を持ちて候と申す、それはめでたき事なり、されどもさこそ貧しかるらめ、総べて老いたる親持ちたる者は其養に力を尽すを詮とすれば、さのみ倹約をもならず必ず貧しかるべし、されども其貧窮は、楽しき事なるべしと宣ふ、

一、奥にて何事かありけむ、急しく立歩き給ひけるに、そこに候ひける女の膝に、そと御足さはりければ、御手を出して、戴き給ふ由、させられけるを、女のこを勿体なしとて、畏まれば、いやとよ、同じ人なるものをと宣ひきとぞ、

一、常の御座より、表海の御座敷へ参り給ふあはひに、少しの庭ありて、沓を履き給ふ所あり、其度毎に、次番の侍など、沓をすぐ様直し出せば、必ず御手出し給ひ、戴き給ふ様にして、履きもひて、命じ給ふには、汝等必ず直す事なかれ、士たる者のすべき業にあらず、我手して履きつらんに、何か若しかるべきと、押して宣ひつれども、捨て置くべきにあらず、直し捧げり、会釈なしには履き給ふ事は、更に一度もなかりき、

自然を愛す一、或時、松のをかしき木ぶりしたるを売る者候、御庭に移し植ゑ候ひなんやと伺ひければ、夫は天然か、作れる木かと、問はせ給ふ、作りたるにて候と申しけれオープンアクセス NDLJP:150ば、我は作れるものは、嫌なりと宣ひき、実にや人も気質はさまに変れども、直くだにあれば、みづからの御物好を立てず、相応に用ひ給ひき、只偽り作れるものをばいとゞ嫌ひ給ひき、

一、未だ侍従にて渡らせ給ふ頃、常に隔なく語らひ給ふ国主の其許そこの御勤も、年久しくなり候ひぬ、今は少将に望を懸け給ふべうもやとありしかば、いやとよ、家中の仕置だに、未だ思ふ様に調ひ候はねば、転任など望むべき身にて候はずと、答へ給ひき、中将となる希望其後少将に任じ給ひて、又年積りければ、ある国の主、中将になし奉らんとて、さま計らひ給ふ事などありて、今は事遂げぬべくなりぬ、されども殿の御家には、宰相は先規ありしかど、中将なかりければ、そと表文捧げ給へと、宣ひければ、表文をば、いかゞ書かせ候はんやと、問はせ給ふ、別の事も候はず、数年勤め候間、転任を仰付けたくと、書かせ給へと宣へば、夫は思の外なる事に候、左様には、えこそ書かせ申すまじけれ、某何の功労もなくして、自ら薦め候はん事、世の謗も恥しく候、且はさる事仕りて候はんには、家中の者共が、我もと、立身加禄を自ら望み申さんに、何とか沙汰仕候ひなんや、其許そこの御情は、さる事にて候へども、其表文なうしては、叶ひ難き事に候はゞ、いつまでも少将にてこそ候はめと宣ひしかば、其事は已みにき、

一、天明五年、御所労いたく重らせ給ひて、御起臥も左右より扶け参らする頃、御寝所の畳の敗れて、御足にさはらん事のうたてければ、取換へまほしと、近習の者共、言ひ合ひけれども、さ申さんには、よも許し給はじとて、用所にましし程に、異所の畳取換へて敷きたりしを、御帰り様に、御目とく見咎め給ひ、誰か斯かるよしなき計らひをせしとて、以ての外に、御気色損じ、折節、堀本一甫老、あたりに候らはれけるに、向はせ給ひて、いかに一甫、是れ見られよ、畳のやぶ〈[#ルビ「やぶ」は底本では「や」]〉れたりとて、何か苦しかるべき、我常に費を斥くるを、近習の者心得ずして、我には知らせず、やゝもすれば、斯かる振舞をする事の口惜しさよ、さいへば、余りに吝嗇するやうにもあらんずれども、我一生の程は、かばかり心を尽したればこそ、此頃の凶年にも、領分の民共、餓死をばさせざりしが、今は病みほれて、心もとゞかず、唯言はでこそ已みなめと、いかう怒らせ給ひき、かく宣ひしは、九月の末の頃なり、遂に次の十月の末に、隠れましき、あはれ此御掟をば、此国の民共、家オープンアクセス NDLJP:151毎に掲げ置きて、朝夕に拝み奉らば、冥加にも叶ひなんかし、

一、妙応院殿、をさなくおはせし頃、関東にて、時の執権の御許に、家老長岡勘解由延之を召して、物語の席に、故肥後守殿、国用乏しくて、物多く借りたりきと宣ひしが、今は左様の物をも償ひはてゝ、国も豊になりつるやと問はせ給ふ、延之謹みて、さん候、今とても償も得仕らず、国も貧しく候と申す、何とて左様には有りつるかと、重ねて問ひ給ふ、延之申しけるは、六丸いとけなく候に、大国を附し置き給へば、いかなる不思議も候ひなん時は、思ふ程の忠勤をも仕り候はんとて、分に過ぎて、家子・郎等を扶持し置き候、夫に凶年打続きて、何事も力に及び候はずと申しゝかば、公務・軍役などの為めに、そこばくの用途を、取分け置かれきと、故守殿宣ひぬ、夫は今も有りけるやと、問はせ給ふ、誠に左様の内々の事をも、殿には包まず聞え奉りたる由、肥後守候ひし時、申してければ、げにも其料は今も候へども、年を追ひて、減る事は候へども、増す事は候はずと、延之答へけりとなん、夫より此方、君の御時代まで、代は四世、歳は百三四十年計りにもやなりぬらん、其間に新知・加禄給ひたる事、また幾何ぞや、君の初めより、世間の掟ありつれども、なほ物の数にもあらで、誠に国の高には応ぜざりけり、されば時々の扶助の、豊ならざりけるも、宜べならずや、重賢倹約の本旨君此事を深く憂へさせ給ひて、世にはいみじき聞えましけれども、御心には、事行かずとのみ、常に思召したる御気色なりき、ある時、懐中袋の損ねたるを、修理せさせて、用ひ給ひけるを見奉りて、近侍の者共、御大名の御物には、余り見苦しく候、新らしく取換へて、参らせばやと申しゝかば、いやとよ、家中の者共が、貧窮に憂きめ見るらんにと宣へば、夫をば貧窮ならざる程、物給はらせられ候へと申しゝかば、夫が心に任せねばこそとて、打萎れさせ給ひしこそ、有難かりし御事なれ、かゝる御心の底を知り奉らぬ者は、此君の倹約は、節に過ぎたり、逼下とやらんに近かるべしなど、呟く事もありぬべし、冥慮恐し、

一、何国にか有りけん、御年若き大名の、才学優長にして、万にいみじくまします由、近侍の者共、語り合ひけるを聞召して、誠に今の世の俊才なり、但し韓非子などをや好み給ふらんと、覚ゆる所の有るぞとよとなん、

政の要は人を得るに在り一、昔登城の御帰るさに、白金の御曹子の御許に、渡らせ給ふべきにて、御設なオープンアクセス NDLJP:152どありて、巳刻計りより、待たせ給ひけるに、遥に日闌けて渡らせ給ふ、いかで例に違ひて斯くはと、人々いぶかりければ、今日しも営中にて、やむ事なき御方召されしかば、御部屋に参りて、御物語に時移りぬ、いたうこうじたり、先づ装束脱ぎてこそとて、御袴の紐解く、さても今日の御方、政をば如何心得させ給ふべきと、ふと問はせ給ふ、のどかなる程ならば、いかにも申しなんずれども、斯くさしあてゝ、問はれ参らせて、一言には、いかゞ答へ奉らんと、思ひ煩ひつれども、申さでやむべきならねば、兎にも角にも、人を得させ給ふもや候ひなんと、答へ奉りき、いかゞありつる事ぞ、いと覚束なくこそと宣へば、候ふ者共、かしこう聞えさせ給ふものかなと、感じ申しければ、人々もさ思へば、僻事にてはあらざりつるよな、さても我も罪免されぬべしとて、御気色悪しからず、抑〻此御答のめでたき事は、暫く措きて、君の御聡明にて、夫程の事答へさせ給はん事は、いとたやすかるべきを、かくまで恐れ思召しつる御謹の程、有難き御事ならずや、臣愚恭しく思ひみ奉るに、是は時に取りての御答のみにはあらずして、常々の御志の、自ら御詞に出でたるなるべし、政の主要、何事か是に如かん、

一、御年闌け給ひても、夜の読書怠らせ給はざりしに、灯の影にて、やう文字も定かならず成らせ給ひしかば、燭を点ぜさせられけるに、蠟短くなりぬとて、度々差換へんは、費ゆる業なりとて、木にて同じ形を作らせ、蠟やゝ短くなりぬれば、夫に差させて、本まで残りなく、燃ゆるやうに計らせ給ふ、常にも近侍の者共、さりぬべき子細ありて、蠟燭数多灯しつれば、宣ふ事もなし、只其事果てゝ、暫しも徒に灯し置く事を、いたく制し給ふ、苟且の事のやうなれども、是は君の物を用ひ給ふ節度ならんとこそ覚ゆれ、一切の物は、用を弁ふ為めなれば、大名の御許などにて、事に当りて、用ふべきに用ひざらんは、吝嗇なるべし、唯事なからん時に、徒に費さしめざるを、倹約とはいふべし、君の御心懸の如くならば、萊公燭涙の奢もなく、公孫布被の議も免れ給ふべし、

一、君の字は子明、始めの御名は紀雄、又は利渉と遊したるものもあり、世に銀台侯とも、熊本侯とも申し奉る、御俳名華裏雨と記し給ふ、江都龍口の館に、表海楼・鸞嘯閣あり、肥後熊本の御座所おましどころを濠濮園・披雲閣と名づく、南郭服翁・大川上人など、寄題の詩ありき、

オープンアクセス NDLJP:153書牘一、御年若かりし程は、彼方此方に、書牘の往復せさせ給ふ、夫が中、一つを挙げて、こゝに記す、

    呈楽山公子

東都分手甚艸々、不慇懃、至今瞻望不已矣、蓋浹旬而帰敝邑、駅路山川悉足観也、唯憾不使足下見_之耳、九州斗大、無与語、益思足下置也、越子聡計已還家矣、不知有書疏奉左右耶、為意耳、蓋足下高誼、不肺腑、告以経国事要、而辱有于不佞也、継之風雅篇什、陽春之調、幾乎寡和、不佞負詩債日久矣、愧之愧之、伊達侯豪気未除、磊落魁偉、在百尺楼上、白眼見世人、真足下之益友、而不佞所畏也、又善国士遇仲英、観其与仲英、剛直自持、不好、碌々儕輩、豈易交乎、答書亦愷悌可喜、仲英不家声、可南郭先生無子而有_子矣、献春朝覲畢、上〔潮イ〕、重臨篠池、同顧菱芡芙蕖鴻雁、以与観於賢者之楽焉、則亦復愉快如何、時暑酷、伏惟自玉、需嗣章、昭諒不備、

遺著一、御著述とて、したりしがほに、政道の事など書かせ給ふ事は、仮にもなかりき、只歴史の中に、面白くゆかしき事共を、蒙求の標題のやうに、綴らせ給ふ事ありしかども、未だ終らねばとて、名をだに付け給はざりき、又鷹と馬とは、同じ程のものなりとて、其理を通はして、書かせ給ひしものあり、是も名などはなし、粉 〔冗イ〕録とて、むげに賤しき諺を、筆のすさびに、書き集め給ひけれども、見苦しきものなり、あなかしこ、人にな見せそ、とく焼き捨てよと、宣ひ置かれき、

詠歌一、宝暦九年八月二十日、御先祖幽斎君、百五十回忌に当らせ給ひければ、竹原勘十郎玄路に仰せて、そのかみ、土佐光興が画き奉りし、写真の御影を写させ、都に上せて、有栖川職仁親王に、幽斎君の和歌三首の染筆を請ひ給ひ、風早三位公雄卿も、歌など贈り給ふ事ありし頃、寄月懐旧といふ事を、人々にすゝめ給ひて、御自も斯く、

   くもりなき影にむかしの忍ばれて袖は涙のあきの夜の月

詠詩一、御年老いさせ給ひて、十人の唱和、九人はなしと、申す計りになりければ、常さへ徒然にのみましけるに、折しも秋の夜長うして、明け難く、独り欄干に寄りて、月を詠め給ふに、夜風身に染みて、いとゞ昔を思ひ出て給ひければ、

オープンアクセス NDLJP:154   龍溝邸第夜将闌  明月西風独倚欄 筆似木華東海賦

   楼同庾亮武昌看 昔時高調空歌罷 今也朱絃誰復弾

   独座蕭条懐旧処 秋来白髪不

       右懐旧

一、天明五年の秋の初めより、御所労重らせ給ひ、神無月の頃、はや頼み少くならせ給ひけるに、時雨の音しければ、

   しぐるゝはあかり障子に音ばかり

さても此天爾波てには、何とかゆゝしく聞えければ、人々いとゞ心細く覚えけり、其月の、二十日頃よりは、大輔殿を始め参らせて、老臣共を、ひたすら召して、御跡の事をぞ懇に仰せ置かれける、

名声支那に及ぶ一、九皐の鶴は声天に聞え、一室の言は千里に応ずと有りとなん、君の保ち給ふ国は、日本の内に取りても、筑紫の果にして、長を裁ち短を補ひたらんに、方三四十里には過ぎざるべし、然るに、いみじき御聞えの、唐土まで及びけるこそ不思議なれ、たとへば明和八年の頃、家士綾部孫助といふ者の、役に差されて、肥前の国長崎にありけるに、其頃しも、同じさまなる諸国の留守居といふ者を、唐人共己が旅館に請ずる事ありしに、孫助も行きぬべき由、兼ねて聞えければ、唐人共、斜ならず悦びて、游動といふ者ことしく招状を書きて送りぬ、その日はきらびやかに装ひ、麗しきあるじまうけなど、例の事なれども、いつよりも勝れて、喜べる気色にて、黄維幹・王世吉などいふもの、さまもてなし、己が国の楽奏して慰めたり、詞は本より聞き知るべくもあらねども、訳者に付きて申しけるは、抑〻肥後侯の賢明にまし、聖の道を崇み、学校を建てさせ給ふ事など、唐土まても隠なし、己等の幸ありて、其国の人に遭ひ見奉りぬ、異域に帰りて、斯くと語らんには、何の家土産いへづとか、是に如かんとて、ぬかづきて悦び、座敷に候ふ程の者、皆孫助が方にのみ向はれて〔むらがれて〕、異方はすさまじき計りなりきとぞ

一、又ある年、長崎に来りし、宋紫岩といふ唐人、奉りし詩に曰く、

     恭頌肥後侯徳政五言三十韻并祈正之

柱石隆千古 崇山祝九天 三台呈炳耀 百辟綴班聯 霖降蒼生喜 雲施紫海連 若為群物望 願得志言詮 肥本名都秀 阿蘇箕尾躔 君才看オープンアクセス NDLJP:155鳳挙 水濶繞龍眠 閥閱東京著 文章南国伝 書詩垂黼黻 勲業表雲烟 武芸門材盛 彫弓世沢綿 八千禅景運 三十正青年 丹篆神人授 藜光大乙燃 従容趨講席 左右侍経筵 端座惟清慎 深情更塞淵 掄賢皆環璋 市駿慕奇権 屢挈珊瑚網 頻抽玳瑁編 慈祥瞻弼教 簡註考大全 北極清光被 東華碩望懸 蓬瀛裁衆羨 王府領群仙 邦国紆籌画 兵民仰策鞭 便須調鼎鼐 原不金銭 繁社添芳版嘉禾貢甫田 列卿成九叙 恩賜日三千 久矣忠誠貴 美哉風度姸 玉堂仍故里 金鑑毎新研 御仗邀栄近 宣揚拝手専 高階億世並 明府百僚光 喜色盈朝野 歓声動陌阡 争歌阪魯聖 永戴越王賢 鬱々風雲会 飄々鳳翥翩 王朝崇倚望 仁徳慶琱鐫    苕渓雲亭宋紫岩謹拝艸

一、此君、常に名誉の実に過ぎなん事を、厭ひ給へり、昔、ある人、国の中のいみじき事共を、世にも知らせまほしく、梓にも鏤めんとて、書き綴る事のありけるを、聞召されて、をこの事をなせそ、さしたる物、散りもて行かば、我治教善かりけんなど、世に歌はれん事、人を欺き、身の咎を重ぬる業なりとて、いたく制し給ひ御気色さへ善からざりき、然はあれども、畏く有難かりし事共を、語りつぎ言ひつぐ人もなからましかば、うたかたの泡と消えなん事を悲みて、もしほ草、かき集むるに就けても、いますが如きの冥慮を仰ぎて、聊も浮きたる事なく、必ず確かなる跡を尋ねて、恐れみ筆を執りぬ、

 
銀台遺事大尾オープンアクセス NDLJP:156
 
銀台遺事の事に付高本敬蔵紙面之写
 
一、乍恐霊感院様御徳義奉称候は、能人を被御存知、堀大夫に被任候事、任賢不弐と申、人君第一の御美徳にて被御座候、大坂の中井善太、肥後孝子伝の序に、恭倹持己、任賢不弐と奉称候、学問を仕、目少明候者は、数百里の外より、鏡にかけて見通奉り、二句八字に、御徳義を申尽し候、文明の世の中、恐敷事に候、然るに、御遺事、此箇条省候得ば、余り恭倹持己と申たる一句計の事に相成、他所侯の考にも、却て省候得ば、折角御遺事御差出に相成候詮も無御座候、其上巳に台諭も有之候、大夫にて候得ば、何ぞ御憚にも及申間敷儀歟と、乍恐奉存候、尤御家老にては、御自分方の身に被受候事故、御断御尤なる儀に御座候、其境得斗御考被成、思召次第には、尊慮御伺被成候様、有御座度奉存候、

御遺事之内、省候箇条之事、別紙之通、時宜国是を以、御詮儀御座候と奉存候、平太左衛門殿一件之外は、強而免角可申達様も無御座候御付紙の通可仕候、併常の消息・達書などゝ違ひ、仮初にても、冊子に仕立候物は、一部の開闔、隠見有之候事御座候、然処所々取除申候ては、たとへば、作立たる家の柱を、彼是抜取候様の物にて、見る者の見候ては、正体もなきものに成行候、此位は御存知の前にて候得共、承之分職に居候得ば、一通は、其意味、御役方にも不申達候ては、難相済、得貴意候、

一、乍恐霊感院様御盛徳を奉伺候に、所謂不小知、而可大受君子にて、被御座候と、茂次郎ども申合奉りたる事に候、近来諸名公の遺事に、御超過被遊候処は、全此処に被在候、然処御政事之稜は、取省候得ば、小知の御行状計に相成、可大受御器量は、隠伏仕候、

一、静証院様御儀を、事長に申候を、一通の論にては、此御遺事の中には、無用の事と相見可申歟、併是は編述の格例有之事に御座候、先詩経に、文王の徳を申さんとて、思斉大任文王之母と申出候、依之史漢の類、本伝には、父母兄弟の事、毎々有之、先両親の徳行を述候にても、此意味相分り候、是には、聖賢の意味、深オープンアクセス NDLJP:157く有事と被存候、されば先儒も称人之善、必本父兄師友、厚之至也と有之候、近き頃出候烈公遺事にも、新太郎様の御母堂、福照翁主の婦徳を述たる所御座候、文明に成候に付ては、世間の人も、箇様の事に心付候哉と覚申候、

一、此内に御家臣の行状を、数多書乗候事は、惣て人君の徳は、挙用らるゝ人により見え候、歴史に本記・世家・列伝と是あるが如し、本記は、当代の事を、善悪共に分明には書れぬ事有之候故、事を曲げたるものに候、され共列伝にて、用ひられたる人を考候得者、其時代の政事の得失、風俗の善悪まで、かくる所なく候、夫故に仮にも人君の事蹟を書候ものには、臣下を加へ候、左無之候へば、一分の質素倹約ぐらゐの事は、人君も匹夫同様にて候、西山遺事など、文雅飄脱は格別の御事に候へど、霊感院様は、多くの異能異才を御用被遊候事、所謂済々多士にて、他の君公に卓越の所を知らせ候為にて候、

一、堀大夫・竹原の両家、先祖迄書出候は、区々の微意御座候き、惣而人たるもの善を行ふは、父母を顕さんがため、悪をせざるは、父母を辱しめん事を恐るゝ故と、聖賢の教は御存にて候、殊更我朝にて、此道を第一とす、甚深き訳御座候、されば昔の武士は、戦場に臨て、川を一つ渡しても、桓武天皇九代の後胤、首一つ取りても、山田の庄司何某が孫などゝ名乗申候、今の世にては、合戦の最中、長々敷先祖言立、無用至極、あほふの汰沙に思はれ候は、武士の気象、次第に軽薄に成候故にて候、扨堀大夫の事、他国にては足軽 り御取立被成、父祖は無名無刀の人にて有つると、専申触候、已に先年、大坂御町奉行小田切出雲守様も、左様御聞被成候歟、弥にて候哉と、御問被成たるよしに候、堀家の御先祖は、御存知の通、類稀なる忠臣、追腹迄めされ候、其血脈継れてこそ、大夫も、あの通り被在にて可御座候、然る処、御自分の名高くなられ候程父祖を下賤の者と唱候へば、大夫の不幸、過之事無御座候、無念至極に可御座候、然処、霊感院様御余徳にて、先祖の様子、世上に相知れ候はゞ、大夫の恥辱を雪ぎ、乍恐御冥加にも叶申べき哉と奉存候、

一、八代洪水の一条は、雑歌も数多書乗候、是又無益之事と相見可申、然共民情事勢を見候は、詩歌にしく物なく候、口上・文言抔は、偽飾候事にも成候得共、詩歌は偽りのならぬ物にて候、依之古へは、国々のはやり歌をとりて、天子に奉りオープンアクセス NDLJP:158夫にて国政風俗の善悪を被考候事、聖人の法、御存の通御座候、我朝にては、殊更是を専とせられ、神武紀を始、代々の紀に、多く歌謡を乗せられ候は、此訳にて御座候、禁裏歌所被置候世には、此事弥委しく相成候、国々より年貢米を運び候馬方共が、うたひ候を、催馬楽と申候は、文句は、今の世にうたひ候馬子歌にて、余り替らず候、たとへば、あかゞりふむな、あとなる子我も目はあり、先なる子、此類の事にて、夫を詞につくろひ、字数を合せて、撰集にも入れらるゝ事に候、扨此八代洪水、古今の珍事にて候、下民昏塾の折から、御仁政を喜び勇み候、民の情を顕はし候は、此ざれ歌にとゞまり候、田沼氏執政の時、誰かは追従尊敬せざらん、然共イヨサノ善、サテ血ハサンサとうたひ候にて、人うとはて、御子息の横死を悦候実情、全く顕れ候、斯様に善悪かくされぬところ、歌謡の甚深術妙に候、詩経を経典の内に入られたる聖人の深意、凡夫の了簡の外に而候、右の例は不枚挙候、御刑法一条の儀も笞・墨・徒は律書にも有之、誰も存候事に御座候へ共、御国の如く、徒刑の者共、往々良民に成候様に、委細の御徳被立候所は、他国には不承申候、然処、荒々書置候は、残念の事に御座候、惣而此御遺事は、御徳義を述候迄にても無御座、諸国の法にも成し候様に、有御座たく奉存候、乍然前々申候通、国是時宜可御座候間、此長文、強而最初の通、被成置度と申事にては無御座候、世間文明の運にても候間、職分の事故、文事の通筋を、一通り、得貴意候事に御座候、惣教御衆へ御演舌等は、思召次第之御事と奉存候

以上、

  六月

一、賢能の人を進挙候人は、其賢者より重く貴候事、古法に而候、此道廃れ候得ば、人の心軽薄に成り、我一分の建立を専として、甚敷は人をおとし、我上らんと思ふやうなる、浅ましき事に成行候、玄路は堀老進められたる次第、誠に其身の秩禄を辞申されたる事、稀代の美事にて、さすがに御家久しく被召仕候家筋の御侍、御頼母敷事にて候、依之両家相並て、先祖を申出候、先時被仰聞候、御遺事五冊、御付紙之儘差出申候、且頃日御内意申候通、此内の御政事の儀、公辺御遠慮の箇条迄相省、不苦筋の儀は、被差置下度、相願申候、御存知被成候通、国史を書候者も、事によりては、君大夫之命をも受不申儀御座候、此意味御含被オープンアクセス NDLJP:159成、可然御周旋被下度奉存候、密に得御内意置申候、

   六月十五日                慶蔵

     関内様

 
竹原玄路書付写
 
一、寛延三年七月、封事を奉りしなり、数多の箇条を書て、御直に聞し召され候はゞ、申上んと、小川貞之丞を以て差上る、夫より度毎に召出され、子・丑の刻迄、聞召されしこと、数月に及ぶ、御次にては、身上の事を申上候歟、又はよからぬ事を御勧申上るにやと、或は疑ひ、或は恐るゝ者あり、玄路申上候は、左様の事に非ず、御先代より、御国の風俗、郡村の事、御役人の贔屓を以て、其任に当らざる人を御用ひになる事、賄ひて我勝にして立身する類、其事実を挙て申上る、玄路手の迥らざる事は、同志の人ありて、助け告知する者あり、寛延四年、何月か不覚、政事の御咄の折節、不慮に大国を領せられ、今更御行当なり、中々御身様の如き、御気薄き上、御病さへあらせられ候へば、御政道などの事は、難き御事なり、まづはならせられずと、御歎息なり、玄路申上けるは、夫はいかなる思召に候や、御気薄、御病身とて、御自身の御働はなくとも、人を選び、夫に委ねられ候へば、何事か難からん、頼奉りしかひもなく、浅ましの御心かなと、落涙仕候を御覧じ、頼もしき心なり、なんぢ、後まで其心を変ずまじき歟、我眼に恥をかゝすなと、御意あり、玄路謹で領掌し、命を限りと仕るべしと申上候へば、さらば本心を語り聞せん、つらつら此国の人を見るに、名利の慾専にして、始末をとぐべき人なし、もしや委任の人あらん歟と御意あり、玄路申上ぐるは、多年心を付て、遠きに聞、近きに交候に、一人も候はず、堀平太左衛門勝名、麟供は入魂の交りを致候に、此人ならでは、始終を不変に為すべき人なしと申上る、聞し召して余も左は思ふなり、しかし斯様斯様の事ある由を聞、いかゞ有らんと宣ふ、玄路申上けるは、左様の事を申人は虚俗ならん、思うて不言ときは、其事晴るゝ時なし、一人を目附に指添給らば、玄路参て、虚実を正く糺して見申さん、若虚にて候ば、御疑晴れ給へ、若し実事に候ば、玄路、其席にて指違へ申さんと申上る、なんぢ豪気なり、爾この事を遂まじけれ、オープンアクセス NDLJP:160必豪気を止めよと、御意あり、玄路奉命て、勝名小屋に参る、〈夜中なり、〉御不審の箇条を、有の儘に申述べければ、固より虚説にて、一々に答明白なり、勝名斯かる虚名を蒙る事、全く自身行届かぬ所あるによりてなり、宜くと御請は申さぬなりと、怒の眼色あり、早速其由を申上る、夫より君の御心も解させ給ふ、

一、年月は覚えず、なんぢが事を呵るもの多、さまに申す者、斯様々々の事なる歟と、御尋あり、難有事なり、夫は斯様々々、是は無き事なり、是は実なりと、明白に申上ければ、爾は豪気の者故、不思に人を呵り、人の悪き事を目前に恥を与へる様の事、可慎、口を守る事、如瓶せよと御呵なり、さて此頃は、爾が事をよく云、推挙する者多し、加禄昇進の事を聞、爾いかゞ思ふぞと、御意あり、玄路申上るは、人として加禄昇進不望はあるまじきなり、然しながら君の御為には、命を捨て、禄をも捨つべきなり、今玄路を御取立なされ、厚禄を給はり候はゞ、専身の為にさまに申上て、御意入候などゝ、諸人目を附て、様々の事を風説致すべし、人傑を得給ひては、大禄を給る時は、人心皆是に目を附て、重ずるなるべし、玄路如きの愚昧なる者は、大禄を給はり候はゞ、人の憎みます強くなり、上の成され候事も、彼申上候て、取計候など申候ては、君徳薄くなり申候、御用に不立、愚人なりと、人の云を、予が本望と存ずるなり、必ず加禄し給ふこと勿れと申上るに、功に随ひ勤に因て、禄を増し席を進るは、君の道なり、玄路申上候は、君の御恵は、其人に応ぜられ候こと第一なり、於玄路器量もなく才智もなし、御代々食禄の大恩を報じ奉らん為に、見聞の趣、ありの儘に申上候なり、是功と云にも非ずと申上候へば、何ぞ望有之やと御尋なり、若や長寿にて隠居仕候はば、微禄の子孫、養兼可申候、其節恵給へと申上ければ、必五十口を扶持し給はん事を約し給ふなり、予命つれなく、其約を果し給はずして、遂に空しく成給ふなり、此時の御咄に申上候は、今大功ある人は、大禄を給ふ事なり、然れども其禄を伝て、二代三代に至ては、大方は馬鹿なり、大禄の者の子計、愚に至る訳は無之候へども、家来の手にそだちて、人情を知らず、自然と弱く心愚になり候、今御足高と申は、其身一代高禄にても、子孫は本知にかへり候なりと申上るに、左までもならぬものなりと御意なり、

一、御しらべ御遺事の内、御昼寝を遊されずとある箇条は、御省き成され可オープンアクセス NDLJP:161候、毎度御昼寝は遊ばされ候なり、しかも御床を敷、何時より何時迄と云御究にて、其時刻は申上候なり、誰々もよく存じ居ることなり、

一、松洞老の条下に、平太左衛門同様、召仕はれ候て可然と、脇より申上ければ、麒麟に田はすかせられぬとの御意の事、虚説なり、御省き可然候、

きりんならば、猶以御政事を助けらるべきことなり、堀殿は田をすく役には非ず候なり、斯様のこと、かりにも御意は無きことなり、

一、熊本にての事なり、天草より鰹を酒漬にし、御取寄召上られ候、皆人御留め申上けれども、御聞入なくて、さしみに仰付られたり、玄路一番に御試仕候て、暫ありて倒伏、不覚なり、君も御酔なされ、余程御なやみなり、御手水に入らせられ候節、須佐美九太夫奉抱、御手水に奉入るに、御病中に御眼を開かせ給ひて、九太夫は用人の申附置たるに忘忘たたに替りて、取次の者・小姓役を指揮する役なり、自ら余を抱て斯するは、心得違なりと、御呵なり、人を使ふべき者の、下なるわざをするは、兼て御嫌なり、斯る事は記し置度ものか、

右の外数箇条候へども、御政事にかゝる事にて、憚多く省きぬ、

 
 

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