鉄道唱歌/歴史地理教育 鉄道唱歌 (東北鉄道)
< 鉄道唱歌
- 東北鐵道
汽 笛 の聲 と諸共 に やがて車 はきしり出 で上 野 の山 に沿 ひ繞 り根 岸 の里 を離 るれば田 端 の驛 に迎 へらる此 より道 は二筋 に分 れて左 に進 み行 き王 子 の街 に着 きにけり飛 鳥 山 をば跡 に見 て赤羽 蕨 浦 和 など いつしか過 ぎて大宮 や越 路 に至 る鐵 の道 と分 れて此 方 なる氷 川 の神 のましませる御 垣 の外 を遶 りつゝ汽 力 を速 めて馳 せにける蓮 田 と久喜 と栗橋 の驛 を過 ぐれば名 にし負 ふ利根 の河 原 に架渡 す鐵 橋 をわたりつゝ左 を見 れば富士 が嶺 の遙 に雲 間 に聳 え立 ち雪 を戴 く姿 こそ實 に我國 の鎭 護 なれ筑 波 の山 を右 に見 て古河 の驛 にぞ着 きぬれば幾百年 の苔 蒸 せる三 位 入道頼政 の首 を埋 めるおくつちを訪 ひ吊 ひつそのかみの忠 勇 義 烈 の眞 心 に袖 を絞 るもかなしけれ間々田 を過 ぎて程 もなく迎 へ待 てるは小 山 なり南 に行 けば水戸 に着 き北 に進 めば高崎 の往 來 もしげき土地 なれば乘 りつ降 りつの客人 は我 れ後 れじと爭 ひて潮 の湧 くがごとくなり寶 湧 き出 る小 金 井 の一里離 れし藥 師寺 は天 都日 嗣 の御 位 に登 りつらんとたくみしを和氣 の朝臣 の誠 忠 に皇 基 も此 に彌 かたく姦僧道 鏡 囚 はれて世 に名 も高 き寺 ぞかし瞬 く隙 に宇 都宮 分 れて道 は西北 に至 るは日 光 鐵道 ぞ いざとばかりに乘 換 へて數々 過 ぐる停車場 送 られつゝも迎 ふ山 見 るも深奧雄大 の日 光 にこそ着 きにけれ韓紅 に塗 りなせる欄干高 く虹 に似 て光 まばゆき擬 寶珠 の青 葉 の中 に輝 きて架渡 したる大 谷 川 是 名 にし負 ふ神橋 ぞ歩 み渡 ればおのづから天 にも登 る心 地 せり右 と左 の山々 は老杉 古 松 蓊鬱 と晝猶晦 く生茂 り遠 く深 山 に入 るかとぞ疑 はれつゝ坂道 を登 り盡 くれば一條 の大 路 は直 く砥 の如 く社 の御 前 に續 きけり見上 ぐばかりの大鳥 居 圓 き柱 の大 さは三 人抱 へて猶 足 らず潜 り通 りて表 門 朱 き漆 を塗 り飾 り極彩色 を施 して左 と右 に唐 獅子 は行 儀 正 して衞 り居 る國 の領 主 の納 めける燈 籠 の數 はいと多 く いづれ劣 らぬ巧 にて金 や石 もて造 りなし並 び列 びて限 りなし尚外國人 の贈 られし鑄 物 の品 や彫刻 や數 へ盡 せば日 も暮 れぬ昔 名 だたる匠 等 が巧 を盡 せる業 くらべ黄 金白銀 ちりばめて日 脚 の移 るも覺 えずに仰 ぎ見 せしむ建築 は日 暮 門 となん呼 びて是 ぞ日 光 第一 の陽明門 とぞ聞 えける東照宮 の鎭 座 せる社殿 を仰 ぎ眺 むれば桐 の葉 に栖 む鳳凰 や獅子 の遊 べる牡 丹花 虎 は嘯 き龍 は舞 ひ飾 り盡 して遺 すなし其麗 はしさ限 りなく此 世 のものと思 はれず奈良 の都 や平安 や奢 極 めし宮寺 の數々多 き其中 に轟 き渡 るものあれど山 の勢 雄大 に しかも華 美 なる殿造 り五畿 八道八十州 企 て及 ぶものぞなき宮 居 を左 にたどりつゝ上 りつ下 りつ行 きぬれば雨 と風 とに曝 されて木地 もあらはの衡 門 眠 れる猫 の其 姿 誰 が手 に成 りし巧 ぞや是 ぞ匠 に名 も高 き左 甚 五 の作 とかや石 のきざはし二 百 段 仰 げば老 樹 の枝交 り隧道 成 せる其中 を上 れば晝 も猶 くらく翠滴 る木 下蔭 俄 に景 色 の變 り來 て神 の威 光 の彌 まさり我 を忘 れて額 きぬ石 の玉垣 めぐらして其 中 央 に唐銅 の大寶塔 は建 てられし元 和 偃 武 の英雄 は骨 は朽 ちても名 は朽 ちず功 は千 古 に傳 はりて其靈魂 は此中 に永 く眠 りて留 まりぬ此 は紅 葉 に名 も高 く秋 の錦 を織 り成 せば裏 見 の瀧 や霧降 の瀧 に碎 けて迸 り水 が燃 ゆるか紅 の蒸 氣 とばして山々 は五 色 の雲 のたなびきて腸 あらふ思 あり萬 の雷 轟々 と耳 を劈 き山震 ふ是 なん華 嚴 の瀧 なるぞ直 に下 る七十丈 半 は霧 に蔽 はれて半 は雲 につゝまれて群 り飛 べる岩 燕 黒 き星 かと疑 はる中 禪 寺 の湖 は黒髮山 や其外 の山 が遶 りていや高 く水 の光 と山 の色 碧 を凝 らし鏡 なす面 に映 る山 の影 舟 漕 ぎ行 けば頂 に上 る思 ぞなしにける此 湖 はむかしより水 冷 かにいと清 く魚 と虫 とは棲 まざりし されども斯 る理 の あるべき事 にあらぬとて魚 の卵 を放 ちしに年 々 ふえるめでたさは開 け行 く世 の餘 光 なり御輦 を此 にまげられて その景 色 をみそなはし近 く侍 ふ司 等 へ大 勅語 をば下 されて名 を幸 の湖 と賜 はりて後 の世 までも芳 しき天皇 の惠 こそ實 に尊 くもかしこけれ日 光 よりはもとの道 再 び來 る宇 都宮 古 田 長 久保矢 板 など停車場 をば跡 になし西 那須野 にぞ着 きにける これより西北 六七里 野路 をたどれば鹽原 の温 泉 にこそは行 かれける次 に來 れる黒磯 は那須野 が原 の直中 に やゝ賑 はしき街 なり彼 の殺 生 石 の舊蹟 と那須 の七湯 さぐらんは此 より道 も遠 からじ暇 もあらば一日 の隙 を費 し遊 ぶべし左 に見 ゆるは旭 岳 右 に高 きは八 溝山 川 を渡 りて谿 を踰 え山 を送 りて又迎 へ黒 田 原 をも打 過 ぎて豐原驛 をも跡 に見 て磐 城 の國 に入 りぬれば はや白河 に着 きにけり明 治 のはじめ官 軍 は路 を分 ちて進 み行 き會 津 の城 を攻 めなんと其 勢 の凄 まじく此 まで押 寄 せ來 りしが やがて戰 はじまりて錦 の御 旗 の朝風 に飜 りたる蹟 なりき二 本松 をもいつしかに過 ぎて福島 ステーシヨン顯家卿 の古跡 と文字 摺石 は此 に在 り其 名 も清 き白石 や大 河 原 をも跡 にして奧 羽 一 の大 都 會 仙臺 にこそ着 きにけれ瞬 く隙 に岩切 や鹽竃行 と乘 換 へて いざや日本三景 の中 にも一 とうたはるゝ松島 指 して馳 せゆけば老松 小 松 いたゞきて いづれの島 も千代八千代 めでたかりける事 なりき- もと
來 し路 にもどり着 き野田 の玉川跡 に見 て多賀 の城址 眺めつ ゝ一 の關 なる衣 川 館 の古蹟 いづこぞと問 へど答 へも松風 の夢 路 をたどり水澤 や陸奧 の國 にぞ入 りにけり 黒澤尻 を跡 に見 て花卷 日 詰 ゆめのまに通 り過 して盛岡 は むかし豪族 安倍 氏 が柵 を造 りし厨 川 見 馴 の松 も名 に高 く尻内驛 に支 線 あり湊 に行 くは二 十分 山 を遶 りて野 を迎 へ野 に送 られて川 を越 え眺 望飽 きつゝ來 て見 れば景 色變 れる海原 は陸奧 の入海入 込 みて波 も靜 けき野邊地 灣 出 船入船 帆 を揚 げて走 れる樣 の心 地 よさ上 野 を出 でて一晝 夜 四百六十餘 哩 の長 途 もこゝに北海 の五 港 の一 なる函館 と往 來 もしげき青森 の港 に着 きて眺 むれば百 貨 を山 に積 み成 せる状 を見 るこそ愉 快 なれ
- 終
この著作物は、1923年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。