未 ( ま ) だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠 ( さしこ ) めて、真直 ( ますぐ ) に長く東より西に横 ( よこた ) はれる大道 ( だいどう ) は掃きたるやうに物の影を留 ( とど ) めず、いと寂 ( さびし ) くも往来 ( ゆきき ) の絶えたるに、例ならず繁 ( しげ ) き車輪 ( くるま ) の輾 ( きしり ) は、或 ( あるひ ) は忙 ( せはし ) かりし、或 ( あるひ ) は飲過ぎし年賀の帰来 ( かへり ) なるべく、疎 ( まばら ) に寄する獅子太鼓 ( ししだいこ ) の遠響 ( とほひびき ) は、はや今日に尽きぬる三箇日 ( さんがにち ) を惜むが如く、その哀切 ( あはれさ ) に小 ( ちひさ ) き膓 ( はらわた ) は断 ( たた ) れぬべし。
元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌 ( しる ) されたる日記を涜 ( けが ) して、この黄昏 ( たそがれ ) より凩 ( こがらし ) は戦出 ( そよぎい ) でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥 ( なだ ) むる者無きより、憤 ( いかり ) をも増したるやうに飾竹 ( かざりだけ ) を吹靡 ( ふきなび ) けつつ、乾 ( から ) びたる葉を粗 ( はした ) なげに鳴して、吼 ( ほ ) えては走行 ( はしりゆ ) き、狂ひては引返し、揉 ( も ) みに揉んで独 ( ひと ) り散々に騒げり。微曇 ( ほのぐも ) りし空はこれが為に眠 ( ねむり ) を覚 ( さま ) されたる気色 ( けしき ) にて、銀梨子地 ( ぎんなしぢ ) の如く無数の星を顕 ( あらは ) して、鋭く沍 ( さ ) えたる光は寒気 ( かんき ) を発 ( はな ) つかと想 ( おも ) はしむるまでに、その薄明 ( うすあかり ) に曝 ( さら ) さるる夜の街 ( ちまた ) は殆 ( ほとん ) ど氷らんとすなり。
人この裏 ( うち ) に立ちて寥々冥々 ( りようりようめいめい ) たる四望の間に、争 ( いかで ) か那 ( な ) の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重 ( きゆうちよう ) の天、八際 ( はつさい ) の地、始めて混沌 ( こんとん ) の境 ( さかひ ) を出 ( い ) でたりといへども、万物未 ( いま ) だ尽 ( ことごと ) く化生 ( かせい ) せず、風は試 ( こころみ ) に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫 ( ただみだり ) に邈 ( ひろ ) く横 ( よこた ) はれるに過ぎざる哉 ( かな ) 。日の中 ( うち ) は宛然 ( さながら ) 沸くが如く楽み、謳 ( うた ) ひ、酔 ( ゑ ) ひ、戯 ( たはむ ) れ、歓 ( よろこ ) び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚 ( はかな ) くも夏果てし孑孑 ( ぼうふり ) の形を歛 ( をさ ) めて、今将 ( いまはた ) 何処 ( いづく ) に如何 ( いか ) にして在るかを疑はざらんとするも難 ( かた ) からずや。多時 ( しばらく ) 静なりし後 ( のち ) 、遙 ( はるか ) に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃忽 ( たちま ) ち一点の燈火 ( ともしび ) は見え初 ( そ ) めしが、揺々 ( ゆらゆら ) と町の尽頭 ( はづれ ) を横截 ( よこぎ ) りて失 ( う ) せぬ。再び寒き風は寂 ( さびし ) き星月夜を擅 ( ほしいまま ) に吹くのみなりけり。唯有 ( とあ ) る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間 ( ひあはひ ) の下水口より噴出 ( ふきい ) づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温 ( ぬくもり ) の四方に溢 ( あふ ) るるとともに、垢臭 ( あかくさ ) き悪気の盛 ( さかん ) に迸 ( ほとばし ) るに遭 ( あ ) へる綱引の車あり。勢ひで角 ( かど ) より曲り来にければ、避くべき遑無 ( いとまな ) くてその中を駈抜 ( かけぬ ) けたり。
「うむ、臭い」
車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
車夫のかく答へし後は語 ( ことば ) 絶えて、車は驀直 ( ましぐら ) に走れり、紳士は二重外套 ( にじゆうがいとう ) の袖 ( そで ) を犇 ( ひし ) と掻合 ( かきあは ) せて、獺 ( かはうそ ) の衿皮 ( えりかは ) の内に耳より深く面 ( おもて ) を埋 ( うづ ) めたり。灰色の毛皮の敷物の端 ( はし ) を車の後に垂れて、横縞 ( よこじま ) の華麗 ( はなやか ) なる浮波織 ( ふはおり ) の蔽膝 ( ひざかけ ) して、提灯 ( ちようちん ) の徽章 ( しるし ) はTの花文字を二個 ( ふたつ ) 組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭 ( はづれ ) を北に折れ、稍 ( やや ) 広き街 ( とほり ) に出 ( い ) でしを、僅 ( わづか ) に走りて又西に入 ( い ) り、その南側の半程 ( なかほど ) に箕輪 ( みのわ ) と記 ( しる ) したる軒燈 ( のきラムプ ) を掲げて、剡竹 ( そぎだけ ) を飾れる門構 ( もんがまへ ) の内に挽入 ( ひきい ) れたり。玄関の障子に燈影 ( ひかげ ) の映 ( さ ) しながら、格子 ( こうし ) は鎖固 ( さしかた ) めたるを、車夫は打叩 ( うちたた ) きて、
「頼む、頼む」
奥の方 ( かた ) なる響動 ( どよみ ) の劇 ( はげし ) きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪 ( おとな ) ひつつ、格子戸を連打 ( つづけうち ) にすれば、やがて急足 ( いそぎあし ) の音立てて人は出 ( い ) で来 ( き ) ぬ。
円髷 ( まるわげ ) に結ひたる四十ばかりの小 ( ちひさ ) く痩 ( や ) せて色白き女の、茶微塵 ( ちやみじん ) の糸織の小袖 ( こそで ) に黒の奉書紬 ( ほうしよつむぎ ) の紋付の羽織着たるは、この家の内儀 ( ないぎ ) なるべし。彼の忙 ( せは ) しげに格子を啓 ( あく ) るを待ちて、紳士は優然と内に入 ( い ) らんとせしが、土間の一面に充満 ( みちみち ) たる履物 ( はきもの ) の杖 ( つゑ ) を立つべき地さへあらざるに遅 ( ためら ) へるを、彼は虚 ( すか ) さず勤篤 ( まめやか ) に下立 ( おりた ) ちて、この敬ふべき賓 ( まらうど ) の為に辛 ( から ) くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄 ( こまげた ) のみは独 ( ひと ) り障子の内に取入れられたり。
箕輪 ( みのわ ) の奥は十畳の客間と八畳の中の間 ( ま ) とを打抜きて、広間の十個処 ( じつかしよ ) に真鍮 ( しんちゆう ) の燭台 ( しよくだい ) を据ゑ、五十目掛 ( めかけ ) の蝋燭 ( ろうそく ) は沖の漁火 ( いさりび ) の如く燃えたるに、間毎 ( まごと ) の天井に白銅鍍 ( ニッケルめつき ) の空気ラムプを点 ( とも ) したれば、四辺 ( あたり ) は真昼より明 ( あきらか ) に、人顔も眩 ( まばゆ ) きまでに耀 ( かがや ) き遍 ( わた ) れり。三十人に余んぬる若き男女 ( なんによ ) は二分 ( ふたわかれ ) に輪作りて、今を盛 ( さかり ) と歌留多遊 ( かるたあそび ) を為 ( す ) るなりけり。蝋燭の焔 ( ほのほ ) と炭火の熱と多人数 ( たにんず ) の熱蒸 ( いきれ ) と混じたる一種の温気 ( うんき ) は殆 ( ほとん ) ど凝りて動かざる一間の内を、莨 ( たばこ ) の煙 ( けふり ) と燈火 ( ともしび ) の油煙とは更 ( たがひ ) に縺 ( もつ ) れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面 ( おもて ) は皆赤うなりて、白粉 ( おしろい ) の薄剥 ( うすは ) げたるあり、髪の解 ( ほつ ) れたるあり、衣 ( きぬ ) の乱次 ( しどな ) く着頽 ( きくづ ) れたるあり。女は粧 ( よそほ ) ひ飾りたれば、取乱したるが特 ( こと ) に著るく見ゆるなり。男はシャツの腋 ( わき ) の裂けたるも知らで胴衣 ( ちよつき ) ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四 ( よつ ) まで紙にて結 ( ゆ ) ひたるもあり。さしも息苦き温気 ( うんき ) も、咽 ( むせ ) ばさるる煙 ( けふり ) の渦も、皆狂して知らざる如く、寧 ( むし ) ろ喜びて罵 ( ののし ) り喚 ( わめ ) く声、笑頽 ( わらひくづ ) るる声、捩合 ( ねぢあ ) ひ、踏破 ( ふみしだ ) く犇 ( ひしめ ) き、一斉に揚ぐる響動 ( どよみ ) など、絶間無き騒動の中 ( うち ) に狼藉 ( ろうぜき ) として戯 ( たはむ ) れ遊ぶ為体 ( ていたらく ) は三綱五常 ( さんこうごじよう ) も糸瓜 ( へちま ) の皮と地に塗 ( まび ) れて、唯 ( ただ ) これ修羅道 ( しゆらどう ) を打覆 ( ぶつくりかへ ) したるばかりなり。
海上風波の難に遭 ( あ ) へる時、若干 ( そくばく ) の油を取りて航路に澆 ( そそ ) げば、浪 ( なみ ) は奇 ( くし ) くも忽 ( たちま ) ち鎮 ( しづま ) りて、船は九死を出 ( い ) づべしとよ。今この如何 ( いかに ) とも為 ( す ) べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王 ( によおう ) あり。猛 ( たけ ) びに猛ぶ男たちの心もその人の前には和 ( やはら ) ぎて、終 ( つひ ) に崇拝せざるはあらず。女たちは皆猜 ( そね ) みつつも畏 ( おそれ ) を懐 ( いだ ) けり。中の間なる団欒 ( まどゐ ) の柱側 ( はしらわき ) に座を占めて、重 ( おも ) げに戴 ( いただ ) ける夜会結 ( やかいむすび ) に淡紫 ( うすむらさき ) のリボン飾 ( かざり ) して、小豆鼠 ( あづきねずみ ) の縮緬 ( ちりめん ) の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を瞪 ( みは ) りて、躬 ( みづから ) は淑 ( しとや ) かに引繕 ( ひきつくろ ) へる娘あり。粧飾 ( つくり ) より相貌 ( かほだち ) まで水際立 ( みづぎはた ) ちて、凡 ( ただ ) ならず媚 ( こび ) を含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普 ( あまね ) く知られぬ。娘も数多 ( あまた ) 居たり。醜 ( みにく ) きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑 ( とまどひ ) せるかと覚 ( おぼし ) きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装 ( みなり ) は宮より数等 ( すとう ) 立派なるは数多 ( あまた ) あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘 ( まなむすめ ) とて、最も不器量 ( ふきりよう ) を極 ( きは ) めて遺憾 ( いかん ) なしと見えたるが、最も綺羅 ( きら ) を飾りて、その起肩 ( いかりがた ) に紋御召 ( もんおめし ) の三枚襲 ( さんまいがさね ) を被 ( かつ ) ぎて、帯は紫根 ( しこん ) の七糸 ( しちん ) に百合 ( ゆり ) の折枝 ( をりえだ ) を縒金 ( よりきん ) の盛上 ( もりあげ ) にしたる、人々これが為に目も眩 ( く ) れ、心も消えて眉 ( まゆ ) を皺 ( しわ ) めぬ。この外種々 ( さまざま ) 色々の絢爛 ( きらびやか ) なる中に立交 ( たちまじ ) らひては、宮の装 ( よそほひ ) は纔 ( わづか ) に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何 ( いか ) なる美 ( うつくし ) き染色 ( そめいろ ) をも奪ひて、彼の整へる面 ( おもて ) は如何なる麗 ( うるはし ) き織物よりも文章 ( あや ) ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽 ( おほ ) ふ能 ( あた ) はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
袋棚 ( ふくろだな ) と障子との片隅 ( かたすみ ) に手炉 ( てあぶり ) を囲みて、蜜柑 ( みかん ) を剥 ( む ) きつつ語 ( かたら ) ふ男の一個 ( ひとり ) は、彼の横顔を恍惚 ( ほれぼれ ) と遙 ( はるか ) に見入りたりしが、遂 ( つひ ) に思堪 ( おもひた ) へざらんやうに呻 ( うめ ) き出 ( いだ ) せり。
「好 ( い ) い、好い、全く好い! 馬士 ( まご ) にも衣裳 ( いしよう ) と謂 ( い ) ふけれど、美 ( うつくし ) いのは衣裳には及ばんね。物それ自 ( みづか ) らが美いのだもの、着物などはどうでも可 ( い ) い、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体なら猶 ( なほ ) 結構だ!」
この強き合槌 ( あひづち ) 撃つは、美術学校の学生なり。
綱曳 ( つなひき ) にて駈着 ( かけつ ) けし紳士は姑 ( しばら ) く休息の後内儀に導かれて入来 ( いりきた ) りつ。その後 ( うしろ ) には、今まで居間に潜みたりし主 ( あるじ ) の箕輪亮輔 ( みのわりようすけ ) も附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途 ( せんど ) と激 ( はげし ) き勝負の最中なれば、彼等の来 ( きた ) れるに心着きしは稀 ( まれ ) なりけれど、片隅に物語れる二人は逸早 ( いちはや ) く目を側 ( そば ) めて紳士の風采 ( ふうさい ) を視 ( み ) たり。
広間の燈影 ( ひかげ ) は入口に立てる三人 ( みたり ) の姿を鮮 ( あざや ) かに照せり。色白の小 ( ちひさ ) き内儀の口は疳 ( かん ) の為に引歪 ( ひきゆが ) みて、その夫の額際 ( ひたひぎは ) より赭禿 ( あかは ) げたる頭顱 ( つむり ) は滑 ( なめら ) かに光れり。妻は尋常 ( ひとなみ ) より小きに、夫は勝 ( すぐ ) れたる大兵 ( だいひよう ) 肥満にて、彼の常に心遣 ( こころづかひ ) ありげの面色 ( おももち ) なるに引替へて、生きながら布袋 ( ほてい ) を見る如き福相したり。
紳士は年歯 ( としのころ ) 二十六七なるべく、長高 ( たけたか ) く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬 ( ほほ ) の辺 ( あたり ) には薄紅 ( うすくれなゐ ) を帯びて、額厚く、口大きく、腮 ( あぎと ) は左右に蔓 ( はびこ ) りて、面積の広き顔は稍 ( やや ) 正方形を成 ( な ) せり。緩 ( ゆる ) く波打てる髪を左の小鬢 ( こびん ) より一文字に撫付 ( なでつ ) けて、少しは油を塗りたり。濃 ( こ ) からぬ口髭 ( くちひげ ) を生 ( はや ) して、小 ( ちひさ ) からぬ鼻に金縁 ( きんぶち ) の目鏡 ( めがね ) を挾 ( はさ ) み、五紋 ( いつつもん ) の黒塩瀬 ( くろしほぜ ) の羽織に華紋織 ( かもんおり ) の小袖 ( こそで ) を裾長 ( すそなが ) に着做 ( きな ) したるが、六寸の七糸帯 ( しちんおび ) に金鏈子 ( きんぐさり ) を垂れつつ、大様 ( おほやう ) に面 ( おもて ) を挙げて座中を眴 ( みまは ) したる容 ( かたち ) は、実 ( げ ) に光を発 ( はな ) つらんやうに四辺 ( あたり ) を払ひて見えぬ。この団欒 ( まどゐ ) の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々 ( びび ) しく装 ( よそほ ) ひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
例の二人の一個 ( ひとり ) はさも憎さげに呟 ( つぶや ) けり。
「可厭 ( いや ) な奴!」
唾 ( つば ) 吐くやうに言ひて学生はわざと面 ( おもて ) を背 ( そむ ) けつ。
「お俊 ( しゆん ) や、一寸 ( ちよいと ) 」と内儀は群集 ( くんじゆ ) の中よりその娘を手招きぬ。
お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙 ( あわただし ) く起ちて来 ( きた ) れるが、顔好くはあらねど愛嬌 ( あいきよう ) 深く、いと善く父に肖 ( に ) たり。高島田に結 ( ゆ ) ひて、肉色縮緬 ( にくいろちりめん ) の羽織に撮 ( つま ) みたるほどの肩揚したり。顔を赧 ( あか ) めつつ紳士の前に跪 ( ひざまづ ) きて、慇懃 ( いんぎん ) に頭 ( かしら ) を低 ( さぐ ) れば、彼は纔 ( わづか ) に小腰を屈 ( かが ) めしのみ。
「どうぞ此方 ( こちら ) へ」
娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに頷 ( うなづ ) けり。母は歪 ( ゆが ) める口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
お俊は再び頭 ( かしら ) を低 ( さ ) げぬ。紳士は笑 ( ゑみ ) を含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
主 ( あるじ ) の勧むる傍 ( そば ) より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内 ( あない ) して、客間の床柱の前なる火鉢 ( ひばち ) 在る方 ( かた ) に伴 ( つ ) れぬ。妻は其処 ( そこ ) まで介添 ( かいぞへ ) に附きたり。二人は家内 ( かない ) の紳士を遇 ( あつか ) ふことの極 ( きは ) めて鄭重 ( ていちよう ) なるを訝 ( いぶか ) りて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱 ( みのが ) さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒 ( まどゐ ) の間を過ぎたりしが、無名指 ( むめいし ) に輝ける物の凡 ( ただ ) ならず強き光は燈火 ( ともしび ) に照添 ( てりそ ) ひて、殆 ( ほとん ) ど正 ( ただし ) く見る能 ( あた ) はざるまでに眼 ( まなこ ) を射られたるに呆 ( あき ) れ惑へり。天上の最も明 ( あきらか ) なる星は我手 ( わがて ) に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の未 ( いま ) だ曾 ( かつ ) て見ざりし大 ( おほき ) さの金剛石 ( ダイアモンド ) を飾れる黄金 ( きん ) の指環を穿 ( は ) めたるなり。
お俊は骨牌 ( かるた ) の席に復 ( かへ ) ると侔 ( ひとし ) く、密 ( ひそか ) に隣の娘の膝 ( ひざ ) を衝 ( つ ) きて口早に咡 ( ささや ) きぬ。彼は忙々 ( いそがはし ) く顔を擡 ( もた ) げて紳士の方 ( かた ) を見たりしが、その人よりはその指に耀 ( かがや ) く物の異常なるに駭 ( おどろ ) かされたる体 ( てい ) にて、
「まあ、あの指環は! 一寸 ( ちよいと ) 、金剛石 ( ダイアモンド ) ?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
お俊の説明を聞きて彼は漫 ( そぞろ ) に身毛 ( みのけ ) の弥立 ( よだ ) つを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
鱓 ( ごまめ ) の目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳 ( いくとせ ) か念懸 ( ねんが ) くれども未 ( いま ) だ容易に許されざる娘の胸は、忽 ( たちま ) ち或事を思ひ浮べて攻皷 ( せめつづみ ) の如く轟 ( とどろ ) けり。彼は惘然 ( ぼうぜん ) として殆ど我を失へる間 ( ま ) に、電光の如く隣より伸来 ( のびきた ) れる猿臂 ( えんぴ ) は鼻の前 ( さき ) なる一枚の骨牌 ( かるた ) を引攫 ( ひきさら ) へば、
「あら、貴女 ( あなた ) どうしたのよ」
お俊は苛立 ( いらだ ) ちて彼の横膝 ( よこひざ ) を続けさまに拊 ( はた ) きぬ。
「可 ( よ ) くつてよ、可くつてよ、以来 ( これから ) もう可くつてよ」
彼は始めて空想の夢を覚 ( さま ) して、及ばざる身 ( み ) の分 ( ぶん ) を諦 ( あきら ) めたりけれども、一旦金剛石 ( ダイアモンド ) の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚 ( めざまし ) かりける手腕 ( てなみ ) の程も見る見る漸 ( やうや ) く四途乱 ( しどろ ) になりて、彼は敢無 ( あへな ) くもこの時よりお俊の為に頼み難 ( がたな ) き味方となれり。
かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「金剛石 ( ダイアモンド ) !」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石⁇」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石⁇」
「可感 ( すばらし ) い金剛石」
「可恐 ( おそろし ) い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬 ( またた ) く間 ( ひま ) に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳 ( うた ) へり。
彼は人々の更互 ( かたみがはり ) におのれの方 ( かた ) を眺 ( なが ) むるを見て、その手に形好く葉巻 ( シガア ) を持たせて、右手 ( めて ) を袖口 ( そでぐち ) に差入れ、少し懈 ( たゆ ) げに床柱に靠 ( もた ) れて、目鏡の下より下界を見遍 ( みわた ) すらんやうに目配 ( めくばり ) してゐたり。
かかる目印ある人の名は誰 ( たれ ) しも問はであるべきにあらず、洩 ( も ) れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継 ( とみやまただつぐ ) とて、一代分限 ( ぶげん ) ながら下谷 ( したや ) 区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中 ( うち ) にも富山重平 ( じゆうへい ) の名は見出 ( みいだ ) さるべし。
宮の名の男の方 ( かた ) に持囃 ( もてはや ) さるる如く、富山と知れたる彼の名は直 ( ただち ) に女の口々に誦 ( ずん ) ぜられぬ。あはれ一度 ( ひとたび ) はこの紳士と組みて、世に愛 ( めで ) たき宝石に咫尺 ( しせき ) するの栄を得ばや、と彼等の心々 ( こころごころ ) に冀 ( こひねが ) はざるは希 ( まれ ) なりき。人若 ( も ) し彼に咫尺するの栄を得ば、啻 ( ただ ) にその目の類無 ( たぐひな ) く楽 ( たのしま ) さるるのみならで、その鼻までも菫花 ( ヴァイオレット ) の多く齅 ( か ) ぐべからざる異香 ( いきよう ) に薫 ( くん ) ぜらるるの幸 ( さいはひ ) を受くべきなり。
男たちは自 ( おのづ ) から荒 ( すさ ) められて、女の挙 ( こぞ ) りて金剛石 ( ダイアモンド ) に心牽 ( こころひか ) さるる気色 ( けしき ) なるを、或 ( あるひ ) は妬 ( ねた ) く、或は浅ましく、多少の興を冷 ( さま ) さざるはあらざりけり。独 ( ひと ) り宮のみは騒げる体 ( てい ) も無くて、その清 ( すずし ) き眼色 ( まなざし ) はさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深 ( たしなみふか ) く、心様 ( こころざま ) も幽 ( ゆかし ) く振舞へるを、崇拝者は益々懽 ( よろこ ) びて、我等の慕ひ参らする効 ( かひ ) はあるよ、偏 ( ひとへ ) にこの君を奉じて孤忠 ( こちゆう ) を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面 ( つら ) の皮を引剥 ( ひきむ ) かん、と手薬煉 ( てぐすね ) 引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢 ( いきほひ ) はあたかも日月 ( じつげつ ) を並懸 ( ならべか ) けたるやうなり。宮は誰 ( たれ ) と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念 ( けねん ) するところなりけるが、鬮 ( くじ ) の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人 ( みたり ) とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数 ( にんず ) はこの時合併して一 ( いつ ) の大 ( おほい ) なる団欒 ( まどゐ ) に成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合 ( となりあひ ) に坐りければ、夜と昼との一時 ( いちじ ) に来にけんやうに皆狼狽 ( うろたへ ) 騒ぎて、忽 ( たちま ) ちその隣に自ら社会党と称 ( とな ) ふる一組を出 ( いだ ) せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則 ( すなは ) ち彼等は専 ( もつぱ ) ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧 ( あんねい ) とを妨害せんと為るなり。又その前面 ( むかひ ) には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組 ( ろうぜきぐみ ) と称し、右翼を蹂躙隊 ( じゆうりんたい ) と称するも、実は金剛石の鼻柱を挫 ( くじ ) かんと大童 ( おほわらは ) になれるに外 ( ほか ) ならざるなり。果せる哉 ( かな ) 、件 ( くだん ) の組はこの勝負に蓬 ( きたな ) き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白 ( はなしろ ) み、美き人は顔を赧 ( あか ) めて、座にも堪 ( た ) ふべからざるばかりの面皮 ( めんぴ ) を欠 ( かか ) されたり。この一番にて紳士の姿は不知 ( いつか ) 見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌 ( たなぞこ ) の玉を失へる心地 ( ここち ) したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に怖 ( おそれ ) をなして、密 ( ひそか ) に主 ( あるじ ) の居間に逃帰れるなりけり。
鬘 ( かつら ) を被 ( き ) たるやうに梳 ( くしけづ ) りたりし彼の髪は棕櫚箒 ( しゆろぼうき ) の如く乱れて、環 ( かん ) の隻 ( かたかた ) 捥 ( も ) げたる羽織の紐 ( ひも ) は、手長猿 ( てながざる ) の月を捉 ( とら ) へんとする状 ( かたち ) して揺曳 ( ぶらぶら ) と垂 ( さが ) れり。主は見るよりさも慌 ( あわ ) てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
彼はやにはに煙管 ( きせる ) を捨てて、忽 ( ゆるがせ ) にすべからざらんやうに急遽 ( とつかは ) と身を起せり。
「ああ、酷 ( ひど ) い目に遭 ( あ ) つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切 ( たちき ) れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲 ( ぶた ) れた」
手の甲の血を吮 ( す ) ひつつ富山は不快なる面色 ( おももち ) して設 ( まうけ ) の席に着きぬ。予 ( かね ) て用意したれば、海老茶 ( えびちや ) の紋縮緬 ( もんちりめん ) の裀 ( しとね ) の傍 ( かたはら ) に七宝焼 ( しちほうやき ) の小判形 ( こばんがた ) の大手炉 ( おほてあぶり ) を置きて、蒔絵 ( まきゑ ) の吸物膳 ( すひものぜん ) をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢 ( をんな ) を呼び、大急 ( おほいそぎ ) に銚子と料理とを誂 ( あつら ) へて、
「それはどうも飛でもない事を。外 ( ほか ) に何処 ( どこ ) もお怪我 ( けが ) はございませんでしたか」
「そんなに有られて耐 ( たま ) るものかね」
為 ( せ ) う事無さに主も苦笑 ( にがわらひ ) せり。
「唯今 ( ただいま ) 絆創膏 ( ばんそうこう ) を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々 ( わざわざ ) 御招 ( おまねき ) 申しまして甚 ( はなは ) だ恐入りました。もう彼地 ( あつち ) へは御出陣にならんが宜 ( よろし ) うございます。何もございませんがここで何卒 ( どうぞ ) 御寛 ( ごゆる ) り」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
物は言はで打笑 ( うちゑ ) める富山の腮 ( あぎと ) は愈 ( いよいよ ) 展 ( ひろが ) れり。早くもその意を得てや破顔 ( はがん ) せる主 ( あるじ ) の目は、薄 ( すすき ) の切疵 ( きりきず ) の如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意 ( ぎよい ) に召したのが、へえ?」
富山は益 ( ますます ) 笑 ( ゑみ ) を湛 ( ただ ) へたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
「何故 ( なぜ ) な」
「何故も無いものでございます。十目 ( じゆうもく ) の見るところぢやございませんか」
富山は頷 ( うなづ ) きつつ、
「さうだらうね」
「あれは宜 ( よろし ) うございませう」
「一寸 ( ちよいと ) 好いね」
「まづその御意 ( おつもり ) でお熱いところをお一盞 ( ひとつ ) 。不満家 ( むづかしや ) の貴方 ( あなた ) が一寸好いと有仰 ( おつしや ) る位では、余程 ( よつぽど ) 尤物 ( まれもの ) と思はなければなりません。全く寡 ( すくな ) うございます」
倉皇 ( あたふた ) 入来 ( いりきた ) れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方 ( こちら ) にお在 ( いで ) あそばしたのでございますか」
彼は先の程より台所に詰 ( つめ ) きりて、中入 ( なかいり ) の食物の指図 ( さしづ ) などしてゐたるなりき。
「酷 ( ひど ) く負けて迯 ( に ) げて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
例の歪 ( ゆが ) める口を窄 ( すぼ ) めて内儀は空々 ( そらぞら ) しく笑ひしが、忽 ( たちま ) ち彼の羽織の紐 ( ひも ) の偏 ( かたかた ) 断 ( ちぎ ) れたるを見尤 ( みとが ) めて、環 ( かん ) の失せたりと知るより、慌 ( あわ ) て驚きて起たんとせり、如何 ( いか ) にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、宜 ( よろし ) い」
「宜いではございません。純金 ( きん ) では大変でございます」
「なあに、可 ( い ) いと言ふのに」と聞きも訖 ( をは ) らで彼は広間の方 ( かた ) へ出 ( い ) でて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、大 ( たい ) した事はございませんです」
「それはさうだらう。然 ( しか ) し凡 ( およ ) そどんなものかね」
「旧 ( もと ) は農商務省に勤めてをりましたが、唯今 ( ただいま ) では地所や家作 ( かさく ) などで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三 ( しぎさわりゆうぞう ) と申して、直 ( ぢき ) 隣町 ( となりちよう ) に居りまするが、極 ( ごく ) 手堅く小体 ( こてい ) に遣 ( や ) つてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
我 ( われ ) は顔 ( がほ ) に頤 ( おとがひ ) を掻撫 ( かいな ) づれば、例の金剛石 ( ダイアモンド ) は燦然 ( きらり ) と光れり。
「それでも可いさ。然し嫁 ( く ) れやうか、嗣子 ( あととり ) ぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢや窮 ( こま ) るぢやないか」
「私 ( わたくし ) は悉 ( くはし ) い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
程無く内儀は環を捜得 ( さがしえ ) て帰来 ( かへりき ) にけるが、誰 ( た ) が悪戯 ( いたづら ) とも知らで耳掻 ( みみかき ) の如く引展 ( ひきのば ) されたり。主は彼に向ひて宮の家内 ( かない ) の様子を訊 ( たづ ) ねけるに、知れる一遍 ( ひととほり ) は語りけれど、娘は猶能 ( なほよ ) く知るらんを、後 ( のち ) に招きて聴くべしとて、夫婦は頻 ( しきり ) に觴 ( さかづき ) を侑 ( すす ) めけり。
富山唯継の今宵ここに来 ( きた ) りしは、年賀にあらず、骨牌遊 ( かるたあそび ) にあらず、娘の多く聚 ( あつま ) れるを機として、嫁選 ( よめえらみ ) せんとてなり。彼は一昨年 ( をととし ) の冬英吉利 ( イギリス ) より帰朝するや否や、八方に手分 ( てわけ ) して嫁を求めけれども、器量望 ( のぞみ ) の太甚 ( はなはだ ) しければ、二十余件の縁談皆意に称 ( かな ) はで、今日が日までもなほその事に齷齪 ( あくさく ) して已 ( や ) まざるなり。当時取急ぎて普請せし芝 ( しば ) の新宅は、未 ( いま ) だ人の住着かざるに、はや日に黒 ( くろ ) み、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を鳩 ( あつ ) めては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。
骨牌 ( かるた ) の会は十二時に迨 ( およ ) びて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数 ( にんず ) の三分の一強を失ひけれども、猶 ( なほ ) 飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼若 ( もし ) 疾 ( と ) く還 ( かへ ) りたらんには、恐 ( おそら ) く踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。
彼に心を寄せし輩 ( やから ) は皆彼が夜深 ( よふけ ) の帰途 ( かへり ) の程を気遣 ( きづか ) ひて、我願 ( ねがは ) くは何処 ( いづく ) までも送らんと、絶 ( したた ) か念 ( おも ) ひに念ひけれど、彼等の深切 ( しんせつ ) は無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石 ( ダイアモンド ) に亜 ( つ ) いでは彼の挙動の目指 ( めざさ ) れしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事の外 ( ほか ) は人目を牽 ( ひ ) くべき点も無く、彼は多く語らず、又は躁 ( さわ ) がず、始終慎 ( つつまし ) くしてゐたり。終までこの両個 ( ふたり ) の同伴 ( つれ ) なりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々 ( よそよそ ) しさに過ぎたればなり。彼等の打連れて門 ( かど ) を出 ( い ) づるを見て、始めて失望せしもの寡 ( すくな ) からず。
宮は鳩羽鼠 ( はとばねずみ ) の頭巾 ( ずきん ) を被 ( かぶ ) りて、濃浅黄地 ( こいあさぎぢ ) に白く中形 ( ちゆうがた ) 模様ある毛織のシォールを絡 ( まと ) ひ、学生は焦茶の外套 ( オバコオト ) を着たるが、身を窄 ( すぼ ) めて吹来る凩 ( こがらし ) を遣過 ( やりすご ) しつつ、遅れし宮の辿着 ( たどりつ ) くを待ちて言出せり。
「宮 ( みい ) さん、あの金剛石 ( ダイアモンド ) の指環を穿 ( は ) めてゐた奴はどうだい、可厭 ( いや ) に気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれど衆 ( みんな ) があの人を目の敵 ( かたき ) にして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで酷 ( ひど ) い目に遭 ( あは ) されてよ」
「うむ、彼奴 ( あいつ ) が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹 ( よこつぱら ) を二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐 ( へど ) が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は可厭 ( いや ) だわ」
「芬々 ( ぷんぷん ) と香水の匂 ( にほひ ) がして、金剛石 ( ダイアモンド ) の金の指環を穿めて、殿様然たる服装 ( なり ) をして、好 ( い ) いに違無 ( ちがひな ) いさ」
学生は嘲 ( あざ ) むが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組は鬮 ( くじ ) だから為方 ( しかた ) が無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
宮はシォールを揺上 ( ゆりあ ) げて鼻の半 ( なかば ) まで掩隠 ( おほひかく ) しつ。
「ああ寒い!」
男は肩を峙 ( そばだ ) てて直 ( ひた ) と彼に寄添へり。宮は猶 ( なほ ) 黙して歩めり。
「ああ寒い‼」
宮はなほ答へず。
「ああ寒い※〈[#感嘆符三つ、23-5]〉 」
彼はこの時始めて男の方 ( かた ) を見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くて耐 ( たま ) らんからその中へ一処 ( いつしよ ) に入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
「可笑 ( をかし ) い、可厭だわ」
男は逸早 ( いちはや ) く彼の押へしシォールの片端 ( かたはし ) を奪ひて、その中 ( うち ) に身を容 ( い ) れたり。宮 ( みや ) は歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら貫一 ( かんいつ ) さん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面 ( むかふ ) から人が来てよ」
かかる戯 ( たはむれ ) を作 ( な ) して憚 ( はばか ) らず、女も為すままに信 ( まか ) せて咎 ( とが ) めざる彼等の関繋 ( かんけい ) は抑 ( そもそ ) も如何 ( いかに ) 。事情ありて十年来鴫沢に寄寓 ( きぐう ) せるこの間貫一 ( はざまかんいち ) は、此年 ( ことし ) の夏大学に入 ( い ) るを待ちて、宮が妻 ( めあは ) せらるべき人なり。
間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、怙 ( よ ) る所無くて養はるるなり。母は彼の幼 ( いとけな ) かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆 ( なげき ) の中に父を葬るとともに、己 ( おのれ ) が前途の望をさへ葬らざる可 ( べ ) からざる不幸に遭 ( あ ) へり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦 ( くるし ) き痩世帯 ( やせじよたい ) なりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに先 ( さきだ ) ちて食 ( くら ) ふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては葬 ( はうむり ) すべき急、猶 ( なほ ) これに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬ幼 ( をさな ) き者の如何 ( いか ) にしてこれ等の急を救得 ( すくひえ ) しか。固 ( もと ) より貫一が力の能 ( あた ) ふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個 ( ひとつ ) に引承 ( ひきう ) けて万端の世話せしに因 ( よ ) るなり。孤児 ( みなしご ) の父は隆三の恩人にて、彼は聊 ( いささ ) かその旧徳に報ゆるが為に、啻 ( ただ ) にその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着 ( こころづ ) けては貫一の月謝をさへ間 ( まま ) 支弁したり。かくて貧き父を亡 ( うしな ) ひし孤児 ( みなしご ) は富める後見 ( うしろみ ) を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時 ( せいじ ) を以 ( もつ ) て慊 ( あきた ) らず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴 ( あつぱれ ) 人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
亡 ( な ) き人常に言ひけるは、苟 ( いやし ) くも侍の家に生れながら、何の面目 ( めんぼく ) ありて我子貫一をも人に侮 ( あなど ) らすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民 ( しみん ) の上 ( かみ ) に立たしめん。貫一は不断にこの言 ( ことば ) を以 ( も ) て警 ( いまし ) められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以 ( も ) て喞 ( かこ ) たれしなり。彼は言 ( ものい ) ふ遑 ( いとま ) だに無くて暴 ( にはか ) に歿 ( みまか ) りけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰 ( ひそか ) に疎 ( うと ) まるる如き憂目 ( うきめ ) に遭 ( あ ) ふにはあらざりき。憖 ( なまじ ) ひ継子 ( ままこ ) などに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許 ( いかばかり ) か幸 ( さいはひ ) は多からんよ、と知る人は噂 ( うはさ ) し合へり。隆三夫婦は実 ( げ ) に彼を恩人の忘形見として疎 ( おろそか ) ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、漸 ( やうや ) くその心は出 ( い ) で来 ( き ) て、彼の高等中学校に入 ( い ) りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
貫一は篤学のみならず、性質も直 ( すぐ ) に、行 ( おこなひ ) も正 ( ただし ) かりければ、この人物を以つて学士の冠を戴 ( いただ ) かんには、誠に獲易 ( えやす ) からざる婿なるべし、と夫婦は私 ( ひそか ) に喜びたり。この身代 ( しんだい ) を譲られたりとて、他姓 ( たせい ) を冒 ( をか ) して得謂 ( えい ) はれぬ屈辱を忍ばんは、彼の屑 ( いさぎよ ) しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる懽 ( よろこび ) を懐 ( いだ ) きて、益 ( ますます ) 学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半 ( なかば ) には過ぎざらん。彼は自らその色好 ( いろよき ) を知ればなり。世間の女の誰 ( たれ ) か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過 ( すぐ ) るに在り。謂 ( い ) ふ可くんば、宮は己 ( おのれ ) が美しさの幾何 ( いかばかり ) 値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔 ( わづか ) に箇程 ( かほど ) の資産を嗣 ( つ ) ぎ、類多き学士風情 ( ふぜい ) を夫に有たんは、決して彼が所望 ( のぞみ ) の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤 ( びせん ) より出 ( い ) でし例 ( ためし ) 寡 ( すくな ) からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭 ( いと ) ひて、美き妾 ( めかけ ) に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴 ( ふうき ) を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干 ( そくばく ) を見たりしに、その容 ( かたち ) の己 ( おのれ ) に如 ( し ) かざるものの多きを見出 ( みいだ ) せり。剰 ( あまつさ ) へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件 ( ひとつ ) 最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳 ( とし ) に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸 ( ドイツ ) 人は彼の愛らしき袂 ( たもと ) に艶書 ( えんしよ ) を投入れぬ。これ素 ( もと ) より仇 ( あだ ) なる恋にはあらで、女夫 ( めをと ) の契 ( ちぎり ) を望みしなり。殆 ( ほとん ) ど同時に、院長の某 ( なにがし ) は年四十を踰 ( こ ) えたるに、先年その妻を喪 ( うしな ) ひしをもて再び彼を娶 ( めと ) らんとて、密 ( ひそか ) に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
この時彼の小 ( ちひさ ) き胸は破れんとするばかり轟 ( とどろ ) けり。半 ( なかば ) は曾 ( かつ ) て覚えざる可羞 ( はづかしさ ) の為に、半は遽 ( にはか ) に大 ( おほい ) なる希望 ( のぞみ ) の宿りたるが為に。彼はここに始めて己 ( おのれ ) の美しさの寡 ( すくな ) くとも奏任以上の地位ある名流をその夫 ( つま ) に値 ( あた ) ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆 ( かき ) を隣れる男子部 ( だんじぶ ) の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
若 ( もし ) かのプロフェッサアに添はんか、或 ( あるひ ) は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣 ( つ ) ぐの比にはあらざらんをと、一旦抱 ( いだ ) ける希望 ( のぞみ ) は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己 ( おのれ ) を見出 ( みいだ ) して、玉の輿 ( こし ) を舁 ( かか ) せて迎に来 ( きた ) るべき天縁の、必ず廻到 ( めぐりいた ) らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌 ( きら ) へるにはあらず、彼と添はばさすがに楽 ( たのし ) からんとは念 ( おも ) へるなり。如此 ( かくのごと ) く決定 ( さだか ) にそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木 ( ははきぎ ) の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。
漆の如き闇 ( やみ ) の中 ( うち ) に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島 ( むこうじま ) の八百松 ( やおまつ ) に新年会ありとて未 ( いま ) だ還 ( かへ ) らざるなり。
宮は奥より手ラムプを持ちて入来 ( いりき ) にけるが、机の上なる書燈を点 ( とも ) し了 ( をは ) れる時、婢 ( をんな ) は台十能に火を盛りたるを持来 ( もちきた ) れり。宮はこれを火鉢 ( ひばち ) に移して、
「さうして奥のお鉄瓶 ( てつ ) も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方 ( あちら ) は御寝 ( おやすみ ) になるのだから」
久 ( ひさし ) く人気 ( ひとけ ) の絶えたりし一間の寒 ( さむさ ) は、今俄 ( にはか ) に人の温き肉を得たるを喜びて、直 ( ただ ) ちに咬 ( か ) まんとするが如く膚 ( はだへ ) に薄 ( せま ) れり。宮は慌忙 ( あわただし ) く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚 ( しよだな ) に飾れる時計を見たり。
夜の闇 ( くら ) く静なるに、燈 ( ともし ) の光の独 ( ひと ) り美き顔を照したる、限無く艶 ( えん ) なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢 ( こずゑ ) に月のうつろへるが如く、背後 ( うしろ ) の壁に映れる黒き影さへ香滴 ( にほひこぼ ) るるやうなり。
金剛石 ( ダイアモンド ) と光を争ひし目は惜気 ( をしげ ) も無く瞪 ( みは ) りて時計の秒 ( セコンド ) を刻むを打目戍 ( うちまも ) れり。火に翳 ( かざ ) せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬 ( むらさきちりめん ) の半襟 ( はんえり ) に韜 ( つつ ) まれたる彼の胸を想へ。その胸の中 ( うち ) に彼は今如何 ( いか ) なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来 ( かへり ) を待佗 ( まちわ ) ぶるなりけり。
一時 ( ひとしきり ) 又寒 ( さむさ ) の太甚 ( はなはだし ) きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面 ( むかふ ) なる貫一が裀 ( しとね ) の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
若 ( もし ) やと聞着けし車の音は漸 ( やうや ) く近 ( ちかづ ) きて、益 ( ますます ) 轟 ( とどろ ) きて、竟 ( つひ ) に我門 ( わがかど ) に停 ( とどま ) りぬ。宮は疑無 ( うたがひな ) しと思ひて起たんとする時、客はいと酔 ( ゑ ) ひたる声して物言へり。貫一は生下戸 ( きげこ ) なれば嘗 ( かつ ) て酔 ( ゑ ) ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂 ( なんな ) んとす。
門 ( かど ) の戸引啓 ( ひきあ ) けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌 ( ただあわ ) ててラムプを持ちて出 ( い ) でぬ。台所より婢 ( をんな ) も、出合 ( いであ ) へり。
足の踏所 ( ふみど ) も覚束無 ( おぼつかな ) げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾 ( うちかたむ ) き、ハンカチイフに裹 ( つつ ) みたる折を左に挈 ( さ ) げて、山車 ( だし ) 人形のやうに揺々 ( ゆらゆら ) と立てるは貫一なり。面 ( おもて ) は今にも破れぬべく紅 ( くれなゐ ) に熱して、舌の乾 ( かわ ) くに堪 ( た ) へかねて連 ( しきり ) に空唾 ( からつば ) を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産 ( おみやげ ) です。還 ( かへ ) つてこれを細君に遣 ( おく ) る。何ぞ仁 ( じん ) なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了 ( しま ) つた」
「あら、貫一 ( かんいつ ) さん、こんな所に寐 ( ね ) ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
仰様 ( のけさま ) に倒れたる貫一の脚 ( あし ) を掻抱 ( かきいだ ) きて、宮は辛 ( から ) くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽 ( ひ ) いてくれなければ僕には歩けませんよ」
宮は婢 ( をんな ) に燈 ( ともし ) を把 ( と ) らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉 ( よろめ ) きつつ肩に縋 ( すが ) りて遂 ( つひ ) に放さざりければ、宮はその身一つさへ危 ( あやふ ) きに、やうやう扶 ( たす ) けて書斎に入 ( い ) りぬ。
裀 ( しとね ) の上に舁下 ( かきおろ ) されし貫一は頽 ( くづ ) るる体 ( たい ) を机に支へて、打仰 ( うちあふ ) ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷 ( きんる ) の衣 ( ころも ) を惜むなかれ。君に勧む、須 ( すべから ) く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪 ( た ) へなば直 ( ただち ) に折る須 ( べ ) し。花無きを待つて空 ( むなし ) く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮 ( みい ) さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦 ( くるし ) いでせう」
「然矣 ( しかり ) 、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就 ( つ ) いては大 ( おほ ) いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭 ( いや ) よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌 ( きら ) ひの癖に何故 ( なぜ ) そんなに飲んだの。誰に飲 ( のま ) されたの。端山 ( はやま ) さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷 ( ひど ) いわね、こんなに酔 ( よは ) して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮 ( みい ) さん。謝 ( しや ) 、多謝 ( たしや ) ! 若 ( もし ) それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊 ( にぎりし ) めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋 ( しやべ ) る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆 ( みんな ) が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃 ( しゆくはい ) だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口 ( ちよく ) を差されたのだ。祝盃などを受ける覚 ( おぼえ ) は無いと言つて、手を引籠 ( ひつこ ) めてゐたけれど、なかなか衆 ( みんな ) 聴かないぢやないか」
宮は窃 ( ひそか ) に笑 ( ゑみ ) を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初 ( かりそめ ) にもああ云ふ美人と一所 ( いつしよ ) に居て寝食を倶 ( とも ) にすると云ふのが既に可羨 ( うらやまし ) い。そこを祝すのだ。次には、君も男児 ( をとこ ) なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪 ( と ) られるやうな事があつたら、独 ( ひと ) り間貫一一 ( いつ ) 個人の恥辱ばかりではない、我々朋友 ( ほうゆう ) 全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延 ( ひ ) いて高等中学の名折 ( なをれ ) にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一 ( いつ ) にして結 ( むすぶ ) の神に祷 ( いの ) つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却 ( かへ ) つて神罰が有ると、弄謔 ( からかひ ) とは知れてゐるけれど、言草 ( いひぐさ ) が面白かつたから、片端 ( かたつぱし ) から引受けて呷々 ( ぐひぐひ ) 遣付 ( やつつ ) けた。
宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分宜 ( よろし ) く願ひます」
「可厭 ( いや ) よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥 ( いよい ) よ僕の男が立たない義 ( わけ ) だ」
「もう極 ( きま ) つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃翁 ( をぢ ) さんや姨 ( をば ) さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決 ( け ) して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡 ( りようけん ) はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余 ( あんま ) りだわ」
貫一は酔 ( ゑひ ) を支へかねて宮が膝 ( ひざ ) を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬 ( ほほ ) に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又寐 ( ね ) ちや……貫一さん、貫一さん」
寔 ( まこと ) に愛の潔 ( いさぎよ ) き哉 ( かな ) 、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望 ( のぞみ ) は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾 ( あつ ) めて、富も貴きも、乃至 ( ないし ) 有 ( あら ) ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶 ( とろか ) されて、彼は唯妙 ( ただたへ ) に香 ( かうばし ) き甘露 ( かんろ ) の夢に酔 ( ゑ ) ひて前後をも知らざるなりけり。
諸 ( もろもろ ) の可忌 ( いまはし ) き妄想 ( もうぞう ) はこの夜の如く眼 ( まなこ ) を閉ぢて、この一間 ( ひとま ) に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明 ( あきらか ) なる燈火 ( ともしび ) の光の如きものありて、特 ( こと ) に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。
或日箕輪 ( みのわ ) の内儀は思も懸けず訪来 ( とひきた ) りぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩 ( ほうばい ) にて常に往来 ( ゆきき ) したりけれども、未 ( いま ) だ家 ( うち ) と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に識 ( し ) らで過ぎたりしに、今は二人の往来 ( おうらい ) も漸 ( やうや ) く踈 ( うと ) くなりけるに及びて、俄 ( にはか ) にその母の来 ( きた ) れるは、如何 ( いか ) なる故 ( ゆゑ ) にか、と宮も両親 ( ふたおや ) も怪 ( あやし ) き事に念 ( おも ) へり。
凡 ( およ ) そ三時間の後彼は帰行 ( かへりゆ ) きぬ。
先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸 ( おもひが ) けざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの珍 ( めづらし ) き客来 ( きやくらい ) のありしを知らず、宮もまた敢 ( あへ ) て告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は少 ( すこし ) く食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為 ( せ ) ざりき。この間に両親 ( ふたおや ) は幾度 ( いくたび ) と無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る因 ( よし ) もあらねど、片時 ( へんじ ) もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出 ( みいだ ) さんは難 ( かた ) き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の遽 ( にはか ) に光を失ひたるやうにて、振舞 ( ふるまひ ) など別 ( わ ) けて力無く、笑ふさへいと打湿 ( うちしめ ) りたるを。
宮が居間と謂 ( い ) ふまでにはあらねど、彼の箪笥 ( たんす ) 手道具等 ( など ) 置きたる小座敷あり。ここには火燵 ( こたつ ) の炉を切りて、用無き人の来ては迭 ( かたみ ) に冬籠 ( ふゆごもり ) する所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。倦 ( う ) めば琴 ( こと ) をも弾 ( ひ ) くなり。彼が手玩 ( てすさみ ) と見ゆる狗子柳 ( いのこやなぎ ) のはや根を弛 ( ゆる ) み、真 ( しん ) の打傾きたるが、鮟鱇切 ( あんこうぎり ) の水に埃 ( ほこり ) を浮べて小机の傍 ( かたへ ) に在り。庭に向へる肱懸窓 ( ひぢかけまど ) の明 ( あかる ) きに敷紙 ( しきがみ ) を披 ( ひろ ) げて、宮は膝 ( ひざ ) の上に紅絹 ( もみ ) の引解 ( ひきとき ) を載せたれど、針は持たで、懶 ( ものう ) げに火燵に靠 ( もた ) れたり。
彼は少 ( すこし ) く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入 ( い ) りて、深く物思ふなりけり。両親 ( ふたおや ) は仔細 ( しさい ) を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為 ( な ) すままに委 ( まか ) せたり。
この日貫一は授業始 ( はじめ ) の式のみにて早く帰来 ( かへりき ) にけるが、下 ( した ) 座敷には誰 ( たれ ) も見えで、火燵 ( こたつ ) の間に宮の咳 ( しはぶ ) く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄 ( うかがひよ ) りぬ。襖 ( ふすま ) の僅 ( わづか ) に啓 ( あ ) きたる隙 ( ひま ) より差覗 ( さしのぞ ) けば、宮は火燵に倚 ( よ ) りて硝子 ( ガラス ) 障子を眺 ( なが ) めては俯目 ( ふしめ ) になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐 ( ためいきつ ) きて、忽 ( たちま ) ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠 ( みは ) るは、何をか思凝 ( おもひこら ) すなるべし。人の窺 ( うかが ) ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶 ( くもん ) をその状 ( かたち ) に顕 ( あらは ) して憚 ( はばか ) らざるなり。
貫一は異 ( あやし ) みつつも息を潜めて、猶 ( なほ ) 彼の為 ( せ ) んやうを見んとしたり。宮は少時 ( しばし ) ありて火燵に入りけるが、遂 ( つひ ) に櫓 ( やぐら ) に打俯 ( うちふ ) しぬ。
柱に身を倚せて、斜 ( ななめ ) に内を窺ひつつ貫一は眉 ( まゆ ) を顰 ( ひそ ) めて思惑 ( おもひまど ) へり。
彼は如何 ( いか ) なる事ありてさばかり案じ煩 ( わづら ) ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故 ( ゆゑ ) のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
かく又案じ煩へる彼の面 ( おもて ) も自 ( おのづか ) ら俯 ( うつむ ) きぬ。問はずして知るべきにあらずと思定 ( おもひさだ ) めて、再び内を差覗 ( さしのぞ ) きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時 ( いつ ) か落ちけむ、蒔絵 ( まきゑ ) の櫛 ( くし ) の零 ( こぼ ) れたるも知らで。
人の気勢 ( けはひ ) に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍 ( かたはら ) に在り。彼は慌 ( あわ ) てて思頽 ( おもひくづを ) るる気色 ( けしき ) を蔽 ( おほ ) はんとしたるが如し。
「ああ、吃驚 ( びつくら ) した。何時 ( いつ ) 御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。些 ( ちつと ) も知らなかつた」
宮はおのれの顔の頻 ( しきり ) に眺めらるるを眩 ( まば ) ゆがりて、
「何をそんなに視 ( み ) るの、可厭 ( いや ) 、私は」
されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背 ( うちそむ ) きて、裁片畳 ( きれたたふ ) の内を撈 ( かきさが ) せり。
「宮 ( みい ) さん、お前さんどうしたの。ええ、何処 ( どこ ) か不快 ( わるい ) のかい」
「何ともないのよ。何故 ( なぜ ) ?」
かく言ひつつ益 ( ますます ) 急に撈 ( かきさが ) せり。貫一は帽を冠 ( かぶ ) りたるまま火燵に片肱掛 ( かたひぢか ) けて、斜 ( ななめ ) に彼の顔を見遣 ( みや ) りつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直 ( ぢき ) に疑深 ( うたぐりぶか ) いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然 ( ぼんやり ) 考へたり、太息 ( ためいき ) を吐 ( つ ) いたりして鬱 ( ふさ ) いでゐるものか。僕は先之 ( さつき ) から唐紙 ( からかみ ) の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞 ( きか ) したつて可いぢやないか」
宮は言ふところを知らず、纔 ( わづか ) に膝の上なる紅絹 ( もみ ) を手弄 ( てまさぐ ) るのみ。
「病気なのかい」
彼は僅 ( わづか ) に頭 ( かしら ) を掉 ( ふ ) りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
宮は唯胸の中 ( うち ) を車輪 ( くるま ) などの廻 ( めぐ ) るやうに覚ゆるのみにて、誠にも詐 ( いつはり ) にも言 ( ことば ) を出 ( いだ ) すべき術 ( すべ ) を知らざりき。彼は犯せる罪の終 ( つひ ) に秘 ( つつ ) む能 ( あた ) はざるを悟れる如き恐怖 ( おそれ ) の為に心慄 ( こころをのの ) けるなり。如何 ( いか ) に答へんとさへ惑へるに、傍 ( かたはら ) には貫一の益詰 ( なじ ) らんと待つよと思へば、身は搾 ( しぼ ) らるるやうに迫来 ( せまりく ) る息の隙 ( ひま ) を、得も謂 ( い ) はれず冷 ( ひやや ) かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
貫一の声音 ( こわね ) は漸 ( やうや ) く苛立 ( いらだ ) ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚 ( そぞろ ) に言出 ( いひいだ ) せり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
呆 ( あき ) れたる貫一は瞬 ( またたき ) もせで耳を傾 ( かたぶ ) けぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時 ( いつ ) 死んで了 ( しま ) ふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽 ( たのしみ ) な事もある代 ( かはり ) に辛 ( つら ) い事や、悲い事や、苦 ( くるし ) い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図 ( ふつと ) さう思出 ( おもひだ ) したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭 ( いや ) な心地 ( こころもち ) になつて、自分でもどうか為 ( し ) たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
目を閉ぢて聴 ( きき ) ゐし貫一は徐 ( しづか ) に眶 ( まぶた ) を開くとともに眉 ( まゆ ) を顰 ( ひそ ) めて、
「それは病気だ!」
宮は打萎 ( うちしを ) れて頭 ( かしら ) を垂れぬ。
「然 ( しか ) し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
異 ( あやし ) く沈みたるその声の寂しさを、如何 ( いか ) に貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為 ( せゐ ) だ、脳でも不良 ( わるい ) のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固 ( もと ) より世の中と云ふものはさう面白い義 ( わけ ) のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆 ( みんな ) が皆 ( みんな ) そんな了簡 ( りようけん ) を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了 ( しま ) ふ。儚 ( はかな ) いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切 ( せめ ) ては楽 ( たのしみ ) を求めやうとして、究竟 ( つまり ) 我々が働いてゐるのだ。考へて鬱 ( ふさ ) いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分 ( いくら ) か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽 ( たのしみ ) が無ければならない。一事 ( ひとつ ) かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮 ( みい ) さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸 ( ひそか ) に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
彼は笑 ( ゑみ ) を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
宮の肩頭 ( かたさき ) を捉 ( と ) りて貫一は此方 ( こなた ) に引向けんとすれば、為 ( な ) すままに彼は緩 ( ゆる ) く身を廻 ( めぐら ) したれど、顔のみは可羞 ( はぢがまし ) く背 ( そむ ) けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
肩に懸けたる手をば放さで連 ( しきり ) に揺 ( ゆすら ) るるを、宮は銕 ( くろがね ) の槌 ( つち ) もて撃懲 ( うちこら ) さるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷 ( ひややか ) なる汗は又一時 ( ひとしきり ) 流出 ( ながれい ) でぬ。
「これは怪 ( け ) しからん!」
宮は危 ( あやぶ ) みつつ彼の顔色を候 ( うかが ) ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面 ( おもて ) は和 ( やはら ) ぎて一点の怒気だにあらず、寧 ( むし ) ろ唇頭 ( くちもと ) には笑を包めるなり。
「僕などは一件 ( ひとつ ) 大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐 ( たま ) らんの。一日が経 ( た ) つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵 ( こしら ) へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若 ( も ) しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死 ( しようし ) を倶 ( とも ) にするのだ。宮 ( みい ) さん、可羨 ( うらやまし ) いだらう」
宮は忽 ( たちま ) ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪 ( た ) へかねて打顫 ( うちふる ) ひしが、この心の中を覚 ( さと ) られじと思へば、弱る力を励して、
「可羨 ( うらやまし ) いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「何卒 ( どうぞ ) 」
「ええ悉皆 ( みんな ) 遣 ( や ) つて了 ( しま ) へ!」
彼は外套 ( オバコオト ) の衣兜 ( かくし ) より一袋のボンボンを取出 ( とりいだ ) して火燵 ( こたつ ) の上に置けば、余力 ( はずみ ) に袋の口は弛 ( ゆる ) みて、紅白の玉は珊々 ( さらさら ) と乱出 ( みだれい ) でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。
その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶 ( いちびん ) の水薬 ( すいやく ) を与へられぬ。貫一は信 ( まこと ) に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩 ( おうのう ) として憂 ( うき ) に堪 ( た ) へざらんやうなる彼の容体 ( ようたい ) に幾許 ( いくばく ) の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋 ( あひこく ) する苦痛は、益 ( ますます ) 募りて止 ( やま ) ざるなり。
貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪 ( あやし ) むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼 ( おそ ) れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面 ( おもて ) を合すれば冷汗 ( ひやあせ ) も出づべき恐怖 ( おそれ ) を生ずるなり。彼の情有 ( なさけあ ) る言 ( ことば ) を聞けば、身をも斫 ( き ) らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根 ( こころね ) を見ることを恐れたり。宮が心地勝 ( すぐ ) れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生 ( へいぜい ) に一層を加へたれば、彼は死を覓 ( もと ) むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪 ( た ) ふべからざる限に至りぬ。
遂 ( つひ ) に彼はこの苦 ( くるしみ ) を両親に訴へしにやあらん、一日 ( あるひ ) 母と娘とは遽 ( にはか ) に身支度して、忙々 ( いそがはし ) く車に乗りて出でぬ。彼等は小 ( ちひさ ) からぬ一個 ( ひとつ ) の旅鞄 ( たびかばん ) を携へたり。
大風 ( おほかぜ ) の凪 ( な ) ぎたる迹 ( あと ) に孤屋 ( ひとつや ) の立てるが如く、侘 ( わび ) しげに留守せる主 ( あるじ ) の隆三は独 ( ひと ) り碁盤に向ひて碁経 ( きけい ) を披 ( ひら ) きゐたり。齢 ( よはひ ) はなほ六十に遠けれど、頭 ( かしら ) は夥 ( おびただし ) き白髪 ( しらが ) にて、長く生ひたる髯 ( ひげ ) なども六分は白く、容 ( かたち ) は痩 ( や ) せたれど未 ( いま ) だ老の衰 ( おとろへ ) も見えず、眉目温厚 ( びもくおんこう ) にして頗 ( すこぶ ) る古井 ( こせい ) 波無きの風あり。
やがて帰来 ( かへりき ) にける貫一は二人の在らざるを怪みて主 ( あるじ ) に訊 ( たづ ) ねぬ。彼は徐 ( しづか ) に長き髯を撫 ( な ) でて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日 ( きのふ ) 医者が湯治が良いと言うて切 ( しきり ) に勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着 ( おもひつき ) で、脚下 ( あしもと ) から鳥の起 ( た ) つやうな騒をして、十二時三十分の滊車 ( きしや ) で。ああ、独 ( ひとり ) で寂いところ、まあ茶でも淹 ( い ) れやう」
貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、私 ( わし ) もそんな塩梅 ( あんばい ) で」
「然 ( しか ) し、湯治は良いでございませう。幾日 ( いくか ) ほど逗留 ( とうりゆう ) のお心算 ( つもり ) で?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、些 ( ほん ) の着のままで出掛けたのだが、なあに直 ( ぢき ) に飽きて了 ( しま ) うて、四五日も居られるものか、出 ( で ) 養生より内 ( うち ) 養生の方が楽だ。何か旨 ( うま ) い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
貫一は着更 ( きか ) へんとて書斎に還りぬ。宮の遺 ( のこ ) したる筆の蹟 ( あと ) などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便 ( たより ) あらんと思飜 ( おもひかへ ) せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来 ( かへりきた ) れるは、心の痩 ( や ) するばかり美き俤 ( おもかげ ) に饑 ( う ) ゑて帰来れるなり。彼は空 ( むなし ) く饑ゑたる心を抱 ( いだ ) きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許 ( いくら ) 急いで出掛けたつて、何とか一言 ( ひとこと ) ぐらゐ言遺 ( いひお ) いて行 ( い ) きさうなものぢやないか。一寸 ( ちよつと ) 其処 ( そこ ) へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始 ( はじめ ) に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日 ( あした ) 行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別 ( わかれ ) には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
女と云ふ者は一体男よりは情が濃 ( こまやか ) であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈 ( まさか ) にあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々 ( ばんばん ) そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂 ( いはゆる ) 『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為 ( せゐ ) か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向 ( かたむき ) は有 ( も ) つてゐたけれど、今のやうに太甚 ( はなはだし ) くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更 ( なほさら ) でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆 ( ほとん ) ど……殆どではない、全くだ、全く溺 ( おぼ ) れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤 ( あつ ) くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分酷 ( ひど ) い話だ。これが互に愛してゐる間 ( なか ) の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為 ( さ ) れると実に憎い。
小説的かも知れんけれど、八犬伝 ( はつけんでん ) の浜路 ( はまじ ) だ、信乃 ( しの ) が明朝 ( あした ) は立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更 ( よふけ ) に逢 ( あ ) ひに来る、あの情合 ( じやうあひ ) でなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処 ( そこ ) の娘と許嫁 ( いひなづけ ) ……似てゐる、似てゐる。
然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉 ( もま ) して、余り憎いな、そでない為方 ( しかた ) だ。これから手紙を書いて思ふさま言つて遣 ( や ) らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀 ( かあい ) さうだ。
自分は又神経質に過るから、思過 ( おもひすごし ) を為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過 ( おもひすごし ) であるか、あの人が情 ( じよう ) が薄いのかは一件 ( ひとつ ) の疑問だ。
時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少 ( いくら ) か自分を侮 ( あなど ) つてゐるのではあるまいか。自分は此家 ( ここ ) の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで自 ( おのづか ) ら主 ( しゆう ) と家来と云ふやうな考が始終有つて、……否 ( いや ) 、それもあの人に能 ( よ ) く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太 ( ひど ) く慍 ( おこ ) られるのだ、一番それを慍るよ。勿論 ( もちろん ) そんな様子の些少 ( すこし ) でも見えた事は無い。自分の僻見 ( ひがみ ) に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、若 ( もし ) もあの人の心にそんな根性が爪の垢 ( あか ) ほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘 ( とりこ ) とはなつても、未 ( ま ) だ奴隷になる気は無い。或 ( あるひ ) はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死 ( こがれじに ) に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措 ( お ) くものか。
それは自分の僻見 ( ひがみ ) で、あの人に限つてはそんな心は微塵 ( みじん ) も無いのだ。その点は自分も能 ( よ ) く知つてゐる。けれども情が濃 ( こまやか ) でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊 ( うちこは ) すほどに熱しないのか。或 ( あるひ ) は熱し能 ( あた ) はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
彼は意 ( こころ ) に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ曾 ( かつ ) て解釈し得ざるなりけり。今日はや如何 ( いか ) に解釈せんとすらん。
翌日果して熱海より便 ( たより ) はありけれど、僅 ( わづか ) に一枚の端書 ( はがき ) をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟 ( しゆせき ) なり。貫一は読了 ( よみをは ) ると斉 ( ひと ) しく片々 ( きれきれ ) に引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何 ( いか ) にとも言解くなるべし。彼の親 ( したし ) く言解 ( いひと ) かば、如何に打腹立 ( うちはらだ ) ちたりとも貫一の心の釈 ( と ) けざることはあらじ。宮の前には常に彼は慍 ( いかり ) をも、恨をも、憂 ( うれひ ) をも忘るるなり。今は可懐 ( なつかし ) き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭 ( あ ) ひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の慍 ( いかり ) は野火の飽くこと知らで燎 ( や ) くやうなり。
この夕 ( ゆふべ ) 隆三は彼に食後の茶を薦 ( すす ) めぬ。一人佗 ( わび ) しければ留 ( とど ) めて物語 ( ものがたら ) はんとてなるべし。されども貫一の屈托顔 ( くつたくがほ ) して絶えず思の非 ( あら ) ぬ方 ( かた ) に馳 ( は ) する気色 ( けしき ) なるを、
「お前どうぞ為 ( し ) なすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。劇 ( ひど ) く痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜 ( よろし ) いのでございます」
「それぢや茶は可 ( い ) くまい」
「頂戴 ( ちようだい ) します」
かかる浅ましき慍 ( いかり ) を人に移さんは、甚 ( はなは ) だ謂無 ( いはれな ) き事なり、と自ら制して、書斎に帰りて憖 ( なまじ ) ひ心を傷めんより、人に対して姑 ( しばら ) く憂 ( うさ ) を忘るるに如 ( し ) かじと思ひければ、彼は努めて寛 ( くつろ ) がんとしたれども、動 ( やや ) もすれば心は空 ( そら ) になりて、主 ( あるじ ) の語 ( ことば ) を聞逸 ( ききそら ) さむとす。
今日文 ( ふみ ) の来て細々 ( こまごま ) と優き事など書聯 ( かきつら ) ねたらば、如何 ( いか ) に我は嬉 ( うれし ) からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易 ( か ) へて、その楽 ( たのしみ ) は深かるべきを。さては出行 ( いでゆ ) きし恨も忘られて、二夜三夜 ( ふたよみよ ) は遠 ( とほざ ) かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
彼はその身の卒 ( にはか ) に出行 ( いでゆ ) きしを、如何 ( いか ) に本意無 ( ほいな ) く我の思ふらんかは能 ( よ ) く知るべきに。それを知らば一筆 ( ひとふで ) 書きて、など我を慰めんとは為 ( せ ) ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐 ( いと ) しと思へる人の何故 ( なにゆゑ ) にさは為 ( せ ) ざるにやあらん。かくまでに情篤 ( なさけあつ ) からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽 ( たちま ) ちその事を忘るべき吾 ( われ ) に復 ( かへ ) れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
笑ふにもあらず、顰 ( ひそ ) むにもあらず、稍 ( やや ) 自ら嘲 ( あざ ) むに似たる隆三の顔は、燈火 ( ともしび ) に照されて、常には見ざる異 ( あやし ) き相を顕 ( あらは ) せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
彼は長き髯 ( ひげ ) を忙 ( せはし ) く揉 ( も ) みては、又頤 ( おとがひ ) の辺 ( あたり ) より徐 ( しづか ) に撫下 ( なでおろ ) して、先 ( まづ ) 打出 ( うちいだ ) さん語 ( ことば ) を案じたり。
「お前の一身上の事に就 ( つ ) いてだがの」
纔 ( わづか ) にかく言ひしのみにて、彼は又遅 ( ためら ) ひぬ、その髯 ( ひげ ) は虻 ( あぶ ) に苦しむ馬の尾のやうに揮 ( ふる ) はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
貫一は遽 ( にはか ) に敬はるる心地して自 ( おのづ ) と膝 ( ひざ ) を正せり。
「で、私 ( わし ) もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様 ( おとつさん ) に対して恩返 ( おんがへし ) も出来たやうな訳、就いてはお前も益 ( ますます ) 勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為 ( さ ) せて、指折の人物に為 ( し ) たいと考へてゐるくらゐ、未 ( ま ) だ未だこれから両肌 ( りようはだ ) を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
これを聞 ( き ) ける貫一は鉄繩 ( てつじよう ) をもて縛 ( いまし ) められたるやうに、身の重きに堪 ( た ) へず、心の転 ( うた ) た苦 ( くるし ) きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中 ( うち ) に在りてその中に在ることを忘れんと為る平生 ( へいぜい ) を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父 ( おやぢ ) がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措 ( お ) きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念 ( おも ) つてをります。愚父の亡 ( なくな ) りましたあの時に、此方 ( こちら ) で引取つて戴 ( いただ ) かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸 ( さいはひ ) なものは恐 ( おそら ) く無いでございませう」
彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己 ( おのれ ) を見て、その着たる衣 ( きぬ ) を見て、その坐れる裀 ( しとね ) を見て、やがて美き宮と共にこの家の主 ( ぬし ) となるべきその身を思ひて、漫 ( そぞろ ) に涙を催せり。実 ( げ ) に七千円の粧奩 ( そうれん ) を随へて、百万金も購 ( あがな ) ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば私 ( わし ) も張合がある。就いては改めてお前に頼 ( たのみ ) があるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
彼はかく潔く答ふるに憚 ( はばか ) らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言 ( ことば ) を出 ( いだ ) す時は、多く能 ( あた ) はざる事を強 ( し ) ふる例 ( ためし ) なればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣 ( や ) らうかと思つて」
見るに堪 ( た ) へざる貫一の驚愕 ( おどろき ) をば、せめて乱さんと彼は慌忙 ( あわただし ) く語 ( ことば ) を次ぎぬ。
「これに就いては私も種々 ( いろいろ ) と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了 ( しま ) うての、お前はも少 ( すこ ) しの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴 ( エウロッパ ) へ留学して、全然 ( すつかり ) 仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
汝 ( なんぢ ) の命を与へよと逼 ( せま ) らるる事あらば、その時の人の思は如何 ( いか ) なるべき! 可恐 ( おそろし ) きまでに色を失へる貫一は空 ( むなし ) く隆三の面 ( おもて ) を打目戍 ( うちまも ) るのみ。彼は太 ( いた ) く困 ( こう ) じたる体 ( てい ) にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換 ( へんがへ ) を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
待てども貫一の言 ( ことば ) を出 ( いだ ) さざれば、主 ( あるじ ) は寡 ( すくな ) からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家 ( うち ) とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大 ( たい ) した事は無いがこの家は全然 ( そつくり ) お前に譲るのだ、お前は矢張 ( やはり ) 私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
約束をした宮をの、余所 ( よそ ) へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処 ( そこ ) はお前が能 ( よ ) く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴 ( あつぱれ ) の人物に成るのが第一の希望 ( のぞみ ) であらう。その志を遂 ( と ) げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然 ( しか ) しこれは理窟 ( りくつ ) で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼 ( たのみ ) が有ると言うたのはこの事だ。
従来 ( これまで ) もお前を世話した、後来 ( これから ) も益世話をせうからなう、其処 ( そこ ) に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
貫一は戦 ( をのの ) く唇 ( くちびる ) を咬緊 ( くひし ) めつつ、故 ( ことさ ) ら緩舒 ( ゆるやか ) に出 ( いだ ) せる声音 ( こわね ) は、怪 ( あやし ) くも常に変れり。
「それぢや翁様 ( をぢさん ) の御都合で、どうしても宮 ( みい ) さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断 ( た ) つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着 ( とんちやく ) は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
得言はぬ貫一が胸には、理 ( ことわり ) に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰 ( なじ ) るべき事、罵 ( ののし ) るべき、言破るべき事、辱 ( はぢし ) むべき事の数々は沸 ( わ ) くが如く充満 ( みちみ ) ちたれど、彼は神にも勝 ( まさ ) れる恩人なり。理非を問はずその言 ( ことば ) には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬 ( か ) みても、敢 ( あへ ) て言はじと覚悟せるなり。
彼は又思へり。恩人は恩を枷 ( かせ ) に如此 ( かくのごと ) く逼 ( せま ) れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何 ( いか ) なる斧 ( をの ) を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情 ( なさけ ) は我が思ふままに濃 ( こまやか ) ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心也 ( なり ) と、彼は可憐 ( いとし ) き宮を思ひて、その父に対する慍 ( いかり ) を和 ( やはら ) げんと勉 ( つと ) めたり。
我は常に宮が情 ( なさけ ) の濃 ( こまやか ) ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節 ( ばんこんさくせつ ) に遇 ( あ ) はずんば。
「嫁に遣ると有仰 ( おつしや ) るのは、何方 ( どちら ) へ御遣 ( おつかは ) しになるのですか」
「それは未 ( ま ) だ確 ( しか ) とは極 ( きま ) らんがの、下谷 ( したや ) に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
それぞ箕輪の骨牌会 ( かるたかい ) に三百円の金剛石 ( ダイアモンド ) を炫 ( ひけら ) かせし男にあらずやと、貫一は陰 ( ひそか ) に嘲笑 ( あざわら ) へり。されど又余りにその人の意外なるに駭 ( おどろ ) きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟 ( いやし ) くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰 ( たれ ) かは恋ひざらん。独 ( ひと ) り怪しとも怪きは隆三の意 ( こころ ) なる哉 ( かな ) 。我 ( わが ) 十年の約は軽々 ( かろがろし ) く破るべきにあらず、猶 ( なほ ) 謂無 ( いはれな ) きは、一人娘を出 ( いだ ) して嫁 ( か ) せしめんとするなり。戯 ( たはむ ) るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧 ( むし ) ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇 ( ちか ) かるべしと信じたりき。
彼は競争者の金剛石 ( ダイアモンド ) なるを聞きて、一度 ( ひとたび ) は汚 ( けが ) され、辱 ( はづかし ) められたらんやうにも怒 ( いかり ) を作 ( な ) せしかど、既に勝負は分明 ( ぶんめい ) にして、我は手を束 ( つか ) ねてこの弱敵の自ら僵 ( たふ ) るるを看 ( み ) んと思へば、心稍 ( やや ) 落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
この一言に隆三の面 ( おもて ) は熱くなりぬ。
「これに就いては私 ( わし ) も大きに考へたのだ、何 ( なに ) に為 ( し ) ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然 ( しか ) し、お前の後来 ( こうらい ) に就 ( つ ) いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若 ( わか ) しと云ふもので、ここに可頼 ( たのもし ) い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧 ( はづかし ) からん家格 ( いへがら ) だ。気の毒な思をしてお前との約束を変易 ( へんがへ ) するのも、私たちが一人娘を他 ( よそ ) へ遣つて了ふのも、究竟 ( つまり ) は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
それに、富山からは切 ( た ) つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家 ( いつけ ) のつもりで、決して鴫沢家を疎 ( おろそか ) には為 ( せ ) まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
決して慾ではないが、良 ( い ) い親類を持つと云ふものは、人で謂 ( い ) へば取 ( とり ) も直 ( なほ ) さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家 ( いつか ) の友達だ。
お前がこれから世の中に出るにしても、大相 ( たいそう ) な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰 ( たれ ) の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私 ( わし ) も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
私の了簡 ( りようけん ) はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効 ( としがひ ) も無く事を好んで、何為 ( なにし ) に若いものの不為 ( ふため ) になれと思ふものかな。お前も能 ( よ ) く其処 ( そこ ) を考へて見てくれ。
私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直 ( すぐ ) に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番 ( ひとつ ) 奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少 ( すこ ) しのところを辛抱して、いつその事博士 ( はかせ ) になつて喜ばしてくれんか」
彼はさも思ひのままに説完 ( ときおほ ) せたる面色 ( おももち ) して、寛 ( ゆたか ) に髯 ( ひげ ) を撫 ( な ) でてゐたり。
貫一は彼の説進むに従ひて、漸 ( やうや ) くその心事の火を覩 ( み ) るより明 ( あきらか ) なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄 ( ろう ) して倦 ( う ) まざるは、畢竟 ( ひつきよう ) 利の一字を掩 ( おほ ) はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢 ( けが ) れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或 ( あるひ ) は穢れたる念を起し、或は穢れたる行 ( おこなひ ) を為 ( な ) すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈 ( あに ) 穢れたるの最も大なる者ならずや。
世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独 ( ひと ) り汚 ( けがれ ) に染 ( そ ) みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子 ( みなしご ) を養へる志は、これを証して余 ( あまり ) あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷 ( むご ) くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯 ( ただ ) 一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐 ( いとし ) き宮が事を思へるなり。
我の愛か、死をもて脅 ( おびやか ) すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某 ( なにがし ) の帝 ( みかど ) の冠 ( かむり ) を飾れると聞く世界無双 ( ぶそう ) の大金剛石 ( だいこんごうせき ) をもて購 ( あがな ) はんとすとも、争 ( いか ) でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥 ( おでい ) の中 ( うち ) に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱 ( いだ ) きて、この世の渾 ( すべ ) て穢れたるを忘れん。
貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨 ( うらめ ) しとは思ひつつも、枉 ( ま ) げてさあらぬ体 ( てい ) に聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は宮 ( みい ) さんも知つてゐるのですか」
「薄々 ( うすうす ) は知つてゐる」
「では未 ( ま ) だ宮 ( みい ) さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸 ( ちよつと ) 聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様 ( おとつさん ) や御母様 ( おつかさん ) の宜 ( よろし ) いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸 ( やうや ) く得心がいつたのだ」
断じて詐 ( いつはり ) なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳 ( をど ) りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私 ( わし ) の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉 ( くはし ) い事は何 ( いづ ) れ又寛緩 ( ゆつくり ) 話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々 ( いろいろ ) 考へて置くが可 ( い ) いの」
「はい」
熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸 ( やうや ) く一月の半 ( なかば ) を過ぎぬるに、梅林 ( ばいりん ) の花は二千本の梢 ( こずゑ ) に咲乱れて、日に映 ( うつろ ) へる光は玲瓏 ( れいろう ) として人の面 ( おもて ) を照し、路 ( みち ) を埋 ( うづ ) むる幾斗 ( いくと ) の清香 ( せいこう ) は凝 ( こ ) りて掬 ( むす ) ぶに堪 ( た ) へたり。梅の外 ( ほか ) には一木 ( いちぼく ) 無く、処々 ( ところどころ ) の乱石の低く横 ( よこた ) はるのみにて、地は坦 ( たひらか ) に氈 ( せん ) を鋪 ( し ) きたるやうの芝生 ( しばふ ) の園の中 ( うち ) を、玉の砕けて迸 ( ほとばし ) り、練 ( ねりぎぬ ) の裂けて飜 ( ひるがへ ) る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗 ( うららか ) に霽 ( は ) れたる空を攅 ( さ ) してその頂 ( いただき ) に方 ( あた ) りて懶 ( ものう ) げに懸 ( かか ) れる雲は眠 ( ねむ ) るに似たり。習 ( そよ ) との風もあらぬに花は頻 ( しきり ) に散りぬ。散る時に軽 ( かろ ) く舞ふを鶯 ( うぐひす ) は争ひて歌へり。
宮は母親と連立ちて入来 ( いりきた ) りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几 ( しようぎ ) を据ゑたる木 ( こ ) の下 ( もと ) を指して緩 ( ゆる ) く歩めり。彼の病は未 ( いま ) だ快からぬにや、薄仮粧 ( うすげしやう ) したる顔色も散りたる葩 ( はなびら ) のやうに衰へて、足の運 ( はこび ) も怠 ( たゆ ) げに、動 ( とも ) すれば頭 ( かしら ) の低 ( た ) るるを、思出 ( おもひいだ ) しては努めて梢を眺 ( なが ) むるなりけり。彼の常として物案 ( ものあんじ ) すれば必ず唇 ( くちびる ) を咬 ( か ) むなり。彼は今頻 ( しきり ) に唇を咬みたりしが、
「御母 ( おつか ) さん、どうしませうねえ」
いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転 ( うつ ) りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発 ( はじめ ) にお前が適 ( い ) きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一 ( かんいつ ) さんの事が気になつて。御父 ( おとつ ) さんはもう貫一さんに話を為 ( な ) すつたらうか、ねえ御母 ( おつか ) さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若 ( も ) し適 ( ゆ ) くのなら、もう逢 ( あ ) はずに直 ( ずつ ) と行つて了 ( しま ) ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
声は低くなりて、美き目は湿 ( うるほ ) へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭 ( ぬぐ ) へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適 ( い ) きたいとお言ひなのだえ。さう何時 ( いつ ) までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経 ( た ) てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然 ( しつかり ) 極 ( き ) めなくては可 ( い ) けないよ。お前が可厭 ( いや ) なものを無理にお出 ( いで ) といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可 ( い ) いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度 ( たび ) に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強 ( し ) ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父 ( とつ ) さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方 ( あちら ) へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合 ( しあはせ ) と云ふものだから、其処 ( そこ ) を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切 ( おもひきり ) が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇 ( あ ) はずに行くなんて、それはお前却 ( かへ ) つて善くないから、矢張 ( やつぱり ) 逢つて、丁 ( ちやん ) と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来 ( ゆきかよひ ) をしなければならないのだもの。
いづれ今日か明日 ( あした ) には御音信 ( おたより ) があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
宮は牀几 ( しようぎ ) に倚 ( よ ) りて、半 ( なかば ) は聴き、半は思ひつつ、膝 ( ひざ ) に散来る葩 ( はなびら ) を拾ひては、おのれの唇に代へて連 ( しきり ) に咬砕 ( かみくだ ) きぬ。鶯 ( うぐひす ) の声の絶間を流の音は咽 ( むせ ) びて止まず。
宮は何心無く面 ( おもて ) を挙 ( あぐ ) るとともに稍 ( やや ) 隔てたる木 ( こ ) の間隠 ( まがくれ ) に男の漫行 ( そぞろあるき ) する姿を認めたり。彼は忽 ( たちま ) ち眼 ( まなこ ) を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮 ( さへぎ ) る隙 ( ひま ) を縫ひつつ、姑 ( しばら ) くその影を逐 ( お ) ひたりしが、遂 ( つひ ) に誰 ( たれ ) をや見出 ( みいだ ) しけん。慌忙 ( あわただし ) く母親に咡 ( ささや ) けり。彼は急に牀几を離れて五六歩 ( いつあしむあし ) 進行 ( すすみゆ ) きしが、彼方 ( あなた ) よりも見付けて、逸早 ( いちはや ) く呼びぬ。
「其処 ( そこ ) に御出 ( おいで ) でしたか」
その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉 ( ひとし ) く、恐れたる風情 ( ふぜい ) にて牀几の端 ( はし ) に竦 ( すくま ) りつ。
「はい、唯今 ( ただいま ) し方 ( がた ) 参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
母はかく挨拶 ( あいさつ ) しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方 ( そなた ) を見向きもやらで、彼の急足 ( いそぎあし ) に近 ( ちかづ ) く音を聞けり。
母子 ( おやこ ) の前に顕 ( あらは ) れたる若き紳士は、その誰 ( たれ ) なるやを説かずもあらなん。目覚 ( めざまし ) く大 ( おほい ) なる金剛石 ( ダイアモンド ) の指環を輝かせるよ。柄 ( にぎり ) には緑色の玉 ( ぎよく ) を獅子頭 ( ししがしら ) に彫 ( きざ ) みて、象牙 ( ぞうげ ) の如く瑩潤 ( つややか ) に白き杖 ( つゑ ) を携へたるが、その尾 ( さき ) をもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処 ( ここ ) だといふのを聞いて追懸 ( おつか ) けて来た訳です。熱いぢやないですか」
宮はやうやう面 ( おもて ) を向けて、さて淑 ( しとやか ) に起ちて、恭 ( うやうやし ) く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨 ( おご ) り高 ( たかぶ ) るを忘れざりき。その張りたる腮 ( あぎと ) と、への字に結べる薄唇 ( うすくちびる ) と、尤異 ( けやけ ) き金縁 ( きんぶち ) の目鏡 ( めがね ) とは彼が尊大の風に尠 ( すくな ) からざる光彩を添ふるや疑 ( うたがひ ) 無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真 ( ほん ) に今日 ( こんにち ) はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
母は牀几を払へば、宮は路 ( みち ) を開きて傍 ( かたはら ) に佇 ( たたず ) めり。
「貴方 ( あなた ) がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方 ( こちら ) の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙 ( せはし ) い体 ( からだ ) 、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌 ( あす ) の朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所 ( いつしよ ) にお立ちなさらんか」
彼は宮の顔を偸視 ( ぬすみみ ) つ。宮は物言はん気色 ( けしき ) もなくて又母の答へぬ。
「はい、難有 ( ありがた ) う存じます」
「それとも未 ( ま ) だ御在 ( おいで ) ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難 ( わけ ) は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家 ( ゐなかや ) を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩 ( ゆつくり ) 遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
宮は笑 ( ゑみ ) を含みて言はざるを、母は傍 ( かたはら ) より、
「これはもう遊ぶ事なら嫌 ( きらひ ) はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後 ( これから ) 盛 ( さかん ) にお遊 ( あす ) びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京 ( さいきよう ) でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌 ( おきらひ ) ですか、ははあ。船が平気だと、支那 ( しな ) から亜米利加 ( アメリカ ) の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山 ( ゆさん ) に行 ( ある ) いたところで知れたもの。どんなに贅沢 ( ぜいたく ) を為たからと云つて」
「御帰 ( おかへり ) になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下 ( いでくだ ) さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全 ( まる ) で為方 ( しかた ) が無い! こんな若い野梅 ( のうめ ) 、薪 ( まき ) のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄 ( すさまし ) い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走 ( ごちそう ) を為ますよ。お宮さんは何が所好 ( すき ) ですか、ええ、一番所好なものは?」
彼は陰 ( ひそか ) に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞 ( はづか ) しげに打笑 ( うちゑ ) めり。
「で、何日 ( いつ ) 御帰でありますか。明朝 ( あした ) 一所に御発足 ( おたち ) にはなりませんか。此地 ( こつち ) にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有 ( ありがた ) うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内 ( うち ) には音信 ( たより ) がございます筈 ( はず ) で、その音信 ( たより ) を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
唯継は例の倨 ( おご ) りて天を睨 ( にら ) むやうに打仰 ( うちあふ ) ぎて、杖の獅子頭 ( ししがしら ) を撫廻 ( なでまは ) しつつ、少時 ( しばらく ) 思案する体 ( てい ) なりしが、やをら白羽二重 ( しろはぶたへ ) のハンカチイフを取出 ( とりいだ ) して、片手に一揮 ( ひとふり ) 揮 ( ふ ) るよと見れば鼻 ( はな ) を拭 ( ぬぐ ) へり。菫花 ( ヴァイオレット ) の香 ( かをり ) を咽 ( むせ ) ばさるるばかりに薫 ( くん ) じ遍 ( わた ) りぬ。
宮も母もその鋭き匂 ( にほひ ) に驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿 ( つ ) いて、田圃 ( たんぼ ) の方を。私未 ( ま ) だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程 ( みち ) が有るから、貴方 ( あなた ) は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良 ( わるい ) のだから散歩は極 ( きは ) めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有 ( ありがた ) うございます。お前お供をお為 ( し ) かい」
宮の遅 ( ためら ) ふを見て、唯継は故 ( ことさら ) に座を起 ( た ) てり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循 ( いんじゆん ) してゐては可 ( い ) けない」
つと寄りて軽 ( かろ ) く宮の肩を拊 ( う ) ちぬ。宮は忽 ( たちま ) ち面 ( おもて ) を紅 ( あか ) めて、如何 ( いか ) にとも為 ( せ ) ん術 ( すべ ) を知らざらんやうに立惑 ( たちまど ) ひてゐたり。母の前をも憚 ( はばか ) らぬ男の馴々 ( なれなれ ) しさを、憎しとにはあらねど、己 ( おのれ ) の仂 ( はした ) なきやうに慙 ( は ) づるなりけり。
得も謂 ( い ) はれぬその仇無 ( あどな ) さの身に浸遍 ( しみわた ) るに堪 ( た ) へざる思は、漫 ( そぞろ ) に唯継の目の中 ( うち ) に顕 ( あらは ) れて異 ( あやし ) き独笑 ( ひとりゑみ ) となりぬ。この仇無 ( あどな ) き娧 ( いと ) しらしき、美き娘の柔 ( やはらか ) き手を携へて、人無き野道の長閑 ( のどか ) なるを語 ( かたら ) ひつつ行かば、如何 ( いか ) ばかり楽からんよと、彼ははや心も空 ( そら ) になりて、
「さあ、行つて見ませう。御母 ( おつか ) さんから御許 ( おゆるし ) が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方 ( あなた ) 、宜 ( よろし ) いでありませう」
母は宮の猶羞 ( なほは ) づるを見て、
「お前お出 ( いで ) かい、どうお為 ( し ) だえ」
「貴方、お出かいなどと有仰 ( おつしや ) つちや可けません。お出なさいと命令を為 ( な ) すつて下さい」
宮も母も思はず笑へり。唯継も後 ( おく ) れじと笑へり。
又人の入来 ( いりく ) る気勢 ( けはひ ) なるを宮は心着きて窺 ( うかが ) ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙 ( せはし ) く踏立つる足音なりき。
「ではお前 ( まい ) お供をおしな」
「さあ、行きませう。直 ( ぢき ) 其処 ( そこ ) まででありますよ」
宮は小 ( ちひさ ) き声して、
「御母 ( おつか ) さんも一処に御出 ( おいで ) なさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
母親を伴ひては大いに風流ならず、頗 ( すこぶ ) る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんには却 ( かへ ) つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には切 ( た ) つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭 ( いや ) だつたら直 ( すぐ ) に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙 ( だま ) されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
この時忙 ( せは ) しげに聞えし靴音ははや止 ( や ) みたり。人は出去 ( いでさ ) りしにあらで、七八間彼方 ( あなた ) なる木蔭に足を停 ( とど ) めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方 ( こなた ) の三人 ( みたり ) は誰 ( たれ ) も知らず。彳 ( たたず ) める人は高等中学の制服の上に焦茶の外套 ( オバコオト ) を着て、肩には古りたる象皮の学校鞄 ( かばん ) を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
再び靴音は高く響きぬ。その驟 ( にはか ) なると近きとに驚きて、三人 ( みたり ) は始めて音する方 ( かた ) を見遣 ( みや ) りつ。
花の散りかかる中を進来 ( すすみき ) つつ学生は帽を取りて、
「姨 ( をば ) さん、参りましたよ」
母子 ( おやこ ) は動顛 ( どうてん ) して殆 ( ほとん ) ど人心地 ( ひとごこち ) を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆 ( あき ) れ果てたる目をば空 ( むなし ) く瞪 ( みは ) りて、少時 ( しばし ) は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより忽 ( たちま ) ち消えてこの土と成了 ( なりをは ) らんことの、せめて心易 ( こころやす ) さを思ひつつ、その淡白 ( うすじろ ) き唇 ( くちびる ) を啖裂 ( くひさ ) かんとすばかりに咬 ( か ) みて咬みて止 ( や ) まざりき。
想ふに彼等の驚愕 ( おどろき ) と恐怖 ( おそれ ) とはその殺せし人の計らずも今生きて来 ( きた ) れるに会へるが如きものならん。気も不覚 ( そぞろ ) なれば母は譫語 ( うはごと ) のやうに言出 ( いひいだ ) せり。
「おや、お出 ( いで ) なの」
宮は些少 ( わづか ) なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀 ( ねが ) へる如く、木蔭 ( こかげ ) に身を側 ( そば ) めて、打過 ( うちはず ) む呼吸 ( いき ) を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩 ( おほ ) ひて、見るは苦 ( くるし ) けれども、見ざるも辛 ( つら ) き貫一の顔を、俯 ( ふ ) したる額越 ( ひたひごし ) に窺 ( うかが ) ひては、又唯継の気色 ( けしき ) をも気遣 ( きづか ) へり。
唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾 ( だいはらん ) ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客 ( しよくかく ) の来 ( きた ) れるよと、例の金剛石 ( ダイアモンド ) の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮 ( あぎと ) を張れり。
貫一は今回 ( こたび ) の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇 ( ひし ) と言はん、今は姑 ( しばら ) く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮 ( しづ ) めて、苦 ( くるし ) き笑顔 ( ゑがほ ) を作りてゐたり。
「宮 ( みい ) さんの病気はどうでございます」
宮は耐 ( たま ) りかねて窃 ( ひそか ) にハンカチイフを咬緊 ( かみし ) めたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日内 ( うち ) には帰らうと思つてね。お前さん能 ( よ ) く来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日 ( あす ) 明後日 ( あさつて ) と休課 ( やすみ ) になつたものですから」
「おや、さうかい」
唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過 ( あやま ) ちて野中の古井 ( ふるゐ ) に落ちたる人の、沈みも果てず、上 ( あが ) りも得為 ( えせ ) ず、命の綱と危 ( あやふ ) くも取縋 ( とりすが ) りたる草の根を、鼠 ( ねずみ ) の来 ( きた ) りて噛 ( か ) むに遭 ( あ ) ふと云へる比喩 ( たとへ ) に最能 ( いとよ ) く似たり。如何 ( いか ) に為べきかと或 ( あるひ ) は懼 ( おそ ) れ、或は惑ひたりしが、終 ( つひ ) にその免 ( まぬが ) るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚 ( はなは ) だ勝手がましうございますが、私等 ( ども ) はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝 ( あす ) は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に因 ( よ ) りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷 ( や ) めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下 ( いでくだ ) さいよ。宜 ( よろし ) いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出 ( いで ) なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
彼は行かんとして、更に宮の傍 ( そば ) 近く寄来 ( よりき ) て、
「貴方 ( あなた ) 、きつと後 ( のち ) にお出 ( いで ) なさいよ、ええ」
貫一は瞬 ( まばたき ) も為 ( せ ) で視 ( み ) てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為 ( し ) かねつ。娘気の可羞 ( はづかしさ ) にかくあるとのみ思へる唯継は、益 ( ますます ) 寄添ひつつ、舌怠 ( したたる ) きまでに語 ( ことば ) を和 ( やはら ) げて、
「宜 ( よろし ) いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
貫一の眼 ( まなこ ) は燃ゆるが如き色を作 ( な ) して、宮の横顔を睨着 ( ねめつ ) けたり。彼は懼 ( おそ ) れて傍目 ( わきめ ) をも転 ( ふ ) らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独 ( ひと ) り心を慄 ( をのの ) かせしが、猶 ( なほ ) 唯継の如何 ( いか ) なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許 ( いかばかり ) の幸 ( さいはひ ) なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容 ( い ) れず、唯饜 ( あ ) くまでも娧 ( いとし ) き宮に心を遺 ( のこ ) して行けり。
その後影 ( うしろかげ ) を透 ( とほ ) すばかりに目戍 ( まも ) れる貫一は我を忘れて姑 ( しばら ) く佇 ( たたず ) めり。両個 ( ふたり ) はその心を測りかねて、言 ( ことば ) も出 ( い ) でず、息をさへ凝して、空 ( むなし ) く早瀬の音の聒 ( かしまし ) きを聴くのみなりけり。
やがて此方 ( こなた ) を向きたる貫一は、尋常 ( ただ ) ならず激して血の色を失へる面上 ( おもて ) に、多からんとすれども能 ( あた ) はずと見ゆる微少 ( わづか ) の笑 ( ゑみ ) を漏して、
「宮 ( みい ) さん、今の奴 ( やつ ) はこの間の骨牌 ( かるた ) に来てゐた金剛石 ( ダイアモンド ) だね」
宮は俯 ( うつむ ) きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為 ( まね ) して、折しも啼 ( な ) ける鶯 ( うぐひす ) の木 ( こ ) の間 ( ま ) を窺 ( うかが ) へり。貫一はこの体 ( てい ) を見て更に嗤笑 ( あざわら ) ひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障 ( きざ ) な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面 ( つら ) は!」
「貫一さん」母は卒 ( にはか ) に呼びかけたり。
「はい」
「お前さん翁 ( をぢ ) さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口 ( あつこう ) などを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥 ( くたびれ ) だらうから、お湯にでも入つて、さうして未 ( ま ) だ御午餐 ( おひる ) 前なのでせう」
「いえ、滊車 ( きしや ) の中で鮨 ( すし ) を食べました」
三人 ( みたり ) は倶 ( とも ) に歩始 ( あゆみはじ ) めぬ。貫一は外套 ( オバコオト ) の肩を払はれて、後 ( うしろ ) を捻向 ( ねぢむ ) けば宮と面 ( おもて ) を合せたり。
「其処 ( そこ ) に花が粘 ( つ ) いてゐたから取つたのよ」
「それは難有 ( ありがた ) う※〈[#感嘆符三つ、64-13]〉 」
打霞 ( うちかす ) みたる空ながら、月の色の匂滴 ( にほひこぼ ) るるやうにして、微白 ( ほのじろ ) き海は縹渺 ( ひようびよう ) として限を知らず、譬 ( たと ) へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠 ( ねむ ) げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙 ( しようよう ) せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯 ( ただ ) 胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
五歩六歩 ( いつあしむあし ) 行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍 ( かんにん ) して下さい」
「何も今更謝 ( あやま ) ることは無いよ。一体今度の事は翁 ( をぢ ) さん姨 ( をば ) さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可 ( い ) いのだから」
「…………」
「此地 ( こつち ) へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡 ( りようけん ) のあるべき筈 ( はず ) は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間 ( なか ) で、知れきつた話だ。
昨夜 ( ゆふべ ) 翁さんから悉 ( くはし ) く話があつて、その上に頼むといふ御言 ( おことば ) だ」
差含 ( さしぐ ) む涙に彼の声は顫 ( ふる ) ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体 ( からだ ) は火水 ( ひみづ ) の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣 ( や ) るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児 ( みなしご ) でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
貫一は蹈留 ( ふみとどま ) りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣 ( きづかは ) しげにその顔を差覗 ( さしのぞ ) きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆 ( みんな ) 私が……どうぞ堪忍して下さい」
貫一の手に縋 ( すが ) りて、忽 ( たちま ) ちその肩に面 ( おもて ) を推当 ( おしあ ) つると見れば、彼も泣音 ( なくね ) を洩 ( もら ) すなりけり。波は漾々 ( ようよう ) として遠く烟 ( けむ ) り、月は朧 ( おぼろ ) に一湾の真砂 ( まさご ) を照して、空も汀 ( みぎは ) も淡白 ( うすじろ ) き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴 ( したた ) りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁 ( をぢ ) さんが僕を説いて、お前さんの方は姨 ( をば ) さんが説得しやうと云ふので、無理に此処 ( ここ ) へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々 ( はいはい ) と言つて聞いてゐたけれど、宮 ( みい ) さんは幾多 ( いくら ) でも剛情を張つて差支 ( さしつかへ ) 無いのだ。どうあつても可厭 ( いや ) だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了 ( しま ) ふのだ。僕が傍 ( そば ) に居ると智慧 ( ちゑ ) を付けて邪魔を為 ( す ) ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計 ( はかりごと ) だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜 ( ゆふべ ) は夜一夜 ( よつぴて ) 寐 ( ね ) はしない、そんな事は万々 ( ばんばん ) 有るまいけれど、種々 ( いろいろ ) 言はれる為に可厭 ( いや ) と言はれない義理になつて、若 ( もし ) や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家 ( うち ) は学校へ出る積 ( つもり ) で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処 ( どこ ) に在る‼ 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知 ( し ) ……知……知らなかつた」
宮は可悲 ( かなしさ ) と可懼 ( おそろしさ ) に襲はれて少 ( すこし ) く声さへ立てて泣きぬ。
憤 ( いかり ) を抑 ( おさ ) ふる貫一の呼吸は漸 ( やうや ) く乱れたり。
「宮 ( みい ) さん、お前は好くも僕を欺いたね」
宮は覚えず慄 ( をのの ) けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余 ( あんま ) り邪推が過ぎるわ、余り酷 ( ひど ) いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
泣入る宮を尻目に挂 ( か ) けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為 ( せ ) んよ。
お前が得心せんものなら、此地 ( ここ ) へ来るに就いて僕に一言 ( いちごん ) も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来 ( よこ ) すが可いぢやないか。出抜 ( だしぬ ) いて家を出るばかりか、何の便 ( たより ) も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈 ( てはず ) になつてゐたのだ。或 ( あるひ ) は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦 ( かんぷ ) だよ。姦通 ( かんつう ) したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余 ( あんま ) りだわ、余りだわ」
彼は正体も無く泣頽 ( なきくづ ) れつつ、寄らんとするを貫一は突退 ( つきの ) けて、
「操 ( みさを ) を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時 ( いつ ) 私が操を破つて?」
「幾許 ( いくら ) 大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻 ( さい ) が操を破る傍 ( そば ) に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴 ( れき ) とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所 ( よそ ) の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処 ( どこ ) に在る?」
「さう言はれて了 ( しま ) ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等 ( わたしたち ) が此地 ( こつち ) に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
宮はその唇 ( くちびる ) に釘 ( くぎ ) 打たれたるやうに再び言 ( ことば ) は出 ( い ) でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過 ( あやまち ) を悔い、罪を詫 ( わ ) びて、その身は未 ( おろ ) か命までも己 ( おのれ ) の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰 ( こころひそか ) に望みたりしならん。如何 ( いか ) にぞや、彼は露ばかりもさせる気色 ( けしき ) は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変 ( こころがはり ) を、貫一はなかなか信 ( まこと ) しからず覚ゆるまでに呆 ( あき ) れたり。
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛 ( いとをし ) みし人は芥 ( あくた ) の如く我を悪 ( にく ) めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤 ( いかり ) は彼の胸を劈 ( つんざ ) きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖 ( くら ) ひて、この熱膓 ( ねつちよう ) を冷 ( さま ) さんとも思へり。忽 ( たちま ) ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪 ( えた ) へずして尻居に僵 ( たふ ) れたり。
宮は見るより驚く遑 ( いとま ) もあらず、諸共 ( もろとも ) に砂に塗 ( まび ) れて掻抱 ( かきいだ ) けば、閉ぢたる眼 ( まなこ ) より乱落 ( はふりお ) つる涙に浸れる灰色の頬 ( ほほ ) を、月の光は悲しげに彷徨 ( さまよ ) ひて、迫れる息は凄 ( すさまし ) く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後 ( うしろ ) より取縋 ( とりすが ) り、抱緊 ( いだきし ) め、撼動 ( ゆりうごか ) して、戦 ( をのの ) く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇 ( ねんごろ ) に拭 ( ぬぐ ) ひたり。
「吁 ( ああ ) 、宮 ( みい ) さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処 ( どこ ) でこの月を見るのだか! 再来年 ( さらいねん ) の今月今夜……十年後 ( のち ) の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
宮は挫 ( ひし ) ぐばかりに貫一に取着きて、物狂 ( ものぐるはし ) う咽入 ( むせびい ) りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚 ( なか ) の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余 ( あんま ) り言難 ( いひにく ) い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言 ( たつたひとこと ) いひたいのは、私は貴方 ( あなた ) の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰 ( ゆ ) くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少 ( すこ ) し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽 ( うろた ) へてくだらんことを言ふな。食ふに窮 ( こま ) つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰 ( ゆ ) くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処 ( そこ ) の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極 ( きま ) つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰 ( ゆ ) かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理 ( わけ ) の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰 ( ゆ ) くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰 ( ゆ ) かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件 ( ふたつ ) の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要 ( い ) らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余 ( あんま ) りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財 ( かね ) があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
翁 ( をぢ ) さん姨 ( をば ) さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方 ( ほう ) は幾許 ( いくら ) もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊 ( ぶちこは ) して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適 ( い ) つて見る気は有るのかい」
貫一の眼 ( まなこ ) はその全身の力を聚 ( あつ ) めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍 ( うちまも ) れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息 ( ためいき ) したり。
「宜 ( よろし ) い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按 ( うちあん ) じつつも、彼は乱るる胸を寛 ( ゆる ) うせんが為に、強 ( し ) ひて目を放ちて海の方 ( かた ) を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍 ( かたはら ) に在らずして、六七間後 ( あと ) なる波打際 ( なみうちぎは ) に面 ( おもて ) を掩 ( おほ ) ひて泣けるなり。
可悩 ( なやま ) しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、淼々 ( びようびよう ) たる海の端 ( はし ) の白く頽 ( くづ ) れて波と打寄せたる、艶 ( えん ) に哀 ( あはれ ) を尽せる風情 ( ふぜい ) に、貫一は憤 ( いかり ) をも恨をも忘れて、少時 ( しばし ) は画を看 ( み ) る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は頭 ( かしら ) を低 ( た ) れて足の向ふままに汀 ( みぎは ) の方 ( かた ) へ進行きしが、泣く泣く歩来 ( あゆみきた ) れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些 ( ちつと ) も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
殆 ( ほとん ) ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財 ( かね ) なのだね。如何 ( いか ) に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相 ( あいそう ) は尽きないかい。
好 ( い ) い出世をして、さぞ栄耀 ( えよう ) も出来て、お前はそれで可からうけれど、財 ( かね ) に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂 ( い ) はうか、口惜 ( くちをし ) いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺 ( さしころ ) して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺 ( こら ) へてお前を人に奪 ( とら ) れるのを手出しも為 ( せ ) ずに見てゐる僕の心地 ( こころもち ) は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他 ( ひと ) はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候 ( ゐさふらふ ) でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾 ( をとこめかけ ) になつた覚 ( おぼえ ) は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物 ( なぐさみもの ) にしたのだね。平生 ( へいぜい ) お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意 ( つもり ) で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽 ( たのしみ ) も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
それは無論金力の点では、僕と富山とは比較 ( くらべもの ) にはならない。彼方 ( あつち ) は屈指の財産家、僕は固 ( もと ) より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財 ( かね ) で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
己 ( おのれ ) の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有 ( も ) つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧 ( むし ) ろ害になり易 ( やす ) い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
然し財 ( かね ) といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝 ( すぐ ) れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分甚 ( ひど ) い事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然 ( ふつと ) 気の変つたのも、或 ( あるひ ) は無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎 ( とが ) めない、但 ( ただ ) もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂 ( い ) ふことを。
雀 ( すずめ ) が米を食ふのは僅 ( わづ ) か十粒 ( とつぶ ) か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒 ( ひもじ ) い思を為せるやうな、そんな意気地 ( いくぢ ) の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
貫一は雫 ( しづく ) する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁 ( ゆ ) く、それは立派な生活をして、栄耀 ( えよう ) も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招 ( よば ) れて行く人もあれば、自分の妻子 ( つまこ ) を車に載せて、それを自分が挽 ( ひ ) いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁 ( ゆ ) けば、家内も多ければ人出入 ( ひとでいり ) も、劇 ( はげ ) しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷 ( いた ) めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽 ( たのしみ ) に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費 ( つか ) へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼 ( よ ) るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財 ( かね ) が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外 ( おもて ) に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似 ( まね ) をして、妻は些 ( ほん ) の床の置物にされて、謂 ( い ) はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦 ( くるしみ ) ばかりで楽 ( たのしみ ) は無いと謂つて可い。お前の嫁 ( ゆ ) く唯継だつて、固 ( もと ) より所望 ( のぞみ ) でお前を迎 ( もら ) ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財 ( かね ) が有るから好きな真似も出来る、他 ( ほか ) の楽 ( たのしみ ) に気が移つて、直 ( ぢき ) にお前の恋は冷 ( さま ) されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地 ( こころもち ) を考へて御覧、あの富山の財産がその苦 ( くるしみ ) を拯 ( すく ) ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽 ( たのしみ ) かい、満足かい。
僕が人にお前を奪 ( と ) られる無念は謂 ( い ) ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変 ( こころがはり ) をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀 ( かあい ) さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
僕に飽きて富山に惚 ( ほ ) れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過 ( あやま ) つてゐる、それは実に過 ( あやま ) つてゐる、愛情の無い結婚は究竟 ( つまり ) 自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別 ( ふんべつ ) 一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便 ( ふびん ) だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直 ( しなお ) してくれないか。
七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨 ( うらやまし ) いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛 ( かはゆ ) くは思はんのかい」
彼は危 ( あやふ ) きを拯 ( すく ) はんとする如く犇 ( ひし ) と宮に取着きて匂滴 ( にほひこぼ ) るる頸元 ( えりもと ) に沸 ( に ) ゆる涙を濺 ( そそ ) ぎつつ、蘆 ( あし ) の枯葉の風に揉 ( もま ) るるやうに身を顫 ( ふるは ) せり。宮も離れじと抱緊 ( いだきし ) めて諸共 ( もろとも ) に顫ひつつ、貫一が臂 ( ひぢ ) を咬 ( か ) みて咽泣 ( むせびなき ) に泣けり。
「嗚呼 ( ああ ) 、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方 ( あつち ) へ嫁 ( い ) つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然 ( いよいよ ) お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓 ( はらわた ) の腐つた女! 姦婦 ( かんぷ ) ‼」
その声とともに貫一は脚 ( あし ) を挙げて宮の弱腰をはたと踢 ( け ) たり。地響して横様 ( よこさま ) に転 ( まろ ) びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為 ( えせ ) ず弱々 ( よわよわ ) と僵 ( たふ ) れたるを、なほ憎さげに見遣 ( みや ) りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹 ( いつぴき ) はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了 ( しま ) ふのだ。学問も何ももう廃 ( やめ ) だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖 ( くら ) つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面 ( つら ) を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁 ( をぢ ) さん姨 ( をば ) さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細 ( しさい ) あつて貫一はこのまま長の御暇 ( おいとま ) を致しますから、随分お達者で御機嫌 ( ごきげん ) よろしう……宮 ( みい ) さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若 ( も ) し貫一はどうしたとお訊 ( たづ ) ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方 ( ゆくへ ) 知れずになつて了つたと……」
宮はやにはに蹶起 ( はねお ) きて、立たんと為れば脚の痛 ( いたみ ) に脆 ( もろ ) くも倒れて効無 ( かひな ) きを、漸 ( やうや ) く這寄 ( はひよ ) りて貫一の脚に縋付 ( すがりつ ) き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方 ( あなた ) これから何 ( ど ) ……何処 ( どこ ) へ行くのよ」
貫一はさすがに驚けり、宮が衣 ( きぬ ) の披 ( はだ ) けて雪 ( ゆき ) 可羞 ( はづかし ) く露 ( あらは ) せる膝頭 ( ひざがしら ) は、夥 ( おびただし ) く血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我 ( けが ) をしたか」
寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が有 ( あ ) ればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭 ( いや ) よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛 ( けとば ) すぞ」
「蹴られても可いわ」
貫一は力を極 ( きは ) めて振断 ( ふりちぎ ) れば、宮は無残に伏転 ( ふしまろ ) びぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行 ( いそぎゆ ) きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷 ( いたみ ) に幾度 ( いくたび ) か仆 ( たふ ) れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺 ( いひのこ ) した事がある」
遂 ( つひ ) に倒れし宮は再び起 ( た ) つべき力も失せて、唯声を頼 ( たのみ ) に彼の名を呼ぶのみ。漸 ( やうや ) く朧 ( おぼろ ) になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶 ( みもだえ ) して猶 ( なほ ) 呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂 ( いただき ) に立てるは、此方 ( こなた ) を目戍 ( まも ) れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙 ( はるか ) に来りぬ。
「宮 ( みい ) さん!」
「あ、あ、あ、貫一 ( かんいつ ) さん!」
首を延べて眴 ( みまは ) せども、目を瞪 ( みは ) りて眺むれども、声せし後 ( のち ) は黒き影の掻消 ( かきけ ) す如く失 ( う ) せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び恋 ( こひし ) き貫一の名を呼びたりき。
〈[#改ページ]〉
中編
新橋停車場 ( しんばしステエション ) の大時計は四時を過 ( すぐ ) ること二分余 ( よ ) 、東海道行の列車は既に客車の扉 ( とびら ) を鎖 ( さ ) して、機関車に烟 ( けふり ) を噴 ( ふか ) せつつ、三十余輛 ( よりよう ) を聯 ( つら ) ねて蜿蜒 ( えんえん ) として横 ( よこた ) はりたるが、真承 ( まうけ ) の秋の日影に夕栄 ( ゆふばえ ) して、窓々の硝子 ( ガラス ) は燃えんとすばかりに耀 ( かがや ) けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚 ( わめ ) くを余所 ( よそ ) に、大蹈歩 ( だいとうほ ) の寛々 ( かんかん ) たる老欧羅巴 ( エウロッパ ) 人は麦酒樽 ( ビイルだる ) を窃 ( ぬす ) みたるやうに腹突出 ( つきいだ ) して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘 ( ゑひがさ ) の柄 ( え ) に橙 ( オレンジ ) 色のリボンを飾りたるを小脇 ( こわき ) にせると推並 ( おしなら ) び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色 ( けしき ) も無く過 ( すぐ ) る後より、蚤取眼 ( のみとりまなこ ) になりて遅れじと所体頽 ( しよたいくづ ) して駈来 ( かけく ) る女房の、嵩高 ( かさだか ) なる風呂敷包を抱 ( いだ ) くが上に、四歳 ( よつ ) ほどの子を背負ひたるが、何処 ( どこ ) の扉も鎖したるに狼狽 ( うろた ) ふるを、車掌に強曳 ( しよぴか ) れて漸 ( やうや ) く安堵 ( あんど ) せる間 ( ま ) も無く、青洟垂 ( あをばなたら ) せる女の子を率ゐて、五十余 ( あまり ) の老夫 ( おやぢ ) のこれも戸惑 ( とまどひ ) して往 ( ゆ ) きつ復 ( もど ) りつせし揚句 ( あげく ) 、駅夫に曳 ( ひか ) れて室内に押入れられ、如何 ( いか ) なる罪やあらげなく閉 ( た ) てらるる扉に袂 ( たもと ) を介 ( はさ ) まれて、もしもしと救 ( すくひ ) を呼ぶなど、未 ( いま ) だ都を離れざるにはや旅の哀 ( あはれ ) を見るべし。
五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅 ( かたすみ ) に円居 ( まどゐ ) して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装 ( いでたち ) にて、紋付の袷羽織 ( あはせはおり ) を着たるもあれば、精縷 ( セル ) の背広なるもあり、袴 ( はかま ) 着けたるが一人、大島紬 ( おほしまつむぎ ) の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別 ( せんべつ ) の瓶 ( びん ) 、凾 ( はこ ) などを網棚 ( あみだな ) の上に片附けて、その手を摩払 ( すりはら ) ひつつ窓より首を出 ( いだ ) して、停車場 ( ステエション ) の方 ( かた ) をば、求むるものありげに望見 ( のぞみみ ) たりしが、やがて藍 ( あゐ ) の如き晩霽 ( ばんせい ) の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟 ( あまかす ) 」
黒餅 ( こくもち ) に立沢瀉 ( たちおもだか ) の黒紬 ( くろつむぎ ) の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩 ( もら ) せり。甘糟と呼れたるは、茶柳条 ( ちやじま ) の仙台平 ( せんだいひら ) の袴を着けたる、この中にて独 ( ひと ) り頬鬚 ( ほほひげ ) の厳 ( いかめし ) きを蓄 ( たくは ) ふる紳士なり。
甘糟の答ふるに先 ( さきだ ) ちて、背広の風早 ( かざはや ) は若きに似合はぬ皺嗄声 ( しわがれごゑ ) を振搾 ( ふりしぼ ) りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の痒 ( かゆ ) きに堪 ( た ) へんことを僕は丁 ( ちやん ) と洞察 ( どうさつ ) してをるのだ」
「これは憚様 ( はばかりさま ) です」
大島紬の紳士は黏着 ( へばりつ ) いたるやうに靠 ( もた ) れたりし身を遽 ( にはか ) に起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利 ( さぶり ) と甘糟は夙 ( かね ) て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟 ( ゆうせんくつ ) を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔 ( きえん ) を吐く意 ( つもり ) なのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂 ( い ) ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪 ( け ) しからん事 ( こつ ) たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣 ( おもひや ) らるるね。ええ、肩書を辱 ( はづかし ) めん限は遣るも可 ( よ ) からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
この老実の言 ( げん ) を作 ( な ) すは、今は四年 ( よとせ ) の昔間貫一 ( はざまかんいち ) が兄事 ( けいじ ) せし同窓の荒尾譲介 ( あらおじようすけ ) なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙 ( あ ) げられ、踰えて一年の今日 ( こんにち ) 愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢 ( よはひ ) と深慮と誠実との故 ( ゆゑ ) を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納 ( いひをさめ ) じや。願 ( ねがは ) くは君達も宜 ( よろし ) く自重してくれたまへ」
面白く発 ( はや ) りし一座も忽 ( たちま ) ち白 ( しら ) けて、頻 ( しきり ) に燻 ( くゆ ) らす巻莨 ( まきたばこ ) の煙の、急駛 ( きゆうし ) せる車の逆風 ( むかひかぜ ) に扇 ( あふ ) らるるが、飛雲の如く窓を逸 ( のが ) れて六郷川 ( ろくごうがわ ) を掠 ( かす ) むあるのみ。
佐分利は幾数回 ( あまたたび ) 頷 ( うなづ ) きて、
「いやさう言れると慄然 ( ぞつ ) とするよ、実は嚮 ( さつき ) 停車場 ( ステエション ) で例の『美人 ( びじ ) クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖 ( とかげくら ) ふかと思ふね、毎 ( いつ ) 見ても美いには驚嘆する。全 ( まる ) で淑女 ( レディ ) の扮装 ( いでたち ) だ。就中 ( なかんづく ) 今日は冶 ( めか ) してをつたが、何処 ( どこ ) か旨 ( うま ) い口でもあると見える。那奴 ( あいつ ) に搾 ( しぼ ) られちや克 ( かな ) はん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。夙 ( かね ) て御高名は聞及んでゐる」
と大島紬 ( おほしまつむぎ ) の猶 ( なほ ) 続けんとするを遮 ( さへぎ ) りて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学を吃 ( く ) つたのも、其奴 ( そいつ ) が債権者の重 ( おも ) なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金 ( きん ) の腕環なんぞ篏 ( は ) めてゐると云ふぢやないか。酷 ( ひど ) い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係 ( かか ) つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊 ( ミイラ ) にならんやうに褌 ( ふんどし ) を緊 ( し ) めて掛るが可いぜ」
「誰 ( たれ ) か其奴 ( そいつ ) には尻押 ( しりおし ) が有るのだらう。亭主が有るのか、或 ( あるひ ) は情夫 ( いろ ) か、何か有るのだらう」
皺嗄声 ( しわがれごゑ ) は卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴 ( ライフ ) があるのさ、情夫 ( いろ ) ぢやない、亭主がある、此奴 ( こいつ ) が君、我々の一世紀前 ( ぜん ) に鳴した高利貸 ( アイス ) で、赤樫権三郎 ( あかがしごんざぶろう ) と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的媱物 ( いんぶつ ) と来てゐるのだ」
「成程! 積極 ( しやくきよく ) と消極と相触れたので爪 ( つめ ) に火が熖 ( とも ) る訳だな」
大島紬が得意の譃浪 ( まぜかへし ) に、深沈なる荒尾も已 ( や ) むを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄 ( もてあそ ) ぶのが道楽で、此奴 ( こいつ ) の為に汚 ( けが ) された者は随分意外の辺 ( へん ) にも在るさうな。そこで今の『美人 ( びじ ) クリイム』、これもその手に罹 ( かか ) つたので、原 ( もと ) は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾 ( おやぢ ) この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘 ( とりこ ) にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働 ( なかばたらき ) に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞 ( ことわ ) りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾 ( おやぢ ) は六十ばかりの禿顱 ( はげあたま ) の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然 ( たきざはりぜん ) たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
固唾 ( かたづ ) を嚥 ( の ) みたりし荒尾は思ふところありげに打頷 ( うちうなづ ) きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
甘糟はその面 ( おもて ) を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
佐分利の話を進むる折から、滊車 ( きしや ) は遽 ( にはか ) に速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰 ( ひざくり ) だ」
佐「荒尾、あの葡萄酒 ( ぶどうしゆ ) を抜かんか、喉 ( のど ) が渇 ( かわ ) いた。これからが佳境に入 ( い ) るのだからね」
甘「中銭 ( なかせん ) があるのは酷 ( ひど ) い」
佐「蒲田 ( かまだ ) 、君は好い莨 ( たばこ ) を吃 ( す ) つてゐるぢやないか、一本頂戴 ( ちようだい ) 」
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻 ( てまはり ) の物を片附けやう」
佐「甘糟、焠児 ( マッチ ) を持つてゐるか」
甘「そら、お出 ( いで ) だ。持参いたしてをりまする仕合 ( しあはせ ) で」
佐分利は居長高 ( ゐたけだか ) になりて、
「些 ( ちよつ ) と点 ( つ ) けてくれ」
葡萄酒の紅 ( くれなゐ ) を啜 ( すす ) り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐 ( おもむろ ) に語 ( ことば ) を継ぐ、
「所謂 ( いはゆる ) 一朶 ( いちだ ) の梨花海棠 ( りかかいどう ) を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了 ( しま ) つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐 ( しき ) つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気 ( かたぎ ) の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿 ( はげ ) の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父 ( おとつ ) さん、どうか承知して下さいは、親父益 ( ますま ) す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相 ( あいそ ) を尽 ( つか ) して、唯 ( ただ ) 一人の娘を阿父さん彼自身より十歳 ( とを ) ばかりも老漢 ( おやぢ ) の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵 ( ちよう ) を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家 ( さと ) の方へ貢 ( みつ ) ぐと思の外、極 ( きめ ) の給 ( もの ) の外は塵葉 ( ちりつぱ ) 一本饋 ( や ) らん。これが又禿の御意 ( ぎよい ) に入つたところで、女め熟 ( つらつ ) ら高利 ( アイス ) の塩梅 ( あんばい ) を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代 ( しんだい ) 我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭 ( かね ) の方が大事、といふ不敵な了簡 ( りようけん ) が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
荒尾は可忌 ( いまは ) しげに呟 ( つぶや ) きて、稍 ( やや ) 不快の色を動 ( うごか ) せり。
「そこで、敏捷 ( びんしよう ) な女には違無い、自然と高利 ( アイス ) の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処 ( どこ ) へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺 ( あたり ) から禿は中気が出て未 ( いま ) だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛 ( さかん ) に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁 ( うすべり ) を一板 ( いちまい ) 敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――然 ( しか ) し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独 ( ひとり ) で腕を揮 ( ふる ) つて益す盛に遣 ( や ) つてゐる。これ則 ( すなは ) ち『美人 ( びじ ) クリイム』の名ある所以 ( ゆゑん ) さ。
年紀 ( とし ) かい、二十五だと聞いたが、さう、漸 ( やうや ) う二三とよりは見えんね。あれで可愛 ( かはゆ ) い細い声をして物柔 ( ものやはらか ) に、口数 ( くちかず ) が寡 ( すくな ) くつて巧い言 ( こと ) をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替 ( かきかへ ) だの、手形に願ふのと、急所を衝 ( つ ) く手際 ( てぎは ) の婉曲 ( えんきよく ) に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿 ( なや ) すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿 ( なや ) されたが、柔能く剛を制すで、高利貸 ( アイス ) には美人が妙! 那彼 ( あいつ ) に一国を預ければ輙 ( すなは ) ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
風早は最も興を覚えたる気色 ( けしき ) にて、
「では、今はその禿顱 ( はげ ) は中風 ( ちゆうふう ) で寐 ( ね ) たきりなのだね、一昨年 ( をととし ) から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮 ( さかん ) な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
佐分利は頭 ( かしら ) を抑 ( おさ ) へて後様 ( うしろさま ) に靠 ( もた ) れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕 ( お ) ちて、今はしも連帯一判、取交 ( とりま ) ぜ五口 ( いつくち ) の債務六百四十何円の呵責 ( かしやく ) に膏 ( あぶら ) を取 ( とら ) るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後 ( ご ) に又二百円、無疵 ( むきず ) なるは風早と荒尾とのみ。
滊車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑 ( ゑま ) しげに傍聴したりし横浜商人体 ( しようにんてい ) の乗客は、幸 ( さいはひ ) に無聊 ( ぶりよう ) を慰められしを謝すらんやうに、懇 ( ねんごろ ) に一揖 ( いつゆう ) してここに下車せり。暫 ( しばら ) く話の絶えける間 ( ひま ) に荒尾は何をか打案ずる体 ( てい ) にて、その目を空 ( むなし ) く見据ゑつつ漫語 ( そぞろごと ) のやうに言出 ( いひい ) でたり。
「その後誰 ( たれ ) も間 ( はざま ) の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声 ( しわかれごゑ ) は問反 ( とひかへ ) せり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸 ( アイス ) の才取 ( さいとり ) とか、手代 ( てだい ) とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸 ( アイス ) の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
我が意を得つと謂 ( い ) はんやうに荒尾は頷 ( うなづ ) きて、猶 ( なほ ) も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先 ( さきだ ) ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸 ( アイス ) と云ふのはどうも妄 ( うそ ) ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
彼は忍びやかに太息 ( ためいき ) を泄 ( もら ) せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然 ( ぴん ) と外眥 ( めじり ) の昂 ( あが ) つた所が目標 ( めじるし ) さ」
蒲「さうして髪 ( あたま ) の癖毛 ( くせつけ ) の具合がな、愛嬌 ( あいきよう ) が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖 ( ほほづゑ ) を抂 ( つ ) いて、かう下向になつて何時 ( いつ ) でも真面目 ( まじめ ) に講義を聴いてゐたところは、何処 ( どこ ) かアルフレッド大王に肖 ( に ) てゐたさ」
荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎 ( いつ ) も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃 ( いつぱい ) を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶 ( おも ) ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟 ( おとと ) よりも間の居らなくなつたのを悲む」
愁然として彼は頭 ( かしら ) を俛 ( た ) れぬ。大島紬は受けたる盃 ( さかづき ) を把 ( と ) りながら、更に佐分利が持てる猪口 ( ちよく ) を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番 ( ひとつ ) 間の健康を祝さう」
荒尾の喜は実 ( げ ) に溢 ( あふ ) るるばかりなりき。
「おお、それは辱 ( かたじけ ) ない」
盈々 ( なみなみ ) と酒を容 ( い ) れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉 ( ひとし ) く戞 ( かつ ) と相撃 ( あひう ) てば、紅 ( くれなゐ ) の雫 ( しづく ) の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息 ( ひといき ) に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺 ( うごか ) して、
「蒲田は如才ないね。面 ( つら ) は醜 ( まづ ) いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言 ( いは ) れて見ると誰 ( たれ ) でも些 ( ちよつ ) と憎くないからね」
甘「遉 ( さすが ) は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
言 ( ことば ) を改めて荒尾は言出 ( いひいだ ) せり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場 ( ステエション ) で間を見たよ。間に違無いのじや」
唯 ( ただ ) の今 ( いま ) 陰ながらその健康を祷 ( いの ) りし蒲田は拍子を抜して彼の面 ( おもて ) を眺 ( なが ) めたり。
「ふう、それは不思議。他 ( むかふ ) は気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口 ( いりくち ) の所で些 ( ちよつ ) と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子 ( ソオフワア ) を起つと、もう見えなくなつた。それから有間 ( しばらく ) して又偶然 ( ふつと ) 見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場 ( プラットフォーム ) へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍 ( そば ) の柱に僕を見て黒い帽を揮 ( ふ ) つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
横浜! 横浜! と或 ( あるひ ) は急に、或は緩 ( ゆる ) く叫ぶ声の窓の外面 ( そとも ) を飛過 ( とびすぐ ) るとともに、響は雑然として起り、迸 ( ほとばし ) り出 ( い ) づる、群集 ( くんじゆ ) は玩具箱 ( おもちやばこ ) を覆 ( かへ ) したる如く、場内の彼方 ( かなた ) より轟 ( とどろ ) く鐸 ( ベル ) の音 ( ね ) はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。
☆昨七日 ( さくなぬか ) イ便の葉書にて(飯田町 ( いいだまち ) 局消印)美人クリイム の語にフエアクリイム或 ( あるひ ) はベルクリイムの傍訓有度 ( ぼうくんありたく ) との言 ( げん ) を貽 ( おく ) られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊 ( いささ ) か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人 の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖 ( なまじひ ) に理詰ならむよりは、出まかせの可笑 ( をかし ) き響あらむこそ可 ( よ ) かめれとバイスクリイムとも思着 ( おもひつ ) きしなり。意 ( こころ ) は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗 ( くだくだ ) しさを嫌 ( きら ) ひて、更に美人 の二字にびじ 訓を付せしを、校合者 ( きようごうしや ) の思僻 ( おもひひが ) めてん 字 ( じ ) は添へたるなり。陋 ( いや ) しげなるびじ クリイムの響の中 ( うち ) には嘲弄 ( とうろう ) の意 ( こころ ) も籠 ( こも ) らむとてなり。なほ高諭 ( こうゆ ) を請 ( こ ) ふ(三〇・九・八附読売新聞より)
柵 ( さく ) の柱の下 ( もと ) に在りて帽を揮 ( ふ ) りたりしは、荒尾が言 ( ことば ) の如く、四年の生死 ( しようし ) を詳悉 ( つまびらか ) にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自 ( みづから ) の影を晦 ( くらま ) し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略 ( あらまし ) を伺ふことを怠らざりき、こ回 ( たび ) その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所 ( よそ ) ながら暇乞 ( いとまごひ ) もし、二つには栄誉の錦 ( にしき ) を飾れる姿をも見んと思ひて、群集 ( くんじゆ ) に紛れてここには来 ( きた ) りしなりけり。
何 ( なに ) の故 ( ゆゑ ) に間は四年の音信 ( おとづれ ) を絶ち、又何の故にさしも懐 ( おもひ ) に忘れざる旧友と相見て別 ( べつ ) を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自 ( おのづか ) ら解釈せらるべし。
柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独 ( ひと ) り間貫一のみにあらず、そこもとに聚 ( つど ) ひし老若貴賤 ( ろうにやくきせん ) の男女 ( なんによ ) は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞 ( きづか ) ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一 ( いつ ) なり。数分時の混雑の後車の出 ( い ) づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久 ( ひさし ) う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸 ( やうや ) く踵 ( きびす ) を旋 ( めぐら ) せし時には、推重 ( おしかさな ) るまでに柵際 ( さくぎは ) に聚 ( つど ) ひし衆 ( ひと ) は殆 ( ほとん ) ど散果てて、駅夫の三四人が箒 ( はうき ) を執りて場内を掃除せるのみ。
貫一は差含 ( さしぐま ) るる涙を払ひて、独り後 ( おく ) れたるを驚きけん、遽 ( にはか ) に急ぎて、蓬莱橋口 ( ほうらいばしぐち ) より出 ( い ) でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰 ( たれ ) とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
慌 ( あわ ) てて彼の見向く途端に、
「些 ( ちよつ ) と」と戸口より半身を示して、黄金 ( きん ) の腕環の気爽 ( けざやか ) に耀 ( かがや ) ける手なる絹ハンカチイフに唇辺 ( くちもと ) を掩 ( おほ ) いて束髪の婦人の小腰を屈 ( かが ) むるに会へり。艶 ( えん ) なる面 ( おもて ) に得も謂 ( い ) はれず愛らしき笑 ( ゑみ ) をさへ浮べたり。
「や、赤樫 ( あかがし ) さん!」
婦人の笑 ( ゑみ ) もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉 ( まゆ ) だに動かさず。
「好 ( よ ) い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些 ( ちよつ ) と此方 ( こち ) へ」
婦人は内に入れば、貫一も渋々跟 ( つ ) いて入るに、長椅子 ( ソオフワア ) に掛 ( かく ) れば、止む無くその側 ( そば ) に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅 ( おぐるめ ) の件なのでございますがね」
彼は黒樗文絹 ( くろちよろけん ) の帯の間を捜 ( さぐ ) りて金側時計を取出 ( とりいだ ) し、手早く収めつつ、
「貴方 ( あなた ) どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方 ( どちら ) へかお供を致しませう」
紫紺塩瀬 ( しほぜ ) に消金 ( けしきん ) の口金 ( くちがね ) 打ちたる手鞄 ( てかばん ) を取直して、婦人はやをら起上 ( たちあが ) りつ。迷惑は貫一が面 ( おもて ) に顕 ( あらは ) れたり。
「何方 ( どちら ) へ?」
「何方 ( どちら ) でも、私には解りませんですから貴方 ( あなた ) のお宜 ( よろし ) い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有 ( おつしや ) らずに、私は何方でも宜 ( よろし ) いのでございます」
荒布革 ( あらめがは ) の横長なる手鞄 ( てかばん ) を膝の上に掻抱 ( かきいだ ) きつつ貫一の思案せるは、その宜き方 ( かた ) を択ぶにあらで、倶 ( とも ) に行くをば躊躇 ( ちゆうちよ ) せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭 ( であひがしら ) に、入来 ( いりく ) る者ありて、その足尖 ( つまさき ) を挫 ( ひし ) げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高 ( たけたか ) き老紳士の目尻も異 ( あやし ) く、満枝の色香 ( いろか ) に惑ひて、これは失敬、意外の麁相 ( そそう ) をせるなりけり。彼は猶懲 ( なほこ ) りずまにこの目覚 ( めざまし ) き美形 ( びけい ) の同伴をさへ暫 ( しばら ) く目送 ( もくそう ) せり。
二人は停車場 ( ステエション ) を出でて、指す方 ( かた ) も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極 ( き ) めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
満枝は彼の心進まざるを暁 ( さと ) れども、勉 ( つと ) めて吾意 ( わがい ) に従はしめんと念 ( おも ) へば、さばかりの無遇 ( ぶあしらひ ) をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻鱺 ( うなぎ ) は上 ( あが ) りますか」
「鰻鱺? 遣りますよ」
「鶏肉 ( とり ) と何方が宜 ( よろし ) うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶 ( ごあいさつ ) ですね」
「何為 ( なぜ ) ですか」
この時貫一は始めて満枝の面 ( おもて ) に眼 ( まなこ ) を移せり。百 ( もも ) の媚 ( こび ) を含みて睼 ( みむか ) へし彼の眸 ( まなじり ) は、未 ( いま ) だ言はずして既にその言はんとせる半 ( なかば ) をば語尽 ( かたりつく ) したるべし。彼の為人 ( ひととなり ) を知りて畜生と疎 ( うと ) める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露 ( あらは ) して片笑 ( かたゑ ) みつつ、
「まあ、何為 ( なぜ ) でも宜うございますから、それでは鶏肉 ( とり ) に致しませうか」
「それも可 ( い ) いでせう」
三十間堀 ( さんじつけんぼり ) に出でて、二町ばかり来たる角 ( かど ) を西に折れて、唯 ( と ) 有る露地口に清らなる門構 ( かどがまへ ) して、光沢消硝子 ( つやけしガラス ) の軒燈籠 ( のきとうろう ) に鳥と標 ( しる ) したる方 ( かた ) に、人目にはさぞ解 ( わけ ) あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺 ( あたり ) に六畳の隠座敷の板道伝 ( わたりづたひ ) に離れたる一間に案内されしも宜 ( うべ ) なり。
懼 ( おそ ) れたるにもあらず、困 ( こう ) じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色 ( けしき ) にて貫一の容 ( かたち ) さへ可慎 ( つつま ) しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸 ( おもひか ) けざる為体 ( ていたらく ) を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早 ( いちはや ) く満枝が好きに計ひて、少頃 ( しばし ) は言 ( ことば ) 無き二人が中に置れたる莨盆 ( たばこぼん ) は子細らしう一炷 ( ちゆう ) の百和香 ( ひやつかこう ) を燻 ( くゆ ) らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰 ( おつしや ) らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘 ( うそ ) を有仰 ( おつしや ) いまし」
かくても貫一は膝 ( ひざ ) を崩 ( くづ ) さで、巻莨入 ( まきたばこいれ ) を取出 ( とりいだ ) せしが、生憎 ( あやにく ) 一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先 ( さきん ) じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
麻蝦夷 ( あさえぞ ) の御主殿持 ( ごしゆでんもち ) とともに薦 ( すす ) むる筒の端 ( はし ) より焼金 ( やききん ) の吸口は仄 ( ほのか ) に耀 ( かがや ) けり。歯は黄金 ( きん ) 、帯留は黄金 ( きん ) 、指環は黄金 ( きん ) 、腕環は黄金 ( きん ) 、時計は黄金 ( きん ) 、今又煙管 ( きせる ) は黄金 ( きん ) にあらずや。黄金 ( きん ) なる哉 ( かな ) 、金 ( きん ) 、金 ( きん ) ! 知る可 ( べ ) し、その心も金 ( きん ) ! と貫一は独 ( ひと ) り可笑 ( をか ) しさに堪 ( た ) へざりき。
「いや、私は日本莨は一向可 ( い ) かんので」
言ひも訖 ( をは ) らぬ顔を満枝は熟 ( じつ ) と視 ( み ) て、
「決 ( け ) して穢 ( きたな ) いのでは御坐いませんけれど、つい心着 ( こころつ ) きませんでした」
懐紙 ( ふところがみ ) を出 ( いだ ) してわざとらしくその吸口を捩拭 ( ねぢぬぐ ) へば、貫一も少 ( すこし ) く慌 ( あわ ) てて、
「決 ( け ) してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐 ( つ ) きなさるなら、もう少し物覚 ( ものおぼえ ) を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵 ( わにぶち ) さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪 ( ひようたん ) のやうな恰好 ( かつこう ) のお煙管で、さうして羅宇 ( らう ) の本 ( もと ) に些 ( ちよつ ) と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓 ( とみ ) に塞 ( ふさ ) がざりき。満枝は仇無 ( あどな ) げに口を掩 ( おほ ) ひて笑へり。この罰として貫一は直 ( ただち ) に三服の吸付莨を強 ( し ) ひられぬ。
とかくする間 ( ま ) に盃盤 ( はいばん ) は陳 ( つら ) ねられたれど、満枝も貫一も三盃 ( ばい ) を過し得ぬ下戸 ( げこ ) なり。女は清めし猪口 ( ちよく ) を出 ( いだ ) して、
「貴方、お一盞 ( ひとつ ) 」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒 ( ビール ) に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑 ( すす ) めて酌せんとこそあるべきに、甚 ( はなはだし ) い哉、彼の手を束 ( つか ) ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞 ( ひとつ ) お受け下さいましな」
貫一は止む無くその一盞 ( ひとつ ) を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅 ( おぐるめ ) の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
彼は忽 ( たちま ) ち眉 ( まゆ ) を攅 ( あつ ) めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴 ( いただ ) きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外 ( ほか ) に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難 ( にく ) い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様 ( はばかりさま ) ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意 ( つもり ) なのでございますもの」
その媚 ( こび ) ある目の辺 ( ほとり ) は漸 ( やうや ) く花桜の色に染みて、心楽しげに稍 ( やや ) 身を寛 ( ゆるやか ) に取成したる風情 ( ふぜい ) は、実 ( げ ) に匂 ( にほひ ) など零 ( こぼ ) れぬべく、熱しとて紺の絹精縷 ( きぬセル ) の被風 ( ひふ ) を脱げば、羽織は無くて、粲然 ( ぱつ ) としたる紋御召の袷 ( あはせ ) に黒樗文絹 ( くろちよろけん ) の全帯 ( まるおび ) 、華麗 ( はなやか ) に紅 ( べに ) の入りたる友禅の帯揚 ( おびあげ ) して、鬢 ( びん ) の後 ( おく ) れの被 ( かか ) る耳際 ( みみぎは ) を掻上 ( かきあ ) ぐる左の手首には、早蕨 ( さわらび ) を二筋 ( ふたすぢ ) 寄せて蝶 ( ちよう ) の宿れる形 ( かた ) したる例の腕環の爽 ( さはやか ) に晃 ( きらめ ) き遍 ( わた ) りぬ。常に可忌 ( いまは ) しと思へる物をかく明々地 ( あからさま ) に見せつけられたる貫一は、得堪 ( えた ) ふまじく苦 ( にが ) りたる眉状 ( まゆつき ) して密 ( ひそか ) に目を翥 ( そら ) しつ。彼は女の貴族的に装 ( よそほ ) へるに反して、黒紬 ( くろつむぎ ) の紋付の羽織に藍千筋 ( あゐせんすぢ ) の秩父銘撰 ( ちちぶめいせん ) の袷着て、白縮緬 ( しろちりめん ) の兵児帯 ( へこおび ) も新 ( あたらし ) からず。
彼を識 ( し ) れりし者は定めて見咎 ( みとが ) むべし、彼の面影 ( おもかげ ) は尠 ( すくな ) からず変りぬ。愛らしかりしところは皆失 ( う ) せて、四年 ( よとせ ) に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自 ( おのづか ) ら暗き陰を成してその面 ( おもて ) を蔽 ( おほ ) へり。撓 ( たゆ ) むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色 ( がんしよく ) の表に動けども、嘗 ( かつ ) て宮を見しやうの優き光は再びその眼 ( まなこ ) に輝かずなりぬ。見ることの冷 ( ひややか ) に、言ふことの謹 ( つつし ) めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎 ( な ) るるを憚 ( はばか ) れば、自 ( みづから ) もまた苟 ( いやしく ) も親みを求めざるほどに、同業者は誰 ( たれ ) も誰も偏人として彼を遠 ( とほざ ) けぬ。焉 ( いづく ) んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪 ( あやし ) むなりけり。
彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃 ( さかづき ) を重ぬる体 ( てい ) を打目戍 ( うちまも ) れり。
「もう一盞 ( ひとつ ) 戴きませうか」
笑 ( ゑみ ) を漾 ( ただ ) ふる眸 ( まなじり ) は微醺 ( びくん ) に彩られて、更に別様の媚 ( こび ) を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「貴方 ( あなた ) が止せと仰有 ( おつしや ) るなら私は止します」
「敢 ( あへ ) て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
答無かりければ、満枝は手酌 ( てじやく ) してその半 ( なかば ) を傾けしが、見る見る頬の麗く紅 ( くれなゐ ) になれるを、彼は手もて掩 ( おほ ) ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
貫一は聞かざる為 ( まね ) して莨を燻 ( くゆ ) らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
満枝は嘲 ( あざけら ) むが如く微笑 ( ほほゑ ) みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障 ( さ ) へては困りますの。然 ( しか ) し、御酒 ( ごしゆ ) の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意 ( つもり ) で、宜 ( よろし ) うございますか」
「撞着 ( どうちやく ) してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰 ( おつしや ) らずに、高 ( たか ) が女の申すことでございますから」
こは事難 ( ことむづかし ) うなりぬべし。克 ( かな ) はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱 ( こまぬ ) きつつ俯目 ( ふしめ ) になりて、力 ( つと ) めて関 ( かかは ) らざらんやうに持成 ( もてな ) すを、満枝は擦寄 ( すりよ ) りて、
「これお一盞 ( ひとつ ) で後は決 ( け ) してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
貫一は些 ( さ ) の言 ( ことば ) も出 ( いだ ) さでその猪口 ( ちよく ) を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
「易 ( やす ) い願ですな」と、あはや出 ( い ) でんとせし唇 ( くちびる ) を結びて、貫一は纔 ( わづか ) に苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未 ( ま ) だお長くゐらつしやるお意 ( つもり ) なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
「勿論 ( もちろん ) です」
「さうして、まづ何頃 ( いつごろ ) 彼方 ( あちら ) と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
満枝は忽 ( たちま ) ち声を斂 ( をさ ) めて、物思はしげに差俯 ( さしうつむ ) き、莨盆の縁 ( ふち ) をば弄 ( もてあそ ) べるやうに煙管 ( きせる ) もて刻 ( きざみ ) を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽 ( にはか ) に晦 ( くら ) むに驚きて顔を挙 ( あぐ ) れば、又旧 ( もと ) の如く一間 ( ひとま ) は明 ( あかる ) うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫 ( なほしば ) し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚 ( はなは ) だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方 ( あちら ) にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜 ( よろし ) いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸 ( をこ ) がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
意外に打れたる貫一は箸 ( はし ) を扣 ( ひか ) へて女の顔を屹 ( き ) と視 ( み ) たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠 ( くちごも ) りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫 ( あかがし ) に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「全然 ( さつぱり ) 解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
可恨 ( うらめ ) しげに満枝は言 ( ことば ) を絶ちて、横膝 ( よこひざ ) に莨を拈 ( ひね ) りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
貫一が飯桶 ( めしつぎ ) を引寄せんとするを、はたと抑 ( おさ ) へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様 ( はばかりさま ) です」
満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀 ( ちやわん ) をそれに伏せて、彼方 ( あなた ) の壁際 ( かべぎは ) に推遣 ( おしや ) りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克 ( かな ) はんですから赦 ( ゆる ) して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒 ( ひもじ ) いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛 ( つら ) うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方 ( こちら ) で思つてゐることが全 ( まる ) で先方 ( さき ) へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐 ( はるか ) に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰 ( おつしや ) ることの主意が能 ( よ ) く解らんのですもの」
「何故 ( なぜ ) お了解 ( わかり ) になりませんの」
責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰 ( なじ ) るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処 ( あすこ ) を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が空 ( す ) いて来ました」
「それとも貴方外 ( ほか ) にお約束でも遊ばした御方がお在 ( あん ) なさるのでございますか」
彼終 ( つひ ) に鋒鋩 ( ほうぼう ) を露 ( あらは ) し来 ( きた ) れるよと思へば、貫一は猶 ( なほ ) 解せざる体 ( てい ) を作 ( な ) して、
「妙な事を聞きますね」
と苦笑せしのみにて続く言 ( ことば ) もあらざるに、満枝は図を外 ( はづ ) されて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお在 ( あん ) なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
貫一も今は屹 ( きつ ) と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解 ( わかり ) になりまして⁈」
嬉しと心を言へらんやうの気色 ( けしき ) にて、彼の猪口 ( ちよく ) に余 ( あま ) せし酒を一息 ( ひといき ) に飲乾 ( のみほ ) して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
発 ( はずみ ) に乗せられて貫一は思はず受 ( うく ) ると斉 ( ひとし ) く盈々 ( なみなみ ) 注 ( そそが ) れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜 ( よろこび ) !
「その盃は清めてございませんよ」
一々底意ありて忽諸 ( ゆるがせ ) にすべからざる女の言を、彼はいと可煩 ( わづらはし ) くて持余 ( もてあま ) せるなり。
「お了解 ( わかり ) になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
僅 ( わづか ) にかく言ひ放ちて貫一は厳 ( おごそ ) かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔 ( ゑひ ) を冷 ( さま ) して、彼の気色 ( けしき ) を候 ( うかが ) ひたりしに、例の言寡 ( ことばすくな ) なる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻 ( はづかし ) い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
貫一は緩 ( ゆるや ) かに頷 ( うなづ ) けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々 ( よくよく ) の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰 ( おつしや ) つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「御尤 ( ごもつとも ) です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹 ( つつ ) まず自分の考量 ( かんがへ ) をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆 ( ひと ) とは大きに考量が違つてをります。
第一、私は一生妻 ( さい ) といふ者は決 ( け ) して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷 ( や ) めて、この商売を始めたのは、放蕩 ( ほうとう ) で遣損 ( やりそこな ) つたのでもなければ、敢 ( あへ ) て食窮 ( くひつ ) めた訳でも有りませんので。書生が可厭 ( いや ) さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外 ( ほか ) に幾多 ( いくら ) も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日 ( はくじつ ) 盗 ( とう ) を為 ( な ) すと謂 ( い ) はうか、病人の喉口 ( のどくち ) を干 ( ほ ) すと謂 ( い ) はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択 ( えら ) むものですか」
聴居る満枝は益 ( ますま ) す酔 ( ゑひ ) を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日 ( こんにち ) 始めて知つたのではない、知つて身を堕 ( おと ) したのは、私は当時敵手 ( さき ) を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念極 ( きはま ) る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼 ( たのみ ) にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
火影 ( ひかげ ) を避けんとしたる彼の目の中に遽 ( にはか ) に耀 ( かがや ) けるは、なほ新 ( あらた ) なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少 ( たのみすくな ) い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原 ( もと ) はと云へば、金銭 ( かね ) からです。仮初 ( かりそめ ) にも一匹 ( いつぴき ) の男子たる者が、金銭 ( かね ) の為に見易 ( みか ) へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一 ( い ) ……一生忘れられんです。
軽薄でなければ詐 ( いつはり ) 、詐でなければ利慾、愛相 ( あいそ ) の尽きた世の中です。それほど可厭 ( いや ) な世の中なら、何為 ( なぜ ) 一思 ( ひとおもひ ) に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障 ( さはり ) になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐 ( ふくしゆう ) などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹 ( きつ ) と霽 ( はら ) さなければ措 ( お ) かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全 ( まる ) で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚 ( はなはだし ) い、殆 ( ほとん ) ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴 ( あら ) してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭 ( かね ) ゆゑに売られもすれば、辱 ( はづかし ) められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽 ( たのしみ ) に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望 ( のぞみ ) も持たんのです。又考へて見ると、憖 ( なまじ ) ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐 ( はる ) か頼 ( たのみ ) になりますよ。頼にならんのは人の心です!
先 ( まづ ) かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰 ( おつしや ) る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
彼は仰ぎて高笑 ( たかわらひ ) しつつも、その面 ( おもて ) は痛く激したり。
満枝は、彼の言 ( ことば ) の決して譌 ( いつはり ) ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実 ( げ ) にさるべき所見 ( かんがへ ) を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故 ( ゆゑ ) に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉 ( とびら ) を閉ぢて、詐 ( いつはり ) と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁 ( さと ) らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙 ( たやす ) く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌 ( きらひ ) で、総 ( すべ ) ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚 ( ほ ) れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解 ( わかり ) になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
今は取付く島も無くて、満枝は暫 ( しば ) し惘然 ( ぼうぜん ) としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
打萎 ( うちしを ) れつつ満枝は飯 ( めし ) を盛りて出 ( いだ ) せり。
「これは恐入ります」
彼は啖 ( くら ) ふこと傍 ( かたはら ) に人無き若 ( ごと ) し。満枝の面 ( おもて ) は薄紅 ( うすくれなゐ ) になほ酔 ( ゑひ ) は有りながら、酔 ( よ ) へる体 ( てい ) も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
かく会釈して貫一は三盃目 ( さんばいめ ) を易 ( か ) へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣 ( ふく ) みて遽 ( にはか ) に応 ( こた ) ふる能 ( あた ) はず、唯目を挙 ( あ ) げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時 ( しばらく ) 胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶 ( ことわり ) を受けては、私実に面目 ( めんぼく ) 無くて……余 ( あんま ) り悔 ( くやし ) うございますわ」
慌忙 ( あわただし ) くハンカチイフを取りて、片手に恨泣 ( うらみなき ) の目元を掩 ( おほ ) へり。
「面目無くて私、この座が起 ( たた ) れません。間さん、お察し下さいまし」
貫一は冷々 ( ひややか ) に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総 ( すべ ) ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪 ( あし ) からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅 ( おぐるめ ) の件に就いてのお話は?」
泣赤 ( なきあか ) めたる目を拭 ( ぬぐ ) ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜 ( よろし ) うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召 ( おぼしめ ) して下さい。で、お可厭 ( いや ) ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日 ( いつ ) までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと優 ( やさし ) い言 ( ことば ) をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰 ( おつしや ) りやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は決 ( け ) して忘れません。これなら宜いでせう」
満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然 ( ひらり ) と貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠 ( ちからこも ) りて、その太股 ( ふともも ) を絶 ( したた ) か撮 ( つめ ) れば、貫一は不意の痛に覆 ( くつがへ ) らんとするを支へつつ横様 ( よこさま ) に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢 ( をんな ) を呼ぶなりけり。
赤坂氷川 ( あかさかひかわ ) の辺 ( ほとり ) に写真の御前 ( ごぜん ) と言へば知らぬ者無く、実 ( げ ) にこの殿の出 ( い ) づるに写真機械を車に積みて随 ( したが ) へざることあらざれば、自 ( おのづか ) ら人目を逭 ( のが ) れず、かかる異名 ( いみよう ) は呼るるにぞありける。子細 ( しさい ) を明めずしては、「将棊 ( しようぎ ) の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器 ( うつは ) を抱 ( いだ ) きながら、五年を独逸 ( ドイツ ) に薫染せし学者風を喜び、世事を抛 ( なげう ) ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆 ( ほしいまま ) にすれども、なほ歳 ( とし ) の入るものを計るに正 ( まさ ) に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春 ( たづみよしはる ) その人なり。
氷川なる邸内には、唐破風造 ( からはふづくり ) の昔を摸 ( うつ ) せる館 ( たち ) と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造 ( れんがづくり ) の異 ( あやし ) きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄 ( すき ) にて、独逸に名ある古城の面影 ( おもかげ ) を偲 ( しの ) びてここに象 ( かたど ) れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充 ( あ ) てて、万足 ( よろづた ) らざる無き閑日月 ( かんじつげつ ) をば、書に耽 ( ふけ ) り、画に楽 ( たのし ) み、彫刻を愛し、音楽に嘯 ( うそぶ ) き、近き頃よりは専 ( もつぱ ) ら写真に遊びて、齢 ( よはひ ) 三十四に迨 ( およ ) べども頑 ( がん ) として未 ( いま ) だ娶 ( めと ) らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然 ( ひようぜん ) として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自 ( おのづか ) らなる七万石の品格は、面白 ( おもてしろ ) う眉秀 ( まゆひい ) でて、鼻高く、眼爽 ( まなこさはやか ) に、形 ( かたち ) の清 ( きよら ) に揚 ( あが ) れるは、皎 ( こう ) として玉樹 ( ぎよくじゆ ) の風前に臨めるとも謂 ( い ) ふべくや、御代々 ( ごだいだい ) 御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
かかれば良縁の空 ( むなし ) からざること、蝶 ( ちよう ) を捉 ( とら ) へんとする蜘蛛 ( くも ) の糸より繁 ( しげ ) しといへども、反顧 ( かへりみ ) だに為 ( せ ) ずして、例の飄然忍びては酔 ( ゑひ ) の紛れの逸早 ( いつはや ) き風流 ( みやび ) に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌 ( いさめ ) などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛 ( あひあい ) して、末の契も堅く、月下の小舟 ( をぶね ) に比翼の櫂 ( かひ ) を操 ( あやつ ) り、スプレイの流を指 ( ゆびさ ) して、この水の終 ( つひ ) に涸 ( か ) るる日はあらんとも、我が恋の燄 ( ほのほ ) の消ゆる時あらせじ、と互の誓詞 ( せいし ) に詐 ( いつはり ) はあらざりけるを、帰りて母君に請 ( こ ) ふことありしに、いと太 ( いた ) う驚かれて、こは由々 ( ゆゆ ) しき家の大事ぞや。夷狄 ( いてき ) は□□〈[#「□□」は2倍の長方形]〉 よりも賤 ( いやし ) むべきに、畏 ( かしこ ) くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣 ( きんじゆう ) の檻 ( おり ) と為すべき。あな、可疎 ( うとま ) しの吾子 ( あこ ) が心やと、涙と共に掻口説 ( かきくど ) きて、悲 ( かなし ) び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無 ( せんな ) くて、心苦う思ひつつも、猶 ( なほ ) 行末をこそ頼めと文の便 ( たより ) を度々 ( たびたび ) に慰めて、彼方 ( あなた ) も在るにあられぬ三年 ( みとせ ) の月日を、憂 ( う ) きは死ななんと味気 ( あぢき ) なく過せしに、一昨年 ( をととし ) の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存 ( ながら ) へかねし身の苦悩 ( くるしみ ) を、御神 ( みかみ ) の恵 ( めぐみ ) に助けられて、導かれし天国の杳 ( よう ) として原 ( たづ ) ぬべからざるを、いとど可懐 ( なつか ) しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益 ( ますま ) す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐 ( ただおもひ ) を亡 ( な ) き人に寄せて、形見こそ仇 ( あだ ) ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女 ( かのをんな ) が十九の春の色を苦 ( ねんごろ ) に手写 ( しゆしや ) して、嘗 ( かつ ) て貽 ( おく ) りしものなりけり。
殿はこの失望の極放肆 ( ほうし ) 遊惰の裏 ( うち ) に聊 ( いささ ) か懐 ( おもひ ) を遣 ( や ) り、一具の写真機に千金を擲 ( なげう ) ちて、これに嬉戯すること少児 ( しように ) の如く、身をも家をも外 ( ほか ) にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛 ( くろやなぎもとえ ) ありて、その人迂 ( う ) ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴 ( いただ ) ける田鶴見家も、幸 ( さいはひ ) に些 ( さ ) の破綻 ( はたん ) を生ずる無きを得てけり。
彼は貨殖の一端として密 ( ひそか ) に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至 ( ないし ) 一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以 ( も ) て、高利貸の大口を引受くる輩 ( はい ) のここに便 ( たよ ) らんとせざるはあらず。されども慧 ( さかし ) き畔柳は事の密なるを策の上と為 ( な ) して叨 ( みだり ) に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行 ( ただゆき ) の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺 ( いづれ ) にか金穴 ( きんけつ ) あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
鰐淵 ( わにぶち ) の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯 ( うしろだて ) ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂 ( い ) ふにも足らぬ足軽頭 ( あしがるがしら ) に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後 ( のち ) 出 ( い ) でて小役人を勤め、転じて商社に事 ( つか ) へ、一時或 ( あるひ ) は地所家屋の売買を周旋し、万年青 ( おもと ) を手掛け、米屋町 ( こめやまち ) に出入 ( しゆつにゆう ) し、何 ( いづ ) れにしても世渡 ( よわたり ) の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟 ( つひ ) には警部にまで取立てられしを、中ごろにして金 ( きん ) これ権 ( けん ) と感ずるところありて、奉職中蓄得 ( たくはへえ ) たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未 ( いま ) だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或 ( ある ) は欺き、或は嚇 ( おど ) し、或は賺 ( すか ) し、或は虐 ( しひた ) げ、纔 ( わづか ) に法網を潜 ( くぐ ) り得て辛 ( から ) くも繩附 ( なはつき ) たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比 ( ころ ) 、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎 ( とら ) に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆 ( ほとん ) ど数万に上るとぞ聞えし。
畔柳はこの手より穫 ( とりい ) るる利の半 ( なかば ) は、これを御殿 ( ごてん ) の金庫に致し、半はこれを懐 ( ふところ ) にして、鰐淵もこれに因 ( よ ) りて利し、金 ( きん ) は一 ( いつ ) にしてその利を三にせる家令が六臂 ( ろつぴ ) の働 ( はたらき ) は、主公が不生産的なるを補ひて猶 ( なほ ) 余ありとも謂 ( い ) ふべくや。
鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢 ( すてばち ) の身を寄せて、牛頭馬頭 ( ごずめず ) の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年 ( よとせ ) の今日 ( こんにち ) まで寄寓 ( きぐう ) せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇 ( あつか ) はれ、手代となり、顧問となりて、主 ( あるじ ) の重宝大方ならざれば、四年 ( よとせ ) の久 ( ひさし ) きに弥 ( わた ) れども主は彼を出 ( いだ ) すことを喜ばず、彼もまた家を構 ( かま ) ふる必要無ければ、敢 ( あへ ) て留るを厭 ( いと ) ふにもあらで、手代を勤むる傍 ( かたはら ) 若干 ( そくばく ) の我が小額をも運転して、自 ( おのづか ) ら営む便 ( たより ) もあれば、今憖 ( なまじ ) ひにここを出でて痩臂 ( やせひぢ ) を張らんよりは、然 ( しか ) るべき時節の到来を待つには如 ( し ) かじと分別せるなり。彼は啻 ( ただ ) に手代として能 ( よ ) く働き、顧問として能く慮 ( おもんぱか ) るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢 ( よはひ ) を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己 ( おのれ ) を衒 ( てら ) はず、他 ( ひと ) を貶 ( おとし ) めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有 ( ありがた ) き若者なり、と鰐淵は寧 ( むし ) ろ心陰 ( こころひそか ) に彼を畏 ( おそ ) れたり。
主 ( あるじ ) は彼の為人 ( ひととなり ) を知りし後 ( のち ) 、如此 ( かくのごと ) き人の如何 ( いか ) にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己 ( おのれ ) の履歴を詐 ( いつは ) りて、如何なる失望の極身をこれに墜 ( おと ) せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕 ( あらは ) れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿 ( せんさく ) もせられで、やがては、暖簾 ( のれん ) を分けて屹 ( きつ ) としたる後見 ( うしろみ ) は為てくれんと、鰐淵は常に疎 ( おろそか ) ならず彼が身を念 ( おも ) ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯 ( みね ) は四十六なり。夫は心猛 ( たけ ) く、人の憂 ( うれひ ) を見ること、犬の嚏 ( くさめ ) の如く、唯貪 ( ただむさぼ ) りて饜 ( あ ) くを知らざるに引易へて、気立 ( きだて ) 優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有 ( も ) てるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義 ( りちぎ ) に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更 ( なほさら ) にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
いと幸 ( さち ) ありける貫一が身の上哉 ( かな ) 。彼は世を恨むる余 ( あまり ) その執念の駆 ( か ) るままに、人の生ける肉を啖 ( くら ) ひ、以つて聊 ( いささ ) か逆境に暴 ( さら ) されたりし枯膓 ( こちよう ) を癒 ( いや ) さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起 ( ほつき ) せる心中には、百の呵責 ( かしやく ) も、千の苦艱 ( くげん ) も固 ( もと ) より期 ( ご ) したるを、なかなかかかる寛 ( ゆたか ) なる信用と、かかる温 ( あたたか ) き憐愍 ( れんみん ) とを被 ( かうむ ) らんは、羝羊 ( ていよう ) の乳 ( ち ) を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉 ( かな ) 、彼はこの喜を如何 ( いか ) に喜びけるか。今は呵責をも苦艱 ( くげん ) をも敢 ( あへ ) て悪 ( にく ) まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終 ( つひ ) には慾の為に剥 ( は ) がれ、この憐愍 ( れんみん ) も利の為に吝 ( をし ) まるる時の目前なるべきを固く信じたり。
毒は毒を以て制せらる。鰐淵 ( わにぶち ) が債務者中に高利借の名にしおふ某 ( ぼう ) 党の有志家某あり。彼は三年来生殺 ( なまごろし ) の関係にて、元利五百余円の責 ( せめ ) を負ひながら、奸智 ( かんち ) を弄 ( ろう ) し、雄弁を揮 ( ふる ) ひ、大胆不敵に構 ( かま ) へて出没自在の計 ( はかりごと ) を出 ( いだ ) し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係 ( かか ) りては、逆捩 ( さかねぢ ) を吃 ( く ) ひて血反吐 ( ちへど ) を噴 ( はか ) されし者尠 ( すくな ) からざるを、鰐淵は弥 ( いよい ) よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿 ( かなてこ ) も折れぬべきに持余しつるを、克 ( かな ) はぬまでも棄措 ( すてお ) くは口惜 ( くちをし ) ければ、せめては令見 ( みせしめ ) の為にも折々釘 ( くぎ ) を刺して、再び那奴 ( しやつ ) の翅 ( はがい ) を展 ( の ) べしめざらんに如 ( し ) かずと、昨日 ( きのふ ) は貫一の曠 ( ぬか ) らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
彼は散々に飜弄 ( ほんろう ) せられけるを、劣らじと罵 ( ののし ) りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣 ( や ) らで壮 ( さかん ) に言争ひしが、病者に等き青二才と侮 ( あなど ) りし貫一の、陰忍 ( しんねり ) 強く立向ひて屈する気色 ( けしき ) あらざるより、有合ふ仕込杖 ( しこみつゑ ) を抜放し、おのれ還 ( かへ ) らずば生けては還さじと、二尺余 ( あまり ) の白刃を危 ( あやふ ) く突付けて脅 ( おびやか ) せしを、その鼻頭 ( はなさき ) に待 ( あしら ) ひて愈 ( いよい ) よ動かざりける折柄 ( をりから ) 、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来 ( かへりき ) にけるが、これが為に彼の感じ易 ( やす ) き神経は甚 ( はなはだし ) く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転 ( うた ) た勝 ( すぐ ) れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠 ( ひきこも ) れるなりけり。かかることありし翌日は夥 ( おびただし ) く脳の憊 ( つか ) るるとともに、心乱れ動きて、その憤 ( いか ) りし後 ( のち ) を憤り、悲みし後を悲まざれば已 ( や ) まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故 ( ゆゑ ) に彼は折に触れつつその体 ( たい ) の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸 ( やうや ) く慣れてけれど、彼の心は決 ( け ) してこの悪を作 ( な ) すに慣れざりき。唯能 ( ただよ ) く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来 ( じらい ) 終天の失望と恨との一日 ( いちじつ ) も忘るる能 ( あた ) はざるが為に、その苦悶 ( くもん ) の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪 ( た ) ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或 ( ある ) は人の加ふる侮辱に堪 ( た ) へずして、神経の過度に亢奮 ( こうふん ) せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙 ( びよう ) を得ることあり。
朗 ( ほがらか ) に秋の気澄みて、空の色、雲の布置 ( ただずまひ ) 匂 ( にほ ) はしう、金色 ( きんしよく ) の日影は豊に快晴を飾れる南受 ( みなみうけ ) の縁障子を隙 ( すか ) して、爽 ( さはやか ) なる肌寒 ( はださむ ) の蓐 ( とこ ) に長高 ( たけたか ) く痩 ( や ) せたる貫一は横 ( よこた ) はれり。蒼 ( あを ) く濁 ( にご ) れる頬 ( ほほ ) の肉よ、髐 ( さらば ) へる横顔の輪廓 ( りんかく ) よ、曇の懸れる眉 ( まゆ ) の下に物思はしき眼色 ( めざし ) の凝りて動かざりしが、やがて崩 ( くづ ) るるやうに頬杖 ( ほほづゑ ) を倒して、枕嚢 ( くくりまくら ) に重き頭 ( かしら ) を落すとともに寝返りつつ掻巻 ( かいまき ) 引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣 ( なげや ) りて仰向になりぬ。折しも誰 ( たれ ) ならん、階子 ( はしご ) を昇来 ( のぼりく ) る音す。貫一は凝然として目を塞 ( ふた ) ぎゐたり。紙門 ( ふすま ) を啓 ( あ ) けて入来 ( いりきた ) れるは主 ( あるじ ) の妻なり。貫一の慌 ( あわ ) てて起上るを、そのままにと制して、机の傍 ( かたはら ) に坐りつ。
「紅茶を淹 ( い ) れましたからお上んなさい。少しばかり栗 ( くり ) を茹 ( ゆ ) でましたから」
手籃 ( てかご ) に入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭 ( まくらもと ) に置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様 ( ごちそうさま ) でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
彼は会釈して珈琲茶碗 ( カフヒイちやわん ) を取上げしが、
「旦那 ( だんな ) は何時 ( いつ ) 頃お出懸 ( でかけ ) になりました」
「今朝は毎 ( いつも ) より早くね、氷川 ( ひかわ ) へ行くと云つて」
言ふも可疎 ( うとま ) しげに聞えけれど、さして貫一は意 ( こころ ) も留めず、
「はあ、畔柳 ( くろやなぎ ) さんですか」
「それがどうだか知れないの」
お峯は苦笑 ( にがわらひ ) しつ。明 ( あきらか ) なる障子の日脚 ( ひざし ) はその面 ( おもて ) の小皺 ( こじわ ) の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛 ( くし ) の歯通りて、一髪 ( いつぱつ ) を乱さず円髷 ( まるわげ ) に結ひて顔の色は赤き方 ( かた ) なれど、いと好く磨 ( みが ) きて清 ( きよら ) に滑 ( なめらか ) なり。鼻の辺 ( あたり ) に薄痘痕 ( うすいも ) ありて、口を引窄 ( ひきすぼ ) むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅 ( くろ ) めたるが、かかるをや烏羽玉 ( ぬばたま ) とも謂 ( い ) ふべく殆 ( ほとん ) ど耀 ( かがや ) くばかりに麗 ( うるは ) し。茶柳条 ( ちやじま ) のフラネルの単衣 ( ひとへ ) に朝寒 ( あささむ ) の羽織着たるが、御召縮緬 ( ちりめん ) の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「何為 ( なぜ ) ですか」
お峯は羽織の紐 ( ひも ) を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅 ( ためら ) へる風情 ( ふぜい ) なるを、強 ( し ) ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃 ( かご ) なる栗を取りて剥 ( む ) きゐたり。彼は姑 ( しばら ) く打案ぜし後、
「あの赤樫 ( あかがし ) の別品 ( べつぴん ) さんね、あの人は悪い噂 ( うはさ ) が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物 ( くひもの ) に為るとか云ふ……」
貫一は覚えず首を傾けたり。曩 ( さき ) の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴 ( あいつ ) 男を引掛けなくても金銭 ( かね ) には窮 ( こま ) らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可 ( い ) けない。お前さんなんぞもべいろしや 組の方ですよ。金銭 ( かね ) が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方 ( こつち ) へお貸しなさい」
「これは憚様 ( はばかりさま ) です」
お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々 ( まじまじ ) と手を束 ( つか ) ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便 ( たより ) あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択 ( えら ) みて、その頂 ( いただき ) よりナイフを加へつ。
「些 ( ちよい ) と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人 ( かたじん ) だから可いけれど、本当にあんな者に係合 ( かかりあ ) ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣 ( や ) ると云ふのは評判ですよ。金窪 ( かなくぼ ) さん、鷲爪 ( わしづめ ) さん、それから芥原 ( あくたはら ) さん、皆 ( みんな ) その話をしてゐましたよ」
「或 ( あるひ ) はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内 ( うち ) の人も同 ( おんな ) じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
お峯がナイフを執れる手は漸 ( やうや ) く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
お峯は又一つ取りて剥 ( む ) き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運 ( はこび ) は愈 ( いよい ) よ等閑 ( なほざり ) なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処 ( ここ ) きりの話ですからね」
「承知しました」
貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹 ( き ) とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自 ( おのづ ) から潜 ( ひそま ) りぬ。
「どうも私はこの間から異 ( をかし ) いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫 ( ひと ) があの別品さんに係合 ( かかりあひ ) を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑 ( ゆすりわらひ ) して、
「そんな馬鹿な事が、貴方 ( あなた ) ……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房 ( にようぼ ) の私が……それはもう間違無しよ!」
貫一は熟 ( じつ ) と思ひ入りて、
「旦那はお幾歳 ( いくつ ) でしたな」
「五十一、もう爺 ( ぢぢい ) ですわね」
彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの‼」
息巻くお峯の前に彼は面 ( おもて ) を俯 ( ふ ) して言はず、静に思廻 ( おもひめぐ ) らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言 ( ことば ) を継がざりしが、さて徐 ( おもむろ ) に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾 ( めかけ ) も楽 ( たのしみ ) も可うございます。これが芸者だとか、囲者 ( かこひもの ) だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫 ( あかがし ) さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡 ( ただ ) の代物 ( しろもの ) ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火 ( ちんちん ) なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落 ( しやれ ) た沙汰 ( さた ) ぢやありはしません。あんな者に係合 ( かかりあ ) つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫 ( ひと ) もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異 ( をかし ) いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶 ( しや ) れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下 ( したておろ ) し渾成 ( づくめ ) で、その奇麗事と謂 ( い ) つたら、何 ( いつ ) が日 ( ひ ) にも氷川へ行くのにあんなに靚 ( めか ) した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒 ( はがゆ ) くて心苛 ( いら ) つなるべし。
「はあ、事実とすれば弥 ( いよい ) よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気 ( りんき ) で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手 ( あひて ) が悪いからねえ」
思ひ直せども貫一が腑 ( ふ ) には落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃 ( いつごろ ) からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「然 ( しか ) し、何 ( な ) にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤 ( とつく ) り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処 ( そこ ) を突止めたいのだけれど、私の体 ( からだ ) ぢや戸外 ( おもて ) の様子が全然 ( さつぱり ) 解らないのですものね」
「御尤 ( ごもつとも ) 」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在 ( いで ) でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉 ( かな ) 、紅茶と栗と、と貫一はその余 ( あまり ) に安く売られたるが独 ( ひと ) り可笑 ( をかし ) かりき。
「いえ、一向差支 ( さしつかへ ) ございません。どういふ事ですか」
「さう? 余 ( あんま ) りお気の毒ね」
彼の赤き顔の色は耀 ( かがや ) くばかりに懽 ( よろこ ) びぬ。
「御遠慮無く有仰 ( おつしや ) つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
お峯は彼が然諾 ( ぜんだく ) の爽 ( さはやか ) なるに遇 ( あ ) ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧 ( はづかし ) く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若 ( も ) し行つたのなら、何頃 ( いつごろ ) 行つて何頃帰つたか、なあに、十 ( とを ) に九 ( ここのつ ) まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
彼は起ちて寝衣帯 ( ねまきおび ) を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今俥 ( くるま ) を呼びに遣 ( や ) るから」
かく言捨ててお峯は忙 ( せはし ) く階子 ( はしご ) を下行 ( おりゆ ) けり。
迹 ( あと ) に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩 ( わづら ) ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損 ( なりそこな ) つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
と端無 ( はしな ) く思ひ浮べては漫 ( そぞろ ) に独 ( ひと ) り打笑 ( うちゑま ) れつ。
貫一は直 ( ただち ) に俥 ( くるま ) を飛 ( とば ) して氷川なる畔柳 ( くろやなぎ ) のもとに赴 ( おもむ ) けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入 ( しゆつにゆう ) すべく、館 ( やかた ) の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣 ( もくげがき ) に取廻して、昔形気 ( むかしかたぎ ) の内に幽 ( ゆか ) しげに造成 ( つくりな ) したる二階建なり。構 ( かまへ ) の可慎 ( つつまし ) う目立たぬに引易 ( ひきか ) へて、木口 ( きぐち ) の撰択 ( せんたく ) の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
貫一も彼の主 ( あるじ ) もこの家に公然の出入 ( でいり ) を憚 ( はばか ) る身なれば、玄関側 ( わき ) なる格子口 ( こうしぐち ) より訪 ( おとづ ) るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物 ( はきもの ) は在らず。はや帰りしか、来 ( こ ) ざりしか、或 ( あるひ ) は未 ( いま ) だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言 ( ことば ) にも符号すれども、直 ( ただち ) にこれを以て疑を容 ( い ) るべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主 ( あるじ ) の妻の声して、連 ( しきり ) に婢 ( をんな ) の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出 ( い ) で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出 ( いで ) でした」
眼 ( まなこ ) のみいと大くて、病勝 ( やまひがち ) に痩衰 ( やせおとろ ) へたる五体は燈心 ( とうしみ ) の如く、見るだに惨々 ( いたいた ) しながら、声の明 ( あきらか ) にして張ある、何処 ( いづこ ) より出 ( い ) づる音 ( ね ) ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂 ( い ) へるその人なり。年は五十路 ( いそぢ ) ばかりにて頭 ( かしら ) の霜繁 ( しもしげ ) く夫よりは姉なりとぞ。
貫一は屋敷風の恭 ( うやうやし ) き礼を作 ( な ) して、
「はい、今日 ( こんにち ) は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方 ( こちら ) 様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出 ( いで ) はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸 ( かか ) りたいと申してをりましたところ。唯今 ( ただいま ) 御殿へ出てをりますので、些 ( ちよつ ) と呼びに遣りませうから、暫 ( しばら ) くお上んなすつて」
言はるるままに客間に通りて、端近 ( はしちか ) う控ふれば、彼は井 ( ゐ ) の端 ( はた ) なりし婢 ( をんな ) を呼立てて、速々 ( そくそく ) 主 ( あるじ ) の方 ( かた ) へ走らせつ。莨盆 ( たばこぼん ) を出 ( いだ ) し、番茶を出 ( いだ ) せしのみにて、納戸 ( なんど ) に入りける妻は再び出 ( い ) で来 ( きた ) らず。この間は貫一は如何 ( いか ) にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促 ( いきせ ) き還来 ( かへりき ) にける気勢 ( けはひ ) せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今些 ( ちよつ ) と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方 ( あちら ) へお出なすつて。直 ( ぢき ) 其処 ( そこ ) ですよ。婢に案内を為せます。あの豊 ( とよ ) や!」
暇乞 ( いとまごひ ) して戸口を出づれば、勝手元の垣の側 ( きは ) に二十歳 ( はたち ) かと見ゆる物馴顔 ( ものなれがほ ) の婢の待 ( ま ) てりしが、後 ( うしろ ) さまに帯㕞 ( おびかひつくろ ) ひつつ道知辺 ( みちしるべ ) す。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫 ( ざり ) を敷きたる径 ( こみち ) ありて、出外 ( ではづ ) るれば子爵家の構内 ( かまへうち ) にて、三棟 ( みむね ) 並べる塗籠 ( ぬりごめ ) の背後 ( うしろ ) に、桐 ( きり ) の木高く植列 ( うゑつら ) ねたる下道 ( したみち ) の清く掃いたるを行窮 ( ゆきつむ ) れば、板塀繞 ( いたべいめぐ ) らせる下屋造 ( げやつくり ) の煙突より忙 ( せは ) しげなる煙 ( けふり ) 立昇りて、折しも御前籠 ( ごぜんかご ) 舁入 ( かきい ) るるは通用門なり。貫一もこれを入 ( い ) りて、余所 ( よそ ) ながら過来 ( すぎこ ) し厨 ( くりや ) に、酒の香 ( か ) 、物煮る匂頻 ( にほひしき ) りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響 ( ひしめき ) したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間 ( ひとま ) に導かれぬ。
畔柳元衛 ( くろやなぎもとえ ) の娘静緒 ( しずお ) は館 ( やかた ) の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持 ( とりもち ) に召れて、高髷 ( たかわげ ) 、変裏 ( かはりうら ) に粧 ( よそひ ) を改め、お傍不去 ( そばさらず ) に麁略 ( そりやく ) あらせじと冊 ( かしづ ) くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先 ( ま ) づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子 ( まはりばしご ) の半 ( なかば ) を昇行 ( のぼりゆ ) く後姿 ( うしろすがた ) に、その客の如何 ( いか ) に貴婦人なるかを窺 ( うかが ) ふべし。鬘 ( かつら ) ならではと見ゆるまでに結做 ( ゆひな ) したる円髷 ( まるわげ ) の漆の如きに、珊瑚 ( さんご ) の六分玉 ( ろくぶだま ) の後挿 ( うしろざし ) を点じたれば、更に白襟 ( しろえり ) の冷豔 ( れいえん ) 物の類 ( たぐ ) ふべき無く、貴族鼠 ( きぞくねずみ ) の縐高縮緬 ( しぼたかちりめん ) の五紋 ( いつつもん ) なる単衣 ( ひとへ ) を曳 ( ひ ) きて、帯は海松 ( みる ) 色地に装束 ( しようぞく ) 切摸 ( きれうつし ) の色紙散 ( しきしちらし ) の七糸 ( しちん ) を高く負ひたり。淡紅色 ( ときいろ ) 紋絽 ( もんろ ) の長襦袢 ( ながじゆばん ) の裾 ( すそ ) は上履 ( うはぐつ ) の歩 ( あゆみ ) に緩 ( ゆる ) く匂零 ( にほひこぼ ) して、絹足袋 ( きぬたび ) の雪に嫋々 ( たわわ ) なる山茶花 ( さざんか ) の開く心地す。
この麗 ( うるはし ) き容 ( かたち ) をば見返り勝に静緒は壁側 ( かべぎは ) に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯 ( うつむ ) きて昇 ( のぼ ) れるに、櫛 ( くし ) の蒔絵 ( まきゑ ) のいと能 ( よ ) く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失 ( そこ ) ねて、凄 ( すさまじ ) き響の中にあなや僵 ( たふ ) れんと為 ( し ) たり。幸 ( さいはひ ) に怪我 ( けが ) は無かりけれど、彼はなかなか己 ( おのれ ) の怪我などより貴客 ( きかく ) を駭 ( おどろ ) かせし狼藉 ( ろうぜき ) をば、得も忍ばれず満面に慚 ( は ) ぢて、
「どうも飛んだ麁相 ( そそう ) を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処 ( どこ ) もお傷 ( いた ) めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚 ( びつくり ) 遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
こ度 ( たび ) は薄氷 ( はくひよう ) を蹈 ( ふ ) む想 ( おもひ ) して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「些 ( ちよつ ) とお待ちなさい」
進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌 ( あわ ) て驚きて、
「あれ、恐入 ( おそれい ) ります」
「可 ( よ ) うございますよ。さあ、熟 ( じつ ) として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
争ひ得ずして竟 ( つひ ) に貴婦人の手を労 ( わづらは ) せし彼の心は、溢 ( あふ ) るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫 ( かをり ) あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書 ( じよししよ ) の内訓 ( ないくん ) に出でたりとて屡 ( しばし ) ば父に聴さるる「五綵服 ( ごさいふく ) を盛 ( さかん ) にするも、以つて身の華 ( か ) と為すに足らず、貞順道 ( ていじゆんみち ) に率 ( したが ) へば、乃 ( すなは ) ち以つて婦徳を進むべし」の本文 ( ほんもん ) に合 ( かな ) ひて、かくてこそ始めて色に矜 ( ほこ ) らず、その徳に爽 ( そむ ) かずとも謂ふべきなれ。愛 ( め ) でたき人にも遇 ( あ ) へるかなと絶 ( したたか ) に思入りぬ。
三階に着くより静緒は西北 ( にしきた ) の窓に寄り行きて、効々 ( かひがひ ) しく緑色の帷 ( とばり ) を絞り硝子戸 ( ガラスど ) を繰揚 ( くりあ ) げて、
「どうぞ此方 ( こちら ) へお出 ( いで ) あそばしまして。ここが一番見晴 ( みはらし ) が宜 ( よろし ) いのでございます」
「まあ、好 ( よ ) い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀 ( もくせい ) が匂 ( にほ ) ひますね、お邸内 ( やしきうち ) に在りますの?」
貴婦人はこの秋霽 ( しゆうせい ) の朗 ( ほがらか ) に濶 ( ひろ ) くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色 ( おももち ) して佇 ( たたず ) めり。窓を争ひて射入 ( さしい ) る日影は斜 ( ななめ ) にその姿を照して、襟留 ( えりどめ ) なる真珠は焚 ( も ) ゆる如く輝きぬ。塵 ( ちり ) をだに容 ( ゆる ) さず澄みに澄みたる添景の中 ( うち ) に立てる彼の容華 ( かほばせ ) は清く鮮 ( あざやか ) に見勝 ( みまさ ) りて、玉壺 ( ぎよくこ ) に白き花を挿 ( さ ) したらん風情 ( ふぜい ) あり。静緒は女ながらも見惚 ( みと ) れて、不束 ( ふつつか ) に眺入 ( ながめい ) りつ。
その目の爽 ( さはやか ) にして滴 ( したた ) るばかり情 ( なさけ ) の籠 ( こも ) れる、その眉 ( まゆ ) の思へるままに画 ( えが ) き成せる如き、その口元の莟 ( つぼみ ) ながら香 ( か ) に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃 ( きめこまやか ) に光をさへ帯びたる、色の透 ( とほ ) るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢 ( つややか ) に、頭 ( かしら ) も重げに束 ( つか ) ねられたれど、髪際 ( はへぎは ) の少 ( すこし ) く打乱れたると、立てる容 ( かたち ) こそ風にも堪 ( た ) ふまじく繊弱 ( なよやか ) なれど、面 ( おもて ) の痩 ( やせ ) の過ぎたる為に、自 ( おのづか ) ら愁 ( うれはし ) う底寂 ( そこさびし ) きと、頸 ( えり ) の細きが折れやしぬべく可傷 ( いたはし ) きとなり。
されどかく揃 ( そろ ) ひて好き容量 ( きりよう ) は未 ( いま ) だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外 ( ふみはづ ) せし麁忽 ( そこつ ) ははや忘れて、見据うる流盻 ( ながしめ ) はその物を奪はんと覘 ( ねら ) ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌 ( かたち ) ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍 ( かたはら ) には見劣せらるること夥 ( おびただし ) かり。彼は己 ( おのれ ) の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止 ( や ) まざりき。実 ( げ ) にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿 ( さ ) せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧 ( は ) づべき。婦 ( をんな ) の徳をさへ虧 ( か ) かでこの嬋娟 ( あでやか ) に生れ得て、しかもこの富めるに遇 ( あ ) へる、天の恵 ( めぐみ ) と世の幸 ( さち ) とを併 ( あは ) せ享 ( う ) けて、残る方 ( かた ) 無き果報のかくも痛 ( いみじ ) き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者 ( ふたつ ) は愜 ( かな ) はぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸 ( さいはひ ) は男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨 ( ものうらやみ ) の念強けれど、妬 ( ねた ) しとは及び難くて、静緒は心に畏 ( おそ ) るるなるべし。
彼は貴婦人の貌 ( かたち ) に耽 ( ふけ ) りて、その欵待 ( もてなし ) にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西 ( フランス ) より持ち帰られし名器なるを、漸 ( やうや ) く取出 ( とりいだ ) して薦 ( すす ) めたり。形は一握 ( いちあく ) の中に隠るるばかりなれど、能 ( よ ) く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉 ( ぎよく ) もて造られ、僅 ( わづか ) に黄金 ( きん ) 細工の金具を施したるのみ。
やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措 ( お ) くを忘らるるまでに愛 ( め ) でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽 ( ながめつく ) されて、彼はこの鏡 ( グラス ) の凡 ( ただ ) ならず精巧なるに驚ける状 ( さま ) なり。
「那処 ( あすこ ) に遠く些 ( ほん ) の小楊枝 ( こようじ ) ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄 ( あさぎ ) に赤い柳条 ( しま ) の模様まで昭然 ( はつきり ) 見えて、さうして旗竿 ( はたさを ) の頭 ( さき ) に鳶 ( とび ) が宿 ( とま ) つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度 ( たんと ) 御座いませんさうで、招魂社 ( しようこんしや ) のお祭の時などは、狼煙 ( のろし ) の人形が能 ( よ ) く見えるのでございます。私はこれを見まする度 ( たび ) にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜 ( よろし ) うございませう。余 ( あんま ) り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方 ( あちこち ) の音が一所に成つて粉雑 ( ごちやごちや ) になつて了 ( しま ) ひませう」
かく言ひて斉 ( ひとし ) く笑へり。静緒は客遇 ( きやくあしらひ ) に慣れたれば、可羞 ( はづか ) しげに見えながらも話を求むるには拙 ( つたな ) からざりき。
「私は始めてこれを見せて戴 ( いただ ) きました折、殿様に全然 ( すつかり ) 騙 ( だま ) されましたのでございます。鼻の前 ( さき ) に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直 ( すぐ ) にその眼鏡を耳に推付 ( おつつ ) けて見ろ、早くさへ耳に推付 ( おつつ ) ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
淀無 ( よどみな ) く語出 ( かたりい ) づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑 ( ゑ ) ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在 ( おいで ) でゐらつしやいましたが、皆為 ( みんななす ) つて御覧遊ばしました」
貴婦人は怺 ( こら ) へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水 ( はやみ ) と申す者は余 ( あんま ) り急ぎましたので、耳の此処 ( ここ ) を酷 ( ひど ) く打 ( ぶ ) ちまして、血を出したのでございます」
彼の歓 ( よろこ ) べるを見るより静緒は椅子を持来 ( もちきた ) りて薦 ( すす ) めし後、さて語り続くるやう。
「それで誰 ( たれ ) にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目 ( まじめ ) なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西 ( フランス ) に居た時には能 ( よ ) く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇 ( あくさげき ) を親く睹 ( み ) たらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白 ( おもしろ ) い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝 ( すぐ ) れ遊ばしませんので、お険 ( むづかし ) いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒 ( にはか ) に空目遣 ( そらめづかひ ) して物の思はしげに、例の底寂 ( そこさびし ) う打湿 ( うちしめ ) りて見えぬ。
やや有りて彼は徐 ( しづか ) に立ち上りけるが、こ回 ( たび ) は更に邇 ( ちか ) きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方 ( あなたこなた ) に差向くる筒の当所 ( あてど ) も無かりければ、偶 ( たまた ) ま唐楪葉 ( からゆづりは ) のいと近きが鏡面 ( レンズ ) に入 ( い ) り来 ( き ) て一面に蔓 ( はびこ ) りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自 ( おのづ ) から得忘れぬ面影に肖 ( に ) たるところあり。
貴婦人は差し向けたる手を緊 ( しか ) と据ゑて、目を拭 ( ぬぐ ) ふ間も忙 ( せはし ) く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉 ( えだは ) の遮 ( さへぎ ) りてとかくに思ふままならず。漸 ( やうや ) くその顔の明 ( あきらか ) に見ゆる隙 ( ひま ) を求めけるが、別に相対 ( さしむか ) へる人ありて、髪は黒けれども真額 ( まつかう ) の瑩々 ( てらてら ) 禿 ( は ) げたるは、先に挨拶 ( あいさつ ) に出 ( い ) でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃 ( まゆこ ) く、外眦 ( まなじり ) の昂 ( あが ) れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖 ( に ) たりとは未 ( おろか ) や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡 ( グラス ) 持てる手は兢々 ( わなわな ) と打顫 ( うちふる ) ひぬ。
行く水に数画 ( かずか ) くよりも儚 ( はかな ) き恋しさと可懐 ( なつか ) しさとの朝夕に、なほ夜昼の別 ( わかち ) も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年 ( よとせ ) の久きを、熱海の月は朧 ( おぼろ ) なりしかど、一期 ( いちご ) の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日 ( いつか ) は必ずと念懸 ( おもひか ) けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫 ( つゆ ) も昔に渝 ( かは ) らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何 ( いか ) なる労 ( わづらひ ) をやさまでは積みけん、齢 ( よはひ ) よりは面瘁 ( おもやつれ ) して、異 ( あやし ) うも物々しき分別顔 ( ふんべつかほ ) に老いにけるよ。幸薄 ( さいはひうす ) く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出 ( わきい ) でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮 ( あざやか ) に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪 ( た ) へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁 ( さと ) りて失 ( しな ) したりと思ひたれど、所為無 ( せんな ) くハンカチイフを緊 ( きびし ) く目に掩 ( あ ) てたり。静緒の驚駭 ( おどろき ) は謂ふばかり無く、
「あれ、如何 ( いか ) が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良 ( わるい ) ものですから、余 ( あんま ) り物を瞶 ( みつ ) めてをると、どうかすると眩暈 ( めまひ ) がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭 ( ぐし ) をお摩 ( さす ) り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直 ( ぢき ) に癒 ( なほ ) ります。憚 ( はばかり ) ですがお冷 ( ひや ) を一つ下さいましな」
静緒は驀地 ( ましぐら ) に行かんとす。
「あの、貴方 ( あなた ) 、誰にも有仰 ( おつしや ) らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽 ( うがひ ) をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏 ( かしこま ) りました」
彼の階子 ( はしご ) を下り行くと斉 ( ひとし ) く貴婦人は再び鏡 ( グラス ) を取りて、葉越 ( はごし ) の面影を望みしが、一目見るより漸含 ( さしぐ ) む涙に曇らされて、忽 ( たちま ) ち文色 ( あいろ ) も分かずなりぬ。彼は静無 ( しどな ) く椅子に崩折 ( くづを ) れて、縦 ( ほしいま ) まに泣乱したり。
この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継 ( ただつぐ ) と倶 ( とも ) に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交 ( くみかは ) す間 ( ま ) を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰 ( いづれ ) も日本写真会々員たるに因 ( よ ) れり。自 ( おのづか ) ら宮の除物 ( のけもの ) になりて二人の興に入 ( い ) れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意 ( こころ ) を獲 ( え ) んと力 ( つと ) めけるより、子爵も好みて交 ( まじは ) るべき人とも思はざれど、勢ひ疎 ( うとん ) じ難 ( がた ) くして、今は会員中善く識 ( し ) れるものの最 ( さい ) たるなり。爾来 ( じらい ) 富山は益 ( ますま ) す傾慕して措 ( お ) かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定 ( かんてい ) を乞ふを名として、曩 ( さき ) に芝西久保 ( しばにしのくぼ ) なる居宅に請じて疎 ( おろそか ) ならず饗 ( もてな ) す事ありければ、その返 ( かへし ) とて今日は夫婦を招待 ( しようだい ) せるなり。
会員等は富山が頻 ( しきり ) に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為 ( かれため ) にするところあらんなど言ひて陋 ( いやし ) み合へりけれど、その実敢 ( あへ ) て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交 ( まじは ) るところは、その地位に於 ( おい ) て、その名声に於て、その家柄に於て、或 ( あるひ ) はその資産に於て、孰 ( いづれ ) の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実 ( げ ) に彼は美き友を有 ( も ) てるなり。さりとて彼は未 ( いま ) だ曾 ( かつ ) てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強 ( あながち ) に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉 ( つと ) めて交 ( まじはり ) は求むるならん。故 ( ゆゑ ) に彼はその名簿の中に一箇 ( いつか ) の憂 ( うれひ ) を同 ( おなじ ) うすべき友をだに見出 ( みいだ ) さざるを知れり。抑 ( そもそ ) も友とは楽 ( たのしみ ) を共にせんが為の友にして、若 ( も ) し憂を同うせんとには、別に金銭 ( マネイ ) ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固 ( もと ) よりこの理に外ならず、寔 ( まこと ) に彼の択べる友は皆美けれども、尽 ( ことごと ) くこれ酒肉の兄弟 ( けいてい ) たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然 ( しか ) りと為 ( な ) すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を眊 ( かす ) めて、陋 ( いやし ) みても猶 ( なほ ) 余ある高利貸の手代に片思の涙を灑 ( そそ ) ぐにあらずや。
宮は傍 ( かたはら ) に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏 ( かきく ) れて、熱海の浜に打俯 ( うちふ ) したりし悲歎 ( なげき ) の足らざるをここに続 ( つ ) がんとすなるべし。階下 ( した ) より仄 ( ほのか ) に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭 ( かしら ) を支へつつ室 ( しつ ) の中央 ( まなか ) なる卓子 ( テエブル ) の周囲 ( めぐり ) を歩みゐたり。やがて静緒の持来 ( もちきた ) りし水に漱 ( くちそそ ) ぎ、懐中薬 ( かいちゆうくすり ) など服して後、心地復 ( をさま ) りぬとて又窓に倚 ( よ ) りて外方 ( とのがた ) を眺めたりしが、
「ちよいと、那処 ( あすこ ) に、それ、男の方の話をしてお在 ( いで ) の所も御殿の続きなのですか」
「何方 ( どちら ) でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内 ( やしきうち ) でございます。これから直 ( ぢき ) に見えまする、あの、倉の左手に高い樅 ( もみ ) の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直 ( ずつ ) とお宅の方へ行 ( い ) かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些 ( ちつ ) とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢 ( きたな ) うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
宮はここを去らんとして又葉越 ( はごし ) の面影を窺 ( うかが ) へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処 ( あすこ ) にお父様 ( とつさま ) とお話をしてゐらつしやるのは何地 ( どちら ) の方ですか」
彼の親達は常に出入 ( でいり ) せる鰐淵 ( わにぶち ) の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告 ( つぐ ) るなり。
「他 ( あれ ) は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買 ( うりかひ ) を致してをります者の手代で、間 ( はざま ) とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
宮は聞えよがしに独語 ( ひとりご ) ちて、その違 ( たが ) へるを訝 ( いぶか ) るやうに擬 ( もてな ) しつつ又其方 ( そなた ) を打目戍 ( うちまも ) れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
この物語に因 ( よ ) りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何 ( いか ) にとも逢ふべき便 ( たより ) はあらんと、獲難 ( えがた ) き宝を獲たるにも勝 ( まさ ) れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日 ( いつ ) をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇 ( あだ ) に、余所 ( よそ ) ながら見て別れんは本意無 ( ほいな ) からずや。若 ( も ) し彼の眼 ( まなこ ) に睨 ( にら ) まれんとも、互の面 ( おもて ) を合せて、言 ( ことば ) は交 ( かは ) さずとも切 ( せめ ) ては相見て相知らばやと、四年 ( よとせ ) を恋に饑 ( う ) ゑたる彼の心は熬 ( いら ) るる如く動きぬ。
さすがに彼の気遣 ( きづか ) へるは、事の危 ( あやふ ) きに過ぎたるなり。附添さへある賓 ( まらうど ) の身にして、賤 ( いやし ) きものに遇 ( あつか ) はるる手代風情 ( ふぜい ) と、しかもその邸内 ( やしきうち ) の径 ( こみち ) に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑 ( そも ) や幾許 ( いかばか ) り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面 ( おもて ) に唾吐 ( つばはか ) るるも厭 ( いと ) はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬 ( あふせ ) は今日の一日 ( ひとひ ) に限らぬものを、事の破 ( やぶれ ) を目に見て愚に躁 ( はやま ) るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機 ( をり ) ならず、辛 ( つら ) くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺 ( すか ) して、邸内 ( やしきうち ) を一周せんと、西洋館の後 ( うしろ ) より通用門の側 ( わき ) に出でて、外塀際 ( そとべいぎは ) なる礫道 ( ざりみち ) を行けば、静緒は斜 ( ななめ ) に見ゆる父が詰所の軒端 ( のきば ) を指 ( さ ) して、
「那処 ( あすこ ) が唯今の客の参つてをります所でございます」
実 ( げ ) に唐楪葉 ( からゆづりは ) は高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴 ( きな ) けり。宮が胸は異 ( あやし ) うつと塞 ( ふたが ) りぬ。
楼 ( たかどの ) を下りてここに来たるは僅少 ( わづか ) の間 ( ひま ) なれば、よもかの人は未 ( いま ) だ帰らざるべし、若しここに出で来 ( きた ) らば如何 ( いか ) にすべきなど、さすがに可恐 ( おそろし ) きやうにも覚えて、歩 ( あゆみ ) は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入 ( い ) らで、さて行くほどに裏門の傍 ( かたはら ) に到りぬ。
遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙 ( あぐ ) れども何処 ( いづこ ) を眺むるにもあらず、俯 ( うつむ ) き勝に物思はしき風情 ( ふぜい ) なるを、静緒は怪くも気遣 ( きづかはし ) くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未 ( ま ) だ何だか胸が少し悪いので」
「それはお宜 ( よろし ) うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
「家 ( うち ) の中よりは戸外 ( おもて ) の方が未だ可いので、もう些 ( ち ) と歩いてゐる中には復 ( をさま ) りますよ。ああ、此方 ( こちら ) がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿 ( もくげ ) が盛 ( さかり ) ですこと。白ばかりも淡白 ( さつぱり ) して好 ( よ ) いぢやありませんか」
畔柳の住居 ( すまひ ) を限として、それより前 ( さき ) は道あれども、賓 ( まらうど ) の足を容 ( い ) るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣 ( まだらがき ) の此方 ( こなた ) に、樫 ( かし ) の実の夥 ( おびただし ) く零 ( こぼ ) れて、片側 ( かたわき ) に下水を流せる細路 ( ほそみち ) を鶏の遊び、犬の睡 ( ねむ ) れるなど見るも悒 ( いぶせ ) きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼 ( おそれ ) は忽 ( たちま ) ちその心を襲へり。
この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来 ( いできた ) るに会はば、遁 ( のが ) れんやうはあらで明々地 ( あからさま ) に面 ( おもて ) を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何 ( いか ) にせん。仮令 ( たとひ ) 此方 ( こなた ) にては知らぬ顔してあるべきも、争 ( いか ) でかの人の見付けて驚かざらん。固 ( もと ) より恨を負へる我が身なれば、言 ( ことば ) など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭 ( おどろき ) は如何ならん。仇 ( あだ ) に遇 ( あ ) へるその憤懣 ( いきどほり ) は如何ならん。必ずかの人の凄 ( すさまじ ) う激せるを見ば、静緒は幾許 ( いかばかり ) 我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉 ( ひとし ) く身内は熱して冷 ( つめた ) き汗を出 ( いだ ) し、足は地に吸るるかとばかり竦 ( すく ) みて、宮はこれを想ふにだに堪 ( た ) へざるなりけり。脇道 ( わきみち ) もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣 ( や ) る方も無く惑へる宮が面色 ( おももち ) の穏 ( やす ) からぬを見尤 ( みとが ) めて、静緒は窃 ( ひそか ) に目を側 ( そば ) めたり。彼はいとどその目を懼 ( おそ ) るるなるべし。今は心も漫 ( そぞろ ) に足を疾 ( はや ) むれば、土蔵の角 ( かど ) も間近になりて其処 ( そこ ) をだに無事に過ぎなば、と切 ( しきり ) に急がるる折しも、人の影は突 ( とつ ) としてその角より顕 ( あらは ) れつ。宮は眩 ( めくるめ ) きぬ。
これより帰りてともかくもお峯が前は好 ( よ ) きやうに言譌 ( いひこしら ) へ、さて篤と実否を糺 ( ただ ) せし上にて私 ( ひそか ) に為 ( せ ) んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍 ( やや ) 目深 ( まぶか ) に引側 ( ひきそば ) め、通学に馴 ( なら ) されし疾足 ( はやあし ) を駆りて、塗籠 ( ぬりこめ ) の角より斜 ( ななめ ) に桐の並木の間 ( あひ ) を出でて、礫道 ( ざりみち ) の端を歩み来 ( きた ) れり。
四辺 ( あたり ) に往来 ( ゆきき ) のあるにあらねば、二人の姿は忽 ( たちま ) ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾 ( と ) く知られけれど、顔打背 ( かほうちそむ ) けたる貴婦人の眩 ( まばゆ ) く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔 ( わづか ) に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近 ( ちかづ ) けば、貫一は静緒に向ひて慇懃 ( いんぎん ) に礼するを、宮は傍 ( かたはら ) に能 ( あた ) ふ限は身を窄 ( すぼ ) めて密 ( ひそか ) に流盻 ( ながしめ ) を凝したり。その面 ( おもて ) の色は惨として夕顔の花に宵月の映 ( うつろ ) へる如く、その冷 ( ひややか ) なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚 ( あし ) は打顫 ( うちふる ) ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟 ( とどろ ) くを、覚 ( さと ) られじとすれば猶 ( なほ ) 打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁 ( し ) むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際 ( きは ) に、ふと目鞘 ( めざや ) の走りて、館の賓 ( まらうど ) なる貴婦人を一瞥 ( べつ ) せり。端無 ( はしな ) くも相互 ( たがひ ) の面 ( おもて ) は合へり。宮なるよ! 姦婦 ( かんぷ ) なるよ! 銅臭の肉蒲団 ( にくぶとん ) なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨 ( ね ) めて動かざる眼 ( まなこ ) には見る見る涙を湛 ( たた ) へて、唯一攫 ( ひとつかみ ) にもせまほしく肉の躍 ( をど ) るを推怺 ( おしこら ) へつつ、窃 ( ひそか ) に歯咬 ( はがみ ) をなしたり。可懐 ( なつか ) しさと可恐 ( おそろ ) しさと可耻 ( はづか ) しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩 ( たと ) へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付 ( いだきつ ) きても思ふままに苛 ( さいな ) まれんをと、心のみは憧 ( あこが ) れながら身を如何 ( いかに ) とも為難 ( しがた ) ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠 ( こ ) むるより外はあらず。
貫一はつと踏出して始の如く足疾 ( あしばや ) に過行けり。宮は附人 ( つきひと ) に面を背 ( そむ ) けて、唇 ( くちびる ) を咬 ( か ) みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁 ( わきま ) へねど、推 ( すい ) すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓 ( まらうど ) の顔色のさしも常ならず変りて可悩 ( なやま ) しげなるを、問出でんも可 ( よし ) や否 ( あし ) やを料 ( はか ) りかねて、唯可慎 ( つつまし ) う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出 ( いで ) あそばして、お休み遊ばしましては如何 ( いかが ) でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼 ( まつさを ) でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方 ( あちら ) へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可 ( い ) けませんから、お庭を一周 ( ひとまはり ) しまして、その内には気分が復 ( なほ ) りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方 ( あなた ) のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰 ( おつしや ) います」
貴婦人はその無名指 ( むめいし ) より繍眼児 ( めじろ ) の押競 ( おしくら ) を片截 ( かたきり ) にせる黄金 ( きん ) の指環を抜取りて、懐紙 ( ふところかみ ) に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証 ( しるし ) に」
静緒は驚き怖 ( おそ ) れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可 ( よ ) うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様 ( おとつさま ) にも阿母様 ( おつかさま ) にも誰にも有仰 ( おつしや ) らないやうに、ねえ」
受けじと為るを手籠 ( てごめ ) に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋 ( そたばし ) 近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑 ( たかわらひ ) するが聞えぬ。
宮はこの散歩の間に勉 ( つと ) めて気を平 ( たひら ) げ、色を歛 ( をさ ) めて、ともかくも人目を逭 ( のが ) れんと計れるなり。されどもこは酒を窃 ( ぬす ) みて酔はざらんと欲するに同 ( おなじ ) かるべし。
彼は先に遭 ( あ ) ひし事の胸に鏤 ( ゑ ) られたらんやうに忘るる能 ( あた ) はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出 ( もえい ) でて、募りに募らんとする心の乱 ( みだれ ) は、堪 ( た ) ふるに難 ( かた ) き痛苦 ( くるしみ ) を齎 ( もたら ) して、一歩は一歩より、胸の逼 ( せま ) ること急に、身内の血は尽 ( ことごと ) くその心頭 ( しんとう ) に注ぎて余さず熬 ( い ) らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛 ( うちくつろ ) ぎて意任 ( こころまか ) せの我が家に独り居たらんぞ可 ( よ ) き。人に接して強 ( し ) ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩 ( わづらは ) しと、例の劇 ( はげし ) く唇 ( くちびる ) を咬 ( か ) みて止まず。
築山陰 ( つきやまかげ ) の野路 ( のぢ ) を写せる径 ( こみち ) を行けば、蹈処無 ( ふみどころな ) く地を這 ( は ) ふ葛 ( くず ) の乱れ生 ( お ) ひて、草藤 ( くさふぢ ) 、金線草 ( みづひき ) 、紫茉莉 ( おしろい ) の色々、茅萱 ( かや ) 、穂薄 ( ほすすき ) の露滋 ( つゆしげ ) く、泉水の末を引きて𥻘々 ( ちよろちよろ ) 水 ( みづ ) を卑 ( ひく ) きに落せる汀 ( みぎは ) なる胡麻竹 ( ごまたけ ) の一叢 ( ひとむら ) 茂れるに隠顕 ( みえかくれ ) して苔蒸 ( こけむ ) す石組の小高きに四阿 ( あづまや ) の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱 ( なやま ) しげに憩へり。
彼は静緒の柱際 ( はしらぎは ) に立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥 ( くたびれ ) でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
その色の前 ( さき ) にも劣らず蒼白 ( あをざ ) めたるのみならで、下唇の何に傷 ( きずつ ) きてや、少 ( すこし ) く血の流れたるに、彼は太 ( いた ) く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何 ( いかが ) あそばしました」
ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴 ( ざくろ ) の花弁 ( はなびら ) の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡 ( ふところかがみ ) 取出 ( とりいだ ) して、咬 ( か ) むことの過ぎし故 ( ゆゑ ) ぞと知りぬ。実 ( げ ) に顔の色は躬 ( みづから ) も凄 ( すご ) しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周 ( いくめぐり ) して我はこの色を隠さんと為 ( す ) らんと、彼は心陰 ( こころひそか ) に己 ( おのれ ) を嘲 ( あざけ ) るなりき。
忽 ( たちま ) ち女の声して築山の彼方 ( あなた ) より、
「静緒さん、静緒さん!」
彼は走り行き、手を鳴して応 ( こた ) へけるが、やがて木隠 ( こがくれ ) に語 ( かたら ) ふ気勢 ( けはひ ) して、返り来ると斉 ( ひとし ) く賓 ( まらうど ) の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直 ( すぐ ) に彼方 ( あちら ) へお出 ( いで ) あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
道を転じて静緒は雲帯橋 ( うんたいきよう ) の在る方 ( かた ) へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭 ( ところせま ) きまで盃盤 ( はいばん ) を陳 ( つら ) ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
此方 ( こなた ) の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾 ( さしまね ) きつつ、
「そこをお渡りになつて、此方 ( こちら ) に燈籠 ( とうろう ) がございませう、あの傍 ( そば ) へ些 ( ちよつ ) とお出で下さいませんか。一枚像 ( とら ) して戴きたい」
写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立 ( おりた ) ちて、早くもカメラの覆 ( おほひ ) を引被 ( ひきかつ ) ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
いでや、事の様 ( よう ) を見んとて、慢々 ( ゆらゆら ) と出来 ( いできた ) れるは富山唯継なり。片手には葉巻 ( シガア ) の半 ( なかば ) 燻 ( くゆ ) りしを撮 ( つま ) み、片臂 ( かたひぢ ) を五紋の単羽織 ( ひとへはおり ) の袖 ( そで ) の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑 ( ゑみ ) を浮べつつ、
「ああ、おまへ其処 ( そこ ) に居らんければ可かんよ、何為 ( なぜ ) 歩いて来るのかね」
子爵の慌 ( あわ ) てたる顔はこの時毛繻子 ( けじゆす ) の覆の内よりついと顕 ( あらは ) れたり。
「可けない! 那処 ( あすこ ) に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙 ( かうむ ) る? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方 ( あなた ) は巧い言 ( こと ) をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方 ( あちら ) へ。静緒、お前奥さんを那処 ( あすこ ) へお連れ申して」
唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度 ( ごしたく ) をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍 ( そば ) へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含 ( はにか ) むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣 ( や ) つてをるのに、あれで可いのさ。姿勢 ( かたち ) は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛 ( よつかか ) つて頬杖 ( ほほづゑ ) でも拄 ( つ ) いて、空を眺 ( なが ) めてゐる状 ( かたち ) なども可いよ。ねえ、如何 ( いかが ) でせう」
「結構。結構」と子爵は頷 ( うなづ ) けり。
心は進まねど強ひて否 ( いな ) むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
かく呟 ( つぶや ) きつつ庭下駄を引掛 ( ひきか ) け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚 ( よら ) しめ、頬杖を拄 ( つか ) しめ、空を眺めよと教へて、袂 ( たもと ) の皺 ( しわ ) めるを展 ( の ) べ、裾 ( すそ ) の縺 ( もつれ ) を引直し、さて好しと、少 ( すこし ) く退 ( の ) きて姿勢を見るとともに、彼はその面 ( おもて ) の可悩 ( なやまし ) げに太 ( いた ) くも色を変へたるを発見して、直 ( ただち ) に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処 ( どこ ) か不快 ( わるい ) のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、私 ( わし ) が訳を言つてお謝絶 ( ことわり ) をするから」
「いいえ、宜 ( よろし ) うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭 ( いや ) な色だ」
彼は眷々 ( けんけん ) として去る能 ( あた ) はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
「如何 ( いかが ) ですか」
唯継は慌忙 ( あわただし ) く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
鏡面 ( レンズ ) に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板 ( たねいた ) を挿入 ( さしい ) るれば、唯継は心得てその邇 ( ちかき ) を避けたり。
空を眺むる宮が目の中 ( うち ) には焚 ( も ) ゆらんやうに一種の表情力充満 ( みちみ ) ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣 ( きぬ ) は唐松 ( からまつ ) の翠 ( みどり ) の下蔭 ( したかげ ) に章 ( あや ) を成して、秋高き清遠の空はその後に舗 ( し ) き、四脚 ( よつあし ) の雪見燈籠を小楯 ( こだて ) に裾の辺 ( あたり ) は寒咲躑躅 ( かんざきつつじ ) の茂 ( しげみ ) に隠れて、近きに二羽の鵞 ( が ) の汀 ( みぎは ) に𩛰 ( あさ ) るなど、寧 ( むし ) ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面 ( レンズ ) を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽 ( たちま ) ち頽 ( くづ ) れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破 ( がば ) と伏しぬ。
遊佐良橘 ( ゆさりようきつ ) は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗 ( すこぶ ) る謹直を以 ( も ) て聞えしに、却 ( かへ ) りて、日本周航会社に出勤せる今日 ( こんにち ) 、三百円の高利の為に艱 ( なやま ) さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外 ( おもて ) を張らざるべからざる為の遣繰 ( やりくり ) なるべしと言ひ、或ものは隠遊 ( かくれあそび ) の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂 ( い ) ふべからざる事情の下に連帯の印 ( いん ) を仮 ( か ) せしが、形 ( かた ) の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受 ( うく ) ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田 ( かまだ ) 鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助 ( かざはやくらのすけ ) とあるのみ。
凡 ( およ ) そ高利の術たるや、渇者 ( かつしや ) に水を売るなり。渇の甚 ( はなはだし ) く堪 ( た ) へ難き者に至りては、決してその肉を割 ( さ ) きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値 ( あたひ ) 玉漿 ( ぎよくしよう ) を盛るに異る無し。故 ( ゆゑ ) に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒 ( いゆ ) るに及びては、玉漿なりとして喜び吃 ( きつ ) せしものは、素 ( も ) と下水の上澄 ( うはずみ ) に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾 ( しぼ ) りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫 ( ああ ) 、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借 ( か ) るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以 ( も ) て、高利は借 ( か ) るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹 ( かか ) れる哉 ( かな ) と、彼は人の為ながら常にこの憂 ( うれひ ) を解く能 ( あた ) はざりき。
近きに郷友会 ( きようゆうかい ) の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰 ( かへる ) さを彼等は三人 ( みたり ) 打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走 ( ごちそう ) と云つては無いけれど、松茸 ( まつだけ ) の極新 ( ごくあたらし ) いのと、製造元から貰 ( もら ) つた黒麦酒 ( くろビイル ) が有るからね、鶏 ( とり ) でも買つて、寛 ( ゆつく ) り話さうぢやないか」
遊佐が弄 ( まさぐ ) れる半月形の熏豚 ( ハム ) の罐詰 ( かんづめ ) も、この設 ( まうけ ) にとて途 ( みち ) に求めしなり。
蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊 ( とまり ) が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対 ( たい ) に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然 ( しか ) し、どうもその長足のちやう はてう (貂)足らず、続 ( つ ) ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然 ( すつかり ) フロックが止 ( とま ) つた? ははははは 、それはお目出度 ( めでた ) いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明 ( あきらか ) に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
風早は例の皺嗄声 ( しわかれごゑ ) して大笑 ( たいしよう ) を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖 ( たてキュウ ) をして二寸三分クロオスを裂 ( やぶ ) かなければ可けません」
蒲「三たび臂 ( ひぢ ) を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖 ( たてキュウ ) の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳 ( あとびき ) の手際 ( てぎは ) も知らんで」
これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処 ( あすこ ) の主翁 ( おやぢ ) がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失 ( なくな ) る……」
蒲「穿得 ( うがちえ ) て妙だ」
風「チョオクの多少は業 ( わざ ) の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇 ( むやみ ) に杖 ( キュウ ) を取易 ( とりか ) へるのだつて、決して見 ( み ) とも好くはない」
蒲田は手もて遽 ( にはか ) に制しつ。
「もう、それで可い。他 ( ひと ) の非を挙げるやうな者に業 ( わざ ) の出来た例 ( ためし ) が無い。悲い哉 ( かな ) 君達の球も蒲田に八十で底止 ( とまり ) だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇 ( いくつ ) で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉 ( かな ) だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
語 ( ことば ) も訖 ( をは ) らざるに彼は傍腹 ( ひばら ) に不意の肱突 ( ひぢつき ) を吃 ( くら ) ひぬ。
「あ、痛 ( いた ) ! さう強く撞 ( つ ) くから毎々球が滾 ( ころ ) げ出すのだ。風早の球は暴 ( あら ) いから癇癪玉 ( かんしやくだま ) と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔 ( やはらか ) いから蒟蒻玉 ( こんにやくだま ) 。それで、二人の撞くところは電公 ( かみなり ) と蚊帳 ( かや ) が捫択 ( もんちやく ) してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度 ( たんと ) も行かんが、天狗 ( てんぐ ) の風早に二十遣るのさ」
二人は劣らじと諍 ( あらが ) ひし末、直 ( ただち ) に一番の勝負をいざいざと手薬煉 ( てぐすね ) 引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛 ( ゆつく ) り出来るさ。帰つて風呂にでも入 ( い ) つて、それから徐々 ( そろそろ ) 始めやうよ」
往来繁 ( ゆききしげ ) き町を湯屋の角より入 ( い ) れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑 ( まじ ) りながら閑静に、家並 ( やなみ ) 整へる中程に店蔵 ( みせぐら ) の質店 ( しちや ) と軒ラムプの並びて、格子木戸 ( こうしきど ) の内を庭がかりにしたる門 ( かど ) に楪葉 ( ゆづりは ) の立てるぞ遊佐が居住 ( すまひ ) なる。
彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出 ( い ) で来 ( きた ) りて、伴へる客あるを見て稍 ( やや ) 打惑へる気色 ( けしき ) なりしが、遽 ( にはか ) に笑 ( ゑみ ) を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤 ( とが ) められて、彼はいよいよ困 ( こう ) じたるなり。
「唯今 ( ただいま ) 些 ( ちよい ) と塞 ( ふさが ) つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
勝手を知れる客なれば傱々 ( づかづか ) と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵 ( わにぶち ) から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些 ( ちよい ) とお会ひなすつて、早く還 ( かへ ) してお了 ( しま ) ひなさいましな」
「松茸 ( まつだけ ) はどうした」
妻はこの暢気 ( のんき ) なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒 ( くろビイル ) な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私 ( わたし ) は那奴 ( あいつ ) が居ると思ふと不快 ( いや ) な心持で」
遊佐も差当りて当惑の眉 ( まゆ ) を顰 ( ひそ ) めつ。二階にては例の玉戯 ( ビリアアド ) の争 ( あらそひ ) なるべし、さも気楽に高笑 ( たかわらひ ) するを妻はいと心憎く。
少間 ( しばし ) ありて遊佐は二階に昇り来 ( きた ) れり。
蒲「浴 ( ゆ ) に一つ行かうよ。手拭 ( てぬぐひ ) を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
実 ( げ ) に言ふが如く彼は心穏 ( こころおだや ) かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸 ( アイス ) が来てをるのだよ」
蒲「那物 ( えてもの ) が来たのか」
遊「先から座敷で帰来 ( かへり ) を待つてをつたのだ。困つたね!」
彼は立ちながら頭 ( かしら ) を抑へて緩 ( ゆる ) く柱に倚 ( よ ) れり。
蒲「何とか言つて逐返 ( おつかへ ) して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍 ( ひねくね ) した皮肉な奴でね、那奴 ( あいつ ) に捉 ( つかま ) つたら耐 ( たま ) らん」
蒲「二三円も叩 ( たた ) き付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々 ( たびたび ) なのでね、他 ( むかふ ) は書替を為 ( さ ) せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮 ( ふる ) つて」
「これは外の談判と違つて唯金銭 ( かね ) づくなのだから、素手 ( すで ) で飛込むのぢや弁の奮 ( ふる ) ひやうが無いよ。それで忽諸 ( まごまご ) すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀 ( すけだち ) を為るから」
いと難 ( むづか ) しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎 ( しを ) れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯 ( すく ) つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可 ( い ) かない。ああ云ふ風だから益 ( ますま ) す脚下 ( あしもと ) を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭 ( かね ) の貸借 ( かしかり ) だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼 ( おそ ) れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利 ( アイス ) を貸したら 名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利 ( あんり ) や無利息なんぞを借りるから見れば、夐 ( はるか ) に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭 ( かね ) に窮 ( こま ) らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為 ( す ) まいし、名誉に於て傷 ( きずつ ) くところは少しも無い」
「恐入りました、高利 ( アイス ) を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利 ( アイス ) を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚 ( は ) づべき行 ( おこなひ ) と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未 ( いま ) だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能 ( あた ) はざるなりだらう。宋 ( そう ) の時代であつたかね、何か乱が興 ( おこ ) つた。すると上奏に及んだものがある、これは師 ( いくさ ) を動かさるるまでもない、一人 ( いちにん ) の将を河上 ( かじよう ) へ遣 ( つかは ) して、賊の方 ( かた ) に向つて孝経 ( こうきよう ) を読せられた事ならば、賊は自 ( おのづ ) から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目 ( まじめ ) で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割 ( てんびきしわり ) と吃 ( く ) つて一月隔 ( おき ) に血を吮 ( すは ) れる。そんな無法な目に遭 ( あ ) ひながら、未 ( いま ) だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利 ( アイス ) は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族 ( けだもの ) さ」
得意の快弁流るる如く、彼は息をも継 ( つが ) せず説来 ( とききた ) りぬ。
「濡 ( ぬ ) れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未 ( いま ) だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな悞 ( あやまり ) だ。それは勿論 ( もちろん ) 借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物 ( いちぶつ ) にして一物ならずだよ。武士の魂 ( たましひ ) と商人 ( あきんど ) 根性とは元是 ( これ ) 一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容 ( ゆる ) さんことは、武士の魂と敢 ( あへ ) て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人 ( あきんど ) にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利 ( アイス ) などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利 ( たいアイス ) となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟 ( つまり ) は敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利 ( アイス ) を借りて、栄と為るに足れりと謂 ( い ) ふに至つては……」
蒲田は恐縮せる状 ( さま ) を作 ( な ) して、
「それは少し白馬は馬に非 ( あら ) ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕 ( いつぴ ) 深く探る蛟鰐 ( こうがく ) の淵 ( えん ) と出掛けやうか」
「空拳 ( くうけん ) を奈 ( いか ) んだらう」
一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独 ( ひと ) り臥 ( ね ) つ起きつ安否の気遣 ( きづかは ) れて苦き無聊 ( ぶりよう ) に堪へざる折から、主 ( あるじ ) の妻は漸 ( やうや ) く茶を持ち来りぬ。
「どうも甚 ( はなは ) だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
彼はその美き顔を少く赧 ( あか ) めて、
「はい、あの居間へお出 ( いで ) で、紙門越 ( ふすまごし ) に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥 ( はづかし ) くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
「私 ( わたくし ) はもう彼奴 ( あいつ ) が参りますと、惣毛竪 ( そうけだ ) つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭 ( いや ) に陰気な韌々 ( ねちねち ) した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
急足 ( いそぎあし ) に階子 ( はしご ) を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
と上端 ( あがりはな ) に坐れる妻の背後 ( うしろ ) を過 ( すぐ ) るとて絶 ( したた ) かその足を蹈付 ( ふんづ ) けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
骨身に沁 ( し ) みて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺 ( おしこら ) へつつ、さり気無く挨拶 ( あいさつ ) せるを、風早は見かねたりけん、
「不相変 ( あひかはらず ) 麁相 ( そそつ ) かしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい慌 ( あわ ) てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
「落付 ( おちつか ) れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸 ( アイス ) と云ふのは、誰 ( たれ ) だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君の とは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面 ( つら ) を蹈んだ」
「でも仕合 ( しあはせ ) と皮の厚いところで」
「怪 ( け ) しからん!」
妻の足の痛 ( いたみ ) は忽 ( たちま ) ち下腹に転 ( うつ ) りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た⁈」
「さう! 驚いたらう」
彼は長き鼻息を出して、空 ( むなし ) く眼 ( まなこ ) を瞪 ( みは ) りしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
別して呆 ( あき ) れたるは主 ( あるじ ) の妻なり。彼は鈍 ( おぞ ) ましからず胸の跳 ( をど ) るを覚えぬ。同じ思は二人が面 ( おもて ) にも顕 ( あらは ) るるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友 ( ごほうゆう ) なのでございますか」
蒲田は忙 ( せは ) しげに頷 ( うなづ ) きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
「夙 ( かね ) て学校を罷 ( や ) めてから高利貸 ( アイス ) を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和 ( ごくおとなし ) い男で、高利貸 ( アイス ) などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚 ( うそ ) だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も虚 ( うそ ) と想ふのです」
「本 ( ほん ) にさうでございますね」
少 ( すこし ) き前に起ちて行きし風早は疑 ( うたがひ ) を霽 ( はら ) して帰り来 ( きた ) れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影 ( おもかげ ) があるだらう」
「エッセクスを逐払 ( おつぱら ) はれた時の面影だ。然し彼奴 ( あいつ ) が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業 ( いんごう ) な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
主 ( あるじ ) の妻はその美き顔を皺 ( しわ ) めたるなり。
蒲「随分酷 ( ひど ) うございますか」
妻「酷うございますわ」
こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽 ( にはか ) に取りて飲干し、
「然し間であるのが幸 ( さいはひ ) だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕 ( あこぎ ) なことは言ひもすまい。次手 ( ついで ) に何とか話を着けて、元金 ( もときん ) だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴 ( あいつ ) なら恐れることは無い」
彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩 ( けんか ) に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些 ( ちつ ) と気凛 ( きりつ ) とするが可い、帯の下へ時計の垂下 ( ぶらさが ) つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主 ( あるじ ) の妻は傍 ( かたはら ) より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様 ( はばかりさま ) です。些 ( ちよつ ) と身支度に婦人の心添 ( こころぞへ ) を受けるところは堀部安兵衛 ( ほりべやすべえ ) といふ役だ。然し芝居でも、人数 ( にんず ) が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! 間 ( はざま ) 如きに」
「急に強くなつたから可笑 ( をかし ) い。さあ。用意は好 ( い ) いよ」
「此方 ( こつち ) も可 ( い ) い」
二人は膝を正して屹 ( き ) と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討 ( かたきうち ) の門出 ( かどで ) だ。互に交す茶盃 ( ちやさかづき ) か」
座敷には窘 ( くるし ) める遊佐と沈着 ( おちつ ) きたる貫一と相対して、莨盆 ( たばこぼん ) の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍 ( かたはら ) に茶托 ( ちやたく ) の上に伏せたる茶碗 ( ちやわん ) は、嘗 ( かつ ) て肺病患者と知らで出 ( いだ ) せしを恐れて除物 ( のけもの ) にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
遊佐は憤 ( いきどほり ) を忍べる声音 ( こわね ) にて、
「それは出来んよ。勿論 ( もちろん ) 朋友 ( ほうゆう ) は幾多 ( いくら ) も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何 ( なん ) ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
貫一の声は重きを曳 ( ひ ) くが如く底強く沈みたり。
「敢 ( あへ ) て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私 ( わたくし ) の方が立ちません。何方 ( どちら ) とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固 ( もと ) より貴方 ( あなた ) がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些 ( ほん ) の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼 ( よしみ ) として、何方 ( どなた ) でも承諾なさりさうなものですがな。究竟 ( つまり ) 名義だけあれば宜 ( よろし ) いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決 ( け ) してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉 ( かど ) が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先 ( ひとまづ ) 句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
遊佐は答ふるところを知らざるなり。
「何方 ( どなた ) でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関 ( かかは ) るやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押 ( さしおさへ ) です」
遊佐は強 ( し ) ひて微笑を含みけれど、胸には犇 ( ひし ) と応 ( こた ) へて、はや八分の怯気 ( おじけ ) 付きたるなり。彼は悶 ( もだ ) えて捩断 ( ねぢき ) るばかりにその髭 ( ひげ ) を拈 ( ひね ) り拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金 ( はしたがね ) で貴方 ( あなた ) の御名誉を傷 ( きずつ ) けて、後来御出世の妨碍 ( さまたげ ) にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決 ( け ) して可好 ( このまし ) くはないのです。けれども、此方 ( こちら ) の請求を容 ( い ) れて下さらなければ已 ( や ) むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金 ( もときん ) の上に借用当時から今日 ( こんにち ) までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強 ( なにがし ) 、それと合 ( がつ ) して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費 ( つか ) つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書 ( かか ) される! 余 ( あんま ) り馬鹿々々しくて話にならん。此方 ( こつち ) の身にも成つて少しは斟酌 ( しんしやく ) するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
空嘯 ( そらうそぶ ) きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
遊佐は陰 ( ひそか ) に切歯 ( はがみ ) をなしてその横顔を睨付 ( ねめつ ) けたり。
彼も逭 ( のが ) れ難き義理に迫りて連帯の印捺 ( いんつ ) きしより、不測の禍 ( わざはひ ) は起りてかかる憂き目を見るよと、太 ( いた ) く己 ( おのれ ) に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸 ( か ) くることもやと、断じて貫一の請求を容 ( い ) れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷 ( きはま ) るとともに貫一もこの場は一寸 ( いつすん ) も去らじと構へたれば、遊佐は羂 ( わな ) に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無 ( いはれな ) き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜 ( ひるがへ ) りて一点の人情無き賤奴 ( せんど ) の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴 ( あ ) れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日 ( はつか ) にお払ひ下さるべきのを、未 ( いま ) だにお渡 ( わたし ) が無いのですから、何日 ( いつ ) でも御催促は出来るのです」
遊佐は拳 ( こぶし ) を握りて顫 ( ふる ) ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空 ( むなし ) く帰るその日当及び俥代 ( くるまだい ) として下すつたから戴きました。ですから、若 ( も ) しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金 ( うちきん ) でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足 ( むだあし ) を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜 ( よろし ) い訳なのです。まあ、過去つた事は措 ( お ) きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
「今日 ( こんにち ) はその事で上つたのではないのですから、今日 ( こんにち ) の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有 ( おつしや ) るのですな」
「出来ん!」
「で、金 ( きん ) も下さらない?」
「無いから遣れん!」
貫一は目を側めて遊佐が面 ( おもて ) を熟 ( じ ) と候 ( うかが ) へり。その冷 ( ひややか ) に鋭き眼 ( まなこ ) の光は異 ( あやし ) く彼を襲ひて、坐 ( そぞろ ) に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽 ( たちま ) ち吾に復 ( かへ ) れるやうに覚えて、身の危 ( あやふ ) きに処 ( を ) るを省みたり。一時を快くする暴言も竟 ( つひ ) に曳 ( ひか ) れ者 ( もの ) の小唄 ( こうた ) に過ぎざるを暁 ( さと ) りて、手持無沙汰 ( てもちぶさた ) に鳴 ( なり ) を鎮めつ。
「では、何 ( いつ ) ごろ御都合が出来るのですか」
機を制して彼も劣らず和 ( やはら ) ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「聢 ( しか ) と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜 ( よろし ) うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰 ( おつしや ) るところは少しも有りはしません、その代り何分 ( なんぶん ) か今日 ( こんにち ) お遣 ( つかは ) し下さい」
かく言ひつつ手鞄 ( てかばん ) を開きて、約束手形の用紙を取出 ( とりいだ ) せり。
「銭は有りはせんよ」
「僅少 ( わづか ) で宜 ( よろし ) いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円 ( かね ) は有りはせん」
「それぢや、どうも」
彼は遽 ( にはか ) に躊躇 ( ちゆうちよ ) して、手形用紙を惜めるやうに拈 ( ひね ) るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
折から紙門 ( ふすま ) を開きけるを弗 ( ふ ) と貫一の睼 ( みむか ) ふる目前 ( めさき ) に、二人の紳士は徐々 ( しづしづ ) と入来 ( いりきた ) りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各 ( おのおの ) 心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少 ( すこし ) く座を動 ( ゆる ) ぎて容 ( かたち ) を改めたり。紳士は上下 ( かみしも ) に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作 ( な ) せり。
蒲「どうも曩 ( さき ) から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
貫一は愕然 ( がくぜん ) として二人の面 ( おもて ) を眺めたりしが、忽 ( たちま ) ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出 ( おもひいだ ) せるなり。
「これはお珍 ( めづらし ) い。何方 ( どなた ) かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲 ( まうか ) りませう」
貫一は打笑 ( うちゑ ) みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
彼の毫 ( いささか ) も愧 ( は ) づる色無きを見て、二人は心陰 ( こころひそか ) に呆 ( あき ) れぬ。侮 ( あなど ) りし風早もかくては与 ( くみ ) し易 ( やす ) からず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然 ( しか ) し思切つた事を始めましたね。君の性質で能 ( よ ) くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業 ( わざ ) ぢやありませんな」
これ実に真人間にあらざる人の言 ( ことば ) なり。二人はこの破廉耻 ( はれんち ) の老面皮 ( ろうめんぴ ) を憎しと思へり。
蒲「酷 ( ひど ) いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
「私 ( わたし ) のやうな者が憖 ( なまじ ) ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷 ( や ) めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧 ( やはり ) 真人間で居てもらひたいね」
風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分浮名 ( うきな ) の聒 ( やかまし ) かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
貫一は知らざる為 ( まね ) してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
よしその旧友の前に人間の面 ( おもて ) を赧 ( あか ) めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨 ( うらやまし ) い」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印 ( ごいん ) を願ひます」
彼は矢立 ( やたて ) の筆を抽 ( ぬ ) きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些 ( ちよつ ) と、その手形はどう云ふのですね」
貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程御尤 ( ごもつとも ) 、そこで少しお話を為たい」
蒲田は姑 ( しばら ) く助太刀の口を噤 ( つぐ ) みて、皺嗄声 ( しわがれごゑ ) の如何 ( いか ) に弁ずるかを聴かんと、吃余 ( すひさし ) の葉巻を火入 ( ひいれ ) に挿 ( さ ) して、威長高 ( ゐたけだか ) に腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱 ( あつかひ ) をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼 ( たのみ ) と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
彼も答へず、これも少時 ( しばし ) は言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
「究竟 ( つまり ) 君の方に損の掛らん限は減 ( ま ) けてもらひたいのだ。知つての通り、元金 ( もとこ ) の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処 ( そこ ) は能 ( よ ) く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹 ( かか ) つたので、如何 ( いか ) にも気の毒な次第。ところで、図 ( はか ) らずも貸主が君と云ふので、轍鮒 ( てつぷ ) の水を得たる想 ( おもひ ) で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間 ( はざま ) として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙 ( かね ) て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林 ( とおばやし ) が従来 ( これまで ) 三回に二百七十円の利を払つて在 ( あ ) る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金 ( もときん ) だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」
貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費 ( つか ) はずに空 ( くう ) に出るのだから随分辛 ( つら ) い話、君の方は未 ( ま ) だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競 ( くらべ ) を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前 ( たちまへ ) にはなつてゐる、此方 ( こつち ) は三百九十円の全損 ( まるぞん ) だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
「全 ( まる ) でお話にならない」
秋の日は短 ( みじか ) しと謂 ( い ) はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼の面 ( おもて ) を注視せし風早と蒲田との眼 ( まなこ ) は、更に相合うて瞋 ( いか ) れるを、再び彼方 ( あなた ) に差向けて、いとど厳 ( きびし ) く打目戍 ( うちまも ) れり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印 ( ごいん ) を願ひませう。日限 ( にちげん ) は十六日、宜 ( よろし ) うございますか」
この傍若無人の振舞に蒲田の怺 ( こら ) へかねたる気色 ( けしき ) なるを、風早は目授 ( めまぜ ) して、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方 ( ほう ) が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所 ( いつしよ ) に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関 ( かか ) る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何 ( いかに ) とも手の着けやうが無い。対手 ( あいて ) が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯 ( すく ) ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然 ( まるまる ) 損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決 ( け ) してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
「私 ( わたくし ) は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日 ( こんにち ) はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
遊佐はその独 ( ひとり ) に計ひかねて覚束 ( おぼつか ) なげに頷 ( うなづ ) くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒 ( いかり ) はこの時衝 ( つ ) くが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸 ( す ) くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰 ( ぜにもらひ ) が門 ( かど ) に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然 ( しかるべ ) き挨拶 ( あいさつ ) を為たまへ」
「お話がお話だから可然 ( しかるべ ) き御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、間 ( はざま ) ! 貴様の頭脳 ( あたま ) は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然 ( しかるべき ) 挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節 ( たしな ) めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人 ( ぬすつと ) の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧 ( あか ) い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑 ( ぶべつ ) したこの有様を、荒尾譲介 ( あらおじようすけ ) に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟 ( おとと ) を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱 ( ふさ ) いでゐたぞ。その一言 ( いちごん ) に対しても少しは良心の眠 ( ねむり ) を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順 ( おとなし ) く帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方 ( あなたがた ) がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為 ( な ) すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形 ( かた ) はそれで一先 ( ひとまづ ) 附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜 ( よろし ) い」
「ではさう為 ( なす ) つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦 ( じつかねんぷ ) は」
「ええ? 常談ぢやありません」
さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑 ( せせらわらひ ) しつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日内 ( うち ) に篤 ( とく ) と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰 ( おつしや ) るで、私の方も然るべき御挨拶 が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外 ( ほか ) へ廻るで急ぎますから、お話は後日寛 ( ゆつく ) り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方 ( あなた ) 御承諾なすつて置きながら今になつて遅々 ( ぐづぐづ ) なすつては困ります」
蒲「疫病神 ( やくびようがみ ) が戸惑 ( とまどひ ) したやうに手形々々と煩 ( うるさ ) い奴だ。俺 ( おれ ) が始末をして遣らうよ」
彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
かかる事は能 ( よ ) く知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんな筈 ( はず ) は無い」
貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂 ( か ) けて、
「九十円が元金 ( もときん ) 、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利 ( アイス ) の定法 ( じようほう ) です」
音もせざれど遊佐が胆は潰 ( つぶ ) れぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
蒲田は物をも言はず件 ( くだん ) の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶 ( なほ ) も引裂き引裂き、引捩 ( ひきねぢ ) りて間が目先に投遣 ( なげや ) りたり。彼は騒げる色も無く、
「何を為 ( なさ ) るのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰 ( こころひそか ) に懼 ( おそれ ) を作 ( な ) して、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
蒲田は仡 ( きつ ) と膝 ( ひざ ) を前 ( すす ) めて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
彼の鬼臉 ( こはもて ) なるをいと稚 ( をさな ) しと軽 ( かろ ) しめたるやうに、間はわざと色を和 ( やはら ) げて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方 ( あなた ) も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私 ( わたくし ) 如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副 ( あひそ ) はんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為 ( な ) さい」
蒲田が腕 ( かひな ) は電光の如く躍 ( をど ) りて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴 ( もろつかみ ) に無図 ( むず ) と捉 ( と ) りたり。
「間、貴様は……」
捩向 ( ねぢむ ) けたる彼の面 ( おもて ) を打目戍 ( うちまも ) りて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠 ( かぶ ) つて煖炉 ( ストオブ ) の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼 ( ああ ) 、順 ( おとなし ) い間を、と力抜 ( ちからぬけ ) がして了ふ。貴様これが人情だぞ」
鷹 ( たか ) に遭 ( あ ) へる小鳥の如く身動 ( みうごき ) し得為 ( えせ ) で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然 ( あはれ ) と見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間 ( はざま ) と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼 ( よしみ ) を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自 ( おのづ ) から別問題……」
彼は忽ち吭迫 ( のどつま ) りて言ふを得ず、蒲田は稍 ( やや ) 強く緊 ( し ) めたるなり。
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸 ( いき ) が止るぞ」
貫一は苦しさに堪 ( た ) へで振釈 ( ふりほど ) かんと捥 ( もが ) けども、嘉納流 ( かのうりゆう ) の覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信 ( まか ) せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、暴 ( あら ) くするなよ」
蒲田は哄然 ( こうぜん ) として大笑 ( たいしよう ) せり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝 ( すいこでん ) にある図だらう。惟 ( おも ) ふに、凡 ( およ ) そ国利を護 ( まも ) り、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜 ( へちま ) の皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争 ( あらそひ ) は抑 ( そもそ ) も誰 ( たれ ) の手で公明正大に遺憾無 ( いかんな ) く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰 ( いは ) く戦 ( たたかひ ) !」
風「もう釈 ( ゆる ) してやれ、大分 ( だいぶ ) 苦しさうだ」
蒲「強国にして辱 ( はづかし ) められた例 ( ためし ) を聞かん、故 ( ゆゑ ) に僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余り酷 ( ひど ) い目に遭せると、僕の方へ報 ( むく ) つて来るから、もう舎 ( よ ) してくれたまへな」
他 ( ひと ) の言 ( ことば ) に手は弛 ( ゆる ) めたれど、蒲田は未 ( いま ) だ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
「吭 ( のど ) を緊められても出す音 ( ね ) は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面 ( つら ) を五百円の紙幣束 ( さつたば ) でお撲 ( たた ) きなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
油断せる貫一が左の高頬 ( たかほ ) を平手打に絶 ( したた ) か吃 ( くらは ) すれば、呀 ( あ ) と両手に痛を抑 ( おさ ) へて、少時 ( しばし ) は顔も得挙 ( えあ ) げざりき。蒲田はやうやう座に復 ( かえ ) りて、
「急には此奴 ( こいつ ) 帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為 ( せ ) う」
「さあ、それも可 ( よ ) からう」
独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨 ( うま ) くないね。さうして形が付かなければ、何時 ( いつ ) までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞 ( しまひ ) になつてこればかり遺 ( のこ ) られたら猶 ( なほ ) 困る」
「宜 ( よろし ) い、帰去 ( かへり ) には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
と彼は横手を拍 ( う ) ちて不意に※ ( さけ ) 〈[#「口+斗」、U+544C、170-16]〉 べば、
「ええ、吃驚 ( びつくり ) する、何だ」
「憶出 ( おもひだ ) した。間の許婚 ( いひなづけ ) はお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日 ( こんにち ) ぢや大きに日済 ( ひなし ) などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為 ( さ ) しちや可かんよ。けれども高利貸 ( アイス ) などは、これで却 ( かへ ) つて女子 ( をんな ) には温 ( やさし ) いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪 ( むさぼ ) る所以 ( ゆゑん ) の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀 ( えよう ) がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺 ( さんたん ) と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨 ( かね ) を殖 ( こしら ) へるやうだがな、譬 ( たと ) へば、軍用金を聚 ( あつ ) めるとか、お家の宝を質請 ( しちうけ ) するとか。単に己 ( おのれ ) の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多 ( おほく ) のガリガリ亡者 ( もうじや ) は論外として、間貫一に於 ( おい ) ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存 ( そん ) するのだらう」
秋の日は忽 ( たちま ) ち黄昏 ( たそが ) れて、稍 ( やや ) 早けれど燈 ( ともし ) を入るるとともに、用意の酒肴 ( さけさかな ) は順を逐 ( お ) ひて運び出 ( いだ ) されぬ。
「おつと、麦酒 ( ビイル ) かい、頂戴 ( ちようだい ) 。鍋 ( なべ ) は風早の方へ、煮方は宜 ( よろし ) くお頼み申しますよ。うう、好い松茸 ( まつだけ ) だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白 ( ましろ ) で、庖丁 ( ほうちよう ) が軋 ( きし ) むやうでなくては。今年は不作 ( はづれ ) だね、瘠 ( や ) せてゐて、虫が多い、あの雨が障 ( さは ) つたのさ。間、どうだい、君の目的は」
「唯貨 ( かね ) が欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃 ( いつぱい ) 飲んで、今日は機嫌 ( きげん ) 好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
「私 ( わたくし ) は酒は不可 ( いかん ) のです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
差付けらるるを推除 ( おしの ) くる機 ( はずみ ) に、コップは脆 ( もろ ) くも蒲田の手を脱 ( すべ ) れば、莨盆 ( たばこぼん ) の火入 ( ひいれ ) に抵 ( あた ) りて発矢 ( はつし ) と割れたり。
「何を為る!」
貫一も今は怺 ( こら ) へかねて、
「どうしたと!」
やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板 ( むないた ) を衝 ( つか ) れて、一耐 ( ひとたまり ) もせず仰様 ( のけさま ) に打僵 ( うちこ ) けたり。蒲田はこの隙 ( ひま ) に彼の手鞄 ( てかばん ) を奪ひて、中なる書類を手信 ( てまかせ ) に掴出 ( つかみだ ) せば、狂気の如く駈寄 ( かけよ ) る貫一、
「身分に障 ( さは ) るぞ!」と組み付くを、利腕捉 ( ききうでと ) つて、
「黙れ!」と捩伏 ( ねぢふ ) せ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴 ( そいつ ) を取つて了ひ給へ」
これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余 ( あまり ) に暴なるを快 ( こころよ ) しと為ざるなりき。貫一は駭 ( おどろ ) きて、撥返 ( はねかへ ) さんと右に左に身を揉むを、蹈跨 ( ふんまたが ) りて捩揚 ( ねぢあ ) げ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「この期 ( ご ) に及んで! 躊躇 ( ちゆうちよ ) するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
手を出しかねたる二人を睨廻 ( ねめまは ) して、蒲田はなかなか下に貫一の悶 ( もだ ) ゆるにも劣らず、独 ( ひと ) り業 ( ごう ) を沸 ( にや ) して、効無 ( かひな ) き地鞴 ( ぢただら ) を踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、善 ( よ ) くない、善くない」
「善 ( い ) いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を懵然 ( ぼんやり ) してゐるのだ」
彼はほとほと慄 ( をのの ) きて、寧 ( むし ) ろ蒲田が腕立 ( うでだて ) の紳士にあるまじきを諌 ( いさ ) めんとも思へるなり。腰弱き彼等の与 ( くみ ) するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入 ( い ) りながら手を空 ( むなし ) うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上 ( ねぢあぐ ) れば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええ聒 ( やかまし ) い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独 ( ひとり ) で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」
かく言捨てて蒲田は片手して己 ( おのれ ) の帯を解かんとすれば、時計の紐 ( ひも ) の生憎 ( あやにく ) に絡 ( からま ) るを、躁 ( あせ ) りに躁りて引放さんとす。
風「独 ( ひとり ) でどうするのだよ」
彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴 ( こいつ ) を蹈縛 ( ふんじば ) つて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余り穏 ( おだやか ) でないから、それだけは思ひ止 ( とま ) り給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴 ( こいつ ) の言ふ事が!」
間は苦 ( くるし ) き声を搾 ( しぼ ) りて、
「きつと話を付けるから、この手を釈 ( ゆる ) してくれ給へ」
風「きつと話を付けるな――此方 ( こつち ) の要求を容 ( い ) れるか」
間「容れる」
詐 ( いつはり ) とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫 ( ちからくじ ) けて、竟 ( つひ ) に貫一を放ちてけり。
身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚 ( かきあつ ) め、鞄 ( かばん ) を拾ひてその中に捩込 ( ねぢこ ) み、さて慌忙 ( あわただし ) く座に復 ( かへ ) りて、
「それでは今日 ( こんにち ) はこれでお暇 ( いとま ) をします」
蒲田が思切りたる無法にこの長居は危 ( あやふ ) しと見たれば、心に恨は含みながら、陽 ( おもて ) には克 ( かな ) はじと閉口して、重ねて難題の出 ( い ) でざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱 ( げすあつかひ ) に呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容 ( い ) れん内は、今度は此方 ( こつち ) が還 ( かへ ) さんぞ」
膝推向 ( ひざおしむ ) けて迫寄 ( つめよ ) る気色 ( けしき ) は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、嚮 ( さつき ) から散々の目に遭 ( あは ) されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座 ( ちようざ ) をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
忽 ( たちま ) ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑 ( あざわらひ ) して、
「間、貴様は犬の糞 ( くそ ) で仇 ( かたき ) を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今 ( これから ) 毎 ( いつ ) でも蒲田が現れて取挫 ( とりひし ) いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇 ( かたき ) は取らない」
「利 ( き ) いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処 ( そこ ) まで送らう」
遊佐と風早とは起ちて彼を送出 ( おくりいだ ) せり。主 ( あるじ ) の妻は縁側より入 ( い ) り来 ( きた ) りぬ。
「まあ、貴方 ( あなた ) 、お蔭様で難有 ( ありがた ) う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些 ( ちよつ ) と壮士 ( そうし ) 芝居といふところを」
「大相宜 ( よろし ) い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
件 ( くだん ) の騒動にて四辺 ( あたり ) の狼藉 ( ろうぜき ) たるを、彼は効々 ( かひかひ ) しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来 ( いりく ) るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛 ( ごゆる ) り召上つて下さいまし」
妻の喜は溢 ( あふ ) るるばかりなるに引易 ( ひきか ) へて、遊佐は青息 ( あをいき ) 呴 ( つ ) きて思案に昏 ( く ) れたり。
「弱つた! 君がああして取緊 ( とつち ) めてくれたのは可いが、この返報に那奴 ( あいつ ) どんな事を為るか知れん。明日 ( あした ) あたり突然 ( どん ) と差押 ( さしおさへ ) などを吃 ( くは ) せられたら耐 ( たま ) らんな」
「余り蒲田が手酷 ( てひど ) い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々 ( はらはら ) してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前 ( あとさき ) を考へて遣つてくれなくては他迷惑 ( はためいわく ) だらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
蒲田は袂 ( たもと ) の中を撈 ( かいさぐ ) りて、揉皺 ( もめしわ ) みたる二通の書類を取出 ( とりいだ ) しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
何ならんと主 ( あるじ ) の妻も鼻の下を延べて窺 ( うかが ) へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
彼は先づその一通を取りて披見 ( ひらきみ ) るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
二人は蒲田が案外の物持てるに驚 ( おどろか ) されて、各 ( おのおの ) 息を凝 ( こら ) して瞪 ( みは ) れる眼 ( まなこ ) を動さず。蒲田も無言の間 ( うち ) に他の一通を取りて披 ( ひら ) けば、妻はいよいよ近 ( ちかづ ) きて差覗 ( さしのぞ ) きつ。四箇 ( よつ ) の頭顱 ( かしら ) はラムプの周辺 ( めぐり ) に麩 ( ふ ) に寄る池の鯉 ( こひ ) の如く犇 ( ひし ) と聚 ( あつま ) れり。
「これは三百円の証書だな」
一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前 ( さき ) なる遊佐良橘の名をも署 ( しる ) したり、蒲田は弾機仕掛 ( ばねじかけ ) のやうに躍 ( をど ) り上りて、
「占めた! これだこれだ」
驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤 ( しやも ) の鉢 ( はち ) の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭 ( ひざがしら ) に銚子 ( ちようし ) を薙倒 ( なぎたふ ) して、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋 ( きん ) の活動 ( はたらき ) を失へるやうにて幾度 ( いくたび ) も捉 ( とら ) へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽 ( たちま ) ち胸塞 ( むねふたが ) りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈 ( ふ ) むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ‼ 難有 ( ありがた ) い※〈[#感嘆符三つ、177-14]〉 」
証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六 ( むつ ) の目を以 ( も ) て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明 ( あきら ) めたり。
「君はどうしたのだ」
風早の面 ( おもて ) はかつ呆 ( あき ) れ、かつ喜び、かつ懼 ( をそ ) るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒 ( ビイル ) の満 ( まん ) を引きし蒲田は「血は大刀に滴 ( したた ) りて拭 ( ぬぐ ) ふに遑 ( いとま ) あらざる」意気を昂 ( あ ) げて、
「何と凄 ( すご ) からう。奴を捩伏 ( ねぢふ ) せてゐる中に脚 ( あし ) で掻寄 ( かきよ ) せて袂 ( たもと ) へ忍ばせたのだ――早業 ( はやわざ ) さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝 ( きようげべつでん ) さ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治 ( たいじ ) る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘 ( ねら ) ふ敵 ( かたき ) の証書ならんとは、全く天の善に与 ( くみ ) するところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方 ( こつち ) へ取つて了へば、三百円は蹈 ( ふ ) めるのかね」
蒲「大蹈 ( おほふ ) め! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無 ( さしつかへな ) い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本 ( せいほん ) さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動 ( じたばた ) したつて『河童 ( かつぱ ) の皿に水の乾 ( かわ ) いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然 ( まるまる ) 蹈むのもさすがに不便 ( ふびん ) との思召 ( おぼしめし ) を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜 ( よろし ) く樽爼 ( そんそ ) の間 ( かん ) に折衝して、遊佐家を泰山 ( たいざん ) の安きに置いて見せる。嗚呼 ( ああ ) 、実に近来の一大快事だ!」
人々の呆 ( あき ) るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴 ( おしいただ ) き推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方 ( あなた ) が音頭 ( おんど ) をお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒 ( らち ) 開けんといふに励されて、さては一生の怨敵 ( おんてき ) 退散の賀 ( いはひ ) と、各 ( おのおの ) 漫 ( そぞろ ) に前 ( すす ) む膝を聚 ( あつ ) めて、長夜 ( ちようや ) の宴を催さんとぞ犇 ( ひしめ ) いたる。
茫々 ( ぼうぼう ) たる世間に放れて、蚤 ( はや ) く骨肉の親むべき無く、況 ( いはん ) や愛情の温 ( あたた ) むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然 ( かいぜん ) として横 ( よこた ) はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢 ( しぎさわ ) の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔 ( やはらか ) き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽 ( たのしみ ) をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊 ( あきた ) らず、母の一部分となし、妹 ( いもと ) の一部分となし、或 ( あるひ ) は父の、兄の一部分とも為 ( な ) して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒 ( まどひ ) に値せしなり、故 ( ゆゑ ) に彼の恋は青年を楽む一場 ( いちじよう ) の風流の麗 ( うるはし ) き夢に似たる類 ( たぐひ ) ならで、質はその文 ( ぶん ) に勝てるものなりけり。彼の宮に於 ( お ) けるは都 ( すべ ) ての人の妻となすべき以上を妻として、寧 ( むし ) ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自 ( みづから ) はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時 ( いちじ ) に花を着くる心地して、曩 ( さき ) の枯野に夕暮れし石も今将 ( は ) た水に温 ( ぬく ) み、霞 ( かすみ ) に酔 ( ゑ ) ひて、長閑 ( のどか ) なる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃 ( こまやか ) になり勝 ( まさ ) れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙 ( たやす ) く宮を奪はれし貫一が心は如何 ( いか ) なりけん。身をも心をも打委 ( うちまか ) せて詐 ( いつは ) ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己 ( おのれ ) に反 ( そむ ) きて、空 ( むなし ) く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何 ( いか ) なりけん。彼はここに於いて曩 ( さき ) に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥 ( せいりよう ) を感ずるのみにて止 ( とどま ) らず、失望を添へ、恨を累 ( かさ ) ねて、かの塊然たる野末 ( のずゑ ) の石は、霜置く上に凩 ( こがらし ) の吹誘ひて、皮肉を穿 ( うが ) ち来 ( きた ) る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已 ( や ) まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞 ( かつ ) て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併 ( あは ) せて取去られしなり。
彼は或 ( あるひ ) はその恨を抛 ( なげう ) つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦 ( ひとたび ) 太 ( いた ) くその心を傷 ( きずつ ) けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶 ( とも ) に存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強 ( し ) ふる痛苦は、能 ( よ ) く彼の痛苦と相剋 ( あひこく ) して、その間 ( かん ) 聊 ( いささ ) か思 ( おもひ ) を遣るべき余地を窃 ( ぬす ) み得るに慣れて、彼は漸 ( やうや ) く忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵 ( けいてき ) に遇 ( あ ) ひ、悪徒に罹 ( かか ) りて、或は弄 ( もてあそ ) ばれ、或は欺かれ、或は脅 ( おびやか ) され勢 ( いきほひ ) 毒を以つて制し、暴を以つて易 ( か ) ふるの已 ( や ) むを得ざるより、一 ( いつ ) はその道の習に薫染して、彼は益 ( ますま ) す懼 ( おそ ) れず貪 ( むさぼ ) るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻 ( むちう ) つやうに募ることありて、心も消々 ( きえきえ ) に悩まさるる毎に、齷齰 ( あくさく ) 利を趁 ( お ) ふ力も失せて、彼はなかなか死の安きを懐 ( おも ) はざるにあらず。唯その一旦にして易 ( やす ) く、又今の空 ( むなし ) き死を遂 ( と ) げ了 ( をは ) らんをば、いと効為 ( かひな ) しと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度 ( ひとたび ) 前 ( さき ) の失望と恨とを霽 ( はら ) し得て、胸裡 ( きようり ) の涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨 ( と ) ぐが如く為ざらん、その夕 ( ゆふべ ) ぞ我は正 ( まさ ) に死ぬべきと私 ( ひそか ) に慰むるなりき。
貫一は一 ( いつ ) はかの痛苦を忘るる手段として、一 ( いつ ) はその妄執 ( もうしゆう ) を散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪 ( むさぼ ) れるなり。知らず彼がその夕 ( ゆふべ ) にして瞑 ( めい ) せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐 ( ふくしゆう ) の小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今少 ( すこし ) く事の大きく男らしくあらんをば企図 ( きと ) せるなり。然れども、痛苦の劇 ( はげし ) く、懐旧の恨に堪 ( た ) へざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆 ( かこ ) ちぬ。
「唉 ( ああ ) 、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が夐 ( はるか ) に勝 ( まし ) だ。死んでさへ了へば万慮空 ( むなし ) くこの苦艱 ( くげん ) は無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのは易 ( やす ) いが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。貨 ( かね ) が有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今俺 ( おれ ) の貯 ( たくは ) へた貨 ( かね ) は、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂 ( い ) ふだらう。俺には無い! 第一貨 ( かね ) などを持つてゐるやうな気持さへ為 ( せ ) んぢやないか。失望した身にはその望を取復 ( とりかへ ) すほどの宝は無いのだ。唉 ( ああ ) 、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑 ( わ ) びて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで涜 ( けが ) された宮は、決して旧 ( もと ) の宮ではなければ、もう間 ( はざま ) の宝ではない。間の宝は五年前 ( ぜん ) の宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す恋 ( こひし ) いのは宮だ。かうしてゐる間 ( ま ) も宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、噫 ( ああ ) 、鴫沢の宮! 五年前 ( ぜん ) の宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲 ( え ) られんのだ! 思へば貨 ( かね ) もつまらん。少 ( すくな ) いながらも今の貨 ( かね ) が熱海へ追つて行つた時の鞄 ( かばん ) の中に在つたなら……ええ‼」
頭 ( かしら ) も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能 ( あた ) はざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見 ( たずみ ) の底に逍遙 ( しようよう ) せし富山が妻との姿は、双々 ( そうそう ) 貫一が身辺を彷徨 ( ほうこう ) して去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮 ( か ) さざること仇敵 ( きゆうてき ) の如く、債務を逼 ( せま ) りて酷を極 ( きは ) むるなり。退 ( しりぞ ) いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽 ( たちま ) ち勢に駆られて断行するを憚 ( はばか ) らざるなり。かくして彼の心に拘 ( かかつら ) ふ事あれば、自 ( おのづか ) ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素 ( もと ) より彼は正 ( せい ) を知らずして邪を為し、是 ( ぜ ) を喜ばずして非 ( ひ ) を為すものにあらざれば、己 ( おのれ ) を抂 ( ま ) げてこれを行ふ心苦しさは俯 ( ふ ) して愧 ( は ) ぢ、仰ぎて懼 ( おそ ) れ、天地の間に身を置くところは、纔 ( わづか ) にその容 ( い ) るる空間だに猶濶 ( なほひろ ) きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐 ( はるか ) に忍ぶの易く、体 ( たい ) のまた胖 ( ゆたか ) なるをさへ感ずるなりけり。
一向 ( ひたぶる ) に神 ( しん ) を労し、思を費して、日夜これを暢 ( のぶ ) るに遑 ( いとま ) あらぬ貫一は、肉痩 ( にくや ) せ、骨立ち、色疲れて、宛然 ( さながら ) 死水 ( しすい ) などのやうに沈鬱し了 ( をは ) んぬ。その攅 ( あつ ) めたる眉 ( まゆ ) と空 ( むなし ) く凝 ( こら ) せる目とは、体力の漸 ( やうや ) く衰ふるに反して、精神の愈 ( いよい ) よ興奮するとともに、思の益 ( ますま ) す繁 ( しげ ) く、益す乱るるを、従ひて芟 ( か ) り、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟 ( つひ ) に如何 ( いか ) に為 ( せ ) ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤 ( つややか ) なりし髪は、後脳の辺 ( あたり ) に若干 ( そくばく ) の白きを交 ( まじ ) へて、額に催せし皺 ( しわ ) の一筋長く横 ( よこた ) はれるぞ、その心の窄 ( せばま ) れる襞 ( ひだ ) ならざるべき、況 ( いは ) んや彼の面 ( おもて ) を蔽 ( おほ ) へる蔭は益 ( ますま ) す暗きにあらずや。
吁 ( ああ ) 、彼はその初一念を遂 ( と ) げて、外面 ( げめん ) に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜 ( お ) つるを得たりけるなり。貪欲界 ( どんよくかい ) の雲は凝 ( こ ) りて歩々 ( ほほ ) に厚く護 ( まも ) り、離恨天 ( りこんてん ) の雨は随所直 ( ただち ) に灑 ( そそ ) ぐ、一飛 ( いつぴ ) 一躍出でては人の肉を啖 ( くら ) ひ、半生半死入 ( い ) りては我と膓 ( はらわた ) を劈 ( つんざ ) く。居 ( を ) る所は陰風常に廻 ( めぐ ) りて白日を見ず、行けども行けども無明 ( むみよう ) の長夜 ( ちようや ) 今に到るまで一千四百六十日、逢 ( あ ) へども可懐 ( なつかし ) き友の面 ( おもて ) を知らず、交 ( まじは ) れども曾 ( かつ ) て情 ( なさけ ) の蜜 ( みつ ) より甘きを知らず、花咲けども春日 ( はるび ) の麗 ( うららか ) なるを知らず、楽来 ( たのしみきた ) れども打背 ( うちそむ ) きて歓 ( よろこ ) ぶを知らず、道あれども履 ( ふ ) むを知らず、善あれども与 ( くみ ) するを知らず、福 ( さいはひ ) あれども招くを知らず、恵あれども享 ( う ) くるを知らず、空 ( むなし ) く利欲に耽 ( ふけ ) りて志を喪 ( うしな ) ひ、偏 ( ひとへ ) に迷執に弄 ( もてあそ ) ばれて思を労 ( つか ) らす、吁 ( ああ ) 、彼は終 ( つひ ) に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸 ( やうや ) く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目 ( しよくもく ) せざるはあらずなりぬ。
かの堪 ( た ) ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻 ( しきり ) なる厳談酷促 ( げんだんこくそく ) は自 ( おのづ ) から此処 ( ここ ) に彼処 ( かしこ ) に債務者の怨 ( うらみ ) を買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡 ( すくな ) からず、同業者といへども時としては彼の余 ( あまり ) に用捨無きを咎 ( とが ) むるさへありけり。独 ( ひと ) り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒を出 ( いだ ) さざるを誇れるなり。彼は己 ( おのれ ) の今日 ( こんにち ) あるを致せし辛抱と苦労とは、未 ( いま ) だ如此 ( かくのごと ) くにして足るものならずとて、屡 ( しばし ) ばその例を挙げては貫一を𠹤 ( そそのか ) し、飽くまで彼の意を強うせんと勉 ( つと ) めき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然の理 ( ことわり ) にて、己 ( おのれ ) の為 ( な ) すところは都 ( すべ ) ての同業者の為すところにて、己一人 ( おのれいちにん ) の残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此 ( かくのごと ) く残刻ならざるべからずと念 ( おも ) へるなり。故 ( ゆゑ ) に彼は決して己の所業のみ独 ( ひと ) り怨 ( うらみ ) を買ふべきにあらずと信じたり。
実 ( げ ) に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の辛 ( から ) うじてその半 ( なかば ) を想ひ得る残刻と、終 ( つひ ) に学ぶ能 ( あた ) はざる譎詐 ( きつさ ) とを左右にして、始めて今日 ( こんにち ) の富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐 ( きつさ ) とを擅 ( ほしいまま ) にして、なほ天に畏 ( おそ ) れず、人に憚 ( はばか ) らざる不敵の傲骨 ( ごうこつ ) あるにあらず。彼は密 ( ひそか ) に警 ( いまし ) めて多く夜出 ( い ) でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財を吝 ( をし ) まず、唯これ身の無事を祈るに汲々 ( きゆうきゆう ) として、自ら安ずる計 ( はかりごと ) をなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、正 ( まさ ) にこの信心の致すところと仕へ奉る御神 ( おんかみ ) の冥護 ( みようご ) を辱 ( かたじけ ) なみて措 ( お ) かざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐 ( きつさ ) とに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とに怯 ( きよ ) ならず、身は人と生れて人がましく行ひ、一 ( いつ ) も曾 ( かつ ) て犯せる事のあらざりしに、天は却 ( かへ ) りて己を罰し人は却りて己を詐 ( いつは ) り、終生の失望と遺恨とは濫 ( みだり ) に断膓 ( だんちよう ) の斧 ( をの ) を揮 ( ふる ) ひて、死苦の若 ( し ) かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼 ( おそ ) るべき無しと為 ( せ ) るならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自 ( みづから ) の心のみなりけり。
用談果つるを俟 ( ま ) ちて貫一の魚膠無 ( にべな ) く暇乞 ( いとまごひ ) するを、満枝は暫 ( しば ) しと留置 ( とどめお ) きて、用有りげに奥の間にぞ入 ( い ) りたる。その言 ( ことば ) の如く暫し待てども出 ( い ) で来 ( こ ) ざれば、又巻莨 ( まきたばこ ) を取出 ( とりいだ ) しけるに、手炉 ( てあぶり ) の炭は狼 ( おほかみ ) の糞 ( ふん ) のやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座 ( たんざ ) に毛糸の敷物したる石笠 ( いしがさ ) のラムプの燄 ( ほのほ ) を仮りて、貫一は為 ( せ ) う事無しに煙 ( けふり ) を吹きつつ、この赤樫 ( あかがし ) の客間を夜目ながら眗 ( みまは ) しつ。
袋棚 ( ふくろだな ) なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬 ( しつぽうやきまがひ ) の一輪挿 ( いちりんざし ) 、蝋石 ( ろうせき ) の飾玉を水色縮緬 ( みづいろちりめん ) の三重 ( みつがさね ) の褥 ( しとね ) に載せて、床柱なる水牛の角の懸花入 ( かけはないれ ) は松に隼 ( はやぶさ ) の勧工場蒔絵 ( まきゑ ) 金々 ( きんきん ) として、花を見ず。鋳物 ( いもの ) の香炉の悪古 ( わるふる ) びに玄 ( くす ) ませたると、羽二重 ( はぶたへ ) 細工の花筐 ( はなかたみ ) とを床に飾りて、雨中 ( うちゆう ) の富士をば引攪旋 ( ひきかきまは ) したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜 ( のぼりりゆう ) は目貫 ( めぬき ) を打つたるかとばかり雲間 ( くもま ) に耀 ( かがや ) ける横物 ( よこもの ) の一幅。頭 ( かしら ) を回 ( めぐ ) らせば、楣間 ( びかん ) に黄海 ( こうかい ) 大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷の隅 ( すみ ) には二鉢 ( ふたばち ) の菊を据ゑたり。
やや有りて出来 ( いできた ) れる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸 ( えりか ) けたる小袖 ( こそで ) に納戸 ( なんど ) 小紋の縮緬の羽織着て、七糸 ( しつちん ) と黒繻子 ( くろじゆす ) との昼夜帯して、華美 ( はで ) なるシオウルを携へ、髪など撫付 ( なでつ ) けしと覚 ( おぼし ) く、面 ( おもて ) も見違ふやうに軽く粧 ( よそほ ) ひて、
「大変失礼を致しました。些 ( ちよつ ) と私 ( わたくし ) も其処 ( そこ ) まで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」
無礼なりとは思ひけれど、口説れし誼 ( よしみ ) に貫一は今更腹も立て難くて、
「ああさうですか」
満枝はつと寄りて声を低くし、
「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」
聴き飽きたりと謂 ( い ) はんやうに彼は取合はで、
「それぢや参りませう。貴方 ( あなた ) は何方 ( どちら ) までお出 ( いで ) なのですか」
「私 ( わたくし ) は大横町 ( おおよこちよう ) まで」
二人は打連れて四谷左門町 ( よつやさもんちよう ) なる赤樫の家を出 ( い ) でぬ。伝馬町通 ( てんまちようどおり ) は両側の店に燈 ( ともし ) を列 ( つら ) ねて、未 ( ま ) だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の甚 ( はなはだし ) ければ、往来 ( ゆきき ) も稀 ( まれ ) に、空は星あれどいと暗し。
「何といふお寒いのでございませう」
「さやう」
「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜 ( よろし ) いぢやございませんか。それではお話が達 ( とど ) きませんわ」
彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄 ( すりよ ) りて歩めり。
「これぢや私 ( わたくし ) が歩き難 ( にく ) いです」
「貴方お寒うございませう。私お鞄 ( かばん ) を持ちませう」
「いいや、どういたして」
「貴方 ( あなた ) 恐入りますが、もう少し御緩 ( ごゆつく ) りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸 ( いき ) が切れて……」
已 ( や ) む無く彼は加減して歩めり。満枝は着重 ( きおも ) るシォウルを揺上 ( ゆりあ ) げて、
「疾 ( とう ) から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些 ( ちよつ ) ともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶 ( たま ) にはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而 ( せんだつて ) のやうな事は再び申上げませんから。些 ( ち ) といらしつて下さいましな」
「は、難有 ( ありがた ) う」
「お手紙を上げましても宜うございますか」
「何の手紙ですか」
「御機嫌伺 ( ごきげんうかがひ ) の」
「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」
「では、恋 ( こひし ) い時に」
「貴方が何も私を……」
「恋いのは私の勝手でございますよ」
「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞 ( ことわり ) をします」
「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵 ( わにぶち ) さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」
唯 ( と ) 見れば伝馬町 ( てんまちよう ) 三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒 ( ま ) かんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為 ( せ ) ずして立住 ( たちどま ) りつ。
「それぢや私はここで失礼します」
その不意に出 ( い ) でて貫一の闇 ( くら ) き横町に入 ( い ) るを、
「あれ、貴方 ( あなた ) 、其方 ( そちら ) からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂 ( さびし ) い道をお出 ( いで ) なさらなくても、此方 ( こつち ) の方が順ではございませんか」
満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
「なあに、此方 ( こつち ) が余程近いのですから」
「幾多 ( いくら ) も違ひは致しませんのに、賑 ( にぎや ) かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附 ( みつけ ) の所までお送り申しますから」
「貴方に送つて戴 ( いただ ) いたつて為やうが無い。夜が更 ( ふ ) けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」
「そんなお為転 ( ためごかし ) を有仰 ( おつしや ) らなくても宜 ( よろし ) うございます」
かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識 ( しらずしらず ) 其方 ( そなた ) に歩ませられし満枝は、やにはに立竦 ( たちすく ) みて声を揚げつ。
「ああ! 間さん些 ( ちよつ ) と」
「どうしました」
「路悪 ( みちわる ) へ入つて了 ( しま ) つて、履物 ( はきもの ) が取れないのでございますよ」
「それだから貴方はこんな方へお出 ( い ) でなさらんが可いのに」
彼は渋々寄り来 ( きた ) れり。
「憚様 ( はばかりさま ) ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
シォウルの外に援 ( たすけ ) を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は踽 ( よろめ ) きつつ泥濘 ( ぬかるみ ) を出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて摚 ( どう ) と貫一に靠 ( もた ) れたり。
「ああ、危い」
「転びましたら貴方 ( あなた ) の所為 ( せゐ ) でございますよ」
「馬鹿なことを」
彼はこの時扶 ( たす ) けし手を放たんとせしに、釘付 ( くぎつけ ) などにしたらんやうに曳 ( ひ ) けども振れども得離れざるを、怪しと女の面 ( おもて ) を窺 ( うかが ) へるなり。満枝は打背 ( うちそむ ) けたる顔の半 ( なかば ) をシオウルの端 ( はし ) に包みて、握れる手をば弥 ( いよい ) よ固く緊 ( し ) めたり。
「さあ、もう放して下さい」
益 ( ますま ) す緊めて袖 ( そで ) の中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
女は一語 ( ひとこと ) も言はず、面も背けたるままに、その手は益 ( ますます ) 放たで男の行く方 ( かた ) に歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、後 ( うしろ ) から人が来る」
「宜 ( よろし ) うございますよ」
独語 ( ひとりご ) つやうに言ひて、満枝は弥 ( いよいよ ) 寄添ひつ。貫一は怺 ( こら ) へかねて力任せに吽 ( うん ) と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
「あ、痛 ( いた ) ! そんな酷 ( ひど ) い事をなさらなくても、其処 ( そこ ) の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
と暴 ( あらら ) かに引払 ( ひつぱら ) ひて、寄らんとする隙 ( ひま ) もあらせず摩脱 ( すりぬ ) くるより足を疾 ( はや ) めて津守坂 ( つのかみざか ) を驀直 ( ましぐら ) に下りたり。
やうやう昇れる利鎌 ( とかま ) の月は乱雲 ( らんうん ) を芟 ( か ) りて、逈 ( はるけ ) き梢 ( こずゑ ) の頂 ( いただき ) に姑 ( しばら ) く掛れり。一抹 ( いちまつ ) の闇 ( やみ ) を透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割 ( かたわれ ) とは、懶 ( ものう ) く寝覚めたるやうに覚束 ( おぼつか ) なき形を顕 ( あらは ) しぬ。坂上なる巡査派出所の燈 ( ともし ) は空 ( むなし ) く血紅 ( けつこう ) の光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿も終 ( つひ ) に見えず。
片側町 ( かたかはまち ) なる坂町 ( さかまち ) は軒並 ( のきなみ ) に鎖 ( とざ ) して、何処 ( いづこ ) に隙洩 ( すきも ) る火影 ( ひかげ ) も見えず、旧砲兵営の外柵 ( がいさく ) に生茂 ( おひしげ ) る群松 ( むらまつ ) は颯々 ( さつさつ ) の響を作 ( な ) して、その下道 ( したみち ) の小暗 ( をぐら ) き空に五位鷺 ( ごいさぎ ) の魂切 ( たまき ) る声消えて、夜色愁ふるが如く、正 ( まさ ) に十一時に垂 ( なんな ) んとす。
忽 ( たちま ) ち兵営の門前に方 ( あた ) りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者 ( くせもの ) に囲れたるなり。一人 ( いちにん ) は黒の中折帽の鐔 ( つば ) を目深 ( まぶか ) に引下 ( ひきおろ ) し、鼠色 ( ねずみいろ ) の毛糸の衿巻 ( えりまき ) に半面を裹 ( つつ ) み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿 ( したばき ) 高々と尻褰 ( しりからげ ) して、黒足袋 ( くろたび ) に木裏の雪踏 ( せつた ) を履 ( は ) き、六分強 ( ろくぶづよ ) なる色木 ( いろき ) の弓の折 ( をれ ) を杖 ( つゑ ) にしたり。他は盲縞 ( めくらじま ) の股引 ( ももひき ) 腹掛 ( はらがけ ) に、唐桟 ( とうざん ) の半纏 ( はんてん ) 着て、茶ヅックの深靴 ( ふかぐつ ) を穿 ( うが ) ち、衿巻の頬冠 ( ほほかぶり ) に鳥撃帽子 ( とりうちぼうし ) を頂きて、六角に削成 ( けずりな ) したる檳榔子 ( びんろうじ ) の逞きステッキを引抱 ( ひんだ ) き、いづれも身材 ( みのたけ ) 貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼 ( わかもの ) どもなり。
「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」
「黙れ!」と弓の折 の寄るを貫一は片手に障 ( ささ ) へて、
「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手 ( あひて ) にならう。物取ならば財 ( かね ) はくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」
答は無くて揮下 ( ふりおろ ) したる弓の折は貫一が高頬 ( たかほほ ) を発矢 ( はつし ) と打つ。眩 ( めくるめ ) きつつも迯 ( にげ ) 行くを、猛然と追迫 ( おひせま ) れる檳榔子は、件 ( くだん ) の杖もて片手突に肩の辺 ( あたり ) を曳 ( えい ) と突いたり。踏み耐 ( こた ) へんとせし貫一は水道工事の鉄道 ( レイル ) に跌 ( つまづ ) きて仆 ( たふ ) るるを、得たりと附入 ( つけい ) る曲者は、余 ( あまり ) に躁 ( はや ) りて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方 ( あなた ) に反跳 ( はずみ ) を打ちて投飛されぬ。入替 ( いりかは ) りて一番手の弓の折は貫一の背 ( そびら ) を袈裟掛 ( けさがけ ) に打据ゑければ、起きも得せで、崩折 ( くづを ) るるを、畳みかけんとする隙 ( ひま ) に、手元に脱捨 ( ぬぎす ) てたりし駒下駄 ( こまげた ) を取るより早く、彼の面 ( おもて ) を望みて投げたるが、丁 ( ちよう ) と中 ( あた ) りて痿 ( ひる ) むその時、貫一は蹶起 ( はねお ) きて三歩ばかりも逭 ( のが ) れしを打転 ( うちこ ) けし檳榔子 の躍 ( をど ) り蒐 ( かか ) りて、拝打 ( をがみうち ) に下 ( おろ ) せる杖は小鬢 ( こびん ) を掠 ( かす ) り、肩を辷 ( すべ ) りて、鞄 ( かばん ) 持つ手を断 ( ちぎ ) れんとすばかりに撲 ( う ) ちけるを、辛 ( から ) くも忍びてつと退 ( の ) きながら身構 ( みがまへ ) しが、目潰吃 ( めつぶしくら ) ひし一番手の怒 ( いかり ) を作 ( な ) して奮進し来 ( きた ) るを見るより今は危 ( あやふ ) しと鞄の中なる小刀 ( こがたな ) 撈 ( かいさぐ ) りつつ馳出 ( はせい ) づるを、輙 ( たやす ) く肉薄せる二人が笞 ( しもと ) は雨の如く、所嫌 ( ところきら ) はぬ滅多打 ( めつたうち ) に、彼は敢無 ( あへな ) くも昏倒 ( こんとう ) せるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
弓「此奴 ( こいつ ) おれの鼻面 ( はなづら ) へ下駄を打着けよつた、ああ、痛 ( いた ) 」
衿巻掻除 ( かきの ) けて彼の撫 ( な ) でたる鼻は朱 ( あけ ) に染みて、西洋蕃椒 ( たうがらし ) の熟 ( つ ) えたるに異らず。
檳「おお、大変な衂 ( はなぢ ) ですぜ」
貫一は息も絶々ながら緊 ( しか ) と鞄を掻抱 ( かきいだ ) き、右の逆手 ( さかて ) に小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉 ( ろうぜき ) に及ばば為 ( せ ) んやう有りと、油断を計りてわざと為す無き体 ( てい ) を装 ( よそほ ) ひ、直呻 ( ひたうめ ) きにぞ呻きゐたる。
弓「憎い奴じや。然し、随分撲 ( う ) つたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
かくて曲者は間近の横町に入 ( い ) りぬ。辛 ( から ) うじて面 ( おもて ) を擡 ( あ ) げ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通 ( いたみ ) に、精神漸 ( やうや ) く乱れて、屡 ( しばし ) ば前後を覚えざらんとす。
〈[#改ページ]〉
後編
翌々日の諸新聞は坂町 ( さかまち ) に於ける高利貸 ( アイス ) 遭難の一件を報道せり。中 ( うち ) に間 ( はざま ) 貫一を誤りて鰐淵直行 ( わにぶちただゆき ) と為 ( せ ) るもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したりとのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。彼等を識 ( し ) らざる読者は湯屋の喧嘩 ( けんか ) も同じく、三ノ面記事の常套 ( じようとう ) として看過 ( みすご ) すべく、何の遑 ( いとま ) かその敵手 ( あひて ) の誰々 ( たれたれ ) なるを問はん。識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利 ( き ) かずなるまで撃踣 ( うちのめ ) されざりしを本意無 ( ほいな ) く思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為 ( な ) せる業 ( わざ ) ならんとは、諸新聞の記 ( しる ) せる如く、人も皆思ふところなりけり。
直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心を協 ( あは ) せて貫一の災難を悲 ( かなし ) み、何程の費 ( つひえ ) をも吝 ( をし ) まず手宛 ( てあて ) の限を加へて、少小 ( すこし ) の瘢 ( きず ) をも遺 ( のこ ) さざらんと祈るなりき。
股肱 ( ここう ) と恃 ( たの ) み、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打 ( やみうち ) のやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見 ( みせしめ ) の為に、彼が入院中を目覚 ( めざまし ) くも厚く賄 ( まかな ) ひて、再び手出しもならざらんやう、陰 ( かげ ) ながら卑怯者 ( ひきようもの ) の息の根を遏 ( と ) めんと、気も狂 ( くるはし ) く力を竭 ( つく ) せり。
彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出 ( い ) で来 ( きた ) るべきを思過 ( おもひすご ) して、若 ( も ) しさるべからんには如何 ( いか ) にか為 ( す ) べき、この悲しさ、この口惜 ( くちを ) しさ、この心細さにては止 ( や ) まじと思ふに就けて、空可恐 ( そらおそろし ) く胸の打騒ぐを禁 ( とど ) め得ず。奉公大事ゆゑに怨 ( うらみ ) を結びて、憂き目に遭 ( あ ) ひし貫一は、夫の禍 ( わざはひ ) を転じて身の仇 ( あだ ) とせし可憫 ( あはれ ) さを、日頃の手柄に増して浸々 ( しみじみ ) 難有 ( ありがた ) く、かれを念 ( おも ) ひ、これを思ひて、絶 ( したたか ) に心弱くのみ成行くほどに、裏に愧 ( は ) づること、懼 ( おそ ) るること、疚 ( やまし ) きことなどの常に抑 ( おさ ) へたるが、忽 ( たちま ) ち涌立 ( わきた ) ち、跳出 ( をどりい ) でて、その身を責むる痛苦に堪 ( た ) へざるなりき。
年久く飼 ( かは ) るる老猫 ( ろうみよう ) の凡 ( およ ) そ子狗 ( こいぬ ) ほどなるが、棄てたる雪の塊 ( かたまり ) のやうに長火鉢 ( ながひばち ) の猫板 ( ねこいた ) の上に蹲 ( うづくま ) りて、前足の隻落 ( かたしおと ) して爪頭 ( つまさき ) の灰に埋 ( うづも ) るるをも知らず、齁 ( いびき ) をさへ掻 ( か ) きて熟睡 ( うまい ) したり。妻はその夜の騒擾 ( とりこみ ) 、次の日の気労 ( きづかれ ) に、血の道を悩める心地 ( ここち ) にて、懵々 ( うつらうつら ) となりては驚かされつつありける耳元に、格子 ( こうし ) の鐸 ( ベル ) の轟 ( とどろ ) きければ、はや夫の帰来 ( かへり ) かと疑ひも果てぬに、紙門 ( ふすま ) を開きて顕 ( あらは ) せる姿は、年紀 ( としのころ ) 二十六七と見えて、身材 ( たけ ) は高からず、色やや蒼 ( あを ) き痩顔 ( やせがほ ) の険 ( むづか ) しげに口髭逞 ( くちひげたくまし ) く、髪の生 ( お ) ひ乱れたるに深々 ( ふかふか ) と紺ネルトンの二重外套 ( にじゆうまわし ) の襟 ( えり ) を立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁 ( べつこうぶち ) の眼鏡を挿 ( はさ ) みて、稜 ( かど ) ある眼色 ( まなざし ) は見る物毎に恨あるが如し。
妻は思設けぬ面色 ( おももち ) の中に喜を漾 ( たた ) へて、
「まあ直道 ( ただみち ) かい、好くお出 ( いで ) だね」
片隅 ( かたすみ ) に外套 ( がいとう ) を脱捨つれば、彼は黒綾 ( くろあや ) のモオニングの新 ( あたらし ) からぬに、濃納戸地 ( こいなんどじ ) に黒縞 ( くろじま ) の穿袴 ( ズボン ) の寛 ( ゆたか ) なるを着けて、清 ( きよら ) ならぬ護謨 ( ゴム ) のカラ、カフ、鼠色 ( ねずみいろ ) の紋繻子 ( もんじゆす ) の頸飾 ( えりかざり ) したり。妻は得々 ( いそいそ ) 起ちて、その外套を柱の折釘 ( をりくぎ ) に懸けつ。
「どうも取んだ事で、阿父 ( おとつ ) さんの様子はどんな? 今朝新聞を見ると愕 ( おどろ ) いて飛んで来たのです。容体 ( ようだい ) はどうです」
彼は時儀を叙 ( の ) ぶるに迨 ( およ ) ばずして忙 ( せは ) しげにかく問出 ( とひい ) でぬ。
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作 ( なさ ) りはしないわね」
「はあ? 坂町で大怪我 ( おほけが ) を為 ( なす ) つて、病院へ入つたと云ふのは?」
「あれは間 ( はざま ) さ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭 ( いや ) だね、どうしたと云ふのだらう」
「いや、さうですか。でも、新聞には歴然 ( ちやん ) とさう出てゐましたよ」
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之 ( さつき ) 病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来 ( かへり ) だらう。まあ寛々 ( ゆつくり ) してお在 ( いで ) な」
かくと聞ける直道は余 ( あまり ) の不意に拍子抜して、喜びも得為 ( えせ ) ず唖然 ( あぜん ) たるのみ。
「ああ、さうですか、間が遣 ( や ) られたのですか」
「ああ、間が可哀 ( かあい ) さうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ」
「どんなです、新聞には余程劇 ( ひど ) いやうに出てゐましたが」
「新聞に在る通だけれど、不具 ( かたは ) になるやうな事も無いさうだが、全然 ( すつかり ) 快 ( よ ) くなるには三月 ( みつき ) ぐらゐはどんな事をしても要 ( かか ) るといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、阿父 ( おとつ ) さんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて手宛 ( てあて ) は十分にしてあるのだから、決して気遣 ( きづかひ ) は無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。左の肩の骨が少し摧 ( くだ ) けたとかで、手が緩縦 ( ぶらぶら ) になつて了 ( しま ) つたの、その外紫色の痣 ( あざ ) だの、蚯蚓腫 ( めめずばれ ) だの、打切 ( ぶつき ) れたり、擦毀 ( すりこは ) したやうな負傷 ( きず ) は、お前、体一面なのさ。それに気絶するほど頭部 ( あたま ) を撲 ( ぶた ) れたのだから、脳病でも出なければ可いつて、お医者様もさう言つてお在 ( いで ) ださうだけれど、今のところではそんな塩梅 ( あんばい ) も無いさうだよ。何しろその晩内へ舁込 ( かつぎこ ) んだ時は半死半生で、些 ( ほん ) の虫の息が通つてゐるばかり、私 ( わたし ) は一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふものは丈夫なものだね」
「それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さうして阿父さんは何と言つてゐました」
「何ととは?」
「間が闇打 ( やみうち ) にされた事を」
「いづれ敵手 ( あひて ) は貸金 ( かしきん ) の事から遺趣を持つて、その悔し紛 ( まぎれ ) に無法な真似 ( まね ) をしたのだらうつて、大相腹を立ててお在 ( いで ) なのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の大人 ( おとなし ) い人だから、つまらない喧嘩 ( けんか ) なぞを為る気遣 ( きづかひ ) はなし、何でもそれに違は無いのさ。それだから猶更 ( なほさら ) 気の毒で、何とも謂 ( い ) ひやうが無い」
「間は若いから、それでも助るのです、阿父 ( おとつ ) さんであつたら命は有りませんよ、阿母 ( おつか ) さん」
「まあ可厭 ( いや ) なことをお言ひでないな!」
浸々 ( しみじみ ) 思入りたりし直道は徐 ( しづか ) にその恨 ( うらめし ) き目を挙げて、
「阿母さん、阿父さんは未 ( ま ) だこの家業をお廃 ( や ) めなさる様子は無いのですかね」
母は苦しげに鈍り鈍りて、
「さうねえ……別に何とも……私 ( わたし ) には能 ( よ ) く解らないね……」
「もう今に応報 ( むくい ) は阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭 ( あ ) つたのは、決して人事ぢやありませんよ」
「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」
「言ひます! 今日は是非言はなければならない」
「それは言ふも可いけれど、従来 ( これまで ) も随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんは些 ( ちつと ) もお聴きではないぢやないか。とても他 ( ひと ) の言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目を瞑 ( つぶ ) つてお在 ( いで ) よ、よ」
「私 ( わたし ) だつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を瞑 ( つぶ ) つてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは没 ( なくな ) して了 ( しま ) ひたいと熟 ( つくづ ) く思ふのです。噫 ( ああ ) 、こんな事なら未 ( ま ) だ親子で乞食をした方が夐 ( はるか ) に可い」
彼は涙を浮べて倆 ( うつむ ) きぬ。母はその身も倶 ( とも ) に責めらるる想して、或 ( あるひ ) は可慚 ( はづかし ) く、或は可忌 ( いまはし ) く、この苦 ( くるし ) き位置に在るに堪 ( た ) へかねつつ、言解かん術 ( すべ ) さへ無けれど、とにもかくにも言はで已 ( や ) むべき折ならねば、辛 ( からう ) じて打出 ( うちいだ ) しつ。
「それはもうお前の言ふのは尤 ( もつとも ) だけれど、お前と阿父 ( おとつ ) さんとは全 ( まる ) で気合 ( きあひ ) が違ふのだから、万事考量 ( かんがへ ) が別々で、お前の言ふ事は阿父さんの肚 ( はら ) には入らず、ね、又阿父さんの為る事はお前には不承知と謂 ( い ) ふので、その中へ入つて私も困るわね。内も今では相応にお財 ( かね ) も出来たのだから、かう云ふ家業は廃 ( や ) めて、楽隠居になつて、お前に嫁を貰 ( もら ) つて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだから、そんなことを言出さうものなら、どんなに慍 ( おこ ) られるだらうと、それが見え透いてゐるから、漫然 ( うつかり ) した事は言はれずさ、お前の心を察して見れば可哀 ( かあい ) さうではあり、さうかと云つて何方 ( どつち ) をどうすることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役にも立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。
さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応と承知をしさうな様子は無いのだから、憖 ( なまじ ) ひ言合つてお互に心持を悪くするのが果 ( おち ) だから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだつて心ぢやどんなにお前が便 ( たより ) だか知れやしないのだから、究竟 ( つまり ) はお前の言ふ事も聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、決して心に掛けないのではないけれども、又阿父 ( おとつ ) さんの方にも其処 ( そこ ) には了簡 ( りようけん ) があつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。
それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふと却 ( かへ ) つて善くないから、今日は窃 ( そつ ) として措 ( お ) いておくれ、よ、本当に私が頼むから、ねえ直道」
実 ( げ ) に母は自ら言へりし如く、板挾 ( いたばさみ ) の難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじと、誠の一図に直道を諭 ( さと ) すなりき。彼は涙の催すに堪 ( た ) へずして、鼻目鏡 ( はなめがね ) を取捨てて目を推拭 ( おしぬぐ ) ひつつ猶咽 ( むせ ) びゐたりしが、
「阿母 ( おつか ) さんにさう言れるから、私は不断は怺 ( こら ) へてゐるのです。今日ばかり存分に言はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目に遭 ( あ ) つたのは天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」
母はその一念に脅 ( おびやか ) されけんやうにて漫 ( そぞろ ) 寒きを覚えたり。洟打去 ( はなうちか ) みて直道は語 ( ことば ) を継ぎぬ。
「然し私 ( わたし ) の仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな汚 ( けが ) れた家業を為るのを見てゐるのが可厭 ( いや ) だ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何 ( いか ) にも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお在 ( いで ) でせう」
「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、一処 ( いつしよ ) に居たらさぞ好からうとは……」
「それは、私は猶 ( なほ ) の事です。こんな内に居るのは可厭 ( いや ) だ、別居して独 ( ひとり ) で遣る、と我儘 ( わがまま ) を言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰つたのは誰 ( たれ ) のお陰かと謂へば、皆 ( みんな ) 親の恩。それもこれも知つてゐながら、阿父 ( おとつ ) さんを踏付にしたやうな行 ( おこなひ ) を為るのは、阿母 ( おつか ) さん能々 ( よくよく ) の事だと思つて下さい。私は親に悖 ( さから ) ふのぢやない、阿父さんと一処に居るのを嫌 ( きら ) ふのぢやないが、私は金貸などと云ふ賤 ( いやし ) い家業が大嫌 ( だいきらひ ) なのです。人を悩 ( なや ) めて己 ( おのれ ) を肥 ( こや ) す――浅ましい家業です!」
身を顫 ( ふる ) はして彼は涙に掻昏 ( かきく ) れたり。母は居久 ( いたたま ) らぬまでに惑へるなり。
「親を過 ( すご ) すほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は面目 ( めんぼく ) も無いのです。然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐに乾 ( ひもじ ) い思はきつと為 ( さ ) せませんから、破屋 ( あばらや ) でも可いから親子三人一所に暮して、人に後指を差 ( ささ ) れず、罪も作らず、怨 ( うらみ ) も受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中は貨 ( かね ) が有つたから、それで可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をして拵 ( こしら ) へた貨 ( かね ) 、そんな貨 ( かね ) が何の頼 ( たのみ ) になるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた身上 ( しんじよう ) は一代持たずに滅びます。因果の報う例 ( ためし ) は恐るべきものだから、一日でも早くこんな家業は廃 ( や ) めるに越した事はありません。噫 ( ああ ) 、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」
積悪の応報覿面 ( てきめん ) の末を憂 ( うれ ) ひて措 ( お ) かざる直道が心の眼 ( まなこ ) は、無残にも怨 ( うらみ ) の刃 ( やいば ) に劈 ( つんざか ) れて、路上に横死 ( おうし ) の恥を暴 ( さら ) せる父が死顔の、犬に蹋 ( け ) られ、泥に塗 ( まみ ) れて、古蓆 ( ふるむしろ ) の陰に枕 ( まくら ) せるを、怪くも歴々 ( まざまざ ) と見て、恐くは我が至誠の鑑 ( かがみ ) は父が未然を宛然 ( さながら ) 映し出 ( いだ ) して謬 ( あやま ) らざるにあらざるかと、事の目前 ( まのあたり ) の真にあらざるを知りつつも、余りの浅ましさに我を忘れてつと迸 ( ほとばし ) る哭声 ( なきごゑ ) は、咬緊 ( くひし ) むる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方に昏 ( く ) れたる折しも、門 ( かど ) に俥 ( くるま ) の駐 ( とどま ) りて、格子の鐸 ( ベル ) の鳴るは夫の帰来 ( かへり ) か、次手 ( ついで ) 悪しと胸を轟 ( とどろ ) かして、直道の肩を揺り動 ( うごか ) しつつ、声を潜めて口早に、
「直道、阿父さんのお帰来 ( かへり ) だから、泣いてゐちや可けないよ、早く彼方 ( あつち ) へ行つて、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」
はや足音は次の間に来 ( きた ) りぬ。母は慌 ( あわ ) てて出迎に起 ( た ) てば、一足遅れに紙門 ( ふすま ) は外より開れて主 ( あるじ ) 直行の高く幅たき躯 ( からだ ) は岸然 ( のつそり ) とお峯の肩越 ( かたごし ) に顕 ( あらは ) れぬ。
「おお、直道か珍いの。何時 ( いつ ) 来たのか」
かく言ひつつ彼は艶々 ( つやつや ) と赭 ( あから ) みたる鉢割 ( はちわれ ) の広き額の陰に小く点せる金壺眼 ( かねつぼまなこ ) を心快 ( こころよ ) げに瞪 ( みひら ) きて、妻が例の如く外套 ( がいとう ) を脱 ( ぬが ) するままに立てり。お峯は直道が言 ( ことば ) に稜 ( かど ) あらんことを慮 ( おもひはか ) りて、さり気無く自ら代りて答へつ。
「もう少し先 ( さつき ) でした。貴君 ( あなた ) は大相お早かつたぢやありませんか、丁度好 ( よ ) ございましたこと。さうして間の容体はどんなですね」
「いや、仕合 ( しあはせ ) と想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」
黒一楽 ( くろいちらく ) の三紋 ( みつもん ) 付けたる綿入羽織 ( わたいればおり ) の衣紋 ( えもん ) を直して、彼は機嫌 ( きげん ) 好く火鉢 ( ひばち ) の傍 ( そば ) に歩み寄る時、直道は漸 ( やうや ) く面 ( おもて ) を抗 ( あ ) げて礼を作 ( な ) せり。
「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」
梭櫚 ( しゆろ ) の毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭 ( くちひげ ) を掻拈 ( かいひね ) りて、太短 ( ふとみじか ) なる眉 ( まゆ ) を顰 ( ひそ ) むれば、聞ゐる妻は呀 ( はつ ) とばかり、刃 ( やいば ) を踏める心地も為めり。直道は屹 ( き ) と振仰ぐとともに両手を胸に組合せて、居長高 ( ゐたけだか ) になりけるが、父の面 ( おもて ) を見し目を伏せて、さて徐 ( しづか ) に口を開きぬ。
「今朝新聞を見ましたところが、阿父 ( おとつ ) さんが、大怪我を為 ( なす ) つたと出てをつたので、早速お見舞に参つたのです」
白髪 ( しらが ) を交 ( まじ ) へたる茶褐色 ( ちやかつしよく ) の髪の頭 ( かしら ) に置余るばかりなるを撫 ( な ) でて、直行は、
「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。俺 ( おれ ) ならそんな場合に出会うたて、唯々 ( おめおめ ) 打 ( うた ) れちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは敵手 ( あひて ) にしてくれるが」
直道の隣に居たる母は密 ( ひそか ) に彼のコオトの裾 ( すそ ) を引きて、言 ( ことば ) を返させじと心着 ( づく ) るなり。これが為に彼は少しく遅 ( ためら ) ひぬ。
「本 ( ほん ) にお前どうした、顔色 ( かほつき ) が良うないが」
「さうですか。余り貴方 ( あなた ) の事が心配になるからです」
「何じや?」
「阿父さん、度々 ( たびたび ) 言ふ事ですが、もう金貸は廃 ( や ) めて下さいな」
「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」
「廃めなければならんやうになつて廃めるのは見 ( みつ ) ともない。今朝貴方 ( あなた ) が半死半生の怪我をしたといふ新聞を見た時、私 ( わたし ) はどんなにしても早くこの家業をお廃めなさるやうに為 ( さ ) せなかつたのを熟 ( つくづ ) く後悔したのです。幸 ( さいはひ ) に貴方は無事であつた、から猶更 ( なほさら ) 今日は私の意見を用ゐて貰 ( もら ) はなければならんのです。今に阿父さんも間のやうな災難を必ず受けるですよ。それが可恐 ( おそろし ) いから廃めると謂ふのぢやありません、正 ( ただし ) い事で争つて殞 ( おと ) す命ならば、決 ( け ) して辞することは無いけれど、金銭づくの事で怨 ( うらみ ) を受けて、それ故 ( ゆゑ ) に無法な目に遭 ( あ ) ふのは、如何 ( いか ) にも恥曝 ( はぢさら ) しではないですか。一つ間違へば命も失はなければならん、不具 ( かたは ) にも為 ( さ ) れなければならん、阿父さんの身の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。
こんな家業を為 ( せ ) んでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾 ( つまはぢき ) をされて、無理な財 ( かね ) を拵 ( こしら ) へんければならんのですか。何でそんなに金が要 ( い ) るのですか。誰にしても自身に足りる以外の財 ( かね ) は、子孫に遺 ( のこ ) さうと謂ふより外は無いのでせう。貴方には私が一人子 ( ひとりつこ ) 、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日 ( こんにち ) 無用の財を貯 ( たくは ) へる為に、人の怨を受けたり、世に誚 ( そし ) られたり、さうして現在の親子が讐 ( かたき ) のやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで為 ( なす ) つてゐるのではないでせう。
私のやうなものでも可愛 ( かはい ) いと思つて下さるなら、財産を遺 ( のこ ) して下さる代 ( かはり ) に私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」
父が前に頭 ( かしら ) を低 ( た ) れて、輙 ( たやす ) く抗 ( あ ) げぬ彼の面 ( おもて ) は熱き涙に蔽 ( おほは ) るるなりき。
些 ( さ ) も動ずる色無き直行は却 ( かへ ) つて微笑を帯びて、語 ( ことば ) をさへ和 ( やはら ) げつ。
「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは嬉 ( うれし ) いけど、お前のはそれは杞憂 ( きゆう ) と謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳 ( あたま ) で実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の誚 ( そしり ) のと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くは嫉 ( そねみ ) 、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば愍 ( あはれ ) まるるじや。何家業に限らず、財 ( かね ) を拵 ( こしら ) へる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。財 ( かね ) の有る奴で評判の好 ( え ) えものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから自 ( おのづか ) ら心持も違うて、財 ( かね ) などをさう貴 ( たつと ) いものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、可 ( え ) えか。実業家の精神は唯財 ( ただかね ) じや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲 ( ほし ) がる財じや、何ぞ好 ( え ) えところが無くてはならんぢやらう。何処 ( どこ ) が好 ( え ) えのか、何でそんなに好 ( え ) えのかは学者には解らん。
お前は自身に供給するに足るほどの財 ( かね ) があつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量 ( かんがへ ) じやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可 ( え ) えと満足して了うてからに手を退 ( ひ ) くやうな了簡 ( りようけん ) であつたら、国は忽 ( たちま ) ち亡 ( ほろぶ ) るじや――社会の事業は発達せんじや。さうして国中 ( こくちゆう ) 若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。
俺にそんなに財 ( かね ) を拵 ( こしら ) へてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為 ( せ ) ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟 ( つまり ) 財を拵へるが極 ( きは ) めて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好 ( え ) え加減に為 ( せ ) い、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。
お前は能 ( よ ) うこの家業を不正ぢやの、汚 ( けがらはし ) いのと言ふけど、財を儲 ( まう ) くるに君子の道を行うてゆく商売が何処 ( どこ ) に在るか。我々が高利の金を貸す、如何 ( いか ) にも高利じや、何為 ( なぜ ) 高利か、可 ( え ) えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いと詐 ( いつは ) つて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何で汚 ( けがらはし ) いか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急を拯 ( すく ) はにや措 ( おか ) れんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが則 ( すなは ) ち営業の魂 ( たましひ ) なんじや。
財 ( かね ) といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念 ( おも ) うとる、獲たら離すまいと為 ( し ) とる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総 ( すべ ) ての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲 ( かねまうけ ) する者は皆不正な事をしとるんじや」
太 ( いた ) くもこの弁論に感じたる彼の妻は、屡 ( しばし ) ば直道の顔を偸視 ( ぬすみみ ) て、あはれ彼が理窟 ( りくつ ) もこれが為に挫 ( くじ ) けて、気遣 ( きづか ) ひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて私 ( ひそか ) に懽 ( よろこ ) べり。
直道は先 ( ま ) づ厳 ( おごそか ) に頭 ( かしら ) を掉 ( ふ ) りて、
「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。私 ( わたし ) は決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入 ( つけい ) つて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは……! 譬 ( たと ) へば間が災難に遭 ( あ ) つた。あれは先は二人で、しかも不意打を吃 ( くは ) したのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返 ( いしゆがへし ) の為方とお思ひなさるか。卑劣極 ( きはま ) る奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」
彼は声を昂 ( あ ) げて逼 ( せま ) れり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声を鎮 ( しづ ) めて、
「どうですか」
「勿論 ( もちろん ) 」
「勿論? 勿論ですとも! 何奴 ( なにやつ ) か知らんけれど、実に陋 ( きたな ) い根性、劣 ( けち ) な奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設 ( たと ) ひその手段は如何 ( いか ) にあらうとも」
父は騒がず、笑 ( ゑみ ) を含みて赤き髭 ( ひげ ) を弄 ( まさぐ ) りたり。
「卑劣と言れやうが、陋 ( きたな ) いと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺 ( つかみころ ) しても遣りたいほど悔 ( くやし ) いのは此方 ( こつち ) ばかり。
阿父 ( おとつ ) さんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方 ( あなた ) がお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」
又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる言 ( ことば ) をもて夫はこれに答へんとすらん、我はこの理 ( ことわり ) の覿面 ( てきめん ) 当然なるに口を開かんやうも無きにと、心慌 ( あわ ) てつつ夫の気色を密 ( ひそか ) に窺 ( うかが ) ひたり。彼は自若として、却 ( かへ ) つてその子の善く論ずるを心に愛 ( め ) づらんやうの面色 ( おももち ) にて、転 ( うた ) た微笑を弄 ( ろう ) するのみ。されども妻は能 ( よ ) く知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて屡 ( しばしば ) するを。彼は今それか非 ( あら ) ぬかを疑へるなり。
蒼 ( あを ) く羸 ( やつ ) れたる直道が顔は可忌 ( いまはし ) くも白き色に変じ、声は甲高 ( かんだか ) に細りて、膝 ( ひざ ) に置ける手頭 ( てさき ) は連 ( しき ) りに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来 ( これまで ) も度々 ( たびたび ) 言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆阿父 ( おとつ ) さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在 ( いで ) は無からうけれど、考出 ( かんがへだ ) すと勉強するのも何も可厭 ( いや ) になつて、吁 ( ああ ) 、いつそ山の中へでも引籠 ( ひつこ ) んで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤 ( いやし ) んで、附合ふのも耻 ( はぢ ) にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞 ( きか ) される心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終 ( つひ ) には容 ( い ) れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方 ( こつち ) に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺 ( みちばた ) に餓死 ( かつゑじに ) するのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎 ( うとま ) れてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」
眼 ( まなこ ) は痛恨の涙を湧 ( わか ) して、彼は覚えず父の面 ( おもて ) を睨 ( にら ) みたり。直行は例の嘯 ( うそぶ ) けり。
直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言 ( ことば ) を止 ( や ) めず。
「今度の事を見ても、如何 ( いか ) に間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方 ( あなた ) の手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎 ( にくみ ) はどんなであるか言ふに忍びない」
父は忽 ( たちま ) ち遮 ( さへぎ ) りて、
「善し、解つた。能 ( よ ) う解つた」
「では私の言 ( ことば ) を用ゐて下さるか」
「まあ可 ( え ) え。解つた、解つたから……」
「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
「お前の言ふ事は能う解つたさ。然 ( しか ) し、爾 ( なんぢ ) は爾たり、吾は吾たりじや」
直道は怺 ( こら ) へかねて犇 ( ひし ) と拳 ( こぶし ) を握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空 ( あだ ) には思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉 ( ま ) げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更 ( なほさら ) 劇 ( えら ) い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
「そりや辱 ( かたじけな ) いが、ま、当分俺の躯 ( からだ ) は俺に委 ( まか ) して置いてくれ」
彼は徐 ( しづか ) に立上りて、
「些 ( ちよつ ) とこれから行 ( い ) て来にやならん処があるで、寛 ( ゆつく ) りして行くが可 ( え ) え」
忽忙 ( そそくさ ) と二重外套 ( にじゆうまわし ) を打被 ( うちかつ ) ぎて出 ( い ) づる後より、帽子を持ちて送 ( おく ) れる妻は密 ( ひそか ) に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺 ( しわ ) めて、
「俺が居ると面倒ぢやから、些 ( ちよつ ) と出て来る。可 ( え ) えやうに言うての、還 ( かへ ) してくれい」
「へえ? そりや困りますよ。貴方 ( あなた ) 、私 ( わたし ) だつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
「可 ( よ ) くはありません、私は困りますよ」
お峯は足摩 ( あしずり ) して迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
さすがに争ひかねてお峯の渋々佇 ( たたず ) めるを、見も返らで夫は驀地 ( まつしぐら ) に門 ( かど ) を出でぬ。母は直道の勢に怖 ( おそ ) れて先にも増してさぞや苛 ( さいな ) まるるならんと想へば、虎 ( とら ) の尾をも履 ( ふ ) むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯 ( と ) 見れば、直道は手を拱 ( こまぬ ) き、頭 ( かしら ) を低 ( た ) れて、在りけるままに凝然と坐したり。
「もうお中食 ( ひる ) だが、お前何をお上りだ」
彼は身転 ( みじろぎ ) も為 ( せ ) ざるなり。重ねて、
「直道」と呼べば、始めて覚束 ( おぼつか ) なげに顔を挙 ( あ ) げて、
「阿母 ( おつか ) さん!」
その術無 ( じゆつな ) き声は謂知 ( いひし ) らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭 ( まくらもと ) に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
異 ( あやし ) くも遽 ( にはか ) に名残 ( なごり ) の惜 ( をしま ) れて、今は得も放 ( はな ) たじと心牽 ( こころひか ) るるなり。
「もうお中食 ( ひる ) だから、久しぶりで御膳 ( ごぜん ) を食べて……」
「御膳も吭 ( のど ) へは通りませんから……」
主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外 ( ほか ) 、身辺に事あらざる暇 ( いとま ) に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択 ( えら ) びて富山の家に輿入 ( こしいれ ) したりき。その場より貫一の失踪 ( しつそう ) せしは、鴫沢一家 ( しぎさわいつけ ) の為に物化 ( もつけ ) の邪魔払 ( じやまばらひ ) たりしには疑無 ( うたがひな ) かりけれど、家内 ( かない ) は挙 ( こぞ ) りてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠 ( こ ) めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺 ( よるべ ) あらぬ貫一が身の安否を慮 ( おもひはか ) りて措 ( お ) く能 ( あた ) はざりしなり。
気強くは別れにけれど、やがて帰り来 ( こ ) んと頼めし心待も、終 ( つひ ) に空 ( あだ ) なるを暁 ( さと ) りし後、さりとも今一度は仮初 ( かりそめ ) にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬 ( あふせ ) は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方 ( ゆくへ ) は知られずして、その身の家を出 ( い ) づべき日は潮 ( うしほ ) の如く迫れるに、遣方 ( やるかた ) も無く漫 ( そぞろ ) 惑ひては、常に鈍 ( おぞまし ) う思ひ下せる卜者 ( ぼくしや ) にも問ひて、後には廻合 ( めぐりあ ) ふべきも、今はなかなか文 ( ふみ ) に便 ( たより ) もあらじと教へられしを、筆持つは篤 ( まめ ) なる人なれば、長き長き怨言 ( うらみ ) などは告来 ( つげこ ) さんと、それのみは掌 ( たなごころ ) を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言 ( ことば ) は不幸にも過 ( あやま ) たで、宮は彼の怨言 ( うらみ ) をだに聞くを得ざりしなり。
とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念 ( おも ) ひ、それは愜 ( かな ) はずなりてより、せめて一筆 ( ひとふで ) の便 ( たより ) 聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾 ( すべ ) て違 ( たが ) ひて、さしも願はぬ一事 ( いちじ ) のみは玉を転ずらんやうに何等の障 ( さはり ) も無く捗取 ( はかど ) りて、彼が空 ( むなし ) く貫一の便 ( たより ) を望みし一日にも似ず、三月三日は忽 ( たちま ) ち頭 ( かしら ) の上に跳 ( をど ) り来 ( きた ) れるなりき。彼は終 ( つひ ) に心を許し肌身 ( はだみ ) を許せし初恋 ( はつごひ ) を擲 ( なげう ) ちて、絶痛絶苦の悶々 ( もんもん ) の中 ( うち ) に一生最も楽 ( たのし ) かるべき大礼を挙げ畢 ( をは ) んぬ。
宮は実に貫一に別れてより、始めて己 ( おのれ ) の如何 ( いか ) ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
彼の出 ( い ) でて帰らざる恋しさに堪 ( た ) へかねたる夕 ( ゆふべ ) 、宮はその机に倚 ( よ ) りて思ひ、その衣 ( きぬ ) の人香 ( ひとか ) を嗅 ( か ) ぎて悶 ( もだ ) え、その写真に頬摩 ( ほほずり ) して憧 ( あくが ) れ、彼若 ( も ) し己 ( おのれ ) を容 ( い ) れて、ここに優き便 ( たより ) をだに聞 ( きか ) せなば、親をも家をも振捨てて、直 ( ただち ) に彼に奔 ( はし ) るべきものをと念へり。結納 ( ゆいのう ) の交 ( かは ) されし日も宮は富山唯継を夫 ( つま ) と定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終 ( つひ ) にその家に適 ( ゆ ) くべき身たるを忘れざりしなり。
ほとほと自らその緒 ( いとぐち ) を索 ( もと ) むる能 ( あた ) はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過 ( あやまち ) を改め、操 ( みさを ) を守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真 ( まこと ) に彼の胸に恃 ( たの ) める覚悟とてはあらざりき。恋佗 ( わ ) びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強 ( し ) ひて今更否 ( いな ) まんとするにもあらず、彼方 ( かなた ) の恋 ( こひし ) きを思ひ、こなたの富めるを愛 ( をし ) み、自ら決するところ無く、為すところ無くして空 ( むなし ) き迷 ( まよひ ) に弄 ( もてあそ ) ばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来 ( きた ) るに会へるなり。
この日よ、この夕 ( ゆふべ ) よ、更 ( ふ ) けて床盃 ( とこさかづき ) のその期 ( ご ) に迨 ( およ ) びても、怪 ( あやし ) むべし、宮は決して富山唯継を夫 ( つま ) と定めたる心は起らざるにぞありける、止 ( ただ ) この人を夫 ( つま ) と定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂 ( おも ) へり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委 ( まか ) すなり。故 ( ゆゑ ) に身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂 ( おも ) へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免 ( まぬか ) る能 ( あた ) はざる約束なるべきを信じて、寧 ( むし ) ろ深く怪むにもあらざりき。如此 ( かくのごとく ) にして宮は唯継の妻となりぬ。
花聟君 ( はなむこぎみ ) は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙 ( あ ) げたり。宮はその身の上の日毎輝き勝 ( まさ ) るままに、いよいよ意中の人と私 ( わたくし ) すべき陰無くなりゆくを見て、愈 ( いよい ) よ楽まざる心は、夫 ( つま ) の愛を承くるに慵 ( ものう ) くて、唯 ( ただ ) 機械の如く事 ( つか ) ふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言 ( ものい ) ふ花の姿、温き玉の容 ( かたち ) を一向 ( ひたぶる ) に愛 ( め ) で悦 ( よろこ ) ぶ余に、冷 ( ひやや ) かに空 ( むなし ) き器 ( うつは ) を抱 ( いだ ) くに異らざる妻を擁して、殆 ( ほとん ) ど憎むべきまでに得意の頤 ( おとがひ ) を撫 ( な ) づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊 ( みごも ) りて、翌年の春美き男子 ( なんし ) を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒 ( い ) ゆる日を竣 ( ま ) たで、初子 ( うひご ) はいと弱くて肺炎の為に歿 ( みまか ) りにけり。
子を生みし後も宮が色香はつゆ移 ( うつろ ) はずして、自 ( おのづか ) ら可悩 ( なやまし ) き風情 ( ふぜい ) の添 ( そは ) りたるに、夫 ( つま ) が愛護の念は益 ( ますます ) 深く、寵 ( ちよう ) は人目の見苦 ( みぐるし ) きばかり弥 ( いよい ) よ加 ( くはは ) るのみ。彼はその妻の常に楽 ( たのし ) まざる故 ( ゆゑ ) を毫 ( つゆ ) も暁 ( さと ) らず、始より唯その色を見て、打沈 ( うちしづ ) みたる生得 ( うまれ ) と独合点 ( ひとりがてん ) して多く問はざるなりけり。
かく怜 ( いとし ) まれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有 ( ありがた ) き人の情 ( なさけ ) に負 ( そむ ) きて、ここに嫁 ( とつ ) ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過 ( あやまち ) は如何 ( いか ) にすべきと、躬 ( みづか ) らその容 ( ゆる ) し難きを慙 ( は ) ぢて、悲むこと太甚 ( はなはだし ) かりしが、実 ( げ ) に親の所憎 ( にくしみ ) にや堪 ( た ) へざりけん。その子の失 ( う ) せし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年 ( ふたとせ ) の後 ( のち ) 、三年 ( みとせ ) の後、四年 ( よとせ ) の後まで異 ( あやし ) くも宮はこの誓を全うせり。
次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るに苦 ( くるし ) めるなりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たる効 ( かひ ) も思出もあらで、空 ( むなし ) く籠鳥 ( ろうちよう ) の雲を望める身には、それのみの願なりし裕 ( ゆたか ) なる生活も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、却 ( かへ ) りてこの四年 ( よとせ ) が間思ひに思ふばかりにて、熱海より行方 ( ゆくへ ) 知れざりし人の姿を田鶴見 ( たずみ ) の邸内に見てしまで、彼は全く音沙汰 ( おとさた ) をも聞かざりしなり。生家 ( さと ) なる鴫沢 ( しぎさわ ) にては薄々知らざるにもあらざりしかど、さる由無 ( よしな ) き事を告ぐるが如き愚 ( おろか ) なる親にもあらねば、宮のこれを知るべき便 ( たより ) は絶れたりしなり。
計らずもその夢寐 ( むび ) に忘れざる姿を見たりし彼が思は幾計 ( いかばかり ) なりけんよ。饑 ( う ) ゑたる者の貪 ( むさぼ ) り食 ( くら ) ふらんやうに、彼はその一目にして四年 ( よとせ ) の求むるところを求めんとしたり。饜 ( あ ) かず、饜かず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へて已 ( や ) まん、と深くも念じたり。
五番町なる鰐淵 ( わにぶち ) といふ方 ( かた ) に住める由は、静緒 ( しずお ) より聞きつれど、むざとは文 ( ふみ ) も通はせ難く、道は遠からねど、独 ( ひと ) り出でて彷徨 ( さまよ ) ふべき身にもあらぬなど、克 ( かな ) はぬ事のみなるに苦 ( くるし ) かりけれど、安否を分 ( わ ) かざりし幾年 ( いくとせ ) の思に較 ( くら ) ぶれば、はや嚢 ( ふくろ ) の物を捜 ( さぐ ) るに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の徒然 ( つれづれ ) を憂きに堪へざる余 ( あまり ) 、我心を遺 ( のこ ) る方 ( かた ) 無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、止 ( た ) だかくも儚 ( はかな ) き身の上と切なき胸の内とを独 ( ひとり ) 自ら愬 ( うつた ) へんとてなり。
宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るる能 ( あた ) はざるなり。更に見よ。歳々 ( としどし ) 廻来 ( めぐりく ) る一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸に烙 ( やきがね ) して、彼の悔を新にするにあらずや。
「十年後 ( のち ) の今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は何処 ( どこ ) かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」
掩 ( おほ ) へども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果して月の曇るか、あらぬかを試 ( こころみ ) しに、曾 ( かつ ) てその人の余所 ( よそ ) に泣ける徴 ( しるし ) もあらざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、諸共 ( もろとも ) に今は我をも思はでや、さては何処 ( いづこ ) に如何 ( いか ) にしてなど、更に打歎 ( うちなげ ) かるるなりき。
例のその日は四 ( よ ) たび廻 ( めぐ ) りて今日しも来 ( きた ) りぬ。晴れたりし空は午後より曇りて少 ( すこし ) く吹出 ( ふきい ) でたる風のいと寒く、凡 ( ただ ) ならず冷 ( ひ ) ゆる日なり。宮は毎 ( いつ ) よりも心煩 ( こころわづらはし ) きこの日なれば、かの筆採りて書続けんと為 ( し ) たりしが、余 ( あまり ) に思乱るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。
益 ( ますま ) す寒威の募るに堪へざりければ、遽 ( にはか ) に煖炉 ( だんろ ) を調ぜしめて、彼は西洋間に徙 ( うつ ) りぬ。尽 ( ことごと ) く窓帷 ( カアテン ) を引きたる十畳の間 ( ま ) は寸隙 ( すんげき ) もあらず裹 ( つつ ) まれて、火気の漸 ( やうや ) く春を蒸すところに、宮は体 ( たい ) を胖 ( ゆたか ) に友禅縮緬 ( ゆうぜんちりめん ) の長襦袢 ( ながじゆばん ) の褄 ( つま ) を蹈披 ( ふみひら ) きて、緋 ( ひ ) の紋緞子 ( もんどんす ) 張の楽椅子 ( らくいす ) に凭 ( よ ) りて、心の影の其処 ( そこ ) に映るを眺 ( なが ) むらんやうに、その美き目をば唯白く坦 ( たひら ) なる天井に注ぎたり。
夫の留守にはこの家の主 ( あるじ ) として、彼は事 ( つか ) ふべき舅姑 ( きゆうこ ) を戴 ( いただ ) かず、気兼すべき小姑 ( こじうと ) を抱 ( かか ) へず、足手絡 ( あしてまとひ ) の幼きも未 ( ま ) だ有らずして、一箇 ( ひとり ) の仲働 ( なかばたらき ) と両箇 ( ふたり ) の下婢 ( かひ ) とに万般 ( よろづ ) の煩 ( わづらはし ) きを委 ( まか ) せ、一日何の為 ( な ) すべき事も無くて、出 ( い ) づるに車あり、膳 ( ぜん ) には肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆悦 ( よろこ ) ばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実 ( げ ) に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は正 ( まさ ) に己 ( おのれ ) のこの身の上なる哉 ( かな ) 、と宮は不覚 ( そぞろ ) 胸に浮べたるなり。
嗟乎 ( ああ ) 、おのれもこの身の上を願ひに願ひし余 ( あまり ) に、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上に窮 ( きは ) めし楽 ( たのしみ ) も、五年 ( いつとせ ) の昔なりける今日の日に窮 ( きは ) めし悲 ( かなしみ ) に易 ( か ) ふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息 ( ためいき ) したり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と倶 ( とも ) に同じき楽 ( たのしみ ) を享 ( う ) けんと願ひしに外ならざるを。若 ( も ) し身の楽 ( たのしみ ) と心の楽 ( たのしみ ) とを併享 ( あはせう ) くべき幸無 ( さちな ) くて、必ずその一つを択 ( えら ) ぶべきものならば、孰 ( いづれ ) を取るべきかを知ることの晩 ( おそ ) かりしを、遣方 ( やるかた ) も無く悔ゆるなりけり。
この寒き日をこの煖 ( あたたか ) き室 ( しつ ) に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何 ( いか ) に、と思到れる時、宮は殆 ( ほとん ) ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜 ( くちを ) しさを悶 ( もだ ) えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面 ( そとも ) を何心無く打見遣 ( うちみや ) れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと劇 ( はげし ) く動きて、宮は降頻 ( ふりしき ) る雪に或言 ( あることば ) を聴くが如く佇 ( たたず ) めり。折から唯継は還来 ( かへりきた ) りぬ。静に啓 ( あ ) けたる闥 ( ドア ) の響は絶 ( したたか ) に物思へる宮の耳には入 ( い ) らざりき。氷の如く冷徹 ( ひえわた ) りたる手をわりなく懐 ( ふところ ) に差入れらるるに驚き、咄嗟 ( あなや ) と見向かんとすれば、後より緊 ( しか ) と抱 ( かか ) へられたれど、夫の常に飭 ( たしな ) める香水の薫 ( かをり ) は隠るべくもあらず。
「おや、お帰来 ( かへり ) でございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」
「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」
宮は楽椅子を夫に勧めて、躬 ( みづから ) は煖炉 ( ストオブ ) の薪 ( たきぎ ) を焌 ( く ) べたり。今の今まで貫一が事を思窮 ( おもひつ ) めたりし心には、夫なる唯継にかく事 ( つか ) ふるも、なかなか道ならぬやうにて屑 ( いさぎよ ) からず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、梢 ( こずゑ ) に宿れる雪、庭に布 ( し ) く雪、見ゆる限の白妙 ( しらたへ ) は、我身に積める人の怨 ( うらみ ) の丈 ( たけ ) かとも思ふに、かくてあることの疚 ( やま ) しさ、切なさは、脂 ( あぶら ) を搾 ( しぼ ) らるるやうにも忍び難かり。されども、この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、その脚 ( あし ) を八文字に踏展 ( ふみはだ ) け、漸 ( やうや ) く煖まれる頤 ( おとがひ ) を突反 ( つきそら ) して、
「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は寄鍋 ( よせなべ ) で飲むんだね。寄鍋を取つて貰 ( もら ) はう、寄鍋が好い。それから珈琲 ( カフヒイ ) を一つ拵 ( こしら ) へてくれ、コニャックを些 ( ち ) と余計に入れて」
宮の行かんとするを、
「お前、行かんでも可いぢやないか、要 ( い ) る物を取寄せてここで拵へなさい」
彼の電鈴 ( でんれい ) を鳴して、火の傍 ( そば ) に寄来ると斉 ( ひとし ) く、唯継はその手を取りて小脇 ( こわき ) に挾 ( はさ ) みつ。宮は懌 ( よろこ ) べる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。
「おまへどうした、何を鬱 ( ふさ ) いでゐるのかね」
引寄せられし宮はほとほと仆 ( たふ ) れんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻も摩 ( す ) るばかりにその顔を差覗 ( さしのぞ ) きて余念も無く見入りつつ、
「顔の色が甚 ( はなは ) だ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さうも無い? どうしたんだな。それぢや、もつと爽然 ( はつきり ) してくれんぢや困るぢやないか。さう陰気だと情合 ( じようあひ ) が薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあるまいかと疑ふよ。ええ? そんなことは無いかね」
忽 ( たちま ) ち闥 ( ドア ) の啓 ( あ ) くと見れば、仲働 ( なかばたらき ) の命ぜし物を持来 ( もちきた ) れるなり。人目を憚 ( はばか ) らずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はその傍 ( そば ) を退 ( の ) かんとすれど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬ風 ( ふり ) しつつ、器具と壜 ( ボトル ) とをテエブルに置きて、直 ( ぢき ) に退 ( まか ) り出 ( い ) でぬ。かく執念 ( しゆうね ) く愛せらるるを、宮はなかなか憂 ( う ) くも浅ましくも思ふなりけり。
雪は風を添へて掻乱 ( かきみだ ) し掻乱し降頻 ( ふりしき ) りつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜の漸 ( やうや ) く来 ( きた ) れるが最辱 ( いとかたじけな ) き唯継の目尻なり。
「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、俺 ( おれ ) にはさう見えるがね。さうして内にばかり引籠 ( ひつこ ) んでをるのが宜 ( よろし ) くないよ。この頃は些 ( ちよつ ) とも出掛けんぢやないか。さう因循 ( いんじゆん ) してをるから、益 ( ますま ) す陰気になつて了ふのだ。この間も鳥柴 ( としば ) の奥さんに会つたら、さう言つてゐたよ。何為 ( なぜ ) 近頃は奥さんは些 ( ちよつ ) ともお見えなさらんのだらう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、全然 ( まるつきり ) 影も形もお見せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに仕舞 ( しまひ ) 込んでお置きなさるものぢやございません。慈善の為に少しは衆 ( ひと ) にも見せてお遣 ( や ) んなさい、なんぞと非常に遣られたぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として福積 ( ふくづみ ) が当選したらう。俺も大 ( おほ ) いに与 ( あづか ) つて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、それが済次第 ( すみしだい ) 別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した連中 ( れんじゆう ) を招待するんだ。その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく出行 ( である ) かれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識が好 ( よ ) いけれど、然し、近頃のやうに籠 ( こも ) つてばかり居 ( を ) るのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、あれから半年 ( はんとし ) ばかり経 ( た ) つてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分彼地此地 ( あちこち ) 出たぢやないかね。
善し、珈琲 ( カフヒイ ) 出来たか。うう熱い、旨 ( うま ) い。お前もお飲み、これを半分上げやうか。沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可い。寄鍋は未 ( まだ ) か。うむ、彼方 ( あつち ) に支度がしてあるから、来たら言ひに来る? それは善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは長火鉢 ( ながひばち ) の相対 ( さしむかひ ) に限るんさ。
可いかね、福積の招待 ( しようだい ) には吃驚 ( びつくり ) させるほど美 ( うつくし ) くして出て貰はなけりやならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速拵 ( こしら ) へやう。おまへが、これならば十分と思ふ服装 ( なり ) で、隆 ( りゆう ) として推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装 ( なり ) にかまはんぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍 ( ねぼ ) けたのばかりは恐れるね。何為 ( なぜ ) あの被風 ( ひふ ) を着ないのかね、あれは好く似合ふにな。
明後日 ( あさつて ) は日曜だ、何処 ( どこ ) かへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、さうさう、柏原 ( かしわばら ) の奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふ度 ( たび ) に聒 ( やかまし ) く催促するんで克 ( かな ) はんよ。明日 ( あした ) は用が有つて行かなければならんのだから、持つて行かんと拙 ( まづ ) いて。未だ有つたね、無い? そりや可かん。一枚も無いんか、そりや可かん。それぢや、明後日 ( あさつて ) 写しに行かう。直 ( ずつ ) と若返つて二人で写すなんぞも可いぢやないか。
善し、寄鍋が来た? さあ行かう」
夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげに姑 ( しばら ) く窓の外面 ( そとも ) を窺 ( うかが ) ひたりしが、
「どうしてこんなに降るのでせう」
「何を下 ( くだ ) らんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」
宮は既に富むと裕 ( ゆたか ) なるとに饜 ( あ ) きぬ。抑 ( そもそ ) も彼がこの家に嫁 ( とつ ) ぎしは、惑深 ( まどひふか ) き娘気の一図に、栄耀 ( えいよう ) 栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、殆 ( ほとん ) ど無用の物のやうに軽 ( かろし ) めたりき。今やその願足りて、しかも遂 ( つひ ) に饜きたる彼は弥 ( いよい ) よ夤 ( まつは ) らるる愛情の煩 ( わづらはし ) きに堪 ( た ) へずして、寧 ( むし ) ろ影を追ふよりも儚 ( はかな ) き昔の恋を思ひて、私 ( ひそか ) に楽むの味 ( あぢはひ ) あるを覚ゆるなり。
かくなりてより彼は自 ( おのづか ) ら唯継の面前を厭 ( いと ) ひて、寂く垂籠 ( たれこ ) めては、随意に物思ふを懌 ( よろこ ) びたりしが、図らずも田鶴見 ( たずみ ) の邸内 ( やしきうち ) に貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度 ( ひとたび ) は絶えし恋ながら、なほ冥々 ( めいめい ) に行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの容 ( かたち ) なるを、今もその独 ( ひとり ) を守りて、時の到るを待つらんやうに思做 ( おもひな ) さるるなりけり。
その時は果して到るべきものなるか。宮は躬 ( みづから ) の心の底を叩 ( たた ) きて、答を得るに沮 ( はば ) みつつも、さすがに又己 ( おのれ ) にも知れざる秘密の潜める心地 ( ここち ) して、一面には覚束 ( おぼつか ) なくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
便 ( すなは ) ち宮の夫の愛を受くるを難堪 ( たへがた ) く苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面 ( レンズ ) の前に悶絶 ( もんぜつ ) せし日よりにて、その恋しさに取迫 ( とりつ ) めては、いでや、この富めるに饜き、裕 ( ゆたか ) なるに倦 ( う ) める家を棄つべきか、棄てよとならば遅 ( ためら ) はじと思へるも屡々 ( しばしば ) なりき。唯敢 ( ただあへ ) てこれを為 ( せ ) ざるは、窃 ( ひそか ) に望は繋 ( か ) けながらも、行くべき方 ( かた ) の怨 ( うらみ ) を解かざるを虞 ( おそ ) るる故 ( ゆゑ ) のみ。
素 ( もと ) より宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自ら謂 ( おも ) へらく、吾夫 ( わがをつと ) こそ当時恋と富との値 ( あたひ ) を知らざりし己を欺き、空 ( むなし ) く輝ける富を示して、售 ( う ) るべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも他 ( ひと ) に被 ( き ) せて、彼は己を過 ( あやま ) りしをば、全く夫の罪と為 ( な ) せり。
この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事の忍 ( しの ) ばるるに就 ( つ ) けて転 ( うた ) た悪人の夫を厭ふこと甚 ( はなはだし ) かり。無辜 ( むこ ) の唯継はかかる今宵の楽 ( たのしみ ) を授 ( さづく ) るこの美き妻を拝するばかりに、有程 ( あるほど ) の誠を捧げて、蜜 ( みつ ) よりも甘き言 ( ことば ) の数々を咡 ( ささや ) きて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、雪の音のみぞいと能 ( よ ) く響きたる。
その雪は明方になりて歇 ( や ) みぬ。乾坤 ( けんこん ) の白きに漂ひて華麗 ( はなやか ) に差出でたる日影は、漲 ( みなぎ ) るばかりに暖き光を鋪 ( し ) きて終日 ( ひねもす ) 輝きければ、七分の雪はその日に解けて、はや翌日は往来 ( ゆきき ) の妨碍 ( さまたげ ) もあらず、処々 ( ところどころ ) の泥濘 ( ぬかるみ ) は打続く快晴の天 ( そら ) に曝 ( さら ) されて、刻々に乾 ( かわ ) き行くなり。
この雪の為に外出 ( そとで ) を封ぜられし人は、この日和 ( ひより ) とこの道とを見て、皆怺 ( こら ) へかねて昨日 ( きのふ ) より出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置の宜 ( よろし ) からぬ横町、不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の九十九折 ( つづらをり ) 、或 ( ある ) は捏返 ( こねかへ ) せし汁粉 ( しるこ ) の海の、差掛りて難儀を極 ( きは ) むるとは知らず、見渡す町通 ( まちとほり ) の乾々干 ( からからほし ) に固 ( かたま ) れるに唆 ( そその ) かされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、往来 ( ゆきき ) の常より頻 ( しきり ) なる午前十一時といふ頃、屈 ( かが ) み勝に疲れたる車夫は、泥の粉衣 ( ころも ) 掛けたる車輪を可悩 ( なやま ) しげに転 ( まろば ) して、黒綾 ( くろあや ) の吾妻 ( あづま ) コオト着て、鉄色縮緬 ( てついろちりめん ) の頭巾 ( づきん ) を領 ( えり ) に巻きたる五十路 ( いそぢ ) に近き賤 ( いやし ) からぬ婦人を載せたるが、南の方 ( かた ) より芝飯倉通 ( しばいいぐらとおり ) に来かかりぬ。
唯有 ( とあ ) る横町を西に切れて、某 ( なにがし ) の神社の石の玉垣 ( たまがき ) に沿ひて、だらだらと上 ( のぼ ) る道狭く、繁 ( しげ ) き木立に南を塞 ( ふさ ) がれて、残れる雪の夥多 ( おびただし ) きが泥交 ( どろまじり ) に踏散されたるを、件 ( くだん ) の車は曳々 ( えいえい ) と挽上 ( ひきあ ) げて、取着 ( とつき ) に土塀 ( どべい ) を由々 ( ゆゆ ) しく構へて、門 ( かど ) には電燈を掲げたる方 ( かた ) にぞ入 ( い ) りける。
こは富山唯継が住居 ( すまひ ) にて、その女客は宮が母なり。主 ( あるじ ) は疾 ( とく ) に会社に出勤せし後にて、例刻に来 ( きた ) れる髪結の今方帰行 ( かへりゆ ) きて、まだその跡も掃かぬ程なり。紋羽二重 ( もんはぶたへ ) の肉色鹿子 ( にくいろがのこ ) を掛けたる大円髷 ( おほまるわげ ) より水は滴 ( た ) るばかりに、玉の如き喉 ( のど ) を白絹のハンカチイフに巻きて、風邪気 ( かぜけ ) などにや、連 ( しきり ) に打咳 ( うちしはぶ ) きつつ、宮は奥より出迎に見えぬ。その故 ( ゆゑ ) とも覚えず余 ( あまり ) に著 ( しる ) き面羸 ( おもやつれ ) は、唯一目に母が心を驚 ( おどろか ) せり。
閑 ( ひま ) ある身なれば、宮は月々生家 ( さと ) なる両親を見舞ひ、母も同じほど訪 ( と ) ひ音づるるをば、此上無 ( こよな ) き隠居の保養と為るなり。信 ( まこと ) に女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。彼は宮を見る毎に大 ( おほい ) なる手柄をも成したらんやうに吾が識 ( し ) れるほどの親といふ親は、皆才覚無く、仕合 ( しあはせ ) 薄くて、有様 ( ありよう ) は気の毒なる人達哉 ( かな ) 、と漫 ( そぞろ ) に己の誇らるるなりけり。されば月毎に彼が富山の門 ( かど ) を入るは、正 ( まさ ) に人の母たる成功の凱旋門 ( がいせんもん ) を過 ( すぐ ) る心地もすなるべし。
可懐 ( なつかし ) きと、嬉きと、猶 ( なほ ) 今一つとにて、母は得々 ( いそいそ ) と奥に導れぬ。久く垂籠 ( たれこ ) めて友欲き宮は、拯 ( すくひ ) を得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或は密 ( ひそか ) に貫一の報を齎 ( もたら ) せるにはあらずやなど、枉 ( ま ) げても念じつつ、せめては愁 ( うれひ ) に閉ぢたる胸を姑 ( しばら ) くも寛 ( ゆる ) うせんとするなり。
母は語るべき事の日頃蓄へたる数々を措 ( お ) きて、先づ宮が血色の気遣 ( きづかはし ) く衰へたる故を詰 ( なじ ) りぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己の羸 ( やつ ) れたるを惧 ( おそ ) れつつも、
「さう? でも、何処 ( どこ ) も悪い所なんぞ有りはしません。余 ( あんま ) り体を動 ( いご ) かさないから、その所為 ( せゐ ) かも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱 ( ふさ ) いで鬱いで耐 ( たま ) らない事があるの。あれは血の道と謂 ( い ) ふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診 ( み ) てもらふ方が可いよ、放つて措 ( お ) くから畢竟 ( ひつきよう ) 持病にもなるのさ」
宮は唯頷 ( うなづ ) きぬ。
母は不図思起してや、さも慌忙 ( あわただ ) しげに、
「後が出来たのぢやないかい」
宮は打笑 ( うちゑ ) みつ。されども例の可羞 ( はづか ) しとにはあらで傍痛 ( かたはらいた ) き余を微見 ( ほのみ ) せしやうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
「さう何日 ( いつ ) までも沙汰 ( さた ) が無くちや困るぢやないか。本当に未 ( ま ) だそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在 ( いで ) だか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父 ( おとつ ) さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍 ( おこ ) りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭 ( いや ) に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先 ( せん ) の内は子供が所好 ( すき ) だつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専 ( せん ) だよ」
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診 ( み ) てもらふのも変だし……けれどもね、阿母 ( おつか ) さん、私は疾 ( とう ) から言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快 ( よ ) くないの。その所為 ( せゐ ) で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
母のその目は瞪 ( みは ) り、その膝 ( ひざ ) は前 ( すす ) み、その胸は潰 ( つぶ ) れたり。
「どうしたのさ!」
宮は俯 ( うつむ ) きたりし顔を寂しげに起して、
「私 ( わたし ) ね、去年の秋、貫一 ( かんいつ ) さんに逢つてね……」
「さうかい!」
己だに聞くを憚 ( はばか ) る秘密の如く、母はその応 ( こた ) ふる声をも潜めて、まして四辺 ( あたり ) には油断もあらぬ気勢 ( けはひ ) なり。
「何処 ( どこ ) で」
「内の方へも全然 ( まるきり ) 爾来 ( あれから ) の様子は知れないの?」
「ああ」
「些 ( ちつと ) も?」
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
かく纔 ( わづか ) に応ふるのみにて、母は自ら湧 ( わか ) せる万感の渦の裏 ( うち ) に陥りてぞゐたる。
「さう? 阿父 ( おとつ ) さんは内証で知つてお在 ( いで ) ぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
宮はその梗概 ( あらまし ) を語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を遁 ( のが ) れ得てし始末を詳 ( つまびら ) かにするを俟 ( ま ) ちて、始めて重荷を下したるやうに哱 ( ほ ) と息を咆 ( つ ) きぬ。実 ( げ ) に彼は熱海の梅園にて膩汗 ( あぶらあせ ) を搾 ( しぼ ) られし次手 ( ついで ) 悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍 ( ふびん ) とも、惨 ( いぢら ) しとも、今更に親心を傷 ( いた ) むるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大障礙 ( しようげ ) の或 ( あるひ ) は来 ( きた ) るべきを案じて、母はなかなか心穏 ( こころおだやか ) ならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采 ( なり ) をして、何だか大変羸 ( やつ ) れて、私も極 ( きまり ) が悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄 ( みすぼらし ) い様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵 ( わにぶち ) とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処 ( そこ ) に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処 ( いつしよ ) に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」
彼は襦袢 ( じゆばん ) の袖 ( そで ) の端 ( はし ) に窃 ( そ ) と眶 ( まぶた ) を挲 ( す ) りて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
母の顔色も異 ( あやし ) き寒さにや襲はるると見えぬ。
「それまでだつて、憶出 ( おもひだ ) さない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭 ( いや ) な夢なんぞを度々 ( たびたび ) 見るの。阿父 ( おとつ ) さんや、阿母 ( おつか ) さんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し難 ( にく ) いやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終 ( しよつちゆう ) 苦になる所為 ( せゐ ) で気を傷 ( いた ) めるから体にも障 ( さは ) るのぢやないかと、さう想ふのです」
思凝 ( おもひこら ) せるやうに母は或方を見据ゑつつ、言 ( ことば ) は無くて頷 ( うなづ ) きゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧 ( やつぱり ) 鴫沢 ( しぎさわ ) の跡は貫一さんに取 ( とら ) して下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方 ( ゆきがた ) が知れなかつたから為方がないけれど、聞合せれば直 ( ぢき ) に分るのだから、それを抛 ( はふ ) つて措 ( お ) いちや此方 ( こつち ) が悪いから、阿父さんにでも会つて貰 ( もら ) つて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通 ( これまでどほり ) に内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家 ( うち ) の跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の盃 ( さかづき ) をして、何処までも生家 ( さと ) の兄さんで、末始終力になつて欲いわ」
宮がこの言 ( ことば ) は決して内に自ら欺き、又敢て外に他 ( ひと ) を欺くにはあらざりき。影とも儚 ( はかな ) く隔 ( へだて ) の関の遠き恋人として余所 ( よそ ) に朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと冀 ( こひねが ) へるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能 ( よ ) くお言ひのさ、如何 ( いか ) に何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古 ( ほご ) にしたと云ふので、齢 ( とし ) の若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上も些 ( ちつと ) は考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこ所 ( どこ ) を些 ( ちつ ) と考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵 ( つらあて ) がましい仕打振をするつてが有るものかね。
それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも独 ( ひとり ) で勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初 ( かりそめ ) にも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望 ( のぞみ ) なら洋行も為 ( さ ) せやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに罰 ( ばち ) も当りはしまいと思ふのさ。さうしてお剰 ( まけ ) に、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低 ( さ ) げないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方 ( こつち ) には少しも無理は無い筈 ( はず ) だのに、貫一が余 ( あんま ) り身の程を知らな過 ( すぎ ) るよ。
それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返 ( おんがへし ) なら、行処 ( ゆきどこ ) の無い躯 ( からだ ) を十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。
全く、お前、貫一の為方 ( しかた ) は増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛 ( かはゆ ) くはないのだからね、今更此方 ( こつち ) から捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
その不見識とやらを嫌 ( きら ) ふよりは、別に嫌ふべく、懼 ( おそ ) るべく、警 ( いまし ) むべき事あらずや、と母は私 ( ひそか ) に慮 ( おもひはか ) れるなり。
「阿父 ( おとつ ) さんや阿母 ( おつか ) さんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が滅 ( なくな ) るのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
かく言出でし宮が胸は、ここに尽 ( ことごと ) くその罪を懺悔 ( ざんげ ) したらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。
「そんなに言ふのなら、還 ( かへ ) つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為 ( せゐ ) で体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐 ( たま ) らない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何と謂 ( い ) つたら可いのだらう――私があんなに不仕合 ( ふしあはせ ) な身分にして了 ( しま ) つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐 ( おそろし ) いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外 ( ほか ) には何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉 ( うれし ) からうと、そんな事ばかり考へては鬱 ( ふさ ) いでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当 ( さしあたり ) 阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」
されども母は投首 ( なげくび ) して、
「私の考量 ( かんがへ ) ぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は凴拠 ( あて ) にはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
涙含 ( なみだぐ ) みつつ宮が焦心 ( せきごころ ) になれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
「可 ( よ ) かないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
我にもあらで迸 ( ほとばし ) る泣声を、つと袖に抑 ( おさ ) へても、宮は急来 ( せきく ) る涙を止 ( とど ) めかねたり。
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑 ( をかし ) な人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡 ( りようけん ) があるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父 ( おとつ ) さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母 ( おつか ) さんは私の心を知らないのだから、頼効 ( たのみがひ ) が無い、と謂 ( い ) ふのよ」
「多度 ( たんと ) お言ひな」
「言ふわ」
真顔作れる母は火鉢 ( ひばち ) の縁 ( ふち ) に丁 ( とん ) と煙管 ( きせる ) を撃 ( はた ) けば、他行持 ( よそゆきもち ) の暫 ( しばら ) く乾 ( から ) されて弛 ( ゆる ) みし雁首 ( がんくび ) はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。
頭部に受けし貫一が挫傷 ( ざしよう ) は、危 ( あやふ ) くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体 ( したい ) に数個所 ( すかしよ ) の傷部とともに、その免るべからざる若干 ( そくばく ) の疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復 ( こうふく ) の歩を趁 ( お ) ひて、可艱 ( なやま ) しげにも自ら起居 ( たちゐ ) を扶 ( たす ) け得る身となりければ、一日一夜を為 ( な ) す事も無く、ベッドの上に静養を勉 ( つと ) めざるべからざる病院の無聊 ( ぶりよう ) をば、殆 ( ほとん ) ど生きながら葬られたらんやうに倦 ( う ) み困 ( こう ) じつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
主治医も、助手も、看護婦も、附添婆 ( つきそひばば ) も、受附も、小使も、乃至 ( ないし ) 患者の幾人も、皆目を側 ( そば ) めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁 ( しげしげ ) 病 ( やまひ ) を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入 ( しゆつにゆう ) するなれば、噂 ( うはさ ) は自 ( おのづ ) から院内に播 ( ひろま ) りて、博士の某 ( ぼう ) さへ終 ( つひ ) に唆 ( そそのか ) されて、垣間見 ( かいまみ ) の歩をここに枉 ( ま ) げられしとぞ伝へ侍 ( はべ ) る。始の程は何者の美形 ( びけい ) とも得知れざりしを、医員の中に例の困 ( くるし ) められしがありて、名著 ( なうて ) の美人 ( びじ ) クリイムと洩 ( もら ) せしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦 ( よろこば ) す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
さりとは彼の暁 ( さと ) るべき由無けれど、何の廉 ( かど ) もあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽 ( おもて ) にして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂 ( い ) へ、こは情 ( なさけ ) の掛※ ( かけわな ) 〈[#「(箆-竹-比)/民」、233-15]〉 と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人 ( ひととなり ) を悪 ( にく ) みて、その貌 ( かたち ) の美きを見ず、その思切 ( おもひせつ ) なるを汲まんともせざるに、猶 ( なほ ) かつ主 ( ぬし ) ある身の謬 ( あやま ) りて仇名 ( あだな ) もや立たばなど気遣 ( きづか ) はるるに就けて、貫一は彼の入来 ( いりく ) るに会へば、冷き汗の湧出 ( わきい ) づるとともに、創所 ( きずしよ ) の遽 ( にはか ) に疼 ( うづ ) き立ちて、唯異 ( ただあやし ) くも己 ( おのれ ) なる者の全く痺 ( しび ) らさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤 ( とが ) むれども効 ( かひ ) 無かりけり。実 ( げ ) に彼は日頃この煩 ( わづらひ ) を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横 ( よこた ) はれれば、宛然 ( さながら ) 爼板 ( まないた ) に上れる魚 ( うを ) の如く、空 ( むなし ) く他の為すに委 ( まか ) するのみなる仕合 ( しあはせ ) を、掻挘 ( かきむし ) らんとばかりに悶 ( もだ ) ゆるなり。
かかる苦 ( くるし ) き枕頭 ( まくらもと ) に彼は又驚くべき事実を見出 ( みいだ ) しつつ、飜 ( ひるが ) へつて己を顧れば、測らざる累の既に逮 ( およ ) べる迷惑は、その藁蒲団 ( わらぶとん ) の内に針 ( はり ) の包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分 ( さんぶ ) を患 ( わづら ) ひて、内に却 ( かへ ) つて七分 ( しちぶ ) を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念 ( けねん ) せしが、果して鰐淵 ( わにぶち ) は彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略 ( ほぼ ) 推 ( すい ) し得たるなり。
例の煩 ( わづらし ) き人は今日も訪 ( と ) ひ来 ( き ) つ、しかも仇 ( あだ ) ならず意 ( こころ ) を籠 ( こ ) めたりと覚 ( おぼし ) き見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付 ( よせつ ) けじとやうに彼方 ( あなた ) を向きて、覚めながら目を塞 ( ふさ ) ぎていと静に臥 ( ふ ) したり。附添婆 ( つきそひばば ) の折から出行 ( いでゆ ) きしを候 ( うかが ) ひて、満枝は椅子を躙 ( にじ ) り寄せつつ、
「間 ( はざま ) さん、間さん。貴方 ( あなた ) 、貴方」
と枕の端 ( はし ) を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方 ( あなた ) へ廻り行きて、彼の寐顔 ( ねがほ ) を差覗 ( さしのぞ ) きつ。
「間さん」
猶答へざりけるを、軽く肩の辺 ( あたり ) を撼 ( うごか ) せば、貫一はさるをも知らざる為 ( まね ) はしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐 ( なつか ) しげに差寄りたる態 ( かたち ) を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
「私 ( わたくし ) 貴方に些 ( ちよつ ) とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだ在 ( ゐら ) しつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
彼の隔 ( へだて ) 無く身近に狎 ( な ) るるを可忌 ( うとま ) しと思へば、貫一はわざと寐返 ( ねがへ ) りて、椅子を置きたる方 ( かた ) に向直り、
「どうぞ此方 ( こちら ) へ」
この心を暁 ( さと ) れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇 ( あつか ) はれながら、なほこの人を慕はでは已 ( や ) まぬ我身かと、効 ( かひ ) 無くも余に軽く弄 ( もてあそ ) ばるるを可愧 ( はづかし ) うて佇 ( たたず ) みたり。されども貫一は直 ( すぐ ) に席を移さざる満枝の為に、再び言 ( ことば ) を費さんとも為 ( せ ) ざりけり。
気嵩 ( きがさ ) なる彼は胸に余して、聞えよがしに、
「唉 ( ああ ) 、貴方には軽蔑 ( けいべつ ) されてゐる事を知りながら、何為 ( なぜ ) 私 ( わたくし ) 腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
満枝は彼の枕を捉 ( とら ) へて顫 ( ふる ) ひしが、貫一の寂然 ( せきぜん ) として眼 ( まなこ ) を閉ぢたるに益 ( ますます ) 苛 ( いらだ ) ちて、
「余 ( あんま ) り酷 ( ひど ) うございますよ。間さん、何とか有仰 ( おつしや ) つて下さいましな」
彼は堪へざらんやうに苦 ( にが ) りたる口元を引歪 ( ひきゆが ) めて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有 ( ありがた ) 迷惑で……」
「何と有仰 ( おつしや ) います!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……‼」
満枝は眉 ( まゆ ) を昂 ( あ ) げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼 ( まなこ ) を塞 ( ふた ) ぎぬ。
素 ( もと ) より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己 ( おのれ ) に対しては更に甚 ( はなはだし ) きを加ふるをも善く知れり。満枝が手管 ( てくだ ) は、今その外 ( おもて ) に顕 ( あらは ) せるやうに決 ( け ) して内に怺 ( こら ) へかねたるにはあらず、かくしてその人と諍 ( いさか ) ふも、また愜 ( かな ) はざる恋の内に聊 ( いささ ) か楽む道なるを思へるなり。涙微紅 ( ほのあか ) めたる眶 ( まぶた ) に耀 ( かがや ) きて、いつか宿せる暁 ( あかつき ) の葩 ( はなびら ) に露の津々 ( しとど ) なる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私 ( わたくし ) も貴方に度々 ( たびたび ) 来て戴くのは甚 ( はなは ) だ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶 ( うつと ) しがつて、如何 ( いか ) に何でもそんなに作 ( なさ ) るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮 ( こま ) つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭 ( いや ) なことを有仰 ( おつしや ) つたのです。私些 ( ちつと ) もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答 ( うけこたへ ) だに為 ( せ ) ざるなり。
「実は疾 ( とう ) からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭 ( いや ) な事を自分の口から吹聴らしく、却 ( かへ ) つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵様 ( さん ) のかれこれ有仰 ( おつしや ) るのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮 ( こま ) つてをるのでございます。始終好い加減なことを申しては遁 ( に ) げてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁 ( しげしげ ) いらつしやるので、度々 ( たびたび ) お目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰 ( おつしや ) つて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申して了 ( しま ) ひました」
「え!」と貫一は繃帯 ( ほうたい ) したる頭を擡 ( もた ) げて、彼の有為顔 ( したりがほ ) を赦 ( ゆる ) し難く打目戍 ( うちまも ) れり。満枝はさすが過 ( あやまち ) を悔いたる風情 ( ふぜい ) にて、やをら左の袂 ( たもと ) を膝 ( ひざ ) に掻載 ( かきの ) せ、牡丹 ( ぼたん ) の莟 ( つぼみ ) の如く揃 ( そろ ) へる紅絹裏 ( もみうら ) の振 ( ふり ) を弄 ( まさぐ ) りつつ、彼の咎 ( とがめ ) を懼 ( おそ ) るる目遣 ( めづかひ ) してゐたり。
「実に怪 ( け ) しからん! 謊 ( ばか ) なことを有仰 ( おつしや ) つたものです」
萎 ( しを ) るる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
彼を喝 ( かつ ) せし怒 ( いかり ) に任せて、半 ( なかば ) 起したりし体 ( たい ) を投倒せば、腰部 ( ようぶ ) の創所 ( きずしよ ) を強く抵 ( あ ) てて、得堪 ( えた ) へず呻 ( うめ ) き苦むを、不意なりければ満枝は殊 ( こと ) に惑 ( まど ) ひて、
「どう遊ばして? 何処 ( どこ ) ぞお痛みですか」
手早く夜着 ( よぎ ) を揚げんとすれば、払退 ( はらひの ) けて、
「もうお還り下さい」
言放ちて貫一は例の背 ( そびら ) を差向けて、遽 ( にはか ) に打鎮 ( うちしづま ) りゐたり。
「私 ( わたくし ) 還りません! 貴方がさう酷く有仰 ( おつしや ) れば、以上還りません。いつまでも居られる躯 ( からだ ) ではないのでございますから、順 ( おとなし ) く還るやうにして還して下さいまし」
いとはしたなくて立てる満枝は闥 ( ドア ) の啓 ( あ ) くに驚かされぬ。入来 ( いりきた ) れるは、附添婆 ( つきそひばば ) か、あらず。看護婦か、あらず。国手 ( ドクトル ) の回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!
胡麻塩羅紗 ( ごましほらしや ) の地厚なる二重外套 ( にじゆうまわし ) を絡 ( まと ) へる魁肥 ( かいひ ) の老紳士は悠然 ( ゆうぜん ) として入来 ( いりきた ) りしが、内の光景 ( ありさま ) を見ると斉 ( ひとし ) く胸悪き色はつとその面 ( おもて ) に出 ( い ) でぬ。満枝は心に少 ( すこ ) く慌 ( あわ ) てたれど、さしも顕 ( あらは ) さで、雍 ( しとや ) かに小腰を屈 ( かが ) めて、
「おや、お出 ( いで ) あそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
同く慇懃 ( いんぎん ) に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼 ( かなつぼまなこ ) は光を逞 ( たくまし ) う女の横顔を瞥見 ( べつけん ) せり。静に臥 ( ふ ) したる貫一は発作 ( パロキシマ ) の来 ( きた ) れる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行 ( ただゆき ) を迎ふれば、
「どうぢやな。好 ( え ) え方がお見舞に来てをつて下さるで、可 ( え ) えの」
打付 ( うちつけ ) に過ぎし言 ( ことば ) を二人ともに快からず思へば、頓 ( とみ ) に答 ( いらへ ) は無くて、その場の白 ( しら ) けたるを、さこそと謂 ( い ) はんやうに直行の独 ( ひと ) り笑ふなりき。如何 ( いか ) に答ふべきか。如何に言釈 ( いひと ) くべきか、如何に処すべきかを思煩 ( おもひわづら ) へる貫一は艱 ( むづか ) しげなる顔を稍 ( やや ) 内向けたるに、今はなかなか悪怯 ( わるび ) れもせで満枝は椅子の前なる手炉 ( てあぶり ) に寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙 ( せはし ) いところを度々お見舞下されては痛入 ( いたみい ) ります。それにこれの病気も最早快 ( よ ) うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出 ( い ) で下さるのは何分お断り申しまする」
言黒 ( いひくろ ) めたる邪魔立を満枝は面憎 ( つらにく ) がりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手 ( ついで ) がありますのでございますから、その御心配には及びません」
直行の眼 ( まなこ ) は再び輝けり。貫一は憖 ( なまじひ ) に彼を窘 ( くるし ) めじと、傍 ( かたはら ) より言 ( ことば ) を添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、却 ( かへ ) つて私 ( わたくし ) は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然 ( しかるべく ) 御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私 ( わたくし ) 差控へませう」
満枝は色を作 ( な ) して直行を打見遣 ( うちみや ) りつつ、その面 ( おもて ) を引廻 ( ひきめぐら ) して、やがて非 ( あら ) ぬ方 ( かた ) を目戍 ( まも ) りたり。
「いや、いや、な、決 ( け ) して、そんな訳ぢや……」
「余 ( あんま ) りな御挨拶で! 女だと思召 ( おぼしめ ) して有仰 ( おつしや ) るのかは存じませんが、それまでのお指図 ( さしづ ) は受けませんで宜 ( よろし ) うございます」
「いや、そんなに悪う取られては甚 ( はなは ) だ困る、畢竟 ( ひつきよう ) 貴方 ( あんた ) の為を思ひますじやに因 ( よ ) つて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私 ( わたくし ) の不為 ( ふため ) になるのでございませう」
「それにお心着 ( こころづき ) が無い?」
その能く用ゐる微笑を弄 ( ろう ) して、直行は巧 ( たくみ ) に温顔を作れるなり。
満枝は稍 ( やや ) 急立 ( せきた ) ちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子 ( をなご ) が度々出入 ( でいり ) したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易 ( やす ) い、可 ( え ) えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様 ( あかがしさん ) と云ふ者のある貴方の躯 ( からだ ) に疵 ( きず ) が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
陰には己 ( おのれ ) 自ら更に甚 ( はなはだし ) き不為を強 ( し ) ひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑 ( をか ) し、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有 ( ありがた ) う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美 ( うつくし ) い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯 ( からだ ) でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今 ( これから ) 慎 ( つつし ) みますでございます」
「これは太 ( えら ) い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘 ( うそ ) にもかれこれ言 ( いは ) るるんぢやから、どんなにも嬉 ( うれし ) いぢやらう、私 ( わし ) のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為 ( す ) まいにな」
貫一は苦々しさに聞かざる為 ( まね ) してゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君が在 ( ゐら ) つしやるのですから、余り頻繁 ( しげしげ ) 上りますと……」
後は得言はで打笑める目元の媚 ( こび ) 、ハンカチイフを口蔽 ( くちおほひ ) にしたる羞含 ( はぢがま ) しさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出 ( いで ) かな。私 ( わし ) は赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰 ( おつしや ) つて下さいまし。私 ( わたくし ) 此方 ( こなた ) へ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方 ( あなた ) から御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却 ( かへ ) つて私の伺ふのを懊悩 ( うるさ ) く思召 ( おぼしめ ) してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障 ( めざはり ) か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作 ( なさ ) らなくても宜 ( よろし ) いではございませんか。
然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅 ( たく ) へお出 ( いで ) になつた御帰途 ( おかへりみち ) にこの御怪我 ( おけが ) なんでございませう。それに、未 ( ま ) だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂 ( つのかみざか ) へお出 ( いで ) なさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途 ( みち ) でこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜 ( よろこび ) が無いのでございませう」
彼はいと辛 ( つら ) しとやうに、恨 ( うらめ ) しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視 ( み ) るなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃 ( ひそか ) に金壺眼 ( かなつぼまなこ ) の一角を溶 ( とろか ) しつつ眺入 ( ながめい ) るにぞありける。
「さやうかな。如何 ( いか ) さま、それで善う解りましたじや。太 ( えら ) い御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又私 ( わし ) からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念 ( おも ) うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻 ( しりぞく ) るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措 ( お ) けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌 ( きら ) はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
赤髭 ( あかひげ ) を拈 ( ひね ) り拈りて、直行は女の気色 ( けしき ) を偸視 ( ぬすみみ ) つ。
「さやうでございます。お年寄は勿論 ( もちろん ) 結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧 ( くちやかまし ) くてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難 ( きむづかし ) うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太 ( えら ) う嫌うたもんですな」
「尤 ( もつと ) も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方 ( こつち ) から好きましても、他 ( さき ) で嫌はれましては、何の効 ( かひ ) もございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方 ( あんた ) のやうな方が此方 ( こつち ) から好いたと言うたら、どんな者でも可厭 ( いや ) 言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰 ( おつしや ) つて! 如何 ( いかが ) でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
椅子も傾くばかりに身を反 ( そら ) して、彼はわざとらしく揺上 ( ゆりあ ) げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何 ( いかが ) ですか、さう云ふ事は」
誰 ( たれ ) か烏 ( からす ) の雌雄 ( しゆう ) を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯 ( うそぶ ) けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈 ( はず ) はございませんわ。ほほほほほほほほ」
そのわざとらしさは彼にも遜 ( ゆづ ) らじとばかり、満枝は笑ひ囃 ( はや ) せり。
直行が眼 ( まなこ ) は誰を見るとしも無くて独 ( ひと ) り耀 ( かがや ) けり。
「それでは私もうお暇 ( いとま ) を致します」
「ほう、もう、お帰去 ( かへり ) かな。私 ( わし ) もはや行かん成らんで、其所 ( そこ ) まで御一処に」
「いえ、私些 ( ちよつ ) と、あの、西黒門町 ( にしくろもんちよう ) へ寄りますでございますから、甚 ( はなは ) だ失礼でございますが……」
「まあ、宜 ( よろし ) い。其処 ( そこ ) まで」
「いえ、本当に今日 ( こんにち ) は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座 ( あさひざ ) の株式一件な、あれがつい纏 ( まとま ) りさうぢやで、この際お打合 ( うちあはせ ) をして置かんと、『琴吹 ( ことぶき ) 』の収債 ( とりたて ) が面白うない。お目に掛つたのが幸 ( さいはひ ) ぢやから、些 ( ちよつ ) とそのお話を」
「では、明日 ( みようにち ) にでも又、今日は些 ( ち ) と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
姑 ( しばら ) く推 ( おし ) 問答の末彼は終 ( つひ ) に満枝を拉 ( らつ ) し去れり。迹 ( あと ) に貫一は悪夢の覚めたる如く連 ( しきり ) に太息 ( ためいき ) 呴 ( つ ) いたりしが、やがて為 ( せ ) ん方無げに枕 ( まくら ) に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方 ( かた ) に、止 ( た ) だ果無 ( はてしな ) く目を奪れゐたり。
檜葉 ( ひば ) 、樅 ( もみ ) などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯麗 ( うららか ) なる日影のみぞ饒 ( ゆたか ) に置余 ( おきあま ) して、そこらの梅の点々 ( ぼちぼち ) と咲初めたるも、自 ( おのづか ) ら怠り勝に風情 ( ふぜい ) 作らずと見ゆれど、春の色香 ( いろか ) に出 ( い ) でたるは憐 ( あはれ ) むべく、打霞 ( うちかす ) める空に来馴 ( きな ) るる鵯 ( ひよ ) のいとどしく鳴頻 ( なきしき ) りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々 ( せきせき ) たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩 ( ゆる ) う行くなり。
枕の上の徒然 ( つれづれ ) は、この時人を圧して殆 ( ほとん ) ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛 ( から ) うじて夢を結びゐたり。彼は実 ( げ ) に夢ならでは有得べからざる怪 ( あやし ) き夢に弄 ( もてあそ ) ばれて、躬 ( みづから ) も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡 ( ねむり ) の中に囚 ( とらは ) れしを、端無 ( はしな ) く人の呼ぶに駭 ( おどろか ) されて、漸 ( やうや ) く慵 ( ものう ) き枕を欹 ( そばだ ) てつ。
愕然 ( がくぜん ) として彼は瞳 ( ひとみ ) を凝 ( こら ) せり。ベッドの傍 ( かたはら ) に立てるは、その怪き夢の中に顕 ( あらは ) れて、終始相離 ( あひはな ) れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視 ( み ) れども訪来 ( とひきた ) れる満枝に紛 ( まぎれ ) あらざりき。とは謂 ( い ) へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中 ( うち ) なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺 ( あたり ) も可輝 ( かがやかし ) く、五六歳 ( いつつむつ ) ばかりも若 ( わかや ) ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路 ( むそぢ ) に余れる夫有 ( つまも ) てる身と誰 ( たれ ) かは想ふべき。
髪を台湾銀杏 ( たいわんいちよう ) といふに結びて、飾 ( かざり ) とてはわざと本甲蒔絵 ( ほんこうまきゑ ) の櫛 ( くし ) のみを挿 ( さ ) したり。黒縮緬 ( くろちりめん ) の羽織に夢想裏 ( むそううら ) に光琳風 ( こうりんふう ) の春の野を色入 ( いろいり ) に染めて、納戸縞 ( なんどじま ) の御召の下に濃小豆 ( こいあづき ) の更紗縮緬 ( さらさちりめん ) 、紫根七糸 ( しこんしちん ) に楽器尽 ( がつきつくし ) の昼夜帯して、半襟 ( はんえり ) は色糸の縫 ( ぬひ ) ある肉色なるが、頸 ( えり ) の白きを匂 ( にほ ) はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛 ( きらきら ) と煩 ( うるさ ) し。今日は殊 ( こと ) に推 ( お ) して来にけるを、得堪 ( えた ) へず心の尤 ( とが ) むらん風情 ( ふぜい ) にて佇 ( たたず ) める姿 ( すがた ) 限無 ( かぎりな ) く嬌 ( なまめ ) きて見ゆ。
「お寝 ( やすみ ) のところを飛んだ失礼を致しました。私 ( わたくし ) 上 ( あが ) る筈 ( はず ) ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些 ( ちよつ ) と伺ひましたのでございますから、今日 ( こんにち ) のところはどうか御堪忍 ( ごかんにん ) あそばして」
彼の許 ( ゆるし ) を得んまでは席に着くをだに憚 ( はばか ) る如く、満枝は漂 ( ただよは ) しげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
内に燃ゆる憤 ( いかり ) を抑 ( おさ ) ふるとともに貫一の言 ( ことば ) は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜 ( よろし ) いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰 ( おつしや ) らずに……」
「失礼します。今日 ( こんにち ) は腰の傷部 ( きず ) が又痛みますので」
「おや、それは、お劇 ( きつ ) いことはお在 ( あん ) なさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽に在 ( ゐら ) しつて」
貫一は無雑作に郡内縞 ( ぐんないじま ) の掻巻 ( かいまき ) 引被 ( ひきか ) けて臥 ( ふ ) しけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤 ( まめやか ) に冊 ( かしづ ) きて、やがて己 ( おのれ ) も始めて椅子に倚 ( よ ) れり。
「貴方 ( あなた ) の前でこんな事は私申上げ難 ( にく ) いのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰 ( おつしや ) るので、湯島 ( ゆしま ) の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定可厭 ( いやらし ) い事をもうもう執濃 ( しつこ ) く有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑 ( うたぐ ) つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効 ( としがひ ) の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召 ( おぼしめ ) してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯 ( たはむ ) れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取 ( と ) んだ八当 ( やつあたり ) で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪 ( あし ) からず……。
今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜 ( よろし ) いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些 ( ちよつと ) でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜 ( きらひぬ ) いてお在 ( いで ) あそばす私 ( わたくし ) のやうな者と訳でもあるやうに有仰 ( おつしや ) られるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦 ( あきら ) め遊ばしまし。
貴方も因果なれば、私も……私は猶 ( なほ ) 因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂 ( い ) ふのでございませうね」
金煙管 ( きんぎせる ) の莨 ( たばこ ) の独 ( ひと ) り杳眇 ( ほのぼの ) と燻 ( くゆ ) るを手にせるまま、満枝は儚 ( はかな ) さの遣方無 ( やるかたな ) げに萎 ( しを ) れゐたり。さるをも見向かず、答 ( いら ) へず、頑 ( がん ) として石の如く横 ( よこた ) はれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切 ( せめ ) てさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透 ( とほ ) つたやうな気が致すのでございます。
間さん。貴方は過日 ( いつぞや ) 私がこんなに思つてゐることを何日 ( いつ ) までもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何 ( いかが ) なのでございますよ」
勢ひて問詰むれば、極 ( きは ) めて事も無げに、
「忘れません」
満枝は彼の面 ( おもて ) を絶 ( したたか ) に怨視 ( うらみみ ) て瞬 ( またたき ) も為 ( せ ) ず、その時人声して闥 ( ドア ) は徐 ( しづか ) に啓 ( あ ) きぬ。
案内せる附添の婆 ( ばば ) は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑 ( こころまどひ ) せらるる体 ( てい ) にて、彼にさへ可慎 ( つつまし ) う小声に言付けつつ名刺を渡せり。
満枝は如何なる人かと瞥 ( ちら ) と見るに、白髪交 ( しらがまじ ) りの髯 ( ひげ ) は長く胸の辺 ( あたり ) に垂れて、篤実の面貌痩 ( おもざしや ) せたれども賤 ( いやし ) からず、長 ( たけ ) は高しとにあらねど、素 ( もと ) より膄 ( ゆたか ) にもあらざりし肉の自 ( おのづか ) ら齢 ( よはひ ) の衰 ( おとろへ ) に削れたれば、冬枯の峰に抽 ( ぬ ) けるやうに聳 ( そび ) えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽 ( おくゆかし ) くて、誰とも知らねどさすがに疎 ( おろそか ) ならず覚えて、彼は早くもこの賓 ( まらうど ) の席を設けて待てるなりき。
貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三 ( しぎさわりゆうぞう ) と誌 ( しる ) したり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕 ( おどろき ) に駆れて、忽 ( たちま ) ち身を飜 ( ひるがへ ) して其方 ( そなた ) を見向かんとせしが、幾 ( ほとん ) ど同時に又枕して、終 ( つひ ) に動かず。狂ひ出でんずる息を厳 ( きびし ) く閉ぢて、燃 ( もゆ ) るばかりに瞋 ( いか ) れる眼 ( まなこ ) は放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹 ( つつ ) める一点の涙は不覚に滾 ( まろ ) び出 ( い ) でぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
「此方 ( こちら ) へお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜 ( けがらは ) しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強 ( し ) ひて目を塞 ( ふさ ) ぎ、身の顫 ( ふる ) ふをば吾と吾手に抱窘 ( だきすく ) めて、恨は忘れずとも憤 ( いかり ) は忍ぶべしと、撻 ( むちう ) たんやうにも己を制すれば、髪は逆竪 ( さかだ ) ち蠢 ( うごめ ) きて、頭脳の裏 ( うち ) に沸騰 ( わきのぼ ) る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫 ( みだれさ ) すなり。彼はこれと争ひて猶 ( なほ ) も抑へぬ。面色は漸 ( やうや ) く変じて灰の如し。婆は懼 ( おそ ) れたる目色 ( めざし ) を客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、断 ( ことわ ) つて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰 ( おつしや ) つてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」
婆は鴫沢 ( しぎさわ ) の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様 ( うしろさま ) に束 ( つか ) ねたるままに受取らで、強 ( し ) ひて面 ( おもて ) を和 ( やはら ) ぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分 ( だいぶ ) 久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜 ( よろし ) い。私 ( わし ) が直 ( ぢか ) にお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
屹 ( き ) と思案せる鴫沢の椅子ある方 ( かた ) に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦 ( すす ) めぬ。
「貫一さん、私 ( わし ) だよ。久う会はんので忘れられたかのう」
室の隅 ( すみ ) に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或 ( あるひ ) は指図もし、又自ら持来 ( もちきた ) りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるなり。貫一は知らざる如く、彼方 ( あなた ) を向きて答へず。仔細 ( しさい ) こそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍 ( よそ ) に見つつも憫 ( あはれ ) に可笑 ( をかし ) かりき。
「貫一さんや、私 ( わし ) だ。疾 ( とう ) にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然 ( さつぱり ) 知れんので。一昨日 ( おとつひ ) ふと聞出したから不取敢 ( とりあへず ) かうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我 ( おほけが ) ださうではないか」
猶 ( なほ ) も答のあらざるを腹立 ( はらだたし ) くは思へど、満枝の居るを幸 ( さいはひ ) に、
「睡 ( ね ) てをりますですかな」
「はい、如何 ( いかが ) でございますか」
彼はこの長者の窘 ( くるし ) めるを傍 ( よそ ) に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺 ( うかが ) へば、涙の顔を褥 ( しとね ) に擦付 ( すりつ ) けて、急上 ( せきあ ) げ急上げ肩息 ( かたいき ) してゐたり。何事とも覚えず驚 ( おどろか ) されしを、色にも見せず、怪まるるをも言 ( ことば ) に出 ( いだ ) さず、些 ( ちと ) の心着さへあらぬやうに擬 ( もてな ) して、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向識 ( し ) らん方なのですから、お還し申して下さい」
彼は面 ( おもて ) を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推 ( すい ) して、また多くは問はず席に復 ( かへ ) りて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰 ( おつしや ) るのでございます」
長き髯 ( ひげ ) を推揉 ( おしも ) みつつ鴫沢は為方無 ( せんかたな ) さに苦笑 ( にがわらひ ) して、
「人違とは如何 ( いか ) なことでも! 五年や七年会はんでも私 ( わし ) は未 ( ま ) だそれほど老耄 ( ろうもう ) はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些 ( ちよつ ) とでも会うて貰ひませう」
挨拶 ( あいさつ ) 如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
然し、貫一さん、能 ( よ ) う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来 ( これまで ) の為方 ( しかた ) 、又今日のこの始末は、ちと妥当 ( おだやか ) ならんではあるまいか。とにかく鴫沢の翁 ( をぢ ) に対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも少 ( すこし ) く言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方 ( こちら ) では既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、決 ( けつ ) して身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方 ( そちら ) の身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切 ( ろうばしんせつ ) 。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又今日 ( こんにち ) も五年前も同じ考量 ( かんがへ ) で居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日 ( こんにち ) までも誤解されてゐるのは愈 ( いよい ) よ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。凡 ( およ ) そ此方 ( こちら ) の了簡 ( りようけん ) を誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に謀 ( はか ) つて、さうして僅 ( わづか ) の行違 ( ゆきちがひ ) から恨まれる、恩に被 ( き ) せうとて謀つたではないが、恨まれやうとは誰 ( たれ ) にしても思はん。で、ああして睦 ( むつまし ) う一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふ意 ( つもり ) であつたものを、僅の行違から音信不通 ( いんしんふつう ) の間 ( なか ) になつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、私 ( わし ) も誠に寐覚 ( ねざめ ) が悪からうと謂ふもの、実に姨 ( をば ) とも言暮してゐるのだ。私の方では何処 ( どこ ) までも旧通 ( もとどほ ) りになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈 ( と ) けんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら直 ( ぢき ) に訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へ詣 ( まゐ ) つて、のう、抑 ( そもそ ) もお前さんを引取つてから今日 ( こんにち ) までの来歴を在様陳 ( ありようの ) べて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、と丁 ( ちやん ) とお分疏 ( ことわり ) を言うて、そして私は私の一分 ( いちぶん ) を立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便 ( たより ) を為 ( せ ) んのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。
私は考へる、たとへばこの鴫沢の翁 ( をぢ ) の為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何 ( いか ) にも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当 ( おだやか ) に事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処 ( そこ ) だ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様 ( いかさま ) 手落があつたで、その詫 ( わび ) も言はうし、又昔も今も此方 ( こちら ) には心持に異変 ( かはり ) は無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日 ( こんにち ) は何も言はずに清う会うてくれ」
曾 ( かつ ) て聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は奇 ( あやし ) き興を覚えて耳を傾けぬ。
我強 ( がづよ ) くも貫一のなほ言 ( ものい ) はんとはせざるに、漸 ( やうや ) く怺 ( こら ) へかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、強 ( し ) ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客の言 ( ことば ) を尽せるにも理 ( ことわり ) 聞えて、無下 ( むげ ) に打 ( うち ) も棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語を出 ( いだ ) さず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂 ( いはれ ) はあらんと推測 ( おしはから ) るれば、一も二も無く満枝は恋人に与 ( くみ ) してこの場の急を拯 ( すく ) はんと思へるなり。
枕頭 ( まくらもと ) を窺 ( うかが ) ひつつ危む如く眉を攅 ( あつ ) めて、鴫沢の未 ( いま ) だ言出でざる時、
「私 ( わたくし ) 看病に参つてをります者でございますが、何方様 ( どなたさま ) でゐらつしやいますか存じませんが、この一両日 ( いちりようにち ) 病人は熱の気味で始終昏々 ( うとうと ) いたして、時々譫語 ( うはごと ) のやうな事を申して、泣いたり、慍 ( おこ ) つたり致すのでございますが、……」
頭を捻向 ( ねぢむ ) けて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時故 ( ことさら ) に解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直 ( ぢき ) に除 ( と ) れまするさうでございますから、又改めてお出 ( いで ) を願ひたう存じます。今日 ( こんにち ) は私御名刺を戴 ( いただ ) いて置きまして、お軽快 ( こころよく ) なり次第私から悉 ( くはし ) くお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方 ( しかた ) もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日 ( こんにち ) は又如何 ( いかが ) 致したのでございますか、昨日とは全 ( まる ) で反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇 ( むやみ ) なことを申されるよりは始末が宜 ( よろし ) いでございます」
かくても始末は善しと謂ふかと、翁 ( をぢ ) は打蹙 ( うちひそ ) むべきを強 ( し ) ひて易 ( か ) へたるやうの笑 ( ゑみ ) を洩 ( もら ) せば、満枝はその言了 ( いひをは ) せしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶を薦 ( すす ) めて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌 ( しる ) してあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵 ( わにぶち ) さんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶 ( もら ) うたと聞きましたが、如何 ( いかが ) いたしましたな」
彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」
「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
容儀 ( かたち ) 人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲 ( きらきら ) しう装飾 ( よそほひかざ ) れる様は色を売る儔 ( たぐひ ) にやと疑はれざるにはあらねど、言辞 ( ものごし ) 行儀の端々 ( はしはし ) 自 ( おのづか ) らさにもあらざる、畢竟 ( ひつきよう ) これ何者と、鴫沢は容易にその一斑 ( いつぱん ) をも推 ( すい ) し得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆詐 ( いつはり ) ならんとは想ひぬ。正 ( ただし ) き筋の知辺 ( しるべ ) にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若 ( も ) しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根 ( しようね ) も腐れ、身持も頽 ( くづ ) れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋 ( つな ) ぐべきものにあらず。如此 ( かくのごと ) き輩 ( やから ) を出入 ( でいり ) せしむる鴫沢の家は、終 ( つひ ) に不慮の禍 ( わざはひ ) を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中遽 ( にはか ) に懼 ( おそれ ) を生じて、さては彼の恨深く言 ( ことば ) を容 ( い ) れざるを幸 ( さいはひ ) に、今日 ( こんにち ) は一先 ( ひとまづ ) 立還 ( たちかへ ) りて、尚 ( な ) ほ一層の探索と一番の熟考とを遂 ( と ) げて後、来 ( きた ) る可 ( べ ) くは再び来らんも晩 ( おそ ) からず、と失望の裏 ( うち ) 別に幾分の得るところあるを私 ( ひそか ) に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私 ( わたくし ) は」と紫根塩瀬 ( しこんしほぜ ) の手提の中 ( うち ) より小形の名刺を取出だして、
「甚 ( はなは ) だ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝 ( あかがしみつえ ) さまと有仰 ( おつしや ) いますか」
この女の素性に於 ( お ) ける彼の疑は益 ( ますます ) 暗くなりぬ。夫有 ( つまも ) てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無 ( にげな ) し、まして裏面 ( うら ) に横文字を入れたるは、猶可慎 ( なほつつまし ) からず。応対の雍 ( しとやか ) にして人馴 ( ひとな ) れたる、服装 ( みなり ) などの当世風に貴族的なる、或 ( あるひ ) は欧羅巴 ( ヨウロッパ ) 的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余 ( あまり ) に色美 ( いろよ ) きが、又さる際 ( きは ) には相応 ( ふさはし ) からずも覚えて、こは終 ( つひ ) に一題の麗 ( うるはし ) き謎 ( なぞ ) を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇 ( ぶあしらひ ) に慍 ( いきどほ ) るをも忘れて、この謎 ( なぞ ) の為に苦められつつ病院を辞し去れり。
客を送り出でて満枝の内に入来 ( いりきた ) れば、ベッドの上に貫一の居丈高 ( ゐたけだか ) に起直りて、痩尽 ( やせすが ) れたる拳 ( こぶし ) を握りつつ、咄々 ( とつとつ ) 、言はで忍びし無念に堪へずして、独 ( ひと ) り疾視 ( しつし ) の瞳 ( ひとみ ) を凝 ( こら ) すに会へり。
数日前 ( すじつぜん ) より鰐淵 ( わにぶち ) が家は燈点 ( あかしとも ) る頃を期して、何処 ( いづこ ) より来るとも知らぬ一人の老女 ( ろうによ ) に訪 ( とは ) るるが例となりぬ。その人は齢 ( よはひ ) 六十路 ( むそぢ ) 余に傾 ( かたふ ) きて、顔は皺 ( しわ ) みたれど膚清 ( はだへきよ ) く、切髪 ( きりがみ ) の容 ( かたち ) などなかなか由 ( よし ) ありげにて、風俗も見苦からず、唯 ( ただ ) 異様なるは茶微塵 ( ちやみじん ) の御召縮緬 ( おめしちりめん ) の被風 ( ひふ ) をも着ながら、更紗 ( さらさ ) の小風呂敷包に油紙の上掛 ( うはがけ ) したるを矢筈 ( やはず ) に負ひて、薄穢 ( うすきたな ) き護謨底 ( ゴムぞこ ) の運動靴を履 ( は ) いたり。
所用は折入つて主 ( あるじ ) に会ひたしとなり。生憎 ( あいにく ) にも来る度 ( たび ) 他出中なりけれど、本意無 ( ほいな ) げにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は漸 ( やうや ) く怪しと思初 ( おもひそ ) めぬ。
彼のあだかも三日続けて来 ( きた ) れる日、その挙動の常ならず、殊 ( こと ) には眼色凄 ( まなざしすご ) く、憚 ( はばかり ) も無く人を目戍 ( まも ) りては、時ならぬに独 ( ひと ) り打笑 ( うちゑ ) む顔の坐寒 ( すずろさむ ) きまでに可恐 ( おそろし ) きは、狂人なるべし、しかも夜に入 ( い ) るを候 ( うかが ) ひ、時をも差 ( たが ) へず訪 ( おとな ) ひ来るなど、我家に祟 ( たたり ) を作 ( な ) すにはあらずや、とお峯は遽 ( にはか ) に懼 ( おそれ ) を抱 ( いだ ) きて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはや還 ( かへ ) り来にけるなり。
「どうも貴方 ( あなた ) 、あれは気違ですよ。それでも品の良 ( い ) いことは、些 ( ちよい ) とまあ旗本か何かの隠居さんと謂 ( い ) つたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、痩 ( や ) せた面長 ( おもなが ) な、怖 ( こは ) い顔なんですね。戸外 ( おもて ) へ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんですよ。毎 ( いつ ) でも極 ( きま ) つて、『頼みます、はい頼みます』とかう雍 ( しとやか ) に、緩 ( ゆつく ) り二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然 ( ぞつ ) として、ああ可厭 ( いや ) だ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」
お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。燈 ( あかし ) の点 ( とも ) るには未だ間ありと見るなるべし。直行は可難 ( むづか ) しげに眉 ( まゆ ) を寄せ、唇 ( くちびる ) を引結びて、
「何者か知らんて、一向心当 ( こころあたり ) と謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐 ( たま ) りませんから、貴方本当に来ましたら、篤 ( とつく ) り説諭して、もう来ないやうに作 ( なす ) つて下さいよ」
「そりや受合へん。他 ( さき ) が気違ぢやもの」
「気違だから私 ( わたし ) も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
「幾多 ( いくら ) 頼まれたてて、気違ぢやもの、俺 ( おれ ) も為やうは無い」
頼める夫 ( つま ) のさしも思はで頼無 ( たのみな ) き言 ( ことば ) に、お峯は力落してかつは尠 ( すくな ) からず心慌 ( あわつ ) るなり。
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣 ( や ) りませう」
直行は打笑 ( うちわら ) へり。
「まあ、そんなに騒がんとも可 ( え ) え」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
「誰も気違の好 ( え ) えものは無い」
「それ、御覧なさいな」
「何じや」
知らず、その老女 ( ろうによ ) は何者、狂か、あらざるか、合力 ( ごうりよく ) か、物売か、将 ( はた ) 主 ( あるじ ) の知人 ( しりびと ) か、正体の顕 ( あらは ) るべき時はかかる裏 ( うち ) にも一分時毎に近 ( ちかづ ) くなりき。
終日 ( ひねもす ) 灰色に打曇りて、薄日をだに吝 ( をし ) みて洩 ( もら ) さざりし空は漸 ( やうや ) く暮れんとして、弥増 ( いやま ) す寒さは怪 ( けし ) からず人に逼 ( せま ) れば、幾分の凌 ( しの ) ぎにもと家々の戸は例よりも早く鎖 ( ささ ) れて、なほ稍明 ( ややあか ) くその色厚氷 ( あつこほり ) を懸けたる如き西の空より、隠々 ( いんいん ) として寂き余光の遠く来 ( きた ) れるが、遽 ( にはか ) に去るに忍びざらんやうに彷徨 ( さまよ ) へる巷 ( ちまた ) の此処彼処 ( ここかしこ ) に、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き焔 ( ほのほ ) を放てり。
一陣の風は砂を捲 ( ま ) きて起りぬ。怪しの老女 ( ろうによ ) はこの風に吹出 ( ふきいだ ) されたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪 ( さかだ ) ちて、披払 ( はたはた ) と飄 ( ひるがへ ) る裾袂 ( すそたもと ) に靡 ( なびか ) されつつ漂 ( ただよは ) しげに行きつ留りつ、町の南側を辿 ( たど ) り辿りて、鰐淵が住へる横町に入 ( い ) りぬ。銃槍 ( じゆうそう ) の忍返 ( しのびがへし ) を打ちたる石塀 ( いしべい ) を溢 ( あふ ) れて一本 ( ひともと ) の梅の咲誇れるを、斜 ( ななめ ) に軒ラムプの照せるがその門 ( かど ) なり。
彼は殆 ( ほとん ) ど我家に帰り来 ( きた ) れると見ゆる態度にて、傱々 ( つかつか ) と寄りて戸を啓 ( あ ) けんとしたれど、啓かざりければ、かの雍 ( しとやか ) に緩 ( ゆる ) しと謂ふ声して、
「頼みます、はい、頼みます」
風は飈々 ( ひようひよう ) と鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯は竦 ( すく ) みて立たず。
「貴方、来ましたよ」
「うん、あれか」
実 ( げ ) に直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立 ( こなべだて ) せる火鉢 ( ひばち ) の角 ( かど ) に猪口 ( ちよく ) を措 ( お ) き、燈 ( あかし ) を持 ( も ) て来よと婢 ( をんな ) に命じて、玄関に出でけるが、先 ( ま ) づ戸の内より、
「はい何方 ( どなた ) ですな」
「旦那 ( だんな ) はお宅でございませうか」
「居りますが、何方 ( どなた ) で」
答はあらで、呟 ( つぶや ) くか、咡 ( ささや ) くか、小声ながら頻 ( しきり ) に物言ふが聞ゆるのみ。
「何方 ( どなた ) ですか、お名前は何と有仰 ( おつしや ) るな」
「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花 ( はな ) はやつぱりこの梅が宜 ( よろし ) からうと存じます。さあ、どうぞ此方 ( こちら ) へお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ」
啓 ( あ ) けんとせしに啓かざれば、彼は戸を打叩 ( うちたた ) きて劇 ( はげし ) く案内 ( あない ) す。さては狂人なるよと直行も迷惑したれど、このままにては逐 ( お ) ふとも立去るまじきに、一度 ( ひとたび ) は会うてとにもかくにも為 ( せ ) んと、心ならずも戸を開けば、聞きしに差 ( たが ) はぬ老女 ( ろうによ ) は入来 ( いりきた ) れり。
「鰐淵は私 ( わし ) じやが、何ぞ用かな」
「おお、おまへが鰐淵か!」
つと乗出 ( のりいだ ) してその面 ( おもて ) に瞳 ( ひとみ ) を据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれて忽 ( たちま ) ち寒く戦 ( をのの ) けるなり。熟 ( つくづ ) くと見入る眼 ( まなこ ) を放つと共に、老女は皺手 ( しわで ) に顔を掩 ( おほ ) ひて潜々 ( さめざめ ) と泣出 ( なきいだ ) せり。呆 ( あき ) れ果てたる直行は金壺眼 ( かなつぼまなこ ) を凝 ( こら ) してその泣くを眺むる外はあらざりけり。
彼は泣きて泣きて止まず。
「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、私 ( わし ) に用と云ふのは?」
朽木の自 ( おのづか ) ら頽 ( くづ ) れ行くらんやうにも打萎 ( うちしを ) れて見えし老女は、猛然 ( もうねん ) として振仰ぎ、血声を搾 ( しぼ ) りて、
「この大騙 ( おほかたり ) め!」
「何ぢやと!」
「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之 ( まさゆき ) のやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国 ( かいのくに ) の住人武田大膳太夫 ( たけだだいぜんだゆう ) 信玄入道 ( しんげんにゆうどう ) 、田夫野人 ( でんぷやじん ) の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井 ( かしわい ) の鈴 ( すう ) ちやんがお嫁に来てくれれば、私 ( わたし ) の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪 ( やぶ ) は有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間不見 ( みず ) のあの雅之、能 ( よ ) うも能うもおのれは瞞 ( だま ) したな! さあ、さあさ讐 ( かたき ) を討つから立合ひなさい」
直行は舌を吐きて独語 ( ひとりご ) ちぬ。
「あ、いよいよ気違じやわい」
見る見る老女の怒 ( いかり ) は激して、形相 ( ぎようそう ) 漸くおどろおどろしく、物怪 ( もののけ ) などの凴 ( つ ) いたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯の疎 ( まばら ) なるを牙 ( きば ) の如く露 ( あらは ) して、一念の凝 ( こ ) れる眸 ( まなじり ) は直行の外 ( ほか ) を見ず、
「歿 ( なくな ) られた良人 ( つれあひ ) から懇々 ( くれぐれ ) も頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子 ( ひとりつこ ) 、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方 ( このほう ) を女と侮 ( あなど ) つてさやうな不埒 ( ふらち ) を致したか。長刀 ( なぎなた ) の一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」
彼は忽 ( たちま ) ちさも心地快 ( ここちよ ) げに笑へり。
「さうあらうとも、赦 ( ゆる ) します。内には鈴 ( すう ) ちやんが今日を曠 ( はれ ) と着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致 ( きりよう ) と云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、読 ( よみ ) 、書 ( かき ) 、針仕事 ( はりしごと ) 、そんなことは言つてゐるところではない。頸 ( くび ) を長くして待つてお在 ( いで ) だのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物 ( はきもの ) はここに在るよ。なあに、おまへ私はね、滊車 ( きしや ) で行くから訳は無いとも」
かく言ふ間も忙 ( せは ) しげに我が靴を脱ぎて、其処 ( そこ ) に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結 ( なかゆひ ) を釈きて、直行が前に上掛 ( うはがけ ) の油紙を披 ( ひろ ) げたり。
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直 ( ぢき ) に落ちるから、早く落してお了ひなさい」
さすがに持扱 ( もてあつか ) ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖 ( ほそ ) めて、何処 ( いづこ ) より出づらんやとばかり世にも奇 ( あやし ) き声を発 ( はな ) ちて緩 ( ゆる ) く笑ひぬ。彼は謂知 ( いひし ) らぬ凄気 ( せいき ) に打れて、覚えず肩を聳 ( そびや ) かせり。
懲役と言ひ、雅之と言ふに因 ( よ ) りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之 ( あくらまさゆき ) は、私書偽造罪を以 ( も ) つて彼の被告としてこの十数日前 ( ぜん ) 、罰金十円、重禁錮 ( じゆうきんこ ) 一箇年に処せられしなり。実 ( げ ) にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。
爾思 ( しかおも ) へりしのみにて直行はその他に猶 ( なほ ) も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀 ( はか ) りて陥れたるなり。
彼等の用ゐる悪手段の中 ( うち ) に、人の借 ( か ) るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合 ( はなしあひ ) の上は貸さんと称 ( とな ) へて先 ( ま ) づ誘 ( いざな ) ひ、然 ( しか ) る後、但 ( ただ ) し証書の体 ( てい ) を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然 ( しかるべ ) き親族知己 ( しるべ ) などの名義を私用して、在合ふ印章を捺 ( お ) さしめ、固 ( もと ) より懇意上の内約なればその偽 ( いつはり ) なるを咎 ( とが ) めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一 ( いつ ) は焦眉 ( しようび ) の急に迫り、一 ( いつ ) は期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息 ( こそく ) して、この術中には陥るなりけり。
期に迨 ( およ ) びて還さざらんか、彼は忽 ( たちま ) ち爪牙 ( そうが ) を露 ( あらは ) し、陰に告訴の意を示してこれを脅 ( おびやか ) し、散々に不当の利を貪 ( むさぼ ) りて、その肉尽き、骨枯るるの後、猶 ( な ) ほ饜 ( あ ) く無き慾は、更に件 ( くだん ) の連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰 ( おもてざた ) にせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここに於 ( おい ) て誰 ( たれ ) か恐慌し、狼狽 ( ろうばい ) し、悩乱し、号泣し、死力を竭 ( つく ) して七所借 ( ななとこがり ) の調達 ( ちようだつ ) を計らざらん。この時魔の如き力は喉 ( のんど ) を扼 ( やく ) してその背を捬 ( う ) つ、人の死と生とは渾 ( すべ ) て彼が手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。
雅之もこの※ ( わな ) 〈[#「(箆-竹-比)/民」、265-5]〉 に繋 ( かか ) りて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻 ( はたん ) に及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為は終 ( つひ ) に第二百十条の問ふところとなりぬ。
法律は鉄腕の如く雅之を拉 ( らつ ) し去りて、剰 ( あまつ ) さへ杖 ( つゑ ) に離れ、涙に蹌 ( よろぼ ) ふ老母をば道の傍 ( かたはら ) に踢返 ( けかへ ) して顧ざりけり。噫 ( ああ ) 、母は幾許 ( いかばかり ) この子に思を繋 ( か ) けたりけるよ。親に仕 ( つか ) へて、此上無 ( こよな ) う優かりしを、柏井 ( かしわい ) の鈴 ( すず ) とて美き娘をも見立てて、この秋には妻 ( めあは ) すべかりしを、又この歳暮 ( くれ ) には援 ( ひ ) く方 ( かた ) 有りて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆休 ( や ) みぬ、彼は人の歯 ( よはひ ) せざる国法の罪人となり了 ( をは ) れり。耻辱 ( ちじよく ) 、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。
無益 ( むやく ) に言 ( ことば ) を用ゐんより、唯手柔 ( ただてやはらか ) に撮 ( つま ) み出すに如 ( し ) かじと、直行は少しも逆 ( さから ) はずして、
「ああ宜 ( よろし ) いが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんから外 ( おもて ) へ行かう。さあ一処に来た」
狂女は苦々しげに頭 ( かしら ) を掉 ( ふ ) りて、
「お前さんの云ふことは皆妄 ( うそ ) だ。その手で雅之を瞞 ( だま ) したのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着 ( だまくらか ) して、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違無いと云ふ一札 ( いつさつ ) をこの通り入れたぢやないか、これでも未 ( ま ) だ皛 ( しらじら ) しい顔をしてゐるのか」
打披 ( うちひろ ) げたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香 ( うつりが ) にや、胸悪き一種の腥気 ( せいき ) ありて夥 ( おびただし ) く鼻を撲 ( う ) ちぬ。直行は猶 ( なほ ) も逆はで已 ( や ) む無く面 ( おもて ) を背 ( そむ ) けたるを、狂女は目を瞪 ( みは ) りつつ雀躍 ( こをどり ) して、
「おおおお、あれあれ! これは嬉 ( うれし ) い、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」
地には落さじとやうに慌 ( あわ ) て愺 ( ふため ) き、油紙もて承けんと為 ( せ ) る、その利腕 ( ききうで ) をやにはに捉 ( とら ) へて直行は格子 ( こうし ) の外へ㩳 ( おしだ ) さんと為たり。彼は推 ( おさ ) れながら格子に縋 ( すが ) りて差理無理 ( しやりむり ) 争ひ、
「ええ、おのれは他 ( ひと ) をこの崖 ( がけ ) から突落す気だな。この老婦 ( としより ) を騙討 ( だましうち ) に為るのだな」
喚 ( わめ ) きつつ身を捻返 ( ねぢかへ ) して、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷 ( ふみすべ ) らして尻居に倒るれば、彼は囃 ( はや ) し立てて笑ふなり。忽 ( たちま ) ち起上りし直行は彼の衿上 ( えりがみ ) を掻掴 ( かいつか ) みて、力まかせに外方 ( とのかた ) へ突遣 ( つきや ) り、手早く雨戸を引かんとせしに、軋 ( きし ) みて動かざる間 ( ひま ) に又駈戻 ( かけもど ) りて、狂女はその凄 ( すさまし ) き顔を戸口に顕 ( あら ) はせり。余りの可恐 ( おそろ ) しさに直行は吾を忘れてその顔をはたと撲 ( う ) ち、痿 ( ひる ) むところを得たりと鎖 ( とざ ) せば、外より割るるばかりに戸を叩きて、
「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊 ( くつどろぼう ) 、大騙 ( おほかたり ) ! 首を寄来 ( よこ ) せ」
直行は佇 ( たたず ) みて様子を候 ( うかが ) ひゐたり。抜足差足 ( ぬきあしさしあし ) 忍び来 ( きた ) れる妻は、後より小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
夫は戸の外を指 ( ゆびさ ) してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴 ( ゴムぐつ ) と油紙との遺散 ( おちち ) れるを見付けて、由無 ( よしな ) き質を取りけるよと思 ( おも ) ひ煩 ( わづら ) へる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫 ( どうぶるひ ) して、長くここに留 ( とどま ) るに堪へず、夫を勧めて奥に入 ( い ) りにけり。
戸叩く音は後 ( のち ) も撓 ( たゆ ) まず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺 ( うかが ) ひける時は、風吹荒 ( ふきすさ ) ぶ門 ( かど ) の梅の飛雪 ( ひせつ ) の如く乱点して、燈火の微 ( ほのか ) に照す処その影は見えざるなりき。
次の日も例刻になれば狂女は又訪 ( と ) ひ来れり。主 ( あるじ ) は不在なりとて、婢 ( をんな ) をして彼の遺 ( のこ ) せし二品 ( ふたしな ) を返さしめけるに、前夜の暴 ( あ ) れに暴れし気色 ( けしき ) はなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。
お峯はその翌日も必ず来 ( きた ) るべきを懼 ( おそ ) れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢 ( をんな ) を出 ( いだ ) して不在の由 ( よし ) を言はしめしに、こたびは直 ( ぢき ) に立去らで、
「それぢやお帰来 ( かへり ) までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
彼は戸口 ( かどぐち ) に蹲 ( うづくま ) りて動かず。婢は様々に言作 ( いひこしら ) へて賺 ( すか ) しけれど、一声も耳には入 ( い ) らざらんやうに、石仏 ( いしぼとけ ) の如く応ぜざるなり。彼は已 ( や ) む無くこれを奥へ告げぬ。直行も為 ( せ ) ん術 ( すべ ) あらねば棄措 ( すてお ) きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
お峯は心苦 ( こころぐるし ) がりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪 ( さわ ) ぐを、直行は人を煩 ( わづらは ) すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払 ( おひはら ) ふべき手立 ( てだて ) のありやと責むるに、害を為 ( な ) すにもあらねば、宿無犬 ( やどなしいぬ ) の寝たると想ひて意 ( こころ ) に介 ( かく ) るなとのみ。意 ( こころ ) に介 ( か ) くまじき如きを故 ( ことさら ) に夫には学ばじ、と彼は腹立 ( はらだたし ) く思へり。この一事 ( いちじ ) のみにあらず、お峯は常に夫の共に謀 ( はか ) ると謂ふこと無くて、女童 ( をんなわらべ ) と侮 ( あなど ) れるやうに取合はぬ風あるを、口惜 ( くちをし ) くも可恨 ( うらめし ) くも、又或時は心細さの便無 ( たよりな ) き余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明 ( しんめい ) の冥護 ( みようご ) に拠 ( よ ) らんと、八百万 ( やほよろづ ) の神といふ神は差別無 ( しやべつな ) く敬神せるが中にも、ここに数年前 ( ぜん ) より新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体と崇 ( あが ) めたるは、その光紫の一大明星 ( みようじよう ) にて、御名 ( おんな ) を大御明尊 ( おおみあかりのみこと ) と申す。天地渾沌 ( てんちこんとん ) として日月 ( じつげつ ) も未 ( いま ) だ成らざりし先高天原 ( たかまがはら ) に出現ましませしに因 ( よ ) りて、天上天下万物の司 ( つかさ ) と仰ぎ、諸 ( もろもろ ) の足らざるを補ひ、総 ( すべ ) て欠けたるを完 ( まつた ) うせしめんの大御誓 ( おほみちかひ ) をもて国土百姓を寧 ( やすらけ ) く恵ませ給ふとなり。彼は夙 ( つと ) に起信して、この尊をば一身一家 ( いつけ ) の守護神 ( まもりがみ ) と敬ひ奉り、事と有れば祈念を凝 ( こら ) して偏 ( ひとへ ) に頼み聞ゆるにぞありける。
この夜は別して身を浄 ( きよ ) め、御燈 ( みあかし ) の数を献 ( ささ ) げて、災難即滅、怨敵退散 ( おんてきたいさん ) の祈願を籠 ( こ ) めたりしが、翌日 ( あくるひ ) の点燈頃 ( ひともしごろ ) ともなれば、又来にけり。夫は出でて未 ( いま ) だ帰らざれば、今日若 ( も ) し罵 ( ののし ) り噪 ( さわ ) ぎて、内に躍入 ( をどりい ) ることもやあらば如何 ( いかに ) せんと、前後の別 ( わかれ ) 知らぬばかりに動顛 ( どうてん ) して、取次には婢を出 ( いだ ) し遣 ( や ) り、躬 ( みづから ) は神棚 ( かみだな ) の前に駈着 ( かけつ ) け、顫声 ( ふるひごゑ ) を打揚 ( うちあ ) げ、丹精を抽 ( ぬきん ) でて祝詞 ( のりと ) を宣 ( の ) りゐたり。狂女は不在と聞きて敢 ( あへ ) て争はず、昨日 ( きのふ ) の如く、ここにて帰来 ( かへり ) を待たんとて、同 ( おなじ ) き処に同き形して蹲 ( うづくま ) れり。婢は格子を鎖 ( さ ) し固めて内に入 ( い ) りけるが、暫 ( しばら ) くは音も為ざりしに、遽 ( にはか ) に物語る如き、或 ( あるひ ) は罵 ( ののし ) る如き声の頻 ( しきり ) に聞ゆるより主 ( あるじ ) の知らで帰来 ( かへりき ) て、捉 ( とら ) へられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗 ( さしのぞ ) けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主 ( あるじ ) に欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃 ( あとさきぶぞろひ ) に泣いつ怒りつ訴ふるなり。
子の讐 ( かたき ) なる直行が首を獲 ( え ) んとして夕々 ( ゆふべゆふべ ) に狂女の訪ひ来ること八日に迨 ( およ ) べり。浅ましとは思へど、逐 ( お ) ひて去らしむべきにあらず、又門口 ( かどぐち ) に居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措 ( すておか ) るるなりき。直行が言へりし如く、畢竟 ( ひつきよう ) 彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると太 ( はなは ) だ択 ( えら ) ばざるべけれど、縮緬 ( ちりめん ) の被風 ( ひふ ) 着たる人の形の黄昏 ( たそが ) るる門の薄寒きに踞 ( つくば ) ひて、灰色の剪髪 ( きりがみ ) を掻乱 ( かきみだ ) し、妖星 ( ようせい ) の光にも似たる眼 ( まなこ ) を睨反 ( ねめそら ) して、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見れば憤 ( いか ) り、己 ( おのれ ) の胸のやうに際 ( そこひ ) も知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてその悲 ( かなしみ ) と恨とを訴へ、腥 ( なまぐさ ) き油紙を拈 ( ひね ) りては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、終 ( つひ ) にはこの家に祟 ( たたり ) を作 ( な ) すべき望を繋 ( か ) くるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を劈 ( つんざ ) き、巌 ( いはほ ) を砕くの例 ( ためし ) 、ましてや家を滅 ( めつ ) し、人を鏖 ( みなごろし ) にすなど、塵 ( ちり ) を吹くよりも易 ( やす ) かるべきに、可恐 ( おそろ ) しや事無くてあれかしと、お峯は独 ( ひと ) り謂知 ( いひし ) らず心を傷 ( いた ) むるなり。
夫は決 ( け ) して雅之の私書偽造を己 ( おのれ ) の陥れし巧 ( たくみ ) なりとは彼に告げざれば、悪は正 ( まさし ) く狂女の子に在りて、此方 ( こなた ) に恨を受くべき筋は無く、自 ( おのづか ) らかかる事も出来 ( いでく ) るは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒 ( かしだふれ ) の損耗あるを思へば、所詮 ( しよせん ) 仆 ( たふ ) し、仆さるるは商 ( あきなひ ) の習と、お峯は自 ( おのづか ) ら意 ( こころ ) を強うして、この老女 ( ろうによ ) の狂 ( くるひ ) を発せしを、夫の為 ( な ) せる業 ( わざ ) とは毫 ( つゆ ) も思ひ寄 ( よす ) るにあらざりき。さは謂 ( い ) へ、人の親の切なる情 ( なさけ ) を思へば、実 ( げ ) にさぞと肝に徹 ( こた ) ふる節無 ( ふしな ) きにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇 ( あやし ) き殃 ( わざはひ ) にも遭 ( あ ) ふなればと唯思過 ( ただおもひすご ) されては窮無 ( きはまりな ) き恐怖 ( おそれ ) の募るのみ。
日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時 ( しばらく ) 門 ( かど ) に居て動かざるは、その妄執 ( もうしゆう ) の念力 ( ねんりき ) を籠 ( こ ) めて夫婦を呪 ( のろ ) ふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬 ( たと ) へん方無く悩されぬ。されば狂女の門 ( かど ) に在る間は、大御明尊 ( おおみあかしのみこと ) の御前 ( おんまへ ) に打頻 ( うちしき ) り祝詞 ( のりと ) を唱ふるにあらざれば凌 ( しの ) ぐ能 ( あた ) はず。かかる中 ( うち ) にも心に些 ( ちと ) の弛 ( ゆるみ ) あれば、煌々 ( こうこう ) と耀 ( かがや ) き遍 ( わた ) れる御燈 ( みあかし ) の影 ( かげ ) 遽 ( にはか ) に晦 ( くら ) み行きて、天尊 ( てんそん ) の御像 ( みかたち ) も朧 ( おぼろ ) に消失 ( きえう ) せなんと吾目 ( わがめ ) に見ゆるは、納受 ( のうじゆ ) の恵に泄 ( も ) れ、擁護 ( おうご ) の綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念を籠 ( こ ) め、烟 ( けむり ) を立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。槍 ( やり ) は降りても必ず来 ( く ) べし、と震摺 ( おぢおそ ) れながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何 ( いか ) にしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返 ( さえかへ ) りたるこの日の寒気は鍼 ( はり ) もて膚 ( はだへ ) に霜を種 ( う ) うらんやうに覚えしめぬ。外には烈風 ( はげしきかぜ ) 怒 ( いか ) り号 ( さけ ) びて、樹を鳴し、屋 ( いへ ) を撼 ( うごか ) し、砂を捲 ( ま ) き、礫 ( こいし ) を飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる埃 ( ほこり ) に蔽 ( おほは ) れて、一天晦 ( くら ) く乱れ、日色 ( につしよく ) 黄 ( き ) に濁りて、殊 ( こと ) に物可恐 ( ものおそろし ) き夕暮の気勢 ( けはひ ) なり。
鰐淵が門 ( かど ) の燈 ( ともし ) は硝子 ( ガラス ) を二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは覆 ( くつがへ ) りたり。内の燈火 ( あかし ) は常より鮮 ( あざやか ) に主 ( あるじ ) が晩酌の喫台 ( ちやぶだい ) を照し、火鉢 ( ひばち ) に架 ( か ) けたる鍋 ( なべ ) の物は沸々 ( ふつふつ ) と薫 ( くん ) じて、はや一銚子 ( ひとちようし ) 更 ( か ) へたるに、未 ( いま ) だ狂女の音容 ( おとづれ ) はあらず。お峯は半 ( なかば ) 危みつつも幾分の安堵 ( あんど ) の思を弄 ( もてあそ ) び喜ぶ風情 ( ふぜい ) にて、
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎 ( いつ ) もきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了 ( しま ) ひませうから。ああ、真 ( ほん ) に天尊様の御利益 ( ごりやく ) があつたのだ」
夫が差せる猪口 ( ちよく ) を受けて、
「お相 ( あひ ) をしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に戴 ( いただ ) くとお美 ( いし ) いものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方 ( あなた ) 。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然 ( いよいよ ) 今晩は来ないと極 ( きま ) りましたね。ぢや、戸締 ( とじまり ) を為 ( さ ) して了ひませうか、真 ( ほん ) に今晩のやうな気の霽々 ( せいせい ) した、心 ( しん ) の底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿 ( いのち ) を短 ( ちぢ ) めたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒 ( ごしゆ ) もお美 ( いし ) いものですね。なあにあの婆さんが唯怖 ( ただこは ) いのぢやありませんよ。それは気味 ( きび ) は悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く凄 ( すご ) くて耐 ( たま ) らないのです。あれが来ると、悚然 ( ぞつ ) と、惣毛竪 ( そうけだ ) つて体 ( からだ ) が竦 ( すく ) むのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着 ( とつつか ) れでもするやうな気がして、あの、それ、能 ( よ ) く夢で可恐 ( おそろし ) い奴なんぞに追懸 ( おつか ) けられると、迯 ( に ) げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」
銚子を更 ( か ) へて婢 ( をんな ) の持来 ( もちきた ) れば、
「金 ( きん ) や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
「好い塩梅 ( あんばい ) でございます」
「お前には後でお菓子を御褒美 ( ごほうび ) に出すからね。貴方 ( あなた ) 、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
「あら可厭 ( いや ) なことを有仰 ( おつしや ) いまし」
吹来 ( ふききた ) り、吹去る風は大浪 ( おほなみ ) の寄せては返す如く絶間無く轟 ( とどろ ) きて、その劇 ( はげし ) きは柱などをひちひちと鳴揺 ( なりゆる ) がし、物打倒す犇 ( ひしめ ) き、引断 ( ひきちぎ ) る音、圧折 ( へしお ) る響は此処彼処 ( ここかしこ ) に聞えて、唯居るさへに胆 ( きも ) は冷 ( ひや ) されぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶 ( てつびん ) の湯気は雲を噴 ( は ) くこと頻 ( しきり ) なれど、更に背面を圧する寒 ( さむさ ) は鉄板 ( てつぱん ) などや負はさるるかと、飲めども多く酔 ( ゑ ) ひ成さざるに、直行は後を牽 ( ひ ) きて已 ( や ) まず、お峯も心祝 ( こころいはひ ) の数を過して、その地顔の赭 ( あか ) きをば仮漆布 ( ニスし ) きたるやうに照り耀 ( かがやか ) して陶然たり。
狂女は果して来 ( こ ) ざりけり。歓 ( よろこ ) び酔 ( ゑ ) へるお峯も唯酔 ( ゑ ) へる夫も、褒美貰 ( もら ) ひし婢も、十時近き比 ( ころほひ ) には皆寐鎮 ( ねしづま ) りぬ。
風は猶 ( なほ ) も邪 ( よこしま ) に吹募りて、高き梢 ( こずゑ ) は箒 ( ははき ) の掃くが如く撓 ( たわ ) められ、疎 ( まばら ) に散れる星の数は終 ( つひ ) に吹下 ( ふきおろ ) されぬべく、層々凝 ( こ ) れる寒 ( さむさ ) は殆 ( ほとん ) ど有らん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は益 ( ますま ) す冥 ( くら ) く、益す凄 ( すさまじ ) からんとす。忽 ( たちま ) ちこの黒暗々を劈 ( つんざ ) きて、鰐淵が裏木戸の辺 ( あたり ) に一道 ( いちどう ) の光は揚りぬ。低く発 ( おこ ) りて物に遮 ( さへぎ ) られたれば、何の火とも弁 ( わきま ) へ難くて、その迸発 ( ほとばしり ) の朱 ( あか ) く烟 ( けむ ) れる中に、母家 ( もや ) と土蔵との影は朧 ( おぼろ ) に顕 ( あらは ) るるともなく奪はれて、瞬 ( またた ) くばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じほどの火影の又映 ( うつろ ) ふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時 ( しばし ) 明 ( あかり ) を保ちたりしが、風の僅 ( わづか ) の絶間を偸 ( ぬす ) みて、閃々 ( ひらひら ) と納屋 ( なや ) の板戸を伝ひ、始めて騰 ( のぼ ) れる焔 ( ほのほ ) は炳然 ( へいぜん ) として四辺 ( あたり ) を照せり。塀際 ( へいぎは ) に添ひて人の形 ( かたち ) 動くと見えしが、なほ暗くて了然 ( さだか ) ならず。
数息 ( すそく ) の間にして火の手は縦横に蔓 ( はびこ ) りつつ、納屋の内に乱入れば、噴出 ( ふきい ) づる黒烟 ( くろけふり ) の渦は或 ( あるひ ) は頽 ( くづ ) れ、或は畳みて、その外を引韞 ( ひきつつ ) むとともに、見え遍 ( わた ) りし家も土蔵も堆 ( うづたか ) き黯黮 ( あんたん ) の底に没して、闇は焔に破られ、焔は烟 ( けふり ) に揉立 ( もみた ) てられ、烟 ( けむり ) は更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢の夥 ( おびただし ) ければ、猶ほ所狭 ( ところせ ) く漲 ( みなぎ ) りて、文目 ( あやめ ) も分かず攪乱 ( かきみだ ) れたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然 ( さだか ) ならざりし形はこの時明 ( あきらか ) に輝かされぬ。宵に来 ( く ) べかりし狂女の佇 ( たたず ) めるなり。躍 ( をど ) り狂ふ烟の下に自若として、面 ( おもて ) も爛 ( ただ ) れんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。実 ( げ ) に彼は火の如何 ( いか ) に焚 ( も ) え、如何に燬 ( や ) くや、と厳 ( おごそか ) に監 ( み ) るが如く眥 ( まなじり ) を裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と焔 ( ほのほ ) との相雑 ( あひまじは ) り、相争 ( あひあらそ ) ひ、相勢 ( あひきほ ) ひて、力の限を互に奮 ( ふる ) ふをば、妙 ( いみじ ) くも為 ( し ) たりとや、漫 ( そぞろ ) 笑 ( ゑみ ) を洩 ( もら ) せる顔色 ( がんしよく ) はこの世に匹 ( たぐ ) ふべきものありとも知らず。
風の暴頻 ( あれしき ) る響動 ( どよみ ) に紛れて、寝耳にこれを聞着 ( ききつく ) る者も無かりければ、誰一人出 ( いで ) て噪 ( さわ ) がざる間に、火は烈々 ( めらめら ) と下屋 ( げや ) に延 ( し ) きて、厨 ( くりや ) の燃立つ底より一声叫喚 ( きようかん ) せるは誰 ( たれ ) 、狂女は嘻々 ( きき ) として高く笑ひぬ。
人々出合ひて打騒 ( うちさわ ) ぐ比 ( ころほひ ) には、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々より焔 ( ほのほ ) を出 ( いだ ) し、はや如何 ( いか ) にとも為んやうあらざるなり。さしもの強風 ( ごうふう ) なりしかど、消防力 ( つと ) めたりしに拠 ( よ ) りて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に迨 ( およ ) びて鎮火するを得たり。雑踏の裏 ( うち ) より怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りも遣 ( やら ) ざりしが捕 ( とらは ) れしなり。
火元と認定せらるる鰐淵方 ( わにぶちかた ) は塵一筋 ( ちりひとすぢ ) だに持出 ( もちいだ ) さずして、憐 ( あはれ ) むべき一片の焦土を遺 ( のこ ) したるのみ。家族の消息は直 ( ただ ) ちに警察の訊問 ( じんもん ) するところとなりぬ。婢 ( をんな ) は命辛々 ( からがら ) 迯了 ( にげおほ ) せけれども、目覚むると斉 ( ひとし ) く頭面 ( まくらもと ) は一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨 ( よびすて ) にして走り出 ( い ) でければ、主 ( あるじ ) たちは如何 ( いか ) になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過 ( あやまち ) など有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
熱灰 ( ねつかい ) の下より一体の屍 ( かばね ) の半 ( なかば ) 焦爛 ( こげただ ) れたるが見出 ( みいだ ) されぬ。目も当てられず、浅ましう悒 ( いぶせ ) き限を尽したれど、主 ( あるじ ) の妻と輙 ( たやす ) く弁ぜらるべき面影 ( おもかげ ) は焚残 ( やけのこ ) れり。さてはとその邇 ( ちか ) くを隈無 ( くまな ) く掻起 ( かきおこ ) しけれど、他に見当るものは無くて、倉前と覚 ( おぼし ) き辺 ( あたり ) より始めて焦壊 ( こげくづ ) れたる人骨を掘出 ( ほりいだ ) せり。酔 ( ゑ ) ひて遁惑 ( にげまど ) ひし故 ( ゆゑ ) か、貪 ( むさぼ ) りて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦 ( あるじふうふ ) はこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟 ( けふり ) となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓 ( もと ) むべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔 ( ちようえんたんえん ) の紛糾する処に、独 ( ひと ) り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
別居せる直道 ( ただみち ) は旅行中にて未 ( いま ) だ還 ( かへ ) らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着 ( かけつ ) けたり。彼は三日の後には退院すべき手筈 ( てはず ) なりければ、今は全く癒 ( い ) えて務を執るをも妨げざれど、事の極 ( きは ) めて不慮なると、急激なると、瑣小 ( さしよう ) ならざるとに心惑 ( こころまどひ ) のみせられて、病後の身を以 ( も ) てこれに当らんはいと苦 ( くるし ) かりけるを、尽瘁 ( じんすい ) して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
枕をも得挙 ( えあ ) げざりし病人の今かく健 ( すこやか ) に起きて、常に来ては親く慰められし人の頑 ( かたくな ) にも強かりしを、空 ( むなし ) く燼余 ( じんよ ) の断骨に相見 ( あひみ ) て、弔ふ言 ( ことば ) だにあらざらんとは、貫一の遽 ( にはか ) にその真 ( まこと ) をば真とし能 ( あた ) はざるところなりき。人は皆死ぬべきものと人は皆知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一はこの五年間の家族を迫 ( せ ) めての一人も余さず、家倉と共に焚尽 ( やきつく ) されて一夜の中に儚 ( はかな ) くなり了 ( をは ) れるに会ひては、おのれが懐裡 ( ふところ ) の物の故無 ( ゆゑな ) く消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何 ( いか ) に成りなんをも料 ( はか ) られざるをと、無常の愁は頻 ( しきり ) に腸 ( はらわた ) に沁 ( し ) むなりけり。
住むべき家の痕跡 ( あとかた ) も無く焼失せたりと謂 ( い ) ふだに、見果てぬ夢の如し、まして併 ( あは ) せて頼めし主 ( あるじ ) 夫婦を喪 ( うしな ) へるをや、音容 ( おんよう ) 幻 ( まぼろし ) を去らずして、ほとほと幽明の界 ( さかひ ) を弁ぜず、剰 ( あまつさ ) へ久く病院の乾燥せる生活に困 ( こう ) じて、この家を懐 ( おも ) ふこと切なりければ、追慕の情は極 ( きはま ) りて迷執し、迫 ( せ ) めては得るところもありやと、夜の晩 ( おそ ) きに貫一は市 ( いち ) ヶ谷 ( や ) なる立退所 ( たちのきじよ ) を出でて、杖 ( つゑ ) に扶 ( たす ) けられつつ程遠からぬ焼跡を弔へり。
連日風立ち、寒かりしに、この夜は遽 ( にはか ) に緩 ( ゆる ) みて、朧 ( おぼろ ) の月の色も暖 ( あたたか ) に、曇るともなく打霞 ( うちかす ) める町筋は静に眠れり。燻臭 ( いぶりくさ ) き悪気は四辺 ( あたり ) に充満 ( みちみ ) ちて、踏荒されし道は水に漐 ( しと ) り、燼 ( もえがら ) に埋 ( うづも ) れ、焼杭 ( やけくひ ) 焼瓦 ( やけがはら ) など所狭く積重ねたる空地 ( くうち ) を、火元とて板囲 ( いたがこひ ) も得為 ( えせ ) ず、それとも分かぬ焼原の狼藉 ( ろうぜき ) として、鰐淵が家居 ( いへゐ ) は全く形を失へるなり。黒焦に削れたる幹 ( みき ) のみ短く残れる一列 ( ひとつら ) の立木の傍 ( かたはら ) に、塊 ( つちくれ ) 堆 ( うづたか ) く盛りたるは土蔵の名残 ( なごり ) と踏み行けば、灰燼の熱気は未 ( いま ) だ冷めずして、微 ( ほのか ) に面 ( おもて ) を撲 ( う ) つ。貫一は前杖 ( まへづゑ ) 拄 ( つ ) いて悵然 ( ちようぜん ) として佇 ( たたず ) めり。その立てる二三歩の前は直行が遺骨を発 ( おこ ) せし所なり。恨むと見ゆる死顔の月は、肉の片 ( きれ ) の棄てられたるやうに朱 ( あか ) く敷 ( し ) ける満地の瓦を照して、目に入 ( い ) るものは皆伏し、四望の空く寥々 ( りようりよう ) たるに、黒く点せる人の影を、彼は自 ( おのづか ) ら物凄 ( ものすご ) く顧らるるなりき。
立尽せる貫一が胸には、在りし家居の状 ( さま ) の明かに映じて、赭 ( あか ) く光れるお峯が顔も、苦 ( にが ) き口付せる主 ( あるじ ) が面 ( おもて ) も眼に浮びて、歴々 ( まざまざ ) と相対 ( さしむか ) へる心地もするに、姑 ( しばら ) くはその境に己 ( おのれ ) を忘れたりしが、やがて徐 ( しづか ) に仰ぎ、徐に俯 ( ふ ) して、さて徐に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも推拭 ( おしぬぐ ) ひつ。彼は転 ( うた ) た人生の凄涼 ( せいりよう ) を感じて禁ずる能 ( あた ) はざりき。苟 ( いやし ) くもその親める者の半にして離れ乖 ( そむ ) かざるはあらず。見よ或はかの棄てられし恨を遺 ( のこ ) し、或はこの奪はれし悲 ( かなしみ ) に遭 ( あ ) ひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる者は逝 ( ゆ ) き、㷀然 ( けいぜん ) として吾独 ( われひと ) り在り。在るが故に慶 ( よろこ ) ぶべきか、亡 ( な ) きが故に悼 ( いた ) むべきか、在る者は積憂の中に活 ( い ) き、亡き者は非命の下 ( もと ) に殪 ( たふ ) る。抑 ( そもそ ) もこの活 ( かつ ) とこの死とは孰 ( いづれ ) を哀 ( あはれ ) み、孰を悲 ( かなし ) まん。
吾が煩悶 ( はんもん ) の活を見るに、彼等が惨憺 ( さんたん ) の死と相同 ( あひおなじ ) からざるなし、但殊 ( ただこと ) にするところは去ると留るとのみ。彼等の死ありて聊 ( いささ ) か吾が活の苦 ( くるし ) きをも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼等が死の傷 ( いたまし ) きを弔ふに足らんか。吾が腸 ( ちよう ) は断たれ、吾が心は壊 ( やぶ ) れたり、彼等が肉は爛 ( ただ ) れ、彼等が骨は砕けたり。活きて爾苦 ( しかくるし ) める身をも、なほさすがに魂 ( たましひ ) も消 ( け ) ぬべく打駭 ( うちおどろ ) かしつる彼等が死状 ( しにざま ) なるよ。産を失ひ、家を失ひ、猶 ( なほ ) も身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の重罪の者といへども未 ( いま ) だ曾 ( かつ ) て如此 ( かくのごと ) き虐刑の辱 ( はづかしめ ) を受けず、犬畜生の末までも箇様 ( かよう ) の業 ( ごう ) は曝 ( さら ) さざるに、天か、命 ( めい ) か、或 ( ある ) は応報か、然 ( しか ) れども独 ( ひと ) り吾が直行をもて世間に善を作 ( な ) さざる者と為 ( な ) すなかれ。人情は暗中に刃 ( やいば ) を揮 ( ふる ) ひ、世路 ( せいろ ) は到る処に陥穽 ( かんせい ) を設け、陰に陽に悪を行ひ、不善を作 ( な ) さざるはなし。若 ( も ) し吾が直行の行ふところをもて咎 ( とが ) むべしと為さば、誰か有りて咎 ( とが ) められざらん、しかも猶 ( なほ ) 甚 ( はなはだし ) きを為して天も憎まず、命も薄 ( うす ) んぜず、応報もこれを避 ( さく ) るもの有るを見るにあらずや。彼等の惨死 ( さんし ) を辱 ( はづかし ) むるなかれ、適 ( たまた ) ま奇禍を免れ得ざりしのみ。
かく念 ( おも ) へる貫一は生前 ( しようぜん ) の誼深 ( よしみふか ) かりし夫婦の死を歎きて、この永き別 ( わかれ ) を遣方 ( やるかた ) も無く悲み惜むなりき。さて何時 ( いつ ) までかここに在らんと、主の遺骨を出 ( いだ ) せし辺 ( あたり ) を拝し、又妻の屍 ( かばね ) の横 ( よこた ) はりし処を拝して、心佗 ( こころわびし ) く立去らんとしたりしに、彼は怪くも遽 ( にはか ) に胸の内の掻乱 ( かきみだ ) るる心地するとともに、失せし夫婦の弔ふ者もあらで闇路 ( やみぢ ) の奥に打棄てられたるを悲く、あはれ猶 ( なほ ) 少時 ( しばし ) 留らずやと、いと迫 ( せ ) めて乞ひ縋 ( すが ) ると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土に息 ( いこ ) へり。
実 ( げ ) に彼も家の内に居て、遺骸 ( なきがら ) の前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人の傍 ( そば ) にも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらん想 ( おもひ ) して、立てたる杖に重き頭 ( かしら ) を支へて、夫婦が地下に齎 ( もたら ) せし念々を冥捜 ( めいそう ) したり。やがて彼は何の得るところや有りけん、繁 ( しげ ) き涙は滂沱 ( はらはら ) と頬 ( ほほ ) を伝ひて零 ( こぼ ) れぬ。
夜陰に轟 ( とどろ ) く車ありて、一散に飛 ( とば ) し来 ( きた ) りけるが、焼場 ( やけば ) の際 ( きは ) に止 ( とどま ) りて、翩 ( ひらり ) と下立 ( おりた ) ちし人は、直 ( ただ ) ちに鰐淵が跡の前に尋ね行きて歩 ( あゆみ ) を住 ( とど ) めたり。
焼瓦 ( やけがはら ) の踏破 ( ふみしだ ) かるる音に面 ( おもて ) を擡 ( もた ) げたる貫一は、件 ( くだん ) の人影の近く進来 ( すすみく ) るをば、誰ならんと認むる間 ( ひま ) も無く、
「間さんですか」
「おお、貴方 ( あなた ) は! お帰来 ( かへり ) でしたか」
その人は待ちに待たれし直道なり。貫一は忙 ( いそがはし ) く出迎へぬ。向ひて立てる両箇 ( ふたり ) は月明 ( つきあかり ) に面 ( おもて ) を見合ひけるが、各 ( おのおの ) 口吃 ( くちきつ ) して卒 ( にはか ) に言ふ能はざるなりき。
「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」
「はい。この度 ( たび ) は留守中と云ひ、別してお世話になりました」
「私 ( わたくし ) は事の起りました晩は未 ( ま ) だ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつて漸 ( やうや ) く駈着 ( かけつ ) けたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽 ( ろうばい ) される方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多 ( のこりおほ ) い事を致しました」
直道は塞 ( ふさ ) ぎし眼 ( まなこ ) を怠 ( たゆ ) げに開きて、
「何もかも皆焼けましたらうな」
「唯一品 ( ひとしな ) 、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」
「金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか」
「貨 ( かね ) も少しは在りませうが、帳簿、証書の類が主 ( おも ) でございます」
「貸金に関した?」
「さやうで」
「ええ、それが焼きたかつたのに!」
口惜 ( くちを ) しとの色は絶 ( したた ) かその面 ( おもて ) に上 ( のぼ ) れり。貫一は彼が意見の父と相容 ( あひい ) れずして、年来 ( としごろ ) 別居せる内情を詳 ( つまびら ) かに知れば、迫 ( せ ) めてその喜ぶべきをも、却 ( かへ ) つてかく憂 ( うれひ ) と為 ( な ) す故 ( ゆゑ ) を暁 ( さと ) れるなり。
「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは差支無 ( さしつかへな ) いのです。寧 ( むし ) ろ焼いて了はんければ成らんのでしたから、それは結構です。両親の歿 ( なくな ) つたのも、私 ( わたくし ) であれ、貴方であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞ衆 ( みんな ) が喜んでゐるだらうと思ふと、唯親を喪 ( なくな ) したのが情無 ( なさけな ) いばかりではないのですよ」
されども堰 ( せき ) 敢 ( あ ) へず流るるは恩愛の涙なり。彼を憚 ( はばか ) りし父と彼を畏 ( おそ ) れし母とは、決して共に子として彼を慈 ( いつくし ) むを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除きては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛を被 ( かうむ ) りき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、その聴 ( きか ) れざりし恨より、親として事 ( つか ) へざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。
生暖 ( なまあたたか ) き風は急に来 ( きた ) りてその外套 ( がいとう ) の翼を吹捲 ( ふきまく ) りぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無 ( はしな ) く彼は憶起 ( おもひおこ ) して、さばかりは有 ( あり ) のすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙 ( いつし ) を与ふる者ぞ、我は今聘 ( へい ) せられし測量地より帰来 ( かへりきた ) れるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へて杳 ( はるか ) に迢 ( はるか ) に隔つる世の人となりぬ。
炎々たる猛火の裏 ( うち ) に、その父と母とは苦 ( くるし ) み悶 ( もだ ) えて援 ( たすけ ) を呼びけんは幾許 ( いかばかり ) ぞ。彼等は果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽 ( あいえつ ) は渾身 ( こんしん ) をして涙に化し了 ( をは ) らしめんとするなり。
「喜ぶなら世間の奴は喜んだが可いです。貴方 ( あなた ) 一箇 ( ひとり ) のお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日 ( こんにち ) まで御両親をお持ちになつてゐられたのは、私 ( わたくし ) などの身から見ると何よりお可羨 ( うらやまし ) いので、この世の中に親子の情愛ぐらゐ詐 ( いつはり ) の無いものは決して御座いませんな、私は十五の歳 ( とし ) から孤児 ( みなしご ) になりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊 ( みくび ) られます。余り見縊られたのが自棄 ( やけ ) の本 ( もと ) で、遂 ( つひ ) に私も真人間に成損 ( なりそこな ) つて了つたやうな訳で。固 ( もと ) より己 ( おのれ ) の至らん罪ではありますけれど、抑 ( そもそ ) も親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合 ( ふしあはせ ) で、そんな薄命な者もかうして在るのですから、それはもう幾歳 ( いくつ ) になつたから親に別れて可いと謂 ( い ) ふ理窟 ( りくつ ) はありませんけれど、聊 ( いささ ) か慰むるに足ると、まあ、思召 ( おぼしめ ) さなければなりません」
貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き例 ( ためし ) はあらず、彼の物言はずとよりは、この人の悪 ( にく ) み遠 ( とほざ ) けたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始より畜生視して、得べくば撲 ( う ) つて殺さんとも念ずるなりければ、今彼が言 ( ことば ) の端々 ( はしはし ) に人がましき響あるを聞きて、いと異 ( あや ) しと思へり。
「それでは、貴方真人間に成損 ( なりそこな ) つたとお言ひのですな」
「さうでございます」
「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」
「勿論 ( もちろん ) でございます」
直道は俯 ( うつむ ) きて言はざりき。
「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐 ( ふてくさ ) れた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」
彼はなほ俯 ( うつむ ) き、なほ言はずして、頷 ( うなづ ) くのみ。
夜は太 ( いた ) く更 ( ふ ) けにければ、さらでだに音を絶 ( た ) てる寂静 ( しづかさ ) はここに澄徹 ( すみわた ) りて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙 ( ふみにじ ) る靴の下に、瓦の脆 ( もろ ) く割 ( わ ) るるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物は毀 ( こぼた ) れたる中に一箇 ( ひとり ) は立ち、一箇 ( ひとり ) は偃 ( いこ ) ひて、言 ( ことば ) あらぬ姿の佗 ( わび ) しげなるに照すとも無き月影の隠々と映添 ( さしそ ) ひたる、既に彷彿 ( ほうふつ ) として悲 ( かなしみ ) の図を描成 ( ゑがきな ) せり。
かくて暫 ( しばら ) く有りし後、直道は卒然言 ( ことば ) を出 ( いだ ) せり。
「貴方、真人間に成つてくれませんか」
その声音 ( こわね ) の可愁 ( うれはし ) き底には情 ( なさけ ) も籠 ( こも ) れりと聞えぬ。貫一は粗 ( ほぼ ) 彼の意を暁 ( さと ) れり。
「はい、難有 ( ありがた ) うございます」
「どうですか」
「折角のお言 ( ことば ) ではございますが、私 ( わたくし ) はどうぞこのままにお措 ( お ) き下さいまし」
「それは何為 ( なぜ ) ですか」
「今更真人間に復 ( かへ ) る必要も無いのです」
「さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶 ( あいさつ ) をして下さいな」
「いや、お気に障 ( さは ) りましたらお赦 ( ゆる ) し下さいまし。貴方とは従来 ( これまで ) 浸々 ( しみじみ ) お話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々お噂 ( うはさ ) を伺つて、能 ( よ ) く貴方を存じてをります。極潔 ( ごくきよ ) いお方なので、精神的に傷 ( きずつ ) いたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、正 ( ただし ) い、直 ( すぐ ) なお耳へは入 ( い ) らんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、拗 ( ねぢ ) けた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流 ( ききながし ) に願ひます」
「ああ、善く解りました」
「真人間になつてくれんかと有仰 ( おつしや ) つて下すつたのが、私は非常に嬉 ( うれし ) いのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、辛 ( つら ) いのでございます。そんな思をしつつ何為 ( なぜ ) してゐるか! 曰 ( いは ) く言難 ( いひがた ) しで、精神的に酷 ( ひど ) く傷 ( きずつ ) けられた反動と、先 ( ま ) づ思召 ( おぼしめ ) して下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒 ( やけざけ ) でも吃 ( くら ) つて、体 ( からだ ) を毀 ( こは ) して、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒は可 ( い ) かず、腹を切る勇気は無し、究竟 ( つまり ) は意気地の無いところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」
彼の潔 ( きよ ) しと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の微見 ( ほのめか ) したる述懐の為に稍 ( やや ) 動されぬ。
「お話を聞いて見ると、貴方が今日 ( こんにち ) の境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、悉 ( くはし ) く聞 ( きか ) して下さいませんか」
「極愚 ( ぐ ) な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事は他 ( ひと ) には語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟 ( つまり ) 或事に就いて或者に欺かれたのでございます」
「はあ、それではお話はそれで措 ( お ) きませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決して愧 ( は ) づべき事ではない、と謂つて剛情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或時は不如 ( いつそ ) 父の前で死んで見せて、最後の意見を為るより外は無い、と決心したことも有つたのです。父は飽くまで聴かん、私も飽くまで棄てては措 ( お ) かん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたところ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生の遺憾 ( いかん ) で。一時に両親 ( ふたおや ) に別れて、死目にも逢 ( あ ) はず、その臨終と謂へば、気の毒とも何とも謂ひやうの無い……凡 ( およ ) そ人の子としてこれより上の悲 ( かなしみ ) が有らうか、察し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、愈 ( いよい ) よ残念で、早く改心さへしてくれたらば、この災難は免 ( のが ) れたに違無い。いや私はさう信じてゐる。然し、過ぎた事は今更為方が無いから、父の代 ( かはり ) に是非貴方に改心して貰 ( もら ) ひたい。今貴方が改心して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、必ず父の罪も滅びる、私の念も霽 ( は ) れる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送られる。
成程、お話の様子では、こんな家業に身を墜 ( おと ) されたのも、已 ( や ) むを得ざる事情の為とは承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つて、金を貸すのは罷 ( や ) めて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれを資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上の喜 ( よろこび ) は有りません。父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、父に代つて非を悛 ( あらた ) めて下さい」
聴ゐる貫一は露の晨 ( あした ) の草の如く仰ぎ視 ( み ) ず。語り訖 ( をは ) れども猶仰ぎ視ず、如何 ( いか ) にと問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。
忽 ( たちま ) ち一閃 ( いつせん ) の光ありて焼跡を貫く道の畔 ( ほとり ) を照しけるが、その燈 ( ともしび ) の此方 ( こなた ) に向ひて近 ( ちかづ ) くは、巡査の見尤 ( みとが ) めて寄来 ( よりく ) るなり。両箇 ( ふたり ) は一様に睼 ( みむか ) へて、待つとしもなく動かずゐたりければ、その前に到れる角燈の光は隈無 ( くまな ) く彼等を曝 ( さら ) しぬ。巡査は如何 ( いか ) に驚きけんよ、かれもこれも各 ( おのおの ) 惨として蒼 ( あを ) き面 ( おもて ) に涙垂れたり――しかもここは人の泣くべき処なるか、時は正 ( まさ ) に午前二時半。
〈[#改ページ]〉
続金色夜叉
学海居士
紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。
時を銭 ( ぜに ) なりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前 ( いちにんまへ ) の睡量 ( ねぶりだか ) 凡 ( およ ) そ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄 ( おしつま ) りたる歳末の市中は物情恟々 ( きようきよう ) として、世界絶滅の期の終 ( つひ ) に宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさ離 ( き ) るさの気立 ( けたたまし ) く、肩相摩 ( けんあひま ) しては傷 ( きずつ ) き、轂相撃 ( こくあひう ) ちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々 ( こころごころ ) に今を限 ( かぎり ) と慌 ( あわ ) て騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼等は皆過去の十一箇月を虚 ( あだ ) に送りて、一秒の塵 ( ちり ) の積める弐千余円の大金を何処 ( いづく ) にか振落し、後悔の尾 ( しり ) に立ちて今更に血眼 ( ちまなこ ) を瞪 ( みひら ) き、草を分け、瓦を揆 ( おこ ) しても、その行方 ( ゆくへ ) を尋ねんと為るにあらざるなし。かかる間 ( ひま ) にも常は止 ( ただ ) 一毛に値する一秒の壱銭乃至 ( ないし ) 拾銭にも暴騰せる貴々重々 ( ききちようちよう ) の時は、速射砲を連発 ( つるべうち ) にするが如く飛過 ( とびすぐ ) るにぞ、彼等の恐慌は更に意言 ( こころことば ) も及ばざるなる。
その平生 ( へいぜい ) に怠無 ( おこたりな ) かりし天は、又今日に何の変易 ( へんえき ) もあらず、悠々 ( ゆうゆう ) として蒼 ( あを ) く、昭々として闊 ( ひろ ) く、浩々 ( こうこう ) として静に、しかも確然としてその覆 ( おほ ) ふべきを覆ひ、終日 ( ひねもす ) 北の風を下 ( おろ ) し、夕付 ( ゆふづ ) く日の影を耀 ( かがやか ) して、師走 ( しはす ) の塵 ( ちり ) の表 ( おもて ) に高く澄めり。見遍 ( みわた ) せば両行の門飾 ( かどかざり ) は一様に枝葉の末広く寿山 ( じゆざん ) の翠 ( みどり ) を交 ( かは ) し、十町 ( じつちよう ) の軒端 ( のきば ) に続く注連繩 ( しめなは ) は、福海 ( ふくかい ) の霞 ( かすみ ) 揺曳 ( ようえい ) して、繁華を添ふる春待つ景色は、転 ( うた ) た旧 ( ふ ) り行く歳 ( とし ) の魂 ( こん ) を驚 ( おどろ ) かす。
かの人々の弐千余円を失ひて馳違 ( はせちが ) ふ中を、梅提げて通るは誰 ( た ) が子、猟銃担 ( かた ) げ行くは誰が子、妓 ( ぎ ) と車を同 ( おなじ ) うするは誰が子、啣楊枝 ( くはへようじ ) して好き衣 ( きぬ ) 着たるは誰が子、或 ( あるひ ) は二頭立 ( だち ) の馬車を駆 ( か ) る者、結納 ( ゆひのう ) の品々担 ( つら ) する者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋 ( ずずつなぎ ) にして勧工場 ( かんこうば ) に入 ( い ) る者、彼等は各 ( おのおの ) 若干 ( そこばく ) の得たるところ有りて、如此 ( かくのごと ) く自ら足れりと為 ( す ) るにかあらん。これ等の少 ( すこし ) く失へる者は喜び、彼等の多く失へる輩 ( はい ) は憂ひ、又稀 ( まれ ) には全く失はざりし人の楽めるも、皆内には齷齪 ( あくそく ) として、盈 ( み ) てるは虧 ( か ) けじ、虧けるは盈たんと、孰 ( いづれ ) かその求むるところに急ならざるはあらず。人の世は三 ( みつ ) の朝 ( あした ) より花の昼、月の夕 ( ゆふべ ) にもその思 ( おもひ ) の外 ( ほか ) はあらざれど、勇怯 ( ゆうきよう ) は死地に入 ( い ) りて始て明 ( あきらか ) なる年の関を、物の数とも為 ( せ ) ざらんほどを目にも見よとや、空臑 ( からすね ) の酔 ( ゑひ ) を踏み、鉄鞭 ( てつべん ) を曳 ( ひ ) き、一巻のブックを懐 ( ふところ ) にして、嘉平治平 ( かへいじひら ) の袴 ( はかま ) の焼海苔 ( やきのり ) を綴 ( つづ ) れる如きを穿 ( うが ) ち、フラネルの浴衣 ( ゆかた ) の洗ひ曬 ( ざら ) して垢染 ( あかぞめ ) にしたるに、文目 ( あやめ ) も分かぬ木綿縞 ( もめんじま ) の布子 ( ぬのこ ) を襲 ( かさ ) ねて、ジォンソン帽の瓦色 ( かはらいろ ) に化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗 ( しまらしや ) の二重外套 ( にじゆうまわし ) は何 ( いつ ) の冬誰 ( た ) が不用をや譲られけん、尋常 ( なみなみ ) よりは寸の薄 ( つま ) りたるを、身材 ( みのたけ ) の人より豊なるに絡 ( まと ) ひたれば、例の袴は風にや吹断 ( ふきちぎ ) れんと危 ( あやふ ) くも閃 ( ひらめ ) きつつ、その人は齢 ( よはひ ) 三十六七と見えて、形癯 ( かたちや ) せたりとにはあらねど、寒樹の夕空に倚 ( よ ) りて孤なる風情 ( ふぜい ) 、独 ( ひと ) り負ふ気無 ( げな ) く麗 ( うるはし ) くも富める髭髯 ( ひげ ) は、下には乳 ( ち ) の辺 ( あたり ) まで毿々 ( さんさん ) と垂れて、左右に拈 ( ひね ) りたるは八字の蔓 ( つる ) を巻きて耳の根にも迨 ( およ ) びぬ。打見 ( うちみ ) れば面目 ( めんもく ) 爽 ( さはやか ) に、稍傲 ( ややおご ) れる色有れど峻 ( さかし ) くはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺 ( のべ ) を辿 ( たど ) るらんやうに、西筋の横町をこの大路に出 ( い ) で来 ( きた ) らんとす。
「瓢 ( ひよう ) 空 ( むなし ) く夜 ( よ ) は静 ( しづか ) にして高楼に上 ( のぼ ) り、酒を買ひ、簾 ( れん ) を巻き、月を邀 ( むか ) へて酔 ( ゑ ) ひ、酔中 ( すいちゆう ) 剣 ( けん ) を払へば光 ( ひかり ) 月 ( つき ) を射る」
彼は節 ( ふし ) をかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は瑠璃色 ( るりいろ ) に夕栄 ( ゆふば ) えて、俄 ( にはか ) に冴 ( さ ) え勝 ( まさ ) る颰 ( こがらし ) の目口に沁 ( し ) みて磨鍼 ( とぎはり ) を打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘 ( ふといきふ ) いて、右に一歩左に一歩と踽 ( よろめ ) きつつ、
「往々 ( おうおう ) 悲歌 ( ひか ) して独 ( ひと ) り流涕 ( りゆうてい ) す、君山 ( くんざん ) を剗却 ( さんきやく ) して湘水 ( しようすい ) 平に桂樹 ( けいじゆ ) を砍却 ( しやくきやく ) して月更 ( さら ) に明 ( あきらか ) ならんを、丈夫 ( じようふ ) 志有 ( こころざしあ ) りて……」
と唱 ( うた ) ひ出 ( い ) づる時、一隊の近衛騎兵 ( このえきへい ) は南頭 ( みなみがしら ) に馬を疾 ( はや ) めて、真一文字 ( まいちもんじ ) に行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭 ( てつべん ) を植 ( た ) てて、舞立つ砂煙 ( すなけむり ) の中に魁 ( さきがけ ) の花を装 ( よそほ ) へる健児の参差 ( しんさ ) として推行 ( おしゆ ) く後影 ( うしろかげ ) をば、壮 ( さかん ) なる哉 ( かな ) と謂 ( いは ) まほしげに看送 ( みおく ) りて、
「我 ( われ ) 四方 ( しほう ) に遊びて意 ( こころ ) を得ず、陽狂 ( ようきよう ) して薬を施す成都の市 ( し ) 」
と漫 ( そぞろ ) にその詩の首 ( はじめ ) をば小声 ( こごゑ ) 朗 ( ほがらか ) に吟じゐたり。さては往来 ( ゆきき ) の遑 ( いとまな ) き目も皆牽 ( ひか ) れて、この節季の修羅場 ( しゆらば ) を独 ( ひとり ) 天下 ( てんか ) に吃 ( くら ) ひ酔 ( ゑ ) へるは、何者の暢気 ( のんき ) か、自棄 ( やけ ) か、豪傑か、悟 ( さとり ) か、酔生児 ( のんだくれ ) か、と異 ( あやし ) き姿を見て過 ( すぐ ) る有れば、面 ( おもて ) を識らんと窺 ( うかが ) ふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼は太 ( いた ) く酔 ( ゑ ) へれば総 ( すべ ) て知らず、町の殷賑 ( にぎはひ ) を眺 ( なが ) め遣 ( や ) りて、何方 ( いづれ ) を指して行かんとも心定らず姑 ( しばら ) く立てるなりけり。
さばかり人に怪 ( あやし ) まるれど、彼は今日のみこの町に姿を顕 ( あらは ) したるにあらず、折々散歩すらんやうに出来 ( いでく ) ることあれど、箇様 ( かよう ) の酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査も希 ( めづら ) しと思へるなり。
やがて彼は鉄鞭 ( てつべん ) を曳鳴 ( ひきなら ) して大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、乾 ( いぬゐ ) の方 ( かた ) より狭き坂道の開きたる角 ( かど ) に来にける途端 ( とたん ) に、風を帯びて馳下 ( はせくだ ) りたる俥 ( くるま ) は、生憎 ( あいにく ) 其方 ( そなた ) に踽 ( よろめ ) ける酔客 ( すいかく ) の膁 ( よわごし ) の辺 ( あたり ) を一衝撞 ( ひとあてあ ) てたりければ、彼は郤含 ( はずみ ) を打つて二間も彼方 ( そなた ) へ撥飛 ( はねとば ) さるると斉 ( ひとし ) く、大地に横面擦 ( よこづらす ) つて僵 ( たふ ) れたり。不思議にも無難に踏留 ( ふみとどま ) りし車夫は、この麁忽 ( そこつ ) に気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま轅 ( かぢ ) を回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾 ( くろあや ) の吾妻 ( あづま ) コオト着て、素鼠縮緬 ( すねずみちりめん ) の頭巾被 ( づきんかぶ ) れる婦人は樺色無地 ( かばいろむじ ) の絹臘虎 ( きぬらつこ ) の膝掛 ( ひざかけ ) を推除 ( おしの ) けて、駐 ( と ) めよ、返せと悶 ( もだ ) ゆるを、猶 ( なほ ) 聴かで曳々 ( えいえい ) と挽 ( ひ ) き行く後 ( うしろ ) より、
「待て、こら!」と喝 ( かつ ) する声に、行く人の始て事有りと覚 ( さと ) れるも多く、はや車夫の不情を尤 ( とが ) むる語 ( ことば ) も聞ゆるに、耐 ( たま ) りかねたる夫人は強 ( しひ ) て其処 ( そこ ) に下車して返り来 ( きた ) りぬ。
例の物見高き町中なりければ、この忙 ( せはし ) き際 ( きは ) をも忘れて、寄来 ( よりく ) る人数 ( にんず ) は蟻 ( あり ) の甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に踞 ( つくば ) へる周辺 ( めぐり ) を擁し、一面には婦人の左右に傍 ( そ ) ひて、目に物見んと揉立 ( もみた ) てたり。婦人は途 ( みち ) を来つつ被物 ( かぶりもの ) を取りぬ。紋羽二重 ( もんはぶたへ ) の小豆鹿子 ( あづきかのこ ) の手絡 ( てがら ) したる円髷 ( まるわげ ) に、鼈甲脚 ( べつこうあし ) の金七宝 ( きんしつぽう ) の玉の後簪 ( うしろざし ) を斜 ( ななめ ) に、高蒔絵 ( たかまきゑ ) の政子櫛 ( まさこぐし ) を翳 ( かざ ) して、粧 ( よそほひ ) は実 ( げ ) に塵 ( ちり ) をも怯 ( おそ ) れぬべき人の謂 ( い ) ひ知らず思惑 ( おもひまど ) へるを、可痛 ( いたは ) しの嵐 ( あらし ) に堪 ( た ) へぬ花の顔 ( かんばせ ) や、と群集 ( くんじゆ ) は自 ( おのづか ) ら声を歛 ( をさ ) めて肝に徹 ( こた ) ふるなりき。
いと更に面 ( おもて ) の裹 ( つつ ) まほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞 ( はづか ) しさと切なさとは幾許 ( いかばかり ) なりけん、打赧 ( うちあか ) めたる顔は措 ( お ) き所あらぬやうに、人堵 ( ひとがき ) の内を急足 ( いそぎあし ) に辿 ( たど ) りたり。帽子も鉄鞭 ( てつべん ) も、懐 ( ふところ ) にせしブックも、薩摩下駄 ( さつまげた ) の隻 ( かたし ) も投散されたる中に、酔客 ( すいかく ) は半ば身を擡 ( もた ) げて血を流せる右の高頬 ( たかほ ) を平手に掩 ( おほ ) ひつつ寄来 ( よりく ) る婦人を打見遣 ( うちみや ) りつ。彼はその前に先 ( ま ) づ懦 ( わるび ) れず会釈して、
「どうも取んだ麁相 ( そそう ) を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打 ( ぶ ) ちましたか、まあどうも……」
「いや太 ( たい ) した事は無いのです」
「さやうでございますか。何処 ( どこ ) ぞお痛め遊ばしましたでございませう」
腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣 ( きづか ) へるなり。
車夫は数次 ( あまたたび ) 腰 ( こし ) を屈 ( かが ) めて主人の後方 ( うしろ ) より進出 ( すすみい ) でけるが、
「どうも、旦那 ( だんな ) 、誠に申訳もございません、どうか、まあ平 ( ひら ) に御勘弁を願ひます」
眼 ( まなこ ) を其方 ( そなた ) に転じたる酔客は恚 ( いか ) れるとしもなけれど声粛 ( こゑおごそか ) に、
「貴様は善くないぞ。麁相 ( そそう ) を為たと思うたら何為 ( なぜ ) 車を駐 ( と ) めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻 ( かか ) する」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
俥 ( くるま ) の主の身を下 ( くだ ) して辞 ( ことば ) を添ふれば、彼も打頷 ( うちうなづ ) きて、
「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜 ( よろこび ) に引易 ( ひきか ) へて、見物の飽気無 ( あつけな ) さは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、余 ( あまり ) に落着の蛇尾 ( だび ) 振はざるを悔みて、はや忙々 ( いそがはし ) き踵 ( きびす ) を回 ( かへ ) すも多かりけれど、又見栄 ( みばえ ) あるこの場の模様に名残 ( なごり ) を惜みつつ去り敢 ( あ ) へぬもありけり。
車夫は起ち悩める酔客を扶 ( たす ) けて、履物 ( はきもの ) を拾ひ、鞭 ( むち ) を拾ひて宛行 ( あてが ) へば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇 ( ねんごろ ) に外套 ( がいとう ) 、袴 ( はかま ) の泥を払はしめぬ。免 ( ゆる ) されし罪は消えぬべきも、歴々 ( まざまざ ) と挫傷 ( すりきず ) のその面 ( おもて ) に残れるを見れば、疚 ( やまし ) きに堪へぬ心は、なほ為 ( な ) すべき事あるを吝 ( をし ) みて私 ( わたくし ) せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷 ( いたま ) しと眺 ( なが ) めたりしに、その眼色 ( まなざし ) は漸 ( やうや ) く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚 ( まも ) りつつ便無 ( びんな ) げに佇 ( たたず ) みけるに、いでや長居は無益 ( むやく ) とばかり、彼は蹌踉 ( よろよろ ) と踏出 ( ふみいだ ) せり。
婦人はとにもかくにも遣過 ( やりすご ) せしが、又何とか思直 ( おもひなほ ) しけん、遽 ( にはか ) に追行きて呼止めたり。頭 ( かしら ) を捻向 ( ねぢむ ) けたる酔客は眊 ( くも ) れる眼 ( まなこ ) を屹 ( き ) と見据ゑて、自 ( われ ) か他 ( ひと ) かと訝 ( いぶか ) しさに言 ( ことば ) も出 ( いだ ) さず。
「もしお人違 ( ひとちがひ ) でございましたら御免あそばしまして。貴方 ( あなた ) は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身を回 ( かへ ) して、丁 ( ちよう ) と立てたる鉄鞭に仗 ( よ ) り、こは是 ( これ ) 白日の夢か、空華 ( くうげ ) の形か、正体見んと為れど、酔眼の空 ( むなし ) く張るのみにて、益 ( ますま ) す霽 ( は ) れざるは疑 ( うたがひ ) なり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、私 ( わたくし ) 荒尾です」
「あの間 ( はざま ) 貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
「私 ( わたくし ) は鴫沢 ( しぎさわ ) の宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰 ( おつしや ) る……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
奇遇に驚かされたる彼の酔 ( ゑひ ) は頓 ( とみ ) に半 ( なかば ) は消えて、せめて昔の俤 ( おもかげ ) を認むるや、とその人を打眺 ( うちなが ) むるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
宮は懽 ( よろこ ) び勇みて犇 ( ひし ) と寄りぬ。
今は美 ( うつくし ) き俥 ( くるま ) の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合 ( なのりあ ) へるかれとこれとの思は如何 ( いかに ) 。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜 ( いとし ) かりし人にあらずや。その日の彼等は又同胞 ( はらから ) にも得べからざる親 ( したしみ ) を以 ( も ) て、膝 ( ひざ ) をも交 ( まじ ) へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算 ( かぞ ) へざりしなり。よしさりとも、一 ( ひと ) たび同胞 ( はらから ) と睦合 ( むつみあ ) へりし身の、弊衣 ( へいい ) を飄 ( ひるがへ ) して道に酔 ( ゑ ) ひ、流車を駆りて富に驕 ( おご ) れる高下 ( こうげ ) の差別 ( しやべつ ) の自 ( おのづか ) ら種 ( しゆ ) 有りて作 ( な ) せるに似たる如此 ( かくのごと ) きを、彼等は更に更に夢 ( ゆめみ ) ざりしなり。その算 ( かぞ ) へざりし奇遇と夢 ( ゆめみ ) ざりし差別 ( しやべつ ) とは、咄々 ( とつとつ ) 、相携へて二人の身上 ( しんじよう ) に逼 ( せま ) れるなり。女気 ( をんなぎ ) の脆 ( もろ ) き涙ははや宮の目に湿 ( うるほ ) ひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
「貴方 ( あなた ) も変りましたな!」
さしも見えざりし面 ( おもて ) の傷の可恐 ( おそろし ) きまでに益 ( ますま ) す血を出 ( いだ ) すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭 ( ぬぐ ) はしめつつ、心も心ならず様子を窺 ( うかが ) ひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
彼は何やらん吩咐 ( いひつ ) けて車夫を遣りぬ。
「直 ( ぢき ) この近くに懇意の医者が居りますから、其処 ( そこ ) までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、お殆 ( あぶな ) うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出 ( いで ) あそばしまし」
「いんや、宜 ( よろし ) い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
宮は胸先 ( むなさき ) を刃 ( やいば ) の透 ( とほ ) るやうに覚 ( おぼ ) ゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやない筈 ( はず ) です」
生きたる心地もせずして宮の慙 ( は ) ぢ慄 ( をのの ) ける傍 ( かたはら ) に、車夫は見苦 ( みぐるし ) からぬ一台の辻車 ( つじぐるま ) を伴ひ来 ( きた ) れり。漸 ( やうや ) く面 ( おもて ) を挙 ( あぐ ) れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立 ( ひとたち ) を、可忌 ( いまはし ) くも巡査の怪みて近 ( ちかづ ) くなり。
鬚深 ( ひげふか ) き横面 ( よこづら ) に貼薬 ( はりくすり ) したる荒尾譲介 ( あらおじようすけ ) は既に蒼 ( あを ) く酔醒 ( ゑひさ ) めて、煌々 ( こうこう ) たる空気ラムプの前に襞襀 ( ひだ ) もあらぬ袴 ( はかま ) の膝 ( ひざ ) を丈六 ( じようろく ) に組みて、接待莨 ( せつたいたばこ ) の葉巻を燻 ( くゆ ) しつつ意気粛 ( おごそか ) に、打萎 ( うちしを ) れたる宮と熊の敷皮を斜 ( ななめ ) に差向ひたり。こはこれ、彼の識 ( し ) れると謂 ( い ) ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒 ( いとぐち ) を解きしなるべし。
「間 ( はざま ) が影を隠す時、僕に遺 ( のこ ) した手紙が有る、それで悉 ( くはし ) い様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫 ( ふる ) へて腹が立つた。直 ( すぐ ) に貴方 ( あなた ) に会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒 ( い ) ゆるほど打踣 ( うちのめ ) して、一生結婚の成らんやう立派な不具 ( かたは ) にしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間が言 ( ことば ) を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言 ( ことば ) を容 ( い ) れやう道理が無い。又間を嫌 ( きら ) うた以上は、貴方は富山への売物じや。他 ( ひと ) の売物に疵 ( きず ) を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯 ( たて ) も耐 ( たま ) らん胸を挲 ( さす ) つて了 ( しま ) うたんです」
宮が顔を推当 ( おしあ ) てたる片袖 ( かたそで ) の端 ( はし ) より、連 ( しきり ) に眉 ( まゆ ) の顰 ( ひそ ) むが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間 ( はざま ) さへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を怨 ( うら ) むばかりでは慊 ( あきた ) らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生 ( しちしよう ) まで怨む、きつと怨む!」
終 ( つひ ) に宮が得堪 ( えた ) へぬ泣音 ( なくね ) は洩 ( も ) れぬ。
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子 ( いつぷじよし ) に棄てられたが為に志を挫 ( くじ ) いて、命を抛 ( なげう ) つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何 ( いか ) に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故 ( ゆゑ ) に、彼が今日 ( こんにち ) の有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操 ( みさを ) を破つたのみでない。併 ( あは ) せて夫を刺殺 ( さしころ ) したも……」
宮は慄然 ( りつぜん ) として振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥 ( まなじり ) は貫一が怨 ( うらみ ) も憑 ( うつ ) りたりやと、その見る前に身の措所無 ( おきどころな ) く打竦 ( うちすく ) みたり。
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟 ( かいご ) されたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日 ( こんにち ) に及んでの悔悟は業 ( すで ) に晩 ( おそ ) い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆 ( くつがへ ) つた。盆は破れて了 ( しま ) うたんじや。かう成つた上は最早 ( もはや ) 神の力も逮 ( およ ) ぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作 ( な ) せる罪の報 ( むくい ) で、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」
宮は俯 ( うつむ ) きてよよと泣くのみ。
吁 ( ああ ) 、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、争 ( いか ) で争で吾が罪を容 ( ゆる ) すべき。吁 ( ああ ) 、吾が罪は終 ( つひ ) に容 ( ゆる ) されず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。
宮は胸潰 ( むねつぶ ) れて、涙の中に人心地 ( ひとここち ) をも失はんとすなり。
おのれ、利を見て愛無かりし匹婦 ( ひつぷ ) 、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情 ( じよう ) は動くなりき。宮は際無 ( はてしな ) く顔を得挙 ( えあ ) げずゐたり。
「然し、好う悔悟を作 ( なす ) つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因 ( よ ) つて自ら容されたんじや」
由無 ( よしな ) き慰藉 ( なぐさめ ) は聞かじとやうに宮は俯 ( ふ ) しながら頭 ( かしら ) を掉 ( ふ ) りて更に泣入りぬ。
「自 ( みづから ) にても容されたのは、誰 ( たれ ) にも容されんのには勝 ( まさ ) つてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂 ( い ) ふもの。僕は未 ( ま ) だ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日 ( こんにち ) の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間 ( はざま ) の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰 ( いづれ ) が多く憐 ( あはれ ) むべきであるかと謂へば、間の無念は抑 ( そもそも ) どんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。
かうして今日 ( こんにち ) 図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、忝 ( かたじけな ) いと思うた事も幾度 ( いくたび ) か知れん、その媛友 ( レディフレンド ) に何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐 ( なつかし ) う思ひました」
宮は泣音 ( なくね ) の迸 ( ほとばし ) らんとするを咬緊 ( くひし ) めて、濡浸 ( ぬれひた ) れる袖 ( そで ) に犇々 ( ひしひし ) と面 ( おもて ) を擦付 ( すりつ ) けたり。
「けれど又、円髷 ( まるわげ ) に結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決 ( け ) して可愛 ( かはゆ ) うはなかつた。幸ひ貴方が話したい事が有ると言 ( いは ) るる、善し、あの様に間を詐 ( いつは ) つた貴方じや、又僕を幾何 ( どれ ) ほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは打踣 ( うちのめ ) してくれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕は陰 ( ひそか ) に喜んで聴いたのです。今日 ( こんにち ) の貴方はやはり僕の友 ( フレンド ) の宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さも無かつたら、貴方の顔にこの十倍の疵 ( きず ) を附けにや還 ( かへ ) さんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。
で、間に取成してくれい、詑 ( わび ) を言うてくれい、とのお嘱 ( たのみ ) ぢやけれど、それは僕は為 ( せ ) ん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。
かうして親友の敵 ( かたき ) に逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭 ( いや ) な言 ( こと ) ばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好 ( ごきげんよ ) う、これでお暇 ( いとま ) します」
会釈して荒尾の身を起さんとする時、
「暫 ( しばら ) く、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙 ( ふりあ ) げて、重き瞼 ( まぶた ) の露を払へり。
「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為 ( なす ) つては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私 ( わたくし ) を容 ( ゆる ) さんと有仰 ( おつしや ) るので御座いますか」
「さうです」
忙 ( せは ) しげに荒尾は片膝 ( かたひざ ) 立ててゐたり。
「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今 ( ただいま ) 直 ( ぢき ) に御飯が参りますですから」
「や、飯 ( めし ) なら欲うありませんよ」
「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」
「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」
「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍 ( かんにん ) なすつて下さいまし」
火鉢 ( ひばち ) の縁 ( ふち ) に片手を翳 ( かざ ) して、何をか打案ずる様 ( さま ) なる目を翥 ( そら ) しつつ荒尾は答へず。
「荒尾さん、それでは、とてもお聴入 ( ききいれ ) はあるまいと私は諦 ( あきら ) めましたから、貫一 ( かんいつ ) さんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
咄嗟 ( とつさ ) に荒尾の視線は転じて、猶語続 ( かたりつづく ) る宮が面 ( おもて ) を掠 ( かす ) め去 ( さ ) りぬ。
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何 ( いか ) にも悪かつた事を思ふ存分謝 ( あやま ) りたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素 ( もと ) より容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」
宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可 ( よ ) いので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽 ( たちま ) ちその長き髯 ( ひげ ) を振りて頷 ( うなづ ) けり。
「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言 ( いは ) れた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継 ( ただつぐ ) と云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ」
「私はかまひません!」
「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。
して見りや、始には富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方 ( あなた ) は富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効は没 ( なくな ) つて了ふ」
「そんな事はかまひません!」
無慙 ( むざん ) に唇 ( くちびる ) を咬 ( か ) みて、宮は抑へ難くも激せるなり。
「かまはんぢや可かん」
「いいえ、かまひません!」
「そりや可かん!」
「私 ( わたくし ) はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾 ( とう ) から棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如 ( いつそ ) さうして死んで了ひたいので御座います」
「それそれさう云ふ無考 ( むかんがへ ) な、訳の解らん人に僕は与 ( くみ ) することは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡 ( りようけん ) ぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓 ( ふらち ) です! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕は寧 ( むし ) ろ富山を不憫 ( ふびん ) に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍 ( あはれ ) まんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈 ( いよい ) よ憎むべきは貴方じや」
四途乱 ( しどろ ) に湿 ( うるほ ) へる宮の目は焚 ( も ) ゆらんやうに耀 ( かがや ) けり。
「さう有仰 ( おつしや ) つたら、私はどうして悔悟したら宜 ( よろし ) いので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召 ( おぼしめ ) してお誨 ( をし ) へなすつて下さいまし」
「僕には誨へられんで、貴方がまあ能 ( よ ) う考へて御覧なさい」
「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。それが為に始終悒々 ( ぶらぶら ) と全 ( まる ) で疾 ( わづら ) つてをるやうな気分で、噫 ( ああ ) もうこんななら、いつそ死んで了 ( しま ) はう、と熟 ( つくづ ) くさうは思ひながら、唯 ( たつた ) もう一目、一目で可うございますから貫一 ( かんいつ ) さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」
「まあ能う考へて御覧なさい」
「荒尾さん、貴方それでは余 ( あんま ) りでございますわ」
独 ( ひとり ) に余る心細さに、宮は男の袂 ( たもと ) を執りて泣きぬ。理切 ( ことわりせ ) めて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞 ( むねふさが ) れて、実 ( げ ) にもと覚ゆる宮が衰容 ( やつれすがた ) に眼 ( まなこ ) を凝 ( こら ) しゐたり。
「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召して頼 ( たのみ ) に成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お誨 ( をし ) へなすつて下さいまし」
涙に昏 ( く ) れてその語 ( ことば ) は能くも聞えず、階子下 ( はしごした ) の物音は膳運 ( ぜんはこ ) び出 ( い ) づるなるべし。
果して人の入来 ( いりき ) て、夕餉 ( ゆふげ ) の設 ( まうけ ) すとて少時 ( しばし ) 紛 ( まぎら ) されし後、二人は謂 ( い ) ふべからざる佗 ( わびし ) き無言の中に相対 ( あひたい ) するのみなりしを、荒尾は始て高く咳 ( しはぶ ) きつ。
「貴方の言るる事は能 ( よ ) う解つてをる、決して無理とは思はんです。如何 ( いか ) にも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量 ( かんがへ ) に止 ( とどま ) るので……いや、いや、そりや言 ( いは ) れん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、况 ( いはん ) や誨ふべき事ではない、止 ( た ) だ僕一箇の了簡として肚 ( はら ) の中に思うたまでの事、究竟 ( つまり ) 荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、然し猶能 ( なほよ ) う考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出 ( みいだ ) したら、更にお目に掛つて申上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の居住 ( すまひ ) ? 居住は、まあ言はん方が可い、蜑 ( あま ) が子 ( こ ) なれば宿も定めずじや。言うても差支 ( さしつかへ ) は無いけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何 ( いか ) にも、こんな態 ( なり ) をしてをるので、貴方は吃驚 ( びつくり ) なすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次に。
酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は希 ( まれ ) です。忝 ( かたじけな ) い、折角の御忠告ぢやから今後は宜 ( よろし ) い、気を着くるです。
力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。
間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗 ( すこぶ ) る有るのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日 ( あす ) 訪ねてくれい? さうは可 ( い ) かん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。ああ、貴方も浮世 ( うきよ ) が可厭 ( いや ) か、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日 ( こんにち ) の有様では生効 ( いきがひ ) の無い方じやけれど、このままで空 ( むなし ) く死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論勝 ( まし ) ですさ。何故 ( なにゆゑ ) 命が惜いのか、考へて見ると頗 ( すこぶ ) る解 ( わから ) なくなる」
語りつつ彼は食を了 ( をは ) りぬ。
「嗚呼 ( ああ ) 、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」
宮は差含 ( さしぐ ) む涙を啜 ( すす ) れり。尽きせぬ悲 ( かなしみ ) を何時までか見んとやうに荒尾は俄 ( にはか ) に身支度して、
「こりや然し却 ( かへ ) つてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇 ( いとま ) 」
「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」
はや彼は起てるなり。宮はその前に塞 ( ふさが ) りて立ちながら泣きぬ。
「私はどうしたら可いのでせう」
「覚悟一つです」
始て誨 ( をし ) ふるが如く言放ちて荒尾の排 ( かきの ) け行かんとするを、彼は猶も縋 ( すが ) りて、
「覚悟とは?」
「読んで字の如し」
驚破 ( すはや ) 、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣 ( や ) らぬ宮が姿は、寂 ( さびし ) くも壁に向ひて動かざりけり。
門々 ( かどかど ) の松は除かれて七八日 ( ななやうか ) も過ぎぬれど、なほ正月機嫌 ( きげん ) の失せぬ富山唯継は、今日も明日 ( あす ) もと行処 ( ゆきどころ ) を求めては、夜を晷 ( ひ ) に継ぎて打廻 ( うちめぐ ) るなりけり。宮は毫 ( いささ ) かもこれも咎 ( とが ) めず、出づるも入 ( い ) るも唯彼の為 ( な ) すに任せて、あだかも旅館の主 ( あるじ ) の為 ( す ) らんやうに、形 ( かた ) ばかりの送迎を怠らざると謂 ( い ) ふのみ。
この夫に対する仕向 ( しむけ ) は両三年来の平生 ( へいぜい ) を貫きて、彼の性質とも病身の故 ( ゆゑ ) とも許さるるまでに目慣 ( めなら ) されて又彼方 ( あなた ) よりも咎められざるなり。それと共に唯継の行 ( おこなひ ) も曩日 ( さきのひ ) とは漸 ( やうや ) く変りて、出遊 ( であそび ) に耽 ( ふけ ) らんとする傾 ( かたむき ) も出 ( い ) で来 ( き ) しを、浅瀬 ( あさせ ) の浪 ( なみ ) と見 ( み ) し間 ( ま ) も無く近き頃より俄 ( にはか ) に深陥 ( ふかはまり ) して浮 ( うか ) るると知れたるを、宮は猶 ( なほ ) しも措 ( お ) きて咎めず。他 ( ひと ) は如何 ( いか ) にとも為 ( せ ) よ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易 ( こころやす ) さを偸 ( ぬす ) みて、異 ( あやし ) き女夫 ( めをと ) の契を繋 ( つな ) ぐにぞありける。
かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂 ( うき ) に瘁 ( やつ ) れたる宮は決して美 ( うつくし ) き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧 ( か ) くべきにあらざりき。抑 ( そもそ ) もここに嫁 ( とつ ) ぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては啻 ( ただ ) に愛無きに止 ( とどま ) らずして、陰 ( ひそか ) に厭 ( いと ) ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂 ( うさ ) を霽 ( はら ) すに忙 ( いそがはし ) きにあらずや。されども彼の忘れず塒 ( ねぐら ) に帰り来 ( きた ) るは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了 ( みをは ) れば、何ばかりの楽 ( たのしみ ) のあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉 ( ストオブ ) の傍 ( かたはら ) に処 ( をら ) しむるなり。彼の凍えて出 ( い ) でざること無し。出 ( い ) づれば幸ひにその金力に頼 ( よ ) りて勢を得、媚 ( こび ) を買ひて、一時の慾を肆 ( ほしいま ) まにし、其処 ( そこ ) には楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空 ( むなし ) き色香 ( いろか ) に溺 ( おぼ ) れて、内にはかかる美きものを手活 ( ていけ ) の花と眺 ( なが ) め、外には到るところに当世の翮 ( はぶし ) を鳴して推廻 ( おしまは ) すが、此上無 ( こよな ) う紳士の願足れりと心得たるなり。
いで、その妻は見るも厭 ( いとはし ) き夫の傍 ( そば ) に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁 ( しげ ) き外出 ( そとで ) を見赦 ( みゆる ) して、十度 ( とたび ) に一度 ( ひとたび ) も色を作 ( な ) さざるを風引 ( かぜひ ) かぬやうに召しませ猪牙 ( ちよき ) とやらの難有 ( ありがた ) き賢女の志とも戴 ( いただ ) き喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑 ( なほざり ) ならず念 ( おも ) ひにけり。さるは独 ( ひと ) り夫のみならず、本家の両親を始 ( はじめ ) 親属知辺 ( しるべ ) に至るまで一般に彼の病身を憫 ( あはれ ) みて、おとなしき嫁よと賞 ( ほ ) め揚 ( そや ) さぬはあらず。実 ( げ ) に彼は某 ( なにがし ) の妻のやうに出行 ( である ) かず、くれがしの夫人 ( マダム ) のやうに気儘 ( きまま ) ならず、又は誰々 ( たれだれ ) の如く華美 ( はで ) を好まず、強請事 ( ねだりごと ) せず、しかもそれ等の人々より才も容 ( かたち ) も立勝 ( たちまさ ) りて在りながら、常に内に居て夫に事 ( つか ) ふるより外 ( ほか ) を為 ( せ ) ざるが、最怜 ( いとを ) しと見ゆるなるべし。宮が裹 ( つつ ) める秘密は知る者もあらず、躬 ( みづから ) も絶えて異 ( あやし ) まるべき穂を露 ( あらは ) さざりければ、その夫に事 ( つか ) へて捗々 ( はかばか ) しからぬ偽 ( いつはり ) も偽とは為られず、却 ( かへ ) りて人に憫 ( あはれ ) まるるなんど、その身には量無 ( はかりな ) き幸 ( さいはひ ) を享 ( う ) くる心の内に、独 ( ひと ) り遣方無 ( やるかたな ) く苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日 ( きのふ ) を夢み、今日を嘆 ( かこ ) ちつつ、過 ( すぐ ) せば過さるる月日を累 ( かさ ) ねて、ここに二十 ( はたち ) あまり五 ( いつつ ) の春を迎へぬ。この春の齎 ( もたら ) せしものは痛悔と失望と憂悶 ( ゆうもん ) と、別に空 ( むなし ) くその身を老 ( おい ) しむる齢 ( よはひ ) なるのみ。彼は釈 ( ゆるさ ) れざる囚 ( とらはれ ) にも同 ( おなじ ) かる思を悩みて、元日の明 ( あく ) るよりいとど懊悩 ( おうのう ) の遣る方無かりけるも、年の始といふに臥 ( ふ ) すべき病 ( やまひ ) ならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧 ( よそほひ ) も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶 ( なほ ) 甚 ( はなはだし ) き浅ましさをその人の陰 ( かげ ) に陽 ( ひなた ) に恨み悲むめり。
宮は今外出せんとする夫の寒凌 ( さむさしの ) ぎに葡萄酒 ( ぶどうしゆ ) 飲む間 ( ま ) を暫 ( しばら ) く長火鉢 ( ながひばち ) の前に冊 ( かしづ ) くなり。木振賤 ( きぶりいやし ) からぬ二鉢 ( ふたはち ) の梅の影を帯びて南縁の障子に上 ( のぼ ) り尽せる日脚 ( ひざし ) は、袋棚 ( ふくろだな ) に据ゑたる福寿草 ( ふくじゆそう ) の五六輪咲揃 ( さきそろ ) へる葩 ( はなびら ) に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩 ( ひるまばゆ ) き新調の三枚襲 ( さんまいがさね ) を着飾りてその最も珍 ( ちん ) と為る里昂 ( リヨン ) 製の白の透織 ( すかしおり ) の絹領巻 ( きぬえりまき ) を右手 ( めて ) に引摳 ( ひきつくろ ) ひ、左に宮の酌を受けながら、
「あ、拙 ( まづ ) い手付 ( てつき ) ……ああ零 ( こぼ ) れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所 ( よそ ) で飲む気にもなりますと謂 ( い ) つて可い位のものだ」
「ですから多度上 ( たんとあが ) つていらつしやいまし」
「宜 ( よろし ) いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「何時頃お帰来 ( かへり ) になります」
「遅いよ」
「でも大約 ( おほよそ ) 時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
「それぢや十時には皆 ( みんな ) 寝みますから」
「遅いよ」
又言ふも煩 ( わづらはし ) くて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
「おい、些 ( ちよつ ) と」
「…………」
「おや。お前慍 ( おこ ) つたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
彼は続け様に宮の袖 ( そで ) を曳けば、
「何を作 ( なさ ) るのよ」
「返事を為んからさ」
「お遅 ( おそ ) いのは解りましたよ」
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌 ( きげん ) を直すべし」
「お遅いなら、お遅いで宜 ( よろし ) うございますから……」
「遅くはないと言ふに、お前は近来直 ( ぢき ) に慍るよ、どう云ふのかね」
「一つは病気の所為 ( せゐ ) かも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
「私 ( わたくし ) 沢山」
「ぢや俺が半分助 ( す ) けて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
「まあさう言はんで、少し、注 ( つ ) ぐ真似 ( まね ) 」
「欲くもないものを、貴方は」
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅 ( あんばい ) に、愛子流かね」
妓 ( ぎ ) の名を聞ける宮の如何 ( いか ) に言ふらん、と唯継は陰 ( ひそか ) に楽み待つなる流眄 ( ながしめ ) を彼の面 ( おもて ) に送れるなり。
宮は知らず貌 ( がほ ) に一口の酒を喞 ( ふく ) みて、眉 ( まゆ ) を顰 ( ひそ ) めたるのみ。
「もう飲めんのか。ぢや此方 ( こつち ) にお寄来 ( よこ ) し」
「失礼ですけれど」
「この上へもう一盃注 ( いつぱいつ ) いで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」
「さうでございますか」
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習 ( おほざらひ ) が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川 ( いとがわ ) の処へ集つて下温習 ( したざらひ ) を為るのさ。俺は、それお特得 ( はこ ) の、「親々 ( おやおや ) に誘 ( いざな ) はれ、難波 ( なにわ ) の浦 ( うら ) を船出 ( ふなで ) して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待 ( かぜまち ) にテチンチンツン……」
厭 ( いとは ) しげに宮の余所見 ( よそみ ) せるに、乗地 ( のりぢ ) の唯継は愈 ( いよい ) よ声を作りて、
「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐 ( あらし ) に吹分 ( ふきわ ) けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父 ( ちち ) イイイイ母 ( はは ) のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定 ( つまさだめ ) ……」
「貴方もう好加減 ( いいかげん ) になさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる操 ( みさを ) を破ら……」
「又寛 ( ゆつく ) り伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、些 ( ちよつ ) と聞けるだらう」
「私には解りませんです」
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰 ( もら ) はうか」
「解らなくても宜うございます」
「何、宜いものか、浄瑠璃 ( じようるり ) の解らんやうな頭脳 ( あたま ) ぢや為方 ( しかた ) が無い。お前は一体冷淡な頭脳 ( あたま ) を有 ( も ) つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」
「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
「些 ( ちつと ) も解らんよ」
「まあ可 ( よ ) うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
「私は何時 ( いつ ) でも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
漸 ( やうや ) く唯継の立起 ( たちあが ) れば、宮は外套 ( がいとう ) を着せ掛けて、不取敢 ( とりあへず ) 彼に握手を求めぬ。こは決 ( け ) して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故 ( ゆゑ ) は、この女夫 ( めをと ) の出入 ( しゆつにゆう ) に握手するは、夫の始より命じて習せし躾 ( しつけ ) なるをや。
夫を玄関に送り出 ( い ) でし宮は、やがて氷の窖 ( あなぐら ) などに入 ( い ) るらん想 ( おもひ ) しつつ、是非無き歩 ( あゆみ ) を運びて居間に還 ( かへ ) りぬ。彼はその夫と偕 ( とも ) に在るを謂 ( い ) はんやう無き累 ( わづらひ ) と為 ( す ) なれど、又その独 ( ひとり ) を守りてこの家に処 ( おか ) るるをも堪 ( た ) へ難く悒 ( いぶせ ) きものに思へるなり。必 ( かならず ) しも力 ( つと ) むるとにはあらねど、夫の前には自 ( おのづか ) ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣 ( ほしいま ) まなる身一箇 ( みひとつ ) となれば、遽 ( にはか ) に慵 ( ものう ) く打労 ( うちつか ) れて、心は整へん術 ( すべ ) も知らず紊 ( みだ ) れに乱るるが常なり。
火鉢 ( ひばち ) に倚 ( よ ) りて宮は、我を喪 ( うしな ) へる体 ( てい ) なりしが、如何 ( いか ) に思入 ( おもひい ) り、思回 ( おもひまは ) し思窮 ( おもひつ ) むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終 ( つひ ) に明けぬ闇 ( やみ ) に彷徨 ( さまよ ) へる可悲 ( かな ) しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出 ( い ) でたり。
麗 ( うるはし ) く冱 ( さ ) えたる空は遠く三四 ( みつよつ ) の凧 ( いか ) の影を転じて、見遍 ( みわた ) す庭の名残 ( なごり ) 無く冬枯 ( ふゆか ) れたれば、浅露 ( あからさま ) なる日の光の眩 ( まばゆ ) きのみにて、啼狂 ( なきくる ) ひし梢 ( こずゑ ) の鵯 ( ひよ ) の去りし後は、隔てる隣より戞々 ( かつかつ ) と羽子 ( はね ) 突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値 ( あたひ ) あらぬを、彼はされども少時 ( しばし ) 居て、又空を眺 ( なが ) め、又冬枯 ( ふゆがれ ) を見遣 ( みや ) り、同 ( おなじ ) き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑 ( おさ ) へんとはしたりけれども抑へ難さの竟 ( つひ ) に苦く、再び居間に入 ( い ) ると見れば、其処 ( そこ ) にも留らで書斎の次なる寝間 ( ねま ) に入 ( い ) るより、身を抛 ( なげう ) ちてベットに伏したり。
厚き蓐 ( しとね ) の積れる雪と真白き上に、乱畳 ( みだれたた ) める幾重 ( いくへ ) の衣 ( きぬ ) の彩 ( いろどり ) を争ひつつ、妖 ( あで ) なる姿を意 ( こころ ) も介 ( お ) かず横 ( よこた ) はれるを、窓の日の帷 ( カアテン ) を透 ( とほ ) して隠々 ( ほのぼの ) 照したる、実 ( げ ) に匂 ( にほひ ) も零 ( こぼ ) るるやうにして彼は浪 ( なみ ) に漂ひし人の今打揚 ( うちあ ) げられたるも現 ( うつつ ) ならず、ほとほと力竭 ( ちからつ ) きて絶入 ( たえい ) らんとするが如く、止 ( た ) だ手枕 ( てまくら ) に横顔を支へて、力無き眼 ( まなこ ) を瞪 ( みは ) れり。竟 ( つひ ) には溜息 ( ためいき ) 呴 ( つ ) きてその目を閉づれば、片寝に倦 ( う ) める面 ( おもて ) を内向 ( うちむ ) けて、裾 ( すそ ) の寒さを佗 ( わび ) しげに身動 ( みうごき ) したりしが、猶 ( なほ ) も底止無 ( そこひな ) き思の淵 ( ふち ) は彼を沈めて逭 ( のが ) さざるなり。
隅棚 ( すみだな ) の枕時計は突 ( はた ) と秒刻 ( チクタク ) を忘れぬ。益 ( ますま ) す静に、益す明かなる閨 ( ねや ) の内には、空 ( むな ) しとも空 ( むなし ) き時の移るともなく移るのみなりしが、忽 ( たちま ) ち差入る鳥影の軒端 ( のきば ) に近く、俯 ( ふ ) したる宮が肩頭 ( かたさき ) に打連 ( うちつらな ) りて飜 ( ひらめ ) きつ。
やや有りて彼は嬾 ( しどな ) くベットの上に起直りけるが、鬢 ( びん ) の縺 ( ほつ ) れし頭 ( かしら ) を傾 ( かたぶ ) けて、帷 ( カアテン ) の隙 ( ひま ) より僅 ( わづか ) に眺めらるる庭の面 ( おも ) に見るとしもなき目を遣りて、当所無 ( あてどな ) く心の彷徨 ( さまよ ) ふ蹤 ( あと ) を追ふなりき。
久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直 ( ぢき ) に箪笥 ( たんす ) の中より友禅縮緬 ( ゆうぜんちりめん ) の帯揚 ( おびあげ ) を取出 ( とりいだ ) し、心に籠 ( こ ) めたりし一通の文 ( ふみ ) とも見ゆるものを抜きて、こたびは主 ( あるじ ) の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺 ( のこ ) せし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈 ( たけ ) を窃 ( ひそか ) に書聯 ( かきつら ) ねたるものなりかし。
往年 ( さいつとし ) 宮は田鶴見 ( たずみ ) の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方 ( かた ) もあらぬ切なさに、唯心寛 ( ただこころゆかし ) の仮初 ( かりそめ ) に援 ( と ) りける筆ながら、なかなか口には打出 ( うちいだ ) し難き事を最好 ( いとよ ) く書きて陳 ( つづ ) けも為 ( せ ) しを、あはれかのひとの許 ( もと ) に送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意 ( こころ ) をも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨 ( うら ) める怒 ( いかり ) の余に投返されて、人目に曝 ( さら ) さるる事などあらば、徒 ( いたづら ) に身を滅 ( ほろぼ ) す疵 ( きず ) を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危 ( あやふ ) く、捨つるは惜くも、やがて好き首尾の有らんやうに拠無 ( よりどころな ) き頼を繋 ( か ) けつつ、彼は懊悩 ( おうのう ) に堪へざる毎に取出でては写し易 ( か ) ふる傍 ( かたは ) ら、或 ( ある ) は書添へ、或は改めなどして、この文に向へば自 ( おのづか ) らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽 ( いひつく ) して心残 ( こころのこり ) のあらざる如く、止 ( ただ ) これに因 ( よ ) りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古 ( ほご ) となりて、彼の帯揚に籠 ( こ ) められては、いつまで草の可哀 ( あはれ ) や用らるる果も知らず、宮が手習は実 ( げ ) に久 ( ひさし ) うなりぬ。
些箇 ( かごと ) に慰められて過せる身の荒尾に邂逅 ( めぐりあ ) ひし嬉しさは、何に似たりと謂 ( い ) はんも愚 ( おろか ) にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂 ( と ) げんと頼みしを、仇 ( あだ ) の如く与 ( くみ ) せられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱 ( かきみだ ) れて、今は漸 ( やうや ) く危きを懼 ( おそ ) れざる覚悟も出 ( い ) で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。
紙の良きを択 ( えら ) び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意 ( こころ ) してその字の良きを殊 ( こと ) に択びて、今日の今ぞ始めて仮初 ( かりそめ ) ならず写さんと為 ( す ) なる。打顫 ( うちふる ) ふ手に十行余 ( あまり ) 認 ( したた ) めしを、つと裂きて火鉢に差爇 ( さしく ) べければ、焔 ( ほのほ ) の急に炎々と騰 ( のぼ ) るを、可踈 ( うとま ) しと眺めたる折しも、紙門 ( ふすま ) を啓 ( あ ) けてその光に惧 ( おび ) えし婢 ( をんな ) は、覚えず主 ( あるじ ) の気色 ( けしき ) を異 ( あやし ) みつつ、
「あの、御本家の奥様がお出 ( い ) で遊ばしました」
主 ( あるじ ) 夫婦を併 ( あは ) せて焼亡 ( しようぼう ) せし鰐淵 ( わにぶち ) が居宅は、さるほど貫一の手に頼 ( よ ) りてその跡に改築せられぬ、有形 ( ありがた ) よりは小体 ( こてい ) に、質素を旨としたれど専 ( もつぱ ) ら旧 ( さき ) の構造を摸 ( うつ ) して差 ( たが ) はざらんと勉 ( つと ) めしに似たり。
間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の主 ( あるじ ) になれるなり。家督たるべき直道は如何 ( いか ) にせし。彼は始よりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと冀 ( こひねがひ ) しを、貫一は今この家の主 ( ぬし ) となれるに、なほ先代の志を飜 ( ひるがへ ) さずして、益 ( ますま ) す盛 ( さかん ) に例の貪 ( むさぼり ) を営むなりき。然 ( しか ) れば彼と貫一との今日 ( こんにち ) の関繋 ( かんけい ) は如何 ( いか ) なるものならん。絶えてこれを知る者あらず。凡 ( およ ) そ人生箇々 ( ここ ) の裏面には必ず如此 ( かくのごと ) き内情若 ( もし ) くは秘密とも謂ふべき者ありながら、幸 ( さいはひ ) に他の穿鑿 ( せんさく ) を免れて、瞹眛 ( あいまい ) の裏 ( うち ) に葬られ畢 ( をは ) んぬる例 ( ためし ) 尠 ( すくな ) からず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた貫一と彼との外に洩 ( も ) れざるを得たり。
かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善く貸し、善く歛 ( をさ ) むれども、内には事足る老婢 ( ろうひ ) を役 ( つか ) ひて、僅 ( わづか ) に自炊ならざる男世帯 ( をとこせたい ) を張りて、なほも奢 ( おご ) らず、楽まず、心は昔日 ( きのふ ) の手代にして、趣は失意の書生の如く依然たる変物 ( へんぶつ ) の名を失はでゐたり。
出 ( い ) でてはさすがに労 ( つか ) れて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、吾家 ( わがいへ ) ながら人気無き居間の内を、旅の木蔭にも休 ( やすら ) へる想しつつ、稍 ( やや ) 興冷めて坐りも遣 ( や ) らず、物の悲き夕 ( ゆふべ ) を特 ( こと ) に独 ( ひとり ) の感じゐれば、老婢はラムプを持ち来 ( きた ) りて、
「今日 ( こんにち ) 三時頃でございました、お客様が見えまして、明日 ( みようにち ) 又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰 ( おつしや ) つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰 ( おつしや ) つてお帰りになりました」
「学校の友達?」
臆測 ( おしあて ) にも知る能 ( あた ) はざるはこの藪 ( やぶ ) から棒の主 ( ぬし ) なり。
「どんな風の人かね」
「さやうでございますよ、年紀 ( としごろ ) 四十ばかりの蒙茸 ( むしやくしや ) と髭髯 ( ひげ ) の生 ( は ) えた、身材 ( せい ) の高い、剛 ( こは ) い顔の、全 ( まる ) で壮士みたやうな風体 ( ふうてい ) をしてお在 ( いで ) でした」
「…………」
些 ( さ ) の憶起 ( おもひおこ ) す節 ( ふし ) もありや、と貫一は打案じつつも半 ( なかば ) は怪むに過ぎざりき。
「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」
「明日 ( あした ) 三時頃に又来ると?」
「さやうでございますよ」
「誰 ( たれ ) か知らんな」
「何だか誠に風の悪さうな人体 ( にんてい ) で御座いましたが、明日 ( みようんち ) 参りましたら通しませうで御座いますか」
「ぢや用向は言つては行かんのだね」
「さやうでございますよ」
「宜 ( よろし ) い、会つて見やう」
「さやうでございますか」
起ち行かんとせし老婢は又居直りて、
「それから何でございました、間もなく赤樫 ( あかがし ) さんがいらつしやいまして」
貫一は懌 ( よろこ ) ばざる色を作 ( な ) してこれに応 ( こた ) へたり。
「神戸の蒲鉾 ( かまぼこ ) を三枚、見事なのでございます。それに藤村 ( ふじむら ) の蒸羊羹 ( むしようかん ) を下さいまして、私 ( わたくし ) まで毎度又頂戴物 ( ちようだいもの ) を致しましたので御座います」
彼は益す不快を禁じ得ざる面色 ( おももち ) して、応答 ( うけこたへ ) も為 ( せ ) で聴きゐたり。
「さうして明日 ( みようんち ) 、五時頃些 ( ちよい ) とお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれと有仰 ( おつしや ) つてで御座いました」
可 ( よ ) しとも彼は口には出 ( いだ ) さで、寧 ( むし ) ろ止 ( や ) めよとやうに忙 ( せはし ) く頷 ( うなづ ) けり。
学校友達と名宣 ( なの ) りし客はその言 ( ことば ) の如く重ねて訪 ( と ) ひ来 ( き ) ぬ。不思議の対面に駭 ( おどろ ) き惑へる貫一は、迅雷 ( じんらい ) の耳を掩 ( おほ ) ふに遑 ( いとま ) あらざらんやうに劇 ( はげし ) く吾を失ひて、頓 ( とみ ) にはその惘然 ( ぼうぜん ) たるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の温 ( あたたま ) る間 ( ひま ) の手弄 ( てまさぐり ) に放ちも遣 ( や ) らぬ下髯 ( したひげ ) の、長く忘れたりし友の今を如何 ( いか ) にと観 ( み ) るに忙 ( いそがし ) かり。
「殆 ( ほとん ) ど一昔と謂うても可 ( よ ) い程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先に聞きたいのは、君は今日 ( こんにち ) でも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうかと謂ふのじや」
答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。
「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是 ( イエス ) か否 ( ノウ ) かの一つじや」
「そりや昔は親友であつた」
彼は覚束無 ( おぼつかな ) げに言出 ( いひいだ ) せり。
「さう」
「今はさうぢやあるまい」
「何為 ( なぜ ) にな」
「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい」
「なに五六年前 ( ぜん ) も一向親友ではありやせんぢやつたではないか」
貫一は目を側 ( そば ) めて彼を訝 ( いぶか ) りつ。
「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何等の相談も為 ( せ ) んのみか、それなり失踪 ( しつそう ) して了うたのは何処 ( どこ ) が親友なのか」
その常に慙 ( は ) ぢかつ悔 ( くゆ ) る一事を責められては、癒 ( い ) えざる痍 ( きず ) をも割 ( さか ) るる心地して、彼は苦しげに容 ( かたち ) を歛 ( をさ ) め、声をも出 ( いだ ) さでゐたり。
「君の情人 ( いろ ) は君に負 ( そむ ) いたぢやらうが、君の友 ( フレンド ) は決 ( け ) して君に負かん筈 ( はず ) ぢや。その友 ( フレンド ) を何為 ( なぜ ) に君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ねて来たのは、未 ( ま ) だ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」
学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾‼ 尾羽 ( をは ) 打枯 ( うちから ) せる今の荒尾の姿は変りたれど、猶 ( なほ ) 一片の変らぬ物ありと知れる貫一は、夢とも消えて、去りし、去りし昔の跡無き跡を悲しと偲 ( しの ) ぶなりけり。
「然し、僕が棄てても棄てんでも、そんな事に君は痛痒 ( つうよう ) を感ずるぢやなからうけれど、僕は僕で、友 ( フレンド ) の徳義としてとにかく一旦は棄てんで訪ねて来た。で、断然棄つるも、又棄てんのも、唯今日 ( こんにち ) にある意 ( つもり ) じや。
今では荒尾を親友とは謂へん、と君の言うたところを以つて見ると、又今更親友であることを君は望んではをらんやうじや。さうであるならば僕の方でも敢 ( あへ ) て望まん、立派に名宣 ( なの ) つて僕も間貫一を棄つる!」
貫一は頭 ( かしら ) を低 ( た ) れて敢て言はず。
「然し、今日 ( こんにち ) まで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の別 ( わかれ ) になるのぢやから、その餞行 ( はなむけ ) として一言 ( いちごん ) 云はんけりやならん。
間、君は何の為に貨 ( かね ) を殖 ( こしら ) ゆるのぢや。かの大いなる楽 ( たのしみ ) とする者を奪れた為に、それに易 ( か ) へる者として金銭 ( マネエ ) といふ考を起したのか。それも可からう、可いとして措 ( お ) く。けれどもじや、それを獲 ( え ) る為に不義不正の事を働く必要が有るか。君も現在他 ( ひと ) から苦められてゐる躯 ( からだ ) ではないのか。さうなれば己 ( おのれ ) が又他 ( ひと ) を苦むるのは尤 ( もつと ) も用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが他 ( ひと ) を苦むると謂うても、難儀に附入 ( つけい ) つて、さうしてその血を搾 ( しぼ ) るのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を殖 ( こしら ) えつつ、君はそれで今日 ( こんにち ) 慰められてをるのか。如何 ( いか ) に金銭 ( マネエ ) が総 ( すべ ) ての力であるか知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではないのじや。それとも、君は怡然 ( いぜん ) として楽んでをるか。長閑 ( のどか ) な日に花の盛 ( さかり ) を眺むるやうな気持で催促に行つたり、差押 ( さしおさへ ) を為たりしてをるか。どうかい、間」
彼は愈 ( いよい ) よ口を閉ぢたり。
「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でも有りはせんのぢやらう。君の顔色 ( がんしよく ) を見い! 全 ( まる ) で罪人じやぞ。獄中に居る者の面 ( つら ) じや」
別人と見るまでに彼の浅ましく瘁 ( やつ ) れたる面 ( おもて ) を矚 ( まも ) りて、譲介は涙の落つるを覚えず。
「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。幾多 ( いくら ) 貨 ( かね ) を殖 ( こしら ) へたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病が有るからと謂うて毒を飲んで、その病が痊 ( なほ ) るぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやうなものじやぞ。僕の友 ( フレンド ) であつた間はそんな痴漢 ( たはけ ) ぢやなかつた、して見りや発狂したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居 ( しを ) る奴は尤 ( とが ) むるに足らんけれど、一婦人 ( いつぷじん ) の為に発狂したその根性を、彼の友 ( フレンド ) として僕が慙 ( は ) ぢざるを得んのじや。間、君は盗人 ( ぬすと ) と言れたぞ。罪人と言 ( いは ) れたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい! 腹を立てて僕を打つとも蹴 ( け ) るとも為て見い!」
彼は自ら言 ( いは ) ひ、自ら憤り、尚 ( なほ ) 自ら打ちも蹴 ( けり ) も為 ( せ ) んずる色を作 ( な ) して速々 ( そくそく ) 答を貫一に逼 ( せま ) れり。
「腹は立たん!」
「腹は立たん? それぢや君は自身に盗人 ( ぬすと ) とも、罪人とも……」
「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目 ( めんぼく ) 無いけれど、既に発狂して了 ( しま ) つたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、このまま棄置いてくれ給へ」
貫一は纔 ( わづか ) にかく言ひて已 ( や ) みぬ。
「さうか。それぢや君は不正な金銭 ( マネエ ) で慰められてをるのか」
「未だ慰められてはをらん」
「何日 ( いつ ) 慰めらるるのか」
「解らん」
「さうして君は妻君を娶 ( もら ) うたか」
「娶はん」
「何故 ( なぜ ) 娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」
「さうでもないさ」
「君は今では彼の事をどう思うてをるな」
「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」
「然し、君も今日 ( こんにち ) では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心が無けりや畜生じや」
「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」
「僕も畜生かな」
「…………」
「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若 ( も ) し彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷 ( や ) めにやならんじやな」
「彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪 ( むさぼ ) る畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐 ( いつは ) つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始から高利と名宣 ( なの ) つて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得 ( う ) るものか」
「何為 ( なぜ ) 成り得 ( え ) んのか」
「何為 ( なぜ ) 成り得 ( え ) るのか」
「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」
「望むも望まんも、あんな者に用は無い!」
寧 ( むし ) ろその面 ( めん ) に唾 ( つば ) せんとも思へる貫一の気色 ( けしき ) なり。
「そりや彼には用は無いぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すのぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」
貫一は吾を忘れて嗤笑 ( あざわら ) ひぬ。彼はその如何 ( いか ) に賤 ( いやし ) むべきか、謂はんやうもあらぬを念 ( おも ) ひて、更に嗤笑 ( あざわら ) ひ猶嗤笑ひ、遏 ( や ) めんとして又嗤笑ひぬ。
「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやらうと思ふ」
「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与 ( あづか ) る事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、それも可からう」
「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟してをるのじや。さうして僕に詑 ( わび ) を為てくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と縋 ( すが ) つて頼むのじやな、けれど僕も思ふところが有るから拒絶はした。又君に対しても、彼がその様に悔悟してゐるから容 ( ゆる ) して遣れと勧めは為 ( せ ) ん、それは別問題じや。但 ( ただ ) 僕として君に言ふところは、彼は悔悟して独 ( ひと ) り苦んでをる。即 ( すなは ) ち彼は自ら罰せられてをるのぢやから、君は君として怨 ( うらみ ) を釈 ( と ) いて可からうと思ふ。君がその怨を釈いたなら、昔の間に復 ( かへ ) るべきぢやらうと考へるのじや。
君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日 ( いつ ) 慰めらるるとも解らんと言うたな、然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大いに慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た金銭 ( マネエ ) 、それは幾多 ( いくら ) か知らんけれど、その寡 ( すくな ) からん金銭 ( マネエ ) よりは、彼が終 ( つひ ) に悔悟したと聞いた一言 ( いちごん ) の方が、遙 ( はるか ) に大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」
「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の今日 ( こんにち ) はそれに因 ( よ ) つて少 ( すこし ) も慰められるところは無いのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に讐 ( あだ ) を復 ( かへ ) す価は無いさ。
今日 ( こんにち ) になつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは固 ( もと ) よりさう有るべき事なのだ。始にあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事は無かつたらうに――不心得であつた、非常な不心得であつた!」
彼は黯然 ( あんぜん ) として空 ( むなし ) く懐 ( おも ) へるなり。
「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可 ( よ ) いのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨 ( かね ) を殖 ( こしら ) へてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭 ( マネエ ) の力に頼 ( よ ) つて慰められやうとしてゐる、に就いては異議も有るけれど、それは君の考に委 ( まか ) する。貨 ( かね ) を殖 ( こしら ) ゆるも可い、可いとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪 ( むさぼ ) つて聚 ( あつ ) むるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用 ( もちゐ ) んでも、富む道は幾多 ( いくら ) も有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止 ( た ) だ手段を改めよじや。路 ( みち ) は違へても同じ高嶺 ( たかね ) の月を見るのじやが」
「辱 ( かたじけ ) ないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切 ( いつせつ ) かまひ付けずに措いてくれ給へ」
「さうか。どうあつても僕の言 ( ことば ) は用 ( もちゐ ) られんのじやな」
「容 ( ゆる ) してくれ給へ」
「何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんも有るものか」
「今日限 ( こんにちかぎり ) 互に棄てて別れるに就いては、僕も一箇 ( ひとつ ) 聞きたい事が有る。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね」
「見たら解るぢやらう」
「見たばかりで解るものか」
「貧乏してをるのよ」
「それは解つてゐるぢやないか」
「それだけじや」
「それだけの事が有るものか。何で官途を罷 ( や ) めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子が有りさうぢやないか」
「話したところで狂人 ( きちがひ ) には解らんのよ」
荒尾は空嘯 ( そらうそぶ ) きて起たんと為 ( す ) なり。
「解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ」
「それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。No ( ノオ ) thank ( サンク ) じや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然 ( いぜん ) として楽んでをるのじや」
「それだから猶 ( なほ ) 、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」
荒尾は故 ( ことさ ) らに哈々 ( こうこう ) として笑へり。
「貴様如き無血虫 ( むけつちゆう ) がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな」
「さうまで辱 ( はづかし ) められても辞 ( ことば ) を返すことの出来ん程、僕の躯 ( からだ ) は腐つて了つたのだ」
「固よりじや」
「かう腐つて了つた僕の躯 ( からだ ) は今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器 ( うつは ) であることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰 ( ひそか ) にそれを祷 ( いの ) つてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐 ( おも ) ふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日 ( こんにち ) まで君の外には一人 ( いちにん ) の友 ( フレンド ) も無いのだ。一昨年 ( をととし ) であつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐 ( なつかし ) くもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振で君に逢つて慶賀 ( よろこび ) も言ひたいと念 ( おも ) つたけれど、どうも逢れん僕の躯 ( からだ ) だから、切 ( せめ ) て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場 ( ステエション ) へ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」
さてはと荒尾も心陰 ( こころひそか ) に頷 ( うなづ ) きぬ。
「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、今日 ( こんにち ) 君のそんなに零落してゐるのを見る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべきではないけれど、僕はもう己 ( おのれ ) を棄ててゐるのだ。一婦女子 ( いつぷじよし ) の詐如 ( いつはりごと ) きに憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て匡正 ( きようせい ) することの出来んと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりは無いので、僕は生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つたのだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或者が君の身を愛 ( をし ) んで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話してくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて壮 ( さかん ) なる働 ( はたらき ) を作 ( な ) して欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられるやうな君でない事を僕は信ずるのだから、一箇人 ( いつこじん ) として己の為に身を愛 ( をし ) みたまへと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」
貫一の面 ( おもて ) は病などの忽 ( たちま ) ち癒 ( い ) えけんやうに輝きつつ、如此 ( かくのごと ) く潔くも麗 ( うるはし ) き辞 ( ことば ) を語れるなり。
「うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄 ( らくはく ) してをるのを見て気毒 ( きのどく ) と思ふのか」
「君が謂ふほどの畜生でもない!」
「其処 ( そこ ) じや、間。世間に貴様のやうな高利貸が在る為に、あつぱれ用 ( もちゐ ) らるべき人才の多くがじや、名を傷 ( きずつ ) け、身を誤られて、社会の外 ( ほか ) に放逐されて空 ( むなし ) く朽つるのじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは忝 ( かたじけ ) ないが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷 ( や ) めてくれい、と僕は又頼むのじや。今日 ( こんにち ) の人才を滅 ( ほろぼ ) す者は、曰 ( いは ) く色、曰く高利貸ぢやらう。この通り零落 ( おちぶ ) れてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に艱 ( なやま ) されてをる人才の多くを一層不敏 ( ふびん ) と思うて遣れ。
君が愛 ( ラヴ ) に失敗して苦むのもじや、或人が金銭 ( マネエ ) の為に苦むのも、苦むと云ふ点に於ては差異 ( かはり ) は無いぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな友 ( フレンド ) が有つたらばと思はん事は無い。その友 ( フレンド ) が僕の身を念 ( おも ) うてくれて、社会へ打つて出て壮 ( さかん ) に働け、一臂 ( いつぴ ) の力を仮さうと言うのであつたら、僕は如何 ( いか ) に嬉からう! 世間に最も喜ぶべき者は友 ( フレンド ) 、最も悪 ( にく ) むべき者は高利貸ぢや。如何 ( いか ) に高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は益 ( ますま ) す友 ( フレンド ) を懐 ( おも ) ふのじや。その昔の友 ( フレンド ) が今日 ( こんにち ) の高利貸――その悪むべき高利貸! 吾又何をか言はんじや」
彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。
「段々の君の忠告、僕は難有 ( ありがた ) い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯 ( からだ ) が元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念 ( おも ) つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処 ( どこ ) に今居るかね」
「まあ、高利貸などは来て貰 ( もら ) はん方が可い」
「その日は友 ( フレンド ) として訪ねるのだ」
「高利貸に友 ( フレンド ) は持たんものな」
雍 ( しとや ) かに紙門 ( ふすま ) を押啓 ( おしひら ) きて出来 ( いできた ) れるを、誰 ( たれ ) かと見れば満枝なり。彼如何 ( いか ) なれば不躾 ( ぶしつけ ) にもこの席には顕 ( あらは ) れけん、と打駭 ( うちおどろ ) ける主 ( あるじ ) よりも、荒尾が心の中こそ更に匹 ( たぐ ) ふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は窘 ( くるし ) みてその長き髯 ( ひげ ) をば痛 ( したたか ) に拈 ( ひね ) りつ。されど狼狽 ( うろた ) へたりと見られんは口惜 ( くちを ) しとやうに、遽 ( にはか ) にその手を胸高 ( むなたか ) に拱 ( こまぬ ) きて、動かざること山の如しと打控 ( うちひか ) へたる様 ( さま ) も、自 ( おのづか ) らわざとらしくて、また見好 ( みよ ) げにはあらざりき。
満枝は先 ( ま ) づ主 ( あるじ ) に挨拶 ( あいさつ ) して、さて荒尾に向ひては一際 ( ひときは ) 礼を重く、しかも躬 ( みづから ) は手の動き、目の視 ( み ) るまで、専 ( もつぱ ) ら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑 ( ゑ ) むともあらず面 ( おもて ) を和 ( やはら ) げて姑 ( しばら ) く辞 ( ことば ) を出 ( いだ ) さず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪 ( た ) へずして、
「これは不思議な所で! 成程間とは御懇意かな」
「君はどうして此方 ( こちら ) を識 ( し ) つてゐるのだ」
左瞻右視 ( とみかうみ ) して貫一は呆 ( あき ) るるのみなり。
「そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」
「荒尾さん」
満枝は逭 ( のが ) さじと呼留めて、
「かう云ふ処で申上げますのも如何 ( いかが ) で御座いますけれど」
「ああ、そりや此 ( ここ ) で聞くべき事ぢやない」
「けれど毎 ( いつ ) も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから」
「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁 ( に ) げも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ」
「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜 ( よろし ) いやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」
「うう、随分酷 ( ひど ) い事を察しさせられるのじやね」
「近日に是非私 ( わたくし ) お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」
「そりや一向宜くないかも知れん」
「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬 ( き ) つて了 ( しま ) ふとか云ふ事が御座いましたさうで」
「有つた」
「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」
満枝は彼に耻 ( は ) ぢよとばかり嗤笑 ( あざわら ) ひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、
「本当とも! 実際那奴 ( あやつ ) 砍却 ( たたきき ) つて了はうと思うた」
「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」
「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」
「まあ、怖 ( こは ) い事ぢや御座いませんか。私 ( わたくし ) なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね」
そは誰 ( た ) が事を言ふならんとやうに、荒尾は頂 ( うなじ ) を反 ( そら ) して噪 ( ののめ ) き笑ひぬ。
「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭 ( ふ ) いて置かう」
「荒尾君、夕飯 ( ゆふめし ) の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」
「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」
「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」
満枝は荒尾の立てる脚下 ( あしもと ) に褥 ( しとね ) を推付 ( おしつ ) けて、実 ( げ ) に還さじと主 ( あるじ ) にも劣らず最惜 ( いとをし ) む様なり。
「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」
「そのお意 ( つもり ) で、どうぞお席にゐらしつて」
固 ( もと ) より留 ( とどま ) らざるべき荒尾は終 ( つひ ) に行かんとしつつ、
「間、貴様は……」
「…………」
「…………」
彼は唇 ( くちびる ) の寒かるべきを思ひて、空 ( むなし ) く鬱抑 ( うつよく ) して帰り去れり。その言はざりし語 ( ことば ) は直 ( ただち ) に貫一が胸に響きて、彼は人の去 ( い ) にける迹 ( あと ) も、なほ聴くに苦 ( くるし ) き面 ( おもて ) を得挙 ( えあ ) げざりけり。
程も有らずラムプは点 ( とも ) されて、止 ( た ) だ在りけるままに竦 ( すく ) みゐたる彼の傍 ( かたはら ) に置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧 ( よそほひ ) をも加へけんやうに怪 ( け ) しからず妖艶 ( あでやか ) に、宛然 ( さながら ) 色香 ( いろか ) を擅 ( ほしいまま ) にせる牡丹 ( ぼたん ) の枝を咲撓 ( さきたわ ) めたる風情 ( ふぜい ) にて、彼は親しげに座を進めつ。
「間 ( はざま ) さん、貴方 ( あなた ) どうあそばして、非常にお鬱 ( ふさ ) ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」
貫一は怠 ( たゆ ) くも纔 ( わづか ) に目を移して、
「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」
「私よりは、貴方があの方の御朋友 ( ごほうゆう ) でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」
「貴方はどうして御存じなのです」
「まあ債務者のやうな者なので御座います」
「債務者? 荒尾が? 貴方の?」
「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」
「はあ、さうして額 ( たか ) は若干 ( どれほど ) なのですか」
「三千円ばかりでございますの」
「三千円? それでその直接の貸主 ( かしぬし ) と謂 ( い ) ふのは何処 ( どこ ) の誰ですか」
満枝は彼の遽 ( にはか ) に捩向 ( ねぢむ ) きて膝 ( ひざ ) の前 ( すす ) むをさへ覚えざらんとするを見て、歪 ( ゆが ) むる口角 ( くちもと ) に笑 ( ゑみ ) を忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生 ( へいぜい ) 私がお話でも致すと、全 ( まる ) で取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
「些 ( ちよつ ) とも可い事はございません」
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」
「それは何為 ( なぜ ) ですか」
「何為でも宜 ( よろし ) う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召 ( おぼしめ ) すなら、私に債権を棄てて了へと有仰 ( おつしや ) つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
「甚 ( はなは ) だ解らんぢやありませんか」
「勿論 ( もちろん ) 解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら些 ( ちよつ ) ともお解りにならないのですから、私も益 ( ますま ) す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
満枝は金煙管 ( きんぎせる ) に手炉 ( てあぶり ) の縁 ( ふち ) を丁 ( ちよう ) と拍 ( う ) ちて、男の顔に流眄 ( ながしめ ) の怨 ( うらみ ) を注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
満枝は遽 ( にはか ) に煙管 ( きせる ) を索 ( もと ) めて、さて傍 ( かたはら ) に人無き若 ( ごと ) く緩 ( ゆるやか ) に煙 ( けふり ) を吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆 ( ほとん ) ど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
唯 ( と ) 見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々 ( ぐづぐづ ) してをりましたら、さぞ貴方憤 ( じれ ) つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決 ( け ) して好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在 ( いで ) なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
「蓋 ( たし ) か御承知でゐらつしやいましたらう。前 ( ぜん ) に宅に居りました向坂 ( さぎさか ) と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些 ( ちよつ ) と盛 ( さかん ) に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在 ( いで ) なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟 ( つまり ) あの方もその件から諭旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方 ( あちら ) を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然 ( すつかり ) 此方 ( こちら ) へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止 ( とん ) と遊んでお在 ( いで ) も同様で、飜訳 ( ほんやく ) か何か少 ( すこし ) ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」
「大館朔郎 ( おおだちさくろう ) と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚 ( あとばら ) だとか云ふ話でございました」
「うむ、如何 ( いか ) にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
はやその言 ( ことば ) の中 ( うち ) に彼の心は急に傷 ( いた ) みぬ。己 ( おのれ ) の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々 ( せきせき ) たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲 ( なげう ) ち、恩の為に富貴を顧ざりし故 ( ゆゑ ) にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優 ( まさ ) れり。君子なる吾友 ( わがとも ) よ。さしも潔き志を抱 ( いだ ) ける者にして、その酬らるる薄倖 ( はつこう ) の彼の如く甚 ( はなはだし ) く酷なるを念ひて、貫一は漫 ( そぞ ) ろ涙の沸く目を閉ぢたり。
遽 ( にはか ) に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所 ( ほんじよ ) 発を期して車を飛せしに、咄嗟 ( あなや ) 、一歩の時を遅れて、二時間後 ( のち ) の次回を待つべき倒懸 ( とうけん ) の難に遭 ( あ ) へるなり。彼は悄々 ( すごすご ) 停車場前の休憇処に入 ( い ) りて奥の一間なる縞毛布 ( しまケット ) の上に温茶 ( ぬるちや ) を啜 ( すす ) りたりしが、門 ( かど ) を出づる折受取りし三通の郵書の鞄 ( かばん ) に打込みしままなるを、この時取出 ( とりいだ ) せば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。
「ええ、又寄来 ( よこ ) した!」
彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読壳 ( よみがら ) と一つに投入れし鞄を磤 ( はた ) と閉づるや、枕に引寄せて仰臥 ( あふぎふ ) すと見れば、はや目を塞 ( ふさ ) ぎて睡 ( ねむり ) を促さんと為るなりき。されども、彼は能 ( よ ) く睡 ( ねぶ ) るを得べきか。さすがにその人の筆の蹟 ( あと ) を見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念 ( おもひ ) には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。
いで、この文こそは宮が送りし再度の愬 ( うつたへ ) にて、その始て貫一を驚かせし一札 ( いつさつ ) は、約 ( およ ) そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩 ( さき ) に荒尾に答へしと同様の意を以 ( も ) てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言 ( くりごと ) なるべきを、何の未練有りて、徒 ( いたづら ) に目を汚 ( けが ) し、懐 ( おもひ ) を傷 ( きずつ ) けんやと、気強くも右より左に掻遣 ( かきや ) りけるなり。
宮は如何 ( いか ) に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖 ( さ ) き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲 ( う ) るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直 ( ただち ) に貫一の心を解かんとは思設けざりき。
故 ( ゆゑ ) に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験 ( しるし ) あらずば、彼は弥増 ( いやま ) す悲 ( かなしみ ) の中に定めて三度 ( みたび ) の筆を援 ( と ) るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを――三度 ( みたび ) 、五度 ( いつたび ) 、七度 ( ななたび ) 重ね重ねて十 ( と ) 百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意 ( こころ ) を決せるを。
静に臥 ( ふ ) したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出 ( いだ ) し、焠児 ( マッチ ) を捜 ( さぐ ) りて、封のままなるその端 ( はし ) に火を移しつつ、火鉢 ( ひばち ) の上に差翳 ( さしかざ ) せり。一片の焔 ( ほのほ ) は烈々 ( れつれつ ) として、白く颺 ( あが ) るものは宮の思の何か、黒く壊落 ( くづれお ) つるものは宮が心の何か、彼は幾年 ( いくとせ ) の悲 ( かなしみ ) と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟 ( けふり ) と消えて跡無くなりぬ。
貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥 ( あふぎふ ) せり。
間 ( しばし ) 有りて婢 ( をんな ) どもの口々に呼邀 ( よびむか ) ふる声して、入来 ( いりき ) し客の、障子越 ( ごし ) なる隣室に案内されたる気勢 ( けはひ ) に、貫一はその男女 ( なんによ ) の二人連 ( づれ ) なるを知れり。
彼等は若き人のやうにもあらず頗 ( すこぶ ) る沈寂 ( しめやか ) に座に着きたり。
「まだ沢山時間が有るから寛 ( ゆつく ) り出来る。さあ、鈴 ( すう ) さん、お茶をお上んなさい」
こは男の声なり。
「貴方 ( あなた ) 本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
「盆過 ( ぼんすぎ ) には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父 ( をぢ ) さんや尊母 ( をば ) さんの気が変つて了つてお在 ( いで ) なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦 ( ただあきら ) めるのだ。私 ( わたし ) は男らしく諦めた!」
「雅 ( まさ ) さんは男だからさうでせうけれど、私 ( わたし ) は諦 ( あきら ) めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父 ( おとつ ) さんや阿母 ( おつか ) さんの為方 ( しかた ) を慍 ( おこ ) つてお在 ( いで ) なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処 ( どこ ) へも適 ( い ) きはしませんから」
女は処々 ( ところどころ ) 聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許 ( いくら ) 私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰 ( たれ ) を怨 ( うら ) む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯 ( からだ ) に疵 ( きず ) の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤 ( もつとも ) だと、それは私は自分ながら思つてゐる」
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰 ( もら ) つて下されば可いのぢやありませんか」
「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔 ( くやし ) いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※ ( わな ) 〈[#「(箆-竹-比)/民」、338-17]〉 に罹 ( かか ) つたばかりで、自分の躯には生涯の疵 ( きず ) を付け、隻 ( ひとり ) の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚 ( いひなづけ ) は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如 ( いつそ ) 私は牢 ( ろう ) の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
両箇 ( ふたり ) は一度に哭 ( な ) き出 ( いだ ) せり。
「阿母さんがあん畜生 ( ちきしよう ) の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒 ( はらいせ ) ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴 ( すう ) さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽 ( たのしみ ) にして在 ( ゐな ) すつた……のだし」
女 ( をんな ) はつと出でし泣音 ( なくね ) の後を怺 ( こら ) へ怺へて啜上 ( すすりあ ) げぬ。
「私 ( わたし ) も破談に為 ( す ) る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退 ( ひ ) いて、これまでの縁と諦 ( あきら ) めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
女は唯愈 ( いよい ) よ咽 ( むせ ) びゐたり。音も立てず臥 ( ふ ) したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処 ( そこここ ) より男を隙見 ( すきみ ) せんと為たりけれど、竟 ( つひ ) に意 ( こころ ) の如くならで止みぬ。然 ( しか ) れども彼は正 ( まさし ) くその声音 ( こわね ) に聞覚 ( ききおぼえ ) あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之 ( あくらまさゆき ) ならずと為 ( せ ) んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独 ( ひと ) り頷 ( うなづ ) きつつ貫一は又潜 ( ひそま ) りて聴耳立てたり。
「嘘 ( うそ ) にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭 ( あひ ) なので、それが為に縁を切る意 ( つもり ) なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断 ( しほだち ) なんぞ為はしませんわ」
彼は自らその苦節を憶 ( おも ) ひて泣きぬ。
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞 ( だま ) されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共 ( ともども ) に悔 ( くや ) し……悔し……悔 ( くやし ) いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時 ( いつ ) 私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
この心を知らずや、と情極 ( じようきはま ) りて彼の悶 ( もだ ) え慨 ( なげ ) くが手に取る如き隣には、貫一が内俯 ( うつぷし ) に頭 ( かしら ) を擦付 ( すりつ ) けて、巻莨 ( まきたばこ ) の消えしを擎 ( ささ ) げたるままに横 ( よこた ) はれるなり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月 ( みつき ) の余 ( よ ) も疾 ( わづら ) つて……そんな事も雅さんは知つてお在 ( いで ) ぢやないのでせう。それは、阿父 ( おとつ ) さんや阿母 ( おつか ) さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適 ( ゆ ) かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛 ( かはい ) がつて下すつた雅さんの尊母 ( おつか ) さんに私は済まない。
親が不承知なのを私が自分の了簡通 ( りようけんどほり ) に為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適 ( ゆ ) きたいのですから、お可厭 ( いや ) でなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有 ( あん ) なさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
貫一は身を回 ( めぐら ) して臂枕 ( ひざまくら ) に打仰 ( うちあふ ) ぎぬ。彼は己 ( おのれ ) が与へし男の不幸よりも、添 ( そは ) れぬ女の悲 ( かなしみ ) よりも、先 ( ま ) づその娘が意気の壮 ( さかん ) なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚 ( もゆ ) る如き誠もあるよ、と頭 ( かしら ) は熱 ( ねつ ) し胸は轟 ( とどろ ) くなり。
さて男の声は聞ゆ。
「それは、鈴 ( すう ) さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭 ( あ ) はなかつたら、今頃は家内三人で睦 ( むつまし ) く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂 ( いは ) れないほど情無い。かうして今では人に顔向 ( かほむけ ) も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父 ( をぢ ) さん、尊母 ( をば ) さんの心にもなつて見たら、今の私には添 ( そは ) されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情 ( じよう ) は、何処 ( どこ ) の親でも差違 ( かはり ) は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦 ( あきら ) めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽 ( たのしみ ) に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」
「それぢや、雅さんは内の阿父 ( おとつ ) さんや阿母 ( おつか ) さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些 ( ちつと ) も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」
「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全 ( まる ) で私の心を酌んではおくれでないのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適 ( ゆ ) くと極 ( きま ) つて、その為に御嫁入道具まで丁 ( ちやん ) と調 ( こしら ) へて置きながら、今更外へ適 ( ゆか ) れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余 ( あんま ) り酷 ( ひど ) いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他 ( よそ ) へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」
女は身を顫 ( ふるは ) して泣沈めるなるべし。
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為 ( せ ) うと云ふのです」
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極 ( き ) めてゐますから」
亜 ( つ ) いで男の声は為 ( せ ) ざりしが、間有 ( しばしあ ) りて孰 ( いづれ ) より語り出でしとも分かず、又一時 ( ひとしきり ) 密々 ( ひそひそ ) と話声の洩 ( も ) れけれど、調子の低かりければ此方 ( こなた ) には聞知られざりき。彼等は久くこの細語 ( ささめごと ) を息 ( や ) めずして、その間一たびも高く言 ( ことば ) を出 ( いだ ) さざりしは、互にその意 ( こころ ) に逆 ( さか ) ふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々 ( じよじよ ) として飽かず語れるなり。貫一は心陰 ( こころひそか ) に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何 ( いか ) に幸 ( さいはひ ) ならんかを想ひて、あたかも妙 ( たへ ) なる楽の音 ( ね ) の計らず洩聞 ( もれきこ ) えけんやうに、憂 ( う ) かる己をも忘れんとしつ。
今かの娘の宮ならば如何 ( いか ) ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日 ( こんにち ) の吾たるを択 ( えら ) ぶ可 ( べ ) きか、将 ( はた ) かの雅之たるを希 ( こひねが ) はんや。貫一は空 ( むなし ) うかく想へり。
宮も嘗 ( かつ ) て己に対して、かの娘に遜 ( ゆづ ) るまじき誠を抱 ( いだ ) かざるにしもあらざりき。彼にして若 ( も ) し金剛石 ( ダイアモンド ) の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全 ( まつた ) うしたらんや。唯継 ( ただつぐ ) の金力を以て彼女を脅 ( おびやか ) したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀 ( かがや ) ける金剛石 ( ダイアモンド ) と汚 ( けが ) れたる罪名とは、孰 ( いづれ ) か愛を割 ( さ ) くの力多かる。
彼は更にかく思へり。
唯その人を命として、己 ( おのれ ) も有らず、家も有らず、何処 ( いづこ ) の野末 ( のずゑ ) にも相従 ( あひしたが ) はんと誓へるかの娘の、竟 ( つひ ) に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝 ( をし ) みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
彼は又かくも思へるなり。
それ愛の最も篤 ( あつ ) からんには、利にも惑はず、他に又易 ( か ) ふる者もあらざる可きを、仮初 ( かりそめ ) もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明 ( あか ) せるなり。凡 ( およ ) そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或 ( ある ) は己の信ずらんやうに、宮の愛の特 ( こと ) に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故 ( ゆゑ ) に世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾 ( すべ ) てこれを斥 ( しりぞ ) けぬ。されどもその一旦の憤 ( いきどほり ) は、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々 ( おうおう ) は、吾心を食尽 ( はみつく ) し、終 ( つひ ) に吾身を斃 ( たふ ) すにあらざれば、得やは去るまじき悪霊 ( あくりよう ) の如く執念 ( しゆうね ) く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日偶 ( たまた ) ま人の相悦 ( あひよろこ ) ぶを見て、又躬 ( みづから ) も怡 ( よろこ ) びつつ、楽 ( たのし ) の影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむ可きや。
彼はいよいよ思廻 ( おもひめぐら ) せり。
宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも唯吾命 ( めい ) のままならんとぞ言来 ( いひこ ) したる。吾はその悔の為にはかの憤 ( いきどほり ) を忘るべきか、任他 ( さはれ ) 吾恋の旧 ( むかし ) に復 ( かへ ) りて再び完 ( まつた ) かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因 ( よ ) りて始て償はるべきか、或 ( あるひ ) はその富を獲んとする貪欲 ( どんよく ) はこの恨を移すに足るか。
彼は苦 ( くるし ) き息 ( いき ) を嘘 ( ふ ) きぬ。
吾恋を壊 ( やぶ ) りし唯継! 彼等の恋を壊らんと為 ( せ ) しは誰 ( た ) そ、その吾の今千葉に赴 ( おもむ ) くも、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医 ( い ) すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割 ( さか ) れし愛は落花の復 ( かへ ) る無くして畢 ( をは ) らんのみ! いで、吾はかくて空く埋 ( うづも ) るべきか、風に因 ( よ ) りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。
貫一は船橋を過 ( すぐ ) る燈 ( ともしび ) 暗き汽車の中 ( うち ) に在り。
千葉より帰りて五日の後 M., Shigis ――の書信 ( ふみ ) は又来 ( きた ) りぬ。貫一は例に因 ( よ ) りて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽 ( たちま ) ち浮ぶその人の面影 ( おもかげ ) は、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は殆 ( ほとん ) ど当時に同 ( おなじ ) き憤 ( いかり ) を発して、先の二度なるよりはこの三度 ( みたび ) に及べるを、径廷 ( をこがまし ) くも廻らぬ筆の力などを以 ( も ) て、旧 ( むかし ) に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来 ( きた ) りて大海 ( だいかい ) を填 ( うづ ) めんとするやと、却 ( かへ ) りて頑 ( かたくな ) に自ら守らんとも為なり。
さりとも知らぬ宮は蟻 ( あり ) の思を運ぶに似たる片便 ( かたたより ) も、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何 ( いか ) に見るらん、書綴 ( かきつづ ) れる吾誠 ( わがまこと ) の千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋 ( ひとすぢ ) の緒 ( いとぐち ) ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採 ( ふでと ) りて、その限無き思 ( おもひ ) を写してぞ止まざりし。
唯継は近頃彼の専 ( もつぱ ) ら手習すと聞きて、その善き行 ( おこなひ ) を感ずる余 ( あまり ) に、良き墨、良き筆、良き硯 ( すずり ) 、良き手本まで自ら求め来ては、この難有 ( ありがた ) き心掛の妻に遣 ( おく ) りぬ。宮はそれ等を汚 ( けがら ) はしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴 ( つづ ) られし文は、又六日 ( むゆか ) を経て貫一の許 ( もと ) に送られぬ。彼は四度 ( よたび ) の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経 ( ふ ) ると思ふ程も無く、五度 ( いつたび ) の文は来にけり。よし送り送りて千束 ( ちつか ) にも余れ、手に取るからの烟 ( けむ ) ぞと侮 ( あなど ) れる貫一も、曾 ( かつ ) て宮には無かりし執着のかばかりなるを謂知 ( いひし ) らず異 ( あやし ) みつつ、今日のみは直 ( すぐ ) にも焚 ( や ) かざりしその文を、一度 ( ひとたび ) は披 ( ひら ) き見んと為たり。
「然し……」
彼は輙 ( たやす ) く手を下さざりき。
「赦 ( ゆる ) してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。若 ( も ) し有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣 ( や ) る、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日 ( こんにち ) の貫一と宮との間に如何 ( いか ) なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操 ( みさを ) の疵 ( きず ) が愈 ( い ) えて、又赦したから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に於 ( おい ) ては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生汚 ( けが ) れた宮ではないか。ことの破れて了 ( しま ) つた今日 ( こんにち ) になつて悔悟も赦してくれも要 ( い ) つたものか、無益な事だ! 少 ( すこし ) も汚 ( けが ) れん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行 ( おこな ) つても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。
であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外 ( ほか ) に妻と思ふ者は無い、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺 ( おれ ) のこの胸の中を可憐 ( あはれ ) と思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負 ( そむ ) いて……何の面目 ( めんぼく ) 有つて今更悔悟……晩 ( おそ ) い!」
彼はその文を再三柱に鞭 ( むちう ) ちて、終に繩 ( なは ) の如く引捩 ( ひきねぢ ) りぬ。
打続きて宮が音信 ( たより ) の必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、披 ( ひらか ) れざるに送り、送らるるに披 ( ひらか ) かざりしも、はや算 ( かぞ ) ふれば十通に上 ( のぼ ) れり。さすがに今は貫一が見る度 ( たび ) の憤 ( いかり ) も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁 ( しげ ) きに、自 ( おのづか ) ら他の悔い悲める宮在るを忘るる能 ( あた ) はずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽 ( にはか ) に彼を可懐 ( なつかし ) むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容 ( い ) れんと為るにあらずして、始 ( はじめ ) に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己 ( おのれ ) に存し、彼の新なる悔は切に夤 ( まつは ) るも、徒 ( いたづら ) に凍えて水を得たるに同 ( おなじ ) かるこの両 ( ふたつ ) の者の、相対 ( あひたい ) して相拯 ( あひすく ) ふ能はざる苦艱 ( くげん ) を添ふるに過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの憤 ( いかり ) ならぬ憤も発して、憂身独 ( うきみひとり ) の儚 ( はかな ) き世をば如何 ( いか ) にせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに茫々 ( ぼうぼう ) として、彼は屡 ( しばし ) ばその貪 ( むさぼ ) るをさへ忘るる事ありけり。劇 ( はげし ) く物思ひて寝 ( い ) ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨 ( ねや ) に魘 ( おそは ) るる夢の苦く頻 ( しきり ) に呻 ( うめ ) きしを、老婢 ( ろうひ ) に喚 ( よば ) れて、覚めたりと知りつつ現 ( うつつ ) ならず又睡りけるを、再び彼に揺起 ( ゆりおこさ ) れて驚けば、
「お客様でございます」
「お客? 誰だ」
「荒尾さんと有仰 ( おつしや ) いました」
「何、荒尾? ああ、さうか」
主 ( あるじ ) の急ぎ起きんとすれば、
「お通し申しますで御座いますか」
「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫 ( しばら ) く失礼致しますとさう申して」
貫一はかの一別の後三度 ( みたび ) まで彼の隠家 ( かくれが ) を訪ひしかど、毎 ( つね ) に不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何 ( いかが ) を満枝に糺 ( ただ ) せしに、変る事無く其処 ( そこ ) に住めりと言ふに、さては真 ( まこと ) に交 ( まじはり ) を絶たんとすならんを、姑 ( しばら ) く強 ( しひ ) て追はじと、一月余 ( あまり ) も打絶えたりしに、彼方 ( あなた ) より好 ( よ ) くこそ来つれ、吾がこの苦 ( くるしみ ) を語るべきは唯彼在るのみなるを、朋 ( とも ) の来 ( きた ) れるも、実 ( げ ) にかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出 ( いだ ) して一日 ( いちじつ ) 彼を還さじなど、心忙 ( こころせはし ) きまでに歓 ( よろこ ) ばれぬ。
絶交せるやうに疏音 ( そいん ) なりし荒尾の、何の意ありて卒 ( にはか ) に訪来 ( とひきた ) れるならん。貫一はその何の意なりやを念 ( おも ) はず、又その突然の来叩 ( おとづれ ) をも怪 ( あやし ) まずして、畢竟 ( ひつきよう ) 彼の疏音なりしはその飄然 ( ひようぜん ) 主義の拘 ( かか ) らざる故 ( ゆゑ ) 、交 ( まじはり ) を絶つとは言ひしかど、誼 ( よしみ ) の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己 ( おのれ ) を友として来 ( きた ) れるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。
手水場 ( てうづば ) を出来 ( いでき ) し貫一は腫眶 ( はれまぶた ) の赤きを連𥉌 ( しばたた ) きつつ、羽織の紐 ( ひも ) を結びも敢 ( あ ) へず、つと客間の紙門 ( ふすま ) を排 ( ひら ) けば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、美 ( うつくし ) う装 ( よそほ ) へる婦人の独 ( ひと ) り羞含 ( はぢがまし ) う控へたる。打惑 ( うちまど ) ひて入 ( い ) りかねたる彼の目前 ( まのあたり ) に、可疑 ( うたがはし ) き女客も未 ( いま ) だ背 ( そむ ) けたる面 ( おもて ) を回 ( めぐら ) さず、細雨 ( さいう ) 静 ( しづか ) に庭樹 ( ていじゆ ) を撲 ( う ) ちて滴 ( したた ) る翠 ( みどり ) は内を照せり。
「荒尾さんと有仰 ( おつしや ) るのは貴方で」
彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も面 ( おもて ) を示さざらんやうに頭 ( かしら ) を下げて礼を作 ( な ) せり。しかも彼は輙 ( たやす ) くその下げたる頭 ( かしら ) と拄 ( つか ) へたる手とを挙げざるなりき。始に何者なりやと驚 ( おどろか ) されし貫一は、今又何事なりやと弥 ( いよい ) よ呆 ( あき ) れて、彼の様子を打矚 ( うちまも ) れり。乍 ( たちま ) ち有りて貫一の眼 ( まなこ ) は慌忙 ( あわただし ) く覓 ( もと ) むらん色を作 ( な ) して、婦人の俯 ( うつむ ) けるを仡 ( き ) と窺 ( うかが ) ひたりしが、
「何ぞ御用でございますか」
「…………」
彼は益 ( ますま ) す急に左瞻右視 ( とみかうみ ) して窺ひつ。
「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」
「…………」
露置く百合 ( ゆり ) の花などの仄 ( ほのか ) に風を迎へたる如く、その可疑 ( うたがはし ) き婦人の面 ( おもて ) は術無 ( じゆつな ) げに挙らんとして、又慙 ( は ) ぢ懼 ( おそ ) れたるやうに遅疑 ( たゆた ) ふ時、
「宮⁉」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。
宮は嬉し悲しの心昧 ( こころくら ) みて、身も世もあらず泣伏したり。
「何用有つて来た!」
怒 ( いか ) るべきか、この時。恨むべきか、この時。辱 ( はぢし ) むべきか、悲むべきか、号 ( さけ ) ぶべきか、詈 ( ののし ) るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱 ( あひみだ ) れて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫 ( うちふる ) ひゐたり。
「貫一 ( かんいつ ) さん! どうぞ堪忍 ( かんにん ) して下さいまし」
宮は漸 ( やうや ) う顔を振挙げしも、凄 ( すさまじ ) く色を変へたる貫一の面 ( おもて ) に向ふべくもあらで萎 ( しを ) れ俯 ( ふ ) しぬ。
「早く帰れ!」
「…………」
「宮!」
幾年 ( いくとせ ) 聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐 ( なつか ) しと見る目を覚えず其方 ( そなた ) に転 ( うつ ) せば、鋭く睼 ( みむか ) ふる貫一の眼 ( まなこ ) の湿 ( うるほ ) へるは、既に如何 ( いか ) なる涙の催せしならん。
「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ意 ( つもり ) か。先達而 ( せんだつて ) から頻 ( しきり ) に手紙を寄来 ( よこ ) すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直 ( すぐ ) に焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私 ( わたし ) は今病中で、かうしてゐるのも太儀 ( たいぎ ) でならんのだから、早く帰つて貰ひたい」
彼は老婢を召して、
「お客様のお立 ( たち ) だ、お供にさう申して」
取附く島もあらず思悩 ( おもひなや ) める宮を委 ( お ) きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
「貫一さん、私 ( わたし ) は今日は死んでも可 ( い ) い意 ( つもり ) でお目に掛りに来たのですから、貴方 ( あなた ) の存分にどんな目にでも遭 ( あは ) せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました‼ 悉 ( くはし ) い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全 ( まる ) で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言 ( いは ) れない事ばかり、設 ( たと ) ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些 ( ちつ ) とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑 ( わび ) は為る意 ( つもり ) でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目 ( めんぼく ) が無いやら、悲いやらで、何一語 ( ひとこと ) も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈 ( はず ) でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
涙ながらに手を拄 ( つか ) へて、吾が足下 ( あしもと ) に額叩 ( ぬかづ ) く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、
「六年前 ( ぜん ) の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
唯 ( と ) 見る間に出行 ( いでゆ ) く貫一、咄嗟 ( あなや ) 、紙門 ( ふすま ) は鉄壁よりも堅く閉 ( た ) てられたり。宮はその心に張充 ( はりつ ) めし望を失ひてはたと領伏 ( ひれふ ) しぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声劇 ( はげし ) く縁続 ( えんつづき ) の子亭 ( はなれ ) より聞 ( きこ ) ゆれば、直 ( ぢき ) に走り行く足音の響きしが、やがて返し来 ( きた ) れる老婢は客間に顕 ( あらは ) れぬ。宮は未だ頭 ( かしら ) を挙げずゐたり。可憐 ( しをらし ) き束髪の頸元深 ( えりもとふか ) く、黄蘖染 ( おうばくぞめ ) の半衿 ( はんえり ) に紋御召 ( もんおめし ) の二枚袷 ( にまいあはせ ) を重ねたる衣紋 ( えもん ) の綾 ( あや ) 先 ( ま ) づ謂はんやう無く、肩状 ( かたつき ) 優 ( やさし ) う内俯 ( うつふ ) したる脊 ( そびら ) に金茶地 ( きんちやぢ ) の東綴 ( あづまつづれ ) の帯高く、勝色裏 ( かついろうら ) の敷乱 ( しきみだ ) れつつ、白羽二重 ( しろはぶたへ ) のハンカチイフに涙を掩 ( おほ ) へる指に赤く、白く指環 ( リング ) の玉を耀 ( かがやか ) したる、殆 ( ほとん ) ど物語の画をも看 ( み ) るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐 ( おそろし ) きやうにも覚ゆるぞかし。
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今生憎 ( あいにく ) と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日 ( こんにち ) はこれで御立帰 ( おたちかへり ) を願ひますで御座います」
面 ( おもて ) を抑へたるままに宮は涙を啜 ( すす ) りて、
「ああ、さやうで御座いますか」
「折角お出 ( いで ) のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
「唯今些 ( ちよつ ) と支度を致しますから、もう少々置いて戴 ( いただ ) きますよ」
「さあさあ、貴方 ( あなた ) 御遠慮無く御寛 ( ごゆるり ) と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日 ( こんにち ) はいつそお寒過ぎますで御座います」
彼の起ちし迹 ( あと ) に宮は身支度を為るにもあらで、始て甦 ( よみがへ ) りたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久 ( ひさし ) かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又出来 ( いできた ) れり。宮はその時遽 ( にはか ) に身㕞 ( みづくろい ) して、
「それではお暇 ( いとま ) を致します。些 ( ちよつ ) と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方 ( どちら ) にお寝 ( よ ) つてお在 ( いで ) ですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
「いいえ、御挨拶だけ些 ( ちよつ ) と」
「さやうで御座いますか。では此方 ( こちら ) へ」
主 ( あるじ ) の本意 ( ほい ) ならじとは念 ( おも ) ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭 ( はなれ ) に案内 ( あない ) せり。昨夜 ( ゆふべ ) の収めざる蓐 ( とこ ) の内に貫一は着のまま打仆 ( うちたふ ) れて、夜着 ( よぎ ) も掻巻 ( かいまき ) も裾 ( すそ ) の方 ( かた ) に蹴放 ( けはな ) し、枕 ( まくら ) に辛 ( から ) うじてその端 ( はし ) に幾度 ( いくたび ) か置易 ( おきかへ ) られし頭 ( かしら ) を載 ( の ) せたり。
思ひも懸けず宮の入来 ( いりく ) るを見て、起回 ( おきかへ ) らんとせし彼の膝下 ( ひざもと ) に、早くも女の転 ( まろ ) び来て、立たんと為れば袂 ( たもと ) を執り、猶 ( なほ ) も犇 ( ひし ) と寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。
「ええ、何の真似 ( まね ) だ!」
突返さんとする男の手を、宮は両手に抱 ( いだ ) き緊 ( し ) めて、
「貫一さん!」
「何を為る、この恥不知 ( はぢしらず ) !」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
「ええ、聒 ( やかまし ) い! ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
その身を楯 ( たて ) に宮は放さじと争ひて益 ( ますま ) す放さず、両箇 ( ふたり ) が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見 ( あひみ ) じと誓へるその人の顔の、おのれ眺 ( なが ) めたりし色は疾 ( と ) く失せて、誰 ( たれ ) ゆゑ今の別 ( べつ ) に豔 ( えん ) なるも、なほ形のみは変らずして、実 ( げ ) にかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何 ( いか ) にしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間 ( ひま ) に現 ( うつつ ) ともなく彼を矚 ( まも ) れり。宮は殆 ( ほとん ) ど情極 ( きはま ) りて、纔 ( わづか ) に狂せざるを得たるのみ。
彼は人の頭 ( かしら ) より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把 ( と ) る手をば釈 ( と ) かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許 ( いかばかり ) 大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持 ( も ) たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無 ( はかりな ) きものなりしが、嗟乎 ( ああ ) 、今何処 ( いづこ ) に在りや。その嘗 ( かつ ) て誠を恵みし手は冷 ( ひやや ) かに残れり。空 ( むなし ) くその手を抱 ( いだ ) きて泣かんが為に来 ( きた ) れる宮が悔は、実 ( げ ) に幾許 ( いかばかり ) 大いなる者ならん。
「さあ、早く帰れ!」
「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打 ( ぶ ) つなり、殴 ( たた ) くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小 ( すこし ) でも機嫌 ( きげん ) を直して、私のお詑 ( わび ) に来た訳を聞いて下さい」
「ええ、煩 ( うるさ ) い!」
「それぢや打つとも殴くともして……」
身悶 ( みもだえ ) して宮の縋 ( すが ) るを、
「そんな事で俺 ( おれ ) の胸が霽 ( は ) れると思つてゐるか、殺しても慊 ( あきた ) らんのだ」
「ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから」
「自分で死ね!」
彼は自ら手を下 ( くだ ) して、この身を殺すさへ屑 ( いさぎよ ) からずとまでに己 ( おのれ ) を鄙 ( いやし ) むなるか、余に辛 ( つら ) しと宮は唇 ( くちびる ) を咬 ( か ) みぬ。
「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見 ( みつ ) とも無い態 ( ざま ) を為ずに何為 ( なぜ ) 死ぬまで立派に棄て通さんのだ」
「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤 ( とつく ) りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾 ( とう ) から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
宮は男の手をば益す弛 ( ゆる ) めず、益す激する心の中 ( うち ) には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易 ( か ) ふる者を失はじと一向 ( ひたぶる ) に思入るなり。
折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何 ( いかに ) 、宮は些 ( ちと ) も弛 ( ゆる ) めざるのみか、その容 ( かたち ) をだに改めんと為ず。果して足音は紙門 ( ふすま ) の外に逼 ( せま ) れり。
「これ、人が来る」
「…………」
宮は唯力を極 ( きは ) めぬ。
不意にこの体 ( てい ) を見たる老婢は、半 ( なかば ) 啓 ( あ ) けたる紙門 ( ふすま ) の陰に顔引入れつつ、
「赤樫 ( あかがし ) さんがお出 ( いで ) になりまして御座います」
窮厄の色はつと貫一の面 ( おもて ) に上 ( のぼ ) れり。
「ああ、今其方 ( そつち ) へ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか」
「ぢや私はここに待つてゐますから」
「知らん! もう放せと言つたら」
用捨もあらず宮は捻倒 ( ねぢたふ ) されて、落花の狼藉 ( ろうぜき ) と起き敢 ( あ ) へぬ間に貫一は出行 ( いでゆ ) く。
座敷外に脱ぎたる紫裏 ( むらさきうら ) の吾妻 ( あづま ) コオトに目留めし満枝は、嘗 ( かつ ) て知らざりしその内曲 ( うちわ ) の客を問はで止む能 ( あた ) はざりき。又常に厚く恵 ( めぐま ) るる老婢は、彼の為に始終の様子を告 ( つぐ ) るの労を吝 ( をし ) まざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚 ( しんい ) に燃えて、可憎 ( につく ) き人の疾 ( と ) く出で来 ( こ ) よかし、如何 ( いか ) なる貌 ( かほ ) して我を見んと為 ( す ) らん、と焦心 ( せきごころ ) に待つ間のいとどしう久 ( ひさし ) かりしに、貫一はなかなか出 ( い ) で来ずして、しかも子亭 ( はなれ ) のほとほと人気 ( ひとけ ) もあらざらんやうに打鎮 ( うちしづま ) れるは、我に忍ぶかと、弥 ( いよい ) よ満枝は怺 ( こら ) へかねて、
「お豊さん、もう一遍旦那 ( だんな ) 様にさう申して来て下さいな、私 ( わたし ) 今日は急ぎますから、些 ( ちよつ ) とお目に懸りたいと」
「でも、私 ( わたくし ) は誠に参り難 ( にく ) いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在 ( いで ) のやうで御座いますから」
「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」
「ではさう申上げて参りますです」
「はあ」
老婢は行きて、紙門 ( ふすま ) の外より、
「旦那さま、旦那さま」
「此方 ( こちら ) にお在 ( いで ) は御座いませんよ」
かく答へしは客の声なり。豊は紙門 ( ふすま ) を開きて、
「おや、さやうなので御座いますか」
実 ( げ ) に主 ( あるじ ) は在らずして、在るが如くその枕頭 ( まくらもと ) に坐れる客の、猶悲 ( なほかなしみ ) の残れる面 ( おもて ) に髪をば少し打乱 ( うちみだ ) し、左の袼 ( わきあけ ) の二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はずゐたりしを、遽 ( にはか ) に引枢 ( ひきつくろ ) ひつつ、
「今し方其方 ( そちら ) へお出 ( いで ) なすつたのですが……」
「おや、さやうなので御座いますか」
「那裡 ( あちら ) のお客様の方へお出 ( いで ) なすつたのでは御座いませんか」
「いいえ、貴方、那裡 ( あちら ) のお客様が急ぐと有仰 ( おつしや ) つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺 ( どちら ) へいらつしやいましたらう!」
「那裡 ( あちら ) にもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
老婢はここを倉皇 ( とつかは ) 起ちて、満枝が前に、
「此方 ( こちら ) へもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
「あの、那裡 ( あちら ) にもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
「今し方這裡 ( こちら ) へ出てお在 ( いで ) になつたのださうで御座います」
「嘘 ( うそ ) 、嘘ですよ」
「いいえ、那裡 ( あちら ) にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
「だつて、此方 ( こちら ) へお出 ( いで ) なさりは為ないぢやありませんか」
「ですから、まあ、何方 ( どつち ) へいらつしやつたのかと思ひまして……」
「那裡 ( あちら ) にきつと隠れてでもお在 ( いで ) なのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
「はてね、まあ。お手水 ( てうづ ) ですかしらん」
随処 ( そこら ) 尋ねんとて彼は又倉皇 ( とつかは ) 起ちぬ。
有効無 ( ありがひな ) きこの侵辱 ( はづかしめ ) に遭 ( あ ) へる吾身 ( わがみ ) は如何 ( いか ) にせん、と満枝は無念の遣 ( や ) る方無さに色を変へながら、些 ( ちと ) も騒ぎ惑はずして、知りつつ食 ( は ) みし毒の験 ( しるし ) を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂 ( いは ) れず窃 ( ひそか ) に苦めり。宮はその人の遁 ( のが ) れ去りしこそ頼 ( たのみ ) の綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報 ( むくい ) は悲くも何時まで儚 ( はかな ) きこの身ならんと、打俯 ( うちふ ) し、打仰ぎて、太息 ( ためいき ) 呴 ( つ ) くのみ。
颯 ( さ ) と空の昏 ( くら ) み行く時、軒打つ雨は漸 ( やうや ) く密なり。
戸棚 ( とだな ) 、押入 ( おしいれ ) の外 ( ほか ) 捜さざる処もあらざりしに、終 ( つひ ) に主 ( あるじ ) を見出 ( みいだ ) さざる老婢は希有 ( けう ) なる貌 ( かほ ) して又子亭 ( はなれ ) に入来 ( いりきた ) れり。
「何方 ( どちら ) にもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡 ( あちら ) にも這裡 ( こちら ) にもお客様を置去 ( おきざり ) に作 ( なす ) つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処 ( どつこ ) にもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」
彼は又満枝の許 ( もと ) に急ぎ行きて、事の由 ( よし ) を告げぬ。
「いいえ、貴方 ( あなた ) 、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭 ( はなれ ) にゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」
彼は遽 ( にはか ) に心着きて履物 ( はきもの ) を検 ( あらた ) め来んとて起ちけるに、踵 ( つ ) いで起てる満枝の庭前 ( にはさき ) の縁に出づると見れば、傱々 ( つかつか ) と行きて子亭 ( はなれ ) の入口に顕 ( あらは ) れたり。
宮は何人 ( なにびと ) の何の為に入来 ( いりきた ) れるとも知らず、先 ( ま ) づ愕 ( おどろ ) きつつも彼を迎へて容 ( かたち ) を改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の己 ( おのれ ) より少 ( わか ) く、己より美く、己より可憐 ( しをらし ) く、己より貴 ( たつと ) きを見たる妬 ( ねた ) さ、憎さは、唯この者有りて可怜 ( いと ) しさ故に、他 ( ひと ) の情 ( なさけ ) も誠も彼は打忘るるよとあはれ、一念の力を剣 ( つるぎ ) とも成して、この場を去らず刺殺 ( さしころ ) さまほしう、心は躍 ( をど ) り襲 ( かか ) り、躍り襲らんと為るなりけり。
宮は稍羞 ( ややはぢら ) ひて、葉隠 ( はがくれ ) に咲遅れたる花の如く、夕月の涼 ( すずし ) う棟 ( むね ) を離れたるやうに満枝は彼の前に進出 ( すすみい ) でて、互に対面の礼せし後、
「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」
憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。
「はい親類筋の者で御座いまして」
「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来 ( これまで ) お見上げ申しませんで御座いました」
「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
「はあ、さやうで。唯今は何方 ( どちら ) に」
「池端 ( いけのはた ) に居ります」
「へえ、池端、お宜 ( よろし ) い処で御座いますね。然し、夙 ( かね ) て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰 ( おつしや ) るもので御座いますから、全くさうとばかり私 ( わたくし ) 信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意 ( つもり ) であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作 ( なさ ) るので御座いますよ」
疑 ( うたがひ ) の雲は始て宮が胸に懸 ( かか ) りぬ。父が甞 ( かつ ) て病院にて見し女の必ず訳有るべしと指 ( さ ) せしはこれならん。さては客来 ( きやくらい ) と言ひしも詐 ( いつはり ) にて、或 ( あるひ ) は内縁の妻と定れる身の、吾を咎 ( とが ) めて邪魔立せんとか、但 ( ただし ) は彼人 ( かのひと ) のこれ見よとてここに引出 ( ひきいだ ) せしかと、今更に差 ( たが ) はざりし父が言 ( ことば ) を思ひて、宮は仇 ( あだ ) の為に病めるを笞 ( むちう ) たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処 ( いづく ) にか潜めゐる彼人 ( かのひと ) の吾が還るを待ちて忽 ( たちま ) ち出で来て、この者と手を把 ( と ) り、面 ( おもて ) を並べて、可哀 ( あはれ ) なる吾をば笑ひ罵 ( ののし ) りもやせんと想へば、得堪 ( えた ) へず口惜 ( くちをし ) くて、如何 ( いか ) にせば可 ( よ ) きと心苦 ( こころくるし ) く遅 ( ためら ) ひゐたり。
「お久しぶりで折角お出 ( いで ) のところを、生憎 ( あいにく ) と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些 ( ちよつ ) と遠方でございますから、お帰来 ( かへり ) の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛 ( ごゆつく ) りとお出 ( い ) で遊ばしまして」
「大相長座 ( ちようざ ) を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些 ( ちよつ ) とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日 ( こんにち ) は一日遊んで参らうと楽 ( たのしみ ) に致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
「さやうなら私はお暇 ( いとま ) を致しませう」
「お帰来 ( かへり ) で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
「いいえ、幾多 ( いくら ) 降りましたところが俥 ( くるま ) で御座いますから」
互に憎し、口惜 ( くちを ) しと鎬 ( しのぎ ) を削る心の刃 ( やいば ) を控へて、彼等は又相見 ( あひみ ) ざるべしと念じつつ別れにけり。
家の内を隈無 ( くまな ) く尋ぬれども在らず、さては今にも何処 ( いづこ ) よりか帰来 ( かへりこ ) んと待てど暮せど、姿を晦 ( くらま ) せし貫一は、我家ながらも身を容 ( い ) るる所無き苦紛 ( くるしまぎ ) れに、裏庭の木戸より傘 ( かさ ) も擎 ( さ ) さで忍び出でけるなり。
されど唯一目散に脱 ( のが ) れんとのみにて、卒 ( にはか ) に志す方 ( かた ) もあらぬに、生憎 ( あやにく ) 降頻 ( ふりしき ) る雨をば、辛 ( から ) くも人の軒などに凌 ( しの ) ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節 ( をりふし ) 通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処 ( そこ ) に躍入 ( をどりい ) りけり。
客は三組ばかり、各 ( おのおの ) 静に窓前の竹の清韻 ( せいいん ) を聴きて相対 ( あひたい ) せる座敷の一間 ( ひとま ) 奥に、主 ( あるじ ) は乾魚 ( ひもの ) の如き親仁 ( おやぢ ) の黄なる髯 ( ひげ ) を長く生 ( はや ) したるが、兀然 ( こつぜん ) として独 ( ひと ) り盤を磨 ( みが ) きゐる傍に通りて、彼は先 ( ま ) づ濡 ( ぬ ) れたる衣 ( きぬ ) を炙 ( あぶ ) らんと火鉢 ( ひばち ) に寄りたり。
異 ( あやし ) み問はるるには能 ( よ ) くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波 ( なごり ) は今も轟 ( とどろ ) く胸の内に痛 ( したた ) か思回 ( おもひめぐら ) して、又空 ( むなし ) く神 ( しん ) は傷 ( いた ) み、魂 ( こん ) は驚くといへども、我や怒 ( いか ) る可き、事や哀 ( あはれ ) むべき、或 ( あるひ ) は悲む可きか、恨む可きか、抑 ( そもそ ) も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。五内 ( ごない ) 渾 ( すべ ) て燃え、四肢 ( しし ) 直 ( ただち ) に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶 ( はんもん ) とは新に来 ( きた ) りて彼を襲へるなり。
主 ( あるじ ) は貫一が全濡 ( づぶぬれ ) の姿よりも、更に可訝 ( いぶかし ) きその気色 ( けしき ) に目留めて、問はでも椿事 ( ちんじ ) の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁 ( のが ) れ来にけれど、なかなか心安からで、両人 ( ふたり ) を置去 ( おきざり ) に為 ( せ ) し跡は如何 ( いかに ) 、又我が為 ( せ ) んやうは如何 ( いかに ) など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒 ( さわが ) しさには似で、小暗 ( をぐら ) き空に満てる雨声 ( うせい ) を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚 ( はなは ) だ幽なり。主 ( あるじ ) はこの時窓際 ( まどぎは ) の手合観 ( てあはせみ ) に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾 ( ひ ) ぬ袂 ( たもと ) を翳 ( かざ ) しつつ、愈 ( いよい ) よ限無く惑ひゐたり。遽 ( にはか ) に人の騒立つるに愕 ( おどろ ) きて顔を挙 ( あぐ ) れば、座中尽 ( ことごと ) く頸 ( くび ) を延べて己 ( おの ) が方 ( かた ) を眺め、声々に臭しと喚 ( よば ) はるに、見れば、吾が羽織の端 ( はし ) は火中に落ちて黒煙 ( くろけふり ) を起つるなり。直 ( ぢき ) に揉消 ( もみけ ) せば人は静 ( しづま ) るとともに、彼もまた前 ( さき ) の如し。
少頃 ( しばし ) 有りて、門 ( かど ) に入来 ( いりき ) し女の訪 ( おとな ) ふ声して、
「宅の旦那 ( だんな ) 様はもしや這裡 ( こちら ) へいらつしやりは致しませんで為 ( し ) たらうか」
主は忽 ( たちま ) ち髯 ( ひげ ) の頤 ( おとがひ ) を回 ( めぐら ) して、
「ああ、奥にお在 ( いで ) で御座いますよ」
豊かと差覗 ( さしのぞ ) きたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
「はい。此方 ( こちら ) にお在 ( いで ) なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
「はい、疾 ( とう ) にお帰 ( かへり ) になりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰 ( おつしや ) いまして」
「居る?」
「はい」
「それぢや見付からんと言つて措 ( お ) け」
「ではお帰りに成りませんので?」
「も少し経 ( た ) つたら帰る」
「直 ( ぢき ) にもうお中食 ( ひる ) で御座いますが」
「可 ( い ) いから早く行けよ」
「未 ( ま ) だ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
老婢は傘と足駄 ( あしだ ) とを置きて悄々 ( すごすご ) 還りぬ。
程無く貫一も焦げたる袂 ( たもと ) を垂れて出行 ( いでゆ ) けり。
彼はこの情緒の劇 ( はげし ) く紛乱せるに際して、可煩 ( わづらはし ) き満枝に夤 ( まつは ) らるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去 ( かへりさ ) らん後までは決 ( け ) して還らじと心を定めて、既に所在 ( ありか ) を知られたる碁会所を立出 ( たちい ) でしが、いよいよ指して行くべき方 ( かた ) は有らず。はや正午と云ふに未 ( いま ) だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何 ( いか ) に為 ( せ ) んとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然 ( ぼうぼうぜん ) として彷徨 ( さまよ ) へり。
初夏の日は長かりけれど、纔 ( わづか ) に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆 ( ほとん ) ど惜き夢の間に昏 ( く ) れて、折から雨も霽 ( は ) れたれば、好者 ( すきもの ) どもも終 ( つひ ) に碁子 ( きし ) を歛 ( をさ ) めて、惣立 ( そうだち ) に帰るをあたかも送らんとする主の忙々 ( いそがはし ) く燈 ( ひ ) ともす比 ( ころ ) なり、貫一の姿は始て我家の門 ( かど ) に顕 ( あらは ) れぬ。
彼は内に入 ( い ) るより、
「飯を、飯を!」と婢 ( をんな ) を叱 ( しつ ) して、颯 ( さ ) と奥の間の紙門 ( ふすま ) を排 ( ひら ) けば、何ぞ図らん燈火 ( ともしび ) の前に人の影在り。
彼は立てるままに目を瞪 ( みは ) りつ。されど、その影は後向 ( うしろむき ) に居て動かんとも為 ( せ ) ず。満枝は未 ( いま ) だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚 ( なほ ) も殊更 ( ことさら ) に見向かぬを、此方 ( こなた ) もわざと言 ( ことば ) を掛けずして子亭 ( はなれ ) に入り、豊を呼びて衣を更 ( か ) へ、膳 ( ぜん ) をも其処 ( そこ ) に取寄せしが、何とか為けん、必ず入来 ( いりく ) べき満枝の食事を了 ( をは ) るまでも来ざるなりき。却 ( かへ ) りて仕合好 ( しあはせよ ) しと、貫一は打労 ( うちつか ) れたる身を暢 ( のびや ) かに、障子の月影に肱枕 ( ひぢまくら ) して、姑 ( しばら ) く喫烟 ( きつえん ) に耽 ( ふけ ) りたり。
敢 ( あへ ) て恋しとにはあらねど、苦しげに羸 ( やつ ) れたる宮が面影 ( おもかげ ) の幻は、頭 ( かしら ) を回 ( めぐ ) れる一蚊 ( ひとつか ) の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出 ( おもひい ) でらるれば、なほ往きかねて那辺 ( そこら ) に忍ばずやと、風の音にも幾度 ( いくたび ) か頭 ( かしら ) を挙げし貫一は、婆娑 ( ばさ ) として障子に揺 ( ゆ ) るる竹の影を疑へり。
宮は何時 ( いつ ) までここに在らん、我は例の孤 ( ひとり ) なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以 ( も ) て容 ( ゆる ) さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又怪 ( あやし ) きまでに貫一は佗 ( わびし ) くて、その釈 ( と ) き難き怨 ( うらみ ) に加ふるに、或種の哀 ( あはれ ) に似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺 ( うちなが ) めて、他 ( ひと ) の憎しとよりは転 ( うた ) た自 ( みづから ) を悲しと思続けぬ。彼は竟 ( つひ ) に堪へかねたる気色 ( けしき ) にて障子を推啓 ( おしあく ) れば、涼 ( すずし ) き空に懸れる片割月 ( かたわれづき ) は真向 ( まむき ) に彼の面 ( おもて ) に照りて、彼の愁ふる眼 ( まなこ ) は又痛 ( したた ) かにその光を望めり。
「間さん」
居たるを忘れし人の可疎 ( うとまし ) き声に見返れば、はや背後 ( うしろ ) に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑 ( ゑみ ) を帯びざる無き目の秋波 ( しほ ) も乾 ( かわ ) き、顔色などは殊 ( こと ) に槁 ( か ) れて、などかくは浅ましきと、心陰 ( こころひそか ) に怪む貫一。
「ああ、未だ御在 ( おいで ) でしたか」
「はい、居りました。お午前 ( ひるまへ ) から私 ( わたくし ) お待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
語気の卒 ( にはか ) に厲 ( はげし ) きを駭 ( おどろ ) ける貫一は、空 ( むなし ) く女の顔を見遣 ( みや ) るのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛 ( とん ) だ御娯 ( おたのしみ ) のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
その眼色 ( まなざし ) は怨 ( うらみ ) の鋩 ( きつさき ) を露 ( あらは ) して、男の面上を貫かんとやうに緊 ( きびし ) く見据ゑたり。
貫一は苦笑して、
「貴方 ( あなた ) は何を謊 ( ばか ) な事を言つてゐるのですか」
「今更お庾 ( かく ) しなさるには及びませんさ。若い男と女が一間 ( ひとま ) に入つて、取付 ( とつつ ) き引付 ( ひつつ ) きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳 ( ななつ ) や八歳 ( やつ ) の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直 ( ぢき ) に解りませうでは御座いませんか。
爾後 ( それから ) 貴方がお出掛になりますと私直 ( ぢき ) にここのお座敷へ推掛 ( おしか ) けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」
絮 ( くど ) しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹 ( そばだ ) てぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰 ( おつしや ) らなくても可ささうな事までお話を作 ( なさ ) いますので、それは随分聞難 ( ききにく ) い事まで私伺ひました」
為失 ( しな ) したりと貫一は密 ( ひそか ) に術無 ( じゆつな ) き拳 ( こぶし ) を握れり。満枝は猶 ( なほ ) も言足らで、
「然し、間さん、遉 ( さすが ) に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯 ( おたのしみ ) にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者 ( いつこくもの ) だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠 ( ひしかくし ) に隠し通してゐらしつたお手際 ( てぎは ) には私実に驚入つて一言 ( いちごん ) も御座いません。能く凄 ( すご ) いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
「お口ぢやさう有仰 ( おつしや ) つても、実はお嬉 ( うれし ) いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋 ( こひし ) くてゐらつしやるのですかね」
されば我が出行 ( いでゆ ) きし迹 ( あと ) をこそ案ぜしに、果してかかる孽 ( わざはひ ) は出で来にけり。由無 ( よしな ) き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼 ( こころくぐま ) りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方 ( こなた ) より熟々 ( つくづく ) と見透 ( みすか ) して目も放たず。
「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜 ( よろし ) いでは御座いませんか。ああ云ふお美 ( うつくし ) いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利 ( き ) きに成るのもお可厭 ( いや ) なのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮 ( くど ) い事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶 ( どう ) かそれだけ言 ( いは ) して下さいまし」
貫一は冷 ( ひややか ) に目を転 ( うつ ) して、
「何なりと有仰 ( おつしや ) い」
「私もう貴方を殺して了ひたい!」
「何です⁈」
「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」
「それも可いでせう。可いけれど何で私 ( わたし ) が貴方に殺されるのですか」
「間さん、貴方はその訳を御存無 ( ごぞんじな ) いと有仰 ( おつしや ) るのですか、どの口で有仰るのですか」
「これは怪 ( けし ) からん! 何ですと」
「怪からんとは、貴方も余 ( あんま ) りな事を有仰るでは御座いませんか」
既に恨み、既に瞋 ( いか ) りし満枝の眼 ( まなこ ) は、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく思掛けざりし貫一は寧 ( むし ) ろ可恐 ( おそろ ) しと念 ( おも ) へり。
「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措 ( お ) きません」
「貴方を何日 ( いつ ) 私が憎みました。そんな事は有りません」
「では、何で怪からんなどと有仰 ( おつしや ) います」
「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決 ( け ) して貴方に殺される覚 ( おぼえ ) は無い」
満枝は口惜 ( くちを ) しげに頭 ( かしら ) を掉 ( ふ ) りて、
「有ります! 立派に有ると私信じてをります」
「貴方が独 ( ひとり ) で信じても……」
「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」
「私を殺すと云ふのですか」
「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」
「はあ、承知しました」
いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情 ( ふぜい ) は添 ( そは ) りけれど、軒端 ( のきば ) なる芭蕉葉 ( ばしようば ) の露夥 ( つゆおびただし ) く夜気の侵すに堪 ( た ) へで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉 ( た ) てて燈 ( ひ ) を明 ( あか ) うし、故 ( ことさら ) に床の間の置時計を見遣りて、
「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩 ( おそ ) くなるですから。ええ?」
「憚 ( はばか ) り様で御座います」
「いや、御注意を申すのです」
「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」
「ああ、さうですか」
「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何 ( いかが ) ですか」
憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看 ( み ) んとやうに、姑 ( しばら ) く男の顔色を候 ( うかが ) ひしが、
「一体あれは何者なので御座います!」
犬にも非ず、猫にも非ず、汝 ( なんぢ ) に似たる者よと思ひけれど、言争 ( いひあらそ ) はんは愚なりと勘弁して、彼は才 ( わづか ) に不快の色を作 ( な ) せしのみ。満枝は益す独り憤 ( じ ) れて、
「旧 ( ふる ) いお馴染 ( なじみ ) ださうで御座いますが、あの恰好 ( かつこう ) は、商売人ではなし、万更の素人 ( しろうと ) でもないやうな、貴方も余程 ( よつぽど ) 不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。然し、間さん、あれは主有 ( ぬしあ ) る花で御座いませう」
妄 ( みだり ) に言へるならんと念 ( おも ) へど、如何 ( いか ) にせん貫一が胸は陰 ( ひそか ) に轟 ( とどろ ) けるを。
「どうですか、なあ」
「さう云ふ者を対手 ( あひて ) に遊ばすと、別 ( べつ ) してお楽 ( たのしみ ) が深いとか申しますが、その代 ( かはり ) に罪も深いので御座いますよ。貴方が今日 ( こんにち ) まで巧 ( たくみ ) に隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公 ( おほやけ ) に御自慢は出来ん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤 ( ごもつとも ) で御座います。
その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の嫌 ( きら ) ひの嫌ひの大御嫌 ( だいおきら ) ひの私に知られたのは、どんなにかお心苦 ( こころくるし ) くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。然し私に取りましては、これ程幸 ( さいはひ ) な事は無いので御座います。貴方が余り片意地に他 ( ひと ) を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召 ( おぼしめ ) してゐらつしやい!」
聞訖 ( ききをは ) りたる貫一は吃々 ( きつきつ ) として窃笑 ( せつしよう ) せり。
「貴方は気でも違ひは為 ( せ ) んですか」
「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違 ( きちがひ ) には作 ( な ) すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣 ( あが ) つて気が違つたのですから、元の正気に復 ( なほ ) してお還し下さいまし」
彼は擦寄 ( すりよ ) り、擦寄りて貫一の身近に逼 ( せま ) れり。浅ましく心苦 ( こころくるし ) かりけれど迯 ( に ) ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩 ( おほ ) へる心地しつつ、貫一は身を側 ( そば ) め側め居たり。満枝は猶 ( なほ ) も寄添はまほしき風情 ( ふぜい ) にて、
「就きましては、私一言 ( いちごん ) 貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁 ( ちやん ) と有仰 ( おつしや ) つてお聞せ下さいまし、宜 ( よろし ) う御座いますか」
「何ですか」
「なんですかでは可厭 ( いや ) です、宜 ( よろし ) いと截然 ( きつぱり ) 有仰 ( おつしや ) つて下さい。さあ、さあ、貴方」
「けれども……」
「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎 ( いつ ) も気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜 ( よろし ) いのですから」
「勿論 ( もちろん ) 答へます。それは当然 ( あたりまへ ) の事ぢやないですか」
「それが当然 ( あたりまへ ) でなく、極打明けて少しも裹 ( つつ ) まずに言つて戴きたいのですから」
善 ( よし ) と貫一は頷 ( うなづ ) きつ。
「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方 ( あなた ) は私を憥 ( うるさ ) い奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏 ( つきまと ) つてゐるのは、自分の口から箇様 ( かよう ) な事を申すのも、甚 ( はなは ) だ可笑 ( をかし ) いので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何 ( いか ) に思つてをりましたところが、元来 ( もともと ) 私と云ふ者を嫌 ( きら ) ひ抜いて御在 ( おいで ) なのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画 ( かずか ) くよりも儚 ( はかな ) きは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の愜 ( かな ) ふ事は到底無いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦 ( あきら ) められんので御座います。
こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存 ( ごぞんじ ) でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解 ( わかり ) に成つてゐるで御座いませう」
「さうですな……そりや或 ( あるひ ) はさうかも知れませんけれど……」
「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或 ( あるひ ) はもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方に憥 ( うるさ ) がられる訳は御座いませんさ、貴方も私を憥 ( うるさ ) いと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠 ( しつこ ) くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在 ( いで ) のでは御座いませんか」
「それはさう謂へばそんなものです」
「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関 ( かかは ) らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」
「さう」
「で、私従来 ( これまで ) に色々申上げた事が御座いましたけれど、些 ( ちよつ ) とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟 ( りくつ ) から申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決 ( け ) して貴方の有仰 ( おつしや ) るやうな道に外 ( はづ ) れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処 ( そこ ) に理窟も何も有るのでは御座いません。究竟 ( つまり ) 貴方がそれを口実にして遁 ( に ) げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程儀剛 ( ぎごは ) な片意地なところもお有 ( あん ) なすつて、色恋の事なんぞには貪着 ( とんちやく ) を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固 ( がんこ ) なのを私歯痒 ( はがゆ ) いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」
と言ひも敢 ( あ ) へず煙管 ( きせる ) を取りて、彼は貫一の横膝 ( よこひざ ) をば或る念力 ( ねんりき ) 強く痛 ( したた ) か推したり。
「何を作 ( なさ ) るのです!」
払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸 ( さいはひ ) に満枝は又打ち被 ( かか ) る。
こは何事と駭 ( おどろ ) ける貫一は、身を避 ( さく ) る暇 ( いとま ) もあらず三つ四つ撃れしが、遂 ( つひ ) に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯 ( うつぷし ) に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股 ( もも ) の辺 ( あたり ) に咬付 ( かみつ ) いたり。怪 ( けし ) からぬ女哉 ( かな ) 、と怒 ( いかり ) の余に手暴 ( てあら ) く捩放 ( ねぢはな ) せば、なほ辛 ( から ) くも縋 ( すが ) れるままに面 ( おもて ) を擦付 ( すりつ ) けて咽泣 ( むせびなき ) に泣くなりき。
貫一は唯不思議の為体 ( ていたらく ) に呆 ( あき ) れ惑ひて言 ( ことば ) も出 ( い ) でず、漸 ( やうや ) く泣ゐる彼を推斥 ( おしの ) けんと為たれど、膠 ( にかは ) の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿 ( うるほひ ) は単衣 ( ひとへ ) を透 ( とほ ) して、この難面 ( つれな ) き人の膚 ( はだへ ) に沁 ( し ) みぬ。
捨置かば如何 ( いか ) に募らんも知らずと、貫一は用捨無く※放 ( もぎはな ) 〈[#「(夕+匕)/手」、376-12]〉 して、起たんと為るを、彼は虚 ( すか ) さず夤 ( まつは ) りて、又泣顔を擦付 ( すりつく ) れば、怺 ( こら ) へかねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや宜 ( よろし ) い。もう明日 ( あす ) からは貴方のここへ足蹈 ( あしぶみ ) の出来んやうに為て了 ( しま ) ふから、さうお思ひなさい」
「私死んでも参ります!」
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛 ( はふ ) つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」
満枝は始て涙に沾 ( うるほ ) へる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
貫一は歯を鳴して急上 ( せきあ ) げたり。
「貴方は……実に……驚入 ( おどろきい ) つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
「怪 ( けし ) からん!」
彼は憎き女の頬桁 ( ほほげた ) をば撃つて撃つて打割 ( うちわ ) る能 ( あた ) はざるを憾 ( うらみ ) と為 ( す ) なるべし。
「定 ( さだめ ) てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決 ( け ) してさやうでは御座いませんです」
「そんなら何 ( なん ) ですか」
「往日 ( いつぞや ) もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐 ( かたき ) も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方 ( かた ) に惚 ( ほ ) れて騒ぐ分は、一向差支 ( さしつかへ ) の無い独身 ( ひとりみ ) も同じので御座います。
間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊 ( ごぜんたき ) に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰 ( おつしや ) つて下さいまし。私豊 ( とよ ) の手伝でも致して、此方 ( こなた ) に一生奉公を致します。
貴方は大方赤樫に言ふと有仰 ( おつしや ) つたら、震へ上つて私が怖 ( こは ) がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧 ( むし ) ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧 ( く ) れるで御座いませう」
貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然 ( しか ) こそは呆 ( あき ) れつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠 ( とほざ ) けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾 ( むだ ) な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私些 ( ちよつ ) ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召 ( おぼしめ ) すものなら、物は試 ( ためし ) で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。
私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主 ( ぬし ) 有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引 ( あひびき ) してゐらつしやる事を触散 ( ふれちら ) しますから、それで何方 ( どちら ) が余計迷惑するか、比較事 ( くらべつこ ) を致しませう。如何 ( いかが ) で御座います」
「男勝 ( をとこまさ ) りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直 ( ただ ) ちに逢引 ( あひびき ) ですか。又妙齢 ( としごろ ) の女でさへあれば、必ず主有るに極 ( きま ) つてゐるのですか。浅膚 ( あさはか ) な邪推とは言ひながら、人を誣 ( し ) ふるも太甚 ( はなはだし ) い! 失敬千万な、気を着けて口をお利 ( き ) きなさい」
「間さん、貴方、些 ( ちよつ ) と此方 ( こちら ) をお向きなさい」
手を取りて引けば、振釈 ( ふりほど ) き、
「ええ、もう貴方は」
「お憥 ( うるさ ) いでせう」
「勿論 ( もちろん ) 」
「私向後 ( これから ) もつと、もつともつと憥くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰 ( おつしや ) つたので御座います、浅膚 ( あさはか ) な邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利 ( き ) き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為 ( なぜ ) 立派に、その通だ。情婦 ( をんな ) が有るのがどうしたと、かう打付 ( ぶつつ ) けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。幾多 ( いくら ) さう云ふ権利を有ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚 ( はばか ) つて、さう向 ( むき ) に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。
私実を申しませうか、箇様 ( かよう ) なので御座います。貴方が余所外 ( よそほか ) に未だ何百人愛してゐらつしやる方 ( かた ) が有りませうとも、それで愛相 ( あいそ ) を尽 ( つか ) して、貴方の事を思切るやうな、私そんな浮気な了簡 ( りようけん ) ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩 ( もら ) しましたところで、愜 ( かな ) はない願が愜ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯 ( ひきよう ) な女ではない積 ( つもり ) で御座います。
世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些 ( ほん ) のその場の憎まれ口で、私決 ( け ) してそんな心は微塵 ( みじん ) も無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通お詫 ( わび ) を致します」
満枝は惜まず身を下 ( くだ ) して、彼の前に頭 ( かしら ) を低 ( さ ) ぐる可憐 ( しをら ) しさよ。貫一は如何 ( いか ) にとも為 ( す ) る能はずして、窃 ( ひそか ) に首 ( かうべ ) を掻 ( か ) いたり。
「就 ( つ ) きましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来 ( これまで ) の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞 ( ことば ) 次第で、私もう断然何方 ( どちら ) に致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶 ( どう ) か歯に衣 ( きぬ ) を着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜 ( よろし ) う御座いますか。
今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存 ( ごぞんじ ) でゐらつしやるのです。従来 ( これまで ) も随分絮 ( くど ) く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌 ( きら ) ひ遊ばして、些 ( ちよつと ) でも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌 ( きら ) はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻 ( はぢ ) を掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜 ( よ ) いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子 ( をんな ) にしては極未練の無い方で、手短 ( てみじか ) に一か八 ( ばち ) か決して了ふ側 ( がは ) なので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為 ( なぜ ) かう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。
ですから、唯その胸の中 ( うち ) だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟 ( つまり ) 貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方 ( いたしかた ) も有りませんが、そんなに為 ( さ ) れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何 ( いか ) にも不敏 ( ふびん ) な者だと、設 ( たと ) ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
御自分が恋 ( こひし ) く思召すのも、人が恋いのも、恋いに差 ( かはり ) は無いで御座いませう。増 ( ま ) して、貴方、片思 ( かたおもひ ) に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束 ( ふつつか ) な者でも、同じに生れた人間一人 ( いちにん ) が、貴方の為には全 ( まる ) で奴隷 ( どれい ) のやうに成つて、しかも今貴方のお辞 ( ことば ) を一言 ( ひとこと ) 聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処 ( そこ ) をお考へ遊ばしたら、如何 ( いか ) に好かん奴であらうとも、雫 ( しづく ) ぐらゐの情 ( なさけ ) は懸けて遣 ( や ) らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞 ( ことば ) を、唯一言 ( ひとこと ) で宜いのですから、今までのお馴染効 ( なじみがひ ) にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」
終に近く益す顫 ( ふる ) へる声は、竟 ( つひ ) に平生 ( へいぜい ) の調 ( ちよう ) をさへ失ひて聞えぬ。彼は正 ( まさし ) くその一言 ( いちごん ) の為には幾千円の公正証書を挙げて反古 ( ほぐ ) に為んも、なかなか吝 ( をし ) からぬ気色を帯びて逼 ( せま ) れり。息は凝 ( こ ) り、面 ( おもて ) は打蒼 ( うちあを ) みて、その袖 ( そで ) よりは劒 ( つるぎ ) を出 ( いだ ) さんか、その心よりは笑 ( ゑみ ) を出 ( いだ ) さんか、と胸跳 ( むねをど ) らせて片時 ( へんじ ) も苦く待つなりき。
切なりと謂はば実 ( げ ) に極 ( きは ) めて切なる、可憐 ( しをら ) しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他 ( た ) の己 ( おのれ ) を愛するの故 ( ゆゑ ) を以 ( も ) て直 ( ただ ) ちに蛇蝎 ( だかつ ) に親まんや、と却 ( かへ ) りてその執念をば難堪 ( たへがた ) く浅ましと思へるなり。
されど又情として厲 ( はげし ) く言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩 ( うちなや ) める眉 ( まゆ ) を強 ( しひ ) て披 ( ひら ) かせつつ、
「さうして貴方が満足するやうな一言 ( いちごん ) ?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
「貴方もまあ何を有仰 ( おつしや ) つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他 ( ひと ) にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上 ( にげこうじよう ) を有仰 ( おつしや ) らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら些 ( ちよつ ) と有仰 ( おつしや ) つて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶 ( あいさつ ) を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難 ( むづかし ) い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」
「まあ何でも宜 ( よろし ) う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
「貴方の思召 ( おぼしめし ) は実に難有 ( ありがた ) いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
「はあ。口頭 ( くちさき ) ばかりでは私可厭 ( いや ) で御座います。貴方もあれ程確 ( たしか ) に有仰 ( おつしや ) つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
驚破 ( すはや ) 、障子を推開 ( おしひら ) きて、貫一は露けき庭に躍 ( をど ) り下りぬ。つとその迹 ( あと ) に顕 ( あらは ) れたる満枝の面 ( おもて ) は、斜 ( ななめ ) に葉越 ( はごし ) の月の冷 ( つめた ) き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。
家の内には己 ( おのれ ) と老婢 ( ろうひ ) との外 ( ほか ) に、今客も在らざるに、女の泣く声、詬 ( ののし ) る声の聞ゆるは甚 ( はなは ) だ謂無 ( いはれな ) し、我 ( われ ) 或 ( あるひ ) は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕 ( まくら ) せる頭 ( かしら ) を擡 ( もた ) げて耳を澄せり。
その声は急に噪 ( さわがし ) く、相争 ( あひあらそ ) ふ気勢 ( けはひ ) さへして、はたはたと紙門 ( ふすま ) を犇 ( ひしめ ) かすは、愈 ( いよい ) よ怪 ( あや ) しと夜着 ( よぎ ) 排却 ( はねの ) けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉 ( ひとし ) く、二人の女の姿は貫一が目前 ( めさき ) に転 ( まろ ) び出 ( い ) でぬ。
苛 ( さいな ) まれしと見ゆる方 ( かた ) の髪は浮藻 ( うきも ) の如く乱れて、着たるコートは雫 ( しづく ) するばかり雨に濡 ( ぬ ) れたり。その人は起上り様 ( さま ) に男の顔を見て、嬉 ( うれ ) しや、可懐 ( なつか ) しやと心も空 ( そら ) なる気色 ( けしき ) 。
「貫一 ( かんいつ ) さん」と匐 ( は ) ひ寄らんとするを、薄色魚子 ( うすいろななこ ) の羽織着て、夜会結 ( やかいむすび ) に為 ( し ) たる後姿 ( うしろすがた ) の女は躍 ( をど ) り被 ( かか ) つて引据 ( ひきすう ) れば、
「あれ、貫、貫一さん!」
拯 ( すくひ ) を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生 ( しちしよう ) までその願は聴かじと郤 ( しりぞ ) けたる満枝の、我の辛 ( つら ) さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊 ( なほあきた ) らで我が前に責むるかと、貫一は怺 ( こら ) へかねて顫 ( ふる ) ひゐたり。満枝は縦 ( ほしいま ) まに宮を据 ( とら ) へて些 ( ちと ) も動かせず、徐 ( しづか ) に貫一を見返りて、
「間 ( はざま ) さん、貴方 ( あなた ) のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
頸髪取 ( えりがみと ) つて宮が面 ( おもて ) を引立てて、
「この女で御座いませう」
「貫一さん、私 ( わたし ) は悔 ( くやし ) う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
「私 ( わたくし ) 奥さんならどうしたのですか」
「貫一さん!」
彼は足擦 ( あしずり ) して叫びぬ。満枝は直 ( ただ ) ちに推伏 ( おしふ ) せて、
「ええ、聒 ( やかまし ) い! 貫一 ( かんいち ) さんは其処 ( そこ ) に一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在 ( いで ) なさい。
間さん、私想ふのですね、究竟 ( つまり ) かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言 ( こと ) は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所 ( よそ ) へ嫁に入つて了 ( しま ) つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も余 ( あんま ) り男らしくなくてお在 ( いで ) なさる。それは如何 ( いか ) にお可愛 ( かはい ) いのか存じませんけれど、一旦愛相 ( あいそ ) を尽 ( つか ) して迯 ( に ) げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々 ( ぐづぐづ ) してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺 ( さしころ ) して了 ( しま ) ふのです」
宮は跂返 ( はねかへ ) さんと為 ( せ ) しが、又抑 ( おさ ) へられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰 ( おつしや ) いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為 ( なぜ ) こんな淫乱 ( いんらん ) の人非人 ( にんぴにん ) を阿容 ( おめおめ ) 活 ( い ) けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分 ( いちぶん ) が立たんで御座いませう。何為 ( なぜ ) 成敗は遊ばしません。さあ、私決 ( け ) してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。
間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒 ( いざ ) と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損 ( しそん ) じの無いやうに、私好 ( よ ) い刃物 ( きれもの ) をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」
彼の懐 ( ふところ ) を出でたるは蝋塗 ( ろぬり ) の晃 ( きらめ ) く一口 ( いつこう ) の短刀なり。貫一はその殺気に撲 ( うた ) れて一指をも得動かさず、空 ( むなし ) く眼 ( まなこ ) を輝 ( かがやか ) して満枝の面 ( おもて ) を睨 ( にら ) みたり。宮ははや気死せるか、推伏 ( おしふ ) せられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭 ( のど ) なり胸なり、ぐつと一突 ( ひとつき ) に遣 ( や ) つてお了 ( しま ) ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々 ( ぐづぐづ ) してゐらつしやるのです。刀の持様 ( もちやう ) さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
と片手ながらに一揮 ( ひとふり ) 揮 ( ふ ) れば、鞘 ( さや ) は発矢 ( はつし ) と飛散つて、電光袂 ( たもと ) を廻 ( めぐ ) る白刃 ( しらは ) の影は、忽 ( たちま ) ち飜 ( ひるがへ ) つて貫一が面上三寸の処に落来 ( おちきた ) れり。
「これで突けば可 ( よ ) いのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未 ( ま ) だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些 ( ちよつ ) と御覧あそばせな」
言下 ( ごんか ) に勿焉 ( こつえん ) と消えし刃 ( やいば ) の光は、早くも宮が乱鬢 ( らんびん ) を掠 ( かす ) めて顕 ( あらは ) れぬ。啊呀 ( あなや ) と貫一の号 ( さけ ) ぶ時、妙 ( いし ) くも彼は跂起 ( はねお ) きざまに突来る鋩 ( きつさき ) を危 ( あやふ ) く外 ( はづ ) して、
「あれ、貫一さん!」
と満枝の手首に縋 ( すが ) れるまま、一心不乱の力を極 ( きは ) めて捩伏 ( ねぢふ ) せ捩伏 ( ねぢふ ) せ、仰様 ( のけざま ) に推重 ( おしかさな ) りて仆 ( たふ ) したり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思 ( ひとおもひ ) に殺して下さい!」
この恐るべき危機に瀕 ( ひん ) して、貫一は謂知 ( いひし ) らず自ら異 ( あやし ) くも、敢 ( あへ ) て拯 ( すくひ ) の手を藉 ( か ) さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空 ( むなし ) く悶 ( もだ ) えに悶えゐたり。必死と争へる両箇 ( ふたり ) が手中の刃 ( やいば ) は、或 ( あるひ ) は高く、或は低く、右に左に閃々 ( せんせん ) として、あたかも一鉤 ( いつこう ) の新月白く風の柳を縫 ( ぬ ) ふに似たり。
「貫一さん、貴方は私を見殺 ( みごろし ) になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔 ( くやし ) い! 悔い‼ 私は悔い‼」
彼は乱せる髪を夜叉 ( やしや ) の如く打振り打振り、五体 ( ごたい ) を揉 ( も ) みて、唇 ( くちびる ) の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷 ( きずつ ) けじと、貫一が胸は車輪の廻 ( めぐ ) るが若 ( ごと ) くなれど、如何 ( いか ) にせん、その身は内より不思議の力に緊縛 ( きんばく ) せられたるやうにて、逸 ( はや ) れど、躁 ( あせ ) れど、寸分の微揺 ( ゆるぎ ) を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭 ( のんど ) は又塞 ( ふさが ) りて、銕丸 ( てつがん ) を啣 ( ふく ) める想 ( おもひ ) 。
力も今は絶々に、はや危 ( あやふ ) しと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」
又激く捩合 ( ねぢあ ) ふ郤含 ( はずみ ) に、短刀は戞然 ( からり ) と落ちて、貫一が前なる畳に突立 ( つつた ) つたり。宮は虚 ( すか ) さず躍 ( をど ) り被 ( かか ) りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔 ( おしへだ ) つる腋 ( わき ) の下より後突 ( うしろづき ) に、𣠽 ( つか ) も透 ( とほ ) れと刺したる急所、一声号 ( さけ ) びて仰反 ( のけぞ ) る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩 ( く ) れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇 ( ひし ) と寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦 ( ゆる ) された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍 ( かんにん ) して、今までの恨は霽 ( はら ) して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替 ( いきかはり ) 死替 ( しにかはり ) して七生 ( しちしよう ) まで貫一さんを怨 ( うら ) みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱 ( とな ) へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
朱 ( あけ ) に染みたる白刃 ( しらは ) をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐 ( なつかし ) き拳 ( こぶし ) に頻回 ( あまたたび ) 頬擦 ( ほほずり ) したり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向 ( えこう ) をして下さると思つて、今はの際 ( きは ) で唯一言 ( ただひとこと ) 赦して遣ると有仰 ( おつしや ) つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑 ( おわび ) が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往 ( これまで ) の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!
今思へばあの時の不心得が実に悔 ( くやし ) くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零 ( こぼ ) して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来 ( のちのち ) きつと思中 ( おもひあた ) るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為 ( なぜ ) あの時に些少 ( すこし ) でも気が着かなかつたか。愚 ( おろか ) な自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復 ( とりかへし ) の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰 ( ばち ) が中 ( あた ) つたわ! 私は生きてゐる空 ( そら ) が無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
さうしてとてもこの罰の中つた躯 ( からだ ) では、今更どうかうと思つても、願なんぞの愜 ( かな ) ふと云ふのは愚な事、未 ( ま ) だ未だ憂目 ( うきめ ) を見た上に思死 ( おもひじに ) に死にでも為なければ、私の業 ( ごう ) は滅 ( めつ ) しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱 ( くげん ) を埋 ( う ) めて了つて、さうして早く元の浄 ( きよ ) い躯 ( からだ ) に生れ替 ( かは ) つて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦 ( かんなんしんく ) を為ても、きつと貴方に添遂 ( そひと ) げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴 ( いただ ) き、又この世で為遺 ( しのこ ) した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦 ( よろこ ) ばれ、自分も嬉 ( うれし ) い思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可 ( よ ) うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。
人は最期 ( さいご ) の一念で生 ( しよう ) を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮 ( おもひつ ) めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」
声震はせて縋 ( すが ) ると見れば、宮は男の膝 ( ひざ ) の上なる鋩 ( きつさき ) 目掛けて岸破 ( がば ) と伏したり。
「や、行 ( や ) つたな!」
貫一が胸は劈 ( つんざ ) けて始てこの声を出 ( いだ ) せるなり。
「貫一さん!」
無残やな、振仰ぐ宮が喉 ( のんど ) は血に塗 ( まみ ) れて、刃 ( やいば ) の半 ( なかば ) を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼 ( まなこ ) を睜 ( みひら ) きつつ、男の顔を視 ( み ) んと為るを、貫一は気も漫 ( そぞろ ) に引抱 ( ひつかか ) へて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝 ( こ ) りて些 ( ちと ) も弛 ( ゆる ) めぬ女の力。
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為 ( なぜ ) 放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
「私は嬉い。もう……もう思遺 ( おもひのこ ) す事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦 ( ゆる ) すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
血は滾々 ( こんこん ) と益す流れて、末期 ( まつご ) の影は次第に黯 ( くら ) く逼 ( せま ) れる気色。貫一は見るにも堪 ( た ) へず心乱れて、
「これ、宮、確乎 ( しつかり ) しろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言 ( ことば ) は出 ( い ) でず、抱 ( いだ ) き緊 ( し ) めたる宮が顔をば紛 ( はふ ) り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇 ( くちびる ) を貪 ( むさぼ ) り吮 ( す ) ひぬ。宮は男の唾 ( つばき ) を口移 ( くちうつし ) に辛 ( から ) くも喉 ( のど ) を潤 ( うるほ ) して、
「それなら貫一さん、私は、吁 ( ああ ) 、苦 ( くるし ) いから、もうこれで一思ひに……」
と力を出 ( いだ ) して刳 ( えぐ ) らんと為るを、緊 ( しか ) と抑へて貫一は、
「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」
「いいえ、止めずに」
「待てと言ふに」
「早く死にたい!」
漸 ( やうや ) く刀を捥放 ( もぎはな ) せば、宮は忽 ( たちま ) ち身を回 ( かへ ) して、輾 ( こ ) けつ転 ( ころ ) びつ座敷の外に脱 ( のが ) れ出づるを、
「宮、何処 ( どこ ) へ行く!」
遣 ( や ) らじと伸 ( の ) べし腕 ( かひな ) は逮 ( およ ) ばず、苛 ( いら ) つて起ちし貫一は唯一掴 ( ひとつかみ ) と躍り被 ( かか ) れば、生憎 ( あやにく ) 満枝が死骸 ( しがい ) に躓 ( つまづ ) き、一間ばかり投げられたる其処 ( そこ ) の敷居に膝頭 ( ひざがしら ) を砕けんばかり強く打れて、踣 ( のめ ) りしままに起きも得ず、身を竦 ( すく ) めて呻 ( うめ ) きながらも、
「宮、待て! 言ふことが有るから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」
呼べど号 ( さけ ) べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅 ( あしゆら ) の如く憤 ( いか ) りて起ちしが、又仆 ( たふ ) れぬ。仆れしを漸く起回 ( おきかへ ) りて、忙々 ( いそがはし ) く四下 ( あたり ) を眴 ( みまは ) せど、はや宮の影は在らず。その歩々 ( ほほ ) に委 ( おと ) せし血は苧環 ( をだまき ) の糸を曳きたるやうに長く連 ( つらな ) りて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処 ( いづこ ) まで、彼は重傷 ( いたで ) を負ひて行くならん。
磐石 ( ばんじやく ) を曳くより苦く貫一は膝の疼痛 ( いたみ ) を怺 ( こら ) へ怺へて、とにもかくにも塀外 ( へいそと ) に踽 ( よろぼ ) ひ出づれば、宮は未 ( いま ) だ遠くも行かず、有明 ( ありあけ ) の月冷 ( つきひやや ) かに夜は水の若 ( ごと ) く白 ( しら ) みて、ほのぼのと狭霧罩 ( さぎりこ ) めたる大路の寂 ( せき ) として物の影無き辺 ( あたり ) を、唯独 ( ひと ) り覚束無 ( おぼつかな ) げに走れるなり。
「宮! 待て!」
呼べば谺 ( こだま ) は返せども、雲は幽 ( ゆう ) にして彼は応 ( こた ) へず。歯咬 ( はがみ ) を作 ( な ) して貫一は後を追ひぬ。
固 ( もと ) より間 ( あはひ ) は幾許 ( いくばく ) も有らざるに、急所の血を出 ( いだ ) せる女の足取、引捉 ( ひつとら ) ふるに何程の事有らんと、侮 ( あなど ) りしに相違して、彼は始の如く走るに引易 ( ひきか ) へ、此方 ( こなた ) は漸く息疲 ( いきつか ) るるに及べども、距離は竟 ( つひ ) に依然として近 ( ちかづ ) く能はず。こは口惜 ( くちを ) し、と貫一は満身の力を励し、僵 ( たふ ) るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱 ( なほのが ) るるほどに、帯は忽 ( たちま ) ち颯 ( さ ) と釈 ( と ) けて脚 ( あし ) に絡 ( まと ) ふを、右に左に踢払 ( けはら ) ひつつ、跌 ( つまづ ) きては進み、行きては踉 ( よろめ ) き、彼もはや力は竭 ( つ ) きたりと見えながら、如何 ( いか ) に為 ( せ ) ん、其処 ( そこ ) に伏して復 ( また ) 起きざる時、躬 ( みづから ) も終 ( つひ ) に及ばずして此処 ( ここ ) に絶入 ( ぜつにゆう ) せんと思へば、貫一は今に当りて纔 ( わづか ) に声を揚ぐるの術 ( じゆつ ) を余すのみ。
「宮!」と奮 ( ふる ) つて呼びしかど、憫 ( あはれ ) むべし、その声は苦き喘 ( あへぎ ) の如き者なりき。我と吾肉を啖 ( くら ) はんと想ふばかりに躁 ( あせ ) れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無 ( かひな ) き己 ( おのれ ) に憤 ( いかり ) を作 ( な ) して、益す休まず狂呼 ( きようこ ) すれば、彼の吭 ( のんど ) は終に破れて、汨然 ( こつぜん ) として一涌 ( いちゆう ) の鮮紅 ( せんこう ) を嘔出 ( はきいだ ) せり。心晦 ( こころくら ) みて覚えず倒れんとする耳元に、松風 ( まつかぜ ) 驀然 ( どつ ) と吹起りて、吾に復 ( かへ ) れば、眼前の御壕端 ( おほりばた ) 。只看 ( み ) る、宮は行き行きて生茂 ( おひしげ ) る柳の暗きに分入りたる、入水 ( じゆすい ) の覚悟に極 ( きはま ) れりと、貫一は必死の声を搾 ( しぼ ) りて連 ( しきり ) に呼べば、咳入 ( せきい ) り咳入り数口 ( すうこう ) の咯血 ( かつけつ ) 、斑爛 ( はんらん ) として地に委 ( お ) ちたり。何思ひけん、宮は千条 ( ちすぢ ) の緑の陰より、その色よりは稍 ( やや ) 白き面 ( おもて ) を露 ( あらは ) して、追来る人を熟 ( じ ) と見たりしが、竟 ( つひ ) に疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗 ( あ ) げて遙 ( はるか ) に留 ( と ) むるを、免 ( ゆる ) し給へと伏拝 ( ふしをが ) みて、つと茂の中 ( うち ) に隠れたり。
彼は己 ( おのれ ) の死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄 ( かけよ ) る岸の柳を潜 ( くぐ ) りて、水は深きか、宮は何処 ( いづこ ) に、と葎 ( むぐら ) の露に踏滑 ( ふみすべ ) る身を危 ( あやふ ) くも淵 ( ふち ) に臨めば、鞺鞳 ( どうとう ) と瀉 ( そそ ) ぐ早瀬の水は、駭 ( おどろ ) く浪 ( なみ ) の体 ( たい ) を尽 ( つく ) し、乱るる流の文 ( ぶん ) を捲 ( ま ) いて、眼下に幾個の怪き大石 ( たいせき ) 、かの鰲背 ( ごうはい ) を聚 ( あつ ) めて丘の如く、その勢 ( いきほひ ) を拒 ( ふせ ) がんと為れど、触るれば払ひ、当れば飜 ( ひるがへ ) り、長波の邁 ( ゆ ) くところ滔々 ( とうとう ) として破らざる為 ( な ) き奮迅 ( ふんじん ) の力は、両岸も為に震ひ、坤軸 ( こんじく ) も為に轟 ( とどろ ) き、蹈居 ( ふみゐ ) る土も今にや崩 ( くづ ) れなんと疑ふところ、衣袂 ( いべい ) の雨濃 ( あめこまやか ) に灑 ( そそ ) ぎ、鬢髪 ( びんぱつ ) の風転 ( うた ) た急なり。
あな凄 ( すさま ) じ、と貫一は身毛 ( みのけ ) も弥竪 ( よだ ) ちて、縋 ( すが ) れる枝を放ちかねつつ、看れば、叢 ( くさむら ) の底に秋蛇 ( しゆうだ ) の行くに似たる径 ( こみち ) 有りて、ほとほと逆落 ( さかおとし ) に懸崖 ( けんがい ) を下 ( くだ ) るべし。危 ( あやふ ) き哉 ( かな ) と差覗 ( さしのぞ ) けば、茅葛 ( かやかつら ) の頻 ( しきり ) に動きて、小笹棘 ( をざさうばら ) に見えつ隠れつ段々と辷 ( すべ ) り行くは、求むる宮なり。
その死を止 ( とど ) めんの一念より他 ( た ) あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑 ( いとま ) もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間 ( たにま ) の嵐 ( あらし ) の誘ふに委 ( まか ) せて、驀直 ( ましぐら ) に身を堕 ( おと ) せり。
或 ( あるひ ) は摧 ( くだ ) けて死ぬべかりしを、恙無 ( つつがな ) きこそ天の佑 ( たすけ ) と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸 ( ひた ) れる巌 ( いはほ ) を渉 ( わた ) りて、既に渦巻く滝津瀬 ( たきつせ ) に生憎 ( あやにく ) ! 花は散りかかるを、
「宮!」
と後 ( うしろ ) に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
咄嗟 ( とつさ ) の遅 ( おくれ ) を天に叫び、地に号 ( わめ ) き、流に悶 ( もだ ) え、巌に狂へる貫一は、血走る眼 ( まなこ ) に水を射て、此処 ( ここ ) や彼処 ( かしこ ) と恋 ( こひし ) き水屑 ( みくづ ) を覓 ( もと ) むれば、正 ( まさし ) く浮木芥 ( うきぎあくた ) の類とも見えざる物の、十間 ( じつけん ) ばかり彼方 ( あなた ) を揉みに揉んで、波間隠 ( なみまがくれ ) に推流 ( おしなが ) さるるは、人ならず哉 ( や ) 、宮なるかと瞳 ( ひとみ ) を定むる折しもあれ、水勢其処 ( そこ ) に一段急なり、在りける影は弦 ( つる ) を放れし箭飛 ( やとび ) を作 ( な ) して、行方 ( ゆくへ ) も知らずと胸潰 ( むねつぶ ) るれば、忽 ( たちま ) ち遠く浮き出でたり。
嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀 ( よ ) ぢ、崖 ( がけ ) を伝ひ、或 ( あるひ ) は下りて水を踰 ( こ ) え、石を躡 ( ふ ) み、巌を廻 ( めぐ ) り、心地死ぬべく踉蹌 ( ろうそう ) として近 ( ちかづ ) き見れば、緑樹 ( りよくじゆ ) 蔭愁 ( かげうれ ) ひ、潺湲 ( せんかん ) 声咽 ( こゑむせ ) びて、浅瀬に繋 ( かか ) れる宮が骸 ( むくろ ) よ!
貫一は唯その上に泣伏したり。
吁 ( ああ ) 、宮は生前に於 ( おい ) て纔 ( わづか ) に一刻の前 ( さき ) なる生前に於て、この情 ( なさけ ) の熱き一滴を幾許 ( いかばかり ) かは忝 ( かたじけ ) なみけん。今や千行垂 ( せんこうた ) るといへども効無 ( かひな ) き涙は、徒 ( いたづら ) に無心の死顔に濺 ( そそ ) ぎて宮の魂 ( こん ) は知らざるなり。
貫一の悲 ( かなしみ ) は窮 ( きはま ) りぬ。
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀 ( あはれ ) なのに、この浅ましい姿はどうだ。
刃 ( やいば ) に貫き、水に溺 ( おぼ ) れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛 ( かはい ) い奴め、思迫 ( おもひつ ) めたなあ!
宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊 ( あきた ) らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏 ( ふびん ) だ!
どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状 ( しにざま ) を見ては、罪も恨 ( うらみ ) も皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺 ( おれ ) は心の底から赦したぞ!
今はの際 ( きは ) に赦したと、俺が一言 ( ひとこと ) 云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ‼
余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目 ( めんもく ) 無い! これまでの精神とは知らずに見殺 ( みごろし ) に為たのは残念だつた! 俺が過 ( あやまり ) だ! 宮、赦してくれよ! 可 ( い ) いか、宮、可いか。
嗚呼 ( ああ ) 死んで了つたのだ※〈[#感嘆符三つ、396-10]〉 」
貫一は彼の死の余りに酷 ( むご ) く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽 ( ことごと ) く沃 ( そそ ) がれ、旧悪の膚 ( はだへ ) は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己 ( おのれ ) の為に捨てたる亡骸 ( なきがら ) の、実 ( げ ) に憐 ( あはれ ) みても憐むべく、悲みても猶 ( なほ ) 及ばざる思の、今は唯極 ( きは ) めて切なる有るのみ。
かの烈々 ( れつれつ ) たる怨念 ( おんねん ) の跡無く消ゆるとともに、一旦涸 ( か ) れにし愛慕の情は又泉の涌 ( わ ) くらんやうに起りて、その胸に漲 ( みなぎ ) りぬ。苦からず哉 ( や ) 、人亡 ( な ) き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何 ( いか ) なる恨をも繋 ( か ) くるの忍び易 ( やす ) きを今ぞ知るなる。
貫一は腸断 ( ちようた ) ち涙連 ( なみだつらな ) りて、我を我とも覚ゆる能はず。
「宮、貴様に手向 ( たむ ) けるのは、俺のこの胸の中 ( うち ) だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳 ( ひやく ) までも添 ( そひ ) 、添、添遂 ( そひと ) げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
氷の如き宮が手を取り、犇 ( ひし ) と握りて、永く眠れる面 ( おもて ) を覗 ( のぞ ) かんと為れば、涙急にして文色 ( あいろ ) も分かず、推重 ( おしかさな ) りて、怜 ( いと ) しやと身を悶 ( もだ ) えつつ少時 ( しばし ) 泣いたり。
「然し、宮、貴様は立派な者だ。一 ( ひとた ) び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴 ( あつぱれ ) だぞ。それでこそ始て人間たるの面目 ( めんもく ) が立つのだ。
然るに、この貫一はどうか! 一端 ( いつぱし ) 男と生れながら、高が一婦 ( いつぷ ) の愛を失つたが為に、志を挫 ( くぢ ) いて一生を誤り、餓鬼 ( がき ) の如き振舞 ( ふるまひ ) を為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪 ( むさぼ ) るの外は何も知らん。その財 ( かね ) は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。
凡 ( およ ) そ人と謂 ( い ) ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己 ( おのれ ) と云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟 ( いやし ) くも男と生れた一生を抛 ( なげう ) たうと云ふのだ。人たるの効 ( かひ ) は何処 ( どこ ) に在る、人たる道はどうしたのか。
噫 ( ああ ) 、誤つた!
宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯 ( からだ ) だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入 ( はぢい ) りも為 ( す ) りや、可羨 ( うらやまし ) くもある。当初 ( はじめ ) 貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速 ( すみや ) かに心を悛 ( あらた ) めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖 ( つぐな ) はなけりや成らん訳だ。
嗟乎 ( ああ ) 、然し、何に就 ( つ ) けても苦 ( くるし ) い世の中だ!
人間の道は道、義務は義務、楽 ( たのしみ ) は又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢 ( しぎさわ ) に居て宮を対手 ( あいて ) に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。
あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
爾来 ( あれから ) 、今日 ( こんにち ) までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼 ( たのみ ) で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損 ( しにぞくな ) つてゐたのだ‼
鰐淵 ( わにぶち ) は焚死 ( やけし ) に、宮は自殺した、俺はどう為 ( す ) るのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来 ( これから ) 宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦 ( くるしみ ) を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
人たるの道を尽す? 人たるの行 ( おこなひ ) を為る? ああ、憥 ( うるさ ) い、憥い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一 ( いつ ) の罪悪だと謂 ( い ) ふ。或 ( あるひ ) は罪悪かも知れん。けれども、茫々然 ( ぼうぼうぜん ) と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等 ( なにら ) の益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末 ( みじまつ ) だ。増 ( ま ) して、俺が今死ねば、忽 ( たちま ) ち何十人の人が助り、何百人の人が懽 ( よろこ ) ぶか知れん。
俺も一箇 ( ひとり ) の女故 ( ゆゑ ) に身を誤つたその余 ( あと ) が、盗人 ( ぬすと ) 家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初 ( はじめ ) に出損 ( でそくな ) つたのが一生の不覚、あれが抑 ( そもそ ) も不運の貫一の躯 ( からだ ) は、もう一遍鍛直 ( きたへなほ ) して出て来るより外 ( ほか ) 為方が無い。この世の無念はその時霽 ( はら ) す!」
さしも遣る方無く悲 ( かなし ) めりし貫一は、その悲を立 ( たちどこ ) ろに抜くべき術 ( すべ ) を今覚れり。看々 ( みるみる ) 涙の頬 ( ほほ ) の乾 ( かわ ) ける辺 ( あたり ) に、異 ( あやし ) く昂 ( あが ) れる気有 ( きあ ) りて青く耀 ( かがや ) きぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世 ( らいせ ) で二人が夫婦に成る、これが結納 ( ゆひのう ) だと思つて、幾久 ( いくひさし ) く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
さらば往きて汝 ( なんぢ ) の陥りし淵 ( ふち ) に沈まん。沈まば諸共 ( もろとも ) と、彼は宮が屍 ( かばね ) を引起して背 ( うしろ ) に負へば、その軽 ( かろ ) きこと一片 ( ひとひら ) の紙に等 ( ひと ) し。怪 ( あや ) しと見返れば、更に怪し! 芳芬 ( ほうふん ) 鼻を撲 ( う ) ちて、一朶 ( いちだ ) の白百合 ( しろゆり ) 大 ( おほい ) さ人面 ( じんめん ) の若 ( ごと ) きが、満開の葩 ( はなびら ) を垂れて肩に懸 ( かか ) れり。
不思議に愕 ( おどろ ) くと為れば目覚 ( めさ ) めぬ。覚むれば暁の夢なり。
〈[#改ページ]〉
続続金色夜叉
貫一が胸は益 ( ますます ) 苦 ( くるし ) く成り愈 ( まさ ) りぬ。彼を念 ( おも ) ひ、これを思ふに、生きて在るべき心地はせで、寧 ( むし ) ろかの怪 ( あやし ) き夢の如く成りなんを、快からずやと疑へるなり。
彼は空 ( むなし ) く万事を抛 ( なげう ) ちて、懊憹 ( おうのう ) の間に三日ばかりを過 ( すご ) しぬ。
これを語らんに人無く、愬 ( うつた ) へんには友無く、しかも自ら拯 ( すく ) ふべき道は有りや。有りとも覚えず、無しとは知れど、煩 ( わづら ) ふ者の煩ひ、悩む者の悩みて縦 ( ほしいま ) まなるを如何 ( いか ) にせん。彼は実にこの昏迷乱擾 ( こんめいらんじよう ) せる一根 ( いつこん ) の悪障を抉去 ( くじりさ ) りて、猛火に燬 ( や ) かんことを冀 ( こひねが ) へり。その時彼は死ぬべきなり。生か、死か。貫一の苦悶 ( くもん ) は漸 ( やうや ) く急にして、終 ( つひ ) にこの問題の前に首 ( かうべ ) を垂るるに至れり。
値無き吾が生存は、又同 ( おなじ ) く値無き死亡を以つて畢 ( を ) へしむべき者か。悔に堪 ( た ) へざる吾が生の値無かりしを結ばんには、これを償ふに足る可 ( べ ) き死を以て為 ( せ ) ざる可からざるか、或 ( あるひ ) は、ここに過多 ( あやまちおほ ) き半生の最期 ( さいご ) を遂 ( と ) げて、新 ( あらた ) に他の値ある後半の復活を明日 ( みようにち ) に計るべきか。
彼は強 ( あなが ) ちに死を避けず、又生を厭 ( いと ) ふにもあらざれど、両 ( ふたつ ) ながらその値無きを、私 ( ひそか ) に屑 ( いさぎよ ) しと為 ( せ ) ざるなり。当面の苦は彼に死を勧め、半生の悔は耻 ( はぢ ) を責めて仮さず。苦を抜かんが為に、我は値無き死を辞せざるべきか、過 ( あやまち ) を償はんが為に、我は楽まざる生を忍ぶべきか。碌々 ( ろくろく ) の生は易 ( やす ) し、死は即 ( すなは ) ち難 ( かた ) し。碌々の死は易し、生は則 ( すなは ) ち難し。我は悔いて人と成るべきか、死してその愚を完 ( まつた ) うすべきか。
貫一は活を求めて得ず、死を覓 ( もと ) めて得ず、居れば立つを念 ( おも ) ひ、立てば臥 ( ふ ) すを想 ( おも ) ひ、臥せば行くを懐 ( おも ) ひ、寐 ( い ) ぬれば覚め、覚むれば思ひて、夜もあらず、日もあらず、人もあらず、世もあらで、唯憂 ( ただうれ ) ひ惑へる己一個 ( おのれひとり ) の措所無 ( おきどころな ) く可煩 ( わづらはし ) きに悩乱せり。
あだかもこの際抛 ( なげう ) ち去るべからざる一件の要事は起りぬ。先に大口 ( おほぐち ) の言込有 ( いひこみあ ) りし貸付の緩々 ( だらだら ) 急に取引迫りて、彼は些 ( ちと ) の猶予も無く、自ら野州 ( やしゆう ) 塩原なる畑下 ( はたおり ) と云へる温泉場 ( おんせんじよう ) に出向き、其処 ( そこ ) に清琴楼 ( せいきんろう ) と呼べる湯宿に就きて、密 ( ひそか ) に云々 ( うんぬん ) の探知すべき必要を生じたるなり。
謂知 ( いひし ) らず憥 ( うるさ ) しと腹立たれけれど、行懸 ( ゆきがかり ) の是非無く、かつは難得 ( えがた ) き奇景の地と聞及べば、少時 ( しばし ) の憂 ( うさ ) を忘るる事も有らんと、自ら努めて結束し、かの日より約 ( およそ ) 一週間の後、彼はほとほと進まぬ足を曳 ( ひ ) きて家を出でぬ。その晨 ( あした ) 横雲白 ( よこぐもしろ ) く明方 ( あけがた ) の空に半輪の残月を懸けたり。一番列車を取らんと上野に向ふ俥 ( くるま ) の上なる貫一は、この暁の眺矚 ( ながめ ) に撲 ( うた ) れて、覚えず悚然 ( しようぜん ) たる者ありき。
車は駛 ( は ) せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易 ( かは ) らざる他 ( そ ) の悒鬱 ( ゆううつ ) を抱 ( いだ ) きて、遣 ( や ) る方無き五時間の独 ( ひとり ) に倦 ( う ) み憊 ( つか ) れつつ、始て西那須野 ( にしなすの ) の駅に下車せり。
直 ( ただ ) ちに西北に向ひて、今尚 ( いまなほ ) 茫々 ( ぼうぼう ) たる古 ( いにしへ ) の那須野原 ( なすのがはら ) に入 ( い ) れば、天は濶 ( ひろ ) く、地は遐 ( はるか ) に、唯平蕪 ( ただへいぶ ) の迷ひ、断雲の飛ぶのみにして、三里の坦途 ( たんと ) 、一帯の重巒 ( ちようらん ) 、塩原は其処 ( そこ ) ぞと見えて、行くほどに跡 ( みち ) は窮 ( きはま ) らず、漸 ( やうや ) く千本松を過ぎ、進みて関谷村 ( せきやむら ) に到れば、人家の尽る処に淙々 ( そうそう ) の響有りて、これに架 ( かか ) れるを入勝橋 ( にゆうしようきよう ) と為 ( な ) す。
輙 ( すなは ) ち橋を渡りて僅 ( わづか ) に行けば、日光冥 ( くら ) く、山厚く畳み、嵐気 ( らんき ) 冷 ( ひややか ) に壑深 ( たにふか ) く陥りて、幾廻 ( いくめぐり ) せる葛折 ( つづらをり ) の、後には密樹 ( みつじゆ ) に声々 ( せいせい ) の鳥呼び、前には幽草 ( ゆうそう ) 歩々 ( ほほ ) の花を発 ( ひら ) き、いよいよ躋 ( のぼ ) れば、遙 ( はるか ) に木隠 ( こがくれ ) の音のみ聞えし流の水上 ( みなかみ ) は浅く露 ( あらは ) れて、驚破 ( すは ) や、ここに空山 ( くうざん ) の雷 ( いかづち ) 白光 ( はつこう ) を放ちて頽 ( くづ ) れ落ちたるかと凄 ( すさま ) じかり。道の右は山を𠠇 ( き ) りて長壁と成し、石幽 ( いしゆう ) に蘚碧 ( こけあを ) うして、幾条 ( いくすぢ ) とも白糸を乱し懸けたる細瀑小瀑 ( ほそたきこたき ) の珊々 ( さんさん ) として濺 ( そそ ) げるは、嶺上 ( れいじよう ) の松の調 ( しらべ ) も、定 ( さだめ ) てこの緒 ( を ) よりやと見捨て難し。
俥を駆 ( か ) りて白羽坂 ( しらはざか ) を踰 ( こ ) えてより、回顧橋 ( みかへりばし ) に三十尺の飛瀑 ( ひばく ) を蹻 ( ふ ) みて、山中の景は始て奇なり。これより行きて道有れば、水有り、水有れば、必ず橋有り、全渓にして三十橋、山有れば巌有 ( いはあ ) り、巌有れば必ず瀑 ( たき ) 有り、全嶺 ( ぜんれい ) にして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯。猶 ( なほ ) 数ふれば十二勝、十六名所、七不思議、誰 ( たれ ) か一々探 ( さぐ ) り得べき。
抑 ( そもそ ) も塩原の地形たる、塩谷郡 ( しほやごほり ) の南より群峰の間を分けて深く西北に入 ( い ) り、綿々として箒川 ( ははきがわ ) の流に沂 ( さかのぼ ) る片岨 ( かたそば ) の、四里に岐 ( わか ) れ、十一里に亙 ( わた ) りて、到る処巉巌 ( ざんがん ) の水を夾 ( はさ ) まざる無きは、宛然 ( さながら ) 青銅の薬研 ( やげん ) に瑠璃末 ( るりまつ ) を砕くに似たり。先づ大網 ( おほあみ ) の湯を過 ( すぐ ) れば、根本山 ( ねもとやま ) 、魚止滝 ( うおどめのたき ) 、児 ( ちご ) ヶ淵 ( ふち ) 、左靱 ( ひだりうつぼ ) の険は古 ( ふ ) りて、白雲洞 ( はくうんどう ) は朗 ( ほがらか ) に、布滝 ( ぬのだき ) 、竜 ( りゆう ) ヶ鼻 ( はな ) 、材木石 ( ざいもくいし ) 、五色石 ( ごしきせき ) 、船岩 ( ふないわ ) なんどと眺行 ( ながめゆ ) けば、鳥井戸 ( とりいど ) 、前山 ( まえやま ) の翠衣 ( みどりころも ) に染みて、福渡 ( ふくわた ) の里に入 ( い ) るなり。
途 ( みち ) すがら前面 ( むかひ ) の崖 ( がけ ) の処々 ( ところどころ ) に躑躅 ( つつじ ) の残り、山藤の懸れるが、甚 ( はなは ) だ興有りと目留まれば、又この辺 ( あたり ) 殊 ( こと ) に谿浅 ( たにあさ ) く、水澄みて、大いなる古鏡 ( こきよう ) の沈める如く、深く蔽 ( おほ ) へる岸樹 ( がんじゆ ) は陰々として眠るに似たり。貫一は覚えず踏止りぬ。
かの逆巻 ( さかま ) く波に分け入りし宮が、息絶えて浮び出でたりし其処 ( そこ ) の景色に、似たりとも酷 ( はなは ) だ似たる岸の布置 ( たたずまひ ) 、茂 ( しげり ) の状況 ( ありさま ) 、乃至 ( ないし ) は漾 ( たた ) ふる水の文 ( あや ) も、透徹 ( すきとほ ) る底の岩面 ( いはづら ) も、広さの程も、位置も、趣 ( おもむき ) も、子細に看来 ( みきた ) ればいよいよ差 ( たが ) はず。
彼は眦 ( まなじり ) を決 ( さ ) きて寒慄 ( かんりつ ) せり。
怪 ( あやし ) むべき哉 ( かな ) 、曾 ( かつ ) て経 ( へ ) たりし塲 ( ところ ) をそのままに夢むる例 ( ためし ) は有れ、所拠 ( よりどころ ) も無く夢みし跡を、歴々 ( まざまざ ) とかく目前に見ると云ふも有る事か。宮の骸 ( むくろ ) の横 ( よこた ) はりし処も、又は己 ( おのれ ) の追来 ( おひき ) し筋も、彼処 ( かしこ ) よ、此処 ( ここ ) よと、陰 ( ひそか ) に一々指 ( ゆびさ ) しては、限無 ( かぎりな ) く駭 ( おどろ ) けるなり。
車夫を顧みて、処の名を問へば、不動沢 ( ふどうざわ ) と言ふ。
物可恐 ( ものおそろ ) しげなる沢の名なるよ。げに思へば、人も死ぬべき処の名なり。我も既に死なんとせしがと、さすが現 ( うつつ ) の身にも沁 ( し ) む時、宮にはあらで山百合 ( やまゆり ) の花なりし怪異を又懐 ( おも ) ひて、彼は肩頭 ( かたさき ) 寒く顫 ( ふる ) ひぬ。
卒 ( にはか ) に踵 ( きびす ) を回 ( かへ ) して急げば、行路 ( ゆくて ) の雲間に塞 ( ふさが ) りて、咄々 ( とつとつ ) 、何等 ( なんら ) の物か、と先 ( まづ ) 驚 ( おどろ ) かさるる異形 ( いぎよう ) の屏風巌 ( びようぶいは ) 、地を抜く何百丈 ( じよう ) と見挙 ( みあぐ ) る絶頂には、はらはら松も危 ( あやふ ) く立竦 ( たちすく ) み、幹竹割 ( からたけわり ) に割放 ( さきはな ) したる断面は、半空 ( なかそら ) より一文字に垂下 ( すいか ) して、岌々 ( きゆうきゆう ) たるその勢 ( いきほひ ) 、幾 ( ほとん ) ど眺 ( なが ) むる眼 ( まなこ ) も留 ( とま ) らず。
貫一は惘然 ( ぼうぜん ) として佇 ( たたず ) めり。
彼が宮を追ひて転 ( まろ ) び落ちたりし谷間の深さは、正 ( まさ ) にこの天辺 ( てつぺん ) の高きより投じたらんやうに、冉々 ( せんせん ) として虚空を舞下 ( まひくだ ) る危惧 ( きぐ ) の堪難 ( たへがた ) かりしを想へるなり。
我 ( われ ) 未 ( いま ) だ甞 ( かつ ) て見ざりつる絶壁! 危 ( あやふ ) しとも、可恐 ( おそろ ) しとも、夢ならずして争 ( いかで ) か飛下り得べき。又この人並 ( ひとなみ ) ならぬ雲雀骨 ( ひばりぼね ) の粉微塵 ( こなみじん ) に散つて失 ( う ) せざりしこそ、洵 ( まこと ) に夢なりけれと、身柱 ( ちりけ ) 冷 ( ひやや ) かに瞳 ( ひとみ ) を凝 ( こら ) す彼の傍 ( かたはら ) より、これこそ名にし負ふ天狗巌 ( てんぐいわ ) 、と為 ( し ) たり貌 ( がほ ) にも車夫は案内 ( あない ) す。
貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ懼 ( おそ ) れつつ立尽せり。
既に如此 ( かくのごと ) くなれば、怪は愈 ( いよい ) よ怪に、或 ( あるひ ) は夢中に見たりし踪 ( あと ) の猶 ( なほ ) 着々 ( ちやくちやく ) 活現し来 ( きた ) りて、飽くまで我を脅 ( おびやか ) さざれば休 ( や ) まざらんと為るにあらずや、と彼は胸安からずも足に信 ( まか ) せて、かの巌 ( いはほ ) の頭上に聳 ( そび ) ゆる辺 ( あたり ) に到れば、谿 ( たに ) 急に激折して、水これが為に鼓怒 ( こど ) し、咆哮 ( ほうこう ) し、噴薄激盪 ( げきとう ) して、奔馬 ( ほんば ) の乱れ競 ( きそ ) ふが如し。この乱流の間に横 ( よこた ) はりて高さ二丈に余り、その頂 ( いただき ) は平 ( たひらか ) に濶 ( ひろが ) りて、寛 ( ゆたか ) に百人を立たしむべき大磐石 ( だいばんじやく ) 、風雨に歳経 ( としふ ) る膚 ( はだへ ) は死灰 ( しかい ) の色を成して、鱗 ( うろこ ) も添はず、毛も生ひざれど、状 ( かたち ) 可恐 ( おそろ ) しげに蹲 ( うづくま ) りて、老木の蔭を負ひ、急湍 ( きゆうたん ) の浪 ( なみ ) に漬 ( ひた ) りて、夜な夜な天狗巌の魔風 ( まふう ) に誘はれて吼 ( ほ ) えもしぬべき怪しの物なり。
その古 ( いにしへ ) 蒲生飛騨守氏郷 ( がもうひだのかみうじさと ) この処に野立 ( のだち ) せし事有るに因 ( よ ) りて、野立石 ( のだちいし ) とは申す、と例のが説出 ( ときいだ ) すを、貫一は頷 ( うなづ ) きつつ、目を放たず打眺 ( うちなが ) めて、独り窃 ( ひそか ) に舌を巻くのみ。
彼は実 ( げ ) に壑間 ( たにま ) の宮を尋ぬる時、この大石 ( たいせき ) を眼下に窺ひ見たりしを忘れざるなり。
又は流るる宮を追ひて、道無きに困 ( くるし ) める折、左右には水深く、崖高く、前には攀 ( よ ) づべからざる石の塞 ( ふさが ) りたるを、攀 ( よ ) ぢて半 ( なかば ) に到りて進退谷 ( きはま ) りつる、その石もこれなりけん、と肩は自 ( おのづ ) と聳 ( そび ) えて、久く留 ( とどま ) るに堪 ( た ) へず。
数歩 ( すほ ) を行けば、宮が命を沈めしその淵 ( ふち ) と見るべき処も、彼が釈 ( と ) けたる帯を曳 ( ひ ) きしその巌 ( いはほ ) も、歴然として皆在らざるは無し! 貫一が髪毛 ( かみのけ ) は針 ( はり ) の如く竪 ( た ) ちて戦 ( そよ ) げり。彼の思は前夜の悪夢を反復 ( くりかへ ) すに等 ( ひとし ) き苦悩を辞する能はざればなり。
夢ながら可恐 ( おそろし ) くも、浅ましくも、悲くも、可傷 ( いたまし ) くも、分 ( わ ) く方無くて唯一図に切なかりしを、事もし一塲の夢にして止 ( とどま ) らざらんには、抑 ( そもそ ) も如何 ( いかん ) ! 今や塩原の実景は一々 ( いちいち ) 夢中の見るところ、然らばこの景既に夢ならず! 思掛 ( おもひが ) けずもここに来にける吾身もまた夢ならず! 但 ( ただ ) 夢に欠く者とては宮一箇 ( ひとり ) のみ。纔 ( わづか ) に彼のここに来 ( きた ) らざるのみ‼
貫一はかく思到りて、我又夢に入りたるにあらざるかと疑はんとも為つ。夢ならずと為 ( せ ) ば、我は由無 ( よしな ) き処に来にけるよ。幸 ( さいはひ ) に夢に似る事無くてあれかし。異 ( あや ) しとも甚 ( はなは ) だ異し! 疾 ( と ) く往きて、疾く還 ( かへ ) らんと、遽 ( にはか ) に率 ( ひきゐ ) し俥 ( くるま ) に乗りて、白倉山 ( しらくらやま ) の麓 ( ふもと ) 、塩釜 ( しおがま ) の湯 ( ゆ ) 、高尾塚 ( たかおづか ) 、離室 ( はなれむろ ) 、甘湯沢 ( あまゆざわ ) 、兄弟滝 ( あにおととのたき ) 、玉簾瀬 ( たまだれのせ ) 、小太郎淵 ( こたろうがぶち ) 、路 ( みち ) の頭 ( ほとり ) に高きは寺山 ( てらやま ) 、低きに人家の在る処、即ち畑下戸 ( はたおり ) 。
一村十二戸、温泉は五箇所に涌 ( わ ) きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方 ( あた ) りて箒川 ( ははきがわ ) の緩 ( ゆる ) く廻 ( めぐ ) れる磧 ( かはら ) に臨み、俯 ( ふ ) しては、水石 ( すいせき ) の粼々 ( りんりん ) たるを弄 ( もてあそ ) び、仰げば西に、富士、喜十六 ( きじゆうろく ) の翠巒 ( すいらん ) と対して、清風座に満ち、袖 ( そで ) の沢を落来 ( おちく ) る流は、二十丈の絶壁に懸りて、素縑 ( ねりぎぬ ) を垂れたる如き吉井滝 ( よしいのたき ) あり。東北は山又山を重ねて、琅玕 ( ろうかん ) の玉簾 ( ぎよくれん ) 深く夏日の畏 ( おそ ) るべきを遮 ( さへぎ ) りたれば、四面遊目 ( ゆうもく ) に足りて丘壑 ( きゆうかく ) の富を擅 ( ほしいまま ) にし、林泉の奢 ( おごり ) を窮 ( きは ) め、又有るまじき清福自在の別境なり。
貫一はこの絵を看 ( み ) る如き清穏 ( せいおん ) の風景に値 ( あ ) ひて、かの途上 ( みちすがら ) 険 ( けはし ) き巌 ( いはほ ) と峻 ( さかし ) き流との為に幾度 ( いくたび ) か魂 ( こん ) 飛び肉銷 ( にくしよう ) して、理 ( をさ ) むる方 ( かた ) 無く掻乱 ( かきみだ ) されし胸の内は靄然 ( あいぜん ) として頓 ( とみ ) に和 ( やはら ) ぎ、恍然 ( こうぜん ) として総 ( すべ ) て忘れたり。
彼は以為 ( おもへ ) らく。
誠に好くこそ我は来 ( き ) つれ! なんぞ来 ( きた ) るの甚 ( はなは ) だ遅かりし。山の麗 ( うるは ) しと謂 ( い ) ふも、壌 ( つち ) の堆 ( うづたか ) き者のみ、川の暢 ( のどけ ) しと謂ふも、水の逝 ( ゆ ) くに過ぎざるを、牢 ( ろう ) として抜く可からざる我が半生の痼疾 ( こしつ ) は、争 ( いか ) で壌 ( つち ) と水との医 ( い ) すべき者ならん、と歯牙 ( しが ) にも掛けず侮 ( あなど ) りたりし己 ( おのれ ) こそ、先づ侮らるべき愚 ( おろか ) の者ならずや。
看 ( み ) よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀 ( ひいづ ) る峰も、流るる渓 ( たに ) も、峙 ( そばだ ) つ巌 ( いはほ ) も、吹来 ( ふきく ) る風も、日の光も、鶏 ( とり ) の鳴く音 ( ね ) も、空の色も、皆自 ( おのづか ) ら浮世の物ならで、我はここに憂 ( うれひ ) を忘れ、悲 ( かなしみ ) を忘れ、苦 ( くるしみ ) を忘れ、労 ( つかれ ) を忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希 ( こひねが ) はくは今より如此 ( かくのごと ) くして我生を了 ( をは ) らん哉 ( かな ) 。
恋も有らず、怨 ( うらみ ) も有らず、金銭 ( ぜに ) も有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、失望も有らず、止 ( た ) だ天然の無垢 ( むく ) にして、形骸 ( けいがい ) を安きのみなるこの里、我思 ( わがおもひ ) を埋 ( うづ ) むるの里か、吾骨を埋るの里か。
性来多く山水の美に親 ( したし ) まざりし貫一は、殊 ( こと ) に心の往くところを知らざるばかりに愛 ( め ) で悦 ( よろこ ) びて、清琴楼の二階座敷に案内 ( あない ) されたれど、内には入 ( い ) らで、始より滝に向へる欄干 ( らんかん ) に倚 ( よ ) りて、偶 ( たまた ) ま人中を迷ひたりし子の母の親にも逢 ( あ ) ひけんやうに、少時 ( しばし ) はその傍 ( かたはら ) を離れ得ざるなりき。
楼前の緑は漸 ( やうや ) く暗く、遠近 ( をちこち ) の水音冱 ( さ ) えて、はや夕暮 ( ゆふく ) るる山風の身に沁 ( し ) めば、先づ湯浴 ( ゆあみ ) などせばやと、何気無く座敷に入りたる彼の眼 ( まなこ ) を、又一個 ( ひとつ ) 驚かす物こそあれ。
鞄 ( かばん ) を置いたる床間 ( とこのま ) に、山百合 ( やまゆり ) の花のいと大きなるを唯 ( ただ ) 一輪棒挿 ( ぼうざし ) に活 ( い ) けたるが、茎形 ( くきなり ) に曲 ( くね ) り傾きて、あたかも此方 ( こなた ) に向へるなり。
貫一は覚えず足を踏止めて、その瞪 ( みは ) れる眼 ( まなこ ) を花に注ぎつ。宮ははやここに居たりとやうに、彼は卒爾 ( そつじ ) の感に衝 ( つか ) れたるなり。
既に幾処 ( いくところ ) の実景の夢と符合するさへ有るに、またその殊に夢の夢なる一本 ( ひともと ) 百合のここに在る事、畢竟 ( ひつきよう ) 偶合に過ぎずとは謂へ、さりとては余りにかの夢とこの旅との照応急に、因縁深きに似て、などかくは我を驚かすの太甚 ( はなはだし ) き!
奇を弄 ( ろう ) して益 ( ますます ) 出づる不思議に、彼は益懼 ( おそれ ) を作 ( な ) して、或 ( あるひ ) はこの裏 ( うち ) に天意の測り難き者有るなからんや、とさすがに惑ひ苦めり。
やがて傍近 ( そばちか ) く寄りて、幾許 ( いかばかり ) 似たると眺 ( なが ) むれば、打披 ( うちひら ) ける葩 ( はなびら ) は凛 ( りん ) として玉を割 ( さ ) いたる如く、濃香芬々 ( ふんふん ) と迸 ( ほとばし ) り、葉色に露気 ( ろき ) 有りて緑鮮 ( みどりあざやか ) に、定 ( さだめ ) て今朝 ( けさ ) や剪 ( き ) りけんと覚 ( おぼし ) き花の勢 ( いきほひ ) なり。
少 ( しばら ) く楽まされし貫一も、これが為に興冷 ( きようさ ) めて、俄 ( にはか ) に重き頭 ( かしら ) を花の前に支へつつ、又かの愁 ( うれひ ) を徐々に喚起 ( よびおこ ) さんと為つ。
「お風呂へ御案内申しませう」
その声に彼は婢 ( をんな ) を見返りて、
「ああ、姐 ( ねえ ) さん、この花を那裏 ( そつち ) へ持つて行つておくれでないか」
「はあ、その花で御座いますか。旦那 ( だんな ) 様は百合の花はお嫌 ( きら ) ひで?」
「いや、匂 ( にほひ ) が強くて、頭痛がして成らんから」
「さやうで御座いますか。唯今直 ( ぢき ) に片付けますです。これは唯 ( たつた ) 一つ早咲 ( はやざき ) で、珍 ( めづらし ) う御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、徒 ( いたづら ) に挿して置いたんで御座います」
「うう、成程、早咲だね」
「さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが唯 ( たつた ) 一つ有りましたんで、紛 ( まぐ ) れ咲 ( ざき ) なので御座いますね」
「うう紛れ咲、さうだね」
「御案内致しませう」
風呂場に入 ( い ) れば、一箇 ( ひとり ) の客先 ( まづ ) 在りて、未 ( ま ) だ燈点 ( ひとも ) さぬ微黯 ( うすくらがり ) の湯槽 ( ゆぶね ) に漬 ( ひた ) りけるが、何様人の来 ( きた ) るに駭 ( おどろ ) けると覚 ( おぼし ) く、甚 ( はなは ) だ忙 ( せは ) しげに身を起しつ。貫一が入れば、直 ( ぢき ) に上ると斉 ( ひとし ) く洗塲 ( ながし ) の片隅 ( かたすみ ) に寄りて、色白き背 ( そびら ) を此方 ( こなた ) に向けたり。
年紀 ( としのころ ) は二十七八なるべきか。やや孱弱 ( かよわ ) なる短躯 ( こづくり ) の男なり。頻 ( しきり ) に左視右胆 ( とみかうみ ) すれども、明々地 ( あからさま ) ならぬ面貌 ( おもて ) は定 ( さだ ) かに認め難かり。されども、自 ( おのづか ) ら見識越 ( みしりごし ) ならぬは明 ( あきらか ) なるに、何が故 ( ゆゑ ) に人目を避 ( さく ) るが如き態 ( かたち ) を作 ( な ) すならん。華車 ( きやしや ) なる形成 ( かたちづくり ) は、ここ等辺 ( らあたり ) の人にあらず、何人 ( なにびと ) にして、何が故になど、貫一は徒 ( いたづら ) に心牽 ( こころひか ) れてゐたり。
やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入替りて、なほ飽くまで此方 ( こなた ) を向かざらんと為つつ、蕭索 ( しめやか ) に浴 ( ゆ ) を行 ( つか ) ふ音を立つるのみ。
その膚 ( はだ ) の色の男に似気無 ( にげな ) く白きも、その骨纖 ( ほねほそ ) に肉の痩 ( や ) せたるも、又はその挙動 ( ふるまひ ) の打湿 ( うちしめ ) りたるも、その人を懼 ( おそ ) るる気色 ( けしき ) なるも、総 ( すべ ) て自 ( おのづか ) ら尋常 ( ただ ) ならざるは、察するに精神病者の類 ( たぐひ ) なるべし。さては何の怪むところ有らん。節は初夏の未 ( ま ) だ寒き、この寥々 ( りようりよう ) たる山中に来 ( きた ) り宿 ( とま ) れる客なれば、保養鬱散の為ならずして、湯治の目的なるを思ふべし。誠にさなり、彼は病客なるべきをと心釈 ( こころと ) けては、はや目も遣らずなりける間 ( ひま ) に、男は浴 ( ゆあ ) み果てて、貸浴衣 ( かしゆかた ) 引絡 ( ひきまと ) ひつつ出で行きけり。
暮色はいよいよ濃 ( こまやか ) に、転激 ( うたたはげし ) き川音の寒さを添ふれど、手寡 ( てずくな ) なればや燈 ( あかり ) も持来 ( きた ) らず、湯香 ( ゆのか ) 高く蒸騰 ( むしのぼ ) る煙 ( けむり ) の中に、独 ( ひと ) り影暗く蹲 ( うづくま ) るも、少 ( すこし ) く凄 ( すさまじ ) き心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、床間 ( とこのま ) には百合の花も在らず煌々 ( こうこう ) たる燈火 ( ともしび ) の下に座を設け、膳 ( ぜん ) を据ゑて傍 ( かたはら ) に手焙 ( てあぶり ) を置き、茶器食籠 ( じきろう ) など取揃 ( とりそろ ) へて、この一目さすがに旅の労 ( つかれ ) を忘るべし。
先づ衣桁 ( いこう ) に在りける褞袍 ( どてら ) を被 ( かつ ) ぎ、夕冷 ( ゆふびえ ) の火も恋 ( こひし ) く引寄せて莨 ( たばこ ) を吃 ( ふか ) しゐれば、天地静 ( しづか ) に石走 ( いはばし ) る水の響、梢 ( こずゑ ) を渡る風の声、颯々淙々 ( さつさつそうそう ) と鳴りて、幽なること太古の如し。
乍 ( たちま ) ちはたはたと跫音 ( あしおと ) 長く廊下に曳 ( ひ ) いて、先のにはあらぬ小婢 ( こをんな ) の夕餉 ( ゆふげ ) を運び来 ( きた ) れるに引添ひて、其処 ( そこ ) に出でたる宿の主 ( あるじ ) は、
「今日 ( こんにち ) は好 ( よ ) うこそ御越 ( おこ ) し下さいまして、さぞ御労様 ( おつかれさま ) でゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下 ( くだ ) し置れまして、甚 ( はなは ) だ恐入りました儀で、難有 ( ありがた ) う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。
ええ前以 ( ぜんもつ ) てお詑 ( わび ) を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未だ些 ( ちよつ ) と時候もお早いので、自然お客様のお越 ( こし ) も御座りませんゆゑ、何分用意等 ( とう ) も致し置きませんやうな次第で、然し、一両日 ( いちりようにち ) 中にはお麁末 ( そまつ ) ながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日 ( こんみようにち ) のところは御勘弁を下さいまして、御寛 ( ごゆるり ) と御逗留 ( ごとうりゆう ) 下さいまするやうに。――これ、早う御味噌汁 ( おみおつけ ) をお易 ( か ) へ申して来ないか」
主 ( あるじ ) の辞し去りて後、貫一は彼の所謂 ( いはゆる ) 何も無き 、椀 ( わん ) も皿も皆黄なる鶏子一色 ( たまごいつしき ) の膳に向へり。
「内にはお客は今幾箇 ( いくたり ) 有るのだね」
「這箇 ( こちら ) の外にお一方 ( ひとかた ) で御座りやす」
「一箇 ( ひとり ) ? あのお客は単身 ( ひとり ) なのか」
「はい」
「先 ( さつき ) に湯殿で些 ( ちよつ ) と遇 ( あ ) つたが、男の客だよ」
「さよで御座りやす」
「あれは病人だね」
「どうで御座りやすか。――そんな事無 ( ね ) えで御座りやせう」
「さうかい。何処 ( どこ ) も不良 ( わる ) いところは無いやうかね」
「無 ( ね ) えやうで御座りやすな」
「どうも病人のやうだが、さうでないかな」
「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」
貫一は覚えず噴飯 ( ふんぱん ) せんと為つつ、
「成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」
「いんえ、昨日 ( きのふ ) お出 ( いで ) になりやしたので」
「昨日来たのだ? 東京の人か」
「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」
「それぢや商人 ( あきんど ) か」
「私能く知りやせん」
「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」
「そりやなさりやす」
「俺と那箇 ( どつち ) が為る」
「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」
「うむ、さうすると、俺の方がお饒舌 ( しやべり ) なのだな」
「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏 ( あちら ) のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様 ( つれさま ) が直 ( ぢき ) にいらしやる筈 ( はず ) で、それを、まあ酷 ( えら ) う待つてお在 ( いで ) なさりやす」
「おお、伴 ( つれ ) が後から来るのか。いや、大きに御馳走 ( ごちそう ) だつた」
「何も御座りやせんで、お麁末様 ( そまつさま ) で御座りやす」
婢 ( をんな ) は膳を引きて起ちぬ。貫一は顛然 ( ころり ) と臥 ( ね ) たり。
二十間も座敷の数有る大構 ( おほがまへ ) の内に、唯二人の客を宿せるだに、寂寥 ( さびしさ ) は既に余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に蔽 ( おほは ) れたる孤村の片辺 ( かたほとり ) に倚 ( よ ) れる清琴楼の間毎に亘 ( わた ) る長廊下は、星の下行く町の小路より、幾許 ( いかばかり ) 心細くも可恐 ( おそろし ) き夜道ならんよ。戸一重外 ( とひとへそと ) には、山颪 ( やまおろし ) の絶えずおどろおどろと吹廻 ( ふきめぐ ) りて、早瀬の波の高鳴 ( たかなり ) は、真に放鬼の名をも懐 ( おも ) ふばかり。
折しも唾壺 ( はひふき ) 打つ音は、二間 ( ふたま ) ばかりを隔てて甚だ蕭索 ( しめやか ) に聞えぬ。
貫一は何 ( なに ) の故 ( ゆゑ ) とも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識 ( し ) る人ならずと為 ( せ ) ば、何を以つて人を懼 ( おそ ) るる態 ( かたち ) を作 ( な ) すならん。抑 ( そもそ ) も彼は何者なりや。又何の尤 ( とが ) むるところ有りて、さばかり人を懼るるや。
貫一はこの秘密の鑰 ( かぎ ) を獲んとして、左往右返 ( とさまかうさま ) に暗中摸索 ( もさく ) の思 ( おもひ ) を費すなりき。
明 ( あく ) る朝 ( あした ) の食後、貫一は先 ( ま ) づこの狭き畑下戸 ( はたおり ) の隅々 ( すみずみ ) まで一遍 ( ひとわたり ) 見周 ( みめぐ ) りて、略 ( ほ ) ぼその状況を知るとともに、清琴楼の家格 ( いへがら ) を考へなどして、磧 ( かはら ) に出づれば、浅瀬に架 ( かか ) れる板橋の風情 ( ふぜい ) 面白く、渡れば喜十六の山麓 ( さんろく ) にて、十町ばかり登りて須巻 ( すまき ) の滝 ( たき ) の湯有りと教へらるるままに、遂 ( つひ ) に其処 ( そこ ) まで往きて、午 ( ひる ) 近き頃宿に帰りぬ。
汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の交互 ( すれちがひ ) に、貫一はあたかもかの客の湯上りに出会へり。こたびも彼は面 ( おもて ) を見せじとやうに、慌忙 ( あわただし ) く打背 ( うちそむ ) きて過行くなり。
今は疑ふべくもあらず、彼は正 ( まさし ) く人目を避けんと為るなり。則 ( すなは ) ち人を懼るるなり。故は、自ら尤 ( とがむ ) るなり。彼は果して何者ならん、と貫一は愈 ( いよい ) よ深く怪みぬ。
昨日 ( きのふ ) こそ誰乎彼 ( たそがれ ) の黯黮 ( くらがり ) にて、分明 ( さやか ) に面貌 ( かほかたち ) を弁ぜざりしが、今の一目は、躬 ( みづから ) も奇なりと思ふばかり奇 ( くし ) くも、彼の不用意の間 ( うち ) に速写機の如き力を以てして、その映じ来 ( きた ) りし形を総 ( すべ ) て脱 ( のが ) さず捉 ( とら ) へ得たりしなり。
貫一はその相貌 ( そうぼう ) の瞥見 ( べつけん ) に縁 ( よ ) りて、直 ( ただ ) ちに彼の性質を占 ( うらな ) はんと試 ( こころむ ) るまでに、いと善く見極 ( みきは ) めたり。されども、いかにせん、彼の相するところは始に疑ひしところと頗 ( すこぶ ) る一致せざる者有り。彼若 ( も ) し実 ( まこと ) に人を懼るると為 ( せ ) ば、彼の人を懼るる所以 ( ゆゑん ) と、我より彼の人を懼るる所以と為 ( な ) す者とは、或 ( あるひ ) は稍 ( やや ) 趣 ( おもむき ) を異 ( こと ) にせざらんや。又想ふに、彼は決して自ら尤 ( とがむ ) るところなど有るに非ずして、止 ( た ) だその性 ( せい ) の多羞 ( シャイ ) なるが故のみか、未だ知るべからず。この二者 ( ふたつ ) の前 ( さき ) のをも取り難く、さすがに後のにも頷 ( うなづ ) きかねて、彼は又新 ( あらた ) に打惑 ( うちまど ) へり。
午飯 ( ひるめし ) の給仕には年嵩 ( としかさ ) の婢 ( をんな ) 出でたれば、余所 ( よそ ) ながらかの客の事を問ひけるに、箸 ( はし ) をも取らで今外に出で行きしと云ふ。
「はあ、飯 ( めし ) も食はんで? 何処 ( どこ ) へ行つたのかね」
「何でも昨日 ( きのふ ) あたりお連様 ( つれさま ) がお出 ( いで ) の筈 ( はず ) になつてをりましたので御座いませう。それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着が無いもんで御座いますから、今朝 ( けさ ) から御心配遊 ( あそば ) して、停車場 ( ステエション ) まで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰 ( おつしや ) いまして、それでお出ましに成つたので御座います」
「うむ、それは心配だらう。能く有る事だ。然し、飯も食はずに気を揉 ( も ) んでゐるとは、どう云ふ伴 ( つれ ) なのかな。――年寄 ( としより ) か、婦 ( をんな ) ででもあるか」
「如何 ( いかが ) で御座いますか」
「お前知らんのか」
「私 ( わたくし ) 存じません」
彼は覚えず小首を傾 ( かたむ ) くれば、
「旦那 ( だんな ) も大相御心配ぢや御座いませんか」
「さう云ふ事を聞くと、俺 ( おれ ) も気になるのだ」
「ぢや旦那も余程 ( よつぽど ) 苦労性の方ですね」
「大きにさうだ」
「それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら宜 ( よろし ) う御座いますけれど、もしも、ねえ、貴方 ( あなた ) 、お美 ( うつくし ) い方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御座いますね」
「どう大変なのか」
「又御心配ぢや御座いませんか」
「うむ、大きにこれはさうだ」
風恬 ( かぜしづか ) に草香 ( かを ) りて、唯居るは惜き日和 ( ひより ) に奇痒 ( こそばゆ ) く、貫一は又出でて、塩釜の西南十町ばかりの山中なる塩の湯と云ふに遊びぬ。還 ( かへ ) れば寂 ( さびし ) く夕暮るる頃なり。例の如く湯に入 ( い ) りて、上 ( あが ) れば直 ( ぢき ) に膳 ( ぜん ) を持出 ( もちい ) で、燈 ( あかし ) も漸く耀 ( かがや ) きしに、かの客、未 ( いま ) だ帰り来 ( こ ) ず、
「閑寂 ( しづか ) なのも可いけれど、外に客と云ふ者が無くて、全 ( まる ) でかう独法師 ( ひとりぼつち ) も随分心細いね」
託言 ( かごと ) がましく貫一は言出づれば、
「さやうでゐらつしやいませう、何と申したつてこの山奥で御座いますから。全体旦那がお一人でゐらつしやると云ふお心懸 ( こころがけ ) が悪いので御座いますもの、それは為方が御座いません」
婢はわざとらしう高笑 ( たかわらひ ) しつ。
「成程、これは恐入つた。今度から善く心得て置く事だ」
「今度なんて仰有 ( おつしや ) らずに、旦那も明日 ( あした ) あたり電信でお呼寄 ( よびよせ ) になつたら如何 ( いかが ) で御座います」
「五十四になる老婢 ( ばあや ) を呼んだつて、お前、始らんぢやないか」
「まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼びなさいましよ」
「気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ」
「ですから、旦那、づつと外 ( ほか ) にお在んなさるので御座いませう」
「そりや外には幾多 ( いくら ) でも在るとも」
「あら、御馳走で御座いますね」
「なあに、能く聴いて見ると、それが皆 ( みんな ) 人の物ださうだ」
「何ですよ、旦那。貴方、本当の事を有仰 ( おつしや ) るもんですよ」
「本当にも嘘 ( うそ ) にもその通だ。私 ( わたし ) なんぞはそんな意気な者が有れば、何為 ( なにし ) にこんな青臭い山の中へ遊びに来るものか」
「おや! どうせ青臭い山の中で御座います」
「青臭いどころか、お前、天狗巌 ( てんぐいわ ) だ、七不思議だと云ふ者が有る、可恐 ( おそろし ) い山の中に違無いぢやないか。そこへ彷徨 ( のそのそ ) 、閑 ( ひま ) さうな貌 ( かほ ) をして唯一箇 ( たつたひとり ) で遣 ( や ) つて来るなんぞは、能々 ( よくよく ) の間抜 ( まぬけ ) と思はなけりやならんよ」
「それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事が有るものですか」
「間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京間抜 ( まぬけ ) 一人 ( いちにん ) と附けて在る」
「その傍 ( そば ) に小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて戴 ( いただ ) きませう」
「面白い事を言ふなあ、おまへは」
「やつぱり少し抜けてゐる所為 ( せゐ ) で御座います」
彼は食事を了 ( をは ) りて湯浴 ( ゆあみ ) し、少焉 ( しばらく ) ありて九時を聞きけれど、かの客は未 ( いま ) だ帰らず。寝床に入 ( い ) りて、程無く十時の鳴りけるにも、水声空 ( むなし ) く楼を繞 ( めぐ ) りて、松の嵐の枕上 ( ちんじよう ) に落つる有るのみなり。
始よりその人を怪まざらんにはこの咎 ( とが ) むるに足らぬ瑣細 ( ささい ) の事も、大いなる糢糊 ( もこ ) の影を作 ( な ) して、いよいよ彼が疑 ( うたがひ ) の眼 ( まなこ ) を遮 ( さへぎ ) り来 ( きた ) らんとするなりけり。貫一はほとほと疑ひ得らるる限疑ひて、躬 ( みづから ) も其の妄 ( ぼう ) に過 ( すぐ ) るの太甚 ( はなはだし ) きを驚けるまでに至りて、始て罷 ( や ) めんと為たり。
これに亜 ( つ ) いで、彼は抑 ( そもそ ) も何の故 ( ゆゑ ) 有りて、肥瘠 ( ひせき ) も関せざるかの客に対して、かくばかり軽々しく思を費し、又念 ( おもひ ) を懸 ( かく ) るの固執なるや、その謂無 ( いはれな ) き己 ( おのれ ) をば、敢て自ら解かんと試みつ。
されども、人は往々にして自ら率 ( ひきゐ ) るその己を識る能はず。貫一は抑へて怪まざらんと為 ( せ ) ば、理に於て怪まずしてあるべきを信ずるものから、又幻視せるが如きその大いなる影の冥想 ( めいそう ) の間に纏綿 ( てんめん ) して、或 ( あるひ ) は理外に在る者有る無からんや、と疑はざらんと為る傍 ( かたはら ) より却 ( かへ ) りて惑 ( まどは ) しむるなり。
表階子 ( おもてばしご ) の口に懸 ( かか ) れる大時計は、病み憊 ( つか ) れたるやうの鈍き響を作 ( な ) して、廊下の闇 ( やみ ) に彷徨 ( さまよ ) ふを、数ふれば正 ( まさ ) に十一時なり。
かの客はこの深更 ( しんこう ) に及べども未 ( いま ) だ帰り来 ( こ ) ず。
彼は帰り来らざるなるか、帰り得ざるなるか、帰らざるなるかなど、又思放 ( おもひはな ) つ能はずして、貫一は寝苦 ( ねぐるし ) き枕を頻回 ( あまたたび ) 易 ( か ) へたり。今や十二時にも成りなんにと心に懸けながら、その音は聞くに及ばずして遂 ( つひ ) に眠 ( ねむり ) を催せり。日高 ( ひだか ) き朝景色の前に起出づれば、座敷の外を小婢 ( こをんな ) は雑巾掛 ( ぞうきんがけ ) してゐたり。
「お早う御座りやす」
「睡 ( ねむ ) さうな顔をしてゐるな」
「はい、昨夜 ( よんべ ) 那裏 ( あちら ) のお客様がお帰 ( かへり ) になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」
「ああ、あのお客は昨夜 ( ゆふべ ) は帰らずか」
「はい、お帰 ( かへり ) が御座りやせん」
貫一はかの客の間の障子を開放 ( あけはな ) したるを見て、咥楊枝 ( くはへようじ ) のまま欄杆伝 ( てすりづた ) ひに外 ( おもて ) を眺め行く態 ( ふり ) して、その前を過 ( すぐ ) れば、床の間に小豆革 ( あづきがは ) の手鞄 ( てかばん ) と、浅黄 ( あさぎ ) キャリコの風呂敷包とを並 ( なら ) べて、傍 ( そば ) に二三枚の新聞紙を引※ ( ひつつく ) 〈[#「捏」の「日」に代えて「臼」、418-16]〉 ね、衣桁 ( いこう ) に絹物の袷 ( あはせ ) を懸けて、その裾 ( すそ ) に紺の靴下を畳置きたり。
さては少 ( すこし ) く本意無 ( ほいな ) きまでに、座敷の内には見出 ( みいだ ) すべき異状も有らで、彼は宿帳に拠 ( よ ) りて、洋服仕立商なるを知りたると、敢 ( あへ ) て背 ( そむ ) くところ有りとも覚えざるなりき。
拍子抜して返 ( もど ) れる貫一は、心私 ( こころひそか ) にその臆測の鑿 ( いりほが ) なりしを媿 ( は ) ぢざるにもあらざれど、又これが為に、直 ( ただ ) ちに彼の濡衣 ( ぬれぎぬ ) を剥去 ( はぎさ ) るまでに釈然たる能はずして、好し、この上はその待人 ( まちびと ) の如何 ( いか ) なる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがてその消息を齎 ( もたら ) し来 ( きた ) るべき彼の帰来 ( かへり ) の程を、陰ながら最更 ( いとさら ) に遅しと待てり。
夜は山精木魅 ( さんせいもくび ) の出でて遊ぶを想はしむる、陰森凄幽 ( いんしんせいゆう ) の気を凝 ( こら ) すに反してこの霽朗 ( せいろう ) なる昼間の山容水態は、明媚 ( めいび ) 争 ( いかで ) か画 ( が ) も如 ( し ) かん、天色大気も殆 ( ほとん ) ど塵境以外 ( じんきよういがい ) の感無くんばあらず。黄金 ( こがね ) を織作 ( おりな ) せる羅 ( うすもの ) にも似たる麗 ( うるはし ) き日影を蒙 ( かうむ ) りて、万斛 ( ばんこく ) の珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、欄頭 ( らんとう ) の山を枕に恍惚 ( こうこつ ) として消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、急遽 ( あわただし ) き跫音 ( あしおと ) の廊下を動 ( うごか ) し来 ( きた ) るに駭 ( おどろか ) されて、起回 ( おきかへ ) りさまに頭 ( かしら ) を捻向 ( ねぢむく ) れば、何事とも知らず、年嵩 ( としかさ ) の婢 ( をんな ) の駈着 ( かけつく ) るなり。
「些 ( ちよい ) と旦那、参りましたよ、参りましたよ! 早くいらしつて御覧なさいまし。些と早く」
「何が来たのだ」
「何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ」
「何だ、何だよ」
「早く階子 ( はしご ) の所へいらしつて御覧なさい」
「おお、あの客が還つたのか」
彼ははや飛ぶが如くに引返して、貫一の言 ( ことば ) は五間も後に残されたり。彼が注進の模様は、見るべき待人を伴ひ帰れるならんをと、直 ( す ) ぐに起ちて表階子 ( おもてはしご ) の辺 ( あたり ) に行く時、既に晩 ( おそ ) し両箇 ( ふたり ) の人影は欄 ( てすり ) の上に顕 ( あらは ) れたり。
鍔広 ( つばひろ ) なる藍鼠 ( あゐねずみ ) の中折帽 ( なかをれぼう ) を前斜 ( まへのめり ) に冠 ( かむ ) れる男は、例の面 ( おもて ) を見せざらんと為れど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳 ( はたち ) を二つ三つも越したる可 ( べ ) し。銀杏返 ( いてふがへし ) を引約 ( ひつつ ) めて、本甲蒔絵 ( ほんこうまきゑ ) の挿櫛 ( さしぐし ) 根深 ( ねぶか ) に、大粒の淡色瑪瑙 ( うすいろめのう ) に金脚 ( きんあし ) の後簪 ( うしろざし ) 、堆朱彫 ( ついしゆぼり ) の玉根掛 ( たまねがけ ) をして、鬢 ( びん ) の一髪 ( いつぱつ ) をも乱さず、極 ( きは ) めて快く結ひ做 ( な ) したり。葡萄茶 ( えびちや ) の細格子 ( ほそごうし ) の縞御召 ( しまおめし ) に勝色裏 ( かついろうら ) の袷 ( あはせ ) を着て、羽織は小紋縮緬 ( こもんちりめん ) の一紋 ( ひとつもん ) 、阿蘭陀 ( オランダ ) 模様の七糸 ( しつちん ) の袱紗帯 ( ふくさおび ) に金鎖子 ( きんぐさり ) の繊 ( ほそ ) きを引入れて、嬌 ( なまめかし ) き友禅染の襦袢 ( じゆばん ) の袖 ( そで ) して口元を拭 ( ぬぐ ) ひつつ、四季袋 ( しきぶくろ ) を紐短 ( ひもみじ ) かに挈 ( さ ) げたるが、弗 ( ふ ) と此方 ( こなた ) を見向ける素顔の色蒼 ( あを ) く、口の紅 ( べに ) も点 ( さ ) さで、やや裏寂 ( うらさびし ) くも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰 ( やつれ ) を帯びたれど、美目の盻 ( へん ) たる色香 ( いろか ) 尚濃 ( なほこまやか ) にして、漫 ( そぞ ) ろ人に染むばかりなり。
両箇 ( ふたり ) は彼の見る目の顕露 ( あらは ) なるに気怯 ( きおくれ ) せる様子にて、先を争ふ如く足早に過行きぬ。貫一もまたその逢着 ( ほうちやく ) の唐突なるに打惑ひて、なかなか精 ( くはし ) く看るべき遑 ( いとま ) あらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と独 ( ひと ) り合点せり。
かの男女 ( なんによ ) は娧 ( いと ) しさに堪 ( た ) へざらんやうに居寄りて、手に手を交 ( まじ ) へつつ密々 ( ひそやか ) に語れり。
「さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか貴方 ( あなた ) がここで想つてゐるやうな訳に行きは為 ( し ) ませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可 ( い ) いつて、そりや貴方、お互ぢやありませんか。吁 ( ああ ) 、私は今だに胸が悸々 ( どきどき ) して、後から追掛 ( おつか ) けられるやうな気持がして、何だか落着かなくて可けない」
「まあ何でも、かうして約束通り逢 ( あ ) へりや上首尾なんだ」
「全くよ。一昨日 ( をととひ ) の晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つたくらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ」
些 ( ちよ ) と男の顔を盻 ( みや ) りて、濡 ( ぬ ) るる瞼 ( まぶた ) を軽く拭 ( ぬぐ ) へり。
「その縁の尽きないのが、究竟 ( つまり ) 彼我 ( ふたり ) の身の窮迫 ( つまり ) なのだ。俺 ( おれ ) もかう云ふ事に成らうとは思はなかつたが、成程、悪縁と云ふ者は為方 ( しかた ) の無いものだ」
女は尚窃 ( なほひそか ) に泣きゐる面 ( おもて ) を背 ( そむ ) けたるまま、
「貴方は直 ( ぢき ) に悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!」
「悪縁だからかうなつたのぢやないか」
「かう成つたのがどうしたんですよ!」
「今更どうするものか」
「当然 ( あたりまへ ) さ! 貴方は一体水臭いんだ‼」
「おい、お静 ( しず ) 、水臭いとは誰の事だ」
色を作 ( な ) せる男の眼 ( まなこ ) は、つと湧 ( わ ) く涙に輝けり。
「貴方の事さ!」
女の目よりは漣々 ( はらはら ) と零 ( こぼ ) れぬ。
「俺の事だ⁈ お静……手前 ( てめへ ) はそんな事を言つて、それで済むと思ふのか」
「済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ」
「未 ( ま ) だそんな事を言やがる! さあ、何が水臭いか、それを言へ」
「はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は他 ( ひと ) の顔さへ見りや、直 ( ぢき ) に悪縁だと云ふのが癖ですよ。彼我 ( ふたり ) の中の悪縁は、貴方がそんなに言 ( いは ) なくたつて善く知つてゐまさね。何も貴方一箇 ( ひとり ) の悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分謂 ( い ) ふに謂 ( いは ) れない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端 ( はし ) には悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞 ( きか ) される身に成つて御覧なさいな。余 ( あんま ) り好 ( い ) い心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか」
「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」
「悪縁でも可ござんすよ!」
彼等は相背 ( あひそむ ) きて姑 ( しばら ) く語無 ( ことばな ) かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。
「おい、お静、おい」
「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!」
お静は竟 ( つひ ) に顔を掩 ( おほ ) うて泣きぬ。
「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間 ( なか ) にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘 ( うそ ) にも水臭いなんて言 ( いは ) れりや、俺だつて悔 ( くやし ) いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」
「狭山 ( さやま ) さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
「お前が言出すからよ」
「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝 ( あやま ) ります。ねえ、狭山さん、些 ( ちよい ) と」
お静の顔を打矚 ( うちまも ) りつつ、男は茫然 ( ぼうぜん ) たるのみなり。
「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」
「知れた事さ、彼我 ( ふたり ) の身の上をよ」
「何だつてそんな事を考へてゐるの」
「…………」
「今更何も考へる事は有りはしないわ」
狭山は徐々 ( おもむろ ) に目を転 ( うつ ) して、太息 ( といき ) を呴 ( つ ) いたり。
「もうそんな溜息 ( ためいき ) なんぞを呴くのはお舎 ( よ ) しなさいつてば」
「お前二十……二だつたね」
「それがどうしたの、貴方が二十八さ」
「あの時はお前が十九の夏だつけかな」
「ああ、さう、何でも袷 ( あはせ ) を着てゐたから、丁度今時分でした。湖月 ( こげつ ) さんのあの池に好いお月が映 ( さ ) してゐて、暖 ( あつたか ) い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全 ( まる ) 三年に成るのね」
「おお、さうさう。昨日 ( きのふ ) のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」
「何だか、かう全で夢のやうね」
「吁 ( ああ ) 、夢だなあ!」
「夢ねえ!」
「お静!」
「狭山さん!」
両箇 ( ふたり ) は手を把 ( と ) り、膝 ( ひざ ) を重ねて、同じ思を猶悲 ( なおかなし ) く、
「ゆ……ゆ……夢だ!」
「夢だわ、ねえ!」
声立てじと男の胸に泣附く女。
「かう成るのも皆 ( みんな ) 約束事ぢやあらうけれど、那奴 ( あいつ ) さへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日 ( いつか ) の御神籤通 ( おみくじどほり ) な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴 ( あいつ ) が邪魔して、横紙 ( よこがみ ) を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余 ( あんま ) り申訳が無い! 堪 ( かん ) ……忍 ( にん ) ……して下さい」
「そりやなあに、お互の事だ」
「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅 ( はめ ) にも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在 ( いで ) なんだらうに、逢ふ度 ( たんび ) に私の身を案じて、毎 ( いつ ) も優くして下さるのは仇 ( あだ ) や疎 ( おろか ) な事ぢやないと、私は嬉 ( うれし ) いより難有 ( ありがた ) いと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直 ( ぢき ) に涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然 ( やつぱり ) かう云ふ事になる讖 ( しらせ ) だつたんでせう。
貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退 ( ひ ) けてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在 ( いで ) なんぢやなからうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい向者 ( さつき ) はあんなに言過ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には差無 ( ちがひな ) いんだけれど、後生だからそんな可厭 ( いや ) な事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つてゐる」
「生木 ( なまき ) を割 ( さ ) いて別れるよりは、まあ愈 ( まし ) だ」
「別れる? 吁 ( ああ ) ! 可厭 ( いや ) だ! 考へても慄然 ( ぞつ ) とする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴 ( あいつ ) が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句 ( あげく ) がこんな事に成つたのも、想へば皆 ( みんな ) 那奴のお蔭だ。ええ、悔 ( くやし ) い! 私はきつと執着 ( とつつ ) いても、この怨 ( うらみ ) は返して遣 ( や ) るから、覚えてゐるが可い!」
女は身を顫 ( ふるは ) せて詈 ( ののし ) るとともに、念入 ( おもひい ) りて呪 ( のろ ) ふが如き血相を作 ( な ) せり。
不知 ( しらず ) 、この恨み、詈 ( ののし ) り、呪はるる者は、何処 ( いづく ) の誰 ( だれ ) ならんよ。
「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」
男は歯咬 ( はがみ ) しつつ苦しげに嗤笑 ( ししよう ) せり。
「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓 ( いろ ) の有る女が金で靡 ( なび ) くか、靡かないか、些 ( ちつと ) は考へながら遊ぶが可い。来りや不好 ( いや ) な顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もう憥 ( うるさ ) く附けつ廻しつして、了局 ( しまひ ) には人の恋中の邪魔を為やがるとは、那奴も能 ( よ ) く能くの芸無猿 ( げいなしざる ) に出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、狭山さん、実はね、私はこの世の置土産 ( おきみやげ ) に、那奴の額を打割 ( ぶちわ ) つて来たんでさね」
「ええ、どうして!」
「なあにね、貴方に別れたあの翌日 ( あくるひ ) から、延続 ( のべつ ) に来てゐやがつて、ちつとでも傍 ( そば ) を離さないんぢやありませんか。這箇 ( こつち ) は気が気ぢやないところへ、もう悪漆膠 ( わるしつこ ) くて耐 ( たま ) らないから、病気だと謂 ( い ) つて内へ遁 ( に ) げて来りや、直 ( すぐ ) に追懸 ( おつか ) けて来て、附絡 ( つきまと ) つてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、丁 ( ちやん ) と渉 ( わたり ) が付いてゐるんだから、阿母 ( おつか ) さんは傍 ( そば ) から『ちやほや』して、そりや貴方、真面目 ( まじめ ) ぢや見ちやゐられないお手厚 ( てあつ ) さ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂を沸 ( わか ) せだ事の、ビイルを冷 ( ひや ) せだ事のと、あの狭い内へ一個 ( ひとり ) で幅を為 ( し ) やがつて、なかなか動 ( いご ) きさうにも為ないんぢやありませんか。
私は全で生捕 ( いけどり ) に成つたやうなもので、出るには出られず、這箇 ( こつち ) の事が有るから、さうしてゐる空 ( そら ) は無し、あんな気の揉 ( も ) めた事は有りはしない――本当 ( ほんと ) にどうせうかと思つた。ええ、なあに、あんな奴は打抛出 ( おつぽりだ ) して措 ( お ) いて、這箇 ( こつち ) は掻巻 ( かいまき ) を引被 ( ひつかぶ ) つて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤 ( じ ) れたくて耐らなくなつて来たから、不如 ( いつそ ) かまはず飛出して了はうかと、余程 ( よつぽど ) さう念つたものの、丹子 ( たんこ ) の事も、ねえ、考へて見りや可哀 ( かはい ) さうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを頼 ( たより ) に為てゐるものを、さぞや私の亡 ( な ) い後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに牽 ( ひか ) されて、色々話も有るものだから、あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、為て置かなけりやならない事も有るし為るので、到頭遅々 ( ぐづぐづ ) して出損 ( でそこな ) つて了つたんです。
さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付 いてゐて、それでも不承々々に還 ( かへ ) つたのは可い。すると翌日 ( あくるひ ) は半日阿母さんのお談義が始まつて、好加減に了簡 ( りようけん ) を極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞飽きてゐるわ。それを追繰返 ( おつくりかへ ) し、引繰返 ( ひつくりかへ ) し、悪体交 ( あくたいまじ ) りには、散々聴せて、了局 ( しまひ ) は口返答したと云つて足蹴 ( あしげ ) にする。なあに、私は足蹴にされたつて、撲 ( ぶた ) れたつて、それを悔いとは思やしないけれど、這箇 ( こつち ) だつて貴方と云ふ者が有ると思ふから、もう一生懸命に稼 ( かせ ) いで、為るだけの事は丁 ( ちやん ) と為てあるのに、何ぼ慾にきりが無いと謂つても、自分の言条 ( いひじよう ) ばかり通さうとして、他 ( ひと ) には些 ( ちつと ) でも楽を為せない算段を為る。私だつて金属 ( かね ) で出来た機械ぢやなし、さうさう駆使 ( こきつか ) はれてお為にばかり成つてゐちや、這箇 ( こつち ) の身が立ちはしない。
別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。所歓 ( いろ ) は堰 ( せ ) いて了ふし、旦那取 ( だんなとり ) は為ろと云ふ。そんな不可 ( いや ) な真似 ( まね ) を為なくても、立派に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、素直でないの、馬鹿だのと、足蹴に為るとは……何……何事で……せう!
それぢや私も赫 ( かつ ) として、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さうと為る途端に、運悪く又那奴 ( あいつ ) が遣つて来たんぢやありませんか。さあ、捉 ( つかま ) つて了つて、其処 ( そこ ) の場図 ( ばつ ) で迯 ( にげ ) るには迯られず、阿母 ( おつか ) さんは得 ( え ) たり賢 ( かしこ ) しなんでせう、一処に行け行けと聒 ( やかまし ) く言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へ拽 ( ひつぱ ) られて行つたとお思ひなさい。あの長尻 ( ながちり ) だから、さあ又還らない、さうして何か所思 ( おもはく ) でも有つたんでせうよ、何だか知らないけれど、その晩に限つて無闇 ( むやみ ) とお酒を強 ( しひ ) るんでさ。這箇 ( こつち ) も鬱勃肚 ( むしやくしやばら ) で、飲めも為ないのに幾多 ( いくら ) でも引受けたんだけれど、酔ひさうにも為やしない。
その内に漸々 ( そろそろ ) 又お極 ( きま ) りの気障 ( きざ ) な話を始めやがつて、這箇 ( こつち ) が柳に受けて聞いてゐて遣りや、可いかと思つて増長して、呆 ( あき ) れた真似 ( まね ) を為やがるから、性の付く程諤々 ( つけつけ ) さう言つて遣つたら、さあ自棄 ( やけ ) に成つて、それから毒吐 ( どくつ ) き出して、やあ店番の埃被 ( ほこりかぶり ) だの、冷飯吃 ( ひやめしくら ) ひの雇人 ( やとひにん ) がどうだのと、聞いちやゐられないやうな腹の立つ事を言やがるから、這箇 ( こつち ) も思切つて随分な悪体 ( あくたい ) を吐 ( つ ) いて遣つたわ、私は。
さうすると、了局 ( しまひ ) に那奴は何と言ふかと思ふと、幾許 ( いくら ) 七顛八倒 ( じたばた ) しても金で縛 ( しば ) つて置いた体だなんぞ、と利 ( き ) いた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が眩 ( くら ) んで、そりやお袋を縛つたんだらうつて」
聴ゐる狭山は小気味好 ( こきみよ ) しとばかりに頷 ( うなづ ) けり。
「それで那奴 ( あいつ ) は全然 ( すつかり ) 慍 ( おこ ) つて了つて、それからの騒擾 ( さわぎ ) でさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟 ( えり ) を持つて引擦 ( ひきず ) り仆 ( たふ ) された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全 ( まる ) で夢中で、唯 ( ただ ) 那奴の憎らしいのが胸一杯に込上 ( こみあ ) げて、這畜生 ( こんちくしよう ) と思ふと、突如 ( いきなり ) 其処 ( そこ ) に在つたお皿を那奴の横面 ( よこつつら ) へ叩付 ( たたきつ ) けて遣つた。丁度それが眉間 ( みけん ) へ打着 ( ぶつか ) つて血が淋漓 ( だらだら ) 流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙 ( すき ) を見て、窃 ( そつ ) と飛出した事は飛出したけれど、別に往所 ( ゆきどころ ) も無いから、丹子の阿母 ( おつか ) さんの処へ駈込 ( かけこ ) んだの。
ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時余程 ( よつぽど ) 廻つてゐるんでせう。滊車 ( きしや ) はもう出ず、気ばかりは急 ( せ ) くけれど、若箇道 ( どつちみち ) 間に合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なんぞを結んでもらひながら、些 ( ちつ ) と訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふやうに話を為てね、それから丹子の事も悉 ( くはし ) く言置いて遣りましたら――善い人ね、あの阿母さんは――おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら……噫 ( ああ ) 、同じ人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ! 私もあの子の阿母さんのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有るのを、さぞかし力に念 ( おも ) つて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、もうもう悲くなつて、悲くなつて、如何 ( いか ) に何でも余 ( あんま ) り情無くて、私はどんなに泣きましたらう。
それに、私をばあんなに頼 ( たのみ ) に為てゐた阿母さんの事だから、当分でも田舎 ( ゐなか ) へ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所 ( ところ ) を知せてくれ、初中終 ( しよつちゆう ) 旅を出行 ( である ) いてゐる体だから、直 ( ぢき ) に御機嫌伺 ( ごきげんうかが ) ひに出ると、その事をあんなに懇々 ( くれぐれ ) も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚 ( びつくり ) して……きつと疾 ( わづら ) ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛 ( かはい ) し、あの阿母さんも怜 ( いとし ) いし。吁 ( ああ ) 、吁!」
歔欷 ( すすりなき ) して彼は悶 ( もだ ) えつ。
「さう云ふ訳ぢや、猶更 ( なほさら ) 内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
「それだと余 ( あんま ) り遅々 ( ぐづぐづ ) しちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
女は咽 ( むせ ) びて其処 ( そこ ) に泣伏しぬ。狭山は涙を連𥉌 ( しばたた ) きて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
憐 ( あはれ ) むべし、情極 ( じようきはま ) りて彼等の相擁 ( あひよう ) するは、畢竟 ( ひつきよう ) 尽きせぬ哀歎 ( なげき ) を抱 ( いだ ) くが如き者ならんをや。
両箇 ( ふたり ) は此方 ( こなた ) にかつ泣きかつ語れる間、彼方 ( あなた ) の一箇 ( ひとり ) は徒然 ( つれづれ ) の柱に倚 ( よ ) りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。
その待人の如何 ( いか ) なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに迨 ( およ ) びて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝 ( あやしみ ) の添はるのみなり。
如何 ( いか ) なればや、女の顔色も甚 ( はなは ) だ勝 ( すぐ ) れず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若 ( も ) し信 ( まこと ) なりとせば、彼は正 ( まさし ) く彼女 ( かのをんな ) ゆゑに如何 ( いか ) なる罪をも犯せるならんよ。その罪の故 ( ゆゑ ) に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為 ( せ ) ば、彼等は誠に相愛 ( あひあい ) するの堅き者ならず哉 ( や ) 。
知らず、彼等は何 ( なに ) の故に相率 ( あひひきゐ ) てこの人目稀 ( まれ ) なる山中 ( やまなか ) には来 ( きた ) れる。その罪を逭 ( のが ) れんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或 ( あるひ ) はその愛を全うせんが為か、明 ( あきらか ) に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊 ( かくれあそび ) にあらずして、自 ( おのづ ) から穂に露 ( あらは ) るるところ有り。さては何等 ( なにら ) の密会ならん。
貫一は彼を以 ( も ) て女を偸 ( ぬす ) みて奔 ( はし ) る者ならずや、と先 ( まづ ) 推 ( すい ) しつつ、尚 ( な ) ほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽 ( たちま ) ち一片の反映は閃 ( きらめ ) きて、朧 ( おぼろ ) にも彼の胸の黯 ( くら ) きを照せり。
彼はこの際熱海の旧夢を憶 ( おも ) はざるを得ざりしなり。
世上貫一の外 ( ほか ) に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾 ( うべな ) はずして、僅 ( わづか ) に一瞥 ( べつ ) の富の前に、百年の契を蹂躙 ( ふみにじ ) りて吝 ( をし ) まざりき。噫 ( ああ ) 我が当時の恨、彼が今日 ( こんにち ) の悔! 今彼女 ( かのをんな ) は日夜に栄の衒 ( てら ) ひ、利の誘 ( いざな ) ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容 ( い ) れざる愛に随 ( したが ) つて奔らんと為るか。
爾思 ( しかおも ) へる後の彼は、陰 ( ひそか ) にかの両個 ( ふたり ) の先に疑ひし如き可忌 ( いまはし ) き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷 ( いの ) るばかりに冀 ( こひねが ) へり。若しさもあらば、彼は具 ( つぶさ ) に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念 ( おも ) ひぬ。
心永く痍 ( きずつ ) きて恋に敗れたる貫一は、殊更 ( ことさら ) に他の成敗に就いて観 ( み ) るを欲せるなり。彼は己 ( おのれ ) の不幸の幾許 ( いかばかり ) 不幸に、人の幸 ( さち ) の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁 ( えにし ) の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交 ( かは ) せる情 ( なさけ ) の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍 ( さまたげ ) の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼 ( ああ ) 、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終 ( つひ ) に如何 ( いか ) ならんかを想ひて。
昼間の程は勗 ( つと ) めて籠 ( こも ) りゐしかの両個 ( ふたり ) の、夜に入りて後打連 ( うちつ ) れて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益 ( ますま ) す人目を避 ( さく ) るならんよと念 ( おも ) へり。
還り来 ( き ) て多時 ( しばらく ) 酒など酌交 ( くみかは ) す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈 ( ともし ) のみいと瞭 ( さやか ) に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟 ( つひ ) に酔 ( ゑひ ) を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
為 ( な ) す事もあらねば、貫一は疾 ( と ) く臥内 ( ふしど ) に入りけるが、僅 ( わづか ) に眊 ( まどろ ) むと為れば直 ( ぢき ) に、寤 ( さ ) めて、そのままに睡 ( ねむり ) は失 ( うす ) るとともに、様々の事思ひゐたり。
夜の静なるを動かして、かの男女 ( なんによ ) の細語 ( ひそめき ) は洩 ( も ) れ来 ( き ) ぬ。甚 ( はなは ) だ幺微 ( かすか ) なれば聞知るべくもあらねど、娓々 ( びび ) として絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩 ( みみわづら ) はしかり。
さなきだに寝難 ( いねがた ) かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱 ( さ ) え行くに任せて、又徒 ( いたづら ) にとやかくと、彼等の身上 ( みのうへ ) を推測 ( おしはか ) り推測り思回 ( おもひめぐ ) らすの外はあらず。彼方 ( あなた ) もその幺微 ( かすか ) なる声に語り語りて休 ( や ) まざるは、思の丈 ( たけ ) の短夜 ( たんや ) に余らんとするなるか。
乍 ( たちま ) ち有りて、迸 ( ほとばし ) れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然 ( がくぜん ) として枕を欹 ( そばだ ) てつ。女は遽 ( にはか ) に泣出 ( なきいだ ) せるなり。
その時男の声音 ( こわね ) は全く聞えずして、唯独 ( ひと ) り女の縦 ( ほしいま ) まに泣音 ( なくね ) を洩 ( もら ) すのみなる。寤めたる貫一は弥 ( いや ) が上に寤めて、自ら故 ( ゆゑ ) を知らざる胸を轟 ( とどろか ) せり。
少焉 ( しばし ) 泣きたりし女の声は漸 ( やうや ) く鎮りて、又湿 ( しめ ) り勝 ( がち ) にも語り初 ( そ ) めしが、一たび情 ( じよう ) の為に激せし声音は、自 ( おのづ ) から始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却 ( かへ ) りて前 ( さき ) よりも仄 ( ほのか ) なり。
貫一は咳 ( しはぶ ) きも遣らで耳を澄せり。
或 ( あるひ ) は時に断ゆれども、又続 ( つ ) ぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕 ( かひこ ) の糸を吐きて倦 ( う ) まざらんやうに、限も知らず長く亘 ( わた ) りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日 ( あす ) も明後日 ( あさつて ) も有るを、甚 ( はなは ) だ忙 ( せはし ) くも語るもの哉 ( かな ) 。さばかり間遠 ( まどほ ) なりし逢瀬 ( あふせ ) なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊 ( あきた ) らぬ恋中 ( こひなか ) か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔 ( こんじやく ) に感無き能はず、枕を引入れ、夜着 ( よぎ ) 引被 ( ひきかつ ) ぎて、寐返 ( ねがへ ) りたり。
何時罷 ( いつや ) みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤 ( はや ) かりけれど、目覚めしままに起出 ( おきい ) でし朝冷 ( あさびえ ) を、走り行きて推啓 ( おしあ ) けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼 ( まなこ ) を驚 ( おどろか ) して、かの男女 ( なんによ ) は浴 ( ゆあみ ) しゐたり。
貫一ははたと閉 ( とざ ) して急ぎ返りつ。
両箇 ( ふたり ) はやや熱かりしその日も垂籠 ( たれこ ) めて夕 ( ゆふべ ) に抵 ( いた ) りぬ。むづかしげに暮山 ( ぼさん ) を繞 ( めぐ ) りし雲は、果して雨と成りて、冷々 ( ひやひや ) と密下 ( そぼふ ) るほどに、宵の燈火 ( ともしび ) も影更 ( ふ ) けて、壁に映 ( うつろ ) ふ物の形皆寂く、憖 ( なまじ ) ひに起きて在るべき夜頃 ( よごろ ) ならず。さては貫一も枕 ( まくら ) に就きたり。
ラムプを細めたる彼等の座敷も甚 ( はなは ) だ静に、宿の者さへ寐急 ( ねいそ ) ぎて後十一時は鳴りぬ。
凄 ( すさまじ ) き谷川の響に紛れつつ、小歇 ( をやみ ) もせざる雨の音の中に、かの病憊 ( やみつか ) れたるやうの柱時計は、息も絶気 ( たゆげ ) に半夜を告げわたる時、両箇 ( ふたり ) が閨 ( ねや ) の燈 ( ともし ) は乍 ( たちま ) ち明 ( あきら ) かに耀 ( かがや ) けるなり。
彼等は倶 ( とも ) に起出でて火鉢 ( ひばち ) の前に在り。
「膳 ( ぜん ) を持つて来ないか」
「ええ」
女は幺微 ( かすか ) なる声して答へけれど、打萎 ( うちしを ) れて、なかなか立ちも遣 ( や ) らず。
「狭山さん、私 ( わたし ) は何だか貴方 ( あなた ) に言残した事が未 ( ま ) だ有るやうな心持がして……」
「吁 ( ああ ) 、もうかう成つちやお互に何も言はないが可 ( い ) い。言へばやつぱり未練が出る」
彼は熟 ( じ ) と内向 ( うつむ ) きて、目を閉ぢたり。
「貴方、その指環を私のと取替事 ( とりかへつこ ) して下さいね」
「さうか」
各 ( おのおの ) その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、擐 ( さ ) し了 ( をは ) りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
颯 ( さ ) と鳴りて雨は一時 ( ひとしきり ) 繁 ( しげ ) く灑 ( そそ ) ぎ来 ( きた ) れり。
「ああ、大相降つて来た」
「貴方は不断から雨が所好 ( すき ) だつたから、きつとそれで……暇 ( いとま ) ……乞 ( ごひ ) に降つて来たんですよ」
「好い折だ。あの雨を肴 ( さかな ) に……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
お静も今は心を励して、宵の程誂 ( あつら ) へ置きし酒肴 ( しゆこう ) の床間 ( とこのま ) に上げたるを持来 ( もてき ) て、両箇 ( ふたり ) が中に膳を据れば、男は手早く燗 ( かん ) して、その間 ( ま ) に各 ( おのおの ) 服を更 ( あらた ) むる忙 ( せは ) しさは、忽 ( たちま ) ち衣 ( きぬ ) の擦 ( す ) り、帯の鳴る音高く綷※ ( さやさや ) 〈[#「糸+察」、436-13]〉 と乱れ合ひて、転 ( うた ) た雨濃 ( こまやか ) なる深夜を驚 ( おどろ ) かせり。
「ええ、もう好 ( す ) かない!」
帯緊 ( おびし ) めながら女はその端 ( はし ) を振りて身悶 ( みもだえ ) せるなり。
「どうしたのだ」
「なあにね、帯がこんなに結 ( むす ) ばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
「ああ! あなた釈 ( と ) いて下さい、よう」
「何か吉 ( い ) い事が有るのだ」
「私はもしも遣損 ( やりそこな ) つて、耻 ( はぢ ) でも曝 ( さら ) すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐 ( たま ) らなかつたんだから、これでもう可いわ」
「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺 ( おれ ) はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
つと俯 ( ふ ) したるお静は、男の膝を咬 ( か ) みて泣きぬ。
「その代り、偶 ( ひよつ ) としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂 ( たましひ ) はおまへの陰身 ( かげみ ) を離れないから、必ず心変 ( こころがはり ) を……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃 ( いつぱい ) 飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
「さあ、那裏 ( あすこ ) へ行つて飲まう」
男は先づ起ちて、女の手を把 ( と ) れば、女はその手に縋 ( すが ) りつつ、泣く泣く火鉢の傍 ( そば ) に座を移しても、なほ離難 ( はなれがた ) なに寄添ひゐたり。
「猪口 ( ちよく ) でなしに、その湯呑 ( ゆのみ ) に為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
熱燗 ( あつがん ) の酒は烈々 ( れつれつ ) と薫 ( くん ) じて、お静が顫 ( ふる ) ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。
女の最も悲かりしは、げにこの刹那 ( せつな ) の思なり。彼は人の為に酒を佐 ( たすく ) るに嫻 ( なら ) ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚 ( はかな ) き夢か、うたかたの水盃 ( みづさかづき ) のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄 ( うた ) にも似たる身の上哉 ( かな ) と、漫 ( そぞろ ) に逼 ( せま ) る胸の内、何に譬 ( たと ) へん方 ( かた ) もあらず。
男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時 ( しばし ) 手にせるままに眺 ( なが ) めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久 ( ひさし ) く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅 ( わづか ) に一盃 ( いつぱい ) の酒に対するも、又哀別離苦 ( あいべつりく ) の感無き能はざるなり。
念 ( おも ) へ、彼等の逢初 ( あひそ ) めし夕 ( ゆふべ ) 、互に意 ( こころ ) 有りて銜 ( ふく ) みしもこの酒ならずや。更に両個 ( ふたり ) の影に伴ひて、人の情 ( なさけ ) の必ず濃 ( こまやか ) なれば、必ず芳 ( かうばし ) かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽 ( たのしみ ) を添へて、三歳 ( みとせ ) の憂 ( うさ ) を霽 ( はら ) せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉 ( よ ) き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期 ( まつご ) に酬 ( むく ) ゆるの、可哀 ( あはれ ) に余り、可悲 ( かなし ) きに過 ( すぐ ) るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々 ( ほろほろ ) と散りて零 ( こぼ ) れぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情 ( ふぜい ) で死んで了ふのが……悔 ( くやし ) い、私は!」
聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半 ( なかば ) を呷 ( あふ ) りて、
「さあ、お静」
女は何気無く受けながら、思へば、別の盃 ( さかづき ) かと、手に取るからに胸潰 ( むねつぶ ) れて、
「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者 ( ふつつかもの ) の我儘者 ( わがままもの ) を、能くも愛相 ( あいそ ) を尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。
私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有 ( ありがた ) いと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる通の阿母 ( おつか ) さんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、本当 ( ほんと ) に可恥 ( はづかし ) いほど行届かないだらけで、これぢや余 ( あんま ) り済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかりを楽 ( たのしみ ) に、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水 ( み ) ……水 ( み ) ……水 ( みづ ) の……泡。
つい心易立 ( こころやすだて ) から、浸々 ( しみじみ ) お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」
男は身をも搾 ( しぼ ) らるるばかりに怺 ( こら ) へかねたる涙を出 ( いだ ) せり。
「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路 ( よみぢ ) の障 ( さはり ) だ。両箇 ( ふたり ) が一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」
「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」
涙諸共 ( もろとも ) 飲干して、
「あなた、一つお酌して下さいな」
注 ( つ ) げば又呷 ( あふ ) りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把 ( と ) りて、顔見合せて、抱緊 ( だきし ) めて、惜めばいよいよ尽せぬ名残 ( なごり ) を、いかにせばやと思惑 ( おもひまど ) へる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。
男は抱 ( いだ ) ける女の耳のあたかも唇 ( くちびる ) に触るる時、現 ( うつつ ) ともなく声誘はれて、
「お静、覚悟は可いか」
「可いわ、狭山さん」
「可けりや……」
「不如 ( いつそ ) もう早く」
狭山は直 ( ぢき ) に枕の下なる袱紗包 ( ふくさづつみ ) の紙入 ( かみいれ ) を取上げて、内より出 ( いだ ) せる一包 ( いつぽう ) の粉剤こそ、正 ( まさ ) に両個 ( ふたり ) が絶命の刃 ( やいば ) に易 ( か ) ふる者なりけれ。
女は二つの茶碗 ( ちやわん ) を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披 ( ひら ) きて、男の手よりその内に頒 ( わか ) たれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
雨はこの時漸く霽 ( は ) れて、軒の玉水絶々 ( たえだえ ) に、怪禽 ( かいきん ) 鳴過 ( なきすぐ ) る者両三声 ( さんせい ) にして、跡松風の音颯々 ( さつさつ ) たり。
狭山はやがて銚子 ( ちようし ) を取りて、一箇 ( ひとつ ) の茶碗に酒を澆 ( そそ ) げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音 ( しのびね ) に、
「南無阿弥陀仏 ( なむあみだぶつ ) 、南無阿弥陀仏 ( なむあみだぶつ ) 」
代りて酌する彼の想は、吾手 ( わがて ) 男の胸元 ( むなもと ) に刺違 ( さしちが ) ふる鋩 ( きつさき ) を押当つるにも似たる苦しさに、自 ( おのづ ) から洩出 ( もれい ) づる声も打震ひて、
「南無阿弥陀仏 ( なむあみだぶつ ) 、南無阿弥陀仏、南無 ( なむ ) ……阿弥陀 ( あみだ ) ……南無阿弥 ( なむあみ ) ……陀 ( だ ) ……仏 ( ぶつ ) 、南無 ( なむ ) ……」
と両個 ( ふたり ) は心も消入らんとする時、俄 ( にはか ) に屋鳴 ( やなり ) 震動 ( しんどう ) して、百雷一処に堕 ( お ) ちたる響に、男は顛 ( たふ ) れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現 ( うつつ ) の人影は、乍 ( たちま ) ち顕 ( あらは ) れて燈火 ( ともしび ) の前に在り。
「貴方 ( あなた ) 方は、怪からん事を! 可けませんぞ」
男は漸く我に復 ( かへ ) りて、惧 ( お ) ぢ愕 ( おどろ ) ける目を瞪 ( みひら ) き、
「ああ! 貴方 ( あなた ) は」
「お見覚 ( みおぼえ ) ありませう、あれに居る泊客 ( とまりきやく ) です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚 ( はなは ) だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」
悄然 ( しようぜん ) として面 ( おもて ) を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個 ( ふたり ) の姿を眗 ( みまは ) しつつ、彼の答を待てり。
「勿論 ( もちろん ) これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入 ( こみい ) つたお話は承 ( うけたま ) はらんでも宜 ( よろし ) い、但何故 ( ただなにゆゑ ) に貴下方は活 ( い ) きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
男は甚 ( はなは ) だ微 ( かすか ) に頷 ( うなづ ) きつ。
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故 ( なにゆゑ ) に添れんのです」
彼は又黙せり。
「その次第を伺つて、私 ( わたくし ) の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手 ( あひて ) にも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤 ( ごもつとも ) だ、他人の私 ( わたし ) でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止 ( とど ) め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯 ( かいしやく ) もして上げます。
私 ( わたくし ) もこの間に入つた以上は、空 ( むなし ) く手を退 ( ひ ) く訳には行かんのです。貴下方を拯 ( すく ) ふ事が出来るか、出来んか、那一箇 ( どつちか ) です。幸 ( さいはひ ) に拯 ( すく ) ふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡 ( な ) い人。この世に亡い人なら、如何 ( いか ) なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無 ( さしつかへな ) からうと私は思ふ。若 ( も ) し命の親とすればです、猶更 ( なおさら ) その者に裹 ( つつ ) み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落 ( しやれ ) に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然 ( ちやん ) と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」
貫一は気を厳粛 ( おごそか ) にして逼 ( せま ) れるなり。さては男も是非無げに声出 ( いだ ) すべき力も有らぬ口を開きて、
「はい御深切に……難有 ( ありがた ) う存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
「今更お裹 ( つつ ) みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町 ( こうじまち ) の者で、間 ( はざま ) 貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々 ( よくよく ) これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為 ( ふため ) に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個 ( ふたり ) の命を拯 ( すく ) ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
「それは忝 ( かたじけ ) ない」
彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶 ( おそ ) る狭山は先 ( ま ) づその姿を偸見 ( ぬすみみ ) て、
「何からお話し申して宜 ( よろし ) いやら……」
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰 ( おつしや ) る――! 何為 ( なぜ ) 添れんのですか」
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣 ( つか ) ひ込みましたので御座います」
「はあ、御主人持 ( もち ) ですか」
「さやうで御座います。私は南伝馬町 ( みなみてんまちよう ) の幸菱 ( こうびし ) と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔 ( さやまもとすけ ) と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋 ( かしわや ) の愛子と申しまする」
名宣 ( なの ) られし女は、消えも遣 ( や ) らでゐたりし人陰の闇 ( くら ) きより僅 ( わづか ) に躙 ( にじ ) り出でて、面伏 ( おもぶせ ) にも貫一が前に会釈しつ。
「はあ、成程」
「然るところ、昨今これに身請 ( みうけ ) の客が附きまして」
「ああ、身請の? 成程」
「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負 ( ひきおひ ) の為に、主人から告訴致されまして、活 ( い ) きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何 ( いか ) にとも致方 ( いたしかた ) が御座いませんゆゑ、無分別 ( むふんべつ ) とは知りつつも、つい突迫 ( つきつ ) めまして、面目次第も御座いません」
彼等はその無分別を慙 ( は ) ぢたりとよりは、この死失 ( しにぞこな ) ひし見苦しさを、天にも地にも曝 ( さら ) しかねて、俯 ( ふ ) しも仰ぎも得ざる項 ( うなじ ) を竦 ( すく ) め、尚 ( なほ ) も為ん方無さの目を閉ぢたり。
「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消 ( つかひこみ ) だつて、その金額を弁償して、宜 ( よろし ) く御主人に詑 ( わ ) びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方 ( こつち ) でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負 ( ひきおひ ) は若干 ( いくら ) ばかりの額 ( たか ) に成るのですか」
「三千円ほど」
「三千円。それから身請の金は?」
狭山は女を顧みて、二言三言 ( ふたことみこと ) 小声に語合 ( かたら ) ひたりしが、
「何やかやで八百円ぐらゐは要 ( い ) りますので」
「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」
打算し来 ( きた ) れば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。
「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾 ( ころが ) つてゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番 ( ひとつ ) 悉 ( くはし ) くお話し下さらんか」
かかる際 ( きは ) には如何ばかり嬉き人の言 ( ことば ) ならんよ。彼はその偽 ( いつはり ) と真 ( まこと ) とを思ふに遑 ( いとま ) あらずして、遣る方も無き憂身 ( うきみ ) の憂きを、冀 ( こひねがは ) くば跡も留めず語りて竭 ( つく ) さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇 ( いさみ ) を作 ( な ) して、
「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊 ( こと ) に痴情の果に箇様 ( かよう ) な不始末 ( ぶしまつ ) を為出 ( しだ ) しました、何 ( なに ) ともはや申しやうも無い爛死蛇 ( やくざもの ) に、段々と御深切のお心遣 ( こころづかひ ) 、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。
折角の御言 ( おことば ) で御座いますから、思召 ( おぼしめし ) に甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。
実は、只今申上げました三千円の費消 ( つかひこみ ) と申しますのは、究竟 ( つまり ) 遊蕩 ( あそび ) を致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利 ( き ) きましたので、それが病付 ( やみつき ) に成つて、段々と無理を致しまして、長い間に懵々 ( うかうか ) 穴を開けましたのが、積り積つて大分 ( だいぶん ) に成りましたので御座います。
然 ( しか ) るところ、もう八方塞 ( ふさが ) つて遣繰 ( やりくり ) は付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦紛 ( くるしまぎ ) れに相場に手を出したのが怪我 ( けが ) の元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈 ( いよい ) よ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂 ( しにものぐるひ ) で、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒 ( おひたふ ) されて了ひまして、三千円と申上げました費消 ( つかひこみ ) も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。
然し、これだけの事で御座いますれば、主人も従来 ( これまで ) の勤労 ( つとめ ) に免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度 ( たび ) の事は格別を以つて赦 ( ゆる ) し難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」
「成程⁈」
「と申すのには、少し又仔細 ( しさい ) が御座いますので。それは、主人の家内の姪 ( めひ ) に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻 ( めあは ) せやうと云ふ意衷 ( つもり ) で、前々 ( ぜんぜん ) からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延 ( いひのば ) して御座いましたのを、決然 ( いよいよ ) どうかと云ふ手詰 ( てづめ ) の談 ( はなし ) に相成 ( あひな ) りましたので。究竟 ( つまり ) 、費消 ( つかひこみ ) は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」
「大きに」
「其処 ( そこ ) には又千百 ( いろいろ ) 事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞 ( ことわ ) るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘 ( わがまま ) を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」
「ああ、さうなのですか」
「そこへ持つて参つて、此度 ( こんど ) の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全 ( まる ) で仇 ( かたき ) をば恩で返してくれますやうな、申分 ( まをしぶん ) の無い主人の所計 ( はからひ ) 。それを乖 ( もど ) きましては、私は罰 ( ばち ) が中 ( あた ) りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何 ( いか ) にともその気に成れませんので、已 ( や ) むを得ず縁談の事は拒絶 ( ことわり ) を申しましたので御座います」
「うむ、成程」
「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘 ( わがまま ) を言ふのなら、費消 ( つかひこみ ) を償 ( まと ) へ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵 ( きず ) が附く事だから、思反 ( おもひかへ ) して主人の指図 ( さしず ) に従へと、中に人まで入れて、未 ( ま ) だ未だ申してくれましたのを、何処 ( どこ ) までも私は剛情を張通して了つたので御座います」
「吁 ( ああ ) ! それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置 ( かきおき ) も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極 ( きは ) めました際 ( きは ) まで、心懸 ( こころがかり ) と申すのは、唯そればかりなので御座いました。
で又その最中にこれの方の身請騒 ( みうけさわぎ ) が起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉 ( くはし ) く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱 ( かかへ ) も同様の取扱 ( とりあつかひ ) を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼 ( かせ ) げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡 ( りようけん ) で、長い間無理な勤を為 ( さ ) せまして、散々に搾 ( しぼ ) り取つたので御座います。
で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒 ( やかまし ) く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷 ( したや ) に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え⁉ 何……何……何ですか!」
「御承知で御座いますか、あの富山唯継 ( ただつぐ ) と云ふ……」
「富山? 唯継!」
その面色、その声音 ( こわね ) ! 彼は言下 ( ごんか ) に皷怒 ( こど ) して、その名に躍 ( をど ) り被 ( かか ) らんとする勢 ( いきほひ ) を示せば、愛子は駭 ( おどろ ) き、狭山は懼 ( おそ ) れて、何事とも知らず狼狽 ( うろた ) へたり。貫一は轟く胸を推鎮 ( おししづ ) めても、なほ眼色 ( まなざし ) の燃ゆるが如きを、両個 ( ふたり ) が顔に忙 ( せはし ) く注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
狭山の打惑 ( うちまど ) ふ傍 ( そば ) に、女は密 ( ひそか ) に驚く声を放てり。
「那奴 ( あいつ ) が身請の?」
問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
「で、貴方は彼に退 ( ひ ) かされるのを嫌 ( きら ) つたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか! それぢや旦那 ( だんな ) に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
女は聞くも穢 ( けがらは ) しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣 ( しりめづかひ ) して、
「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然 ( まるつきり ) 無いんで御座います」
「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
狭山は俯 ( うつむ ) きゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は勤 ( つとめ ) を為てをつても、外の客には出ずに、この人一個 ( ひとり ) を守つて――さうですね」
「さやうです」
「さうして、余所 ( よそ ) の身請を辞 ( ことわ ) つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」
「はい」
倐忽 ( たちまち ) に瞳 ( ひとみ ) を凝 ( こら ) せる貫一は、愛子の面 ( おもて ) を熟視して止 ( や ) まざりしが、やがてその眼 ( まなこ ) の中に浮びて、輝くと見れば霑 ( うるほ ) ひて出づるものあり。
「嗚呼 ( ああ ) ……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」
何の故 ( ゆゑ ) とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個 ( ふたり ) は空 ( むなし ) く呆 ( あき ) るるのみ。
貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦 ( いつひつぷ ) も、知らず誰 ( たれ ) か爾 ( なんぢ ) に教へて、死に抵 ( いた ) るまで尚 ( なほ ) この頼 ( よ ) り難 ( がた ) き義に頼 ( よ ) り、守り難 ( かた ) き節を守りて、終 ( つひ ) に奪はれざる者あるに泣けるなり。
其の泣く所以 ( ゆゑん ) なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇 ( たふと ) く優くも、高く麗 ( うるはし ) くも、又は、完 ( まつた ) くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度 ( ひとたび ) は目前 ( まのあたり ) 睹 ( み ) るを得て、その倒懸の苦を寛 ( ゆる ) うせん、と心爇 ( や ) くが如く望みたりしを、今却りて浮萍 ( うきくさ ) の底に沈める泥中の光に値 ( あ ) へる卒爾 ( そつじ ) の歓極 ( よろこびきは ) まれればなり。
「勿論さう無けりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう有るべき事です。今日 ( こんにち ) のこの軽薄極 ( きはま ) つた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事は有りません。私はこの通泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事 ( ひとごと ) とは思はん、人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」
かく言ひて、貫一は忙々 ( いそがはし ) く鼻洟 ( はな ) 打擤 ( うちか ) みつ。
「ふむ、それで富山はどうしました」
「来る度 ( たび ) に何のかのと申しますのを、体好 ( ていよ ) く辞 ( ことわ ) るんで御座いますけれど、もう憥 ( うるさ ) く来ちや、一頻 ( ひとつきり ) なんぞは毎日揚詰 ( あげづめ ) に為れるんで、私はふつふつ不好 ( いや ) なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独 ( ひとり ) で利巧ぶつて、可恐 ( おつそろし ) い意気がりで、二言目 ( ふたことめ ) には金々と、金の事さへ言へば人は難有 ( ありがた ) がるものかと思つて、俺がかうと思 ( おも ) や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆 ( みんな ) が『御威光』と云ふ仇名 ( あだな ) を附けて了つて、何処へ行つたつて気障 ( きざ ) がられてゐる事は、そりや太甚 ( ひど ) いんで御座います」
「ああ、さうですか」
「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可 ( い ) けもしない事を不相変 ( あひかはらず ) 執煩 ( しつくど ) く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇 ( こつち ) も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局 ( しまひ ) には手を易 ( か ) へて、内のお袋へ親談 ( ぢかだん ) をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸 ( はし ) の上下 ( あげおろし ) には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒 ( やかまし ) く成りましたのも、それからなので、私は辛 ( つら ) さは辛し、熟 ( つくづ ) くこんな家業は為る者ぢやないと、何 ( なんに ) も解らずに面白可笑 ( おもしろをかし ) く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余 ( あんま ) りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱 ( ふさ ) ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」
「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直 ( すぐ ) に身請と云ふのですか」
「さうなので」
「変な奴な! さう云ふ身請の為方 ( しかた ) が、然し、有りますか」
「まあ御座いませんです」
「さうでせう。それで、身請をして他 ( ほか ) へ囲 ( かこ ) つて置かうとでも云ふのですか」
「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉 ( うれし ) がらせを言つちやをりましたけれど」
眉 ( まゆ ) を昂 ( あ ) げたる貫一、なぞ彼の心の裏 ( うち ) に震ふものあらざらんや。
「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」
「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気 ( くちぶり ) なんで御座います」
「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」
「随分ちやらつぽこ を言ふ人なんですから、なかなか信 ( あて ) にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余 ( あんま ) り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」
「ははあ」
彼は遽 ( にはか ) に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、
「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」
宮の悔、宮の恨、宮の歎 ( なげき ) 、宮の悲 ( かなしみ ) 、宮の苦 ( くるしみ ) 、宮の愁 ( うれひ ) 、宮が心の疾 ( やまひ ) 、宮が身の不幸、噫 ( ああ ) 、竟 ( つひ ) にこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今将 ( は ) たこの憐 ( あはれ ) むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。
貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許 ( いかばかり ) 幸 ( さいはひ ) にかつ愚ならざるかを思ひて、又躬 ( みづから ) の、先には己 ( おのれ ) の愛する者を拯 ( すく ) ふ能はずして、今却 ( かへ ) りて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、幾許 ( いかばかり ) 幸 ( さち ) 無くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかり無く悲めるなり。
時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。
「そんな捫懌 ( もんちやく ) 最中に、狭山さんの方が騒擾 ( さわぎ ) に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚 ( びつくら ) して了つて、唯もう途方に昧 ( く ) れて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時直 ( すぐ ) にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如 ( いつそ ) 富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう」
「うむ、大きに」
「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈 ( まし ) だと、初中終 ( しよつちゆう ) 言つてをりますんですから、あんな奴に身を委 ( まか ) せるの、不好 ( いや ) は知れてゐます」
「うむ、さうとも」
「さうなんですけれど金ゆゑで両個 ( ふたり ) が今死ぬのも余 ( あんま ) り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏 ( あつち ) へ行つたつて、直 ( ぢき ) に迯 ( に ) げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少 ( すこし ) の間 ( ま ) 不好 ( いや ) な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈 ( まし ) だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取 ( かたり ) だ……」
「それは詐取 ( かたり ) だ! さうとも」
あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳 ( の ) べぬ。
「詐取 ( かたり ) で御座いますとも! 情婦 ( をんな ) を種に詐取を致すよりは、費消 ( つかひこみ ) の方が罪は夐 ( はるか ) に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私 ( わたくし ) は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委 ( まか ) せるとは、如何 ( いか ) なる事にも、余 ( あんま ) り意気地が無さ過ぎて、それぢや人間の皮を被 ( かぶ ) つてゐる効 ( かひ ) が御座りませんです。私は金に窮 ( つま ) つて心中なんぞを為た、と人に嗤 ( わらわ ) れましても、情婦 ( をんな ) の体を売つたお陰で、やうやう那奴 ( あいつ ) 等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好 ( いや ) で御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個 ( ふたり ) の命ぐらゐ助ける方は外に幾多 ( いくら ) も御座いますので。
ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外は無い! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」
「成程。そこで貴方が?」
「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟 ( つまり ) 私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇 ( ひとり ) 残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」
「いや、善く解りました!」
貫一は宛然 ( さながら ) 我が宮の情急 ( じようきゆう ) に、誠壮 ( まことさかん ) に、凛 ( りん ) たるその一念の言 ( ことば ) を、かの当時に聴くらん想して、独 ( ひと ) り自ら胸中の躍々として痛快に堪 ( た ) へざる者あるなり。
正にこれ、垠 ( はてし ) も知らぬ失恋の沙漠 ( さばく ) は、濛々 ( もうもう ) たる眼前に、麗 ( うるはし ) き一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚 ( はなは ) だ饒 ( ゆたか ) に、甚だ明 ( あきら ) かに浮びたりと謂はざらん哉 ( や ) 。
彼は幾 ( ほとん ) どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃 ( しばらく ) も破除 ( はじよ ) するの間 ( いとま ) を得つ。信 ( まこと ) に得難かりしこの間 ( いとま ) こそ、彼が宮を失ひし以来、唯 ( ただ ) これに易 ( か ) へて望みに望みたりし者ならずと為 ( せ ) んや。
嗚呼 ( ああ ) 麗 ( うるはし ) きミレエジ!
貫一が久渇 ( きゆうかつ ) の心は激く動 ( うごか ) されぬ。彼は声さへやや震ひて、
「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇 ( ひとり ) の男を熟 ( じつ ) と守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来 ( これから ) 花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴 ( あつぱれ ) なもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。
貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則 ( すなは ) ち貴下方夫婦の宝なのです!
今後とも、貴方は狭山さんの為には何日 ( いつ ) でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。
千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念 ( おも ) つた以上は、勿論 ( もちろん ) その人の為には命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始から念はん方が可いので、一旦念つたら骨が舎利 ( しやり ) に成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、若 ( も ) し好いた、惚 ( ほ ) れたと云ふのは上辺 ( うはべ ) ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇 ( こつち ) は一心に成つて思窮 ( おもひつ ) めてゐる者を、いつか寝返 ( ねがへり ) を打れて、突放されるやうな目に遭 ( あ ) つたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」
彼の声音 ( こわね ) は益す震へり。
「さう云ふのが有ります! 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾 ( いたづら ) な色恋は、為た者の不仕合 ( ふしあはせ ) 、棄てた者も、棄てられた者も、互に好 ( い ) い事は無いのです。私は現にさう云ふのを睹 ( み ) てゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。
それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身 ( はだみ ) に附けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!――可う御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎 ( いつ ) も今夜のやうなこの心を持つて、睦 ( むつまじ ) く暮して下さい、私はそれが見たいのです!
今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでも為て上げます」
聞訖 ( ききをは ) りし両個 ( ふたり ) が胸の中は、諸共 ( もろとも ) に潮 ( うしほ ) の如きものに襲はれぬ。
未 ( ま ) だ服さざりし毒の俄 ( にはか ) に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕 ( おどろ ) かれ、愕くとよりは打惑 ( うちまど ) はれ、惑ふとよりは怪 ( あやし ) まれて、鬼か、神か、人ならば、如何 ( いか ) なる人かと、彼等は覚えず貫一の面 ( おもて ) を見据ゑて、更にその目を窃 ( ひそか ) に合せつ。
四辺 ( あたり ) も震ふばかりに八声 ( やこゑ ) の鶏 ( とり ) は高く唱 ( うた ) へり。
夜すがら両個 ( ふたり ) の運星蔽 ( おほ ) ひし常闇 ( とこやみ ) の雲も晴れんとすらん、隠約 ( ほのぼの ) と隙洩 ( すきも ) る曙 ( あけぼの ) の影は、玉の緒 ( を ) 長く座に入りて、光薄るる燈火 ( ともしび ) の下 ( もと ) に並べるままの茶碗の一箇 ( ひとつ ) に、小 ( ちひさ ) き蛾 ( が ) 有りて、落ちて浮べり。
〈[#改ページ]〉
新続金色夜叉
生れてより神仏 ( かみほとけ ) を頼み候事 ( さふらふこと ) とては一度も無御座候 ( ござなくさふら ) へども、此度 ( このたび ) ばかりはつくづく一心に祈念致し、吾命 ( わがいのち ) を縮め候代 ( さふらふかはり ) に、必ず此文は御目 ( おんめ ) に触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。幸 ( さいはひ ) に此の一念通じ候て、ともかくも御披 ( おんひらか ) せ被下候 ( くだされさふら ) はば、此身は直ぐ相果 ( あひは ) て候とも、つゆ憾 ( うらみ ) には不存申候 ( ぞんじまをさずさふらふ ) 。元より御憎悪強 ( おんにくしみつよ ) き私 ( わたくし ) には候 ( さふら ) へども、何卒 ( なにとぞ ) 是 ( これ ) は前非を悔いて自害いたし候一箇 ( ひとり ) の愍 ( あはれ ) なる女の、御前様 ( おんまへさま ) を見懸 ( みか ) けての遺言 ( ゆいごん ) とも思召 ( おぼしめ ) し、せめて一通 ( ひととほ ) り御判読 ( ごはんどく ) 被下候 ( くだされさふら ) はば、未来までの御情 ( おんなさけ ) と、何より嬉 ( うれし ) う嬉う存上 ( ぞんじあ ) げまゐらせ候。
扨 ( さて ) とや、先頃に久々とも何とも、御生別 ( おんいきわかれ ) とのみ朝夕 ( あさゆふ ) に諦 ( あきら ) め居 ( を ) り候御顔 ( おんかほ ) を拝し、飛立つばかりの御懐 ( おんなつか ) しさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでには様々の覚悟も致し、また心苦 ( こころぐるし ) き御目 ( おんめ ) もじの恥をも忍び、女の身にてはやうやうの思にて参じ候効 ( さふらふかひ ) も無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。唯其折 ( ただそのをり ) の形見には、涙の隙 ( ひま ) に拝しまゐらせ候御姿 ( おんすがた ) のみ、今に目に附き候て旦暮 ( あけくれ ) 忘 ( わす ) れやらず、あらぬ人の顔までも御前様 ( おんまへさま ) のやうに見え候て、此頃は心も空に泣暮し居りまゐらせ候。
久 ( ひさし ) う御目 ( おんめ ) もじ致さず候中 ( さふらふうち ) に、別の人のやうに総 ( すべ ) て御変 ( おんかは ) り被成 ( なされ ) 候も、私 ( わたくし ) には何 ( なに ) とやら悲く、又殊 ( こと ) に御顔の羸 ( やつれ ) 、御血色の悪さも一方 ( ひとかた ) ならず被為居候 ( ゐらせられさふらふ ) は、如何 ( いか ) なる御疾 ( おんわづらひ ) に候や、御見上 ( おんみあ ) げ申すも心細く存ぜられ候へば、折角御養生被遊 ( あそばされ ) 、何は措 ( お ) きても御身は大切に御厭 ( おんいと ) ひ被成候 ( なされさふらふ ) やう、くれぐれも念じ上 ( あげ ) 候。それのみ心に懸り候余 ( さふらふあまり ) 、悲き夢などをも見続け候へば、一入 ( ひとしほ ) 御案 ( おんあん ) じ申上まゐらせ候。
私事恥を恥とも思はぬ者との御さげすみを顧 ( かへりみ ) ず、先頃推 ( お ) して御許 ( おんもと ) まで参 ( さん ) し候胸の内は、なかなか御目もじの上の辞 ( ことば ) にも尽し難 ( がた ) くと存候 ( ぞんじさふら ) へば、まして廻らぬ筆には故 ( わざ ) と何も記 ( しる ) し申さず候まま、何卒 ( なにとぞ ) 々々宜 ( よろし ) く御汲分 ( おんくみわけ ) 被下度候 ( くだされたくさふらふ ) 。さやうに候へば、其節 ( そのせつ ) の御腹立 ( おんはらだち ) も、罪ある身には元より覚悟の前とは申しながら、余 ( あまり ) とや本意無 ( ほいな ) き御別 ( おんわかれ ) に、いとど思は愈 ( まさ ) り候 ( さふらふ ) て、帰りて後は頭痛 ( つむりいた ) み、胸裂 ( むねさく ) るやうにて、夜の目も合はず、明る日よりは一層心地悪 ( あし ) く相成 ( あひなり ) 、物を見れば唯涙 ( ただなみだ ) こぼれ、何事とも無きに胸塞 ( むねふさが ) り、ふとすれば思迫 ( おもひつ ) めたる気に相成候て、夜昼と無く劇 ( はげし ) く悩み候ほどに、四日目には最早起き居り候事も大儀に相成、午過 ( ひるすぎ ) より蓐 ( とこ ) に就き候まま、今日まで懕々 ( ぶらぶら ) 致候 ( いたしさふらふ ) て、唯々懐 ( なつかし ) き御方 ( おんかた ) の事のみ思続 ( おもひつづ ) け候 ( さふらふ ) ては、みづからの儚 ( はかな ) き儚き身の上を慨 ( なげ ) き、胸は愈 ( いよい ) よ痛み、目は見苦 ( みぐるし ) く腫起 ( はれあが ) り候て、今日は昨日 ( きのふ ) より痩衰 ( やせおとろ ) へ申候 ( まをしさふらふ ) 。
かやうに思迫 ( おもひつ ) め候気 ( さふらふき ) にも相成候上 ( あひなりさふらふうへ ) に、日毎に闇 ( やみ ) の奥に引入れられ候やうに段々心弱り候へば、疑 ( うたがひ ) も無く信心の誠顕 ( まことあらは ) れ候て、此の蓐 ( とこ ) に就 ( つ ) き候が元にて、はや永からぬ吾身とも存候 ( ぞんじさふらふ ) まま、何卒 ( なにとぞ ) これまでの思出には、たとひ命ある内こそ如何 ( いか ) やうの御恨 ( おんうらみ ) は受け候とも、今はの際 ( きは ) には御前様 ( おんまへさま ) の御膝 ( おんひざ ) の上にて心安く息引取 ( いきひきと ) り度 ( た ) くと存候へども、それは愜 ( かな ) はぬ罪深き身に候上は、もはや再び懐 ( なつかし ) き懐き御顔も拝し難く、猶又前非の御ゆるしも無くて、此儘 ( このまま ) 相果て候事かと、諦 ( あきら ) め候より外無く存じながら、とてもとても諦めかね候苦しさの程は、此心 ( このこころ ) の外に知るものも、喩 ( たと ) ふるものも無御座候 ( ござなくさふらふ ) 。是 ( これ ) のみは御憎悪 ( おんにくしみ ) の中にも少 ( すこし ) は不愍 ( ふびん ) と思召 ( おぼしめし ) 被下度 ( くだされたく ) 、かやうに認 ( したた ) め居 ( を ) り候内 ( さふらふうち ) にも、涙こぼれ候て致方無 ( いたしかたな ) く、覚えず麁相 ( そそう ) いたし候て、かやうに紙を汚 ( よご ) し申候。御容 ( おんゆる ) し被下度候 ( くだされたくさふらふ ) 。
さ候へば私事 ( わたくしこと ) 如何 ( いか ) に自ら作りし罪の報 ( むくい ) とは申ながら、かくまで散々の責苦 ( せめく ) を受け、かくまで十分に懺悔致 ( ざんげいた ) し、此上は唯死ぬるばかりの身の可哀 ( あはれ ) を、つゆほども御前様には通じ候はで、これぎり空 ( むなし ) く相成候が、余 ( あまり ) に口惜 ( くちをし ) く存候故 ( ぞんじさふらふゆゑ ) 、一生に一度の神仏 ( かみほとけ ) にも縋 ( すが ) り候て、此文には私一念を巻込め、御許 ( おんもと ) に差出 ( さしいだ ) しまゐらせ候。
返す返すも悔 ( くやし ) き熱海の御別 ( おんわかれ ) の後の思、又いつぞや田鶴見 ( たずみ ) 子爵の邸内にて図らぬ御見致候 ( ごけんいたしさふらふ ) 而来 ( このかた ) の胸の内、其後 ( そののち ) 途中 ( とちゆう ) にて御変 ( おんかは ) り被成候 ( なされさふらふ ) 荒尾様 ( あらをさま ) に御目 ( おんめ ) に懸り、しみじみ御物語 ( おんものがたり ) 致候事 ( いたしさふらふこと ) など、先達而中 ( せんだつてじゆう ) 冗 ( くど ) うも冗うも差上申候 ( さしあげまをしさふらふ ) 。毎度の文にて細 ( こまか ) に申上候へども、一通の御披 ( おんひらか ) せも無之 ( これなき ) やうに仰せられ候へば、何事も御存無 ( ごぞんじな ) きかと、誠に御恨 ( おんうらめし ) う存上候 ( ぞんじあげさふらふ ) 。百度千度 ( ももたびちたび ) 繰返 ( くりかへ ) し候ても、是非に御耳に入れまゐらせ度存候 ( たくぞんじさふら ) へども、今此の切なく思乱れ居 ( をり ) 候折 ( さふらふをり ) から、又仮初 ( かりそめ ) にも此上に味気無 ( あぢきな ) き昔を偲び候事は堪難 ( たへがた ) く候故、ここには今の今心に浮び候ままを書続けまゐらせ候。
何卒 ( なにとぞ ) 余所 ( よそ ) ながらも承 ( うけたま ) はり度 ( たく ) 存上候 ( ぞんじあげさふらふ ) は、長々御信 ( おんたより ) も無く居らせられ候御前様 ( おんまへさま ) の是迄 ( これまで ) 如何 ( いか ) に御過 ( おんすご ) し被遊候 ( あそばされさふらふ ) や、さぞかし暴 ( あら ) き憂世 ( うきよ ) の波に一方 ( ひとかた ) ならぬ御艱難 ( ごかんなん ) を遊 ( あそば ) し候事と、思ふも可恐 ( おそろし ) きやうに存上候 ( ぞんじあげさふらふ ) を、ようもようも御 ( おん ) めでたう御障無 ( おんさはりな ) う居らせられ、悲き中にも私の喜 ( よろこび ) は是一つに御座候。
御前様 ( おんまへさま ) の数々御苦労被遊候間 ( あそばされさふらふあひだ ) に、私とても始終人知らぬ憂思 ( うきおもひ ) を重ね候て、此世には苦みに生れ参り候やうに、唯儚 ( ただはかな ) き儚き月日を送りまゐらせ候。吾身 ( わがみ ) ならぬ者は、如何 ( いか ) なる人も皆 ( みな ) 可羨 ( うらやまし ) く、朝夕の雀鴉 ( すずめからす ) 、庭の木草に至る迄 ( まで ) 、それぞれに幸 ( さいはひ ) ならぬは無御座 ( ござなく ) 、世の光に遠き囹圄 ( ひとや ) に繋 ( つなが ) れ候悪人 ( さふらふあくにん ) にても、罪ゆり候日 ( さふらふひ ) の楽 ( たのしみ ) は有之候 ( これありさふらふ ) ものを、命有らん限は此の苦艱 ( くげん ) を脱 ( のが ) れ候事 ( さふらふこと ) 愜 ( かな ) はぬ身の悲しさは、如何に致候 ( いたしさふら ) はば宜 ( よろし ) きやら、御推量被下度候 ( くだされたくさふらふ ) 。申すも異な事に候へども、抑 ( そもそ ) も始より我 ( わたくし ) 心には何とも思はぬ唯継 ( ただつぐ ) に候へば、夫婦の愛情と申候ものは、十年が間に唯の一度も起り申さず、却 ( かへ ) つて憎き仇 ( あだ ) のやうなる思も致し、其傍 ( そのそば ) に居り候も口惜 ( くちをし ) く、倩 ( つくづ ) く疎 ( うと ) み果て候へば、三四年前 ( ぜん ) よりは別居も同じ有様に暮し居候始末にて、私事一旦の身の涜 ( けがれ ) も漸 ( やうや ) く今は浄 ( きよ ) く相成、益 ( ますます ) 堅く心の操 ( みさを ) を守り居りまゐらせ候。先頃荒尾様より御譴 ( おんしかり ) も受け、さやうな心得は、始には御前様に不実の上、今又唯継に不貞なりと仰せられ候へども、其の始の不実を唯今思知り候ほどの愚 ( おろか ) なる私が、何とて後の不貞やら何やら弁 ( わきま ) へ申すべきや。愚なる者なればこそ人にも勾引 ( かどはか ) され候て、帰りたき空さへ見えぬ海山の果に泣倒れ居り候を、誰一箇 ( たれひとり ) も愍 ( あはれ ) みて救はんとは思召し被下候 ( くだされさふら ) はずや。御前様にも其の愚なる者を何とも思召 ( おぼしめ ) し被下候 ( くだされさふら ) はずや。愚なる者の致せし過 ( あやまち ) も、並々の人の過も、罪は同きものに御座候や、重きものに御座候や。
愚なる者の癖に人がましき事申上候やうにて、誠に御恥 ( おんはづかし ) う存候 ( ぞんじさふら ) へども、何とも何とも心得難 ( こころえがた ) く存上候 ( ぞんじあげさふらふ ) は、御前様 ( おんまへさま ) 唯今 ( ただいま ) の御身分に御座候 ( ござさふらふ ) 。天地は倒 ( さかさま ) に相成候とも、御前様 ( おんまへさま ) に限りてはと、今猶 ( いまなほ ) 私は疑ひ居り候ほど驚入 ( おどろきいり ) まゐらせ候。世に生業 ( なりはひ ) も数多く候に、優き優き御心根にもふさはしからぬ然 ( さ ) やうの道に御入 ( おんい ) り被成候 ( なされさふらふ ) までに、世間は鬼々 ( おにおに ) しく御前様 ( おんまへさま ) を苦め申候 ( まをしさふらふ ) か。田鶴見様方 ( たずみさまかた ) にて御姿 ( おんすがた ) を拝し候後 ( さふらふのち ) 始 ( はじめ ) て御噂承 ( おんうはさうけたま ) はり、私は幾日 ( いくか ) も幾日も泣暮し申候。これには定て深き仔細 ( しさい ) も御座候はんと存候へども、玉と成り、瓦 ( かはら ) と成るも人の一生に候へば、何卒 ( なにとぞ ) 昔の御身に御立返 ( おんたちかへ ) り被遊 ( あそばされ ) 、私の焦れ居りまゐらせ候やうに、多くの人にも御慕 ( おんしたは ) れ被遊候 ( あそばされさふらふ ) 御出世の程をば、偏 ( ひとへ ) に偏 ( ひとへ ) に願上 ( ねがいあげ ) まゐらせ候。世間には随分賢からぬ者の好き地位を得て、時めかし居り候も少からぬを見るにつけ、何故 ( なにゆゑ ) 御前様 ( おんまへさま ) には然 ( さ ) やうの善からぬ業 ( わざ ) を択 ( より ) に択りて、折角の人に優 ( すぐ ) れし御身を塵芥 ( ちりあくた ) の中に御捨 ( おんす ) て被遊候 ( あそばされさふらふ ) や、残念に残念に存上 ( ぞんじあげ ) まゐらせ候。
愚なる私の心得違 ( こころえちがひ ) さへ無御座候 ( ござなくさふら ) はば、始終 ( しじゆう ) 御側 ( おんそば ) にも居り候事とて、さやうの思立 ( おもひたち ) も御座候節 ( ござさふらふせつ ) に、屹度 ( きつと ) 御諌 ( おんいさ ) め申候事も叶 ( かな ) ひ候ものを、返らぬ愚痴ながら私の浅はかより、みづからの一生を誤り候のみか、大事の御身までも世の廃 ( すた ) り物に致させ候かと思ひまゐらせ候へば、何と申候私の罪の程かと、今更御申訳 ( おんまをしわけ ) の致しやうも無之 ( これなく ) 、唯そら可恐 ( おそろ ) しさに消えも入度 ( いりた ) く存 ( ぞんじ ) まゐらせ候。御免 ( おんゆる ) し被下度 ( くだされたく ) 、御免し被下度 ( くだされたく ) 、御免し被下度候。
私は何故 ( なにゆゑ ) 富山に縁付き申候や、其気 ( そのき ) には相成申候や、又何故御前様の御辞 ( おんことば ) には従ひ不申 ( まをさず ) 候や、唯今 ( ただいま ) と相成候て考へ申候へば、覚めて悔 ( くやし ) き夢の中のやうにて、全く一時の迷とも可申 ( まをすべく ) 、我身ながら訳解らず存じまゐらせ候。二つ有るものの善きを捨て、悪 ( あし ) きを取り候て、好んで箇様 ( かよう ) の悲き身の上に相成候は、よくよく私に定り候運と、思出 ( おもひいだ ) し候ては諦 ( あきら ) め居り申候。
其節御前様の御腹立 ( おんはらだち ) 一層強く、私をば一打 ( ひとうち ) に御手に懸け被下候 ( くだされさふら ) はば、なまじひに今の苦艱 ( くげん ) は有之間敷 ( これあるまじく ) 、又さも無く候はば、いつそ御前様の手籠 ( てごめ ) にいづれの山奥へも御連れ被下候 ( くだされさふら ) はば、今頃は如何なる幸 ( さいはひ ) を得候事やらんなど、愚なる者はいつまでも愚に、始終愚なる事のみ考居 ( かんがへを ) り申候。
嬉くも御赦 ( おんゆるし ) を得、御心解けて、唯二人熱海に遊び、昔の浜辺に昔の月を眺 ( なが ) め、昔の哀 ( かなし ) き御物語を致し候はば、其の心の内は如何に御座候やらん思ふさへ胸轟 ( むねとどろ ) き、書く手も震ひ申候。今も彼 ( か ) の熱海に人は参り候へども、そのやうなる楽 ( たのしみ ) を持ち候ものは一人も有之 ( これある ) まじく、其代 ( そのかはり ) には又、私如 ( わたくしごと ) き可憐 ( あはれ ) の跡を留め候て、其の一夜 ( いちや ) を今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。
世をも身をも捨て居り候者にも、猶 ( なほ ) 肌身放 ( はだみはな ) さず大事に致候宝は御座候。それは御遺置 ( おんのこしおき ) の三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、是 ( これ ) のみは絶えず眺め候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の事憶出 ( おもひだ ) し候中に、うつつとも無く十年前 ( ぜん ) の心に返り候て、苦き胸も暫 ( しばし ) は涼 ( すずし ) く相成申候。最も所好 ( すき ) なるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ色褪 ( いろさ ) め、段々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るまじく、亡 ( な ) き後には棺の内に歛 ( をさ ) めもらひ候やう、母へは其 ( それ ) を遺言に致候覚悟に御座候。
ある女世に比無 ( たぐひな ) き錦 ( にしき ) を所持いたし候処 ( さふらふところ ) 、夏の熱き盛 ( さかり ) とて、差当 ( さしあた ) り用無く思ひ候不覚より、人の望むままに貸与へ候後は、いかに申せども返さず、其内に秋過ぎ、冬来 ( ふゆきた ) り候て、一枚の曠着 ( はれぎ ) さへ無き身貧に相成候ほどに、いよいよ先の錦の事を思ひに思ひ候へども、今は何処 ( いづこ ) の人手に渡り候とも知れず、日頃それのみ苦に病み、慨 ( なげ ) き暮し居り候折から、さる方にて計らず一人の美き女に逢ひ候処、彼 ( か ) の錦をば華 ( はなや ) かに着飾り、先の持主とも知らず貧き女の前にて散々 ( さんざん ) ひけらかし候上に、恥まで与へ候を、彼女 ( かのをんな ) は其身の過 ( あやまり ) と諦 ( あきら ) め候て、泣く泣く無念を忍び申候事に御座候が、其錦に深き思の繋 ( かか ) り候ほど、これ見よがしに着たる女こそ、憎くも、悔 ( くやし ) くも、恨 ( うらめし ) くも、謂はうやう無き心の内と察せられ申候。
先達而 ( せんだつて ) は御許 ( おんもと ) にて御親類のやうに仰せられ候御婦人に御目に掛りまゐらせ候。毎日のやうに御出 ( おんい ) で被成候 ( なされさふらふ ) て、御前様の御世話 ( おんせわ ) 万事被遊候 ( あそばされさふらふ ) 御方 ( おんかた ) の由 ( よし ) に候へば、後にて御前様さぞさぞ御大抵ならず御迷惑被遊候 ( あそばされさふらふ ) 御事 ( おんこと ) と、山々御察 ( おんさつ ) し申上候へども、一向さやうに御内合 ( おんうちあひ ) とも存ぜず、不躾 ( ぶしつけ ) に参上いたし候段は幾重にも、御詫申上 ( おんわびまをしあげ ) まゐらせ候。
尚 ( なほ ) 数々 ( かずかず ) 申上度 ( まをしあげたく ) 存候事 ( ぞんじさふらふこと ) は胸一杯にて、此胸の内には申上度事 ( まをしあげたきこと ) の外は何も無御座候 ( ござなくさふら ) へば、書くとも書くとも尽き申間敷 ( まをすまじく ) 、殊 ( こと ) に拙 ( つたな ) き筆に候へば、よしなき事のみくだくだしく相成候ていくらも、大切の事をば書洩 ( かきもら ) し候が思残 ( おもひのこり ) に御座候。惜き惜き此筆止 ( とど ) めかね候へども、いつの限無く手に致し居り候事も叶 ( かな ) ひ難 ( がた ) く、折から四時の明近 ( あけちか ) き油も尽き候て、手元暗く相成候ままはやはや恋 ( こひし ) き御名を認 ( したた ) め候て、これまでの御別 ( おんわかれ ) と致しまゐらせ候。
唯今 ( ただいま ) の此の気分苦く、何とも難堪 ( たへがた ) き様子にては、明日は今日よりも病重き事と存候 ( ぞんじさふらふ ) 。明後日は猶重くも相成可申 ( あひなりまをすべく ) 、さやうには候へども、筆取る事相叶 ( あひかな ) ひ候間は、臨終までの胸の内御許に通じまゐらせ度 ( たく ) 存候 ( ぞんじさふら ) へば、覚束無 ( おぼつかな ) くも何なりとも相認 ( あひしたた ) め可申候 ( まをすべくさふらふ ) 。
私事空 ( むなし ) く相成候とも、決して余 ( よ ) の病にては無之 ( これなく ) 、御前様 ( おんまへさま ) 御事 ( おんこと ) を思死 ( おもひじに ) に死候 ( しにさふらふ ) ものと、何卒 ( なにとぞ ) 々々御愍 ( おんあはれ ) み被下 ( くだされ ) 、其段 ( そのだん ) はゆめゆめ詐 ( いつはり ) にては無御座 ( ござなく ) 、みづから堅く信じ居候事に御座候。
明日 ( みようにち ) は御前様 ( おんまへさま ) 御誕生日 ( ごたんじようび ) に当り申候へば、わざと陰膳 ( かげぜん ) を供へ候て、私事も共に御祝 ( おんいは ) ひ可申上 ( まをしあぐべく ) 、嬉 ( うれし ) きやうにも悲きやうにも存候。猶くれぐれも朝夕 ( ちようせき ) の御自愛御大事に、幾久く御機嫌好 ( ごきげんよ ) う明日を御迎 ( おんむか ) へ被遊 ( あそばされ ) 、ますます御繁栄に被為居候 ( ゐらせられさふらふ ) やう、今は世の望も、身の願も、それのみに御座候。
まづはあらあらかしこ。
五月二十五日
おろかなる女ゟ ( より )
恋 ( こひし ) き恋き
生別 ( いきわかれ ) の御方様 ( おんかたさま )
まゐる
隣に養へる薔薇 ( ばら ) の香 ( か ) の烈 ( はげし ) く薫 ( くん ) じて、颯 ( さ ) と座に入 ( い ) る風の、この読尽 ( よみつく ) されし長き文 ( ふみ ) の上に落つると見れば、紙は冉々 ( せんせん ) と舞延びて貫一の身を縈 ( めぐ ) り、猶 ( なほ ) も跳 ( をど ) らんとするを、彼は徐 ( しづか ) に敷据ゑて、その膝 ( ひざ ) に慵 ( ものう ) げなる面杖 ( つらづゑ ) 拄 ( つ ) きたり。憎き女の文なんど見るも穢 ( けがらは ) しと、前 ( さき ) には皆焚棄 ( やきす ) てたりし貫一の、如何 ( いか ) にしてこたびばかりは終 ( つひ ) に打拆 ( うちひら ) きけん、彼はその手にせし始に、又は読去りし後に、自らその故 ( ゆゑ ) を譲 ( せ ) めて、自ら知らざるを愧 ( は ) づるなりき。
彼はやがて屈 ( かが ) めし身を起ししが、又直 ( ただ ) ちに重きに堪 ( た ) へざらんやうの頭 ( かしら ) を支へて、机に倚 ( よ ) れり。
緑濃 ( こまや ) かに生茂 ( おひしげ ) れる庭の木々の軽々 ( ほのか ) なる燥気 ( いきれ ) と、近き辺 ( あたり ) に有りと有る花の薫 ( かをり ) とを打雑 ( うちま ) ぜたる夏の初の大気は、太 ( はなは ) だ慢 ( ゆる ) く動きて、その間に旁午 ( ぼうご ) する玄鳥 ( つばくら ) の声朗 ( ほがらか ) に、幾度 ( いくたび ) か返しては遂 ( つひ ) に往きける跡の垣穂 ( かきほ ) の、さらぬだに燃ゆるばかりなる満開の石榴 ( ざくろ ) に四時過の西日の夥 ( おびただし ) く輝けるを、彼は煩 ( わづらは ) しと目を移して更に梧桐 ( ごどう ) の涼 ( すずし ) き広葉を眺めたり。
文の主 ( ぬし ) はかかれと祈るばかりに、命を捧げて神仏 ( かみほとけ ) をも驚かししと書けるにあらずや。貫一は又、自ら何の故 ( ゆゑ ) とも知らで、独 ( ひと ) りこれのみ披 ( ひら ) くべくもあらぬ者を披き見たるにあらずや。彼を絡 ( まと ) へる文は猶解けで、巌 ( いはほ ) に浪 ( なみ ) の瀉 ( そそ ) ぐが如く懸 ( かか ) れり。
そのままに専 ( ひた ) と思入るのみなりし貫一も、漸 ( やうや ) く悩 ( なやまし ) く覚えて身動 ( みじろ ) ぐとともに、この文殻 ( ふみがら ) の埓無 ( らちな ) き様を見て、やや慌 ( あわ ) てたりげに左肩 ( ひだりがた ) より垂れたるを取りて二つに引裂きつ。さてその一片 ( ひとひら ) を手繰 ( たぐ ) らんと為るに、長きこと帯の如し。好き程に裂きては累 ( かさ ) ね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。
かかる間 ( ま ) も彼は自 ( おのづ ) と思に沈みて、その動す手も怠 ( たゆ ) く、裂きては一々読むかとも目を凝 ( こら ) しつつ。やや有りて裂了 ( さきをは ) りし後は、あだかも劇 ( はげし ) き力作に労 ( つか ) れたらんやうに、弱々 ( よわよわ ) と身を支へて、長き頂 ( うなじ ) を垂れたり。
されど久 ( ひさし ) きに勝 ( た ) へずやありけん、卒 ( にはか ) に起たんとして、かの文殻の委 ( お ) きたるを取上げ、庭の日陰に歩出 ( あゆみい ) でて、一歩に一 ( ひと ) たび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入りては裂き、花壇を繞 ( めぐ ) りては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて寸々 ( すんずん ) に作 ( な ) しけるを、又引捩 ( ひきねぢ ) りては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも苦 ( くるし ) く、後様 ( うしろさま ) に唯有 ( とあ ) る冬青 ( もち ) の樹に寄添へり。
折から縁に出来 ( いできた ) れる若き女は、結立 ( ゆひたて ) の円髷 ( まるわげ ) 涼しげに、襷掛 ( たすきがけ ) の惜くも見ゆる真白の濡手 ( ぬれて ) を弾 ( はじ ) きつつ、座敷を覗 ( のぞ ) き、庭を窺 ( うかが ) ひ、人見付けたる会釈の笑 ( ゑみ ) をつと浮べて、
「旦那 ( だんな ) 様、お風呂が沸きましたが」
この姿好く、心信 ( こころまめや ) かなるお静こそ、僅 ( わづか ) にも貫一がこの頃を慰むる一 ( いつ ) の唯一 ( ただいつ ) の者なりけれ。
浴 ( ゆあみ ) すれば、下立 ( おりた ) ちて垢 ( あか ) を流し、出づるを待ちて浴衣 ( ゆかた ) を着せ、鏡を据 ( すう ) るまで、お静は等閑 ( なほざり ) ならず手一つに扱ひて、数ならぬ女業 ( をんなわざ ) の効無 ( かひな ) くも、身に称 ( かな ) はん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに委 ( ゆだ ) ぬるなり。されども、彼は別に奥の一間 ( ひとま ) に己 ( おのれ ) の助くべき狭山 ( さやま ) あるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの主 ( あるじ ) にも負へるなり。如此 ( かくのごと ) く孰 ( いづ ) れ疎 ( おろそか ) ならぬ主 ( あるじ ) と夫とを同時に有 ( も ) てる忙 ( せは ) しさは、盆と正月との併 ( あは ) せ来にけんやうなるべきをも、彼はなほ未 ( いま ) だ覚めやらぬ夢の中 ( うち ) にて、その夢心地には、如何 ( いか ) なる事も難 ( かた ) しと為るに足らずと思へるならん。寔 ( まこと ) に彼はさも思へらんやうに勇 ( いさ ) み、喜び、誇り、楽める色あり。彼の面 ( おもて ) は為に謂 ( い ) ふばかり無く輝ける程に、常にも愈 ( ま ) して妖艶 ( あでやか ) に見えぬ。
暫 ( しば ) し浴後 ( ゆあがり ) を涼みゐる貫一の側に、お静は習々 ( そよそよ ) と団扇 ( うちは ) の風を送りゐたりしが、縁柱 ( えんばしら ) に靠 ( もた ) れて、物をも言はず労 ( つか ) れたる彼の気色を左瞻右視 ( とみかうみ ) て、
「貴方 ( あなた ) 、大変にお顔色 ( かほつき ) がお悪いぢや御座いませんか」
貫一はこの言 ( ことば ) に力をも得たらんやうに、萎 ( な ) え頽 ( くづ ) れたる身を始て揺 ( ゆす ) りつ。
「さうかね」
「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」
「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然 ( はつきり ) せんねえ」
「惺然 ( はつきり ) あそばせよ。麦酒 ( ビイル ) でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」
「麦酒かい、余り飲みたくもないね」
「貴方そんな事を有仰 ( おつしや ) らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角私 ( わたくし ) が冷 ( ひや ) して置きましたのですから」
「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」
「何で御座いますつて⁈」
「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」
「狭山は、貴方、麦酒 ( ビイル ) なんぞを戴 ( いただ ) ける今の身分ぢや御座いませんです」
「そんなに堅く為 ( せ ) んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る」
お静は些 ( ちよ ) と涙含 ( なみだぐ ) みし目を拭 ( ぬぐ ) ひて、
「この上の気楽が有つて耐 ( たま ) るものぢや御座いません」
「けれども有物 ( あるもの ) だから、所好 ( すき ) なら飲んでもらはう。お前さんも克 ( い ) くのだらう」
「はあ、私もお相手を致しますから、一盃 ( いつぱい ) 召上りましよ。氷を取りに遣りまして――夏蜜柑 ( なつみかん ) でも剥 ( む ) きませう――林檎 ( りんご ) も御座いますよ」
「お前さん飲まんか」
「私も戴きますとも」
「いや、お前さん独 ( ひとり ) で」
「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」
「私は飲まん」
「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好 ( いや ) ですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今 ( ただいま ) 直 ( ぢき ) に持つて参りますから、其処 ( そこ ) にゐらつしやいまし」
気軽に走り行きしが、程無く老婢 ( ろうひ ) と共に齎 ( もたら ) せる品々を、見好げに献立して彼の前に陳 ( なら ) ぶれば、さすがに他の老婆子 ( ろうばし ) が寂 ( さびし ) き給仕に義務的吃飯 ( きつぱん ) を強 ( し ) ひらるるの比にもあらず、やや難捨 ( すてがた ) き心地もして、コップを取挙 ( とりあぐ ) れば、お静は慣れし手元に噴溢 ( ふきこぼ ) るるばかり酌して、
「さあ、呷 ( ぐう ) とそれを召上れ」
貫一はその半 ( なかば ) を尽して、先 ( ま ) づ息 ( いこ ) へり。林檎を剥 ( む ) きゐるお静は、手早く二片 ( ふたひら ) ばかり剡 ( そ ) ぎて、
「はい、お肴 ( さかな ) を」
「まあ、一盃上げやう」
「まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。些 ( ちつ ) とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽 ( は ) れますから」
「そんなに飲んだら倒れて了ふ」
「お倒れなすたつて宜 ( よろし ) いぢや御座いませんか。本当に今日は不好 ( いや ) な御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」
彼は覚えず薄笑 ( うすわらひ ) して、
「薬だつてさうは利 ( き ) かんさ」
「どうあそばしたので御座います。何処 ( どこ ) ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから」
「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」
「へい、お酌。ああ、余 ( あんま ) りお見事ぢや御座いませんか」
「見事でも可かんのかい」
「いいえ、お見事は結構なのですけれど、余 ( あんま ) り又――頂戴……ああ恐入ります」
「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで不見不知 ( みずしらず ) の、実に何の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして実体 ( じつてい ) の人だし、お前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為 ( せ ) んね。それは如何 ( いか ) なる事情が有つてかう成つたにも為よ、那裏 ( あすこ ) で逢 ( あ ) はなければ、何処 ( どこ ) の誰だかお互に分らずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、私 ( わたくし ) がかうだとか、……や、不思議だ! どうか、まあ渝 ( かは ) らず一生かうしてお附合 ( つきあひ ) を為たいと思ふ。けれども私は高利貸だ。世間から鬼か蛇 ( じや ) のやうに謂 ( いは ) れて、この上も無く擯斥 ( ひんせき ) されてゐる高利貸だ。お前さん方もその高利貸の世話に成つてゐられるのは、余り栄 ( みえ ) でも無く、さぞ心苦く思つてゐられるだらう、と私は察してゐる。のみならず、人の生血を搾 ( しぼ ) つてまでも、非道な貨 ( かね ) を殖 ( こしら ) へるのが家業の高利貸が、縁も所因 ( ゆかり ) も無い者に、設 ( たと ) ひ幾らでも、それほど大事の金をおいそれと出して、又体まで引取つて世話を為ると云ふには、何か可恐 ( おそろし ) い下心でもあつて、それもやつぱり慾徳渾成 ( ずく ) で恩を被 ( き ) せるのだらうと、内心ぢやどんなにも無気味に思つてゐられる事だらう、とそれも私は察してゐる。
さあ、コップを空 ( あ ) けて、返して下さい」
「召上りますの?」
「飲む」
酒気は稍 ( やや ) 彼の面 ( おもて ) に上 ( のぼ ) れり。
「お静さんはどう思ふね」
「私 ( わたくし ) 共は固 ( もと ) より命の無いところを、貴方のお蔭ばかりで助 ( たすか ) つてをりますので御座いますから、私共の体は貴方の物も同然、御用に立ちます事なら、どんなにでも遊 ( あそば ) してお使ひ下さいまし。狭山もそんなに申してをります」
「忝 ( かたじけ ) ない。然し、私は天引三割の三月縛 ( みつきしばり ) と云ふ躍利 ( をどり ) を貸して、暴 ( あら ) い稼 ( かせぎ ) を為てゐるのだから、何も人に恩などを被せて、それを種に銭儲 ( かねまうけ ) を為るやうな、廻り迂 ( くど ) い事を為る必要は、まあ無いのだ。だから、どうぞ決 ( け ) してそんな懸念 ( けねん ) は為て下さるな。又私の了簡では、元々些 ( ほん ) の酔興で二人の世話を為るのだから、究竟 ( つまり ) そちらの身さへ立つたら、それで私の念は届いたので、その念が届いたら、もう剰銭 ( つり ) を貰 ( もら ) はうとは思はんのだ。と言つたらば、情無い事には、私の家業が家業だから、鬼が念仏でも言ふやうに、お前さん方は愈 ( いよい ) よ怪く思ふかも知れん――いや、きつとさう思つてゐられるには違無い。残念なものだ!」
彼は長吁 ( ちようう ) して、
「それも悪木 ( あくぼく ) の蔭に居るからだ!」
「貴方、決 ( け ) して私共がそんな事を夢にだつて思ひは致しません。けれども、そんなに有仰 ( おつしや ) いますなら、何か私共の致しました事がお気に障 ( さは ) りましたので御座いませう。かう云ふ何 ( なんに ) も存じません粗才者 ( ぞんざいもの ) の事で御座いますから」
「いいや、……」
「いいえ、私は始終言はれてをります狭山に済みませんですから、どうぞ行届きませんところは」
「いいや、さう云ふ意味で言つたのではない。今のは私の愚痴だから、さう気に懸けてくれては甚 ( はなは ) だ困る」
「ついにそんな事を有仰 ( おつしや ) つた事の無い貴方が、今日に限つて今のやうに有仰ると、日頃私共に御不足がお有 ( あん ) なすつて」
「いや、悪かつた、私が悪かつた。なかなか不足どころか、お前さん方が陰陽無 ( かげひなたな ) く実に善く気を着けて、親身のやうに世話してくれるのを、私は何より嬉く思つてゐる。往日 ( いつか ) 話した通り、私は身寄も友達も無いと謂つて可いくらゐの独法師 ( ひとりぼつち ) の体だから、気分が悪くても、誰 ( たれ ) 一人薬を飲めと言つてくれる者は無し、何かに就けてそれは心細いのだ。さう云ふ私に、鬱 ( ふさ ) いでゐるから酒でも飲めと、無理にも勧めてくれるその深切は、枯木に花が咲くやうな心持が、いえ、嘘 ( うそ ) でも何でも無い。さあ、嘘でない信 ( しるし ) に一献差 ( ひとつさ ) すから、その積で受けてもらはう」
「はあ、是非戴かして下さいまし」
「ああ、もうこれには無い」
「無ければ嘘なので御座いませう」
「未 ( ま ) だ半打 ( はんダース ) の上 ( うへ ) 有るから、あれを皆注いで了はう」
「可うございますね」
貫一が老婢を喚ぶ時、お静は逸早 ( いちはや ) く起ち行けり。
話頭 ( わとう ) は酒を更 ( あらた ) むるとともに転じて、
「それはまあ考へて見れば、随分主人の面 ( つら ) でも、友達の面でも、踏躙 ( ふみにじ ) つて、取る事に於ては見界 ( みさかひ ) なしの高利貸が、如何 ( いか ) に虫の居所が善かつたからと云つて、人の難儀――には附込まうとも――それを見かねる風ぢやないのが、何であんな格 ( がら ) にも無い気前を見せたのかと、これは不審を立てられるのが当然 ( あたりまへ ) だ。
けれども、ねえ、いづれその訳が解る日も有らうし、又私といふ者が、どう云ふ人間であるかと云ふ事も、今に必ず解らうと思ふ。それが解りさへしたら、この上人の十人や二十人、私の有金の有たけは、助けやうが、恵まうが、少 ( すこし ) も怪む事は無いのだ。かう云ふと何か酷 ( ひど ) く偉がるやうで、聞辛 ( ききづら ) いか知らんけれど、これは心易立 ( こころやすだて ) に、全く奥底の無いところをお話するのだ。
いやさう考込まれては困る。陰気に成つて可かんから、話はもう罷 ( やめ ) に為 ( せ ) う。さうしてもつと飲み給へ、さあ」
「いいえ、どうぞお話をお聞せなすつて下さいまし」
「肴 ( さかな ) に成るやうな話なら可いがね」
「始終狭山ともさう申してをるので御座いますけれど、旦那様は御病身と云ふ程でも無いやうにお身受申しますのに、いつもかう御元気 ( ごげんき ) が無くて、お険 ( むづかし ) いお顔面 ( かほつき ) ばかりなすつてゐらつしやるのは、どう云ふものかしらんと、陰ながら御心配申してをるので御座いますが」
「これでお前さん方が来てくれて、内が賑 ( にぎや ) かに成つただけ、私も旧 ( もと ) から見ると余程 ( よつぽど ) 元気には成つたのだ」
「でもそれより御元気がお有 ( あん ) なさらなかつたら、まあどんなでせう」
「死んでゐるやうな者さ」
「どうあそばしたので御座いますね」
「やはり病気さ」
「どう云ふ御病気なので」
「鬱 ( ふさ ) ぐのが病気で困るよ」
「どう為てさうお鬱ぎあそばすので御座います」
貫一は自ら嘲 ( あざけ ) りて苦しげに哂 ( わら ) へり。
「究竟 ( つまり ) 病気の所為 ( せゐ ) なのだね」
「ですからどう云ふ御病気なのですよ」
「どうも鬱ぐのだ」
「解らないぢや御座いませんか! 鬱ぐのが病気だと有仰 ( おつしや ) るから、どう為てお鬱ぎ遊 ( あそば ) すのですと申せば、病気で鬱ぐのだつて、それぢや何処 ( どこ ) まで行つたつて、同じ事ぢや御座いませんか」
「うむ、さうだ」
「うむ、さうだぢやありません、緊 ( しつか ) りなさいましよ」
「ああ、もう酔つて来た」
「あれ、未だお酔ひに成つては可けません。お横に成ると御寐 ( おやすみ ) に成るから、お起きなすつてゐらつしやいまし。さあ、貴方」
お静は寄 ( よ ) りて、彼の肘杖 ( ひぢづゑ ) に横 ( よこた ) はれる背後 ( うしろ ) より扶起 ( たすけおこ ) せば、為 ( せ ) ん無げに柱に倚 ( よ ) りて、女の方を見返りつつ、
「ここを富山唯継 ( ただつぐ ) に見せて遣りたい!」
「ああ、舎 ( よ ) して下さいまし! 名を聞いても慄然 ( ぞつ ) とするのですから」
「名を聞いても慄然 ( ぞつ ) とする? さう、大きにさうだ。けれど、又考へて見れば、あれに罪が有る訳でも無いのだから、さして憎むにも当らんのだ」
「ええ、些 ( ほん ) の太好 ( いけす ) かないばかりです!」
「それぢや余り差 ( ちが ) はんぢやないか」
「あんな奴は那箇 ( どつち ) だつて可いんでさ。第一活 ( い ) きてゐるのが間違つてゐる位のものです。
本当に世間には不好 ( いや ) な奴ばかり多いのですけれど、貴方、どう云ふ者でせう。三千何百万とか、四千万とか、何でも太 ( たい ) した人数 ( ひとかず ) が居るのぢや御座いませんか、それならもう少し気の利 ( き ) いた、肌合 ( はだあひ ) の好い、嬉 ( うれし ) い人に撞見 ( でつくは ) しさうなものだと思ひますのに、一向お目に懸りませんが、ねえ」
「さう、さう、さう!」
「さうして富山みたやうなあんな奴がまあ紛々然 ( うじやうじや ) と居て、番狂 ( ばんくるはせ ) を為て行 ( ある ) くのですから、それですから、一日だつて世の中が無事な日と云つちや有りは致しません。どうしたらあんなにも気障 ( きざ ) に、太好 ( いけす ) かなく、厭味 ( いやみ ) たらしく生れ付くのでせう」
「おうおう、富山唯継散々だ」
「ああ。もうあんな奴の話をするのは馬鹿々々しいから、貴方、舎 ( よ ) しませうよ」
「それぢやかう云ふ話が有る」
「はあ」
「一体男と女とでは、だね、那箇 ( どつち ) が情合が深い者だらうか」
「あら、何為 ( なぜ ) で御座います」
「まあ、何為 ( なぜ ) でも、お前さんはどう思ふ」
「それは、貴方、女の方がどんなに情が」
「深いと云ふのかね」
「はあ」
「信 ( あて ) にならんね」
「へえ、信にならない証拠でも御座いますか」
「成程、お前さんは別かも知れんけれど」
「可 ( よ ) う御座いますよ!」
「いいえ、世間の女はさうでないやうだ。それと云ふが、女と云ふ者は、慮 ( かんがへ ) が浅いからして、どうしても気が移り易 ( やす ) い、これから心が動く――不実を不実とも思はんやうな了簡も出るのだ」
「それはもう女は浅捗 ( あさはか ) な者に極 ( きま ) つてゐますけれど、気が移るの何のと云ふのは、やつぱり本当に惚 ( ほ ) れてゐないからです。心底から惚れてゐたら、些 ( ちつと ) も気の移るところは無いぢや御座いませんか。善く女の一念と云ふ事を申しますけれど、思窮 ( おもひつ ) めますと、男よりは女の方が余計夢中に成つて了ひますとも」
「大きにさう云ふ事は有る。然し、本当に惚れんのは、どうだらう、女が非 ( わる ) いのか、それとも男の方が非いのか」
「大変難 ( むづかし ) く成りましたのね。さうですね、それは那箇 ( どつち ) かが非 ( わる ) い事も有りませう。又女の性分にも由りますけれど、一概に女と云つたつて、一つは齢 ( とし ) に在るので御座いますね」
「はあ、齢に在ると云ふと?」
「私共 ( わたくしども ) の商買 ( しようばい ) の者は善くさう申しますが、女の惚れるには、見惚 ( みぼれ ) に、気惚 ( きぼれ ) に、底惚 ( そこぼれ ) と、かう三様 ( みとほり ) 有つて、見惚と云ふと、些 ( ちよい ) と見たところで惚込んで了ふので、これは十五六の赤襟 ( あかえり ) 盛に在る事で、唯奇麗事でありさへすれば可いのですから、全 ( まる ) で酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。それから、十七八から二十 ( はたち ) そこそこのところは、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、扮装 ( なり ) の奇 ( おつ ) なのなんぞには余 ( あんま ) り迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合が嬉いとか、何とか、そんなところに目を着けるので御座いますね。ですけれど、未 ( ま ) だ未だやつぱり浮気なので、この人も好いが、又あの人も万更でなかつたりなんぞして、究竟 ( つまり ) お肚 ( なか ) の中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも二十三四からに成らなくては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申しますが、そんなものかも知れませんよ。この齢に成れば、曲りなりにも自分の了簡も据 ( すわ ) り、世の中の事も解つてゐると云つたやうな勘定ですから、いくら洒落気 ( しやれつき ) の奴でも、さうさう上調子 ( うはちようし ) に遣つちやゐられるものぢやありません。其処 ( そこ ) は何と無く深厚 ( しんみり ) として来るのが人情ですわ。かうなれば、貴方、十人が九人までは滅多に気が移るの、心が変るのと云ふやうな事は有りは致しません。あの『赤い切掛 ( きれか ) け島田の中 ( うち ) は』と云ふ唄 ( うた ) の文句の通、惚れた、好いたと云つても、若い内はどうしたつて心 ( しん ) が一人前 ( いちにんまへ ) に成つてゐないのですから、やつぱりそれだけで、為方の無いものです。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいの言れた日には、殿方は御難ですね」
お静は一笑してコップを挙げぬ。貫一は連 ( しきり ) に頷 ( うなづ ) きて、
「誠に面白かつた。見惚 ( みぼれ ) に気惚に底惚か。齢 ( とし ) に在ると云ふのは、これは大きにさうだ。齢に在る! 確に在るやうだ!」
「大相感心なすつてゐらつしやるぢや御座いませんか」
「大きに感心した」
「ぢやきつと胸に中 ( あた ) る事がお有 ( あん ) なさるので御座いますね」
「ははははははは。何為 ( なぜ ) 」
「でも感心あそばし方が凡 ( ただ ) で御座いませんもの」
「ははははははは。愈 ( いよい ) よ面白い」
「あら、さうなので御座いますか」
「はははははは。さうなのとはどうなの?」
「まあ、さうなのですね」
彼は故 ( ことさら ) に瞪 ( みは ) れる眼 ( まなこ ) を凝 ( こら ) して、貫一の酔 ( ゑ ) ひて赤く、笑ひて綻 ( ほころ ) べる面 ( おもて ) の上に、或者を索 ( もと ) むらんやうに打矚 ( うちまも ) れり。
「さうだつたらどうかね。はははははは」
「あら、それぢや愈 ( いよい ) よさうなので御座いますか!」
「ははははははははは」
「可けませんよ、笑つてばかりゐらしつたつて」
「はははははは」
惜くもなき命は有り候 ( さふらふ ) ものにて、はや其 ( それ ) より七日 ( なぬか ) に相成候 ( あひなりさふら ) へども、猶 ( なほ ) 日毎 ( ひごと ) に心地苦 ( くるし ) く相成候やうに覚え候のみにて、今以つて此世 ( このよ ) を去らず候へば、未練の程の御 ( おん ) つもらせも然 ( さ ) ぞかしと、口惜 ( くちをし ) くも御恥 ( おんはづかし ) く存上参 ( ぞんじあげまゐ ) らせ候。御前様 ( おんまへさま ) には追々 ( おひおひ ) 暑 ( あつさ ) に向ひ候へば、いつも夏まけにて御悩み被成候事 ( なされさふらふこと ) とて、此頃 ( このごろ ) は如何 ( いか ) に御暮 ( おんくら ) し被遊候 ( あそばされさふらふ ) やと、一入 ( ひとしほ ) 御案 ( おんあん ) じ申上参 ( まをしあげまゐ ) らせ候。
私事 ( わたくしこと ) 人々の手前も有之候故 ( これありさふらふゆゑ ) 、儀 ( しるし ) ばかりに医者にも掛り候へども、もとより薬などは飲みも致さず、皆 ( みな ) 打捨 ( うちす ) て申候 ( まをしさふらふ ) 。御存じの此疾 ( このわづらひ ) は決して書物の中には載せて在るまじく存候を、医者は訳無くヒステリイと申候。是もヒステリイと申候外は無きかは不存申候 ( ぞんじまをさずさふら ) へども、自分には広き世間に比無 ( たぐひな ) き病の外の病とも思居り候ものを、さやうに有触れたる名を附けられ候は、身に取りて誠に誠に無念に御座候。
昼の中 ( うち ) は頭重 ( つむりおも ) く、胸閉ぢ、気疲劇 ( きづかれはげし ) く、何を致候も大儀 ( たいぎ ) にて、別 ( わ ) けて人に会ひ候が憥 ( うるさ ) く、誰 ( たれ ) にも一切 ( いつせつ ) 口 ( くち ) を利 ( き ) き不申 ( まをさず ) 、唯独 ( ただひと ) り引籠 ( ひきこも ) り居り候て、空 ( むなし ) く時の経 ( た ) ち候中 ( さふらふうち ) に、此命 ( このいのち ) の絶えず些 ( ちと ) づつ弱り候て、最期 ( さいご ) に近く相成候が自 ( おのづ ) から知れ候やうにも覚 ( おぼ ) え申候 ( まをしさふらふ ) 。
夜 ( よ ) に入 ( い ) り候ては又気分変り、胸の内俄 ( にはか ) に冱々 ( さえざえ ) と相成 ( あひなり ) 、なかなか眠 ( ねぶ ) り居り候空は無之 ( これなく ) 、かかる折に人は如何やうの事を考へ候ものと思召被成 ( おぼしめしなされ ) 候や、又其人私に候はば何と可有之候 ( これあるべくさふらふ ) や、今更申上候迄にも御座候はねば、何卒 ( なにとぞ ) 宜 ( よろし ) く御判 ( おんはん ) じ被遊度 ( あそばされたく ) 、夜一夜 ( よひとよ ) 其事のみ思続け候て、毎夜寝もせず明しまゐらせ候。
さりながら、何程思続け候とても、水を覓 ( もと ) めて逾 ( いよい ) よ焔 ( ほのほ ) に燃 ( や ) かれ候に等 ( ひとし ) き苦艱 ( くげん ) の募り候のみにて、いつ此責 ( このせめ ) を免 ( のが ) るるともなく存 ( ながら ) へ候 ( さふらふ ) は、孱弱 ( かよわ ) き女の身には余 ( あまり ) に余に難忍 ( しのびがた ) き事に御座候。猶々 ( なほなほ ) 此のやうの苦 ( くるし ) き思を致候 ( いたしさふらふ ) て、惜むに足らぬ命の早く形付 ( かたづ ) き不申 ( まをさざ ) るやうにも候はば、いつそ自害致候てなりと、潔く相果て候が、逈 ( はるか ) に愈 ( まし ) と存付 ( ぞんじつ ) き候 ( さふら ) へば、万一の場合には、然 ( さ ) やうの事にも可致 ( いたすべく ) と、覚悟極めまゐらせ候。
さまざまに諦 ( あきら ) め申候 ( まをしさふら ) へども、此の一事は迚 ( とて ) も思絶ち難く候へば、私 ( わたくし ) 相果 ( あひは ) て候迄 ( さふらふまで ) には是非々々一度、如何に致候ても推 ( お ) して御目 ( おんめ ) もじ相願ひ可申 ( まをすべく ) と、此頃は唯其事 ( ただそのこと ) のみ一心に考居 ( かんがへを ) り申候 ( まをしさふらふ ) 。昔より信仰厚き人達は、現 ( うつつ ) に神仏 ( かみほとけ ) の御姿 ( おんすがた ) をも拝 ( をが ) み候やうに申候へば、私とても此の一念の力ならば、決して愜 ( かな ) はぬ願にも無御座 ( ござなく ) と存参 ( ぞんじまゐ ) らせ候。
昨日 ( さくじつ ) は見舞がてらに本宅の御母様 ( おんははさま ) 参 ( まゐ ) られ候。是 ( これ ) は一つは唯継事 ( ただつぐこと ) 近頃不機嫌 ( ふきげん ) にて、とかく内を外に遊びあるき居り候処 ( さふらふところ ) 、両三日前の新聞に善からぬ噂出 ( うはさい ) で候より、心配の余 ( あまり ) 様子見に参られ候次第にて、其事に就き私へ懇々 ( こんこん ) の意見にて、唯継の放蕩致候 ( ほうとういたしさふらふ ) は、畢竟 ( ひつきよう ) 内 ( うち ) のおもしろからぬ故 ( ゆゑ ) と、日頃の事一々誰が告げ候にや、可恥 ( はづかし ) き迄に皆知れ候て、此後は何分心を用ゐくれ候やうにと被申候 ( まをされさふらふ ) 。私事 ( わたくしこと ) 其節 ( そのせつ ) 一思 ( ひとおも ) ひに不法の事を申掛け、愛想 ( あいそ ) を尽され候やうに致し、離縁の沙汰 ( さた ) にも相成候 ( あひなりさふら ) はば、誠に此上無き幸 ( さいはひ ) と存付 ( ぞんじつ ) き候へども、此姑 ( このしうとめ ) と申候人 ( まをしさふらふひと ) は、評判の心掛善き御方にて、殊 ( こと ) に私をば娘のやうに思ひ、日頃 ( ひごろ ) の厚き情 ( なさけ ) は海山にも喩 ( たと ) へ難きほどに候へば、なかなか辞 ( ことば ) を返し候段にては無之 ( これなく ) 、心弱しとは思ひながら、涙の零 ( こぼ ) れ候ばかりにて、無拠 ( よんどころなく ) 身 ( み ) の不束 ( ふつつか ) をも詑 ( わ ) び申候 ( まをしさふらふ ) 次第に御座候。
此命 ( このいのち ) 御前様 ( おんまへさま ) に捨て候ものに無御座候 ( ござなくさふら ) はば、外には此人の為に捨て可申 ( まをすべく ) と存候 ( ぞんじさふらふ ) 。此の御方を母とし、御前様 ( おんまへさま ) を夫と致候て暮し候事も相叶 ( かな ) ひ候はば、私は土間に寐 ( い ) ね、蓆 ( むしろ ) を絡 ( まと ) ひ候 ( さふらふ ) ても、其楽 ( そのたのしみ ) は然 ( さ ) ぞやと、常に及ばぬ事を恋 ( こひし ) く思居りまゐらせ候。私事相果て候はば、他人にて真 ( まこと ) に悲みくれ候は、此世に此の御方一人 ( おんかたひとり ) に御座あるべく、第一然 ( さ ) やうの人を欺き、然やうの情 ( なさけ ) を余所 ( よそ ) に致候 ( いたしさふらふ ) 私は、如何 ( いか ) なる罰を受け候事かと、悲く悲く存候に、はや浅ましき死様 ( しにやう ) は知れたる事に候へば、外に私の願の障 ( さはり ) とも相成不申 ( あひなりまをさず ) やと、始終心に懸り居り申候 ( まをしさふらふ ) 。
思へば、人の申候ほど死ぬる事は可恐 ( おそろし ) きものに無御座候 ( ござなくさふらふ ) 。私は今が今此儘 ( このまま ) に息引取り候はば、何よりの仕合 ( しあはせ ) と存参 ( ぞんじまゐ ) らせ候。唯後 ( ただあと ) に遺 ( のこ ) り候親達の歎 ( なげき ) を思ひ、又我身生れ効 ( がひ ) も無く此世の縁薄く、かやうに今在る形も直 ( ぢき ) に消えて、此筆 ( このふで ) 、此硯 ( このすずり ) 、此指環、此燈 ( このあかり ) も此居宅 ( このすまひ ) も、此夜も此夏も、此の蚊の声も、四囲 ( あたり ) の者は皆永く残り候に、私独 ( ひと ) り亡 ( な ) きものに相成候て、人には草花の枯れたるほどにも思はれ候はぬ儚 ( はかな ) さなどを考へ候へば、返す返す情無く相成候て、心ならぬ未練も出 ( い ) で申候 ( まをしさふらふ ) 。
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメイン の状態にあります。
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