編集後記と奥付

七ツ森

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郷土の傳承 p.142-143

  七ツ森(黒川郡宮床)

 黒川郡の西を限るやうに、形のよい山が七つ、似寄つた姿で、高く低く、並び聳えてゐる。これが七つ森である。

 七つ森のうしろから出て、郡を西から東へ流れてゐるのが吉田川であつて、その水は、東端の品井沼に注いでゐる。

 七つ森は、曲折凡そ十三粁の吉田川によつて、品井沼と相連繋してゐるわけである。

 昔、豪力無雙の朝比奈三郎が、この七つ森と、吉田川と品井沼とつくつたといふのである。

 朝比奈は、今の品井沼のところの土を掘つて、掘つた土をタンガラに入れて背負つて運んだ。昔、平であつた今の七つ森の ところにどさりどさりと、その土をおろした。そのたびに山が一つ出來た。七へん往復したので、山が七つ出來上つた。往復し た足あとが、山一つ背負つてあるいた程であるからその重みのために、一足毎に土がめり込み、そこに川が出來て、吉田川と なつた。土を掘つたところには大きな穴が出來た。そこに吉田川などから流れて來た水がたまつて品井沼になつた。

 最後に、朝比奈は、タンガラにくつついてゐた土を、タンガラをさかさにして叩き落としたら、そこにも小さな山が出來た。 それでこれはタンガラ森といふ。七つ森の最北にある遂倉森の下にあるのがそれで、七つ森の中にはかぞへてゐない。

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 坂上田村麻呂が七つ森の巻狩をしたといふ。大層な大獵であつた。しかも山の幸ばかりでなく、麓に住んでゐた長者の娘 世にもあだなる惡玉御前を得て行った。今、長者屋敷の跡は惡田 玉が池(吉田村)などいふ名によつて傳へられてゐる。

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 或年、伊達政宗公が七つ森を巻狩した。田村麻呂の時とは打つて變つて獲物はからきしなかつた。政宗公ご機嫌益々なゝめ 追ひつめて七つ森の主峯大森山の頂上に出た。すると前方に、によつきり立つてゐる眞黒な佛像が目についた。その、薬師如 來であることは、かたはらの片倉小十郎の説明によつて知つた。咄、結局、今日の不獵はこの如來の邪魔立てによると、早く も鐵砲の用意をする。片倉小十郎とめたがきかない。南蠻渡來の種か島六匁玉にねらひを定めて打ち放したのが誤たず、腹部 に命中して、佛像は眞二つになつた。と、不思議や、政宗公の鼻からは血がどくどくとふき出て、止めても止まらない。片倉 小十郎困り果てゝそこの笹の葉を噛んでつけたら、たちどころに出血はとまつた。さすがの政宗公、この妙効利益に驚いてお のづと頭がさがつた。(薬師如來に弓を射たら、その矢がはねかへつて來て、眼に突きさゝり、その爲に片目がつぶれたとも言 つてゐる。)政宗公、一時の激憤をいんぎんに詫びて、その印に山を一周する道を麓に作つた。それで今この山で踏迷つても麓 にさい出ればまちがいはない。

 大森の頂上にある笹倉神社の御神体は、その時のもので、鍋鐵でつくられてゐる。繃帯をしてゐなさるのは、打たれて眞二 つになつたためである。

  (淺野末治)

 

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