一九一〇年

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失はれたるモナ・リザ

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モナ・リザは步み去れり
かの不思議なる微笑に銀の如き顫音を加へて
「よき人になれかし」と
とほく、はかなく、かなしげに
また、凱旋の將軍の夫人が偸視ぬすみみの如き
冷かにしてあたたかなる
銀の如き顫音を加へて
づやかに、つつましやかに
モナ・リザは步み去れり

モナ・リザは步み去れり
深く被はれたる煤色の假漆ヱルニこそ
はれやかに解かれたれ
ながく畫堂の壁に閉ぢられたる
額ぶちこそは除かれたれ
敬虔の淚をたたへて
畫布トワアルにむかひたる
迷ひふかき裏切者の畫家こそはかなしけれ
ああ、畫家こそははかなけれ
モナ・リザは步み去れり

モナ・リザは步み去れり
心弱く、痛ましけれど
手に權謀の力つよき
晝みれば淡綠に
夜みれば眞紅なる
かのアレキサンドルの青玉せいぎよくの如き
モナ・リザは步み去れり

モナ・リザは步み去れり
我が魂を脅し
我が生の燃燒に油をそそぎし
モナ・リザの唇はなほ微笑せり
ねたましきかな
モナ・リザは淚をながさず
ただ東洋の眞珠の如き
うるみある淡碧うすあをの齒をみせて微笑せり
額ぶちを離れたる
モナ・リザは步み去れり

モナ・リザは步み去れり
かつてその不可思議に心をののき
逃亡を企てし我なれど
ああ、あやしきかな
步み去るそのうしろかげの慕はしさよ
幻の如く、又阿片をく烟の如く
消えなば、いかに悲しからむ
ああ、紀念すべき霜月の末の日よ
モナ・リザは步み去れり

(十二月十四日)

  わが愛せし某樓の女を我假にモナリザと名けたりき

生けるもの

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何事もたはむれにして、何事も戲ならず
戯ならずと言はむにはあまりに幼し
戯なりと言はばみつから悲し
我も生けるものなり
公園に散る新聞紙の如く
貧く、あぢきなく、たよりなく
雨にうたるるまで
生けるものをして望むがままに生かしめよ

根付の國

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頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郞の彫つた根付の樣な顏をして
魂をぬかれた樣にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見榮坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の樣な、狐の樣な、ももんがあの樣な、だぼはぜの樣な、麥魚めだかの樣な、鬼瓦の樣な、茶碗のかけらの樣な日本人

(十二月十六日)

一九一一年

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畫室の夜

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暖爐ストオブの火は消えて
室の四すみよりいつとなく
寒さは電流の如く忍び入る
絹マントルの明るき光は瞬きもせず
物の色より黃を奪へり
亂雜なる畫室の樣のもの淋しさよ
今もわが頭の中の微笑せる彼の人を思へば
繪具と畫布とは兒戯に近し
――藝術は唯巧妙なる約束の因襲なるを――
むしろシヤヷンヌの畫を嗤つて
一抔のリキウルに泣かむとす
寒さ烈し
冬の夜の午前二時

(一月十二日)

熊の毛皮

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熊の毛皮の心地よさよ
なめらかに、さらさらと
肌にふる

その長き毛に頬をうづめよ
その黑き毛に身をなげかけよ
不思議なる歡樂は
血管を走る可し
湯より出でたる女等を
こころみに熊の毛皮に伏せしめよ
美しきものは
更に生きたる光を得む

熊の毛皮の心地よさよ
なめらかに、さらさらと
肌にふる

(一月十五日)

人形町

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あの大丸も店仕舞をしたさうな
角の尾張屋の
大きなおろし小うり甘酒の行燈が
いま百八つの鐘の鳴り止んで
少しひつそりした
人形町にまだ見える

おもひなしか掃除の出來た
電車通りを歸つて來れば
橫町に古風な白張提灯がひよつこりと――

何處かで鷄が啼く

(一月十五日)

甘栗

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釜からあげた
清國名産甘栗の
やはらかい皮をむけば
琥珀の樣な栗の實が
ころころところげたり
――みりんくさい湯氣がちる――
ワニラのリキウルに似た
舌つたるい甘さが
鬼の息のやうに體を包んだ
――氣の遠くなるやうな南清の大河
揚子江ヤンツウキヤンの岸の白楊に日があたる
チヤルメラの唄が
とほく、とほく――

よせば可いのに、その時
ころげた栗の實を
拾つて拭いて手にのせた
お花さんのいたづら

(一月十九日)

庭の小鳥

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――つうい、ちろちろ――

何の小鳥か庭に來て
めづらしい聲に啼く

――つうい、ちろちろ――

流暢なあの聲きけば
日本の鳥ではないさうな

(一月十九日)

亡命者

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わが心はむしくへり
うつろに、くろく、しんしんと
潮時來れば堪へがたし

かの亡命の日の淋しさに
身を隱したる家なれど
猫の背よりもうつくしき
黑髮をもつ少女等は
むざんなる力もて
ゐたりけり

女とは惡しきものの名なるかな
わがうつろなる心は
この名によりて痛し
女とはあやしきものの名なるかな
わがおびえたる心は
この名によりてをののけり

げに女こそ世にも悲しきものなれ
わがさびしき心は
この名によりて寂寥を極む
げに女こそ世にも呪ふべきものなれ
わがあたたかき心は
この名によりて、見よ凍らむとす

女よ
されど我に調伏の力なし
ただ哀れなる俳優のごとく
人知れず、ものの陰より
づやかに、とやかに
何時となく
舞臺を去らざるべからず――

わが心は蝕へり
靜かなる夜も、しんしんと
潮時來れば堪へがたし

(二月十日)

鳩に豆やろ、豆くへ、鳩よ

鳩が豆くふ、親鳩子鳩

馴れて吾が手に豆くふ子鳩

觀音堂に夕日がさせば

鳩を見てさへ泣いたもの

(二月十日)

食後の酒

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青白き瓦斯の光に輝きて
吾がベネヂクチンの靜物畫は
忘れられたる如く壁に懸れり

食器棚ビユツフエの鏡にはさまざまの酒の色と
さまざまの客の姿と
さまざまの食器とうつれり

流し來る月琴の調しらべ
幼くしてかも悲し
かすかに胡弓のひびきさへす

わが顏は熱し、吾が心は冷ゆ
辛き酒を再びわれにすすむる
マドモワゼル、ウメの瞳のふかさ

(二月二十一日)

寂寥

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赤き辭典に
葬列の步調あり
火の氣なき暖爐ストオブ
鑛山かなやまにひびく杜鵑とけんの聲に耳かたむけ
力士小野川の嗟嘆は
よごれたる絨毯の花模樣にひそめり

何者か來り
窓のすり硝子に、ひたひたと
燐をそそぐ、ひたひたと――
黃昏たそがれはこの時赤きインキを過ち流せり

何處にか走らざるべからず
走るべき處なし
何事か爲さざるべからず
爲すべき事なし
坐するに堪へず
脅迫は大地に滿てり

いつしか我は白のフランネルに身を捲き
蒸風呂より出でたる困憊を心にいだいて
きりに電磁學の原理を夢む

朱肉は塵埃に白けて
今日の佛滅の黑星を嗤ひ
晴雨計は今大擾亂を起しつつ
月は重量を失ひて海に浮べり

鶴香水は封筒に默し
何處よりともなく、折檻に泣く
お酌の悲鳴きこゆ

ああ、走る可き道を教へよ
爲す可き事を知らしめよ
氷河の底は火の如くに痛し
痛し、痛し

(三月十三日)

止せ、止せ
みじんこ生活の都會が何だ
ピアノの鍵盤に腰かけた樣な騷音と
固まりついたパレツト面の樣な混濁と
其の中で泥水を飮みながら
朝と晚に追はれて
高ぶつた神經に顫へながらも
レツテルを貼つた武具に身を固めて
道を行く其のざまは何だ
平原に來い
牛が居る
馬がゐる
貴樣一人や二人の生活には有り餘る命の糧が地面から湧いて出る
透きとほつた空氣の味を食べてみろ
そして靜かに人間の生活といふものを考へろ
すべてを棄てて兎に角石狩の平原に來い

そんな隱退主義に耳をかすな
牛が居て、馬が居たら、どうするのだ
用心しろ
繪に畫いた牛や馬は奇麗だが
生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ
命の糧は地面からばかり出るのぢやない
都會の路傍に堆く積んであるのを見ろ
そして人間の生活といふものを考へる前に
まづぢつと翫味しようと試みろ

自然に向へ
人間を思ふよりも生きた者を先に思へ
自己の王國に主たれ
惡に背け

汝を生んだのは都會だ
都會が離れられると思ふか
人間は人間の爲した事を尊重しろ
自然よりも人工に意味ある事を知れ
惡に面せよ
PARADIS ARTIFICIEL!

馬鹿
自ら害ふものよ

馬鹿
自ら卑むるものよ

(五月二十日)

はるばると椿の多い三宅島から
油壺のやうな黑潮を超えて
いい心持に
氣隨氣儘な八つ當りさへさんざ爲て
はねて、けつて、とんで
とんで、躍つて
都へ渡つた南かぜ――
さればさ
茨の剌の青むと一緖に
通る女も、通る女も
みんな油くさくなつた

(五月二十一日)

新綠の毒素

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――高尾清五郞君に呈す――

青くさき新綠の毒素は世に滿てり

野といはず山といはず
ちまたの垣根、路傍の草叢くさむら
置き忘れたる卓上の石の如き覇王樹に至るまで
今は神經に動亂を起して
ひそかに廻る生の脈搏
狂ほしき命の力
止みがたき機能の覺醒に驚きつつ
溢れ出づる新綠を
その口より吐き出だしたり

青くさき新綠の毒素は世に滿てり

生命の過剩
形を備へざる勢力
あかつき
鷄の觸神をそそりて
世にも不思議なる
かの鷄鳴を吐かしむる力
ありとある媚藥
ありとある香料も
いまだ此の力の避けがたきに及ばず

青くさき新綠の毒素は世に滿てり

その味ひは直に人の肌を剌し
そのかをりはたちまち人の血管を襲ひて
我は此の時心臟のめくるめく重壓に堪へず
かも、何事か絶叫せざるべからざる喜悦と驕慢と來れば
手は新しく物に觸れ
足は雀躍こをどりしてただ前進せむとす
――されば、されば
苦しき忘我と
たのしき疼痛とは
地殼より湧き出づる精液の放射
物のすべてに染み渡れる此の奇臭に因りて痛まし

青くさき新綠の毒素は世に滿てり

姙みたる瘠犬は共同墓地に潜みて病菌に齒を鳴らし
蛇は安らかなる冬の眠よりめざめて
再び呪はれたる地上に腹這ひ嘆かざるべからず
二十日鼠は天井裏に交み
磯巾着は氣味惡き擬手を動かす
ああ、禽獸蟲魚
悉く無益むやくなる性の昂奮に
虐殺と猜疑と狂奔とにいがみ合へり

青くさき新綠の毒素は世に滿てり

見よ
河岸隨一の醜女ぶをんな
樽屋のおちかは溜息して
まろき乳首をまさぐり泣けり
見よ
宗林寺の納所坊主
青瓢箪の妙圓は朝の勤行に船をこぎ
門前の下駄屋に赤き鼻緖ををののき見つむ
見よ
大野原の手代
四十男の佐太郞は
路地のくらやみに世にも始めて白鼠となれり
見よ
金庫を傾けて新しき紙幣の束を握り
上氣じやうきしたる青女房は素足も輕く
間夫まぶの清人劉一章と廣東に走れり
見よ、見よ、見よ

青くさき新綠の毒素は世に滿てり

家に入れど
臥床ふしどに入れど
沐浴ゆあみすれど
にがきを甞むれど
三味を聞けど
歌を聽けど
飮めど
泣けど
ともねすれど
まろねすれど
いづくまでも、いづくまでも
息ぐるしき辛辣のただよひは
我が身を包み、我が魂をとどろかす
あはれ、あはれ

青くさき新綠の毒素は世に滿てり

(六月十一日)

癈頽者より

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――バアナアド、リイチ君に呈す――

寬仁にして眞摯なる友よ
わが敬愛するアングロ、サクソンの血族なる友よ
君のあつき友情を思へば余は殆ど泣かむとす
めづらしき夕立の
チエルジイを襲ひて白き烟を上げたるかの日
余は初めて君の手を握れるなりき

寬仁にして眞摯なる友よ
君は余に圖り、余を信じて
運命の如く
遠きわが日本に何物をか慕ひ來れり
ああ、やがて其は三年にもなりなむ
友よ
君は常に燃ゆるが如き心を以て余に向へるに
余は狐の如く、また鼬の如く
君の心をかたへに置きて
醜惡なる生活に身を匿せり
西に奔り、南に走せ、復りては又往きつつ

寬仁にして眞摯なる友よ
君は靜かなる深き瞳に物を思ひて
余の爲に悲しみたり
おのづから消えゆく寫眞のたよりなき悲しみの如く
落つる花の詮なきごとく
ゆく雲の止みがたきを思ふごとく――
櫻さき、廣重の水の流るる日本にして
友よ
君はいかに淋しかりけむ
君の結婚と愛兒の誕生との間にも
君が眉のあたりには尚ほ何物か潜みたりき
君はつひに怒らず
またあきらむる事をせず
疲れたる余を見ては
チエルジイに於けるが如く今も語る

寬仁にして眞摯なる友よ
君は知りつくし給ふならむ
余の悲しさの極まれるを
余の絶望と、余の反抗と
余の不滿と、余の奮勵との
つねに矛盾し、つねに爭鬪して
余を困憊せしめ
さらに寂しき淚に誘ひ行くを
余のまことに不倫なる自暴自棄の心を懷けるを
また理不盡なる難題に
解くべからざる結繩に
自らを苦しむるを
人として最も卑しき弱き心
直に極端を思ひ
ともすれば非常事に走する心の
余にかくれたるを
かれどもまた
君は知りつくし給ふならむ
いかにして斯かるかを

寬仁にして眞摯なる友よ
憤りは余に苛責を加へたり
ニルヷナの花はあとを留めず
軒を見れども青き鳥は啼かず
君に故鄕あり
余に故鄕なし
余は選ばれたる試みの世界に
最も弱きものとして生れたり
余は、むしろ、余の贅澤に似たる苦痛
この我執ある懊惱を憎む
友よ
余を目して孤獨を守る者となす事なかれ
余に轉化は來る可し
恐ろしき改造は來る可し
何時なるを知らず
ただ明らかに余は清められむ
友よ
余は再びチエルジイに於けるが如く君の手を握らむが爲に祈る

(六月十四日)

『河内屋與兵衞』

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夜があけて眼がさめると
妹の莚若もほんのりと顏を上げる
大阪の油屋………
窓に日がさし
脚燈フウトライトがためいきすれば
暗い見物は半ば口をあけ
咲きかけた睡蓮の心もちで默つて見つめる
道具うらでとんと躓つまづくママ
波紋のやうに靜かな舞臺の顫慄

さんたまりや

無賴の隨一
河内屋與兵衛のあこがれこそ悲しけれ
丁髷太きどんふあんまなここそ痛はしけれ
左團次の獨白に銀の雨亂れかかり
魂ぬけてふうわりと
糸にひかるるや
長崎へ
くるりどの音さへ狂ほし
あれ、莚若も長崎へゆく
長崎へ

さんたまりや、さんたまりや

髮を洗ふ女

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水道の水は止め度もなく
あの人の金使ひに似て流れる
洗粉の手ざはりつめたく
返した人の後姿がなぜかよんぼり氣にかかる
風呂にただよふ名も知れぬほのかな匂ひは
たよりないよな、あるやうな
ついこのごろの、されば、人のそぶりか
むしやくしや腹に髮を洗へば
髮さへ痩せて櫛もすべりぬ
大河で鳴る汽船の笛が
ふいと消えればどうやら淚が
どうやら淚がにじみ出す

わが幻覺のあやしさよ
濱町河岸の夏のあさ

(――)

『心中宵庚申』

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死んでも去りは仕りませぬと
立派に誓言しやつた仁左衛門が
あれ、去り狀を書く
女房のお千代どのに――

ちつと噛みしめたふところ紙を落して
思はず驚く成駒屋の顏
梅雨の夜風が何處からか吹いて來て
ちよぼでは、わつと泣き落す

ふるい、ふるい人情の烈しいひかりが
もののかげから忍んで泣く
死ぬるは切ない美しさ
今の世でも

(――)

夏になればじとじとと
梅雨つゆめつた夜具蒲團
桐の箪笥の着物から
モロツコ革の詩集まで
くわつと照り出す暑い日の
溫氣うんきに蒸れて、それ、燐の香のする
青い、けうとい、ものものしい
黴が這ひつき花が咲く
夏になればてらてらと
屋根の瓦が照り返し
入道雲ものぼせつつ
うろん臭げなうす笑ひ
物もうごかぬ眞白晝まひるま
いきり立つ水氣の憎さ
やがてつもれば、どうせ不祥な
かみなりさまがわめき出す

夏になればすぱすぱと
ふかす烟草もあぢきなく
烟管なげ出しぢれついて
つい有り合ひの、處きらはぬ難題に
男困らす人の癖
きりきりと噛む貝殼の
音がこたへて詮もなく
ん底夏には身をそがれる

そのまた夏が來るのかね

(六月十三日)

なまけもの

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淺草は
雷門のよか樓の晝のけうとさ
ひろびろと靜かな二階の
白い食卓には斜に並木の新綠が
栗色のリノリアムは足もとで微かな彈力にささやき
狂つた時計は六時を指す
霧島つつじの眞赤なかげに
サツポロの泡をみつむる
モトモワゼルもねむたし
三階にだるい稽古の細棹
その糸につれてそつとうつ足拍子も
いつか止んでものみなねむたし

なまけものはベネヂクチンをなめて
過ぎゆく時のゆるやかなテンポをたのしみ
こころに基督の禁をやぶる
ぼんやりとした春の末
觀音さまに程近い
美人料理の晝のけうとさ

さてもその時ふいと聞えるものの聲
「雷門の定見世で
とんだりはねたり變つたり、やれな」

(六月十五日)

わが手を見ればうとまし
昨日病院の白き部屋に見たる
かの甁詰の手と
さまで變らずなまなましきものを
手のみかは………

(――)

金秤

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アルミニウムの金秤きんばかり
上二匁の分秤
風もないのにぢりぢりと
日がな一日ふるへては
休む瀨のない氣のくばり

白くまぶしいモルヒネが
ひらりと乘れば金秤
胴ぶるひして身をたふす
夏のさ中にいじらしい
アルミニウムの金秤

(――)

はかなごと

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つい言ひ出したことはなけれど
言ひ出さねばわからぬものか
言ひ出さぬままに
いつしか過ぎぬれば
むかしの思は夢のやうにて
唄のやうにて
こころにかかつた名も知らぬなやみは
薄いほくろか、ほろりと取れける
さびしや

(――)

めくり曆

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めくり曆のさびしさよ
昨日も今日も裂いて取る
あすもあさても裂いて取る
裂いてつきればお正月
裂いてつきるはよけれども
かうして棄てた紙屑に
さてもよくよく似た女――
めくり曆のさびしさよ

地上のモナリザ

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モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザはとこしへに地を步む事なかれ
石高く泥濘ぬかるみふかき道を行く
世の人人のみにくさよ
モナ・リザは山青く水白き
かの夢のごときロムバルヂアの背景に
やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
ただ半身をのみあらはせかし
思慮ふかき古への畫聖もかくは描きたりき
現實に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

われはモナ・リザを恐る
地上に放たれ
ちまたに語り
汽車に乘りて走るモナ・リザを恐る
モナ・リザの不可思議は
假象に入りて美しく輝き
咫尺に現じて痛ましく貴し
選擇の運命はすでにすでに余を棄てたり
余は今もただ頭をたれて
モナ・リザの美しき力を夢む
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザは永しへに地を步むことなかれ

(七月六日)

葛根湯

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かれこれ今日もひるといふのに
何處とないうちうちの暗さは眼さめず
格子戸のりんは濡れそぼち
衣紋竹はきのふのままにて
窓の外には雨が降る、あちら向いて雨がふる
すげない心持に絶間もなく――
町ぢやちらほら出水のうはさ
狸ばやしのやうなもののひびきが
耳の底をそそつて花やかな昔を語る
膝をくづして
だんまりの
銀杏返しが煎る藥
ふるい、悲しい、そこはかとない雨の
壁もなげいて息をつく
何か不可思議な
何か未練な湯氣の立つ
葛根湯の浮かぬ味

(七月七日)

夜半

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白の毛布につつまれしオロンセロは
あつくるしき其の低音に汗ばみ
油ぬりたる瓦斯の開閉器は
忍び出づるすすどい臭氣に色青ざめ
隣りのむくは氣狂ひのごとく
くらやみの空に吠えかかる

下水に捨てし魚のわたの腐りゆけば
わが眼はねどこの中に病みつかれて
山椒のごとき昂奮に神經はののしる
むしあつき夜はくじくと
痘瘡やみの乳牛のくるしみに似たり

ふとおそろしき慾望は筋肉をひきつり
電流に似たるやるせなき衝動は
胸ををどらせ
こころは謀計はかりごとをめぐらして
にくき微笑をもらす

四十にちかきふとりじしのをんなは
絞らまほしき脂肪に銀いろのおしろいを塗り
あかごの首のごとき乳ぶさに
わきがのほらしく
兩あしを投げ出して
息なやましき若者の幻覺を責めさいなむ

七月の風なき夜半の
わが官能の泣きわらひ

(七月八日)

けもの

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けもののをんなよ
限りのない渴望に落ちふけるをんなよ
盲人のつこさを以てのしかかるをんなよ
海蛇のやうにきたならしく
ぬかるみのやうにいまはしいをんなよ
けれど、かなしや
お前をまたも見にゆくのは
さばかりお前がけものなるゆゑ
いまはしいゆゑ

(七月八日)

あつき日

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ぢりぢりと啼きかけてはまた
何か憚かる初生うぶな小膽な油蝉

赤い斑點が大きな樫の木の葉に
寳石のやうな空の碧い深みに
まぶしい人の顏にすだれの奧に
氷屋の店に、まつかな斑點が
てらてらと、ぎらぎらと――
東京の場末の青物市場やつちやばに玉葱がむせ返り
蟆子ぶとはただれた馬の腹にすひつき
太陽は薄い板のやうなものにて
わが橫面をぴしりとうつ

肉からみ出す汗をふいて
木の根に休めば石炭酸の冷笑ぞ氣味わろき

(――)

父の顏

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父の顏を粘土どろにてつくれば
かはたれ時の窓の下に
父の顏の悲しくさびしや

どこか似てゐるわが顏のおもかげは
うす氣味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころはこはいもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
つくられし父の顏は
魚類のごとくふかく默すれど
あはれ痛ましき過ぎし日を語る

そは鋼鐵の暗き叫びにして
又西の國にて見たる「ハムレツト」の亡靈の聲か
怨嗟なけれど身をきるひびきは
爪にみ入りて瘰疽びやうそうの如くうづく
父の顏を粘土どろにて作れば
かはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく聲………

(七月十二日)

泥七寳

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    ○
ちらちらと心のすみに散りしくは
泥七寳か、眼に見えぬ
羽蟻の羽根か、ちらちらと
掃きすつるもいとほし

    ○
家を出づるが何とてかうれしき
よるになれば何とてか出づる
どうせ夜更けにうなだれては歸るものを

    ○
きりきりと錐をもむ
用はなけれど錐をもむ
錐をもめば板の破るるうれしさに


    ○
もらつた人形をかへすもよし
かへしても人の受け取らぬがじやうならば

    ○
それと知つてあちら向く
顏にふうわり日がさせば
あの根がけさへ棄てたげな

    ○
かなしや人はみな情をば賣る
口のさきにて賣る
あれも、これも
恐ろしき舌をかくして賣る

    ○
つくづく見れば厭な顏
うちで思へば好いた顏
髮の黑さよ

    ○
われは氣違ひぞとよ
夢みるゆゑに氣違ひぞとよ
おもふこと取りとめなければ
惡しきこと人の前にて言へば
おのが繪をも破り
友をも罵り
わきてみづからを輕しむる故に
われは氣ちがひぞとよ

    ○
長き睫毛の反りかたも
人が人に似たればなつかし
ふと異國の言葉を語れよかし

    ○
生れてより眼に見えぬただ一人を戀ふ
さまざまの人を慕ひて
ただ此の一人の影を追ひける

    ○
女よ、高ぶるなかれ
高ぶるあたひあればこそ高ぶるなかれ
いかなる男かその値をなみせむ

    ○
讀みてゆけばつねのこと
ただならず見えし君の手紙も

    ○
知らぬ顏のうまき少女よ
いまひと足なれば
知りて驚かぬやうなれかし

    ○
醉へる人のうつくしさよ
醉へる眞似する人の醜さよ
カフエの食卓ぞ滑稽なる

    ○
八重次の首はへちまにて
小雛の唄は風鈴にて
さてもよ、がちやがちや虫の籠は
「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠

    ○
女の淚をののしりて
醉を男の
卑屈なる武器とはおぼし給はぬにや
いと賤しき武器とは

    ○
人ごみのおもしろや
兎も角も君をふり返り見る人の多ければ
淺草の仲見世

    ○
たてひき知らぬ人に
雨ふりそぼち、うなだれ、酒も冷えぬる

    ○
おもしろや
かの人のくるしむは
くるしみをかくすそぶりよの

    ○
淋しい顏はせまいよ
ひとりものの癖と
人の言ふよ

    ○
兩國橋の橋の上
白のかすりに古袴
三十ぢかい鹿馬ママものの
柄にないよなふさぎかた

    ○
われをなげけとてか、ひや酒
つりし蚊帳のみづいろに
品川の夜のののめ

    ○
「勝てば官軍」ほれたが因果
馬鹿で阿呆で人樣の
お顏に泥をばぬりました

    ○
妻もつ友よ
われを骨董のごとく見たまふなかれ
ひとりみなりとて

    ○
月さへいでて
君の手のつめたきに
海のうしほの鳴ることよ

    ○
弱きは女のならひとは
一重櫻が風にちる
ちつたあとでの申しわけ

    ○
たとひ離れて目には見ずとも
おもつて居ればうれしいと
女はこんなへまをいふ

    ○
それでみんなか、もうそれだけか
それであなたのてれんてくだのたねぎれか
まこととかいふばけものの
つぽの出たのを御覽じろ

    ○
さきがさきなら
こつちもこつち
泣けば蜂さへつらをさす
もつて生れたぬうぼうで
ちよちよんがよいやさと切れて來た

    ○
ひとりものは
ひらひらと
風にとぶよ
雨にぬれるよ
さびしく

    ○
腕をくんで考へる
渡舟に月がさす
月が冴えれば氣がめいる
水は流れて渦をまく

    ○
腹をたつたむかしもあるに
わらつてすます今日の身
もうおしまひのわれか

(七月――翌年六月)

ビフテキの皿

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さても美しいビフテキの皿よ

厚いアントルコオトの肉は舌に重い漿汁グレエヰイにつつまれ
ポンム、ド、テルの匂ひは野人の如く卒直に
輕くはさまれた赤大根ラデイシユの小さな珠は意氣なポルカの心もち

冴えたナイフですいと切り、銀のフオオクでぐとさせば
薄桃いろに散る生血
こころの奧の奧の誰かがはしやぎ出す

マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り
白いナプキンにボルドオは
夜の壓迫、食堂の空氣に滿つれば、そことなき玉葱オニオンのせせらわらひ

首祭りに受けて飮む血のあたたかさ
皿をたたいて
にくらしい人肉をぢつと噛みしめるこころよさ

白と赤との諧調に
シユトラウスの毒毒しいクライマツクス
見よ、見よ、皿に盛りたるヨハネの黑血を

銀のフオオクがきらきらと
君の睫毛がきらきらと
どうせ二人は敵同志、泣くが落ちぢやえ

ナイフ、フオオクの並んで載つた
さても美しいビフテキの皿よ

(十月十五日)


一九一二年

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青い葉が出ても

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はなが咲いたよ
はなが散つたよ
あま雲は駈けだし
かへるは穴からひよつこり飛び出す
やあれやあれ
はなが散つたよ
青い葉が出たよ
青い葉が出ても
とんまな人からは便りさへないよ
女だてらに青い葉が出ても
やあれ青い葉が出ても
ちよいと意地を張つたよね

(六月十一日)

赤鬚さん

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赤鬚あかひげさん、赤鬚さん
あなたの眼玉はなぜ碧い
あなたのお鼻はなぜ高い
あをい眼玉に眼鏡をかけて
たかいお鼻に玉の汗かいて
明治初年の一枚繪のやうに
鶴首つんだし
何見てまはる
赤鬚さんはなつかし、をかし
遠く、はるばる、とつとの奧を
夢の奧からぢつと見てまはる
あをい眼玉の赤鬚さん
舌は廻らずとも氣のわかい
さてもまたまじめな赤鬚さん

(六月十一日)

あをい雨

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誰が待つてゐる
私を待つてゐる、私を――
誰からぬが待つてゐる、何處かで
ぬれよぼたれて、私を――

きりのない雨の音もぢれつたいが
ほんとに誰だらう私を待つてゐるのは
誰だらう、ほんとに
おや
まつさをな雨の中で
微かに顫へて吐息する森の中で
暗い若葉の陰にくしく泣いて
ぬれよぼたれて
私の名を呼んでゐる
若い女の人が――
若い眼の大きい女の人が
警察の分署ではだかにされて
髮の毛を振りみだしてもがきながら
呼んでゐる、私を――
ああ、行く、行く
たとへ責め折檻されても
私の行くまできつと我慢おし
白状した花井お梅が待つてゐる
寄席で、大川端で
そして
ミステリアスな南米の花
グロキシニアの花瓣の奧で
薄紫の踊子が、樂屋フオワイエエの入口で
さう、さう
流行はやりの小唄をうたいながら
夕方、雷門のレストオランで
怖い女將おかみの眼をぬすんで
待つてゐる、マドモワゼルが
待つてゐる、私を――
けれど、この雨のふりやうは
雨雲がでんぐりがへしでも打つた事か
何しろ、遠いとほい
事によつたら此の世でない程とほい處で
待つてゐる、待つてゐる
ヹルハアレンも、ドナテロも、デユウゼも
それからマリイ、アントアネツトも
佛御前も、ヒルダも
長い睫毛の人も
待つてゐる、待つてゐる、私を――
それだのに
ああ、ぢれつたい雨の中で
誰が何處で待つてるのだらう
こんなみそぼらしい野蠻な私を――
空を見てゐると
にくにくしい雨雲のもつと上の方に
何かが居る
もし一度でも見たら
この胸がせいせいしてしまふやうな
安心して倚りかかれるやうな
そして私まで自由自在な不可思議力を得られるやうな
貴い、美しい、何かが居る
そして私を呼んでゐる
けれど一體私はどうしよう
分署へも行かなければならないし
雨は降るし、まつさをな雨はふるし
それだのに
誰か待つてゐる
私を待つてゐる、私を――
誰か知らぬが待つて居る、何處かで
ぬれよぼたれて
私を――

(六月二十一日)

友の妻

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友よ
君の妻は余の敵なり
君の妻を思ふたびに、余の心は忍びがたき嫉妬の爲に顫へわななく
君を余より奪ふものは君の妻にして
君に對する余の友情を滑稽化せむとするものも君の妻なり
さればすべての友の妻は余の呪ふところとなる

友よ
曾て獨身者なりし友よ
君はつひに
いまだ其の毒手に禍ひせられざりし日を想ひ起す事あたはざるべし
今、君の眼は妻の眼によりて世界を見
君の心は妻のふところにありて初めてまことに安らかなるにあらずや
友よ、僞善と僞惡とを口にする事なかれ
君は到底その妻の奴隷となり終れるなり
余は知る
その妻を稱ふる友の淋しきまなこの色と
かなしき唇の微顫とを
又余は知る
その妻を罵る友の卑怯なる第二思念と
富限者の粗衣に似たる驕慢の表情とを
余は此れを見、此れを知るが故に
友よ、僞善と僞惡とを以て余の友情に臨む事なかれ

友よ
君の妻はあらゆる好言と粉飾せる媚態とを以て余に接し
余を遇するに殆ど君に對すると同じき好意を見す
かして
一介の婦人は君の妻なるの故を以て
余に不當の尊敬と懸念と好意と友情とを強ひむとす
友よ、友よ
君の妻は君に對する心を標準として君の友を量る
君の友は何故に此の不當の心に與り知る事を得む
君の妻は、見よ、君をしひたげて脚下に君を保留すると共に
君の妻は、また、敵に對する楯として君を用ゐむとす
右にせよ、左にせよ、傷くものは、友よ、君なり
かして、ひとり惱まむとする者は余なり
友よ、君は明らかに君の妻に沒頭すと云ふに若かず
君が妻を得し時は我等の友情に水のさされたる時なり
友よ、悲しけれども君の余に對する友情は贅澤に類す
かして、良妻賢母は贅澤を忌むこと男根の弱きを忌むよりも甚し
余は君のあはれなる捕虜の姿を見て苦笑すれども
君は尚ほ何事もなき顏を作りて余に向はむとするか
友よ、そは盲目もうもくに向つて爲すべき事なり
君は妻の爲に包まる
妻は君の城廓なり
友よ、君はむしろ安らかに其の城廓のうちに嗜眠せよ
友情とは例へば君の妻の耳のうしろなる黒子ほくろの如し
妻の後ろ向く時のみ眼に明らかに見ゆ
友よ、その故に余は絶望せむとするなり

友よ
君の妻は性の力を有す
何ものか此れに敵し得む
されば
人生の最も深き興味あり、最も大なる意味を有するたのしき忘我の瞬間は
常にある境遇にのみ起る
君の友の如きは此の時塵埃の如し
君は此の莊嚴なる事件の面前にあつて
平日の友情と稱するものを思はば
殆ど滑稽に近き不自然を笑はざるを得ざらむ

友よ
曾て獨身者なりし友よ
君は今すべてを忘れたり
われらが友情の寳玉にも比すべかりしを
われらの心の曾ては裸體のままなりし事を
それもよし、友よ
絶望は謙讓に似たり
余は唯小笠原の禮にならひて
三歩の距離を保たむのみ
されど
友と共に一しんを分つ友の妻のねたましさよ
かして又
價値なきものに魂を委ぬる友の運命のかなしさよ
友よ
僞善と僞惡とを口にする事なかれ
余はすべてを知る
いかにその假裝の巧みなりとも
到底君の妻は余の敵なり
是非なけれども
打ち勝ち能はざる余の敵なり

(七月二十一日)

――に

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いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきにのなるやうな
種子よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ來るやうな
そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさう容易たやす
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を賣る氣になれるんでせう
あなたはその身を賣るんです
一人の世界から
萬人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜惡事でせう
まるでさう
チシアンの畫いた繪が
鶴卷町へ買物に出るのです
私は淋しい、かなしい
何といふ氣はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る樣な
私を棄てて腐つてゆくのを見る樣な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる樣な
浪の碎けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、燒けつく樣な
――それでも戀とはちがひます
サンタマリア!
ちがひます、ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて

(七月二十五日)

夏の夜の食慾

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日が落ちて、ぱたりと世界が暗くなれば
夏の夜のうれしさは俄かに翼をひろげ
晴れた璃瑠色の星天ほしぞらさへ氣まぐれきつてはしやぎ出し
何喰はぬ顏の下からぺろり、ぺろりと舌を出す
私のたましひはこの時、四足獸のむかしを忍び
曾て野にさまよつて餌をあさつた習性を懷かしみ
又、闇黒の喜びにふるへ
秘密、疾走、破壞、飽滿のデジイルかつかは

「ぬき一枚――やきお三人前――御酒のお代り……」
突如として聞える蒲燒屋の澁團扇
土用の丑の日――
「ねえさん、早くしてくんな、子供の分だけ先きにしてくれれや、あとは明日あしたの朝までかかつても可いや、べらぼうめ」
「どうもお氣の毒さま、へえお誂へ――入らつしやい――御新規ごしんき九十六番さん……」
眞赤まつかな火の上に鰻がこげる、鰻がこげる

胃は晝間ひるまの疲をやや恢復し
頻りに酸液を分泌すれば
中清の天麩羅の下地したぢにセザアル・フランクの夜曲を味ひ
又、ほどよく黄いろいころもの色はマネエの「鸚鵡の女」を思はせる
けれど、暫時がうちに
食慾は廢頽する
たちまち
何か噎せるやうなたましひ眩暈げんくん
むしろ嘔吐
支那蕎麥、わんたん、ふうよんたん
人造牛酪じんざうばたマルガリインはソオスパンにりつき
ひそかに美人を賣る
淺草の洋食屋は暴利をむさぼつて
ビフテキの皿に馬肉ばにくを盛る
泡のういた馬肉さくらの纖維、シチユウ、ライスカレエ

癌腫の膿汁うみをかけたトンカツのにほひ
醉つぱらつた高等遊民の群れは
田舍臭い議論を道聽途説し
獨乙派の批評家は
文壇デパアトメントストアを建設しようとする
輕い胃痙攣
それでも、耳にうつくしい
追分の節、尺八がひびく――
カフエ、ライオンの精養軒アイスクリイムを
激賞するアメリカ歸りの男を捉へて
その平たい四角な頬をなぐ
齒に沁み通り、咽喉を燒き爛らす氷水を
脚氣衝心の患者のやうに噛みしめれば
たとへば女の贅肉をひきちぎるこころよさ
色情狂のたくらみの果てしもないやうに
夜はこうこうと更け渡つても
私の魂は肉體を脅かし
私の肉體は魂を襲撃して
不思議な食慾の興奮は
みたせども、みたせども

尚ほ欲し、あへぎ、叫び、狂奔する

眼をあげれば
ベルグソンの哲學は青い表紙の中にうづくま
ヒルトの藝術生理學は無用の饒舌を誇り
好人物のモオクレエルは「我れ猶太人にあらず」と辯解に力め
滑稽な「新譯源氏物語」は醜き唇をひるがへす
一つとして
私の飢渇を充たすに
薄荷水ほどの功徳あるものも無い
むしろ吐いちまへ、吐いちまへ
そして、あぶらの臭氣のない國へ
清潔な水と麺麹とのある國へ
慈悲と不可思議解脱の領する國へ
この食慾を棄てにゆけ
夏の夜の食慾を
みたせども、みたせども
尚ほ欲し、あへぎ、叫び狂奔する此の食慾を棄てにゆけ
あの美しい國へ、あの不斷の花のかをる國へ――

(八月十日)

或る夜のこころ

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七月の夜の月は
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
かすかに漂ふシクラメンの香りは
言葉なき君が唇にすすり泣けり
森も、道も、草も、遠きちまた
いはれなきかなしみにもだえて
ほのかに白き溜息を吐けり
ならびゆくわかき二人は
手を取りて黒き土を踏めり
みえざる魔神はあまき酒を傾け
地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり
魂はのびやかに痙攣をおこし
印度更紗の帶はやや汗ばみて
拜火教徒の忍默をつづけむとす
こころよ、こころよ
わがこころよ、めざめよ
君がこころよ、めざめよ
こはなに事を意味するならむ
斷ちがたく、苦しく、のがれまほしく
又あまく、去りがたく、堪へがたく――
こころよ、こころよ
病の床を起き出でよ
そのアツシシユの假睡をふりすてよ
されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり
七月の夜の月も
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
やみがたき病よ
わがこころは温室の草の上
うつくしき毒蟲の爲にさいなまる
こころよ、こころよ
――あはれ何を呼びたまふや
今は無言の領する夜半なるものを――

(八月十八日)

おそれ

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いけない、いけない
靜かにしてゐる此の水に手を觸れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千萬の波動をつひやすのだ
水の靜けさを貴んで
靜寂のあたひを量らなければいけない

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危險の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則ち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる圓い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢をうつつにかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない

私の心の靜寂は血で買つた寳である
あなたには解りやうのない血を犧牲にした寳である

この靜寂は私の生命いのちであり
この靜寂は私の神である
しかも氣むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾亂を惹き起こすのである
あなたはその一點に手を觸れようとするのか

いけない、いけない
あなたは靜寂の價を量らなければいけない
さもなければ
非常な覺悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもれない
百千倍の打撃をあなたに與へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければいけない
それが出來ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない

御覽なさい
煤烟と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄との中に
何か偉大な美を包んでゐる寳藏のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
私は今何かに圍まれてゐる
或る雰圍氣に
或る不思議な調節を司る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は萬物に無限の價値を見る
づかに、づかに
私は今或る力に絶えず觸れながら
言葉を忘れてゐる

いけない、いけない
靜かにしてゐる此の水に手を觸れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない

犬吠の太郎

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太郎、太郎
犬吠いぬぼうの太郎、馬鹿の太郎

けふも海が鳴つてゐる
娘曲馬のびらを擔いで
ブリキの鑵を棒千切で
ステテレカンカンとお前がたたけば
樣子のいいお前がたたけば
海の波がごうと鳴つて齒をむき出すよ


今日も鳴つてゐる、海が――
あの曲馬のお染さんは
あの海の波へ乘つて
あの海のさきのさきの方へ
とつくの昔いつちまつた
「こんな苦鹽じみた銚子は大きらひ
太郎さんもおさらば」つて
お前と海とはその時からの
あの暴風しけの晩、曲馬の山師やしの夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
ね、そら
けふも鳴つてゐる、齒をむき出して
お前をおどかすつもりで
淺はかな海がね

太郎、太郎
犬吠の太郎、馬鹿の太郎

さうだ、さうだ
もつとたたけ、ブリキの鑵を
ステテレカンカンと
そして其のいい樣子を
海の向うのお染さんに見せてやれ

いくら鳴つても海は海
お前の足もとへも届くんぢやない
いくら大きくつても海は海
お前は何てつても口がきける
いくら青くつても、いくら強くつても
海はやつぱり海だもの
お前の方が勝つだらうよ
勝つだらうよ

太郎、太郎
犬吠の太郎、馬鹿の太郎

海に負けずに、ブリキの鑵を
つかりたたいた
ステテレカンカンと
それやれステテレカンカンと――

(九月二十六日)

さびしきみち

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かぎりなくさびしけれども
われは
すぎこしみちをすてて
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだらざるつちをふみ
かなしくもすすむなり

――そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいづみなれば

わがめにみゆるものみなくしくして
わがてにふるるものみなたへがたくいたし
されどきのふはあぢきなくもすがたをかくし
かつてありしわれはいつしかにきえさりたり
くしくしてあやしけれど
またいたくしてなやましけれども
わがこころにうつるもの
いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども
われはただひたすらにこれをおもふ

――そはわがこころのさけびにして
またわがこころのなぐさめのいづみなれば

らぬわれのかなしく
あたらしきみちはろみわたれり
さびしきはひとのよのことにして
かなしきはたましひのふるさと
こころよわがこころよ
ものおぢするわがこころよ
おのれのすがたこそずゐいちなれ
さびしさにわうごんのひびきをきき
かなしさにあまきもつやくのにほひをあぢはへかし

――そはわがこころのちちははにして
またわがこころのちからのいづみなれば

(十月八日)

カフエにて

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泥でこさへたライオンが
お禮申すとほえてゐる
肉でこさへたたましひが
人こひしいと飮んでゐる

(――)

梟の族

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――聞いたか、聞いたか
ぼろすけぼうぼう――

輕くして責なき人の口の端
森のくらやみに住むふくろうの黒き毒に染みたるこゑ
ちまた木木きぎとにひびき
わが耳を襲ひて堪へがたし
わが耳は夜陰に痛みて
心にうつる君が影像を悲しみ窺ふ
かろくして責なきは
あしき鳥のさがなり

――きいたか、きいたか
ぼろすけぼうぼう――

おのが聲のかしましき反響によろこび
友より友に傳説をつたへてほこる
梟の族、あしきともがら
われは彼等よりも強しとおもへど
彼等はわれよりも多辯にして
暗示に富みたる眼と、物を藏する言語とを有せり
さればかろくして責なき
その聲のひびきのなやましさよ
聞くに堪へざる俗調は
君とわれとの心を取りて不倫と滑稽との境に擬せむとす
のろはれたるもの
梟の族、あしきともがらよ
されどわが心を狂ほしむるは
むしろかかるおろかしきなやましさなり
聲は又も來る、又も來る

――きいたか、きいたか
ぼろすけぼうぼう――

(十月二十日)

冬が來る

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冬が來る
寒い、鋭い、強い、透明な冬が來る

ほら、又ろろろんとひびいた
連發銃の音

泣いても泣いても張がある
つめたい夜明の霜のこころ

不思議な生をつくづくと考へれば
ふと角兵衛が逆立ちをする

私達の愛を愛といつてしまふのは止さう
も少し修道的で、も少し自由だ

冬が來る、冬が來る
魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の權化の冬が來る

(十月二十三日)

カフエにて

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おれの魂をつかんでくれ
おれの有りやうを見つめてくれ
夜目遠日よめとほめママ笠のうち」
そればつかりは眞平まつぴら

(――)

或る宵

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瓦斯の暖爐に火が燃える
ウウロン茶、風、細い夕月

――それだ、それだ、それが世の中だ
彼等の欲する眞面目とは禮服の事だ
人工を天然に加へる事だ
直立不動の姿勢の事だ
彼等は自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
曾て裸體のままでゐた冷暖自知の心を――
あなたは此を見て何も不思議がる事はない
それが世の中といふものだ
心に多くの俗念を抱いて
眼前咫尺の間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ
それ故、眞實に生きようとする者は
――むかしから、今でも、このさきも――
却て眞摯でないとせられる
あなたの受けたやうな迫害をうける
卑怯な彼等は
又誠意のない彼等は
初め驚異の聲を發して我等を眺め
ありとある雜言を唄つて彼等のひまな時間をつぶさうとする
誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて唯事件の當體をいぢくるばかりだ
いやしむべきは世の中だ
愧づべきは其の渦中の矮人だ
我等は爲すべき事を爲し
進むべき道を進み
自然のおきてを尊んで
行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相戻らない境地に到らなければならない
最善の力は自分等を信ずる所にのみある
蛙のやうな醜い彼等の姿に驚いてはいけない
むしろ其の姿にグロテスクの美を御覽なさい
我等はただ愛する心を味へばいい
あらゆる紛紏を破つて
自然と自由とに生きねばならない
風のふくやうに、雲の飛ぶやうに
必然の理法と、内心の要求と、叡智の暗示とに嘘がなければいい
自然は賢明である
自然は細心である
半端物のやうな彼等のために心を惱ますのはおしなさい
さあ、又銀座で質素なめしでも喰ひませう

(十月二十三日)

寒い風が吹く
私は燈火に滿ちた東京の街道を歩き廻る
十月末の夜の空氣は木綿の單衣を透して
肌に不思議な快感をおくる

すべて虚僞のかたまりに見える
ただ現在の自分を信ずるより道がない
石を蹴ると石は飛んで川に落ちる
異人が冷笑と侮蔑の表情とを以て馬車の上から珍しげに東京を見る
夜店の群集はみな互に敵意を抱く
寒い風が吹く
人間ぢやいけない
人間より今少し恐ろしくて正直なものが欲しい
だが斯んな考へは卑怯だ

自働車よりはやつぱり馬車に乘りたい
生きたものを使役するのは愉快だ
夜の空氣がみ渡ると
肌は聲を發して苦しみよろこぶ
みんな放擲したい、鏖殺したい
そして疾走したい
尾張町の角だ
寒い風が吹く

(十月二十五日)

狂者の詩

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吹いて來い、吹いて來い
秩父おろしの寒い風
山からこんころりんと吹いて來い
世は末法だ、吹いて來い
已の背中へ吹いて來い
頭の中から猫が啼く
何處かで誰かがロダンを餌にする
コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH
銀座二丁目三丁目、それから尾張町
電車、電燈、電線、電話
ちりりん、ちりりん
柳の枝さへ夜霧の中で
白ぼつけな腕を組んで
んみに已に意見をする氣だ
コカコオラもう一杯
サナトオゲン、ヒギヤマ、咳止めボンボン
妥協は禁制
圓滿無事は第二の問題
已は何處までも押し通す、やり通す
それだから吹いて來い、吹いて來い
秩父おろしの寒い風
山からこんころりんと吹いて來い
已の肌から血が吹いた
やれおもしろや吹いて來い
何の定木で人を度る
眞面目、不眞面目、馬鹿、利口
THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,
お花さん、お梅さん、河内樓の若太夫さん
已を知るのは已ぎりだ
も一つあれば已を生んだ人間以上の魂だ
頭の中から猫が啼く
洋服を着た猿芝居
與一兵衞が定九郎に噛みつくと
御見物が喝采だ
世は末法だ、吹いて來い
秩父おろしの寒い風
山からこんころりんと吹いて來い
プロログ
エピログ
“LONDON BRIDGE IS BROKEN DOWN!”
已はまひには氣がちがひ相だ
ああ、髮の毛の香ひがする
それはあの人のだ、羚羊りんやんの角
コカコオラもう一杯
きちがひ、きちがひに何が出來る
已はともかくも歩くのだ
銀座二丁目三丁目、それから尾張町
歌舞伎の屋根へ月が出る
已の背中へ吹いて來い
秩父おろしの寒い風
山からこんころりんと吹いて來い

(十一月二十一日)

郊外の人に

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わがこころはいま大風おほかぜの如く君にむかへり
愛人よ
いまは青き魚の肌にみたる寒き夜もふけ渡りたり
されば安らかに郊外の家に眠れかし
をさな兒のまことこそ君のすべてなれ
あまり清く透きとほりたれば
これを見るもの皆あしきこころをすてけり
また善きと惡しきとは被おほふ所なく其の前にあらはれたり
君こそはにこよなき審判官さばきのつかさなれ
汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
をさな兒のまこともて
君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
君の見いでつるものをわれは知らず
ただ我は君をこよなき審判官さばきのつかさとすれば
君によりてこころよろこび
わがらぬわれの
わがあたたかき肉のうちに籠れるを信ずるなり
冬なれば欅の葉も落ちつくしたり
音もなき夜なり
わがこころはいま大風の如く君に向へり
そは地の底より湧きいづる貴くやはらかき温泉いでゆにして
君が清き肌のくまぐまを殘りなくひたすなり
わがこころは君の動くがままに
はね、をどり、飛びさわげども
つねに君をまもることを忘れず
愛人よ
こは比ひなき命の靈泉なり
されば君は安らかに眠れかし
惡人のごとき寒き冬の夜なれば
いまは安らかに郊外の家に眠れかし
をさな兒の如く眠れかし

(十一月二十五日)

冬の朝のめざめ

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冬の朝なれば
ヨルダンの川も薄く氷りたる可し
われは白き毛布に包まれて我が寢室ねべやの内にあり
基督に洗禮を施すヨハネの心を
ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
我はわがこころの中に求めむとす
冬の朝なればちまたより
つつましくからころと下駄の音も響くなり
大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
づかに運る天行のごとく
われも歩む可し
するどきモツカの香りは
よみがへりたる精靈の如く眼をみはり
いづこよりか室の内にのび入る
われは此の時
むしろ數理學者の冷靜をもて
世人のかたちづくる社會の波動にあやしき因律のめぐるを知る
起きよ我が愛人よ
冬の朝なれば
郊外の家にも鵯は夙に來鳴く可し
わが愛人は今くろき眼をきたらむ
をさな兒のごとく手を伸ばし
朝の光りを喜び
小鳥の聲を笑ふならむ
かく思ふとき
我は堪へがたき力の爲めに動かされ
白き毛布を打ちて
愛の頌歌ほめうたをうたふなり
冬の朝なれば
こころいそいそと勵み
また高くさけび
清らかにしてつよき生活をおもふ
青き琥珀の空に
見えざる金粉ぞただよふなる
ポインタアの吠ゆる聲とほく來れば
ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
たちまちに又わが愛人を戀ふるなり
冬の朝なれば
ヨルダンの川に氷を噛まむ

(十一月三十日)

カフエにて

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無理は天下の醜惡だ
人間仲間の惡癖だ
醉つぱらつた課長殿よ
さめても其の自由を失ふな

(――)

師走十日

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師走十日の日盛りを惜しげもなく
黒い幕にて物好きなよるをつくり
アウル舘の舞台には
北八彌次郎兵衛息せき切つて
悲しくも馬鹿のありたけを盡すなる――

ちらちらとちらつくフイルムは
はがねのいろにて
その色無頼漢より送られしをかしき脅迫状の色なり
咽喉を痛めたる辯士の聲に石川バアの鏡は照り返し
わがこころ寒さにおびえて
中賣の密豆に虎疫菌をまざまざと見つむ

出語り新内の黒きシルウエツトは
ロダンのカレエ市民の群像をつくり
中にも一人は頓狂聲をふりしぼり

「こんなところに長居はおそれ」と
まじめくさつた節まはし

つつましに立つ烟草の烟もやみに籠ればいちぢろく
ポマアドの匂さへ其處等そこらあたりに囁けば
かすかに辨天山の鐘もひびき
「一二三四、二二三四、三二三四、」と
千束町の小學校にやあらむ
疲れたる最終時間の課業の聲も我がこころを泣かしむ
亡者になりし彌次郎兵衛は
三角の紙を額に貼り
何處いづこらぬ國道のまつただ中にて
耻を辨へぬ身振りに餘念なく
時折は撮影者の注意のままに
はだけたる着物の前をも合せ
又でんぐり返しなどもうつなり

かかる間にわが友は我が家をおとづれて
わが外出に失望の眉を寄するなり
かかる間に元老の自働車は走せ
又春着のやりくりはつき
雜誌經營者は寄稿者に催促状を送るなり

アウル舘の舞臺には
北八彌次郎兵衛息せき切つて
馬鹿のありたけを盡し
師走十日の日盛りを惜しげもなく
我は青みて辯士の説明に耳を傾くるなり

(十二月十一日)

戰鬪

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宵の月が西に落ちると
薄明の地平線をかぶせる樣に
かたいはがねの冬の空に
今日も亦黄道光がひかる
きいろい、あをい、無數の齒が笑つてゐる
私の居る高い建築のテラスの上に
深い沈默が襲ひかかる
不安をつつむ私の心は
龍膽丁幾八グラム、コロロホルム精二グラムと聲を出して繰り返してゐた
すると、いきなり
戰鬪は突發した
すべての調和は破れた
分子は還元せられた
私の眼界は狹くなり、私の孤獨は底の底に突き進み
無關心で過ぎた多くの隣人にも
惰性のままに來た多くの友情にも
敵は到る處にころがつてゐた
さうだ、敵だ
すべて敵だ、偶然の味方も亦敵だ
私を信ずるものの外は皆敵だ
私を量るもの、私を窮ふもの、私を試みるもの、私を疑ふもの、私を評價するもの
是等は皆私の敵だ
其の上私を知らぬもの、私と關係なきものも亦敵だ
敵、敵、敵
すべてを切り離して、私は今戰鬪を始めるのだ
窄き門より入れよと鋭い聲が聞えて來る
かし私は何だ
私は私自身との戰鬪にまづ盡さねばならぬ
私はまだ一つの雰霧星の形に過ない
多くの不純を含み、無駄を有し、稀薄を交へてゐる
私は突進せねばならぬ
そしてエエテルの軋轢によつて緊縮の度を高めなければならぬ
又アミイバの精力を以て
私でない私を私のからだから排除しなければならぬ
一噸のピツチブレンドを破壞して耳かき程のラヂウムを得なければならない
常に蝉脱し、常に更新しなければならない
戰鬪の開始はまづ頑迷な私の破壞である
敵、敵、敵
敵は私の肉身に喰ひ入つてゐる味方の中にもあつた

私はさう思つて五體をふるはし
階段を飛び下りて街上に出た

自動車の臭い瓦斯が私を一層いらだたした
靜まり返つた十二月の夜の空は
私を抑へつけようとする
かし、私は直ぐに其の靜けさの裏面を感じた
そして歩き廻つた

私の肉身に喰ひ入つてゐる味方の中にも敵が居ると同時に
最も烈しい當面の敵の中にも私の姿を見ることがある
當然私のものであるべきものをみる事がある
私は其を取らねばならない
敵の中に含まれた私の一部分!
私は其をもぎ取らないでは居られない

敵、敵、敵
私は戰鬪の爲に五體をふるはし
氷つた空氣をつき破りながら耳に聞いた
たとへやうのない喜びの聲と
魂にこたへる悲しい叫びとを

(十二月十四日)

一九一三年

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人に

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遊びぢやない
暇つぶしぢやない
あなたが私に會ひに來る
――畫もかかず、本も讀まず、仕事もせず――
そして二日でも、三日でも
笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き
さんざ時間をちぢめ
數日すうじつを一瞬に果す
ああ、けれども
それは遊びぢやない
暇つぶしぢやない
充ちあふれた我等の餘儀ないいのちである
生である
力である
浪費に過ぎ過多に走るものの樣に見える
八月の自然の豐富さを
あの山の奧に花さき朽ちる草草や
聲を發する日の光や
無限に動く雲のむれや
ありあまる雷霆や
雨や水や
緑や赤や青や黄や
世界にふき出る勢力を
無駄づかひと何どうして言へよう
あなたは私に躍り
私はあなたにうたひ
刻刻の生を一ぱいに歩むのだ
本を抛つ刹那の私と
本を開く刹那の私と
私の量はおんなじだ
空疎な精勵と
空疎な遊惰とを
私に關して聯想してはいけない
愛する心のはちきれた時
あなたは私に會ひに來る
すべてを棄て、すべてをのり超え
すべてをふみにじり
又嬉嬉として

(二月十八日)

カフエにて

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人間の心の影の
あらゆる隅隅くまぐまを尊重しよう
卑屈も、獰惡も、慘憺も
勇氣も、温良も、涌躍も
それが自然であるかぎり

(――)

深夜の雪

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あたたかい瓦斯暖爐の火は
ほのかな音を立て
閉めきつた書齋の電燈は
づかに、やや疲れ氣味の二人を照す
宵からの曇り空が雪にかはり
さつき牕から見れば
もう一面に白かつたが
ただ音もなく降りつもる雪の重さを
地上と屋根と二人のこころとに感じ
むしろ樂みを包んで軟かいその重さに
世界は息をひそめて小供心の眼をみはる
「これ見や、もうこんなに積つたぜ」
と、にじんだ聲が遠くに聞え
やがてぽんぽんと下駄の齒をはたく音
あとはだんまりの夜も十一時となれば
話の種さへ切れ
紅茶もものうく
ただ二人手をとつて
聲の無い此の世の中の深い心に耳を傾け
流れわたる時間の姿をみつめ
ほんのり汗ばんだ顏は安らかさに滿ちて
ありとある人の感情をも容易くうけいれようとする
又ぽんぽんぽんとはたく音の後から
車らしい何かの響き――
「ああ、御覽なさい、あの雪」
と、私が言へば
答へる人は忽ち童話の中に生き始め
かすかに口を開いて
雪をよろこぶ
雪も深夜をよろこんで
數限りもなく降りつもる
あたたかい雪
んしんと身に迫つて重たい雪が――

(二月十九日)

人類の泉

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世界がわかわかしい緑になつて
青い雨がまた降つて來ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらはれになつて
いつも私を堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乘り超え私を脱れて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで、 いま生れるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萠え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の靜寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きめる樣にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本當に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奧底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり慘酷に人間の孤獨を味つて來たのです
おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私のいのちを根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者ピオニエエです
私の正しさは草木の正しさです
ああ、あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力をもつてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私のいのちは複雜になり、豐富になります
そして孤獨を知りつつ、孤獨を感じないのです
私は今生きてゐる社會で
もう萬人の通る通路から數歩自分の道に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私は此の孤獨を悲しまなくなりました
此は自然であり、又必然であるのですから
そしてこの孤獨に滿足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら――
ああ、それは想像も出來ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤獨になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた氣息に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の爲めに生れたのだ
私にはあなたがある
あなたがある、あなたがある

(三月十五日)

山の重さが私を攻め圍んだ
私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
山に向かつた
山はみじろぎもしない
山は四方から森嚴な靜寂をこんこんと噴き出した

たまらない恐怖に
私の魂は滿ちた
ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
底の方から脈うち始めた私の全意識は
忽ちまつぱだかの山脈に押し返した

「無窮」の力をたたへろ
「無窮」の生命をたたへろ
私は山だ
私は空だ
又あの狂つた種牛だ
又あの流れる水だ
私の心は山脈のあらゆる隅隅をひたして
其處に滿ちた
みちはぢけた

山はからだをのして波うち
際限のない虚空の中へはるかに
又ほがらかに
ひびき渡つた
秋の日光は一ぱいにかがやき
私は耳に天空の勝鬨をきいた
山にあふれた血と肉のよろこび!
底にほほゑむ自然の慈愛!
私はすべてを抱いた
涙がながれた

(十一月四日)

よろこびを告ぐ

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――To B. LEACH――

私の敬愛するアングロサクソンの血族なる友よ
シエクスピアを生み、ブレエクを生み
ニユウトンを生み、ダアヰンを生み
タアナアを生み、ビアズレエを生み
そして又、オオガスタス・ジヨンを生んだ血族から生まれた友よ
飽くまで正しい心と敬虔な魂とを有するわが友よ
今こそ喜びの時は來た
太陽のかがやく大道のまつただ中に奇蹟は起つた
失はれた道は與へられ
夢は碎け去り
まよはしは尾を卷いて遠く逃げ
おぼろにけむる美しさは
隅隅までも照し渡る光の中に全身をあらはし
すべてのちからはただ一すぢちならママの中にあざなはれる時が來た
ああ、わが友よ
私の爲に強くこの手を握りたまへ
喜を以てわが爲に握りたまへ
無慘なる廢頽者の血は遂にかの全能の光の爲に淨められた
闇と濁とに蝕はれた私の肉身は遂に醜い殼を脱いだ
ああ、わが異邦の友よ
君に此を語り得る私のよろこびを思ひ給へ
私のまことを知り、私のまことを信じ、私のまことを心から惜んでくれた友よ

私の敬愛するアングロサクソンの血族なる友よ
廣重の水の流れる國
春信の女のわらひささめく國
この國に四年を過した君は
もはや廣重の水、春信の女を戀ひ慕ふ事を爲まい
君は遠くこの國にあこがれ來て、この國のまことのすがたを見た
わが友よ、わが友よ
かし、この國の魂を君のこころに容易く定めたまふな
そして私の敬愛するアングロサクソンの民族に告げたまへ
世界の果てなる彼處かしこに今まことの人の聲を聞けりと
又、世界の果てなる彼處に今いさましく新しき力湧けりと
ああ、わが異邦の友よ
この力は今小さいが、いのちある者は伸びずには居ない
この根は張れるだけ深く、遠く、細かく、廣く張るだらう
すべてのいのちからいのちの肥料を求めるだらう
そして、極めてのろく、極めてたしかに、芽を吹き、芽をふき伸びるだらう
今まで見た事のないいのちが姿を現すだらう
待ち、且つ見よ
ああ、此を君に語り得る私のよろこびを思ひたまへ

飽くまで正しい心と敬虔な魂とを有するわが友よ
私の苦しみはこれから本當にん身の苦しみになるに違ひない
私の惱みは私に死力を出させないでは置かないに違ひない
私の悲しみは私をばしば濡れぼませるに違ひない
かし、私の喜は私のいのちを意識する時たちまち強大な力となつてあらはれるに違ひない

ああ、友よ、わが敬愛する異邦の友よ
私のために祈りたまへ
彼處なるいのちに祝福あれ、伸びよ、育てよ、よ

(十二月五日)

現實

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感激の枝葉を刈れ
感動の根をおさへろ

(――)

冬が來た

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きつぱりと冬が來た
八つ手の白い花も消え
公孫樹の木も箒になつた

きりきりともみ込むような冬が來た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が來た

冬よ
僕に來い、僕に來い、
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

み透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刄物のやうな冬が來た

(十二月五日)

冬の詩

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   一
冬だ、冬だ、何處もかも冬だ
見わたすかぎり冬だ
再び僕に會ひに來た硬骨な冬
冬よ、冬よ
躍れ、叫べ、僕の手を握れ
大きな公孫樹の木を丸坊主にした冬
きらきらと星のあたまを削り出した冬
秩父、箱根、それよりもでかい富士の山を張り飛ばして來た冬
そして、關八州の野や山にひゆうひゆうと笛をならして騷ぎ廻る冬
貧血な神經衰弱の青年や
鼠賊のやうな小惡に知慧を絞る中年者や
温氣にはびこる蘚苔こけのやうな雜輩や
おいぼれ共や
懦弱で見榮坊な令孃たちや
甘つたるい戀人や
陰險な奧樣や
皆ひとちぢみにちぢみあがらして
素手で大道を歩いて來た冬
葱の畠に粉をふかせ
青物市場に菜つぱの山をつみ上げる冬
萬物にいのちをさけび
人間の本心ゆすぶり返し
慘酷で、不公平で
憐愍を輕蔑し、感情の根を洗ひ出し
隅から隅へ畏れを配り
弱者をますます弱者にし、又殺戮し
獰猛な人間に良心をよびさまし
前進を強ひて朗らかな喇叭を吹き
氣まぐれな生育を制へて痛苦と豐饒とを與へる冬
冬は見上げた僕の友だ
僕の體力は冬と同盟して歡喜の聲をあげる
冬よ、冬よ
躍れ、さけべ、腕を組まう

   二
冬だ、冬だ、何處もかも冬だ
都會のまんなかも冬だ
銀座通も冬だ
勇敢な電車の運轉手、よく働く新聞の賣子、誠實な交番の巡査、體力を盡す人力車夫
冬は汝に健康をおくる
大時計の鐘も空へひびいてわたり
寶石は鋭くひかり
毛布、手袋、シヤツ、帽子、ボア、マツフ、外套、毛皮は人間の調節性を語り
葉卷紙卷の高價な烟草、ポムペイヤ、シクラメン、カシミヤ、ペロキシイド、香水、サボン、クリイム、白粉は、人間の贅澤と樂欲との自然性を讃美する
ラヂウム、エマナトリウムに冬は人間の滑稽な誇大癖を笑ひ
湯氣の出てゐるカフエの飾菓子に冬は無邪氣な食慾をそそる
女よ、カフエの女よ
強かれ、冬のやうに強かれ
もろい汝のからだを狡猾な遊冶郎の手に投ずるな
汝の本能を尊び
女女しさと、屈從を意味する愛嬌と、わけもない笑と、無駄なサンチマンタリスムとを根こそぎにしろ
そして、まめに動け、本氣にかせげ、愛を知れ、すますな、かがやけ
冬のやうに無慘であれ、本當であれ
白いエプロンをかけ、鉛筆をぶらさげたカフエの女よ
けなげな愛す可き働きにん
冬は汝に堅忍をあたへる
冬は又、銀行の事務員、新聞社の探訪、保險會社の勸誘員を驚かし
冬は自動車のひびきを喜び
停車場構内の雜踏と秩序とを莊重にいろど
時のきびしさを衆人に迫る
冬よ、冬よ
躍れ、さけべ、足をそろへろ

   三
冬だ、冬だ、何處もかも冬だ
大川端も冬だ 
永代の橋下はししもにかかつて赤い水線を出して居る廻運丸よ
大膽な三百噸の航海者よ
海の高い、波に白手拭のひるがへる、鴎の啼いて喜ぶ冬だ
汝の力を果す時だ、汝の元氣の役立つ時だ
さうだ、さうだ、鯨のうなる樣な滊笛をならせ
ますとに綱を張れ、旗を上げろ、黒い烟を吐け
猶豫するな、出ろ、出ろ
あの大きい乘りごたへのある太洋へ出ろ
滊罐を鳴りひびかせろ
働いてほてつた體に霙を浴びろ
ああ、數限りのない小舟の群よ
動け、走れ、縱横自在にこぎ廻れ
帆かけ船は帆をかけろ
にたりは櫨べそに水をくれろ
水に凍えたまつ赤な手足をふり動かせ
忠實な一錢蒸氣は、我もの顏に大川を歩け
冬は並び立つ倉庫に乾燥をめぐみ
高い烟突の煤烟を遠く吹き消し
大きな圓屋根を光らし
川べりの茶屋小屋を威嚇し
吾妻橋の人込みに歡喜する
土工よ、人足よ、職工よ
汗水を流して、大地に仕事をし、家を建て、機械を動かす天晴の勇者よ
汝の力をふりぼれ、汝の仕事を信仰しろ、汝の暴威をたけらせろ
泣く時は泣け、怒る時は怒れ、わめく時はわめけ
やけになるな、小理屈をいふな
冬のやうにびしびしとやれ
背骨で重い荷をかつげ
大きな白い息を吹け
ああ、かはいらしい勞働者よ
冬はあくまで汝の味方だ
骨身を惜まず正義を盡せ
冬よ、冬よ
躍れ、叫べ、足を出せ

   四
冬だ、冬だ、何處もかも冬だ
高臺も冬だ
馬車馬のやうに勉強する學生よ
がむしやらに學問と角力をとれ
負けるな、どんどんと卒業しろ
インキ壺をぶらさげ小倉の袴をはいた若者よ
めそめそした青年の憂欝病にとりつかれるな
手淫常習患マニニアリスト者となるな
胸を張らし、大地をふみつけて歩け
大地の力を體感しろ
汝の全身を波だたせろ
つきぬけ、やり通せ
何を措いてもいのちを得よ、たつた一つのいのちを得よ
他人よりも自分だ、社會よりも自己だ、外よりも内だ
それを攻めろそして信じ切れ
孤獨に深入りせよ
自然を忘れるな自然をたのめ
自然に根ざした孤獨は、とりもなほさず萬人に通ずる道だ
孤獨を恐れるな、萬人にわからせようとするな、第二義に生きるな
根のない感激に耽る事を止めよ
素より衆人の口を無視しろ
比較を好む評判記をわらへ
ああ、そして人間を感じろ
愛に生きよ、愛に育て
冬の峻烈の愛を思へ、裸の愛を見よ
平和のみ愛のすがたではない
平和と慰安とは卑屈者の糧だ
ほろりとするのを人間味と考へるな
それは循俗味だ
氷のやうに意力のはちきる自然さを味へ
いい世界をつくれ
人間を押し上げろ
未來を生かせ
人類のまだ若い事を知れ
ああ、風に吹かれる小學の生徒よ
伸びよ、育てよ
魂をきたへろ肉をきたへろ
冬の寒さに肌をさらせ
冬は未來を包み、未來をはぐくむ
冬よ、冬よ
躍れ、叫べ、とどろかせ

   五
冬だ、冬だ、何處もかも冬だ
見渡すかぎり冬だ
その中を僕はゆく
たつた一人で――

<ceter>(十二月六日)

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せてゐる自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是でも非でも
出さないでは堪らない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ爲たい事をする
自然に爲たくなる事をする
牛は判斷をしない
けれども牛は正直だ
牛は爲たくなつて爲た事に後悔をしない
牛の爲た事は牛の自身を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何處までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遲れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤獨をちやんと知つてゐる
牛は喰べたものを又喰べながら
ぢつと淋しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤獨の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大變だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの聲をききわける
最善最美を直覺する
未來を明らかに豫感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼にかども立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての當然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は隨分強情だ
けれどもむやみとは爭はない
爭はなければならない時しか爭はない
ふだんはすべてをただ聞いてゐる
そして自分の仕事をしてゐる
生命いのちをくだいて力を出す
牛の力は強い
かし牛の力は潜力だ
彈機ばねではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりつこい
邪惡な鬪牛者トレドアルの卑劣な刄にかかる時でも
十本二十本の鎗を總身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壯だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何處までも歩く
歩きながら草を喰ふ
大地から生えてゐる草を喰ふ
そして大きなからだを肥す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
嚴肅な二本の角と
愛情に滿ちた啼聲と
すばらしい筋肉と
正直な涎を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみめて歩く
牛は平凡な大地を歩く

(十二月七日)

僕等

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僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり、あなたがある
自分はこれに盡きてゐる
僕のいのちと、あなたのいのちとが
よれ合ひ、もつれ合ひ、とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に價値を失ふ
僕等にとつては凡てが絶對だ
そこには世にいふ男女の戰がない
信仰と敬虔と戀愛と自由とがある
そして大變な力と權威とがある
人間の一端と他端との融合だ
僕は丁度自然を信じ切る心安さで
僕等のいのちを信じてゐる
そして世間といふものを蹂躪してゐる
頑固な俗情に打ち勝つてゐる
二人ははるかに其處をのり超えてゐる

僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる
僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる
自分を恃むやうにあなたをたのむ
自分が伸びてゆくのはあなたが育つて行く事だとおもつてゐる
僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ、安心してゐる
僕が活力にみちてる樣に

あなたは若若しさにかがやいてゐる
あなたは火だ
あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる
僕にとつてあなたは新奇の無盡藏だ
凡ての枝葉を取り去つた現實のかたまりだ
あなたのせつぷんは僕にうるほひを與へ
あなたの抱擁は僕に極甚の滋味を與へる
あなたの冷たい手足
あなたの重たく、まろいからだ

あなたの燐光のやうな皮膚
その四肢胴體をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちのかへママとなるものだ
あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ
僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く、どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではたまらない
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
――何といふ光だ、何といふ喜だ

(十二月九日)

一九一四年

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道程

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僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

(二月九日)

愛の嘆美

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底の知れない肉體の慾は
あげ潮どきのおそろしいちから――
なほも燃え立つ汗ばんだ火に
火龍サラマンドラはてんてんと躍る

ふりきる雪は深夜に婚姻飛揚ヴオル、ニユプシアルうたげをあげ
寂寞じやくまくとした空中の歡喜をさけぶ
われらは世にも美しい力にくだかれ
このとき深密じんみつのながれに身をひたして
いきり立つ薔薇いろの靄に息づき
因陀羅網の珠玉に照りかへして
われらのいのちを無盡に鑄る

冬に潜む搖籃の魔力と
冬にめぐむ下萠したもえの生熱と――
すべての内に燃えるものは「時」の脈搏と共に脈うち
われらの全身に恍惚の電流をひびかす

われらの皮膚はすさまじくめざめ
われらの内臟は生存の喜にのたうち
毛髮は螢光を發し
指は獨自の生命を得て五體に匍ひまつはり
ことばを藏した渾沌のまことの世界は
たちまちわれらの上にその姿をあらはす

光にみち
幸にみち
あらゆる差別は一音にめぐり
毒藥と甘露とは其の筺を同じくし
堪へがたい疼痛は身をよぢらしめ
極甚の法悦は不可思議の迷路を輝かす

われらは雪にあたたかく埋もれ
天然の素中にとろけて
果てしのない地上の愛をむさぼり
はるかにわれらのいのちを讃めたたへる

(二月十二日)

群集に

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一人の力を尊び
一人の意味をのべ
むらがりわめき、又無知の聲をあげるかの人人よ
逃げる者も捕へる者も
攻める者も守る者も
ひとしく是れ魂のない動搖ゆらめき
いのちある事實にならない事實
埋草にもならぬ塵埃ちりあくたの昂奮だ
さめよ
一人にめざめよ
眉をあげて怒る汝等の顏の淋しさを見よ
其のたよりなさと、不安と
幕を隔てた汝等自身の本體の無關心と
重心なき浮動物のかろがろしさと――
汝等すべてのその貧しさを見よ
いま向うから出る
あのまんまろな月を見よ
靜かな冬の夜のこの潜力を感ぜよ
汝等の心に今めぐみつつある
破壞性と殘忍性と異常な肉體の慾望とにめざめよ
その貴い人間性のまへに汝等自身を裸體にせよ
そして一人にせよ
汝一人の力にかへる事をせよ
哀れなこの群集と群集との無益むやくな爭鬪に對して
自然のいのちを思ふ事の無意味を知れ
汝等は道路にしかれる砂利の集團だ
汝等は偶然に生き、偶然に死に
張合に生き、張合に死に
又氣質に生き、氣質に死ぬ
さめよ
一人にめざめよ
一人の力を尊び
一人の意味をのべ
汝等の焦心に何の値があらう
汝等の告白に何の意味があらう
ああ、群集よ
夜の群集よ
又思想および藝術にかかる群集よ
群集を生命とする群集よ
空しき汝等一人の聲に耳を向けよ
きつかけに生き、提言に生きる事を止めよ
偶像の中にもぐり込む事を止めよ
らじらしい汝等の虚言を止めよ
群集によつて押される浮動エフエメエルの潮流を蔑ろにせよ
一人の實體にしみ通り
一人の根を深め
一人の地下泉を掘り出せよ
こんこんとして湧き上る生水きみづを汲めよ
偶然はあとをたち
思ひつきは價値を失ひ
其處にこそ自然に根ざした人間はまろく立ち現はれるのだ
一人の力を尊び
一人の意味をのべ
むらがりわめき、又無知の聲をあげるかの人人よ
寒い風に凍てて光るあの大きな月をみよ
月は公園の黒い木立と相摩して光る
まんまろに皎然と光る

(二月十六日)

婚姻の榮誦

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ほめよ、たたへよ
婚姻のよろこびをうたへよ

新郎はなむこ新婦はなよめ
手をとりて立てり
さかんなるかな
新しきいのちは今創められむとす
かしてまた
新しき征服の歩みは今ことほがれたり

ほめよ、たたへよ
婚姻のよろこびをうたへよ

新郎はなむこは力に滿てり
新郎はよろこびにかがやけり
新郎はあらゆる可能を其の手に握れり
新郎よ、新郎よ
汝のよろこびを極め
汝の力を飽く事なく注ぎつくせよ
與へられたるすべての慾望に
汝自身を信頼せよ
又永遠の理法と永遠の情念とに
汝自身を研ぎひからせよ
新郎は雄雄し
新郎はたのむ可きかな

ほめよ、たたへよ
婚姻のよろこびをうたへよ

新婦はなよめは愛に滿てり
新婦はさいはひにわななけり
新婦はありとある美しさをその胸にかくせり
新婦よ、新婦よ
汝のさいはひの一づくをも餘す事なく味へよ
汝の愛を日に新しくめざましめよ
汝の使命をおもひわづらひて
汝の本能にくびきをかくるなかれ
ただかがやけよ
汝の生來を掘りふかめ
汝の深因に汝の喜怒哀樂を裏づけよ
汝は大地より湧けり
汝は何ものをも包む大地の底力を體現せよ
新婦はらふたし
新婦は愛す可きかな

ほめよ、たたへよ
婚姻のよろこびをうたへよ

新郎と新婦と手をとりて立てり
汝等は愛に燃え、情慾に燃え
絶大の自然と共に猛進せよ
滅却は罪惡なり、恥辱なり
ただ増大せよ、眞に瞬刻のいのちを惜めよ

ほめよ、たたへよ
婚姻のよろこびをうたへよ

(三月六日)

萬物と共に踊る

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彼は萬物を見る
また萬物を所有する
重いものをもち又輕いものをもつ
明るいものを見また暗いものを見る
人のいふ矛盾が矛盾にならない
砂糖の中へ鹽を入れる
燃える火から水を取る
あらゆる對立は一つに溶ける
あらゆる差別は一つに輝く
相剋と戰鬪と
排擠と鍛錬との
身を切る苦しさに七轉する時も
彼は其を成し遂げる必勝の氣魄を持つ
最も忠實であつてかも背叛する
最も眞摯であつてかも惡謔する
最も激烈な近代人であつて
かも最も執拗な古代人である
最も精靈的であつて
かも最も肉體的である
女と共に泣き
女と共に踊る
女を憎み
女を愛する
愛憎を超えた永遠を知る
その一源をつねに掌中に握る
それゆゑ
女の信頼し得る最も堅固な胸である
純一であつて單調でない
複雜であつて亂多でない
つねに死身しにみ
しかもつねに笑つてゐる
貞潔であつて又多情である
自由を極めてかも或る規律がある
そしてあらゆる凡俗と妥協とを絶してゐる
萬物は彼に押しよせ
彼は萬物と共に亂舞する
天然の素と交通し
天然の實を實とする
すべての瑣事はみな一大事となり
又組織となる
彼は自らに信憑し
自らの渇慾に羅針を据ゑる
彼にとつて
生長は生長の意識でなくて
渇慾の感覺である
そして遂行の喜悦である
そして又剩殘の不滿である
現状の不安である
あらゆる剌戟は彼の空虚をめざめしめ
あらゆる養ひは彼の細胞にひびき渡る
幺微に入り
不可思議にせまる
彼は萬物と共に踊り
彼は萬物を見
また萬物を所有する
彼は絶えず惱み、絶えずのり越す
――偉大の生れる時だ

(三月九日)

瀕死の人に與ふ

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汝の病あつく
汝はいま死に瀕んでゐる
暗い、深い、無間の底から不可抗の手が
すでに女の手を握つた
女はいま何を考へ
また何を望んでゐるか
こんこんとして睡る者よ

汝の縁者はみな涙にひたり
汝の友はみな愁に凍えてゐる
感動が人人の心に常習の魔術をかけた
その中で
汝は睡つてゐる
づかに、またやすらかに
こんこんとして睡る者よ

起きよ、めざめよ
汝のその從順のこころを棄てよ
汝のそのつつしみ深い忍默を破れよ
死に背け
死の面上にこぶしを與へよ
死に降服する事なく
ひたすらに生きよ
死はただ空洞うつろである
死はただ敗殘である
死に落ちるは人間の墮落である事を知れよ
死ぬなかれ、死ぬなかれ
こんこんとして睡る者よ

汝は今まで生きながら死んでゐた
汝の仕事は皆いのちのない破片に過ぎなかつた
汝の本能と良心とがめざめかけて來た時
汝は死の力におさへられた
そして脆くも死んでゆかうとする
涙と哀悼とに圍まれ
萬人の死を死なうとする
起きよ、睡るものよ
その甘美の情念を却けよ
その卑屈な平安を輕んぜよ
汝の生きる時また汝の一生に値ふ時が
今こそ來たのである
ひたすらに生きよ
生きる事のまことを捉へよ
汝の餘命は短い
疾く起きよ
起きて此の廣大無邊のいのちを得よ
こんこんとして睡る者よ

汝に濺ぎかけられる多くの涙を
汝は明かに心讀せよ
人の感情の淫奔性を洞察せよ
汝は正しく、たぢろがず、亂れず
汝の魂に人間の本體をめざましめ
さらにその源泉たる自然を體感せよ
現實の微妙に溶け込めよ
謙讓を極めた今の汝の心をもつて
いのちに入るはただ力の有無ありなしである
起きよ、めざめよ
死は醜し
愚かなあきらめの小康に身をまかす事なかれ
死に勝ち、死を滅ぼし
あくまで汝のいのちに莊嚴せられつつ
肉體の敗闕と共に
美しく、確然たる運命に歸れ
起きよ、めざめよ
こんこんとして睡る者よ

(三月十四日)

晩餐

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暴風しけをくらつた土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になつて
買つた米が一升
二十四錢五厘だ
くさやの干ものを五枚
澤庵を一本
生姜の赤漬
玉子は鳥屋とやから
海苔は鋼鐵をうちのべたやうな奴
薩摩あげ
かつをの鹽辛

湯をたぎらして
餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

ふきつのる嵐は
瓦にぶつけて
家鳴やなり震動のけたたましく
われらの食慾は頑健にすすみ
ものを喰らひて已が血となす本能の力に迫られ
やがて飽滿の恍惚に入れば
われら靜かに手を取つて
心にかぎりなき喜を叫び
かつ祈る
日常の瑣事にいのちあれ
生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ

われらの晩餐は
嵐よりも烈しい力を帶び
われらの食後の倦怠は
不思議な肉慾をめざましめて
豪雨の中に燃えあがる
われらの五體を讃嘆せしめる

まづしいわれらの晩餐はこれだ

(四月二十五日)

五月の土壤

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五月の日輪はゆたかにかがやき
五月の雨はみどりに降りそそいで
野に
まんまんたる氣迫はこもる

肉體のやうな土壤は
あたたかに、ふくよかに
まろく、うづたかく、ひろびろと
無限の重量を泡だたせて
盛り上り、もり上り
遠く地平に波をうねらす

あらゆる種子をつつみはぐくみ
虫けらを呼びさまし
惡きもの善きものの差別をたち
天然の律にたがつて
地中の本能にいきづき
生くるものの爲には滋味と塒とを與へ
朽ち去るものの爲には再生の隱忍を教へ
永劫に
無窮の沈默を守つて
がつしりと横はり
且つ堅實の微笑を見する土壤よ
ああ五月の土壤よ

土壤は汚れたものを恐れず
土壤はあらゆるものを淨め
土壤は刹那の力をつくして進展する
見よ
八反の麥は白緑にそよぎ
三反の大根は既に分列式の儀容をなし
其處此處に崩え出るママ無數の微物は
青空を見はる嬰兒の眼をしてゐる
ああ、そして
一面に沸き立つ生物の匂よ
入り亂れて響く呼吸の音よ
無邪氣な生育の爭鬪よ

わが足にかよつて來る土壤の熱に
我は烈しく人間の力を思ふ

(五月十六日)

淫心

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をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る

縱横無礙の淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃黒漆の大氣に
魚鳥と化して躍る
つくるなし

われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に發し
歴史はその果實に生きて
その時劫を滅す
されば
人間世界の成壤は
われら現前の一點にあつまり
われらの大は無邊際に充ちる

淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
萬物を拜せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大聲を放つて
無二の榮光に浴す

をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
萬物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈――

(八月二十七日)

秋の祈

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秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
たましひいななき
清淨の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端紛雜の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは靜かにありとある此を見る
地中の營みをみつから祝福し
わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
けだものの嘻嘻として奔るを見
飛ぶ雲と風に吹かれる庭前の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責を思ひ
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る

(十月八日)

底本

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この著作物は、1956年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。