足利治亂記

 
 
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解題
 
 
足利治乱記 六巻
 
本書第一巻に、足利御繁栄の事を掲げ、源頼朝幕府を鎌倉に開きしより、足利氏に至る迄の経歴を略叙し、三代将軍義満の治世と栄華等を特記し、次に山名氏清・同満幸退治、南帝御入洛、義満伊勢参宮、日吉御社参、義持叙爵、義満過言奢の沙汰、義満任太政大臣公家噪慣、義満北山別業御建同御移、氏満逝去、大内義弘退治、北山御幸、義満他界、満兼逝去、上杉禅秀退治、三浦介逆心、早川尻合戦、持氏鎌倉帰、持氏出家、持氏・満貞最後、結城合戦、将軍義教生害赤松退治等を記し、最後に京都には義教の子義勝、鎌倉には持氏の子成氏を取立て、玆に京鎌倉水魚の如しと筆を措きたり。都合六巻に至る。

以上記事の内往々佐々木六角氏の功績を記したる所ありて、特に目立ちたり。れば本書の作者につき、従来学者間に於て、本書は、江源武鑑、大系図、和論語等を偽作せりといふ沢田氏卿の作なりといひ、これを弁じたる人々あり。今其の重なる人を掲ぐれば左の如し。

伊勢貞丈は安斎随筆巻廿八に、本書は、江源武鑑の作者なる近江国坂本雄琴村の民沢田喜太郎(氏卿)といふ者の偽作なりと論じ、大草公弼は南山巡狩録凡例に、足利治乱記は贋作なりと論じ、近藤瓶城の史籍集覧解題に、上巻は明徳・応永の乱を記し、下巻は禅秀及び満祐の逆を録す。其間に於ける武家の故実、佐々木家譜等につき疑はしきものあり云々。真偽未だ定まらず、存疑のまゝ玆に収録せりと論じ、集覧本頭書には、屋代弘賢・伊勢貞春等、本文につき何れも疑問を附して論じたり。

亡父真頼は、本書一覧の序に、従来諸先生の如く、偽書なりとは思考せず、本文を摘記して、意見を附箋に付したり。其の条々を記すべし。そは表紙裏の附箋に、此書は足利家の末に作りしものなる証どもを示し、左の本文を掲げたり。

其外世々史官の書載する処、皆氏性を以て種子とせり。殊当家の中興尊氏公皇孫として新田と権を争ふに、両家同源氏たりといへども、新田は庶流当家は嫡オープンアクセス NDLJP:8流たるに依りて、吾神明の誓の如く、嫡をば嫡とし、庶をば庶とし、元をば元として元にもとづけ、末は末として末に基づけん」云々。

巻一、足利家御繁栄の事の条に「嫡孫宰相中将義詮卿」云々。

附箋に云、嫡子の誤なり。

同条、尊氏公御在世の御時嫡孫義詮朝臣云々。

附箋に云、前条にも此の如し。これは嫡子の誤なれども、元よりしどけなきなり。沢田氏の作ならざること、これにて明瞭なり。

同条、基氏の御子二人あり。嫡女は後京都に上せらる。

附箋に云、三十巻系図に、基氏の嫡女を挙げず。此書と合はず。

巻二、南帝御入洛の事の条に、「京都より御迎の公卿廿一人、守護の武士には佐々木右京大夫源満高、時に従四位の上に任ぜられて」云々。

附箋に云、三十巻系図には、従五位上右京大夫とあり。これと違へり。

同条、「是より南帝は太上天皇の尊号を蒙らせ給ひて、後村上院とぞ申し奉る」。

附箋に云、後村上天皇は後亀山天皇の誤なり。しどけなき事此の如し。

同書、義持朝臣叙爵の事の条に、「義満公御一覧ありて大に御立腹ありて仰せ出されけるは、我れ既に天下の武将たる事三代、依つて三公の位に居る事三世なり」云々。

附箋に云、義詮は三公に非ず。尊氏も亦然り。しどけなき事此の如し。爰にいふ三公は、高官といはんが如き意なり。沢田氏の著述ならざること炳焉。再云、贈官をいへるなるべし。

同条、「新田は庶流、当家は嫡流」云々。

附箋に云、三十巻系図をかゝん程の者、かくはいふべからず。

同条「永徳〔〈永和カ〉〕元年の春行幸を申請くる時、左衛門督満高十三歳にて叡覧に入る。時に先帝満高の家の永補を聞召し、摂家の下清家の上たるべしと勅諚なり」云々。

附箋に云、此の説甚しどけなし。按ずるに斯る愚説をなすは、佐々木六角家を贔屓せる野僧などの作なるべし。三十巻系図には左衛門督に任ずることなし。

オープンアクセス NDLJP:9同条、「京童の諺に、公方様の王なりの御祝とぞ申しけり」云々。

附箋に云、公方様といふに付きて、斯る説を添へて尊げにしたるか、又は斯の如く思へるにやあらん。当時の足利氏の勢を、野僧抔は斯くも思ひしなるべし。

巻三、鎌倉管領従三位氏満御他界の事の条に、「或仁徳深き人の曰く、必ず後世天下を得る者は、東国より出づべしといへり」云々。

附箋に云、足利氏当時の辞にして、織田・豊臣・徳川氏の時にあらず。関東の無事なるより、後世元和の頃に至りて、徳川氏を指して、関東の者といへるには非ず。

巻四、北山殿行幸の条に、「抑此満高朝臣は北山殿御同腹の御舎弟なり。然れども神伝に依りて、襁袍の中より他家に移れり。今日昇殿せられける」云々。

附箋に云、昇殿の事、三十巻系図に此事なし。

巻六、結城合戦の事の条に、「世上も閑になれば、管領入道憲実は鎌倉を立出でて、諸国執行し」云々。「此人後生弁論集廿巻・諸士格式五十巻撰みて子孫に残せり」云云。

附箋に云、これらを見ても、僧徒の作にやあらん。

要するに以上記する所の附箋に依れば、亡父の説は沢田氏の作にあらざること、三十巻系図に合はざる事を以て知るべく、足利氏の末に、佐々木氏に贔屓する野僧などの作なるべしといふにあり。前条掲ぐる所の先輩の説とも異なれば、今此編に組入れて、可否の論は更に諸賢の高説を竢つことゝすべし。

本書上下二巻本と六巻本とあり、史籍集覧は二巻本を採収せり。本編には六巻本を採収す。

 

  大正三年四月 黑川眞道 識

 
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例言
 

、「足利治乱記」は、読み難きか読誤り易き場合若しくは他との一定を欠く場合に語尾を補うて読誦に便ならしめ、稀に反読の個所をば読下しにしたるもあり。改行「真頼云」とせしは、故黒川真頼博士が其個所毎に附箋或は朱書註記を以て附記せられたる意見にして、其前文中左側に縦線を加へたるは、此附記と彼是対オープンアクセス NDLJP:13照し易からしめんが為なり。又括弧〔 〕を以てする註記中何々〔〈何々イ〉〕とせるは対照の結果参考の為め異本の字句を挿入したるものにして、〔〈何々カ〉〕とせるは当編輯部の意見を示すものなり。

本書足利氏を称揚するが為、自然に過分の筆を弄せし痕跡あり。因つて止むを得ず或部二三ヶ所は之を削去したり。看覧の士之を諒せよ。

 
 
目次
 
 
足利尊氏逝去足利義詮逝去両上杉楠正儀降る菊池武政兵を挙ぐ菊池武政降る山名氏清満幸兵を起す山名氏清戦死
 
南北朝御和睦成る足利義満伊勢参宮
 
足利義満横暴足利義満落飾金閣寺造立足利氏満逝去大内義弘兵を起す大内義弘戦死
 
足利義満驕奢北山殿行幸足利義満逝去足利満兼逝去上杉朝宗遁世上杉憲定死去上杉家系上杉禅秀兵を起す上杉禅秀等敗軍自尽
 
足利持氏上杉憲実不和上杉憲実上野に遁る足利持氏鎌倉帰陣
 
足利持氏薙髪足利持氏満貞自尽足利義久自害上杉憲実遁世結城氏朝兵を挙ぐ結城氏朝父子戦死春王安王殺さる足利義教赤松満祐に弑せらる赤松満祐自害

 
 
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足利治乱記 巻第一
 
 
足利家御繁栄の事
 
倩三余の暇に、国史等を勘弁するに、凡そ我神国の権柄武家の手に移りて、帝政裁断してより以来、既に右大将頼朝卿に事始りて、鎌倉十二代平高時に至りて、武家の政衰へ、元弘・建武に兵乱起り、六十余州の中、一郡とても静ならず。四十余年に及び、漸く四海の逆乱治りて、日本国中皆以て足利治部大輔尊氏卿の武徳に帰して、寸土も其地ならざる所なく、一家も彼の下に立たずといふ事なく、万民尭舜の化に誇りき。然るに人王九十九代後光巌院の御宇、延文三年四月廿九日征夷大将軍正二位大納言源朝臣尊氏逝去し給ふ。足利尊氏逝去武算五十四歳なり。等持院殿仁山妙義大居士と別称を号け奉る。忝くも勅諡従一位左大臣を賜ふ。寔に当家の面目なり。然れども一家オープンアクセス NDLJP:120の棟砕けぬれば、御一門の人々並に恩顧重き御家人は、暗夜に灯を失ひ海中に梶を折りし思、譬を取るに物なし。嫡孫宰相中将義詮卿は、尊霊贈官の勅使に向つて、

   帰るべき道しなければ位山のばるにつけてぬるゝ袖かな

頼云、嫡孫は嫡子の誤なり。

帝〔〈後光厳〉〕聞召して、難有宸筆を染められ、委細に事書を遊して、新千載集を撰まれけるに、哀傷の部にぞ入れられけるとぞ。尊氏公御在世の御時、嫡孫義詮朝臣、世事に些かおろそかなるを悲み給ひ、我が歿後に、必ず東国を他人に奪はれん事を思ひて、関東を二男左馬頭基氏に与へて、義詮の佐とす。

頼云、嫡孫前条にも此の如し。これは嫡子の誤なれど、元よりしどけなきなり。沢田氏の作ならざること、これにて明瞭なり。

然りと雖、基氏の家臣畠山入道道誓等、度々奸邪の事によりて、将軍義詮常に基氏を疑ふ。種々に基氏、悪心を存せざる由を申すと雖、将軍御心よからず。故に基氏神明に誓つて早世し、其疑を解くるとぞ諸人言合へり。基氏の御子二人あり。嫡女は後京都に上せらる。

頼云、三十巻系図に基氏の嫡女を挙げず。此書と合はず。

二男氏満、関東の大将として、東国の大名小名、皆其下知に従ひき。氏満朝臣の姉君は、将軍家の三男満高、神伝の事に依りて他家に移りて、六角右京大夫といふ。此人に後嫁し給ふ。左馬頭氏満の家臣上杉憲顕輔佐して、東国大平なり。京都には貞治五年十二月、将軍義詮の嫡男、義満叙爵し給ひ、従五位に叙し、忝くも義満の諱名宸筆を染めらる。二条関白良基公、之を取扱はる。是より二条家、武家と親して、光彩門戸に輝けり。同六年十二月朔日、義満讒に十歳にして、正五位下左馬頭に任ず。父義詮卿病気甚しきに依りてなり。足利義詮逝去同月七日征夷大将軍正二位前大納言源義詮卿逝去し給ふ。別称は宝筐院殿瑞山道惟大居士と号け奉る。

頼云、道惟、三十巻系図道懼、十四巻系図道惟に作る。

同晦日には勅使をなされ、左大臣従一位を贈らる。延文三年より今年迄、治世十年なり。細川右馬頭頼之顧託を受けて、幼君の義満を守立て、天下を以て己が任とし、オープンアクセス NDLJP:121諸事私なく是非分明して、其頃人の孝といひ仁といひ義といふ者を選み出して、義満の前に旦夕仕へさせ、常に善言を以て教へ導く。又法師六人に、異なる小袖を着せて太刀等をさゝせ、三人を佞房と名づけ、三人は童房と名づけ、諸人に謂ひ媚び廻らせける。是は諸侍の追従軽薄なる者をば、侍童房と名付け恥かしむるなり。偏に其心義満の讒佞を遠ざけしめ、武士の風俗を直さん為なり。応安元年四月十一日義満御元服。細川右馬頭頼之加冠たり。細川兵部大輔業氏理髪たり。佐々木刑部少輔輔時泔坏なり。打乱は畠山尾張守義深なり。十二日国家安全の為に鷦鷯の先祭あり。同日諸大名の嘉儀等あり。

頼云、鷦鷯の先祭とは何の祭にや、詳ならず。但当時足利氏にても行はれし祭なり。下文には神代の古法とあり。

江源武鑑巻十七、天正五年正月大三日辰刻、当屋形の御曹司誕生なり。鷦鷯の御伝あり、不残観音城に出仕す。

同十八〔〈六十三左〉〕鷦鷯之有御伝

同年六月には、禁裏仙洞宮々并殿下寺社等の証文を出さる。諸国武士の妨乱を停止せらる。当家栄久の為に、細川頼之八幡宮へ参詣して、銀劒・神馬・砂金等を奉納す。将軍自ら金幣を切つて、別使を以て奉納す。同年九月には関東の執事上杉憲顕死去して、嫡子の能憲其姪朝房両人として、諸事を執行す。両上杉之を俗に両上杉といふなり。同十二月京都には、義満征夷大将軍になり給ふ。今年讒に十一歳なり。

楠正儀降る同、〔〈応安〉〕二年正月には、将軍義満幼少なりと雖、仁徳内に深き故に、南方の大敵楠正儀等降参すべき旨、血書を以て申すに依り、細川右馬頭頼之・赤松判官等を南方へ遣す。

頼云、義満十二歳に当る。十四巻系図によれば十一歳なり。

四月の半には楠正儀入洛して、先づ細川頼之の宅へ向つて一礼し、即ち三献ありて、其後頼之同道して、将軍義満公の御館に参礼等あり。龍尾といふ太刀を正儀献ず。将軍甚だ秘蔵せり。今月叡山の衆徒等、南禅寺の山門を破却せんとす。公家に奏し武家に訴ふ。衆徒等大に嗷訴して、日吉の神輿を捧げて内裏に振捨て、禁裏仙洞並諸卿の舎屋、及び洛中残らず火を放つて焼かんとす。爰に佐々木嫡領六角氏頼入道オープンアクセス NDLJP:122崇永、江州より兵を率ゐて上洛し、糺河原の辺にして山徒を追散らす。之に依て内裏御安全にして、京中静なり。帝斜ならず叡感まして、宸翰の千載集を賜はりて、甚だ感ぜらるとなり。同四年の夏、京都の管領細川頼之端午の出仕に、諸大名悉く将軍の御前に候す。時に故ありて義満公、細川頼之を召して怒つてければ、細川頭を垂れて、赤面して退き去り閉門す。重ねて将軍より、京を罷出づべきの由仰出されける。之に依つて頼之、丹波の山国といふ所へ蟄居す。是より人皆将軍を恐るること甚し。是れ実にはあらず。細川己が威勢強うして、諸人恐るゝこと甚しき事を覚りて、其己が威を滅し、若将軍に威を付け奉らんが為に、態と将軍と内談して、斯の如くなりといふなり。東国の諸大名之を聞きて、長久なるべきは京都の御世、欣ぶべきは細川家の沙汰なりとぞ誦しける。此故にや両上杉の人々近年は物毎に実がましき沙汰のみ多くして、関東弥太平の化に誇りき。同六年の冬十月十八日には、京都より将軍家の御使下向して、御内書に曰く、鎌倉五山の事、住持職の儀は京都より御沙汰あるべし。其外寺法の儀は、管領氏満の下知たるべしとの御事なり。同十一月には、将軍義満公、従四位下の参議に任じ、左中将を兼ね給ふ。左馬頭を鎌倉の管領氏満に授けらる。関東の諸大名皆鎌倉に集りて、管領を喜ぶ。同廿九日には又京都より上使下向して、御内書に曰く、今度西国の菊池兵庫頭武政、南朝の宮

菊池武政兵を挙ぐ良徳親王〈懐良親王カ〉〕を取立て大将として、九州を随ふに依つて、彼を退治の御事なり。将軍西征の間は。東国の執事上杉弾正朝房を召上せて、京都の御留守とし給ふべき御事なり、早く上杉上洛すべきとの事なり。諸国手分押の事は、仁木義長をして、伊勢の北畠を押へしめ、山名氏清を以て南方の和田・楠が残党を押へさせ、武田・小笠原を以て、伊予の悪徒金谷以下を押へさせ、其外東は安房・上総を限り、北は佐渡・越後を限り、国々の軍兵を催すべしとの御事なり。之に依つて管領氏満朝臣の近習三千騎計、伊豆・相模の内三与、都合鎌倉の兵八千余の外は、一人も残らず、今度西国退治の催促に従ひき。同七年二月三日、鎌倉の管領、伊豆の三島へ動座まし、西国退治の軍兵を選み見らる。同三月上旬には、将軍義満公、筑紫方御進発あり。細川頼之・斯波義将・畠山義深・六角龍寿丸、其外仁木・今川・土岐・赤松等の大名三十九人、其オープンアクセス NDLJP:123軍勢十万八千七百五十三騎なり。

頼云、花営三代記云、永和三年六月一日、佐々木判官入道崇永他界とあり。然らば龍寿丸は永和三年より家督なるべけれど、爰に龍寿丸とあれば、崇永は早く隠居して、龍寿丸家督なりしかとも思はる。崇永早く隠居せしことは、太平記卅二〈十六左〉にも見ゆ。応安七年は、永和三年よりは四年前なり。

龍寿丸は恐らくは義信なるべし。

花営三代記永和三年九月の条に、六角亀寿丸とあるは満高なり。

寛永系図、氏頼、応安三年六月七日四十五歳にて卒す。法名雪江崇永。

先陣は山名師氏並に赤松の一族なり。同四月上旬には、将軍義満公木の国に至るの由、鎌倉の氏満へ御内書下る。先陣は長門の国に至つて、菊池武政と合戦す。山名師氏が兵赤松が兵、大に破れぬ。然りと雖後陣の細川・斯波・畠山・六角・仁木・今川・土岐が軍兵、進んで馳向ふ。之に依つて菊池武政が旗下島津・伊藤等、菊池を背きて忽ち降参す。愈菊池敗軍して、征西将軍の宮を誘ひ奉りて、宰府に陣を堅むるなり。

細川以下の七頭の大名、短兵急に戦ふに依つて、原田・秋月等其外九州の小将等八十五人迄、菊池を背きて降参す。菊池難儀して、筑後の高良山に引籠る。時に将軍義満太宰府に至る。細川・六角・山名・赤松等、菊池と相戦ふこと三十余度なり。九州の戦三日三度宛、将軍より京都へ仰上げらる。上杉また鎌倉へ注進す。氏満大に喜び給ひ、菊池武政降る鶴岡八幡宮にて、毎日千座の秡あり。同九月菊池武政難儀して降参す。七頭の大名評議して、将軍義満公へ訴へ、和平の儀相調へて、菊池武政肥後国へ帰り入りぬ。于時将軍、日向国を伊東に与へ、筑前を少弐に与ふ。豊後を大友に与へ、長門と豊前を、大内義弘に与へらる。是は此人々、逆に背きて正に帰したる賞とぞ聞えける。十月中旬には将軍帰洛し給ふ。十一月には今度西国軍忠の面々、其軍功に従ひ、恩賞まちなり。上杉弾正忠朝房は、韓信が功に比せられて、将軍御自筆の感書を下されて、並御宝物数多給はり、十一月下旬に鎌倉へ下向す。今度西国御退治の後は、愈御当家の繁昌追日盛なり。永和四年四月十日、東国の執事上杉能憲死去せり、管領氏満悲歎甚し。能憲舎弟刑部大輔憲春を以て其代とす。京都には南方の敵オープンアクセス NDLJP:124度々相戦ふと雖、将軍の武徳に砕かれずといふ事なし。爰に康暦元年の冬より、鎌倉氏満朝臣の近臣の悪士三浦左京亮満忠といふもの、管領氏満へ、種々非理を以て逆心を勧む。同二年〔〈康暦〉〕の正月中旬には、専ら氏満朝臣関東の軍兵を以て、京都を退治すべきの由、早御口外の事、執事上杉憲春度々諫言す。然りと雖氏満、今更に御承引なし。武蔵・相模の内密々を以て、御上洛然るべき由勧め申す族も多し。此折節京都には、南方の敵も蜂起して、細川以下の面々攻向ふ。或時は将軍自ら進発す。和州の逆徒を治めんとて、京都より大名多く攻向ふの刻、洛中大に騒立ちて、南方の討手を中途より召返す。其内心快からず、吹毛の面々、道より落行くもあり。又其頃美濃国主土岐近江国主六角逆心の聞あるに依つて、柳営義満公、御教書を諸国へ遣し給ふ。

頼云、六角、龍寿丸にて義信なり。義信の父崇永は、去る永和三年六月死去せしこと、三代記に記せるが如し。

系図纂には千寿丸とあり。

終に土岐・六角赦免にて、令上洛なり。同三月上旬、鎌倉管領左馬頭氏満卿逆心の事、京都へ具に達しけるに依つて、将軍家より御自筆の御内意を、上杉憲春に下さる。御内書のやうは、左馬頭逆心の聞、都鄙の沙汰にあり。寔に樹鳥の枝を枯らすの謂なり。邪を翻し正に帰して。京鎌倉、水魚の思をなすべしとなり。依つて執事憲春毎日出仕して、諫言度々に及ぶ。終に御承引なく、却て上杉逆心のやうに御下知に依り、執事は出仕を止めて籠居して、其の後自害しける。管領左馬頭殿大に驚き悔みて、逆心の御企を解き捨てらる。憲春は誠に忠臣なりと、京鎌倉に誦しけり。将軍御感の御歌あり。依つて憲春の舎弟安房守憲方を立てゝ、鎌倉の執事とす。憲方始のて鎌倉の山内に居住して、政事を明かにしけるに依つて、貴賤大に悦べり。同二年庚申二月十一日京都の御執奏に依りて、鎌倉の管領氏満朝臣、左兵衛督に任ぜらる。

頼云、康暦二年は庚申なれど、これは誤にて永徳歟。

関東の諸大名皆在鎌倉して、毎日万歳の声のみ絶えず。同五月四日より事始めて、オープンアクセス NDLJP:125小山下野守義昌と宇都宮下野前司基綱と、不和の儀に依つて相戦ひ、宇都宮打負く。鎌倉の氏満聞き給ひ、小山追討の為に、執事上杉の憲方に、四千余騎を相添へて遣す。小山防戦して、双方討たるゝもの多し。終に九月九日小山義昌、血書を捧げて降参す。依つて氏満卿赦免せられて、小山鎌倉に来りて、礼仗するに依つて、関東静まりぬ。同三年正月には、京都の将軍義満公、淳和・弉学両院の別当を兼ね給ひ、源氏の長者になり給ふ。源氏の長者は、代々久我の家に補任せられしを、御当家繁昌の故に斯の如くなり。是より永く武将の家に掛けらるゝ事は、義満公を以て始とす。鎌倉の管領も上洛し給ひ、又同六月には、将軍家准三后の宣旨を蒙り給ふ。誠に当家の面目なり。同十月二日は、将軍家行幸をなし奉らる。鎌倉の管領も、玉顔を拝し給ふ。廿八日に氏満朝臣、関東に下らる。嘉慶二年夏六月、京都の将軍駿河の国に御下向なり。富士山御見物とぞ聞ゆ。上使鎌倉に下る。即ち御内書あり。管領氏満も駿河へ出向ひ給ふべき由なり。説に曰く、将軍家富士一見に事寄せて、鎌倉退治なりといふ。依之上杉、鎌倉殿に諫言して、病と号して鎌倉を出でられず。将軍家は、何の御心もなく上洛なり。此時伊豆・相模大に騒ぐ事ありぬ。執事上杉堅く制して静なり。京都には逆士多くして、兵乱止む時なし。関東は、氏満朝臣の武徳に帰して、上下静なり。日本国中皆以て京都・鎌倉の武威に伏して、末永く昌ひ給ひけるなり。

 
山名陸奥守氏清・同満幸御退治の事
 
明徳元年十月上旬、山名伊豆守時熙・同隠岐守氏幸、将軍家の鉤命を背く事ありしに、時熙が叔父山名陸奥守氏清・同氏幸・時熙が舎弟播磨守満幸に、討手を仰付けらる。時に氏清、将軍家に申して曰く、彼者共、一家の内なれば、以来御赦免あるべくば、他人に仰付けらるべし。随分行向ひて、教訓を加へて見申すべし。若し誰人御詫言申すとも、其罪を御免あるまじきならば、誅伐すべしと申す。将軍家の仰に曰く、堅く其罪免すべからず。急いで退治すべしとなり。依つて氏清・満幸兵を率ゐて発向し相戦ふ。時熙・氏幸防戦に利を失ひ、歿落せり。是より氏清・満幸、武に誇りけるが、明オープンアクセス NDLJP:126くる二年の十月上旬。山名氏清、宇治の紅葉を、将軍家の御覧に備ふべきとて、品々の道の上手を召集め、御成を申しけるに、義満公御感斜ならずして、御成は同月十一日なり。山名善尽し美尽せる最中に、先年御退治ありし山名時熙・同氏幸潜に上洛して、細川を以て御赦免を蒙らんといひしかば、将軍は御免の御事はなかりけるが、然りと雖、近日宇治へ御成の事なれば、氏清に直談あるべしとて、既に宇治へ御成なり。山名播磨守満幸、此事を悉く伝へ聞きて、急ぎ氏清に告げ知らしければ、氏清大に腹立して、既に泉州より淀まで来りけるが、其日に及びて、俄に病と称して宇治へ赴かず、使者を以て、将軍へ途中にて申上ぐる。義満公甚だ不快にて、空しく帰洛し給ふ。同十一月上旬に、山名満幸が家人、仙洞の御領を妨ぐる事あり。将軍家之を聞きて、出雲の守護職を取上げられ、満幸を召して、洛中に置かれけるが、将軍家猶も不快に思召して、満幸を丹波へ追下さる。満幸大に怒りて、斯程迄の儀に及ぶべきにあらずとて、甚だ怒を含んで泉州へ行きて、叔父の氏清に謀叛を勧めける。氏清元より逆心の上、殊に勧むるは甥ながら増なれば、早速志を合せける。此頃山名時熙・同氏幸は将軍家より御赦免にて、殊に本領も残らず下されければ、弥氏清安からず思ひて、謀叛を発すとなり。同十二月廿九日、洛中の兵を途に迷はせんが為に、月迫を待ちて、山名氏清満幸兵を起す氏清・満幸、和泉・丹波より相分れて、洛中へ攻入るなり。将軍義満公は、細川常久・六角満高其外の諸大名をして、山名が兵を防がしむ。
頼云、六角満高、此に始めて見ゆ。義満の異母兄弟なるか。応仁記に、大名の家作り、吉良・石橋・渋川等をば先おきて、武衛・細川・山名・一色六角は、上土門を立てにけるとあり。是より先、六角義信卒去せしと見えたり。其跡を満高故ありて継ぎしなるべし。系図纂に、義信は貞治四年十一月八日卒十七歳とあれど信じ難し。龍寿丸を以て義信とする時は、三代記永和三年の条に亀寿丸ありて、亀寿丸は即ち龍寿丸なれば、貞治四年より十二年後まで存生なり。貞和四年卒十七歳とあるは誤なるべし。満高が六角家を継ぎしは、永和三年より後、康応・明徳の初年頃なるべし。亀寿丸元服して義信と称して、程なく死去せしならん。
オープンアクセス NDLJP:127晦日には、大合戦洛中に始めて、敵味方多く討たるゝもの其数を知らず。爰に氏清が弟上総介義数並に家臣小林修理亮などは、大内義弘と戦ひけるが、終に討死す。満幸は、細川常久・六角満高と戦つて敗軍す。氏清は洛中へ乱入りて、畠山基国・赤松義則・山名時熈と戦つて、氏清勝に乗りしかば、将軍義満公は、朝敵にあらざれば、御小袖の鎧をば着給はず、御鎧は常式の御事なり。一色詮範・斯波義重先陣たり。敵味方大に戦ひて氏清敗軍す。山名氏清戦死一色詮範が子息満範、最前に戦つて、氏清を討取りけり。于時氏清四十八歳なり。満幸は戦場を駈抜けて、行方を知らず。将軍家勝利を得られ、今度軍功ありし諸大将に、闕国を給はる。丹波国を細川頼元、丹後を六角満高に、山城を畠山基国に、美作を赤松義則に、和泉・紀伊を大内義弘に、但馬を山名時熙に、伯耆を山名氏之に、隠岐・出雲両国を佐々木高明に、河内の内今川泰範に、若狭国今富の庄を一色詮範に給はる。
頼云、丹後を六角満高に与ふること考ふべし。丹後は山名の領地ある所をいふなるべし。一国には非ず。

又山名義理は紀伊の国主たりしが、大内義弘発向して攻めければ、防戦するに及ばず。義理、家臣を集めていひけるは、公方に対し、恨むべき仔細なし。偏に氏清が悪逆故なれば、弓をひき奉るべきにあらずとて、城を開き、主従十三人にて、紀伊国を出で、其より勢州山田へ行き、心ならず参宮しけるが、日頃は末席にもあらざる御師の、神主とも同じさまなる体、中々いふべき方なし。只人は落目の時に、此心は見るものなれば、人間たらん者、能く嗜むべき第一なり。今世の人多くは勢に付く、却て世になき人は善人多く、道を好むの族は、道知らぬ輩多しと、後宇多院の仰せられしは是なり。さぞ此人の重恩の侍共多からんに、節義を守る人なし。爰に日頃の好はなけれども、六角右京大夫満高朝臣、若き大将なれども、仁徳深き人にて、家礼の士に申含めて、度々勢州へ申送りて、細事に至る迄心を寄せられける、義理余りの嬉しさに、石仏を作りて、満高の重恩を報ぜんとて、毎日般若心経一千巻づつ読誦して、六角家の智徳、世々繁昌、来世は生極楽と書きて、一百日の間祈りけるとなり。今に勢州にありて、見る人善心を発す。人は善を行ふべき事にこそ。彼代々繁栄にしてオープンアクセス NDLJP:128良将多しとなり。

 
足利治乱記巻第一
 
 
オープンアクセス NDLJP:128
 
足利治乱記 巻第二
 
 
南帝御入洛の事
 
明徳三年閏十月二日、南帝熙成王御入洛ありて、先づ嵯峨の大覚寺にぞ御着ある。内々御和睦の事は、大内義弘・六角満高に申談じ、将軍家に、吉野殿をも能くつくろひける故なり。
頼云、六角満高、野史に、二条殿家記・国史実録を引きたり。

南帝御入洛の有様、其粧行幸に違はず、今此の如きの体然るべからずと、京都より、勅使を嵯峨へ遣さる。南帝、勅使に御対面ありて仰せられけるは、三種の神器、既に是にあれば、此方こそ十善の位なるべきに、今度此処に行幸ありしは、偏に京都の帝を御養君にして、三種の神物をも相渡すべきに定めてこそ、是までは行幸なりしに、オープンアクセス NDLJP:129今此の如きの仕合、是れ何事ぞとの勅詔なりければ、既に違背の事になりて、嵯峨・京都の間急を告げて、人馬の行違ふこと、櫛の歯を引くが如し。六角の満高、将軍義満へ諫言して曰く、今南帝の勅諚至極せり。三種の御渡なき以前は、南帝当今なるべし。急ぎて和を入れらるべしとありしかば、将軍即ち満高を嵯峨に往かしめ、和事を調ふる。南北朝御和睦成る南帝叡感まして、同五日に、三種の神器を禁中へ渡さる。南帝の公卿六人、神器の前後に供奉す。京都より御迎の公卿二十一人、守護の武士には、佐々木右京大夫源満高、時に従四位の上に任ぜられて、数兵を引率、諸卿の後に供奉す。

頼云、右京大夫、三十巻系図には、従五位上左京大夫とあり。之と違へり。

此満高朝臣は、将軍義満公同腹の舎弟なり。然るに神伝の事に依りて、他家に移りて此の如し。此人天下無双の美男にて、華車を好むが故、今度の供奉善尽し美を尽す。之に依つて京中の貴賤、群をなして見物す。今年より、南帝北帝といひしも打解けて、天下一統す。是より南帝は、太上天皇の尊号を蒙らせ給ひて、後村上院とぞ申し奉る。

頼云、後村上天皇は、後亀山天皇の誤なり。しどけなき事此の如し。

延元二年後醍醐天皇吉野に入り給ひしより、今年に至りて五十六年なり。寒去暑来人間の有様不定なるかな。斯くはあれども南方には、悪士共少々吉野の奥に残りて、所々を攻伏せ、先帝の御跡を再興すといひて、種々の邪計を尽すなり。十一月四日には先帝後村上〔〈後亀山カ〉〕禁中へ行幸、十余日御止宿あり、又種々の御遊興限りなし。将軍家より御領を参らせられければ、南帝祗候の面々も、喜悦の眉をぞ開きける。公家武家諸事至誠なる沙汰のみにて、万人の喜び限りなし。禁中御造替ありて、諸卿の所領も先規を勘へ、今度加領をなし給へば、貴きも賤きも時を得て、将軍家の繁栄、今義満公の御代を以て最中とすと、国民誦しけるなり。

 
将軍義満、伊勢御参宮の事
 
足利義満伊勢参宮明徳四年義満公は、左大臣を御辞退まして、九月朔日に御動座ありて、伊勢大神オープンアクセス NDLJP:130宮へ御参宮なり。二日には江州の石部を御立なり。今日神伝の事あり。源満高朝臣之を執行す。吾国神道の一なり。
頼云、神伝とは何事なるにや詳ならず。按ずるに神事を行ふ事にや。之を執行すといひ、吾国の神道の一なりとあるを見るべし。此頃私に神を祭るを神伝といふにやあらん。

細川御留守として京都に居す。佐々木・畠山・山名・赤松の人々供奉たり。六日には将軍義満公、山田の御館に御着。七日卯の下刻御参宮、御神拝の次第厳重なり。満高朝臣神拝の御師なり。斯波義将、当管領にて諸事を沙汰す。八日には外宮内宮の神人等に禄を給はる。十禰宜等、御紋の小袖を給はる。祭主長官白銀一千両を給はるなり。夜に入りて上三郡の奉行等を召して、内外の御神領、同国にて七千貫、奉幣使料として御寄附なり。万民奉祝の声やうたり。

頼云、臣下として太神宮へ奉幣すること、常の事なるを見るべし。俗神道の起れるも亦見るべし。

九日には朝熊へ御参にて、此所大破に及びてありしを御覧ありて、造替仰付けらる。其より二見浦へ御下御抜等又御歌あり。

   諸人のこゝろのあかをすゝぐやと清き二見のなみのまに

今度将軍義満公御参宮に付、公卿の中庭田・飛鳥井両人を、召具し給ふべきとありしに、禁中御神事の後に依りて、ならざりし事を思召出で、

   花ならば手折りてもかな見ぬ人の家づとにせん伊勢の海づら

夜に入りて将軍は、山田の御館に帰り入らせ給ふ。翌日には伊勢・伊賀・志摩の御家人等、御目見の事あり。伊勢守執行せり。爰に美濃国主土岐弾正忠頻に言上して、養老の滝御見物のことを勧め申すに依つて、十二日に山田を御立ありて、美濃へ御移り、養老其他御見物ある。十六日には江州多賀の社へ御社参ありて、爰にて当国の守護六角満高頻に御成を申されて、観音城に御移り、色々の御遊興ありて十九日御入洛なり。江州草津まで、京中の町頭其外諸道の輩、出向ひ奉りて祝し奉る。瀬多に至りて、諸公家并門跡の祝事を奉る。勅使は大津に至りて御下向なり。御当家オープンアクセス NDLJP:131の繁昌、此時にあらずば又何の時にかあらんといへり。廿三日将軍家参内ましける。諸国の祝使京中に満てり。廿八日には、京中には米一万石を給はる。廿九日に諸山の祝事あり。日々の万声耳に満てり。

 
将軍家日吉参詣の事
 
応永元年正月二日、将軍義満公の御夢に、白猿多く殿中に集り、将軍を興に乗せて、日吉の社に誘ふといふ。将軍夢心に、是は偏に神明の告なるべしと思召す所に、浄衣に立烏帽子着たる男一人出で来りて曰、我は日吉の神人なり。近日将軍家御社参なるに依つて、末社の神残らず集めさせ申せとて、神勅なりといひて、走り廻ると御覧じける由を、近臣に語り給ひけるが、いつ日吉の御社参あるべきとも仰出されざりしに、八月朔日管領の夢に、柳営日吉社参の事延引は、偏に汝が罪なりと、尊氏公宣ふと覚えて夢さめぬ。管領怪しき事なれば、言上する事なし。重ねて又以前の如く夢見る。依つて言上す。将軍聞召して、思召合する事ありとて、九月十一日に、日吉へ御社参なり、近国の大名には、江州国主六角満高朝臣計将軍に先立つて供奉、其外の面々は停止せらる。其外聖護院御門主・青蓮院御門主・梶井の宮・飛鳥井・庭田・岩倉・勧修寺・五辻・綾小路・裏松寺御供なり。道の程御歌あり。日吉社にて種々御祈あり。満高朝臣先発の法あり。
頼云、先発は上文に合せ考ふるに、先祭にや。又は先祭は非にして先発なるにや。下文を按ずるに先祭なり。

山門の大衆等残らず下山して八講あり。日吉の社司樹下に御衣を給はる。十三日に日吉の社領を加へらる。十四日戸津川尻より御舟に召されて、堅田の浦にて網を曳手の御遊興にて、浦々の御詠数々なり。志賀の浦伝ひ、月を御詠めありて、大津より御入洛なされてけるが、関の明神・四の宮川原の観音などにも、御領少々附けられける。京中の町頭等御迎に出でけるを御覧ありて、子の親を待つ心なりとて、殊の外の御満悦斜ならざるなり。国々の祝使又京都に満てり。

オープンアクセス NDLJP:132
 
義持朝臣叙爵の事将軍義満公過言奢の事
 
同〔〈応永〉〕元年十二月十七日、最上の吉日たる由、土御門より勘へ申上ぐるに依つて、将軍の御嫡男義持、今年九歳にて叙爵し給ひけるが、勅使将軍の御所に行向ひ、従五位下左馬頭の補任を参らせ渡す。義満公御一覧ありて、大に御立腹ありて仰出されけるは、我れ既に天下の武将たる事三代、依つて三公の位に居る事三世なり。何ぞ今度の補任の様、清花以下に等しくあらん事や。
頼云、三公の位に居る事三世、義詮は三公に非ず。尊氏も亦然り。しどけなき事此の如し。爰にいふ三公は、高官といはんが如き意なり。沢田氏の著述ならざること炳焉。
云、贈官をいへるなるべし。

夫れ当家は皇子として、天子のうてなを出でし事遠からず。都て人臣の中、先祖天子の王子より出でたるを以て、公家には之を親王家といひ、武家には之を高家といふ。たとへば子孫民間に下ると雖、〈当家の大名と同位に礼儀を行ふ。〉

頼云、此文よく解く難し。天皇の子孫の、若し民間に下るがありとも、大名と同じく礼儀を行はんといふにや。
云、民間云々は下文の照応なり。
云、足利氏を高家といへるやうなり。

当家人臣に下ると雖皇孫なり。摂家清花の輩、たとへば当時高官たりと雖、先祖より臣下の家なり。故に公家其家々の吉例に依つて、昇進極あり。武家の高家は、皇孫たるに依つて、太政大臣正一位に昇るとても仔細なし。是れ吾が神国の、天竺震旦に勝れたる一の奇妙なり。故に天照太神より、既に神武に至り、其より代々今に至り、逆臣世を乱し、或は凡人に、権化の達人世に出で、或は臣下の中に仁徳深き人出で、世人之を崇むと雖、何の世にか人臣を以て、君主と崇めたるや。代々天子の中悪主ありて、御位を退け奉ると雖、終に他姓の人を以て君主とせざるなり。事あたらオープンアクセス NDLJP:133しき申事なれども、人王十四代仲哀天皇崩御の時、応神天皇未だ誕生し給はず。依つて御母神功皇后、応神を孕み乍ら摂政し給ひて、応神御降誕の後に、神功を以て人王十五代の帝と崇め奉るも、此神功他女たらば、何ぞ之を用ふべきや。忝くも神功は、開化天皇五世の孫息長宿禰の女なり。是れ皇孫たるに依つて、太上天皇の尊号を奉る。何ぞ凡人の女たらんに於て、如何か一世の君主に用ひんや。是れ只先祖皇子の故にあらずや。其後廿六代武烈天皇崩御の後、皇子なきに依つて、応神天皇五代の孫彦主人王の子を立てゝ君主とす。是れ継体天皇の御事なり。又其後人主度々皇嗣断絶の事多しと雖、二世三世の皇孫を尋ねて、毎事君主とせり。何の世にか、誰人が位高しとて、人臣の家より君を立てたる例なし。是れ永く吾国は天照皇の御子孫のみ、君たるべき神誓なり。之に依つて日本の俗、皆氏姓を用ひて之を崇む。武家代々、主君を討ち朋友を誅する事多しと雖、筋なき凡人を用ひて大将としたる例なし。平相国清盛逆意を振ふも、是れ皇孫なりし故なり。平家の世盛に源の頼朝流人の身として関東に居す。平氏の盛といひ、頼朝無力の事といひ、一として用所なしと雖、元年皇孫たりしに依つて、関東の諸士之を用ふ。其弟九郎義経奥州に往き、微妙〔〈少イ〉〕の若者なれども、大国の主たる秀衡、之を崇めて大将とせり。其外世々史官の書載する所、皆以て氏姓を以て種子とせり。殊に当家の中興尊氏公、皇孫として新田と権を争ふに、両家同じく源氏たりと雖、新田は庶流、当家は嫡流たるに依つて、我神明の誓の如く、嫡をば嫡とし、庶をば庶とし、元をば元にして元にもとづけ、末をば末として末にもとづけんとあるは、異国は知らず、吾神国に於ては、時に当つて尊しといへども、凡人を以て君主とせず。

頼云、新田は庶流当家は嫡流、三十巻系図を書かん程の者、かくはいふべからず。

日月未だ地に落ちず、六畜天に登らず。故に武家天下の権を執つて、威勢を四海に振ふと雖、終に天子を退け奉らず。公武争ふ事ありと雖、嫡を立て庶を失ふ。或は君を失ひ父兄を亡して国家を持ち、或は凡人の家業を争うて、嫡を亡し庶を立つるに、終に子孫を保たず。是れ吾神明の御誓、今に至つて違はざる所なり。諸卿賢顔にオープンアクセス NDLJP:134して、吾神国の大事を知らずして、異国の法になづみ、仏道に帰し儒道により、己が国法を失ふ。吁悲しいかな。今より末の世には、君主をなみし、臣下貴きに居し、高家の輩は卑きに歿せられ、貴となり賤となり、富貴を以て君とし、貧乏を以て奴とせん。時に末の世の悪僧等、種々の秘法を説き、衆を惑はさん。時に老仏の教、土壇に落ちん。僧は俗よりも戒行なく乱るべし。此時儒を学ぶの徒、心を摂し口説を正し、仁義の道を話し、人道の専用とせん。貴賤之に迷ひて仏説を軽んじ、吾神国の掟を破り、公武家を失はん事必せり。是れ神明の誓を背くに依つて、火災、風災、水災、人病替々に起り、諸人神心身信の四徳を失はん。此時にこそ吾神国は、異国の奴となるべし。其時にこそ、神明の誓を守る人世に立ちて、必ず皇孫の人四海を治めん。当家の氏族等之を能々守りて、一家の中盲将あらば、其器に当るものを立てゝ大将とせよ。必ず他姓を用ふべからず。是れ吾神明の掟なり。たとへば凡人の中より出でて、或は国主となり、或は時の勢に乗りて武将となるとも、吾神明の掟なれば、一世にして必ず亡ぶべし。是れ異国に替つて、神国の神国たる故なりとて、永々と宣へば、勅使も伺候の大名も、至極の上意なりとて感じけり。

頼云、此の一章前後整はず。勅答にあらず。諸人に誠示のさまなり。
云、此の条凡て未来記めきたり。未来記は足利氏季世の人よくこれを称へたり。
云、文正騒動記、〈文庫本、〉未来記の事を記せり。

勅使急ぎて帰り、時の関白一条経嗣公・前関白二条師嗣・伝奏弁官其外源平・大江・橘・菅家清中の面々、堂上地下一人も残らず、一大事出来て、禁中此時滅亡なりとて、皆殿下に集会して、評定まちなり。爰に庭田中納言重賢卿進み出でて申されけるは、武将の申す所一理なきにあらず。摂家の外叙爵は、皆以て従五位下たる事分明たり。然るを今権門に恐れて、例なき補任を出さるべからず。武将神国の掟を守ると雖、一応格式の載する所、委細に書記し、武家へ訴へられ、其上許可なくば、是れ天命なるべし。仔細を述べず権勢を恐るゝは、後世の嘲り今時の恥辱、何事か如かんやと宣へば、諸卿尤と同ずる所に、前関白師嗣公曰く、重賢卿の申状至極せりと雖、オープンアクセス NDLJP:135道理の前に無理なく、無理の前に道なしと、先賢の教戒なれは、理非の及ぶ所にあらず。只補任を書替へよとて、正五位下左中将に書直して、前の補任は、弁官の誤りて書きたる由をいひて、翌日勅使将軍の御前に参りて、件の旨述べらる。将軍仰せらるゝは、弁官誤り書くべからず。其誤る所を聞かんと宣へば、勅使対ひて曰く、凡そ叙爵は、摂家は正五位下、其外は清花たりと雖、皆以て従五位下なり。此故に御当家は、摂家の外たるに依つて、以前従五位下に書きたるにてぞあるらんと申されければ、将軍又仰せけるは、強ひて摂家の外、皆従五位下にてあるべからず。承久年中佐佐木の信綱大功を励ますの時、後鳥羽院より、従五位上の永補任を給はり、彼家代々嫡領元服の時、奏聞を経ず、直ちに従五位上に任ずるなり。

頼云、後鳥羽院は後堀河院を誤るか、いかにも杜撰なり。従五位上の永補任とあるもいかゞなり。

即ち元服して、此官位に任ずる事、公家武家眼前知る所なり。永徳〔〈永和カ〉〕元年の春、行幸を申請くる時、左衛門督〈左京大夫カ〉〕満高十三歳にて叡覧に入る。時に先帝満高が家の永補を聞召し、摂家の下清家の上たるべしと勅諚なり。

頼云、此説甚しどけなし。按ずるに斯る愚説をなすは、佐々木六角家を贔屓せる野僧などの作なるべし。

三十巻系図には、左衛門督に任ずることなし。
云、先帝は即ち後円融天皇なり。
云、永徳元年満高十三歳とあるによるに、満高は応安二年に生る。義詮は貞治六年に薨じたたれば、これは前二年なり。満高を生むべき理なし。因つて按ずるに義満、満高を以て舎弟とするか不審なり。若しくは永和元年の誤なるべし。

是れ彼家武家たりと雖斯の如し。是れ諸卿の能く知る所なり。依つて之を思ふに、あながちに摂家の外、なべて従五位下と覚ゆるも、辟事なりと仰せければ、勅使赤面して退去せり。今将軍家の若君を、正五位下左中将に任ぜられ、禁色昇殿を聴されければ、摂家に同じ将軍の台命の如くなりとて、弥武家繁昌なり。

オープンアクセス NDLJP:136
頼云、五位にて禁色昇殿いかゞ。

是れ皇孫の故なりとて、大小名之を祝し奉る。諸公家并門跡方、唯日本の皇統は武将なりとて、毎日出仕の有様、見苦しかりし事共なり。余りに今度の御事影とて、京童の諺に、公方様の王なりの御祝とぞ申しけり。

頼云、公方様といふに付きて、斯る説を添へて尊げにはしたるか。又は斯の如く思へるにやあらん。当時の足利氏の勢を、野僧などは斯くも思ひしなるべし。

是より愈衰へて、大中納言の人、武家の布衣の士よりも、会合の様劣りて、陪臣の大身よりは猶劣れり。其代の落首に、

   今よりは大内山の山よりも木こり水くみ世を渡るかな

或真儒の人之を難じて曰く、武家の威強くなりて、諸人皆今日の富にめで、位あるは却つて賤まん。此時にこそ貴賤の品なく、智も徳もなく、富めるを以て貴まん。後世の武将仁義を守りて、君を君とせば、国平に民安く子孫永く、君の御後見なるべしといへり。

 
足利治乱記巻第二
 
 
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足利治乱記 巻第三
 
 
前将軍義満公任太政大臣公家噪慣の事
 

同月廿一日未だ将軍家には、諸国よりの祝儀にて、日々酒宴のみにて、御一門他家の隔なく会合にて、日月と同じく、御当家尽きじと言合へる最中に、大御所義満公の御一言を以て、禁裏大に噪憤の事あり。其故は、義満公伝奏を以て申させ給ひけるは、義満既に職を義持に譲り、武家の裁断を執らず。足利義満横暴此上は太政大臣に任ぜられんこと大望なれと仰せければ、諸卿残らず参内して、旧記を勘へて曰く、武家相国に任ずること終に例なし。平相国清盛之に任ずる事、雅意の振ふ所、是れ例とせず。弓削道鏡之に任ずる事誠にはあらず。

頼云、弓削道鏡太政大臣に任ずること実にあらず。

源氏の長者も、武家之に任ずること例なしと雖、将軍一方の源家たれば、是非なく之を掛けらる。誠に無念といふべし。極官の事如何とありし所に、斯波・細川・畠山・六角・山名を以て五摂家とし、土岐・赤松・仁木・京極・大内・一色・武田を七清花とし、其外の諸大名を其姓に任じて、菅家・江家の式とし、或は橘清中の伯を以て、其家々を立てて諸卿とし、陪臣の名高きを以て武家とし、鎌倉の管領氏満を以て将軍とし、武道を正さしめ、義満道に賢く、仁義を糺し文道を発さば、是ぞ聖帝ともいひつべし。吾は是れ清和の末なれば、非理の道にあらじとて、以の外に御不予にてありければ、堂上の面々之を聞きて、気を失ひて十方なき所に、既に公家の領地を押へて、誰某に給はるなど聞えければ、関白殿下より、満高朝臣を密に招請し給ひて、和解の儀を談ぜらる。満高の曰く、何の品にも、義満公の相国の御望を遂げられずんば、叶ひ難かるべしとありしかば、関白経嗣公即ち皇聞に達せられ、安き事なるべしとて、同月の廿五日に、太政大臣の補任を書出されて、天下の大事、一時に解けて氷居し、大内山もオープンアクセス NDLJP:138俄に長閑くなりて孟春の如く、諸卿降る雪を詠めても、また来春の花かと疑ふ計なり。今年義満公みそぢ余りよそぢに近くして、相国の御事は、例なくぞ侍る。同日禁中には、今出川の公忠は右大臣を辞して、子息の大納言実直卿に譲らる。源の内大臣善成は内府を辞して、花山院亜相通定内府になる。是れ皆権門を恐るゝ故なり。廿六日義満公参内、諸卿皆蹲踞するなり。諸大名在京の面々残らず供奉たり。其行粧寔に厳重なり。相国献上の実物夥し。国光御太刀・綾百巻・白銀一千両・虎皮十枚・五色の糸三十斤、仙洞へ白銀一千両・白綾五十巻・御太刀、次に摂家親王家及諸公家中へ白銀一万両を給はる。家に依つて綾を添へらる。廿七日には天下の牧伯嘉儀を奉る。正月には白馬の節会、義満公内弁を御勤行なり。卯月若楓を叡覧に備へらるべしとて、義満公の御館に行幸なり。又八日の間御止宿なり。此の間の御饗善尽し美尽せり。前代未聞といへり。同年六月には、功成り名遂げて身退く金言を思召して、義満公太政大臣を辞退ましける。誠に勇あり義あり材ある武将とぞ申合へり。足利義満落飾依つて久我具通太政大臣に任ず。同月廿五日には、前相国義満公御飾を落し給ひぬ。御年は三十八歳なり。現世の本意を遂げられて、早く菩提の直路に入り給ふ事、難有き御事なり。道号は天山御法名は道義と申奉る。是より所々の山々寺寺御参なりぬ。又比叡山御登山などは、偏に其御有様行幸に異ならず。准三后の宣旨を蒙らせ給ひ、道義公参内の御時は、禁中に御便宜所とて、御休息の殿あり、之を禁中の上下、小御所とぞ申合へり。諸卿残らず道義公の御参内の時には、月卿雲客皆庭上に下りて蹲踞す。其中に道義公に御懇の面々は、昵近の衆と称して、禁中にて小肱を張りて、傍に人なきが如し。今様とて衆人の品あり、烏帽子装束に至る迄、公方様とて用ふるなり。何事によらず、武家の製法のみ正しくして、古法を守る人は、時を知らざるえせ者なりとて笑合ひけり。家々に記録する所も区々にして、此時より公家の格式は廃れり。

 
前相国義満公北山別業御建同御移の事
 
同四年の春正月中旬より、北山の麓なる西園寺の領地を、前相国義満入道道義公御オープンアクセス NDLJP:139隠居として、西園寺殿には、河内国にて多くの領を与へられて、既に御普請の奉行十六人下頭の衆廿人、大和・河内・和泉の御家人等御役たり。唐の倭の珍しき材木を以て、巧は古往今来本朝の見物なり。金泥を以て悉くたみたれば、京童共之を金閣とぞ申し奉る。金閣寺造立殊の外急ぎ給ふに依つて、夏初には悉く成就して、四月八日に道義公、室町殿を当将軍義持公へ御譲ありて、北山の別業に御移徙なり。在京の大名小名は残らず供奉す。華やかなる行粧は、譬へん方なし。公家武家参向して、門前に市をなす。道義公天下の奇物を集められければ、古代の書図奇物、国々より集めければ、物として御心に叶はざる事なし。或時は又新しきを用ひられて、金銀を鏤み、後代の見物に残されんとて、巧み作らせ給へば、日本の器物は、此御代を以て後世の手本とせり。斯くて道義公御隠居ありしかども、天下の事大となく小となく、皆北山殿の御沙汰なり。今世天下の政の次第、北山殿より御掟の条目には、斯波・細川・畠山を以て三管領として、替々に之を勤め、六角満高を以て義持の御後見とし、山名・赤松・土岐・京極などを以て四職とし、是れ侍所なり。其嗣を所司代といひて、此人々の評定を以て、天下の万事を執行す。日々に武門繁昌して、摂家親王たりと雖、皆以て公方家の御護に帰して、御諱字を申請けて附けられしかば、かたへの公卿なんどは、武家の小名より会合の様は劣りける。家々の文書も改めて、武家の高家は、摂家の家より高し。
頼云、武家の高家、足利氏の一族をいへり。

依つて朝鮮国王よりも、日本の武徳を慕ひて、勅使を立てらる。朴敦之といへる将軍日本に来りて、種々の実物を捧ぐ。四方の国々、皆道義公の徳風を仰ぎて、来伏せずといふ事なし。実に難有かりし仁徳なり。

 
鎌倉管領従三位氏満御他界の事
 
同五年夏の頃より鎌倉殿〔〈氏満〉〕御不例に依りて、京都より医者三人下向して、種々の療治なりしかども、少々験は御座あれども、又元の如くになりて、頼なく聞えさせける。良医秘術を尽しけれども、少しの験だになし。鎌倉殿御子四人、此内一人は姫オープンアクセス NDLJP:140君にてまします。君達深く御歎きありて、国々の神社へ御祈祷をかけらる。別して若宮八幡宮・鹿島・香取・上下諏訪・富士・箱根へは神馬を奉らる。嫡子満兼朝臣は、自ら願書を調へて、件の社々に奉納なる。然れども定業不転の故にや、終に十一月四日、氏満卿他界ましける。足利氏満逝去東国の大小名鎌倉に集りて、御別を悲しむ。御年は四十二歳、武算未昌の御事にて、吁惜哉。東国の棟忽ちに折れて、御一門并に恩顧深き輩は、暗夜に灯を失ひ渡に棹を取放ち、澳中に梶を折りし如くにて、十方を失へり。執事上杉朝宗、若君満兼を補佐して政事をなす。五日の夕方には、御送葬なし申す。昨日までは東国の武将、威を東国の水に輝し、今日はあたし煙の空に消えて、人間浮生の有様儚き習とて、心なき田夫迄も、麻の袂を湿らしけり。御別称は永安寺殿とぞ申しける。氏満卿の二男満直は、奥州の管領として、之を篠川殿といふ。然るに将軍より、上使東国に下向して、御悼の御歌あり。執事上杉に御教書を下されて、弥東国の御沙汰厳重なり。爰に上杉、東国の大名を集めて評定して曰く、京都将軍家の三管領四職に準じて、関東にも其沙汰あるべしとて、鎌倉殿を推して将軍と崇め、上杉を以て管領として、千葉・小山・長沼・結城・佐竹・小田・宇都宮那須を以て、関東の八家と号し、大となく小となく、此八家の面々評定して、上杉を以て決定主とす。京都より御下知の事も、度々背く事ありて、終に天下に両将軍あるが如し。京都には将軍家を背きて、度々逆乱の事あれども、関東には、八家の面々互に制詞をして、万事式目を守る故に、国豊にして万民悦び合へり。偏に八家の面々、私欲の心を去つて人を恵む故に、今日安楽をなすとなり。都て八家の面々無学短才にしては、衆人の非を糺し難しとて、敬書〔〈経書カ〉〕を誦読し、己が非を知る故に、日々智仁勇の三相を兼備したる士も多し。平侍の中にも道を好み、我が敷島の道に心を入れたるものをば、倍臣たりと雖、之を称して禄を与へければ、一能なきものなし。或仁徳深き人の曰く、必ず後世天下を得る者は、東国より出づべしといへり。
頼云、後世天下を得る者は云々、足利氏当時の辞にして、織田・豊田・徳川氏の時にあらず。関東の無事なるよりいへるなり。後世元和の頃に至りて徳川氏を指して、関東の者といへるにはあらず。
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大内介義弘御退治の事
 
応永六年九月八日より、南天に客星出現す。依つて陰陽頭有世勘文を捧げて曰く、太白と災惑と合する時は、九十日の中に、必ず大兵乱発して、大に戦ひ、血を巷に灑大将軍一年の内に地を替ふべしと云々。依つて諸社の奉幣あり。斯くて上下の心危き中にも、予て用意の事なれば、相国寺七重の大塔供養を遂げらる。
頼云、相国寺供養は、明徳三年八月廿八日なり。

神代の古法なれば、鷦鷯の先祭を先行せらる。是は天下草創或国家不平の時、必ず行はるゝ事なり。

頼云、江源武鑑には鷦鷯の御伝とのみあり。

満経朝臣家例なりとて之を勤む。鎌倉の管領は、執事上杉刑部少輔を上せらる。然るに同年十月三日に、大内左京大夫義弘入道、将軍を恨み奉る事ありて、筑紫中国の兵を相催し、大内義弘兵を起す本国周防の国を打立ちて、和泉の国境の浦に上着し、家臣平井新左衛門尉を使節とし、将軍家へ御案内を申上ぐる。是れ内々野心のある故なり。之に依つて青蓮院の門主より、伊予法眼を以て、色々御仰の儀ありつれども、大内介曽て以て承引の儀なし。同廿七日には、将軍家より絶海和尚を御使として仰遣さる。和尚堺に下向して、上意の旨を再三述べらる。大内介入道御返事の儀、如何申上ぐべきと、家門の面々に内談す。新介は、急ぎて上洛あるべしといふ。平井備前守も之に同ず。杉豊後守は、然るべからずといふ。入道此儀に同じて、条々御返事を申さる。其条、目に曰く、第一には九州一統して御敵となり、数万騎の兵を以て、中国へ打入るべき由御耳に達しける節、爰に探題今川伊予入道了俊、五百余騎にて馳向ふと雖、微力にして渡海に及ばず。其頃某十六歳にて、四千余騎の軍兵を率ゐて、今川に力を合せ、九州に押渡り、廿ヶ年の内に廿八ヶ度合戦して、終に彼逆徒を攻亡し申す事。第二には山名陸奥守氏清、京都を攻め奉らんが為に、小林修理を先陣として、七百余騎にて上洛せし時、某僅に三百余騎にて即時に馳向ひ、合戦して小林を討取りければ、陸奥守氏清も勇力疲れて死亡に及びぬ。依つて其の賞地として和泉・紀伊両国を給はオープンアクセス NDLJP:142り、又第三には、南朝と御和睦の事を調へ参らせ、即ち三種の神器を当朝へ移し奉りし事、御内意の事は、六角満高朝臣才覚とは申ながら、偏に某が功にあらずや。第四には、去々年愚弟伊予守・同六郎を大将として、五千余騎の軍兵を以て、小弐退治の為に、九州に差下さるゝ所、小弐・菊池・千葉・大村以下多勢に依つて、退治延引の間、某も罷下り、不日に之を攻伏せ畢ぬ。然るに後日に承れば、某を御退治あるべきの由、菊池が方へ仰下さるとなり。加之和泉・紀伊両国の事も、召上ぐべきとの事。第五には、小弐退治の時伊予守討死す。然れども其子共、未だ恩賞にも預からざる事。条条の旨此の如し。絶海和尚申さるゝは、自余の儀は存知せず。小弐退治の時に、宗間が計略として、京都の仰の旨と号し、九州の兵を相催しけるとなり。廿八日に、絶海和尚上洛して、義弘が申条、委細に言上せらる。又来月上旬、関東と同じく上洛すべきの由なり。依つて将軍家より、大内介押の為に、軍兵を差下さる。細川右京大夫頼元・佐々木六角満高・同治部少輔入道・赤松上総入道、都合三万八千余騎、和泉国に発向す。十一月八日には、将軍義満公御進発、御馬廻衆一万三千余騎なり。其日は東寺に御陣を据ゑらる。相従ふ大名当管領・同子息尾張守・前管領子息左衛門佐・吉良・石堂・吉見・渋川・一色・今川・土岐・佐々木・武田・小笠原・富樫・河野、都合十三万七千余人なり。同十四日には、八幡に御陣を据ゑらる。同日諸大将、八幡の御陣より、泉州へ発向す。大内介は、御退治の勢の向ふと聞きて、石津村に打出で、北方に向つて拝礼をなし、君臣の礼儀畢りて後堺に帰り、合戦の次第を評定に及べり。新介が曰く、河内の高良山を打取り、東条土丸辺に陣を取らば、堺の浦・清水浦・中国船の通路、其便あるべしとなり。杉豊後入道が曰く、船に乗り尼ヶ崎に上り、八幡の御陣に懸りて、合戦すべしとなり。義弘入道此儀に同じけるが、平井某が曰く、堺を打捨てゝは、和泉・紀伊の国人数、京方に参るべしとなり。義弘又此儀に同じ、堺に城を構へて楯籠る。其勢一万五千余騎なり。城中の広さ四万十六町なり。勢楼千七百廿五ヶ所なり。義弘先づ僧を招き集めて、葬礼の儀式を調へて、一七日の仏事を経営す。次に周防に残し置く七旬に余れる母公並に弟六郎方へ、形見の文を送る。次に千句の連歌を興行し、其後酒宴乱舞、最後の遊楽日夜絶えず。其次に合戦の手分なり。杉オープンアクセス NDLJP:143九郎に、千騎にて森口の城にて、今川・結城と合戦しけるをも、杉備中守が、百舌山にありしをも呼返して、堺の城に一所に集るなり。十一月廿九日には、合戦既に始りて、海上よりも、四国淡路の海賊百余艘にて詰寄せぬ。伊勢国司北畠源大納言の子息少将三千余騎、合戦し討死しけり。戌の刻に及びて、両陣互に引退けり。土岐宮内少輔・池田周防守両人、大内介が方人して、美濃国長森に立籠ると聞えしかば、土岐美濃守濃州に馳下りて、彼と合戦す。両人打負けて引籠る。又山名陸奥守嫡子宮田某も、大内介に同心し、千三百人にて追分を打越ゆる所に、小番衆二頭、両陣を張りて待懸け合戦す。此時の戦に萩野源左衛門、佐々木家の小倉陣に懸りて戦死す。宮・上野・今川・奈古屋討死す。勝俣遠江守は、奈古屋と一所に討死す、宮田は人馬に息を継がせん為に、引退くなり。京極五郎左衛門、大内介が方人して、森山に打出でしが、江州より注進しければ、六角右京大夫満高、八千余騎の討手を堺より差下すと聞きて、土岐宮内少輔と一つにならんとて、美濃国に越ゆる所に、垂井にて一揆に討たれて、主従二騎になりて、行方知れず落失せぬ。十二月廿二日卯刻に、誠の矢合なり。寄手の方より、大なる三毬杖を作り、之に火を付けて、城の櫓に倒しかけて之を焼く。之に依つて城門破れて、城方の兵多く討死す。杉備中守は、北の手山名民部大輔陣頭にて討死す。時に富田尾張守、大内介を諫めて曰く、海路を経て中国に引退き合戦せば、味方五年十年防戦するとも、苦しかるまじ。当手を引払ひ然るべしといふ。大内介承引なし。爰に大内方の若武者に、紀伊国の住人富田某、管領方に降参す。之に依つて諸手、分れになりて敗走す。大内介義弘は、管領の陣にて森民部と合戦し、民部丞を討取りて、尚も勇勢を励して、万兵を風の下の木葉の如く追払ふ。大内介今日を最後と戦へば、重代の家人、大内代々の働は今日にありぬ。首を取る事なく、当るを幸に打廻れば、京方の兵、数を尽して討たれけり。義弘に向ふ程の兵、討たれずといふ事なし。然れども多勢荒手を入替へ、攻詰め戦へば、大内介義弘廿九ヶ所手を負ひて、流るゝ血は蒼海の如し。之を最後と覚えける時に尾張守が陣へ駈入りて、手を開げて京方の兵を攫んで、二丈計投げ捨て、鎧を寛ぐ間なければ、馬上にて一尺八寸の打刀を以て、大内義弘戦死逆手に取直し、口より腹に差通し、馬の鞍壺まで突オープンアクセス NDLJP:144立て死しけり。乗つたる馬耐へず馳廻れば、義弘又駈出づるはとて、多くの兵、蜘の子を散らすが如し。見苦しかりし事共なり。死せる孔明、生ける仲達を走らしむといふは、異国の物語、諸人目に見る事は、古往今来義弘に過ぐる武士あらじとぞいへり。然るに杉豊後守は、南の陣にありけるが、十方に変化して戦ひしが、遂に討死しけり。厳島神主は、南方細川・赤松が手に降参す。大内新介政弘は、腹を切らんとしたりけるを、平井某頻に意見をして、降参させけるなり。楠は二百余騎にて大和路に懸り、行方知れず落失せぬ。菊池肥前守も、行方知れず落失せぬ。夜明けゝれば、堺の町屋に火掛けて、一万三千家焼失す。不思議の事変に懸つて数代堺の津に集め置きける財宝、悉く此時失せけるとなり。

 
足利治乱記巻第三
 
 
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足利治乱記 巻第四
 
 
北山殿行幸の事
 
応永十五年戊子正月下旬の頃より、前の相国義満入道道義公、当春北山の花、叡覧に備へらるべしとて、北山の所々に新殿を十三ヶ所構へ、天子御座の殿をば、八棟に作りて八龍を立て、金色に彩りたり。足利義満驕奢御殿の西北の二方には、早咲の桜を並木に植ゑさせ、其間の庭には、五色の沙を鱗形にしき、其中に金銀の作花を蒔散らし、其縁を銀の筋金を入れたり。扨亦御殿の天井は、唐木を以て組合せ、其間々に金沙を蒔入れて、其上に宝尽を金銀を以て彩り、琉璃・珊瑚・現珀等を以て彫入れたり。御座の畳は、錦を以て之を包む。御座の四方の角の上には、金網をかけて、其中に銀の香炉を入れて、御幸の前の日より、二六時中に銘香を炷く。外の縁三重の端、木綿を以て之オープンアクセス NDLJP:145を包む。其外官女の局々、総金の花尽し張付けたり。青壺の器に香を炷き、殿と殿の渡殿には、作物漢家本朝の差物を尽せり。庭々の草花・立石・敷石色々に、傍に夜のおとゞの作りやう、言語の及ぶ所にあらず。又御水やりの間御清め所、皆蒔絵の菊桐の金具一として欠けず。御清め所と申すは、御止宿の間、御供を調ふる所なり。其器皆以て之を用ふべきの為なり。其外十三ヶ所の御遊の殿、或は春夏の殿・秋の殿・冬の殿、皆色絵を以て其季を学ぶ。其一殿の器物、時に相応の品なり。間々の道々には、白石青色、色を替へ之を敷けり。十間に一つ宛御手水の器あり。或は青色を以てし、又金器銀器のある所もあり。其道すがらの諸木花を交へて、さながら極楽世界ともいふべし。其道々の傍に、小弓の場・鞠の庭・手玉の庭・女取の場、其外広き地には、女楽童形の物の上手を、錦の幕を張りて、舞台を飾りて、秘曲を尽させり。香の薫は吹風に連れて、さながら天上の楽も、人間界にあるかと疑ふ計なり。二十間に一つ宛御休息の床木を作りて、虎皮を以て上に敷き、之を龍に作る。其足の下に銘香を性けり。扨又木々の梢に鈴をかけて、目に見えず、物の音幽に聞えて、天人の此土に下り、菩薩も此に影向し給ふかと思ふ計なり。御遊の地の一所々々、善尽し美尽せり。後なる衣笠山には、所々に埋火の香を炷きければ、此山の万声を唱ふる香気、西山北山は申すに及ばず、洛中まで、風に引かれて薫来る。天下の花を集めたれば、早咲後咲の色を交へて、さながら錦を晒すかと疑ふなり。誠に衣笠の山の名に合ふ気色なり。近国の諸大名は、禁中より北山までの道々を固めて、倍臣一間に一人宛、敷皮の上に踞れり。北山殿行幸既に三月八日、北山に行幸なり。当関白経嗣公以下の公卿百二十余人供奉せり。北山殿は法衣を召され、金銀珊瑚を入交へたる念珠を持ち給ひ、末の若君義嗣を従へて、北山の総門に出で給ひ、行幸を迎へ奉る。十余日の間御止宿たり。其間管絃の御遊両日、和歌の御会も両日なり。其座席は、御製の次に、前将軍入道義満公、其次に源義嗣、其次に関白藤原経嗣公以下の諸卿なり。今日義嗣正五位下左中将に任ぜらる。大名の高家細川・畠山・斯波・六角・一色・土岐・大内を以て、公卿の内大納言と同席なり。今の座次を以て末代の掟とせり。
頼云、武家公家の座順の事は、当時此の如くなるべき歟。公家の昵近衆の事をも思ふべし。
オープンアクセス NDLJP:146今度行幸の事は、北山殿末子の義嗣を愛し、行幸を催し、関白より座上に義嗣を直して、大名の高家を以て、武家の高家の下官にも、威の高きことを知らせんとの事にや。是れ只常将軍義持を疎まれて、末子を愛せらるゝ故なり。天下の奇物を集めて、同十五日には、道義公の花見の亭に、御座を移し奉らる。今日は物の音もなし。只天下の銘物を叡覧に備へらる。其御座の間は、五間四方にて四方を表とし、其真中に御座所を構へたり。高座の如くにして、南面に構へ、東と西と両方に御床を構へて、盆山を飾れり。東には、士峯石銀砂を以て、金珊の盆に居ゑらる。此宝石は、昔夢窻国師幼少の時、感得せられし銘石なり。至つて小石にして、富士是れ一拳の中に握るが如し。此石我朝に盆山を用ふるの始石なり。満高朝臣家伝しけるを、道義公召寄せて、叡覧に供へらる。西の床には、月岡山といふ宝石を、金砂を以て、紫金の盆に之を盛れり。此石細川家伝来せしを、今度の御晴に捧げける宝石なり。其高さ四寸余、下の広さ八寸余、誠に類なき貌なり。此石は北条の高時、絵の島にて感得したる石なりといへり。其外静が持ちし小長刀、宗近が作なり。佐々木の綱切丸、能登守教経の青海丸。扨又御当家累代の篠作、畠山清丸并雲山宝壺、一色家虎骨丸、六角家の甚宗の実壺并龍尾。扨又御所の御秘蔵と聞えしは、八幡太郎義家より御伝の、飲見といふ甲冑、其外漢家本朝の名物、此時一も出でずといふ事なし。依つて多く記し洩らすなり。
頼云、相国寺供養記、綱切丸、満高之を佩くとあり。

天子御感斜ならずして、満高朝臣の士峯石を殊に御自愛ありて、一句を遊しける。其語に曰く、扶桑至宝士峯石、人間奇翫甚如之と、宸翰を染められしかば、公卿殿上人、思ひに尊句を和し奉る。抑此満高朝臣は、北山殿御同腹の御舎弟なり。然れども神伝に依りて、襁袍の中より他家に移れり。今日昇殿せられける。殊に彼家の面目とぞ申しける。

頼云、昇殿の事、三十巻系図に此事なし。

今度行幸の有様、本朝開基以来の勝事なり。四月上旬には、道義公の御末子義嗣、内オープンアクセス NDLJP:147裏にて御元服なり。其儀式親王に準ずとなり。同日に参議従三位に叙す。中将は元の如し。御年十五歳なり。公武の祝し申す事、勝げて計ふべからず。鎌倉よりは、太田豊後守を上洛させ、管領の祝事あり。誠に御当家の繁昌、日に新なりといへり。

 
北山殿御他界の事
 
同年四月廿一日より、仮初に北山殿御不例にて、諸人さまでの御事とも思ひ奉らざりしに、日を重ぬるに随つて、御心よからず御坐ありしかば、御一門の人々并に御近習衆、日夜に北山に詰められけるが、或者申しけるは、天下武将御命乞には、江州佐佐貴神社に祈申さるれば、必ず延命なりといへるとあれば、即ち義持公より申入れられけるに、大御所義満公仰せけるは、愚なる申やうかな。凡そ人間の命限りあり。多賀大社は延命の神なり。佐々貴社は、天下草創の社にてこそと仰せければ、当将軍義持公の曰く、神代の記を見るに、最草創の神にて、中にも国の柱を立てゝ、諸の病を治せる神徳は、此神に如くはなしと仰せければ、大御所聞召して、義持公の御勘弁、さこそと御納得ありて、御舎弟六角右京大夫満高朝臣に仰せられて、同廿八日より、彼社に於て御抜の事あり。
頼云、佐々木社は大己貴神と聞えたり。

伊勢八幡は申すに及ばず、諸寺諸山の御所は不勝計。忝も当今は、自ら内侍所に御出ありて御神楽あり。又勅使廿一社に立てらる。難有かりける次第なり。毎日勅使北山殿に向はる。大名小名、一人も残らず日夜参向す。其外地下人の、人に知られたる程のものゝ、北山に参らぬ者なし。定業は、三界の独尊も孔老の大賢も、遁れざる所なれば、足利義満逝去終に五月六日に、公方御他界なり。武算は五十一歳、御位階は太政大臣従一泣准三后なり。後小松帝御准子にて、武将を公方と申せしも、義満将軍よりぞ始めけり。辱くも諡名を賜らせおはしまして、鹿園院殿天山公とぞ申奉りける。御送葬の次第多きに依つて、記すに遑あらず、殊に厳重なる事共なり。勅使本寺へ向ひ給ひて、太上天皇の尊号を授けらる。然りと雖、当将軍義持公より、堅く辞退し給ひて、応安元年には征夷大将軍になり給ひて、応安二年には御出家なされ、天下の事オープンアクセス NDLJP:148一として、御心に叶はずといふ事なし。御治世は四十一年、御一生の昇進、誠に古今にためしなし。同廿日には、御遺物として、月岳山の宝石不動真剣といふ御太刀を、天子へ捧げおはします。扨北山の別業をば、御遺言として、君達なれば、義嗣公へ譲り給ふ。然りと雖、義持公御家督なれば、義嗣公の心に任せず、御中陰の内にも、天下二人の様に、北山奉公の人々思ひ申すに依つて、管領斯波義将入道勇力を励まし、義持公を輔佐し奉るに依つて。指さす蔭の言も失せて、洛中静謐なり。十一月上旬より、将軍義持公、御代替の御証文を出さるゝなり。管領斯波右兵衛督義重押判、飯尾常広之を奉行す。十二月には大明国の成祖皇帝より、勅書を以て、義持公へ送り、尊霊義満公の御事を甚だ弔ひ、祭文を作りて恭献王と諡す、義満公御在世の中、本朝はいふに及ばず、人の国まで、御徳光り輝きて、四方の国、一として随はずといふ事なし。

 
鎌倉殿満兼卿御逝去の事
 
応永十六年三月上旬より、鎌倉殿御不例にて、上杉家其外関東の八家衆・小知主に至る迄、悉く在鎌倉す。五月上旬の頃、少験のやうに御座ありしかば、鶴ヶ岡へ御社参ありて、大小名残らず供奉し、皆万歳の声々にてありしが、又翌日より御心よからず、面々色を失へり。依つて諸社へ御祈あり、木戸三河守之を奉行す。所謂伊豆国には、氷川社・三島社・物忌奈命社・阿波社・楊原社・箱根社、相模国には、寒川社・大庭神社、武蔵国には、氷川社・秩父社・穴沢社、安房国には、安房社・玉前社、上総国には島穴社、下総国には、香取社・宮沢社・結城社、常陸国には、鹿島社・静社・吉田社、稲田社、上野国には、貫前社・伊賀保社・赤城社、下野国には、二荒神社・大神社等なり。此廿二社は、鎌倉殿御代々、御崇敬の社なり。然れども定業は、三界独尊も免れ給はねば、力なくして、次第々々御不例重くして、足利満兼逝去七月廿七日に、武算三十歳にして、逝去ましける。御嫡男持仲朝臣・持氏朝臣の御悲み、申す方なし。御台所は、両度まで御亡心にて、女房達気を失へり。斯くてもあるべきにあらねば、御葬送なし、又五山の僧、其外東国の諸出家、残らず念誦申すなり。上杉朝宗遁世上杉朝宗は御別を悲み、御送礼の場より、髻を切つオープンアクセス NDLJP:149て直に遁世しける。行年七十三歳なり。一家の人々、尋出でて教訓すれども、用ひずして、終に世を捨人となりけり。東国の大小名残らず喪を着て、前後に御供す。御家督なれば、持氏御位牌を持たせ給ふ。上杉憲定之を輔佐しける。扨又満兼朝臣、御別称を称光院殿仙山大禅定とぞ申奉りける。八家の面々志を合せて、関東静なり。七日々々御追善は厳重なり。将軍家より御名代として、鳥山備前守輔名下向して、東国の政務、先代の如き御内書を、上杉憲定并八家の面々に賜はる。将軍御悼の和歌あり。

   あだし世をあだし浮世と思ふにも〔〈思へどもカ〉〕猶歎かるゝ此頃の空

同十八年三月朔日、鎌倉の海に、夜毎に光ありて、同廿八日白龍長廿丈計なるが、海中より出づる。絵島石穴に飛入る。諸人多く之を見る。是れ弁才天なるべしといへり。鎌倉より委細に言上せり。其外光物度々なりといへり。同年九月には、飛騨国司藤原君纜逆心に依つて、源満高・同高貞に仰付けられて、御退治ありぬ。又鎌倉よりも、上杉刑部少輔定国を、後詰として差遣はさる。同月十五日、東国の執事上杉安房守藤原憲定病死せり。上杉憲定死去仁徳深き人なるに依つて、東国の万民、児子の母に離れし如くにて、諸人歎かざる者なし。憲定の従弟上杉右衛門佐氏憲押立て、諸士の別当として、鎌倉の政を糺す。此氏憲は、上杉朝房の嫡男にて、上杉朝宗の姪なり。氏憲、後に出家して、法名禅秀といへり。又は犬掛の大入道ともいへり。後上杉憲定の嫡男憲基と不和になり、諸事東国の政務乱れて、八家の面々も心々なり。上杉家系抑此上杉一家の根元を尋聞くに、昔日は勧修寺家の家礼にて、上杉三郎重房といひし人、宗尊親王の供奉して鎌倉へ下り、関東に居住しけるが、一家昌栄して、此の如く重房若年の頃より、三千世界の中に、月日より貴き事なしと、己と覚知して、毎朝三礼しけるとなり。重房の子をば頼重といふ。頼重の女清子は、尊氏将軍の御母公なり。清子の兄弟を、憲房・重顕といへり。憲房の子民部大輔憲秋は、憲定・憲基の祖なり。之を山内殿といへり。上杉一家の棟梁なり。憲顕の舎弟弾正忠憲藤は、禅秀の祖なり。重顕の子孫をば、扇谷殿といふ。其外数多分れて、越後にもあり、上野平井に住するもあり、京都に住居せるも多し。元祖重房武命天道に叶ひて、鎌倉基氏卿・満兼・持オープンアクセス NDLJP:150氏に至る迄、上杉家代々家司とし、東国に冠たり。

 
上杉入道禅秀御退治の事
 
応永廿三年の夏、上杉入道禅秀、其職を辞退して、内心に逆心あり。其頃鎌倉の持氏朝臣は、山内安房守憲基をして、禅秀に代つて事を執行せらる。同年の冬十月四日、禅秀入道逆心の色を立て、持氏朝臣の叔父御堂殿満隆と、持氏の別腹の兄持仲を取立て、大将として、持氏を傾けんとするなり。上杉禅秀兵を起す憲基等一家を離れて、度々合戦す。上は御兄弟の中なれば、下は親子の中を分けて合戦すれば、敵味方下が下に至るまで、他人は更になければ、日来知る心の内、互に恥ぢて戦へば、一足も引かずして、武士の本意を顕して、討ちつ討たれつ戦ひける。殊に清白なる有様なり。関東の八家衆、毎度和を入れけれども、終に不和に依つて、八家の人々も、思ひに戦ひけり。度度の合戦に、持氏朝臣勢のみ敗北しければ、十一月廿二日、遂に持氏卿鎌倉を落ちて、駿河国に移りて、今川泰範を御頼みありて、是にて、持氏御使に、今川泰範が使節を相添へて、将軍家へ注進せり。
頼云、度々の合戦覚束なし。

然るに禅秀は、上杉憲基を越後へ遣し、一家を集め兵を催し、一左右待つべしとて、遣し置く。禅秀は運を開きて、思の儘に持仲朝臣を、鎌倉にすゑ奉り、東国の大名を手に付けて、武威を振へり。今年も既に暮れて、昔日に替る鎌倉、春にもなりぬ。然るに持氏卿は、駿州に御越年にて、京都の御加勢を、旦夕に待ち給ひける。将軍家上杉が逆乱を聞召し、時を移さず御退治あるべしとて、佐々木中務大輔信高に仰付けて、一万八千余騎にて、信高江州を打立ちて、東国に下向す。其上吉良某を上使とし、御教書を今川・武田・佐竹・千葉・小山・結城・長沼・秩父等に下されて、御代官信高下向して、下知次第に鎌倉へ攻入るべしとなり。若し違背の輩は、悉く今度の次を以て、御退治あるべしとなり。持氏卿、小山三郎を以て越後に遣し、憲基を御味方にしててだてを合せ、正月廿八九日には、既に鎌倉に攻入りぬ。日夜合戦しける。持仲・満隆并禅秀方、悉く敗北して、残らず自害す。上杉禅秀等敗軍自尽昨日まで黄泉の底までと、忠を励ましける東国オープンアクセス NDLJP:151の大名小名、皆降参して出でし有様、悪まぬものはなかりけり。持氏卿は、二月二日鎌倉へ御座ありて、目出度春とぞ祝しける。上杉憲基を執事として、政務をなせり。同廿八年正月十一日には、鎌倉左兵衛督持氏朝臣、従三位に任ぜられて、御名代として、木戸駿河守上洛す。東国の大名、皆在鎌倉して祝し奉る。九月廿日には、箱根・三島御参詣、其行粧善尽し美を尽せり。

 
足利治乱記巻第四
 
 
オープンアクセス NDLJP:151
 
足利治乱記 巻第五
 
 
小笠原・村上確執の事上杉憲実諫言の事
 
永享八年正月下旬より、信濃国の住人小笠原大膳大夫政康と、同国の住人村上中務大輔と確執の事ありて合戦に及ぶ。村上は連々関東持氏へ奉公あるものなれば、御加勢を請け奉るべしとて、家子布施伊豆入道を鎌倉へ差越して様々申しけるは、明窓和尚御吹挙ありて、色々取成申されければ、即ち御加勢を遣さる旨仰出されける。亦小笠原大膳大夫政康は、将軍義教公の御弓の師にて、殊更信濃国は京家の御下知の国なれば、定めて京よりの御勢下るべしといひあへり。鎌倉より村上方へ加勢として、桃井左衛門佐を大将として、上州兵・武州公・那波上総介・高山修理亮等已に打立ちける処に、管領上杉安房守憲実諫言して言上しけるは、信濃は既に京都の御家オープンアクセス NDLJP:152人なり。彼を御退治ある事、京都への御不義なり。是乱の基なるべし、最以て御遠慮あるべしと、頻に止め申すに依つて、加勢の事延引せり。将軍義持公御他界の時、御継子なき故、持氏卿を呼上せて、将軍を譲り給はんと思召しけるに、青蓮院の御門跡を還俗させ、義教将軍といへば、持氏常に不快に思はれ、次第に持氏我意のみ発りて、毎度京都を攻めらるべき企あれども、管領憲実、毎事諫言するに依つて止みけれども、思内にあれば、色外に顕れて、終に四月十一日、武州榎下の城主上杉陸奥守憲直を大将として、武州本一族打立つべき由、仰付けられけるを、如何なる野心の者か申出しけん。是は信州へ御加勢の儀にあらず、管領安房守を、内々誅伐せらるべき由風聞しければ、憲実の被官旧功恩顧の輩共、国々より馳集る。あはや天下の大事と、皆人肝を冷す処に、同六月六日より、鎌倉騒動斜ならず、上下男女逃迷ひ、資財道具を持運ぶ。依之持氏四〔〈六カ〉〕月七日の夕方に、憲実の宿所へ御出あり、色々仰分けられければ、少し静まりける。然れ共世上危く見ゆるに依つて、管領父子、同月十五日に藤沢へ退き給ひしかども、猶身上安からずとて、憲実の嫡子七歳になるを、密に上州へ落す。是は憲兼・憲直をば、讒言を以て罪なき憲実御勘当を蒙る身に於ては、過なきと頻に申開かれければ、讒言の実否を糺して、同しぎ廿七日に、一色宮内大輔直兼等、三浦へ追下さるゝ。又管領の家にて、大石石見守憲重・長尾左衛門尉景仲、色色讒説を申し出し、公方・管領不和のやうに申しなすの由仰出されける間、景仲・憲重、山内殿の御前に参り、我々在鎌倉仕る故に、御屋形のために御大事ならんに於ては、早々下向仕るべしと、頻に申上げければ、管領宣ふは、たとひ両人下国致すとも、身上無為たるべからずと見えければ、扨やみぬ。同じき八月十三日、持氏憲実の屋形へ御出ありて、色々宥め給ひ、管領政務の事、元の如く仰付けられける。謹んで再三辞退申されけれども、強ひて仰付けらる。然れども武州代官にも、判形を絶えず、万事薄氷を踏む如く、苦笑にて其年は暮れぬ。明くる永享十年六月十一日吉日なりとて、持氏の若君賢王丸殿、十三歳にて御元服あるべしとて、御祝の用意善尽し美を尽せり。管領又諫言されけるは、代々鎌倉の御所、御元服ありしには、皆京の公方様へ御使を上せられて、一字御申請ある事なれば、某が弟にて候上杉三郎重方を上せ侍らオープンアクセス NDLJP:153んと申しければ、此条曽て以て御承引なくして、御名字をも、鶴岡の八幡にて御付けある。是は遠き例を以て、御先祖義家の御冥加にあやからせ給はんとて、自ら義久と名乗り申されて、彼御祝儀として、国人ども名字をさして召されける。就中一色直兼・上杉憲直等も、御免許を蒙りて、召帰されけり。万づ目出度かりける其間に、いかなる天魔か申出したりけん、御祝儀の時、憲実出仕の節、殿中に於て誅すべき由聞えければ、憲実は虚病して出仕もせず、舎弟重方名代に出仕しけり。是より弥管領、鎌倉殿を恨み申して、永く御敵とはなりにけり。持氏も是を聞召し、房州無実の讒を信じて、吾を恨む事短慮の至なり。然れば若君義久を、憲実が宿所にひき奉るべし。此上は何の遺恨あるべからずと仰下さる。憲実畏り、辱き由申上げ諸人も喜悦の眉を聞き、安堵の思をなす。斯りける処に、若宮の社務尊仲密に参り、此条然るべき事に非ずと、色々讒言しければ、若君終に憲実の屋形に移り給ばず。依之弥憲実、君を恨み奉る。足利持氏上杉憲実不和誠に不快の念、歎きても余あり。此世の中さてとぞ見えし。長尾尾張入道芳伝、同八月十二日御前へ近く参りて、只憲実宥めさせ給ひて、世上無為になさるべき由、再三諫言申上げけれども、曽て以て御許容なし。其後上杉修理大夫持朝〈于時弾正忠〉千葉介胤直一味同心して、色々管領和談の儀、世上無為になされて然るべしと申上げけれども、御領掌なし。放生会を限りとして、十六日には、武州一族を始として、奉公外様の軍勢、山内へ押寄すべき由聞えければ、憲実大に驚き、身に於てあやまりなくして、御旗を向けられ、御敵になりて討たれん事、不忠の至り、末代までの瑕瑾なり。所詮御糺明より以前に自害して、君の御憤を散じ、忠義を残すべしとて、既に太刀に手を掛けゝれば、一家の面々走り寄りて、太刀を奪ひ取りて、前後左右より警固す。斯りける処に、長尾新七郎実景と大石源三郎重仲、進出で申しけるは、道にもあらぬ長僉議して、頓て討手向けられ、やみと御損命あらんは一定なり。御分国へ御下向ありて、再三歎きて御覧候へかし。相州河村の館へ御開き尤に候。若しさもなく御自害あらば、各吾等、雑人等の手にかゝり、浅ましき死を致すべき事必定なり。同じ失はん命を、御所方の人々と討死して、殿中に屍をさらし、名を万代に残すべきぞや。人々急ぎ大蔵の谷へ打つて出よやとて、血眼になりて、思オープンアクセス NDLJP:154ひ切つたる体に見えければ、憲実是を聞きて、いや某自害したりとも、家子左様にあらんに於ては、憲実が悪名、末代まで遁るべからず。さらば今宵ぞ開くべしとて打立ちける。さりながら河村は、分国豆州の境なり。河村にて申開き得ずして、豆州へ下向せば、上の御悪逆を、京都へ申達するやうに成行くべし。上州へ下向すべし。其用意せよとて打立ちければ、同名修理大夫持朝・同名聴鼻性順長井三郎入道・小山小四郎・那須太郎以下、一味同心の大名ども、上杉憲実上野に遁る同八月十四日戌の刻に、山内殿を出づる処に、爰に不思議の事あり。光明赫奕たる日輪の如くなる物一つ出現して、憲実が馬の上に掩ひければ、諸人大に驚き、希代なりと訇り合ひける。是唯事にあらず。氏神春日大明神の、行末守り給ふべき御霊光なるべしと、上下祝ひ合ひて、御運開かるべき事疑なしと、頼もしく思ひけり。
 
三浦介逆心の事
 
去程に武州一揆ども馳集り、雷坂に陣を取りて、憲実を待かけたり。管領の勢ども是を聞きて、何ほどかあるべき、蹴散らして通るべしと、各甲の緒をしめ、旗の手を下しければ、管領堅く制し、いや然るべからず。某下向する事、罪なき処を申開くべき為なり。御勢に向つて弓曳くべからず。あなたより打つて懸らば、力無し、合戦すべしと、強ちに下知せられしかば、何れも力なく、皆怒を押へて対陣す。一揆の勢も、管領の猛勢を見て、叶はじとや思ひけん、其夜雷坂の陣を引払ひて、散々になりにけり。扨こそ道を開いて、憲実上州へ下りける。鎌倉へは、宗徒の兵馳せ参じ、憲実の下向の事如何と評定あり、或は尊宿貴僧達を御使として、下向の仔細を御尋尤なりといふ義勢もあり、又は召返して、宥め給へと申す族も多かりける。然れども是を次に追討すべしとて、其夜両一色直兼并に同名刑部少輔家を大将として、御旗を給はりて、同十五日夜半に、其勢二百余騎ばかり、路次の人数を狩催し、上州へ下向す。持氏卿は同十六日未の刻、武州高安寺へ御動座なり。御留守警固の事、先例に任せて、三浦介時高に仰付けらる。時高近年領地少く、軍兵もなければ、不肖の身として、如何にも叶ひ難き旨辞し申しけれども、厳重に仰付けられしかば、先々御オープンアクセス NDLJP:155意に随ひ申しき。三浦介思ひけるは、先祖三浦大介、右大将家に忠ありしより以来、代々功を積みて、御賞翫他に異なり。然るに御当家になりて、出頭人に覚を取られ、兼々面目を失ふ処、無念に思ひけるに、持氏卿内々勅命に背き給ひぬれば、京都より、三浦介が方へ御内書を下されけるに依つて、渡りに船を得て、三浦介は鎌倉の御留主を捨て忽に逆心して、己が宿所へ帰りけり。十月三日三浦介鎌倉を開きければ、此由早馬を以て告げければ、持氏卿大に驚き給ひて、唯熱湯にて手を洗ふやうにて、誰をか打手に遣すべき由、評定とりなる処に、同十七日、三浦介、二階堂の一族と引合ひて、鎌倉へ押寄せ、大蔵・犬掛等へ今夜掛出で、数千軒の在家へ火をかけたり。鎌倉中の貴賤、上を下へと逃迷ふ。営中変化の有様、申すも中々愚なり。
 
箱根・早川尻合戦の事
 
抑今度京都鎌倉不和の事、起りは持氏卿、関東中の禁中の御料所・京方の所帯等、御支配の事然るべからずと、憲実諫め申しければ、忠言耳に逆ひ、却て憲実を亡されて、御心の儘にあるべしと、思召しける由、京都へ聞えければ、大に怒り給ひ、頓て奏聞ありて、綸旨を下され御旗を賜はり、不日に追討すべき由仰下さる。

綸言偁、従三位源朝臣持氏、累年忽諸朝憲、近日擅興軍兵、匪啻失忠節於関東、剰致是鄙輩於上国、天誅不遁。帝命何又容。早当課虎豹武臣豺狼賊徒者。綸言如斯、以此旨洩入。仍執達如件。

  永享十年八月廿八日 左少弁資任

    謹上少将殿

又御旗には、辱くも帝御詠歌を遊ばさる。

   千早振海中雲之幡之手仁東塵払秋風

次将軍義教公、御教書を上杉憲実方へ下さる。其詞に曰、

従三位持氏依累年積悪、今度達天聴誅伐也。関東牧伯等悉随遂憲実所行、不日持氏以下可伐之者也。

下状仍如

オープンアクセス NDLJP:156  永享十年八月廿九日 御書判

    上杉安房守殿

又三浦介時高并に東国の武士に、其旨を触れ遣す。又上杉中務大輔持房に、御旗を給はりて、海道筋の兵を狩り催し、鎌倉を攻むべしとなり。小笠原政康・今川範忠・武田信重も進発すべしとなり。去程に同九月十日、京都より討手の大勢、足柄・箱根二手に分れて押寄する。箱根へは、横地・勝間多の軍兵ども、伊豆守護代寺尾四郎左衛門尉を案内者として、已に山を越さんとしければ、大森伊豆守箱根の別当是を聞きて、水呑の辺に究竟の悪所ありけるを形取りて、搔楯かいて待掛けたり。箱根山と申すは、四方嶮岨にて谷深く、切岸高く峙ちたり。敵を見下し、吾勢の程を敵に見せず。虎賁狼卒替り、射手を進めて戦ひければ、敵縦令何万騎ありとも、近づき難く見えけれども、寄手は大勢、防ぐ勢は少し。何まで此山に怺ふべきぞと侮りて、掌に入りたる心地しければ、五百余騎皆馬より下り、射向の袖を差翳し、太刀長刀の鋒を汰へて、只一息にかゝりける。大森が兵・箱根の衆徒、石弓を懸け、一度にはつと放つ。数万の軍兵、是に捲り落され、遥の深き各底へ、人馬雪頽なだれをつかせて落重なれば、敵に討たれ死する者少しと雖、己が太刀長刀に貫きて死する兵、数を知らず。大森伊豆守勝に乗つて、短兵急に拒がんと、揉んで攻めける間、石岩苔滑にして、荆棘道を塞ぎたれば、引く者も延べず、返す者敢て討たれずといふ事なし。横地は討死す。寺尾兄弟は、三人共に深手を負ひければ、十方に分れて落行きければ、軍散じて後も、四五日は、山中の草腥くして、血、野草を淋ぎ、尸、路径に横はれり。大手の軍は味方打勝つと雖、搦手の軍勢足柄山を越えて、相州西郡まで押寄すると聞えければ、上杉陸奥守を大将軍として、二階堂の一党宍戸備前守・海老名上野介、安房国の軍兵を差添へて、西郡の敵に押向けらるゝ処に、此人々、同九月廿七日、相州早川尻へ押寄せ鬨の声を合せ、矢一筋射る程こそあれ、大勢の中へ駈入りて攻め戦ひ、魚鱗鶴翼の陣、旌旗電戟の光、須㬰に変化して万方に相当れば、野草径に染み、汗馬の蹄血を踏立て、河水流れせかれて、士卒の尸、忽に流を絶つ。斯りけれども、続く味方もなし。只命を限りに戦ひけれども、目に余る程の大勢なれば、憲直が頼み切つたるオープンアクセス NDLJP:157肥田勘解由左衛門・蒲田弥三郎・足立・萩窪を初とし、一族若党悉く討死し、憲直・海老名終に討負けて、散々になりて落行きける。

 
持氏卿鎌倉御帰の事鎌倉合戦の事
 
永享十年十月十九日、持氏卿相州海老名の道場へ御陣を移され、千葉介胤直は、始より憲実と御和談あり然るべき由、再三申しけれども、少しも御承引なかりけるを、武州府中にて猶諫め申しけるは、始も再三申しけれども、御許容なく候に、又申上る条憚ありといへども、主暴不諫非忠臣也、畏死不言非勇也と承れば、縦ひ御勘気蒙るとも、猶さし当て一事をなどか申さゞらん。管領は全く異儀なく見え給へば、召帰されて、元の如く政務執行を仰付けられ、水魚の思をなされ、関東静謐の計策を廻らしおはすべし。彼管領、内には君の過を糺し、外には君の美を揚げ無双の良臣にて候。召し給ふに、参らずといふ事あるべからず。但し讒邪群狂に恐れて、遅参の儀もあるべし。君達を御使として召されんに、などや参られざるべき。某若君の御供申して、管領を同道仕り、帰参すべき事必定なりと申上げければ、皆一同に然るべき由をぞ申しける。同九月廿四日、已に若君御下向ありし処に、若宮の社僧尊仲此由を聞きて、簗田河内守を以て、此御下向然るべからざる旨、強ひて訴へ申しける故に、若君の御下向止みければ、千葉介諫言空しくなりければ、胤直大に忿りて曰く、三諫而不用則避其国といへりとて、相州へ御動座の時、御断り申し、留りければ、持氏卿分陪川原に御駕を控へられて、参るべしと御使ありければ、畏つて承り候と申しけれども参らず。結句関戸山御越のとき、千葉介手勢引具し、神太寺原へ打出で下、総国市河へ陣を張る。是のみならず、又海道の討手、追手搦手一つになり、大将軍上杉中務少輔持房、相州高麗寺に陣を取る。さらば此敵に向へとて、木戸左近大輔持季を大将として、御旗を給はりて、相州八幡林に陣を取る。篝を焚きて待明す。又管領追討の為に下向し給ふ両一色の人々も、相伴ふ諸卒、皆憲実と一つになりしかば、手勢計にて、大敵を防ぐべきやうなくて、一戦にも及ばず、同四日、海老名の御陣へ引返す。上杉安房守、数万の軍勢を引率し、同四日、上州を打立ちて、同月十九オープンアクセス NDLJP:158日、分陪川原に着き給へば、御旗本の人々、御内外様の侍、奉行頭人に至るまで、持氏卿を捨置き、憲実に心を倚せて馳加はる。今は宗徒の御一門、譜代旧功の御勢より外に、残り留る人もなし。さる程に同十一月朔日、三浦介時高大将として、二階堂の人人、持朝の被官一味同心して、大蔵の御所へ押寄せける。折節警固の兵少ければ、案内は知つたり、大庭へ乱入り、御所方の人々若君義久をば、扇谷へ移し奉りて後、殿中鳴を静めて待懸けたり。三浦介を初め、一枚楯を引側め、門の内へ込入りて、甲の鉢を傾け、鎧の袖を揺合せ切合ひて、天地を動し、火を散らして、切つて落し突落して、此を先途と切つて廻り防ぎける。寄手若干疵を蒙り、一度にぱつと引きたりけり。されども寄手は大勢なれば、追出せば、荒手を入替へ攻戦ひければ、簗田河内守・同出羽守・名塚左衛門尉・河津三郎を初として、防矢射ける人々、一人も残らず討たれにける。さる程に方々より乱入る。人々の屋形に火を掛け、神社仏閣に乱入りて、戸張を下し、神宝を奪ひ合ひ、狼藉やむ事なかりしかば、三浦介が被官佐保田豊後守馳廻りて制止しければ、軍勢皆静まりける。同年十一月朔日、長尾尾張守入道芳伝、鎌倉警固の為に、分陪を立ちて攻め上る時、同二日、持氏卿海老名より帰らせ給ふに、相州葛原にて参合、あはや敵と見られければ、御供の人々、甲の緒をしめ馬の腹帯を堅め、色めき渡る所に、一色持家を御使として、憲実の代官、長尾芳伝が方へ仰せられけるは、累祖等持院殿、天下の武将たりしより以来、汝等が先祖上杉民部大輔・長尾弾正忠等、家僕となりて、普代相伝して、主従の礼義を乱らず。然るに重代身に余る恩を忘れて、穏に仔細を述べず大事を起す。縦ひ持氏を賤しとすとも、天の譴を遁るべからず。心中に憤る事あらば、退いて所存を申すべしと、理を尽して仰せられければ、芳伝馬より下り、いや是迄参る事、別の儀にあらず。讒臣憲直が申す処を御承引候て、故なく憲実を亡さんの御企、既に顕れさせ給ふ上は、身のあやまらざる処を申開き、讒者の張本を給はりて、後人の悪名を懲らさん為にて候とて、楯を伏せて畏る。依之憲実申請くるに任せ、憲直・直兼罪科に処せらるべしとて仰出されける。芳伝喜悦の眉を開きて、別装束を替へて、遂に出仕して、銀劒一振進上す。即又公方よりも、御太刀を下さる。扨こそ諸卒安堵の思をなしければ、オープンアクセス NDLJP:159仔細なく鎌倉へ帰らせ給ふ。足利持氏鎌倉帰陣芳伝御供申しける。永安寺へ入らせ給ふべきとて、御駕を進めける所に、三浦介が軍勢、佐保田豊後守以下、八幡宮赤橋に馳塞り、鼓の声をぞ揚げにける。依之御馬を引帰して、浄智寺へ入らせ給ふ。芳伝制しければ、佐保田等軍兵共皆引退く。扨こそ何事なく、永安寺に入らせ給ふ。
 
足利治乱記巻第五
 
 
オープンアクセス NDLJP:159
 
足利治乱記 巻第六
 
 
持氏卿御出家憲直以下自害の事
 
同月四日金沢の称名寺といふ律宗の寺へ移らせたまふ。猶も斯くては、始終御身の為悪かるべしとて、世に望なき御身を捨てられたる御心の中を知らせんとにや、同月四日に、足利持氏薙髪御髪を落し給ひける。未だ強仕の御齢も、いくほど過ぎざるに、剃髪染衣の姿に帰したまふ事、盛者必衰の理といひながら、うたてかりし事共なり。御法名は、長春院殿揚山道継と号し奉る。御歳は四十二歳なり。同月七日、長尾尾張守入道大将として、上杉憲直・一色憲兼以下讒人追伐の為に、数千騎の軍兵、金沢へ発向す。憲直も一色も、運の窮達を見て、悲あるを悲まず、主憂則臣辱、主辱則臣死といへり。今主辱めらるゝ時なり。忠臣何の為に命を惜むべきとて、心閑に最期の出立しオープンアクセス NDLJP:160て、寄手遅しと待居たり。去程に寄手の大将芳伝入道、其間半町計になりて、馬をさつと駈すゑ、同音に鬨を作る。直兼が郎等草壁遠江守と名乗り、紺糸の鎧に、同毛の五枚甲の緒をしめ、瓦毛なる馬に乗りて、真先に進み、父子四人少も擬議せず、大勢の中へ駈入り、馬煙を立て切合ひけるが、切つては落し、八方を捲り立て、一足も引かず討死す。是を見て、同じく傍輩に帆足・斎藤・饗庭・喜多并に板倉西太夫以下の侍、声々に名乗り、敵の真中へ会釈もなく駈入りて、一騎も残らず討たれにけり。其隙に直兼父子二人并浅羽下総守以下、一族門葉の人々、心閑に念仏申し、刺違へ、算を乱したる如くに、重り合ひて死しけり。憲直の二男上杉小五郎持成、山門の徳泉寺にありけるが、是を聞きて、乳母の夫鱸豊前守を呼びて、已に自害しけるが、硯を取らせ、辞世の詞に、

   合受百年煩悩業 今朝端的転身清 滅却心頭化縁尽 直向本来空性行

其後端座合掌して、豊前守に首を打たせける。豊前守主を介錯して、其刀にて、腹搔切つて死にける。両人の振舞、神妙に聞えける。其外治部少輔をば、永安寺の内甲雲菴といふ寺にて、長尾出雲守討取りける。海老名入道は、六浦引越の道場にて自害す。其弟上野介は、上杉大夫持朝が家人ども取籠め、扇谷の会下寺海蔵寺にて切腹す。此に上野介と申すは、兄の入道とは各別にて、公方へも度々諫言を以て、無為の儀を申上げける。穏便の由聞えければ、命計を助くべき由、憲実より使節を以て申されければ、其使未だ来らざる以前に、自害しけるこそ無慚なれ。若宮の社務尊仲も生捕りけるを、是は乱世の張本なれば、尋ね聞食す仔細もやあるべしとて、京都へ上せけるが、六条河原にて誅せられける。同月十一日、持氏卿永安寺へ帰り入らせたまふ。上杉修理大夫持朝・大石源左衛門尉憲儀・千葉介胤直等が、番々に警固し奉る。さながら禁籠の如くなり。

 
持氏卿・満貞朝臣御最期の事
 
さる程に鎌倉の管領源朝臣持氏卿は、命計を助け参らせ、自今以後は、政務に綺はせ奉るまじき由、再三京都へ訴へ申しけれども、年来無道重畳せり。奢侈梟悪誡めざオープンアクセス NDLJP:161るに於ては、後日の禍となり、天下大変親なるべしと評定ありて、終に討ち奉るべきに定まりしかば、永享十一年二月十日、持朝・胤直押寄せ、申入れけるは、君東国の武将として、其器に当り給はず。是に依つて御家人以下、度々京都に歎き申すといへども、天誅遁れ給はざるに依つて、己等を差向けらる。誠に悲の至り不之と申上げて、永安寺を稲麻竹葦の如く取巻き打囲みて、御自害を勧め奉る。依之御近習伺公の面々、声々に名乗つて切つて出づ。木戸伊豆入道・冷泉民部少輔・小笠原山城守・平子因幡守・伊東伊豆守・武田因幡守・加島駿河守・会我越中守・設楽遠江守・沼田丹後守・木内伊勢守・神崎周防守・中村壱岐守等敵の中を破つて、蜘手十文字に駈散らし、喚いて懸る。追つ返しつ引組み、刺違へ切合ひける。寄手両方に分れて散々に射る。満貞朝臣、御所の御馬廻り南山下総入道・同左馬介・里見治部少輔・下条右京進・逸見甲斐入道・石川民部少輔・新宮十郎左衛門尉・岩淵修理亮・泉田掃部介横合に懸つて、両方の手騎を追捲りて、真中へ会釈もなく駈入りて、引組んで落ち、打違へて死す。其間に持氏卿の二男春王丸三男安王丸をば、乳母の十郎三郎連れて、雑人の形に出立ちて、難なく御所を出で、下野国へ落行きて、日光に隠れける。足利持氏満貞自尽公方持氏卿、小御所満貞御自害あり。御台所は、永安寺の大塔の内に入りて焼死し給ふ。御馬廻の人々も、一人も残らず討死す。神妙なりし次第なり。二階堂信濃守は、此君に深く頼まれ参らせたりしかども、いかゞ思ひけん、御歿前より、行方知らず落行きけり。同廿八日、若君義久は、報国寺におはしけるに、討ち申すべき由を申入れければ、人人力なく此由を申しければ、少も御驚きなく、装束召換へ、御腰の物を右の手に取りて仰せけるは、吾幼少なるが故に、父の本意を達せず、無念なり。足利義久自害併死後必ず雷となりて、上杉が家を絶やさむと仰せけるが、左の脇に刀を突立て給ふ所を、御首を打落し奉る。少年の御挙動、前代未聞なり。既に御先祖基氏卿、観応の頃より、東国を領し給ひ、今持氏卿に至つて四代、其間九十年にして、鎌倉殿永く絶え給ふぞ哀れなる。上杉憲実遁世上杉憲実も、君を弑する罪免れ難くや思ひけん、出家して、法名長棟とぞ申しける。是より執事上杉家を以て、押して鎌倉の管領といへり。一向東国の事は、皆上杉家の手に属して、憲実は、其後舎弟の兵庫頭清方を、越後より鎌倉へ呼寄せて、管オープンアクセス NDLJP:162領を譲り、同年の六月十日、入道憲実は、長春院に参り、持氏卿の御影前にて自害す。家人ども其刀を奪ひ取りて、押して輦に乗せて帰り、療治をしければ、後は愈えけるが、終に同年の十一月十日に、山内を忍出で、藤沢の道場へ入りて、其後国清寺に閑居せられて、旦夕持氏の御菩提を祈りける。斯る忠臣はあらじと、京田舎誦しける。
 
結城合戦の事
 
さる程に持氏卿の二男春王丸三男安王丸、父持氏卿生害の場より、乳母が召連れて、下野国日光山に隠れ居けるが、訴人ありて小笠原大膳大夫政康、討手を承りて、彼山へ尋入りけるに、結城氏朝兵を挙ぐ安王丸春王丸山を遁れ出で、結城中務大輔氏朝を頼みければ、氏朝許容して、子息七郎光久を御迎に遣し、請じ入れ奉り、持氏卿旧好の者を語らひけるに、馳来る兵多し。古河の城をも拵へ、兵を入置き逆心の色を顕す。今度結城に与力の勇士は、塚原弥太郎・宮田弥介・馬場弥六・塩田与三・結城が舎弟原三郎光義・駿河守朝扶一族三百余騎。扨亦鎌倉の御一門は、山川三郎・多化井次郎・玉源八郎・沢田喜太郎以下、彼是千五百余騎なり。此事夥しく京都へ聞えければ、将軍義教公御教書を憲実に給はりて、不日に退治すべきとなり。入道憲実は、辞退申されて、弟の清方、山内殿の名代として、扇谷の上杉修理大夫持朝と両将、鎌倉を打立ちて進発せらる。扨亦京都より、上杉中書持房、御旗を給はりて、海道筋の兵を駈催し下向す。憲実入道も、度々仰下さるゝに依りて、伊豆国より、下野国小山まで出陣す。七月三日両上杉さんしき塚に着き、城を拵へ、合戦日々止む時なし。東国の士、多く結城が方人として、城中の勢強し。依つて一旦に攻落す事ならざるに依つて、敵味方睨み合ひて日を送る。永享十二年の冬より、嘉吉元年に至る迄戦へども、勝負互にありて年月を送る。然るに京都より、御所の宮といひて、今年十四歳になり給ふを大将として三万余騎、侍大将には、上杉中書下向す
頼云、上杉中書、この前既に下向なりいかゞ。

既に四月十六日、上杉両家諸手を進めて、結城が城に火を放ちて、十方より戦ひ入りければ、城終に落ちける。此つひえに乗りて、古河の城も落ちにけり。結城氏朝父オープンアクセス NDLJP:163子討死しけり。結城氏朝父子戦死今日城方の兵一万二千四百人余討死す。大将軍春王丸・同安王丸は、女の形に出立ちて輿に乗せ、城中を出でけるに、長尾因幡守是を見付けて生捕りける。即ち因幡守を警固として、京都へ上せ奉る。并に結城氏朝以下、張本の首廿九、京都へ上るなり。同年五月十五日には、此人々、美濃国青野が原に着きけるが、警固の兵咡くを聞けば、近き程に失はんなどいふを聞き、春王丸、

   夏山や青野が原に咲く花の身のゆくへこそ聞かまほしけれ

安王丸、

   身の行方定めなければ旅の空命もけふにかぎるとおもへば

同日の申刻ばかりに、京都より佐々木氏族検使として下向し、因幡守に命じて、春王・安王二人共に誅すべきの由なり。依之垂井の道場金蓮寺に入れ奉り、上使の佐々木の氏族情深き者にて、先づ風呂に入れ申し、其後上人出で教化どもありて、頓て害し奉る。春王安王殺さる太刀取は柿崎小次郎なり。春王丸は十三歳、安王丸は十一歳なり。首実検の後金蓮寺に送らる。上人即ち一片の煙となし奉り、骨をば高野山へ上せらる。太刀取の柿崎も出家して、高野山へぞ上りける。春王丸の乳母の女房は、京都に召上せて栲問に及ぶ。乳母即ち舌をくひ切つてければ、赦されて東山に入り、名号百返書きて、其奥に、

   消え果つる露の命の終には物いはぬ身となりにけるかな

と書きて、遂に自害し果てにけり。抑此女房は、鎌倉殿の御内権五郎平景政が末流に、長尾新五郎景光とて、千貫計の身上にて、小身なりけるが、持氏卿、さるものゝ子孫なり。必人間は、血脈を継ぐなればとて、選み出して乳母に付け給ふが、度々勇なる働多くして、結城が館にても、色々の計策、男子も及ばざる振廻なり。持氏卿の末子に、永寿王といふは、密に遁れて、信濃国へ落行きて、大井の持光を頼み隠れたり。是れ人の知る事なければ、討手を向けらるゝ事なし。結城氏朝が末子成朝は、常陸国へ落ちたり。世上も閑になれば、管領入道憲実は、鎌倉を立出でて、諸国執行し、長門国に暫く住みて、後は周防の山口といふ処に住みて、旦夕主君の後世をぞ祈りける。此人後生弁論集廿巻・諸士格式五十巻撰みて、子孫に残せりとなり。死期に紫オープンアクセス NDLJP:164金光明あり。

頼云、後生弁論集廿巻、諸士格式五十巻、これらを見ても僧徒の作にやあらん。
 
将軍義教公御生害赤松退治の事
 
同六月廿四日、将軍義教公、猿楽御見物として、赤松左京大夫満祐が館へ渡御まします。如何なる天魔の所為にか、今日御成次を以て、赤松が一家を御退治あるべきの由説る也し〔〈本ノマヽ〉〕処に、爰に赤松左馬介彦次郎を呼寄せ申しけるは、将軍の思召さぬ事を、よも世人の沙汰し申すべき。早く公儀を恨み申、御首を給はりて、当家の安否を定めんとありしかば、彦二郎此儀然るべしと、ひしと思立ちて、彦次郎・左馬介・浦上四郎・安積・中山弾正忠以下廿一人、物具固めて御座敷に罷出候刻に、厩の馬を取放ちて、其騒ぎに門戸を差堅めさせ、左馬介は、将軍の右の御手に取付き、彦次郎教康は、左の御手に取付きて申しけるは、実や今日、赤松が一家を絶し給ふべきの由、何の意趣にて御座あるぞや。将軍の云く、全く其儀なしと宣へば、此上は遁し申まじとて、安積御後に立廻り、御首を取り奉る。足利義教赤松満祐に弑せらる御供の人々、堂上にも庭上にも、多く並居たりしが、此由を見て御前へ走り参らんとすれ共、赤松が郎等共、予てより企みし事なれば、馳塞りて戦ひし間、或は討たれ或は落ちて、将軍の御前途を、見継ぎ奉るはなし。斯くて赤松が屋形へは、公方の兵ども、討手に向ふべしとて用意して、最期の合戦心よくして、腹切らんとて、一家の者共家子郎等に至るまで、思定めて相待つといへども、御所方より向ふ兵もなければ、さらば本国に下りて討手を待かけ、合戦すべしとて、屋形に火を掛けて、白昼に播州へぞ下りける。先づ一番に浦上四郎宗安、二番に常陸の彦五郎、三番に赤松伊豆守と、四番に赤松大膳大夫は興にて、五番に安積、将軍の御首を持ち奉る。六番に彦二郎、七番に左馬介、八番に能登守、九番に北野兵庫頭、十番に中村弾正、都合七百余騎、西洞院を下りに、七条を西へ、津の国路を経て、六月廿五日の午の刻に、播州河合の堀殿城に下着す。安国寺に、将軍の御首を葬り、荼毘の儀式をかいつくろひ、前は彦二郎舁き、後は左馬助舁く。入道は脇輿に参りけり。さるほどに都より、討手の御勢馳せ下る。大将は山名修理大夫教オープンアクセス NDLJP:165清・同右衛門督持豊・同相模守教之なり。搦手の大将として馳下る大将は、細川讃岐守持常・赤松伊豆守貞村・武田大膳大夫信賢、都合其勢五万人、播州に進発す。中に持豊は、満祐に有緑に依つて合戦せず。赤松一家は、書写坂本にありしが、爰をば打捨て、白旗の城に楯籠る。扨方々の攻口をぞ堅めける。先づ但馬口をば、龍門寺殿、上原備後守を具して、一千余騎にて堅めたり。一谷口蟹坂は、彦五郎八百余騎、丹波の三草口は、能登守国祐大将にて、五百余騎にて相固む。八月十二日、細川讃岐守・伊予守・安木・武田一万三千八百余騎にて、一谷口に攻寄せ合戦す。京方の兵戦負けて、人丸塚に引退く。入道は伊原の御所を御供申し、京へ上らんとて、二万七千余騎にて、明石蟹坂に着き、京都に降参す。但馬口へは、山名三万余騎にて押寄せ合戦す。赤松・龍門寺打負けて腹を切る。上原備後守討死す。入道は、是に力を失ひて、又坂本に帰り、其日より、木の山白旗の城に籠れり。さるほどに寄手は、大手搦手一になりて攻戦ふ。赤松一家敗北して、伊予守と彦五郎とは降参す。彦二郎は、父入道の教訓に依つて、伊勢の国司を頼み、落行きしかども、国司心替に依つて、彦二郎自害す。赤松満祐自害今年十九歳なり。赤松入道、年六十一歳にて自害す。此時一家の人々六十九人、皆自害す。安積は、木戸より外に切つて出で、最期の合戦、比類なき働なり。山名の郎等村介・景安・景光兄弟、安積に討たれにけり。安積は屋形に火をかけ腹を切り、火の中に飛入りけり。山名右馬頭の郎等、炎の中に分入りて、赤松入道の首と、安積が首とを求めたり。さる程に左馬助満康は、浦上四郎・北野兵庫頭を相随へて、水の城に楯籠る。此城には、尊氏将軍天照太神を勧請し給ふ城なり。石見守攻寄せて合戦す。弾正忠近宗打つて引退く。左馬介は、筑紫の松田を頼み下りしが、其より高麗国に押渡り、威勢を耀しければ、彼地にて清水将軍と仰がれ、多くの人を随へしかども、常陸殿を世に立てんと思立ち、又本朝に帰りけり。
頼云、常陸殿、伊原の宮同人歟〔〈前ニ伊原ノ御所トアリ参照〉〕。

河内国太子山にありけるが、都より討手向ひしかば、遂に討死したりける。扨〻赤松は、天下の御敵なれば、其首川原に梟くべからずとて、三条西洞院に獄門を作りて、一の木には入道の首かけて、六角家の旗頭、是を守る。右は六角家庶流京極、其外近オープンアクセス NDLJP:166国の大名小名、日々の警固なり。

頼云、嘉吉軍記〔〈或云赤松記〉〕に、「諸大名ノ評定ニハ天下ノ御敵ヲ河原ニ可懸不然トテ、三条西洞院ニ栴檀ヲ集メ、堀立獄門ノ形ヲ作リテ、左ノ方ニハ京極殿、右ノ方ニハ六角殿、其外大名小名、番衆ニテ着到ヲ付テ、一万三千騎ニテ頸ノ供ヲシ給フ。一ノ枝ニハ入道殿ノ御頸ヲ懸ケ、二ノ枝ニハ彦二郎殿ノ御頸ヲ懸ケ、三ノ枝ニハ安積ガ頸ヲ被懸事、前代未聞ノ消息也」。

如何なる天下の変にや、都には将軍義教公、不慮に御他界。鎌倉には持氏卿御生害にてありしかば、京童の口号に、

   田舎にも京にも御所の絶え果てゝ公方にことを嘉吉元年

さる程に京には、細川・六角・畠山以下の大名評定して、義教の若君義勝、僅に八歳なりしを取立て、同月叙爵し給ひ、従五位下に任じ、鎌倉には持氏卿の末子、信濃国安養寺に隠れ居しを取出て、鎌倉に据ゑ申し、頓て元服まして、成氏と号すなり。京鎌倉水魚の如し。扨亦赤松が領国を、人々に給はる。播州を山名持氏に、美作を同教清に、備前を同じく教之に給はりぬ。京田舎静謐して、上下喜悦の思ひせり。禁裏には、契松祝の和歌の御会あり。

頼云、此書、文の拙くて、いひさしたる如くに聞ゆれども、而れどもこれにて筆を止めたるなるべき歟。其故は義勝の家督よりして、成氏の家督までつゞめて此に記せればなり。尚能く考ふべし。
 
足利治乱記巻第六
 
 

この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。