議長西岡武夫君逝去につき哀悼の件


○議長(平田健二君) これより会議を開きます。
 議長西岡武夫君は、去る五日逝去されました。誠に痛惜の極みであり、哀悼の念に堪えません。
 同君の葬儀につきまして、議長は、議院運営委員会に諮り、本日午後、参議院葬をもって行うことにいたしました。
 この際、院議をもって同君に対し弔詞をささげることにいたしたいと存じますが、御異議ございませんか。

〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

○議長(平田健二君) 御異議ないと認めます。
 弔詞を朗読いたします。

〔総員起立〕

 参議院は わが国 民主政治発展のため力を尽くされ 参議院議長として憲政の発揚につとめ さきに衆議院の院議をもって永年の功労を表彰せられ また国務大臣としての重任にあたられました 議員従二位桐花大綬章西岡武夫君の長逝に対し つつしんで哀悼の意を表し うやうやしく弔詞をささげます

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○議長(平田健二君) 尾辻秀久君から発言を求められております。この際、発言を許します。尾辻秀久君。

〔尾辻秀久君登壇〕

○尾辻秀久君 十一月五日未明、時計を見ましたら二時五十分でした。なぜか目が覚めたのです。あれは、まさか議長が起こしに来られたのではないですよね。
 議長は律儀な方でした。ちょっとしたことでも事前に御説明がありました。
 議長が私の部屋に来られるというので、それはいけません、私の方から伺いますと部屋を飛び出そうとしますと、既に議長は部屋の前まで来ておられるということがしばしばでありました。
 律儀に私を起こしてくださるのなら、どうして約束を守ってくださらなかったのですか。議長は、今国会の前半だけ代わりをしてくれ、後半には元気に戻るからと言われました。とわの別れになるとは一言も言っておられません。
 あれは、十月二十八日でした。本日の本会議も無事終わりました、早く帰ってきてくださいと電話を差し上げましたら、必ずそうすると答えられたのです。その僅か一週間後です。約束はほごになりました。
 残念です。悲しいです。
 外国からのお客さんが来られると、議長はよく、隣に座っている私を指して、私たちは仲よしなのですと言われました。仲よしという表現も、そのときのお顔も子供そのものでした。純真、純情な方でした。
 信念を主張なさるときは、火のような情熱を持つまさに青年でした。議長の御挨拶の原稿を見せていただくことがございました。私が、ここは過激過ぎませんかと申しますと、すかさずこれではどうかと別の紙が出てきました。全てお見通しの老練な政治家でありました。
 生涯を通して自らの信ずるところをいちずに貫かれました。平成十二年の衆議院議員選挙では、比例区との重複立候補にしてあれば当選しておられたのです。しかし、選挙区で落選して比例で救われるということを潔しとされませんでした。西岡武夫の生きざまであります。
 先生は、昭和十一年二月十二日、衆議院議員で後に長崎県知事を務められた父竹次郎氏と、参議院議員を務められた母ハル氏の御長男としてお生まれになりました。二週間後が、あの二・二六事件であります。
 少年時代にふるさと長崎市に原子爆弾が投下される瞬間を目撃しておられます。御尊父が長崎と広島の両地で被爆されました。愛する郷土長崎の惨状は、先生にどれほどの衝撃を与えたことでしょう。平和を希求する政治家、西岡武夫の原点であります。
 県立高校から早稲田大学に進まれ、多くの偉大な政治家を輩出した雄弁会で活躍されました。在学中よりお父上の後を継がれ、長崎民友新聞の経営もしておられます。
 青雲の志を抱かれ、昭和三十八年十一月、衆議院議員選挙に長崎第一区より立候補され、二十七歳の若さで初当選されました。以後、衆議院議員当選十一回、参議院議員当選二回を数えます。初当選の後、自由民主党の青年局長を務められました。
 西岡先生に代わって、議場におられるお若い先生方に申し上げます。ついこの前、青年局長をなさった先生とのお別れをもうしなければならないのです。少年老いやすいのです。どうぞ、春秋に富んだ先生方、一日一日を大切にされ、しっかりと後を継いでくださるようお願いをいたします。つい僣越なことを申し上げてしまいました。お許しください。
 先生に転機が訪れたのは昭和五十一年。自由民主党を離れ、新自由クラブを結党されました。新自由クラブにあっては幹事長兼政策委員長の重責を担われ、国政の中で抜群の存在感を示されました。
 その後、自由民主党に復党され、昭和六十三年、竹下改造内閣において文部大臣となられ、続く宇野内閣においても二期連続の文部大臣として文教行政の先頭に立ち、御自身が立案に深くかかわってこられた教育改革に関する十二の政策の実行に向けて全力で取り組まれたのであります。この教育改革に関する十二の政策は、今も我が国の文教行政の根幹であります。
 党にあっては、税制調査会長、総務会長など、要職を歴任されました。そのさなか、歴史の流れは先生を再び激動の渦に巻き込みます。平成六年、新進党結党に向かわれ、幹事長として党のかじ取りをされることになるのであります。
 さらに、平成十三年、活躍の場を参議院に移されます。信念に基づく行動は、活動の中心が民主党へと変わっても、いささかの揺るぎもありませんでした。衆参ねじれの下での議院運営委員長として、極めて難しい国会運営を一身に背負われます。またしても歴史が西岡武夫という政治家を求めたのであります。
 先生、今だから正直に申し上げます。当時、私は自由民主党において参議院の議員会長を務めておりました。先生と相対することとなり、憎らしいほど手ごわい相手だと思っていたのであります。
 昨年、議長に就任されてからは、参議院の選挙制度改革に全精力を傾けて取り組まれ、そのエンジンとなられました。具体案を示され、議論を引っ張っていただきました。真に国を憂う気持ちから、与党の御出身でありながら、政府の有様を過激と言われるほど激しく批判されてきました。
 特に強い危機感を持っておられたのは、東日本大震災の復旧・復興対策、福島第一原子力発電所の事故後の対応に対してでありました。原子爆弾投下の瞬間を見、その引き起こしたすさまじい惨状を自らの体験として知るただ一人の国会議員として、政府だけに任せてはおけないと思われたのでありましょう。
 震災発生直後、まだ状況もよく分からないとき、原発、原子炉はどうなっているのだと叫ばれた議長のお姿は忘れられません。これから官邸に乗り込むと言われる議長を必死でお止めしました。官房長官を呼びましょうと申し上げましたら、とうとう最後に、そうするかと言っていただきましたが、まさに鬼の形相でした。
 大震災からしばらくの間、毎日防災服に身を包み執務をされるお姿に先生の御決意を感じておりました。外国からのお客様が見えますと、常に原発事故に言及され、真摯な情報公開の必要性を説かれておりました。
 顧みますと、昭和三十八年の衆議院議員初当選から半世紀近くに及ぶ政治生活でありました。移り変わる我が国の有様を政治の最前線で肌で感じ、常に深い問題意識を持ち、その論点を世に問われました。出た答えには真っ正面から向き合い、責任を持って実行、実践されました。病床にあっても被災地の子供たちのための法案を準備しておられたと奥様にお聞きしました。最後まで先生の胸は熱く燃えていたのです。
 私たちは、かけがえのない政治家を失いました。
 私が議長室を退室いたしますとき、いつも先生は、わざわざお部屋から出てこられて、廊下で私の姿が見えなくなるまで見送ってくださいました。先生にお見送りいただいていた私たちが、今日は悲しみの中で先生をお見送りすることになってしまいました。何という無常でありましょう。
 長崎のお別れの会でお約束しましたように、ニュージーランドからお土産として持ってきましたマヌカハニーは奥様にお届けいたしました。ゆっくり召し上がっていただきましたか。お口に合いましたか。
 黒いスーツ、ぴかぴかのフォーマルシューズ、よく見るとダンディーな議長。小柄ながら、大きな体の外国の議会指導者を貫禄で圧倒しておられた古武士そのものの議長。またお会いしたいです。
 今日もいつものようにお別れをします。それでは失礼いたします。
 さようなら。

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