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私は北川冬彥のやうに鬱然とした意思を藏してゐる藝術家を私の周圍に見たことがない。
それは彼の詩人的Careerを貫いてゐる。
それはまた彼の詩の嚴然とした形式を規定してゐる。人々は「意志」の北川冬彥を理解しなければならない。この鍵がなくては遂に彼を理解することは出來ないであらう。
彼は「短詩運動」「新散文詩運動」を勝利にまで戰ひ通して來た。終始一貫して。新しい詩壇は今やその面目を一新してゐる。韻文は破戒された。韻文的なもの――古臭い情緖――は姿を消して、新しいエスプリが隨所に起つた。「表現の單純化」「效果の構成」は古い詩人達の詩型にまで及んでゐる。嘗てはわれわれに親しかつた古い歌ひ振りの詩を今日に於いて省るならば、われわれはそれがもう全く讀めないものになつてゐるのに驚く。「口說き」は五月蠅く、讀んでしまつて何等のヴイジヨンがなかつたことに氣づく。時代は明らかに一新したのである。
北川冬彥は終始この運動の尖端に立つて戰つてゐた。身をもつて。彼ははじめから他の人々のやうに一枚に古い衣裳も纏つてはゐなかつた。カモフラージユなしで戰つたのである。最も新しい、「詩とは思へないもの」で身を曝したのである。その彼の威力ある屹立は、だからいつも人々のブツブツいふ聲でその脚もとを洗はれてゐた。また彼はいつも最も簡單な言葉で彼の敎理を說いてゐた。同じことを繰返し繰返しして云つてゐた。これは自ら恃むことに厚く最も勇敢な人々のみの爲し得ることである。――かくの如く彼は戰つて來た。身をもつて。鐵のやうな意志をもつて。
彼の詩の嚴然とした詩型が彼の「意志」によつて規定されてゐるといふことについては、數多の論證を必要とするやうである。また少しの論證をも必要としないやうである。私は單にこの獨斷を揭げるにとどめて、次に「戰爭」の批評に移る。批評とは云ふものの私は小說家であつて自分の思つたことを最も平凡に披瀝するに過ぎない。
「戰爭」は三つの部分に分れてゐる。――戰爭。光について。檢溫器と花その他。この最後の部分は彼の第二詩集「檢溫器と花」から再錄されたもので、私はまづこれに數言を費した後、第三詩集たる部分へ入つてゆくことにしようと思ふ。
北川冬彥は嘗て最も潔癖に日本產の文學をうけつけなかつた詩人である。彼の愛したのはフランス、それもダダ以後の人々であつた。その代りその愛しやうは全く一通りのものではなかつた。私は屢々不思議な氣持に打たれたことがある。それは彼がそれらの人々に對する先輩としての尊敬や僚友としての友情を、まるでそれらの人々がみな東京に住んでゐるかのやうな「間近さ」で表現するからであつた。アポリネエル、ジヤコブ、コクトオ、ブルトン、エリユアル、――それからマチス、ピカソ、シヤガル、アルキペンコ等々の畫家についてもそれは同樣なのであつた。「檢溫器と花」はなによりもこれらの人々との親和をよくあらはしてゐる。
彼は「檢溫器と花」の後記に、ジヤン・コクトオの所謂「對象を消化して、次第にその主宰する獨自の世界へ連れてゆくやうな詩」を意圖したと云つてゐる。それは作品の全般について云はれたのではないが、たしかにそれらの作品はこの詩集の精髓をなすものである。私はその典型的なものとして「椿」「馬」「爬蟲類」「秋」などを擧げたい。
「椿」はStatucsの領域內にあつたものを、彼がはじめてDynamicsのなかへ持ち込んだのである。
軍港を內藏してゐる
北川冬彥のこのやうな詩になつて來ると、軍港といふ二字が既にもう軍港のヴイジヨンを伴ふのである。そして「內臟してゐる」で、昔の人が南蠻渡來の人體解剖圖を信じた奇怪さで、馬がそれを「內臟してゐる」眞實を信じさせられてしまふのである。この最も短い詩は最も强い暗示力を示してゐる。そしてもう一つ注意さるべきことは、この詩の構圖が「物質の不可侵性」を無視することによつて成り立つてゐるといふことである。このことは屢々Cubismの畫家のmotiveになつてゐる。私はこのaffinityについてもう暫く語り度い。
彼の第一詩集「三半規管喪失」のなかに次のやうな詩がある。


瞰下景
ビルデイングのてつぺんから見下すと
電車 自動車 人間がうごめいてゐる
目玉が地べたへひつつきそうだ


高いところから下を見たときの感じがこんなにも生々と表現されたことはないであらう。この生々しさは何によるか。それは「目玉が地べたへひつつく」といふ空間を無視した表現法のためである。これによつて彼は知覺、若しくは感覺の速度を表現し得たのである。私はここに後來「馬」等々に達した端緖の一つがあると思ふ。それは空想と云はんよりは實感であり、實感であるよりは實感をあらはすための手段であり、――そしてそれは最後の段階に達して、手段そのものから嘗て一度も人間の頭腦に存在しなかつたやうな「實感」を呼び起す作品を形成する。「對象を主宰して獨自の世界へ連れてゆく」やうな詩とは畢竟この段階のものを指すに外ならない。北川冬彥の「馬」はcubistを聯想せしめる。しかし決して「故なくして」ではないのである。
その他彼は多くのcubist達を聯想せしめる作品を「檢溫器と花」のなかに書いてある。例へば「水兵」「女と雲」の明るい風景。「薄暮」「壁」の陰氣な風景。そしてここに示された彼の手法は實に完璧である。
北川冬彥にも嘗て器物愛好があつた。それは何を。檢溫器である。では彼は病氣ででもあつたのか。否。「樂園」「落日」――この抒情的な靜けさのなかで、彼はそれを愛することをおぼえた。
「花の中の花」「檢溫器と花」といふ詩集の名は「樂園」や「落日」のなかの檢溫器、それからこの詩などから得て來たものではなからうか。この作品は小說に於ける橫山利一を聯想せしめる。北川冬彥はこの詩を愛してゐるにちがひない。
紙數がない。次へはいらねばならぬ。
「戰爭」及び「光について」。即ち「檢溫器と花」以後三年間の勞作である。
私は彼のこの三年間を深い感慨慨なしに𢌞想することが出來ない。彼は生き死にの苦しみを經て生きて來た。
「絕望の歌」。これこそはモニユメントである。この一種人に迫る鬼氣を持つた作品は彼の陷つた絕望の深さを示してゐる。恐らくこれほど彼の愛し且つ憎む作品はないであらう。しかし彼は死なずに生きて來た。骨を刻むやうに詩を作りながら。
「絕望の歌」や「肉親の章」は第二詩集以後彼の示した一つの轉向であつた。人は彼の詩が「小說のやうになつた」と云つた。彼はこの形式に彼の恐ろしい苦悶を盛りはじめたのである。
「腕」(26頁)の白痴のやうな笑ひ。無題(18頁)及び無題(27頁)の夢魔。人はこれらの詩のなかにも彼の苦悶を讀まねばならぬ。さるにしてもこの「腕」の大膽な手法は全く驚嘆に値する。
これらの作品及び「機械」「空腹について」などは第二詩集以後の彼の詩の主流をなすものである。それは次に「光について」の難解な一群の詩へはいつてゆく。私はそれへはいる前にこれらの間に介在してゐる傍流的なものを調査し整理してゆかねばならぬ。
「萎びた筒」「剃刀」などは「三半規管喪失」的なものである。前者のキタナさ、「剃刀」の麻痺的痛覺。共に彼の第一詩集から生き殘つたものである。私はいまもこのキタナさを愛してゐる。
「ラツシユ・アワア」も「風景」も「檢溫器と花」的なものである。
「菱形の脚」「砂埃」「花」の三つの「支那風景」は「光について」などと竝行して書かれたものである。おそらく休息的な愉しさが彼をとらへたのであらう。人をして頰笑ましめる。秀れた作品である。菱形の脚の間に見えてゐる風景、女の姿をかくしてしまふ砂埃、心憎いことである。
さて私は「光について」へはいらう。
彼はこれらの詩に於いて「絕望の歌」以後の更に深い精神的苦痛の時期を經ている。彼の詩は難解になつた。このことは一つの極點を暗示してゐる。卽ち彼が自己の主觀のなかに苦しむことのこれが最後の姿なのである。さう私は考える。「光について」のなかにはわれわれにとつて嚙み割り難い數多のSymbolとMetaphorとがある。その間に、傷ついた魚が深く水中に沒して、時どきその苦しんでゐる身の在所をキラ・キラと光らすやうに、生命、死、光明のSymbolが閃めく。
「皮膚の經營」「戀愛の結果」「灰」は暫時私には不可解である。
「光について」の六齣の詩も僅かにその片鱗が理解出來るにとどまる。


壁のうへの蟻の凍死、焰のつらら。


この一行の詩は私をしてボオドレエルの「秋の歌」の一節節を思ひ出さしめる。


冬のすべては私の身內に迫つて來る。――それは、苦痛、憎惡、戰慄、强ひられた苦役や恐怖。
そして極地のうへのかの北方の太陽のやうに、
私の心臟は直ぐにも一箇の石となつてしまふであらう、凍結し灼熱せる。


勿論彼の念頭にこの詩はなかつたのである。私はその契合に驚く。しかもこの詩は最後の凝結を示してゐる。
「花」「人間」「光について」(50頁)の三つの詩も解し難い。そして私はこれらの謎のやうな詩を總括して再びさきの獨斷を繰り返す。卽ちこの難解な形式は彼の主觀の究極の表現である。この究極の表現はまた最後の表現である。卽ち彼は自己の主觀のなかに苦しむことをこれらの詩をもつて終りとするであらうと。
「戰爭」「大軍叱咤」「壞滅の鐵道」「鯨」「腕」「腕」などは明らかに彼の目の前に展けた新しい視野を示してゐる。それは階級である。彼は自己を苦しめるものの正體に突き當つた。それを認識しはじめた。そしてこれは詩集「戰爭」のもつ最も大いなる意義である。私は彼の「意志」がこの道をどのやうに今後進んでゆくかを見守らう。それはわれわれの最も深い關心であらねばならぬ。


眼の中には劍を藏つてゐなければならぬ。
背の上の針鼠には堪へてゐなければならぬ。
太陽には不斷の槍を投げてゐなければならぬ。
(「腕」より)


然り!病床のなかに詩集「戰爭」をうけとつて私の感動は激しい。
 

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