発見《アナグノオリシス》の如何なるものであるかは、大体、既に説き終つた。発見の種類に関して、第一に挙げられるのは、最も芸術味の少ないものであるが、単に、他に工夫なき所から、最もしばしば利用されるもの、即しるしに拠る発見である。これらのしるしの中、あるものは先天的である。例へば、「地から生れたる人人のもつ槍尖*1」[痣〔あざ〕]もしくは、カルキノス*2が『ツエステス』に於いて使つてゐる「星」がそれである。他のしるしは、後天的である。傷痕*3の如き肉体の上のしるし、或は、首飾もしくは、例へば『トゥロオ*4』に於ける発見の拠つて起こる所の小船の如き外部的のものである。然るに、是等のしるしの用ひ方に於いてさへも優劣がある。オデュセウスの傷痕がその例である。オデュセウスは、傷痕から、ある時は、乳母に依つて発見され*5、ある時は、牧豚者から発見される*6。人に信を強ふる手段としてしるしを用ひてゐる発見には芸術味が少ない、実に、熟慮を要するやうな発見、すべては、芸術味が少ないものである。これに反して、しるしを出して、しかもその出し方が、人の意表に出る発見例へば『湯浴み*7』の齣《くさり》に於ける如き発見は優れたるものである。次ぎに挙げられるのは、作者自身が、勝手に、拵〔こしら〕へ[篇中の事件の自然の順序から来たものでない]発見である。拵〔こしら〕へものといふ理由で、この発見は芸術味の乏しいものである。例へば『タウロスのイフィゲネイア』に於いて、オレステスが、自分はオレステスだと名乗る場合である。イフィゲネイアは、手紙*8に依て、彼女の姓名を洩らしたに反して、オレステスは、筋よりも作者自身が必要としてゐるやうな台詞*9を言はされてゐる。それ故、かやうな発見は、上に挙げた[態〔わざ〕とらしいしるしを用ふる発見の]拙劣さと相去ることあまり遠くない。何とならば、この場合、オレステスは、何等かのしるしを出しても、変りなかつたらうからである。今一つの例は、ソフオクレス作『テレウス*10』の中の機梭《はたをさ》の音である。第三に挙げられるのは、記憶を通しての発見である。即ちあるものを見たり聞いたりして、あることを思ひ起こすが為めに[思はず感情が外に出て]発見される場合である。ディカイオゲネス*11作『キュプロスの人人』に於いて、彼は絵を見た時泣き出した。また「アルキノス物語*12」に於いて、オデュセウスは竪琴を弾ずる人を聴いて、昔を偲び泣く。かくして二人とも発見される。第四は推論に拠る発見である。例へば『手向けする人人』に於ける「妾〔わらわ〕のやうな人がここにゐる*13。オレステスのほかに、妾〔わらわ〕のやうな人はない。だからオレステスがここにゐるのだ」がそれである。或は『タウロスのイフィゲネイア』に対して[オレステスのイフィゲネイアに対して名乗る仕方に対する]詭弁学徒《ソフイストス》ポリュイドスの与へた示唆も推論に拠る発見である。「姉は人身御供になつた*14。さうして自分も、同じやうに、人身御供になるんだ」と、さうオレステスが考へるのは自然だつたからである。或は、テオデクテス*15作『ツデウス』に於ける「子を捜しに来た自分の方が死んで行くのだ」である。或は『フィネウスの娘達*16』に於いて、女達はその場所を見るや『妾〔わらわ〕等は此処で棄てられたことがあつたから、此処で死ぬのは、妾〔わらわ〕等の運命なのだ」と推測する。また、他の一方の人の誤れる推論から合成されて出来る発見がある。例へば『使者に仮装したるオデュセウス*17』に於ける如きものがそれである。彼は、まだ、見たことがない弓に就いて「私はその弓を知るであらう」と言つた。然し、他の人が、彼のこの言葉から、彼はその弓を再び見るだらう[恰〔あたか〕も前にそれを見たことがあるかの如くに]と推測するなら、それは誤れる推論である。然し、すべての種類の発見中最も優れたるものは、出来事そのものから生ずる発見である。この場合、大なる驚愕〔きょうがく〕が蓋然なる出来事を通して起こる。ソフオクレス作『オイディプス王』に於ける発見がそれである。或は『タウロスのイフィゲネイア』に於いての発見がそれである。イフィゲネイアが手紙を家に届けようと欲することは蓋然なる出来事である。これらの最後に挙げた発見のみがしるしや首飾などの態〔わざ〕とらしい技巧から脱してゐる。これらの次ぎにとるべきものは推論に拠る発見である。


■訳注

■編注

旧字体→新字体へ変換。太字は底本では傍点。[]は訳注、《》は底本のルビ。〔〕はWikisource入力者による補注(主に常用+人名用の範囲に含まれない漢字等へのルビ振り)。その他、以下の変換を行った:頸飾→首飾