詩学/第八章
筋は、ある人人が想像してゐるやうに、それが、一人の人を取扱つてゐるからとて、そこに統一があるとは言へない。数限りない多くの出来事が一人の人に起こる。さうして、それらの出来事のある部分は統一され得ない。同様に、人一人がする行動は、数多あつて、それらを一つの行動に統一することは不可能である。それ故、吾吾は、へラクレエス物語及びテセウス物語、その他、類似の詩を書いた詩人達が誤解をしてゐたことを知る。これらの詩人達は、ヘラクレエスは一人の人であつたから、彼に関する出来事は、すべて、統一ある一つの物語を作るものと想像してゐた。ホメロスは、他のあらゆる点に於いても、余人に優るが、矢張、此点をも、習得の技巧に依てか、もしくは先天的にか、十分に理解してゐた。ホメロスは『オデュセイア』を書くに際して、その主人公に起つた、すべての出来事を描かなかつた。主人公はパルナソス*1の山に於いて傷つき、また戦に召し出されようとした時、狂気を装つてゐた*2。しかも、この二つの出来事は、相互に、必然的、もしくは、蓋然的なる連絡もなかつた。それ故、ホメロスはあらゆる出来事を描かないで、吾吾が説いてゐる如き種類の統一を持つた、ある一つの行動を『オデュセイア』の題材とした。また『イリアス』に於いても同様であつた。実際、他の模倣技術[芸術]に於いて、一個の模倣は、常に一物の模倣であるやうに、詩に於いても、物語は、それが、人間の行動の模倣である以上一つのもので、しかも、全き行動を描いてゐなければならぬ。而して、その全き行動を形作る所の数個の要素は、極めて、密接な関係に融合され、要素のどれ一つでも、所を変へ、もしくは、引き抜かれたならば、全体は、支離滅裂するやうに組立てられねばならぬ。何とならば、有つても無くても、何等の相違も現はれない要素は、全きものを作る所の真の分子でないからである。
■訳注
■編注
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