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夢見心地になることの好きな人のための短篇



フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋(ひづめかじや)の横に折れる岐路(きろ)のところで、私を待っている。この犬は非常に賢い犬で、私の年来の友達であるが、私の妻などはもちろん大多数の人間よりよほど賢い、と私は信じている。で、いつでも散歩に出る時には、きっとフラテを連れて出る。奴は時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく。で近ごろでは私は散歩といえば、自分でどこかへ行こうなどと考えずに、この犬の行く方へだまってついて行くことに決めているようなわけなのである。蹄鍛冶屋の横道は、私はまだ一度も歩かない。よし、犬の案内に任せて今日はそこを歩こう。そこで私はそこを曲る。その細い道はだらだらの坂道で、時々ひどく曲りくねっている。私はその道に沿うて犬について――景色を見るでもなく、考えるでもなく、ただぼんやりと空想に耽(ふけ)って歩く。時々空を仰いで雲を見る。ひょいと道ばたの草の花が目につく。そこで私はその花を摘(つ)んで、自分の鼻の先で匂(にお)うて見る。何という花だか知らないがいい匂いである。指で摘(つま)んでくるくるまわしながら歩く。するとフラテは何かの拍子にそれを見つけて、ちょっと立ちどまって、首をかしげて、私の目の中をのぞき込む。それを欲しいという顔つきである。そこでその花を投げてやる。犬は地面に落ちた花を、ちょっと嗅(か)いで見て、何だ、ビスケットじゃなかったのかと言いたげである。そうしてまた急に駆け出す。こんな風にして私は二時間近くも歩いた。
歩いているうちにわれわれはひどく高くへ登ったものと見える。そこはちょっとした見晴しで、打ち開けた一面の畑の下に、遠くどこの町とも知れない町が、雲と霞(かすみ)との間からぼんやりと見える。しばらくそれを見ていたが、あれほどの人家のある場所があるとすれば、一たいどこなのであろう。私はこの辺一体の地理は一向に知らないのだから、解(わか)らないのも無理ではなが、それはそれとひて、さて後(うしろ)の方はと注意して見ると、そこはごくなだらかな傾斜で、遠くへ行けば行くほど低くなっているらしく、どこも一面の雑木林(ぞうきばやし)のようである。その雑木林はかなり深いようだ。そうしてさほど大きくもないたくさんの木の幹の半面を照して、正午に間もない優(やさ)しい春の日ざしが、櫟(くぬぎ)や樫(かし)や栗や白樺(しらかば)などの芽生えしたばかりの爽(さわ)やかな葉の透間(すきま)から、煙のように、また匂いのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向(ひなた)との加減が、ちょっと口では言えない種類の美しさである。私はこの雑木林の奥へはいって行いたい気持になった。その林のなかは、かき分けねばならぬというほどの深い草原でもなく、行こうと思えばわけもないからだ。
私の友人フラテも同じ考えであったと見える。枯葉うれしげにずんずんと林の中へはいってゆく。私もその後(あと)に従うた。約一町ばかり進んだかと思うころ、犬は今までの歩き方とは違うような足どろになった気らくな今までの散歩の態度ではなく、織るようないそがしさに足を動かす。鼻を前の方につき出している。これは何かを発見したに違いない。兎の足あとであったのか、それとも草のなかに鳥の巣でもあるのであろうか。あちらこちらと気ぜわしげに行き来するうちに、犬はその行くべき道を発見したものらしく、まっすぐに進み初めた。私は少しばかり好奇心を持ってその後を追うて行った。われわれは時々、交尾していたらしい梢(こずえ)の野鳥を駭(おどろ)かした。こうした早足で行くこと三十分ばかりで、犬は急に立ちどまった。同時に私は潺湲(せんかん)たる水の音を聞きつけたような気がした。(一たいこの辺は泉の多い地方である)犬は耳を癇性(かんしょう)らしく動かして二三間ひきかえして、再び地面を嗅ぐや、皓ドは左の方へ折れて歩み出した。思ったよりもこの林の深いのに少しおどろいた。この地方にこんな広い雑木林があろうとは考えなかったが、この工合(ぐあい)ではこの林は二三百歩もあるかも知れない。犬の様子といい、いつまでも続く林といい、私は好奇心で一杯になって来た。こうしてまた二三十分ほど行くうちに、犬は再び立ちどまった。さて、わっ、わっ!という風にい短く二声吠えた。その時までは、つい気がつかずにいたが、すぐ目の前に一軒の家があるのである。それにしても多少の不思議である、こんなところにただ一つ人の住居があろうとは。それが炭焼き小屋でない以上は。
打ち見たところ、この家には別に庭という風なものはない様子で、また唐突にその林のなかに雑(まじ)っているのである。この「林のなかに雑っている」という言葉はここで一番よくはまる。今も言った通り私はすぐ目の前でこの家を発見したのだからして、その遠望の姿を知るわけにはいかぬ。またおそらくはこの家は、この地勢と位置とから考えて見てさほど遠くから認め得られようとも思えない。近づいての家は別段に変った家とも思えない。ただその言えは草屋根であったけれども、普通の百姓家とはちょっとお趣が違う。というのは、この家の窓はすべてガラス戸で西洋風な造(こしら)え方なのである。ここから入口の見えないところを見ると、われわれは今多分この家の背後と側面とに対して立っているものと思う。その角のところから二方面の壁の半分ほどを覆(おお)うたつたかずらだけが、謂わばこの家のここからの姿に多少の風情(ふぜい)と興味とを具(そな)えしめている装飾で、他は一見ごく質朴な、こんな林のなかにありそうな家なのである。私は初めこれはこの林の番小屋でないかしらと思った。それにしては少し多きすぎる。またわざわざとこんな家を建てて番をしなければならぬほどの林でもない。と思い直してこの最初の認定を否定した。ともかくも私はこの家へはいって見よう、道に迷うたものだと言って、茶の一杯ももらって持って来た弁当に、われわれの空腹を満たそう。と思って、この家の正面だと思える方へ歩み出した。すると今まで目の方の注意によって忘れられていたらしい耳の感覚が働いて、私は流れが近くにあることを知った。さきに潺湲(せんかん)たる水声を耳にしたと思ったのはこの近所であったのであろう
正面へ廻って見ると、そこも一面の林に面していた、ただここへ来て一つの奇異なことにはその家の入口は、家全体のつり合いから考えてもひどく贅沢(ぜいたく)にも立派な石の階段をちょうど四級もついているのであった。その石は家の他の部分よりも、なぜか古くなってところどころ苔(こけ)が生えているのである。そうしてこの正面である南側の窓の下には家の壁に沿うて一列に、時を分たず咲くのであろうと思える紅い小さい薔薇(そうび)の花が、わがもの顔に乱れ咲いていた。そればかりではない、その薔薇の叢(くさむら)の下から帯のような幅で、きらきらと日にかがやきながら、水が流れ出しているとしか思えない。私の家来のフラテはこの水をさも甘(うま)そうにしたたか飲んでいた。私は一瞥(いちべつ)のうちにこれらのものを自分の瞳(ひとみ)へ刻みつけた。
さて私は静かに石段の上を登る。ひっそりしたこの四辺(あたり)の世界に対して、私の靴音(くつおと)は静寂を破るというほどでもなく響いた。私は「おれは今、隠者か、でなければ魔法使いの家を訪問しているのだぞ」と自分自身に戯(たわむ)れて見た。そして私の犬の方を見ると、彼は別段変った風もなく、赤い舌を垂れて、尾をふっていた。
私はこつこつと西洋風の扉(とびら)を西洋風にたたいて見た。内からは何の返答もない。私はもう一ぺん同じことを繰り返さねばならなかった。内からはやっぱり返答がない。今度は声を出して案内を乞うてみた。依然、何の反響もない。留守なのかしら空家(あきや)なのかしらと考えているうちに私は多少不気味になって来た。そっと足音をぬすんで――これは何のためであったかわからないが――薔薇のある方の窓のところへ立って、そこから脊(せ)のびをして内を見まわして見た。
窓にはこの家の外見とは似合わしくない立派な品の、黒ずんだ海老茶(えびちゃ)にところどころ青い糸の見えるどっしりとした窓かけがしてあったけれども、それは半分ほどしぼってあったので部屋のなかはよく見えた。珍らしいことには、この部屋の中央には、石で彫って出来た大きな水盤があってその高さは床の上から二尺とはないが、その真中のところからは、水が湧(わ)き立っていて、水盤のふちからは不断に水がこぼれている。そこで水盤には青い苔が生えて、その附近の床――これもやっぱり石であった――は少ししめっぽく見える。このこぼれた水が薔薇(そうび)のなかからきらきら光りながら蛇(へび)のようにぬけ出して来る水なのだろうということは、後で考えて見て解った。私はこの水盤には少からず驚いた。ちょいと異風な家だとはさきほどから気がついていたものの、こんな異体の知れない仕掛(しか)けまであろうとは予想出来ないからだ。そこで私の好奇心は、一層注意深く家の内部を窓越しに観察し初めた。床も石である。何という石だか知らないが、青白いような石で水に湿った部分は美しい青色であった。それが無雑作に、切り出した時の自然のままに面を利用して列(なら)べてある。入口から一番奥の方の壁にこれも石で出来たファイアプレイスがあり、その右手には棚が三段ほどあって、何だか皿見たようなものが積み重ねたり列んだりしている。それとは反対の側に――今、私がのぞいている南側の窓の三つあるうちの一番奥の隅の窓の下に大きな素木(しろき)のままの裸の卓があって、その上には……何があるのだか顔をぴったりくっつけても硝子(ガラス)が邪魔をして覗(のぞ)き込めないから見られない。おや待てよ。これはもちろん空家ではない。それどころか、つい今のさきまで人がいたに相違ない。というのはその大きな卓の片隅から、吸いさしの煙草(たばこ)から出る煙の糸が非常に静かに二尺ほどまっすぐに立ちのぼって、そこで一つゆれて、それからだんだん上へゆくほど乱れて行くのが見えるではないか。
私はこの煙を見て今思いがけぬことばかりなので、つい忘れていた煙草のことを思い出した。そこで自分も一本を出して火をつけた。それからどうかしてこの家のなかへはいって見たいという好奇心がどうもおさえきれなくなった。さてつくづく考えるうちに、私は決心をした。この家の中へはいって行こう。留守中でもいいはいってやろう。もし主人が帰って来たならば私は正直にわけを話すのだ。こんな変った生活をしている人なのだからそう話せば何ともいうまい。かえって歓迎してくれないとも限らぬ。それには今まで荷厄介にしていたこの絵具箱が、私の泥棒でないという証人として役立つであろう。私は虫のいいことを考えてこう決心した。そこでもう一度入口の階段を上って、念のために声をかけてそっと扉をあけた。扉には別に錠もおりてはいなかったから。
私ははいって行くといきなり二足三足あとずさりした。なぜかというに、入口に近い窓の日向に真黒は西班牙犬(スペイン犬)がいるではないか、顎(あご)を床にくっつけて丸くなって居眠りをしていた奴が、私のはいるのを見て狡(ずる)そうにそっと目を開(あ)けて、のっそり起き上ったからである。
これを見た私の犬のフラテは、うなりながらその犬の方へ進んで行った。そこで両方しばらくうなりつづけたが、この西班牙犬は案外柔和な奴と見えて、両方で鼻面(はなづら)を嗅ぎ合ってから、向うから尾を振り初めた。そこで私の犬も尾を振り初めた。さて西班牙犬は再びもとの床の上へ身を横たえた。私の犬もすぐその傍へ同じように横になった。見知らない同性同士の犬と犬とのこういう和解はなかなか得難いものである。これは私の犬が温良なのにも因(よ)るが主として向うの犬の寛大を賞讃しなければなるまい。そこで私は安心してはいって行った。この西班牙犬はこの種の犬としてはかなり大きな体で、例のこの種特有の房々(ふさふさ)した毛のある大きな尾をくるりと尻の上に巻き上げたところはなかなか立派である。しかし毛の艶(つや)や、顔の表情から推して見て、大分老犬であることは、犬のことを少しばかり知っている私には推察出来た。私は彼の方へ接近して行って、この当座の主人である彼に会釈(えしゃく)するために、敬意を表すために彼の頭を愛撫した。一体犬というものは、人間がいじめ抜いた野良犬(のらいぬ)でない限りは、淋しいところにいる犬ほど人を懐(なつか)しがるもので見ず知らずの人でも親切な人には決して怪我をさせるものでないことを、経験の上から私は信じている。それに彼等には必然的な本能があって、犬好きと犬をいじめる人とはすぐ見わけるものだ。私の考えは間違いではなかった。西班牙犬はよろこんで私の手のひらを舐(な)めた。
それにしても一体、この家の主人というのは何物なのであろう。どこへ行ったのであろう。すぐ帰るだろうかしら。はいって見るとさすがに気が咎(とが)めた。それではいったことははいったが、私はしばらくあの石の大きな水盤のところで佇立(ちょりつ)したままでいた。その水盤は外から見た通りで、高さは膝(ひざ)までぐらいしかなかった。ふちの厚さは二寸ぐらいで、そのうふちへもってって、また細い溝(みぞ)が三方にある。こぼれる水はそこを流れて、水盤の外がわをつとうてこぼれてしまうのである。なるほど、こういう地勢では、こういう水の引き方も可能なわけである。この家では必ずこれを日常の飲み水にしているのではなかろうか。どうもただの装飾ではないと思う。
一体この家はこの部屋一つきりで何もかもの部屋を兼ねているようだ、椅子(いす)が一つ……二つ……三つ……きりしかない。水盤の傍と、ファイアプレイス、それに卓に面しておのおの一つずつ。いずれもただ腰をかけられるというだけに造られて、別に手のこんだとこはどこにもない。見廻しているうちに私はだんだんと大胆になって来た。気がつくとこの静かな家の脈搏のように時計が分秒を刻む音がしている。どこに時計があるのであろう。濃い樺色の壁にはどこにもない。あああれだ。私はこの家の今の主人と見るべき西班牙犬に少し遠慮しながら、卓の方へ歩いて行った。
卓の片隅にははたして、窓の外から見たとおり、今では白く燃えつくした煙草が一本あった。
時計は文字板の上に絵が描いてあって、その玩具のような趣向がいかにもこの部屋の半野蛮な様子に対照している。文字板の上には一人の貴婦人と、一人の紳士とそれにもう一人の男がいて、その男は一秒間に一度ずつこの紳士の左の靴をみがくわけなのである。馬鹿馬鹿しいけれどもその絵が面白かった。その貴婦人の襞(ひだ)の多い笹(ささ)べりのついた大きな裾(すそ)を地に曳(ひ)いた工合や、シルクハットの進士の頰髯(ほおひげ)の様式などは、外国の風俗を知らない私の目にももう半世紀も時代がついて見える。さて可哀そうなのはこの靴磨きだ。彼はこの平成な家のなかに、そのまたなかの小さな別世界で夜も昼もこうして一つの靴ばかり磨いているのだ。私は見ているうちにこの単調な不断な動作に、自分の肩が凝(こ)って来るのを感ずる。それで時計の示す時間は一時十五分――これは一時間も遅れていそうであった。机には塵まみれに本が五六十冊積み上げられてあって、別に四五冊ちらばっていた。なにでも絵の本か、建築のかそれとも地図と言いたい様子の大冊な本ばかりだった。表題を見たらば独逸語(ドイツご)らしく私には読めなかった。その壁のところに、原色刷の海の額がかかっている。見たことのある絵だが、こんな色はウィスラアではないかしら……私はこの額がここにあるのを賛成した。でも人間がこんな山中にいれば、絵でも見ていなければ世界に海のあることなど忘れてしまうかも知れないではないか。
私は帰ろうと思った。この家の主人にはいずれまた会いに来るとして。それでも人のいないうちに入り込んで、人のいないうちに帰るのは何だか気になった。そこで一層のこと主人の帰宅を待とうという気にもなる。それで水盤から水の湧きたつのを見ながら、一服吸いつけた。そおうして私はその沸き立つ水をしばらく見つめていた。こうして一心にそれを見つづけていると、何だか遠くの音楽に聞き入っているような心持がする。うっとりとなる。ひょっとするとこの不断にたぎり出る水の底から、ほんとうに音楽が聞えて来たのかも知れない。あんな不思議な家のことだから何しろこの家の主人というのはよほど変り者に相違ない。……待てよおれは、リップ・ヴァン・ウィンクルではないかしら。……帰って見ると妻は婆になっている。……ひょっとこの林を出て、「K村はどこでしたかね」と百姓に尋ねると、「え?K村そんなところはこの辺にはありませんぜ」と言われそうだぞ。そう思うと私はふと早く家へ帰って見ようと、変な気持になった。そこで私は扉口のところへ歩いて行って、口笛でフラテを呼ぶ。今まで一挙一動を注視していたような気のするあの西班牙犬はじっと私の帰るところを見送っている。私は怖れた。この犬は今まで柔和に見せかけておいて、帰ると見てわっと後から咬(か)みつきはしないだろうか。私は西班牙犬に注意しながら、フラテの出て来るのを待ちかねて、大急ぎで扉をひっしゃり音を立てて閉(し)めて出た。
さて帰りがけにもう一ぺん家の内部を見てやろうと、脊のびをして窓から覗き込むと例の真黒は西班牙犬はのっそりと起き上って、さて大机の方へ歩きながら、私のいるのに気がつかないのか、
「ああ今日は妙な奴に駭(おどろ)かされた」
と、人間の声で言ったような気がした。はてな、と思っていると、よく犬がするようにあくびをしたかと思うと、私の瞬(またた)きした間に、奴は五十恰好(かっこう)の眼鏡(めがね)をかけた黒服の中老人になり大机の前の椅子によりかかったまま、悠然(ゆうぜん)と口にはまだ火のつけぬ煙草をくわえて、あの大形の本の一冊を開いて頁(ページ)をくっているのであった。
ぽかぽかとほんとうに温かい春の日の午後である。ひっそりとした山の雑木原のなかである。
 

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