西洋紀聞
西洋紀聞上卷
寶永五年戌子十二月六日、西邸にて承りしは、去八月、大隅國の海島に、番夷ありて一人來り止まる、日本江戶長崎などいふ事の外は、其言語きゝわきまふべからず、みづから紙上に數圏をしるして、ロウマ、ナンバン、ロクソン、カステイラ、キリシタンなどさしいひ、ロウマといひし時には其身をゆびざせり、此事長崎に注進す、阿蘭陀人にたづねとふに、ロウマといふは、西洋イタリヤの地名にて、天主敎化の主ある所也、ロクソン、カステイラ等のごときは、いかにも心得がたしといふ、又南京、寧波、厦門、臺灣、廣東、東京、暹羅等の人にとふにも、キリシタンといふは、邪敎の名目とは聞及びぬ、其餘の事は心得られずと申すといふ也、と仰下さる、美承りて、其人、西洋の國より來れるは、一定に侍るならむ、されど、其ことばの聞得べからずと申すは、心得られずと申す、かさねて其故を尋下さる、ふるく候ひし人の申せし事を承り覺候し事も侍り、彼地方の人は、きはめてよく萬國のことばに通じ侍りければ、むかし、ナンバンの人、我國に來りし初、數日がほどに、我國のことばに通じ得て、つゐに其敎をも傳へしと申し候ひき、其法の此國に行はれし事も年久しく、其國の人常にゆきかよひ、又此法禁ぜられし時、我國の人其敎に隨ひしものども、彼國に渡しつかはされしも數多く候ひき、されば、彼國の人、此土の言葉はよく通じ候ひなむ歟、我國にもとむる事ありて來らむものゝ、其ことばに通ぜざらむには、なにゝよりてか、其志をもとげ候べき、但し五方の語言同じからずして、其中また古言今言ある事に候へば、其傳習ひし所、我國の中、いづこの人の言葉をか習ひ候ひぬらむ、ましてや、彼國の人、こゝに通ぜざる事、既に百年に近く候へば、今のこと葉に同じからぬ事も候べき歟、これらの心得したらむものして、聞かせ候はむには、いかむぞ其ことばをきゝわきまへぬ事の候べき、阿蘭陀人の申す所は、猶心得られず、ロクソンと申すは、宋元の代より此かた呂宋などしるせし國にて、其國より出し壺をば、我國の人葉茶を貯ふるに宜しとて、呂宋眞壺など申す事は、誰々もしり候ひぬ、またカステイラと申すは、イタリヤなど聞えし地に近き國にて、むかし、其國にて作り出せし菓子の、此土に傳へし物は、今も候なる、これらの事は、美なども其名を聞覺候ものを、其地方の人の心得がたきと申す事、尤心得がたく候歟と申す、申す所其謂ありと仰下されたりき、かくて、彼人は、法にまかせて刑せらるべしなど聞えし程に、其年も暮て、明れば六年己丑の正月十日に、國喪の御事ありて、それらの事も聞えず、此年もまた暮むとするに、十一月の初に至て、去年の冬、大隅國に來りとゞまれる外國の人、近き程にこゝに來るべし、其事の由を尋問ふべきもの也と、仰下さる、また去年長崎の奉行所注進の狀をも、うつし出されたり、これは、彼來りし由いまだ詳ならず、某が申せし事ありしによりて、某して尋問しめられんために、めされしとぞ聞えし、我國のことばのみならましかは、いかにも聞得べし、思ふに、地方人名、または其敎法等の事に至ては、其方言ぞ多かるべき、此法禁の巖なるによりて、阿蘭陀等の國の通事などいふものも、猶さとし得ぬ所ありと聞えたれは、此事に至ては、きはめて難事也、此事、奉行の許には其こと葉など飜譯のものありぬとおもひしかば、しかる物のあらむには、借し賜るべき由を申す、其事執政の人々に仰下されしかば、奉行の許より書三册を進らす、借し下されて、これを見るに、其敎法の大要など見えて、其こと葉を譯せし事はあらず、されど、其中一二の用にあたれる所なきにしもあらず、かくて、彼人こゝに至れりと聞えて、同月の廿二日に奉行所にして召對すべきに及びて、前の日奉行の人々にあひて、其事を約す、〈橫田備中守柳澤八郞衞門〉其日巳の時過るほどに、かしこにゆきむかふ、〈きりしたむ屋敷といふ城北小石川にあり〉奉行の人々出合ひて、かれが携來りし物どもを見る、我國にて新たに製られし金錢等の物見えて、また法衣也といふものゝ、白布にて作れるを、よく〳〵見るに、そのうらの方に、我國の南都にて織出す布の朱印ある也、奉行の人々にも見せ、其餘のものにも見せしに、うたがふべくもあらずといふ、心得ぬ事に思ひしほどに物ども皆見はてゝ、長崎より差副てつかはせし通事のものどもを召す、〈大通事今村源右衞門英成、稽古通事は品川兵次郞、嘉福喜藏といふ、此二人の名は聞かず〉某、彼輩にむかひて、むかしナンバンの人、長崎にありし時は、其國の通事等あり、其法禁ぜられし初には、その人猶ありしかど、それら死うせし後は、其學を傳ふるものあるべきにもあらず、いはんや、法禁の初は、あやまりても、彼地方のこと葉をいひしものは、嚴刑をまぬかれず、たとひ其言葉を聞傳しものも、敢て口より出すべき事にもあらず、かくて、七八十年をすぎぬれば、今はそのことばに通ぜむものあるべきにあらず、凡そ五方の語言同じからねば、たとへば、今長崎の人をして、陸奧の方言聞しめむには、心得ぬ事多かるべけれど、さすがに、我國の內のことばなれば、かくいふ事は、此ことにやと、をしはからむには、あたらずといふとも遠からじ、我萬國の圖を見るに、イタリヤ、阿蘭陀、同じく歐羅巴の地にありて、相さる事の近きは長崎陸奧相さるの遠きがごとくにはあらず、さらば、阿蘭陀の言葉によりて、彼地方のことばををしはからむに、其七八には通じぬべき事にこそ、されど、おほやけに申さむ事には、正しく其語を學得ざらむ事、をしはかりて申さむは、しかるべからず、今日の事、前日の事に同じからず、これおほやけに申す事にはあらず、某がために、そのこと葉を通ずべきためなれば、たとひ彼申さむ事、心得ぬ折ありとも、かた〴〵が心にをしはかりおもふ所を以て、某に申せ、某も又かた〴〵が申す所、正しく彼申す折の義に合へりと、信じ用ひんともおもはず、さらば、かた〴〵がをしはかる所の僻事ありとも、其罪にもあらじ、奉行の人々も聞しめされよ、彼等もとより學び得ぬ所なれば、たとひ解し申す所の訛り多しとも、咎給ふべき事にあらずと申す、人々も承りぬと答らる、かくて、午の時すぐる程に、かのものを召出せり、二人して、左右をさしはさみたすけて、庭上に至り、人々にむかひて拜す、坐を命じてのち、庭上に設置し榻につく、〈其廳事は、南面にて板緣あり、緣をさる事三尺ばかりにして、榻をまうく奉行の人々、緣に近く坐し、某は座の上の少しく奧に坐したり、大通事は板緣の上、西に跪き、稽古通事二人は、板緣の上、東に跪く、かのもの、長途を輿中にのみありて、步に堪ず、獄中よりこゝに至るをも、輿してめし致せり、これによりて、人をしてさしはさみたすけし也、榻につきし後は、寄騎の侍一人、步卒二人、そのかたはらとうしろとにありて、筵の上に跪き居れり、此のちの儀、みなこれに同じ〉其たけ高き事、六尺にははるかに過ぬべし、普通の一は、其肩にも及ばず、頭かぶろにして、髮黑く眼ふかく、鼻高し、身には茶褐色なる袖細の綿入れし、我國の紬の服せり、これは、薩州の國守のあたへし所也といふ、肌には白き木綿のひとへなるをきたりき、〈坐につきし時、右手にて、額に符字かきし儀あり、此のちも常にかくのごとし、其說は末に見ゆ、〉かくて、奉行の人々、通事していはせし事ありしに、拜して後にこれに答ふ、これは、天すでに寒くして、其衣薄ければ、衣あたへしに、うけず、その故は、其敎戒に、その法を受ざる人の物、うくる事なきによれり、されど、飮食の物のごときは、其國命を達せむほどの性命のためなれば、日々に稟粟を費す事、國恩を荷ふ事すでに重し、いかで衣服の物まで給りて、我禁戒にそむくべき、はじめ、薩州の國守の給りし物、身にまとゐぬれば、寒をふせぐにたれり、心をわづらはし給ふ事あるべからずと、申切りたりし由也、此問對事終りて後、人々某を揖して坐をすゝめしめらる、此日は某、他事に及ばず、たゞ彼國地方の事など、通事に命じて問はしめて、其いふ所を聞く、〈萬國の圖を携ゆきて、其圖をしめしてたづねとふに、此圖は、此土にしてしるされし所なれば、精しからずといふ、奉行所に、ふるき圖ありと聞えしかば、かさねては、其圖を出さるべしと相約したりき、〉其問ふ所に答ふる所をきくに、かねておもひはかりしごとくに、事わづらはしからず、但しそのいふ所は、我國幾內山陰西南海道の方言うちまじりて、彼地方の聲音にて、操り出しぬれば、正しく其事とおもふも、疑ぬべき事あり、かれまた、そのいふところを、こなたの人の聞得がたき事もやあるとおもひしにや、必ずそのことばを反覆していふ、又あやまり傳へし事も、すくなからず、まして、彼地名人名に限りては、其土に稱ずるままにいひしかば、それらの事は、よく〳〵たづねきはめて、地名人名等をわかつ、又通事等は、阿蘭陀の語に學び熟しぬれば、舊習にひかれて、彼いふ所のごとくにいひ得がたき事どもあるを、をしへいふ事などもありし、かくして打聞く事、一時ばかりの後には、某も、みづから問ひもし、答へもする事共ありて、日すでに西に傾きしかば、奉行の人々に、又こそ參るべけれと、いとま乞ひす、こゝに至て、彼人、通事にむかひて、某こゝに來りし事は、我敎を傳へまいらせて、いかにも此土の人をも利し、世をも濟はむといふにあり、それに、某が來りしより、人々をはじめて、多くの人をわづらはし候事、誠に本意にあらず、こゝに來りしのち、年すでに暮むとし、天また寒く、雪もほどなく來らむとす、これにありあふ御侍を初て、人々日夜のさかひもなく、某を守り居給ふを、見るに忍びず、かく守り居給ふは、某もしもにげさる事もありなむがためにぞ候らむ、萬里の風波を凌ぎ來りしも、いかにもして、此土に參りて、國命を達せむがために候に、ねがひのまゝに、此折には來りぬ、此所をさりて、又いづれのかたにかのがれ侯べき、たとひ又其こゝをにげさるとも、此國の人にも似ざらむものゝ、いづれのかたに、身を一日もよせ候事のかなひ候べき、されど、仰によりて守らせ給はむ上は、其守怠り給ふべき事然るべからず、晝はいかにも侯へかし夜る〳〵は、手かし足かしをも入られて、獄中につなぎ置れ、人々をば、夜を心やすくゐねられ候やうに、よきに申して給るべしといふ、奉行の人々も、其由を聞て、あはれとおもひし氣色ありしを、某、此ものは、おもふにも似ぬいつはりあるものかな、といひしを、大きに恨みおもひし氣色にて、すべて、人のまことなきほどの恥辱は候はず、まして、妄語の事に至りては、我法の大戒に候ものを、某、事の情をわきまへしより此かた、つゐに一言のいつはり申したる事は侯はず、殿には、いかにかゝる事をば仰候ぞや、と申す、今、汝のいひし所は、年くれ、天も寒きに、こゝに候ものゝ、よるひるとなく、汝を守り居るが、見るに堪がたさに、かくは申す歟と問ふ、其事に候と答ふ、さればこそ、其申す所は、いつはりにてあるなれ、彼等が汝を守るも、奉行の人々の命を重んじぬるが故也、又、奉行の人々も、おほやけの仰をうけて、汝を守らせ給ひねれば、汝がいかにも事故なからむ事をおもひ給ふが故に、衣うすく、肌寒からむ事をうれへて、衣給らむとのたまふ事、度々におよびぬ、もし今汝が申す所のまことならむには、などか、此人々のうれへおもひ給ふ所をやすむじまいらせざらむ、もし此人々のうれへ給ふ所をも、汝が法のためにかへり見ざる所あらば、何條、こゝに候ものどもの法のために汝を守る事、かへり見おもふにはおよぶべき、されば、汝のさまに申せし所の誠ならむには、今申す所はいつはれる也、今申す所のまことならむには、前に申せし所はいつはれる也、此事はいかにも申し披くべしといひしかば、大きに耻おもひし氣色にて、今の仰を承り候へば、さきに申せし事は、誠にあやまり候ひき、さらば、いかにも衣給りて、御奉行の心をやすむじまいらすべきに候と申す、奉行の人々も、よくこそのたまひ給つれといひて、悅びあへり、かさねて、又通事にむかひて、同じき御恩に候へども、ねがはくは、給らむもの、絹紬の類は、某が心なをやすかるべからず、たゞ木綿の類を以て、製し給り候やうに、たのみまいらする候といふ、すでに日くれぬべければ、かれをも獄中に還し、某も歸りぬ、明れば廿三日の夜、通事等、某が家にめして、きのふかのものゝ申せし事の、心得ぬ事ども、尋ねとふ事あり、廿五日に、またかしこにゆく、奉行の人々も出あひて、彼人召出したり、けふは、かの奉行所にある所の萬國の圖を、出されしをもて、彼地方の事をとふに、事明らかにして、異聞ども多かりき、此圖は、七十餘年前に作りし所にて、今は彼國にも得やすからぬ物也、こゝかしこ、やぶれし事、惜しむべき事也、修補して、後に傳へらるべしなど申しき、けふも、巳の時過る頃より、未の初まで問對して、かれをば還しつ、けふは、奉行所より給はりし木綿衣をかさねて、其事を謝す、獄中のやうをも見給へとて、奉行の人々案內してゆく、獄屋の北の方に家あり、そこに、むかし、彼敎の師、正に歸したるを、置れし所也といふ、年すでに老たる夫婦二人のものありて、奉行の人々を迎拜したり、これは、罪あるものゝ子どもの孥となりしを、かのこゝに按置せられしものゝ奴牌に給りしが、夫婦となされし也、これらは、其敎をうけなどいふものにはあらねど、いとけなきより、さるものゝめしつかひし所なれば、獄門を出る事をもゆるされず、奉行所より衣食して、老を送らしむる也けり、さて、彼獄舍を見るに、大きなる獄を、厚板にて隔てゝ三ツとなし、その西の一間に置く也、赤き紙を剪て、十字を作りて、西の壁にをして、その下にて、法師の誦經するやうに、その敎の經文を、暗誦して居けり、それが居る所の南に舍ありて、守れるものども守り居たり、こゝらの事ども見はてゝ後に還れり、晦日に、またゆきむかふ、けふは、奉行の人々、出合給ふにはおよぶまじと申しければ、出合ふにも及ばれず、けふは、過し頃たづねし事共の、なをとふべき事あるを尋問ひて、日を暮しつ、すべて、此ほど尋問ふ事共、彼地方の事のみにして、かれがこゝに來れる由をも、又其敎の旨をも、問ふに及ばず、かれは、事にふれて、その事どもいひ出しぬれど、そのいらへをもせで、うちすぎたりき、その明の日に、申上しは、きのふ迄に、彼人を見候事凡三日、今は、彼が申すほどの事、聞まがふべくもあらず、かれも又某申すほどの事共、よく聞わかち候ひなむ、此上は、かれが來りし由をもたづねきはめばやと存ず、さらむにおゐては、かれが申す所、必ず其敎の旨にわたり候べければ、奉行の人々も出あひて、事の次第をよく承れと、仰下さるべくや候はんと申す、聞召されし由仰下されたり、奉行の人々にも、出合ひ給ふべしといひやりて、十二月の四日にゆきむかふ、奉行の人々も出合たり、彼人を召出して、こゝに來れる事の由をも問ひ、又いかなる法を、我國にはひろめむとはおもひて來れるにや、とたづねとふに、かれ悅びに堪ずして、某、六年がさきに、こゝに使たるべき事を承りて、萬里の風浪をしのぎ來りて、つゐに國都に至れり、しかるに、けふしも、本國にありては、新年の初の日として、人皆相賀する事に候に、初て我法の事をも聞召れん事を承り侯は、其幸これに過ず候とて、〈彼方にしては、十二月四日をもって、歲首とする歟、但し曆法のたがひあるによれる歟、〉その敎の事ども、說き盡しぬ、其說、はじめ奉行所より出せし三册の書に見えし所に、たがふ所もあらず、たゞ其方言の同じからずして、地名人名、すこしく同じからぬあれども、皆々その音の轉じたるのみなりき、凡そ其人博聞强記にして、彼方多學の人と聞えて、天文地理の事に至ては、企及ぶべしとも覺へず、〈彼地方の事共を問ひしに答へし所は、下にしるしぬ、彼方の學、其科多し、それが中、十六科には通じたりと申しき、たとへば、其天文の事のごときは、初見の日に、坐久しくして、日すでに傾きたれば、某、奉行の人にむかひて、時は、何時にか候はんずらむと問ひしに、此ほとりには、時うつ鐘もなくて、と申されしに、彼人、頭をめぐらして、日のある所を見て、地上にありしおのが影を見て、其指を屈してかぞふる事ありて、我國の法にしては、某年某月某日の某時の某刻にて候といひき、これらは其勾股の法にして、たやすき事と見えしかど、かくたやすくいひ出しぬべしともおもはれず、又ヲヽランド鏤板の萬國の圖をひらきて、エウロパ地方にとりても、ローマはいづこにや、とたづねしかど、番字の極めて小しきなるものなれば、通事等もとめ得るあたはず、彼人、チルチヌスや候といふ、通事等なしと答へたり、何事にやといへば、ヲヽランドの語にパツスルと申すものゝ、イタリヤの語にては、コンパスと申すものゝ事に候と申す、某、その物はこゝにありといひて、ふところにせしものを取出してあたふるに、此物は、その合ふところのゆるびて、用にあたりがたく候へどもなからむにはまさりぬといひて、其圖のうちに、はかるべき所を、小しく圖したる所のあるを見て、筆をもとめて、其字をうつしとりて、かのコンパスをもちて、その分數をはかりとりて、彼圖は坐上にあるを其身は庭上の榻にありながら、手をさしのばして其小しく圖したる所よりして蜘蛛の網のごとくに繪がきし線路をたづねて、かなたこなたへ、かぞへもてゆくほどに、其手のおよびがたきほどの所に至りて、こゝにや候、見給うべし、といひて、コンパスをさしたつ、よりて見るに、小しきなる國の、針の孔のごとくなる中に、コンパスのさきはとまりぬ、その國のかたはらにローマンといふ番字あり、と通事餘等申す、此餘、ヲヽランドを始て、其地方の國々のある所を問ふに、前の法のごとくにして、一所もさし損ぜし所あらず、又、我國にして、此所はいづこぞと、とふに、又前の法のごとくにして、此所にやといふに、これも番字にてエドとしるせし所也、これら、定まれる法ありと見えしかど、其事に精しからずしては、かくたやすかるべき事にもあらず、すべて、これらの事、學び得べしやととひしに、いとたやすかるべき事也といふ、我もとより數に拙し、かなふまじき事也といへば、これらの事のごとき、あながちに、數の精しさを待つまでも候はず、いかにもたやすく學得給ふべき事也といひき、〉また、謹愨にして、よく小善にも服する所ありき、〈其人、庭上の榻につくに、まづ手を供して、一拜して、榻につき、右の大指を以て、額にあたりて、畫する事ありてのちに、目を瞑して坐す、坐する事久しけれども、たゞ泥塑の像のごとくにして、動く事なく、奉行の人々、また某の、坐をたつ事あれば、必ず起ちて拜して坐す、還り來りて、坐につくを見ても、必ず起ちて拜して坐す、此儀日々にかはらず、ある時、奉行の人のくさめせしを見て、其人にむかひて、呪誦して、通事にむかひ、天寒し、衣をかさねらるべき歟、我方の人は、くさめする事をばつゝしむ事也、むかし、通國此病せし事ありしが故也、といひき、又通事等ラテン語を通じて訛れるをば、打返し〳〵をしへいひて、習得れば、大きに賛美す、某がいひしをきゝて、通事の人々は、なまじゐにヲヽランドの語に學び熟したれば、舊習の除きがたき所ありて、今仰候ごとくにはあらず、これもとより我方の語に習ひ給はぬが故によりぬ、などいひてわらひたりき、又ヲヽランドの戰船には、其傍に多くの窓をまうけし事、上中下の三層あり、每窓に大砲を出せしといふ事を、いひ得ずして、かたどりいはむとする事もたやすからず、某、左手を側てゝ、その四指の間より、右手の指頭、三つを出して見せぬれば、さこそ候ひしといひて、通事等にむかひて、敏捷におはし候などといふ事共ありき、ノーワヲヽランデヤの地、こゝをさる事、いかほどにや、とたづねしに、答へず、また問ひしに、通事にむかひて、我法の大戒、人を殺すに過る事あらず、我いかでか、人ををしへて、人の國をうかゞはせ候べきといふ、某そのいふ所をきゝて、心得られず、いかにかくいふにや、と通詞等に問はせしに、存ずる所の候へば、これら地方の事は、答申すべからずといふ、猶又その所存を問しむるに、此ほど、此人を見まいらするに、此國におゐての事は存ぜず、我方におはしまさむには、大きにする事なくしておはすべき人にあらず、ヲヽランデヤノーワ、こゝをさる事遠からず、此人、その地とり得給はむと思ひ給はゞ、いとたやすかるべし、さらば、其路のよる所を詳に申さむには、人の國うつ事ををしへみちびくにこそあれといふ、某、これをきゝて、奉行の人々、聞給はむもかたはらいたければ、今きくがごときは、たとひ某そのこゝろざしありとも、我國に嚴法ありて、私に一兵を動かすことはかなひがたしと、いひてわらひたりき、すべて其過慮かくのごとくなるに至れる事どもありき、〉其敎法を說くに至ては、一言の道にちかき所もあらず、智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり、こゝに知りぬ、彼方の學のごときは、たゞ其形と器とに精しき事を、所謂形而下なるものゝみを知りて、形而上なるものは、いまだあづかり聞かず、さらば、天地のごときも、これを造れるものありといふ事、怪しむにはたらず、かくて、問對の事共其大略をしるす所二册、進呈す、すでにして、明斷ありて、我國耶蘇の法を禁ずること年あり、今彼徒のこゝに來れる、行人の其寃を吿訴ふるもの也と稱す、もし行人ならむには、いかむぞ、其國信とすべきものをば帶來らずして、詭りて我國の人となり來れる、たとひ言ふところ實ならむにも、跡のごときは疑ふべし、しかりといへども、稱する所は、彼國の行人也、例によりて誅すべからず、後來其言の徵あらむを待ちて、宜く處決すべきもの也、と仰下さる、某その事情をはかるに、此後に至ても、彼國人のこゝに來らむ事は、絕ゆべからず、されば後按のために、此たびの事ども錄して、進呈すべき由を言上し訖ぬ、いくほどなくして、上にもかくれさせ給ひしほどに、正德四年甲午の冬に至て、かのむかし其敎の師の正に歸せしものの奴婢たりしといふ夫婦のもの、〈この敎師は、黑川壽庵といひしなり、番名はフランシスコ、チウアンといひし歟、奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ、〉自首して、むかし、二人が主にて候もの、世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、國の大禁にそむくべしとも存ぜず、年を經しに、此ほど、彼國人の、我法のために身にかへり見ず、萬里にして、ここに來り、とらはれ居候を見て、我等、いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に墮し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ、これらの事、申さざらむは、國恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也、いかにも、法にまかせて、其罪には行はるべしと申す、まづ二人をば、其所をかへて、わかち置かる、明年三月、ヲヽランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の、初申せし所にたがひて、ひそかに、かの夫婦のものに、戒さづけし罪を糾されて、獄中に繫がる、こゝに至て、其眞情敗露はれて、大音をあげて、のゝしりよばゝり、彼夫婦のものゝ名をよぴて、其信を固くして、死に至て志を變ずまじき由をすゝむる事、日夜に絕へず、此年來れるヲヽランド人申せしは、はじめ、北京におもむきしといふ、トーマス、テトルノンも、ほどなく其國に歸れりと聞ゆ、これは、初よりかしこにありし其國人に妬忌せられて、とゞまり居る事かなひがたくて、など承りぬ、と申しき、また、此人のこゝに來れる事、いかにやおもふと問ふに、されば、此事、我方の人も、心得ぬ事に申す也、或は、もし其罪を犯す事ありて、すでに死に當り候ひしを、いかにも其罪贖うべき事をおもひはかりて、此國に來らむ事を望みしかば、彼國の人も、もしかれが申すごとくに、申ひらく事もありなむには、何の幸かこれにすぐべき、又國法のごとくに殺されんには、もとよりの事也とおもひて、望請う所に任せてもや候らむと申しき、〈ヲヽランド人の說のごときも、さもあるべしや、某が思ふ所は、しかはあらず、彼國の議に、其法行はるべき時至りぬとおもふ所ありて、まず試にこの人をつかわせしにや、と思ふ所ある也、某かく思ひ合せし事は、此人のたづさへ來りし我國新製の金と錢との二ツにあり、某初に、彼もち來りし黃金三品の事を問ひし時に、本國の事のごときは、エウロパ諸國の布施によりて、金銀等の財貨もとむる事を待たずして、猶あまりありといひ、またロソンの地に、白銀多く出ぬる事、また我國東南の海島より金銀多く出ぬるを、イスパニヤ人の、とり得ることなどいひて、これらの物共の事本國にいひ送るまでもなく、我が文一ツかきてロソンに送りつかわすとも、いかほども來るべき事なり、と申せしに、某が耳にはとまりて、此人の今なにの故に來れるにや、と心得ぬ事におもひしが、思ひ合はせぬ、其國にて、我國黃金の製と銅錢の製との改まりしを傳へみて、國財以の外に窮したり、國民さだめてくるしみなむ、民くるしむ時は、命の行はれざる所あり、たとひ其禁なを行わるとも、金銀をもてみちびきなば、其禁開く事ありぬと、おもひ謀りしにや、と思ひしかば、此のちは、金銀等の事は、いひも出す事はせざりき、〉かくて、此年の冬十月七日に、彼奴なるものは病し死す、五十五歲と聞えき、其月の半より、ローマン人も、身病ひする事ありて、同じき廿一日の夜半に死しぬ、其年は、四十七歲にやなりぬべき、
前代の御時に、某申せし事もあれば、今此事をしるす事凡三卷、初には此事の始末をしるして、長崎奉行所より注進せし大略をうつして附す、中には、其人のいひし海外諸國の事共をしるす、終には、某問ひしに答へし事共の大要をしるす、此事、すでに年月を隔てぬれは、今はわすれし事共多くして、そのこと葉のごとき、その事のごときは、なをしるすところの誤りのみぞ多かるべき、それが中に、海外諸國の事に係れる所は、異聞博からむために、もとむる人もありなむには、祕すべき事にもあらず、卷の終の事に至りては、外人のために傳へむ事、しかるべからず、もし、おほやけよりめしたづねらるゝ事もあらむには、此限りにあらざる事は、いふに及ばず、
附錄〈大西人、始來りし時の事、こゝに見えたり〉
大隅國馭謨郡の海上、
正德五年乙未二月中澣筑後守從五位下源君美
白石
君美原印
西洋紀聞中卷
大地、海水と相合て、其形圓なる事、
按ずるに、大西洋地球地平等の圖、其由來る所、いまだ詳ならず、大明吳中明、萬國坤輿圖に題して、歐邏巴國中、鏤有㆓舊本㆒、蓋其國人、及
ヱウロパ諸國、〈諸國、ことごとくしるすに堪ず、たゞ西人の說にあづかれる事を略記す、餘これに倣ふ、〉
イタアリヤ〈漢譯は
シシーリア〈漢譯
按ずるに、本朝寬永年間、こゝに來る耶蘇の徒に、コンパニヤ、ジヨセフといひしは、此國の人なりといふ、〈ジヨセフ、後は正に歸して、字を岡本三右衞門といひし也、〉
ポルトガル、〈〔國都名リサボン又リスボン〕漢に譯して
按ずるに、ポルトガル人、初に豐後國に來れる事は、天文十年七月也、其後、薩摩國に來れるは、天文十二年八月也、慶長元和之間、歲々に來聘せし
亦按ずるに、彼方、天主之敎、我國に入りし事は、此國のはじめて通ぜし時に、フランシスクス、ザベイリウス〈漢に譯して
イスパニヤ〈ヲヽランドの語には、イスパンヤとも、スパンヤともいふ、俗に譯して、
按ずるに、慶長年間、此國始て來聘す、そのゝち、
カステイリヤ〈カステイラともいふ、漢に譯して、
按ずるに、此國むかしより、我に通ぜし事聞えず、但し、我國に始て天主敎を弘めし、フランシスクス、サベイリウスといひしは、此國の人也といふ、
ガアリヤ〈またラテンの語に、フランガレキスとも、フランガレンギヨムともいふ、そのレキス、レンギヨムといふは、國といふがごとしといふ也、また、イタリヤの語には、フランスヤとも、フランガレイキともいひ、ヲヽランドの語には、フランスといふ、漢に譯して
按ずるに、此國の商舶、むかしはこゝに來れりといふ、其事いまだ詳ならず、或人の說に、大明の書に、
ゼルマア二ヤ、〈ヲヽランドの語には、ホーゴドイチとも、ドイチともいふ、漢に
ブランデブルコ〈フランデボルコともいふ、漢譯、いまだ詳ならず、〉ゼルマアニヤの東北、ホタラーニヤの西北にありホタラーニヤ、(〈和蘭呼爲㆓ボウル㆒。〉)〈漢に
ポローニヤ、〈漢に譯して、
サクソーニヤ、〈
モスコービヤ、〈ムスコービヤともいふ、漢に
スウエイチヤ、〈スエシアとも、スウエツヤともいふ、ヲヽランドの語には、スウエイデともスペイデともいふ、漢に
ヲヽランデヤ、〈ヲヽランドともいふ、漢に
按ずるに、此國始て此に通ぜしは、慶長五年の事也、エウロパ地方の國、むかしより、其貢聘の絕ざるものは、ひとり此國のみ也、
アンゲルア、〈アンゲリヤともいふ、イタリヤの語には、エンゲルタイラといひ、ヲヽランド人は、インゲラントといふ、漢には、
按ずるに、本朝慶長の五年、此國始てヲヽランド人と共に、我國に通ず、十八年の秋、はじめて貢聘す、明年にまた來れり、其後來る事未㆑詳、延寶元年五月、我國漂流の人を送り來る、七月に至て、其國に歸れり、
慶長十八年癸丑八月四日、インカラテイラ國使來る其書蕃字、通事譯し云、おふぶりたんや國、ふらんす國、ゑらんだ國、三國の帝王に十一年以來なり候云々、其名の所に、大ぶりたんや國の王、居城はおしめしきせめし帝王れいきく、又譯云、いがらたいら、又は、げれぶろたんとも申候、いづれも國は一つ名は二つ有㆑之、卽いぎりすへの返書つかはさると云々、九月一日の事也、〈校者云此の文は原書中卷の首に付紙となりてありしを今書込みてこゝに入れたり〉
スコツチヤ、〈ヲヽランドの語に、スコツトランドといひ、またシコツテアともいふ、漢に譯して、
イべリニヤ、〈ヲヽランドの語に、イヽルランドといふ、〉エウロパ西北海中にありて、アンゲルア、スコツテヤ等の國に相逼近し、
グルウンランデヤ、〈漢譯前に見えたり〉、此國の極南は、ヱウロパの北海に至り、其北地は、ソイデアメリカにつらなれり、此方、寒凍極めて甚しく、人物を生せず、ヲヽランド人、海鯨を逐ふて、此地に就て捕るといふ、〈ヲヽランド人の說に、むかし本國の人相議して衣食器械、寒をふせぐべき物どもを備へて、此地に就てとどまる、かくて明年に至て、本國の人、また至て見るに、其人、坐するものは
大凡、エウロパ地方の諸國、其君を立るに、其嗣たるべきもの、すでに定まれるは、論ずるに及ばず、もし嗣いまだ定まらざるは、臣民各共嗣とすべきものゝ名をしるして出す、其しるせし所の數、多きものを以て、其君とす、君其臣に官を命ずるも、亦これに同じ、臣民薦むるもの多き人を擧用ふ、君
アフリカ諸國、
トルカ、(〈萬國全圖都兒瓦或北イタリヤの語に、トルコといひ、他邦には、ツルコといふ、漢に譯せし所いまだ詳ならず、〉)此國、其地甚廣くして、アフリカ、エウロパ、アジアの地方につらなり、國都は、古のコウスタンチイの地、〈古の時、ローマの君、地を避けし所也といふ、コウスタンチイ、またコンスタンチヤともいふ、漢譯未㆑詳、アフリカの地、バルバアリヤの北、マーレニゲーテラーニウムに近き所にあり、バルバアリヤは、漢に巴耳巴里亞、また
按ずるに、其說に、アフリカの地方、こと〴〵くトルカに屬し、また東北は、ゼルマアニヤに至り、東南は、スマアタラに至るといふ、またジヨセフが說によるに、此國ポルトガルに相隣れりといふ、またヲヽランド人に、此國の事を問ふに、其地、東北タルターリヤに相聯る、これ其種類也といふ、さらば、トルカの地、西北はポルトガルの地に相接し、東北は、ムスコービヤの東に至れり、〈ムスコービヤは、ゼルマアニヤの東北にありて、最遠く、タルターリヤに相近し、〉たゞ其東南海を越て、スマータラに至るまで、此國に屬すといふ事、心得られず、又其大國たる事かくのごとし、萬國坤輿圖等の諸說、此國の事に及ばず、漢譯また詳ならぬ事も、心得られず、〈按ずるに、萬國坤輿圖に、利未亞州
カアブトボネスベイ〈イタリヤの語にカアボテボネイス、フランサといひ、ヲヽランドの語に、カアポテホース、フランスとも、カアプともいふ、漢譯未㆑詳、其地は、すなはち漢に
マタカスカ〈漢に、
按ずるに、萬國坤輿圖、利未亞の地、七百州ありと注して、此方の名山大川、其大略をしるす、ローマ人、ヲヽランド人等の說く所も、此方の土俗人物等、皆詳ならず、おもふに、此方トルカの地に係りぬれば、ヱウロパ人至るものすくなくして、其事いまだ詳ならぬ歟、たゞそのカアプ、マタカスカの地、ヲヽランド人說くところは、其人禽獸にひとしといふ、〈ヲヽランド人、マタカスカに至て、其地產をとる、土人畏れ避けて相近かず、飮食の餘をすつるを見るにおよびては、またひそかに來りて竊食ふ、その癡呆なる事、かくのごとしといふ、〉
アジア諸國、
ハルシヤ〈漢に、
按ずるに、此國出す所名產多し、ヲヽランド人の說に天下良馬を產ずる地、たゞ日本とハルシヤとのみ、萬國の地、およぶ所にあらずといふ、本朝慶長年間、暹羅、柬埔寨等の國、聘を通じて、しきりに馬を賜らむ事を望請ひし事あり、さらば、ヲヽランド人のいふ所、誣ずといふべし、
モゴル、〈漢に
按ずるに、其說に、天下の宗とする所の敎法三つ、キリステヤン〈ヱイズスが法、我俗キリシタンといふ、此也、〉ヘイデン、〈またこれをゼンテイラとも稱すといふ也、〉マアゴメタン、これ也、そのマアゴメタンは、モゴルの敎にして、アフリカ地方、トルカもまた其敎を尊信すといふ、おもふに、これ漢に回回の敎といふもの、或は是也、〈或人說に、回回すなはちモウルといふ、心得られず、萬國坤輿圖を按ずるに、
ベンガラ、〈ヲヽランドの語は、ベンカーラといふ、漢に
インデヤ、〈漢に譯して、
按ずるに、はじめ、ポルトガル人、ゴアの地に據りて、つゐに廣東海港の地を借りて、其人をわかち置て、海舶の事を管せしむ、本朝慶長元和の間、或は西域國總兵巡海務事と稱し、或は西域國奉行天川港知府事と稱じて、歲々に朝貢せし
セイラン〈またセイロンとも、サイロンともいふ、漢に譯して
按ずるに、此國の南地に、コルンボと稱ずる所あり、其人色黑し、漢にいふ所の崑崙奴、或は是也、ヲヽランド人の說に、凡そ赤道に近き地の人、ことごとく皆クロンボにして、其性慧ならずといふ、其クロンボといふは、コルンボの音の轉ぜしにて、その人色黑きをいふ也、〈此に、黑色をクロシといふ、されど、近俗、人の色黑きを、クロンボといふは、もとこれ番語に出づ、〉
スイヤム、〈シヤム、またはシヤムローともいふ、漢に
按ずるに、本朝慶長年間、其國始て通ず、元和寬永の間、其王しきりに金葉の書を〈我俗に、金札といふもの、これ也、〉奉て、聘問す、今におゐては、たゞ其商舶の來るのみありて、歲々に絕ず、〈慶長之初、我國の人、かしこにゆきて、つゐに其王臣とれるものどもあり、其人、また我國の執政に書聘を通じたりき、それらが子孫、猶今も其國にありといふ、〉
附
占城〈チヤンパといふ、番名いまだ詳ならず、〉
マロカ、〈マラカ、またはマテヤといふ、漢に
按ずるに、本朝慶長十七年二月、ヲヽランド人奉れる書に、當時カステリア人と、マロカに戰ふ事を載たり、さらば、此地もとカステイリア人の據りし所を、ヲヽランド人戰逐ふて、つゐにみづからこゝに據りしとみえたり、カステイリアは、すなはちカステイラ、ポルトガルの與國也、
スマアタラ〈ソモンタラともいふ、漢に、
ジヤガタラ、〈漢に
按ずるに、慶長の比、ヲヽランド人、バンタンに往來の事聞ゆ、バンタンは、すなはちジヤワの地名、漢に
ボルネヲ〈ボルネヨ、またはボルーネル、漢に
マカサアル、〈漢譯未㆑詳、これセレベスの南地の名也、セレベスは、漢に譯して、
附
マカサアルの東北海中に、メンダナヲといふあり、〈メンダナヲ、漢に
ロクソン〈ロソンともいふ、漢に
按、慶長年間しきりに我國に聘せし
ノーワヲヽランデヤ、海南にあり、其地極めて濶し、今はヲヽランド人倂せ得たり、これによりて、ノーワヲヽランデヤと名づくといふ、
此地の事ヲヽランド人にとひしに、此地ジヤガタラより南にさる事四百里許、〈これ我國の里數によりていふ所也、〉本國の人、はじめてこゝに至る事を得たり、其土極めて濶し、其人禽獸のごとくにして、言語通ぜず、地氣甚熱くして、こゝに至れるものども、病ひし死して、生殘るものわづかになりて、歸る事を得たりノーワヲヽランデヤと名付し事は、其地を倂せ得たるの義にはあらず、本國の人、新たにもとめ得し所なるが故也といふ、〈此事詳なる事は、阿蘭陀の事しるせしものに見ゆれば略す、〉
按ずるに、其人の言に、チイナといふは、卽支那也、タルターリヤといふは、卽韃靼也、ヤアバンニヤといふは、卽日本也、此等地方の事、其經歷せし所に係らざれは、其說のしるすべき事もなし、萬國坤輿圖に據るに、韃靼の東方、海に至るまでの地を圖して、狗國、室韋、野作等の國、其地にありと見えたり、阿蘭陀鏤板の圖に據りて、阿蘭陀人の說をきくに、ヱソ〈ヱソ、漢に譯して
ノヲルト、アメリカ諸國、
ノーワ、イスパニヤ、〈漢に、新伊西把爾亞と翻譯す、我國の俗にノヲバイスパニヤ、またはノビスパンヤといひし此也〉ノヲルトアメリカの南地にあり、こゝを過て南する時は、すなはちソイデアメリカの地也、イスパニヤ人倂せ得て、新たに國を開きし所也、其海口アカプールコといふ地、番舶輻湊、人民富饒之地也といふ、
按ずるに、本朝慶長十五年、此國の舶、逆風に放されて、我國に漂來る、其舶を修め整へしめて、還さる、同十七年の夏、其國入聘して、恩を謝す、此年、我國の商舶も、かしこにゆく、今はすなはち絕たり、
ノーワ、フランスヤ、〈漢に譯して、新拂郞察といふ、〉ノヲルトアメリカ東北の地にあり、其地甚濶し、これまたフランスヤ人倂せ得て、新たに國を開きし所也といふ、
按ずるに、此方の地、極めて濶く、其俗、木石と共に居り、鳥獸と共に羣す、エウロパ地方の國々、その地を倂せて、新たに國を開きし多し、ノーワイスパニヤ、ノーワフランサ等の外に、ノーワ、カラナヽタ〈カラナヽタ、漢譯いまだ詳ならず、其本國は、エウロパ地方、イスパニヤの南、地中海の上にあるなり、〉、ノーワ、アンタルシア、〈アンタルシア、漢に
ソイデ、アメリカ諸國、
バラシリヤ、〈パラシリヤともいふ、漢に
按ずるに、祕府にエウロパのクラントあり、ヲヽランド人、此國人と戰ひ、勝ちし事を、しるせし見ゆ、其注する所に、據るに、ヱイズスの敎、此地方にも行はれし也、〈クラントは、ヱウロパの俗に、凡そ事ある時は、其事を圖注して、鏤板して、世に行うもの也、〉
附
萬國坤興國に據るに、南亞墨利加、
附
當時エウロパ地方、こと〴〵く戰國となりし事は、初イスパニヤの君、名はイノセンチウストーデーシムス、嗣とすべき子なし國人は、ゼルマアニヤの君の第二の子、名はカアロルス、テルチウス、かならず其嗣となるべしとおもひたり、これは、ゼルマアニヤは、此方の大國にして、しかも其君の子はイスパニヤの君の外姪なるが故也、〈イノセンチウスは、イスパニヤの君の名也、トーデーシムスは、こゝに十二世といふがごとく、其國の大祖より、十二代にあたれる君なるを、かく稱するは、此方の俗也、カアロルスは、ゼルマアニヤの君の子の名也、テルチウスは、こゝに第二子といふがごとし、〉十年前におよびて、〈本朝元祿十三年庚辰なり、〉イスパニヤの君、死する時に至て、其嗣いまだ定まらず、其親戚群臣に遺令して、一封の書をとゞめ、我死せば此書を捧げて、天主像前に至て、披らき見よ、我嗣の事は、これにしるせりといふ、國人基書を捧げて、ローマンに至て、天主の像前にして披き見るに、フランスヤの君の孫、名は、ピリイフス、クイントスを以て、嗣とすべしとしるしぬ、〈クイントスは、こゝに第五子といふがごとし、フランスヤの君の嗣子の第五の子也、〉人皆驚きて、敢て言を發せず、されど、其君の命ぜし所なれば、敢てたがふべからず、フランスヤの君の孫をむかへて、君として、其冠をわたす、〈世を繼て、位につく時に、先世より相傳し所の冠をかうふる事、此方の禮也といふ、〉ゼルマアニヤの君悅びずして、其第二子を納むとす、ローマンのホンテヘキスマキスイムス、トーデーシムス、〈ホンテヘキスマキスイムス、こゝに最第一無上等といふがごとし、これ此方敎化之主の號也、トーデーシムス、これも其祖より第十二世なり、〉ゼルマアニヤ、フランスヤの君に說きて、相平がしむるに、ゼルマアニヤの君、其言を用ゐず、つゐにレヲポルースをして、水軍四萬の將として、〈レヲポルースは、其將軍の名、〉其子をイスパニヤに納る、其國のホルトス、こと〴〵く皆兵を發して、これにしたがふ、〈ホルトスは、その屬國の君號なり、〉イスパニヤ人、兵三萬を發し、フランスヤの君、援兵四萬を發し、すべて水軍七萬、これをふせぐ、ヲヽランド人、アンゲルア人、ゼルマアニヤをたすけて、兵を發す、イスパニヤ、フランスヤ等の與國も、またをの〳〵其兵を發し相たすけて、或は陸に戰ひ、或は水に戰ひて、其戰やまず、すでにして、六年の前、ゼルマアニヤの君死し、〈本朝寶永元年甲申〉五年の前、ポルトガルの君も死す、〈これイスパニヤの與國なり、〉兩軍水陸の兵、戰ひ死するもの、すでに十八萬人に餘れり、又ポローニヤの君死してブランデブルコ、リトアニヤ、ゼルマアニヤ(〈漢譯、肥良的亞、禮勿泥亞〉)の三國、其國をあらそひ、ポローニヤの兵、戰死するもの七千人、ゼルマアニヤの兵もまた戰死するもの二千人に及びき、〈此戰の事は、其說詳ならずリトアニヤもまたいまだつまびらかならず、〉またムスコービヤ、サクソーニヤ、相くみして、スウエイチヤと戰ひ、ムスコービヤ、またトルカと戰ふ、凡十年の間、諸國こと〴〵くみだれて、此方の人、其生をやすくせず、我こゝに來らむとする始、〈これ本朝寶永四年丁亥の事、〉、フランスヤより船にうかび、カナアリヤにゆかむとするにアンゲルア、ヲヽランデヤ等の兵馬廿萬、其戰艦百八十隻、チビリタイラにみち〳〵て、ゆく事を得ず、ゼルマアニヤ人に說きて、わづかにまぬかれて、こゝを過ぬといふ、〈カナアリアは、海島の名、エウロパの海西にありて、フランスヤに屬す、チビリタイラは、ポルトガル、トルカの海門にあり、〉
續〈前說は、これ庚辰より丁亥に至る、凡十年の間の事也、それより後の事はヲヽランド人の說を、こゝにしるしぬ、〉
己丑年四月、〈本朝寶永六年なり〉ヲヽランド人、フランスヤ、イスパニヤ等人と戰ひ、一萬餘人を斬て、フランスヤの地、レイセル、バルゲ、タウルネキの三城を取る、ヲヽランド人戰死するものも一萬餘におよべり、庚寅年〈本朝寶永七年なり〉四月、ヲヽランド人、イスパニヤ人と戰ひ、五千人餘を斬て、三千人を虜にす、六月、ヲヽランド人、フランスヤに攻入りて、一萬三千人を斬り、四千餘人を虜掠す、ヲヽランド人も戰死するもの一萬千人餘、つゐにそのドーワイ、ベトーネ、センタマン、モンス、四城を降しつ、辛卯年〈本朝正德元年也、〉七月、ヲヽランド人フランスヤに攻入りて、其國都パレイスを去る事四十里、ブシヨムの地を取り、つゐにゼルマアニヤ人と共に、イスパニヤ人と戰ふ、此年八月、トルカ、タルターリヤの兵、ムスコービヤと戰ひて、さきにそのために侵し奪れしトルカの地を復す、又此年秋、スウエイデと、デイヌマルカとの戰起れり、これは、さきに、兩國地を爭ひて、デイヌマルカ(漢譯第那瑪爾加)の戰利なく、こゝかしこの地をうしなふ、ヲヽランド人、デイヌマルカを援來りて、つゐに兩國に說てたいらがしむ、此年、デイヌマルカそのうしなひし地を復すべきために兵を發す、壬辰年、〈本朝正德二年なり、〉此年の春、アンゲルア、ヲヽランド人、トルコ、ムスコービヤに說て、相たいらがしむ、四月、ヲヽランド人、ゼルマアニヤ人と共に、イスパニヤ、フランスヤ人と戰ふ、その軍、をの〳〵十萬人、敵を斬る事凡一萬餘、ヲヽランド、ゼルマアニヤ人の戰死するもの、九千五百七十人、をの〳〵軍を引て去る、七月、ヲヽランド人、フランスヤの地、クイノを攻取りつゐにマルセネの地に入りて戰ふ、敵よく拒戰ひ、勝ことを得ず、軍を引て還る、かくて、此年以來、ゼルマアニヤ、フランスヤのうらみによりて、輿國をの〳〵其兵につかれ、兩國に說きて、相たいらがしめむとす、兩國言ありて相したがはず、癸巳年〈本朝正德三年の事なり〉九月、兩國つゐに相平ぎ、をの〳〵の侵せし所の地、虜にせし所の人を還す、
按ずるに、ゼルマアニヤ、フランスヤの戰始りし事は、本朝元祿十三年庚辰に當れり、兵連なる事十四年にして、事たいらぐ、此年、本朝正德三年癸巳也
君美
一字在中
西洋紀聞下卷
大西人に問ふに、其姓名鄕國父母等の事を以てす、其人答て、我名はヨワン、バツテイスタシローテ、ローマンのパライルモ人也、〈すべて其語を聞くに、聲音うつし得べからず、其名を稱するごときも、ヨワンといひ、ヲアンといひギヨアンといふがごとし、其近く似たるをしるす也、餘皆これに倣ふ、そのヨワンといふは、ラテンの語也、ポルトガルの語は、ジヨアンといひ、ヲヽランドの語には、ヨヤンといふといふ、パライルモは、ローマンに隸する地名也といふ〉父はヨワンニ、シローテ、死して既に十一年、母は、エレヨノフラ、猶今ながらへて世にあらんには、是年六十五歲也、〈父の名と、其名と、相似て、たゞニといひ、バツテイスタといふのみ同じからず、此事を問ふに、昔エイズスの大弟子十二人の中に、ヨワンニスといふありき、凡そキリステヤンをの〳〵其法をうけつぎし祖師の名を、みずからの名に加稱す、ニといひ、バツテイスタといふ、皆名也、シローテといふは、姓也といふ〉兄弟四人、長は女也、幼にして死す次は兄也、ピリプスといふ、次は我、是年四十一歲、次に弟あり、十一歲にして死して、既に廿年、我幼よりして、天主の法をうけ、學に從ふこと廿二年、師とせしもの十六人、〈彼方の學、其科多し、師十六人といふ事は、其學科につきて、をの〳〵師ありしといふ、〉ローマンにありて、サチエルドスに至り、六年前に、一國の薦擧によりて、メツシヨナヽリウスになされたりき、〈サチエルドスは、彼方敎化の主よりして、第四等の號、メツシヨナヽリウスは彼方
男子其國命をうけて、萬里の行あり、身を顧ざらむ事はいふに及ばず、されど、汝の母すでに年老ひて、汝の兄も、また年すでに壯なるべからず、汝の心におゐて、いかにやおもふと問ふに、しばらく答ふる事もなくて、其色うれへて、身を撫していふ、初、一國の薦擧によりて、師命をうけしより、いかにもして、其命を此土に達せむ事をおもふの外、又他なく、老母老兄も、また我此行ある事は、道のため、國のため、其幸これに過ずと、悅びあへり、されど、此體擧りて、父母兄弟の身をわかたずといふ所あらず、いきて此身のあらむほど、いかでかこれをわするゝ事はあるべきといふ
我國の風俗語言は、いかなる人に就て、訪ひ學びしにやと問ふに、其懷にせし二小册子を取出て、これら此土の事を記せし所也、またロクソンに至りとゞまれる時に、此國の人にあひて、訪ひ學びし事どももありきといふ、其小册子の名、一つをば、ヒイタサントールムといふ、これ我國の事を記せし所也、一つをば、デキシヨナアリヨムといふ、これ我國のことばをしるして、彼方の語を以て翻譯せし所也、〈二册子共に、長さ五寸許、廣さ四寸許、こゝに、やまととぢといふものゝごとくにして、其厚さをの〳〵一寸には餘れり、我國の事を記せしといふ物には、繪かきしものを、さしはさみてありき〉ロソンにて、我國の人にあひしとは、もとよりかしこにありし我國人の子孫、すでに多く、また三年前に我國人の風に放されて、かしこに至りし十四人有しにあひて、此土の事ども、たづねとひしといふ、
其行囊の中に、ある所の黃金三品、彈のごとくなるあり錠のごとくなるあり、我國元祿年製の錠あり、〈こゝにいふ小粒判、〉また我國の新錢のあるあり、此等は、何れの方にて、もとめ得しところなるにやと問ふに、凡そ羈旅の人、行資なくしてかなふまじきは、いふに及ばず、初ローマンを去りし時、スクウタアルセンテヤといふ銀をもち出しを、カアデイキスといひし所にて、イスパニヤの銀に換得て、又それを、マルバルに至りし時に、ホンテチリといひし所にて、其國の銀に換得たりき、これは其地方によりて、各其國の寶貨の形製同じからず、其地方に行はるゝ物にあらざれば、用ふべからざるが故也、〈スクウタは、其銀の形の名也、アルセンテヤとは、銀といふ事の番語也、カアデイキスは、イスパニヤの地名也、マルバルは、インデヤの地名、ゴアの南にあり、ホンテチリは、マルバルの街坊の名、人物繁盛の地なりといふ、〉ロクソンに至りて、また黃金に換たり、これ此土には、黃金を重貨とするが故也、彈のごとく錠のごとくなるもの、すなはち此也、此土の金錢は、三年の前に、ロクソンに到りし人のもちし所に、換來れる所也といふ、
其法衣の名を問ふに、ルリヂヨと答ふ、これを製れる所の布は、我國の產也、いづれの方にて、求得しにやと問ふに、これもマルバルのホンテチリにて買得て、ロクソンに至て、法衣とはなしぬといふ、〈其法衣、ポルトガルの語には、カツパといふ、昔我俗其製に倣ひ、雨衣を作れり、今其製を見るに、今俗にマルガツパといふ物のごとくにして、くびかみの所、少しく異也、これを身に被きて、前襟にて、ボタンといふ物をもて、左右を鎖す、其たけ長くして地を曳くこと三四尺に至れり、本師より以下、其等位の高下によりて、其たけの長短あり、本師の着る所は、特に長くして地を曳く事數尺、侍者して、これをとらしめてゆく也といふ、〉
其同門の人、
むかし、我國に來りて、始て其法を說しものゝ事を問ふ、今を去る事、百二三十年前、彼方の化人に、フランシスクス、サベイリウスといひし、此土に至りて、我法を說く、豐後の屋形、はじめに其敎を信受して、つゐに管下の大名して、はるかに我本國に使せしめ、多くの物を施入せらる、其使、いとけなき子を携來て、我徒となし、歸らむとするに及びて、身死したり、其使葬りしところは、猶今にローマンにあり、其フランシスクス、サベイリウスは、カステーリヤの人にして、ポルトガルの君の師たりしかど、我法の弘通のために東し、此土に來れる事も、再びに至りて、其西に歸れる時、サンチヤンにして終りき、サンチヤンは、チイナ、カンタンの南にある海島也といふ、〈カンタンは、廣東也、サンチヤンは、卽
按ずるに、フランシスクスは、漢に
大明の萬曆年聞、始に天主の敎を倡ひし大西洋の人、利瑪竇が事を問ひしに、答ふる所なし、ふたゝびとふに我いまだ其事を詳にせずといふ、
按ずるに、フランシスクスサベイリウスがごときは、いにしへより此かた、こゝに至れる大西の人、其事を說ざるものはあらず、彼利子がごときも、明季諸儒の言に據るに、凡大西の人にありて、其人を知らずといふ者なかるべし、しかるにいまだ其事におよびしものはあらず、心得られず、後に新刻大藏の闢邪集を見るに、利子は
彼方戰國の事を聞て、其兵いづれか最强きと問ふに、陸戰はトルカに敵するものあらず、水戰は古にはフランスヤの兵を稱す、其後は、アンゲルアに敵するものあらず、今に至ては、ヲヽランデヤを其最とす、アンゲルアもまたこれに次ぐ、其戰船、高く大きなる事山嶽のごとくにして、其船旁に、窓を設くる事三層にして、每層に八九あり、各窓大砲を架して、敵船の大小高下遠近に隨ひ、其砲を發す、其遠きに及び、堅きを破る事、ヲヽランデヤの制にしくものあらず、我むかしフランスヤにゆきて、近海の所、民物豐富の地を見たりき、こゝに來らむとして、其所をすぎしに、こと〴〵く皆赤地となりて、生草をだにも見ず、其事を問ふに、ヲヽランド人の大砲のために陷りて、方數里の地、忽にかくなりしといひしといふ、
ヲヽランド人に、其大砲の制を問ふに、スランガといふは、鐵彈の重さ八斤、カノンといふは、鐵彈重さ四十斤、半里の外に至る、〈我國の里數をもてはかる也〉其たけ短かければ、遠きに及ばず、ボンといふは、鐵彈の圍み、合抱、其中を虛にして、火藥を實て、空にむかひて發つ、地に墜る時に、彈、碎けて火發し、土に入る事五六尺許、方里許は、こと〴〵くに灰塵となる、此器最遠きにおよぶといふ
彼方、火器の始をとふに、ジユデヨラのトウツパルカインの人、始め作れり、其地ダマスクスといふ所に相近しスコルペイトウムの始は、今をさる事すでに二千餘年也といふ、〈ジユデヨラ、またユデヨラといふが如し、漢に如德亞と譯せしこと卽此也トウツパルカイン、ダマスクス、皆地名、漢譯不㆑詳、スコルペイトウムは、こゝにいふ銃なり、〉
ヲヽランド人に、銃砲等の始をとふに、其始をばしらずといふ、
イスパニヤ、フランスヤのごとき、海外の國を倂せ得て、國を開きし事を問ふに、たとへば、ノーワイスパニヤのごときは、初其國を治むるものもなく、其人こゝかしこむらがり聚りて相爭ひ、弱きは、强きが肉となりて、人の屍を相食ふに至れり、イスパニヤ人、風のために放されて、こゝに至りて、其衣食の業ををしへ、資財の用を通じて、みちびくにデウスの敎を以てす、此方の人、始て其生養の道を得て、相悅び服し、つゐに其地を納れて、本國の君の治めむ事を望請ひぬ、ロクソンのごときも、俗皆裸體にして、わづかに樹皮を以て、前後を遮る、其人また禽獸に相遠からず、イスパニヤ人、こゝに至るに及びて、其生養の道を得るのみにあらず、我敎ある事をもしりぬ、國人擧りて、本國に內屬せむ事を望請ふ、或人諫て、相去る事萬里にして、彼國を治めむ事、我財用もまた給ぐべからず、棄てむにはしかじといふ、本國の君、海外の人をして、いきてその生を安くし、死してこの苦をまぬかれしめんには、我デウスの恩に報ふる所、すくなからじといひて、つゐに其請ふ所をゆるされき、此餘、ゴア、アマカワのごときは、其地を借て、海舶互市の事に便する所也、すべて其國を侵し奪ひしなどいふ事にはあらずといふ、〈ノーワイスパニヤ、ロクソン、皆國名、ゴアは、インデヤの地名、アマカワは、阿瑪港、廣東にあり、皆前に詳也〉
我國、東に
按ずるに、凡國を論ずるに、其土の小大、其方の近遠によらずといふは、達論に似たり、又國を誤るもの、其敎によらず、其人によるといふも、其言また理あるに似たり、されどまた、其敎とする所は、天主を以て、天を生じ、地を生じ、萬物を生ずる所の大君大父とす、我に父ありて愛せず、我に君ありて敬せず、猶これを不孝不忠とす、いはんやその大君大父につかふる事、其愛敬を盡さずといふ事なかるべしといふ、禮に、天子は、上帝に事ふるの禮ありて、諸侯より以下、敢て天を祀る事あらず、これ尊卑の分位、みだるべからざる所あるが故也、しかれども、臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て天とす、されば、君につかへて忠なる、もて天につかふる所也、父につかへて孝なる、もて天につかふる所也、夫につかへて義なる、もて天につかふる所也、三綱の常を除くの外、また天につかふるの道はあらず、もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐての二尊、國におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし、たとひ其敎とする所、父をなみし君をなみするの事に至らずとも、其流弊の甚しき、必らず其君を弑し、其父を弑するに至るとも、相かへり見る所あるべからず、
我國、ひとり東にあるのみならず、チイナもまた東にありて、其文物聲敎、古より稱して中土とす、其國またいかにと問ふ、されば此土の人のごときは、たとへば圓なる物を見るがごとく、チイナの人は、方なる物を見るに似たり、また此土の人溫にして和なる事、かくのごとしといひて、みづから手をもて其衣を把り、又手を似て其榻を撫て、チイナ人の固くして澁れる、これに似たり、近きを賤しみて、遠きをたつとぶべからずといふ、
按ずるに、方圓の說、其試る所あるに似たり、漢人のごときは、其所謂堯舜以來聖々相傳ふる道ありて、異端の言に至ては、老佛の微言も、なを行はれ難き所あり、我國のごときは、古より此かた佛氏の學盛にして、宗をたて、派をわかち、其徒をの〳〵我敎を倡ひ、天下の人、彼に歸せざれば、これに入り、みづから異敎を見て、怪しむ事をしらず、かれを轉じてこれに移すに、其說行はれやすき事、漢人の正を守て、動かしがたきがごとくにあらざれば也、
其こゝに來らむ始、本師命ぜし所、また彼吿訴ふる事ども、其大要いかにと問ふ、昔フランシスクス、サベイリウス、始て此土に來りて、我法こゝに行はれし事七十餘年、タイカフサメの時に至て、始て我徒を退け逐はる、〈タイカフサメは、こゝにいふ所の太閤樣也、其事は、秀吉九州を征されし時に、長崎に住せしパアテレを逐出されし事をいふなり、〉これよりして、我法の師徒、因誅をまぬかるゝものなく、つゐにエウロバ諸國の人、此に通ずる事を得ざるに至れり、先師ホンテへキス、マキスイムス、イノセンチウス、ウンデイシムス、〈ホンテへキスマキスイムスは、こゝに最第一無上等といふがごとし、ローマン敎化之主の號なり、イノセンチウスは名也、ウンデイシムスは、こゝに十一世といふがごとし、其第一祖より十一世にあたれば也、ウンは一つ也、デイシは、十也、ムスは、世といふがごとしといふ、〉此事を深く歎きしかど、其志むなしくして、十年前に終れり、今のホンテへキスマキスイムス、キレイメンス、トツヲデイシムス、〈キレイメンスは、名也、トツヲデイシムスとは、十二世といふがごとし、トツヲは、二つ也、デイシは、十也、ムスは、世といふがごとしといふ、〉前志を繼ぎて、此事を議せしむるに、衆議決せずして、年を經しほどに、カルデナアル相議して〈カルデナアルは、本師に次ぎしもの、七十二人ありといふ、〉昔チイナにおゐても、我法を禁じしかども、今は其禁開けしのみにあらず、其天子の使、こゝに來る、またスイヤムのごときも、我法を禁ずといヘども、これまた其禁を除けり、今に至ては、チイナ、スイヤム、すでにかくのごとし、〈此事前に見ゆ、〉ヤアパンニヤにも、まづメツシヨナヽリウスを奉りて、吿訴ふる所ありて、次ぐにカルデナアルをヌンシウスとして其好を修めて、我法を、再び東土に行はるべきもの歟と申す、〈ヤアパンニヤは、日本也、メツシヨナヽリウスは、前に注せり、カルデナアル、上に見えたり、ヌンシウスは、こゝに信使といふがごとしといふ、〉衆議つゐに一決して、メツシヨナヽリウスたるべきものを撰ぶに、衆また同じく某を薦擧しかば、其命をうけてこゝに來れる事は、前に申すがごとし、老大の母と兄とを棄て、萬里に來る事、法のため、師のため、其他あるにあらず、初、此命をうけし日より、我志を決せし所三つ、其一つは、本國望請ふ所を聽されて、我法ふたゝび此土に行はれんには、何の幸かこれにすぐべき、其二つには、此土の法例によられて、いかなる極刑に處せられんにも、もとより法のため、師のため、身をかへり見る所なし、さりながら、人の國をうかゞふ間諜のごとく、御沙汰あらむには、遺恨なきにあらず、それも本師の命ぜしに、國に入ては、國にしたがふべし、いかにも其法に違ふ所あるべからずと候ひしかば、骨肉形骸のごときはとにもかくにも國法にまかせむ事、いふにおよはず、其三つには、すみやかに本國に押還されん事、師命をも達し得ず、我志をもなし得ず、萬里の行をむなしくして、一世の讒を貽さむ事、何の恥辱かこれにすぐべき、されど我法いまだ東漸すべからざる時の不幸にあひし事、これ又誰をか咎むべき、これらの外、申すべき事もあらずといふ、
初、我國に至りし時、長崎にゆかむ事をねがはず、直にこゝに來らむと望む、其故をとふ、我萬里にして、此行ある事は、我國命を上達すべきため也、此故に直にこゝに來らむ事を望請ふ、いはんや長崎のごときは、ヲヽランド人のある所、我またかしこにゆかむ事をねがはずといふ、聞くがごときは、其國の使命をうけて來れる也、凡は隣國の使人といヘども、必ず其信を伸る所あり、我國もとより汝の國と、舊好あるにあらず、もし其信とすべき物なからむには、何を以てか其使たる事を信ずべき、いはんや、汝のこゝに來る、我國の服を服し、我國の言を誦ず、これ我西鄙の人をまどはすに、我國の人となり、ひそかに其法を說むとするにあり、其計窮しぬれば、初て其國の使と稱す、其跡につきて見る時は、そのいふ所信ずべからずと問ふ、此國にして我法を禁ぜられしより、凡そ我方の人、長崎に來れる、或は殺され、或は押還され、いまだ一人の國命を達せしものあらず、これ我孤身にして、西鄙の地に至りとゞまれる所也、此國之服を服せし等の事に至ては、長崎におゐて申す所、すでに訖りぬ、又本國の議は、前に申せし所のごとく、吿訴ふる所、もし恩裁の御事あらんには、かさねて信使を奉て、其恩を謝し申して、我法を此土に行はんといふにあり、國に入ては、まづ其禁をとふの禮、いづれの國にかなからざらむ、いはむや、國禁を除かるべき事を望請ふ使として、いかむぞ其國に入りし初に、禁を犯し、罪をかさね、みづから國命を辱しむる等の事をなすべきや、其義自ら明らかにこそ候べけれといふ、
天主の敎、我いまだ聞所あらず、其大略を聞かむと問ふ、大凡、物自ら成る事あたはず、必これを造るものを待得て成る、今試に一堂の制を見るに、其制自ら成る事あらず、必工匠を待へて成る、一家の政を見るに、其政自ら治るにあらず、必君長を待へて治る、天地萬物、これに主宰たるものあらずして、成る事あらず、其主宰名づけて、デウスといふ、〈デウス、漢に天主と譯す、〉デウス初に天地萬物を造らむとするに當りて、まづ善人を住しめむために、諸天の上にハライソを作り、〈ハライソとは、漢に譯して、天堂といふ、佛氏いはゆる極樂世界のごとし、〉無量無數のアンゼルスを作る、〈アンゼルスは佛氏いはゆる光音天人の類、ポルトガルの語に、アンジヨといふなり、〉其後に、大地世界を作りて、タマセイナを取て、〈タマセイナ、此に淸淨土といふが如し、〉男を作りて、アダンといひ、其右脇の一骨を取て、女を作りて、ヱワといふ、すなはちこれ人の始也、彼男女をして夫婦となし、テリアリの地に居らしめ、〈テリアリ、こゝに安樂國土といふがごとし、〉其餘の地をば、鳥獸のある所とす、凡人物のアニマに、三の品あり、〈アニマは、魂なり、〉草木のごときは
按ずるに、西人其法を說く所、荒誕淺陋、辦ずるにもたらず、しかりといヘども、其甚しきものゝごときは、また辦ぜざる事を得べからず、まづ、其番語稱して、デウスといふもの、漢に翻して
君美
一字在中
附錄
謹而言上
異人之儀萬里之外國之人にて殊に此者と同時に本唐へ參候ものも有之由に候得者本唐の裁斷も可有之候旁以此御裁斷は大切之御事と奉存候付愚意之旨不顧憚言上如左
右
異人裁斷之事に上中下の三策御座候歟第一にかれを本國へ返さるゝ事は上策也〈此事難きに似て易き歟〉
第二にかれを囚となしてたすけ置るゝ事は中策也〈此事易きに似て尤難し〉
第三にかれを誅せらるゝ事は下策也〈此事易くして易るべし〉
謹按
むかし 神祖の御時慶長十九年より彼宗門を制せらるゝといへども法禁なほゆるやか也その後彼國人來りて其法をひろむる事は我國を奪ふ謀也と聞えて〈其法もと正しからずといへども我國を謀るといふは實なるべからずしかれ共島原の變出來たれば申ひらく事難かるべし〉猷庿の御時其禁もつとも嚴になりて我國の人其法を
猷庿御末年に及びてかれらには杖をつかせよと仰られたり〈杖つかせよとはころぶに及ばず誅せよとの御事也〉其輩が轉ぶ事をゆるさず皆こと〴〵に誅せらる〈前後凡ニ三十萬人〉しかれば今猷庿の御末年の例によらば此度の異人をば其罪のありやなしやを問はずして誅すべしこれを御裁斷あらむ事易くして易しといへどもかれ番夷の俗に生れそだつ其習其性となり其法の邪なるをしらずして其國の主と其法の師との命をうけて身をすていのちをかへりみず六十餘歲の老母幷年老たる姉と兄とにいきながらわかれて萬里の外に使として六年がうち險阻艱難をへてこゝに來れる事其志のごときは尤あはれむべし〈君のため師のために一旦に六年の月日萬里の波濤をしのぎしは難きに似たり〉臣又 仰を蒙りかれと覿面する事已に二度其人番夷にして其〈本書むしばみ讀得ず〉番夷なれば道德のごときは論するに及ばずされど其志の堅きありさまをみるにかれがために心を動かさゞる事あたはずしかるを我國法を守りてこれを誅せられん事は其罪に非ざるに似て古先聖王の道に遠かるべし此故に臣ひそかにおもふ所はこれを誅せん事易くして易けれども下策に出づ又かれをたすけて
猷庿初の御法によるに其法は轉びし上にたすけおかるべし臣かれが志の堅きをみるにすみやかに首を刎らるゝとも其志の變ずべきものとも見えずなまじひにかれを轉ばせんとして轉ばざるをたすけおかれんは我國の祖法をみづから弄ばせ給ふに似たり又轉ぶと轉ばざるとを問ずしてたすけおかれむは我國の祖法をみづから守らせ給はざるに似たりたとひ當代仁厚の大德を以て一時の權宜をはかり給ひてかれをたすけてとらへおかせ給はむともかれが命のあらむかぎり獄舍の中に痛み苦まむ事もまたあはれむべし是一ツ
猷庿の御末年杖つかせよと仰ありしより此かた彼國の人の來れるもの命たすけられし事一人もなししかれ共今又かれを
たとひかれが事彼國に聞ゆる事なからむにもかれ來りてのちその事のなるやならずやを聞く事なからむには一二年を出ずして必ず又使をつかはすべし〈今もある事也はじめ使の返事なければ心もとなくてかさねて又使をつかはす事これ又人情のつねなり〉もししからばこれも又その來路を開く也是三ツ
かれを獄中に囚んには與力同心を始てもしかれが迯うせん事あらば罪蒙らむ事をおそれて日夜にこれを守るに心をくるしむるものすくなからじこれ四ツ
此故に臣ひそかにおもふ所かれをたすけて囚おかれん事易きに似て尤難しこゝを以て中策とすかれをして我
祖宗代々の法をきかしめ
我國初より此かた聖子神孫よく祖宗の位をつぎよく 祖宗の天下をたもち給ふ事これたゞよく祖宗の法を遒〈遒は遵の誤なるべし〉ひ守り給ふによれりたとひ汝が訴ふる所の事その謂あり汝が法とする所その理ありとも今はた我 祖宗の法をやぶりて汝番夷の法を行ふ事をゆるすべからず謹で 祖宗の法を按ずるに汝が如くの輩轉ぶ時はたすけ轉ばざる時は誅す當代仁恩廣大汝が其王の命をうけて身をかへり見ず萬里に使し來れる事をあはれみ給ふが故にその命をたすけて本國へ歸し給ふ所也すみやかに汝が國に歸り其王に申すべし此のち又汝がごとく我國に來らむものをば海邊の國守に仰せてまづ誅してのちに申さしむべしかならず汝の國人をして我誅を
我祖宗の法は天地と改るべからすして
當代仁恩の廣く聖度の大きなる事をしらしむべし〈長崎より來る時も乘物の外をばみる事かなはざるやうにせしと也かれ國に歸るとも我國の風俗をかたるべき樣もなし〉これ其事難きに似たりといへども易くして殊に古先聖王仁厚寬裕の事なればこゝを以てこれを上策とすこれらの中を以てよろしくゑらみ給ふ事あらむには臣が愚忠むなしかるべからず
此上書すこしはや過たれどももし臣がいはゆる上策を取られてかれを歸されんにはすみやかなるにしくべからずしからば此たび付來れる與力同心幷通詞等に守らせ歸して來春夏の間長崎に來る廣東の船にものせ返さるべきかとまづ言上如右
〇
此度渡り來候ロウマン人幷御役所書物等の說にて承知候大略條々
一彼法にてたつとみつかへ候
堯舜周孔の書に上帝と申す事有之候は天地造物の主宰の理をさし候へば彼法並道家の說のごとくその神人天上に有之候而時々人間に降り福を降し禍を降し種々の奇異有之事のごとくには無之候これにつき此等の法にては聖人の法をいみきらひ候事に御座候歟
一彼法を始て說き出し候人の名をヱイズスと申候漢土の字にて耶蘇としるし候はこれにて候彼徒にてこれを敎主とたつとみ候事たとへば佛家にて釋迦につかへ候事のごとく相聞え候事
彼法に天堂地獄の說をたて其敎主の像につかへ灌頂戒律符呪念珠等の事共有之候次第一々佛家と相同じく候又其像は磔の形にて候これは諸惡を斷絕仕らせ候ため第一入門の所と相見え候由其故は人の惡は皆々欲心より出候凡人の欲さまざまに候へども至りて切なるものは身命に過るもの無之候其身命をだにすて候上は其外の欲はかぞふるにたらず候歟こゝを以てまづ此所より始而道に入る事と相見え候是又佛家生死をかろんずるの說と相同じく候歟佛國と彼國とは地つゞき程遠からず候得者佛氏の說彼國に流れ入り一變仕りたる法と存ぜられ候
一ロウマンと申す所は彼敎主の本地にて候たとへば我國にて天台の比叡山眞言の高野山のごとくなる地に候而いにしへ其國王より其地をあたへられ其法の本地となり其法の師弟子皆々其所に而法を修行候故奧南蠻の國々其法をうけ候貴賤ともに寄進之地も多く布施の物も多く事の外に繁昌の道場と相聞え候事
一奧南蠻の國々大半は彼法をうけ候かと相見候得ども又其法をうけ申さぬ國々も有之候阿蘭陀等も中頃より彼法をば用ひ申さぬ由相聞え候事
阿蘭陀等信向の法は彼法より出候而別に法をたてたるものにて候佛家に禪宗の有之候ごとくなるゆきかたと相聞え候しかれば天主をばたつとみ候へども耶蘇をば用ひ申さず候我國の諸宗皆皆釋迦の說より出候へども祖といたし候所はおの〳〵同じからず其法もまたおの〳〵かはり候ごとくに相聞え候
一彼法の師諸國に渡り候而其法をひろめ候事これ耶蘇の敎と相聞え候其故は天主は天地萬物の父母にて一世界の人皆これ兄弟にて候父母の子を見候事は男女少長をゑらばず皆々同じ心にて父母の心を以て其子の心とする時は兄弟の間は相したしみ相愛すべき事に而候又子をやしなひ子ををしゆるは父母の心にて候其父母の心を其子の心とする時は兄弟の間は相やしなひ相をしゆべき事すなはち天主の心天主の法にて候との義と相聞え候これ又佛氏の摩騰迦竺法闌等をはじめて代々の三藏漢土に來り佛敎をひろめ達磨南海を渡りて梁魏の間に禪法をひろめ候心と同じく皆々番夷の風俗と相見え候事
彼國の人我國に來り法ひろめ候事は我國をうばひとり候謀の由相聞え候事は阿蘭陀人幷に彼國の人フランシスクスリアン幷に又我國より彼國へ渡り法を傳候コンパニヤドウウと申すもの申し出したる事に御座候歟其敎の本意幷其地勢等をかんがへ候に謀略の一事はゆめ〳〵あるまじき事と存ぜられ候事
大猷院樣御代渡り候コンパニヤジヨセフと申すもの後には岡本三右衞門と申す名を被下御扶持方幷妻女從者等被下さしおかれ候もの三卷の書を作り置候事反逆の謀にて無之趣を一々に辨じおき候を此度を此度見候處にいかにも〳〵其道理分明に相見候歟
彼國の人其法を諸國にひろめ候事國をうばひ候謀略にては無之段々分明に候といへども其法盛になり候へばおのづから其國に反逆の臣子出來候事はまた必然之理勢にて候歟ちかくは大明三百餘年の天下ほろび候事の端は三ケ條有之候うち其一條は此法の行れ候故の由たしかに其時の書に相見え候大明ほろび候事は
大猷院樣御他界の比の事に候大明に而は此事の覺悟無之候と相見え候處に我國にてはさきだち候て彼法をきびしく御制禁被遊於今此害一かた斷絕仕候事
御名譽の御事と乍恐奉存候事
〇
右白石先生の羅馬人處置獻議と天主敎大意との二篇は向山篤氏〈誠齋又偶堂と號す通稱を源太夫といふ今の黃村翁の父なり〉の輯錄せる偶堂雜記中に見えたるを取り出せるものなり向山氏は舊幕府の吏職にありて專ら經世實用の學を講じその藏する所往々希覯の書多くこの二篇のごときも先生の手書案本の幕府內史局に存在せしを見出して窃に謄寫しおきたりしものといふ今西洋紀聞を參考するにつきて最必用なるものなればこれを卷末に付す本書にかの羅馬人の裁斷を文昭公の親裁に出でし如くに記したれどもこの獻議によりて觀れば先生の竊に奉れる三策の中策を採られしこといちじるし壬午春日文彥記す
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