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初冬の事であつた。
家から送つて來た爲替を聖護院の郵便局で金に換え(へ)ると私は直ぐ三條の丸善へ出かけて行つた。欲しいものが多くて豫定の金額以内にそれらを選び出すことは馬鹿馬鹿しい程神經を惱ませた。
バインデイングのしつかりした西南獨逸學派の哲學書が新しくならべられてあつた。まだその年の春から獨逸語を習ひはじめた自分にも馬鹿げたことではあるがその廉價や著者の有名な名前が甚だしく自分の購買欲ママを刺戟した。
友達から薦められてゐた美術に關する本も何度となくこれまで手にとつて見たものであつて、買ふためにはたゞそれを勘定場へ持つてゆきさへすれば充分であるのに自分はそれをまた棚から卸(下)して頁を繰つたりした。然し直ぐに何を選ばうといふいらいらした惱みが支配して、ほんの二三頁を繰つたまゝ、元へお(を)さめた。モハメッドの經典のコーランといふ樣なものでも開いて見ては何等のまとまつた句をも讀まない中に閉じママてしまつた。
黑板へ敎授たちの書いて呉れる參考書、有名な小説、自然科學に關する本、それらに何册となくこの樣な無意味な仕草を加へてしまつた頃には、常から心臓が惡くて勞(疲)れやすい性の自分は全く參つてしまつてゐた。そして變な悒欝が被さつて來たのを感じた。然しその樣な無意味なことに運命づけられた者の樣に、終には聖書や辭書や「三十六の成功秘訣(メソツド・オブ・サクセス)」といふ樣な本にさへ巡禮していつた。そして書(買)ふものは?それはまだ決まらなかつた。然し二度とあんな馬鹿々々しいことをして見る勇氣はもうなかつた。此次に是非欲しいといふものが來るまで待たうかと思つたが、何か買はなければ悒欝が增すのはよくわかつてゐた。自分は最後にあきらめの一種悲壯な氣持を感じながら、畫集と小説を二三册買つてしまつた。
氣持がさつぱりしたのを感じて本を抱え(へ)ながら、然し初冬の冷たい空氣の中に變な熱の感じを覺え、マントの襟を高(立)てながら、疲れて寺町通りを上り、二條寺町のかぎや(鎰屋)へ入つて行つた時はもう日も暮れかけて東山が夕日に照らされて急に近く思はれる樣な時分だつた。
學校でよく見る惡魔めいた顏をしてゐる男がいつもの樣に二三人の中で話してゐた。
「足越が酒精中毒で岩倉の癲狂院へ入つた」と云ふシヨツキングな話をその中からきいたのは自分が熱い珈琲を啜つてゐる時だつた。發狂や自殺未遂が今年は何人目だらうと數へられる程起る學校なのであるが、平常學校や寄宿舎で天才だとか大酒飮みだとか噂󠄀せられてゐた足越にその順番がまわママつて來たのは自分にとつては丸で思いがけないことだつた。然し心の中には(た)うとうといふ氣持も湧かないではなかつたが、かなり古顏である自分の部屋の室長がそれをきいたら、一體何本目の指を、これまで學校に起つた發狂者や自殺者の不幸な數の上に屈するだらうかと思つたりした。
足越は三年で、自分は新參の一年生だつたが、彼が自分の室の室長と友人である爲に、可成り頻繁に私達の部屋へ遊びに來た。その關係で自分は少しは彼を知つてゐた。……(缺)……かつてゐるあの溝の中へ飛込むなんぞは大低(抵)のその逸話には痛快がつてきいてゐた自分にも不快を起させた。泳ぐと云つても踝(くるぶし)程まで水の中でどんなにして泳げたんだらうと自分はたづねたりした。足越のその汚い着物や袴はそのまゝ下宿の押入れへ投げ込まれて終にかびが生えて臭くなつてゐたと室長は話した。その外足越の酒癖の惡いのに就て随分話があつた。あちらの卓子の話では足越の狂氣を酒精中毒のためだと云つてゐた。
醉狂が本當の狂人になつたといふ足越のその不幸な終末は眞劍な酒の恐ろしさといふものゝ前に、否應なしに自分を連れてゐ(い)つた。
「嚢中自ら金あり」などと醉李白を氣取りながら面白がつて飮んでゐたものだらうが、それが終には發狂した。それは、戲れにかぶつた鼎がいざ拔く時になつたらどうしてもとれなかつたといふ徒然艸の鼎法師の話の樣なものぢやなかつたんだらうか。自分はその中から惡ふざけが過ぎた小ママ供が泣き出す時の不快な氣持をうけた。
その惡魔めいた男を中心とした雜談は續いてゐた。足越が退校したとかしないとか、足越が苦にしてゐた借金は兄が來て拂つて行つたから彼は得をしたとか、足越は一體天才だつたんだらうかとか、彼は仲々うまく噓をついたとか、彼の父はやはり酒で痴呆の樣になつてゐるとか色々のことが聲高に話されてゐた。それは足越を氣の毒がる氣持ではなかつた。恐らくそれは、ふとした冗談から起る悲劇を經驗する時にうける運命的な感じ、その底にある空恐ろしさの不快であつたのだらう。
かぎ屋の少(小)さい給仕女も時々話を交へてゐた。或晩も醉つて跣足で上つて來た。そしてそこに出してあつたプデイングとビスケットを袂の中へ入れて、女の客の下駄を穿いて皈つた。といふ話をした。そして「その翌日〇〇さんがプデイングのコップと下駄とを返しに來て呉れはりました」と云つた時には皆が大聲で笑つた。自分も笑はずにはゐられなかつた。何故ならばその〇〇さんといふのは自分の室長だつたから。


私がはじめて足越を見たのは私がこの年の春選拔試驗を通過した後、郷里から出て來て初めて寄宿舎へ入つた日であつた。
その時度の强い、黑くなつた銀の眼鏡をかけて、生眞面目に寄宿舎の勝手を敎へて呉れた人は室長であつた。蹴球のユニフォームのまゝ、私の布團の包みを擔いで彼ががらんとした寐ママ室へ案内して呉れた時、蠟燭や食〔べ〕あましの駄菓子の散亂している中に寐そべつて小説かなにかを讀んでゐたのが足越であつた。その時逆光線の中に面を伏せてゐた彼の顏貌は私に犯罪者型の感じを起させたのを覺えてゐる。室長と自分が四角ばつて話しをしてゐた間、彼は時々變な冷笑をしたり、怪しく光る眼をけわ(は)しくしながら本に眼を落してゐた。
自分が遠くで眺めてゐた高等學校の生活やその中に活動してゐる生徒を、現實に目のあたりに見たこの最初の印象は、可成り强く自分の頭に刻まれた。その日自分は彼等に對する尊敬とまた自分の愉悦を禁じ得なかつた。
それから一年も經たない今までに經驗したこの高等學校生活の種々の内容は私の輝かしかつた幻を裏切り傷〔け〕て來たが、唯私のお室長と足越に對する感じにはこの最初の印象と切りはなすことの出來ない幻がこびりついてゐて、今でも彼等を思ふ度毎にある尊敬を感じるのである。
足越と室長は私の見る眼では、足越が一年落第した三年生だつたし、室長は二年で年齢の差からも、肚をうちあけた間とは思へなかつたが可成り親密なことはたしかだつた。室長は生眞面目な學究肌の人で足越とは寧ろ反對な性格なのであるが、二人の間には、足越の他の友人との間柄とは違つたある溫い緻密さがあつた。
足越は室長の純潔や淸濁あわ(は)せ呑むおだやかな所に安住してゐる樣に見え、室長は足越の性格に對して特殊な理解を持つてゐるらしく、足越のすることをある意味で崇高化して、惡い方面は意に介してゐない樣に思はれた。却てこの方面で足越を庇護する樣な所があつた。足越の授業料を内證で支拂つてやつたこともあるといふ噂󠄀もあつた。
足越はそれからもよく私の部屋や寐ママ室で見られた。然し私も求〔め〕て彼と話をすることはしなかつたし、その間柄は唯往来で會つた時私の方から會釋する以上には進まなかつた。
足越の私達の部屋へやつてくるのは、むらが随分あつた。忘れてゐる内にひよつこりやつて來ては二三日も時としては一週間もごろついてゐた。
それよりも私達の部屋へよく出入りするのは室長の所へやつて來る種々の生徒であつた。彼等は各自多少とも足越を知つてゐた。そして私の描いてゐる足越の輪廓は重にこの人等の話から成つてゐるのである。
實際足越はよくこの人等の話題に上つた。ある人は彼を一種の天才だと云つた。目かくしをして廣さのわからない部屋へ連れられて行つてその部屋の廣さを當てるといふ評判もあつた。繪は随分得意らしかつた。學校の中で畫會を起しかけて一時は随分熱心になつてゐたといふこともきいた。然し彼は直ぐに止してしまつたらしかつた。その原因をある者は氣障な奴が會員の中へ入つて來て彼の神經に觸れたからだといつた。また彼は元來あき性でそれを續けてゆく根氣が涸れてしまつたのだといふ説をなすものもあつた。
そして彼自身が時々自分を天才だと云つて他の人々の自信を害すこともあつたときいた。だから彼を天才だと云ふ者が一方にあると、<自分等の誇りがそれを許さないため、>變な笑ひをする者もあつたし、眞面目に駁論する者も他方にはあつた。然し彼が兎に角人々の中で一種特殊な位置を占めてゐることは爭へなかつた。私自身も一種得體の知れない尊敬を强ひられてゐた。
彼は學校では随分怠けて醫るらしかつた。そして事實彼は私の部屋で「俺は今學期はまだ一日も出ない、前學期は一週間出た切りだ」などと話したこともある。そんな時には自分は何だか彼を缺席を一種の誇りとしてゐる愚物だと思つて卑しい感じがしたのを覺えてゐる。然し足越が學校へ入學する時は中學の四年修了の者が高等學校へ入れる樣になつた最初の年に當つてゐて、彼もその特典を蒙つた一人で、初めの一年の間は随分敎室の中で秀才として人々を驚かしたらしかつたが肺病にとりつかれてから怠け出し酒を飮み放蕩し出したといふ話だつた。
ママう云へば放蕩者らしく見えることも時々はあつたがそんな風は少しもしなかつたし、部屋での雜談にもそんなことは口へも出さなかつた。そして彼は會ふ時によつて随分感じの異ふ男だつた。ある時には澁面ばかり作つてゐて厭世者の樣に思はれた。
そうかと思ふと急にはしやいで奇妙な警句を吐いたりした。また人々の議論してゐる中で見縊つた様な冷笑をするときには意地の惡い男の樣に思はれた。然しそれは話相手の態度が彼に反射して種々の變つた感じを出させて局外者の自分にはそう思はれるのかも知れなかつた。實際彼が私に些細なことを云ひかける時には常に心の强い人の氣がした。然し寺町通りで一度金を借りられたことがあるがその時でさへ自分には惡い氣持よりも親しいいゝ感じがしたのを覺えてゐる。
彼が私達の部屋を訪ふのは随分むらがあつたのであるが、彼が私達の部屋へ現れる時は大低(抵)醉つてゐた。そして部屋の者の布團を剝いてねた。そして明朝私達が學校の課業を終へて皈つて來てもまだ寐ママ室にねてゐることがよくあつた。彼が寂しそママうな顏をして目を開きながら汚い寐ママ室で仰向いで寐てゐるのを私が時々見たのは、その樣な日であつた。
彼は友達の所をよく泊りあるくところからさまよへる猶太人だと云はれてゐたがこんな時の眼つきには精神的に永遠の〔さまよへる〕猶太人である樣なところが浮んでゐた。
その眼は時々怖ろしい程光つた。服を着かへに寐ママ室へ行つた時その二つの眼にゆき當つて氣味の惡い感じをしたこともあつた。
實際彼が訪問者として自習室の戸を叩く時よりも醉漢として寐{{sic]}室を騒がす方が數にすれば多かつた。枕許の大きな蠟燭が急に點ぜられて私が眠から覺めると彼が酒臭い呼吸を吐きながら其處に立つて醫ることもあつた。まだ自分等が燈をつけたまゝトランプをしたり雜談をしたりしてゐる時重い下駄をひきづ(ず)つてどさやつて來ることもあつた。袂から木炭やクレオンを出して寐ママ室の白壁へたくみに巨大なグロテスクな男の顏をかいたのもその樣な時であつたと記憶してゐる。
亂暴する時もあつた。同室のものゝバスケツトの上へ小便をしたり、窓硝子を破つて私達を寒がらしたこともあつた。私の部屋の者は時々不平そママうにしてゐたが、室長はその時々空壜へ水を入れて來て彼の枕許へ置いてやつたりした。
眞劔に何々の天才だと名乘りをあげることもあつた。それが詩の天才であつたり音學の天才であつたり區々まちまちであつた。そして盛に管を捲くいて美術批評などをやつた。そして平常の意見と丸で違つたことを云つたりした。然しどちらにも私をしておそれさす樣な立派なところがあつた。然しその話の論理が整然としてゐるにもかゝわママらず明朝になると忘れてゐることの多いのは酒をのまない私には不審であつた。私はそれを彼のまやかしであると思つたりした。彼の言葉通りにはその記憶の脱出を信じやママうとしてもそれには理解出來ない處があつた。
平常の足越の意識と醉つた時の足越の意識とに連絡がないと云ふのは随分變な感じを起させた。私は精神上の奇畸兒(奇型兒)である二重人格者を聯想したりした。一方の自分であつた時に結婚して妊(ニン)しん(娠)したのを、今一方の自分に皈つた時薩長それが何を意味してゐるのかわからなかつたといふ外國の婦人のあの不思議な現象の一部分を、足越の中に見る樣に思つた。
バスケツトを汚された男に足越君を醉つ拂はせて掃除して貰ふがいゝなどと冗談を云つたりした。足越に關する種々な記憶をたどつてゐた自分は兎に角足越が酒精中毒で顚狂院へ入れられる前、彼には既にこんな變なところがあつたんだ、と思ひながら燈の美しく點いた寺町通りを皈つて行つた。
學校の生徒が寮歌を歌ひながら私の來た路を二三人づゝ步いてゆくのに會ふ時分だつた。それらに會ふ度に自分は室長がゐないだらうかと氣をつけた。或は彼はもう知つてゐるかもわからないが今の足越發狂の噂󠄀を彼の耳に入れることを自分は考えママてゐた。然し自分がスティームのほとぼりが熱ずぎる程の自習室で、その晩、室長から足越の直話であるといふ狂氣の眞相をきかうとはその時の自分の思ひがけないことだつた。


顚狂院へ入つた足越の直話といふのはこママであつた。室長は彼をその日見舞つて來たのであつた。室長はその直話にまぜて自分の意見やまた足越の容態などを話した。(斷つておくがこの話の説話法はこれから室長の一人稱っと、足越の一人稱と、この私の一人稱とを、元来話しママのうまくない自分には随分混雜されると思はれるが、讀者はよく注意して讀んで頂きたい。)
「僕は自分が狂人になつたとは信じない。正當なところこれは可成りひどい神經衰弱なんだらうと思つてゐる。然し僕は今此處へ入つてゐるのが好都合な理由がある。この理由は後で話すが、實際此の病院は氣持がいゝ。少々汚いのは辛抱するより外はないが。この汚さは寄宿舎の汚さとは別に變りない。」
「随分然し奇妙な所だ。俺のまわママりは輕い人ばかりでその中にもある寡婦さんなどはよく光るものを見ると直ぐ自己催眠になつてしまふんだ、また首が左側へどうしてもまわママらないといふ困つた男もゐる。然し顚狂院はロシアの小説などにある樣な、あんな浪漫的な所ぢやない。殊に俺達などの間は飯の菜だとか洗濯だとかいやにリアリステイツクだ。……(缺)


自分等は耐えママられなくなると窓から外へ小便をした。小便は白い湯氣を立てゝ暗い土の上へ落ちた。スティームと興奮にじっとほてつた顏に冷たい夜氣が心よく感ぜられた。南舎の上に冷たい天狼星の光が座つてゐた。
 

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