蘆田記
年十二三の比諏訪高島の城に信玄公への証人に居被申候其後年月は覚不申候へ共武蔵の内上野の境御岳の城に居被申候我等為には祖父下野守信守被致在城候節常陸介も彼地被参父子一所に二年か間在城候つるよし家老の者近年迄其物語仕候上野の我等知行の内浄法寺と申所に罷在候時御岳にて克不断家老の者物語仕候御岳と浄法寺と同前にて御座候城は御岳町は浄法寺にて候得共城の根に川御座候間城は武蔵内町は上野の内浄法寺にて御座候其後信玄公今川氏真為退治駿州へ進発其時祖父にて候依田下野守信守同常陸介信蕃かんはらに父子ともに在城かと聞へ申候下野父子の先年さつたの浜にて父子共に粉骨を鎗(脱アルカ)て故駿州退治のよし古き者共申候久敷儀に候間年月は覚不申候駿河崩氏真浪人被成候年の儀に御座候歟と存候駿河崩の年は駿河浪人に今在世の衆可有御座候其々にて御尋可被成候
其後信玄公信長為退治元亀三年壬申歳打て御上り候時先者味方原にて合戦御座候其時分常陸介は証人心に信玄公旗本に居被申候是廿五の年にて可有之候信玄公は東海道是大事の備に聞へ申候搦手者我等祖父下野守信守搦手の大将にて美濃口を打て上り被申候美濃の内へ上村と於申所祖父下野守信守被致合戦打勝て敵の大将明智宗叔を討取被申候宗叔人数五千【 NDLJP:380】にて御座候下野守は七百の人数にて得勝利候旨信玄公への注進の飛脚大手口於味方原信玄公軍に御勝候吉左右の飛脚と両方途中にて逢申由に候大手搦手共に同時分の合戦日も三日とも違不申候かと聞へ申候
甲戌年より亥年迄祖父下野守信守親に候常陸介信蕃父子共に遠州二股に在城亥年に至て五月廿二日に長篠の合戦信長公并家康公御勝武田勝頼公打負甲斐に引退其上家康様は直に二
股城御責候はんとて押寄五ヶ所に向城〈南銀方山辰巳鳥羽山〉家康様御本陣〈東アクラ口ノ山北ミナハラ口ノ山西トラ堂ノ取手是ハワクカシマトモ申候〉 御取五月末より御攻被成候六月十九日に祖父下野守信守は病死夫より常陸介信番其まゝ城持堅十二月廿三日七ヶ月城持詰罷在候後は兵粮無之浜松近所迄城中より足軽を遣し夜討強盗乱捕夜々に御座候つれとも兵粮抔者左様に候時城中へ入候儀不罷成候つれ五月より十二月迄の儀に候間兵粮も尽果候へ共軍兵への気付候とて常陸介謀に土俵を三百余蔵に積置城中下々の者共に見せ兵粮に事かき候儀は有間敷候間心易存候へと被申候へは軍兵本マヽ共 得申候十一月時分甲斐の勝頼公より二股城を明渡甲斐国へつほみ候様にと両度申来候へ共常陸介被申様に脇々の奉書の分にては如何に候間勝頼公の御直書て無之に明渡す儀は如何之由両度被申候得は三度かに勝頼公の御直書参候に付て十二月中旬扱の談合候て家康公よりは大久保新十郎殿榊原小平太殿何も無刀にて証人に御越又我等親の方よりは弟の依田兵九郎同源八郎両人証人に参廿三日に城相渡候はん約束に候つる所に廿三日少雨降申に付て親に候常陸介被申様は雨降にては蓑笠にて見苦候はん間雨の晴候時分廿四日廿五日也ともと被申城を出不被申候是を家康様も御感被成由承候其上廿四日に天気晴城相渡二股川の辺にて人質互に返し帰陣被申候其後常陸介は遠州高天神に被致在城其内毎日毎夜戦は無際限候間不及記候
天正六七年の比か越後景勝と北条三郎殿と取合に成候時勝頼公より三郎殿へ如勢として親に候常陸介参入申候て小田の浜と申所にて無比類鑓其上景勝を追崩追討に数多討取被申候天正八年辰歳より午年に至て二ヶ年駿州田中に在城此内度々の迫合軍毎日の儀に候間三年の内不及記候然る所に午年の春勝頼為退治信長公出馬木曽心替故早速信州落居信長公信州高遠まて打人候砌家康様穴山梅雪斎より内通被申駿府江尻辺まて御先手打入家康様御発向之砌迄常陸介信蕃田中城持治被罷在候に付て家康様より勝頼滅亡に極り候上はひつまて期すへきとの御断に任候に付て不及是非田中城大久保七郎右衛門殿へ相渡申候其節山本帯刀為御使既に木曽穴山両臣を初信長公へ一味其外も甲斐へ心替之砌常陸介は只今まて田中城持詰被居候事敵なからも神妙之旨御感に思召其上に累年蘆田手柄を敵にて御存候之間召抱られ度御内存御念比に被仰下候へ其未国の落去も無之時分故先信州小諸へ三月十四日帰宅森勝蔵小諸に被居候に付て常陸分則勝蔵と対面被申候其上信長公へ御礼可申候由にて小諸を出諏訪に城介殿御座候の間先城介殿へ御礼可申旨存候へ共中途まて家康様より御飛脚被下必城之介殿へ出仕無用信長より甲斐国大名切腹可被仰付候間必諏訪へ参候事相止夜通に【 NDLJP:381】密に甲斐国市川へ参り家康様御目見仕候様にと家康様より御飛脚被下候に付て則市川にて御目見仕直に後山路遠州二股の奥小川と申処に上下六人にて隠居り被申候其後六月二日に信長御果候よし家康様より御飛脚被下本多弥八へ一通常陸介に一通御書被下置其御書今度明智信長御父子を奉弑候其折節和泉の境為見物家康様御越其御留守にて無何事堺より大和路を直に伊勢路御舟にて大高へ可有御着之由に候間常陸介は早速甲斐国并信州へ参両国共に家康様御手に入候様に引付候へと御書に付て則甲州衆引附可申とて二股を出甲州へ上下六人にて被参甲州入口柏坂の峠鐘の旗御立候得は柏坂の林の下五里三里の間右之旗見へ蘆田殿の旗にて候と見知横田甚左衛門を初迎に出甲州衆こと〳〵く常陸介に礼を申夫より人数三千に成申候其後信州小諸へ六月廿日比歟に被参候其時滝川左近上野国にて氏政との合戦打負信州小諸に被居に付て滝川左近に常陸介対面にて其儘春日と申在所に候間被参滝川左近六月廿三日に小諸を立木曽路をさして尾州長島落帰申候其跡へ氏政の先手信州へ打入小諸へ大道寺尾張守入代り居申候家康様と北条氏政と取合に氏政六万の人数にて臼井口を進発夫に付常陸介は春日山の奥三沢小屋と申処に籠居られ候蘆田小屋と申は此事にて候氏政は蘆田小屋攻候はんとて彼行者と申山越と諏訪郡へ打入かちの原と申所を通り甲州ミノハ原に陣を取家康様は甲州新府中に被成御座候小田原衆と新府御対陣の様子は其許の衆委く可為御覚候其内常陸介は蘆田小屋に籠り氏政へ関東よりの運送の兵粮人数馬を蘆田小屋より討取氏政への陣の続ケ成かたく候つる故氏政も開陣其後未正月蘆田小屋より常陸介打て出岩村田へ働此時常陸介もさいはいを取り馬を入追散し家中の者共も数通家康様より御感状を取申候其時は真田安房守も上田より出合筑摩川をへたて軍見物其時常陸介と対面にて御座候是より相続高棚と申小城小田井と申小城共其外四五ヶ所の城を取て残る小侍共其時常陸介へ出仕礼申候大井民部介小山田六左衛門平尾平蔵平原善真森山豊後志賀与三左衛門柏木六郎望月卯月斎其まゝ家中の者に罷成候田の口と申城は阿江木能登守居申候間常陸介威勢を以田の口城明退申候其時小諸へ大道寺尾張守扨又岩尾城に岩尾の主居申候此両所より外に佐久郡に敵一所も無之候つる間岩尾城者ほりぬけに可罷成を二月廿二日に無利責に岩尾城を攻候とて常陸介自身一先を仕自身塀を乗候所を内より鉄炮にて押当打弟の依田源八郎も右同前鉄炮にて打れ先源八郎廿二日晩相果常陸介本マヽ
甲斐信濃両国権現様御手に入申時大久保七郎右衛門被差遣信州の内にて味方に成不申城分共之儀を申上候得其御書附に御座候先以今度左様にて無御座候佐久郡城壬午年十月末より極月中旬迄依田右衛門佐城城落又は敵の降参迄出仕治之大久保七郎右衛門被遣候儀者翌年三月の事御座候是は右衛門佐討死の後拙者其節十四才にて御座候故万事七郎右衛門申付候右の分計にて委く程被聞召分候はん間具に書附仕候天正十年壬午の秋より依田右衛門佐計策を以真田安房守引付申候此儀信州にて真田安房守使を以申殊に先方の時分武田信玄公使番其節は真田喜兵衛武辺の行をも見聞申候儀に御座候右衛門佐も其所を存寄真田をさへ引附味方に仕候へは残侍共手にたつ儀にて無御座間安く存先真田方へ午本マヽ秋 津余守を申遣家老【 NDLJP:382】を遣し真田方へ色々申遣真田対面にて具右衛門佐方へも返事御座候間夫に付二度目に依田十郎右衛門と申者を真田へ遣し弥和談に仕三度目には真田安房守自身蘆田小屋之林下まて参り候右衛門佐も蘆田小屋より罷出真田と対面仕直談に良久談合御座候はん其時右衛門佐申様家康様へ深く存寄候はゝ起請文を以申上可然と好み申候へは真田尤と納存仕候則起請文を上申候此時真田望に乍恐家康様御起請文を申請度由申候に付て右衛門佐方より真田上申候起請文を為持新府へ使をこし真田望之段をも申上候所に家康様殊之外御満足被為成家康様も御起請文を真田に被下候持之右之使新府より罷帰申候扨右衛門佐手前の起請文をも相添真田方へ為持遣し申候へは真田別て忝存御起請文并三頂戴拝見仕候よし申候其時真田に一郡可被下由御約束にて御座候つる由承及候其後不被下候とて真田御不足を存候附て右衛門佐申様は拙者手前へは諏訪郡を拝領申真田には不被下候得は最前御約束の筋目すたり申候間右衛門佐手前へ拝領の諏訪郡を指上申候間是を真田に被下候様にと申上諏訪郡を指上申候間此替地は上野にて敵地を被下候へは私伐平候て如此御座候
真田も御味方に罷成候験にと申候右衛門佐と申合岩村田と申地を攻取んと申真田は八幡原と申所に陣を取筑摩川を左に人数を立ならへ罷在候右衛門佐は筑摩川を打越塩なたと申所に越上り則川にて濡候人数を集夫より岩村田へ働其川口に敵突てかゝり候所右衛門佐自身真先に馬を入乗崩候人数二三百も討取申候様に承候其時家康様より御感状御直判頂戴の者共右衛門佐依田善九郎同弟依田源八郎家中の者には依田左近助依田主膳奥平金弥依田豊後此ものにて御座候其まゝ真田も上田へ罷帰右衛門佐も人数入其後頓て岩村田の者共降参仕岩村田右衛門佐手に入申候付て名代依田勘介と申者指置申候つる
前山と申城右衛門佐攻取申則霜月右衛門佐も蘆田小屋へ罷出かの前山の城へ移りしかは罷立候
高棚と申城を計策にて取申候
小田井と申城手に入申此外城々の小侍共あなたより降参仕候者一番に平原善心二番に平尾
平蔵三番に大井民部介〈是備中子にて御座候〉小山田六左衛門森山豊後志賀与三左衛門柏木六郎望月卯月斎是等は右知行三千石之格にて御座候何れも人数或は百或は二百余持申ほとの小侍共にて御座候右之分午の霜月両月中に皆右衛門佐所に出仕申候
佐久郡午霜月治り手に立敵無御座に付て此中苦身之由右衛門佐申被振舞候はんとて追鳥狩仕候其追狩にも譜代の家人并右の仕衆も罷出追鳥狩仕則鳥を右衛門佐前へあけ其鳥の料理御座候つる由承候其上為褒美金子紅の糸甲其外色々出し度右衛門佐存候得とも片恨いかゝにて是を各へ出度本マヽと 中間にて䰗取に致候へと申䰗取に皆々取謹て戴申候へき右衛門佐申様に昨日今日迄互に打つ打れつゝ敵にて候つるに如此譜代の被官並の仕合満足之旨申候由承候
癸未正月元日に右の侍共代々の者並に右衛門佐前に大形折帋にて礼盃等も譜代の被官並に候つる由承候此年家康様四十二の御歳にて候間四十三に御祝直し被成候御心持にて閏正月【 NDLJP:383】御祝儀被成候御分国其分に御座候
未二月廿日に田口城へ右衛門佐上り并柴田七九郎も同道にて佐久郡一目に見渡し候高き所にて是程残所もなき味方に成小諸一城計敵にて候其外岩尾の小城一ツニクキ仕合と申明日は攻つふし可申候間柴田七九郎には一人も御出し候はて御見物候へ城攻を可掛御目由右衛門佐広言被申廿一日には少本マヽ度 城より降参可申様子に付て一日相待廿二日には早天に取巻右衛門佐も城際より下足軽旗指より真先に右衛門佐塀を乗候所を鉄炮にて押当ホソの下を打被抜又弟の依田源八郎是も塀を乗所を左の章門の灸所より右の章門の所へ鉄炮にて被打貫惣軍取巻候へとも大将右の仕合にて廿二日の暁に源八郎先相果廿三日の未明に右衛門佐果申候左様に候へは岩尾の次郎か城かゝへ兼関東筋へ出奔仕候
三月に至て大久保被仰付右衛門佐子十四歳に成候間万事七郎右衛門指引次第に尤に候権現様御意にて十四歳の依田竹福丸を御名字被下置松平源十郎と名を被為替七郎右衛門同道にて未の三月小諸参候是よりして大久保七郎右衛門後見にて佐久郡仕置申附候
大道寺尾張守小室をやかて明退佐久郡中に敵一人も無御座候き拙者は忰之時分之儀何之計方も無御座候へつれ共家中の手罷寄候者共物語毎度承置申候通申上候以上
寛永二十年未七月日
先日古き義書付奉指上の所に大納言様御披見に入御不審の義被為晴御満足被為成旨御意之由被仰下忝仕合に奉存候然は長篠合戦の後依田右衛門佐二股城五月末より極月まて籠城時勝頼公より明渡申候得之由度々奉書置候へとも明渡不申直書参候はゝ明渡可申由右衛門佐申張直書参候に付て明渡申候此段可及聞召右之勝頼公之判形今に所持仕候者指上可申旨御意之由被仰下候信長公甲州に打入に蘆田切腹被仰附之旨御書立候に付て家康様右衛門佐を御隠し可被為置の御内意にていかにも密々上下六人にて甲州市川より直に遠州山家へ被遣候時在所に諸道具持置候を滝川左近打入屋内一つも不残欠所仕候に付て書物道具以下紛失仕無御座候六月に至て信長公御果候間其時右衛門佐は甲信両国家康様御手に入候様に才覚仕候得と被仰付六人の体にて小諸へ六月十八日に罷帰候六月末には氏政信州へ打入新府御対陣の仕合蘆田小屋にては毎日主戦のみにて罷立候き中の道具書物なとの穿鑿全く可仕日限も無御座候由聞へ申候
天正十年七月廿六日の御書依田右衛門佐方一通は写指上申候此時分の義先書に申上候
天正十一年未二月十二日の御書依田右衛門佐方への一通写上申候是は前山と申城伴野刑部楯籠罷在候を依田右衛門佐午霜月攻落伴野刑部は相逃に仕候へきやかて前山の城へ右衛門佐移罷在候内に被成加勢小番の人数前山へ被遣候時の御書にて御座候
天正十四年四月十五日拙者儀於家康公御前前髪を御自身御はやさせられ御腰物拝領松平の御名字并康と申御字被下置候御証文之写一通奉指上候
天正十八寅年小田原御使の約家康様へ秀吉公より之御書一通写上申候此儀委く申上候はすは御合点参兼可申歟と存具に申土候此阿江木と申は所の名にて御座候持主は依田能登守と【 NDLJP:384】申候彼能登守田の口と申城に罷在候つる所に前山の城右衛門佐きひしく攻取申候恐威勢田の口城を明退関東浪人仕八九年年人分にて小田原に罷在候処に秀吉公氏政と手切に罷成り小田原へ御出陣を承り氏政へ比内意申候や信州佐久郡阿江木谷へ彼牢人の依田能登守伴野刑部両将にて働掛申候譜代の主にて候彼阿江木谷の者とも悉く能登守と一味仕敵に罷成候通三月十五日の申刻に告来申に付て是に候松平修理太夫康国并拙者打つれ小諸を即刻に乗出し一きかけに田舎道三十里程参候へは勝間と申城へ参着十六日の早朝に人数調りつとう坂と申山を打越敵方近く参候へは日暮半時程足軽合御座候内に旗の色も見へ不申程に夜に入申に付て其夜は笧を焼其前に夜を明し暁より打立取掛申候得は白岩と申小城に籠候を則乗崩し林平と申所に敵を追詰敵も取て反し敵味方入乱戦御座候其より山のシケシへ敵逃上り候所を先手の者共追かけ申候へは木立の内に鯨波をとつと上申候に付て木立の内にて取て反し崩し候かと存拙者馬より下立鑓作り待かけ申候へは亦味方より押反し不残追打に仕上州野窠谷と申まて悉追打せ分捕高名を仕候能登守何処逃延候やらん首も見へ不申候刑部をは討取申候此仕合為始拙者働の一つ書を仕修理太夫方より夜通に家康様へ注進仕候所に則秀吉公へ被掛御目秀吉公より家康様へ御書御座候此御書御感状にて候由家康様御意にて頂戴今に所持仕候を写上申候
天正十八寅年卯月廿九日秀吉公より松平修理太夫方への御書一通写差上申候
同年五月十一日家康様より拙者方への御判形写上申候四月中旬に松井田城竹把にて羽柴筑前守并景勝真田蘆田四手を以仕寄御座候中に其修理太夫拙者塀際近く諸手に勝れ攻寄申候き乍去其時の書物御感状抔者無御座候き其後上州石倉と申城請取に参候て罷在の内に陣屋の内に於て気違之様成もの御座候て思掛も無御座修理太夫相果申候跡式拙者に被下置候継目の御判之写指上申候
同年八月朔日秀吉公よりの拙者方へ御書一通是は別成儀無御座候へ共惣て古き書物共写上申よし御意之旨候間如此御座候
文禄三年午八月廿二日の御書は伏見御普請之時秀忠様より拙者方へ被下置候を一通写上申候此年十月に諸太夫被仰附右衛門太夫に罷成候是は八月の御書故新六郎と御座候倫旨之儀御写上申候に及不申儀御座候間其儀無御座候
文禄四未年七月廿六日秀忠様拙者方への御書一通是は関白殿御切腹之時拙者は江戸に罷在候に付て江戸への御書にて御座候
文禄五申年九月八日に家康様より拙者方への御書一通写上申候以上
御書共凡十通
寛永二十年未九月廿日
私に追加
信州佐久大郡井庄蘆田城主依田備前守信常子
【 NDLJP:385】信守〈依田肥前守〉
│ 始住武上之堺御岳城又住駿州蒲原城属武田信玄数有功 又守遠州二股城天正十年奉属神君同年六月十九日卒
│
├信蕃〈源十郎依出右衛門佐常陸介〉
││ 奉仕神君 天正十一年二月廿二日岩尾城攻之時討死年廿三
││
│├康国〈松平竹福源十郎修理太夫〉
││ 御称号及御一字 住上州藤岡城
││ 天正十八年 月 日 於石倉城横死
││
│└康貞〈福千代新六郎右衛門太夫〉
│ 天正十四年四月十五日於御前元服賜御一字及御称号御腰物
│ 文禄三年十月叙任後年出奔入高野山剃髪号加藤宗月往越前福井 再校了
│
├信吉〈善九郎依田伊賀守〉
│
└信春〈依田源八郎〉
与兄信蕃同時討死
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。