藥 (梶井基次郎)
本文
編集- 私が身體を惡して東京から歸つて來たとき、一日母がなんともつかぬ變な顏で、
- 「またお前が怒る思うて云はなんだんやけど、お前の病氣にええ云ふて、人から藥が貰うたあるのやが、お前飮んで見るか」
- と云ひ出した。母の變な顏つきや自信のなさそう〔ママ〕な態度で、餘程變なものにちがひないと思つ〔<て一應さういふものに對する彈劾を>〕たのであるが、きいて見ると案の如く、これはまた、人の腦味噌の黑燒であつた。
- 〔呉れた人といふのは毎日〕それを呉れた〔人間〕のは家へ靑物〔を持〕や卵を〔持つて來〕賣りに來る女で自分の弟が肺病で死んだ、そのとき寺の和尚がこの病氣で死んだ人の腦味噌〔の黑燒〕はこの病氣〔に〕の藥になるから、これも人助けだ、取つて置いて〔こんな病氣になつた〕また人に頒けてやりなさいと云つて、恐らく野良で燒いた〔屍體〕死骸なのだらう、そのなかから取り出して呉れたのだそうである。〔勿論默つてゐる人間にそんな〕
- 〔私はその話をきいてゐるうちに變に歪められたやうな氣になつた。〕
- <それをくれたのは家へ靑物や卵を持つて來る女の八百屋で、>母は決してそれを呉れとは云はなかつたの〔だそう〕であるがその女が呉れると云つて持つて來たものだから無〔下〕理に斷る譯にもゆかず貰つてしまつたのだと云つた。〔私が〕〔いくら遠くへ離れてゐる息子のことが心〕……(缺)
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