萬變記
一、 | 寳永四年十月四日、朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびたゞしく鳴て、大地ふるひいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三尺に割、水湧出、山崩、人家潰事、將棊倒を見るが如し、諸人廣場に走り出る、五人七人手に手を取組といへども、うつぶしに倒れ、三四間の内を轉ばし、あるひはのけに成、又うつぶしになりて、にげ走る事たやすからず、半時ばかり大ゆりありて、暫止る、此間に男女氣を失ふもの數しらず、又暫くしてゆり出し、やみてはゆる、幾度といふ限なし、凡一時の内六七度ゆり、やまりたる間も、筏に乘たるごとくにて、大地定らず、われさけたる所より、泥水わき出、世界も今沈む樣にぞ覺ゆ、
其時半時計あつて、沖より大波押入ると聲々に呼はり、上を下へとかへし、近邊の山に迯上る、たゞ前後辨るものなし、此外在々浦々まで、かくの如し、又迯行うちに地震ひて、老幼殊に難儀に及ぶ、間もなく跡より大浪うち入り、御城下廻り、堤不殘打こえ押切、大潮入込み、西は小高坂井口、北は萬ゝ久萬、泰泉寺、薊野、一宮、布師田、東は介良、大津の山の根まで、一面の海となる、大浪打事都合六七度、其浪の高さ五六丈もあるべきや、されども西孕の山にて波をふせぎぬれば、御城下の方は大浪不入、大潮うづまきおしこむばかりなり、其外海濱の在々、同時に大浪打入り、其破損左に記目録の如し、其日もくれになれど、入込たる潮不引、其うづまき、早き事矢の如し、又地震止事なく、人々生たる心地するものなし、此時、國守より海邊の山々へ貝役を遣はされ、沖より大浪見ゆる時は、同時に貝をたて告知らすべきとの事なり、五六日の内は、貴賤山籠りし、あるひは高き岡にあれども、しばしの間も安き心はなし、浦戸、御疊瀨は後に山あるゆゑ、死人鮮し、種崎の濱は、死人最多し、浪入數度の内、初度二度めは強からず、三度目の浪高サ七八丈ばかり、此浪に磯崎御殿不殘流失す、まことに時移り事去り、世は定めなきとはいひながら、今まで平らかなる波、暫しのうちに起りて、彼御殿をはじめて、所々民家に到るまで、暫時の内にゆりたふしおし流し、算を亂すごとくに、數百の男女老若、波にもまれ、あるひは大海へおしながされ、あるひは磯へよるといへども、巖峨々としてあげべき便りなく、又木屑にとりつき、磯近くなれば、聲あげてたすからんことを乞ふ、あるひは濱邊のもの、網なんど取集めて投かけ、おもひおもひに助るもあり、また運命つたなきものは、引汐にゆられ流れ、あるひは五臺山、吸江、薊野、泰泉寺の磯にあがるもあり、されども親は子にはなれ、子はあがれども、親はなく、又家あれども住人なく、人あれども家宅なし、此時にいたりて、國中の難義たとふるにものなし、此時、國守より御侍數十人、東西へ遣はされ、其最寄々々にて、諸民の飢を救はせらる、また種崎濱の死人、地震の後廿日許、聲空にのこり、雨夜などには、數百人の聲してたすけ給へと呼ぶ、聞くもの魂を失はざるものなし、 此地震は城下廻り六七里がうち、大地七八尺許ゆりさけ低くなり、津呂、室津の邊は、又七八尺も爾來よりゆりあげ、高く成る、これより津呂の港、船出入不成、通路不自由なる故、急に御普請ありしかど、もとの如くならず、此後、此港船の出入不自由に成しなり、同九日、十日に至りて、潮引浪も靜かに成て、山々に篭りたるもの、夫々家にかへりて住居す、此ころ、大門筋帶屋町下より一丁二丁の内、唐網あるひはすくひあみにて、海魚數多とりし也、また愛宕山の麓にては、鯖、鱸、王餘魚など、夥敷とりしと云、但此月の末まで地震止ず、日中七八度、夜へかけては二十度に及ぶ事毎日なり、大地ゆらつきて定まらざる事、前に同じ、ゆり出さんとする時は、かならず大筒を側にて打如く、夥しく鳴渡るなり、此地震、日本國中殘る處なし、但京都は少し、東海道筋は大抵尤破損多し、九州路少々破損あり、四國甚しう、其内土佐、中にも大破なり、外にも津浪入、死人過分の所も有と云、 |
破損覺 | |||
一、 | 流家壹萬千百七拾軒、 | ||
右之内 | |||
壹軒 | 浦戸御殿、 | ||
四拾貳軒 | 御船屋并役家共、 | ||
八拾九軒 | 浦々分一家御藏、番所共、 | ||
七拾五軒 | 寺社、 | ||
壹萬九百六拾參軒 | 民家、 | ||
内五千百拾七軒 | 鄕、 | ||
五千八百四拾六軒 | 浦、 | ||
一、 | 潰家四千八百六拾三軒、 | ||
右之内 | |||
五軒 | 御船屋 | ||
百七軒 | 御侍中屋式、 | ||
四千七百三十軒 | 民家、 | ||
内 | |||
二千二十二軒 | 町、 | ||
千九百九十四軒 | 鄕、 | ||
七百拾四軒 | 浦、 | ||
二十四軒 | 寺、 | ||
一、 | 破損家千七百四十貳軒、 | ||
右之内 | |||
三十五軒 | 御船藏、 | ||
十二軒 | 御殿并分一家、但從赤岡野根迄道筋等共、 | ||
九十三軒 | 御侍屋布、 | ||
四軒 | 堂社、 | ||
千五百九十八軒 | 民家、 | ||
内 | |||
七十五軒 | 町、 | ||
但此外小破ハ家竝殘無之、 | |||
千五百二拾三軒 | 鄕、 | ||
一、 | 死人千八百四十四人、 | ||
内 | 五百六十一人 | 男、 | |
千二百八十三人 | 女、 | ||
一、 | 過人九百二十六人、 | ||
内 | 八百九人 | 男、 | |
百拾七人 | 女、 | ||
一、 | 流失牛馬五百四十二疋、 | ||
内 | 百六十八疋 | 牛、 | |
三百七十四疋 | 馬、 | ||
一、 | 過牛六疋、 | ||
一、 | 流失米穀貳萬四千二百四十二石、 | ||
右之内 | |||
壹萬四千百八十四石 | 米、 | ||
七千九百四十石 | 籾、 | ||
千九百九十二石 | 麥、 | ||
百二十六石 | 大豆、 | ||
一、 | 濡米穀壹萬六千七百六十四石、 | ||
右之内 | |||
八千四百拾八石 | 米、 | ||
八千貳百三拾壹石 | 籾、 | ||
百拾五石 | 麥、 | ||
一、 | 流失鹽四百八拾六俵、 | ||
一、 | 同茶三百三十丸、 | ||
一、 | 同鰹節五十萬八千節、 | ||
一、 | 同破損船七百六十八艘、 | ||
右之内 | |||
百七拾貳艘 | 御手船、 | ||
百三十六艘 | 賣船、并□□ | ||
四百六十四艘 | 漁船共艜共、 | ||
一、 | 流失網四百三十九張、 | ||
一、 | 同浦々鹽燒道具不殘、 | ||
一、 | 同材木五萬四千六百本、 | ||
一、 | 同保佐松節共六百八十三艘荷、但十端帆積の積荷ニメ、 | ||
一、 | 同起炭貳拾艘、但右同斷、 | ||
一、 | 損田四萬五千百七十石餘、 | ||
一、 | 堰川除、堤破損四千百九ヶ所、 | ||
一、 | 流失板橋百八十八ヶ所、 | ||
一、 | 筧九百九十二艘、 | ||
一、 | 井流六十七艘、 | ||
一、 | 亡所之浦百三ヶ所、 | ||
内 | 四十二ヶ所 | 鄕、 | |
六十一ヶ所 | 浦、 | ||
一、 | 半亡所三十六ヶ所、 | ||
内 | 三十二ヶ所 | 鄕、 | |
四ヶ所 | 浦、 |
一、 | 山分山崩畑作雑穀、過分損失、積不知、 | ||
一、 | 港三ヶ所大破、 | ||
一、 | 御國中往還之道筋及大破、往來不自由之所、數ヶ所、 | ||
右破損爲御注進、江戸表へ御奉行山内主馬殿被遣之、 | |||
一、 | 寳永五年子正月四日より、山田橋より石淵迄の内、往還御普請出來ず、比島より山田橋までは、大道分繕ひ、鹽田橋の詰より比島の人家までの堤は、新に築成して潮留す、地震は此比までゆること毎日なり、 | ||
一、 | 同五月、梅雨常の年の如く降り、其内二日三日ならず、六月六日晩景より大雨夥敷ふり出して、七月末まで三月の間、雨不止、又其うち雨ふらぬ日もあれど、空はれず、此間東國は夥敷日でりのよし、また去年以來地震、此雨に至りてやすらふ、ゆぶつきし地もかたまりて、動く事なし、漸安堵の思ひをなせり、 |
- 地震49日後の富士山噴火の記録。
寳永四年、 |
ことし九月〔ママ〕十九日より、廿三日迄の中、江戸中近邊、くらやみとなり、大地鳴動、黑白砂ふり、積事二三尺、右五日の中、晝夜不相知、其後空晴、世間通路有りて、富士山より火燃出、三十里四方へ土砂ふき上、如此よし聞ゆ、此時富士の裾野に山一ッ出來る、是を寳永山といふなり、人間五十年、盛なるもはづかなるに、目前に移り換る事、きのふはけふの夢となり、まだしき花もちりやすく、あだし野の露、鳥部野の煙立去らで、夢のゆめみる浮世なれば、今更おどろくべき事にもあらず、人の身、我身におもひしられて、 |
けふをしる人し無ればとに角に、定めなき世の夢をみる哉、 |