萬石浪人
本文
編集城普請
編集一
編集元和 三年、中國筋に大暴風雨があつて處々 に被害も多かつた。中にも安藝國廣島城下には太田川 の水が溢れて町屋、侍屋敷から城の三の丸までを浸 した。而 して落 ち際 の水勢は凄しい勢ひで、遂には壕 を泥に埋 め石垣を崩し塀落ち、矢倉 の根が浮くと云ふ傪狀を呈した。- 城主
福島 左衞門 大夫 正則 は此時、江戶へ參勤して芝愛宕山下 の邸にゐたので、城の留守居たる子息備後守 正勝 から、父正則へ水害の光景 を細かに通知する。 - 正則は眉を
顰 めた。 - 正則が安藝備後兩國四十九萬八千二百石、ざつと積つて五十萬石を領して廣島城へ入部したのは
慶長 五年の十月で、今から十八年前 である、當時 には城の內外に毒蛇 多く、石垣も夥 しく崩れてゐたのを、正則入城と共に奉行をおいて城の修繕、太田川堤防の改築を行つて今日に至つたのである。 - 倂し備後守の通知によると城の破損は非常に大きいので、正則も至急大修繕にかゝらねばならぬと考へた。が、當時は天下も太平である。德川將軍家も
家康 薨去 し、今は二代秀忠 の代 となつて弓矢に蜘蛛の巢もかゝると云ふ時代である。城の普請なども天下の法度 として嚴禁されてゐるから、例 へ水害があつたからとは云へ叨 りに修繕には取りかゝれぬ。 - とは云へ城は大切である。一國の
要 、領民尊敬の的 、繁昌の中心である、まして廣島と云へば中国無双の大領地で、正則と云へば諸大名中でも屈指の大大名 である、破損の城を其儘 にはしておけない。 - 殊に正則は武を
尙 ぶ、城を愛する事も深い其上 短氣で剛情で、今年五十七才の、老いの潔癖までついてゐるから、城を其儘にしておいては手足に泥がついたやうで寢覺がよくない、で、色々思案する間 に其年暮れて元和四年となつた、其五月には參勤交代がある、將軍のお暇 も出て廣島へ歸る事となるから正則は夫 れを機會として城普請にかゝりたかつた、思ひ立つては我慢もならず、四月の或日本多 上野介 正純 の邸 を訪れた。 - 『
今日 は少々折入 つてお賴み申したい事があつて參つた』。 - 『何かは存ぜぬが遠慮なくお話しなされ、出來る事ならご相談に乘りませう』と
上野介 は快 よく迎へた。 - 『是非御骨折に預りたい』と正則は
繕 はぬ口調で『御聞及 びであらうが、手前の居城廣島城が、去年の暴風雨 で强 か崩れた、就 ては至急普請をしたいと思ふが、一つ貴下から將軍家へ願つて下さらぬか』。と云つた。 - 正則は
上野介 と懇意な間柄である、而 して上野介は今、天下の老中の一人 で、將軍家の覺えもよく、世の權臣 でもあるから、恁 う賴んだのであつた。 - 『
御尤 もな話ぢや』と上野介は凝乎 と考へて『倂し城普請は御法度 であるから然 う急にお許しは無いと思はれる、水害の事で平素 とは違ふから是非普請もしなければなるまいがまあ氣永 にお待ちになるが宜しい、其內 折を見て上樣へお願ひして見ませう』と云つた。 - 『早速の御承知ありがたい、
御前體 よろしくお願ひ申す、實は來月には參勤交代で、手前も廣島へ歸るから、夫 れまでにお許しを受けて下されば結構ぢや』。と正則は云つた。 - 『宜しい承知しました』。
- 『これで安心ぢや』と正則は其儘
暇 を吿げた、上野介はあしらひが巧みで世なれた才子である『粗酒でもあげたい、久しぶりに緩々 閑談もしない』と愛想 く引止めたが、正則は率直である『酒よりも何より早速の御承知が充分の御馳走ぢや』と云つて、座を立つた、權臣 の上野介 が引受けて吳れたから、正則ももう間違いは無いものと考へてほく〳〵もので邸へ歸つた。 - 五月が來て正則は江戶を立つて廣島へ歸ると城は思つたよりも荒廢してゐる、石垣の崩れた跡へは雜草繁つて、落ちた土石は
濠 を埋 めてゐる、以前と打つて變つて城の外觀は極めて見苦しい、濠 一つ浚 へるにも世が世であるから穩ならぬ噂も立つので、留守居の者も其儘に打棄 てゝあつたのである。 - 倂しまだ確かな許しも受けてゐないので、
直 には普請にも取 かゝれぬ、今か今かと上野介 の便りを待つたが、音もなしに秋となる、念の爲に飛脚を立てゝ江戶の上野介 に依賴狀 を送ると冬の始めになつて返事が來た。 - 『折を見て上樣に
言上 する、追 つけお許しが出るであらう。』 上野介 の返事は手輕である、折を見てと云ふ其折が何時 の事だか、夫れさへ覺束 ない、正則は次第に氣を焦 つた、夫れも尤もで、元和五年の三月となれば、又も參勤交代の爲めに江戶へ行 かねばならぬからで、正則は其以前 に自分の思ふがまゝの普請をしたいのであつた、恁 うなると自分勝手の理屈もついて、例へ許しは受けてないまでも、既に天下の老中へ再度まで依賴した事でもあり、老中も引受けてゐる事でもあるから、もう許しを受けたも同樣であると考へた。- 遲くはなつても
何 れお許しの來る事は確かである、上野介 も萬々事情を承知の事だから今年中 には將軍秀忠公へ言上するに相違ない――とすれば一月中には何 かの沙汰はある、と考へた。
二
編集- で正則は其年の暮から早くも普請の準備にかゝる、老臣中には多少
懸念 する者もあつて、『今暫しお待ちになるが宜しい』と云つたが、氣の短い正則は耳も傾けぬ。 侍大將 の吉村 又右衞門 宣充 は殊に眉を顰めて言いた、又右 は今年 四十一歲の分別盛りで、同僚からも思慮深い男と敬はれてゐるが、彼には此度 の城普請が、主君の大事を惹起 す因 になりさうに思はれてならなかった。で備後鞆 の城代大崎 玄蕃 長行 の意見も聞いて見やうと考へた。- 正則の本城は廣島で、支城には備後三
原 、鞆、三次 、東條 の城々があつて三原城代は老臣の福島丹波 、三次城代は尾關 岩見 、東條城代は長尾 隼人 、鞆城代には大崎玄蕃である、其中 玄蕃は知行 八千石で、吉村又右とは年來親しく交はつてゐるのである。 - 又右が玄蕃を訪れたのは十二月の
下旬 である、暖かな海に面した鞆の城にも冬が來て、此頃 は曇り續きの北風が寒い、酒豪 の玄蕃は朝から杯 を傾けて、又右を迎へた時には只 さへ大きい、鬼の樣な顏を眞紅 にしてゐた。 - 『よく來たぞ、
今朝 の網で夥 しい肴 が上がつたでな』と顏を見るなり臭い息を吹つかける。 - 『夫れは珍重ぢや、馳走にあづからう』。
- 隔てない
二人 は勿體ぶつた會釋も必要が無い、又右も座につくや否、杯 を手にする、玄蕃は髯面 、眼が大 い、鼻も隆 くて肉厚 である、唇も厚くて憎々しい、又右は夫れに反して顏は柔和である、玄蕃に劣らぬ逞しい身體は有 つても、どことなく優しみがあつて太い肉もさして目に立たぬ。 小宴 の室 の外には、もう二三の梅樹 が三分の花を綴つてゐた、坐 には人も交へず、只木曾女 と呼ばれる四十女 が侍 つてゐた。- 木曾女は背高く
骨太 で岩のやうな醜い顏で女と云ふより男と呼ぶに相應 はしい、男にしても餘程 の醜男子 である。 其折柄 淸洲城下へ木曾から來た女がある、武家奉公を望んで、幾度 となく諸家へお目見えをしたが、二目 と見られぬ醜女 に生れてゐたゝめ抱へやうと云ふ者がなかつた、大力 との噂はあつても、醜女 と云ふのに誰 も二の足を踏む、女は零落 れて漂浪してゐた。- 玄蕃は夫れを憐れんで女を呼んで力を
試 した、女は立臼 を輕々と運んだり、玄蕃の仲間 十六人を犬猫あしらひに投飛 ばしたりした、玄蕃は夫れが氣に入つて、素姓 も調 さず、女を召抱 へたのである。 - 夫れから廿餘年間、女は玄蕃の家の
只一人 の女性 として忠實 に仕へた、始めはがさつの振舞 もあつたが、家に慣れて性來 の大力も出さず、次第に淑 やかになつて勝手向 一切を切廻 して家政に手落 もなかつた、玄蕃の其後 が暮しに過不足なく、冬は冬のもの、夏は夏の料 を身に纏 ふ事も出來、家財調度も豐になり、不意の費用 に事缺かぬやうにもなつたのは總て女の働きである、而 して其女が今の木曾女であつた。 - 木曾女は今も玄蕃の家の
只一人 の女で、又無くてはならぬ女である、女中とは云へ、奧方の無い家では奧向 の支配頭 である、家事向の事では主人の玄蕃さへ頭が上らぬ、仲間小者 からは木曾樣、木曾樣と敬はれてゐる、八千石の家の女大將 として、家中一の醜女 として賢い女として、廣島 士 の間 にもよく知られてゐる。 - 吉村又右も木曾女とは二十年來のなじみで單に玄蕃の家の召使としてではなく、云はば同僚の
妹 位 に心得てゐる、で、吉村が來れば木曾女も出て酒の斡旋 をする例になつてゐた。 杯 は屢々 𢌞 つて、日は早や西に傾きかける又右の瞼 にも微醉の色が浮んで來た。- 『少々醉ふたようぢや、木曾女
其處 の障子を開けて貰ひたい、いや、夫れよりも酒も納めとして貰はふかな』と又右は云ふ。
三
編集- 『久しぶりの事でござります、ご
緩 りとお召しなされ』と木曾女は控目 に、ものなれた調子であつた。 - 『ならぬ、ならぬ、俺はまだ醉はぬわ』と玄蕃は首を振る。
- 『貴公は醉ふまで飮むが
可 い、例 の癖 ぢやで止 めるとは云はぬよ、ぢやが俺には相手は出來ぬ、もう此通 りぢや』と又右は頰を撫でゝ莞爾 々々する。 - 『
何 のそれ式の酒に醉ふ奴か、珍客め今日 は醉 つぶして吳れるぞ』。 - 玄蕃は
盃 を干してつとさした。木曾女は片手をつきながら酌をする夫れを受けながら又右は、又莞爾 ついた。 - 『
今日 はちと話があつて來たでな、醉 つぶれてはならぬ譯がある』。 - 『話は
明日 でも可 かろ、話と云ふと貴公のは理屈詰 ぢや、受太刀 が辛 い』。 - 『辛くとも聞いて貰はねばならぬ、云はゞ殿の上ぢやからな』。
- 『殿の、ふむ』と玄蕃は目を丸くして『殿が
如何 したと云ふ』。と氣が早い。 - 木曾女は
淑 かに禮して坐を退 りかけた。 - 『
可 いは、木曾女まあ酌をして吳れ』。と又右は云つた。 - 『でも』と木曾女は酌をして『遠慮致しませう、聞かねばならぬ事なら兎も角でござります、
私 に用の無い事でも、聞けば又耳に殘つて消えませぬ』。 - 『む、
然 うぢや』。と玄蕃は頤 を振る。 - 木曾女は去つた。
- 『
何 ぢや』。 - 『
他 でもない、此度の城普請 ぢや』と又右は玄蕃を見た。 - 『ふむ、普請の事は聞いた』。
- 『夫れが俺には得心がゆかぬ、城普請も
可 い、將軍家お許しのあつての後 なれば可 い、が、殿はもう其準備にかゝられている、來春 早々には始めると云ふのぢゃ、性急も事による、他ならぬ天下 法度 の城普請を、さう手輕にして萬一、後 にお咎 めがあつたら申譯 が立たぬと云ふものぢや』。 - 『其事なら仔細はあるまい、先頃にも福島丹波が、殿へ伺ひを立てたと云ふが、殿は笑はれて、萬事は本多
上野介 が含んでをるで心配は無い、と云はれたげな』。 - 『
夫 ぢや』と又右は異樣に眼を輝かせて『含んでをる本多殿は――是れは公けには云はれぬ、殿へも云 ひ難 いが――本多殿は將軍家の懷刀 ぢや、殿とは懇意でもあらうが、將軍家が爲にはどの樣な事もするお方ぢや。 - で、又、將軍家は兎角
外樣 の大名に冷たい心を有 たせらるる、外樣に仔細の過失 あれば用捨はなさらぬ、夫れを機會に所領沒收などもせられまいものでも無い、無いどころか例 もある、さあ、こゝぢやよ、我等 が殿は外樣の中の大大名 ぢや、將軍家はどう見てござるか、そこが恐ろしい。 - 城普請は天下の大禁、夫れを外樣の大大名が破つた、將軍家はどう思はれるであらう、萬一何故に法を破つた、と將軍家の一
聲 が下つたとする、其時に殿は何と申譯をされる、前以て本多殿に願つておいたでは濟むまいぞ、願つておいたとてお許しを待たぬと云ふ罪は免 れられぬ』。 - 『道理ぢやな』と玄蕃は腕を組む、だがまだ得心は行かなかつた。
- 『それは道理ぢや、ぢやがなあ、殿は外樣とは云へ、將軍家への忠勤は莫大ぢや、譜代大名と同樣の
御待遇 ぢや、將軍家とて然 う水臭くは思召 ぬ筈ぢや、殊に本多殿が引受たとなればなあ』。 - 玄蕃が恁う云ふのも道理はあつた、福島正則は德川家康に對して大功がある。
- 正則は元が豐臣家の譜代である、
市松 の昔は賤 ケ岳 七本槍 の一人 として秀吉の寵愛者 、後に豐臣家股肱 の臣となつてゐた、だが秀吉薨去の後 は寧ろ德川家と親しかつた。 - 家康が
會津 上杉家 征伐の爲、關東に下つた時には正則も從がつてゐたが其 不在 に大阪では石田 三成 等 が大兵を集めて家康討滅の計劃を立てた、天下は二つに分れて家康勝か、三成勝つかの大賭奕 となつた。 - 此時三成方では豐臣家のお爲に家康を討つと云ふ立派な名分を
有 つてゐた。 - 正則は豐臣家の股肱である、當然三成に味方せねばならぬ、だが彼は以前から三成と仲が惡い、一度は三成の
生命 を奪はうとした事さへある、加之 、三成が豐臣家のお爲と云ふのは世間を欺く體裁で、其實は己の野心を滿たす爲の旗揚 と推 してゐた、で、彼は何の躊躇もなく家康に味方した、而 して家康軍の先鋒となつて關東を立つて東海道を上りかけた。 - 其頃正則は尾張國淸洲城廿萬石を領してゐて、城へは留守居として
津田 備中 大崎玄蕃の二人 を置いてあつた。 - 三成は早くも六千騎を率ゐて
美濃國 大垣城 に下つた、大垣と淸洲とは六七里を隔つるに過ぎぬ、三成は先づ淸洲を奪はうとした、淸洲を奪つて續いて三河路 に進み、家康の先鋒を喰ひ止める事が出來るからである、而 して三成の後 には三成方の諸將が何萬騎を率いて續いてゐた。 - 淸洲の守兵は僅かに數百人に過ぎぬ、三成を
遮 る力がない主將津田備中は顫 へ上 つて三成の云ふが儘に城を渡さうとした、だが副將大崎玄蕃が不承知であつた。 - 『城は殿から預つた城ぢや、殿が渡せと云ふなら
明渡 しもするが、三成に脅 されて渡す事はならぬ、何萬騎押寄 せても渡す事はならぬ』と備中を罵しつたのは玄蕃であつた。 - 玄蕃の剛情で城は
持堪 へた、其間 に正則始め家康の先鋒廿七將が城へ到着した、淸洲は家康方の根據地になつた、城に蓄へた兵糧 は家康方の大軍を養ふに充分であつた。 - 淸洲が取れぬばかりに三成方は充分の地の利を占める事が出來なかつた、で、
關 ケ原 の大戰となつて大敗北の悲運に陷 つた。 - 『余が思ふがまゝの
戰 をさせたのは淸洲城があつたからぢや、淸洲城を余に得させたのは玄蕃の力ぢや、玄蕃あればこそ關ケ原の勝 の因 が出來たのぢや』とまで家康は、玄蕃の功を賞めた。 而 して玄蕃は正則の家臣、淸洲は正則の領分で、玄蕃の功は正則の功となつた、關ケ原戰後に家康が正則を賞して安藝備後五十萬石を與 へたのも其爲である。- 其時家康の
謀臣等 は『正則の功は大きいが五十萬石は過分であるまいか』と言つた。 - 『いや、彼に五十萬石は惜しくはない』と家康は
頭 を振つた。 - 夫れは
慶長 五年の事で、今から廿餘年の前 である。 - 玄蕃は夫れを思つた、あの時正則が家康に味方しなかつたら、豐臣家恩顧の諸將も味方しなかつたかも知れぬ、關東での諸將の會議に正則が第一に味方すると云つたので諸將も夫れに贊同した、德川家でも其事情はよく知つてゐる、尋常一樣の外樣大名とは思つてゐない、と玄蕃は信じてゐる。
- 夫れだけ吉村又右衞門の言葉を重く見なかった『叉右が又も
苦勞性 を出したな』位 にしか思へなかつた。
四
編集- だが、又右の懸念にも深い思慮があつた。
- 夫れは主君正則の
我儘 と、其我儘に對する當將軍秀忠公の思惑 とが氣がゝりなので。 - 正則の我儘は、
以前 から橫紙破 りの名を取つた位である、目立つた例は丁度關ケ原の大戰終つて間もなく正則が京都 の邸へ歸りかけた途中に起つた。 - 其時正則の
使番 の一人 が主命で淸洲に使ひして後 から正則の隊を追ひかけてゐた。 - 途中の
日岡峠 に德川の關所があつた、使番が其處 を過ぎる時、關所役人の棒を誤つて馬蹄にかけた。 - 役人は立腹して棒を
擲 つて使番の腰に一擊を加へた、棒を踏んだのは惡いが夫れは過失 である、役人の振舞は寧ろ暴に過ぎた、使番 は憤然として顧みた、だが、ぢつと耐 へて、罵言 る聲を後 に聞きながら其儘に去つた。 而 して正則に追いつき、使命を果してから事情を打明けて、思ひ込んだ風で云つた。- 『
私 は關所役人から恥辱 を受けてゐまする、其場を去らず斬死 したさを忍んで參つたのは御用を大事と思つたからでございまする、倂 し最早 御用も果たしました、是れから引返して恥辱を雪 ぎたいと存じます、どうぞ長 のお暇 を下さるやう』 - 正則は
暫時 目を閉ぢて聞いてゐた、而 して暗い顏をして『其方 の覺悟は勇ましいが、余にも考へがある、急ぐには及ばぬ』と云つた。 - 京都の邸に着いてから改ためて使番に云つた。
- 『どうぢや、まだ死ぬ覺悟か』。
- 『
武士 が恥辱 を受けながら其儘にはなりませぬ、福島家の武士 腰拔 と云はれるのも口惜 しうござります』と使番の決心は强かつた。 - 『よし、夫れではこゝで切腹せい、
其方 の仇 は余が取つてやる、あの關の頭 は伊奈 であつたな、余は伊奈の首級 を申受 けてやる』。と正則は云つた。 - 使番は
潔 よく腹を切つた。 - 正則は其首を關所の
司 伊奈今成 に贈つた『當方の使番、關所で恥辱 を受けて、かやう相果てた、相當の御所置 を希 ひたい』と申込んだ。 - 今成は眉を
顰 めたが、役人を調べて事情が分つて見ると棄てゝはおけなかつた、德川家重臣井伊直正 、本多忠勝 に仔細を吿げる、井伊も本多も苦い顏をした。 - 『先方の立腹も尤もである』と云ふのが其の意見である、今成も是非なく關所の
下役人 六人の首を打つて正則に贈る。 - 正則はすぐ
突返 した。 - 『人には貴賤の別がある、當方では
武士 の首を贈つてある、夫れの御返答が雜人 の首とは、當方の武士 とそちらの雜人とを同格にお認めぢやと見える、夫れでは當方の面目 が立たぬ、當方で望むのは只一つの首でござる』と嚴重に申し送つた。 - 事は大きくなる、井伊も本多も首を
傾 げた天下が今、德川家の手に入 りかけている折柄である、些細の事から大事を起したくない、正則を怒 らせてはならぬと考へた。 - 關所の
上役人 一人 の首を打つて改めて正則に贈つた。 - 正則は又、
突返 す。 - 『手前は
武士 が大切である、戰 に出て功を立てるには平素 から武士 の心服を得てゐなければならぬ、然 るに今は家來等 に腐甲斐無 きを見すかされるやうな事になつた、是れでは此後 功 を立てる事も出來ぬ』と申し送つて邸を閉ぢて蟄居 して了 つた。 - 井伊も本多も少からず
手固 ずつた、正則の望むところは今成の首である。だが今成は德川家譜代の旗下 である、其首を打つ事は容易でない、として遂に家康の耳に入れる事となつた。 - 『正則の云ふところも道理ぢやな』。
- 深く深く考へた
後 に家康が云つた。 - 夫れと
漏聞 いて今成は自殺する、首は井伊の手から正則の許 へ送られた。 - 『井伊殿の御盡力で、手前の
恥辱 も雪 ぐ事が出來た』と正則は感謝した。 此 出來事 が、德川家に不快を抱かせた事は云ふまでもない、と又右は推 してゐる、當時天下はまだ、全く家康の手に入 つてゐなかつたとは云へ、大勢 は家康に歸してゐた、天下の靜謐 を圖 れ、との敕命も家康に下つてゐた、家康は飛ぶ鳥落す勢 であつた。- 夫れに對して、これだけの
我 を通すのは正則でなければ出來ない、家康が夫れを通させたのも關ケ原の大功を思つたからで、續いて五十萬石を與へたのも其爲で、一つには又、天下を定めるんは正則を始め豐臣家恩顧の諸大名を手なづけねばならぬからであつた、此時豐臣家は秀吉薨去後とは云へ、まだ淀殿 がある秀賴 がある、勢力の影薄くなつたとは云へ、豐臣家の恩を知る大名が多くゐる、夫等 を動搖 めかせては又もや大亂を惹起 すからであつた。 - 又右は
然 うした世の形成 をよく推 してゐた。
五
編集- 關ケ原後の世の中は全く德川氏の天下となつた、正則も
何時 か家康の恩を受けて臣下の禮を執るやうになつた。 - 恁うなると德川家も正則に對して
最早 遠慮はない、全くの臣下として取扱ふ、慶長十五年家康の第九男義直 が尾州名古屋に移つたので、名古屋城普請の大工事が起る、工事は廿餘の大名に命ぜられて正則も命ぜられた一人 である、思ひ切つての大工事、費用が夥しいので大名中に不平の聲が起る。 - 正則は
其 發頭人 である。 - 『普請も
可 いが、恁う費用がかゝつては難儀でる、何とか補助を仰がねば手前等 が立行 かぬ、手前が發頭 となつて將軍家へお願ひを致さう』と勢 つた。 - 『お願ひするも宜しいが、お願ひを許されなかつたらお手前は
如何 する』と加藤淸正 が念を押した。 - 『夫れは是非もない』。
- 『お許しが無ければ
默 つて了 ふ位なればこれは始 からお願ひをせぬ方が可 いであらう』と淸正は云ふ。 - 『
否 、願ふだけは願つて見る』と正則は剛情張つた。願ひは出された。 - 老中
本多 佐渡 の答へは簡單で嚴重であつた。 - 『既に上樣の仰せ出された
今日 である、台命 を取消す事はなりませぬ』。 - 正則は不平を抱いて
引退 らねばならなかつた。 - 『云つた通りぢや、お手前は今
如何 思ふ』と淸正が咡 いた。 - 『以ての外ぢや、面白くない』。と正則は鬱した聲であつた。
- 『ふむ、では
如何 ぢやお手前、事を擧げる氣は無いか』。 - 『事とは』と正則は
愕 とした。 - 『事ぢや、旗を上げるのぢや、お手前が旗を上げるとあれば手前は卽座に從ふのぢや、お手前と手前とが一つになれば
西國 、九州四國の大名はあら方 、同意する、で、大阪の秀賴樣を押立てゝ天下を爭ふのぢや、負ければ討死 、勝たば再び豐臣家の天下ぢや』。と淸正は睨んだ。 - 正則は腕を組んで眼を閉ぢて、
顳顬 をピリピリと動かせた。 - 正則は豐臣の世が戀しい、
關 ケ原 役 に家康の味方したのは、家康に天下を取らせたい爲ではなかつた、家康に然 うした野心のありとは知らなかつたからであつた、家康を正直 篤實 の大將と信じ、三成のなす事を悉 く姦智の所業と見てゐたからであつた、且 又 家康が秀賴の後見者として長く豐臣家を安泰にするであらうと信じたからであつた。 - だが、
其後 家康は隱した牙を露 はした。事每 に豐臣家の勢 を殺 いだ、夫れを悟つた時はもう遲かつた、自分までも何時 か家康の臣下の位置に押へられてゐた。 而 して今は名古屋城の城普請を勤めねばならぬやうになつてゐる、舊主の豐臣家は哀れ孤城落日の體 で、秀賴はあつても、殆 んど無きが如くに德川家から扱 はれてゐる。- 夫れを思ふと正則も腕が
顫 く。 - だが〳〵、淸正の言葉は餘りの暴と思はずにはゐられなかつた。
- 彼は
慘 ましい目に淸正を見た。 - 『殘念ぢやが、今となつては遲くはあるまいかな』。
- 『ふむ』と淸正は口を
締 めて嵐のやうな息を吐 いた。 - 『思へば手前は夢を見てをつった、其夢は關ケ原の時に覺めねばならなんだが、覺めおくれて今となつた、も
早 遲い、で、又早い、同じく事を擧げるなら、家康公世を去る時まで待たずばなるまいか』。 - 『
然 う思ふか、ふむ、是非もない』。 - 密談は夫れきりとなつた、正則はまだ未練があつたが、淸正は二度と云はなかつた。
二人 の密語は二人 以外に知る人はない、倂し恁 うした心が主君正則の胸にある事を、吉村又右は知つてゐる、而 して然 う云ふ心のある事を德川家でも推 してゐると、又右は推 してゐる。
六
編集- 慶長十九年には大阪冬の陣があった、豐臣家滅亡の危機は迫つた、家康の大軍は大阪城に秀賴母子を
攻圍 んだ。 - 正則は家康の命で江戶の留守居となつたが彼は遥かに舊主家の安危を想ふて、悲愁の淚を
溢 さずには居られなかつた、相談相手の加藤淸正も最早 世に無い人となつてゐる、彼の淚は一通の密書となつて本國廣島の家老福島丹波尾關岩見の許へ飛んだ。 - 『余は故豐臣家の大恩を受けた者、其事は世に隱れもない、
然 るに今豐臣家滅亡の時近づいてゐる、さりとて余は江戶にゐる、籠の鳥同樣である、大阪を救ふ事もならぬ、よつて福島家今日の事は汝等 兩人の覺悟に任せる、兩人の考 によつて大阪方に從 くのが武門の譽 とあるならば備後守正勝を助けて大阪に行け、余の事は案ずるに及ばぬ江戶で命を終ゆるも豐臣家 御爲 には惜しいとも思はぬ、必ず疑はずに兩人思ふがまゝに事を定めて貰ひたい』。 - 手紙には恁うあつた。
- 丹波と岩見とは備後守正勝の前に出た、廣島城中の奧に君臣三人
額 を鳩 めて協議したのである。 - 『
何樣 、大事の議にあります、若殿思召 はいかやうでござります』と二人 は云つた。 - 『
否 、父上お手紙にもる、其方等 圖らへ――余は何 れとも異議は唱へぬ、先づ丹波はどう思ふ』と正勝は云つた。 - 『されば』と丹波は目を輝かせて『丹波は大阪へお味方が宜しいと存じます、當家大阪へ味方すれば自然其勢ひに連れて大阪へ馳參ずる大名も少なからぬ事と思はれます、で、大阪方
勢 を得て勝たば當家榮昌の基 となります、負けて自害したればとて武門の譽 、名は後 の世に傳はる事と存じます、關東に味方は大殿御本意でもなく、又世間の誹謗 もござりませう』 - 『岩見は』と正勝は
顧 つた。 - 『いかにも丹波の意見道理でござります、倂し、それは大殿の御本意、若殿としては大阪に味方しては、取りもなほさず
御父上 を棄殺 しにする儀に當ります、人情、天命、御父上見殺しは如何 にもなり兼ねます、こゝは只 時勢に從ふて御家 の安泰、大切でござります、つく〴〵大阪方の樣子を見ますると、大將の能、秀賴樣、淀殿の御有樣、萬に一つも御勝利覺束 ない事と存じます』。 - と岩見は云つた。
- 兩家老の意見は一致せぬ、最後の斷決は正勝が下さねばならなくなつた。
- 『余は岩見の意見に從ふ』。
- 事は決した、正勝は
手勢 を率ゐて家康に從つた。 - 此前後の事情をうす〳〵推察したのが吉村又右衞門であつた。
- 又右は密かに江戶へ行つて正則の前に出た。
- 『殿には關ケ原御軍功拔群な故に兩國を賜はりましたが、其節人々が、他の大名と比べて御恩命過分ぢやと申され、又家康公には、過分でない、福島は戰功のみでなく、淸洲を明渡して味方十三
頭 の人數數萬を引受け、兵糧 賄 四十日に及んだ功あり、二つの功に安藝一國では不足と思ふて備後添へた、大名一列の賞功に過分とは申難 し、と仰せられたげにござります。 其前 に伊奈今成の事もござりますに、其 氣色 も少しも出さず、あのやうな恩賞の有りましたは、よく〳〵取鎭 めた沙汰と思はれます、で、其頃又右は家康公のお胸を推 しまして、何 れ靜謐の代 ともならば、何かに就いて當御家 へお當りがあらうかとも懸念しました、倂し當年まで十餘ケ年間、何の事もござりませぬ。- つく〴〵思へば、是れは大阪に秀賴樣がおわす故と相見えます。大阪
落去 なき前に何かの事を起しては諸大名の疑念を强めます故にござりませうか、旁々 大阪落去と共に當御家 の大變も起り兼ねぬと思はれます、殿には其邊 の事をお察しの儀とは思ひまするが、愈 よ大阪落去の時には、天下弓矢納めのお祝ひとして備後一國を御獻上あつて然るべく、自然に夫れが御家 長久 の基と存じます』。と云つた。 - 又右はもう
此頃 から主家 の前途に不安を覺えてゐたのである、彼が關東に密行したのも忠義餘つての事であつた。 - だが正則は只
頷 いただけで又右を退 らせた大阪冬陣 は和睦となつた、翌 る元和元年に和睦が敗れて大阪夏陣 となり、豐臣家の滅亡となつた、だが正則は備後一國の獻上は出來なかつた、夫れのみか今度も、將軍家の許しを待たず城普請にかゝらうとしてゐるのである。 - 又右の懸念は愈よ大きくなつてゐる、其懸念を今、大崎玄蕃に打明けたのであるが、玄蕃は案外平氣であつた。
七
編集- 平氣な玄蕃も、細かに又右に說かれて見ると成程と思はれる
節 もあつた。 - 『云はれて見ると、城普請の早過ぎるやうにも思はれる、俺には夫れ程の事とも思はれぬが思慮深い貴公の云ふ事ぢや、どうやら俺にも氣がゝりになる、
例 へ本多殿お含みでも、夫れは別ぢや、お許しを待つてっかゝるが穩かなは云ふまでもない、石橋も叩いて渡れぢや、これは一應諫言 入れて見るも可 い、聞かれねば是非もないが、入れるだけは入れるが家來の道ぢや、で、此諫言は貴公の役ぢや、俺は口無調法 で、云ひたい事も得云はぬでな』。 - 『むゝ、俺が分、貴公の分も
纏 めて、明日 に殿に諫言する』。 - 又右は强く云つた、酒は
夜 に入つて玄蕃も醉ふ、又右も醉ふ。 - 正月が近づいて正則は城普請の
準備 も終へた、普請奉行、諸役人も定めた、人夫徵集の割當 も出來た。 - 普請始めは正月廿四日と
定 つて、其 觸 れが出る。 - 正月は來た、城中に年の始めの祝宴があつた、又右が主君の袖に
綣 つたのは翌 る日であつた。 - 『何ぢや』。と正則は云つた。
- 『この度の城普請につきまして』と又右は
額 ついた。 - 『
見合 せいと云ふのか』と正則は笑 んだ。 - 『さやうにござります』。
- 『諫言の
云 ひ始 めぢやな、理屈の好きな奴ぢや、其方 の理屈は事 六つかしいで、余も持餘 す、措け措け』。 - 『
私 一存にはござりませぬ、大崎玄蕃とも申合せ、御家 御爲 と存じましてお見合せを願ふ次第にござります』。 - 『ほゝう、
其方 玄蕃を說伏 せての事であらう、玄蕃は其方 がやうに、細かい苦勞をせぬ男ぢや』。 - 正則は
呵々 と笑つた。 - 『恐れ入ります、
如何 にも玄蕃を說きつけて玄蕃も合點 、許共 に懸念致します儀にござりますお城の普請に一木一石なりとも、私 に動かしては天下の大法を破る事となります』。 - 『余も
法度 は知つてをる、知つたればこそ老中に賴んである、氣つかうな』。 - 『お賴みはお賴み、お許しはお許しでござります、お賴みは
內分 、お許しは公け、內分の儀が公けの代りには立ちませぬ、萬一の際に內分のお賴みがものは云ひませぬ』。 - 『老中と余との約束
其方 には分らぬ、分らぬ故に苦勞するのぢや、又右、其方 は苦勞性ぢやな』。 - 正則の
今日 は機嫌はよかつたが、よくても正則は剛情である、六十才近い今は心に寬 ぎも出來てゐるが剛情は昔に變らぬ、昔は剛情が暴に流れてゐたが、今は暴を愼しむ代りに剛情は一層底强 くなつてゐる。 - 悟れば悔いるも早いが、
如何 かすると悟つても非と知つても金輪際 我 を通す癖 が正則にある、今は其時で、又右が理を盡 しての諫言も效が無かつた。 - 又右も主君の性質を知つてゐる、もとより
卽座 に諫言が容れられるとは始めから思つてゐない、只 云ふべきを云つておいて此日は引退 つた、正則には一度は剛情を張通 しても次の日になつて案外脆 く非を悔いると云ふやうな事が屡々 あるので、又右も夫れを心待ちにしたのである。 - 倂し正則は遂に顧みなかつた、正月廿四日愈よ城の普請始めを行つた、
初春 の城の空、晴れ渡つて日影麗 かに、祝ひ歌賑はしく、次の日からは番匠 、石工 、左官、人夫が夥しくかゝつて石垣を築直 す、矢倉 、塀なども打壞 して新 に建直 す、五十萬石の大名の普請であるから、かなりの大工事である、漸く二月 下旬 になつて工事は大半出來 する、正則は夫れに安心して、三月に入 ると參勤交代の爲廣島を出發する、其 下旬 には江戶へ着いた。 - だが夫れより早く城普請の噂は江戶へ聞えて將軍秀忠公の耳に
入 つてゐた。
一大事
編集一
編集- 春暮れ方の江戶城の奧、秀忠將軍は
尋常 ならぬ顏をして老中酒井 雅樂頭 、本多 上野介 、土井 大炊頭 、安藤 對馬守 等 を召した。 - 『餘の儀ではない、福島左衞門大夫が、廣島の城を
私 に普請したと聞えがある、確 とであらうな』。 - 將軍の聲は欝してゐた。
- 『左樣にござります』。と雅樂頭が
恭 しく答えた。上野介 ははつと驚いた體 であつた。 - 『城普請
法度 は故將軍(家康)樣の定めおかれた事である、過 る元和元年七月七日、諸大名を伏見に集めて申渡 してあつた、左衞門大夫今囘の振舞は余を輕侮 しめた沙汰であらう、以ての外の事、心の中 も不審に思ふ、屹度 糾明せい』。 老中 等 は顏を見合せた。- 『恐れながら』と
上野介 が將軍を見た、將軍は默つて上野介 を見た。 - 『此儀は
上野介 の懈怠でござりました、左衞門大夫豫て上野介 まで城普請の事申出 てありました、上樣への言上 遲々 して今日 に及ぶ間 に太夫性急かゝる儀に相成 ました、豫て大夫よりの書面も、上野介 留置 いてござりますお目通し下されば有難き仕合せに存じます』。 - 將軍は默つた儘であつた。
上野介 も手をついた儘であった。 上野介 が今日 まで云ひ出さなかつたのは故意か過失か、過失とすれば悧潑 の上野介 に不似合である、故意とすれば其譯が無いでもない。- 正則は關ケ原の戰功に慢じて兎角我儘の振舞が多かつた、秀賴
滅亡前 には兎もすれば豐臣家に忠義立てをしてゐた、大阪城には秀賴へ味方するやうな風說もあつた、名古屋築城には不平を訴へた發頭人で、夫等 は悉 く將軍の感情を害してゐる、上野介 は將軍の心をよく知つてゐる。 - 正則の依賴を受けながら
今日 まで放棄 おいたのは默つて正則の法度を破るのを待つてゐたとも云へる。 - 今正則は法度を破つた、これは
上野介 の思ふ壺で、又將軍の思ふ壺とも見れば見られる。 - 將軍は稍あつて云つた。
- 『
上野介 の言葉は證文の出し遲れであらうぞ、例 へ前以て申出たとは云へ、許しも待たぬとは大夫の落度、否 、余を侮つての事であらうぞ』。 - 將軍は、つと立つた。
- 一言
最早 動かす事が出來ぬ、老中等 は引退 つて協議の上、正則の罪捨置 かれぬとなつた。 - 四月廿一日の夕刻上使、
久貝 忠左衞門 、堀田 勘左衞門 が正則の邸に臨む。 - 上使と聞いて、正則は胸を打たれた。
- 『
失敗 つた、城普請の詮議』。 恁 ふ云ふ思ひが胸に谺 した。- 『上樣の上意でござる、
其許 何故に御法度を破つて廣島の城普請をなされたか、確 と御答 を申上げられたい』。 - と忠左ヱ門は
嚴 かに云つた。 - 正則は
暫時 して顏を上げた。 - 『
此 上意 は老中衆寄合の上の事と存ずるが其寄合の中に本多 上野介 殿も加はつて居 られたか一應夫れ伺ひたうござる』と念を押した。 - 『いかにも御列席』。
- 『むゝ』と正則は胸を張つて伏目勝ちに眉を詰めた、
其面 には見る〳〵憤りの色が上 る、上使二人 は油斷なく目を配つた。 - 『さては』と
軈 て正則が面 を正して『御上使の今云はれた上意の中には上野介 殿の意見を含んで居られるか、最早 ならぬ、正則お答へする言葉もない、申譯も致したくない切腹切腹、御上使、正則切腹する外は無い、四人の老中衆へ、今申した事を有りの儘に、申上げて頂きたい』。 - 深い覺悟の
體 で云つた、而 して靜かに用人の林新右衞門 を呼んだ。 - 『新右衞門、正則は
今日 、廣島 城普請 お咎めとあつて御上使を下された、正則は申譯は致したくない、切腹の外は無い、とお答へした。可 いか申譯は致したくない、切腹の外はない、とお答へしたのぢや、聞誤 まつてはならぬぞ、で、其方 は是より御上使のお供をして參れ、參つて老中衆へ、予がお答へ申した次第を間違いなく申上げい』。 - 正則は恁う云つて又上使に對した。
- 『見らるゝ通り、新右衞門にも申聞かせました、御上使にも微塵お繕ひなく申上げて下さい、其爲に慮外ながら新右衞門にお供させます、新右衞門は老中衆もお見知りの者ぢや』。
- 正則の覺悟は寧ろ
捨鉢 であつた、其胸は申譯の工夫を運 らすよりも、上野介 の不義不信に對する憤怒に燃えてゐた、女々 しい、哀訴、辯解は彼に取つて不用であつた、此時此場合、醜い首を下げるよりは、斷々乎として張り通す剛情の前に五十萬石、一時に擲 つても惜しいとは思はなかつたのである。 - 新右衞門は上使に從つて四老中の前に出た、正則の言葉はありのまゝに述べられた、老中は顏を見合せた、
暫時 沈默が續いた後 。 - 『どうしてさやうなお受けをしたのであらう、大夫殿にも
何 とかお受けのしやうもあつたものを』と土井大炊頭が嘆ずるやうに云つた、他の老中は默したまゝであつた。
四
編集- 芝、愛宕下の福島邸には暗愁の氣が滿ちて門は固く取ぢられ、稀に
出入 する者の居動 も打沈 んでゐた、主人正則は、切腹の命が何時 下るか、下るかと待つてゐた、日は過ぎて、廿五日の正午頃 になつて再び上使が下つた。 - 『左衞門大夫儀、我等へは忠節
無之候 へども、家康公へは忠節致され候間 、此度の儀はお免 しなされ候ふ、新普請の處は、破却候へ』。 - 上意の狀は爽かに讀上げられた。
- 城普請一件はこれで一
先 落着したのであつた。水打つたやうな福島家俄かに蘇 へつて邸內の櫻樹 の靑葉活々 と、初夏 の彩 り、日影もきら〳〵と輝いて見えた、正則は直ちに四老中の邸へお禮の使 を𢌞 らせた。 - 暗雲は去つた、これで將軍家へのお
目見 えを許されゝば、最早 福島家は安全である、だが其 お目見えは追 て沙汰する、お差圖次第に罷出 よ、と云ふ事になつた。 - お差圖次第が
聊 か不安である、空は晴れても生 ぬるい風が殘る、風の觸 りが多少の氣がかりである、だが正則は正直である、もうさしたる咎 は無いものと思つてゐた、廣島へは早飛脚 を立てゝ城普請の塀も、矢倉も悉 く除いた、石垣も、石三塊 を殘して悉く取壞 つて城は慘 しい姿と變 る。 - 倂しお目見えの沙汰は無かつた。心待ちに四月も過ぎたが沙はない。
- 五月八日には將軍
宣下 お禮とひて秀忠公も京都の天子に拜謁する爲、江戶を立つ事となつた、江戶は上洛 準備に多忙である、と共に福島家へは再び不穩の雲が襲ふた、西の風か東の雨か、上洛前に許されねば、お目見えも何時 となるやら當 がつかぬ倂しとう〳〵沙汰は無かつた。 - 八日は來た、其朝には將軍江戶をお立ちと云ふ、
先供 は既に品川宿 を過ぎたと云ふ、美々しい行列が東海道に續いたと思はれる頃、福島邸へ飄然 と訪れたのは阿部 備中守 である。 - 『手前はお留守を
仰付 けられました、今日 から閑散の身でござる』と云つて悠々と話込 む、留守居は閑散に相違ないが、將軍出發の其日から最早 閑散とは受取れなかつた、しかも備中守は平素 から規則正しい人である、用談があつて來ても濟 めば早々 立去るのが例になつてゐる、今日 に限つて閑散さしたる用向 も無いのに長尻 を据ゑて、いつかな動かうとせぬ、夫れから夫れへと他愛ない雜談に耽つて漸く日の暮方に重い腰をもたげる、見送つた後 に正則ははゝあ、と合點 しなければならなかつた。 - 正則の家臣は江戶に三千人程ゐる武勇の家柄で
何 れも剛强の武士 である、將軍留守居中萬一事を起せば、江戶中を騷動させるだけの力はある。 - 『備中守、當家の樣子を
覗 きに來たか』と正則は思つたのであつた、正則の不安は次第に大きくなつた、彼は直ちに本國廣島へ飛脚を立てゝ、嗣子備後守正勝へ『上樣が御上洛である、其方 も小勢 で京都へ上り御機嫌を伺へ』と申送つた。 - 倂し備後守には備後守だけの考へがあつた『兎角父上の
御身上 が心元 ない、未だにお目見えを許されぬのは合點がまゐらぬ、將軍家ではどう云ふお計 いを密々立てられてゐるか分らぬ余は上洛はせぬ』と云つた。 - 『大殿の仰せでござりますから是非京都へ參られねばなりませぬ、仰せがなくても將軍御上洛と聞けば直ちに參るべきものでございます、只さへお咎めのある折柄、御機嫌伺いまで遲々しては一層お咎めを重ねる事になります』と家老の福島丹波が
諫言 した。 - 『いや、病氣と披露すればお咎めはあるまい、予は病けぢや』。
- と備後守は首を振つた父は江戶にゐて身動きならぬ
監視 を受けてゐる此上に自分までが京都に入 つて同じく蟄居と云ふやうな事になれば父子國を放 れて翼を奪 られた鳥の運命に陷 る、父に不慮の事あつても子として立籠 つて快よく天下を敵とするも怨晴 らしの腹癒 せか、と思つたのである氣早 の備後守はもうそこまでを考へてゐた、然 う云ふ運命が必ず來るとまでは思はなかつたが、或 は來るかとの懸念もあつて、兎角御機嫌伺いに氣が進まぬのである、『否 、否 』と丹波は押返した。 - 『御病氣は宜しくありませぬ
例 へ將軍家に密々のお計いがあるとしても當將軍家のお仕置 は江戶風にあらせられます、物事急 かずいかにも鎭 め長く、愈 よ萬に一つの漏れもないと見極めのつくまでは御分別あつて其上に於てお仕置をなされます、若殿が御病氣と云い立 て一年二年延ばしたとて埒 は明きませぬ將軍家は夫れよりも氣長にござります、殊に大殿は江戶にをられますに夫れを捨ておいて若殿ばかり御存分にお振舞あつては將軍家のお怒り强く、お仕置を一際 手嚴しい事にならうかと思はれます』。 - 丹波は理を盡して說いた、備後守も漸く納得して五月
下旬 に京都に出で建仁寺 の邸に入 つて御機嫌伺ひの屆けを出した。 - 秀忠公は其前に入洛して、二
條城 にゐたが備後守に對してもお目見えを許さなかつた、而 して六月五日には上使を派 して『津輕 へ國替 』の命を下した。
三
編集- 津輕へ國替は思ひ切つた嚴しい仕置であつた、國替も事と品による、津輕と云つても津輕領全部では無い津輕の內の小領地である廣島五十萬石を沒收して、
其 二十分 の一ほどの地へ國替と云ふのであつた。 - 名は國替でも實は
流罪 である。 - 『
私 儀 はまだ、家督を仰付けられませぬ身故御上意でも一存でお受けは致し兼ねます父左衞門大夫方へ申遣 はして後 お受けを致します』。 - こみ
上 る憤懣 を抑へて備後守は答へた、上使が去つて重ねて上使が來た。 - 備後守は江戶の父を想ひ廣島の空を思つた父子一つに將軍の
掌中 に弄 ばれた、今の身を悔いた、これ程無慘の穴が待つと知つたら喰いついても廣島を去らなかつたのである、が今は及ばぬ、四周に皆 監視の目が光つてゐる事を覺悟せねばならぬ邸外一步を出づる事も出來ぬ身となつたのであつた。 - 彼は
齒切 りして二條城 の方 を睨んだ。 - 此時二
條城 では秀忠將軍の前に老中の土井大炊守、安藤對馬守、本多上野介、京都所司代の板倉 伊賀守 や藤堂 和泉守 、本多 忠政 などの元老株が福島家取りつぶしの協議中であつた。 取 つぶしの案は既に城普請の聞えあつた頃から秀忠將軍の胸に成立つてゐたのである正則は戰 をさしては當時に於て最も勝れた大將である、夫れが五十萬石の大領地を抱いて中國に腰を据ゑてゐる、而 して正則は今に於ても豐臣家の恩を忘れぬ男である、德川家に對して謀叛を謀るやうな虞 れは最早 無いまでも萬一天下に謀叛を思ふ者があるとすれば其 第一 として正則を數へねばならぬ何 れにして將軍から見て正則は目障りである遲かれ早かれ正則の家を取つぶさねばならぬとは將軍の腹の底である、だが用意周密 な將軍は取つぶしの腹案を最も平和に行 いたいと考へてゐた、で城普請の事は知りながら直ちに咎めもせず、靜かに正則の江戶へ來るのを待つてゐた、而 して先づ正則を責めた、一旦は免 したが夫れは一つの方便に過ぎなかつた免して廣島の動搖を抑へ、お差圖を待ての一語に正則を江戶に抑へたのであつた而 して上洛した將軍は一方に備後守の入洛を待つてゐたが其備後守も最早 網に入 つた、廣島には主 がない、主 父子 は京と江戶とに人質となつてゐる、廣島に武士 は多くても主 なくては事を起さうとも思はれぬ。- 將軍の準備は
最早 整つて、巧 に福島家を縛 つて了 つた、剩 すところは正則に上意を傳へる一段であるこれさへ無事に濟ませば將軍最初の考へ通りにさしも大大名 の取つぶしも平和に遂げられる譯である。 而 して元來正則は領民に對する政治向 が聊か苛酷であるから城普請の外に夫れをも罪として數へる事も出來伊奈今成の首を望んだ事件も德川家に無禮な振舞と云ふ事も出來るから少々無理にもせよ取つぶしの理由は成立つ譯である。- だが正則は橫紙破りの猛將で殊に家來を愛する事他に勝れてゐるから家中には名を知られた
武士 が頗る多い、これが橫紙破りの本性を出して不平の捨鉢に江戶を荒しては鳥渡 抑へるに困難である、將軍は夫れを氣つかうて人々を召寄せたのであつたが、人々も夫れを氣つかうて意見が容易に一致しなかつた。 - 『かやうな事は
井伊 掃部頭 に仰せ付けられるのが尤も宜しいと存じます』とは板倉伊賀守の言葉であつた。 - 『むゝ、
然 うぢや』と將軍は頷 く。 掃部頭 直孝 が座に召された、彼は鬼と云はれた程の氣象者 である將軍の前へ出ると莞爾 として云つた。- 『福島左衞門大夫領國を
召放 たるゝ儀につきましてお召になりましたか』。 - 『その事ぢや、事を
荒立 てぬやうに大夫を仕置したいのぢや上使の人を撰ばねばならぬでな、先づ其方 は上司を誰 が可 いと思ふ』。 - と將軍は穩かに云ふ。
- 『其儀にござりますならわざ〳〵京都より上使を出さるゝにも及びますまい、江戶留守居の者に是れくらゐの事は勤まりませう』と掃部頭は
容易 げに答へた。 - 將軍は
凝乎 と沈吟 した。 - 『
或 は左衞門大夫を京都に召寄せて罪の趣 を申し聞かされても宜しうござりませう申譯のあるか又は國に歸つて引 こもり思慮せいと仰せられても濟む事と存じます』。 - 將軍は
猶 考へた。 - 『但し直孝江戶へ
駈向 ふて大夫が事を起すとなれば速かに打破 つても宜しうござります』と三度 掃部頭が意見を述べた。 - 『其儀は若い掃部頭に似合の役と思はれるとは云へ福島も
流石 の者ぢや、剛の者も數多 抱へてある、小路軍 になつては如何 あらうかな』と藤堂 和泉守 高虎 が危ぶむやうに云つた。 - 『
何 と云はれる』と掃部頭は聊か願を險しくした。 - 小路戰とは市街戰の事である。
四
編集- 『和泉守はいかにも戰場の傷數を踏まれた老功者に相違あるまい、ぢやが
何處 で小路戰 をなされた事がござります直孝の家には武功の老武者も多いが其者共 の話によると昔今川 氏眞 が濵松の城主井伊 隼人 を召して討取 らうとした時小路戰になつて殊の外六づかしかつたとか、只此 一事 の外に小路戰の例 をまだ聞きませぬが』。 - 掃部頭の血氣である云ふ事も皮肉であつた。
- 和泉守は苦笑する。
- 『
止 めい小路戰の論は餘事ぢや、今日 はもう可 い、余も後 に思案する』と將軍は仲裁氣味に云ふ。 - 一同は退出して
其後 に密かに呼ばれたのは掃部頭である。 - 『余の考へは
其方 が第一に云ふたのと同樣ぢや、人々の意見は兎角一致せうから余は其方 の意見に從ふのぢや、で、さて江戶留守居に此旨を申傳へたいと思ふ、此使 には誰 をやるか』と將軍は云つた。 - 『
久世 三四郞 に坂部 三十郞 を添へてお遣はしになれば宜しいと存じます』。 - 『夫れも余の考へと符合したぞ』。
- 將軍は快げであつた久世坂部は
其夜 の中 に江戶へ向ふ、江戶留守居の老中は酒井 雅樂頭 忠世 である、忠世は兩人 を迎へて稍 當惑な顏をした。 - で、旗本中の屈指の
武功者 、太田 善大夫 一正 を呼んで意見を問ふた。 - 『上樣は
愈 よ左ヱ門大夫の領國を召放さるゝ思召 ぢや、さて其處置をせいとの事ぢやが福島もさる者ぢや、どの樣な事を仕出 かすか誠 に危 まれるでな』。 - 『
何 の』と善太夫は哄笑して『御心配無用ぢや仕出かすとて何を仕出かしませう』。 - 『えゝ、又しても橫着の大言ぢや、よく考へい、
如何 にも危 いと思はれるぞ』。 - 『はゝゝゝ福島はさやうな男ではござりませぬぞ、成らぬ事する福島ではない、成る事を知らぬ奴こそ成らぬ事を企てたがるものぢや福島は非道不仁の事はしても勝負の理はよく知つて居ります天下を敵として
何 にします手前には御老中の心配が、ばか〳〵しいと存じます』。 - 善太夫は事もなげに云つた。
- 雅樂頭には
猶 不安があつた、だが將軍の命既に下つてゐる上は猶豫もならぬ、先づ江戶の警備を嚴重に整へてから上使には鳥居 左京亮 忠政 を撰んだ忠政は豫て正則とは懇志の間柄 である。 - 上意の文は各老中の連署で。
- 今度廣島普請の事、
御法度 に背かるゝの段曲事 に思召され候ところ、彼地 破却あるべき旨の訴訟によりて、本丸を構置 き、其外 悉 く破捨 てらるべきの由仰出 され候、然る處に、上石 ばかり取除 き、其上無人 にて數日を送るの儀、重疊 、不屆 の仕合 と思召され候、此上は兩國召上げられ、替地 として津輕を下さるべき由、仰出させ候也、謹言- 六月二日 各老中連署
- 福島左ヱ門大夫殿
- 六月二日 各老中連署
- 今度廣島普請の事、
- と
記 されてあつた。此 上意 の文は前に京都の備後守に下したのと同じものである。 而 して將軍が城を破却せよと云つたのは、本丸を除く外は悉く破却せよの意味であつたと云ふのであつた、倂し正則は然 う取つてゐなかつた、明らかに本丸以外悉く破却せよと云はれてゐなかつた、先づ城普請のお咎め、次いで破却せよとの上意であつたから、正則は普請の箇所さへ破却すれば可 いものと思つてゐたので、又然 う思ふのは至當であつた、正則から見れば今度の上意は意地惡の云ひがゝりであつた、が、其 云 ひがゝりも將軍台命とあれば、最早 楯つく譯にはゆかなかつた。- 將軍の腹の底は始めから
定 まつてゐた、破却しても、せぬにしても、國替 の心は始めからあつた、と正則は漸く悟つた。そゞろに吉村又右衞門の諫言も想起 された、ずつと前に又右から備後の國の獻上の事を建議された意味も漸く分つた。 - 上意を讀み聞かされた時、正則は
只 嘆息しただけで、答を待つ忠政を前にして長い間沈默してゐた、忠政も答へを促す樣 もなく、凝乎 と顏を垂れてゐた。 - 暫くしてから正則は口を開いた。
- 『正則に誤ちあつた上は、もはや
如何 やうに罪せられるも上意次第でござります、大御所が今世に居られましたなら、忠義申上げた儀も有る故、御袴 に取りついてまでも一應お詫びを致させなばりませぬが、當上樣 には正則何 の御奉公も申上げぬ事故、只今 仰せの津輕の御知行 を下されたのさへ、難有 き儀と存じます』。 - 五十萬石の太守が津輕の
捨扶持 を有難いと云ふ、剛情我慢の正則が不平を堪 へて神妙にお受けをしたのである、上使忠政も其心 を推 して覺えず瞼 を濕 らせた。 - 『但し正則、當上樣に向ひまゐらせて、
微塵 異心などのない事は、立退 いた後 に、屋敷中の召使をご吟味下されば自然明白と存じます』と又云つた。 - 上使の役が無事に濟んで、忠政は年來の隔意なき友として正則を慰めた。
- 『よもや、
恁 うまでとは思はざつた、御心中實にお察し申す、倂し追つて上樣思召の宜しくなる時もありませう』。 - 『何事も時の運と諦める
他 はござらぬ』と正則も老 の目に淋しい笑 を見せた、而 して我と我影の薄さ、哀れさを思はずにゐられなかつた、德川家への忠勤は一朝一夕の事ではない、關ケ原役の前、大阪に三成一黨あり、會津 に上杉 、常陸 に佐竹 あり、前後に敵を受けた家康の苦境に、正則の一語は數多 の猛將を引きつけて家康方に味方をさせたのである。 - 續いて正則は家康の先鋒として木曾川沿岸の敵を追い、
竹 ケ鼻城 を奪い、岐阜を攻めた最後の關ケ原では强敵浮田 秀家 の陣を破つた、夫れも是れも家康への忠勤となつてゐるが、夫れも是れも今は空となつた、五十萬石の領地も廿年間の夢となつた、德川家が天下を取るには正則は無くてならぬ一人 であつたが、天下を取つた今は、も早 不要な邪魔者となつたのであつた。 - 邪魔者の
捨場 は奧州の奧の奧の津輕である哀れな身の果てを思ふにつけても、今更將軍の心の冷たさ恨めしく、一家の行末 多くの家來の零落も思はれた。 - 『鳥居殿、暫く』。
- 上使が立たうとする時、正則は
寂 びた聲で思ひありげに止めた、而 して靜かに室 を去つた、再び室に入 つた時には右と左に女 の童 の手を引いてゐた。 - 『鳥居殿にお
依賴 がござる、これは正則が可憐 しい女 ぢや』。 女童 は並んで淑 かに手をついた、房々とした切禿 、瑞々 と白く肥えて、豐頰 、曲眉 、世にも愛らしい風情であつた。- 『ご息女か、さても美しく、揃ふて
大人 びられた、どれどれ小父 の傍 へちと寄られい』と忠政は眉を叙 べた。 - 『さて、鳥居殿、お
依賴 と云ふのは此 可憐 い女 の後 でござる、五十萬石の正則すら、かやうになつた世の中ぢや、まして此れが將來 は猶更と思はれる、悲しいは親心ぢや、お國替の騷動に、正則とてどのやうな狼藉を受けるや知れぬ、これには辛 い目を見せたくないで、事の落着までは鳥居殿 內 にお預りを願ひたい、平素 の御懇志に甘え申す』。 - とさすがに正則は淚を浮べた。
- 忠政もはら〳〵淚をおとした、夫れは六月十四日の事であつた。
籠城
編集一
編集- 正則へ上使を下した時京都の秀忠將軍は既に廣島領地沒收、城受取りの
人數 、手配を定めてゐた。 - 上使は
播州 姬路 十萬石の城主本多 美濃守 でこれは廣島家中の侍へ上意を達する役である、又、城受取奉行は永井 右近大夫 直勝 、副奉行は老中の安藤 對馬守 重信 と松平 甲斐守 忠良 と御目付 は日下部 五郞 八、加藤 伊織 、御在番 森 美作守 、御使番 花房 助兵衞 と定められた。 - と共に、廣島家中が萬一城明渡しに異議を唱へる事がある時は、直ちに
攻崩 す準備として雲州 松江 城主堀尾 山城守 忠晴 、石州 津和野 城主龜井 武藏守 玆經 、同國濵田 城主古田 大膳亮 重治 、長州 萩 城主松平 長門守 秀就 陣代 毛利甲斐守 秀元 、備前 岡山城主池田 宮內大輔 忠雄 等 の諸大名が廣島領の四境へ詰めかける事となり、猶 人數不足の時は總奉行一令の下 に豐前 小倉 城主細川 越中守 忠興 、因州 鳥取城主松平 新太郞 光政 、伊豫 の加藤 左馬介 嘉明 、讃岐 の生駒 讃岐守 正俊 、阿波 の蜂須賀 阿波守 忠英 等 の大名が卽時に人數を出す事に定められた、五十萬石沒收と云ふ大仕事であるから警戒は非常に嚴重で殆んど四國中國總がゝりであつた。 - 六月初旬、上使も總奉行一行も京都を
發 つた諸大名も勢揃ひして安藝備後の國境 へ迫つた、細 に手配りをして陸路 も船路 も一切通行を停 めて了 つた。 - 夫れより前に廣島へは京都の風說が傳はつて、家中が仰天する、城下の町々は動搖する、家老福島丹波は城中に
詰切 つて、京都か、江戶かからの確 な傳 りを待つたが、何 の音沙汰もなかつた、待ちあぐんで兩方へ問合せの使 を出すと、道を塞がれて空しく引退 した。 - 主君父子との交通全く絕えて、廣島は
暗夜 に提灯 を奪はれたやうな不安に陷る、其內 に西の國境 へは毛利、堀尾の勢が見える、備後境 へは池田勢が見える、備中笠岡 へは上使既に到着と聞えた。 - 『何の爲の上使ぢや、何の爲の軍勢ぢや、一步なりとも踏込んで見い、天下樣でも用捨はせぬぞ』。と血氣の面々が騷ぎ立つた。
- 『若殿は京都で御切腹、大殿も江戶で果てられたに違ひない』。
誰 とも無しに恁 う云ひ出した。誰 も彼 も夫れを眞實 らしいとした。- 『君
辱 しめを受けて臣死ぢや』。 - との聲が期せずして一城に起つた。
- 『譯を云はず人數を寄せる、不埒の沙汰ぢや目を
閉 がれ、押しかけて踏破 つて吳れる』と罵る者さへある。 - 老功者の
眞鍋 五郞 左衞門 、村上 彥右衞門 等 が其 先棒 である。 - 『籠城討死』。
- が遂に家中一般の聲となつた。
- 此場合に於て家中の
舵 を操 るのは福島丹波である、彼は齡 に於ても、武功に於ても一家老と云ふ位置に於ても、人々の尊敬の的であつたからである。 - で、彼は二千石の
上月 文右衞門 と密かに籠城の下相談をした、文右 は家老でこそないが廣島城本丸の留守居頭 である。 - 『是非とも籠城』とは文右の意見である。
- 『
然 うぢや籠城の外に道が無い、とは云へ籠城と觸出 しても同意の者が少くては見苦しい、籠城と聞いて駈落 する者が多く出ては福島家の恥辱 ぢや、福島家の侍は悉く籠城した流石 この家には侍の屑が無い――、と云はれるやうな籠城をしたい』。 - と丹波は云つた。
- 『先づ諸士の心を
試 して見られい』と文右は勸めた。 - 『夫れもよい、ぢやが
愈 よ籠城をするとなれば、上月、お手前の生命 は貰ひたいな』と丹波は意味ありげに云ふ。 - 『もとより
生命 は捨てる、生命 惜しくて籠城がなるものでない』と云ひかけて文右は鳥渡 考へた。而 して云つた。 - 『ふう、
然 うでござりましたか、籠城はしても手前と、御家老だけが生命 を棄てるのでござるか――いかにも』と莞爾 とした。 - 『
然 うぢや、籠城はしても、天下を敵として何時 まで續かう、云はゞ籠城は福島家の心を見せるのぢや、天下を敵としても、道理 の立たぬ上意には頭を下げぬと云ふ意氣を見せるのぢや、一應見せれば夫れで可 い、諸士悉く殺すも無益 ぢや、で一家老たる手前と本丸留守居たるお手前とが腹を切つて諸士を救ふ、夫れで福島侍の意地を立たう、無謀の籠城でないとの名分も立つのぢや』。 - 『ふむ、
流石 はご家老ぢや』。 - 丹波と文右とは
頷 きあつて軈 て本丸の侍を呼集 めた。 - 大崎玄蕃(八千石)尾關岩見(二萬石)長尾隼人(一萬石)は城代として備後に出てゐる、で集まつた
中 の重立者 は家老並 の三萬石木造 大膳 、同 一萬石福島 伯耆 、同 八千石の津田 因幡 と、八千石取の仙石 但馬 、星野 越後 、七千石取の梶田 出雲 、六千石取の牧野 數馬 、五千五百石取村上 彥右衞門 、五千石取酒井 主膳 、福島 筑後 、山本長右衞門 、仙谷 新 八郞 、四千石梶田 左近 、東條 勘解由 、三千石小郷 若狹 、柴田 源左衞門 、鎌田 、主殿 、武藤 修理 、星野 加賀 、二千石の吉村又右衞門、水野 次郞左衞門 、大橋 茂右衞門 、眞鍋 五郞左衞門 、山中 伊織 、海老谷 伊賀 、加賀 五郞左衞門 、山田 小右衞門 、千五百石伊藤 圖書 、福田 右衞門 、千石山城 左近 、星野 又八郞 等 であつた。
二
編集- 正面に三萬石の福島丹波が構へて諸士は左右に居並んだ丹波は福島三
不具者 の一人 で、跛足 であるが、彼は其片足に大城 の留守を踏 しめるだけの力がある、諸士は鳴 を靜めて丹波の言葉を待つた。 - 福島家老臣中で尾關岩見は
眇 である、長尾隼人は聾 である、夫れに丹波の跛足 を加へて三不具者 の稱がある、關ケ原役後、德川家康が諸將の老臣を召して盃 を與へた時、福島家からは此三人が召された、丹波の步みぶりは輕業 のやうであつた、岩見の盲 いた片目は顏中の皺をそこに集めたやうであつた、隼人は家康から言葉をかけられた時、橫さまに耳を突出 した、揃ひも揃つた異樣の居動 に家康の近習 はクスリと笑つた。 - 三人が座を
退 つた後 で近習の一人 が『よくも不具者 が集まつた』と囁 いた。他 の近習が一齊に失笑した。 - 『
何故 笑ふか、其方等 は若くともよく聞いておけ、容儀 を尊 ぶのは女の事ぢや、男は姿は醜くとも軍 に功名したのを男と云ふのぢや、あの三人は世に勝れた大剛の者、其方等 の胸にあの一人 の十分の二三ほどの心があればよい侍となられるであらうぞ』。 - と家康が
誡 めた、三不具者 の名は以來 一層人に知られたのである。 - 丹波は今、
跛足 の足を醜く組んで諸士を見渡した。 - 『方々、
今日 の會議は一家中進退の評定 の爲でござる、今日 國境 には當お城受取の人數が夥 しく到着し、御上使も既に備中笠岡まで下向されたやうでござる、今にも城を明渡せと申來 るであらうと思はれる。 - ぢやが當お城は主君より預けられた城ぢや
如何 に將軍家の仰せなりとも、主君のお言葉の無い間 は明渡す事は留守居として相成らぬ、と思はれる、倂し密かに京都の御樣子を探れば若殿備後守樣、まだ恙 なく建仁寺のお邸にあらせらるゝ――さてこゝぢや。 - 我々
强 て城を明渡さぬとあれば、備後守樣お爲にならぬやうにも考へられる、備後守樣お爲には道は違ふにせよ、溫順 しく城を明渡すのが宜しいやうに思はれる、此二つに一つの措置に就いて、方々のご意見を伺ひたい、遠慮なくお述べあるやうに』。 - 丹波の大聲は
隅々 にまで透徹 つた。 - 上月文右衞門は坐を
搖 り出 た。 - 『
差出口 の無禮はお許しあれ、文右は本丸留守居として申しあげる、文右が本丸を預かりあるは將軍家の仰せを受けての事ではござらぬ、將軍家のお差圖を受けて明渡しは方角違ひと存ずるから、他の方々の御意見は兎も角、文右だけは飽くまで籠城討死の覺悟でござる』。 - これも大きい聲で、憤りを含んでゐた。
- 丹波は首を傾けて、
故 らに案外さうな面色 をした。 - 『とあれば、備後守樣、ご安危は』。
- 『是非にも及びませぬ』と文右は固さうに
頤 を振つた。 - 『ふむ』。
- と丹波は不同意を
仄 めかして『よくよく御思慮あれ、一圖 に籠城は穩かでない、と丹波には思はれる』。 - 『穩かでないのは將軍家の御處置ぢや、文右は踏むべき道を踏むまでの事でござる』。
- 『お待ちあれ』と村上彥右衞門が手を擧げて『事は明白、籠城か、明渡しかぢや、議論までもござりませぬ、同意、不同意は人々の心任せとして二通の連判狀をお𢌞しあれ、
印形 の數 によつてお定めあるが手短かでござりませう』。と云つた。 - 丹波は頷いて二通の狀を作つた、一通は丹波が筆初めをして
右例 から𢌞した、一通は始 に文右の名を署して左例 から𢌞した。 左例 の上席中には星野越後がゐた、彼は今廣島の町奉行であるが、福島家々來としては最も古參である、主君正則がまだ二百石の小身であつた頃から仕へて、家來とは云へ弟 のやうに寵愛されてゐた、正則に劣らぬ我儘者として主從我儘のいがみ合 までした事も度々ある。元來 正則は大酒豪 であるが、醉へば隨分亂行 を働いてゐた、醉ふと不思議に氣荒 になつて見るもの悉く腹が立つた、醉後には飯 も喚 べられぬまで苛 たらしくなつて、水ばかり飮んで目を瞋 らしてゐた、臣下の居動 に氣のくはぬ點があると用捨なく手打にするやうな事もあつた、倂し醒めると後悔して臣下にも淚を流して詫びるのが例になつてゐた、醉はねば人を使ふ事も巧みで、臣下を愛する事も深かつたが、酒癖 だけは誰も持餘 していた、星野越後は絕えず、夫れを苦にして正直一圖の心から、よく意見をしては正則の不興を蒙 つてゐた、主從のいがみ合ひも夫れから起るので結局 は大體、正則が負けとなつて越後に詫びてゐた。- 正則がまだ
小大名 であつた時、粤語は又右衞門と呼ばれて二百石を貰つてゐた、其頃の事である、正則が立腹して刀を拔いて又右衞門を追いかけた事がある、又右衞門は逃迷 ふて我宿 に入 り戶を押へて『女房 よ、どうにかして吳れ、殿奴 が俺を殺すとて追 かけて御ざつたぞ』と叫んだ、女房 は仰天して表へ出て立塞 がつた、蒼い顏して『殿は、二百石の時から奉公した又右衞門をお殺しになる氣か』と聲限りに罵つた、正則は目の覺めたやうになつて『心配するな、女房 よ、又右奴 が餘り橫着故、おどしたのぢや』と俄 かに顏を和げたと云ふ事もある、夫れは今も一つ話 として殘つてゐる。 - 越後と正則とは恁うした隔てのない君臣であつた、夫れだけ越後は江戶の正則を深く思つてゐる、今連判狀を手にして彼はかう考へた。
- 『殿も五十萬石失ふて
立瀨 もあるまい、あの剛情者だから、もう切腹でもしてゐるに違ひない、勝手に死なつつしやれ、俺も死んでやるわ』。 - 彼は默つて淚を浮べながら、上月文右に同意して印形を押した。
三
編集- 二種の連判狀は次から次へと渡つた、丹波の甥の酒井主膳はつと座を立つて朋輩の鎌田主殿を呼んだ、主膳は血氣の
壯漢 である。 - 『鎌田、貴公は
如何 考へる、丹波は俺の伯父 ぢやが、俺は上月殿の意見が尤もぢやと思ふぞ』。 - 『勿論ぢや』と主殿は憤然として云つた。
二人 の聲は大きかつた。 - 小姓の
小關 右衞門太郞 は遠くから夫れを聞いて莞爾 とした、丹波の嫡子福島 式部 も上月に同意した。 - 連判狀二通は一通り
𢌞 つて丹波の前に返つた。 - 『上月殿、お手前に滿坐同意ぢや、丹波が狀に
判形 を押したのは丹波一人 ぢや』。と丹波は涼しげに云つた。 - 『では、事は定まつた、さて御家老には』と文右は念を押した。
- 『もとより
衆議 一决の上は、丹波も不服は微塵申すまい』。 - 丹波は快よげに笑つた。文右と丹波との下相談は充分の結果を得たのであつた、倂し丹波も文右も、下相談の事は色にも
形 はさなかつた。で、文右は重ねて。 - 『御家老御同意とあれば
最早 殘りはない、ぢやが、御家老には最初に不同意を云はれてあるから、こゝは一つ一同を安心さする爲お內方 を本丸へ預けらるゝやうに願ひたいものでござる』。と云つた。 - 『いかにも御疑念尤もと存ずる、では只今直ちに妻子を
呼迎 へると致さう』。 - 丹波は云つた。
- 『御家老の妻子本丸預けと云ふに我々とても目を閉ぢては
居 られまい、我々も妻子を本丸へ預けねばならぬ』。 - 恁う云ふ聲が
處々 に起つた。 - 丹波は
屹 と立つた。 - 『さて方々よ、愈よ我々恁うと決したに就いては方々にも
申 の下刻 (午後五時)限りに妻子引具 し籠城されたい、右の時刻に遲れた者は城へは一步も踏み入れぬ事と心得られたい、で、茲 に(狹間潛 り)の帳を調 へおき籠城に遲れた者は駈落 と認めて、狹間潛り帳に記すでござらう』。 - 丹波は
嚴 かに云渡 して評定を閉ぢた一同は急いで銘々の邸に退 つた、夫れはまだ城の太鼓樓 で、朝の辰刻 を打つたばかりの時であつた。 而 して評定に不參した侍の邸へも漏れなく使 を出して籠城の約束を吿げた、一方備後の三次東條三原鞆の城々へも使 を立てた、丹波は鞆 を殘して、他の城の者は悉く廣島へ莟 ませる事にした鞆は備中境 を扼 し上使の來るべき道にも當るから特に殘して城代大崎玄蕃を立籠 らせる事にしたのであつた。- 廣島城下の
邸町 には大混雜が起つてえ、どの家も家財道具の取片 つけに忙がしかつた、氣早いのは瞬 く間 に家を掃除して早くも未刻頃 には入城してゐた。 - 申の上刻には
追手門前 に人が續く、下刻には家中の侍殆んど入城する其數 四千餘人で空虛 となつた邸町へは町奉行星野越後の組の者が配られて、盜賊、火災の警戒に當つた、而 して城の諸門は悉く閉切 られた。 - 五千石取の
林 龜之丞 は此日早朝遠く他出してゐて城に評定のあつた事を夢にも知らなかつた、籠城觸れのあつた時にもまだ歸つてゐなかつた、で、留守居の仲間 が、心あたりの先々へ主人を探しに出て漸く出會つたのは未刻 を過ぎてゐた。 - 申の下刻にはもう
間 が無いので龜之丞は馬を急 かせて直ちに歸途に就いたが到底刻限までに城へ着く事は出來なかつた、で、彼は出先の姿其儘で邸にも立寄らず追手まで來ると、そこで朋輩の松崎 龜右衞門 に遇 つた。 - 『松崎貴公も遲れたのか』。
- 龜之丞は息をはづませて云つた馬も人も汗をかいてゐた。
- 『ちと遠出してゐたので、論外ぢや、もう刻限は過ぎてゐる、どうしたものかなあ』と松崎は
萎 れてゐた。 - 『どうも恁うも無い、俺も遠出で此通り遲れたが、遲れても遲れた譯がある、是非とも入城させて貰ふのぢや』。
- 云ふ
間 に龜之丞は駈過 ぎた、松崎も急に勢ひ得たやうに後 から續いて馬に鞭 つた。二人 が追手に着くと城門はもう嚴しく差固 められてあつた。 - 龜之丞は猶豫もなく門を
烈 しく打叩 いた。 - 『
誰 ぢや』と內から應ずる。 - 『林龜之丞ぢや
今日 所用あつて遠方に出た爲刻限に遲れたのぢや、出先から直 に、家へも立寄らず駈付けたやうな次第ぢや、こゝ早く開 けて頂きたい』。 - 暫らくして內から應じて『御事情はお察し申すが、規則は規則ぢや、刻限過ぎては一
人 たりとも通すなと御家老よりの嚴命ぢや私の計 いは此場合に相成らぬ、お氣の毒ではあるが引取つて頂きたい』。と云つた。 - 龜之丞は憤然として門を睨んだ。
- 『林殿林殿是非もんあい後で
又何 とかの分別も有りませう、一先 こゝは引取らうではござりませぬか』と後 から松崎が諭 した。 - 『
否 』と龜之丞は血走る目に顧 つて『貴公お引取とならば構はずに引取つて貰ひたい、俺は入 らぬ中 は決して動かぬのぢや』と肩を振つた。 - 松崎は眉を顰めて
鳥渡 逡巡 らつたが、すぐ馬を返して窃 と立去た。
四
編集- 龜之丞は馬を下りた。
- 『御門の衆へ今一應
申入 れたい、御規則を楯にするも時と折に寄るものでござる、手前が遲れたのは遲れたゞけの仔細があり道理 も明らかでござる夫れを聞けば御家老とてお咎めになる筈は無いのぢや相互 のよしみ枉 げてお通しを願ひたい』。 - 『
否 、何と云はれても御無用でござるぞ』 - と內の聲は
冷 かであつた。 - 『えい』と龜之丞は躍りあがつて門を打つた。
- 『御門の衆道理が分らぬか、理不盡も程による』。
- 內は靜まり返つてゐた。
- 『よし、よし道理の
聾 に最早 お願ひは申さぬ、よく見てござれ、龜之丞は籠城はせぬまでも狹間潛 りの惡名 は貰はぬ男ぢや』。 擲 つやうに地に坐して彼は片肌ぬいで、早くも拔放 つた刀を下腹 に突立 てた。- 只ならぬ物音にふと
隙見 した番の侍が『待たれい』と聲をかけたが、もう及ばなかつた龜之丞の腹は十文字に割かれて、逬 しる鮮血の中 に手を突いてゐた。 - 龜之丞の
後 に來た侍は一人 も無かつた、而 して廣島侍の中 で籠城の數 に漏れたのは河井 三郞右衞門 、松崎龜右衞門、以下廿九人。 - 次の日から備後三原城、東條城、三次城の城々の者が次第に到着したが、三原の侍では
正村 正右衞門 、栗本 內藏 、和田 淸 八郞 等 六人三次の侍では山口 半平 、梶田 多左ヱ門 等 十八人が身を隱してゐた。 是等 の者は狹間潛りの帳に記 された、都合五十三人である、五十萬石の家中に逃亡者が夫れだけと云へば寧ろ少い方で福島家の士風が義を重んじたからであつた。而 して此時には駈落者 を『狹間潛り』と嘲けると共に妻子諸共 籠城したのを『諸籠 り』妻子を他に預け自身のみ籠城した者を『片籠 り』と云つてゐた。- 丹波は諸城の人々の到着を待つて本丸、二の丸、三の丸の
持口 を割り宛 て城下の町人等 をも他に避けさせた。 - 『軍勢、押寄せれば、城下に火を放つ』と
聲言 したのである。 - 此時、鞆の城でも大崎玄蕃の
組頭 秋田 下總守 が頻 りに籠城の手配りをしてゐたが玄蕃は却つて其方へは無頓着であつた。 - 秋田は夫れを幸いと思つた
而 して一つの野心を有 つてゐた、彼は武に秀 でた壯漢 である、籠城と聞いたゞけでも胸の血が湧く程に勇み立つと共に彼は此時に於て天下に我 武名 を唄はれたいと思つてゐた。 - 夫れには大崎玄蕃がゐては面白くない、鞆の籠城は玄蕃が大將になつては玄蕃の名を高からしむるのみで、自分の名は其蔭になる、同じく籠城するには自分が大將となつて、花々しい
討死 の名を後世 までも殘したいと云ふのが下總守の芝居じみた野心であつた。 - で、彼は玄蕃に云つた。
- 『御上使の
御勢 は十萬騎と聞えますな』。 - 『
然 う云ふ話ぢや』と玄蕃は髯を搔いた。 - 『
此 小城 で十萬の勢は到底 も防ぎ切れますまい』。 - 『防いでも
無效 ぢや』。 - 『では御城代には一
先 廣島城へお莟 みになつては如何 でござる、いづれ防いでも無效 とすればこゝへは少しの番人をおいたゞけで事足ります、夫れには不肖ながら手前が番人を勤めます、既に三次東條の御城代も廣島へ莟まれた事であるから御城代も早々 お引取がよろしいと思ひます』。 - 『夫れは
不可 、此城 は他の城とは異 ふ』。 - 『どう
異 います』。 - 『先づ當城は福島領地の玄關口ぢやで、御上使の勢も第一にこゝへ詰寄せねばならぬ、夫れを知りながら城代が
退 く事は思ひもよらぬ事ぢや、殿の御下知 の無い內は玄蕃が腰は動かせぬでの』。 - 玄蕃の言葉は悠長であるが、其覺悟は
誰 も動かす事が出來ないと知つて下總守も思ふまゝの芝居が打てぬ。 - 間もなく『上使が來る愈よ備後の地に
入 つたらしい』との風說 があつた。 - 下總守は
駈𢌞 つて防戰の指揮 をする。 - 玄蕃は僅かに
甲冑 を取出したのみである而 して木曾女に酒を運ばせて獨酌の唇を嘗 めてゐた、ほろ醉機嫌 の柱に靠 れて忙 しい人々に聲をかけるでもなく、兎 もすれば他愛なく居睡 りをする。 - 『
齡 が齡ぢや』と苦笑する者がある。 - 『年來の大剛も臆病になつたと見える、下總守はあゝして支度するのに城代たる身があの
茫然 した樣はどうぢや』と嘲ける者もあつた。 - 果ては面と向つて憤る者もあつた。
- 『御城代
此 體 は何でござります、少しは下總守を見て、何とか籠城のお指圖もありたいものぢや』と血氣の者が五六人まで押寄せ膝詰 の催促したが、玄蕃は僅かに醉眼を見開いたのみである。 - 『いや下總守は氣力が强いで、あの如く用意するのぢや、倂し手前は
最早 思ひ切つた事があるで、萬事閑散ぢや』と笑ふ。 - 『
然 う云はれゝば如何 にも御分別がありさうに思はれますが、さりとて其 思ひ切つた事とか云ふのを委細 く承はらねば我々頓 と合點が參りませぬぞ』。 - 『話したとて無用ぢやが、御不審とあるからお話し申さうか』と玄蕃は漸く眞面目になつて『先づ
今度 の籠城は將軍家を敵とするのぢやとすれば天下の勢を引受けねばならぬ、積つて見られたがよい、此城が如何 に名城なりとて大將が如何 に非凡ぢやとて、日本國中 を敵にしては萬に一つも勝目は無いのぢや、夫れと知りながら無謀な一城 討死 は無用の沙汰ぢや、で、御上使が參つたなら此玄蕃が一人 大手門外 に出て切腹する玄蕃の切腹で籠城の主意も立つ、方々始め城中老若の生命乞 ひも出來るから玄蕃には何の用意も要 らぬのぢや、方々も又戰 の支度より見苦しくないやうに城中の掃除でもされた方が宜しいと思はれる』。 - 玄蕃の腹は
頗 る洒落 であつた。
五
編集- 廣島鞆兩城の覺悟は備中笠岡の上使の方へも聞えた、總奉行の
永井 右近大夫 も容易ならずと見た思慮深い安藤 對馬守 も首を傾 げた、諸大名も到着してゐるから攻崩 すとなれば準備 は出來てゐるが、太平の代に弓矢を動かしたくなかつた。 - で、諸勢は
一先 控へさせて上使附 の小倉 忠左衞門 、竹中 釆女正 一行が舟路 から備後尾 の道 へ入 つてこゝから釆女正の名で廣島城へ詰問の使 を立てた。 - 『籠城の事
上聞 に達した、誠に穩かならぬ沙汰である左衞門大夫殿は江戶に居られる又備後守は京都に居られる兩主君留守の城に何者が大將となつて籠城したか福島丹波自身參つて申開 きをするやう』。 使 の口上は此意味であつた。- だが丹波は今は廣島一城の主君も同樣である、丹波を遣つてはならぬ、
後 がどう崩れるか分らぬ、とは一城の意見であつた。 - 『多分は、丹波に
申譯 の腹切らせるか、又は丹波を人質に取るであらう』と吉村又右衞門は云つた。 - 丹波も思案した腹切るは易い籠城の首謀者として丹波に腹切らせる
其餘 は城明渡せばお構ひなしと云ふ慰諭の下 に士心 を和 げると云ふのが上使の計ひかとも考へた、だが然 うしては籠城の主意が立たぬ、主君の命 なき中 に城を受取りに來るから、留守居の道として籠城に及んだので、其主意の立たぬ中 に腹切つては今迄の事も徒 らに空騷 ぎに終ると考へた。 - で申開きの
使 には吉村又右衞門に大橋 茂右衞門 、水野 次郞左衞門 、福島式部の三人を添へる事となつた、吉村は元より他の三人も家中での分別者 であつた。 - 尾の道で待つてゐた竹中釆女正は先づ『丹波の來ぬのは何故か』と
詰 つた。 - 『丹波參る筈の處城下の家中邸町の家々など
空家 になり、いたづら者夥しく惡道に仕 つるにつき仕置 の爲、罷 り出 る事もならず是非なく我々四人代つて申開きに參りました』と福島式部が辯じた。 - 釆女正は四人を舟に乘せて笠岡に歸り安藤對馬守、永井右近大夫の前に導く。
- 『左衞門大夫儀
御勘氣 、遠流 申し渡され既に其 お受けもした今日 何者が大將となつて無謀の籠城に及んだか、福島家には聞えた者も多い主君の命なくして籠城となれば天下の逆賊となり、左衞門大夫の御受けを無にする事となる、さやうな理合 が分らぬとは何 とも以て不審の至りぢや委しく申開け』と對馬守は穩かに諭 した。 - 『お咎め恐れ入ります』と吉村又右が
面 を上げた。 - 『但し籠城の儀は、上樣の
仰付 けかと存ぜられます』。 - 『ふむ、異樣な
申條 ぢや仔細を云へ』と對馬守は嚴しい顏をした、將軍家が籠城を仰付けたとは殆んど狂氣沙汰 と、並 ゐる人々は思つた。 - 『其仔細は、大夫殿は江戶、備後守殿は京都にある處へ國替を仰付けられました故、留守の家中には
實否 も分 り兼 ます夫故 家老共より江戶と京都へ伺ひの使 を立てました然るに途中で舟留 を嚴しくし主從音信の道を絕たれましたのみか、御無法にも西、東へ數多 の御人數をお差向けに相成りました。 - かやうな儀故上樣
思召 は大夫殿、備後守殿に切腹させ殘る侍共も下々 まで悉くお退治なさる事と恐れながら推 しまゐらせて籠城に及びました自然籠城には大將もござりませぬ、侍悉く必死を極 めて誰先 にともなく立籠つた儀にござります』。 - 又右は遠慮なく
滔々 と述べた。 - 對馬守も耳を傾けた。
- 『其上』と又右は更に姿を正した。
- 『安藝備後兩國拜領の節主君大夫殿家中への申渡しには、
其方等 の軍忠により兩國を賜はつた、中にも廣島、鞆兩城は大事の傷所故、自然の時には面々城を枕に討死 と覺悟せよ、例へば將軍家上意とあるも、正則の下知 なくて下城しては不覺と心得よ――とありました、恁う申された程故誠 大夫殿御存命にてお國替お受けなされとならば必ず城明渡し下知のお墨付 が參る筈にござります。 - 御上使夫れをお示し下されば有難く存じます其上では御人數を差向けらるゝまでもなく卽刻御上使お內の衆へも城明渡しを致します、さなくては例へ上樣御出馬とござりましてもお手向ひを致します、家老以下の意見恁くの如くにござります』。
- 又右の言葉に
隙 は無かつた、明智 の對馬守にも非が打てなかつた。 - 『尤もと聞える、然らば左衞門大夫の
墨附 を取寄せるであらう、夫れまでは謹愼 が大事である、必ず狼藉の振舞に及んではならぬ。倂し左衞門大夫は江戶にぢや、道が遠く間 もかゝる、備後守京都にあれば、其書簡を證據にしても事は濟まされぬか』と對馬守は諭した。 - 『恐れ多き申條にござりますが、大夫殿と備後守と例へ父子とは云へ城も領地も備後守のものにはござりませぬ、又侍共も備後守より城を預つてはをりませぬ、此儀はお許しを願ひます』。
- 又右に微塵遠慮が無かつた。對馬守はつく〴〵と又右の顏を見た。
- 『とあれば望み通りにして
遣 はさう』。 - 『有難く存じます』と又右は手をついた儘
暫時 考へた、彼にはもう一步踏み込むべき注文があつた溫厚な福島式部はこれ位に運べば充分と思つてゐたが、大橋茂右衞門は又右と同じ注文を有 つてゐた、で、窃 と又右を見た、又右も茂右 を見た、目と目に自然に心の響 があつた。 - 『今、一
事 申上げたい儀がござります』と又右は再び口を開いた。 - 『大夫殿お墨附までには自然
日數 も費 る事と存じます、其 御使 往復の間 は主君領地に他家の勢 を入るゝ事、何とも迷惑にござります、其間 寄手 の衆は他領に御陣所を移さるゝやうにお計ひを願ひまする、其儀叶ひませぬと主君豫ての御下知にも相背き御留守中他國勢に踏込まれては申譯も立ちませぬ、是非なく此方 より推參一戰打死 を遂ぐる外はござりませぬ』。 - 『一應
道理 ぢや』と對馬守は一切平和の態度であつた。 申 し開 の使 は却つて道理の主張者となつた最後に永井右近大夫が云つた。- 『廣島城下
處々 へ獄門かけてあるは何故ぢや此儀も一應申開きをするやう』。 - 『次郞左衞門
申上 ます、あれは、いたづら者共、空家の戶、障子を盜み種々惡道致した故、所 を荒させまい爲あの樣に致しました』と水野次郞左衞門が答へた。 其尾 について『お聞 の通り城下にいたづら者多くござります、自然火をつけぬとも限りませぬ、萬一城下火災の際は手過 ちと思召 下 さるやう前以て申上げます』と大橋茂右衞門が云つた。- 四人は無事に使命を果して歸つた諸大名の
中 には使 の申條無禮である直 に兩城へ攻めかゝれと云ふ者もあつたが、對馬守は穩かに制して吉村の注文通りに諸勢の陣所を三里だけ引取らせた而 して竹中釆女丞を京都に上 らせて秀忠將軍へ事情を吿げた。 - 廣島では
眞鍋 五郞左 、村上 彥右 等 が此間 に押寄せて諸大名と一戰をすると騷いだが、これは丹波が抑へてゐた。
六
編集- 秀忠將軍が京都へ上洛したのは、丁度福島家改易の便宜の爲に上洛したやうなものであつた、夫れ程將軍は今度の事を重大に見てゐたので上洛してからも會議と云へば福島家の問題であつた。
- 廣島不穩の報が京都に達したので又々會議が開かれて其結果上使として
牧野 駿河守 が副使として花房 志摩守 が早乘物 で江戶へ向つた、今度の上使は殊に大切 で正則から廣島明渡しの墨付を受取らねばならぬので夫れさへ受取れば今度の事も無事に收まりがつくのである。 - 上使が江戶に着いて芝愛宕下の正則の
邸 に臨んだのは六月中旬 である。此日の江戶の警戒は嚴重を極めて留守居の將卒三萬人總出であつた先づ正則本邸門前へは會津六十萬石の太守蒲生 侍從 忠郷 、橫目付 として町奉行島田 兵 四郞 米津 勘兵衞 が向ふ裏門へは鳥居 左京亮 榊原 遠江守 が向ふ、愛宕山 へは山田 十太夫 、阿部 四郞 五郞 、堀田 勘左衞門 、久世 三四郞 、坂部 三十郞 等 が旗下 武士 を率ゐて上 り鐵砲を揃へて本邸を見下 す別邸へは山形大守最上 源 五郞 義俊 が向ふ、士卒皆物具 して今にも江戶中が戰場となるやうな光景 であつた正則の本邸、別邸を通じて三千人の武士 がゐたから萬一の爲に恁うした警戒をしたのであつた。 - 警戒は朝から始まつて江戶中の騷動となつた、正則の
邸 では聞 き恐 ぢして仲間 下僕 などは次第に逃去 つた、炊事の者まで何時 の間 にか駈落 したので、正則の朝の膳も後藤 杢兵衞 、熊澤 半右衞門 などの老臣が整 のへた程である。 - 正則は靜かに
朝食 を濟ましいてから邸外の物音に聞入つてゐた、而 して窓を開いて愛宕山を見上げた夏の日光 がキラ〳〵と木々の露に輝やいて、木 の間 木の間には又物具した武士 の行交 ふ樣が見透 かされた。 - 『半右衞門來て見い』。
- 沈痛な聲で正則は云つた、半右衞門は氣づかはしげに山を仰いだ。
- 『心得ぬ事ぢやよ、お國替も神妙にお受けして、津輕へ
今日 にも移らうと云ふ折柄、あの體 は何ぢや、御上使が來るとか云ふが、其御上使も切腹の催促とでも云ふ事かな』。 - 『
否 、然 うではござりませぬと半右 は思ひます、お國替、お受けを遊ばした今、將軍家お憎しみが如何 に强いとて、今更お腹などゝ左樣な無法のお沙汰は萬、無いと存じます』。 - 『と、のみは云はれぬわ、
手 の掌 返すやうな底恐ろしい上樣のお仕置ぢやでな、さりとて正則生命 は惜しまぬ、切れと云はゞ腹も切る、道理 が立てば腹も切るが、昨日 と今日 と俄かに變るやうなご上意が憎い、兎角癇癪 の種ぢや』と正則は脣を嚙む。 - 『
邸 を取 まいて何とするのぢや、脅 さうとて正則は恐 ぢぬ、上樣事を好むと云ふなら予には最早 遠慮はない、最後の死花 見せて吳れる』。 - 呟くやうに云つて冷たく笑つた頰のあたりがピリ〳〵と搖れて脣が
黑 む。 - 『いや、
金輪際 腹は切らぬ、腹切るより敵を切る、おのれ』。 - 睨み上げた目は險しかつた。
- 半右衞門も腕を組んだ、主を安全にと思へば我慢もなるが、故なく
邸 を圍 まれるのが不審である、斬死 も抑へた無念晴らしなら、寧ろ鍛へた腕の試し場かとまで思ひ詰めた。 - 倂し切腹の上使が、今となつて來るとはどうしても思へなかつた。
- 『殿、半右には津輕へのお移りの事、催促と云ふやうな御上使のやうに思はれまする』。
- 暫くしてから半右は云つた。
- 上使が來たのは夫れから間もなくで、上使牧野駿河守は正則夫人の父である。
- 切腹の上意とあらば直ちに
斬死 と云ふのが正則の覺悟であつた、舅 たる駿河守を見ては流石 に氣も鈍 るが、將軍を恨む心は夫れよりも深かつた。 - だが、上意は正則に取つて寧ろ案外で、一度は津輕へ國替と定めてあつたが、前々の功もあり、神妙にお受けをした事も思し召され且つは津輕は餘りに僻遠の地であるから、改めて
越後 魚沼郡 二萬五千石を備後守正勝へ、信州 川中島 四萬五千石を正則へ賜はると云ふのであつた。 - 正則の心は少からず和いだ。
七
編集- 駿河守は又、
廣島城 の樣子を委しく物語つて、諸士の心の義に强い事を賞 めた。 - 正則の心は
愈 よ和いだ。 - 『手前も留守居の物へは
確 と申渡した事もあるから、手易 く城を明渡さぬのが最 もと存ずる、實 を云へば手前も江戶で果てる、備後も切腹であらうから、國元でも手前への奉公納めに燒働 きに果てい、と申し送るつもりでござつたよ。 - 倂し又、手前も色々に考へましたよ、國元に
燒働 きさしては、手前に謀叛の心あつて、夫れが露見した爲と評判もされる、後 になつて夫れを申消 して吳れる仁も見當らず、其上手前一人 の心から數萬の家來を殺す事も不便 と存じた次第、で、手前も只今はつく〴〵分別に迷ふてをる』。 - 愚痴めいた述懷をするだけ、正則の心は和いだのであった、駿河守もホツト安心した。
- 『一々道理至極と思はれる、逆心と云はれる事も其通りでござる、折角軍功のあつたお手前が逆心と云はれて身を果てるのは此上もなき無分別、其上、
此後 上樣御機嫌の直らせらるゝ折もござらう、で、此際は快く城を明渡して、早々 お國替、信州へお越しあるが宜しいと存ずる、これは上使ではなく、舅の駿河が申す婆心 でござる』。 - 駿河は
打寬 いで利害を說いた。 - 『いかにも』と正則は一々頷いて『
切 てお手前だけへも申したい事もあるが、夫れも繰言 のやうで見苦しかろ、只手前妻子の儀はお手前が引取つて下さるやうお賴み申す』と云つた。 軈 て正則は廣島城 留守居への墨付を書いて上使へ渡した。- 上使は去つたが
邸 を圍む者はまだ退かぬ、明 る日となつたがまだ退かぬ、邸內ではもう信州 行 の支度も出來て今日 が江戶を立つ日となつてゐた。 - 住みなれた邸に
流石 名殘 りが惜しまれて、家臣 等 何 れも淚ぐむ。 - 『あれ程の御武功は
何 の爲ぢや、七萬石の捨米 とは餘りに烈しい世の樣ぢや』。 - 疊に食いついて泣く
老武者 もあつた。 - 正則はもう、すべてを諦めてゐた。
- 『弓矢を見い、敵ある時は重寶なものぢやが、國治まれば袋に包んで土藏に收められるわ、正則も弓、今は治世で川中島の土藏へ
入 らるゝのぢや』。 愁 の中 に、こんな氣休めを云つて、邸中 の士 を集めて別れの酒を酌 んだ。- 表門に陣取る蒲生勢は待ちくたびれて
屢々 出立 を催促する。 - 『
氣忙 ない奴ぢや、半右、新八』と正則は呼ぶ。 - 『蒲生は奧筋の大名ぢや、奧筋の風俗はがさつぢや、兎もすれば門の內に押込むやら知れぬ、
然 うなつては門の士 も用捨はすまい、無禮咎めに騷動も起らう、其方等 が出て理を盡して鎭めてやれ、夫れでも聞かずに踏み込むとあれば、駈込んで予に知らせい予も自害するわ』。 - 熊澤半右衞門と上月新八とは手をついて聞いてゐたが、半右は此時、苦い顏をした。
- 『殿、此役目は半右には六つかしうござります』。
- 『何と云ふ』と正則は
氣色 を損じた。 - 『かう成果てゝも主は主ぢや、予の云ふ事を
其方 までが侮るか』。 - 『上月』と半右は
空耳 つぶして新八を見た。 - 『貴公はどう思ふ、只今、殿が仰せられたやうに出羽、奧州の風俗はがさつぢや、我々立向つて
如何 に理を盡しても聞入れぬとも限らぬ、其時駈歸 つては、がさつの奴に追はれて逃込んだと同じ事ぢや、士 の恥とは思はぬか、夫れよりも込み入る奴を腕限りに切つて捨て、其 太刀 音 を注進として、殿は殿のお覺悟次第、我々は門際 去らず斬死 とするやうにお願ひ申さうではないか』。 - 聞えよがしに半右は云つた。
- 『同心、夫れが
可 い』と新八は云つた。 - 『むゝ』と正則は色を直して『いかにも
其方等 の云ふが理ぢや、只幾重 にも穩やかに理を盡せ、其上で承引 なくば、其方等 思ふがまゝに働くが可 いぞ』。 - 半右、新八は勇んで
門際 に駈 つけた。 - 門の外では蒲生勢が
動搖 めいてゐた、門內では番の士 が血眼 になつて構へてゐた。內外殺氣立つて血を見るばかりの勢 となつてゐた、半右は馬を立てゝ門に立つ。 - 『蒲生殿內に申入れたい、然るべき方に御意得たい』。と叫ぶ。
- 蒲生方から
老功者 と見えた一騎が前に進み出た。 - 『拙者は
梅原 彌左衞門 でござる』。 - 『御警護御苦勞に存ずるさて申入れたい儀は、先程より
度々 の御催促なれど、當方もかやうな場合とて、少々取込んで居ります、當屋邸 引渡しに就いても疎漏なきやうに夫れ〳〵の支度もござれば、其間 は猶豫を願ひたいと存ずる、見苦しい體 を故 ら見られるが蒲生殿お望みにてもあるまじく、見苦しい體をお目にかけては當家不面目でござれば、其邊の御配慮を願ひたいと存じます』。 - 『いや、これは痛み入つた御挨拶でござる、何かの言葉ちがいに若者共がよしなく騷ぎ立てたと見えますが、當方もとより福島殿御心中お察し申します、
悠々 ご支度あつてよろしく、又何かの不便もござれば遠慮なく申しつげられたい』。 - 矢左衞門は
叮嚀 であつた、此時蒲生方には彌左衞門を始め、志賀 與 三左衞門 、町野 長門 、八角 內膳 等 の老功者 別者 がゐたのであつた。
浪人
編集一
編集- 正則の墨付が備中笠岡の上使の
許 へ着いたのは六月下旬である、墨付は直ちに鞆と廣島とへ送られた、廣島では墨付の到着が餘りに早い、或 は僞筆 かも知れぬ、欺かれてはならぬ、と云ふ者もあつたが、丹波は僞筆 なら却つて喜んで欺むかれるが可 い、將軍家たるものが廣島を受取るに僞筆 まで使ふとあれば、將軍家の大恥辱 、卑怯である、欺く方が耻で欺むかれる方が譽 である、と云つてゐた、だが到着した墨付は紛ひもなき正則の自筆であつたので直ちに城渡しの返答をする。 - ご上使
總奉行 等 は蜂須賀 、加藤 兩家の船で海上から尾道 に入り、諸大名の勢 は笠岡から八里の陸路を尾の道に進んだ。 - 鞆の城では籠城と
定 まつた說きこそ、士卒の心も引締 つてゐたが、さて開城となると失望落膽、銘々あ家財の取片付 に忙しい、混雜紛れに早くも落延 びる者がある士人 が然 うであるから仲間 、下僕 などは主人へ暇 も吿げずに逃げる者さへある。 - 城代大崎玄蕃の
邸 では、玄蕃が無頓着であるから家財も吝 まぬ、一切家來等 に分與 へて立去るに任せてゐた。 - 『何なりと
紀念 に吳れる、欲しい品があれば遠慮なく持去れ、倂し具足一領、槍一筋玄蕃が身體 と身に著 けた衣類とだけは殘してゆけよ』。 - 玄蕃は
恁 う云つた儘で奧の一間 で、木曾女に酌させて例によつて微醉 機嫌 であつた。 平素 は家事向の支配頭 、女ながらも八千石の世帶に細かい目を張つてゐた木曾女も、今日 ばかりは只酒の番をするのみで、奧の間からは一步も出なかつた。- 家來は次々に、奧の間へ來て
暇 を吿げた、淚に咽 んで立兼 ねる者もあつた。 - 『
永 の年月 、奉公して吳れた其方 ぢやでな何とかしてやりたいが、玄蕃は貧乏者ぢや、其上今日 からは浪人ぢや、是非もない、其內世に出る事も有つたら呼びにやる、夫れまでは兎も角もして何處 ぞへ落付 いてをれ』。 - 玄蕃は恁う云つては立去らせた、
仲間 も去つた、下僕 も去つた、廣い邸 も森 とする。 - 『もう、皆立ち去つたかな』。
天性 の雷聲 がガンと響く。- 『見て參りませう』。
- 木曾女は邸內
隈 なく見𢌞つて來て『最早 一人 も殘りません』と云つた。 - 『見苦しいものは無いか』。
- 『ものとては一つも殘りませぬ』。
- 『八千石の
身代 が然 うなつたか、美麗 なものぢや、さて今度は愈 よ其方 とも別れねばなるまいぞ』。 - 『私は殿のお立ちまで、ご介抱致しませう』。
- 『
然 うして吳れい、ぢやが其方 とは久しいなじみであつた、廿年ぢやな、廿年前 には其方 は流浪の女 であつた、其少し前には俺も尾羽 打枯 した素浪人であつた、今日 からは又昔の素浪人、流浪の女 に返るかな、そちは何處 へ參る』。 - 『
何處 へとて殿の明日 が暗 なら、私 の明日 も暗 でござります、足の向 く方 へでも參りませうぞ』と木曾女は笑む。 - 醜い
面 、醜い姿、玄蕃は夫れを哀れと見た。 - 『
其方 も諦めの可 い奴ぢや』とから〳〵と笑つたが、其 笑 も淋しかつた。 - 『いや、
今日 は酒も身にしむわ』。 - 『お邸の飮み納めでござります、氣持よくお醉いなされませ、只今お肴を
調 へませう』。 - 『いや肴は面倒ぢや、酒も
可 いとする、追付 け御上使も來るであらう、佐仲 、九郞 、大藏 等 が待つて居らうでな』。 大崎 佐仲 、伴 九郞 、高島 大藏 等 は玄蕃腹心の家來で、まだ城中に殘つて、明渡しの準備を急いでゐるのであつた。- 『
否 え、殿さまお肴と云ふのは、是非お召しを願はねばなりませぬ、木曾が奉公納めでござります、ご覽遊ばせ』。 - 木曾女は立つて庭に出た、
築山 の木々繁る間 を好 みに配 つた自然石 がある、玄蕃が城代となつた初めに、木曾女が積み重ねて風情を添へたもの、自然石の其一つさへ三人四人かゝらねば動かし得ぬものであつた。 - 木曾女は上野石を
輕々 と刎除 けた、下は石と石との組合せに自 からの岩穴をなしてゐる木曾女は中から夥しい金包 を引出して玄蕃の前に積重ねた。 金子 五千兩、板銀 二千五百枚。- これが木曾女の奉公納めであつた。
二
編集- 『何ぢや、此金は』。と玄蕃は少しからず怪しんだ。
- 『殿さまの御身代でござります』。
- 『ふむ、俺に此やうな金があつたか、不思議ぢやな、
何時 の間 に出來たかな、合點がならぬわ』。 - 『當國へお移りの頃から段々蓄へておきました、何事ぞある時は兎角金銀がなくては叶はぬと存じましてゞござります、殿さまには微塵そのやうなお心がけが無い故、
私 が代つて貯はへておきました』。 - 『ふむ』と玄蕃は嵐のやうな息を
吐 いた。 - 『いや、エライ事をする奴ぢや、玄蕃とんと
面 が歪 む、ぢやが此金は俺のゝやうで俺のではない、玄蕃の手にあれば、今はもう酒の滓 ともなつて居 る、殘つたのは其方 の才覺ぢや、是りや俺には取れぬ、ぢやが俺も貧乏して明日 が日にも飢 える、大藏、九郞 等 も飢 えやうで、勿体 ないが、ちと分前を貰うかな』。 - 『ほゝ、殿さまのものは殿さまのご自由、
私 が取らうとて貯へは致しませぬ、私が取つては殿さまのものを內々 盜 ねた事になります私の役はお渡し申せば濟みまする』。 - 『
然 うは云つても、取つては俺の義理が惡さうぢや、夫れでは恁うぢや、ふむ、金五千兩、板銀二千五百枚、二つの山ぢや、どちらなりとも其方 の氣に入る方を、改ためて玄蕃が、其方 への紀念 とするわ』。 - 不思議な金は不思議な分配法をひねり出させた、だが、木曾女は笑つて手を振つた。
- 『木曾は欲しくはござりませぬ、欲しい程なら默つて持つて
去 にまする』。 - 『其剛情は
可 くないぞ、其方 が取らねば俺も取れぬ、取るまい、取らぬで埒があかぬ、困らせずに、優 しうするものぢや、おう、これが可 い』。 - と玄蕃は笑つて五千兩の山へ手をかけた、
鷲握 みの一握りを木曾女の前においた。 - 『それ、これが
其方 の分ぢや』。 - 女も亦笑つた。
- 玄蕃も一握りを自身の前においた。
- 『これが俺の分ぢや』。
- 又一握り、又一握り、毛深い骨太の玄蕃の
掌 は銘々の前に代る代るに金を積んだ、板銀も同じやうに分配された。 - 『埒はついたぞ、得心せい』。
- 上使が鞆の城に
入 つた時、城は隅々 まで掃除され、狹間每 に士 、足輕の名札を打ち、座敷には釜に湯を沸 らせ、茶をひかせてあつた。 - 城を明渡すと共に玄蕃は家來三人だけを連れて飄然と鞆を去る、木曾女は玄蕃を見送つた
後 、港に舟を求めたとまでは知られたが、其後 の行方 は分らなかつた。 - 上使一行は次いで廣島に進まうとしたが、其時丹波の
使 として嫡子福島式部が來る。 - 『城、明渡しは六七日の御猶豫を得たい』と云ふのであつた。
- 安藤對馬守が不審して『此際になつて何故さやうに
間取 るか』と問ふ。 - 『委細は明渡しの支度でござります、今までは必死の籠城で明渡しは夢にも思はずに居ました折柄、まだ支度が
整 ふて居りませぬ、其上一家中の妻子を步行 跣足 で立退 かせては諸人 の見る目も恥かしうござります故、妻子家財、見苦しきものを攝津 まで送る間 、近國の𢌞船四五百艘の御恩借を得たうござります』。と式部は臆する色もなかつた。 - 『𢌞船は一二日の
中 にも間に合はして得させるが、明渡しの支度もさ程長くかゝらずとも二日位で濟みさうなものぢや』對馬守は不得心の體 であつた。 - 『何分城內も廣く、家中も人
數多 でござります、殊には今までの家柄として、立退 にも相應の面目を立てたうござります御猶豫叶はねば是非もなく、妻子を自害させ城にひをかけて死後の恥殘らぬに致したうござります、此儀は丹波も是非お願ひ申せとの事にありました』。と式部は色を變へた。 - 對馬も遂に頷かねばならなかつた。
- 六月廿八日までには
伊豫 の加藤 家、備前 の池田 家などの𢌞船五百艘が廣島の海に集まつた、家中の妻子、道具は悉く船に移された。 - 多忙の
間 にも福島丹波は一切の責 を身に引受けて細かに明渡しの手配りを立てゝゐた、本丸大廣間の四方には家中の士 、一人 一人 に對する委しい行狀書が貼出 された。 大手門前 で切腹した林龜之丞の始末書 もあつた、狹間潛 りの卑怯者の名もあつた、籠城せぬ者の中にも其道理のある者は理由 を記してあつた、前々に軍功 のあつた者今度の籠城に眼覺しい行爲 のあった者の事も見易く記されてあつた。- 弓、鐵砲、槍、武具、馬具も美くしく磨かれて、
塵 も止 めず、夫れ〳〵の構へに飾りつけられて、一々目錄に記された、城下の侍屋敷も家每に番人をおき、家附の道具を目錄として、何時 にも引渡せるやうに準備された。 而 して上使へ明渡しの通知を發したのであつた。- 廿九日の曉、まだ暗い
中 に正則の奧方は舟着 まで立退 いた。 - 夜明と共に上使は城に入り、城受取の
總奉行 等 は夫れに續いた、諸大名の勢 は大手門前に進んだ。 - 城では家老、侍大將、
物頭 、使番 等 が淸 しげに上下 を着し、上使を迎へて、大廣間で上意を承はる、丹波がお受けをして式は終る、旗奉行、槍奉行以下、士分は悉 く甲冑 を裝 ふてゐた、足輕大將は足輕を引 つけ、鳥銃 を持たせ玉をこめ、火繩をかけさせてゐた、式濟むと共に奉行以下は隊伍嚴 そかに大手門から左について退城する城受取の勢 は右について入城する、朝風涼しい中に繰込 む士 と、繰出 す士 とは互に會釋した、住 なれた城を出る人に追懷 深く、無限の遺憾があつた、受取りの人も夫れを推 して暗い心が自ふと色に現はれてゐた、誰 一人 禮儀を亂す者もなかつた。 - 丹波以下、
上下 着けた者は最後まで殘つて永井右近大夫、安藤對馬守以下に要所々々の引渡しをした、嚴重な作法の中 に引渡し全く終 ると一同大廣間に並んだ。 - 『是れまで、樣々のお心入れに預かり、願の條々もお
免 し下され有難く存じ奉つる』と丹波は一禮した。 - 『此度の事、左衞門大夫殿
御上 、何とも申すべき詞 もない、誠に氣の毒に思ふ』と對馬守は會釋した。 - 丹波以下は、ハツと
頭 を下げた、茶筅髮 の老人長尾 出羽 は使番であつたが、此時橫を向いた儘輕く一禮した、夫れが上使附、山崎 甲斐守 の目を惹いた。 鳥渡 した事が氣に入つて甲斐守は並々ならう人物と見て、姓名を問ふた。- 退散の時『
其方 の家族を引取つて扶持しやう、其方 が他國へ行つて仕官する望 があるなら、行くまでは予の家の客分となれ』と云つた。 - 出羽は其懇情をひどく喜んだが、
後 には森 美作守 忠政 に招かれて仕へたのであつた。 - 安藤對馬守も福島丹波へ云つた。
- 『
其方 は上樣お聲がゝりがある、此後 何 れかに仕へたいか、又知行はどれ程望むか』。 - 『丹波は老人にござります、大夫殿一代の
外 仕官望みなし町人となつて老後を送りたいと存じます』とは丹波の答であつた。 - 丹波が大廣間に取つておいた、家中の
行狀書 は後 の證據となつて、福島家浪人は殆んど諸大名に召抱えられたが、丹波だけは其後 、紀州 侯から二萬石、前田 家から三萬石で招いたが何 れにも首を振つて、町人として、世を終へたのであつた。
三
編集- 引渡し濟んで丹波以下が城を去つたのは暮に近かつた、三十日
曉 の潮 で出帆と定めて、其夜は舟着に泊つたが、夜が明けると俄かに正則の奧方が見えなくなつてゐて、奧方附の女中達 は上使本多 美濃守 が盜み出したと騷ぎ出した。 曉 に美濃守の侍が訪れた、本多美濃守と奧方とは緣者であるから、誰 も氣にかけずに居た間 に奧方が見えなくなつたと云ふのであつた。- 『大殿、
身上 果てられたで、無理强 の御離緣とでもあるか、美濃守賢 ら立 つて奧方を奪ふて御實家牧野 殿に送ると見えるわ』。 - と丹波は憤ほつた。
- 『御離緣も
可 し、道を踏んでの御離緣なら差支 へはあるまい、ぢやが今は我々、殿から預かり參らせてある奧方ぢや、――御家老、手前が理を說いて取返して參る』。 - と吉村又右衞門が息まいた。
- 『拙者も參らう』と大橋茂右衞門も云つた。
- 吉村、大橋は馬を馳せて美濃守の休息所を訪ふたが、美濃守には變つた
氣色 も見えなかつた。 - 『何事が起つた、急用とは』と却つて
二人 の居動 を恠 しんだ。 - 『何事とはご卑怯でござります、殿は大夫殿と深い
御知音 にありながら、今更奧方を何故にお隱しなされましたか、丹波始めお恨みに存じます』と吉村は睨んだ。 - 『いや、其事か、是れは予の手落であつたが、惡意ではない、はゝはゝ』と美濃守は
打笑 つて『曉 の內に奧方からの書面ぢや、其方等 も知る如く妙慶院 の戒善寺 とかに奧方お袋樣の位牌がある筈ぢや、夫れへお別れの參詣と云ふのでは、表立 つては事々しい、忍んで參りたいと云ふので、予の方から念の爲侍を遣はした、懸念はない、予は其方等 の方でも承知の事と思ふておつた』。 - 『
女性 ぢやな、愈 よとなれば名殘を惜しまれるのぢや』。と云つた。 人騷 せの出來事は大笑 となつて、奧方も驚いて早々に舟着に歸つたが、其間 に時が過ぎて舟は潮時に遲れた。- 一日延びて七月一日の
巳 刻五百艘の𢌞船は順風に帆を上げた、廣島の夏の海、本丸の天守を、人々が見るのも其日が限りであつた、五十萬石の始末は全く終つて、大夫正則、備後守正勝は信州上高井郡 高井村 に蟄居 する、奧方は牧野駿河守に引取られ、臣下は四方に離散した。離散した臣下の中 、牧野 主馬 、梶田 出雲 は尾張大納言 家へ柴田 源左衞門 は肥後 の加藤 家へ、鎌田 主殿 、黑田 藏人 は細川 越中守 へ森 平右衞門 は蜂須賀 家へ、蜂屋 將監 は本多美濃守へ、武藤 修理 は松平 出羽守 へ、小關 右衞門太郞 は池田 新太郞 へ、仙石 但馬 は土佐山內 家へ、小關 監物 は有馬 家へ召抱へられた、夫等 を重立者 として福島家浪人は賣口 がよかつた、丹波の證明、正則の書狀もあり、且つは福島家が、もと〳〵武勇で聞えてゐたので望む諸侯も多かつた。 - 其中で、久しく浪人していたのは吉村又右衞門である、又右は廣島を去る時、金銀家財を家人、
下僕 等 に分與 へて暇 を取らせ、自身は正則奧方の供をして牧野 駿河守 の領地に見送り秋風吹初 めた頃には信州高井野の正則の館を訪れた。
四
編集- 『又右か』。
- 又右を見た時、正則は只一語
然 う云つたのみで暫時 はしみ〴〵と又右の顏を打目戍 つてゐた、主從相見るはざつと半年 ぶりであつたが、此半年が十年にもなるやうに正則は面瘦 せがしてゐた、頭も剃圓 めて昔の正則、今は入道 馬齋 と稱してゐた。 - 又右は
廣島表 の騷動、城渡しの始末、奧方の消息を細かに語つた。 - 『夢ぢや、夢であつた』と正則は
幾度 か嗟嘆して『夢にもせよ、數多 家來に樣々の苦を見せた、苦勞の效 なく流浪の憂目を見せたが悲しい、日本國中行く先々で、あれが正則の家來の果てかと云はせるが心苦しい、殊に又右、其方 にはなあ。 其方 は云ふた、天下弓矢納めの祝ひとして備後一國を献上せいと云ふた、城普請は天下御法度、私に一木 一石 も動 すなと云ふた、さほど明智の家來を有 ちながら、今は此體 ぢや、さほどの家來が今は其體 ぢや』。- 無量の感が正則にあつた。
- 『夫れも是れも時の運でござりました、過ぎ去つた三十年、四十年を見返して、殿の
御名 は戰場の花にござりました、追懷 に名殘はない功成つて世を避けると思しめて、又右こゝまで來ます道々にも、信州路の眺めは殊更と思ひました、白雲 、靑松 、藥 を採 老 を養ふ、御裾の塵は又右が拂ひまする』。 - 又右は主君の
先途 を見屆けるのが、其望みであつた。 - 『おう又右』と正則は淚を浮べた。
- 『
其方 の心は嬉しく思ふぞ、ぢやが今の予に其方 は過ぎものぢや、五尺の池に龍は棲まれぬ、あたら大器を山奧に埋 めまい、福島の家來に又右があると、世に出て吳れゝば正則の面目ぢや』。 - 『
何 と仰せ、殿、其お言葉はお恨みにござりますぞ』。 - 『いや、
其方 は惜しい、世に出て身を立てるが予への忠義ぢや』。 - 『あゝ、さやうな仰せを頂かう爲に、
遙々 此地 へは、うせませなんだ』と又右は嘆じた。 - 『ゆるせ、
助市 の昔から仕へた其方 ぢや、今までの忠勤を何とて無にする只 予が惜しむのは其方 の其器量ぢや、其方 は戰場の勇士ぢや、又、太平の世にも働ける男ぢや、其方 の行狀はこゝに書いてある、是れを証 として仕官を求めい、何處 へ行くとも其方 なら一萬石の骨はある、高うは無い』と正則は手函 を探つて添狀 を出した。 - 添狀は正則自筆の
武功書 である。 天正 十八年の小田原陣 には、又右は助市と名乘り十五才の小姓として初陣 したが、韮山 の城攻 に四尺餘の大太刀 を揮 ひ、正則の矢面 に立つて敵將との一騎討に陣中に驍名 を馳せたのである。- 朝鮮征伐陣には、敵將と組んで組みしかれた事がある、吉村討たすなと人々が手に汗握る
間 に正則は『助市なら其儘におけ、懸念はない』と笑つたとか、其言葉通りに又右は下から敵の首を搔落 したのである。 - 正則はもう、早くから又右の器量を知つてゐたが、まだ多い知行を與へぬ
間 に、朝鮮役後、又右は諫言を入れて、正則の不興を蒙むり、次いで浪人して加賀の前田家に抱へられた。 - 前田家に
細野 主水 と云ふ武士 がゐて、元は正則に仕へた事がある、正則の行狀をよく知つてゐて頻りに多くの人中 で惡口 してゐた又右はそれを憎んで、果ては主水を斬倒 して前田家を去つた。 而 して流浪する間 に、再び正則に呼び返されたので、恁う云ふ事情から歸新參 の又右はやはり多くの知行にもならず、淸州城時代には勇士との名は諸家に聞へながらも四百石の身分であつた。- 關ケ原の前の岐阜の城攻には一
番乘 の手柄があつて一時に千石の加增を受け、其後 加增されて二千石の身とはなつてはゐたが、一體から云へば不遇な方で、正則も夫れはよく心得てゐたのであつた。 - 『
其方 なら一萬石の骨』と云つたのも其爲である。 - 又右に取つては一萬石よりも正則の
傍 で薪 でも伐 るのが本意であつたが、强いて正則の言葉に背く事も出來なかつた、家來を愛する正則も、五十萬石から一時に一萬石におちた今は昔と變つた手許不如意で、おきたい家來も暇 を出さねばならぬ、然 う云ふ事情を思ふて見れば、又右も我から身を退 かねばならなかつた、で、彼は次男の宣光 を主君の小姓に殘して漂々と信州の地を去つた。 - 『殿のお
眼鑑識 を空 にはしませぬ。又右は一萬石を取つて見せまする』。 - 去る時、主君に恁う云つたのであつた。
故朋輩
編集一
編集- 又右の流浪は長く續いた。
- ずつと前の
慶長 時代には天下の浪人も巾 が利いた、元龜 、天正時代には猶更 巾が利いた浪人から一足飛びに一城の主 となつた者が頗るに多かつた、だが其頃は亂世 である、諸大名も名ある浪人を歡迎した、浪人も槍一筋で思ふが儘の功名が出來た。 - 今は太平無事である、雨降り土固まつて
小搖 ぎもせぬ世となつてゐる、諸侯も武勇の士 は望むがさりとて、浪人一人 に一萬石は出 し難 い。 - だが『一萬石、一粒缺けても主人は持たぬ』と云ふのが又右の心の意氣である。
- 慶長頃には
後藤又兵衞 と云ふ、つむじ曲りがゐた、黑田 家の老臣三萬何千石と云ふ位置を捨てゝ天下の浪人となつた、細川 越中守 が三萬五千石で抱へやうとしたが、黑田家が故障を入れて破談にさせた。 - 其頃又右の主たる正則も、又兵衞を望んだ又兵衞は三萬石なら奉公しやうと云つた。
- 『夫れは高い、予が家では一の老臣福島丹波でも、今は二萬石である、夫れより上は出せない』と正則は云つた。
- 『いや
然 うではござりませぬ、又兵衞を三萬石に抱へるのは當方所望の上だからでござります、所望すれば又兵衞も三萬石、と云へば、丹波も他家に所望されゝば四萬石の位價 があらう、と人も評判する事でござりませう、是非お抱へあれ』と丹波が勸めた。 - 正則は
承 かなかつた。 - 又兵衞はやつぱり天下の浪人であつた、京に上つて
藤堂 家の厄介になつた、藤堂家で抱へやうと云つた時、又兵衞は一萬石なら、と云つた、又兵衞として一萬石は當時の相場として寧ろ安價であつた、だが藤堂家でも一萬石は出し兼ねた。 - 又兵衞はやつぱり浪人であつた、慶長時代の又兵衞と云へば、浪人界の鯨であつた、
而 して慶長時代と云へば大阪夏、冬陣の前、今にも天下の大亂と云ふ折であった、其時でさへさしもの後藤又兵衞でさへ、斯 うであつた。 - まして浪人の相場は
下落 つた、天下太平の今である、『一萬石一粒缺けても』とは時世に相應 ぬ高望みであつた。 買人 の無いのも是非が無い、だが又右に頓着は無かつた、どこまでも正札附 一萬石、買はねば夫れまでと流浪する。幾年 の後 、鈴鹿郡 、關 の片ほとりの少 かな家に、家不相應の大宿札 が揭げられて夫れには痕 鮮かに『吉村又右衞門』と大書されてあつた。- 札は新しく大きくても、家は古びて久しい
間 人も住まず、化物小屋の噂まであつたのを天下の浪人が借受けたので、此時の又右は、もう餘程零落してゐた、家族は女房お才 と三男の宣秀 と、娘と從僕二人 とで、主人を加へて六人。 外 に馬一疋。- 朝夕の煙も絕え〳〵で、冬近い此頃にも、
水汲 む娘も薄着である、そゝけ髮の女房は細帶一つに、水鼻汁 を啜 る、宣秀は近くの劍術師匠に弟子入りしてゐる、效々 しいのは二人 の從僕で、これは廣島以來主人を放れず、藁を打つ、草履を作る、町の人に雇はれて若干 の賃金に生計 を助ける、主人の又右は手習の師匠で收まり返る、只一枚の袷 、夫れも胴に膝に繕ひの痕の多いのを、洗濯でもすれば着更へもなく、干す間 は榾火 暖まると云ふ慘 めさであるが夫れでも又右に愚痴は無かつた、流浪の窶 れもなく相も變らぬ、溫顏、間 には禪寺の住持の許へ入浸 つて、やがては關のお地藏さんの堂守 にでもなりさうな體 であつた。 - 關は東海道の往還、京の道とお伊勢へとの
岐 れ口 で、町も繁昌する、諸大名參勤交代の驛で、人の往來も夥しい、又右の大宿札は何時 となく人目を惹いた。 - 『あれが吉村又右衞門か』。
- 見すぼらしい影を見送つて
囁 く人も多くなつた、名を慕ふて交 りを結ぶ浪人もあつた、又右は浪人にも百姓にも、僧にも、商 にも、交はる人に隔てはない、昔を捨てゝ腰も低い、言葉も丁寧、話も巧みで、殊に戰物語 は元が元だけに上手 であつた。 - だが又右の語る武功話は、悉く
他 の手柄、他 の名譽で、自身の事は露步度も漏らさなかつた强いて聞かれたゞけを答へるのみで、我から恁うとは口にせぬ。 - 『ゆかしい仁ぢや』と人々は云ふ。
- 『
稀 には昔の自慢話もお聞かせなさい』と親しい者は云ふ。 - 『いや、手前は云はゞ
戰見物 に出たやうなもので、自慢の武功は頓とござらぬ』と又右は避ける。 - 『いや、聞きましたぞ、
初陣 からの御手柄は音に聞えたものぢや、何でも小田原陣には十五才で初陣と聞きました、實 でござるか』。 - 『夫れは
實 ぢや』。 - 『其時、敵方の勇士を谷底へ
斬落 されたとやら、夫れは如何 でござる』。 - 『以ての外でな、其時手前は太刀、敵は
大笹穗 の槍、若輩の手前が何 とて及 ひませう、忽 ちの中 に傷を受けたでな』。 - 『傷に屈せず討取りましたか』。
- 『いや〳〵手前傷を受け、敵は槍を棄てゝ
只 一挫 きと組付 いてまゐつた、組付かれては手前生命 は無いであらうが、敵は飛びかゝる機 に踏滑 つて谷へ落ちてござる、つまりは手前命拾ひが、云 ひ觸 されて手柄のやうになりました、はゝゝゝ氣恥かしうござる』。 - 又右の語る、又右の手柄話は
大體 恁う云ふ落ちとなつて、聞く人は却つて、又右の心をゆかしいと見た。 - 恁うして日を送る
中 、冬も押しつまつた夕暮、又右の門口を訪れた一人 の武士 がある。
二
編集武士 は五十年輩、二三の下僕 を連れて打扮 もさる大名の家老格と云ふ品 があつた。門 掃く又右と、事々しい宿札とを見比べて彼は慕 かしげに、又、得意げに微笑 んで靜かに又右の傍 に寄つた。- 『吉村殿』。
- 『や』と又右は
箒 の手を止めた。 - 『
主馬 殿か、これは久しぶりであつた、何處 へお越しか』。 - 『お手前を尋ねて參つた』。
- 『手前をか、夫れは夫れぢや、友あり遠方より
來 るぢや、手前こゝに住むを可 うお知りであつた』。 - 『
疾 うに知りましたぞ、奉公に間 なしで、思ひながら疎遠今日 はやう〳〵思ひを遂げた儀でござる』。 - 『いかにもいかにも、お手前が中國の殿のお召抱へと云ふ事は豫て噂がありました、
奉公間 なしは結構でござり一別以來、こゝで立話 もなるまい、汚くとも又右が城ぢや、お入 りあれ』。 澤井 主馬 は同じく福島家の元家臣で、又右とは故朋輩 であつた、廣島城 明渡しの後 久しく打絕 えてゐたのが、一は大名の重臣、一は零落の浪人として再會したのであつた。- 出世の主馬を迎へて、又右の女房は
流石 恥ぢた世にあれば二千石の妻が、今は見る影もない、貧家の婦である、水吞百姓 の家にも分相應の身の飾りがあるが、粥 啜 るにも苦勞する今の又右の女房には、客を見るのも無慘であつた。 - 主馬は想ふたよりも
烈 しい、此家 の樣に驚きの目を配つた一室 の隅には又右の三男宣秀が膝も露 な布子 一枚に父に似た逞ましい腰に荒繩を帶としてゐた、娘は洗晒 しの縞目 も分らぬ袷を着て淑 かに手をついてゐた。 - 裏には
下僕 の馬を叱る聲がした。 - だが又右は
鷹揚 に榾 を折つて圍爐裡 にくべる、大胡坐 の寬々 と屈托の色もない、遠來の主馬に隔意なく打語る。 - 『澁茶など、參れ、はゝ、見らるゝ通りの不如意ぢやで、折角の珍客に
待遇 も出來ぬ、女房共、大根 など掘れ、手作りの馳走を主馬殿に進ぜうよ』。 - 『ご配慮あつては主馬、心苦しうござる、どうぞ此儘に』と主馬は
主人 の出す澁茶を快く啜 る、折柄の戶口には主馬の心付けで町から取寄せた、美酒か來る、色鮮かな肴が來る。 - 『おう、馳走御持參か』と又右は
聲高 に笑つた。 - 『
先 を越されてお恥かしい、ほんの寸志、手土產 でござる』。 - 『何よりぢや、
逆 さま事 ぢやが遠慮なくご馳走にならうぞ』。 盃 はめぐる、寂しい家に春が來たやうに主客の聲は花やかに響いた。- 『時に又右殿、此度主馬が參つたのは、ちと折入つての相談がござつてぢや、
他 でもなく、お手前も最早 浪人暮しも飽かれたであろう、どうでござる、主取 りはなさらぬか』。と主馬は探るやうに見た。 - 『お言葉ぢや、手前とても
何時 まで浪人もしたうはない、何 れは仕官もしたいと思ふ、ぢやが不足の主は持ちたうなし、此方 で望む主は又、彼方 で嫌ひぢやと云ふ譯で、今も浪人と云ふ次第ぢや』。 - 『と、なれば
如何 でござる、手前の主君ぢや、こゝが、相談、お手前の主にして不足か、滿足かな』。 - 『結構ぢやな』。と又右の答は輕かつた。
- 『ふむ』、と主馬は頷づいて『
如何 でござる手前が主君が三千石出さうと仰せぢや、お望みは無いか』。 - 主馬は、これなら
如何 だ、と考へてゐた、又右の名は世に知られてゐる、だが、元は二千石の身 、零落した今を三千石で拾ひ上げる、又右に取つては飛び立つやうな話と考へてゐた。 - だが飛立つやうに思つたのは又右より女房である、始めから主馬の來たのは若しや夫れではないかと
推 してゐた、若しやが當つて三千石は、今の身に天から降つたやうな幸運で耳にしたゞけでも氣が伸びる、伸るよりも餘りの冥加 に寧ろ體に顫 きを覺えたので。 - だが、又右は默つて主馬を
目戍 つた、其顏は否 でも應でもなく、風が送つた落葉の、風に去るのを見送るやうな冷 かさであつた。 - 『これはちと
然 のやうぢやが、實 は手前主君、江戶參勤の折柄にお手前の宿札をお目に止められてぢや、で、手前を召されて吉村又右とは聞えた者ぢや、其方 とは故朋輩であろ、との仰 でござつた、手前もお手前の昔の事など細々 申上げておいたところ、此度吉村が欲しい、と仰せぢや、手前所用で國表 へ歸るを幸ひ、殿も吳々 とお手前の事を申されたやうな譯でござる』。 - と主馬は說いた。
- 『いや
御配慮忝 なうござる、さほどの思召 なら直 にもと云ふところぢやが、實は主馬殿折 が惡うござつたよ』。 - 『え』と主馬は目を
瞶 つた、主馬よりも驚いたのは女房であつた。
三
編集- 『少しの違いぢや、主馬殿ほんの四五日前さる殿よりの
使 ぢや、召抱えへたいと云はるゝので、手前も確 とお答はせず追 てと申しておいた此 追 てが惡うござる、今更夫れを斷 つて主馬殿の方へ傾いては又右の義理が立たぬとなるでな』。 - 又右は
聊 か眉を顰めた、女房は呆れて橫を向いた。 - 『ふむ』と主馬は
沈吟 して『但し確 と口を切らぬとならば、さやうに堅く義理立てせずともと手前は思ふ、夫れとも其方 の知行が多いとでも云はるゝか、手前と、お手前の間 ぢや、腹藏なく打明けて貰ひたい、浪人主を取る、知行の望みは遠慮のない事でござる』。 - 『いや、惡しう取られな、其方の知行はお手前の云はれたより、ちと少い、少い故手前も困る、少いとて
先口 ぢや、夫れを捨てゝお手前に從ふと、どうやら慾に傾いたやうに當る、人は知らずとも又右心に恥ぢる、折角の懇志を無にして濟まぬが、こりやお手前の方はお斷り申さねばならぬでな』。 - 又右の心は堅かつた、主馬も
强 い兼ねて失望して去つた、其後 を殘肴 、殘酒、又右は微醉の面 快げに盃 を擧げる。 - 『到來物ぢや、味も
可 い、爲 も作 も久しぶりぢや一献 汲め』。と下僕 の爲助 、作之進 まで座に呼んで樂しげに舌鼓 打つ。 - 『旦那さま』と女房は恨めしげに又右を見上げた、
堪 へ堪へた不滿、云ひつくせぬ遺憾 があり〳〵と面 を沈ませてゐた。 - 『何ぢゃ、
其 ねじくれやうは、はゝ他愛もない』。 - 『他愛もないとは
誰 が事にござります、零落 れた身空 に三千石が何不足でござりました、さる殿に先約とは可 うもぬけぬけと云はれました、先約とはどの先約にござります、五十石、百石、どこに先約がござりました、餘りと云えばお情 ない』。 - 『ふむ、愚痴か、云ふまい云ふたとて返らぬ、主馬殿はもう立去られたわ』。
- 『云はずには
居 られませぬ、子供が可愛 うはござりませぬか、爲助、作之進にまで數々の苦勞をさせて、可憐 しいとは思ひませぬか、娘を見て下され、此 寒空 に――』。 - 『默れ』と又右は
屹 と面 を正した。 - 『よく聞け、
煩 く云ふては女の愚痴とて見過ごさぬぞ、又右の妻なら妻らしい覺悟を有 て、子供の慘 めは子供のみか、恁う云ふ又右も粥を啜るわ、浪人の始めに何と云ひ聞かせた、又右は殿のお鑑識 ぢや、萬石以下では主取りはせぬ、飢 えても首は下げぬ、飢死 か萬石取りかと恁う云ひ聞かせたを忘れぬ筈ぢや。 其方 が父御は時めいてをる、貧 が辛 くば今日 が日にも歸つてゆけ、飢死 覺悟は又右一家の定 りと知らぬか』。- 又右は
睨 めた、女房も返す言葉が無かつた。 - 月が過ぎて又、月が過ぎて訪づれたのは澤井主馬の家來である、
恭 しく一封の書簡を捧げたが、夫れは主馬の自筆である。 - 『
私等 主君は頻りに貴所 を抱へたいと云ふ三千石取消して、改めて五千石で召抱へたいと云ふ、是非に御承諾を得たい、用意の金子も使 に持たせてある、早々 支度してお上 りを願ひたい』と記されてあつた。 - 又右は
冷 かに笑つた。 - 『お使、御苦勞であつた』。
- 『
難有 うござります、主人申附 、お手紙に書いてある物もこれに持參いたしております』。 - 『いや、夫れは其儘持歸つたが
可 い、さて其方 の主人澤井殿は今年 何歲になられたかな』。 - 『五十二才にござります』。
- 『ふむ、
然 うであらう、手前も然 う心得た、五十二才とすれば、まだ老耄 てはをらぬ筈ぢや、倂し此手紙によると近頃俄かに老 ぼれられたと見えるな、どうぢや』。 - 『恐れ入ります、まだ
然 やうにはござりませぬ』。 - 『
其方 は知るまいが、澤井殿は豫て手前に奉公を勸められた、手前は他に先約があると云ふてお斷り申した、然るに又もや其方 を使ひとして差越し、文面には祿を增す故是非奉公せいとあるわ、祿を增したとて先約を破るやうな又右でない、町人の賣買 と浪人の奉公とは別ぢや、さりとは澤井殿も卒爾 である、又右ひどく立腹して居 ると傳へて吳れ、返答 には及ばぬ』。 使 は舌を捲いて逃去つた。
四
編集- 『賴む、又右は居らぬか』。
筒拔聲 の凄まじく、又右の家も破 れよと響く、表に立つたのは六尺男の頰髯 深く、身に相應 はしい大刀 を佩 いてゐる、汗臭い帷子 が無慘に古びて網とも紛ふ、尻切れ草履に砂垢 がついて、見るも汚い浪人であつた。- 『又右』と又呼んだが答へは無かつた、家の中は
寂 りとして開放 つた戶障子に、裏の木の茂りまで見透 かされてゐる。彼は一足 退 いて宿札を見た。 - 『吉村又右衞門、ふむ相違はない、
可 いわ、同名異人 と云ふでも無かろ、江戶でも噂󠄀に聞いた事ぢや、っまた右の家なら遠慮は無い、入 つたとて盜人 とも云ふまい、いや、又此體 なら盜まうとて物も無さうぢや』。 - 彼は呟いて酒氣を吐いた。
- 『
然 らば御免』。 - のつそり
入 つて腰をかける、夏の日の正午 を過ぎて往還の砂埃りもムツト臭ふ、彼は手を延ばして有合 ふ藥罐 を引寄せるや、其儘口を宛てゝグツト呷 る。 - 『又右』と氣にかゝるか又呼んで見た。
- 『おう』と裏口に聲があつて窓から首を出したのは又右であつた、不審の眉を忽ち
湧上 る喜悅に叙 べて『おう、玄蕃か、これは、珍しい』。 - 『これは大崎樣ようこそ』と女房も
後 から驚喜の聲を放つた。客は大崎 玄蕃 長行 であつた。 - 『息災結構、
慕 かしかつたぞ、御內方 も御機嫌か、いや嬉しい事ぢや』。 - 主人の坐に着くより、客のにじり
上 るのが、早かつた、故朋輩の中にも玄蕃は又右に無二の友である、美々しく裝 ふた澤井主馬よりも汚い玄蕃の訪れが嬉しかつた、無けなしの財布もはたいて好きな濁酒 も買はねばならなかつた。 - 『さても久しかつた、
其後 貴公、何處 をほついた、音づれもないで、酒に吞まれて死に失せたかとまで思ふたぞ』。 - 『ほつくもほついた』と玄蕃は高らかに笑つて『いや
瘦犬 めが江戶中をほつき𢌞 つた、俺には子もない女房もない、躶 一貫酒が友ぢや、人足步役 にも雇はれた、盜人奴 の番にもなつた、道場へも轉げ込んだ、話せば長いが畢竟 は酒代 の稼ぎぢや、ぢやがもうつく〳〵浪人にも飽いたで、剛情骨 もへし曲る、一念發起、身を賣つたぞ』。 - 『
可 い事ぢや何處 へ賣る』。 - 『紀州の大納言殿ぢや』。
- 『不足は無いな、紀州なら
奉公效 がある、先づ目出度い』。 - 『夫れがどうやら分らぬ、
捨賣 ぢやで多寡 が三千石か五千石そこらか、俺は一萬石とも望むぢやが安藤 (帶刀 、紀州侯附家老)が云ふには、今の世に夫れは無理ぢやそちの思ふ通りに行くものでない、まあ來て見い、惡いやうにはせぬと云ふ、これは書面でぢやが、安藤にはちと義理もある、夫れに俺も家來が可哀 い、俺の身が定まれば家來も救へる、夫れ是れを考へて兎も角紀州へ行く、眞鍋 五郞左 も村上 彥右 も行くさうぢや』。 - 『ほう五郞左も彥右もまだ浪人であつたか』。
- 舊友の消息は又右の耳に
慕 しかつた、廣島明渡しの時、寄手 に斬入 ると云つた眞鍋、村上の其時の血眼 も想起 された。 - 『
二人 も强 か困つたと見える、やはり安藤に肝煎 を賴んださうぢや、俺も賴んだと云はば賴んだやうなものぢや、で、又右、貴公はどうぢや、まだ主取りはせぬと見えるが、俺と一緖に紀州へ行かぬか』。 - 『まあ
否 ぢや、俺はも少し浪人の味が戀しいでな』。 - 『
否 か、强 てと勸めもなるまいな、貴公は俺よりちと賢い、俺がやうにづぼらでも無い男ぢや、戀しいと云へば浪人も可 かろ、ふむ然 う云はれると俺も如何 やら未練が殘る、もちつと氣儘に暮さうかな』。 - 玄蕃は聊か首を傾ける、此男
性來 の我儘で無論當座の出方題 ではない事は判り切つてゐるので又右は輕く舵を取つた。 - 『惡い分別ぢやな、俺が浪人戀しいと云ふのは俺だけの譯があつてぢや、貴公が猿眞似をする事か』。
- 『む、俺は俺ぢや、やつぱり家來が
可愛 い廣島城 には便りを待つて百姓する奴もある、まゝよ行くとする、笑ふて吳れるな、道々も俺は迷ふてをつたのぢや、ぢやがもう迷はぬはゝゝゝ俺も齡 を取つた、實云へば貴公を訪ねて來たのは奉公するに就いて、貴公の添狀 を貰いたいからであつた、夫れが今となつてふと要らぬと思ふたのも道々の迷ひが芽をふたのぢやが、やつぱり添狀を貰ふが可 い』。 - 『
役立 つか如何 か、添狀は書かうよ、ぢやが玄蕃、貴公其體 で紀州へ行く積りか』。 - 『其體とは』。
- 『ふゝ、
其 見苦 しい體 と云ふのぢや』。 - 『わはゝゝ、いかさま
此體 は見苦しい、紀州へ着くころには此 帷子 も磨 り切 るゝぢやろ、ぢやとて無い袖は振れぬでな。まあ可 い、太刀 は此通り上物 ぢや、骨も大崎玄蕃ぢや』。 - 『夫れが惡い、昔とは
異 ふ、奉公して明日 にも戰 なら夫れも可 いが、今太平の世ぢや、福島家浪人としては身は崩したくはない、貧乏しても心懸 は見せねばならぬ、夫れが浪人でも武士の嗜 みぢや、行つて見い眞鍋でも村上でも其心得はあるぞ、貴公はどうも戰 は强い流石 は鬼玄蕃ぢやが、兎角嗜みが惡い、何が立入つた話ぢやが懷中蓄へは有 たぬか』。 - 『恐縮ぢやが二三十文はある、些か旅費はあつたが道々飮んで今は二三十文ぢや夫れも
酒代 にと思ふてをつた、いかにも貴公の云ふやうに嗜みが惡かつたな、俺には頓と氣がつかなかつた、可 いのは何處 ぞで働いて吳れる』。 - 『ほゝう働け働け、十文稼いで廿文が酒を飮む、首も手足も質に入るゝぢやろ』。
- 『えゝ、
嬲 るまい、俺も少々心細うなつた』と思案の太息 にしほらしく腕を組んだ。 - 『少しは懸念か』と又右は意地惡く笑つた。
- 『懸念は無い、が、福島浪
人乞食體 では行きたうない』。 - 『夫れが分つたら、又右相談に乘つてやるどうぢや、五十兩も有れば身支度は出來るぢやろ』
- 『何ぢや』と玄蕃は
墨々 と又右を見た、事もなげな五十兩に、さすがの玄蕃は呆れさせられたのであつた。で、彼は柄 にもなくきよろりとして - 『又右
脅 して吳るゝな、五十兩などゝ大言は禁物ぢや、二十兩、十兩、いや五兩でも可 いが、さて其五兩ぢや』。 - と世にも悲しげに彼は
髯面 を顰 めたのであつた。 - 『
卑 しい事は云ふまいぞ、元は八千石の大身 ぢや、大手を振つて行くが可 い、古朋輩の贐 に、又右が五十兩は進ぜるわ』。
五
編集- 『何ぢや』と玄蕃は又もや脅されたのである、だが又右の顏は
眞率 に輝やいてゐる、滿更 の噓 とも見えぬので、玄蕃はす引 く。 - 『有るか』。
- 『有る』と
莞爾 つく。 - 『
其體 でか、此 荒家 に住んでもか、ふゝむ俺は又貴公も俺に劣らぬ貧乏かと思ふてをつたが、はてなあ』と太息 。 - 『貧は貧ぢや、此通り夫婦其日の糊口も六つかしい有樣ぢやよ、ぢやが武士の嗜みはあるぞよ』。
- 女房は
傍 でひた呆れに呆れさせられた、始めは噓 かと聞いてゐたが夫 の顏を見れば噓 とも思へぬ、と云つて此 瘦世帶 の何處 に五十兩の大金があるか、馬を賣るか娘を賣るかとまで恐れもしたのであつた、だが又右は平氣であつた、彼は靜かに立つて、此身にもまだ賣殘してある具足櫃 の蓋 を開いて、中から出した一包 はづつしりと重い。 - 恐ろしい謎をかけられたやうに玄蕃は目を
瞶 つた、女房も色が靑くなるまで驚ろいた。 - 又右の開いた包の中にはまざ〳〵と三百兩の金があつた、夫れを分けて五十兩を玄蕃の前においた。
- 『寸志ぢや』
- 『いや、もう』と玄蕃は逞しい肩を落して
節 くれ立 た手を下げた『又右、恐れ入る、玄蕃此通りぢや』。 淸洲城 を守つて石田方數萬の軍を睨み返した鬼玄蕃の目にも、故朋輩の懇情ひし〳〵と身にしみて、言句も詰つて淚がにじむ。- 『
暫時 、借りる』。 - 『いや貸すではないぞ、又右町人ではない金貸ではない、進ぜるのぢや、斷金の友、大崎長行の
出立 を祝ふのぢや、喜んで受けて吳れ、但し酒にしては困る、酒には子供のやうな貴公ぢやが、又右が寸志を酒にしては困るぞ』と又右も手をついた。 - 『無事に紀州へ着いて目出度く出世を蔭ながらこゝで祈つてをるぞ』。
- 又右は殘る包を櫃に收めて今度は
沓籠 を開いて錢一貫文を出した。 - 『これは旅費に進ぜる』。
- 重ね〳〵の友情嬉しく、玄蕃は勇んで
暇 を吿げた、伊勢から紀州へ、道はさして遠くはない。 - 『又、會ひに來る』と玄蕃は云ふ。
- 『いや、會ふまい、會へまいぞ、俺もいづれは
何處 ぞへ落ちつく、落ちついたら此方 から消息もする、夫れまでは東西、流浪ぢや』。 - 玄蕃は去つた、見送つた又右が家に
入 ると女房はそこに泣伏 してゐた。 - 『何ぢや
其 吠面 は、無二の友の出世の門出 に不吉の淚は見たくないぞ』と又右は屹と面 を正した。 - 『
朋輩 が何程大切 でござります、家、妻子 より大切 でござりますか、餘りと云へば其心ぢや、えゝ、水臭い怨みます怨みます』。と女房はひた泣きに泣く。 - 『ふむ、玄蕃にやる金が惜しいと云ふか』。
- 『惜しいとは云ひませぬ、あれ程の大金をお隱しなされた、その
御胸 が口惜 しうござります、憂い目、辛い目、飢え寒さを妻子 に見せながら、あの大金の內、一片 にても出される事か知らうお顏で今日 まで過された、娘のあの姿が卑 しいとは見えませぬか、貧の忰 と我から偏 むこの宣秀が可憐 らしいとは見えませぬか朋輩 の姿がさうも映る目に妻子 の窶 れが見えませぬか、さうしたお心と知らずに今日 まで連れ添ふたが悲しうござります』。 - 『で、何と云ふのぢや、歸ると云ふのか、去ると云ふか』。
- 『今日限り、も早、
妾 はお暇 を願ひまする』と女房は泣聲を絞つた。 - 『はて、是非もない』と又右は口を結んで哀れむやうに女房を見た、女房の肩は怨みに
顫 へて波打つてゐた、又右は眼を閉じて暫時 考へて軈 て靜かに坐に着いた。 - 『宣秀は居らぬか。娘は居らぬか』。と欝した聲で呼ぶ。
- 裏口におづ〳〵と避けてゐた娘と息子とが促し合つて來て
畏 まる、日は暮に近く、表の道は片蔭 りがしてゐた。 - 『女房も聞いておれ、又右は人の親ぢや、親心に子は何よりも
可愛 いぞ、成るならば衣服も得させる、非人のやうな粥も啜らせたくはない、ぢやが三百兩が何 になる、あれを出して生計 をしをらば今頃は早や一錢も殘さず使ひ果しておらう。 - あれを出して商ひの
資本 にして見よ、武士は賣買 の道を知らぬ、忽ち失ふは知れた事ぢや、何 れにするも手には殘らぬ、殘らねばつゞれも纏 ふ、粥も啜る、遲速はあるとも落つるところは同じ事ぢや。 - 俺は武勇の名を落したうない、貧に落ちても吉村又右ぢや、自然の用意を心がくる、世に出ると起きに恥は見ぬ、其心がけ知らずしては武士の妻にはなれぬものぢや、宣秀も聞け、娘もよう聞け、
其方等 が母は今日 限り母ではないぞ』。 - 又右は
二人 の子と妻とを見比べた、其眼は哀憐惻隱 の色を湛 へてゐた、次の日、女房は五十兩の金を與へられ下僕 の作之進に護 られて實家に去つた、二三ケ月して宣秀と娘とは爲助に送られて廣島に去つた、廣島には又右の所緣 の者があつたので又右は二子を其處 へ預けたのであつた。 - 一家は離散して
荒家 には又右一人 が殘る、孤獨の浪人は馬一疋を友として月を送り月を迎へたが、夫れも長くは無かつた、彼は聊かの荷を馬に積み、我手に綱を曳いて、飄々 と伊勢を立去つた。 其後 へ訪づれた大崎玄蕃の使 は、主 なき荒家 を見たゞけで、空しく引返した。- 又右に別れた玄蕃が紀州へ着いた時には古朋輩の眞鍋五郞左衞門
貞成 、村上彥右衞門道淸 も着いてゐた。 - 三人が紀州附家老安藤帶刀に會ふと帶刀は三人の武功を問ふた。
- 眞鍋と村上はともに十四才の
初陣 からの數度の功名手柄を語つた、いづれも人に超えた武功者 で眞鍋は廣島で二千石、村上は五千五百石取つてゐた者である。 - 玄蕃は別に武功も語らなかつた。
- 『手前は元は
木村 常陸介 の下 に與 一郞 と申して小祿の者でござつたが、其後 福島家に仕へて士大將 となり士 を下知 した事もござるから、さのみ鈍くもござらぬ』と云つたゞけであつたが、彼の武功はもう、故家康將軍にも知られてゐた程で、帶刀ももとから知つてゐた。 - 三人共首尾よく扶持について、玄蕃は特に三千石を給せられた、玄蕃には不足でも浪人から一足飛びに新參の身が三千石は、餘程の待遇である。兎も角も身が定まつたので、玄蕃は又右の零落を思つて、腹心の者を伊勢へ遣はしたのであるが、又右は却つて夫れを避けたのであつた。
六
編集恁 うして又右が、新 に落ちついた先は大阪天王寺 の片のほとりで、家は關の時よりも狹く小く、主人 の寢室 へ馬が顏を出す、人が客か、馬が主 か差別 のつかぬと人は噂する、夫れが吉村又右と知れてはいよ〳〵話の種に上 る。- 又右は浪人以來殆んど息つく
間 なく貧に追はれてゐた、分別にたけた彼は時には纒 まつた儲けを得た事もあつた、が彼には譜代の家來がある、夫等 は廣島近在に住んで農作 をしてゐるとは云へ、もとより手慣れぬ業 で暮しも立て兼ねてゐる彼は夫れを思ふ事が深い、身に餘裕 があれば家來を思府、粥啜つた剩 りは便 を求めて廣島へ送つてゐた、自然又右は何時 になつても窮乏である、天王寺に移つてからは聊か病 を得た事もあつて手許は愈 よ不如意となつた、永い間連れ步いてゐた愛馬の糧 も此頃はもう買ひ兼ねるやうな境遇 となつてゐた。 - 『
鹿毛 も辛かろ』。 - と腕を組んで
凝乎 と見入つた事も度々であつた、人は粥すゝつても生命 がつなげるが、馬は糧 が惡いと見る見る衰へる、其 衰 へを見るのも辛かつた。 - 『俺に飼はれたが、不運であつたな』。
- 呟いては
太息 した、だが、愛馬の鹿毛はまだ瘦せも衰へもしなかつた、鬣 勇しく嘶 けば天馬 空 を望むの勢 がある、四蹄輕く走れば地につかぬかの慨 がある、近い阿倍野 に乘り出して秣 飼ふて歸る時は乘る人も馬も人目についた、可惜 名馬素浪人に相應 はぬ、伏屋 に老いさするは惜しいものと見たのは近くに住む馬喰 であつた。 - 『お
武家 、可 えお馬ぢやな』。 - 『
此馬 か』と又右は笑ふ。 - 『どうでござります、賣つては下さらぬか、今なら高く買ひますが』と馬喰は打込む。
- 『いや、
此馬 ばかりは賣りたうない』。 - 『
然 うはござりませうが、近頃、さる御大身が馬を買ひたいと云はれます、價 は吝 まぬ兎角優れたのをと仰せぢや、此方 のお馬も今が花ぢや、お腹立 ちか知りませぬが、やはりご大身のお廐 に飼はれたが幸運 と云ふものでお馬の爲にもならうと思ひますが』。 - 『と云ふても此馬は放せぬでな、俺になづいて馬も放れぬ、
他手 に渡すは可憐 しい』。 - 『ぢやとてなあ、畜生でござりますぞ、放せば叉新しい主人になづきます、お馬の出世ぢやお賣りなされ、お賣りなされ、二十金、三十金、此折ぢや四十金も惜しみませぬがな』。
- 馬喰は頻りに勸めたが遂に馬を賣らなかつた、其夜である。
- 又右は充分の
秣 を食 ませて、トンと馬の首を打つた。 - 『鹿毛まゐらう』。
- 彼はヒラリと乘つて家を出た、向ふところは阿倍野である、
細 やかに秋風吹いて澄渡 る空には下弦 の月が懸つてゐた。月が描いた馬と人との影は織るやうに動いて野の中に出る。 - 阿倍野は
河泉 二國の中間 にある、天王寺から住吉 への道、昔北畠 顯家 卿 が朝敵と戰つた跡、近くの大阪陣には此あたりも兵火の巷 となつた、大阪陣と云へば又右にも深い追懷 がある。 - 主君大夫正則は豐臣家の股肱であつた、其豐臣家は大阪陣で亡んだ、あの時主君が豐臣家の味方をしたら、夫れに應じて
西國 の諸大名が味方したら如何 變つたか、測り知れぬ世の變遷 、目に見えぬ力が德川方に幸運 を與へた、豐臣家も亡んで久しい、主家 も破滅して又右自身も流浪の身となつた。 - 昔を想ふと昔が戀しい、そこに千秋の
恨 がある、野の中の天下茶屋 は、太閤在世 の折、住吉詣 の往道 のお休憩所 であつた、主の正則も扈從 の列にあつた事もあつた、一里に亙る砂の丘、風戰 ぐ草、道を綴 る松樹 、夫れにもこれにも追懷 がある。 - 又右は野の中に來て馬を下りた、
芒 の上を月が走る、野末は霧が立 こめてゐた。 - 『鹿毛よ、今宵限りに、そちとも別れぢや』と痛々しい目に馬を見た。
- 『
性 あらば聞け、一度は世に出てそちをも安らかに老いさせうと思ふてあつた、ぢやが夫れも今は覺束 ない、今は糧 さへ思ふ程は吳れられぬ、切 ては心ある人への贈りものとも思はぬではないが、贈らうと云ふ人も見當らぬ、賣れと云ふ者はあつても賣るは否 ぢや、永年用立 たせた其方 を金に替へては心に濟まう。 - で、放つ、
暇 を吳れる、賣らぬが棄てる、阿倍野は廣い、其方 には其方 の運がある、運に任せて風に乘れ鼻面 の向くまゝ風にゃうに去れ』。 - 馬は
鬣 を振ふて、摚 と力脚 を踏む。 - 彼は
轡 を攫 んで半輪 に引𢌞して馬の面 を住吉の方 に向けた。 - 『恨むな行け』と輕く
臀 を打つた、馬はつと駈出 して、緩 やかに舞戾 つて、のつそりと步みよる、肥えた馬と、禿額 の背高い老武士とは又顏を見合はせた。 - 『ほう、
否 か』。 - 馬は
首低 れて擦寄 つた。 - 『行け、行け、果てがないぞよ』。
- 彼は再び馬を打つた、月が濟んで馬が嘶く靜かな夜に二
度 、三度 嘶きつゝ馬は風の如く飛び去つた。 - 遠ざかる
蹄 の音に又右は耳を澄 して屹と野末の霧を睨んだ、其夜を限りに馬の行方 を知らぬ、明 る日に又訪れた馬喰の不審する顏を見て又右は云つた。 - 『面倒ぢやで、
他 へ吳れたわ』。
吉村傘
編集一
編集- 人の
往來 しげき浪華 の辻の巷に、近頃現はれた一人 の讀賣りがある、編笠 深く被 つて顏は分らぬが、底力 のある錆びた聲、由緖 ある人とはすぐにも頷かれる居動 、夫れが馬と別れた後 の吉村又右であつた。 道頓堀 には芝居がある、淨瑠璃がある、祭文讀 み、辻講釋、世はのびやかになつて人は樂みを追ふ折柄、又右の讀賣りも一時浪華の評判に上 つた。- 『
何 れも聞かれい、披露しますは關ケ原陣の物語ぢや、時は慶長五年の秋、三成一黨十二萬八千人、家康公七萬五千人、西東に分れて天下分目の大合戰 ぢや、武功、手柄の數々を詳しう書いて賣り申すぞ、作者は其折陣中にあつた者、書いた事に噓 はござらぬ、一文賣りには過ぎたものぢや』。 - 又右は恁う云つて賣り步いた、武骨な賣り言葉も作者が陣中に
見聞 いた事と云ふだけに辻に巷に夥しい人を集める、又右は文筆の才がある、書いた事も面白い、筆蹟も美事であつた、浪華は廣い、買ふ人も多い、又右の收入 も多かつた。 - だが、噂の立つにつれては、自ふと人も素性を
恠 む、編笠を覗 いて名を聞かうと云ふ者もある、又右は夫れが煩 くて、讀賣りも暫時 で廢 めて、新 に案じ出したのは雨傘の手內職であつた。 - 細工は巧みである、
持 もよい、殊には勇士の手作りとある。『吉村傘』との評判が立つて、作る傍 から賣れてゆく、浪華大國屋 の聾傘 が珍重されたのは其後 に事であつた、聾傘の出ぬ前にも傘職人は浪華に多かつた、多い中に又右は『吉村傘』の名を取つたのであつた。 - だが、手內職に作る數は知れたものである作るより注文が多い、日每に受ける催促が又右には
煩 さかつた。 - 又右は遂に身を隱した、吉村傘の名も消えて
後 幾月 、しとしとと降る雨の夜に天王寺口の辻番所を驚かしたのは賊よ賊よの、けたゝましい叫聲 であつた。 - 『それ逃がすな』。と番所の役人は
總立 となつて棒を構へた、だが賊は覆面の三人で、片手には夜目にも著 き大刀 を提 げてゐた。遮 る役人を見て『退 れ』と喝した。 - 役人は
逡巡 する、後 から追ふ者も手は出せなかつた、賊は悠々と步む。 - 『近よつて怪我するな、近よれば
撫斬 ぢやはゝゝ己等 に捕 はるゝ者でないぞ』。 - 不敵な賊は、
呵々 と笑つて番所の前を過ぎた、闇深くこゝを過ぎさせては最早 捕ふべき手段 も無かつた。 - 折柄の
行手 に只一人 立塞がつた番人があつた、彼は夜𢌞りの提灯 を手早く吹き消して屹と棒を構へた。 - 『不敵者、立去るまい』。と聲に力があつて三賊は
壓 されたやうにヒタと立止まつた。 - 『おう
生命 知らずが止 だてするか』と賊の一人 は刀を構へた。 - 『辻番人の役目、通す事はならぬ、神妙に繩を受けい』。
- 『えい』と斬込んだ賊は、
眞向 に棒の一擊を受けて摚乎 と倒れた、役人が飛びかかつて繩を打つた。 - 次の賊が斬込む
間 に殘りの賊は颯 と走つた、だが番人の棒は夫れよりも早く一賊の刀を打落して走る賊の股に飛ぶ、一賊は役人に組 つかれた一賊は棒に倒されて番人の手に頸首 を攫 まれた、三賊繩についたのは番人の手柄で、身を隱してゐた吉村又右が其番人と分つた。 - 夫れからの又右は又人目につき出した。
- 『あれが吉村又右衞門と申す者ぢや』。
- 『福島家で二千石を取つた覺えの者ぢや』。
- 番に立てば行過ぎる人々が
咡 いて通る、顧 つて見る、又右には夫れが小煩 さい一つとなつた。 - 役人衆が目をかけて兎もすれば引立てやうとする親切も有難迷惑であつた。
- 『手前は出世の望みがない、どこぞ人目にかゝらぬ處へ逃げたいと存ずる、夫れには
隱坊 が殊の外身に相應 ふと思はれます』。 - 又右は遂に役人の世話で燒場の隱坊と身を落した、野の中の小屋、
人交 はりの出來ぬ身となつても結句は其方が氣樂である。 - 彼は一竿の竹、一個の俵を
擔 いで飄々と小屋に移る、竹は何の爲か俵は何か、人も問はねば人にも語らぬ、いつの程よりか彼の身代は竹一本と俵一俵となつてゐたのである。
二
編集- 又右の隱坊生活は久しかつた、新米の隱坊となつた時には親方もあつたが、親方が死んでからは又右が親方となつて
新 に若い隱坊を迎へた。 - 浪人してから二十年を過して貧乏は相も變らう、天下の浪人も六十二才の老骨となつて世は
寬永 十六年となつた。信濃に蟄居の主君父子の內、備後守正勝は元和六年に死んだ、左衞門大夫正則入道馬齋は寬永元年七月十三日に卒去した、父子の知行七萬石の內、正勝死すると共に二萬五千石を將軍に返上した、正則が卒去した時には江戶からの檢使が來ぬ前に家臣津田 四郞兵衞 が火葬した爲、申譯 立たず、殘る四萬五千石も沒收されて福島家も後 が絕えた。 - 夫れも十六年も昔となつた、又右の今は淋しかつた故朋輩も既に夫れ〳〵の大名に仕へて世に時めいてゐる、だが『一萬石』と豪語した又右は今も非人と等しい隱坊である。日每日每に人の屍體を燒いて、己れも燒かるる日が近づいてゐた。
- だが又右はまだ〳〵氣が老いぬ、紀州の大崎玄蕃が人を出して搜し〳〵て訪ね來させた事もあつたが、誘はれても紀州へ便らうとはしなかつた、五百石、六百石で抱へたいと云ふ口もあつたが一切首を振つてゐた、寬永十六年の春、
久 ぶりに訪ふれたのは三男宣秀である。 - 宣秀はもう逞しい
壯漢 となつてゐた、父に似て思慮も賢い、武勇を好み、西國九州を遊歷して、これから江戶へと云ふ途中を立ちよつたのであつた、隱坊小屋の春の夕ぐれ武者修行者姿の宣秀は門 近く辿り來て內を覗いた、父 は古布子 に膝組んで夕食 の粟粥 を煑るところであつた、一間切 りの古莚 敷いた中に爐を切つて上から下した鍋を、あか〳〵と焚火が繞 る、煤けた梁 に餘炎 が映つて六十の髯面 が浮出して見えた。 - 表には
芒原 に石垣組んだのが二三ケ所、遠い方のへは棺を載せて、新米の隱坊が、今火をかけた折柄でる、渦まく煙 が黃昏 を彩 つて棺は白々と炎の舌に嘗められてゐる。恁う云ふところに恁うした父を認めて宣秀の心は不覺に淚を誘ふた。 - 『父上』と小腰を
屈 めて聲は顫 へた。 - 『う、
誰 ぢや』。 - 『廣島より宣秀が參りましたぞ』。
- 『おう宣秀か』と又右は表を透かして『遠慮はない、父の
住居 ぢや、よう來た、近頃如何 やら會ひたいと思ふてをつたが、さては恁う云ふ事になつたか、わはゝ思ひがけない』。 - 『お
慕 かしうござりました』と宣秀は手をついた。 - 『大きい男となりをつたな』と人となつた
吾子 の姿に又右の眼 は喜悅に輝いた。 - 『親はなくても子は育つか、賴もしげな
其體 ぢや、何は兎もあれ足を洗へ、井戶はそこにある、死人を燒く火で暗うは無い、いや宣秀父も見る通りぢや、隱坊の頭 となつて過してをる、隱坊臭いと笑ふまいぞ』。 - 笑ふ父を子は悲しまれた、足を洗つて坐についた時にも
淚含 んでゐた、夫れでも齡 に似ぬ健 かさ、昔に變らぬ太 り肉 の、胸中一點曇りもなげな言葉つきが嘻 しかつた。 - 夜と共に
父子 は語る、燒場の火は燃えさかつて月は煙 つて異臭家を襲ふ。 - 『廣島に變りはないか、人々も
年老 つたであらうな』。 - 『
誰 も誰 も健かにござります、只高井 彌 五右衞門 が去年の秋に世を去りました』。 - 『始めて聞く、惜しい男ぢや、少しは世にも出してやりたいと思ふてをつたが、まだ死ぬやうな
齡 にでなかつた』。 - 『
彌 五右 も死ぬ際 まで申しました、せめて父上が世に出らるゝを見て息を引きたいと其事ばかり云ひ暮してをりました』。 - 『
然 うは云はう、浪人も廿年ぢや、家來にもさま〴〵な苦勞をさせた、彌五右には最早 可 い日も見せられぬ、いや、可 い日の來るまで俺が生きてゐらるゝか、夫れも覺束 つかなうなつたわ』。 - と又右は苦笑した、廣島におく
家來等 はそれも皆又右を信じて、他にも仕へず鍬を揮 つて田を打つてゐる、それが廿年の間 で、廿年を久しいとも思はず、凝乎 と忍んで待つてゐるのも又右の器量 を賴みとするからで、だが夫程 に賴まるゝ身が時を得ずに空しく老いた、身一つは隱坊一代、飢えても悔いぬが、家來の將來 を思へば流石 に心が曇る。 - 苦笑の
後 は太息 であつた。 - 子も夫れを
推 して、父を傷 む、一燈小淋 しく搖れて春の月朧 ろに軒端 を覗 く、燒場の火はまだ燃えさかつて、そこを守る人影がしよんぼりと蠢 いてゐた。 - 『ぢやが愚痴は云はぬ事ぢや、人間望みあつて世は樂しい、分らぬ
明日 が面白い、俺にも其方 にも明日 があるでな』。 - 又右の
面 は再び冴 えた。 - 『
明日 と云へば、父上、あの大橋 茂右衞門 殿ぢや』。 - 『むゝ
茂右 が』。 - 『風の
傳 りに聞きました、茂右衞門殿も久しう流浪されましたが近頃は雲州 の殿へ仕官されました家老との事にござります』。 - 『茂右がか、
實 にも然 うあらう、茂右なら何處 へ出しても押しも押されもせぬ家老ぢや、はて近頃嘻 しい話を聞いた。』 - 『
嘻 しいと云へば父上廣島城下 にも近頃父上の嘻ばれる事がありましたぞ、あの御城下の國泰寺 ぢや』。 - 『國泰寺、なつかしいの』。
- 廣島國泰寺は元は安國寺と云つた、一代の怪僧安國寺
惠瓊 が一生の心血を注いで建立した巨刹 である、關ケ原の役後惠瓊は誅 にに伏 して寺も荒廢しかけたのを、正則が惜しんで修築し名も國泰寺と改められたもので、其住職の普照 禪師は惠瓊の實の弟 で、正則が尾州 から迎へた碩學である。 - 普照禪師には又右も長く參禪した事があるのみか、國泰と云ふ名も
豐太閤 の法號から取つたもの、寺の前には太閤の廟があつた、夫れも正則が建立したもの、何につけても又右に取つては太閤の世も偲 ばれ、主君正則の繁昌した頃も想起 さるゝ寺であつた。 - 『禪師もまだ、
健在 であらうな』。 - 『至つて健かにござります、で、あの國泰寺の太閤樣廟所でござります、夫れ、寺の前にありますで、往還の者も拜みます、大夫殿にも太閤樣御恩を慕はれ、又は諸
人 にも拜ませる爲にあのやうに寺の前に建てられましたとか、夫れは父上御存じぢや』。 - 『
然 うぢや』。 - 『ぢやが
淺野 殿、廣島を領して御入國あつて後 には御廟所を寺の中へ移されました』。 - 『ふゝむ
怪體 ぢやな』。 - 『
其譯 と申しますると、淺野殿御家 も元は太閤樣譜代にござります、で殿にもあの前を通らるゝ折には下乘 して拜まれてありました、ぢやが、諸人の見る前で下乘、これが江戶將軍家に聞えては如何 かとの遠慮でござろ、遂には御廟所を寺內 に移され、御參詣も內々 と云ふ事になつて居りました』。 - 『いかにものう、淺野殿としては其御遠慮は當然ぢや、ぢやがあれは諸人へ拜ませるその前を通る人々に太閤樣の遺風を偲ばせると云ふが大夫殿の
思召 ぢや、寺內 へ移しては大夫殿御心でない、淺野殿御領分ぢやで移すも移さぬも淺野殿次第ぢやが、さしも大大名 の大夫殿の殘されたものが然 うとは聞くのみで物憂 いのう』。 - 又右は嘆じた。
- 『禪師もそのやうに
嘆 たれたと聞きます、ぢやが又其後 でござります、近頃になつて淺野殿思召 變り、御廟所も元の寺の前に移されましてござります、聊 の事のやうでも、私 もそゞろ嘻 しいと思ひました』。 - 『ほう、近頃に、夫れは
嘻 しい』と又右は莞爾 つく、鍋の粟粥はもう出來て、蓋 を取れば香ばしい煙 が立つ。 - 『話の
中 に飯 も出來たぞ、其方 も腹が減つたであろ、父が手作りの馳走するわ、近頃は父も拔目 が無いで、畑も作る、菜を培 る、こゝらが又地も肥えて出來が可 いで、粟粒も上物 ぢやわはゝゝ』。と笑つて又右は立つ、門口に出て。 - 『
太藏 』。 - 『おう、
老爺 、夕食 か』。と遙に燒場から答へたのは隱坊の太藏で又右の子分であつた。軈 てのそりと門口に瘦せた四十面 を現はしてきよろりと中を見る。 - 『仔細は無い、太藏、俺が忰ぢや、國元から尋ねて來をつたのぢや』。
- 『や、夫れは夫れは、ほう
老爺 にのう、立派なお武家ぢや、へゝえ忰殿、俺は太藏と申して老爺 の厄介者ぢやで』と太藏はおづ〳〵と圍爐裡 による。
三
編集- 父子と太藏と暖かい粥を啜つて暖かい夢を見た
明 の朝であつた、朝支度をして燒場へ出た太藏の前に立つたのは一人 の武士である。 供人 五人を連れて、打扮 の淸らかさに身分の程も推 せられる、分別盛りの額に聊かの皺を見せた年輩である。- 『少々ものを尋ねる、此燒場に吉村又右衞門と云ふ仁が居らるゝ筈ぢや、
其方 は知らぬか』と武士の言葉は溫和 しやかであつた。 - 『はてのう、遂ぞ聞かぬ名ぢやが、此燒場には俺と
老爺 と二人切 りぢや、いや、昨夕 老爺 の息子殿が來た、夫れならあそこの小屋に居 る』。と太藏は云つた。 - 武士は頷いて小屋の前に進んだ、賴まうと云ふまでもなく
開放 つた淺間 な小屋からは又右と宣秀とが不審の目で此方 を見てゐた。 - 『これは卒爾であつた』と武士は
落 ついて小腰を屈 めて『無禮はお許しあれ、手前は桑名 松平 越中守 家來大津 傳右衞門 でござる若しやお手前は吉村又右衞門殿でござらぬかな』。 - 『いかにも手前又右衞門でござる』と又右は膝を直した。
- 『さては尋ねた
效 がござつた、先づ御免あれ』と傳右 は中に入 る。 - 傳右の來意は、
埋 れ木 の又右に春風 の便りであつた、傳右の主君松平越中守定綱 は故家康將軍の義理の弟 久松 定勝 の次男である、以前 に山城 淀城 の主 であつたのが寬永十二年から桑名城十一萬石の主 となつてゐた。 - 越中守は福島家改易の頃に吉村又右の名を聞いてゐた、又右が福島丹波の
使 として、廣島城 受取總奉行永井右近大夫や老中安藤對馬守の前に出た時の、辯舌、膽氣、使命を辱 しめなかつた才智などは其後 諸侯の間 にも語り傳へられて、猶 其 初陣 以來の武功も名高いものとなつてゐたからで、夫等 の噂を聞く每に越中守は又右の爲人 を想ひ、流浪して行方 知らずとなつたのを惜しんでゐた。 - 又右が伊勢の關にゐた事は、越中守はまだ山城の淀にゐた、越中守が關に近い桑名を領した時には、又右は既に天王寺に去つて吉村傘を賣つてゐたのである、恁うして越中守は折あらば又右を家來にとは思ひながら、其折も得ずにゐたのが、近頃となつて隱坊暮しの又右の事を聞き、さては大津傳右を
使 に立てたのであつた。 - 仔細は傳の口から語られて、又右も越中守の懇志に動かされた、
而 して越中守の賢明な事は前々から聞傳 へてもゐた、だが又右は俄 に其召 に從ふとは云へなかつた。 - 又右は一萬石一
粒 缺けても人には仕へぬ覺悟である、故主正則も一萬石の器量と云つた又右も一萬石でなくば他に仕へぬと正則に盟 つた、正則は死して久しくなつても又右は盟ひを反古 にせぬ、とすれば越中守は十一萬石の大名である、十一萬石で、新參の家來に一萬石を吳れられるか、どうか、大崎玄蕃は廣島で八千石取であつた、夫れが紀伊大納言に仕へる時は三千石となつた、大納言は大領主である夫れでも玄蕃に出したのは三千石、大納言に比べて遙かに知行の少い越中守が、又右の老骨に一萬石を拂ふか如何 か、況んや又右は廣島では二千石取であつた、一萬石を望むのが無理で、出さぬが道理である。 - で、又右は腕を組む。
- 傳右は膝を進めた。
- 『仔細は今申した通りでござる、で、殿は是非にお手前を迎へて參れと申されました、ぢやが是ればかりは
强 いてとは云はれませぬ、大名が家來を撰 めば、武士もよき主 を撰んで仕へまする、殿がお手前を望まれても、お手前が殿を嫌いぢやとあれば、是非もござらぬで、傳右が申すは憚かりでござるが、我等 殿 は何方 に云はせても惡しうは沙汰されぬ、文武を極めた賢明の君と誰 も申します、さてお手前は如何 見られてか、主に取つて不足と、恁う云ふ思召もござらばぢやが』。 - 『
何 とて不足などゝ手前もとより越中守殿のお政治も聞きつたへて、輕薄ではござらぬ眞實 慕はしい君と思ひまする』。 - 『重疊、手前も面目にござる、主にしてお手前に不足ない、さらば是非にと云ふても宜しかろ、さてそこで知行でござる、お望みは福藏なく
申聞 かされたい』。 - 『いかにも望みがござる、大津殿手前は一萬石、其下も
否 、其上も望まぬ、只一萬石を望みますぞ』。 - 又右は笑んだ、傳右は膝を打つて
歡然 と笑つた。 - 『これは不思議』。
- 『
何 とござる』。 - 『さればぢや、殿は傳右に申されました、吉村又右なら
捨賣 一萬石ぢやと』。 - 『ほう、殿が
眞實 』。 - 『先づ殿のお墨付、御覽あれ』と傳右は始めて越中守の書簡を出した、夫れには
懇 ろな文字 が細々 と記されて、桑名の家に事ある時軍旅 の采配悉く其方 に任せたい、采配料一萬石は、其方 の器量を値踏 したと思ふな、當分の賄 ひと心得よ、とまで書いてあつた、又右は三度 讀返して、目は感激の色に輝いた。
四
編集- 『傳右殿、又右有りがたくお受けを致します』、と稍あつて云つた又右の目には淚さへ
滲 んでゐた。 - 『殿へは何の御奉公もまだせぬ又右が、一萬石望むは
嗚呼 と思はれやう、ぢやが傳右殿手前は心に思ふ事がござる、故主大夫殿との盟ひもござる、一萬石一粒缺けてもとは、そも〳〵浪人の始めよりの覺悟でござつた、萬石取らずば飢死 と此廿年をふてゝござつた、曲つた頭毛 を殿はよう見ぬかれた、士は己を知る人の爲とやら、又右此 老骨 を粉 に碎いても一萬石の奉公はしまする』。 - 『
御家 、御爲 、傳右も芽出度 うお祝ひ申す』と傳右は晴れやかに云つて小屋の外を顧 みた。 - 『是れへ』。
- 供の家來が
恭 しく入 つて來て一封の金を捧げて又右の前に据ゑた。 - 『殿の思召でござる、何かの支度にとの仰せでござる』と傳右は云つた。
- 『
否 』と又右は手を振つて『これはお預けぢや、まだ殿に一度のお目見えもせぬ又右が今からかやうのお金頂戴しては心苦しうござる又右の浪人手許 不如意と推 せられたお情 と存じまするが、不如意の中 にも又右は豫ねて聊かの用意もござる、これは平 に御用捨』。 優 しく辭 んでも、其聲には力があつた、傳右も流石 に强 いてとは云ひ兼ねた、又右は立つて小屋の隅に立てかけた竹竿を外した、梁 に吊した俵を切落した煤塗 れの俵を開けば、中には紺糸縅 の鎧一領桃形 の甲もあつた、熨斗目 もあった、用意は美事である、槍一筋の武士 として押しも押されもせぬ吉村又右衞門の裝ひは古竿と古俵の中に籠められてゐたのであつた。- 『かやうに一時の用意は整へてをります聊かの嗜みお賞めにあづかりたい』と又右は快よげに會釋した。
- 『お美事ぢや、手前もよき
敎訓 を見ましたさすが殿の懇望されたお人柄ぢや』と傳右も深く深く感嘆した。 - 隱坊小屋に春滿ちて燒場の桃も色增すと見えた、日さし暖かな其日又右は宣秀を連れ、傳右に連れられて住みなれた小屋を去つた、淸らかな傳右の姿と浪人のまゝの
古布子 に大刀 を橫 へた又右の姿とは相並んで伊勢へ下る、途中傳右は馬を勸め、籠輿 を勸めたが又右は悉く辭 んで徒步 のまゝであつた。 - 又右を迎へた越中守の喜びは云ふまでもない、直ちに家老職を授けて松平家
軍旅 の事一切を打任 せたのである、而 して桑名の城下に新に家老職吉村又右の邸 が構へられた、其邸へ間もなく訪れたのは破れた衣類に大刀を佩 き塗 の剝げた具足櫃 を負ふた大男で、其次の日にも二人 の大男が門 に立つた、一人 は古葛籠 に鎧を入れ荒繩をからげたのを擔 いでゐた、一人 は槍を杖に籠を提 げてゐた、籠には鎧甲が光澤 やかに光つた、異形 異類の男が每日又右を訪れて桑名藩中の目を驚かしたが夫等 は何 れも又右の家來で、素姓を聞けば何 れも戰傷武功の者、廣島近在五里七里の村々に廿年間鍬を取つてゐたので、流浪の間 にも又右は此人々に聊かづゝの手當を送つてゐたのであつた。 - 『又右は過分の家來であつた、時を得ば一城の
主 となつたであらう』とは越中守の言葉であつたとか。 - 又右が桑名に仕へたのは十二年間で、主君を
補 けて少からぬ治績を擧げた、主君越中守定綱は慶安 二年六十才で卒去し、又右も明 る年、七十五才で主君の後 を追ふた、死する時定綱の世を嗣 いだ越中守、自ら枕邊 に臨んで遺言を求めた。 - 『又右は功なくて大祿を戴きました、
海山 の御恩萬分一も報ぜぬが心苦しうござります、只私 の家來には八人の勇士がござります何 れも殿の御用に立つべき者と心得まする、私の死後には私に下された知行半分を其八人へお遣はしを願ひたく、これのみが最後のお願いでござります』とは主君に對する遺言であつた。 - 『父は武功で大祿を得た、ぢやが
其方 は何の功も無い、父の知行を殿の思召で其方 に下さるとも、强 て御辭退申せ、但し新規に其方 が分として下さる知行は何程小祿なりとも有りがたくお受けして忠勤を勵め』とは三子宣秀に對する遺言であつた。 - 此時宣秀は先主定綱の姪御を妻に迎へてゐたのである。(終)
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