萬石浪人

本文編集

城普請編集

編集

げんな三年、中國筋に大暴風雨があつてしよに被害も多かつた。中にも安藝國廣島城下にはおほたがはの水が溢れて町屋、侍屋敷から城の三の丸までをひたした。さうしてぎわの水勢は凄しい勢ひで、遂にはほりを泥にうづめ石垣を崩し塀落ち、やぐらの根が浮くと云ふ傪狀を呈した。
城主ふくしまさゑもんたいふまさのりは此時、江戶へ參勤してしばあたごさんかの邸にゐたので、城の留守居たる子息びんごのかみまさかつから、父正則へ水害のやうすを細かに通知する。
正則は眉をひそめた。
正則が安藝備後兩國四十九萬八千二百石、ざつと積つて五十萬石を領して廣島城へ入部したのはけいちやう五年の十月で、今から十八ねんぜんである、このごろには城の內外にどくだ多く、石垣もおびたゞしく崩れてゐたのを、正則入城と共に奉行をおいて城の修繕、太田川堤防の改築を行つて今日に至つたのである。
倂し備後守の通知によると城の破損は非常に大きいので、正則も至急大修繕にかゝらねばならぬと考へた。が、當時は天下も太平である。德川將軍家もいえやすかうきよし、今は二代ひでたゞとなつて弓矢に蜘蛛の巢もかゝると云ふ時代である。城の普請なども天下のほつどとして嚴禁されてゐるから、たとへ水害があつたからとは云へみだりに修繕には取りかゝれぬ。
とは云へ城は大切である。一國のかなめ、領民尊敬のまと、繁昌の中心である、まして廣島と云へば中国無双の大領地で、正則と云へば諸大名中でも屈指のおほだいめうである、破損の城をそのまゝにはしておけない。
殊に正則は武をたつとぶ、城を愛する事も深いそのうへ短氣で剛情で、今年五十七才の、老いの潔癖までついてゐるから、城を其儘にしておいては手足に泥がついたやうで寢覺がよくない、で、色々思案するに其年暮れて元和四年となつた、其五月には參勤交代がある、將軍のおいとまも出て廣島へ歸る事となるから正則はれを機會として城普請にかゝりたかつた、思ひ立つては我慢もならず、四月の或日ほんだかうづけのすけまさずみやしきを訪れた。
けふは少々をりいつてお賴み申したい事があつて參つた』。
『何かは存ぜぬが遠慮なくお話しなされ、出來る事ならご相談に乘りませう』とかうづけこゝろよく迎へた。
『是非御骨折に預りたい』と正則はつくろはぬ口調で『おきゝおよびであらうが、手前の居城廣島城が、去年のあらししたゝか崩れた、ついては至急普請をしたいと思ふが、一つ貴下から將軍家へ願つて下さらぬか』。と云つた。
正則はかうづけのすけと懇意な間柄である、さうして上野介は今、天下の老中の一にんで、將軍家の覺えもよく、世のきけものでもあるから、う賴んだのであつた。
ごもつともな話ぢや』と上野介はじつと考へて『倂し城普請はごほつどであるからう急にお許しは無いと思はれる、水害の事でいつもとは違ふから是非普請もしなければなるまいがまあきながにお待ちになるが宜しい、そのうち折を見て上樣へお願ひして見ませう』と云つた。
『早速の御承知ありがたい、ごぜんていよろしくお願ひ申す、實は來月には參勤交代で、手前も廣島へ歸るから、れまでにお許しを受けて下されば結構ぢや』。と正則は云つた。
『宜しい承知しました』。
『これで安心ぢや』と正則は其儘いとまを吿げた、上野介はあしらひが巧みで世なれた才子である『粗酒でもあげたい、久しぶりにゆる閑談もしない』とあいそく引止めたが、正則は率直である『酒よりも何より早速の御承知が充分の御馳走ぢや』と云つて、座を立つた、きけものかうづけが引受けて吳れたから、正則ももう間違いは無いものと考へてほくもので邸へ歸つた。
五月が來て正則は江戶を立つて廣島へ歸ると城は思つたよりも荒廢してゐる、石垣の崩れた跡へは雜草繁つて、落ちた土石はほりうづめてゐる、以前と打つて變つて城の外觀は極めて見苦しい、ほり一つさらへるにも世が世であるから穩ならぬ噂も立つので、留守居の者も其儘にうちすてゝあつたのである。
倂しまだ確かな許しも受けてゐないので、すぐには普請にもとりかゝれぬ、今か今かとかうづけの便りを待つたが、音もなしに秋となる、念の爲に飛脚を立てゝ江戶のかうづけたのみじやうを送ると冬の始めになつて返事が來た。
『折を見て上樣にごんじやうする、おつつけお許しが出るであらう。』
かうづけの返事は手輕である、折を見てと云ふ其折がいつの事だか、夫れさへおぼつかない、正則は次第に氣をいらつた、夫れも尤もで、元和五年の三月となれば、又も參勤交代の爲めに江戶へかねばならぬからで、正則はそのいぜんに自分の思ふがまゝの普請をしたいのであつた、うなると自分勝手の理屈もついて、例へ許しは受けてないまでも、既に天下の老中へ再度まで依賴した事でもあり、老中も引受けてゐる事でもあるから、もう許しを受けたも同樣であると考へた。
遲くはなつてもいづれお許しの來る事は確かである、かうづけも萬々事情を承知の事だからこんねんぢうには將軍秀忠公へ言上するに相違ない――とすれば一月中にはなんかの沙汰はある、と考へた。


編集

で正則は其年の暮から早くも普請の準備にかゝる、老臣中には多少けねんする者もあつて、『今暫しお待ちになるが宜しい』と云つたが、氣の短い正則は耳も傾けぬ。
さむらいたいしやうよしむらまたうゑもんのぶみつは殊に眉を顰めて言いた、またゑことし四十一歲の分別盛りで、同僚からも思慮深い男と敬はれてゐるが、彼にはこのたびの城普請が、主君の大事をひきおこもとになりさうに思はれてならなかった。で備後ともの城代おおさきげんばながゆきの意見も聞いて見やうと考へた。
正則の本城は廣島で、支城には備後三はら、鞆、みよしとうじやうの城々があつて三原城代は老臣の福島たんば、三次城代はおせきいはみ、東條城代はながをはやと、鞆城代には大崎玄蕃である、そのうち玄蕃はちぎやう八千石で、吉村又右とは年來親しく交はつてゐるのである。
又右が玄蕃を訪れたのは十二月のすゑである、暖かな海に面した鞆の城にも冬が來て、このごろは曇り續きの北風が寒い、さけずきの玄蕃は朝からさかづきを傾けて、又右を迎へた時にはたゞさへ大きい、鬼の樣な顏をまつかにしてゐた。
『よく來たぞ、けさの網でおびたゞしいさかなが上がつたでな』と顏を見るなり臭い息を吹つかける。
『夫れは珍重ぢや、馳走にあづからう』。
隔てないふたりは勿體ぶつた會釋も必要が無い、又右も座につくや否、さかづきを手にする、玄蕃はひげつら、眼がおほきい、鼻もたかくてにくあつである、唇も厚くて憎々しい、又右は夫れに反して顏は柔和である、玄蕃に劣らぬ逞しい身體はつても、どことなく優しみがあつて太い肉もさして目に立たぬ。
こさかもりしつの外には、もう二三のうめが三分の花を綴つてゐた、には人も交へず、只きそぢよと呼ばれる四十をんなはんべつてゐた。
木曾女は背高くほねぶとで岩のやうな醜い顏で女と云ふより男と呼ぶにふさはしい、男にしてもよほどぶをとこである。
をのをりから淸洲城下へ木曾から來た女がある、武家奉公を望んで、いくたびとなく諸家へお目見えをしたが、ふためと見られぬしこめに生れてゐたゝめ抱へやうと云ふ者がなかつた、だいりきとの噂はあつても、しこめと云ふのにたれも二の足を踏む、女はおちぶれて漂浪してゐた。
玄蕃は夫れを憐れんで女を呼んで力をためした、女はたちうすを輕々と運んだり、玄蕃のちうげん十六人を犬猫あしらひになげとばしたりした、玄蕃は夫れが氣に入つて、すじやうたゞさず、女をめしかゝへたのである。
夫れから廿餘年間、女は玄蕃の家のたゞひとりをんなとしてまめやかに仕へた、始めはがさつのふるまいもあつたが、家に慣れてしやうらいの大力も出さず、次第にしとやかになつてかつてむき一切をきりまはして家政にておちもなかつた、玄蕃のそのごが暮しに過不足なく、冬は冬のもの、夏は夏のしろを身にまとふ事も出來、家財調度も豐になり、不意のいりめに事缺かぬやうにもなつたのは總て女の働きである、さうして其女が今の木曾女であつた。
木曾女は今も玄蕃の家のたゞひとりの女で、又無くてはならぬ女である、女中とは云へ、奧方の無い家ではおくむきしはいがしらである、家事向の事では主人の玄蕃さへ頭が上らぬ、仲間こものからは木曾樣、木曾樣と敬はれてゐる、八千石の家をんなたいしやうとして、家中一のしこめとして賢い女として、ひろしまさむらひあひだにもよく知られてゐる。
吉村又右も木曾女とは二十年來のなじみで單に玄蕃の家の召使としてではなく、云はば同僚のいもとぐらゐに心得てゐる、で、吉村が來れば木曾女も出て酒のとりもちをする例になつてゐた。
さかづきしばまはつて、日は早や西に傾きかける又右のまぶたにも微醉の色が浮んで來た。
『少々醉ふたようぢや、木曾女そこの障子を開けて貰ひたい、いや、夫れよりも酒も納めとして貰はふかな』と又右は云ふ。

編集

『久しぶりの事でござります、ごゆるりとお召しなされ』と木曾女はひかへめに、ものなれた調子であつた。
『ならぬ、ならぬ、俺はまだ醉はぬわ』と玄蕃は首を振る。
『貴公は醉ふまで飮むがい、いつもくせぢやでめるとは云はぬよ、ぢやが俺には相手は出來ぬ、もうこのとほりぢや』と又右は頰を撫でゝにこ々々する。
なんのそれ式の酒に醉ふ奴か、珍客めけふゑひつぶして吳れるぞ』。
玄蕃はさかづきを干してつとさした。木曾女は片手をつきながら酌をする夫れを受けながら又右は、又にこついた。
けふはちと話があつて來たでな、ゑひつぶれてはならぬ譯がある』。
『話はあすでもかろ、話と云ふと貴公のはりくつつめぢや、うけたちつらい』。
『辛くとも聞いて貰はねばならぬ、云はゞ殿の上ぢやからな』。
『殿の、ふむ』と玄蕃は目を丸くして『殿がどうしたと云ふ』。と氣が早い。
木曾女はしとやかに禮して坐をさがりかけた。
いは、木曾女まあ酌をして吳れ』。と又右は云つた。
『でも』と木曾女は酌をして『遠慮致しませう、聞かねばならぬ事なら兎も角でござります、わたくしに用の無い事でも、聞けば又耳に殘つて消えませぬ』。
『む、うぢや』。と玄蕃はあごを振る。
木曾女は去つた。
なんぢや』。
ほかでもない、此度のしろふしんぢや』と又右は玄蕃を見た。
『ふむ、普請の事は聞いた』。
『夫れが俺には得心がゆかぬ、城普請もい、將軍家お許しのあつてののちなればい、が、殿はもう其準備にかゝられている、らいはる早々には始めると云ふのぢゃ、性急も事による、他ならぬてんかほつどの城普請を、さう手輕にして萬一、のちにおとがめがあつたらまをしわけが立たぬと云ふものぢや』。
『其事なら仔細はあるまい、先頃にも福島丹波が、殿へ伺ひを立てたと云ふが、殿は笑はれて、萬事は本多かうづけが含んでをるで心配は無い、と云はれたげな』。
それぢや』と又右は異樣に眼を輝かせて『含んでをる本多殿は――是れは公けには云はれぬ、殿へもにくいが――本多殿は將軍家のふところかたなぢや、殿とは懇意でもあらうが、將軍家が爲にはどの樣な事もするお方ぢや。
で、又、將軍家は兎角とざまの大名に冷たい心をたせらるる、外樣に仔細のあやまちあれば用捨はなさらぬ、夫れを機會に所領沒收などもせられまいものでも無い、無いどころかためしもある、さあ、こゝぢやよ、われらが殿は外樣の中のだいだいめうぢや、將軍家はどう見てござるか、そこが恐ろしい。
城普請は天下の大禁、夫れを外樣の大大名が破つた、將軍家はどう思はれるであらう、萬一何故に法を破つた、と將軍家の一こゑが下つたとする、其時に殿は何と申譯をされる、前以て本多殿に願つておいたでは濟むまいぞ、願つておいたとてお許しを待たぬと云ふ罪はのがれられぬ』。
『道理ぢやな』と玄蕃は腕を組む、だがまだ得心は行かなかつた。
『それは道理ぢや、ぢやがなあ、殿は外樣とは云へ、將軍家への忠勤は莫大ぢや、譜代大名と同樣のおあしらひぢや、將軍家とてう水臭くはおぼしめぬ筈ぢや、殊に本多殿が引受たとなればなあ』。
玄蕃が恁う云ふのも道理はあつた、福島正則は德川家康に對して大功がある。
正則は元が豐臣家の譜代である、いちまつの昔はしづたけほんやりの一にんとして秀吉のちやうあいもの、後に豐臣家こかうの臣となつてゐた、だが秀吉薨去ののちは寧ろ德川家と親しかつた。
家康があひづうへすぎけ征伐の爲、關東に下つた時には正則も從がつてゐたがそのるすに大阪ではいしだなりが大兵を集めて家康討滅の計劃を立てた、天下は二つに分れて家康勝か、三成勝つかのおほばくちとなつた。
此時三成方では豐臣家のお爲に家康を討つと云ふ立派な名分をつてゐた。
正則は豐臣家の股肱である、當然三成に味方せねばならぬ、だが彼は以前から三成と仲が惡い、一度は三成のいのちを奪はうとした事さへある、のみならず、三成が豐臣家のお爲と云ふのは世間を欺く體裁で、其實は己の野心を滿たす爲のはたあげすゐしてゐた、で、彼は何の躊躇もなく家康に味方した、さうして家康軍の先鋒となつて關東を立つて東海道を上りかけた。
其頃正則は尾張國淸洲城廿萬石を領してゐて、城へは留守居としてつだびつちう大崎玄蕃のふたりを置いてあつた。
三成は早くも六千騎を率ゐてみののくにおほがきじやうに下つた、大垣と淸洲とは六七里を隔つるに過ぎぬ、三成は先づ淸洲を奪はうとした、淸洲を奪つて續いてみかはぢに進み、家康の先鋒を喰ひ止める事が出來るからである、さうして三成のうしろには三成方の諸將が何萬騎を率いて續いてゐた。
淸洲の守兵は僅かに數百人に過ぎぬ、三成をさへぎる力がない主將津田備中はふるあがつて三成の云ふが儘に城を渡さうとした、だが副將大崎玄蕃が不承知であつた。
『城は殿から預つた城ぢや、殿が渡せと云ふならあけわたしもするが、三成におどされて渡す事はならぬ、何萬騎おしよせても渡す事はならぬ』と備中を罵しつたのは玄蕃であつた。
玄蕃の剛情で城はもちこらへた、そのあひだに正則始め家康の先鋒廿七將が城へ到着した、淸洲は家康方の根據地になつた、城に蓄へたへうらうは家康方の大軍を養ふに充分であつた。
淸洲が取れぬばかりに三成方は充分の地の利を占める事が出來なかつた、で、せきはらの大戰となつて大敗北の悲運におちいつた。
『余が思ふがまゝのいくさをさせたのは淸洲城があつたからぢや、淸洲城を余に得させたのは玄蕃の力ぢや、玄蕃あればこそ關ケ原のかちもとが出來たのぢや』とまで家康は、玄蕃の功を賞めた。
さうして玄蕃は正則の家臣、淸洲は正則の領分で、玄蕃の功は正則の功となつた、關ケ原戰後に家康が正則を賞して安藝備後五十萬石をあたへたのも其爲である。
其時家康のぼうしんたちは『正則の功は大きいが五十萬石は過分であるまいか』と言つた。
『いや、彼に五十萬石は惜しくはない』と家康はかしらを振つた。
夫れはけいちやう五年の事で、今から廿餘年のまへである。
玄蕃は夫れを思つた、あの時正則が家康に味方しなかつたら、豐臣家恩顧の諸將も味方しなかつたかも知れぬ、關東での諸將の會議に正則が第一に味方すると云つたので諸將も夫れに贊同した、德川家でも其事情はよく知つてゐる、尋常一樣の外樣大名とは思つてゐない、と玄蕃は信じてゐる。
夫れだけ吉村又右衞門の言葉を重く見なかった『叉右が又もくらうしやうを出したな』くらゐにしか思へなかつた。

編集

だが、又右の懸念にも深い思慮があつた。
夫れは主君正則のわがままと、其我儘に對する當將軍秀忠公のおもわくとが氣がゝりなので。
正則の我儘は、まへからよこがみやぶりの名を取つた位である、目立つた例は丁度關ケ原の大戰終つて間もなく正則がみやこの邸へ歸りかけた途中に起つた。
其時正則のつかひばんひとりが主命で淸洲に使ひしてあとから正則の隊を追ひかけてゐた。
途中のひのをかたうげに德川の關所があつた、使番がそこを過ぎる時、關所役人の棒を誤つて馬蹄にかけた。
役人は立腹して棒をなげうつて使番の腰に一擊を加へた、棒を踏んだのは惡いが夫れはあやまちである、役人の振舞は寧ろ暴に過ぎた、つかひばんは憤然として顧みた、だが、ぢつとこらへて、のゝしる聲をうしろに聞きながら其儘に去つた。
さうして正則に追いつき、使命を果してから事情を打明けて、思ひ込んだ風で云つた。
わたくしは關所役人からちぢよくを受けてゐまする、其場を去らずきりじにしたさを忍んで參つたのは御用を大事と思つたからでございまする、しかもはや御用も果たしました、是れから引返して恥辱をすゝぎたいと存じます、どうぞながのおいとまを下さるやう』
正則はしばし目を閉ぢて聞いてゐた、さうして暗い顏をして『そちの覺悟は勇ましいが、余にも考へがある、急ぐには及ばぬ』と云つた。
京都の邸に着いてから改ためて使番に云つた。
『どうぢや、まだ死ぬ覺悟か』。
さむらひはぢを受けながら其儘にはなりませぬ、福島家のさむらいこしぬけと云はれるのもくちをしうござります』と使番の決心は强かつた。
『よし、夫れではこゝで切腹せい、そちあだは余が取つてやる、あの關のかしらいなであつたな、余は伊奈のくびまあをしうけてやる』。と正則は云つた。
使番はいさぎよく腹を切つた。
正則は其首を關所のつかさいないまなりに贈つた『當方の使番、關所でちぢよくを受けて、かやう相果てた、相當のごしよちねがひたい』と申込んだ。
今成は眉をひそめたが、役人を調べて事情が分つて見ると棄てゝはおけなかつた、德川家重臣ゐいなほまさほんだたゞかつに仔細を吿げる、井伊も本多も苦い顏をした。
『先方の立腹も尤もである』と云ふのが其の意見である、今成も是非なく關所のしたやくにん六人の首を打つて正則に贈る。
正則はすぐつきかへした。
『人には貴賤の別がある、當方ではさむらいの首を贈つてある、夫れの御返答がざふにんの首とは、當方のさむらいとそちらの雜人とを同格にお認めぢやと見える、夫れでは當方のめんぼくが立たぬ、當方で望むのは只一つの首でござる』と嚴重に申し送つた。
事は大きくなる、井伊も本多も首をかしげた天下が今、德川家の手にりかけている折柄である、些細の事から大事を起したくない、正則をおこらせてはならぬと考へた。
關所のうはやくにんひとりの首を打つて改めて正則に贈つた。
正則は又、つゝかへす。
『手前はさむらいが大切である、いくさに出て功を立てるにはつねからさむらひの心服を得てゐなければならぬ、しかるに今はけらいどもふがひなきを見すかされるやうな事になつた、是れではこののちてがらを立てる事も出來ぬ』と申し送つて邸を閉ぢてちつきよしてしまつた。
井伊も本多も少からずてこずつた、正則の望むところは今成の首である。だが今成は德川家譜代のはたもとである、其首を打つ事は容易でない、として遂に家康の耳に入れる事となつた。
『正則の云ふところも道理ぢやな』。
深く深く考へたのちに家康が云つた。
夫れともれきいて今成は自殺する、首は井伊の手から正則のもとへ送られた。
『井伊殿の御盡力で、手前のはぢすゝぐ事が出來た』と正則は感謝した。
このできごとが、德川家に不快を抱かせた事は云ふまでもない、と又右はすゐしてゐる、當時天下はまだ、全く家康の手にはいつてゐなかつたとは云へ、たいせいは家康に歸してゐた、天下のせいひつはかれ、との敕命も家康に下つてゐた、家康は飛ぶ鳥落すいきほひであつた。
夫れに對して、これだけのを通すのは正則でなければ出來ない、家康が夫れを通させたのも關ケ原の大功を思つたからで、續いて五十萬石を與へたのも其爲で、一つには又、天下を定めるんは正則を始め豐臣家恩顧の諸大名を手なづけねばならぬからであつた、此時豐臣家は秀吉薨去後とは云へ、まだよどゝのがあるひでよりがある、勢力の影薄くなつたとは云へ、豐臣家の恩を知る大名が多くゐる、それらどよめかせては又もや大亂をひきおこすからであつた。
又右はうした世のなりゆきをよくすゐしてゐた。

編集

關ケ原後の世の中は全く德川氏の天下となつた、正則もいつか家康の恩を受けて臣下の禮を執るやうになつた。
恁うなると德川家も正則に對してもはや遠慮はない、全くの臣下として取扱ふ、慶長十五年家康の第九男よしなほが尾州名古屋に移つたので、名古屋城普請の大工事が起る、工事は廿餘の大名に命ぜられて正則も命ぜられた一にんである、思ひ切つての大工事、費用が夥しいので大名中に不平の聲が起る。
正則はそのほつとうにんである。
『普請もいが、恁う費用がかゝつては難儀でる、何とか補助を仰がねばてまへたちたちゆかぬ、手前がさきだちとなつて將軍家へお願ひを致さう』ときほつた。
『お願ひするも宜しいが、お願ひを許されなかつたらお手前はどうする』とかとうきよまさが念を押した。
『夫れは是非もない』。
『お許しが無ければだまつてしまふ位なればこれははじめからお願ひをせぬ方がいであらう』と淸正は云ふ。
いや、願ふだけは願つて見る』と正則は剛情張つた。願ひは出された。
老中ほんださどの答へは簡單で嚴重であつた。
『既に上樣の仰せ出されたこんにちである、だいめいを取消す事はなりませぬ』。
正則は不平を抱いてひきさがらねばならなかつた。
『云つた通りぢや、お手前は今どう思ふ』と淸正がさゝやいた。
『以ての外ぢや、面白くない』。と正則は鬱した聲であつた。
『ふむ、ではどうぢやお手前、事を擧げる氣は無いか』。
『事とは』と正則はがくとした。
『事ぢや、旗を上げるのぢや、お手前が旗を上げるとあれば手前は卽座に從ふのぢや、お手前と手前とが一つになればせいこく、九州四國の大名はあらかた、同意する、で、大阪の秀賴樣を押立てゝ天下を爭ふのぢや、負ければうちじに、勝たば再び豐臣家の天下ぢや』。と淸正は睨んだ。
正則は腕を組んで眼を閉ぢて、こめかみをピリピリと動かせた。
正則は豐臣の世が戀しい、せきはらえきに家康の味方したのは、家康に天下を取らせたい爲ではなかつた、家康にうした野心のありとは知らなかつたからであつた、家康をしようぢきとくじつの大將と信じ、三成のなす事をことく姦智の所業と見てゐたからであつた、かつまた家康が秀賴の後見者として長く豐臣家を安泰にするであらうと信じたからであつた。
だが、そののち家康は隱した牙をあらはした。ことごとに豐臣家のいきほひいだ、夫れを悟つた時はもう遲かつた、自分までもいつか家康の臣下の位置に押へられてゐた。
さうして今は名古屋城の城普請を勤めねばならぬやうになつてゐる、舊主の豐臣家は哀れ孤城落日のていで、秀賴はあつても、ほとんど無きが如くに德川家からあしらはれてゐる。
夫れを思ふと正則も腕がわななく。
だが、淸正の言葉は餘りの暴と思はずにはゐられなかつた。
彼はましい目に淸正を見た。
『殘念ぢやが、今となつては遲くはあるまいかな』。
『ふむ』と淸正は口をめて嵐のやうな息をいた。
『思へば手前は夢を見てをつった、其夢は關ケ原の時に覺めねばならなんだが、覺めおくれて今となつた、もはや遲い、で、又早い、同じく事を擧げるなら、家康公世を去る時まで待たずばなるまいか』。
う思ふか、ふむ、是非もない』。
密談は夫れきりとなつた、正則はまだ未練があつたが、淸正は二度と云はなかつた。
ふたりの密語はふたり以外に知る人はない、倂しうした心が主君正則の胸にある事を、吉村又右は知つてゐる、さうしてう云ふ心のある事を德川家でもすゐしてゐると、又右はすゐしてゐる。


編集

慶長十九年には大阪冬の陣があった、豐臣家滅亡の危機は迫つた、家康の大軍は大阪城に秀賴母子をせめかこんだ。
正則は家康の命で江戶の留守居となつたが彼は遥かに舊主家の安危を想ふて、悲愁の淚をこぼさずには居られなかつた、相談相手の加藤淸正ももはや世に無い人となつてゐる、彼の淚は一通の密書となつて本國廣島の家老福島丹波尾關岩見の許へ飛んだ。
『余は故豐臣家の大恩を受けた者、其事は世に隱れもない、しかるに今豐臣家滅亡の時近づいてゐる、さりとて余は江戶にゐる、籠の鳥同樣である、大阪を救ふ事もならぬ、よつて福島家今日の事はなんぢら兩人の覺悟に任せる、兩人のかんがへによつて大阪方にくのが武門のほまれとあるならば備後守正勝を助けて大阪に行け、余の事は案ずるに及ばぬ江戶で命を終ゆるもとよとみけおんためには惜しいとも思はぬ、必ず疑はずに兩人思ふがまゝに事を定めて貰ひたい』。
手紙には恁うあつた。
丹波と岩見とは備後守正勝の前に出た、廣島城中の奧に君臣三人ひたいあつめて協議したのである。
なにさま、大事の議にあります、若殿おぼしめしはいかやうでござります』とふたりは云つた。
いや、父上お手紙にもる、そちら圖らへ――余はいづれとも異議は唱へぬ、先づ丹波はどう思ふ』と正勝は云つた。
『されば』と丹波は目を輝かせて『丹波は大阪へお味方が宜しいと存じます、當家大阪へ味方すれば自然其勢ひに連れて大阪へ馳參ずる大名も少なからぬ事と思はれます、で、大阪方いきほひを得て勝たば當家榮昌のもととなります、負けて自害したればとて武門のほまれ、名はのちの世に傳はる事と存じます、關東に味方は大殿御本意でもなく、又世間のそしりもござりませう』
『岩見は』と正勝はみかへつた。
『いかにも丹波の意見道理でござります、倂し、それは大殿の御本意、若殿としては大阪に味方しては、取りもなほさずおちちうえすてごろしにする儀に當ります、人情、天命、御父上見殺しはいかにもなり兼ねます、こゝはたゞ時勢に從ふておいへの安泰、大切でござります、つく大阪方の樣子を見ますると、大將の能、秀賴樣、淀殿の御有樣、萬に一つも御勝利おぼつかない事と存じます』。
と岩見は云つた。
兩家老の意見は一致せぬ、最後の斷決は正勝が下さねばならなくなつた。
『余は岩見の意見に從ふ』。
事は決した、正勝はてせいを率ゐて家康に從つた。
此前後の事情をうす推察したのが吉村又右衞門であつた。
又右は密かに江戶へ行つて正則の前に出た。
『殿には關ケ原御軍功拔群な故に兩國を賜はりましたが、其節人々が、他の大名と比べて御恩命過分ぢやと申され、又家康公には、過分でない、福島は戰功のみでなく、淸洲を明渡して味方十三かしらの人數數萬を引受け、へうらうまかない四十日に及んだ功あり、二つの功に安藝一國では不足と思ふて備後添へた、大名一列の賞功に過分とはまをしがたし、と仰せられたげにござります。
そのまへに伊奈今成の事もござりますに、そのけしきも少しも出さず、あのやうな恩賞の有りましたは、よくとりしづめた沙汰と思はれます、で、其頃又右は家康公のお胸をすゐしまして、いづれ靜謐のともならば、何かに就いてたうおいへへお當りがあらうかとも懸念しました、倂し當年まで十餘ケ年間、何の事もござりませぬ。
つく思へば、是れは大阪に秀賴樣がおわす故と相見えます。大阪らくきよなき前に何かの事を起しては諸大名の疑念を强めます故にござりませうか、かた大阪落去と共にたうおんいへの大變も起り兼ねぬと思はれます、殿にはそのへんの事をお察しの儀とは思ひまするが、いよいよ大阪落去の時には、天下弓矢納めのお祝ひとして備後一國を御獻上あつて然るべく、自然に夫れがおんいへちやうきうの基と存じます』。と云つた。
又右はもうこのごろからしゆかの前途に不安を覺えてゐたのである、彼が關東に密行したのも忠義餘つての事であつた。
だが正則は只うなづいただけで又右をさがらせたおほさかふうゆぢんは和睦となつた、あくる元和元年に和睦が敗れておほさかなつぢんとなり、豐臣家の滅亡となつた、だが正則は備後一國の獻上は出來なかつた、夫れのみか今度も、將軍家の許しを待たず城普請にかゝらうとしてゐるのである。
又右の懸念は愈よ大きくなつてゐる、其懸念を今、大崎玄蕃に打明けたのであるが、玄蕃は案外平氣であつた。


編集

平氣な玄蕃も、細かに又右に說かれて見ると成程と思はれるふしもあつた。
『云はれて見ると、城普請の早過ぎるやうにも思はれる、俺には夫れ程の事とも思はれぬが思慮深い貴公の云ふ事ぢや、どうやら俺にも氣がゝりになる、たとへ本多殿お含みでも、夫れは別ぢや、お許しを待つてっかゝるが穩かなは云ふまでもない、石橋も叩いて渡れぢや、これは一應かんげん入れて見るもい、聞かれねば是非もないが、入れるだけは入れるが家來の道ぢや、で、此諫言は貴公の役ぢや、俺はくちぶてうはふで、云ひたい事も得云はぬでな』。
『むゝ、俺が分、貴公の分もまとめて、あすに殿に諫言する』。
又右は强く云つた、酒はに入つて玄蕃も醉ふ、又右も醉ふ。
正月が近づいて正則は城普請のしたくも終へた、普請奉行、諸役人も定めた、人夫徵集のわりあても出來た。
普請始めは正月廿四日ときまつて、そのれが出る。
正月は來た、城中に年の始めの祝宴があつた、又右が主君の袖にすがつたのはあくる日であつた。
『何ぢや』。と正則は云つた。
『この度の城普請につきまして』と又右はぬかついた。
みあはせいと云ふのか』と正則はんだ。
『さやうにござります』。
『諫言のめぢやな、理屈の好きな奴ぢや、そちの理屈はこと六つかしいで、余ももてあます、措け措け』。
わたくし一存にはござりませぬ、大崎玄蕃とも申合せ、おいへおんためと存じましてお見合せを願ふ次第にござります』。
『ほゝう、そち玄蕃をときふせての事であらう、玄蕃はそちがやうに、細かい苦勞をせぬ男ぢや』。
正則はからと笑つた。
『恐れ入ります、いかにも玄蕃を說きつけて玄蕃もがつてんもろともに懸念致します儀にござりますお城の普請に一木一石なりとも、わたくしに動かしては天下の大法を破る事となります』。
『余もほつどは知つてをる、知つたればこそ老中に賴んである、氣つかうな』。
『お賴みはお賴み、お許しはお許しでござります、お賴みはないぶん、お許しは公け、內分の儀が公けの代りには立ちませぬ、萬一の際に內分のお賴みがものは云ひませぬ』。
『老中と余との約束そちには分らぬ、分らぬ故に苦勞するのぢや、又右、そちは苦勞性ぢやな』。
正則のけふは機嫌はよかつたが、よくても正則は剛情である、六十才近い今は心にくつろぎも出來てゐるが剛情は昔に變らぬ、昔は剛情が暴に流れてゐたが、今は暴を愼しむ代りに剛情は一層そこつよくなつてゐる。
悟れば悔いるも早いが、どうかすると悟つても非と知つてもこんりんざいを通すくせが正則にある、今は其時で、又右が理をつくしての諫言も效が無かつた。
又右も主君の性質を知つてゐる、もとよりそくざに諫言が容れられるとは始めから思つてゐない、たゞ云ふべきを云つておいて此日はひきさがつた、正則には一度は剛情をはりとほしても次の日になつて案外もろく非を悔いると云ふやうな事がしばあるので、又右も夫れを心待ちにしたのである。
倂し正則は遂に顧みなかつた、正月廿四日愈よ城の普請始めを行つた、はつはるの城の空、晴れ渡つて日影うらゝかに、祝ひ歌賑はしく、次の日からはばんしやういしく、左官、人夫が夥しくかゝつて石垣をつきなほす、やぐら、塀などもうちこはしてあらたたてなほす、五十萬石の大名の普請であるから、かなりの大工事である、漸く二ぐわつすゑになつて工事は大半しゆつたいする、正則は夫れに安心して、三月にると參勤交代の爲廣島を出發する、そのげじゆんには江戶へ着いた。
だが夫れより早く城普請の噂は江戶へ聞えて將軍秀忠公の耳にはいつてゐた。


一大事編集

編集

春暮れ方の江戶城の奧、秀忠將軍はたゞならぬ顏をして老中さかゐうたのかみほんだかうづけどゐおほゐのかみあんどうつしまのかみたちを召した。
『餘の儀ではない、福島左衞門大夫が、廣島の城をわたくしに普請したと聞えがある、しかとであらうな』。
將軍の聲は欝してゐた。
『左樣にござります』。と雅樂頭がうやしく答えた。かうづけのすけははつと驚いたていであつた。
『城普請はつどは故將軍(家康)樣の定めおかれた事である、すぐる元和元年七月七日、諸大名を伏見に集めてまをしわたしてあつた、左衞門大夫今囘の振舞は余をかろしめた沙汰であらう、以ての外の事、心のうちも不審に思ふ、きつと糾明せい』。
ろうちうたちは顏を見合せた。
『恐れながら』とかうづけのすけが將軍を見た、將軍は默つてかうづけを見た。
『此儀はかうづけの懈怠でござりました、左衞門大夫豫てかうづけまで城普請の事まをしでてありました、上樣へのごんじやうちゝしてけふに及ぶに太夫性急かゝる儀にあいなりました、豫て大夫よりの書面も、かうふけとめをいてござりますお目通し下されば有難き仕合せに存じます』。
將軍は默つた儘であつた。かうづけも手をついた儘であった。
かうづけこんにちまで云ひ出さなかつたのは故意か過失か、過失とすればりはつの上かうづけに不似合である、故意とすれば其譯が無いでもない。
正則は關ケ原の戰功に慢じて兎角我儘の振舞が多かつた、秀賴めつぼうぜんには兎もすれば豐臣家に忠義立てをしてゐた、大阪城には秀賴へ味方するやうな風說もあつた、名古屋築城には不平を訴へた發頭人で、それらことく將軍の感情を害してゐる、かうづけのすけは將軍の心をよく知つてゐる。
正則の依賴を受けながらこんにちまですておいたのは默つて正則の法度を破るのを待つてゐたとも云へる。
今正則は法度を破つた、これはかうづけの思ふ壺で、又將軍の思ふ壺とも見れば見られる。
將軍は稍あつて云つた。
かうづけの言葉は證文の出し遲れであらうぞ、たとへ前以て申出たとは云へ、許しも待たぬとは大夫の落度、いや、余を侮つての事であらうぞ』。
將軍は、つと立つた。
一言もはや動かす事が出來ぬ、らうちうらひきさがつて協議の上、正則の罪すてをかれぬとなつた。
四月廿一日の夕刻上使、ひさかいちうざゑもんほつたかんざゑもんが正則の邸に臨む。
上使と聞いて、正則は胸を打たれた。
しまつた、城普請の詮議』。
ふ云ふ思ひが胸にこだました。
『上樣の上意でござる、そのもと何故に御法度を破つて廣島の城普請をなされたか、しかおんこたへを申上げられたい』。
と忠左ヱ門はおごそかに云つた。
正則はしばしして顏を上げた。
このじやういは老中衆寄合の上の事と存ずるが其寄合の中にほんだかうづけ殿も加はつてられたか一應夫れ伺ひたうござる』と念を押した。
『いかにも御列席』。
『むゝ』と正則は胸を張つて伏目勝ちに眉を詰めた、そのおもてには見る憤りの色がのぼる、上使ふたりは油斷なく目を配つた。
『さては』とやがて正則がおもてを正して『御上使の今云はれた上意の中にはかうづけ殿の意見を含んで居られるか、もはやならぬ、正則お答へする言葉もない、申譯も致したくない切腹切腹、御上使、正則切腹する外は無い、四人の老中衆へ、今申した事を有りの儘に、申上げて頂きたい』。
深い覺悟のていで云つた、さうして靜かに用人のはやしゝんうゑもんを呼んだ。
『新右衞門、正則はこんにちひろしましろふしんお咎めとあつて御上使を下された、正則は申譯は致したくない、切腹の外は無い、とお答へした。いか申譯は致したくない、切腹の外はない、とお答へしたのぢや、きゝあやまつてはならぬぞ、で、そちは是より御上使のお供をして參れ、參つて老中衆へ、予がお答へ申した次第を間違いなく申上げい』。
正則は恁う云つて又上使に對した。
『見らるゝ通り、新右衞門にも申聞かせました、御上使にも微塵お繕ひなく申上げて下さい、其爲に慮外ながら新右衞門にお供させます、新右衞門は老中衆もお見知りの者ぢや』。
正則の覺悟は寧ろすてばちであつた、其胸は申譯の工夫をめぐらすよりも、かうづけの不義不信に對する憤怒に燃えてゐた、めゝしい、哀訴、辯解は彼に取つて不用であつた、此時此場合、醜い首を下げるよりは、斷々乎として張り通す剛情の前に五十萬石、一時になげうつても惜しいとは思はなかつたのである。
新右衞門は上使に從つて四老中の前に出た、正則の言葉はありのまゝに述べられた、老中は顏を見合せた、しばし沈默が續いたのち
『どうしてさやうなお受けをしたのであらう、大夫殿にもなんとかお受けのしやうもあつたものを』と土井大炊頭が嘆ずるやうに云つた、他の老中は默したまゝであつた。


編集

芝、愛宕下の福島邸には暗愁の氣が滿ちて門は固く取ぢられ、稀にでいりする者のものごしうちしずんでゐた、主人正則は、切腹の命がいつ下るか、下るかと待つてゐた、日は過ぎて、廿五日のひるごろになつて再び上使が下つた。
『左衞門大夫儀、我等へは忠節これなくさうらへども、家康公へは忠節致され候あひだ、此度の儀はおゆるしなされ候ふ、新普請の處は、破却候へ』。
上意の狀は爽かに讀上げられた。
城普請一件はこれで一まづ落着したのであつた。水打つたやうな福島家俄かによみがへつて邸內のさくらの靑葉いきと、はつなついろどり、日影もきらと輝いて見えた、正則は直ちに四老中の邸へお禮のつかひまはらせた。
暗雲は去つた、これで將軍家へのおめみえを許されゝば、もはや福島家は安全である、だがそのお目見えはおつて沙汰する、お差圖次第にまかりでよ、と云ふ事になつた。
お差圖次第がいさゝか不安である、空は晴れてもなまぬるい風が殘る、風のさはりが多少の氣がかりである、だが正則は正直である、もうさしたるとがめは無いものと思つてゐた、廣島へははやびきやくを立てゝ城普請の塀も、矢倉もことく除いた、石垣も、石みつつを殘して悉くとりこぼつて城はいたわしい姿とかはる。
倂しお目見えの沙汰は無かつた。心待ちに四月も過ぎたが沙はない。
五月八日には將軍せんげお禮とひて秀忠公も京都の天子に拜謁する爲、江戶を立つ事となつた、江戶はじやうらく準備に多忙である、と共に福島家へは再び不穩の雲が襲ふた、西の風か東の雨か、上洛前に許されねば、お目見えもいつとなるやらあてがつかぬ倂しとう沙汰は無かつた。
八日は來た、其朝には將軍江戶をお立ちと云ふ、さきどもは既にしながわじゆくを過ぎたと云ふ、美々しい行列が東海道に續いたと思はれる頃、福島邸へへうぜんと訪れたのはあべびつちうのかみである。
『手前はお留守をおおせつけられました、けふから閑散の身でござる』と云つて悠々とはなしこむ、留守居は閑散に相違ないが、將軍出發の其日からもはや閑散とは受取れなかつた、しかも備中守はつねから規則正しい人である、用談があつて來てもめばさう立去るのが例になつてゐる、けふに限つて閑散さしたるようむきも無いのにながしりを据ゑて、いつかな動かうとせぬ、夫れから夫れへと他愛ない雜談に耽つて漸く日の暮方に重い腰をもたげる、見送つたのちに正則ははゝあ、とがてんしなければならなかつた。
正則の家臣は江戶に三千人程ゐる武勇の家柄でいづれも剛强のさむらひである、將軍留守居中萬一事を起せば、江戶中を騷動させるだけの力はあr。
『備中守、當家の樣子をのぞきに來たか』と正則は思つたのであつた、正則の不安は次第に大きくなつた、彼は直ちに本國廣島へ飛脚を立てゝ、嗣子備後守正勝へ『上樣が御上洛である、そのほうこぜいで京都へ上り御機嫌を伺へ』と申送つた。
倂し備後守には備後守だけの考へがあつた『兎角父上のおみのうへが心こゝろもとない、未だにお目見えを許されぬのは合點がまゐらぬ、將軍家ではどう云ふおはからいを密々立てられてゐるか分らぬ余は上洛はせぬ』と云つた。
『大殿の仰せでござりますから是非京都へ參られねばなりませぬ、仰せがなくても將軍御上洛と聞けば直ちに參るべきものでございます、只さへお咎めのある折柄、御機嫌伺いまで遲々しては一層お咎めを重ねる事になります』と家老の福島丹波がいけんした。
『いや、病氣と披露すればお咎めはあるまい、予は病けぢや』。
と備後守は首を振つた父は江戶にゐて身動きならぬまもりを受けてゐる此上に自分までが京都につて同じく蟄居と云ふやうな事になれば父子國をはなれて翼をられた鳥の運命におちいる、父に不慮の事あつても子としてたてこもつて快よく天下を敵とするもうらみはらしのはらいせか、と思つたのであるきばやの備後守はもうそこまでを考へてゐた、う云ふ運命が必ず來るとまでは思はなかつたが、あるひは來るかとの懸念もあつて、兎角御機嫌伺いに氣が進まぬのである、『いやいや』と丹波は押返した。
『御病氣は宜しくありませぬたとへ將軍家に密々のお計いがあるとしても當將軍家のおしおきは江戶風にあらせられます、物事かずいかにもしづめ長く、いよいよ萬に一つの漏れもないと見極めのつくまでは御分別あつて其上に於てお仕置をなされます、若殿が御病氣と云いて一年二年延ばしたとてらちは明きませぬ將軍家は夫れよりも氣長にござります、殊に大殿は江戶にをられますに夫れを捨ておいて若殿ばかり御存分にお振舞あつては將軍家のお怒り强く、お仕置を一きは手嚴しい事にならうかと思はれます』。
丹波は理を盡して說いた、備後守も漸く納得して五月すゑに京都に出でけんにんじの邸につて御機嫌伺ひの屆けを出した。
秀忠公は其前に入洛して、二でうのしろにゐたが備後守に對してもお目見えを許さなかつた、さうして六月五日には上使をして『つがるくにがへ』の命を下した。

編集

津輕へ國替は思ひ切つた嚴しい仕置であつた、國替も事と品による、津輕と云つても津輕領全部では無い津輕の內の小領地である廣島五十萬石を沒收して、その二十ぶんの一ほどの地へ國替と云ふのであつた。
名は國替でも實はるざいである。
わたくしはまだ、家督を仰付けられませぬ身故御上意でも一存でお受けは致し兼ねます父左衞門大夫方へまをしつかはしてのちお受けを致します』。
こみあぐいきどほりを抑へて備後守は答へた、上使が去つて重ねて上使が來た。
備後守は江戶の父を想ひ廣島の空を思つた父子一つに將軍のてのうちもてあそばれた、今の身を悔いた、これ程無慘の穴が待つと知つたら喰いついても廣島を去らなかつたのである、が今は及ばぬ、四周にみな監視の目が光つてゐる事を覺悟せねばならぬ邸外一步を出づる事も出來ぬ身となつたのであつた。
彼ははぎしりして二でうのしろかたを睨んだ。
此時二でうのしろでは秀忠將軍の前に老中の土井大炊守、安藤對馬守、本多上野介、京都所司代のいたくらいがのかみとうだういづみのかみほんだたゞまさなどの元老株が福島家取りつぶしの協議中であつた。
とりつぶしの案は既に城普請の聞えあつた頃から秀忠將軍の胸に成立つてゐたのである正則はいくさをさしては當時に於て最も勝れた大將である、夫れが五十萬石の大領地を抱いて中國に腰を据ゑてゐる、さうして正則は今に於ても豐臣家の恩を忘れぬ男である、德川家に對して謀叛を謀るやうなおそもはや無いまでも萬一天下に謀叛を思ふ者があるとすればそのだいいちとして正則を數へねばならぬいづれにして將軍から見て正則は目障りである遲かれ早かれ正則の家を取つぶさねばならぬとは將軍の腹の底である、だが用意こまかな將軍は取つぶしの腹案を最も平和におこないたいと考へてゐた、で城普請の事は知りながら直ちに咎めもせず、靜かに正則の江戶へ來るのを待つてゐた、さうして先づ正則を責めた、一旦はゆるしたが夫れは一つの方便に過ぎなかつた免して廣島の動搖を抑へ、お差圖を待ての一語に正則を江戶に抑へたのであつたさうして上洛した將軍は一方に備後守の入洛を待つてゐたが其備後守ももはや網につた、廣島にはあるじがない、あるじふしは京と江戶とに人質となつてゐる、廣島にさむらいは多くてもしゆなくては事を起さうとも思はれぬ。
將軍の準備はもはや整つて、たくみに福島家をしばつてしまつた、あますところは正則に上意を傳へる一段であるこれさへ無事に濟ませば將軍最初の考へ通りにさしもおほだいみやうの取つぶしも平和に遂げられる譯である。
さうして元來正則は領民に對するせいぢむきが聊か苛酷であるから城普請の外に夫れをも罪として數へる事も出來伊奈今成の首を望んだ事件も德川家に無禮な振舞と云ふ事も出來るから少々無理にもせよ取つぶしの理由は成立つ譯である。
だが正則は橫紙破りの猛將で殊に家來を愛する事他に勝れてゐるから家中には名を知られたぶしが頗る多い、これが橫紙破りの本性を出して不平の捨鉢に江戶を荒してはちよつと抑へるに困難である、將軍は夫れを氣つかうて人々を召寄せたのであつたが、人々も夫れを氣つかうて意見が容易に一致しなかつた。
『かやうな事はゐいかもんのかみに仰せ付けられるのが尤も宜しいと存じます』とは板倉伊賀守の言葉であつた。
『むゝ、うぢや』と將軍はうなづく。
かもんのかみなをたかが座に召された、彼は鬼と云はれた程のけしやうものである將軍の前へ出るにつことして云つた。
『福島左衞門大夫領國をめしはなたるゝ儀につきましてお召になりましたか』。
『その事ぢや、事をあらだてぬやうに大夫を仕置したいのぢや上使の人を撰ばねばならぬでな、先づそちは上司をたれいと思ふ』。
と將軍は穩かに云ふ。
『其儀にござりますならわざ京都より上使を出さるゝにも及びますまい、江戶留守居の者に是れくらゐの事は勤まりませう』と掃部頭はたやすげに答へた。
將軍はじつしあんした。
あるひは左衞門大夫を京都に召寄せて罪のおもむきを申し聞かされても宜しうござりませう申譯のあるか又は國に歸つてひきこもり思慮せいと仰せられても濟む事と存じます』。
將軍はなほ考へた。
『但し直孝江戶へかけむかふて大夫が事を起すとなれば速かにうちやぶつても宜しうござります』と三たび掃部頭が意見を述べた。
『其儀は若い掃部頭に似合の役と思はれるとは云へ福島もさすがの者ぢや、剛の者もあまた抱へてある、こうぢいくさになつてはどうあらうかな』ととうどういづみのかみたかとらが危ぶむやうに云つた。
なんと云はれる』と掃部頭は聊か願を險しくした。
小路戰とは市街戰の事である。


編集

『和泉守はいかにも戰場の傷數を踏まれた老功者に相違あるまい、ぢやがどここうぢいくさをなされた事がござります直孝の家には武功の老武者も多いがそのものどもの話によると昔いまがわうぢざねが濵松の城主ゐいはやとを召してうちとらうとした時小路戰になつて殊の外六づかしかつたとか、只このの外に小路戰のためしをまだ聞きませぬが』。
掃部頭の血氣である云ふ事も皮肉であつた。
和泉守は苦笑する。
めい小路戰の論は餘事ぢや、けふはもうい、余ものちに思案する』と將軍は仲裁氣味に云ふ。
一同は退出してそのゝちに密かに呼ばれたのは掃部頭である。
『余の考へはそちが第一に云ふたのと同樣ぢや、人々の意見は兎角一致せうから余はそちの意見に從ふのぢや、で、さて江戶留守居に此旨を申傳へたいと思ふ、このつかひにはたれをやるか』と將軍は云つた。
くぜ三四らうさかべ三十らうを添へてお遣はしになれば宜しいと存じます』。
『夫れも余の考へと符合したぞ』。
將軍は快げであつた久世坂部はそのようちに江戶へ向ふ、江戶留守居の老中はさかゐうたのかみたゞよである、忠世はふたりを迎へてやや當惑な顏をした。
で、旗本中の屈指のぶこうものおほたぜんだいふかずまさを呼んで意見を問ふた。
『上樣はいよいよ左ヱ門大夫の領國を召放さるゝおぼしめしぢや、さて其處置をせいとの事ぢやが福島もさる者ぢや、どの樣な事をしでかすかまことあやぶまれるでな』。
なんの』と善太夫は哄笑して『御心配無用ぢや仕出かすとて何を仕出かしませう』。
『えゝ、又しても橫着の大言ぢや、よく考へい、いかにもあぶないと思はれるぞ』。
『はゝゝゝ福島はさやうな男ではござりませぬぞ、成らぬ事する福島ではない、成る事を知らぬ奴こそ成らぬ事を企てたがるものぢや福島は非道不仁の事はしても勝負の理はよく知つて居ります天下を敵としてなににします手前には御老中の心配が、ばかしいと存じます』。
善太夫は事もなげに云つた。
雅樂頭にはなほ不安があつた、だが將軍の命既に下つてゐる上は猶豫もならぬ、先づ江戶の警備を嚴重に整へてから上使にはとりゐさきやうのすけたゞまさを撰んだ忠政は豫て正則とは懇志のあひだがらである。
上意の文は各老中の連署で。
今度廣島普請の事、ごほつどに背かるゝの段きよくじに思召され候ところ、かのち破却あるべき旨の訴訟によりて、本丸をかまへをき、そのほかことうあぶりすてらるべきの由あほせいだされ候、然る處に、あげいしばかりとりのぞき、其上ぶじんにて數日を送るの儀、かさねふとゞきしあはせと思召され候、此上は兩國召上げられ、かへちとして津輕を下さるべき由、仰出させ候也、謹言
六月二日                                        各老中連署
福島左ヱ門大夫殿
しるされてあつた。このじゃういの文は前に京都の備後守に下したのと同じものである。
さうして將軍が城を破却せよと云つたのは、本丸を除く外は悉く破却せよの意味であつたと云ふのであつた、倂し正則はう取つてゐなかつた、明らかに本丸以外悉く破却せよと云はれてゐなかつた、先づ城普請のお咎め、次いで破却せよとの上意であつたから、正則は普請の箇所さへ破却すればいものと思つてゐたので、又う思ふのは至當であつた、正則から見れば今度の上意は意地惡の云ひがゝりであつた、が、そのひがゝりも將軍台命とあれば、もはや楯つく譯にはゆかなかつた。
將軍の腹の底は始めからまつてゐた、破却しても、せぬにしても、くにがへの心は始めからあつた、と正則は漸く悟つた。そゞろに吉村又右衞門の諫言もおもひおこされた、ずつと前に又右から備後の國の獻上の事を建議された意味も漸く分つた。
上意を讀み聞かされた時、正則はたゞ嘆息しただけで、答を待つ忠政を前にして長い間沈默してゐた、忠政も答へを促すさまもなく、じつと顏を垂れてゐた。
暫くしてから正則は口を開いた。
『正則に誤ちあつた上は、もはやいかやうに罪せられるも上意次第でござります、大御所が今世に居られましたなら、忠義申上げた儀も有る故、おはかまに取りついてまでも一應お詫びを致させなばりませぬが、たううへさまには正則なんの御奉公も申上げぬ事故、たゞいま仰せの津輕のごちぎやうを下されたのさへ、ありがたき儀と存じます』。
五十萬石の太守が津輕のすてぶちを有難いと云ふ、剛情我慢の正則が不平をへて神妙にお受けをしたのである、上使忠政もそのこゝろすゐして覺えずまぶたしめらせた。
『但し正則、當上樣に向ひまゐらせて、みじん異心などのない事は、たちのいたのちに、屋敷中の召使をご吟味下されば自然明白と存じます』と又云つた。
上使の役が無事に濟んで、忠政は年來の隔意なき友として正則を慰めた。
『よもや、うまでとは思はざつた、御心中實にお察し申す、倂し追つて上樣思召の宜しくなる時もありませう』。
『何事も時の運と諦めるほかはござらぬ』と正則もおひの目に淋しいゑみを見せた、さうして我と我影の薄さ、哀れさを思はずにゐられなかつた、德川家への忠勤は一朝一夕の事ではない、關ケ原役の前、大阪に三成一黨あり、あひづうへすぎひたちさたけあり、前後に敵を受けた家康の苦境に、正則の一語はあまたの猛將を引きつけて家康方に味方をさせたのである。
續いて正則は家康の先鋒として木曾川沿岸の敵を追い、たけはなじやうを奪い、岐阜を攻めた最後の關ケ原では强敵うきたひでいへの陣を破つた、夫れも是れも家康への忠勤となつてゐるが、夫れも是れも今は空となつた、五十萬石の領地も廿年間の夢となつた、德川家が天下を取るには正則は無くてならぬ一にんであつたが、天下を取つた今は、もはや不要な邪魔者となつたのであつた。
邪魔者のすてばは奧州の奧の奧の津輕である哀れな身の果てを思ふにつけても、今更將軍の心の冷たさ恨めしく、一家のゆくすゑ多くの家來の零落も思はれた。
『鳥居殿、暫く』。
上使が立たうとする時、正則はびた聲で思ひありげに止めた、さうして靜かにしつを去つた、再び室につた時には右と左にわらべの手を引いてゐた。
『鳥居殿におたのみがござる、これは正則がいとしいものぢや』。
めわらべは並んでしとやかに手をついた、房々としたきりかむろみづと白く肥えて、ほうけふきよくび、世にも愛らしい風情であつた。
『ご息女か、さても美しく、揃ふておとなびられた、どれどれをぢそばへちと寄られい』と忠政は眉をべた。
『さて、鳥居殿、おたのみと云ふのはこのいとしもののちでござる、五十萬石の正則すら、かやうになつた世の中ぢや、まして此れがゆくすえは猶更と思はれる、悲しいは親心ぢや、お國替の騷動に、正則とてどのやうな狼藉を受けるや知れぬ、これにはつらい目を見せたくないで、事の落着まではとりいどのうちにお預りを願ひたい、ひごろの御懇志に甘え申す』。
とさすがに正則は淚を浮べた。
忠政もはら淚をおとした、夫れは六月十四日の事であつた。


籠城編集

編集

正則へ上使を下した時京都の秀忠將軍は既に廣島領地沒收、城受取りのにんず、手配を定めてゐた。
上使はばんしうひめぢ十萬石の城主ほんだみののかみでこれは廣島家中の侍へ上意を達する役である、又、城受取奉行はながゐうこんたいふなほかつ、副奉行は老中のあんどうつしまのかみしげのぶまつだいらかひのかみたゞよしおめつけくさかべらう八、かとういおりございばんもりみまさかのかみおつかひばんはなぶさすけべゑと定められた。
と共に、廣島家中が萬一城明渡しに異議を唱へる事がある時は、直ちにせめくづす準備としてうんしうまつえほりをやましろのかみたゞはるせきしうつわの城主かめゐむさしのかみこれつね、同國はまだ城主ふるただいぜんのすけしげはるちやうしうはぎ城主まつだひらながとのかみひでなりぢんだい毛利かひのかみひでもとびぜん岡山城主いけだくないたいふたゞをの諸大名が廣島領の四境へ詰めかける事となり、なほ人數不足の時は總奉行一令のもとぶぜんこくら城主ほそかわえつちうのかみたゞおきゐんしう鳥取城主まつだいらしんたらうみつまさいよかとうさまのすけよしあきさぬきいこまさぬきのかみまさとしあははちすかあはのかみたゞひでの大名が卽時に人數を出す事に定められた、五十萬石沒收と云ふ大仕事であるから警戒は非常に嚴重で殆んど四國中國總がゝりであつた。
六月初旬、上使も總奉行一行も京都をつた諸大名も勢揃ひして安藝備後のくにさかひへ迫つた、こまかに手配りをしてくがちふなぢも一切通行をめてしまつた。
夫れより前に廣島へは京都の風說が傳はつて、家中が仰天する、城下の町々は動搖する、家老福島丹波は城中につめきつて、京都か、江戶かからのたしかたよりを待つたが、なんの音沙汰もなかつた、待ちあぐんで兩方へ問合せのつかひを出すと、道を塞がれて空しくひきかへした。
主君父子との交通全く絕えて、廣島はやみよあかしを奪はれたやうな不安に陷る、そのうちに西のくにさかひへは毛利、堀尾の勢が見える、びんごさかひへは池田勢が見える、備中かさをかへは上使既に到着と聞えた。
『何の爲の上使ぢや、何の爲の軍勢ぢや、一步なりとも踏込んで見い、天下樣でも用捨はせぬぞ』。と血氣の面々が騷ぎ立つた。
『若殿は京都で御切腹、大殿も江戶で果てられたに違ひない』。
たれとも無しにう云ひ出した。たれかれも夫れをまことらしいとした。
『君はづかしめを受けて臣死ぢや』。
との聲が期せずして一城に起つた。
『譯を云はず人數を寄せる、不埒の沙汰ぢや目をふさがれ、押しかけてふみやぶつて吳れる』と罵る者さへある。
老功者のまなべらうざゑもんむらかみひこうゑもんそのさきぼうである。
『籠城討死』。
が遂に家中一般の聲となつた。
此場合に於て家中のかぢるのは福島丹波である、彼はとしに於ても、武功に於ても一家老と云ふ位置に於ても、人々の尊敬の的であつたからである。
で、彼は二千石のかうつきぶんうゑもんと密かに籠城の下相談をした、ぶんゑは家老でこそないが廣島城本丸のるすいがしらである。
『是非とも籠城』とは文右の意見である。
うぢや籠城の外に道が無い、とは云へ籠城とふれだしても同意の者が少くては見苦しい、籠城と聞いてかけおちする者が多く出ては福島家のはぢぢや、福島家の侍は悉く籠城したさすがこの家には侍の屑が無い――、と云はれるやうな籠城をしたい』。
と丹波は云つた。
『先づ諸士の心をためして見られい』と文右は勸めた。
『夫れもよい、ぢやがいよいよ籠城をするとなれば、上月、お手前のいのちは貰ひたいな』と丹波は意味ありげに云ふ。
『もとよりいのちは捨てる、いのち惜しくて籠城がなるものでない』と云ひかけて文右はちよつと考へた。さうして云つた。
『ふう、うでござりましたか、籠城はしても手前と、御家老だけがいのちを棄てるのでござるか――いかにも』とにつことした。
うぢや、籠城はしても、天下を敵としていつまで續かう、云はゞ籠城は福島家の心を見せるのぢや、天下を敵としても、すぢみちの立たぬ上意には頭を下げぬと云ふ意氣を見せるのぢや、一應見せれば夫れでい、諸士悉く殺すもむやくぢや、で一家老たる手前と本丸留守居たるお手前とが腹を切つて諸士を救ふ、夫れで福島侍の意地を立たう、無謀の籠城でないとの名分も立つのぢや』。
『ふむ、さすがはご家老ぢや』。
丹波と文右とはうなづきあつてやがて本丸の侍をよびあつめた。
大崎玄蕃(八千石)尾關岩見(二萬石)長尾隼人(一萬石)は城代として備後に出てゐる、で集まつたうちおもだつたものかろうなみの三萬石こつくりだいぜんおなじく一萬石ふくしまはうきおなじく八千石のつだいなばと、八千石取のせんごくたじまほしのえちご、七千石取のかぢたいづも、六千石取のまきのかずま、五千五百石取むらかみひこうゑもん、五千石取さかゐしゆぜんふくしまちくご、山本ちやうゝゑもんせんごくしんらう、四千石かぢたさこんとうでうかげゆ、三千石をごうわかさしばたげんざゑもんかまたとおもむとうしゆりほしのかゞ、二千石の吉村又右衞門、みづのじらうざゑもんおおはしもうゑもんまなべらうざゑもんやまなかいおりえびやいがかゞらうざゑもんやまだこうゑもん、千五百石いとうずしよふくだうゑもん、千石やましろさこんほしの又八らうであつた。

編集

正面に三萬石の福島丹波が構へて諸士は左右に居並んだ丹波は福島三かたわひとりで、びつこであるが、彼は其片足にだいじやうの留守をふみしめるだけの力がある、諸士はなりを靜めて丹波の言葉を待つた。
福島家老臣中で尾關岩見はかためである、長尾隼人はつんぼである、夫れに丹波のびつこを加へてかたわの稱がある、關ケ原役後、德川家康が諸將の老臣を召してさかづきを與へた時、福島家からは此三人が召された、丹波の步みぶりはかるわざのやうであつた、岩見のいた片目は顏中の皺をそこに集めたやうであつた、隼人は家康から言葉をかけられた時、橫さまに耳をつきだした、揃ひも揃つた異樣のものごしに家康のきんじふはクスリと笑つた。
三人が座をさがつたあとで近習のひとりが『よくもかたわものが集まつた』とさゝやいた。ほかの近習が一齊に失笑した。
なぜ笑ふか、そちらは若くともよく聞いておけ、かたちたつとぶのは女の事ぢや、男は姿は醜くともいくさに功名したのを男と云ふのぢや、あの三人は世に勝れた大剛の者、そちらの胸にあのひとりの十分の二三ほどの心があればよい侍となられるであらうぞ』。
と家康がいましめた、三かたわの名はこれから一層人に知られたのである。
丹波は今、ちんばの足を醜く組んで諸士を見渡した。
『方々、けふの會議は一家中進退のへうぜうの爲でござる、こんにちくにさかひには當お城受取の人數がおびたゞしく到着し、御上使も既に備中笠岡まで下向されたやうでござる、今にも城を明渡せとまをしくるであらうと思はれる。
ぢやが當お城は主君より預けられた城ぢやいかに將軍家の仰せなりとも、主君のお言葉の無いあひだは明渡す事は留守居として相成らぬ、と思はれる、倂し密かに京都の御樣子を探れば若殿備後守樣、まだつゝがなく建仁寺のお邸にあらせらるゝ――さてこゝぢや。
我々たつて城を明渡さぬとあれば、備後守樣お爲にならぬやうにも考へられる、備後守樣お爲には道は違ふにせよ、おとなしく城を明渡すのが宜しいやうに思はれる、此二つに一つの措置に就いて、方々のご意見を伺ひたい、遠慮なくお述べあるやうに』。
丹波の大聲はすみにまでとほつた。
上月文右衞門は坐をゆすた。
さしだしぐちの無禮はお許しあれ、文右は本丸留守居として申しあげる、文右が本丸を預かりあるは將軍家の仰せを受けての事ではござらぬ、將軍家のお差圖を受けて明渡しは方角違ひと存ずるから、他の方々の御意見は兎も角、文右だけは飽くまで籠城討死の覺悟でござる』。
これも大きい聲で、憤りを含んでゐた。
丹波は首を傾けて、ことさらに案外さうなおももちをした。
『とあれば、備後守樣、ご安危は』。
『是非にも及びませぬ』と文右は固さうにあごを振つた。
『ふむ』。
と丹波は不同意をほのめかして『よくよく御思慮あれ、に籠城は穩かでない、と丹波には思はれる』。
『穩かでないのは將軍家の御處置ぢや、文右は踏むべき道を踏むまでの事でござる』。
『お待ちあれ』と村上彥右衞門が手を擧げて『事は明白、籠城か、明渡しかぢや、議論までもござりませぬ、同意、不同意は人々の心任せとして二通の連判狀をお𢌞しあれ、いんぎやうかずによつてお定めあるが手短かでござりませう』。と云つた。
丹波は頷いて二通の狀を作つた、一通は丹波が筆初めをしてみぎから𢌞した、一通ははじめに文右の名を署してひだりから𢌞した。
ひだりの上席中には星野越後がゐた、彼は今廣島の町奉行であるが、福島家々來としては最も古參である、主君正則がまだ二百石の小身であつた頃から仕へて、家來とは云へおとゝのやうに寵愛されてゐた、正則に劣らぬ我儘者として主從我儘のいがみあひまでした事も度々ある。
いつたい正則はおほさけのみであるが、醉へばらんぎやうを働いてゐた、醉ふと不思議にきあらになつて見るもの悉く腹が立つた、醉後にはめしべられぬまでいらたらしくなつて、水ばかり飮んで目をいからしてゐた、臣下のものごしに氣のくはぬ點があると用捨なく手打にするやうな事もあつた、倂し醒めると後悔して臣下にも淚を流して詫びるのが例になつてゐた、醉はねば人を使ふ事も巧みで、臣下を愛する事も深かつたが、しゆへきだけは誰ももてあましていた、星野越後は絕えず、夫れを苦にして正直一圖の心から、よく意見をしては正則の不興をかうむつてゐた、主從のいがみ合ひも夫れから起るのでつまりは大體、正則が負けとなつて越後に詫びてゐた。
正則がまだこだいめうであつた時、粤語は又右衞門と呼ばれて二百石を貰つてゐた、其頃の事である、正則が立腹して刀を拔いて又右衞門を追いかけた事がある、又右衞門はにげまよふてわがやどり戶を押へて『かゝよ、どうにかして吳れ、とのめが俺を殺すとておひかけて御ざつたぞ』と叫んだ、によぼうは仰天して表へ出てたちふさがつた、蒼い顏して『殿は、二百石の時から奉公した又右衞門をお殺しになる氣か』と聲限りに罵つた、正則は目の覺めたやうになつて『心配するな、かゝよ、またゑめが餘り橫着故、おどしたのぢや』とにわかに顏を和げたと云ふ事もある、夫れは今も一つばなしとして殘つてゐる。
越後と正則とは恁うした隔てのない君臣であつた、夫れだけ越後は江戶の正則を深く思つてゐる、今連判狀を手にして彼はかう考へた。
『殿も五十萬石失ふてたつせもあるまい、あの剛情者だから、もう切腹でもしてゐるに違ひない、勝手に死なつつしやれ、俺も死んでやるわ』。
彼は默つて淚を浮べながら、上月文右に同意して印形を押した。


編集

二種の連判狀は次から次へと渡つた、丹波の甥の酒井主膳はつと座を立つて朋輩の鎌田主殿を呼んだ、主膳は血氣のわかものである。
『鎌田、貴公はどう考へる、丹波は俺のをぢぢやが、俺は上月殿の意見が尤もぢやと思ふぞ』。
『勿論ぢや』と主殿は憤然として云つた。ふたりの聲は大きかつた。
小姓のをせきうゑもんたらうは遠くから夫れを聞いてにつことした、丹波の嫡子ふくしましきぶも上月に同意した。
連判狀二通は一通りまはつて丹波の前に返つた。
『上月殿、お手前に滿坐同意ぢや、丹波が狀にはんぎやうを押したのは丹波ひとりぢや』。と丹波は涼しげに云つた。
『では、事は定まつた、さて御家老には』と文右は念を押した。
『もとよりしゆぎ一决の上は、丹波も不服は微塵申すまい』。
丹波は快よげに笑つた。文右と丹波との下相談は充分の結果を得たのであつた、倂し丹波も文右も、下相談の事は色にもあらはさなかつた。で、文右は重ねて。
『御家老御同意とあればもはや殘りはない、ぢやが、御家老には最初に不同意を云はれてあるから、こゝは一つ一同を安心さする爲おないほうを本丸へ預けらるゝやうに願ひたいものでござる』。と云つた。
『いかにも御疑念尤もと存ずる、では只今直ちに妻子をよびむかへると致さう』。
丹波は云つた。
『御家老の妻子本丸預けと云ふに我々とても目を閉ぢてはられまい、我々も妻子を本丸へ預けねばならぬ』。
恁う云ふ聲がしよに起つた。
丹波はきつと立つた。
『さて方々よ、愈よ我々恁うと決したに就いては方々にもさるげこく(午後五時)限りに妻子ひきぐし籠城されたい、右の時刻に遲れた者は城へは一步も踏み入れぬ事と心得られたい、で、こゝに(さまくり)の帳をとゝのへおき籠城に遲れた者はかけおちと認めて、狹間潛り帳に記すでござらう』。
丹波はおごそかにいひわたして評定を閉ぢた一同は急いで銘々の邸にさがつた、夫れはまだ城のたいころうで、朝のいつゝを打つたばかりの時であつた。
さうして評定に不參した侍の邸へも漏れなくつかひを出して籠城の約束を吿げた、一方備後の三次東條三原鞆の城々へもつかひを立てた、丹波はともを殘して、他の城の者は悉く廣島へつぼませる事にした鞆はびつちうさかひやくし上使の來るべき道にも當るから特に殘して城代大崎玄蕃をたてこもらせる事にしたのであつた。
廣島城下のやしきまちには大混雜が起つてえ、どの家も家財道具のとりかたつけに忙がしかつた、氣早いのはまたゝに家を掃除して早くもひつじのこくごろには入城してゐた。
申の上刻にはおほてもんまへに人が續く、下刻には家中の侍殆んど入城するそのすう四千餘人でからとなつた邸町へは町奉行星野越後の組の者が配られて、盜賊、火災の警戒に當つた、さうして城の諸門は悉くしめきられた。
五千石取のはやしかめのじようは此日早朝遠く他出してゐて城に評定のあつた事を夢にも知らなかつた、籠城觸れのあつた時にもまだ歸つてゐなかつた、で、留守居のちうげんが、心あたりの先々へ主人を探しに出て漸く出會つたのはひつじのこくを過ぎてゐた。
申の下刻にはもうが無いので龜之丞は馬をかせて直ちに歸途に就いたが到底刻限までに城へ着く事は出來なかつた、で、彼は出先の姿其儘で邸にも立寄らず追手まで來ると、そこで朋輩のまつざきかめうゑもんつた。
『松崎貴公も遲れたのか』。
龜之丞は息をはづませて云つた馬も人も汗をかいてゐた。
『ちと遠出してゐたので、論外ぢや、もう刻限は過ぎてゐる、どうしたものかなあ』と松崎はしほれてゐた。
『どうも恁うも無い、俺も遠出で此通り遲れたが、遲れても遲れた譯がある、是非とも入城させて貰ふのぢや』。
云ふに龜之丞はかけすぎた、松崎も急に勢ひ得たやうにあとから續いて馬にむちうつた。ふたりが追手に着くと城門はもう嚴しくさしかためられてあつた。
龜之丞は猶豫もなく門をはげしくうちたゝいた。
だれぢや』と內から應ずる。
『林龜之丞ぢやこんにち所用あつて遠方に出た爲刻限に遲れたのぢや、出先からすぐに、家へも立寄らず駈付けたやうな次第ぢや、こゝ早くけて頂きたい』。
暫らくして內から應じて『御事情はお察し申すが、規則は規則ぢや、刻限過ぎては一にんたりとも通すなと御家老よりの嚴命ぢや私のはからいは此場合に相成らぬ、お氣の毒ではあるが引取つて頂きたい』。と云つた。
龜之丞は憤然として門を睨んだ。
『林殿林殿是非もんあい後でなにとかの分別も有りませう、一まづこゝは引取らうではござりませぬか』とうしろから松崎がさとした。
いや』と龜之丞は血走る目にみかへつて『貴公お引取とならば構はずに引取つて貰ひたい、俺ははいらぬうちは決して動かぬのぢや』と肩を振つた。
松崎は眉を顰めてちよつとためらつたが、すぐ馬を返してぬすと立去た。


編集

龜之丞は馬を下りた。
『御門の衆へ今一應まをしいれたい、御規則を楯にするも時と折に寄るものでござる、手前が遲れたのは遲れたゞけの仔細がありすじみちも明らかでござる夫れを聞けば御家老とてお咎めになる筈は無いのぢやおたがひのよしみげてお通しを願ひたい』。
いや、何と云はれても御無用でござるぞ』
と內の聲はひやゝかであつた。
『えい』と龜之丞は躍りあがつて門を打つた。
『御門の衆道理が分らぬか、理不盡も程による』。
內は靜まり返つてゐた。
『よし、よし道理のつんぼもはやお願ひは申さぬ、よく見てござれ、龜之丞は籠城はせぬまでもさまくゞりのあくめうは貰はぬ男ぢや』。
なげうつやうに地に坐して彼は片肌ぬいで、早くもぬきはなつた刀をしたはらつゝたてた。
只ならぬ物音にふとすきみした番の侍が『待たれい』と聲をかけたが、もう及ばなかつた龜之丞の腹は十文字に割かれて、ほとばしる鮮血のうちに手を突いてゐた。
龜之丞ののちに來た侍はひとりも無かつた、さうして廣島侍のうちで籠城のかずに漏れたのはかはゐろううゑもん、松崎龜右衞門、以下廿九人。
次の日から備後三原城、東條城、三次城の城々の者が次第に到着したが、三原の侍ではまさむらしやううゑもんくりもとくらわだせいらう六人三次の侍ではやまぐちはんぺいかぢたたさゑもん十八人が身を隱してゐた。
これらの者は狹間潛りの帳にしるされた、都合五十三人である、五十萬石の家中に逃亡者が夫れだけと云へば寧ろ少い方で福島家の士風が義を重んじたからであつた。さうして此時にはかけもちものを『狹間潛り』と嘲けると共に妻子もろとも籠城したのを『もろこもり』妻子を他に預け自身のみ籠城した者を『かたこもり』と云つてゐた。
丹波は諸城の人々の到着を待つて本丸、二の丸、三の丸のもちぐちを割りて城下のちやうにんらをも他に避けさせた。
『軍勢、押寄せれば、城下に火を放つ』とせいげんしたのである。
此時、鞆の城でも大崎玄蕃のくみがしらあきたしもふさのかみしきりに籠城の手配りをしてゐたが玄蕃は却つて其方へは無頓着であつた。
秋田は夫れを幸いと思つたさうして一つの野心をつてゐた、彼は武にひいでたさうかんである、籠城と聞いたゞけでも胸の血が湧く程に勇み立つと共に彼は此時に於て天下にわがぶめいを唄はれたいと思つてゐた。
夫れには大崎玄蕃がゐては面白くない、鞆の籠城は玄蕃が大將になつては玄蕃の名を高からしむるのみで、自分の名は其蔭になる、同じく籠城するには自分が大將となつて、花々しいうちじにの名をのちのよまでも殘したいと云ふのが下總守の芝居じみた野心であつた。
で、彼は玄蕃に云つた。
『御上使のおんせいは十萬騎と聞えますな』。
う云ふ話ぢや』と玄蕃は髯を搔いた。
このこしろで十萬の勢はとても防ぎ切れますまい』。
『防いでもむだぢや』。
『では御城代には一まづ廣島城へおつぼみになつてはどうでござる、いづれ防いでもむだとすればこゝへは少しの番人をおいたゞけで事足ります、夫れには不肖ながら手前が番人を勤めます、既に三次東條の御城代も廣島へ莟まれた事であるから御城代もさうお引取がよろしいと思ひます』。
『夫れはいかんこゝは他の城とはちがふ』。
『どうちがいます』。
『先づ當城は福島領地の玄關口ぢやで、御上使の勢も第一にこゝへ詰寄せねばならぬ、夫れを知りながら城代がしりぞく事は思ひもよらぬ事ぢや、殿のごげぢの無い內は玄蕃が腰は動かせぬでの』。
玄蕃の言葉は悠長であるが、其覺悟はだれも動かす事が出來ないと知つて下總守も思ふまゝの芝居が打てぬ。
間もなく『上使が來る愈よ備後の地にはいつたらしい』とのふうぜつがあつた。
下總守はかけまはつて防戰のさしづをする。
玄蕃は僅かによろひかぶとを取出したのみであるさうして木曾女に酒を運ばせて獨酌の唇をめてゐた、ほろゑひきげんの柱にもたれてせはしい人々に聲をかけるでもなく、もすれば他愛なくゐねむりをする。
としが齡ぢや』と苦笑する者がある。
『年來の大剛も臆病になつたと見える、下總守はあゝして支度するのに城代たる身があのうつそりした樣はどうぢや』と嘲ける者もあつた。
果ては面と向つて憤る者もあつた。
『御城代このていは何でござります、少しは下總守を見て、何とか籠城のお指圖もありたいものぢや』と血氣の者が五六人まで押寄せひざつめの催促したが、玄蕃は僅かに醉眼を見開いたのみである。
『いや下總守は氣力が强いで、あの如く用意するのぢや、倂し手前はもはや思ひ切つた事があるで、萬事閑散ぢや』と笑ふ。
う云はれゝばいかにも御分別がありさうに思はれますが、さりとてその思ひ切つた事とか云ふのをくはしく承はらねば我々とんと合點が參りませぬぞ』。
『話したとて無用ぢやが、御不審とあるからお話し申さうか』と玄蕃は漸く眞面目になつて『先づこのたびの籠城は將軍家を敵とするのぢやとすれば天下の勢を引受けねばならぬ、積つて見られたがよい、此城がいかに名城なりとて大將がいかに非凡ぢやとて、につぽんこくちうを敵にしては萬に一つも勝目は無いのぢや、夫れと知りながら無謀な一じやううちじには無用の沙汰ぢや、で、御上使が參つたなら此玄蕃がひとりおほてもんそとに出て切腹する玄蕃の切腹で籠城の主意も立つ、方々始め城中老若のいのちごひも出來るから玄蕃には何の用意もらぬのぢや、方々も又いくさの支度より見苦しくないやうに城中の掃除でもされた方が宜しいと思はれる』。
玄蕃の腹はすこぶしやらくであつた。

編集

廣島鞆兩城の覺悟は備中笠岡の上使の方へも聞えた、總奉行のながゐうこんだいふも容易ならずと見た思慮深いあんどうつしまのかみも首をかしげた、諸大名も到着してゐるからせめくずすとなればしたくは出來てゐるが、太平の代に弓矢を動かしたくなかつた。
で、諸勢はひとまづ控へさせてじやうしつきをぐらちうざゑもんたけなかうねめのしやう一行がふなぢから備後みちはいつてこゝから釆女正の名で廣島城へ詰問のつかひを立てた。
『籠城の事じやうぶんに達した、誠に穩かならぬ沙汰である左衞門大夫殿は江戶に居られる又備後守は京都に居られる兩主君留守の城に何者が大將となつて籠城したか福島丹波自身參つてまをしひらきをするやう』。
つかひの口上は此意味であつた。
だが丹波は今は廣島一城の主君も同樣である、丹波を遣つてはならぬ、あとがどう崩れるか分らぬ、とは一城の意見であつた。
『多分は、丹波にまをしわけの腹切らせるか、又は丹波を人質に取るであらう』と吉村又右衞門は云つた。
丹波も思案した腹切るは易い籠城の首謀者として丹波に腹切らせるそのよは城明渡せばお構ひなしと云ふ慰諭のもとししんやはらげると云ふのが上使の計ひかとも考へた、だがうしては籠城の主意が立たぬ、主君のめいなきうちに城を受取りに來るから、留守居の道として籠城に及んだので、其主意の立たぬうちに腹切つては今迄の事もいたづらにからさわぎに終ると考へた。
で申開きのつかひには吉村又右衞門におおはしもうゑもんみづのじらうざゑもん、福島式部の三人を添へる事となつた、吉村は元より他の三人も家中でのぶんべつものであつた。
尾の道で待つてゐた竹中釆女正は先づ『丹波の來ぬのは何故か』となじつた。
『丹波參る筈の處城下の家中邸町の家々などあきやになり、いたづら者夥しく惡道につかまつるにつきしおきの爲、まかる事もならず是非なく我々四人代つて申開きに參りました』と福島式部が辯じた。
釆女正は四人を舟に乘せて笠岡に歸り安藤對馬守、永井右近大夫の前に導く。
『左衞門大夫儀ごかんきおんる申し渡され既にそのお受けもしたこんにち何者が大將となつて無謀の籠城に及んだか、福島家には聞えた者も多い主君の命なくして籠城となれば天下の逆賊となり、左衞門大夫の御受けを無にする事となる、さやうなりあひが分らぬとはなにとも以て不審の至りぢや委しく申開け』と對馬守は穩かにさとした。
『お咎め恐れ入ります』と吉村又右がおもてを上げた。
『但し籠城の儀は、上樣のあふせつけかと存ぜられます』。
『ふむ、異樣なまをしでうぢや仔細を云へ』と對馬守は嚴しい顏をした、將軍家が籠城を仰付けたとは殆んどきちがいざたと、ならびゐる人々は思つた。
『其仔細は、大夫殿は江戶、備後守殿は京都にある處へ國替を仰付けられました故、留守の家中にはじつぴわかかねますそれゆゑ家老共より江戶と京都へ伺ひのつかひを立てました然るに途中でふなどめを嚴しくし主從音信の道を絕たれましたのみか、御無法にも西、東へあたまの御人數をお差向けに相成りました。
かやうな儀故上樣おぼしめしは大夫殿、備後守殿に切腹させ殘る侍共もしもまで悉くお退治なさる事と恐れながらすゐしまゐらせて籠城に及びました自然籠城には大將もござりませぬ、侍悉く必死をきはめてたれさきにともなく立籠つた儀にござります』。
又右は遠慮なくたうと述べた。
對馬守も耳を傾けた。
『其上』と又右は更に姿を正した。
『安藝備後兩國拜領の節主君大夫殿家中への申渡しには、そちらの軍忠により兩國を賜はつた、中にも廣島、鞆兩城は大事の傷所故、自然の時には面々城を枕にうちじにと覺悟せよ、例へば將軍家上意とあるも、正則のげぢなくて下城しては不覺と心得よ――とありました、恁う申された程故まこと大夫殿御存命にてお國替お受けなされとならば必ず城明渡し下知のおすみつきが參る筈にござります。
御上使夫れをお示し下されば有難く存じます其上では御人數を差向けらるゝまでもなく卽刻御上使お內の衆へも城明渡しを致します、さなくては例へ上樣御出馬とござりましてもお手向ひを致します、家老以下の意見恁くの如くにござります』。
又右の言葉にすきは無かつた、めいちの對馬守にも非が打てなかつた。
『尤もと聞える、然らば左衞門大夫のすみつきを取寄せるであらう、夫れまではつゝしみが大事である、必ず狼藉の振舞に及んではならぬ。倂し左衞門大夫は江戶にぢや、道が遠くひまもかゝる、備後守京都にあれば、其書簡を證據にしても事は濟まされぬか』と對馬守は諭した。
『恐れ多き申條にござりますが、大夫殿と備後守と例へ父子とは云へ城も領地も備後守のものにはござりませぬ、又侍共も備後守より城を預つてはをりませぬ、此儀はお許しを願ひます』。
又右に微塵遠慮が無かつた。對馬守はつくと又右の顏を見た。
『とあれば望み通りにしてつかはさう』。
『有難く存じます』と又右は手をついた儘しばし考へた、彼にはもう一步踏み込むべき注文があつた溫厚な福島式部はこれ位に運べば充分と思つてゐたが、大橋茂右衞門は又右と同じ注文をつてゐた、で、そつと又右を見た、又右ももゑを見た、目と目に自然に心のひゞきがあつた。
『今、一申上げたい儀がござります』と又右は再び口を開いた。
『大夫殿お墨附までには自然ひかずかゝる事と存じます、そのおつかひ往復のあひだは主君領地に他家のせいを入るゝ事、何とも迷惑にござります、そのあひだよせての衆は他領に御陣所を移さるゝやうにお計ひを願ひまする、其儀叶ひませぬと主君豫ての御下知にも相背き御留守中他國勢に踏込まれては申譯も立ちませぬ、是非なくこなたより推參一戰うちじにを遂ぐる外はござりませぬ』。
『一應だうりぢや』と對馬守は一切平和の態度であつた。
まをひらきつかひは却つて道理の主張者となつた最後に永井右近大夫が云つた。
『廣島城下ところへ獄門かけてあるは何故ぢや此儀も一應申開きをするやう』。
『次郞左衞門まをしあげます、あれは、いたづら者共、空家の戶、障子を盜み種々惡道致した故、ところを荒させまい爲あの樣に致しました』と水野次郞左衞門が答へた。
そのをについて『おきゝの通り城下にいたづら者多くござります、自然火をつけぬとも限りませぬ、萬一城下火災の際はてあやまちとおぼしめしくださるやう前以て申上げます』と大橋茂右衞門が云つた。
四人は無事に使命を果して歸つた諸大名のうちにはつかひの申條無禮であるたゞちに兩城へ攻めかゝれと云ふ者もあつたが、對馬守は穩かに制して吉村の注文通りに諸勢の陣所を三里だけ引取らせたさうして竹中釆女丞を京都にのぼらせて秀忠將軍へ事情を吿げた。
廣島ではまなべごらうざむらかみひこゑこのひまに押寄せて諸大名と一戰をすると騷いだが、これは丹波が抑へてゐた。


編集

秀忠將軍が京都へ上洛したのは、丁度福島家改易の便宜の爲に上洛したやうなものであつた、夫れ程將軍は今度の事を重大に見てゐたので上洛してからも會議と云へば福島家の問題であつた。
廣島不穩の報が京都に達したので又々會議が開かれて其結果上使としてまきのするがのかみが副使としてはなふさしまのかみはやのりもので江戶へ向つた、今度の上使は殊にだいじで正則から廣島明渡しの墨付を受取らねばならぬので夫れさへ受取れば今度の事も無事に收まりがつくのである。
上使が江戶に着いて芝愛宕下の正則のていに臨んだのは六月なかばである。此日の江戶の警戒は嚴重を極めて留守居の將卒三萬人總出であつた先づ正則本邸門前へは會津六十萬石の太守がまふじじうたゞさとよこめつけとして町奉行しまだへいらうよねづかんべゑが向ふ裏門へはとりゐさきやうのすけさかきばらとうのかみが向ふ、あたごやまへはやまだだいふあべらうらうほつたかんざゑもんくぜ三四らうさかべ三十らうはたもとさむらいを率ゐてのぼり鐵砲を揃へて本邸をみくだす別邸へは山形大守もがみげんらうよしとしが向ふ、士卒皆ものゝくして今にも江戶中が戰場となるやうなありさまであつた正則の本邸、別邸を通じて三千人のさむらひがゐたから萬一の爲に恁うした警戒をしたのであつた。
警戒は朝から始まつて江戶中の騷動となつた、正則のていではぢしてちうげんしもべなどは次第ににげさつた、炊事の者までいつにかかけおちしたので、正則の朝の膳もごとうもくべゑくまざははんうゑもんなどの老臣がとゝのへた程である。
正則は靜かにあさげを濟ましいてから邸外の物音に聞入つてゐた、さうして窓を開いて愛宕山を見上げた夏のひざしがキラと木々の露に輝やいて、木の間には又物具したぶしゆきかふ樣がみすかされた。
『半右衞門來て見い』。
沈痛な聲で正則は云つた、半右衞門は氣づかはしげに山を仰いだ。
『心得ぬ事ぢやよ、お國替も神妙にお受けして、津輕へけふにも移らうと云ふ折柄、あのていは何ぢや、御上使が來るとか云ふが、其御上使も切腹の催促とでも云ふ事かな』。
いやうではござりませぬとはんゑは思ひます、お國替、お受けを遊ばした今、將軍家お憎しみがいかに强いとて、今更お腹などゝ左樣な無法のお沙汰は萬、無いと存じます』。
『と、のみは云はれぬわ、うら返すやうな底恐ろしい上樣のお仕置ぢやでな、さりとて正則いのちは惜しまぬ、切れと云はゞ腹も切る、すじみちが立てば腹も切るが、きのふけふと俄かに變るやうなご上意が憎い、兎角かんしやくの種ぢや』と正則は脣を嚙む。
やしきとりまいて何とするのぢや、おどさうとて正則はぢぬ、上樣事を好むと云ふなら予にはもはや遠慮はない、最後のしにばな見せて吳れる』。
呟くやうに云つて冷たく笑つた頰のあたりがピリと搖れて脣がくろむ。
『いや、こんりんざい腹は切らぬ、腹切るより敵を切る、おのれ』。
睨み上げた目は險しかつた。
半右衞門も腕を組んだ、主を安全にと思へば我慢もなるが、故なくやしきかこまれるのが不審である、きりじにも抑へた無念晴らしなら、寧ろ鍛へた腕の試し場かとまで思ひ詰めた。
倂し切腹の上使が、今となつて來るとはどうしても思へなかつた。
『殿、半右には津輕へのお移りの事、催促と云ふやうな御上使のやうに思はれまする』。
暫くしてから半右は云つた。
上使が來たのは夫れから間もなくで、上使牧野駿河守は正則夫人の父である。
切腹の上意とあらば直ちにきりじにと云ふのが正則の覺悟であつた、しうとたる駿河守を見てはさすがに氣もにぶるが、將軍を恨む心は夫れよりも深かつた。
だが、上意は正則に取つて寧ろ案外で、一度は津輕へ國替と定めてあつたが、前々の功もあり、神妙にお受けをした事も思し召され且つは津輕は餘りに僻遠の地であるから、改めてえちごうをぬまごほり二萬五千石を備後守正勝へ、しんしうかはなかじま四萬五千石を正則へ賜はると云ふのであつた。
正則の心は少からず和いだ。


編集

駿河守は又、ひろしまの樣子を委しく物語つて、諸士の心の義に强い事をめた。
正則の心はいよいよ和いだ。
『手前も留守居の物へはしかと申渡した事もあるから、たやすく城を明渡さぬのがもつともと存ずる、まことを云へば手前も江戶で果てる、備後も切腹であらうから、國元でも手前への奉公納めにやけはたらきに果てい、と申し送るつもりでござつたよ。
倂し又、手前も色々に考へましたよ、國元にやけはたらきさしては、手前に謀叛の心あつて、夫れが露見した爲と評判もされる、あとになつて夫れをまをしけして吳れる仁も見當らず、其上手前ひとりの心から數萬の家來を殺す事もふびんと存じた次第、で、手前も只今はつく分別に迷ふてをる』。
愚痴めいた述懷をするだけ、正則の心は和いだのであった、駿河守もホツト安心した。
『一々道理至極と思はれる、逆心と云はれる事も其通りでござる、折角軍功のあつたお手前が逆心と云はれて身を果てるのは此上もなき無分別、其上、こののち上樣御機嫌の直らせらるゝ折もござらう、で、此際は快く城を明渡して、さうお國替、信州へお越しあるが宜しいと存ずる、これは上使ではなく、舅の駿河が申すばしんでござる』。
駿河はうちくつろいで利害を說いた。
『いかにも』と正則は一々頷いて『せめてお手前だけへも申したい事もあるが、夫れもくりごとのやうで見苦しかろ、只手前妻子の儀はお手前が引取つて下さるやうお賴み申す』と云つた。
やがて正則はひろしま留守居への墨付を書いて上使へ渡した。
上使は去つたがやしきを圍む者はまだ退かぬ、あくる日となつたがまだ退かぬ、邸內ではもうしんしうゆきの支度も出來てけふが江戶を立つ日となつてゐた。
住みなれた邸にさすがなごりが惜しまれて、かしんいづれも淚ぐむ。
『あれ程の御武功はなんの爲ぢや、七萬石のすてまいとは餘りに烈しい世の樣ぢや』。
疊に食いついて泣くおいむしやもあつた。
正則はもう、すべてを諦めてゐた。
『弓矢を見い、敵ある時は重寶なものぢやが、國治まれば袋に包んで土藏に收められるわ、正則も弓、今は治世で川中島の土藏へらるゝのぢや』。
うれいうちに、こんな氣休めを云つて、やしきぢうさむらいを集めて別れの酒をんだ。
表門に陣取る蒲生勢は待ちくたびれてしばしゆたつを催促する。
きせわしない奴ぢや、半右、新八』と正則は呼ぶ。
『蒲生は奧筋の大名ぢや、奧筋の風俗はがさつぢや、兎もすれば門の內に押込むやら知れぬ、うなつては門のさむらいも用捨はすまい、無禮咎めに騷動も起らう、そちらが出て理を盡して鎭めてやれ、夫れでも聞かずに踏み込むとあれば、駈込んで予に知らせい予も自害するわ』。
熊澤半右衞門と上月新八とは手をついて聞いてゐたが、半右は此時、苦い顏をした。
『殿、此役目は半右には六つかしうござります』。
『何と云ふ』と正則はけしきを損じた。
『かう成果てゝも主は主ぢや、予の云ふ事をそちまでが侮るか』。
『上月』と半右はそらみゝつぶして新八を見た。
『貴公はどう思ふ、只今、殿が仰せられたやうに出羽、奧州の風俗はがさつぢや、我々立向つていかに理を盡しても聞入れぬとも限らぬ、其時かけかへつては、がさつの奴に追はれて逃込んだと同じ事ぢや、さむらひの恥とは思はぬか、夫れよりも込み入る奴を腕限りに切つて捨て、そのたちおとを注進として、殿は殿のお覺悟次第、我々はもんぎは去らずきりじにとするやうにお願ひ申さうではないか』。
聞えよがしに半右は云つた。
『同心、夫れがい』と新八は云つた。
『むゝ』と正則は色を直して『いかにもそちらの云ふが理ぢや、只いくへにも穩やかに理を盡せ、其上でしよういんなくば、そちら思ふがまゝに働くがいぞ』。
半右、新八は勇んでもんぎはかけつけた。
門の外では蒲生勢がどよめいてゐた、門內では番のさむらいちまなこになつて構へてゐた。內外殺氣立つて血を見るばかりのいきおひとなつてゐた、半右は馬を立てゝ門に立つ。
『蒲生殿內に申入れたい、然るべき方に御意得たい』。と叫ぶ。
蒲生方かららうこうものと見えた一騎が前に進み出た。
『拙者はうめばらやざゑもんでござる』。
『御警護御苦勞に存ずるさて申入れたい儀は、先程よりたびの御催促なれど、當方もかやうな場合とて、少々取込んで居ります、たうやしき引渡しに就いても疎漏なきやうに夫れの支度もござれば、そのあひだは猶豫を願ひたいと存ずる、見苦しいていことさら見られるが蒲生殿お望みにてもあるまじく、見苦しい體をお目にかけては當家不面目でござれば、其邊の御配慮を願ひたいと存じます』。
『いや、これは痛み入つた御挨拶でござる、何かの言葉ちがいに若者共がよしなく騷ぎ立てたと見えますが、當方もとより福島殿御心中お察し申します、ゆるご支度あつてよろしく、又何かの不便もござれば遠慮なく申しつげられたい』。
矢左衞門はていねいであつた、此時蒲生方には彌左衞門を始め、しがさんざゑもんまちのながと、八すみないぜんらうこうしやぶんべつしやがゐたのであつた。


浪人編集

編集

正則の墨付が備中笠岡の上使のもとへ着いたのは六月下旬である、墨付は直ちに鞆と廣島とへ送られた、廣島では墨付の到着が餘りに早い、あるひぎひつかも知れぬ、欺かれてはならぬ、と云ふ者もあつたが、丹波はにせふでなら却つて喜んで欺むかれるがい、將軍家たるものが廣島を受取るににせふでまで使ふとあれば、將軍家のおほはぢ、卑怯である、欺く方が耻で欺むかれる方がほまれである、と云つてゐた、だが到着した墨付は紛ひもなき正則の自筆であつたので直ちに城渡しの返答をする。
ご上使さうぶぎやうはちすがかとう兩家の船で海上からをのみちに入り、諸大名のせいは笠岡から八里の陸路を尾の道に進んだ。
鞆の城では籠城とまつた說きこそ、士卒の心もひきしまつてゐたが、さて開城となると失望落膽、銘々あ家財のとりかたづけに忙しい、混雜紛れに早くもおちのびる者があるさむらひうであるからちうげんしもべなどは主人へいとまも吿げずに逃げる者さへある。
城代大崎玄蕃のやしきでは、玄蕃が無頓着であるから家財もをしまぬ、一切けらいたちわけあたへて立去るに任せてゐた。
『何なりとかたみに吳れる、欲しい品があれば遠慮なく持去れ、倂し具足一領、槍一筋玄蕃がからだと身にけた衣類とだけは殘してゆけよ』。
玄蕃はう云つた儘で奧の一で、木曾女に酌させて例によつてほろゑいきげんであつた。
いつもは家事向のしはいがしら、女ながらも八千石の世帶に細かい目を張つてゐた木曾女も、けふばかりは只酒の番をするのみで、奧の間からは一步も出なかつた。
家來は次々に、奧の間へ來ていとまを吿げた、淚にむせんでたちかねる者もあつた。
ながとしつき、奉公して吳れたそちぢやでな何とかしてやりたいが、玄蕃は貧乏者ぢや、其上けふからは浪人ぢや、是非もない、其內世に出る事も有つたら呼びにやる、夫れまでは兎も角もしてどこぞへおちついてをれ』。
玄蕃は恁う云つては立去らせた、ちうげんも去つた、しもべも去つた、廣いやしきしんとする。
『もう、皆立ち去つたかな』。
うまれつきかみなりごへがガンと響く。
『見て參りませう』。
木曾女は邸內くまなく見𢌞つて來て『もはやひとりも殘りません』と云つた。
『見苦しいものは無いか』。
『ものとては一つも殘りませぬ』。
『八千石のしんだいうなつたか、きれいなものぢや、さて今度はいよいそちとも別れねばなるまいぞ』。
『私は殿のお立ちまで、ご介抱致しませう』。
うして吳れい、ぢやがそちとは久しいなじみであつた、廿年ぢやな、廿ねんまへにはそちは流浪のものであつた、其少し前には俺もおばうちからした素浪人であつた、けふからは又昔の素浪人、流浪のものに返るかな、そちはどこへ參る』。
どこへとて殿のあすやみなら、わたくしあすやみでござります、足のほうへでも參りませうぞ』と木曾女は笑む。
醜いおもて、醜い姿、玄蕃は夫れを哀れと見た。
そちも諦めのい奴ぢや』とからと笑つたが、そのわらひも淋しかつた。
『いや、けふは酒も身にしむわ』。
『お邸の飮み納めでござります、氣持よくお醉いなされませ、只今お肴をとゝのへませう』。
『いや肴は面倒ぢや、酒もいとする、おつゝけ御上使も來るであらう、さちう、九らうだいざうが待つて居らうでな』。
おほさきさちうばんらうたかしまだいざうは玄蕃腹心の家來で、まだ城中に殘つて、明渡しの準備を急いでゐるのであつた。
いゝえ、殿さまお肴と云ふのは、是非お召しを願はねばなりませぬ、木曾が奉公納めでござります、ご覽遊ばせ』。
木曾女は立つて庭に出た、つきやまの木々繁るあひだたくみにあしらつたじねんせきがある、玄蕃が城代となつた初めに、木曾女が積み重ねて風情を添へたもの、自然石の其一つさへ三人四人かゝらねば動かし得ぬものであつた。
木曾女は上野石をかるはねのけた、下は石と石との組合せにおのづからの岩穴をなしてゐる木曾女は中から夥しいかねつゝみを引出して玄蕃の前に積重ねた。
きんす五千兩、いたぎん二千五百枚。
これが木曾女の奉公納めであつた。


編集

『何ぢや、此金は』。と玄蕃は少しからず怪しんだ。
『殿さまの御身代でござります』。
『ふむ、俺に此やうな金があつたか、不思議ぢやな、いつに出來たかな、合點がならぬわ』。
『當國へお移りの頃から段々蓄へておきました、何事ぞある時は兎角金銀がなくては叶はぬと存じましてゞござります、殿さまには微塵そのやうなお心がけが無い故、わたくしが代つて貯はへておきました』。
『ふむ』と玄蕃は嵐のやうな息をいた。
『いや、エライ事をする奴ぢや、玄蕃とんとおもてゆがむ、ぢやが此金は俺のゝやうで俺のではない、玄蕃の手にあれば、今はもう酒のかすともなつてる、殘つたのはそちの才覺ぢや、是りや俺には取れぬ、ぢやが俺も貧乏してあすが日にもかつえる、大藏、九らうたちかつえやうで、もつたいないが、ちと分前を貰うかな』。
『ほゝ、殿さまのものは殿さまのご自由、わたくしが取らうとて貯へは致しませぬ、私が取つては殿さまのものをないくすねた事になります私の役はお渡し申せば濟みまする』。
うは云つても、取つては俺の義理が惡さうぢや、夫れでは恁うぢや、ふむ、金五千兩、板銀二千五百枚、二つの山ぢや、どちらなりともそちの氣に入る方を、改ためて玄蕃が、そちへのかたみとするわ』。
不思議な金は不思議な分配法をひねり出させた、だが、木曾女は笑つて手を振つた。
『木曾は欲しくはござりませぬ、欲しい程なら默つて持つてにまする』。
『其剛情はくないぞ、そちが取らねば俺も取れぬ、取るまい、取らぬで埒があかぬ、困らせずに、おとなしうするものぢや、おう、これがい』。
と玄蕃は笑つて五千兩の山へ手をかけた、わしつかみの一握りを木曾女の前においた。
『それ、これがそちの分ぢや』。
女も亦笑つた。
玄蕃も一握りを自身の前においた。
『これが俺の分ぢや』。
又一握り、又一握り、毛深い骨太の玄蕃のたなそこは銘々の前に代る代るに金を積んだ、板銀も同じやうに分配された。
『埒はついたぞ、得心せい』。
上使が鞆の城につた時、城はすみまで掃除され、さまごとさむらい、足輕の名札を打ち、座敷には釜に湯をたぎらせ、茶をひかせてあつた。
城を明渡すと共に玄蕃は家來三人だけを連れて飄然と鞆を去る、木曾女は玄蕃を見送つたのち、港に舟を求めたとまでは知られたが、そののちゆくへは分らなかつた。
上使一行は次いで廣島に進まうとしたが、其時丹波のつかひとして嫡子福島式部が來る。
『城、明渡しは六七日の御猶豫を得たい』と云ふのであつた。
安藤對馬守が不審して『此際になつて何故さやうにひまどるか』と問ふ。
『委細は明渡しの支度でござります、今までは必死の籠城で明渡しは夢にも思はずに居ました折柄、まだ支度がとゝのふて居りませぬ、其上一家中の妻子をかちはだしたちのかせてはしよにんの見る目も恥かしうござります故、妻子家財、見苦しきものをせつつまで送るあひだ、近國の𢌞船四五百艘の御恩借を得たうござります』。と式部は臆する色もなかつた。
『𢌞船は一二日のうちにも間に合はして得させるが、明渡しの支度もさ程長くかゝらずとも二日位で濟みさうなものぢや』對馬守は不得心のていであつた。
『何分城內も廣く、家中も人あまたでござります、殊には今までの家柄として、たちのきにも相應の面目を立てたうござります御猶豫叶はねば是非もなく、妻子を自害させ城にひをかけて死後の恥殘らぬに致したうござります、此儀は丹波も是非お願ひ申せとの事にありました』。と式部は色を變へた。
對馬も遂に頷かねばならなかつた。
六月廿八日までにはいよかとう家、びぜんいけだ家などの𢌞船五百艘が廣島の海に集まつた、家中の妻子、道具は悉く船に移された。
多忙のあひだにも福島丹波は一切のせめを身に引受けて細かに明渡しの手配りを立てゝゐた、本丸大廣間の四方には家中のさむらいひとりひとりに對する委しい行狀書がはりだされた。
おほてもんまへで切腹した林龜之丞のしまつがきもあつた、さまくゞりの卑怯者の名もあつた、籠城せぬ者の中にも其道理のある者はわけを記してあつた、前々にてがらのあつた者今度の籠城に眼覺しいおこないのあった者の事も見易く記されてあつた。
弓、鐵砲、槍、武具、馬具も美くしく磨かれて、ちりとゞめず、夫れの構へに飾りつけられて、一々目錄に記された、城下の侍屋敷も家每に番人をおき、家附の道具を目錄として、いつにも引渡せるやうに準備された。
さうして上使へ明渡しの通知を發したのであつた。
廿九日の曉、まだ暗いうちに正則の奧方はふなつきまでたちのいた。
夜明と共に上使は城に入り、城受取のさうぶぎやうは夫れに續いた、諸大名のせいは大手門前に進んだ。
城では家老、侍大將、ものがしらつかひばんすゞしげにかみしもを着し、上使を迎へて、大廣間で上意を承はる、丹波がお受けをして式は終る、旗奉行、槍奉行以下、士分はことかつちうよそふてゐた、足輕大將は足輕をひきつけ、とりじうを持たせ玉をこめ、火繩をかけさせてゐた、式濟むと共に奉行以下は隊伍おごそかに大手門から左について退城する城受取のせいは右について入城する、朝風涼しい中にくりこさむらいと、くりださむらいとは互に會釋した、すみなれた城を出る人におもひで深く、無限の遺憾があつた、受取りの人も夫れをすゐして暗い心が自ふと色に現はれてゐた、たれひとり禮儀を亂す者もなかつた。
丹波以下、かみしも着けた者は最後まで殘つて永井右近大夫、安藤對馬守以下に要所々々の引渡しをした、嚴重な作法のうちに引渡し全くをはると一同大廣間に並んだ。
『是れまで、樣々のお心入れに預かり、願の條々もおゆるし下され有難く存じ奉つる』と丹波は一禮した。
『此度の事、左衞門大夫殿おんうへ、何とも申すべきことばもない、誠に氣の毒に思ふ』と對馬守は會釋した。
丹波以下は、ハツとかうべを下げた、ちやせんかみの老人ながをではは使番であつたが、此時橫を向いた儘輕く一禮した、夫れが上使附、やまさきかひのかみの目を惹いた。
ちよつとした事が氣に入つて甲斐守は並々ならう人物と見て、姓名を問ふた。
退散の時『そちの家族を引取つて扶持しやう、そちが他國へ行つて仕官するのぞみがあるなら、行くまでは予の家の客分となれ』と云つた。
出羽は其懇情をひどく喜んだが、のちにはもりみまさかのかみたゞまさに招かれて仕へたのであつた。
安藤對馬守も福島丹波へ云つた。
そちは上樣お聲がゝりがある、こののちいづれかに仕へたいか、又知行はどれ程望むか』。
『丹波は老人にござります、大夫殿一代のほか仕官望みなし町人となつて老後を送りたいと存じます』とは丹波の答であつた。
丹波が大廣間に取つておいた、家中のぎやうじやうがきのちの證據となつて、福島家浪人は殆んど諸大名に召抱えられたが、丹波だけはそののちきしう侯から二萬石、まへだ家から三萬石で招いたがいづれにも首を振つて、町人として、世を終へたのであつた。


編集

引渡し濟んで丹波以下が城を去つたのは暮に近かつた、三十日あさしほで出帆と定めて、其夜は舟着に泊つたが、夜が明けると俄かに正則の奧方が見えなくなつてゐて、奧方附のぢよちうたちは上使ほんだみのゝかみが盜み出したと騷ぎ出した。
あさに美濃守の侍が訪れた、本多美濃守と奧方とは緣者であるから、たれも氣にかけずに居たに奧方が見えなくなつたと云ふのであつた。
『大殿、しんじやう果てられたで、むりしひの御離緣とでもあるか、美濃守さかしつて奧方を奪ふて御實家まきの殿に送ると見えるわ』。
と丹波は憤ほつた。
『御離緣もし、道を踏んでの御離緣ならさしつかへはあるまい、ぢやが今は我々、殿から預かり參らせてある奧方ぢや、――御家老、手前が理を說いて取返して參る』。
と吉村又右衞門が息まいた。
『拙者も參らう』と大橋茂右衞門も云つた。
吉村、大橋は馬を馳せて美濃守の休息所を訪ふたが、美濃守には變つたけしきも見えなかつた。
『何事が起つた、急用とは』と却つてふたりきよどうあやしんだ。
『何事とはご卑怯でござります、殿は大夫殿と深いごちおんにありながら、今更奧方を何故にお隱しなされましたか、丹波始めお恨みに存じます』と吉村は睨んだ。
『いや、其事か、是れは予の手落であつたが、惡意ではない、はゝはゝ』と美濃守はうちわらつて『あさの內に奧方からの書面ぢや、そちらも知る如くめうけいゐんかいぜんじとかに奧方お袋樣の位牌がある筈ぢや、夫れへお別れの參詣と云ふのでは、おもてたつては事々しい、忍んで參りたいと云ふので、予の方から念の爲侍を遣はした、懸念はない、予はそちらの方でも承知の事と思ふておつた』。
にょせいぢやな、いよいよとなれば名殘を惜しまれるのぢや』。と云つた。
ひとさわがせの出來事はおほわらひとなつて、奧方も驚いて早々に舟着に歸つたが、そのあひだに時が過ぎて舟は潮時に遲れた。
一日延びて七月一日の刻五百艘の𢌞船は順風に帆を上げた、廣島の夏の海、本丸の天守を、人々が見るのも其日が限りであつた、五十萬石の始末は全く終つて、大夫正則、備後守正勝は信州かみたかゐごほりたかゐむらちつきよする、奧方は牧野駿河守に引取られ、臣下は四方に離散した。離散した臣下のうちまきのしゆめかじたいづもをはりだいなごん家へしばたげんざゑもんひごかとう家へ、かまたとのもくろだくらんどほそかわえつちうのかみもりへいうゑもんはちすが家へ、はちやしやうげんは本多美濃守へ、むとうしゆりまつだひらではのかみへ、をせきうゑもんたらういけだしんたらうへ、せんごくたじまとさやまのうち家へ、をせきけんもつありま家へ召抱へられた、それらおもたちしやとして福島家浪人はうれぐちがよかつた、丹波の證明、正則の書狀もあり、且つは福島家が、もと武勇で聞えてゐたので望む諸侯も多かつた。
其中で、久しく浪人していたのは吉村又右衞門である、又右は廣島を去る時、金銀家財を家人、しもべわけあたへてひまを取らせ、自身は正則奧方の供をしてまきのするがのかみの領地に見送り秋風ふきそめた頃には信州高井野の正則の館を訪れた。


編集

『又右か』。
又右を見た時、正則は只一語う云つたのみでしばしはしみと又右の顏をうちまもつてゐた、主從相見るはざつとはんとしぶりであつたが、此半年が十年にもなるやうに正則はおもやせがしてゐた、頭もそりまるめて昔の正則、今はにふどうばさいと稱してゐた。
又右はひろしまおもての騷動、城渡しの始末、奧方の消息を細かに語つた。
『夢ぢや、夢であつた』と正則はいくたびか嗟嘆して『夢にもせよ、あまた家來に樣々の苦を見せた、苦勞のかひなく流浪の憂目を見せたが悲しい、日本國中行く先々で、あれが正則の家來の果てかと云はせるが心苦しい、殊に又右、そちにはなあ。
そちは云ふた、天下弓矢納めの祝ひとして備後一國を献上せいと云ふた、城普請は天下御法度、私に一ぼくせきうごかすなと云ふた、さほど明智の家來をちながら、今はこのていぢや、さほどの家來が今はそのていぢや』。
無量の感が正則にあつた。
『夫れも是れも時の運でござりました、過ぎ去つた三十年、四十年を見返して、殿のおんなは戰場の花にござりました、おもいでに名殘はない功成つて世を避けると思しめて、又右こゝまで來ます道々にも、信州路の眺めは殊更と思ひました、はくうんせいしやうくすりとりおいを養ふ、御裾の塵は又右が拂ひまする』。
又右は主君のせんどを見屆けるのが、其望みであつた。
『おう又右』と正則は淚を浮べた。
そちの心は嬉しく思ふぞ、ぢやが今の予にそちは過ぎものぢや、五尺の池に龍は棲まれぬ、あたら大器を山奧にうずめまい、福島の家來に又右があると、世に出て吳れゝば正則の面目ぢや』。
なんと仰せ、殿、其お言葉はお恨みにござりますぞ』。
『いや、そちは惜しい、世に出て身を立てるが予への忠義ぢや』。
『あゝ、さやうな仰せを頂かう爲に、はるこゝへは、うせませなんだ』と又右は嘆じた。
『ゆるせ、すけいちの昔から仕へたそちぢや、今までの忠勤を何とて無にするたゞ予が惜しむのはそちの其器量ぢや、そちは戰場の勇士ぢや、又、太平の世にも働ける男ぢや、そちの行狀はこゝに書いてある、是れをしようとして仕官を求めい、どこへ行くともそちなら一萬石の骨はある、高うは無い』と正則はてばこを探つてそへじやうを出した。
添狀は正則自筆のぶこうがきである。
てんしやう十八年のをだはらぢんには、又右は助市と名乘り十五才の小姓としてうひぢんしたが、にらやましろぜめに四尺餘のおほたちふるひ、正則のやおもてに立つて敵將との一騎討に陣中にげうめいを馳せたのである。
朝鮮征伐陣には、敵將と組んで組みしかれた事がある、吉村討たすなと人々が手に汗握るあひだに正則は『助市なら其儘におけ、懸念はない』と笑つたとか、其言葉通りに又右は下から敵の首をかきおとしたのである。
正則はもう、早くから又右の器量を知つてゐたが、まだ多い知行を與へぬに、朝鮮役後、又右は諫言を入れて、正則の不興を蒙むり、次いで浪人して加賀の前田家に抱へられた。
前田家にほそのもんどと云ふさむらひがゐて、元は正則に仕へた事がある、正則の行狀をよく知つてゐて頻りに多くのひとなかあくこうしてゐた又右はそれを憎んで、果ては主水をきりたうして前田家を去つた。
さうして流浪するあひだに、再び正則に呼び返されたので、恁う云ふ事情からかへりしんざんの又右はやはり多くの知行にもならず、淸州城時代には勇士との名は諸家に聞へながらも四百石の身分であつた。
關ケ原の前の岐阜の城攻には一ばんのりの手柄があつて一時に千石の加增を受け、そののち加增されて二千石の身とはなつてはゐたが、一體から云へば不遇な方で、正則も夫れはよく心得てゐたのであつた。
そちなら一萬石の骨』と云つたのも其爲である。
又右に取つては一萬石よりも正則のそばまきでもるのが本意であつたが、强いて正則の言葉に背く事も出來なかつた、家來を愛する正則も、五十萬石から一時に一萬石におちた今は昔と變つた手許不如意で、おきたい家來もひまを出さねばならぬ、う云ふ事情を思ふて見れば、又右も我から身をかねばならなかつた、で、彼は次男ののぶみつを主君の小姓に殘して漂々と信州の地を去つた。
『殿のおめがねあだにはしませぬ。又右は一萬石を取つて見せまする』。
去る時、主君に恁う云つたのであつた。


故朋輩編集

編集

又右の流浪は長く續いた。
ずつと前のけいちやう時代には天下の浪人もはゞが利いた、げんき、天正時代にはなほさら巾が利いた浪人から一足飛びに一城のあるじとなつた者が頗るに多かつた、だが其頃はらんせである、諸大名も名ある浪人を歡迎した、浪人も槍一筋で思ふが儘の功名が出來た。
今は太平無事である、雨降り土固まつてこゆるぎもせぬ世となつてゐる、諸侯も武勇のは望むがさりとて、浪人ひとりに一萬石はにくい。
だが『一萬石、一粒缺けても主人は持たぬ』と云ふのが又右の心の意氣である。
慶長頃にはごとうまたべゑと云ふ、つむじ曲りがゐた、くろだ家の老臣三萬何千石と云ふ位置を捨てゝ天下の浪人となつた、ほそかわえつちうのかみが三萬五千石で抱へやうとしたが、黑田家が故障を入れて破談にさせた。
其頃又右の主たる正則も、又兵衞を望んだ又兵衞は三萬石なら奉公しやうと云つた。
『夫れは高い、予が家では一の老臣福島丹波でも、今は二萬石である、夫れより上は出せない』と正則は云つた。
『いやうではござりませぬ、又兵衞を三萬石に抱へるのは當方所望の上だからでござります、所望すれば又兵衞も三萬石、と云へば、丹波も他家に所望されゝば四萬石のねうちがあらう、と人も評判する事でござりませう、是非お抱へあれ』と丹波が勸めた。
正則はかなかつた。
又兵衞はやつぱり天下の浪人であつた、京に上つてたうどう家の厄介になつた、藤堂家で抱へやうと云つた時、又兵衞は一萬石なら、と云つた、又兵衞として一萬石は當時の相場として寧ろ安價であつた、だが藤堂家でも一萬石は出し兼ねた。
又兵衞はやつぱり浪人であつた、慶長時代の又兵衞と云へば、浪人界の鯨であつた、さうして慶長時代と云へば大阪夏、冬陣の前、今にも天下の大亂と云ふ折であった、其時でさへさしもの後藤又兵衞でさへ、うであつた。
まして浪人の相場はさがつた、天下太平の今である、『一萬石一粒缺けても』とは時世にふさはぬ高望みであつた。
かいての無いのも是非が無い、だが又右に頓着は無かつた、どこまでもしやうふだつき一萬石、買はねば夫れまでと流浪する。
いくねんのちすゞかごほりせきの片ほとりのさゝやかな家に、家不相應のおほやどふだが揭げられて夫れには墨ぼくこん鮮かに『吉村又右衞門』と大書されてあつた。
札は新しく大きくても、家は古びて久しいあひだ人も住まず、化物小屋の噂まであつたのを天下の浪人が借受けたので、此時の又右は、もう餘程零落してゐた、家族は女房おさいと三男ののぶひでと、娘と從僕ふたりとで、主人を加へて六人。
ほかに馬一疋。
朝夕の煙も絕えで、冬近い此頃にも、みづくむ娘も薄着である、そゝけ髮の女房は細帶一つに、みづばなすゝる、宣秀は近くの劍術師匠に弟子入りしてゐる、かひしいのはふたりの從僕で、これは廣島以來主人を放れず、藁を打つ、草履を作る、町の人に雇はれてなにがしの賃金にくらしを助ける、主人の又右は手習の師匠で收まり返る、只一枚のあはせ、夫れも胴に膝に繕ひの痕の多いのを、洗濯でもすれば着更へもなく、干すほだひ暖まると云ふみぢめさであるが夫れでも又右に愚痴は無かつた、流浪のやつれもなく相も變らぬ、溫顏、ひまには禪寺の住持の許へいりびたつて、やがては關のお地藏さんのどうもりにでもなりさうなていであつた。
關は東海道の往還、京の道とお伊勢へとのわかぐちで、町も繁昌する、諸大名參勤交代の驛で、人の往來も夥しい、又右の大宿札はいつとなく人目を惹いた。
『あれが吉村又右衞門か』。
見すぼらしい影を見送つてさゝやく人も多くなつた、名を慕ふてまじはりを結ぶ浪人もあつた、又右は浪人にも百姓にも、僧にも、しやうにも、交はる人に隔てはない、昔を捨てゝ腰も低い、言葉も丁寧、話も巧みで、殊にものがたりは元が元だけにじやうづであつた。
だが又右の語る武功話は、悉くひとの手柄、ひとの名譽で、自身の事は露步度も漏らさなかつた强いて聞かれたゞけを答へるのみで、我から恁うとは口にせぬ。
『ゆかしい仁ぢや』と人々は云ふ。
たまさかには昔の自慢話もお聞かせなさい』と親しい者は云ふ。
『いや、手前は云はゞいくさけんぶつに出たやうなもので、自慢の武功は頓とござらぬ』と又右は避ける。
『いや、聞きましたぞ、いひぢんからの御手柄は音に聞えたものぢや、何でも小田原陣には十五才で初陣と聞きました、まことでござるか』。
『夫れはまことぢや』。
『其時、敵方の勇士を谷底へきりおろされたとやら、夫れはどうでござる』。
『以ての外でな、其時手前は太刀、敵はおほさゝほの槍、若輩の手前がなにとてかなひませう、たちまちのうちに傷を受けたでな』。
『傷に屈せず討取りましたか』。
『いや手前傷を受け、敵は槍を棄てゝたゞくじきとくみついてまゐつた、組付かれては手前いのちは無いであらうが、敵は飛びかゝるはづみふみすべつて谷へ落ちてござる、つまりは手前命拾ひが、ふらされて手柄のやうになりました、はゝゝゝ氣恥かしうござる』。
又右の語る、又右の手柄話はたいてい恁う云ふ落ちとなつて、聞く人は却つて、又右の心をゆかしいと見た。
恁うして日を送るうち、冬も押しつまつた夕暮、又右の門口を訪れたひとりさむらひがある。


編集

さむらいは五十年輩、二三のしもべを連れていでたちもさる大名の家老格と云ふしながあつた。
かど掃く又右と、事々しい宿札とを見比べて彼はなつかしげに、又、得意げにほゝゑんで靜かに又右のそばに寄つた。
『吉村殿』。
『や』と又右はほうきの手を止めた。
しゆめ殿か、これは久しぶりであつた、どこへお越しか』。
『お手前を尋ねて參つた』。
『手前をか、夫れは夫れぢや、友あり遠方よりきたるぢや、手前こゝに住むをうお知りであつた』。
うに知りましたぞ、奉公にひまなしで、思ひながらけふはやう思ひを遂げた儀でござる』。
『いかにもいかにも、お手前が中國の殿のお召抱へと云ふ事は豫て噂がありました、ひまなしは結構でござり一別以來、こゝでたちばなしもなるまい、汚くとも又右が城ぢや、おはいりあれ』。
さはゐしゆめは同じく福島家の元家臣で、又右とはこほうばいであつた、ひろしま明渡しののち久しくうちたえてゐたのが、一は大名の重臣、一は零落の浪人として再會したのであつた。
出世の主馬を迎へて、又右の女房はさすが恥ぢた世にあれば二千石の妻が、今は見る影もない、貧家の婦である、みづのみの家にも分相應の身の飾りがあるが、かゆすゝるにも苦勞する今の又右の女房には、客を見るのも無慘であつた。
主馬は想ふたよりもはげしい、このやの樣に驚きの目を配つた一の隅には又右の三男宣秀が膝もあらはぬのこ一枚に父に似た逞ましい腰に荒繩を帶としてゐた、娘はあらいざらしのしまめも分らぬ袷を着てしとやかに手をついてゐた。
裏にはしもべの馬を叱る聲がした。
だが又右はおうようほだを折つていろりにくべる、おほあぐらのびと屈托の色もない、遠來の主馬に隔意なく打語る。
『澁茶など、參れ、はゝ、見らるゝ通りの不如意ぢやで、折角の珍客にもてなしも出來ぬ、女房共、だいこなど掘れ、手作りの馳走を主馬殿に進ぜうよ』。
『ご配慮あつては主馬、心苦しうござる、どうぞ此儘に』と主馬はあるじの出す澁茶を快くすゝる、折柄の戶口には主馬の心付けで町から取寄せた、美酒か來る、色鮮かな肴が來る。
『おう、馳走御持參か』と又右はこゑたかに笑つた。
さきを越されてお恥かしい、ほんの寸志、てみやげでござる』。
『何よりぢや、さかさまごとぢやが遠慮なくご馳走にならうぞ』。
さかづきはめぐる、寂しい家に春が來たやうに主客の聲は花やかに響いた。
『時に又右殿、此度主馬が參つたのは、ちと折入つての相談がござつてぢや、ほかでもなく、お手前ももはや浪人暮しも飽かれたであろう、どうでござる、しゆどりはなさらぬか』。と主馬は探るやうに見た。
『お言葉ぢや、手前とてもいつまで浪人もしたうはない、いづれは仕官もしたいと思ふ、ぢやが不足の主は持ちたうなし、こなたで望む主は又、あなたで嫌ひぢやと云ふ譯で、今も浪人と云ふ次第ぢや』。
『と、なればどうでござる、手前の主君ぢや、こゝが、相談、お手前の主にして不足か、滿足かな』。
『結構ぢやな』。と又右の答は輕かつた。
『ふむ』、と主馬は頷づいて『どうでござる手前が主君が三千石出さうと仰せぢや、お望みは無いか』。
主馬は、これならどうだ、と考へてゐた、又右の名は世に知られてゐる、だが、元は二千石の、零落した今を三千石で拾ひ上げる、又右に取つては飛び立つやうな話と考へてゐた。
だが飛立つやうに思つたのは又右より女房である、始めから主馬の來たのは若しや夫れではないかとすゐしてゐた、若しやが當つて三千石は、今の身に天から降つたやうな幸運で耳にしたゞけでも氣が伸びる、伸るよりも餘りのめうがに寧ろ體にわなゝきを覺えたので。
だが、又右は默つて主馬をまもつた、其顏はいやでも應でもなく、風が送つた落葉の、風に去るのを見送るやうなひやゝかさであつた。
『これはちと突にはかのやうぢやが、まことは手前主君、江戶參勤の折柄にお手前の宿札をお目に止められてぢや、で、手前を召されて吉村又右とは聞えた者ぢや、そちとは故朋輩であろ、とのあはせでござつた、手前もお手前の昔の事などこま申上げておいたところ、此度吉村が欲しい、と仰せぢや、手前所用でくにおもてへ歸るを幸ひ、殿もくれとお手前の事を申されたやうな譯でござる』。
と主馬は說いた。
『いやかたじけなうござる、さほどのおぼしめしならすぐにもと云ふところぢやが、實は主馬殿をりが惡うござつたよ』。
『え』と主馬は目をみはつた、主馬よりも驚いたのは女房であつた。


編集

『少しの違いぢや、主馬殿ほんの四五日前さる殿よりのつかひぢや、召抱えへたいと云はるゝので、手前もしかとお答はせずおつてと申しておいたこのおつてが惡うござる、今更夫れをことはつて主馬殿の方へ傾いては又右の義理が立たぬとなるでな』。
又右はいささか眉を顰めた、女房は呆れて橫を向いた。
『ふむ』と主馬はしあんして『但ししかと口を切らぬとならば、さやうに堅く義理立てせずともと手前は思ふ、夫れともそのほうの知行が多いとでも云はるゝか、手前と、お手前のなかぢや、腹藏なく打明けて貰ひたい、浪人主を取る、知行の望みは遠慮のない事でござる』。
『いや、惡しう取られな、其方の知行はお手前の云はれたより、ちと少い、少い故手前も困る、少いとてさきちぢや、夫れを捨てゝお手前に從ふと、どうやら慾に傾いたやうに當る、人は知らずとも又右心に恥ぢる、折角の懇志を無にして濟まぬが、こりやお手前の方はお斷り申さねばならぬでな』。
又右の心は堅かつた、主馬もい兼ねて失望して去つた、そのあとざんかう、殘酒、又右は微醉のおもて快げにさかづきを擧げる。
『到來物ぢや、味もい、ためさくも久しぶりぢや一こん汲め』。としもべためすけさくのしんまで座に呼んで樂しげにしたづゝみ打つ。
『旦那さま』と女房は恨めしげに又右を見上げた、こらへ堪へた不滿、云ひつくせぬなごりがありおもてを沈ませてゐた。
『何ぢゃ、そのねじくれやうは、はゝ他愛もない』。
『他愛もないとはが事にござります、おちぶれたみそらに三千石が何不足でござりました、さる殿に先約とはうもぬけぬけと云はれました、先約とはどの先約にござります、五十石、百石、どこに先約がござりました、餘りと云えばおなさけない』。
『ふむ、愚痴か、云ふまい云ふたとて返らぬ、主馬殿はもう立去られたわ』。
『云はずにはられませぬ、子供がかあいうはござりませぬか、爲助、作之進にまで數々の苦勞をさせて、いとしいとは思ひませぬか、娘を見て下され、このさむぞらに――』。
『默れ』と又右はきつおもてを正した。
『よく聞け、くどく云ふては女の愚痴とて見過ごさぬぞ、又右の妻なら妻らしい覺悟をて、子供のみじめは子供のみか、恁う云ふ又右も粥を啜るわ、浪人の始めに何と云ひ聞かせた、又右は殿のおめがねぢや、萬石以下では主取りはせぬ、かつえても首は下げぬ、かつえじにか萬石取りかと恁う云ひ聞かせたを忘れぬ筈ぢや。
そちが父御は時めいてをる、ひんつらくばけふが日にも歸つてゆけ、うえじに覺悟は又右一家のきまりと知らぬか』。
又右はにらめた、女房も返す言葉が無かつた。
月が過ぎて又、月が過ぎて訪づれたのは澤井主馬の家來である、うやしく一封の書簡を捧げたが、夫れは主馬の自筆である。
わたしら主君は頻りにきしよを抱へたいと云ふ三千石取消して、改めて五千石で召抱へたいと云ふ、是非に御承諾を得たい、用意の金子もつかひに持たせてある、さう支度しておのぼりを願ひたい』と記されてあつた。
又右はひやゝかに笑つた。
『お使、御苦勞であつた』。
ありがたうござります、まをしつけ、お手紙に書いてある物もこれに持參いたしております』。
『いや、夫れは其儘持歸つたがい、さてそちの主人澤井殿はことし何歲になられたかな』。
『五十二才にござります』。
『ふむ、うであらう、手前もう心得た、五十二才とすれば、まだおいぼれてはをらぬ筈ぢや、倂し此手紙によると近頃俄かにおいぼれられたと見えるな、どうぢや』。
『恐れ入ります、まだやうにはござりませぬ』。
そちは知るまいが、澤井殿は豫て手前に奉公を勸められた、手前は他に先約があると云ふてお斷り申した、然るに又もやそちを使ひとして差越し、文面には祿を增す故是非奉公せいとあるわ、祿を增したとて先約を破るやうな又右でない、町人のうりかひと浪人の奉公とは別ぢや、さりとは澤井殿もそつじである、又右ひどく立腹してると傳へて吳れ、へんじには及ばぬ』。
つかひは舌を捲いて逃去つた。


編集

『賴む、又右は居らぬか』。
つゝぬけごゑの凄まじく、又右の家もれよと響く、表に立つたのは六尺男のほゝひげ深く、身にふさはしいたいとういてゐる、汗臭いかたびらが無慘に古びて網とも紛ふ、尻切れ草履にすなあかがついて、見るも汚い浪人であつた。
『又右』と又呼んだが答へは無かつた、家の中はひつそりとしてあけはなつた戶障子に、裏の木の茂りまでみすかされてゐる。彼は一あしいて宿札を見た。
『吉村又右衞門、ふむ相違はない、いわ、どうめいいじんと云ふでも無かろ、江戶でも噂󠄀に聞いた事ぢや、っまた右の家なら遠慮は無い、はいつたとてぬすびととも云ふまい、いや、又このていなら盜まうとて物も無さうぢや』。
彼は呟いて酒氣を吐いた。
しからば御免』。
のつそりはいつて腰をかける、夏の日のひるを過ぎて往還の砂埃りもムツト臭ふ、彼は手を延ばしてありあやくゝわんを引寄せるや、其儘口を宛てゝグツトあおる。
『又右』と氣にかゝるか又呼んで見た。
『おう』と裏口に聲があつて窓から首を出したのは又右であつた、不審の眉を忽ちわきあがる喜悅にべて『おう、玄蕃か、これは、珍しい』。
『これは大崎樣ようこそ』と女房もあとから驚喜の聲を放つた。客はおおさきげんばながゆきであつた。
『息災結構、なつかしかつたぞ、ごないほうも御機嫌か、いや嬉しい事ぢや』。
主人の坐に着くより、客のにじりあがるのが、早かつた、故朋輩の中にも玄蕃は又右に無二の友である、美々しくよそふた澤井主馬よりも汚い玄蕃の訪れが嬉しかつた、無けなしの財布もはたいて好きなどぶろくも買はねばならなかつた。
『さても久しかつた、そののち貴公、どこをほついた、音づれもないで、酒に吞まれて死に失せたかとまで思ふたぞ』。
『ほつくもほついた』と玄蕃は高らかに笑つて『いややせいぬめが江戶中をほつきまわつた、俺には子もない女房もない、はだか一貫酒が友ぢや、人足ぶやくにも雇はれた、ぬすびとめの番にもなつた、道場へも轉げ込んだ、話せば長いがつまりさかしろの稼ぎぢや、ぢやがもうつく浪人にも飽いたで、がうじやうぼねもへし曲る、一念發起、身を賣つたぞ』。
い事ぢやどこへ賣る』。
『紀州の大納言殿ぢや』。
『不足は無いな、紀州ならほうこうがひがある、先づ目出度い』。
『夫れがどうやら分らぬ、すてうりぢやでたくわが三千石か五千石そこらか、俺は一萬石とも望むぢやがあんどうたてわき、紀州侯附家老)が云ふには、今の世に夫れは無理ぢやそちの思ふ通りに行くものでない、まあ來て見い、惡いやうにはせぬと云ふ、これは書面でぢやが、安藤にはちと義理もある、夫れに俺も家來がかあい、俺の身が定まれば家來も救へる、夫れ是れを考へて兎も角紀州へ行く、まなべらうざむらかみひこゑも行くさうぢや』。
『ほう五郞左も彥右もまだ浪人であつたか』。
舊友の消息は又右の耳になつかしかつた、廣島明渡しの時、よせてきりいると云つた眞鍋、村上の其時のちまなこおもひおこされた。
ふたりしたゝか困つたと見える、やはり安藤にきもいりを賴んださうぢや、俺も賴んだと云はば賴んだやうなものぢや、で、又右、貴公はどうぢや、まだ主取りはせぬと見えるが、俺と一緖に紀州へ行かぬか』。
『まあいやぢや、俺はも少し浪人の味が戀しいでな』。
いやか、たつてと勸めもなるまいな、貴公は俺よりちと賢い、俺がやうにづぼらでも無い男ぢや、戀しいと云へば浪人もかろ、ふむう云はれると俺もどうやら未練が殘る、もちつと氣儘に暮さうかな』。
玄蕃は聊か首を傾ける、此男もちまへの我儘で無論當座のでほうだいではない事は判り切つてゐるので又右は輕く舵を取つた。
『惡い分別ぢやな、俺が浪人戀しいと云ふのは俺だけの譯があつてぢや、貴公が猿眞似をする事か』。
『む、俺は俺ぢや、やつぱり家來がかあひろしまには便りを待つて百姓する奴もある、まゝよ行くとする、笑ふて吳れるな、道々も俺は迷ふてをつたのぢや、ぢやがもう迷はぬはゝゝゝ俺もとしを取つた、實云へば貴公を訪ねて來たのは奉公するに就いて、貴公のそへじやうを貰いたいからであつた、夫れが今となつてふと要らぬと思ふたのも道々の迷ひが芽をふたのぢやが、やつぱり添狀を貰ふがい』。
やくだつかどうか、添狀は書かうよ、ぢやが玄蕃、そのていで紀州へ行く積りか』。
『其體とは』。
『ふゝ、そのみぐるしいていと云ふのぢや』。
『わはゝゝ、いかさまこのていは見苦しい、紀州へ着くころにはこのからびらるゝぢやろ、ぢやとて無い袖は振れぬでな。まあい、たちは此通りじやうものぢや、骨も大崎玄蕃ぢや』。
『夫れが惡い、昔とはちがふ、奉公してあすにもいくさなら夫れもいが、今太平の世ぢや、福島家浪人としては身は崩したくはない、貧乏してもこゝろがけは見せねばならぬ、夫れが浪人でも武士のたしなみぢや、行つて見い眞鍋でも村上でも其心得はあるぞ、貴公はどうもいくさは强いさすがは鬼玄蕃ぢやが、兎角嗜みが惡い、何が立入つた話ぢやが懷中蓄へはたぬか』。
『恐縮ぢやが二三十文はある、些か旅費はあつたが道々飮んで今は二三十文ぢや夫れもさかしろにと思ふてをつた、いかにも貴公の云ふやうに嗜みが惡かつたな、俺には頓と氣がつかなかつた、いのはどこぞで働いて吳れる』。
『ほゝう働け働け、十文稼いで廿文が酒を飮む、首も手足も質に入るゝぢやろ』。
『えゝ、なぶるまい、俺も少々心細うなつた』と思案のといきにしほらしく腕を組んだ。
『少しは懸念か』と又右は意地惡く笑つた。
『懸念は無い、が、福島浪こじきていでは行きたうない』。
『夫れが分つたら、又右相談に乘つてやるどうぢや、五十兩も有れば身支度は出來るぢやろ』
『何ぢや』と玄蕃はまじと又右を見た、事もなげな五十兩に、さすがの玄蕃は呆れさせられたのであつた。で、彼はがらにもなくきよろりとして
『又右おどして吳るゝな、五十兩などゝ大言は禁物ぢや、二十兩、十兩、いや五兩でもいが、さて其五兩ぢや』。
と世にも悲しげに彼はひげつらしかめたのであつた。
いやしい事は云ふまいぞ、元は八千石のだいしんぢや、大手を振つて行くがい、古朋輩のはなむけに、又右が五十兩は進ぜるわ』。


編集

『何ぢや』と玄蕃は又もや脅されたのである、だが又右の顏はまじめに輝やいてゐる、まんざらうそとも見えぬので、玄蕃はすく。
『有るか』。
『有る』とにこつく。
そのていでか、このあばらやに住んでもか、ふゝむ俺は又貴公も俺に劣らぬ貧乏かと思ふてをつたが、はてなあ』とといき
『貧は貧ぢや、此通り夫婦其日の糊口も六つかしい有樣ぢやよ、ぢやが武士の嗜みはあるぞよ』。
女房はそばでひた呆れに呆れさせられた、始めはうそかと聞いてゐたがをつとの顏を見ればうそとも思へぬ、と云つてこのやせせたいどこに五十兩の大金があるか、馬を賣るか娘を賣るかとまで恐れもしたのであつた、だが又右は平氣であつた、彼は靜かに立つて、此身にもまだ賣殘してあるぐそくびつふたを開いて、中から出したつゝみはづつしりと重い。
恐ろしい謎をかけられたやうに玄蕃は目をみはつた、女房も色が靑くなるまで驚ろいた。
又右の開いた包の中にはまざと三百兩の金があつた、夫れを分けて五十兩を玄蕃の前においた。
『寸志ぢや』
『いや、もう』と玄蕃は逞しい肩を落してふしくれたつた手を下げた『又右、恐れ入る、玄蕃此通りぢや』。
きよすを守つて石田方數萬の軍を睨み返した鬼玄蕃の目にも、故朋輩の懇情ひしと身にしみて、言句も詰つて淚がにじむ。
しばし、借りる』。
『いや貸すではないぞ、又右町人ではない金貸ではない、進ぜるのぢや、斷金の友、大崎長行のかどでを祝ふのぢや、喜んで受けて吳れ、但し酒にしては困る、酒には子供のやうな貴公ぢやが、又右が寸志を酒にしては困るぞ』と又右も手をついた。
『無事に紀州へ着いて目出度く出世を蔭ながらこゝで祈つてをるぞ』。
又右は殘る包を櫃に收めて今度はくつかごを開いて錢一貫文を出した。
『これは旅費に進ぜる』。
重ねの友情嬉しく、玄蕃は勇んでいとまを吿げた、伊勢から紀州へ、道はさして遠くはない。
『又、會ひに來る』と玄蕃は云ふ。
『いや、會ふまい、會へまいぞ、俺もいづれはどこぞへ落ちつく、落ちついたらこなたから消息もする、夫れまでは東西、流浪ぢや』。
玄蕃は去つた、見送つた又右が家にはいると女房はそこになきふしてゐた。
『何ぢやそのほえづらは、無二の友の出世のかどでに不吉の淚は見たくないぞ』と又右は屹とおもてを正した。
ともだちが何程だいじでござります、家、さいしよりだいじでござりますか、餘りと云へば其心ぢや、えゝ、水臭い怨みます怨みます』。と女房はひた泣きに泣く。
『ふむ、玄蕃にやる金が惜しいと云ふか』。
『惜しいとは云ひませぬ、あれ程の大金をお隱しなされた、そのおむねくちをしうござります、憂い目、辛い目、飢え寒さをつまこに見せながら、あの大金の內、一ひらにても出される事か知らうお顏でけふまで過された、娘のあの姿がさもしいとは見えませぬか、貧のせがれと我からひづむこの宣秀がいじらしいとは見えませぬかともだちの姿がさうも映る目につまこやつれが見えませぬか、さうしたお心と知らずにけふまで連れ添ふたが悲しうござります』。
『で、何と云ふのぢや、歸ると云ふのか、去ると云ふか』。
『今日限り、も早、わらははおいとまを願ひまする』と女房は泣聲を絞つた。
『はて、是非もない』と又右は口を結んで哀れむやうに女房を見た、女房の肩は怨みにふるへて波打つてゐた、又右は眼を閉じてしばし考へてやがて靜かに坐に着いた。
『宣秀は居らぬか。娘は居らぬか』。と欝した聲で呼ぶ。
裏口におづと避けてゐた娘と息子とが促し合つて來てかしこまる、日は暮に近く、表の道はかたかげりがしてゐた。
『女房も聞いておれ、又右は人の親ぢや、親心に子は何よりもかあいぞ、成るならば衣服も得させる、非人のやうな粥も啜らせたくはない、ぢやが三百兩がなにになる、あれを出してくらしをしをらば今頃は早や一錢も殘さず使ひ果しておらう。
あれを出して商ひのもとにして見よ、武士はうりかひの道を知らぬ、忽ち失ふは知れた事ぢや、いづれにするも手には殘らぬ、殘らねばつゞれもまとふ、粥も啜る、遲速はあるとも落つるところは同じ事ぢや。
俺は武勇の名を落したうない、貧に落ちても吉村又右ぢや、自然の用意を心がくる、世に出ると起きに恥は見ぬ、其心がけ知らずしては武士の妻にはなれぬものぢや、宣秀も聞け、娘もよう聞け、そちらが母はけふ限り母ではないぞ』。
又右はふたりの子と妻とを見比べた、其眼はあはれみの色をたゝへてゐた、次の日、女房は五十兩の金を與へられしもべの作之進にまもられて實家に去つた、二三ケ月して宣秀と娘とは爲助に送られて廣島に去つた、廣島には又右のゆかりの者があつたので又右は二子をそこへ預けたのであつた。
一家は離散してあばらやには又右ひとりが殘る、孤獨の浪人は馬一疋を友として月を送り月を迎へたが、夫れも長くは無かつた、彼は聊かの荷を馬に積み、我手に綱を曳いて、へうと伊勢を立去つた。
そのあとへ訪づれた大崎玄蕃のつかひは、ぬしなきあばらやを見たゞけで、空しく引返した。
又右に別れた玄蕃が紀州へ着いた時には古朋輩の眞鍋五郞左衞門さだなり、村上彥右衞門みちきよも着いてゐた。
三人が紀州附家老安藤帶刀に會ふと帶刀は三人の武功を問ふた。
眞鍋と村上はともに十四才のうひぢんからの數度の功名手柄を語つた、いづれも人に超えたぶこうもので眞鍋は廣島で二千石、村上は五千五百石取つてゐた者である。
玄蕃は別に武功も語らなかつた。
『手前は元はきむらひたちのすけもとらうと申して小祿の者でござつたが、そののち福島家に仕へてさむらいたいしやうとなりさむらいげちした事もござるから、さのみ鈍くもござらぬ』と云つたゞけであつたが、彼の武功はもう、故家康將軍にも知られてゐた程で、帶刀ももとから知つてゐた。
三人共首尾よく扶持について、玄蕃は特に三千石を給せられた、玄蕃には不足でも浪人から一足飛びに新參の身が三千石は、餘程の待遇である。兎も角も身が定まつたので、玄蕃は又右の零落を思つて、腹心の者を伊勢へ遣はしたのであるが、又右は却つて夫れを避けたのであつた。


編集

うして又右が、あらたに落ちついた先は大阪てんわうじの片のほとりで、家は關の時よりも狹く小く、あるじねまへ馬が顏を出す、人が客か、馬があるじけじめのつかぬと人は噂する、夫れが吉村又右と知れてはいよ話の種にのぼる。
又右は浪人以來殆んど息つくひまなく貧に追はれてゐた、分別にたけた彼は時にはまとまつた儲けを得た事もあつた、が彼には譜代の家來がある、それらは廣島近在に住んでひやくせうをしてゐるとは云へ、もとより手慣れぬわざで暮しも立て兼ねてゐる彼は夫れを思ふ事が深い、身にゆとりがあれば家來を思府、粥啜つたあまりはびんを求めて廣島へ送つてゐた、自然又右はいつになつても窮乏である、天王寺に移つてからは聊かやまひを得た事もあつて手許はいよいよ不如意となつた、永い間連れ步いてゐた愛馬のりやうも此頃はもう買ひ兼ねるやうなありさまとなつてゐた。
かげも辛かろ』。
と腕を組んでじつと見入つた事も度々であつた、人は粥すゝつてもいのちがつなげるが、馬はかてが惡いと見る見る衰へる、そのおとろへを見るのも辛かつた。
『俺に飼はれたが、不運であつたな』。
呟いてはといきした、だが、愛馬の鹿毛はまだ瘦せも衰へもしなかつた、たてがみ勇しくいなゝけばてんばくうを望むのいきほひがある、四蹄輕く走れば地につかぬかのがいがある、近いあべのに乘り出してまぐさ飼ふて歸る時は乘る人も馬も人目についた、あたら名馬素浪人にふさはぬ、ふせやに老いさするは惜しいものと見たのは近くに住むばくらうであつた。
『おさむらいえお馬ぢやな』。
これか』と又右は笑ふ。
『どうでござります、賣つては下さらぬか、今なら高く買ひますが』と馬喰は打込む。
『いや、こればかりは賣りたうない』。
うはござりませうが、近頃、さる御大身が馬を買ひたいと云はれます、あたへをしまぬ兎角優れたのをと仰せぢや、こなたのお馬も今が花ぢや、おはらたちか知りませぬが、やはりご大身のおうまやに飼はれたがしやはせと云ふものでお馬の爲にもならうと思ひますが』。
『と云ふても此馬は放せぬでな、俺になづいて馬も放れぬ、ひとでに渡すはいじらしい』。
『ぢやとてなあ、畜生でござりますぞ、放せば叉新しい主人になづきます、お馬の出世ぢやお賣りなされ、お賣りなされ、二十金、三十金、此折ぢや四十金も惜しみませぬがな』。
馬喰は頻りに勸めたが遂に馬を賣らなかつた、其夜である。
又右は充分のまぐさませて、トンと馬の首を打つた。
『鹿毛まゐらう』。
彼はヒラリと乘つて家を出た、向ふところは阿倍野である、ほそやかに秋風吹いてすみわたる空にはかげんの月が懸つてゐた。月が描いた馬と人との影は織るやうに動いて野の中に出る。
阿倍野はかせん二國のなかにある、天王寺からすみよしへの道、昔きたばたけあきいへけうが朝敵と戰つた跡、近くの大阪陣には此あたりも兵火のちまたとなつた、大阪陣と云へば又右にも深いおもひでがある。
主君大夫正則は豐臣家の股肱であつた、其豐臣家は大阪陣で亡んだ、あの時主君が豐臣家の味方をしたら、夫れに應じてせいこくの諸大名が味方したらどう變つたか、測り知れぬ世のうつりかはり、目に見えぬ力が德川方にさいはひを與へた、豐臣家も亡んで久しい、しゆかも破滅して又右自身も流浪の身となつた。
昔を想ふと昔が戀しい、そこに千秋のうらみがある、野の中のてんかぢややは、太閤ざいせの折、すみよしまふでゆきゝのおやすみじよであつた、主の正則もこじうの列にあつた事もあつた、一里に亙る砂の丘、風そよぐ草、道をつゞまつ、夫れにもこれにもおもひでがある。
又右は野の中に來て馬を下りた、すゝきの上を月が走る、野末は霧がたちこめてゐた。
『鹿毛よ、今宵限りに、そちとも別れぢや』と痛々しい目に馬を見た。
しやうあらば聞け、一度は世に出てそちをも安らかに老いさせうと思ふてあつた、ぢやが夫れも今はおぼつかない、今はかてさへ思ふ程は吳れられぬ、せめては心ある人への贈りものとも思はぬではないが、贈らうと云ふ人も見當らぬ、賣れと云ふ者はあつても賣るはいやぢや、永年ようたたせたそちを金に替へては心に濟まう。
で、放つ、ひまを吳れる、賣らぬが棄てる、阿倍野は廣い、そちにはそちの運がある、運に任せて風に乘れはなづらの向くまゝ風にゃうに去れ』。
馬はたてがみを振ふて、どうちからあしを踏む。
彼はくつわつかんではんわに引𢌞して馬のおもてを住吉のかたに向けた。
『恨むな行け』と輕くしりを打つた、馬はつとかけだして、ゆるやかにまひもどつて、のつそりと步みよる、肥えた馬と、はげひたいの背高い老武士とは又顏を見合はせた。
『ほう、いやか』。
馬はうなだれてすりよつた。
『行け、行け、果てがないぞよ』。
彼は再び馬を打つた、月が濟んで馬が嘶く靜かな夜に二たび、三たび嘶きつゝ馬は風の如く飛び去つた。
遠ざかるひづめの音に又右は耳をすまして屹と野末の霧を睨んだ、其夜を限りに馬のゆくへを知らぬ、あくる日に又訪れた馬喰の不審する顏を見て又右は云つた。
『面倒ぢやで、よそへ吳れたわ』。


吉村傘編集

編集

人のゆきゝしげきなにはの辻の巷に、近頃現はれたひとりの讀賣りがある、あみがさ深くかぶつて顏は分らぬが、そこちからのある錆びた聲、よしある人とはすぐにも頷かれるものごし、夫れが馬と別れたのちの吉村又右であつた。
だうとんぼりには芝居がある、淨瑠璃がある、さいもんよみ、辻講釋、世はのびやかになつて人は樂みを追ふ折柄、又右の讀賣りも一時浪華の評判にのぼつた。
いづれも聞かれい、披露しますは關ケ原陣の物語ぢや、時は慶長五年の秋、三成一黨十二萬八千人、家康公七萬五千人、西東に分れて天下分目のだいかつせんぢや、武功、手柄の數々を詳しう書いて賣り申すぞ、作者は其折陣中にあつた者、書いた事にうそはござらぬ、一文賣りには過ぎたものぢや』。
又右は恁う云つて賣り步いた、武骨な賣り言葉も作者が陣中にみきいた事と云ふだけに辻に巷に夥しい人を集める、又右は文筆の才がある、書いた事も面白い、筆蹟も美事であつた、浪華は廣い、買ふ人も多い、又右のみいりも多かつた。
だが、噂の立つにつれては、自ふと人も素性をあやしむ、編笠をのぞいて名を聞かうと云ふ者もある、又右は夫れがうるさくて、讀賣りもしばしめて、あらたに案じ出したのは雨傘の手內職であつた。
細工は巧みである、もちもよい、殊には勇士の手作りとある。『吉村傘』との評判が立つて、作るそばから賣れてゆく、浪華だいこくやつんぼがさが珍重されたのはそののちに事であつた、聾傘の出ぬ前にも傘職人は浪華に多かつた、多い中に又右は『吉村傘』の名を取つたのであつた。
だが、手內職に作る數は知れたものである作るより注文が多い、日每に受ける催促が又右にはうるさかつた。
又右は遂に身を隱した、吉村傘の名も消えてのちいくげつ、しとしとと降る雨の夜に天王寺口の辻番所を驚かしたのは賊よ賊よの、けたゝましいさけびであつた。
『それ逃がすな』。と番所の役人はさうだちとなつて棒を構へた、だが賊は覆面の三人で、片手には夜目にもしるだいとうひつさげてゐた。さへぎる役人を見て『さがれ』と喝した。
役人はしりごみする、あとから追ふ者も手は出せなかつた、賊は悠々と步む。
『近よつて怪我するな、近よればなでぎりぢやはゝゝうぬらとらはるゝ者でないぞ』。
不敵な賊は、からと笑つて番所の前を過ぎた、闇深くこゝを過ぎさせてはもはや捕ふべきてだても無かつた。
折柄のゆくてに只ひとり立塞がつた番人があつた、彼は夜𢌞りのちやうちんを手早く吹き消して屹と棒を構へた。
『不敵者、立去るまい』。と聲に力があつて三賊はされたやうにヒタと立止まつた。
『おういのち知らずがとめだてするか』と賊のひとりは刀を構へた。
『辻番人の役目、通す事はならぬ、神妙に繩を受けい』。
『えい』と斬込んだ賊は、まつかうに棒の一擊を受けてだうつと倒れた、役人が飛びかかつて繩を打つた。
次の賊が斬込むひまに殘りの賊はさつと走つた、だが番人の棒は夫れよりも早く一賊の刀を打落して走る賊の股に飛ぶ、一賊は役人にくみつかれた一賊は棒に倒されて番人の手にそくくびつかまれた、三賊繩についたのは番人の手柄で、身を隱してゐた吉村又右が其番人と分つた。
夫れからの又右は又人目につき出した。
『あれが吉村又右衞門と申す者ぢや』。
『福島家で二千石を取つた覺えの者ぢや』。
番に立てば行過ぎる人々がさゝやいて通る、ふりかへつて見る、又右には夫れがこうるさい一つとなつた。
役人衆が目をかけて兎もすれば引立てやうとする親切も有難迷惑であつた。
『手前は出世の望みがない、どこぞ人目にかゝらぬ處へ逃げたいと存ずる、夫れにはおんぼうが殊の外身にふさふと思はれます』。
又右は遂に役人の世話で燒場の隱坊と身を落した、野の中の小屋、ひとまじはりの出來ぬ身となつても結句は其方が氣樂である。
彼は一竿の竹、一個の俵をかついで飄々と小屋に移る、竹は何の爲か俵は何か、人も問はねば人にも語らぬ、いつの程よりか彼の身代は竹一本と俵一俵となつてゐたのである。


編集

又右の隱坊生活は久しかつた、新米の隱坊となつた時には親方もあつたが、親方が死んでからは又右が親方となつてあらたに若い隱坊を迎へた。
浪人してから二十年を過して貧乏は相も變らう、天下の浪人も六十二才の老骨となつて世はくわんえい十六年となつた。信濃に蟄居の主君父子の內、備後守正勝は元和六年に死んだ、左衞門大夫正則入道馬齋は寬永元年七月十三日に卒去した、父子の知行七萬石の內、正勝死すると共に二萬五千石を將軍に返上した、正則が卒去した時には江戶からの檢使が來ぬ前に家臣つだらうべゑが火葬した爲、まをしわけ立たず、殘る四萬五千石も沒收されて福島家もあとが絕えた。
夫れも十六年も昔となつた、又右の今は淋しかつた故朋輩も既に夫れの大名に仕へて世に時めいてゐる、だが『一萬石』と豪語した又右は今も非人と等しい隱坊である。日每日每に人の屍體を燒いて、己れも燒かるる日が近づいてゐた。
だが又右はまだ氣が老いぬ、紀州の大崎玄蕃が人を出して搜して訪ね來させた事もあつたが、誘はれても紀州へ便らうとはしなかつた、五百石、六百石で抱へたいと云ふ口もあつたが一切首を振つてゐた、寬永十六年の春、ひさしぶりに訪ふれたのは三男宣秀である。
宣秀はもう逞しいわかものとなつてゐた、父に似て思慮も賢い、武勇を好み、西國九州を遊歷して、これから江戶へと云ふ途中を立ちよつたのであつた、隱坊小屋の春の夕ぐれ武者修行者姿の宣秀はかど近く辿り來て內を覗いた、ちゝふるぬのこに膝組んでゆふげあはかゆを煑るところであつた、一まきりのふるむしろ敷いた中に爐を切つて上から下した鍋を、あかと焚火がめぐる、煤けたうつばりほのおが映つて六十のひげつらが浮出して見えた。
表にはすゝきはらに石垣組んだのが二三ケ所、遠い方のへは棺を載せて、新米の隱坊が、今火をかけた折柄でる、渦まくけぶりたそがれいろどつて棺は白々と炎の舌に嘗められてゐる。恁う云ふところに恁うした父を認めて宣秀の心は不覺に淚を誘ふた。
『父上』と小腰をかゞめて聲はふるへた。
『う、たれぢや』。
『廣島より宣秀が參りましたぞ』。
『おう宣秀か』と又右は表を透かして『遠慮はない、父のすまゐぢや、よう來た、近頃どうやら會ひたいと思ふてをつたが、さては恁う云ふ事になつたか、わはゝ思ひがけない』。
『おなつかしうござりました』と宣秀は手をついた。
『大きい男となりをつたな』と人となつたわがこの姿に又右のまなこは喜悅に輝いた。
『親はなくても子は育つか、賴もしげなそのていぢや、何は兎もあれ足を洗へ、井戶はそこにある、死人を燒く火で暗うは無い、いや宣秀父も見る通りぢや、隱坊のかしらとなつて過してをる、隱坊臭いと笑ふまいぞ』。
笑ふ父を子は悲しまれた、足を洗つて坐についた時にもなみだぐんでゐた、夫れでもとしに似ぬすこやかさ、昔に變らぬふとしゝの、胸中一點曇りもなげな言葉つきがうれしかつた。
夜と共におやこは語る、燒場の火は燃えさかつて月はけぶつて異臭家を襲ふ。
『廣島に變りはないか、人々もとしとつたであらうな』。
だれたれも健かにござります、只たかゐうゑもんが去年の秋に世を去りました』。
『始めて聞く、惜しい男ぢや、少しは世にも出してやりたいと思ふてをつたが、まだ死ぬやうなとしにでなかつた』。
も死ぬきわまで申しました、せめて父上が世に出らるゝを見て息を引きたいと其事ばかり云ひ暮してをりました』。
うは云はう、浪人も廿年ぢや、家來にもさまな苦勞をさせた、彌五右にはもはやい日も見せられぬ、いや、い日の來るまで俺が生きてゐらるゝか、夫れもおぼつかつかなうなつたわ』。
と又右は苦笑した、廣島におくけらいたちはそれも皆又右を信じて、他にも仕へず鍬をつて田を打つてゐる、それが廿年のあひだで、廿年を久しいとも思はず、じつと忍んで待つてゐるのも又右のうでを賴みとするからで、だがそれほどに賴まるゝ身が時を得ずに空しく老いた、身一つは隱坊一代、飢えても悔いぬが、家來のゆくすゑを思へばさすがに心が曇る。
苦笑のあとといきであつた。
子も夫れをすゐして、父をいたむ、一燈こさびしく搖れて春のおぼろにのきばのぞく、燒場の火はまだ燃えさかつて、そこを守る人影がしよんぼりとうごめいてゐた。
『ぢやが愚痴は云はぬ事ぢや、人間望みあつて世は樂しい、分らぬあすが面白い、俺にもそちにもあすがあるでな』。
又右のおもては再びえた。
あすと云へば、父上、あのおほはしもうゑもん殿ぢや』。
『むゝもゑが』。
『風のたよりに聞きました、茂右衞門殿も久しう流浪されましたが近頃はうんしうの殿へ仕官されました家老との事にござります』。
『茂右がか、にもうあらう、茂右ならどこへ出しても押しも押されもせぬ家老ぢや、はて近頃うれしい話を聞いた。』
うれしいと云へば父上ひろしまにも近頃父上の嘻ばれる事がありましたぞ、あの御城下のこくたいじぢや』。
『國泰寺、なつかしいの』。
廣島國泰寺は元は安國寺と云つた、一代の怪僧安國寺ゑけいが一生の心血を注いで建立したきよさつである、關ケ原の役後惠瓊はちゆうににふくして寺も荒廢しかけたのを、正則が惜しんで修築し名も國泰寺と改められたもので、其住職のふしやう禪師は惠瓊の實のをとゝで、正則がびしうから迎へた碩學である。
普照禪師には又右も長く參禪した事があるのみか、國泰と云ふ名もほうたいかふの法號から取つたもの、寺の前には太閤の廟があつた、夫れも正則が建立したもの、何につけても又右に取つては太閤の世もしのばれ、主君正則の繁昌した頃もおもひださるゝ寺であつた。
『禪師もまだ、まめであらうな』。
『至つて健かにござります、で、あの國泰寺の太閤樣廟所でござります、夫れ、寺の前にありますで、往還の者も拜みます、大夫殿にも太閤樣御恩を慕はれ、又は諸しよにんにも拜ませる爲にあのやうに寺の前に建てられましたとか、夫れは父上御存じぢや』。
うぢや』。
『ぢやがあさの殿、廣島を領して御入國あつてのちには御廟所を寺の中へ移されました』。
『ふゝむけたいぢやな』。
そのわけと申しますると、淺野殿おいへも元は太閤樣譜代にござります、で殿にもあの前を通らるゝ折にはげじやうして拜まれてありました、ぢやが、諸人の見る前で下乘、これが江戶將軍家に聞えてはどうかとの遠慮でござろ、遂には御廟所をじないに移され、御參詣もないと云ふ事になつて居りました』。
『いかにものう、淺野殿としては其御遠慮は當然ぢや、ぢやがあれは諸人へ拜ませるその前を通る人々に太閤樣の遺風を偲ばせると云ふが大夫殿のおぼしめしぢや、なかへ移しては大夫殿御心でない、淺野殿御領分ぢやで移すも移さぬも淺野殿次第ぢやが、さしもおほだいめうの大夫殿の殘されたものがうとは聞くのみでものういのう』。
又右は嘆じた。
『禪師もそのやうにかこたれたと聞きます、ぢやが又そののちでござります、近頃になつて淺野殿おぼしめし變り、御廟所も元の寺の前に移されましてござります、いさゝかの事のやうでも、わたくしもそゞろうれしいと思ひました』。
『ほう、近頃に、夫れはうれしい』と又右はにこつく、鍋の粟粥はもう出來て、ふたを取れば香ばしいけぶりが立つ。
『話のうちめしも出來たぞ、そちも腹が減つたであろ、父が手作りの馳走するわ、近頃は父もぬけめが無いで、畑も作る、菜をつくる、こゝらが又地も肥えて出來がいで、粟粒もじやうものぢやわはゝゝ』。と笑つて又右は立つ、門口に出て。
たざう』。
『おう、おやぢめしか』。と遙に燒場から答へたのは隱坊の太藏で又右の子分であつた。やがてのそりと門口に瘦せた四十つらを現はしてきよろりと中を見る。
『仔細は無い、太藏、俺が忰ぢや、國元から尋ねて來をつたのぢや』。
『や、夫れは夫れは、ほうおやぢにのう、立派なお武家ぢや、へゝえ忰殿、俺は太藏と申しておやぢの厄介者ぢやで』と太藏はおづゐろりによる。


編集

父子と太藏と暖かい粥を啜つて暖かい夢を見たあけの朝であつた、朝支度をして燒場へ出た太藏の前に立つたのはひとりの武士である。
ともびと五人を連れて、いでたちの淸らかさに身分の程もすゐせられる、分別盛りの額に聊かの皺を見せた年輩である。
『少々ものを尋ねる、此燒場に吉村又右衞門と云ふ仁が居らるゝ筈ぢや、そちは知らぬか』と武士の言葉はをとなしやかであつた。
『はてのう、遂ぞ聞かぬ名ぢやが、此燒場には俺とおやぢふたりきりぢや、いや、ゆふべおやぢの息子殿が來た、夫れならあそこの小屋にる』。と太藏は云つた。
武士は頷いて小屋の前に進んだ、賴まうと云ふまでもなくあけはなつたあさまな小屋からは又右と宣秀とが不審の目でこなたを見てゐた。
『これは卒爾であつた』と武士はおちついて小腰をかゞめて『無禮はお許しあれ、手前はくはなまつだひらえつちうのかみ家來おほつでんうゑもんでござる若しやお手前は吉村又右衞門殿でござらぬかな』。
『いかにも手前又右衞門でござる』と又右は膝を直した。
『さては尋ねたかひがござつた、先づ御免あれ』とでんゑは中にる。
傳右の來意は、うもの又右にはるかぜの便りであつた、傳右の主君松平越中守さだつなは故家康將軍の義理のをとゝひさまつさだかつの次男である、まへやましろよどのしろしゆであつたのが寬永十二年から桑名城十一萬石のあるじとなつてゐた。
越中守は福島家改易の頃に吉村又右の名を聞いてゐた、又右が福島丹波のつかひとして、ひろしま受取總奉行永井右近大夫や老中安藤對馬守の前に出た時の、辯舌、膽氣、使命をはづかしめなかつた才智などはそののち諸侯のあひだにも語り傳へられて、なほそのうひぢん以來の武功も名高いものとなつてゐたからで、それらの噂を聞く每に越中守は又右のひとゝなりを想ひ、流浪してゆくへ知らずとなつたのを惜しんでゐた。
又右が伊勢の關にゐた事は、越中守はまだ山城の淀にゐた、越中守が關に近い桑名を領した時には、又右は既に天王寺に去つて吉村傘を賣つてゐたのである、恁うして越中守は折あらば又右を家來にとは思ひながら、其折も得ずにゐたのが、近頃となつて隱坊暮しの又右の事を聞き、さては大津傳右をつかひに立てたのであつた。
仔細は傳の口から語られて、又右も越中守の懇志に動かされた、さうして越中守の賢明な事は前々からきゝつたへてもゐた、だが又右はにわかそのめしに從ふとは云へなかつた。
又右は一萬石一つぶ缺けても人には仕へぬ覺悟である、故主正則も一萬石の器量と云つた又右も一萬石でなくば他に仕へぬと正則にちかつた、正則は死して久しくなつても又右は盟ひをほごにせぬ、とすれば越中守は十一萬石の大名である、十一萬石で、新參の家來に一萬石を吳れられるか、どうか、大崎玄蕃は廣島で八千石取であつた、夫れが紀伊大納言に仕へる時は三千石となつた、大納言は大領主である夫れでも玄蕃に出したのは三千石、大納言に比べて遙かに知行の少い越中守が、又右の老骨に一萬石を拂ふかどうか、況んや又右は廣島では二千石取であつた、一萬石を望むのが無理で、出さぬが道理である。
で、又右は腕を組む。
傳右は膝を進めた。
『仔細は今申した通りでござる、で、殿は是非にお手前を迎へて參れと申されました、ぢやが是ればかりはいてとは云はれませぬ、大名が家來をえらめば、武士もよきしゆを撰んで仕へまする、殿がお手前を望まれても、お手前が殿を嫌いぢやとあれば、是非もござらぬで、傳右が申すは憚かりでござるが、われらとのいづかたに云はせても惡しうは沙汰されぬ、文武を極めた賢明の君とたれも申します、さてお手前はどう見られてか、主に取つて不足と、恁う云ふ思召もござらばぢやが』。
ないとて不足などゝ手前もとより越中守殿のお政治も聞きつたへて、輕薄ではござらぬまこと慕はしい君と思ひまする』。
『重疊、手前も面目にござる、主にしてお手前に不足ない、さらば是非にと云ふても宜しかろ、さてそこで知行でござる、お望みは福藏なくまをしきかされたい』。
『いかにも望みがござる、大津殿手前は一萬石、其下もいや、其上も望まぬ、只一萬石を望みますぞ』。
又右は笑んだ、傳右は膝を打つてくわんぜんと笑つた。
『これは不思議』。
なんとござる』。
『さればぢや、殿は傳右に申されました、吉村又右ならすてうり一萬石ぢやと』。
『ほう、殿がまこと』。
『先づ殿のお墨付、御覽あれ』と傳右は始めて越中守の書簡を出した、夫れにはねんごろなもんじこまと記されて、桑名の家に事ある時いくさの采配悉くそちに任せたい、采配料一萬石は、そちの器量をねぶみしたと思ふな、當分のまかなひと心得よ、とまで書いてあつた、又右は三たび讀返して、目は感激の色に輝いた。


編集

『傳右殿、又右有りがたくお受けを致します』、と稍あつて云つた又右の目には淚さへにじんでゐた。
『殿へは何の御奉公もまだせぬ又右が、一萬石望むはおこと思はれやう、ぢやが傳右殿手前は心に思ふ事がござる、故主大夫殿との盟ひもござる、一萬石一粒缺けてもとは、そも浪人の始めよりの覺悟でござつた、萬石取らずばうえじにと此廿年をふてゝござつた、曲つたつむじを殿はよう見ぬかれた、士は己を知る人の爲とやら、又右このらうこつに碎いても一萬石の奉公はしまする』。
おいへおんため、傳右もめでたうお祝ひ申す』と傳右は晴れやかに云つて小屋の外をかへりみた。
『是れへ』。
供の家來がうやしくはいつて來て一封の金を捧げて又右の前に据ゑた。
『殿の思召でござる、何かの支度にとの仰せでござる』と傳右は云つた。
いや』と又右は手を振つて『これはお預けぢや、まだ殿に一度のお目見えもせぬ又右が今からかやうのお金頂戴しては心苦しうござる又右の浪人てもと不如意とすゐせられたおなさけと存じまするが、不如意のうちにも又右は豫ねて聊かの用意もござる、これはひらに御用捨』。
おとなしくいなんでも、其聲には力があつた、傳右もさすがいてとは云ひ兼ねた、又右は立つて小屋の隅に立てかけた竹竿を外した、うつばりに吊した俵を切落したすすまみれの俵を開けば、中にはこんいとおどしの鎧一領もゝなりの甲もあつた、のしめもあった、用意は美事である、槍一筋のさむらいとして押しも押されもせぬ吉村又右衞門の裝ひは古竿と古俵の中に籠められてゐたのであつた。
『かやうに一時の用意は整へてをります聊かの嗜みお賞めにあづかりたい』と又右は快よげに會釋した。
『お美事ぢや、手前もよきをしへを見ましたさすが殿の懇望されたお人柄ぢや』と傳右も深く深く感嘆した。
隱坊小屋に春滿ちて燒場の桃も色增すと見えた、日さし暖かな其日又右は宣秀を連れ、傳右に連れられて住みなれた小屋を去つた、淸らかな傳右の姿と浪人のまゝのふるぬのこだいとうよこたへた又右の姿とは相並んで伊勢へ下る、途中傳右は馬を勸め、かごを勸めたが又右は悉くいなんでかちのまゝであつた。
又右を迎へた越中守の喜びは云ふまでもない、直ちに家老職を授けて松平家ぐんりよの事一切をうちまかせたのである、そうして桑名の城下に新に家老職吉村又右のやしきが構へられた、其邸へ間もなく訪れたのは破れた衣類に大刀をぬりの剝げたぐそくびつを負ふた大男で、其次の日にもふたりの大男がかどに立つた、ひとりふるつゞらに鎧を入れ荒繩をからげたのをかついでゐた、ひとりは槍を杖に籠をひつさげてゐた、籠には鎧甲がつややかに光つた、いげう異類の男が每日又右を訪れて桑名藩中の目を驚かしたがそれらいづれも又右の家來で、素姓を聞けばいづれも戰傷武功の者、廣島近在五里七里の村々に廿年間鍬を取つてゐたので、流浪のあひだにも又右は此人々に聊かづゝの手當を送つてゐたのであつた。
『又右は過分の家來であつた、時を得ば一城のあるじとなつたであらう』とは越中守の言葉であつたとか。
又右が桑名に仕へたのは十二年間で、主君をたすけて少からぬ治績を擧げた、主君越中守定綱はけいあん二年六十才で卒去し、又右もあくる年、七十五才で主君のあとを追ふた、死する時定綱の世をいだ越中守、自らまくらべに臨んで遺言を求めた。
『又右は功なくて大祿を戴きました、うみやまの御恩萬分一も報ぜぬが心苦しうござります、只わたくしの家來には八人の勇士がござりますいづれも殿の御用に立つべき者と心得まする、私の死後には私に下された知行半分を其八人へお遣はしを願ひたく、これのみが最後のお願いでござります』とは主君に對する遺言であつた。
『父は武功で大祿を得た、ぢやがそちは何の功も無い、父の知行を殿の思召でそちに下さるとも、たつて御辭退申せ、但し新規にそちが分として下さる知行は何程小祿なりとも有りがたくお受けして忠勤を勵め』とは三子宣秀に對する遺言であつた。
此時宣秀は先主定綱の姪御を妻に迎へてゐたのである。(終)
 

この著作物は、1944年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。