【 NDLJP:5】
緒言
聚楽物語は、豊臣秀次の事蹟を伝へたるものにして、太閤秀吉西国発向の事より、秀次老母の御事に至るまですべて十二項、なかに女房三十余人の最期を叙すること詳なり。其の文章の素樸なる、案ふに徳川初期のものなるべし。年代著者ともに詳ならず。
大正元年八月一日
古谷知新識
目次
【 NDLJP:12】
聚楽物語
巻之上
朝に
栄え
夕に
衰ふるは、皆是れ
世間の
習ひ、国を治め
天下を
保つも、其身の
賢愚にあらず、天より与へ給ふといひながら、
君臣の
礼儀を
失ひ、父子の
慈孝なき時は、必ず其家
亡ぶ。君臣に礼をなす時は、臣又君に
忠を
尽し、父は子に
愛をなし、子は父に孝をなす時は、
身治り
家斉りて、必ず其国
栄ゆと見えたり。
爰に
前の
関白秀次公は、
伯父太閤秀吉卿の重恩を忘れ給ひて、
剰へ逆心を
含み給ひしかば、
天罰いかで
脱れ給ふべき。
御身を亡し給ふのみならず、多くの人を失ひ給ふ、御心の程こそあさましけれ。
抑此秀吉卿と申すは、君臣の
礼儀を重んじ、民を
憐み給ひし故に、天下を治め給ふのみならず、高官
【 NDLJP:13】高位に
経上り給ひ、
末代迄も御名を
清め給ふとかや。其かみ
羽柴筑前守にて、
前大将軍
織田の
信長公に仕へ給ひ、東南西北の
合戦に、御名を天下に
顕し給ひしかば、信長公の
御代官として、西国
御退治の為に、天正十年三月
上旬に都を立つて、備前備中の
両国にて、あまたの
城郭を攻め破り、夫より
高松の城を
取囲み、大河の
末を
堰止めて、
水攻にしてこそおはしけれ。
斯くて城中
難儀に及び、
大将軍五人
切腹仕るべし、残る者共は速に御助け候へとの
降参しけれども、始より
冑を
脱いで
罷出でばこそ。此上にては、一人も残さず攻め
滅し給ふべき旨仰せける所に、都より
早打来りて、日向守
心変り仕り、大将軍
信長信忠御父子共に、三条
本能寺にて
御腹召され候由申上げければ、秀吉
聞召し、こは
口惜しき次第かな、斯様に一命を軽んじ、
戦場に
屍を
曝さんと思ふも、此君の御為ぞかし、此上は敵の
降参するこそ幸なれ、いかやうにも計へと、
杉原七
郎左衛門尉に仰せける。
内々毛利家より、城中の大将
清水兄弟、又
芸州より
加勢に入りたる三人、以上五人に腹切らせ、
諸卒を助けられ候はゞ、
毛利分国の中、備中、備後、伯耆、出雲、石見五箇国を渡し申すべきの
内存なれば、右の如く
扱を調へ、其上に
人質を出し、
御旗下に附随ふべきとの
制旨にて、大将五人の
首実検ありて、先づ毛利家の
陣所を引払はせて後、方々の水を
切流し、城中の諸卒を出し、杉原七郎左衛門に
人数あまた差添へ、
高松の城へ入れ置き給ひ、秀吉は
髻を切り給ひて、いかさまにも主君の
御讎なれば、日向守を秀吉が手にかけて打従へ、
御孝養にせざらんは、二度
弓矢を取るまじきとのたまひて、六月六日に備中を
引取り、備前にて一日
御逗留あつて、同じき九日に、本国播州姫路の城に入り給ふ。未だ諸勢も
揃はざれども、
半時ばかりの御用意にて、
夜半過に早打立ちて、明石兵庫の
宿を過ぎ、
尼が
崎を経て、十二日には津の国
高槻の
辺に著き給ふ。
此処に暫く御陣を立てられ、
八幡山
愛宕山両所の峯を伏拝み給ひて、願くは此度の
合戦に打勝ちて、日向守を秀吉が手にかけ頭を
刎ね、主君の
御孝養に供へんと、
一筋に祈り給へば、誠に
神慮にも叶ひけるにや、いづくともなく
山鳩二つ飛来り、
味方の
旗頭に附いてぞ
翔りける。諸軍勢之を見て、いと頼もしく思ひ、勇み進んで押寄せける。斯くて
山崎の峰を打越え給ひて、
駒を
駆けすゑ
見廻し、此処はいかにと仰せければ、
御足軽の中に、此処
案内能く存じたる者進み出で、是は
馬塚と申し候。又あれなる
繁みの
彼方に、敵の
馬印の見え候所は、
糠塚にて候と申上げければ、秀吉聞召し、
糠は馬の
食みものな。めでたし
〳〵。扨は此合戦は
早打勝つてあるぞ。馬の
足立能からん所まで、しづ
〳〵と押寄せて、一人も残さず討取れや兵共とぞ仰せける。かゝりける所に、
不思議なる事こそ出来たれ。晴れたる空俄に
搔曇り、
愛宕山の峯より、
唐笠程の
黒雲一村出来り、次第に
巽の方へ行くかと思へば、
辻風夥しく吹き来りて、
仇の陣へ
渦巻いて
巻くりけるが、立て並べたる大旗小旗
馬印を、ひし
〳〵【 NDLJP:14】とぞ吹倒しける。秀吉之を御覧じて、すはやかゝれと仰せければ、先手の大将中川瀬兵衛尉高山右近大夫、五十騎計にて
駆け出し、
魚鱗懸りに懸りければ、日向守が郎等に、
明智左馬助、
斎藤蔵之助、
藤田伝吾を先として、
鶴翼に開いて、一人も
漏らすな討取れや者共と下知しけれども、
寄手は
驀地に攻めかくる。明智の兵共は、
後陣より色めき立つて
崩れければ、たゞ
一支へも取合せず、東を指して
敗軍す。
伏見、
深草、
木幡山へ、散り
〴〵になりて落行きけるを、高山中川
真先にかけて、
雑兵の首取るな、打捨にせよとて、
散々に切乱しければ、明智が
人数、残少なに討ちなされ、光秀もから
〴〵其処を遁れて、
山科までは
落延びけれども、
運の極めのあさましさは、
郷人に突落されけるを、
郎等共首打落し、
深田の中へ隠しけるとぞ聞えし。
家老のものども、或は討たれ、或は
痛手負ひ、行方知らず落行きけるを、
後日に爰かしこより
捜し出して討ちける、
因果の程こそうらめしけれ。
斯くて秀吉卿の威勢、
日々夜々に勝りければ、信長に
附随ひし諸侍、皆々秀吉卿の
御下知に附き奉りて、
自ら天下
悉く治りけり。されども未だ御手に入らざる
国々、爰かしこにありけれども、秀吉御馬をだに出されければ、
木草の風に
靡くが如くにて、三年が中に、天下一
統の御代となし給ふ。斯くて都にまし
〳〵、
御門を
守護し奉り給ひ、
御所領を寄せられ、
御殿を
造立し、金銀其外宝を揃へて
捧げ給ひ、天子の御心
慰め給ひしかば、
御門叡感の余りに
関白職を預け下されける上は、我朝は申すに及ばず、
唐土迄も
靡き随ひ奉りける。さる程に
御威光いやまさり、天正十六年四月十四日に、
聚楽の御城へ
行幸をなし給ふ上は、何事も御心に
叶はずといふ事なし。されども秀吉
御代継の御子一人もおはせざれば、
御甥三好次兵衛殿を
御養子にし給ひて、大国あまた
遣され、
家老には、
中村式部少輔、
田中兵部少輔を附け給ひ、
聚楽の御城を渡し給ひて、
御寵愛は中々に、語り尽くさん暇なし。
同十九年に
関白を譲り給へば、天下の諸大名皆此君に
恐れ
随ひ奉る。されば毎日
芸能の
勝れたる者を
召集め、其
道々を正したまひければ、
乱舞延年は、四
座の
猿楽にも越えさせたまふ。
御手跡、
尊円親王の
御筆勢にも
劣り給はじと申しける。或時は
儒学の
達者を召して、
聖賢の道を聞召し、或は五山の
智識を召されて、
禅法の
悟を御心にかけ、又
公家門跡を
請じ奉り、
詩歌管絃の御遊、何事も
廃れたる道を正し給へば、上下共に此
公の御代、
幾久しかれとぞ
祈りける。
太閤秀吉公卿は、大阪伏見の両城かけて
御座しけるが、其頃近江の国の
住人浅井殿御
息女、世に
類なき美人にてまします由、
聞召し及び、忍びやかに迎へ給ひて、
淀のわたりに、
新造の
御所を建てられ、
一柳越後守守護し奉り、
淀の
御所と申し、いかしづき給ふ所に、いつとなく
御心地例ならず
御座しければ、
名医典薬を召して、
医療さま
〴〵なりしかども、更に其
験なし。かゝりける所に
陰陽の
頭考へて申しけるは、全く是は御病気にあらず、
御懐妊とぞ申しける。太閤
不㆑斜御感まし
〳〵て、
当座に
【 NDLJP:15】黄金千両給はり、
御産平ならんには、重ねて
御褒美あるべきとぞ仰せける。夫れより
天台山園城寺の
座主僧正に仰付けられ、
御産平安の
御祈念、様々行はれける。斯くて
日数積りければ、玉を
延べたる
若君御誕生ある。太閤
御年過ぎさせ給ひての御子にて
御座しければ、
御寵愛浅からず、されば諸国の大名小名より、
名物の
御太刀、
刀、金銀、
珠玉、宝を尽して捧げ給ふ。
御代長久のしるしとて、
都鄙遠国の
賤の身まで、勇みさゞめきあひにけり。
かゝりける所に、
秀次公思召しけるは、太閤
御実子なからん時こそ、我に天下をも
譲り給ふべけれ。正しく
実子をさしおき、いかでか我を
許容し給ふべきと、思召す御心出来けれども、
仰出す事もなく、御心の底に
滞りけるにや、いつしか御
機嫌暴くならせ給ひて、御前近き人々も、故なく
御勘気を蒙り、或は
御手打に
遭ふもあり。さればいつとなく人を切る事を好きいで給ひて、罪なき者をも
斬り給ふ間、
御前の人々も、今日迄は人を
弔ひ、今日より後は、如何なる
憂目にか
遭はんと、皆人毎に心を砕かぬはなかりけり。或時
御膳あがりけるに、御歯に砂のさはりければ、
御料理人を召して、汝が好む物なるらんとて、
庭前の白砂を口中に押入れさせ、一
粒も残さず
嚙砕けとて責め給へば、さすが捨て難き命なれば、力なく氷を
砕く如くに、はら
〳〵と
嚙みければ、口中破れ、歯の根も砕けて、眼も
眩みうつぶしに伏しけるを、又引立てゝ右の
腕を打落させ、此上にても命や惜しき、助けば助からんやと仰せければ、是にても
御助けあれかしと申すを、又左の
腕を打落し、是にては如何にと仰せければ、其時
彼者眼を見出して、日本一のうつけ者かな、左右の腕なくて、
命生きても
甲斐やある。さるにても
過去の
戒行拙くて、汝を主と頼みし事の
無念さよ。常々汝は
鮟鱇といふ魚の如くに、口を開けて居る故に、砂はあるぞかし。此後も見よ、風の吹かん時は、必ず
砂はあるべきぞや。此上は如何やうにもせよ、命は
限ある物ぞと、
散々に
悪口しければ、それ物ないはせそとて、
頓て首を
刎ねられける。其後中村式部少輔、田中兵部少輔参りて
様々に制し奉れども、人を
斬り給はねば、
弥御機嫌あらくぞおはしける。さあらば
罪科深き
籠者共を御手にかけ申せとて、毎日一人づつ引出し
〳〵斬り給ふ間、
京、
伏見、
大阪、
堺の
籠者をも
斬尽し、其後は
仮初の
訴訟うつたへに出づる者も、助かる者はなかりけり。されば
狩場漁の道すがらにても、肥りせめたるをのこ、
懐妊の女
抔は
見合次第に捕はれける。又何よりも危かりしは、或時秀次
天主へ上り給ひて、四方を
眺めておはしけるに、
懐妊の女、如何にも苦しげにて、
野辺の
若菜を摘みためて、其日のかてを求めんと、都を
指して歩み出で来るを御覧じて、是なる女の
極めて腹の大なるは、是ぞ二子などいふ
物なるらん。急ぎ
連れて参れ、あけて見ばや
とぞ仰せける。御前の若殿原、承り候とて、我先にと走り出で、あへなく引立て参りける所に、益庵法印何となく立伺ひ、持ちたる芹薺を懐へ押入れさせ、扨御前に参り、此女は懐妊にては候はず、年老いたる者にて候が、様々の若菜を摘みて懐中へ入れ、都へ売りに出づる者にて候と、打笑ひ申しけ【 NDLJP:16】れば、それならんはよし〳〵、急ぎ返せと仰せける。此女、鰐の口を遁れたる心地してこそ帰りけれ。扨も此益庵法印は智恵深く、又なき慈悲心かなとて、諸人感ぜぬはなかりけり。
先帝正親町院の御宇には、諸国の
兵乱未だ
鎮まらず。
王城守護の武士共も、一歳が中も
在京せず。彼方此方へ移り変りければ、国々の
貢物も滞り、天下の政もかれ
〴〵にて、
庭前の花も
色香衰へ、
雲井の秋の
月影も、微になれる心地して、いと
浅ましき世の中にて、
親王宣下の
儀式もなく、
御即位をなし給ふべき便もましまさねば、太子
徒らに、三十年四十年の
春秋を送り給ふ事を、
口惜しくや
思召しけん、いつしか
労気を
労り給ふ。太閤秀吉卿
御痛はしく思召し、いかにもして
御悩平愈なし奉り、
御位に立たせ給ふやうにと、
様々御心を尽し、
典薬大医に仰付けられ、医療を尽しけれども、
御戒行や拙くおはしけん、天正十四年七月
下旬に、終にかくれさせ給ふ。太閤
本意なく思召し、
切ての御事に、此君の王子を、急ぎ御位に即け給ふべきとて、
同十一月二十五日に、御即位を
勧め奉り、
諸国の
鍛冶番匠を召し上せられ、
禁中を四方へ
開げ、数百の
棟数を立列べ、金銀七宝を
鏤め、御殿へ移し奉り、
御所領を附け、様々の
珍宝を捧げ奉り、
諸卿の絶えて久しき
家々を改め立て給ひ、
万廃れたる道を正し給ふ事こそありがたけれ。此君、常に
学窓に御眼を
曝し給ひて、時
折々の政を怠り給はず、
延喜の
聖代を御心に
凝めて行はせ給ふ。大閤は此由聞召し、御学びに御心を尽させ給ふ事を
労り思召し、いかさまにも
叡慮を慰め給はん為に、春は花見の御遊をなし、
芸能勝れたる者を召しあつめ、
乱舞延年を始め、共に
興じさせ給ふ。九
夏の天には
高楼を組み上げ、空吹く風を招き、
庭前に泉を
湛へ、船を浮べ、
納涼専らなり。秋は
千草の花の種を
揃へ、夕の露の更け行けば、
余多の虫の音を
選び、月の前には
樽を抱き、
詩歌管絃をなし、
厳冬の朝は、御
焚火の御殿を作り、諸木の
薬味あるを集め、
林間に酒を
温めて、
紅葉を
焚き給ふ、誠に有難かりし事共なり。五十代
以前は知らず、それより此方は、
君臣の礼儀、斯る目出度
御代はよもあらじ。君君たれば、臣又臣とありて、
愈天下
泰平なり。されども此君御身の楽みにも
誇り給はず、御父
陽光院、
十善の御位に
洩れ給ひし事を
万々本意なく思召し、
折々は仰出されて御涙を
催し給ふ。または
先帝御齢の傾き給ひて、
玉体衰へ給ふ事を
痛はり思召す、
叡慮の程こそありがたけれ。
文禄元年中冬の頃より、
先帝正親町院御病気になり給ふ。
当君此由聞召し、急ぎ行幸なされ、
様々痛はり給ひて、今一年なりとも延びさせ給ふやうにとの
勅定なれば、
典薬医術を尽し、
諸寺諸山へ仰付け、祈り
加持し給へども、
老後の御事なれば、次第に
御悩重らせ給ひて、明け行く年の
正月の初の五日に終に
隠れさせ給ふ。
御門深く
歎かせ給へば、
諸卿諸共に憂をなし、御心を
詰めてぞおはしける。
誠に一天の
主万乗の君の
御物忌に、月日の光も薄くなり、神慮も苦び給ふらん。
王城守護の神々、
【 NDLJP:17】門戸を閉ぢて、人の
参詣をだに厭ひ給へば、
況して人間に於てをや。貴きも賤しきもともに憂ふる
姿なう。されば
畿内近国は、浦々の
猟漁をだになさず、されば
洛中にて
魚鳥売り買ふ事をだに
戒めける。かやうに心なき者迄も、世を
憚るは習ひなるに、
当時関白秀次公は、
伯父太閤の御威光にて、
下郎の身として又なき
官位を
瀆しながら、
天命をも恐れず、人の
嘲をも恥ぢ給はず、
明暮酒宴乱舞をなし、
剰へ北山西山辺にて、
鷹狩鹿狩を初め、民の
煩諸人の
苦をも厭はず、
我意に任せて
振舞ひ給へば、京童共
囁き寄つて、
無道至極の事共かな、行末恐しき事やとて
爪弾きし、
唇をぞ
反しける。又何者かしたりけん、一条の
辻に
札をたてゝ、
先帝の手向のための狩なればこれや殺生関白といふ
秀次かやうに、様々悪逆を尽し給へども恐れ奉り、太閤の御耳に立つる者なかりければ、弥我儘に振舞ひ給ふを、中村式部少輔、田中兵部少輔、再三御諫め申上げけれども、更に御承引なくて、剰へ後々は両人御前遠になりて、若輩の御小姓衆、又は筋なき者共出頭して、直なる道を行ふ者は、孔子風の男ぞなんどとて、囁きあざ笑ひける間、自ら人の心悪き方へぞ引かれける。
中にも
木村常陸守は、
御気相にて、何事も
御内存を
推量り申しけるが、或時秀次ちと
御所労にて奥の
御殿におはしけるに、常陸守まゐりて、
隠密にて言上申したき事の候。恐れながら
御前の人々を退けられ、それへ
召上げられ候へかしと申上ぐる。関白聞召し、
御前の
女房達をも退けられ、
御側近く召されける。
常陸守
畏りて、かやうの御事申出すに付きても、恐入り候。若し
御承引ましまさずば、
唯今御手にかけられ候べし。太閤の
御恩賞を蒙り給ふ事は、
海山にも譬へ難く候。然りとは申せども、
先年若君出来させ給ひて後は、我等の存じなしにて候か、何とやらん
御前遠にならせ給ふやうに見えさせ給ひ候。貴きも賤きも、
実子のなき時にこそ、
養子をば
寵愛仕る物にて候へ。此若君五歳になり給はゞ、先づ
関白を御譲りあれと仰せられ、西国か東国の
端にて
御所領を出され、
後々は
流人のやうになし給はん事は、
目の
前にて候はん。さあらん時は、何事を思召し立ち給ふとも、
道往き申す事は候はじ。今
御威光強き時に、大名共にも内々
御情をかけられ候て、
心底を残さず御頼み候はゞ、何者か
背き奉るべき。夫れ
弓取は、親を討ち子を
害しても、国を治め天下を保つは習ひにて候。
此儀思召し立ち候はゞ、先づ
異儀なく
御味方に参り候はん者共を、
指図仕り候べし。皆太閤
御取立の侍の中にも、
過分の
勲功をなせし者共、
少身にて罷在り、又さまでの忠なき
輩に、
大分の御所領下されたる者多く候へば、
恨を含みける者共多く候へども、其身
人数ならねば力なし。若し君の思召し立つ御事あらば、
恨を
散ぜんと存ずる者共、かくといはぬ計にて候と、
憚る所なく申上げける。関白
御枕を
押除け、
起直り給ひて、汝が申す所もさる事なれども、
莫大の
御恩賞を蒙り、いかにとしてさる事のあるべきや。其上
大阪伏見の御城は、日本一の
名城ぞかし。又
縦ひ我に
与するとも、諸大名の中、三分一
【 NDLJP:18】はよもあらじ。さあらば、いかでか
運を開くべき。よしなき事な申しそ、
壁に耳ありといふ事のあるぞとの給ひける。
常陸守重ねて申すやう、
御諚にて候へども、
人数を
揃へ、一戦に及び候はんだに、軍は
人数の
多少によらぬ物にて候。其上
某城中へ忍び入り、大殿の
御命を奪ひ奉らん事は、何か
仔細の候べきと、事もなげに申しければ、関白聞召し、誠に汝は
聞ゆる忍びの名を得たると聞けども、それは時により、
折に従ひての事ぞかしとぞ仰せける。木村
承りて、其儀にて候はゞ、三日の
御暇を下され候へ。大阪の御城へ忍び入り、何にても
御天主に御座候
御道具を、一種取りて
参り候べし。之を
証拠に
御覧じて、御心を定められ候へとて、
御前を罷立つ。秀次は
只覚束なし、よし
〳〵と
仰せけれども、それより
所労とて
出仕をやめ、急ぎ罷下りけるが、其夜太閤は伏見へ
御上洛にておはしければ、
取分き門々のとのゐ
厳しかりつれども、いと易く忍び入り、事のやうをぞ
伺ひけるに、
女房達の声にて、
上様ははや
牧方まで御上り候はんかなどいふを聞きて、扨は
御運強き大将軍かな、此城に
今夜ましまさば、御命を奪ひ奉らん物をと悔いながら、此儘帰りては悪かりなんと思ひ、天主に忍び入り、太閤御秘蔵の御水差の蓋を取りて、急ぎ罷上り、秀次の御前に参り、件のやうを語り奉る。関白之を御覧じければ、先年秀次より御進上の水差の蓋なり。不思議なる事かな。異なる物ならば、疑はしくも思ふべきが、我手馴れたる物なれば、いかで見損ずべきとて、斜ならず感じ給ふ。此水差は、昔堺の浜にて、数寄者の持ちたる道具なりしを、宗益と申す者求め出して、秀次へ捧げ奉るを、頓て太閤へ進上とぞ聞えし。其後大阪には、之を尋ねさせ給へども、見えざれば、何者か過ちして隠し捨てたるらんとて、金細工の者に仰付けられ、黄金を以て打物にさせ給ふ。後に聚楽の御城欠所の時、此御道具出でたるにより、此事思ひ合せて、委しく尋ね給ひてぞ顕れける。常陸守、かやうに様々に計ひ申しければ、秀次も自ら御心を移され、内々に御支度ありて、大名小名によらず、御意に従ふべきと思召す者共には、御手前にて御茶を下され、或は御太刀、刀、御茶湯の道具によらず、その程々に従ひ、金銀を遣されける間、何事もあらば一命を奉らんと存ずる者共あまたなり。されども御家老中村田中をば、御はたへ入れさせ給はで、よろづ木村が差計ひ申しけるが、つひに天罰遁れ難くして、君をも失ひ奉り其身も敢なく亡びけり。
文禄四年二月中頃、聚楽より
熊谷大膳を遣され、
伏見の
里の秋の月は、古より
歌人の言の葉に詠み尽したる御事なれども、
年毎の御遊なり。又
広沢の月も他に異なれば、来らん秋の月をば、北山にて
御覧ぜられ候へかし。
若君御慰めのために、
八瀬小原の
奥にて、
狩くらを初め、御遊をなし
奉るべしとぞ仰上げられける。太閤斜ならず御感にて、
兎も
角も関白の心に
任すべしと、
心地よげに打
咲み給ひて、汝心得て
御返事申すべしとて、
大膳に御太刀
一腰御
呉服余多下し給はつて帰し給ふ。
大膳罷帰り此由言上申しければ、夫れより
御成のために御殿を急ぎ申せとて、
鍛冶番匠を
召し集め、夜を日に
継い
【 NDLJP:19】で急がれける。
同五月二十五日の夜に入つて、
石田治部少輔が
宿所へ
文箱持来り、是は
聚楽より参り候。
浅野弾正殿へ急ぎ
御状参り候間、帰りて御
返事を給はるべしとて急ぎ帰りける。
番所の
侍ども、この状を石田に見せければ、
文箱の上に、
石田治部殿まゐると書きて、
誰とも名を
顕さず。
光成不思議に思ひ
披き見れば、
幼き者の筆のやうにて、
近き頃太閤様聚楽へ御成とて、御用意様々御座候。中にも北山にて鹿狩のためとて、国々より弓鉄砲の者を選びすぐり、数万に及び召し上せられ候。是は全く狩くらの御ためならず、御謀叛とこそ見えて候へ。対面にて申したく候へども、返忠の者といはれん事口惜しく候。又申さぬ時は、重恩を蒙り候主君へ弓を引くべし。此旨を存じ我が名を隠して斯の如し。
と書きたり。石田驚き、急ぎ御前に参り、此由言上申しければ、太閤聞召して、関白何の意恨にてさる事あるべきぞ。夫れは疎める者の仕態なるべしと仰せければ、光成承つて、いや〳〵存じ合せたる事ども候へば、先づ田中兵部を召し上せ、某いろ〳〵に賺して見候べしと申しければ、兎も角も先づ隠密にて窺へとのたまふ。
其頃田中は、
津の国河内の
堤普請の
奉行に仰付けられて
居たりけるを、
夜通しに召し上せ、先づ石田が
宿所へ
呼寄せ、
奥の
亭へ
請じ入れ、あたりに人一人も置かず、二人
差寄りて、いかに田中殿、
御辺は千年も経させ給ふべきぞや。光成こそ御命を助け奉りて候へと申せば、
兵部聞いて大きに驚き、こはいかに、
夢ばかりも存じ審らぬ事を
承り候ものかな。何事なれば事
新しくは仰せ候ぞといひける。石田、さればとよ、光成ほどの
親みを
持給はずば、
今度の御大事を、いかで遁れさせ給ふべき。
御首を光成が
継ぎ申して候といひければ、田中事の外
気色を損じて、何と申すぞ、石田殿、
当代日本の
侍の中に、田中が事なんど、
御前にて
悪様に申さん人は覚えず。
縦ひ
讒言したりとも、上に用ひさせ給ふまじ。
御辺などが
今時出頭して、御前近く参るとて、首を
継いだるは、
命助けたるはなんどといふべき事やある。いざや
只今にても、
御前へ参らん。
無用の事して
助けんよりは、罪あらば我が
首討つて参れとて、
膝を
直し、刀の
柄に手を
掛け、思切つたる有様なり。石田
小声になりて、
静まり給へ、田中殿、事の
仔細を申さで、
御気に当りたるは
理にて候。されども御心を
静めて
聞食せ。関白
御謀叛おぼしめし立ち給ふ御事の
顕れければ、中村は
病気にて出でざれば、知らぬ事もあるべきが、兵部は
兼て知らぬ事よもあらじ。
頼むまじきは人の心ぞや。急ぎ
誑り寄せて
腹切らせよと仰せられ、
御憤深く仰せ候ひしを、光成
罷出で、
御諚にて候へども、かはどの
不覚なる事をおばしめし立つ程の
御心様にて、いかで彼等に御心を
免し給ふべき。其上
此両人の者共、度々御
異見申しけれども、更に
御承引なくて
【 NDLJP:20】常に
参れども
御機嫌悪くし給ひて、
御前遠に罷成りたるとて、
常々申候と、
御身に代りて申上候へば、夫れはさもあるらんが、されども彼程の事を
支度せば、何に付けても
不審の立つべきを、兎も角もいはざる事はいかにとの
御諚にて候を、其儀にて候、
内々某に申しつる事共候へども、かやうの
御野心あらんとは、
努々存じも寄らで候ひしが、
今存じ合して候。
弥窺ひ、
御振舞を見計ひ候へとこそ申候はめとて
罷立つて候。
聊もおぼしめし合せらるゝ事は候はずやと、
言葉を尽しいひければ、田中聞いて、是は
存じの外にて候。一大事を
承り候へば、某が身の上を、何者か
讒言申しつらんとこそ存じて候へ。仰の如く此頃は、某
抔は
外座間者のやうに罷成候へば、さやうの大事をば、いかで知らせ給ふべきなれども、
上意に、
憎しと思召すは
御理なり。さりながら存ぜざる
旨は、罷出でても申し
披くべし。此上はいかやうにも心を附けて
窺ひ申さんといふ。光成聞いて、さらば先づ
御辺は
普請場へ急ぎ御出で候へ。
上意として、是より
使者にて申すべしとて、田中は河内へぞ帰しける。其後使者を以て、
其許堤の
御普請は、
誰にても
仰付けらるべし。人こそ多く候はんに、
御成前にて候に、急ぎ
帰京あつて、
聚楽の御殿
抔急がせ給へとの御諚にて候と申しつがひければ、兵部少輔夫れより
頓て
聚楽へ参り、
万に心を附けて
窺ひ見けれども、是ぞ
定なる事とてはあらざれども、いかさま
不審なる事共多かりければ、
昨日は
兎ありて、
今日は
角ありてと、
毎日石田が
許へ知らせける間、光成太閤の
御前に参り、
御謀叛早や
疑ひなく候。兵部少輔方より、昨日は斯く申して参り候。今は又
此儀を申して
遣し候と、此事
急に申上げける間、太閤
聞召し、其儀ならば、急ぎ
踏潰すべしとの御諚なり。光成申しけるは、
先づいかやうにも
誑り給ひて、叶はぬ時は御馬を出さるべし。
只今洛中へ
押寄せ候はゞ悉く
発火仕るべし。さあらば、
禁中も
火災いかで
免れ給ふべき。天子への
恐一つ。其上
御命に代り奉らんと存ずる程の大名共は、皆
御暇給はり、国々へ
罷下り候。
御馬廻りの者共、僅に千
騎にはよも過ぎ候はじ。
軍の
習ひにて、
人数の多少には
依るべからず候へども、定めて京都には、兼ての
御支度なれば
洛中に
多勢満ち
〳〵てあるべく候。さあらば
由々しき御大事にて候。先づ
徳善院を遣はされ、いかやうにも
賺し出し奉り候はんこそ、
武略の一つにてこそ候はんずれと申上げければ、
御前の人々、此儀然るべく存じ候と、一
同にぞ申しける。
さあらば先づ
法印参り、いかやうにも
計ひ申せとの御諚にて、七月八日に、
徳善院聚楽へ参り、
秀次の御前に参り、何とも申し出す事もなく、
涙に
咽びければ、関白
怪み給ひて、いかに
〳〵と仰せける。
法印涙を押へて、其御事にて候。
愚人は勝るを
嫉む習ひにて候へば、君の御事を
讒言申す者の候へばこそ、主なき文に
様々言上申候を、一度二度は御用ひなくおはせしかども、
度重なりければ、
扨は
御野心もましますか、何の
御意恨ぞや。
御齢の傾くに付けても、
杖柱とも頼み思召すに、頼みたる木の下に雨
漏るとは是なるならん。かゝる
不思議こそ出で来れと、
御朦気千万にて、御涙
堰きあへさせ給
【 NDLJP:21】はず候と
言葉を尽し、誠にさるべきやうに申しければ、関白
驚き給ひて、こはそも何事ぞや、我まんまんの
御恩賞を蒙り、何の
不足ありてか
野心を
含むべき。汝も能く思うて見よ、我れ
幼少より御寵愛ある故に、日本国中の
諸侍にかしづかれ、
七珍万宝満ち
〳〵て、心の
儘にある事、我力にあらず、
偏に太閤の
御恩賞ぞかし。夫れに何ぞ我れ
逆心あり共、何者か我に
組する者のあるべきぞ。
斯程の大事を一人して思ひ立たんは、
偏に
狂人にてあるべし。其上何に付けても、此君に野心を
構へば、日本国中の
諸神は申すに及ばず、上は
梵天帝釈天、下は
四大天王も
照覧あるべしと、御誓にて
陳じ給ふ。法印
承りて、御諚の如く、我等如きの者共存じ奉ればこそ、御前にても
推量り申上げ候へ。さりながら
常々御存じ候如くに、一
旦御腹の立つ時は、
矢楯もたまらず仰せられ候へども、又いつもの如く、
若君達御先に立てられ、あれへ御参りあつて、
御心底を
仰上げられ候はゞ、
頓て
御機嫌は直らせ給ふべしと申しけれども、さすが
御身に危き事やおはしけん、
先々汝罷帰りて、我が
野心なき
旨を心得て申
上げよとて、法印を下し給ふ。徳善院罷帰りて、此由委しく言上申しければ、いかやうにも計ひて、聚楽を出し奉れとて、重ねて幸蔵主を差添へられ遣さる。此幸蔵主と申す尼は、女なれども、智恵深く弁舌達しければ、御前を去らず、万の事を推量りけれども、一度も御心に反き奉らず。常に関白御参りの時も、此尼ならで御挨拶申す者なし。されば此両人重ねて参り、御諚の通りさし心得て申上候へば、幸蔵主も罷出で、様々御取成にて、御機嫌直らせ給ひて、越方行末の事、誠に有難き御諚共仰出され、御涙を流し給ひて、初より浮世ぜめと思召せばこそ、先づ法印めをば遣されて候へ。されどもさやうに諸人に疎まれ給ひて、讒言受けさせ給ふも、御心に私のましませばこそ。天下を保ち給ふ人は、万民を御子と憐び給ひてこそ、御代は弥長久なるべけれ。聊も御心に私なく、天の道を背き給はぬやうに、御計ひあれかしとおぼしめし候。此むね能々申上げよとの御諚にて、重ねて幸蔵主を遣され候。急ぎあれへ御参りなされ、御対面にて、何事も仰上げられ候はゞ、事の序に内々の御訴訟も叶ひ候べしと、徳善院は富婁那の弁舌を仮りて申上げ、幸蔵主は舎利仏の智恵を取つて、さもありげに申上げければ、さらば汝等は御先へ参れ、頓て御出あるべき由仰せられ、御輿を出せと仰せける。両人さあらば御先へ参り候べし。相構へていつもの如く君達をも具し給ひて、御参り候へと申してこそは帰りけれ。
かくて
関白御装束を
更め
出御なる所へ、木村
罷出でて、君は
斯程まで、
言甲斐なき
御所存にておはしける事こそ
口惜しけれ。
唯今伏見へ御参り候とも、
御対面は思ひも寄らず、
再び都へは返し給ふべからず。道にて
雑兵の手にかゝり給ふか、さらずば
遠国へ流され給ひて、遂には
御介錯申す者もなき
御腹召され候はん。迚も
遁れ給ふまじき御命を、いつまで惜み給ふぞや。
急ぎ
伏見へ押寄せ、
戦場に御名を
残し給ふか、さらずば此城に
楯籠り、京中を
焼払ひ、御門を是へ
行幸なし奉り給ひて、一
支へ支
【 NDLJP:22】へ給はゞ、いかで太閤も、天子へ御弓を
彎き給ふべき。さあらば
御扱と仰せ候はん時は、十分の利を得させ給ふべし。先づ
京中の
兵粮を
悉く
召寄せられ候へと、
威丈高になつてぞ申しける。
かゝりける所に、
阿波の
木工の
助進み出で申しけるは、
常陸の
守申す所もさる事にて候へども、又退き
愚案を
廻らし候に、伏見の
大殿は、御心早き
大将軍にてましませば、君の
御謀叛必定と思召し候はば、やはか
斯様に事
延び候まじ。即時に
押寄せ給ふべし。
唯筋なき事を取持つて、石田が様々
讒言申すとも、太閤
御底意には
御承引なきとこそ存じ候へ。さあらん時は、
何心なく御参り候はば、
弥御心
解けさせ給ふべし。又只今
伏見殿へ寄せられ候とも、
甲斐々々しく利を得させ給ふ事は候はじ。あなたは
譜第重恩の侍共なれば、十
騎が百
騎にも向ひ候べし。こなたは
大勢なりとも、諸国のかり
武者にて、伏見に親を持ち子を置きたる者、或は
最愛に心
牽かれ、何の
御用にも立ち難し。又此
城廓に
籠り給ふとも、
寄手厳しく候はゞ、
頓て
実否も極まり候べきか。
遠攻にして
兵粮を尽し候はゞ、皆
親類縁者に附いて
降参し、敵には力を附くるとも、
甲斐々々しく御用に立つ者は候はじ。
斯様に申す者共こそ、
御内存は存じて候へ。
何者か
白状申すべきぞや。
危き事は候はじ。
唯此度は急ぎ
御参りあつて然るべく候と、
理を
責めて申しければ、いづれも此儀然るべし。さあらばいかにも
穏便に
如くべからずとて、
御輿一
挺にて、御道具をも
差置き、
徒立にて
御供二三十人召連れられ、
文禄四年七月八日に、聚楽の城を出で給ふは、
御運の
末とぞ覚えける。
【 NDLJP:23】
巻之中
関白御輿を早め給へば、程なく
五条の橋を打渡り、
大仏殿の前を過ぎさせ給ふに、何とやらん
前後も
騒しく
犇めきて、
往き
来ふ人も、こゝかしこに
立迷ひければ、御供の人々、これは早や
御討手の向ひたると覚え候。
賤しき者共の手にかゝり給はん事、
余りに
口惜しく候へば、
東福寺へ御輿を入れられ、あれにて御心静に、
御腹召され候へかしと申しければ、秀次聞召し、
扨は法印めに
誑られつる事の無念さよ。さらば是より
引返し、聚楽にて
腹切らめと仰せける。かゝりける所に、
後より参りたる
若党共、早や五条わたりの
体を見候へば、敵まん
〳〵と
入廻りて候と覚え候。
還御は思ひもよらず候と申しければ、関白
聞召し、さるにても弓矢取る者の、
仮初にも乗るまじき物は
輿車ぞかし。
馬上ならば何者なりとも、
頓て
蹴散らして通るべき物を、
犬死すべき事こそ
口惜しけれ。思ふ
仔細のある間、先づ藤の森まで
御輿を
急げとて、さらぬ
体にて過ぎさせ給ふ所へ、
増田右衛門尉参り迎へ、馬より飛んで
下り、御輿の前にかしこまり、以の外の
御機嫌にて御座候。一先づ
高野山へ忍ばせ給ひて、
連々以て
御野心なき通りを、
仰せ開かれ候へと申しければ、関白
御輿を立てゝ、是れ迄出づるよりして其
覚悟なれば、
今更驚くべきにあらず。聚楽にありながら御
理を申せば、おほそれ多く思ひ、是れ迄出でたるなり。
唯今兎も
角もならんずる命は、
露塵も惜しからねども、
無実にて果てん事こそ、何より
口惜しけれ。相構へて秀次程のものに、
最後を知らせざる事あるべからず、
尋常に腹切るべしと宣へば、
右衛門尉承つて、いかで
御腹めさるゝまでは候べき。一
旦かやうに
仰せられ候とも、
連々に
御自筆の御書を捧げられ、
御心底を
仰上げられ候はゞ、
頓て
御和睦あつて、讒言の
輩を、御心のまゝに仰付けらるべしと、やう
〳〵に申し
勧め奉り、夫れよりものゝふども、
前後を
囲み、
大和路にかゝり
伏見の城を
外に見て、急がせ給ふ御心の中、思ひやられて
痛はしさよ。
仮初の
出御にも、
馬上の
御供数百人
召連れられつるに、
此度は僅に侍四五人ならでは御許しなければ、只
夢路を
辿る御心地にて、
南を指して赴き給ふ事こそ憐なれ。聚楽に残りたる人々は、伏見との御対面も叶はせ給はで、我君は高野へ上らせ給ふ由聞えければ、皆呆れ果てゝ、こはそも何と成行く世の中ぞや。かくあるべきと思ひなば、などかいづく迄も御供申さであるべきぞ。たゞ天人の五衰、目の前に覚めぬる事こそあさましけれと、上下諸共に泣き悲む声、暫しも止むことなし。中にも御恩深き人々は、順礼修行者の姿に身を窶し、いづく迄も御跡を慕ひ参らんと志しぬれども、こゝかしこにて厳しくあらためければ叶はずして、夫れより諸国七道廻るもあり、或は己々が住み馴れたる国々へ帰るも多かりけり。
関白其
夜は、いぶせき
藁屋の
軒端も荒れたるに御輿を
留め、いとをかしき
御膳捧げ奉りけれども、
【 NDLJP:24】御箸をだに取り給はで、いざよふ月を
御枕にて、暫し
傾き給へども、まどろみたまはねば、御夢をも結びあへず、たゞ
移り
変れる御身の上を
観じ給ひてかく、
思ひきや雲井の秋の空ならで竹あむ窓の月を見んとは
かやうに口ずさみ、いとゞ長き夜をあかし兼ねておはしけるに、漸八声を告ぐる鳥の音も、まだ東雲の空暗きに、御輿舁き出し、疾く〳〵と勧め奉れば、急がぬ旅の道ながら、御心ならずうかれつゝ、井出の玉水行過ぎて、佐保の川隈うちけぶり、奈良坂や、春日の森も程近くなる。日頃の御参詣には御輿車数を知らず、金銀を鏤め、御末々迄も花やかにて、南都の衆徒達は出迎へ、道を清め沙を敷き、こゝかしこにひれ伏して、御目にかゝらん事を願ひつるに、今ひきかへたる御有様の痛はしさよ。往き来ふものも恐れ奉らず、賤山がつに打交はり給ふ事こそ哀なれ。かくて般若寺のあたりに、しばし御輿を立てゝ、春日の大明神を伏拝み給ひて、
三笠山雲井の月はすみながら変り行く身の果ぞ悲しき
かやうにうち詠め、御涙を流させ給へば、御供の人々、守護の輩まで、皆々袖を濡さぬはなかりけり。それより行末を見渡せば、柴屋の里のしば〳〵も、止め参らする人もなく、分け行く露の草村の、虫の声だに衰ふる、身の行末や歎くらん。岡野の宿を過ぎ行けば、当摩の寺の鐘の声も、煩悩の眠や覚すらんと思召し続けて、
転寝の夢の浮世を出でて行く身の入相の鐘をこそ聞け
かくてよもすがら、高野山へ攀ぢ登り給ひ、木食上人の方へ御案内ありければ、上人驚き給ひ、急ぎ請じ入れ奉り、扨唯今の御登山、おぼしめし寄らざる御事かなとて、墨染の袖を濡し給へば、関白何と仰せ出す事もなく、御袖を顔に押当て、御涙に咽び給ひ、やゝありて、我れかゝる事のあるべきとは思ひも寄らで、世にありし時、心を附くる事もなくて、今更あさましうこそ候へ。みづからが露の命、早や極まり候へば、唯今にも伏見より検使あらば、自害すべし。亡からん跡は、誰か頼み申すべきと仰もあへず、又御涙を流し給へば、木食上人承り、御諚にて候へども、此山へ御登りなされ候上は、いかで御命に障り候べき。縦ひ太閤御憤り深くましますとも、当山の衆徒一同に申上げ候はば、よも聞食し分けざらんと、頼もしげにぞ申されける。
関白やがて
御ぐし
下し給ひて、御戒名は
道意禅門とぞ申しける。御供の人々も、
皆髻切つて、
偏に御世
菩提の祈にて、
上意の御使を、
今や
〳〵と
待ち給ふ所に、
福島左衛門大夫、
福原右馬助、
池田伊予守、此人々を大将として、
都合其勢五千余騎、
文禄四年七月十三日の
申の
刻に、
伏見を立ち、十四日の
暮程に、高野山にぞ著きにける。
木食上人の御庵室に
参りければ、
折節秀次入道殿、大師の御廟所へ
御参詣にて、
奥の
院におはしけるを、上人より此由
申上げられければ、
頓て御下向あつて、三人
【 NDLJP:25】の御使に
御対面ある。左衛門大夫
落縁に
畏り、御さま
変りたるを見奉り、
涙を流しければ、入道殿
御覧じて、いかに汝等は、
入道が
討手に来りたるとな。此
法師一人討たんとて、
余りにこと
〴〵しき
振舞かなと仰せければ、福原右馬助
畏つて、さん候。
御腹召され候はゞ、
御介錯申せとの
御諚にて候と申せば、
扨は汝等、我首討つべきと思ふか。いかなる劔をや
持ちたる。いで入道も
腹切らば、首討たせんために、かたの如くの太刀を
持ちたるに、汝等に見せんとて、三尺五寸
黄金作りの御
佩刀、するりと
抜き給ひて、是れ見よと仰せける。これは右馬助
若輩にて、
推参申すと思召し、
重ねて物申さば御手にかけられんと
思召す
御所存とぞ見えける。三人の御小性衆は、
御気色を見奉り、少しも
働くならば、
中々御手にはかくまじき物をと思ひ、
目と
目を
見合せて、
刀の
柄に手をかけ居たる有様、いかなる
天魔鬼神も退くべきとぞ思はれける。入道殿は
如何思召しけん、
御佩刀を
鞘に納め給ひて、いかに汝等、入道が今まで
命ながらへたるを、さこそ
臆したりと思ふべし。
伏見を出でし時、其夜如何にもなるべきと思ひつるが、
上意をも待たで腹を切るならば、すはや身に
誤あればこそ、
自害をば急ぎつれと思召さば、
故なき
者共の、多く
失はれん事も
不便なる事と
思ひ、
今迄ながらへしぞ。今は
最後の用意すべし。
相構へて面々
頼むぞ。我に
仕へし者共を、
能きやうに申上げ、
如何にもして申助けて入道が
孝養にせよ。よしなき讒言にて、
我こそかく
成行くとも、一人も
罪ある者はあるまじきぞと
宣ひしは、いとはかなき御志とぞ思はれける。
頓て御座を立たせ給ひて、御ゆびかせ給ひて、
御最後の御用意なり。かゝりける所に、
木食上人を始め、一山の老僧出合ひ給ひて、三人の御使に向ひ、
当山七百余年此方、此山へ上り給ふ人の
命を、
害し給ふ事
其ためしなし。いかに天下の
武将にてましませばとて、
此由一旦言上申さでは候はじと、
老若一同に申されける。御使の人々、
仰はさる事にて候へども、兎ても角ても叶ふまじき
御訴訟にて候と、再三申しけれども、此山の名を下すにて候へば、
如何様にも言上申すべきとの
詮議なり。福島進み出でて、
衆徒の仰せ尤さもあるべく候。さりながら此者共参りて、若し
時刻遷り候はゞ、
迚も
勘気を蒙り、腹切れと仰せらるべし。さ思召し候はゞ、
先づかく申す者を、
衆徒達の御手にかけられ候て後、いかやうにも
言上申され候へと、
威丈高になりて申しければ、さすがに
長袖の事なれば、木食上人を
始め、一山の衆徒達
力及ばず立ち給ふ。かやうの
隙に少し
時遷り、其の夜は漸
明けて、
巳の
刻に御腹召されける。
御最後の有様は、さも
由々しくぞ見え給ふ。
御名残の御盃
取交し給ひて後、
是迄附随ひ参りたる人々を召して、いかに汝等、
是れ
迄の志こそ、
返々も
神妙なれ。多くの者の其中に、五人三人
最後の供するも、
前世の宿縁なるべし。一度
所領をも与へ、人となさんと
思ひつるに、いつとなく
打過ぎて、一旦の
楽みもなく、今かゝるめをさする
事のあさましさよとて、御涙を流し
給ひつゝ、いかに
面々を
後にこそ具すべきに、若き者共なれば、
最後の
有様心元なし。其上みづから
腹切ると聞かば、
雑兵共がみだれ入り、
事騒しく
見苦しがるべし。是れにて腹切れとて、山本主殿に、
国吉の
御脇指を下されける。
主殿承りて、某は
御介錯仕り、御
後【 NDLJP:26】にこそと存じ候へ共、
御先へ参り、
死出三途して
苛責其に中付け、
道清めさせ用すべしと、につこと笑つて戯れしは、さも
由々しく見えたれ。誠に
閻魔倶生神も、恐れぬべき振舞なり。彼御脇指を
戴き、西に向ひ十
念して、腹十文字に
搔破り、五
臓を繰出しけるを、
御手にかけて打ち給ふ。今年十九歳、初花の
稍綻ぶる
風情なるを、時ならぬ
嵐の吹き落したる如くなり。其次に山本三十郎を召して、汝もこれにて切れとて、安川藤四郎の九寸八分ありけるを
下さるゝ。
承りて候とて、これも十九にて
神妙に腹切り、御手にかゝる。三番に
不破の
満作には、しのぎ藤四郎を下され、
思ふ
仔細のあれば、汝も
我手にかゝれと仰せければ、いかにも
御諚に従ひ奉るべしとて、御脇指を
頂戴して、生年十七歳、
雪より
白く
清げなる
肌を押開き、
左手の
乳の上に突立て、
右手の
細腰まで引下げたるを
御覧じて、いしくも仕たりとて、御太刀を
振上げ給ふかと思へば、
首は先へぞ
飛んだりける。
彼等は常に御情深き者共なれば、人手にかけじと
思召す、
御契の程こそ浅からね。かくて入道殿は、
御手水嗽ひしたまひて
後、りう西堂を召して、其身は出家の事なれば誰か
咎むべき。
急ぎ都へ上り、我が
後世弔ひ候へと仰せければ、
口惜しき
御諚にて候。是れ迄御供申し、唯今御暇給はり、
都へ上り候とも、何の
楽み候べき。其上恩
深き者共は、出家とて、いかで許され候はん。
僅の命ながらへて、都まで上り、
人手にかかり候はん事、思ひも寄らず候と申し切つて、これも
御供に極まりける。
此僧は
内典外典暗からず弁舌人に勝れければ、御前を去らず仕へしが、いかなる事にや出家の身として、
御最後の御供申さるゝこそ
不思議なれ。かくて入道殿は、
両眠を塞ぎ観念して、本来無東西何所有南北と観じて後、篠部淡路守を召されて、汝此度
跡を慕ひこれ迄参りたる志、
生々世々迄報じ難き忠ぞかし。とてもの事に我れ
介錯して供せよと仰せける。淡路承つて、此度
御跡を慕ひ参らんと志し候者共、いかばかりあるべき中に、
某武運に叶ひ、
御最後の御供申すのみならず、御介錯まで仰付けらるゝこと、
今生の望み、何事か是れに過ぎ候べきと申せば、御心地よげに打笑み給ひて、さらば
御腰の物と仰せける時、四方様の供饗に、一尺三寸の
正宗の御脇指の
中巻したるを
進らせ上ぐるを、右の御手に取り給ひて、左の御手にて、御心元を
揉み
下げて、ゆんでの
脇に突立て、めてへきつと引廻し給へは、
御腰骨少しかゝると見えしを、淡路御後へ
廻りければ、暫く待てと
宣ひて、又取直し、胸先より押下げ給ふ所を、頓て御首討ち奉る。
惜むべき御年かな、三十一を一
期として、嵐に
脆き露の如く消え給ふ。りう西堂
参りて御死骸
納め奉り、これも
御供申しける。淡路守、我
郎等を近づけて、手水嗽ひして、秀次の御首を拝し奉りて後、
検使の人々に向ひ、某身
不肖に候へども、此度御
跡を慕ひ参りたる御恩に、御介錯仰付けらるゝは弓矢取つての面目と存候。あはれ見給ふ方々は、
念仏申してたび候へといひもあへず、一尺三寸
平作の脇指を、
太腹に二刀さしけるが、切先五寸計後へ突通して、又取直し、首に押当て、
左右の手を掛けて、前へふつと押落しければ、首を
膝に抱きて、
軀は上に重なりけり。見る人目を驚かし、あはれ
大剛の者かな。腹切る者は世に多かるべきが、かゝるためしは伝へても聞かずとて、諸人
【 NDLJP:27】一度にあつとぞ感じける。
さる程に、此関白殿は、
御思ひ
人多き中にも、
若君三人おはします。御
嫡子は仙千代丸と申して、五歳になり給ふ。次をば御百丸とて四歳、三男は御十丸。何れも
玉を
研きたる如くにて、父御の
御寵愛浅からず、
片時も離れ給はでおはしける。常には伏見殿へ御参りの時も、同じ御車にて座しける。此度は、何とて我々をば召連れ給はぬぞ。父はいづくへ御渡り候ぞや。急ぎ父のおはします方へ、我を具して参れ。
我先に行かん、我も行かんと、
声々に泣き叫び給へば、母上達は落つる涙を押へつゝ、
大殿は、西方浄土と申して、めでたき所へ渡らせ給ひ候。若君達をも、頓て御迎へ参り候べし。
暫く御待ちあれといひもあへず、涙に
搔暮れ給へば、
中居末々の女房童に至る迄、
伏転びてぞ泣き叫びける。若君達は此由
聞召して、さらば御迎へ参らずとも、
急ぎ其西方浄土とやらんへ、我を具して行き給へ。唯今行かん。御車こしらへよ、御馬に
鞍置けよとて
責め給へば、いとゞ
遣る方なき御身どもの、置き所なくて、たゞ
伏沈み泣沈み給ふ有様、
哀れとも中々に、たとへていはん方もなし。
昔平治年中に、
待賢門の軍に打負け給ふ義朝の思ひ人
常磐御前は、三人の若君を
引具して、
大和路指して落ち給ふもかくやと思ひ知られたり。されども夫れは
敵のの手をも脱れつれば、少しは
頼みもありぬべし。此人々は
籠の中の鳥の如くにて、
如何程あこがれ給ふとも、
露の
頼みもあらばこそと、見る人聞く人、
袖を湿らさぬはなかりけり。
同じき七月十七日に、入道殿
御首并に御供申せし
輩の首共を、伏見へさしのぼせ、
太閤の御目に懸け奉れば、さしも御いとほしみ深く思召しつる
御養君にておはしけるに、今
引換へて、
御憤り深く思召し、さるにても
天罰を受けたる者の、なれる果のあさましさよ。
後代のためしなれば、急ぎ都へ上せ、三条の
橋にて、七日
晒すべしとの御諚にて、三条川原にかけ奉る。京中の
貴賤群集して、御有様を見奉り、
哀れ人の
身の
上程定めなきものはなし。今日此頃迄、
諸国の
大名にいつきかしづかれ
給ひて、
何事も御心の儘に
振舞ひ給ひつるに、かやうに
浅猿しく成行き給はんとは、誰か思ひ寄るべきぞ。
知らぬは人の
行末の空と、
詠み置きしこそ誠なれといひ語らひ、諸人
涙を流しける所に、年の程八十に及びたるらんと見えて、
色黒く脊高く
荒々しき
禅門、
歪みたる杖を曳きずり、
汗水になりて足早に
歩みより、余多の人を押分けてはゞり出でて、大の声にてから
〳〵と
打笑ひ、さても
〳〵、人は現在のありさまにて、
過去未来を知るといへば、前生の戒力にて、一旦は
栄華に
誇るといへども、かやうに目の前にて、あさましき体に成り果てゝ、さこそ
来世は
修羅道に落ちて、長く浮むまじき人のなれる果や。われ八十になり、
杖柱共頼みつる子を、故もなく失はれ、兎にも角にも
成るべきと思ひつれども、孫共の幼くて、世になしものとならんを
不愍さに、つれなく命ながらへて、今又かゝる
【 NDLJP:28】不思議を見る事よ。あら面憎やと思ふ
心地にて、
歯切してぞ罵りける。
諸人、こは如何なる物狂ひぞやと怪みけるに、此
禅門は、都の方辺土にて、田畠多く
持ちて富める民なるが、一とせ
訴訟ありて、彼が
嫡子奉行所へ参りける。世に勝れて肥りせめて、大の男なるを、
何者か申上げたりけん、
故なく
搦め取り、訴訟うつたへの
沙汰もなく、
頓て其夜に切られけるとなり。これは如何なる事ぞといへば、其頃
関東より、鍛冶の上手を召上せられ、あまたの太刀を打たせ給ふ中にも、三尺五寸の太刀を打ちたてゝ参らせければ、此
太刀のかねを
験し
試み給はんとて、大の男の肥りたる者もがな、いづくにても
見出したらば、
窃に召し連れ参れと、内々仰せけるを、
若殿原承り、折に幸と申上げけるとぞ聞えける。
木村常陸の守定光は、
関白殿伏見へ御参りの時も、
色々申留め奉れども、
阿波の木工之助が申すに附き給ひて出御なる。常陸力及ばで居たりけるが、猶
御心許なく存じければ、御跡を慕ひ、五条の橋迄
見え
隠れに参りけるが、先々の様を見ばやと思ひ、夫れより道をかへて、竹田へ
直に打つて出でけるに、竹田の宿外れには、
鞍置きたる馬共、
爰かしこに引立てゝ、
物具したる兵並みゐたり。すはや危し。
我君をはや道にて討ち奉ると
覚ゆるなり。いつまで命を
長らふべきぞ。いかに汝等、皆
徒立にて叶ふまじけれども、我に命惜しからぬものは、
向ふかたきを一さゝへ支へよ。我は其隙に
駆け通りて、
石田めが
駆け廻らんに、
踏み
落し、首取つて後腹切るべしとて、既に
駆け出でんとしける所に、野中清六とて、十九になるわつぱ、馬の口に
取付き、暫く待ち給へ。縦ひ鬼神の
働を致し候とも、此分にて、いかで駆抜け給ふべき。先々に人数を伏せて、待つ体とこそ見えて候へ。さあらば
雑兵の手にかかり、犬死し給ふべし。先づ是より
山崎に打越え給ひて、夜に入り忍び入り、いかさまにも計ひ給へかし。さらずば一度北国へ下り給ひて、城に
楯籠り給はゞ、国々へ下りたる
味方共、馳せ集まり候べし。其時一
合戦して、主君の為に命を
棄てさせ給はゞ、御名を残し給ふべしと、おとなしくいひければ、
残る者共、此儀然るべきとて、夫れより東寺を西へ、
向うの明神へかゝりあゆませ、山崎たから寺に、日頃
好ある
僧の許へ忍び入り、伏見のやうを聞き居たりしに、関白殿は
高野へ渡り給ふと聞きて、さては未だ御命にさかいなし。いかにもして
御跡を
慕ひ参らんと思ふ中に、下人共皆
落失せければ、唯
羽抜鳥の如くにて、
呆れ果てゝぞゐたりける。されば宿の者共此由を聞き、此
人々を隠し置きたりなどと
聞食しては一大事とて、
頓て伏見へ申上げければ、それより検使立つて、七月十五日に腹を切りける。子息木村志摩の助は、北山に忍びゐたるが、父の
最後の由聞きて、
頓て其日寺町正行寺にて、自害してこそ果てたりけれ。
熊谷大膳は、
嵯峨二尊院に居たりけるを、
徳善院承りて、同七月十五日に、同七月十五日に、松田勝右衛門といふ
家老【 NDLJP:29】の者を遣しける。松田は先づ釈迦堂迄来り、それより人を遣し、秀次今日高野にて御腹召され候。
急ぎ御供あるべきとの
上意を、徳善院承りて、松田これ迄
参りて候。日頃
御懇志に預り候へば、何事も思召し置かるゝ事の候はゞ、承り候へと申しつがひければ、
大膳使に出で合ひて、上意の御使にて候へば、
夫れ迄罷出で対面申度候へども、御気遣ひもあるべければ、これへ御入り候へかし。
最後の御暇乞をも申し、又
頼み申度事の候由返事しければ、松田頓て内へ入る。大膳出で合ひ、これ迄御越し
満足申候。左候へば、我等
召遣ひ候者共、最後の
供仕るべき由申候を、色々申留め候。若し某果て申候後にて、一人なりとも
此旨背きたる者は、
来世まで勘当たるべく候。其上其者の一類を、五畿内近国を御払ひ候うてたび候へ。返々を、重海の
勘当たるべして、様々の
誓にて、其後
最後の御盃持つて参れとて、松田と最後の
盃取交しける隙に、大膳が郎等共、御最後の御供申さばこそ、
勘当をも蒙り候はめ。御先へ参り候上はとて、三人一所にて腹切つてぞ死んだりける。
残る者共之を見て、尤是は
理とて、我も
〳〵と心ざしけるを、松田が
郎等は寺中の僧達出合ひて、一人には五人三人づつ取付きて先づ太刀刀を奪ひ取る。大膳之を見て不覚なる者共哉。誠の志あらば、命長らへて、熊谷後世を
弔ひてくれよかし。却てよみぢの
障とならんと思ふかや。此世にてこそ、主のために命を捨つべけれ。御助あらば、此大膳は、唯今にても出家して、主君の
御菩提を弔ひ奉るべけれども、御許なければ、力なしとて、涙に
咽びければ、此上は力なしとて、皆髪を
剃り、
主の御房の御弟子になり、後をば
念頃に弔ひ奉るべし。御心安く
思召して、御最後の御用意候へと申す。熊谷斜に喜び、頓て
行水して、
仏前に向ひ礼し、客殿の前に畳裏返して重ね、其上にて水盃取交し、供饗に載せたる
脇指を取り、西に向ひ、立ちながら腹十文字に切つて、首を
延べてぞ討たせける。松田も日頃深き
契なれば、涙に
咽びつゝ、
主の
御房に申合せ、百箇日迄の弔ひかたの如くに勤めける。さるにても熊谷は小身なれども、日頃の情や深かりけん。又は
其身大功の者なれば、下々迄も心勝りつらん。誠に
栴檀の林に生ふる木なりとて諸人感じける。
白井備後阿波の木工は、鞍馬の奥迄
立退き、上意いかゞと待つ所に、徳善院の方より、小池清左衛門を
遣して、関白殿の御事、北の政所より仰せられ、
御命ばかり申助け奉らんとて、
様々に仰せ上げられけれども、いかにも
叶ふまじき由
御返事にて、検使の為に福島左衛門大輔、福原右馬助、池田伊予の守、此三人を遣され候。急ぎ
最後の御用意候べし。又思召し置く事候はゞ、此者に仰聞けられ候へ。
後の
御孝養は、懇に
沙汰し申すべしといひ遣されける。両人清左衛門に
対面して、
法印の御心付
過分に候。
迚もの御事に、日頃頼みつる上人の方へ
召連れくれ候事は、
御辺の心得として、なるまじきかと
頼まれければ、清左衛門聞いて、いと易き御事にて候。
法印も其趣申付け候とて、
旧き
釣輿に載せ、白井は大雲院の御寺にて腹切る。木工の助は
粟田口の鳥の
小路といふ者の方にて、時をも
変へ
【 NDLJP:30】ず果てたりけり。
白井が女房は、
北山辺に忍びてありけるが、妻の
最後の有様を聞いて、少しも
騒がず。夫れ
弓取の妻は、
昔よりかゝるためしのあるぞかし。みづから十二歳にて
見え初めてより
此方、
一日片時も
離れずして、此度後に
残るとも、
幾程の齢を保ち、如何なる栄華に誇るべきぞや。其上此人々の妻や子は、
如何に忍ぶとも、終には捜し出されて、失はれん事は
疑ひなしと、思ひ定めければ、召遣ひつる
女童にも、夫々にかたみを遣し、
縁共の方へ返し遣し、二歳になる姫をめのとに
抱かせ、大雲院貞庵上人の御寺へ参り、是は備後が
妻や
子にて候。
頼む方なき身となり候へば、
夫の後を慕ひ参り候べし。なからん跡を
御弔ひ候てたび候へと申しければ、上人は聞召し、貞女
両夫に
見えずとは、かやうの人を申すらめ。
隠れなき人の妻なれば、
言上申さでは叶ふまじ。先づ
是へ入らせ給へとて請じ入れ、頓て徳善院へ申されける。
法印此由言上申されければ、太閤
憐れにや思召しけん、
男の子あらば害すべし。女は法印が計ひにて助けよとの
御諚なり。法印方より、此由貞庵へ申されければ、
上人喜び、御命は
申請けて候へば、御心
易く思召せと仰せけり。女房聞いて、
有難き上人の御慈悲にて候へども、命長らへ候共、
誰を
頼み、いづくに身を
隠し候はん。たゞ
〳〵夫の跡を慕ひ申すべし。又これに候
姫、二歳にて候。上人の御慈悲には、いかなる者にも
預けたまひて、
若し人となり候はゞ、自らが跡
弔はせてたび候へとて、正宗の守刀に、黄金三百両添へ、上人に渡し給ふ。貞庵
聞召し、
仰はさる事にて候へども、
先づ御命を長らへ給ひて、
夫の
後世菩提をもとひ給はんこそ、誠の道にて候はめと、いろ
〳〵に留め給へば、さらばさま
変へてたび候へとて、緑の
髪を
剃りこぼし、
墨染の衣著て、よもすがら
念仏申しておはしけるが、
暁方にめのとは姫を
抱き、少し
睡みける隙に、守刀を取出し、心元にさし当て、うつぶしになりて
空しくなる。めのと驚き、上人へ此由申せば、貞庵も涙と共に、
孝養念頃にし給ひて、彼姫をば五条あたりに、人あまた附けて
育てさせ、十五の年能き幸ありて
富み
栄えけり。
又何よりも
哀れ深き事こそあれ。
此姫幼なき時より、読み書く事に心を
染め、あまたの
双紙を集め見るにも、是は誰人の御子、父はその
某、母は誰人のむすめとあるに、我はいかなる身なれば、父とも母ともいふ人のなきこそ
不思議なれと、思ひ暮しけるが、或時めのとに向ひ、あの
鳥類畜類も、親子の道はあると聞く。況して我は人間にて、父とも母とも知らざる事こそ
浅ましけれと、搔口説きければ、めのと涙に
咽びけるが、やゝありて、疾くにも斯くと申度は候ひつれども、幼き御心一つにて、
歎き給はん事を痛はしく思ひ、
打過ぐしつるぞや。此上は力なし。父御は白井備後の守殿と申して、天が下の
大名小名に知られさせ給ひしが、前関白秀次
御謀叛思召し立ちし事
顕はれ、高野山にて御腹めされ候。其御内にて人にも知られ〔
〈此間三行不明〉〕れて人手にはかゝらじと思召し、此間三貞庵上人を
頼み給ひ、御
【 NDLJP:31】ぐし下し、頓て御自害し給ひしぞかし。御身をば
自らに預け給ひしを、上人の御慈悲にて、年月を
明し
暮し候ぞや。しかも今年は十三年にも
当り候へば、猶々上人を
頼み給ひて、父母の
菩提をとひ給へといひもあへず、泣き沈みけり。姫は此由聞召し、あらつれなの人の心やな、
問はずばいつまで包むべきぞ。
縦ひ父こそ主君のために、果敢なくなり給ふとも、などか母上は我を
捨て置き給ひて、今かかる
憂目を見せ給ふぞや。二歳の時、いかにも成るならば、今かゝる思ひはよもあらじ。うらめしの
浮身やとて、
人目も恥ぢず泣き給ふ。めのとは涙を押へて、歎き給ふは、御ことわりにて候へども、
夫れ女は五
障三従とて、
罪業深き事
海山にも譬へ難し。其上劔の先にかゝり果て給へば、猶しも
罪深く思召し、後の世
弔はれ給はんとて、御身を浮世に残し給へば、いかやうにも父母の
御孝養し給ひ、御身の後の世をも仏に
祈り給はんこそは、孝行の道にておはしませ。斯く申す事を用ひ給はずば、今より後は、自らも捨て
参らせて、
何方へも参り候はんと、
搔口説きければ、姫君聞きもあへず、
恨めしのいひ事や、二歳にて父母に
後れ、今又めのとに捨てられば、何を
便りに
浮草の、波に
漂ふ有様にて、
寄辺をいづくと定むべき。兎も角も
計ひのなどあしかるべき。
殊更親の菩提を弔はんに、いかで愚のあるべきぞとて、それより
明暮念仏申し経を読み、
偏に後世菩提の外は、心にかくる事もなし。斯くて春も暮れ夏長けて、五月の末つ方より、大雲院にて四十八夜の別時念仏を初め、
結願を命日に
当るやうに志して、様々に
弔ひけるが、七月十四日の夜
明、
結願の日なれば、いと
名残惜しく思ひ、仏の御前に通夜申し、殊更
孟蘭盆の事なれば、
万の亡者も、
娑婆世界に来るなれば、三
界平等利益と
廻回して、少し
睡みける夢に、其年四十余りと見えし人の、
唐綾の装束に、冠を著し、
笏取直し仏壇におはします。又三十路
余りと見えたるに、
濃紫の
薄衣に、墨染の衣著て、右の
座に直り給ふ。
夢心にも不思議に思ひ、あたりなる人に問ひければ、あれこそ白井備後守殿夫婦にて候へと語る。扨は我父母にてましますぞや、是れこそ
姫にて候へと、いはんと思ふ所に、俄に千万の雷
鳴り
渡り、天地も
覆すかと恐しく思ふに、丈二丈計にて、眼は
日月の光の如くなる
鬼の、五体に
朱を
塗りたるやうにて、口には
炎を吹き出して、いかに罪人、
片時の暇と申しつるに、何とて遅きぞ、
急ぎ帰れと
怒をなしければ、こはそも斯る
憂目に会ひ給ふぞやと、心
憂く思ひ居たるに、八旬に余り給ふと覚しき老僧、いづくともなく来り給ひて、仏の御前なる百味の
飲食を取りて、此
呵責に与へ給へば、其時鬼共
怒を止め、却て恐れをなして立去りければ、俄に
紫雲たなびき、空より
音楽響きて、
異香薫じ、二人の親と聞きし人は、忽ち
金色の仏と顕れ、金の蓮に乗りて天生し給ふ。其時彼姫夢心に、有難き事なれども、余り名残惜しき事と思ひて、しばらくとて、
裳裾に
縋ると思へば、夢は覚めて、
仏前にかゝりたる旗の脚に取附きてぞ居たりける。余りに有難く不思議に思ひ、あたりを見れば、めのとも
障子に寄添ひ眠り居たるを驚かしければ、
有難き夢を見つるに、驚かし給ふ物かなといふ。いとゞ
不審に思ひ、いかなる夢ぞや、みづからも恐しく、又有難き夢の告ありとて、互に
語りけるに少しも違はず。
夜明け
【 NDLJP:32】て後も、暫し
紫雲たなびき、
虚空に
異香薫じける。
末世とはいへども、誠の志あれば、かゝる
奇特もありけるとて、貴賤の輩皆
歓喜してこそ帰りけれ。
又何よりも
痛はしきは、
常陸の
守が妻や子の
最後の有様なり。十三になる娘のありしが、並びなき美人なれば、関白聞食し及び、度々召しけれども、常陸いかゞ思ひけん、ちと
痛はる事候とて、母に附けて越前に下し置きしが、
最後の時に、野中清六といふ
童を近付け、汝
最後に供せんと思ふ志は
浅からねども、
暫く命長らへて、北国へ下り、我が老母妻子のあらんを、
兎も
角も計へかしといひ
含めければ、野中、いかさまにも
御諚に従ひ候べしとて、急ぎ越前に下り、木村が母女房に向ひ、
殿は都にて御腹召され候。急ぎ何方へも忍ばせ給へと申しければ、女房聞いて、さりとも
今一
度見もし
見えもして、兎も角もならばやとこそ願ひつるに、早や先立ち給ふ事の悲しさよ。心に
任せぬ
憂世とはいひながら、あさましき
我身かな。今は少しも
命長らへても
詮なし。急ぎ害せよ。死出の山にて待ち給ふらんと
歎ちける。野中思ひけるやうは、三人の人々を
害せんとせば、
愚なる女童共、取付き
縋り付き悲むならば、思ふやうにはなくて、わびしくあさましき事のあるべし。たゞ某
腹切つて
見せばやと思ひ、早や
唯今都より御迎ひ参り候べし。さあらば
賤しき者の手にかゝり給ひて、一門の御名を下し給ふべし。
急がせ給へ。某は
殿の御待ち候はんに、先づ御供に参り候といひも果てず、
腹十
文字に
搔切つてぞ死にける。女房此由を見て、
扨は
童が最後を急げと、常陸の守いひ含めつらん。いざや父の跡を
慕へとて、十三になる
姫を害せんとしければ、めのとの女房
縋りつきて引退くる。ありあふ者は、皆
女童なれば、当座の憂目を
見じと思ふ計にて、我も
〳〵と
抱き付き、縋り付きて引退くる。木村が女房は、力及ばで
立退き、
浅猿しのめのとが心や、縦ひみづからが手にかけずとも、
遁れ果つべき命かや。
尊きも
卑しきも、わりなく命を
惜めば、必す
恥を
晒すものぞやとて、木村が老母に向ひ、
急ぎ最後の御用意候へかし。みづからは御先へ参り候とて、守刀取出し、
甲斐々々しく自害して
果てられたり。老母は
日頃頼みつる
智識を
請じ奉り、身に
触れたる小袖共に金を取添へ参らせ、一門の
後世弔ひてたび候へと、
委しくいひ置き、是も自害して
果てられける。其
後めのとは姫を
抱き出でけれども、女心の
果敢なさは、いづくを
指し、誰を
頼むともなくうかれ出で、峯に上り谷へ下り、足に
任せて
迷ひけれども、いつならはしの事ならねば、足より
流るゝ血は、
裳裾も草木も
染め渡す。たどり
〳〵行き廻りて、
嶮しき巌石に
踏み迷ひ、一足行きてはたゝずみ、二足行きては休らひつゝ、
夜もすがら
涙と
露にしをれつゝ、
詮方なさの余りに、いかなる獣も出でて、我命を取りて行けよかし。あら
恨めしのめのとや、母
諸共に行くならば、
死出の山を越え、
三途の河を渡るとも、かほど
憂目はよもあらじ。いづくにも
深き淵河のあらん方へ出でて、身を
沈めんと
思ひ、谷について下りければ、やう
〳〵
東雲の空も明け渡り、山田守る賤が家路に帰るに行逢ひて、道に踏み迷ひたるぞ、道しるべせよとい【 NDLJP:33】へば、某参り候方へ出でさせ給へとて、先に立ちて歩みける。いと嬉しくて、此者を見離さじと転び倒れて、慕ひ出でられければ、本の在所へ出来り、都より尋ね来りたる者共に行きあひ都に上り、三条河原にて害せられて、後迄死骸を晒されける、因果の程こそあさましけれ。
関白の御母上は、
太閤御姉御前にておはしければ、諸国の大名に
仰ぎかしづかれてまし
〳〵けるに、此度
不思議の
出で
来、御心を
砕き給ふ所に、
早や高野にて
御腹召されたる由聞食し、
是は夢か
現か、夢ならば、
覚めての後はいかならんといひもあへず、御心地
取失ひ給ふを、あまたの
女房達、御薬
参らせ様々して
呼び
活け奉れば、
少し心づき給ひて、
扨も世には、神も仏もましまさぬかや。我れ此程
祈りつるは、いかにもして此度の
難を転じ給はゞ、伊勢太神宮を
始め奉り、日本国中の大社を、
造立し奉るべし。其外の神々へも、
奉幣を
捧げ、御神楽を
奏し、
神慮を
鎮め奉らん。神も仏も昔は
凡夫にておはしませば、
恩愛の哀れは
知食さるべし。若し此願
叶はずば、我命を
取り給へと
祈りつるに、
切て一方はなど叶へ給はぬぞと、
搔口説き
歎き給ふは
理なり。誠に人の親の習ひにて、
賤しき者のあまたある子の中に、独り欠けたるをだに歎くぞかし。
況してや類なき一人の御子にて、天が下を
御心の儀に
計ひ給ふ御身の、御心に
任せぬ世の
習こそ悲しけれ。見るもの聞くもの涙を
流さぬはなかりけり。斯くては命
長らへじとおぼしめし、
自害を心がけ給へども、
附随ふ人々
守り
居ければ、それも叶はずして、いつしか
御心狂乱し給ふ。太閤
此由聞食し、さすが
連枝の御事なれば、
痛はしく思召し、
幸蔵主を遣はされ、
御歎きはさる事にて侍れども、それは
先世の
業因を知食されざる故にて候。たゞ何事も
夢の中と思召し、
後世を
弔ひ給はんこそ、
誠の道にて候はんずれ。
悪しく心得給はゞ、共に又
来世迄も、あさましくこそ覚え候へと、様々
慰め給ひ、
頓て都の中に、
村雲の
御所と申して、新造を立てられ、
明暮法華妙典を
読誦し、釈迦多宝の両尊に、秀次の
御影を
据ゑ、
御供申せし人々の
位牌を
並べ給ひて、臨終正念南無妙法蓮華経と、一
心に
行ひ
済まし、七十三にて、
成仏の
素懐を
遂げ給ふ。されば
今の
世迄も
其跡を
垂れ、
憂深き方々は、此寺に入り給ひ、
行住坐臥に、只妙法蓮華を
含み、
臨終の
夕を
待ち給ふこそ
有難けれ。
【 NDLJP:34】
巻之下
秀次公は
隠れなき
色好みにて、あまたの
御思ひ
人おはしける。其頃
遠国遠離の
果迄も、尋ね給ひて、みめ
容すぐれたるをば、
大名小名の娘によらず
召聚められ、
百千の人の
中よりも、
選び
勝りし事なれば、三十余人の内は、
何れを
如何にといはん方なき美人達にてぞおはしける。
玉の
簾錦の
帳の中に
金銀を
鏤め、色を
尽したる
襲ねの
衣を身に
纏ひ、常は源氏伊勢物語の辞を
弄び、古今万葉の歌を学び、或時は
琵琶を
弾じ、或時は
琴を
調べ、
明暮栄華に
誇り、日の
影をだに見給はねば、
況して人の見奉る事もなかりつるに、
情なくもいぶせき
雑車に、
取載せ参らする事の
痛はしさよとて、
卑しき
賤の
女猛き
武士も、涙を流さぬはなかりけり。されば秀次公、五人の御子を
儲け給ひし。姫君は、
摂津の
国小浜の寺の御坊の娘、中納言の
局の御腹に出来給ひし。仙千代丸は、尾張の国住人
日比野下野守が娘の腹、御百丸は、
山口雲松が娘の腹、御土丸と申せしは、お
茶々の
御方産み給ふ。御十丸の母上は、北野の別当
松梅院の娘なり。此人々は
取分き御寵愛にておはしければ、御
髪下し給ふ。其外も皆
髻より
切払ひ、日頃頼み給ひし寺々へ
遣し、或は
高野の山へ上げらるゝもあり。思ひ
〳〵の
最後の出立にて、上下京を
引廻り、一条二条を引下げて、
羊の
歩み近づき、三条の橋へ引渡す事の
痛はしさよ。
検使には
石田治部少輔
増田右衛門尉抔を先として、橋より西の土手の傍に、
敷皮敷きて
並みゐたりけるが、車の前後に立向ひ、先づ若君達を害し奉れと
下知しければ、承り候とて、
若殿原雑色抔走り寄り、玉を
延べたるやうに見えさせ給ふ若君達を、御車より抱き
下し奉り、御様の
変りたる父の御首を見せ参らすれば、仙千代丸はおとなしくて、しばらく御覧じて、こは何とならせ給ふ御事ぞやとて、わつと泣かせ給ひつゝ、走り寄らんとし給へば、母上達は申すに及ばず、
貴賤の
見物、
守護の
武士、
太刀取に至る迄、皆涙に
暮れて、前後を
弁へざるが、心
弱くては
叶ふまじきと思ひ、
眼を
塞き、
御心元を一刀づつに返し奉れば、母上達は、
人目をも
恥も忘れ果てゝ、我をば何しに早く害せぬぞ、
死出の
山三途の
川を
誰かは
御介錯申すべきぞ。急ぎ我を殺せ、我を害せよとて、
空しき御死骸を抱きつゝ、
伏転び給ふ御有様は、
焼野の
雉の身を棄てゝ、
煙に
咽ぶに
異ならず。しばしも
怯れ給はぬ
御最後共を、急がれけるこそあはれなれ。夫れより御目録にて次第々々に害し奉る。
一番には、上臈の御方一の台の御局、前の大納言殿御娘、御年は三十路に余り給へ共、御かたち勝れ優にやさしくおはしければ、未だ二十ばかりにを見え給ふ。父大納言殿御いとしみ深くおぼしめし、いかにもして御命計を申助け給はんとて、北の政所について、様々に申させ給へども、世の怨もありと思召しければ、つひに叶はずして、失はれ給ふ。又御めのとの式部といふ女房、御最後の御供申さんとて、是迄附慕ひ参りけるを召して、是迄の志こそ返々もたのもしう嬉しけれ。我が身斯く成行【 NDLJP:35】く事も、先の世の宿緑ぞかし、今更歎くべき事にあらず。只父御の御歎きと聞くこそ心苦しけれ。誠の志あらば急ぎ帰り、我が成行くやうを申すべし。親子は一世の契とは申せども、頼み奉りし仏の御慈悲にて、後の世は同じ蓮の縁となるべければ、たのもしくこそ思ひはんべれ。此世は仮の宿なれば、何事も前世の報ぞと思召し捨てさせ給ひて、御心を慰め給へと、能々申すべしとて、最後の御文の端に斯く詠じて書き付け給ふ。
長らへてありふる程を浮世ぞと思へば残る言の葉もなし
と打詠めて討たれ給ふ。めのとは是迄慕ひ参り候も、死出の山路の道すがら、御手をも引き参らせんためにてこそ候へ。我をも害してたび候へとて、太刀取に手を擦りて申せども、御目録の外は、いかで叶ふべきとて、荒けなくいひて返しけれども、たゞ平伏して泣き口説きければ、猛き武士も泣く泣く手を取り引立てゝ、輿に助け載せて、送り返しければ、心ならず帰り参り、御最後のありさま、細細と申上げ、夫れより物をも食はずして、七日に当る日空しくなる。父大納言殿北の御方、此由を聞きもあへず、暫し絶え入り給ひしを、御顔に水打注ぎ抔して、呼び活け奉り、公達御手に取付き給ひて、こはいかにならせ給ふぞや。此度の歎きに、誰か劣り優りのあるべき。されども叶はぬ道は力なし。残る者共は、御子とは思召し候はずやとて、掻き口説き悲み給へば、少し御心地取直し給ひて、さしも頼みをかけつる人々は、いかにいひなされけるぞや。兎ても角ても叶はぬ道と知るならば、最後の際に今一度、見もし見えもせば、其面影を忘れ形見とも慰むべきに、扨も言甲斐なき頼みをかけつる口惜しさよと、伏沈み泣沈み、あこがれ給ふぞ憐れなる。夫れより御飾下し、偏に後世菩提を祈り給ひけるが、遣る方なき思ひ積りて、程なく隠れさせ給ひけり。
二番には、小上臈の御方御妻御前、是も三位中将にて、時めき給ふ人の御娘なり。御年は十六になり給ふ。何れも劣りはあらねども、殊に勝れてやさしき御容なり。冬木の梅の匂深き心地にて、さこそ御盛りには、如何計たをやかに生ひ立ち給はんと、思ひ遣られていたはしさよ。緑の黒髪を半切り棄て、肩の廻りにゆらゆらとかゝり、芙蓉の眼尻にこぼるゝ涙は、珠を貫くに異ならず。誠に絵に書くとも、いかで筆にも及ぶべき。紫に柳色の薄衣重ね、白き袴引締め、練貫の一重衣打掛け、秀次入道の御首を、三度礼して斯く詠じ給ふ。
朝顔の日蔭待つ間の花に置く露より脆き身をば惜まじ
かやうに詠み給ひて、西に向ひ十念し給ふを、太刀取御後へ廻るかと思へば、御首は前に転びける。
三番には、中納言の局御亀御前と申せし。姫君の母上、津の国小浜の御坊の娘とぞ聞えし。御年は盛り過ぎけれども、心ざま優しくおはしければ、取分き御寵愛浅からずおはしければ、ゆかりの末々迄も富み栄えしに、昨日の楽み今日の悲みとなる、天人の五衰目の前に見えて、あさましかりし事共なり。御辞世に、
【 NDLJP:36】 頼みつる弥陀の教の違はずば導き給へ愚なる身を
と打連ね、西に向ひ、南無西方極楽世界の教主阿弥陀仏と一心に念じ、三十三にて、露と等しく消え給ふ。
四番には、仙千代丸の母上日比野下野の守が娘おわこの前、十八歳になり給ふ。練貫に経帷子重ね、白綾の袴著て、若君の御死骸を抱き、水晶の珠数を持ちて出で給ふ。此程の御歎きの積りに、又若君の御最後の有様、一方ならぬ御事なれば、村雨に打乱れたる糸萩の、露置き余る風情にて、中々目もあてられぬ有様なり。貞庵上人参り十念授け給ふ。心静に回向して後、斯くぞ詠み給ふ。
後の世をかけし縁のさかりなく跡慕ひゆく死出の山道
五番には、御百丸の母上十九歳、尾張の国の住人山口松雲が娘、白き装束に墨染の衣打掛け、若君の御死骸を懐に抱き、紅の房つけたる珠数持ちて、是も貞庵の御前にて十念うけ、心静に囘向して、
夫や子に誘はれて行く道なれば何をか後に思ひ残きん
と詠みて西に向ひ、掌を合せ、両眼を塞ぎ、観念しておはしけるを、水もたまらず御首を打落す。
六番には、御土丸と申せし若君の母上なり。是も白き装束に、墨染の衣著て、物軽々しく出で給ふ。此御方は禅の智識に御縁ありて、常々参学に心をかけて、散る花落つる木の葉につけても、憂世の徒に果敢なき事を観じ給ひしが、此時も聊騒ぎ給ふ気色もなくて、
うつゝとは更に思はぬ世の中を一夜の夢や今覚めぬらん
七番には、御十丸の母上、北野の松梅院の娘、おさこの前、是も御子の親なれば、御髪下し給ひて、白綾に練貫の一重衣重ね、白き袴引締め、綟子の衣打掛け、左には畳紙に御経を持添へ、右には、思の玉の緒繰返して、足たゆく歩みいで、西に向ひ御経の紐を解き、法華経の普門品を読誦して、入道殿并に若君我身の後生善所と、心静に回向し給ひて後、
一筋に大悲大慈の影たのむこゝろの月のいかでくもらん
八番には、近江の国の住人信楽の多羅尾彦七娘、おまん御ぜんとて、二十三になり給ふ。丈と等しき黒髪を、髻より切払ひ、練貫に同じく白き袴引締め、紫に秋の花尽し摺りたる小袖打掛け出で給ふ。此頃童病を労り、折しも起り日なれば、たゞ芙蓉の花の、夜の間の雨に痛く打たれたるやうにて、見る目もいと悲しく、心も消え入るやうに覚えけるが、是も上人の十念うけて、
いづくとも知らぬ闇路に迷ふ身を導き給へ南無阿弥陀仏
かやうに詠みて、掌を合せ給へば、劔の光輝くと見えて、首を抱きて伏し給ふ。
九番には、およめの御方とて、尾張の国の住人堀田次郎右衛門娘二十六、是も白き装束にて、白房の珠数に、扇持添へ、めのとに手を牽かれ出でて、西に向ひ十念回向して後、
ときおける法の教の道なれば独り行くとも迷ふべきかは
【 NDLJP:37】かやうに詠じて、又念仏申して、首を延べて討たれ給ふ。
十番に、おあこの御方と申せしは、美目容貌に猶勝りたる心ばへにて、慈悲深く柔和におはせしが、毎日法華経読誦し給ふ。況して此程は、少しも怠り給ふ事なし。されば最後の歌にも、妙法蓮華の心を詠める。
妙なれや法の蓮の花のえんにひかれ行く身は頼もしき哉
十一番に、おいま御前、出羽の国最上殿の御娘、十五歳なり。未だ蕾める花の如し。此御方は、両国一の美人たる由聞召し及び、様々に仰せ、去んぬる七月初つ方、召上せられけるが、遥々の旅疲れとて、未だ御見参もなかりつる中に、此事出来ければ、いかにもして申受け参らせんとて、様々に心を砕き申させ給へども、更に御免なかりけるを、淀の御方様より、去り難く仰せられ、度々御文を参らせられければ、太閤黙し難くや思召しけん、さらば命計を助くべし、鎌倉へ遣し、尼になせと仰出されける。夫れより早馬にて伏見より、揉みに揉うでうたせけれども、死の縁にてやおはしける。今一町計著かざる中に害しけるこそ、憐れも深く痛はしけれ。未だ幼かりつれども、最後の際も、さすがにおとなしやかにて、辞世の歌に、
罪をきる弥陀の劔にかゝる身の何か五つの障あるべき
此歌を聞召して、太閤相国も痛はしく思召し、御涙を流させ給ふとぞ。
十二番は、あぜちの御方、これは上京の住人に秋羽といふものゝ娘なり。年三十に余りければ、長月末の白菊の、籬に余る迄咲き乱れたる如くにて、さすがに京童の子なれば物慣れて、時折々の御心に随ひ宮仕ける。月の前花の下の御酒宴の折柄も、此人参らざれば、御盃も数添はず。されば冥土にて思召し出すらん。此程打続き、あぜち参れ〳〵と宣ふと、夢に見奉るとて、
冥土にて君や待つらんうつゝ共夢ともわかす面影にたつ
かやうに詠みけるとぞ。されば最後の時も、前を争ひけれども、御目録にて十二番目なり。又の歌に、
弥陀頼む心の月をしるべにて行かば何地に迷ひあるべき
十三番は、少将殿とて、備前の国本郷主膳娘なり。此人は秀次御装束を受給はりし人なれば、取分き御恩深く蒙りし人なり。これも辞世の歌に、
ながらへば猶も憂目を三津瀬川渡りを急げ君やまつらん
十四番には、左衛門の督殿、三十になり給ふ。岡本といふ人の後室なり。父は河内の国高安の桜井といふ人なるが、世の常ならず優しき心ざまなり。月の夕雪の朝などは、琵琶を弾じ琴を調べ、又は源氏物語など読みて、幼き人々に教へし人なり。最後の時も思設けたる気色にて、
屢の憂世のゆめの覚め果てゝこれぞうつゝの仏とはなる
十五番は、右衛門の督殿とて、三十五になり給ふ。村井善右衛門といふものゝ娘なるが、二十一にて【 NDLJP:38】村瀬の某といひし夫に離れて、宮仕へ申せしが、容顔勝れければ、御寵愛にておはしける。此御方は、法華経一部読み覚えて、常に読誦して心を澄まし給ふが、最後の歌にも、
火の家に何か心の留るべき涼しき道にいざやいそがん
かやうに詠みて後、一乗妙伝の功力にて、女人成仏疑ひあるべからず。一切経王最位第一、南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合せて討たれ給ふ。
十六番は、めうしんといふ老女なり。秀次の御内に、いしん、ふしん、えきあんとて、三人の同朋なりしが、此乳母ふしんに離れし時も、自害せんとしたりつるを、様々仰せ留め給ひて、御前を去らず召仕はれける。男にも勝りて智慧深きものとて、何事の御内談をも、此乳母に知らせ給はぬ事はなかりけり。されば最後の御供申す事を喜びて、
先立ちし人をしるべにゆく道の迷ひをてらせ山の端の月
と打詠めて、是も貞庵上人の十念をうけ、心静に念仏を申し、奉行の人々にも最後の暇乞をして討たれける。
十七番は、おみや御前、十三になり給ふ。是は一の台殿の御娘なりしを聞召し及び、わりなく仰せられて、召迎へ給ひしとなり。されば此由太閤相国聞食し、あるまじき事の振舞かな、世に又人もなげに親子の人を召上げられたる事、たゞ畜類に異ならずとて、愈御憤り深く思召しければ、様々に頼みて、御様変へ、命計りをと申させ給へども、御許なきとぞ聞えし。此姫君の御辞世に、
秋といへばまだ色ならぬうらば迄誘の行らんしでの山風
かく詠み給ひて、おとなしやかに念仏申し給ふ最後の有様、哀れを尽せし事共なり。
十八番に、お菊御前、是は津の国伊丹の某といふ人の娘、十四歳にておはしける。先立ち給ふ人々のあへなき最後の有様を見て、自ら消え入るやうに見え給ふを、貞庵上人寄り近付きて、御十念を勧め給へば、其時心を取直し、静に十念授かりて後、かく詠み給ふ。
秋風に誘はれて散る露よりも脆きいのちを惜みやはせん
十九番に、喝食とて、尾張の国の住人坪内市右衛門娘、十五歳、此御方は心ざまさえ〴〵しくて男姿ありて、さながらたをやかにして、いふばかりなく優しき様なればとて、名をも喝食と呼ばせ給ふ。萌黄に練貫の一重衣重ね、白き袴引締め、静々と歩み出でて、入道殿御首の前に向ひて、
暗路をも迷はでゆかんしでの山澄める心の月をしるべに
かやうに詠みて、残り給ふ人々に向ひ、御先へこそ参り候へ、急がせ給へ。三瀬川にて待ちつれ参らせんとて、西に向ひ手を合せ給ふありさま、誠に正しき最後かなと、見る人暫し涙を留めて感じける。
二十番には、お松御前とて十二歳、右衛門の督殿の娘、是は未だ幼くおはしければ、肌には唐紅に【 NDLJP:39】秋の花尽し縫うたる薄衣に、練貫を打掛け、袴の裾をかいとりて、母上の死骸を礼してかく詠める。
残るとも長らへ果てん憂世かは遂には越ゆるしでの山道
二十一番は、おさいとて、別所豊後の守内に、きやくじんといふものゝ娘なりしが、十五の夏の頃、初めて参り仕へしに、あだし情の手枕の、睡む程も夏の夜の、明けてくやしき玉手箱、再びかくともの給はざれば、たゞ拙き身を怨みて、明し暮しけるに、或時雨夜の御つれ〴〵とて、御酒宴ありしに、御酌に参られしを、それそれ何にても御肴にと仰せければ、とりあへず、
君やこし我やゆきけん思ほえず夢か現か寐てか覚めてか
といと細くたをやかなる声にて、今様にうたひければ、関白聞食して、彼在五中将がりの使にて、伊勢の国に在せし時の様思召しやらせ給ひて、痛はしく哀れにや覚しけん、御盃二たびほし給ひて、此女房に下されければ、おもはゆげに顔打赧めて、うちそばみければ、側なる人々、それ〳〵急ぎ御盃取り給へと責められて、給はりければ、関白御覧じて、自らも御肴申さんと戯れ給ひて、
搔暮す心の暗に迷ひにきゆめうつゝとはこよひ定めよ
と伽陵賓の御声にて、歌はせ給へば、御前の女房達も、皆涙をぞ催されける。かくて其夜は御寝所へ召して、様々御情深く仰せられ、後々も度々召しけれども、いかゞは思ひけん、痛はる事候とて、其後は参らざりしが、御最後の御跡を慕ひ参るこそ不思議なれ。
末の露元の雫も消えかへり同じながれの波のうたかた
車に乗りし時、此歌を短冊に書きて袂に入れ、最後の時は、妙法華経読誦の外は、物をもいはず果てられけり。
二十二番には、おこぼの御方十九歳、近江の国の住人鯰江権之介といふ人の娘なり。十五の年召出され、夫れより此方御恩深く蒙り、親類の末々迄も人となし、其身はさながら宮女の如くにて、四五年が程は、月に向ひ花に戯れて明し暮し、後の世の営み抔は、思ひも寄らでありつるが、此期に臨みて、大雲院貞庵上人の御教をうけ、十念囘向してかくぞ。
さとれるも迷ひある身も隔なき弥陀の教を深く頼まん
二十三番、おかな御前十七歳、越前の国より、木村常陸の守が上げたりし女房なり。此人は勝れて心賢しく、世の常の女房には変りたりければ、殊に御寵愛とぞ聞えし。辞世の歌にも、仇なりし世の中仇なりし世の中を観じて詠める。
夢とのみ思ふが中に幻の身は消えて行くあはれ世の中
二十四番にはおすて御前、是は一条のあたりにて、さる者の拾ひたる子なりしが、類なき貌に生立ちければ、召上げられて、いつきかしづき給ひけるが、三年余りが程楽み栄え、今又かゝる憂目に遭ふ事、皆先の世の報とはいひながら、浅ましかりし事共なり。
【 NDLJP:40】 来りつるかたもなければ行末も知らぬ心の仏とぞなる
二十五番はおあい御前、二十三歳、古川主膳といふ人の娘なり。此人は法華の信者にて八巻の御経を転読して、常々に人をも示し勧められしが、最後の歌にも、草木成仏の心を詠める。
草も木も皆仏ぞと聞く時は愚かなる身もたのもしき哉
二十六番は、大屋三河守が娘、生年二十五歳、是も大雲院の御坊の仏前にて十念をうけ、暫く観念して、
尋ね行く仏の御名をしるべなる道の迷ひの晴れ渡る空
二十七番は、おまきの御方、十六になり給ふ。斎藤平兵衛娘なり。是も貞庵上人を頼み奉り、御十念給はりて後、西に向ひ手を合せ、観念して、
急げ只御法の船の出でゐ間に乗り遅れなば誰か頼まん
二十八番には、おくま御前、大島次郎左衛門娘、二十二歳、肌には白き帷子に、山吹色の薄衣を重ね、練貫に阿字の梵字すゑたるを打掛けて、裾を取り足たゆく歩みより、入道殿御首若君達の御死骸を礼して、
名ばかりを暫しこの世に残しつゝ身は帰り行く元の雲水
かやうに詠みて、秀次御首に向ひて直り給ふを、太刀取り参りて、西に向はせ給へといへば、本来無東西ぞかし、急ぎ討てとて、其儘切られ給ふ。
二十九番は、おすぎ御前、十九歳になり給ふ。此方は取分き御寵愛おはせしが、去んぬる年労気を労り給へば、夫れより御前遠ざかりければ、若くましませども、偏に後の世を祈り、いかにもして御暇給はり、浮世を厭はゞやと願ひ給ひつるが、叶はずして、今最後の御供し給ふこそ不思議なれ。
すてられし身にも縁や残るらん跡慕ひ行くしでの山越え
三十番はおあやとて、御すゑの人。
一声にこゝろの月の雲はるゝ仏の御名をとなへてぞ行く
三十一番は東とて、六十一歳、中ゐ御すゑ女房を預りければ、人にかしづかれ、富み栄えつるに、老の浪の立返り、寄辺なき身となりて、夫は七十五にて、三日先に相国寺にて、自害し果てけるこそ哀れなれ。
三十二番におさん、是も御すゑの女房。
三十三番はつぼみ。
三十四番ちぼ。
かやうに心々の様を
詠み
連ね給へば、見る人聞く人涙に
咽び、さても
優しの
人々かな、
賤しき身ならば、
命の惜しき事をこそ、
歎き悲むべけれ。
此期に
臨みて歌詠ずべきとはよもおもはじ。哀れ
上臈達【 NDLJP:41】やとて、知るも知らぬも、袖を
湿らして
感じける。文禄四年八月二日午の
刻計より、
申の終まで、
草の
葉を
薙ぐやうに引出し引出し、御首ふつ
〳〵と打落し
〳〵、大なる穴を掘りて、其中へ四つの手足を取り、
投入れ
〳〵したる有様、
誠に
冥土にて
閻魔王の御前にて、
倶生神阿放羅刹共が、罪人集めて
呵責するらんも、
中々是にはよも
勝るべきとて、見る人
胆を
消し、
魂を失ふ
計なり。誠に罪ある者を害するは常の事なれども、かくまで情なく、
痛はしき事のあるべきか。秀次入道殿こそ大悪逆の人なれば、悪しと思召すは御
理なれども、此人々のいかで
夢計も
知召さるべき。罪ある者は
縁を改め、生害するも習ひなれども、男の
外は助かる習ひぞかし。
縦ひ命をこそ助け給はずとも、
切ては此人々の死骸をば、
日頃頼み給ふ
僧聖をも
召出して、いかさまにも
弔はせ給ふか、さらずば此人々の
親類縁にも取らせ給はらで、かほど
迄あさましげに、
賤しき者の手にかけさせ、死骸の
耻まで
晒し給ふ事の
痛はしさよとて、心あるものは、あら
行末恐しとて
小声になり、
舌を
振りてぞ
帰りける。