巻第一

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義朝都落の事

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本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁、将門、純友、保昌、頼光、漢の樊■、張良は武勇と雖も名をのみ聞きて目には見ず。目のあたりに芸を世にほどこし、万事の、目を驚かし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子、九郎義経とて、我が朝にならびなき名将軍にておはしけり。父義朝は平治元年十二月二十七日に衛門督藤原信頼卿に与して、京の軍に打ち負けぬ。重代の郎等共皆討たれしかば、其の勢二十余騎になりて、東国の方へぞ落ち給ひける。成人の子供をば引き具して、幼ひ達をば都に棄ててぞ落ちられける。嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮大夫進朝長十六、三男右兵衛佐頼朝十二になる。悪源太をば北国の勢を具せよとて越前へ下す。それも叶はざるにや、近江の石山寺に篭りけるを、平家聞きつけ、妹尾、難波を差し遣はして、都へ上り、六条河原にて斬られけり。弟の朝長も山賊が射ける矢に弓手の膝口を射られて、美濃国青墓と言ふ宿にて死にけり。其の外子供方々に数多有りけり。尾張国熱田の大宮司の娘の腹にも一人有りけり。遠江国蒲と言ふ所にて成人し給ひて、蒲の御曹司とぞ申しける。後には三河守と名乗り給ふ。九条院の常盤が腹にも三人有り。今若七歳、乙若五歳、牛若当歳子なり。清盛是を取つて斬るべき由をぞ申しける。

常盤都落の事

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永暦元年正月十七日の暁、常盤三人の子供を引き具して、大和国宇陀郡岸岡と言ふ所に契約の親しき者有り。是を頼みたづねて行きけれども、世間の乱るる折節なれば、頼まれず。其の国のたいとうじと言ふ所に隠れ居たりける。常盤が母関屋と申す者、楊梅町に有りけるを、六波羅より取り出だし、糺問せらるる由聞こえければ、常盤是を悲しみ、母の命を助けんとすれば、三人の子供を斬らるべし。子供を助けんとすれば、老いたる親を失ふべし。親には子をば如何思ひかへ候ふべき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受有るとなれば、子供の為にも有りなんと思ひ続け、三人の子供引き具して泣く泣く京へぞ出でにける。六条への事聞こえければ、悪七兵衛景清、堅物太郎に仰せつ、子供具し、六条へぞ具足す。清盛常盤を見給ひて、日頃は火にも水にもと思はれけるが、怒れる心も和ぎけり。常盤と申すは日本一の美人なり。九条院は事を好ませ給ひければ、洛中より容顔美麗なる女を千人召されて、其の中より百人、又百人の中より十人、又十人の中より一人撰び出だされたる美女なり。清盛我にだにも従がはば、末の世には子孫の如何なる敵ともならばなれ。三人の子供をも助けばやと思はれける。頼方景清に仰せつけて、七条朱雀にぞ置かれける。日番をも頼方はからひにして守護しける。清盛常は常盤がもとへ文を遣はされけれども、取りてだにも見ず。され共子供を助けんが為に遂には従ひ給ひけり。さてこそ常盤三人の子供をば所々にて成人させ給ひけり。今若八歳と申す春の頃より観音寺に上せ学問させて、十八の年受戒、禅師の君とぞ申しける。後には駿河国富士の裾におはしけるが悪襌師殿と申しけり。八条におはしけるは、そしにておはしけれども、腹悪しく恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに平家を狙ふ。後には紀伊国に有りける新宮十郎義盛世を乱りし時、東海道の墨俣河にて討たれけり。牛若は四つの年まで母のもとに有りけるが、世の幼ひ者よりも心様振舞人に越えたりしかば、清盛常は心にかけて宣ひけるは、「敵の子を一所にて育てては、遂には如何有るべき」と仰せられければ、京より東、山科と言ふ所に源氏相伝の、遁世して幽なる住居にて有りける所に七歳まで置きて育て給ひけり。

牛若鞍馬入の事

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常盤が子供成人するに従ひて、中々心苦しく、初めて人に従はせんも由なし。習はねば殿上にも交はるべくもなし。只法師になして、跡をも弔ひてなんど思ひて、鞍馬の別当東光坊の阿闍梨は義朝の祈りの師にておはしける程に、御使を遣はして仰せけるは、「義朝の御末の子牛若殿と申し候ふを且は知召してこそ候ふらめ。平家世ざかりにて候ふに、女の身として持ちたるも心苦しく候へば、鞍馬へ参らせ候ふべし。猛くともなだしき心もつけ、書の一巻をも読ませ、経の一字をも覚えさせて賜はり候へ」と申されければ、東光坊の御返事には、「故頭殿の君達にて渡らせ給ひ候ふこそ殊に悦入り候へ」とて、山科へ急ぎ御迎ひに人をぞ参らせける。七歳と申す二月はじめに鞍馬へとぞ上られける。其の後昼は終日に師の御坊の御前にて経を誦み、書学びて、夕日西に傾けば、夜の更け行くに仏の御燈の消ゆるまではともに物を読み、五更の天にもなれ共あまも宵もすぐまで、学問に心をのみぞ尽しける。東光坊も山三井寺にも是程の児有るべしとも覚えず、学問の精と申し、心様眉目形類なくおはしければ、良智坊の阿闍梨、覚日坊の律師も「かくて廿歳ばかりまでも学問し給ひ候はば、鞍馬の東光坊より後も仏法の種をつぎ、多聞の御宝にもなり給はんずる人」とぞ申されける。母も是を聞き、「牛若学問の精よく候ふとも、里に常に有りなんとし候はば、心も不用になり、学問をも怠りなんず。恋しく見たけれと申し候はば、人を賜はり候て、母はそれまで参り、見もし、人に見えられて返し候はん」と申されける。「さなくとも児を里へ下す事おぼろげならぬにて候ふ」とて、一年に一度、二年に一度も下さず。かかる学問の精いみじき人の如何なる天魔のすすめにや有りけん、十五と申す秋の頃より学問の心以ての外に変りけり。其の故は古き郎等の謀反をすすむるにてぞ有りける。

聖門坊の事

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四条室町に古りたる郎等の有りける。すり法師なりけるが、是は恐ろしき者の子孫なり。左馬頭殿の御乳母子鎌田次郎正清が子なり。平治の乱の時は十一歳になりけるを、長田の庄司是を斬るべき由聞こえければ、外戚の親しき者有りけるが、やうやうに隠し置きて、十九にて男になして、鎌田三郎正近とぞ申しける。正近二十一の年思ひけるは保元に為義討たれ給ひぬ。平治に義朝討たれ給ひて後は、子孫絶え果てて、弓馬の名を埋んで、星霜を送り給ふ。其の時清盛に亡ぼされし者なれば、出家して諸国修業して、主の御菩提をも弔ひ、親の後世をも弔ひ候はばやと思ひければ、鎮西の方へぞ修行しける。筑前国御笠の郡大宰府の安楽寺と言ふ所に学問して有りけるが、故郷の事思ひ出だして、都に帰りて、四条の御堂に行ひ澄ましてゐたりけり。法名をば聖門坊とぞ申しける。又四条の聖とも申しけり。勤行の隙には平家の繁昌しけるを見て、めざましく思ひける。如何なれば平家の大政大臣の官に上り、末までも臣下卿相になり給ふらん。源氏は保元、平治の合戦に皆滅ぼされて、大人しきは斬られ、幼ひは此処彼処に押し篭められて、今までかたちをも差し出だし給はず。果報も生まれ変り、心も剛にあらんずる源氏の、あはれ思召し立ち給へかし。何方へなりとも御使して世を乱し、本意を遂げばやとぞ思ひける。勤行の隙々には指を折りて、国々の源氏をぞ数へける。紀伊国には新宮十郎義盛、河内国には石川判官義兼、津国には多田蔵人行綱、都には源三位頼政卿、卿君円しん、近江国には佐々木源三秀義、尾張国には蒲の冠者、駿河国には阿野禅師、伊豆国には兵衛佐頼朝、常陸国には志田三郎先生義教、佐竹別当昌義、上野国には利根、吾妻、是は国を隔てて遠ければ、力及ばず。都近き所には鞍馬にこそ頭殿の末の御子、牛若殿とておはする者を、参りて見奉り心がらげにげにしくおはしまさば、文賜はりて、伊豆国へ下り、兵衛督殿の御方に参り、国を催ほして、世を乱さばやと思ひければ、折節其の頃四条の御堂も夏の時分にて有りけるを打ち捨てて、やがて鞍馬へとぞ上りける。別当の縁にたたずみける程に、「四条の聖おはしたり」と申しければ、「承り候ふ」と申されければ、さらばとて東光坊のもとにぞ置かれける。内々には悪心を差しはさみ、謀反を起して来れるとも知らざりけり。ある夜の徒然に、人静まりて、牛若殿のおはする所へ参りて、御耳に口をあてて申しけるは、「知召されず候ふや、今まで思召し立ち候はぬ。君は清和天皇十代の御末、左馬頭殿の御子、かく申すは頭殿の御乳母子に鎌田次郎兵衛が子にて候ふ。御一門の源氏国々に打ち篭められておはするをば、心憂しとは思召されず候ふや」と申しければ、其の頃平家の世を取りて盛なれば、たばかりてすかすやらんと打ち解け給はざりければ、源氏重代の事を委しく申しける。身こそ知り給はねども、かねて左様の者有ると聞きしかば、さては一所にてはかなふまじ。所々にはとて聖門をば返されけり。

牛若貴船詣の事

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聖門に逢ひて給ひて後は、学問の事は跡形なく忘れはてて、明暮謀反の事をのみぞ思召しける。謀反起す程ならば、早業をせでは叶ふまじ。まづ早業を習はんとて、此の坊は諸人の寄合所なり。如何に叶ひ難きとて、鞍馬の奥に僧正が谷と言ふ所有り。昔は如何なる人が崇め奉りけん、貴船の明神とて霊験殊勝に渡らせ給ひければ、智恵有る上人も行ひ給ひけり。鈴の声も怠らず。神主も有りけるが、御神楽の鼓の音も絶えず、あらたに渡らせ給ひしかども、世末にならば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給ひて、人住み荒し、偏へに天狗の住家となりて、夕日西に傾けば、物怪喚き叫ぶ。されば参りよる人をも取り悩ます間、参篭する人もなかりけり。されども牛若かかる所の有る由を聞き給ひ、昼は学問をし給ふ体にもてなし、夜は日頃一所にてともかくもなり参らせんと申しつる大衆にも知らせずして、別当の御護りに参らせたる敷妙と言ふ腹巻に黄金作りの太刀帯きて、只一人貴船の明神に参り給ひ、念誦申させ給ひけるは、「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩」と掌を合せて、源氏を守らせ給へ。宿願誠に成就あらば、玉の御宝殿を造り、千町の所領を寄進し奉らん」と祈誓して、正面より未申にむかひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本有りけるを一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて、散々に切り、懐より毬杖の玉の様なる物を取り出だし、木の枝にかけて、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とを懸けられける。かくて暁にもなれば、我が方に帰り、衣引かづきて臥し給ふ。人是を知らず。和泉と申す法師の御介錯しけるが、此の御有様只事にはあらじと思ひて、目を放さず、ある夜御跡を慕ひて隠れて叢の蔭に忍び居て見ければ、斯様に振舞ひ給ふ間、急ぎ鞍馬に帰りて、東光坊に此の由申しければ、阿闍梨大きに驚き、良智坊の阿闍梨に告げ、寺に触れて、「牛若殿の御髪剃り奉れ」とぞ申されける。良智坊此の事を聞き給ひて、「幼き人も様にこそよれ。容顔世に越えておはすれば、今年の受戒いたはしくこそおはすれ。明年の春の頃剃り参らさせ給へ」と申しければ、「誰も御名残はさこそ思ひ候へ共、斯様に御心不用になりて御わたり候へば、我が為、御身の為然るべからず候ふ。只剃り奉れ」と宣ひければ、牛若殿何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものをと、刀の柄に手を掛けておはしましければ、左右なく寄りて剃るべし共見えず。覚日坊の律師申されけるは、「是は諸人の寄合所にて静かならぬ間、学問も御心に入らず候へば、それがしが所は傍にて候へば、御心静にも御学問候へかし」と申されければ、東光坊もさすがにいたはしく思はれけん、さらばとて覚日坊へ入れ奉り給ひけり、御名をば変へられて遮那王殿とぞ申しける。それより後には貴船の詣も止まりぬ。日々に多聞に入堂して、謀反の事をぞ祈られける。

吉次が奥州物語の事

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かくて年も暮れぬれば、御年十六にぞなり給ふ。正月の末二月の初めの事なるに、多聞の御前に参りて所作しておはしける所に、其の頃三条に大福長者有り。名をば吉次信高とぞ申しける。毎年奥州に下る金商人なりけるが、鞍馬を信じ奉りける間、それも多聞に参りて念誦してゐたりけるが、此の幼ひ人を見奉りて、あら美しの御児や、如何なる人の君達やらん。然るべき人にてましまさば、大衆も数多付き参らすべきに、度々見申すに、只一人おはしますこそ怪しけれ。此の山に左馬頭殿の君達のおはする物を。「誠やらん、秀衡も「鞍馬と申す山寺に左馬頭殿の君達おはしますなれば、太宰大弐位清盛の、日本六十六ケ国を従へんと、常は宣ふなるに、源氏の君達を一人下し参らせ、磐井郡に京を建て、二人の子供両国の受領させて、秀衡生きたらん程は、大炊介になりて、源氏を君とかしづき奉り、上見ぬ鷲のごとくにてあらばや」と宣ひ候ふものを」と言ひ奉り、拐し参らせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて徳付かばやと思ひ、御前に畏まつて申しけるは、「君は都には如何なる人の御君達にておはしますやらん、是は京の者にて候ふが、金を商ひて毎年奥州へ下る者にて候ふが、奥方に知召したる人や御入候ふ」と申しければ、「片ほとりの者なり」と仰せられて、返事もし給はず。是ごさんなれ、聞こゆる黄金商人吉次と言ふ者なり。奥州の案内者やらん、彼に問はばやと思し召して「陸奥と言ふは、如何程の広き国ぞ」と問ひ給へば、「大過の国にて候ふ。常陸国と陸奥との堺、菊田」の関と申して、出羽と奥州との堺をば伊奈の関と申す。其の中五十四郡と申しければ、「其の中に源平の乱来たらん用に立つべき者如何程有るべき」と問ひ給へば、国の案内は知りたり。吉次暗からずぞ申しける。「昔両国の大将軍をばおかの大夫とぞ申しける。彼等が一人の子有り。安倍権守とぞ申しける。子供数多有り。嫡子厨川次郎貞任、二男鳥海三郎宗任、家任、盛任、重任とて六人の末の子に境の冠者良増とて、霧を残し霞を立て、敵起る時は水の底海の中にて日を送りなどする曲者なり。是等兄弟丈の高さ唐人にも越えたり。貞任が丈は九尺五寸、宗任が丈は八尺五寸、何れも八尺に劣るはなし。中にも境の冠者は一丈三寸候ける。安倍権守の世までは宣旨院宣にも畏れて、毎年上洛して逆鱗を休め奉る。安倍権守死去の後は宣旨を背き、偶々院宣なる時は、北陸道七箇国の片道を賜はりて上洛仕るべき由申され候ひければ、片道賜はり候ふべきとて下さるべかりしを、公卿僉議有りて、「是天命を背くにこそ候へ。源平の大将を下し、追討せさせ給へ」と申されければ、源の頼義勅宣を承つて、十六万騎の軍兵を率して、安倍を追討の為に陸奥へ下し給ふ。駿河国の住人高橋大蔵大夫に先陣をさせて、下野国いもうと言ふ所に著く。貞任是を聞きて、厨川の城を去つて阿津賀志の中山を後にあてて、安達の郡に木戸を立て、行方の原に馳せ向ひて、源氏を待つ。大蔵の大夫大将として五百余騎白川関打ち越えて行方の原に馳せつき、貞任を攻む。其の日の軍に打ち負けて、浅香の沼へ引き退く。伊達郡阿津賀志の中山にたて篭り、源氏は信夫の里摺上河の端、はやしろと言ふ所に陣取つて、七年夜昼戦ひ暮らすに、源氏の十一万騎皆討たれて、叶はじとや思ひけん、頼義京へ上りて、内裏に参り、頼義叶ふまじき由を申されければ、「汝叶はずは、代官を下し、急ぎ追討せよ」と重ねて宣旨下されければ、急ぎ六条堀河の宿所へ帰り、十三になる子息を内裏に参らせけり。「汝が名をば何と言ふぞ」と御尋ね有りけるに、「辰の年の辰の日の辰の時に生れて候ふ」とて、「名をば源太と申し候ふ」と申しければ、無官の者に合戦の大将さする例なしとて、元服せさせよとて、後藤内範明を差し添へられて、八幡宮に元服させて、八幡太郎義家と号す。其の時御門より賜はりたる鎧をこそ源太が産衣と申しけり。秩父十郎重国先陣を賜はりて、奥州へ下る。阿津賀志の城を攻めけるに、猶も源氏打ち負けて、事悪しかりなんとて、急ぎ都へ早馬を立て、此の由を申しければ、年号が悪しければとて、康平元年に改められ、同き年四月二十一日阿津賀志の城を追ひ落す。しからざるにかかりて伊奈の関を攻め越えて、最上郡に篭る。源氏続いて攻め給ひしかば、雄勝の中山を打ち越えて、仙北金沢の城に引き篭り。それにて一両年を送り戦ひつれども、鎌倉権五郎景政、三浦平大夫為継、大蔵大夫光任、是等が命を捨てて攻めける程に、金沢の城をも落されて、白木山にかかりて、衣川の城に篭る。為継、景政重ねて攻めかかる。康平三年六月二十一日に貞任大事の手負ひて梔子色の衣を着て、磐手の野辺にぞ伏しにける。弟の宗任は降人となる。境の冠者、後藤内生捕にしてやがて斬られぬ。義家都に馳せ上り。内裏の見参に入れて、末代までの名をあげ給ふ。其の時、奥州へ御伴申し候ひし三つうの少将に十一代の末淡海の後胤、藤原清衡と申す者国の警護に留められて候ひけるが、亘理の郡に有りければ、亘理の清衡と申し候ひし、両国を手に握つて候ひし、十四道の弓取五十万騎、秀衡が伺候の郎等十八万騎もちて候ふ。是こそ源平の乱出で来らば、御方人ともなりぬべき者にて候へ」と申しける。

遮那王殿鞍馬出の事

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遮那王殿是を聞き給ひて、かねて聞きしに少しも違はず、世に有る者ごさんなれ。あはれ下らばや。左右なく頼まれたらば、十八万騎の勢を十万騎をば国にとどめ、八万騎をば率して、坂東に打ち出で、八ケ国は源氏に志有る国なり。下野殿の国なり。是をはじめとして十二万騎を催して二十万騎になつて、十万騎をば伊豆の兵衛佐殿に奉り、十万騎をば木曾殿につけて、我が身は越後国に打ち越え、鵜川、佐橋、金津、奥山の勢を催して、越中、能登、加賀、越前の軍兵を靡けて、十万騎になりて、荒乳の中山を馳せ越えて、西近江にかかりて、大津の浦に著きて、坂東の二十万騎を待得て、逢坂の関を打ち越えて、都に攻め上り、十万騎をば天下の御所に参らせて、源氏すごさん由を申さんに平家猶も都に繁昌して空しかるべくば、名をば後の世にとどめ、屍をば都に曝さん事身に取りては何の不足か有るべきと思ひ立ち給ふも十六の盛には恐ろしくぞ覚えける。此の男奴に知らせばやと思し召して仰せられけるは、「汝なれば知らするぞ。人に披露有るべからず。我こそ左馬頭義朝が子にてあれ、秀衡がもとへ文一つ言伝ばや。何時の頃返事を取りてくれんずるぞと仰せられければ、吉次座敷をすべりおり、烏帽子の先を地につけて申しけるは、「御事をば秀衡以前に申され候ふ。御文よりも只御下り候へ、道の程御宿直仕まつり候はんずる」と申しければ、文の返り事待たんも心もとなし。さらば連れて下らばやと思召しける。「何時ごろ下り候はんずるぞ」と宣へば、「明日吉日にて候ふ間、形の如くの門出仕まつり候はんずる」と申しければ、「さらば粟田口十禅師の御前にて待たんずるぞ」と宣ひければ、吉次は「承り候ふ」とて下向してんげり。遮那王殿別当の坊に帰りて心の中ばかりに出で立ち給ふ。七歳の春の頃より十六の今に至るまで、朝にはけうくんの霧を払ひ、夕には三光の星をいただき、日夜朝暮なれし馴染の師匠の御名残も今ばかりと思はれければ、しきりに忍ぶとし給へ共、涙にむせび給ひけり。されども心弱くては叶ふべきにあらざれば、承安四年二月二日の曙に鞍馬をぞ出で給ふ。白き小袖一かさねに唐綾を着かさね、播磨浅葱の帷子をうへに召し、白き大口に唐織物の直垂めし、敷妙と言ふ腹巻着篭めにして、紺地の錦にて柄鞘包みたる守刀、黄金作の太刀帯いて、薄化粧に眉細くつくりて、髪高く結ひあげ、心細げにて壁を隔てて出で立ち給ふが、我ならぬ人の訪れて通らん度にさる者是に有りしぞと思ひ出でて、あとをも弔へかしと思はれければ、漢竹の横笛取り出だし、半時ばかり吹きて、音をだにあとの形見とて、泣く泣く鞍馬を出で給ひ、其の夜は四条の聖門坊の宿へ出でさせ給ひて、奥州へ下る由仰せられければ、善悪御伴申し候はんと出で立ちけり。遮那王殿宣ひけるは、「御辺は都にとどまりて、平家のなり行く様を見て知らせよ」とて、京にぞとどめられける。さて遮那王殿粟田口まで出で給ふ。聖門坊もそれまで送り奉り、十禅師の御前にて、吉次を待ち給へば、吉次未だ夜深に京を出で、粟田口に出で来る。種々の宝を二十余疋の馬に負せて先に立て、我が身は京を尋常にぞ出で立ちける。間々引柿したる摺尽しの直垂に秋毛の行縢はいて、黒栗毛なる馬に角覆輪の鞍置いてぞ乗りたりける。児乗せ奉らんとて、月毛なる馬に沃懸地の鞍置きて、大斑の行縢、鞍覆にしてぞ出で来る。遮那王殿「如何に、約束せばや」と宣へば、馬より急ぎ飛んで下り、馬引き寄せ乗せ奉り、かかる縁に会ひけるよと世に嬉しくぞ思ひける。吉次を招きて宣ひけるは、「や、殿、馬の腹筋馳せ切つて、雑人奴等が追ひ着かん。かへりみるに駆足になりて下らんと覚ゆるなり。鞍馬になしと言はば、都に尋ぬべし。都になしと言はば、大衆共定めて東海道へぞ下らんずらんとて、摺針山よりこなたにて追掛けられて、帰れと言はんずる者なり。帰らざらんは仁義礼智にもはづれなん。都は敵の辺也。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東と言ふは源氏に志の有る国なり、言葉の末を以て、宿々の馬取りて下るべし、白川の関をだにも越えば、秀衡が知行の所なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも知るまじきぞ」と宣へば吉次是を聞きてかかる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一匹をだにも乗り給はずして、恥有る郎等の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する国の馬を取りて下らんと宣ふこそ恐ろしけれとぞ思ひける。されども命に従ひ、駒を早めて下る程に松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関打ち越えて大津の浜をも通りつつ瀬田の唐橋打ち渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者は吉次が年頃の知る人なりければ、女房数多出だしつつ色々にこそもてなしけれ。

巻第二

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鏡の宿吉次が宿に強盗の入る事

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抑都近き所なれば、人目もつつましくて、女房共の遙かの末座に遮那王殿を直しける。恐れ入りてぞ覚えける。酒三献過ぎて、長者吉次が袖に取り付きて申しけるは、「抑御辺は一年に一度、二年に一度此の道を通らぬ事なし。されども是程美しき子具し奉りたる事、是ぞ初めなる。御身の為には親しき人か他人か」とぞ問ひける。「親しくはなし。又他人にてもなし」とぞ申しける。長者はらはらと涙を流して、「あはれなる事共かな。何しに生きて初めて憂き事を見るらん。只昔の御事今の心地して覚ゆるぞや。此の殿の立居振舞身様の頭殿の二男朝長殿に少しも違ひ給はぬものかな。言葉の末を以ても具し奉りたるかや。保元、平治より此のかた、源氏の子孫、此処や彼処に打ち篭められておはするぞかし。成人して思ひ立ち給ふ事有らば、よくよくこしらへ奉りて渡し参らせ給へ。壁に耳、岩に口と言ふ事有り。紅は園生に植ゑても隠れなし」と申しければ、吉次「何それにては候はず。身が親しき者にて候ふ」と申しけれども、長者「人は何とも言はば言へ」とて、座敷を立ちて、少き人の袖を引き、上座敷に直し奉り、酒すすめて夜更けければ、我が方へぞ入れ奉る。吉次も酒に酔ひて臥しにけり。其の夜鏡の宿に思はざる事こそ有りけれ。其の年は世の中飢饉なりければ、出羽国に聞こえける窃盗の大将、由利太郎と申す者、越後国に名を得たる頚城郡の住人藤沢入道と申す者二人語らひ、信濃国に越えて、佐久の権守の子息太郎、遠江国に蒲与一、駿河国に興津十郎、上野国に豊岡源八以下の者共、何れも聞こゆる盗人、宗徒の者二十五人、其の勢七十人連れて、「東海道は衰微す。少しよからん山家山家に至り、下種徳人有らば追ひ落して、若党共に興有る酒を飲ませて都に上り、夏過ぎ秋風立たば、北国にかかり国へ下らん」とて、宿々山家山家に押し入り、押し取りして上りける。其の夜しも鏡の宿に長者の軒を並べて宿しける。由利太郎藤沢に申しけるは、「都に聞こえたる吉次と言ふ黄金商人奥州へ下るとて、おほくの売物持ち、今宵長者の許に宿りたり。如何すべき」と言ひければ、藤沢入道、「順風に帆を上げ、棹さし押し寄せて、しやつが商物取りて若党共に酒飲ませて通れ」とぞ出で立ちける。究強の足軽共五六人腹巻著せて、油さしたる車松明五六台に火を付けて、天に差し上げければ、外はくらけれども、内は日中の様に有りけり。由利太郎と藤沢入道とは大将として、其の勢八人連れて出で立ち、由利は唐萌黄の直垂に萌黄威の腹巻著て、折烏帽子に懸して、三尺+五寸の太刀はきて出づる。藤沢褐の直垂に黒革威の鎧著て、兜の緒を締め、黒塗の太刀に熊の革の尻鞘入れ、大長刀杖につき、夜半ばかりに長者の許へ討ち入りたり。つと入りて見れども人もなし。中の間に入りて見れども人もなし。こは如何なる事ぞとて簾中深く切り入りて、障子五六間切り倒す。吉次是に驚き、がばと起きて見れば、鬼王の如くにて出で来たる。是は信高が財宝に目をかけて出で来るを知らず、源氏を具し奉り、奥州へ下る事、六波羅へ聞こえて討手向ひたると心得て、取る物も取り敢へず、かいふいてぞ逃げにける。遮那王殿是を見給ひて、すべて人の頼むまじきものは次の者にて有りけるぞや。形の如くも侍ならば、かくは有るまじき物を、とてもかくても都を出でし日よりして命をば宝故に奉る。屍をば鏡の宿にさらすべしとて、大口の上に腹巻とつて引き着て、太刀とり脇にはさみ、唐綾の小袖取りて打ちかづき、一間なる障子の中をするりと出で、屏風一よろひに引きたたみ、前に押し寄する。八人の盗人を今やと待ち給ふ。「吉次奴に目ばし放すな」とて喚いてかかる。屏風のかげに人有りとは知らで、松明ふつて差し上げ見れば、いつくしきとも斜ならず。南都山門に聞こえたる児鞍馬を出で給へる事なれば、きはめて色白く、鉄漿黒に眉細くつくりて、衣打ちかづき給ひけるを見れば、松浦佐用姫領巾振る野辺に年を経し、寝乱れて見ゆる黛の、鴬の羽風に乱れぬべくぞ見え給ふ。玄宗皇帝の代なりせば楊貴妃とも謂ひつべし。漢の武帝の時ならば李夫人かとも疑ふべし。傾城と心得て、屏風に押し纏ひてぞ通りける。人も無き様に思はれて、生きては何の益有るべき。末の世に如何しければ、義朝の子牛若と言ふもの謀反をおこし、奥州へ下るとて、鏡の宿にて強盗に会ひて、甲斐無き命生きて、今また忝くも太政大臣に心を懸けたりなどと言はれん事こそ悲しけれ。とてもかくてものがるまじと思召して、太刀を抜き、多勢の中へ走り入り給ふ。八人は左右へざつと散る。由利太郎是を見て、「女かと思ひたれば、世に剛なる人にて有りけるものを」とて、散々に斬りあふ。一太刀にと思ひて、以て開いてむずとうつ。大の男の太刀の寸は延びたり。天井の縁に太刀打ち貫き、引きかぬる所を小太刀を以てむずと受け止め、弓手の腕に袖を添へてふつと打ち落し、返す太刀に首を打ち落す。藤沢入道は是を見て、「ああ切つたり。そこを引くな」とて大長刀打ち振りて走りかかる。是に懸かり合ひて散々に斬り合ひ給ふ。藤沢入道長刀を茎長に取りてするりと差し出だす。走り懸かり切り給ふ。太刀は聞こゆる宝物なりければ、長刀の柄づんど切りてぞ落されける。やがて太刀抜き合はせけるを抜きも果てさせず、切り付け給へば、兜の真向しや面かけて切り付け給ひけり。吉次はものの陰にて是を見て、恐ろしき殿の振舞かな。如何に我を穢しと思召すらんと思ひ、臥したりける帳台へつつと入り、腹巻取つて著、髻解き乱し、太刀を抜き、敵の棄てたる松明打ち振り、大庭に走り出でて、遮那王殿と一つになりて、追うつ捲くつつ散々に戦ひ、究竟の者共五六人やにはに切り給ふ。二人は手負ひて北へ行く。一人追ひにがす。残る盗人残らず落ち失せにけり。明くれば宿の東のはづれに五人が首をかけ、札を書きてぞ添へられける。「音にも聞くらん、目にも見よ。出羽国の住人、由利太郎、越後国の住人、藤沢入道以下の首五人斬りて通る者、何者とか思ふらん。黄金商人三条の吉次が為には縁有り。是を十六にての初業よ。委しき旨を聞きたくば、鞍馬の東光坊の許にて聞け、承安+四年二月四日」とぞ書きて立てられける。さてこそ後には源氏の門出しすましたりとぞ舌を巻いて怖ぢ合ひける。其の日鏡を発ち給ひけり。吉次はいとどかしづき奉りてぞ下りける。小野の摺針打ち過ぎて、番場、醒井過ぎければ、今日も程無く行き暮れて、美濃国青墓の宿にぞ著き給ふ。是は義朝浅からず思ひ給ひける長者が跡なり。兄の中宮大夫の墓所を尋ね給ひて、御出で有り。夜とともに法華経読誦して、明くれば率都婆を作り、自ら梵字を書きて、供養してぞ通られける。児安の森を外処に見て、久世河を打ち渡り、墨俣川を曙に眺めて通りつつ、今日も三日に成りければ、尾張国熱田の宮に著き給ひけり。

遮那王殿元服の事

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熱田の前の大宮司は義朝の舅なり。今の大宮司は小舅なり。兵衛佐殿の母御前も熱田のそとのはまと言ふ所にぞおはします。父の御形見と思召して、吉次を以て申されければ、大宮司急ぎ御迎ひに人を参らせ入れ奉り、やうやうに労り奉りける。やがて次の日立たんとし給へば、様々諌言に参り、とかくする程に、三日まで熱田にぞおはします。遮那王殿吉次に仰せられけるは、「児にて下らんは悪し。かり烏帽子なりとも著て下らばやと思ふは、如何にすべき」。吉次「如何様にも御計ひ候へ」とぞ申しける。大宮司烏帽子奉り、取り上げ、烏帽子をぞ召されける。「かくて下り、秀衡が名をば何と言ふぞと問はんに、遮那王と言うて、男になりたる甲斐なし。是にて名を改へもせで行かば、定めて元服せよと言はれんずらん。秀衡は我々が為には相伝の者なり。他の謗も有るぞかし。是は熱田の明神の御前、しかも兵衛佐殿の母御前も是におはします。是にて思ひ立たん」とて、精進潔斎して大明神に御参り有り。大宮司、吉次も御伴仕り、二人に仰せけるは、「左馬頭殿の子供、嫡子悪源太、二男朝長、三男兵衛佐、四郎蒲殿、五郎禅師の君、六郎は卿の君、七郎は悪禅師の君、我は左馬八郎とこそ言はるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎名を流し給ひし事なれば、其の跡をつがん事よしなし。末になる共苦しかるまじ。我は左馬九郎と言はるべし。実名は祖父は為義、父は義朝、兄は義平と申しける。我は義経と言はれん」とて、昨日までは遮那王殿、今日は左馬九郎義経と名を変へて、熱田の宮を打ち過ぎ、何と鳴海の塩干潟、三河国八橋を打ち越えて、遠江国の浜名の橋を眺めて通らせ給ひけり。日頃は業平、山蔭中将などの眺めける名所名所多けれども、牛若殿打ち解けたる時こそ面白けれ、思ひ有る時は名所も何ならずとて、打ち過ぎ給へば、宇津の山打ち過ぎて、駿河なる浮島が原にぞ著き給ひける。

阿濃禅師に御対面の事

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是より阿濃禅師の御許へ御使ひ参らせ給ひける。禅師大きに悦び給ひて、御曹司を入れ奉り、互に御目を見合はせて、過ぎにし方の事共語り続け給ひて、御涙に咽び給ひける。「不思議の御事かな。離れし時は二歳になり給ふ。此の日頃は何処におはするとも知り奉らず。是程に成人してかかる大事を思ひ立ち給ふ嬉しさよ。我もともに打ち出で、一所にてともかくもなりたく候へども、偶々釈尊の教法を学んで、師匠の閑室に入りしより此のかた、三衣を墨に染めぬれば、甲冑をよろひ、弓箭を帯する事如何にぞやと思へば、打ち連れ奉らず。且は頭殿の御菩提をも誰かは弔ひ奉らん。且は一門の人々の祈をこそ仕り候はんずれ。一ケ月をだにも添ひ奉らず、離れ奉らん事こそ悲しけれ。兵衛佐殿も伊豆の北条におはしませ共、警固のもの共きびしく守護し奉ると申せば、文をだに参らせず。近き所を頼みにて音信もなし。御身とても此の度見参し給はん事不定なれば、文書き置き給へ。其の様を申すべし」と仰せられければ、文書きて跡に留め置き、其の日は伊豆の国府に著き給ふ。夜もすがら祈念申されけるは、「南無三島大明神、走湯権現、吉祥駒形、願はくは義経を三十万騎の大将軍となし給へ。さらぬ外は此の山より西へ越えさせ給ふな」と、精誠をつくし、祈誓し給ひけるこそ、十六のさかりには恐ろしき。足柄の宿打ち過ぎて、武蔵野の堀兼の井を外処に見て、在五中将の眺めける深き好を思ひて、下総国庄高野と言ふ所に著き給ふ。日数経るに従ひて、都は遠く、東は近くなる儘に、其の夜は都の事思召し出だされける。宿の主を召して、「是は何処の国ぞ」と御問ひ有りければ、「下野国」と申しける。「此の所は郡か庄か」「下野の庄」とぞ申しける。「此の庄の領主は誰と言ふぞ」。「少納言信西と申しし人の母方の伯父、陵介と申す人の嫡子、陵の兵衛」とぞ申しける。

義経陵が館焼き給ふ事

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きつと思召し出だされけるは、義経が九つの年、鞍馬に有りて東光房の膝の上に寝ねたりし時、「あはれ幼き人の御目の気色や。如何なる人の君達にて渡らせ給ひ候ふやらん」と言ひしかば、「是こそ左馬頭殿の君達」と宣ひしかば、「あはれ、末の世に平家の為には大事かな。此の人々を助け奉りて、日本に置かれん事こそ獅子虎を千里の野辺に放つにてあれ。成人し給ひ候はば、決定の謀反にて有るべし。聞きも置かせ給へ。自然の事候はん時、御尋ね候へ。下総国に下河辺の庄と申す所に候ふ」と言ひしなり。遙々と奥州へ下らんよりも陵が許へ行かばやと思召し、吉次をば「下野の室八嶋にて待て。義経は人を尋ねてやがて追ひつかんずるぞ」とて、陵が許へぞおはしける。吉次は心ならず、先立ち参らせんと奥州へぞ下りける。御曹司は陵が宿所へぞ尋ねて御覧ずるに、世に有りしと覚しくて、門には鞍置き馬共、其の数引き立てたり。差しのぞきて見給へば、遠侍には大人、若きもの五十人ばかり居流れたり。御曹司人を招きて「御内に案内申さん」と宣ひければ、「何処よりぞ」と申す。「京の方よりかねて見参に入りて候ふものにて候ふ」と仰せける。主に此の事を申しければ、「如何様なる人」と申す。「尋常なる人にて候ふ」と言へば、「さらば是へと申せ」とて入れ奉る。陵「如何なる人にて渡らせ給ふぞ」と申しければ、「幼少にて見参に入りて候ひし、御覧じ忘れ候ふや。鞍馬の東光坊の許にて何事も有らん時尋ねよと候ひし程に、万事頼み奉りて下り候ふ」と仰せられければ、陵此の事を聞きて、「かかる事こそ無けれ。成人したる子供は皆京に上りて小松殿の御内に有り。我々が源氏に与せば、二人の子供徒になるべし」と思ひ煩ひて、しばらく打ち案じ申しけるは、「さ承り候ふ。思召し立たせ給ひ候ふ。畏まつて候へども、平治の乱の時、既に兄弟誅せられ給ふべく候へしを、七条朱雀の方に清盛近づかせ給ひて、其の芳志により、命助からせ給ひぬ。老少不定の境、定無き事にて候へども、清盛如何にもなり給ひて後、思召し立たせ給へかし」と申しければ、御曹司聞召て、あはれ彼奴は日本一の不覚人にて有りけるや。あはれとは思召しけれども、力及ばず、其の日は暮し給ひけり。頼まれざらんもの故に執心も有るべからずとて、其の夜の夜半ばかりに陵が家に火をかけて残る所無く散々に焼き払ひて、掻き消す様に失せ給ひけり。かくて行くには、下野の横山の原、室の八嶋、白河の関山に人を付けられて叶ふまじと思召して、墨田河辺を馬に任せて歩ませ給ひける程に、馬の足早くて二日に通りける所を一日に、上野国板鼻と言ふ所に著き給ひけり。

伊勢三郎義経の臣下にはじめて成る事

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日も既に暮方になりぬ。賎が庵は軒を並べ有りけれ共、一夜を明かし給ふべき所もなし。引き入りてま屋一つ有り。情有る住家と覚しくて竹の透垣に槙の板戸を立てたり。池を掘り、汀に群れ居る鳥を見給ふに付けても、情有りて御覧ずれば、庭に打ち入り縁の際に寄り給ひて、「御内に物申さん」と仰せければ、十二三ばかりなる端者出でて、「何事」と申しければ、「此の家には汝より外に大人しき者は無きか。人有らば出でよ。言ふべき事有り」とて返されければ、主に此の様を語る。やや有りて年頃十八九ばかりなる女の童の優なるが、一間の障子の陰より「何事候ふぞ」と申しければ、「京の者にて候ふが、当国の多胡と申す所へ人を尋ねて下り候ふが、此の辺の案内知らず候ふ。日ははや暮れぬ。一夜の宿を貸させ給へ」と仰せられければ、女申しけるは、「易き程の事にて候へ共、主にて候ふ者歩きて候ふが、今宵夜更けてこそ来たり候はんずれ。人に違ひて情無き者にて候ふ。如何なる事をか申し候はんずらん。それこそ御為いたはしく候へ。如何すべき。余の方へも御入候へかし」と申しければ、「殿の入らせ給ひて無念の事候はば、其の時こそ虎臥す野辺罷り出で候はめ」と仰せられければ、女思ひ乱したり。御曹司「今宵一夜は只貸させ給へ。色をも香をも知る人ぞ知る」とて、遠侍へするりと入りてぞおはしける。女力及ばず、内に入りて大人しき人に「如何にせんずるぞ」と言ひければ、「一河の流れを汲むも皆是他生の契なり。何か苦しく候ふべき。遠侍には叶ふまじ。二間所へ入れ奉り給へとて」、様々の菓子共取り出だし、御酒勧め奉れども、少しも聞き入れ給はず。女申しけるは、「此の家の主は世に聞こえたるえせ者にて候ふ。構へて構へて見えさせ給ふな。御燈火を消し、障子を引き立てて御休み候へ。八声の鳥も鳴き候はば、御志の方へ急ぎ急ぎ御出で候へ」と申しければ、「承り候ひぬ」と仰せける。如何なる男を持ちて是程には怖づらん。汝が男に越えたる陵が家にだに火を懸け、散々に焼き払ひて、是まで来たりつるぞかし。況てや言はん、女の情有りて止めたらんに、男来たりて、憎げなる事言はば、何時の為に持ちたる太刀ぞ。是ごさんなれと思召し、太刀抜きかけて、膝の下に敷き、直垂の袖を顔にかけて、虚寝入してぞ待ち給ふ。立て給へと申しつる障子をば殊に広く開け、消し給へと申しつる燈をばいとど高く掻き立てて、夜の更くるに従つて、今や今やと待ち給ふ。子の刻ばかりになりぬれば、主の男帰り、槙の板戸を押し開き、内へ通るを見給へば、年廿四五ばかりなる男の、葦の落葉付けたる浅黄の直垂に萌黄威の腹巻に太刀帯いて、大の手鉾杖につき、劣らぬ若党四五人、猪の目彫りたる鉞、焼刃の薙鎌、長刀、乳切木、材棒、手々に取り持ちて、只今事に会うたる気色なり。四天王の如くにして出で来たり、女の身にて怖ぢつるも理かな。や、彼奴は雄猛なるものかなとぞ御覧じける。彼の男二間に人有りと見て、沓脱に登り上がりける。大の眼見開きて、太刀取り直し、「是へ」とぞ仰せられける。男は怪しからぬ人かなと思ひて返事も申さず、障子引き立てて、足早に内に入る。如何様にも女に逢うて憎げなる事言はれんずらんと思召して、壁に耳を当てて聞き給へば、「や御前御前」と押し驚かせば、暫しは音もせず。遙かにして寝覚めたる風情して、「如何に」と言ふ。「二間に寝たる人は誰」と言ふ。「我も知らぬ人なり」とぞ申しける。されども「知られず、知らぬ人をば男の無き跡に誰が計らひに置きたるぞ」と世に悪しげに申しければ、あは事出で来たるぞと聞召しける程に、女申しけるは、「知られず知らぬ人なれども「日は暮れぬ。行方は遠し」と打ち佗び給ひつれども、人のおはしまさぬ跡に泊め参らせては、御言葉の末も

知り難ければ、「叶はじ」と申しつれ共、「色をも香をも知る人ぞ知る」と仰せられつる御言葉に恥ぢて今宵の宿を参らせつるなり。如何なる事有りとも今宵ばかりは何か苦しかるべき」と申しければ、男、「さてもさても和御前をば志賀の都の梟、心は東の奥のものにこそ思ひつるに、「色をも香をも知る人ぞ知る」と仰せられける言葉の末を弁へて、貸しぬるこそ優しけれ。何事有りとも苦しかるまじきぞ。今宵一夜は明かさせ参らせよ」とぞ申しける。御曹司、あはれ然るべき仏神の御恵みかな。憎げなる事をだにも言はば、ゆゆしき大事は出で来んと思召しけるに、主人言ひけるは、「何様にも此の殿は只人にてはなし。近くは三日、遠くは七日の内に事に逢うたる人にてぞ有るらん。我も人も世になしものの、珍事中夭に逢ふ事常の事なり。御酒を申さばや」とて、様々の菓子共調へて、端者に瓶子抱かせて、女先に立てて、二間に参り、御酒勧め奉れども、敢て聞召し給はず。主申しけるは、「御酒聞召し候へ。如何様御用心と覚え候ふ。姿こそ賎しの民にて候ふとも、此の身が候はんずる程は御宿直仕り候ふべし。人は無きか」と呼びければ、四天の如くなる男五六人出で来たる。「御客人を設け奉るぞ。御用心と覚え候ふ。今宵は寝られ候ふな。御宿直仕れ」と言ひければ、「承り候ふ」と言ひて、蟇目の音、弓の絃押し張りなんどして御宿直仕る。我が身も出居の蔀上げて、燈台二所に立てて腹巻取つて側に置き、弓押し張り、矢束解いて押し寛げて、太刀刀取りて膝の下に置き、あたりに犬吠え、風の木末を鳴らすをも、「誰、あれ斬れ」とぞ申しける。其の夜は寝もせで明かしける。御曹司、あはれ彼奴は雄猛者かなと思召しけり。明くれば御立有らんとし給ふを、様々に止め奉り、仮初の様なりつれども、此処に二三日留まり給ひけり。主の男申しけるは、「抑都にては如何なる人にて渡らせ給ひ候ふぞ。我等も知る人も候はねば、自然の時は尋ね参るべし。今一両日御逗留候へかし」と申す。「東山道へかからせ給ひ候はば碓氷の峠海道にかからば足柄まで送り参らすべし」と申すを都に無からん

もの故に、尋ねられんと言はんも詮なし。此のものを見るに二心なんどはよも有らじ、知らせばやと思召し、「是は奥州の方へ下る者なり。平治の乱に亡びし下野の左馬頭が末の子牛若とて、鞍馬に学問して候ひしが、今男になりて、左馬九郎義経と申す也。奥州へ秀衡を頼みて下り候ふ。今自然として知る人になり奉らめ」と仰せけるを、聞きも敢へず、つと御前に参りて、御袂に取り付き、はらはらと泣き、「あら無慙や、問ひ奉らずは、争でか知り奉るべきぞ。我々が為には重代の君にて渡らせ給ひけるものをや。かく申せば、如何なる者ぞと思すらん。親にて候ひし者は、伊勢の国二見の者にて候ふ。伊勢のかんらひ義連と申して、大神宮の神主にて候ひけるが、清水へ詣で下向しける、九条の上人と申すに乗合して、是を罪科にて上野国なりしまと申す所に流され参らせて、年月を送り候ひけるに、故郷忘れんが為に、妻子を儲けて候ひけるが、懐妊して七月になり候ふに、かんらひ遂に御赦免も無くて、此の所にて失ひ候ひぬ。其の後産して候ふを、母にて候ふ者、胎内に宿りながら、父に別れて果報つたなきものなりとて捨て置き候ふを、母方の伯父不便に思ひ、取り上げて育て成人して、十三と候ふに元服せよと申し候ひしに、「我が父と言ふ者如何なる人にて有りけるぞや」と申して候へば、母涙に咽び、とかくの返事も申さず。「汝が父は伊勢国二見の浦の者とかや。遠国の人にて有りしが、伊勢のかんらひ義連と言ひしなり。左馬頭殿の御不便にせられ参らせたりけるが、思ひの外の事有りて、此の国に有りし時、汝を妊して、七月と言ひしに、遂に空しく成りしなり」と申ししかば、父は伊勢のかんらひと言ひければ、我をば伊勢の三郎と申す。父が義連と名告れば、我は義盛と名告り候ふ。此の年頃平家の世になり、源氏は皆亡び果てて、偶々残り止り給ひしも押し篭められ、散り散りに渡らせ給ふと、承りし程に、便りも知らず、まして尋ねて参る事もなし。心に物を思ひて候ひつるに、今君を見参らせ、御目にかかり申す事三世の契と存じながら、八幡大菩薩の御引合とこそ存じ候へ」とて、来し方行末の物語互に申し開き、只仮初の様に有りしかども、其の時御目にかかり始めて、又心無くして、奥州に御供して、治承四年源平の乱出で来しかば、御身に添ふ影の如くにて、鎌倉殿御仲不快にならせ給ひし時までも、奥州に御供して、名を後の世に上げたりし、伊勢の三郎義盛とは、其の時の宿の主なり。義盛内に入りて、女房に向ひ、「如何なる人ぞと思ひつるに、我が為には相伝の御主にて渡らせ給ひける物を、されば御伴して奥州へ下るべし。和御前は是にて明年の春の頃を待ち給へ。もし其の頃も上らずは、はじめて人に見え給へ。見え給ふとも義盛が事忘れ給ふな」と申しければ、女泣くより外の事ぞ無き。「仮初の旅だにも在りきの跡は恋しきに、飽かで別るる面影を何時の世にかは忘るべき」と歎きても甲斐ぞ無き。剛の者の癖なれば、一筋に思ひきつて、やがて御供してぞ下りける。下野の室の八嶋をよそに見て、宇都宮の大明神を伏し拝み行方の原に差しかかり、実方の中将の安達の野辺の白真弓、押し張り素引し肩にかけ、馴れぬ程は何おそれん、馴れての後はおそるぞ悔しきと詠めけん、安達の野辺を見て過ぎ、浅香の沼の菖蒲草、影さへ見ゆる浅香山、着つつ馴れにし忍ぶの里の摺衣、など申しける名所名所を見給ひて、伊達の郡阿津賀志の中山越え給ひて、まだ曙の事なるに、道行き通るを聞き給ひて、いさ追ひ著いて物問はん。此の山は当国の名山にて有るなるにとて、追つ著いて見給へば、御先に立ちたる吉次にてぞ有りける。商人のならひにて、此処彼処にて日を送りける程に、九日先に発ち参らせたるが、今追ひ著き給ひける。吉次御曹司を見付け参らせて、世に嬉しくぞ思ひける。御曹司も御覧じて、嬉しくぞ思召す。「陵が事は如何に」と申しければ、「頼まれず候ふ間、家に火をかけて散々に焼き払ひ、是まで来たるなり」と仰せられければ、吉次今の心地して、恐ろしくぞ思ひける。「御供の人は如何なる人ぞ」と申せば、「上野の足柄のものぞ」と仰せられける。「今は御供要るまじ。君御著き候ひて後、尋ねて下り給へ。後に妻女の嘆き給ふべきも痛はしくこそ候へ。自然の事候はん時こそ御伴候はめ」とてやうやうに止めければ、伊勢の三郎をば上野へぞ返されける。それよりして治承+四年を

待たれけるこそ久しけれ。かくて夜を日についで下り給ふ程に武隈の松、阿武隈と申す名所名所過ぎて宮城野の原、躑躅の岡を眺めて、千賀の塩竃へ詣でし給ふ。あたりの松、籬の島を見て、見仏上人の旧蹟松島を拝ませ給ひて、紫の大明神の御前にて祈誓申させ給ひて、姉歯の松を見て、栗原にも著き給ふ。吉次は栗原の別当の坊に入れ奉りて、我が身は平泉へぞ下りける。

義経秀衡にはじめて対面の事

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吉次急ぎ秀衡に此の由申しければ、折節風の心地し臥したりけるが、嫡子本吉の冠者泰衡、二男泉の冠者忠衡を呼びて申しけるは、「さればこそ過ぎにし頃黄なる鳩来たつて秀衡が家の上に飛び入ると夢に見たりしかば、如何様源氏の音信承らんとするやらむと思ひつるに、頭殿の君達御下り有るこそ嬉しけれ。掻き起こせ」とて、人の肩を押へて、烏帽子取りて引つこみ、直垂取つて打ち掛け申しけるは、「此の殿は幼くおはするとも、狂言綺語の戯れも、仁義礼智信も正しくぞおはすらん。此の程の労に家のうちも見苦しかるらん。庭の草払はせよ。すけひら、もとひら早々出で立ちて御迎に参れ。事々しからぬ様にて参れ」と申されければ、畏まつて承り、其の勢三百五十余騎栗原寺へぞ馳せ参る。御曹司の御目にかかる。栗原の大衆五十人送り参らする。秀衡申しけるは、「是まで遥々御入候ふ事返す返す畏まり入り存じ候ふ。両国を手に握りて候へども思ふ様にも振舞はれず候へ共、今は何の憚か候ふべき」とて、泰衡を呼びて申しけるは、「両国の大名三百六十人を択りて、日々■飯を参らせて、君を守護し奉れ。御引出物には十八万騎持ちて候ふ郎等を十万をば二人の子供に賜はり候へ。今八万をば君に奉る。君御事はさて置きぬ。吉次が御供申さでは、争か御下り候ふべき。秀衡を秀衡と思はん者は吉次に引手物せよ」と申しければ、嫡子泰衡白皮百枚、鷲の羽百尻、良き馬三疋、白鞍置きて取らせける。二男忠衡も是に劣らず、引出物しけり。其の外家の子郎等我劣らじと取らせけり。秀衡是を見て、「獣の皮も鷲の尾も、今はよも不足有らじ。御辺の好む物なれば」とて、貝摺りたる唐櫃の蓋に砂金一蓋入れて取らせけり。吉次此の君の御供し、道々の命生きたるのみならず、徳付きてかかる事にも逢ひけるものよ。多聞の御利生とぞ思ひける。かくて商ひせずとも、元手儲けたり。不足有らじと思ひ、京へ急ぎ上りけり。かくて今年も暮れければ、御年十七にぞなり給ふ。さても年月を送り給へども、秀衡も申す旨もなし。御曹司も「如何有るべき」とも仰せ出だされず。中々都にだにも有るならば、学問をもし、見たき事をも見るべきに、かくても叶ふまじ、都へ上らばやとぞ思ひける。泰衡に言ふとも叶ふまじ、知らせずして行かばやと思食し、仮初の歩きの様にて、京へ上らせ給ふとて、伊勢の三郎が許におはして、しばらく休らひて、東山道にかかり、木曾の冠者の許におはして、謀反の次第仰せあはされて都に上り、片ほとりの山科に知る人有りける所に渡らせ給ひて、京の機嫌をぞ窺ひける。

義経鬼一法眼が所へ御出の事

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此処に代々の御門の御宝、天下に秘蔵せられたる十六巻の書有り。異朝にも我が朝にも伝へし人一人として愚かなる事なし。異朝には太公望是を読みて、八尺の壁に上り、天に上る徳を得たり。張良は一巻の書と名付け、是を読みて、三尺の竹に上りて、虚空を翔ける。樊■是を伝へて甲冑をよろひ、弓箭を取つて、敵に向ひて怒れば、頭の兜の鉢を通す。本朝の武士には、坂上田村丸、是を読み伝へて、悪事の高丸を取り、藤原利仁是を読みて、赤頭の四郎将軍を取る。それより後は絶えて久しかりけるを、下野の住人相馬の小次郎将門是を読み伝へて、我が身のせいたんむしやなるによつて朝敵となる。されども天命を背く者の、ややもすれば世を保つ者少なし。当国の住人田原藤太秀郷は勅宣を先として将門を追討の為に東国に下る。相馬の小二郎防ぎ戦ふと雖も、四年に味方滅びにけり。最後の時威力を修してこそ一張の弓に八の矢を矧げて、一度に是を放つに八人の敵をば射たりけり。それより後は又絶えて久しく読む人もなし。只徒に代々の帝の宝蔵に篭め置かれたりけるを、其の頃一条堀河に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武二道の達者有り。天下の御祈祷して有りけるが、是を賜はりて秘蔵してぞ持ちたりける。御曹司是を聞き給ひて、やがて山科を出でて、法眼が許に佇みて見給へば、京中なれども居たる所もしたたかに拵へ、四方に堀を掘りて水をたたへ、八の櫓を上げて、夕には申の刻、酉の時になれば、橋を外し、朝には巳午の時まで門を開かず。人の言ふ事耳の外処になしてゐたる大華飾の者なり。御曹司差し入りて見給へば、侍の縁の際に、十七八ばかりなる童一人佇みて有り。扇差し上げて招き給へば、「何事ぞ」と申しける。「汝は内のものか」と仰せられければ、「さん候」と申す。「法眼は是にか」と仰せられければ、「是に」と申す。「さらば汝に頼むべき事有り。法眼に言はんずる様は、門に見も知らぬ冠者物申さんと言ふと急ぎ言ひて帰れ」と仰せられける。童申しけるは、「法眼は華飾世に越えたる人にて、然るべき人達の御入の時だにも子供を代官に出だし、我は出で合ひ参らせぬくせ人にて候ふ。まして各々の様なる人の御出を賞翫候ひて対面有る事候ふまじ」と申しければ、御曹司、「彼奴は不思議の者の言ひ様かな。主も言はぬ先に人の返事をする事は如何に。入りて此の様を言ひて帰れ」とぞ仰せける。「申す共御用ゐ有るべしとも覚えず候へ共、申して見候はん」とて、内に入り、主の前に跪き、「かかる事こそ候はね。門に年頃十七八かと覚え候ふ小冠者一人佇み候ふが、「法眼はおはするか」と問ひ奉り候ふ程に、「御渡り候ふ」と申して候へば、御対面有るべきやらん」と申しける。「法眼を洛中にて見下げて、さ様に言ふべき人こそ覚えね。人の使ひか、己が詞か、よく聞き返せ」と申しける。童、「此の人の気色を見候ふに、主など持つべき人にてはなし。又郎等かと見候へば、折節に直垂を召して候ふが、皃達かと覚え候ふ。鉄漿黒に眉取りて候ふが、良き腹巻に黄金作りの太刀を帯かれて候ふ。あはれ、此の人は源氏の大将軍にておはしますらん。此の程世を乱さんと承り候ふが、法眼は世に越えたる人にて御渡り候へば、一方の大将軍とも頼み奉らんずる為に御入候ふやらん。御対面候はん時も世になし者など仰せられ候ひて、持ち給へる太刀の脊にて一打も当てられさせ給ふな」と申しける。法眼是を聞きて、「雄猛者ならば行きて対面せん」とて出で立つ。生絹の直垂に緋威の腹巻著て、金剛履いて、頭巾耳の際まで引つこうで、大手鉾杖に突きて、縁とうとうと踏みならし、暫く守りて、「抑法眼に物言はんと言ふなる人は侍か、凡下か」とぞ言ひける。御曹司門の際よりするりと出でて、「某申し候ふぞ」とて縁の上に上り給ひける。法限是を見て、縁より下に出でてこそ畏まらんずるに、思ひの外に法眼にむずと膝をきしりてぞ居たりける。「御辺は法眼に物言はんと仰せられける人か」と申しければ、「さん候」「何事仰せ候ふべき。弓一張、矢の一筋などの御所望か」と申しければ、「やあ御坊、それ程の事企てて、是まで来たらんや。誠か御坊は異朝の書、将門が伝へし六韜兵法と言ふ文、殿上より賜はりて秘蔵して持ち給ふとな。其の文私ならぬものぞ。御坊持ちたればとて読み知らずは、教へ伝へべき事も有るまじ。理を抂げて某に其の文見せ給へ。一日のうちに読みて、御辺にも知らせ教へて返さんぞ」と仰せ有りければ、法眼歯噛をして申しけるは、「洛中に是程の狼籍者を誰が計らひとして門より内へ入れけるぞ。」と言ふ。御曹司思召しけるは、「憎い奴かな。望をかくる六韜こそ見せざらめ。剰へ荒言葉を言ふこそ不思議なれ。何の用に帯きたる太刀ぞ。しやつ切つてくればや」と思召しけるが、よしよし、しかじか、一字をも読まず共、法眼は師なり、義経は弟子なり。それを背きたらば、堅牢地神の恐もこそあれ。法眼を助けてこそ六韜兵法の在所も知らんずれと思召し直し、法眼を助けてこそ居られけるは、継ぎたる首かなと見えし。其の儘人知れず法眼が許にて明かし暮し給ひける。出でてより飯をしたため給はねども、痩せ衰へもし給はず。日に従ひて美しき衣がへなんど召されけり。何処へおはしましけるやらんとぞ人々怪しみをなす。夜は四条の聖の許にぞおはしける。かくて法眼が内に幸寿前とて女有り。次の者ながら情有る者にて、常は訪ひ奉りけり。自然知る人になる儘、御曹司物語の序に、「抑法眼は何と言ふ」と仰せられければ、「何とも仰せ候はぬ」と申す。「さりながらも」と問はせ給へば、「過ぎし頃は「有らば有ると見よ。無くば無きと見て、人々物な言ひそ」とこそ仰せ候ふ」と申しければ、「義経に心許しもせざりけるごさんなれ。誠は法眼に子は幾人有る」と問ひ給へば、「男子二人女子三人」「男二人家に有るか」「はやと申す所に、印地の大将して御入り候ふ」「又三人の女子は何処に有るぞ」「所々に幸ひて、皆上臈婿を取りて渡らせ給ひ候ふ」と申せば、「婿は誰そ」「嫡女は平宰相信業卿の方、一人は鳥養中将に幸ひ給へる」と申せば、「何条法眼が身として上臈婿取る事過分なり。法眼世に超えて、痴れ事をするなれば、人々に面打たれん時、方人して家の恥をも清めんとは、よも思はじ。それよりも我々斯様に有る程に婿に取りたらば、舅の恥を雪がんものを。舅に言へ」と仰せられければ、幸寿此の事を承りて、「女にて候ふとも、然様に申して候はんずるには、首を切られ候はんずる人にて候ふ」と申しければ、「斯様に知る人になるも、此の世ならぬ契にてぞ有るらめ。隠して詮なし。人々に知らすなよ。我は左馬頭の子、源九郎と言ふ者なり。六韜兵法と言ふものに望みをなすに依りて、法眼も心よからねども、斯様にて有るなり。其の文の在所知らせよ」とぞ仰せける。「如何でか知り候ふべき。それは法眼の斜ならず重宝とこそ承りて候へ」と申せば、「扨は如何せん」とぞ仰せける。「さ候はば、文を遊ばし給ひ候へ。法眼の斜ならず、いつきの姫君の末の、人にも見えさせ給はぬを、賺して御返事取りて参らせ候はん」と申す。「女性の習ひなれば、近づかせ給ひ候はば、などか此の文御覧ぜで候ふべき」と申せば、次の者ながらも、斯様に情有る者も有りけるかやと、文遊ばして賜はる。我が主の方に行き、やうやうに賺して、御返事取りて参らする。御曹司それよりして法眼の方へは差し出で給はず。只大方に引き篭りてぞおはしける。法眼が申しけるは、「斯かる心地良き事こそ無けれ。目にも見えず、音にも聞こえざらん方に行き失せよかしと思ひつるに、失ひたるこそ嬉しけれ」とぞ宣ひける。御曹司、「人にしのぶ程げに心苦しきものはなし。何時まで斯くて有るべきならねば、法眼に斯くと知らせばや」とぞ宣ひける。姫君は御袂にすがり悲しみ給へども、「我は六韜に望有り。さらばそれを見せ給ひ候はんにや」と宣ひければ、明日聞こえて、父に亡はれん事力なしと思ひけれども、幸寿を具して、父の秘蔵しける宝蔵に入りて、重々の巻物の中に鉄巻したる唐櫃に入りたる六韜兵法一巻の書を取り出だして奉る。御曹司悦び給ひて、引き拡げて御覧じて、昼は終日に書き給ふ。夜は夜もすがら是を服し給ひ、七月上旬の頃より是を読み始めて、十一月十日頃になりければ、十六巻を一字も残さず、覚えさせ給ひての後は、此処に有り、彼処に有るとぞ振舞はれける程に、法眼も早心得て、「さもあれ、其の男は何故に姫が方には有るぞ」と怒りける。或る人申しけるは、御方におはします人は、左馬頭の君達と承り候ふ由申せば、法眼聞きて、世になし者の源氏入り立ちて、すべて六波羅へ聞こえなば、よかるべき。今生は子なれ共、後の世の敵にて有りけりや。切つて捨てばやと思へ共、子を害せん事五逆罪のがれ難し。異姓他人なれば、是を切つて平家の御見参に入つて、勲功に預からばやと思ひて伺ひけれども、我が身は行にて叶はず。あはれ、心も剛ならん者もがな、斬らせばやと思ふ。其の頃北白河に世に越えたる者有り。法眼には妹婿なり。しかも弟子なり。名をば湛海坊とぞ申しける。彼が許へ使ひを遣はしければ、程無く湛海来たり、四間なる所へ入れて様々にもてなして申しけるは、「御辺を呼び奉る事別の子細に有らず。去んぬる春の頃より法眼が許に然る体なる冠者一人、下野の左馬頭の君達など申す。助け置き悪しかるべし。御辺より外頼むべく候ふ人なし。夕さり五条の天神へ参り、此の人を賺し出だすべし。首を切つて見せ給へ。さも有らば五六年望み給ひし六韜兵法をも御辺に奉らん」と言ひければ、「さ承りぬ。善悪罷り向ひてこそ見候はめ。抑如何様なる人にておはしまし候ふぞ」と申しければ、「未だ堅固若き者、十七八かと覚え候ふ。良き腹巻に黄金造りの太刀の心も及ばぬを持ちたるぞ。心許し給ふな」と言ひければ、湛海是を聞きて申しけるは、「何条それ程の男の分に過ぎたる太刀帯いて候ふとも何事か有るべき。一太刀にはよも足り候はじ。ことごとし」と呟きて、法眼が許を出でにけり。法眼賺しおほせたりと世に嬉しげにて、日頃は音にも聞かじとしける御曹司の方へ申しけるは、見参に入り候ふべき由を申しければ、出でて何にかせんと思召しけれども、呼ぶに出でずは臆したるにこそと思召し、「やがて参り候ふべき」とて使を返し給ひける。此の由を申しければ、世に心地よげにて、日頃の見参所へ入れ奉り、尊げに見えんが為に、素絹の衣に袈裟懸けて、机に法華経一部置いて一の巻の紐を解き、妙法蓮華経と読み上ぐる所へ、はばかる所無くつつと入り給へば、法眼片膝をたて、「是へ是へ」と申しける。即ち法眼と対座に直らせ給ふ。法眼が申しけるは、「去んぬる春の頃より御入候ふとは見参らせ候へども、如何なる跡なし人にて渡らせ給ふやらんと思ひ参らせ候へば、忝くも左馬頭殿の君達にて渡らせ給ふこそ忝き事にて候へ。此の僧程の浅ましき次の者などを親子の御契りの由承り候ふ。まことしからぬ事にて候へども、誠に京にも御入り候はば、万事頼み奉り存じ候ふ。さても北白河に湛海と申す奴御入り候ふが、何故共無く法眼が為に仇を結び候ふ。あはれ失はせて給はり候へ。今宵五条の天神に参り候ふなれば、君も御参り候ひて、彼奴を切つて首を取つて賜はり候はば、今生の面目申し尽くし難く候ふ」とぞ申されける。あはれ人の心も計り難く思召しけれども、「さ承り候ふ。身において叶ひ難く候へども、罷り向ひて見候はめ。何程の事か候ふべき。しやつも印地をこそ為習うて候ふらめ。義経は先に天神に参り、下向し様にしやつが首切りて参らせ候はん事、風の塵払ふ如くにてこそ有らめ」と言葉を放つて仰せければ、法眼、何と和君が支度するとも、先に人をやりて待たすればと、世に痴がましくぞ思ひける。「然候はば、やがて帰り参らん」とて出で給ひ、其の儘天神にと思しけれども、法眼が娘に御志深かりければ、御方へ入らせ給ひて、「只今天神にこそ参り候へ」と宣へば、「それは何故ぞ」と申しければ、「法眼の「湛海切れ」と宣ひてによつてなり」と仰せられければ、聞きも敢へず、さめざめと泣きて、「悲しきかなや。父の心を知りたれば、人の最後も今を限りなり。是を知らせんとすれば、父に不孝の子なり。知らせじと思へば、契り置きつる言の葉、皆偽となり果てて、夫妻の恨、後の世まで残るべき。つくづく思ひ続くるに、親子は一世、男は二世の契りなり。とても人に別れて、片時も世に永らへて有らばこそ、憂きも辛きも忍ばれめ。親の命を思ひ棄てて、斯くと知らせ奉る。只是より何方へも落ちさせ給へ。昨日昼程に湛海を呼びて、酒を勧められしに、怪しき言葉の候ひつるぞ。「堅固の若者ぞ」と仰せ候ひつる。湛海「一刀には足らじ」と言ひしは、思へば御身の上。かく申せば、女の心の中却りて景迹せさせ給ふべきなれども、「賢臣二君に仕へず。貞女両夫に見えず」と申す事の候へば、知らせ奉るなり」とて、袖を顔に押し当てて、忍びも敢へず泣き居たり。御曹司是を聞召し、「もとより、打ち解け思はず知らず候ふこそ迷ひもすれ。知りたりせば、しやつ奴には斬られまじ。疾くこそ参り候はん」とて出で給ふ。頃は十二月廿七日の夜ふけがたの事なれば、御装束は白小袖一重、藍摺引き重ね、精好の大口に唐織物の直垂着篭めにして、太刀脇挟み、暇申して出で給へば、姫君は是や限りの別れなるらんと悲しみ給へり。妻戸に衣被きてひれ臥し給ひけり。御曹司は天神に跪き、祈念申させ給ひけるは、「南無大慈大悲の天神、利生の霊地、即機縁の福を蒙り、礼拝の輩は千万の諸願成就す。此処に社壇ましますと、名付けて、天神と号し奉る。願はくは湛海を義経に相違無く手にかけさせて賜べ」と祈念し、御前を発つて南へ向いて、四五段ばかり歩ませ給へば、大木一本有り。下の仄暗き所五六人程隠るべき所を御覧じて、あはれ所や、此処に待ちて切つてくればやと思召し、太刀を抜き待ち給ふ所に湛海こそ出で来たれ。究竟の者五六人に服巻着せて、前後に歩ませて、我が身は聞こゆる印地の大将なり、人には一様変はりて出で立ちけり。褐の直垂に節縄目の腹巻着て、赤銅造りの太刀帯いて、一尺+三寸有りける刀に、御免様革にて、表鞘を包みてむずとさし、大長刀の鞘をはづし、杖に突き、法師なれども常に頭を剃らざりければ、をつつかみ頭に生ひたるに、出張頭巾ひつ囲み、鬼の如くに見えける。差し屈みて御覧ずれば、首のまはりにかかる物も無く世に切りよげなり。如何に切り損ずべきと待ち給ふも知らずして、御曹司の立ち給へる方へ向いて、「大慈大悲の天神、願はくは聞こゆる男、湛海が手にかけて賜べ」とぞ祈誓しける。御曹司是を御覧じて、如何なる剛の者も只今死なんずる事は知らずや、直に斬らばやと思召しけるが、暫く我が頼む天神を大慈大悲と祈念するに、義経は悦びの道なり。彼奴は参りの道ぞかし。未だ所作も果てざらんに切りて社壇に血をあえさんも、神慮の恐有り。下向きの道をと思召し、現在の敵を通し、下向をぞ待ち給ふ。摂津国の二葉の松の根ざしはじめて、千代を待つよりも猶久し。湛海天神に参りて見れども、人もなし。聖に会うて、あからさまなる様にて、「さる体の冠者などや参りて候ひつる」と問ひければ、「然様の人は、疾く参り下向せられぬ」と申しける。湛海安からず、「疾くより参りなば、逃すまじきを。定めて法眼が家に有らん。行きて責め出だして切つて棄てん」」とぞ申しける。「尤も然有るべし」とて、七人連れて天神を出づる。あはやと思召し、先の所に待ち給ふ。其の間二段ばかり近づきたるが、湛海が弟子禅師と申す法師申しけるは、「左馬頭殿の君達、鞍馬に有りし牛若殿、男になりて、源九郎と申し候ふは、法眼が娘に近づきけるなれば、女は男に会へば、正体無き物なり。もし此の事を聞き、男に斯くと知らせなば、斯様の木蔭にも待つらん。あたりに目な放しそ」と申しける。湛海「音なしそ」と申しける。「いざ此の者呼びて見ん。剛の者ならば、よも隠れじ。臆病者ならば、我等が気色に怖ぢて出でまじき物を」と言ひける。あはれ只出でたらんよりも、有るかと言ふ声に付きて出でばやと思はれけるに、憎げなる声色して、「今出河の辺より世になし源氏参るや」と言ひも果てぬに、太刀打ち振り、わつと喚いて出で給ふ。「湛海と見るは僻目か。斯う言ふこそ義経よ」とて、追つかけ給ふ。「今まではとこそ攻め、かくこそ攻め」と言ひけれども、其の時には三方へざつと散る。湛海も二段ばかりぞ逃げける。「生きても死しても弓矢取る者の臆病程の恥や有る」とて、長刀を取り直し、返し合はせ、御曹司は小太刀にて走り合ひ、散々に打ち合ひ給ふ。もとよりの事なれば、斬り立てられ、今は叶はじとや思ひけん、大長刀取り直し、散々に打ち合ひけるが、少しひるむ所を長刀の柄を打ち給ふ。長刀からりと投げかけたる時、小太刀打ち振り、走りかかりて、ちやうど切り給へば、切先頚の上にかかるとぞ見えしが、首は前にぞ落ちにける。年三十八にて失せにけり。酒を好む猩々は樽のほとりに繋がれ、悪を好みし湛海は由無き者に与して失せにけり。五人の者共是を見て、さしもいしかりつる湛海だにも斯くなりたり。まして我々叶ふまじと皆散り散りにぞ成りにける。御曹司是を御覧じて、「憎し。一人も余すまじ。湛海と連れて出づる時は、一所とこそ言ひつらむ。きたなし、返し合はせよ」と仰せ有りければ、いとど足早にぞ逃げにける。彼処に追ひつめ、はたと切り此処に追ひつめ、はたと切り、枕を並べて二人切り給へば、残りは方々へ逃げけり。三つの首を取りて、天神の御前に杉の有る下に念仏申しおはしけるが、此の首を棄てやせん、持ちてや行かんと思召すが、法眼が構へて構へて首取りて見せよとあつらへつるに、持ちて行きて、胆をつぶさせんと思召し、三つの首を太刀の先に差し貫き帰り給ひ、法眼が許におはして御覧ずれば、門を閉して、橋引きたれば、今叩きて義経と言はばよも開けじ。是程の所は跳ね越し入らばやと思召し、口一丈の堀、八尺の築地に飛び上がり給ふ。木末に鳥の飛ぶが如し。内に入り、御覧ずれば、非番当番の者共臥したり。縁に上がり見給へば、火ほのぼのと挑き立て、法華経の二巻目半巻ばかり読みて居たりけるが、天井を見上げて、世間の無常をこそ観じけれ。「六韜兵法を読まんとて、一字をだにも読まずして、今湛海が手にかからん。南無阿弥陀仏」と独言に申しける。あら憎の面や。太刀の脊にて打たばやと思召しけるが、女が嘆かん事、不便に思召して、法眼が命をば助け給ひけり。やがて内へ入らんと思召すが、弓矢取りの、立聞などしたるかと思はれんとて、首を又引きさげて門の方へ出で給ふ。門の脇に花の木有りける下に、仄暗き所有り。此処に立ち給ひて、「内に人や有る」と仰せければ、内よりも、「誰そ」と申す。「義経なり。此処開けよ」と仰せければ、是を聞き、「湛海を待つ所におはしたるは、良き事よも有らじ。開けて入れ参らせんか」と言ひければ、門開けんとする者も有り。橋渡さんとする者も有り。走り舞ふ所に、何処よりか越えられけん、築地の上に首三つ引きさげて来たり会ふ。各々胆を消し見る所に人より先に内に差し入り、「大方身に叶はぬ事にて候ひつれ共、「構へて構へて首取りて見せよ」と仰せ候ひつる間、湛海が首取つて参りたる」とて、法眼が膝の上に投げられければ、興ざめてこそ思へども、会釈せでは叶はじとや思ひけん、さらぬ様にて「忝き」とは、申せども、世に苦々しくぞ見えける。「悦び入りて候ふ」とて、内に急ぎ逃げ入り、御曹司今宵は此処に止まらばやと思召しけれども、女に暇乞はせ給ひて、山科へとて出で給ふ。飽かぬ名残も惜しければ、涙に袖を濡らし給ふ。法眼が娘、後にひれ伏し、泣き悲しめども甲斐ぞ無き。忘れんとすれ共、忘られず、微睡めば夢に見え、覚むれば面影に沿ふ。思へば弥増りして遣る方もなし。冬も末になりければ、思ひの数や積りけん、物怪などと言ひしが、祈れども叶はず、薬にも助からず、十六と申す年、遂に嘆き死に死にけり。法眼は重ねて物をぞ思ひける。如何なるらん世にも有らばやとかしづきける娘には別れ、頼みつる弟子をば斬られぬ。自然の事有らば、一方の大将にもなり給ふべき義経には仲をたがひ奉りぬ。彼と言ひ、是と言ひ、一方ならぬ嘆き思ひ入りてぞ有りける。後悔底に絶えずとは此の事、只人は幾度も情有るべきは浮世なり。

巻第三

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熊野の別当乱行の事

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義経の御内に聞こえたる一人当千の剛の者有り。俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。彼が出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は君達数多持ち給ひたりけれども、親に先立ち、皆失せ給ふ。年長け、齢傾きて、一人の姫君を設け給ひたり。天下第一の美人にておはしければ、雲の上人我も我もと望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。大臣師長懇ろに申し給ひければ、さるべき由申されけれども、今年は忌むべき事有り。東の方は叶はじ。明年の春の頃と約束せられけり。御年十五と申す夏の頃如何なる宿願にか、五条の天神に参り給ひて、御通夜し給ひたりけるに、辰巳の方より俄に風吹き来たりて、御身にあたると思ひ給ひければ、物狂はしく労ぞ出で来給ひたる。大納言、師長、熊野を信じ参らせ給ひける程に、「今度の病たすけさせ給へ。明年の春の頃は参詣を遂げ、王子王子の御前にて宿願を解き候ふべし」と祈られければ、程無く平癒し給ひぬ。斯くて次の年の春、宿願を晴らさせ給はん為に参詣有り。師長、大納言殿よりして、百人道者付け奉りて、三の山の御参詣を事故無く遂げ給ふ。本宮証誠殿に御通夜有りけるに別当も入堂したりけり。遙かに夜更けて、内陣にひそめきたり。何事なるらんと姫君御覧ずる処に、「別当の参り給ひたる」とぞ申したり。別当幽なる燈火の影より此の姫君を見奉り給ひて、さしも然るべき行人にておはしけるが、未だ懺法だにも過ぎざるに、急ぎ下向して、大衆を呼びて、「如何なる人ぞ」と問はれければ、「是は二位の大納言殿の姫君、右大臣殿の北の方」とぞ申しける。別当、「それは約束ばかりにてこそあんなれ。未だ近づき給はず候ふと聞くぞ。先々大衆の、あはれ熊野に何事も出で来よかしと人の心をも我が心をも見んと言ひしは今ぞかし。出で立ちてあしきの無からん所に、道者追ひ散らして、此の人を取つてくれよかし。別当が児にせん」とぞ宣ひける。大衆是を聞きて、「さては仏法の仇、王法の敵とやなり給はんずらん」と申しければ、「臆病の致す所にてこそあれ。斯かる事を企つる習ひ、大納言殿、師長、院の御所へ参り、訴訟申し給はば、大納言を大将として畿内の兵こそ向はんずらめ。それは思ひ設けたる事なれ。新宮熊野の地へ敵に足を踏ませばこそ」とぞ宣ひける。先々の僻事と申すは大衆の赴きを別当の鎮め給ふだにも、ややもすれば衆徒逸りき。況んや、是は別当起こし給ふ事なれば、衆徒も兵を進めけり。我も我もと甲冑をよろひ、先様に走り下りて、道者を待つ所に又後より大勢鬨を作りて追つかけたり。恥を恥づべき侍共皆逃げける。衆徒輿を取つて帰り、別当に奉る。我が許は上下の経所なりければ、若し京方の者有るやとて、政所に置き奉り、諸共に明暮引き篭りてぞおはしける。若し京より返し合はする事もやと用心きびしくしたりけり。されども私の計らひにて有らざれば、急ぎ都へ馳せ上りて、此の由を申したりければ右大臣殿大きに憤り給ひて、院の御所に参り給ひて訴へ申されたりければ、やがて院宣を下して、和泉、河内、伊賀、伊勢の住人共を催して、師長、大納言殿を両大将として、七千余騎にて、「熊野の別当を追ひ出だして、俗別当になせ」とて、熊野に押し寄せ給ひて攻め給へば、衆徒身を捨てて防ぐ。京方叶はじとや思ひけん、切目の王子に陣取て、京都へ早馬を立て申されければ、「合戦遅々する仔細有り。其の故は公卿僉議有りて、平宰相信業の御娘、美人にておはしまししかば、内へ召されさせ給ひしを、今此の事に依つて熊野山滅亡せられん事、本朝の大事なり。右大臣には此の姫君を内より返し奉り給はば、何の御憤りか有るべき。又二位の大納言の御婿、熊野の別当、何か苦しかるべきか。年長けたるばかりにてこそあれ、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の御子孫なり。苦しかるまじ」とぞ僉議事畢りて、切目の王子に早馬を立て、此の由を申されければ、右大臣公卿僉議の上は申すに及ばずとて、打ち捨てて帰り上り給ふ。二位の大納言は又我一人して憤るべきならずとて、打ち連れ奉りて上洛有りければ、熊野も都も静なりと雖も、ややもすれば兵共我等がする事は宣旨院宣にも従はばこそと自嘆して、いよいよ代を世ともせざりけり。扨姫君は別当に従ひて年月を経る程に、別当は六十一、姫君に馴れて子を儲けんずるこそ嬉しけれ。男ならば仏法の種を継がせて、熊野をも譲るべしとて、斯くして月日を待つ程に、限り有る月に生まれず、十八月にて生まれける。

弁慶生まるる事

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別当此の子の遅く生まるる事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「如何様なる者ぞ」と問はれければ、生まれ落ちたる気色は世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るる程に生ひて、奥歯も向歯も殊に大きに生ひてぞ生まれけれ。別当に此の由を申しければ、「さては鬼神ごさんなれ。しやつを置いては仏法の仇となりなんず。水の底に紫漬にもし、深山に磔にもせよ」とぞ宣ひける。母是を聞き、「それは然る事なれ共、親となり、子と成りし、此の世一つならぬ事ぞと承る。忽ちに如何失はん」と嘆き入りてぞおはしける所に、山の井の三位と言ひける人の北の方は、別当の妹なり。別当におはして幼き人の御不審を問ひ給へば、「人の生まるると申すは九月十月にてこそ極めて候へ。彼奴は十八月に生まれて候へば、助け置きても親の仇ともなるべく候へば、助け置く事候ふまじ」と宣ひける。叔母御前聞き給ひて、「腹の内にて久しくして生まれたる者、親の為に悪しからんには、大唐の黄石が子は腹の内にて八十年の歯を送り、白髪生ひて生まれける。年は二百八十歳、丈低く色黒くして、世の人には似ず。されども八幡大菩薩の御使者現人神と斎はれ給ふ。理をまげて、我等に賜はり候へ。京へ具して上り、善くは男になして、三位殿へ奉るべし。悪くは法師になして、経の一巻も読ませたらば、僧党の身として罪作らんより勝るべし」と申されければ、さらばとて叔母に取らせける。産所に行きて産湯を浴びせて、鬼若と名を付けて、五十一日過ぎければ、具して京へ上り、乳母を付けてもてなし伝きける。鬼若五つにては、世の人十二三程に見えける。六歳の時疱瘡と言ふものをして、いとど色も黒く、髪は生まれたる儘なれば、肩より下へ生ひ下り、髪の風情も男になして叶ふまじ、法師になさんとて、比叡の山の学頭西塔桜本の僧正の許に申されけるは、「三位殿の為には養子にて候ふ。学問の為に奉り候ふ。眉目容貌は参らするに付けて恥ぢ入り候へども、心は賢々しく候ふ。書の一巻も読ませて賜び候へ。心の不調に候はんは直させ給ひ候ひて、如何様にも御計らひにまかせ候ふぞ」とて上せけり。桜本にて学問する程に、精は月日の重なるに随ひて、人に勝れてはかばかし。学問世に越えて器用なり。されば衆徒も、「容貌は如何にも悪かれ。学問こそ大切なり」と宣ひぬ。学問に心をだにも入れなば、さてよかるべきに、力も強く骨太なり。児、法師原を語らひて、人も行かぬ御堂の後ろ、山の奥などへ篭り居て、腕取、腕押、相撲などぞ好みける。衆徒此の事を聞きて、「我が身こそ、徒者にならめ、人の所に学問する者をだに賺し出だして、不調になす事不思議なり」とて、僧正の許に訴訟の絶ゆる事なし。斯く訴へける者をば敵の様に思ひて、其の人の方へ走り入りて、蔀、妻戸を散々に打ち破りけれども、悪事も武用も鎮むべき様ぞ無き。其の故は父は熊野の別当なり。養父は山の井殿、祖父は二位の大納言、師匠は三千坊の学頭の児にて有る間、手をも指して良き事有るまじとて、只打ち任せてぞ狂はせける。されば相手は変はれども鬼若は変はらず、諍の絶ゆる事なし。拳を握り、人を締めければ、人々道をも直に行得ず。偶々逢ふ者も道を避けなどしければ、其の時は相違無く通して後、会うたる時取つて抑へて、「さもあれ、過ぎし頃は行き逢ひ参らせて候ふに、道を避けられしは、何の遺恨にて候ひけるぞ」と問ひければ、恐ろしさに膝ふるひなどする物を、肱捩ぢ損じ、拳を以てこは胸を押し損じなどする間、逢ふ者の不祥にてぞ有りける。衆徒僉議して、僧正の児なり共、山の大事にて有るぞとて、大衆三百人院の御所へ参りて申しければ、「それ程の僻事の者をば急ぎ追ひ失へ」と院宣有りければ、大衆悦び、山上へ帰所に公卿僉議有りて、古き日記見給へば、「六十一年に山上にかかる不思議の者出で来ければ、朝家の祇祷になる事有り。院宣にて是を鎮めつれば、一日が中に天下無双の願所五十四ケ所ぞと言ふ事有り。今年六十一年に相当たる。只棄て置け」とぞ仰せける。衆徒憤り申しけるは、「鬼若一人に三千人の衆徒と思召しかへられ候ふこそ遺恨なれ。さらば山王の御輿を振り奉らん」と申しければ、神には御料を参らせ給ひければ、衆徒此の上はとて鎮まりけり。此の事鬼若に聞かすなとて隠し置きたりしを、如何なる痴の者か知らせけん、「是は遺恨なり」とて、いとど散々に振舞ひける。僧正もて扱ひて、「有らば有ると見よ。無くは無しと見よ」とて、目も見せ給はざりけり。

弁慶山門を出づる事

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鬼若僧正の憎み給へる由を聞きて、頼みたる師の御坊にも斯様に思はれんに、山に有りても詮なし。目にも見えざらん方へ行かんと思ひ立つて出でけるが、斯くては何処にても山門の鬼若とぞ言はれんずらん。学問に不足なし。法師になりてこそ行かめと思ひて、髪剃り、衣を取り添へて、美作の治部卿と言ふ者の湯殿に走り入りて、盥の水にて手づから髪を洗ひ、所々を自剃にしたりける。彼の水に影を写して見れば、頭は円くぞ見えける。斯くては叶はじとて、戒名をば何とか言はましと思ひけるが、昔此の山に悪を好む者有り。西塔の武蔵坊とぞ申しける。廿一にて悪をし初めて、六十一にて死にけるが、旦座合掌して往生を遂げたると聞く。我等も名を継いで呼ばれたらば、剛になる事も有らめ。西塔の武蔵坊と言ふべし。実名は父の別当は弁せうと名乗り、其の師匠はくわん慶なれば、弁せうの弁とくわん慶の慶とを取つて、弁慶とぞ名乗りける。昨日までは鬼若、今日は何時しか武蔵坊弁慶とぞ申しける。山上を出でて、小原の別所と申す所に山法師の住み荒らしたる坊に誰留むると無けれども、暫くは尊とげにてぞ居たりける。されども児なりし時だにも眉目悪く、心異相なれば、人もてなさず、まして訪ひ来る人も無ければ、是をも幾程無くあくがれ出でて、諸国修行にとて又出でて、津の国河尻に下り、難波潟を眺めて、兵庫の嶋など言ふ所を通りて、明石の浦より船に乗つて、阿波の国に著きて、焼山、つるが峰を拝みて、讚岐の志度の道場、伊予の菅生に出でて、土佐の幡多まで拝みけり。かくて正月も末になりければ、又阿波国へ帰りける。

書写山炎上の事

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弁慶阿波国より播磨国に渡り、書写山に参り、性空上人の御影を拝み奉り、既に下向せんとしたるが、同じくは一夏篭らばやと思ひける。此の夏と申すは諸国の修行者充満して、余念も無く勤めける。大衆は学頭の坊に集会し、修行者経所に著く。夏僧は虚空蔵の御堂にて、人に付いて夏中の様を聞きて、学頭の坊に入りけるに、弁慶は推参して、長押の上に憎気なる風情して、学頭の座敷を暫く睨みて居たりけり。学頭共是を見て、「一昨日昨日の座敷にも有り共覚えぬ法師の推参せられ候ふは、何処よりの修行者ぞ」と問ひければ、「比叡の山の者にて候ふ」と申しければ、「比叡の山はどれより」「桜本より」と申す。「僧正の御弟子か」と申せば、「さん候」「御俗姓は」と問はれて、事しげなる声して、「天児屋根の苗裔、中の関白道隆の末、熊野の別当の子にて候ふ」と申しけるが、一夏の間は如何にも心に入れて勤め、退転無く行ひて居たりける。衆徒も「初めの景気今の風情相違して見えたり。されば人には馴れて見えたり。隠便の者にて有りけるや」とぞ褒めける。弁慶思ひけるは、斯くて一夏も過ぎ、秋の初めにもなりなば、又国々に修行せんとぞ思ひける。されども名残を惜しみて出でもやらで居たり。さてしも有るべき事ならねば、七月下旬に学頭に暇乞はんとて行きたりければ、児大衆酒盛してぞ有りける。弁慶参じては詮無しと思ひて出でけるが、新しき障子一間立たる所有り。此処に昼寝せばやと思ひて、暫く臥しけるに、其の頃書写に相手嫌はぬ諍好む者有り。信濃坊戒円とぞ申しける。弁慶が寝たるを見て、多くの修行者見つれども、彼奴程の広言して憎気なる者こそ無けれ。彼奴に恥をかかせて、寺中を追ひ出ださんと思ひて、硯の墨摺り流し、武蔵坊が面に二行物を書いたりけり。片面には「足駄」と書き、片面には「書写法師の足駄に履く」と書きて、

弁慶は平足駄とぞなりにけり面を踏めども起きも上がらず

と書き付けて、小法師原を二三十人集めて、板壁を敲いて同音に笑はせける。武蔵坊悪しき所に推参したりけるやと思ひて、衣の袂引き繕ひて衆徒の中へぞ出でにける。衆徒是を見て、目引き鼻引き笑ひけり。人は感に堪へで笑へども、我は知らねばをかしからず。人の笑ふに笑はずは、弁慶遍執に似ると思ひ、共に笑ひの顔してぞ笑ひける。されども座敷の体隠しげに見えければ、弁慶我が身の上と思ひて、拳を握り、膝を抑へて、「何の可笑しきぞ」と叱りける。学頭是を見給ひて、「あはや此の者座こそ損じて見え候へ。如何様寺の大事となりなんず」と宣ひて、「詮無き事に候ふ。御身の事にては候はぬ。外処の事を笑ひて候ふ。何の詮かおはすべき」と宣へば、座敷を立つて、但島の阿闍梨と言ふ者の坊、其の間一町ばかり有り、是も修行者の寄合所にて有りければ、何処へ行き会ふ人々も弁慶を笑はぬ人はなし。怪しと思ひて、水に影を写して見れば、面に物をぞ書かれたる。さればこそ、是程の恥に当たつて、一時なりとも有りて詮なし。何方へも行かんと思ひけるが、又打ち返し思ひけるは、我一人が故に山の名をくたさん事こそ心憂けれ。諸人を散々に悪口して咎むる者をならはして、恥をすすぎて出でばやと思ひて、人々の坊中へめぐり、散々に悪口す。学頭此の事を聞きて、「何ともあれ。書写法師面を張り伏せられぬと覚ゆる。此の事僉議して、此の中に僻事の者有らば、それを取つて修行者に取らせて、大事を止めん」とて衆徒催して、講堂にして学頭僉議す。されども弁慶は無かりけり。学頭使者を立てけれども、老僧の使の有るにも出でざりけり。重ねて使ひ有るに、東坂の上に差し覗きて、後ろの方を見たりければ、廿二三ばかりなる法師の、衣の下に伏縄目の鎧腹巻著てぞ出で来たる。弁慶是を見て、こは如何に、今日は隠便の僉議とこそ聞きつるに、彼奴が風情こそ怪しからね、内々聞くに、衆徒僻事をしたらば拷を乞へ、修行者僻事有らば小法師原に放ち合はせよと言ふなるに、かくて出で、大勢の中に取り篭められ叶ふまじ。我もさらば行きて出で立たばやと思ひて、学頭の坊に走り入りて「こは如何」と人の問ふ返事をもせず、人も許さざりけるに、何時案内は知らねども、納殿につと走り入りて、唐櫃一合取つて出で、褐の直垂に黒糸威の腹巻著て、九十日剃らぬ頭に、揉烏帽子に鉢巻し、石■の木を以て削りたる棒の、八角に角を立てて、本を一尺ばかり丸くしたるを引杖にして、高足駄を履いて、御堂の前にぞ出で来る。大衆是を見て、「此処に出で来る者は何者ぞ」と言ひければ、「是こそ聞こゆる修行者よ」「あら怪しからぬ有様かな。此の方へ呼びてよかるべきか、捨てて置きてよかるべきか」「捨て置いても、呼びてもよかるまじ」「さらば目な見せそ」と申しける。弁慶是を見て、如何にとも言はんかと思ひつるに、衆徒の伏目になりたるこそ心得ね。善悪を外処にて聞けば大事なり。近づきて聞かばやと思ひ、走り寄つて見ければ、講堂には老僧児共打ち交りて三百人ばかり居流れたり。縁の上には中居の者共、小法師原一人も残らず催したり。残る所無く寺中上を下に返して出で来る事なれば、千人ばかりぞ有りける。其の中に悪しく候ふとも言はず、足駄踏みならし、肩をも膝をも踏み付けて通りけり。あともそとも言はば、一定事も出で来なんと思ふ。皆肩を踏まれて通しけり。階の許に行きて見れば、履物共ひしと脱ぎたり。我も脱ぎ置かばやと思ひけるが、脱げば災を除くに似ると思ひ、履きながらがらめかしてぞ上りけり。衆徒咎めんとすれば事乱れぬべし。詮ずる所、取り合ひて詮なしとて、皆小門の方へぞ隠れける。弁慶は長押の際を足駄履きながら彼方此方へぞ歩きける。学頭「見苦しきものかな、さすが此の山と申すは、性空上人の建立せられし寺なり。然るべき人おはする上、幼き人の腰もとを足駄履いて通る様こそ奇怪なれ」と咎められて弁慶つい退つて申しけるは、「学頭の仰せは勿論に候ふ。然様に縁の上に足駄履いて候ふだにも狼藉なりと咎め給ふ程の衆徒の、何の緩怠に修行者の面をば足駄にしては履かれけるぞ」と申しければ、道理なれば衆徒音もせず。中々放ち合はせて置きたらば、学頭の計らひに如何様にも賺して出づべかりしを、禍起こりたりける。信濃是を聞きて、「興なる修行法師奴が面や」と居丈高になりて申しける。「余りに此の山の衆徒は驍傲が過ぎて、修行者奴等に目を見せて、既に後悔し給ふらんものを、いで習はさん」とて、つと立つ。あは、事出で来たりとて犇めく。弁慶是を見て、「面白し、彼奴こそ相手嫌はずのえせ者よ。己れが腕の抜くるか、弁慶が脳の砕くるか。思へば弁慶が面に物を書きたる奴か、憎い奴かな」とて、棒を取り直し、待ち懸けたり。戒円が寺の法師原五六人、座敷に有りけるが、是を見て、「見苦しく候ふ。あれ程の法師、縁より下に掴み落して、首の骨踏み折つて捨てん」とて、衣の袖取りて結び、肩にかけ、喚き叫んで懸かるを見て、弁慶えいやと立ち上がり、棒を取つて直し、薙打に一度に縁より下へ払ひ落しける。戒円是を見て走り立ちて、あたりを見れども打つべき杖なし。末座を見れば、檪を打ち切り打ち切りくべたる燃えさしを追つ取り、炭櫃押しにじりて、「一定か和法師」とて走り懸かる。弁慶しきりに腹を立て、以て開いてちやうど打つ。戒円走り違ひてむずと打つ。弁慶、がしと合はせて、潛り入りて、弓手の腕を差しのべ、かうを掴んでむずと引き寄せ、右手の腕を以て戒円が股を掴みそへて、目より高く引つさげて、講堂の大庭の方へ提げもて行く。衆徒是を見て、「修行者御免候へ。それは地体酒狂ひするものにて候ふぞ」と申しければ、弁慶見苦しく見えさせ給ふものかな。日頃の約束には修行者の酒狂ひは大衆鎮め、衆徒の酒狂ひをば修行者鎮めよとの御約束と承りしかば、命をば殺すまじ」と言うて、一振振つて「えいや」と言ひて、講堂の軒の高さ一丈一尺有りける上に、投げ上げたれば、一たまりもたまらず、ころころと転び落ち、雨落ちの石たたきにどうど落つ。取つて押ヘて、骨は砕けよ、脛は拉げよと踏んだり。弓手の小腕踏み折り、馬手の肋骨二枚損ず。中々言ふに甲斐なしとて、言ふばかりもなし。戒円が持ちたる燃えさしを、さらば捨てもせで、持ちながら投げ上げられて、講堂の軒に打ち挟む。折節風は谷より吹き上げたり。講堂の軒に吹き付けて、焼け上がりたり。九間の講堂七間の廊下多宝の塔、文殊堂、五重の塔に吹き付けて、一宇も残さず、性空上人の御影堂、是を始めて、堂塔社々の数、五十四ケ所ぞ焼けたりける。武蔵坊是を見て、現在仏法の仇となるべし、咎をだに犯しつる上は、まして大衆の坊々は助け置きて、何にかせんと思ひて、西坂本に走り下り、松明に火を付けて、軒を並べたる坊々に一々に火をぞ付けたりける。谷より峰へぞ焼けて行く。山を切りて懸造にしたる坊なれば、何かは一つも残らず、残るものとては礎のみ残りつつ、廿一日の巳の時ばかりに武蔵坊は書写を出でて、京へぞ行きける。其の日一日歩み、其の夜も歩みて、二十二日の朝に京へぞ着きにける。其の日は都大雨大風吹きて、人の行来も無かりけるに、弁慶装束をぞしたりける、長直垂に袴をば赤きをぞ著たりける。如何にしてか上りけん、さ夜更け、人静まりて後、院の御所の築地に上り、手を拡げて火をともし、大の声にてわつと喚きて、東の方へぞ走りける。又取つて返し、門の上につい立ちて、恐ろしげなる声にて、「あらあさまし。如何なる不思議にてか候ふやらん、性空上人の手づから自ら建て給ひし書写の山、昨日の朝、大衆と修行者との口論によつて、堂塔五十四ヶ所、三百坊一時に煙となりぬ」と呼ばはつて、掻き消す様に失せにけり。院の御所には是を聞召し、何故、書写は焼けたると、早馬を立てて御尋ね有り。「誠に焼けたらば学頭を始めとして衆徒を追ひ出だせ」との院宣なり。寺中の下部向ひて見れば、一宇も残らず焼けければ、全く時を移さず、参りて陳じ申さんとて、馳せ上り、院の御所に参じて陳じ申しければ、「さらば罪科の者を申せ」と仰せ下さる。「修行者には武蔵坊、衆徒には戒円」と申す。公卿是を聞き給ひて、「さては山門なりし鬼若が事ごさんなれば、是が悪事は山上の大事にならぬ先に、鎮めたらんこそ君ならめ。戒円が悪事是非なし。詮ずる所戒円を召せ。戒円こそ仏法王法の怨敵なれ。しやつを取りて、糾問せよ」とて、摂津国の住人昆陽野太郎承つて、百騎の勢にて馳せ向ひ、戒円を召して、院の御所に参る。御前に召されて、「汝一人が計らひか、与したる者の有りけるか」と尋ねらる。糾問厳しかりければ、とても生きて帰らん事不定なれば、日頃憎かりしものを入ればやと思ひて、与したる衆徒とては十一人までぞ白状に入れたりける。又昆陽野太郎馳せ向ふ所に、かねて聞こえければ、先立て十一人参り向ふ。されども白状に載せたりとて召し置かる。陳ずるに及ばず、戒円は遂に責め殺さる。死しける時も「我一人の咎ならぬに、残りを失はれずは、死するとも悪霊とならん」とぞ言ひける。かく言はざるだにも有るべし。さらば斬れとて、十一人も皆斬られにけり。武蔵坊都に有りけるが、是を聞きて、「かかる心地良き事こそ無けれ。居ながら敵思ふ様にあたりたる事こそ無けれ。弁慶が悪事は朝の御祈りになりけり」とて、いとど悪事をぞしたりける。

弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事

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弁慶思ひけるは、人の重宝は千揃へて持つぞ。奥州の秀衡は名馬千疋、鎧千領、松浦の太夫は胡■千腰、弓千張、斯様に重宝を揃へて持つに、我々は代はりの無ければ、買ひて持つべき様なし。詮ずる所、夜に入りて、京中に佇みて、人の帯きたる太刀千振取りて、我が重宝にせばやと思ひ、夜な夜な人の太刀を奪ひ取る。暫しこそ有りけれ、「当時洛中に丈一丈ばかり有る天狗法師の歩きて、人の太刀を取る」とぞ申しける。かくて今年も暮れければ、次の年の五月の末、六月の初めまでに多くの太刀を取りたり。樋口烏丸の御堂の天井に置く。数へ見たりければ、九百九十九こそ取りたりける。六月十七日五条の天神に参りて、夜と共に祈念申しけるは、「今夜の御利生によからん太刀与へて賜び給へ」と祈誓し、夜更くれば、天神の御前に出で、南へ向ひて行きければ、人の家の築地の際に佇みて、天神へ参る人の中に良き太刀持ちたる人をぞ待ち懸けたり。暁方になりて、堀河を下りに行きければ、面白く笛の音こそ聞こえけれ。弁慶是を聞きて、面白や、さ夜更けて、天神へ参る人の吹く笛か、法師やらん男やらん、よからん太刀を持ちたらば、取らんと思ひて、笛の音の近づきければ、差し屈みて見れば、未だ若人のしろき直垂に胸板を白くしたる腹巻に、黄金造りの太刀の心も及ばぬを帯かれたり。弁慶是を見て、あはれ太刀や、何ともあれ、取らんずるものをと思ひて待つ所に、後に聞けば恐ろしき人にてぞ有りける。弁慶は如何でか知るべき。御曹司は見給ひて、四辺に目をも放たれず、むくの木の下を見給ひければ、怪しからぬ法師の太刀脇挟みて立ちたるを見給へば、彼奴は只者ならず、此の頃都に人の太刀奪ひ取る者は彼奴にて有るよと思はれて、少しもひるまずかかり給ふ。弁慶さしも雄猛なる人の太刀をだにも奪ひ取る、まして是等程なる優男、寄りて乞はば、姿にも声にも怖ぢて出ださんずらん。げに呉れずは、突倒し奪ひ取らんと支度して、弁慶現れ出で、申しけるは、「只今静まりて敵を待つ所に怪しからぬ人の物具して通り給ふこそ怪しく在じ候へ。左右無くえこそ通すまじけれ。然らずは其の太刀此方へ賜はりて通られ候へ」と申しければ、御曹司是を聞き給ひて、「此の程さる痴の者有りとは聞き及びたり。左右無くえこそ取らすまじけれ。欲しくは寄りて取れ」とぞ仰せられける。「さては見参に参らん」とて、太刀を抜いで飛んでかかる。御曹司も小太刀を抜いで築地の許に走り寄り給ふ。武蔵坊是を見て、「鬼神とも言へ、当時我を相手にすべき者こそ覚えね」とて以て開いてちやうど打つ。御曹司「彼奴は雄猛者かな」とて、稲夫の如く弓手の脇へづと入り給へば、打ち開く太刀にて築地の腹に切先打ち立てて、抜かんとしける暇に、御曹司走り寄りて、弓手の足を差し出だして、弁慶が胸をしたたかに踏み給へば、持ちたる太刀をからりと棄てたるを取つて、えいやと言ふ声の内に九尺ばかり有りける築地にゆらりと飛び上がり給ふ。弁慶胸はいたく踏まれぬ。鬼神に太刀取られたる心地して、あきれてぞ立ちたりける。御曹司「是より後にかかる狼藉すな。さる痴の者有りかとかねて聞きつるぞ。太刀も取りてゆかんと思へども、欲しさに取りたりと思はんずる程に取らするぞ」とて築地の覆ひに押し当てて、踏みゆがめてぞ投げかけ給ふ。太刀取つて押し直し、御曹司の方をつらげに見遣りて、「念無く御辺はせられて候ふ物かな。常に此の辺におはする人と見るぞ。今宵こそ仕損ずるとも是より後においては心許すまじき物を」とつぶやきつぶやきぞ行きける。御曹司是を見給ひて、何ともあれ、彼奴は山法師にてぞ有るらんと思召しければ、「山法師人の器量に似ざりけり」と宣へども、返事もせず。何ともあれ、築地より下り給はん所を切らんずるものをと思ひて待ちかけたり。築地よりゆらりと飛び下り給へば、弁慶太刀打ち振りてづと寄る。九尺の築地より下り給ひしが、下に三尺ばかり落ちつかで、又取つて返し上にゆらりと飛び返り給ふ。大国の穆王は六韜を読み、八尺の壁を踏んで天に上がりしをこそ上古の不思議と思ひしに、末代と雖も、九郎御曹司は六韜を読みて、九尺の築地を一飛びの中に宙より飛び返り給ふ。弁慶は今宵は空しく帰りけり。

弁慶義経に君臣の契約申す事

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頃は六月十八日の事なるに、清水の観音に上下参篭す。弁慶も何ともあれ、昨夕の男清水にこそ有るらんに、参りて見ばやと思ひて参りける。白地に清水の惣門に佇みて待てども見え給はず。今宵もかくて帰らんとする所に何時もの癖なれば、夜更けて清水坂の辺に例の笛こそ聞こえけれ。弁慶「あら面白の笛の音や、あれをこそ待ちつれ。此の観音と申すは、坂上田村丸の建立し奉りし御仏なり。我三十三身に身を変じて衆生の願ひを満てずは、祇園精舎の雲に交り、永く正覚を取らじと誓ひ、我地に入らん者には福徳を授けんと誓ひ給ふ御仏なり。されども弁慶は福徳も欲しからず、只此の男の持ちたる太刀を取らせて賜べ」と祈誓して、門前にて待ちかけたり。御曹司ともすればいぶせく思召しければ、坂の上を見上げ給ふに、彼の法師こそ昨日に引き替へて、腹巻著て、太刀脇挟み、長刀杖に突き待ちかけたり。御曹司見給ひて、曲者かな、又今宵も是に有りけるやと思ひ給ひて、少しも退かで門を指して上り給へば、弁慶「只今参り給ふ人は、昨日の夜天神にて見参に入りて候ふ御方にや」と申しければ、御曹司「さる事もや」と宣へば、「さて持ち給へる太刀をば賜び候ふまじきか」とぞ申しける。御曹司「幾度も只は取らすまじ。欲しくは寄りて取れ」と宣へば、「何時も強言は変はらざり」とて、長刀打ち振り、真下りに喚いて懸かる、御曹司太刀抜き合はせて懸かり給ふ。弁慶が大長刀を打ち流して、手並の程は見しかば、あやと肝を消す。さもあれ、手にもたまらぬ人かなと思ひけり。御曹司「終夜、斯くて遊びたくあれども、観音に宿願有り」とて打ち行き給ひぬ。弁慶独言に、「手に取りたるものを失ひたる心地する」とぞ申しける。御曹司、何ともあれ、彼奴は雄猛なる者なり。あはれ、暁まであれかし。持ちたる太刀長刀打ち落して、薄手負せて生捕にして、独り歩くは徒然なるに、相伝にして召し使はばやとぞ思召しける。弁慶此の企を知らず、太刀に目を懸けて、跡につきてぞ参りける。清水の正面に参りて、御堂の中を拝み奉れば、人の勤の声はとりどりなりと申せば、殊に正面の内の格子の際に、法華経の一の巻の始めを尊く読み給ふ声を聞きて、弁慶思ひけるは、あら不思議やな、此の経読みたる声は有りつる男の「憎い奴」と言ひつる声に、さも似たるものかなと、寄りて見んと思ひて持ちたる長刀をば正面の長押の上に差し上げて、帯きたる太刀ばかり持ちて、大勢の居たる中に、「御堂の役人にて候ふ。通させ給へ」とて人の肩をも嫌はず、押へて通りけり。御曹司御経遊ばして居給へる後ろに踏みはたかりて立ち上がりけり。御燈火の影より人是を見て、「あらいかめしの法師や、丈の高さよ」とぞ申しける。何として知りて是まで来たるらんと、御曹司は見給へども、弁慶は見付けず。只今までは男にておはしつるが、女の装束にて衣打ち被き居給ひたり。武蔵坊思ひわづらひてぞ有りける。中々是非無く推参せばやと思ひ、太刀の尻鞘にて、脇の下をしたたかに突き動かして、「児か女房か、是も参りにて候ふぞ。彼方へ寄らせ給へ」と申しけれども返事もし給はず。弁慶さればこそ、只者にては有らず。有りつる人ぞと思ひ、又したたかにこそ突いたりけれ。其の時御曹司仰せられけるは、「不思議の奴かな。己れが様なる乞食は木のした、萱の下にて申す共、仏の方便にてましませば、聞召し入れられんぞ。方々おはします所にて狼籍なり。其処退き候へ」と仰せられけれども、弁慶「情無くも宣ふものかな。昨日の夜より見参に入りて候ふ甲斐も無く、其方へ参り候はん」と申しもはたさず、二畳の畳を乗り越え、御傍へ参る。人推参尾篭なりと憎みける。斯かりける所に、御曹子の持ち給へる御経を追つ取つて、ざつと開いて、「あはれ御経や、御辺の経か、人の経か」と申しける。されども返事もし給はず、「御辺も読み給へ。我も読み候はん」と言ひて読みけり。弁慶は西塔に聞こえたる持経者なり。御曹司は鞍馬の児にて習ひ給ひたれば、弁慶が甲の声、御曹司の乙の声、入り違へて二の巻半巻ばかりぞ読まれたる。参り人のえいやづきもはたはたと鎮まり、行人の鈴の声も止めて、是を聴聞しけり。万々世間澄み渡りて尊く心及ばず、暫く有りて、「知る人の有るに立ち寄りて、又こそ見参せめ」とて立ち給ふ。弁慶是を聞きて、「現在目の前におはする時だにもたまらぬ人の、何時をか待ち奉るべき。御出候へ」とて、御手を取りて引き立て、南面の扉の下に行きて申しけるは、「持ち給へる太刀の真実欲しく候ふに、それ賜び候へ」と申しければ「是は重代の太刀にて叶ふまじ」「さ候はば、いざさせ給へ。武芸に付けて、勝負次第に賜はり候はん」と申しければ、「それならば参りあふべし」と宣へば、弁慶やがて太刀を抜く。御曹司も抜き合はせ、散々に打ち合ふ。人是を見て、「こは如何に。御坊の、是程分内もせばき所にて、しかも幼き人と戯れは何事ぞ。其の太刀差し給へ」と雖も、聞きも入れず、御曹司上なる衣を脱ぎて捨て給へば、下は直垂腹巻をぞ著給へる。此の人も只人にはおはせざりけりとて、人目をさます。女や尼童共、周章狼狽き、縁より落つるものも有り、御堂の戸を立て、入れじとするものも有り。されども二人の者はやがて舞台へ引いて、下り合うて、戦ひける。引いつ進んづ討ち合ひける間、始めは人も懼ぢて寄らざりけるが、後には面白さに行道をする様に付きてめぐり、是を見る。他人言ひけるは、「抑児が勝るか、法師が勝るか」「いや児こそ勝るよ。法師は物にても無きぞ。早弱りて見ゆるぞ」と申しければ、弁慶是を聞きて、「さては早我は下になるごさんなれ」とて、心細く思ひける。御曹司も思ひきり給ふ。弁慶も思ひきつてぞ討ち合ひける。弁慶少し討ちはづす所を御曹司走りかかつて切り給へば、弁慶が弓手の脇の下に切先を打ち込まれて、ひるむ所を太刀の脊にて、散々に討ちひしぎ、東枕に打ち伏して上に打ち乗り居て、「さて従ふや否や」と仰せられければ、「是も前世の事にてこそ候ふらん。さらば従ひ参らせん」と申しければ、著たる腹巻を御曹司重ねて著給ひ、二振の太刀を取り、弁慶を先に立てて、其の夜の中に山科へ具しておはしまし、傷を癒して、其の後連れて京へおはして、弁慶と二人して平家を狙ひ給ひける。其の時見参に入り始めてより、志又二つ無く身に添ひ、影の如く、平家を三年に攻め落し給ひしにも度々の高名を極めぬ。奥州衣川の最後の合戦まで御供して、遂に討死してんげる武蔵坊弁慶是なり。斯くて都には九郎義経、武蔵坊と言ふ兵を語らひて、平家を狙ふと聞こえ有りけり。おはしける所は四条の上人が許におはする由、六波羅へこそ訴へたり。六波羅より大勢押し寄せて、上人を捕る。其の時御曹司おはしけれども、手にもたまらず失ひ給ひけり。御曹司「此の事洩れぬ程にてあれ、いざや奥へ下らん」とて、都を出で給ひ、東山道にかかりて木曾が許におはして、「都の住居適はぬ間、奥州へ下り候へ。斯くて御渡り候へば、万事は頼もしくこそ思ひ奉れ。東国北国の兵を催し給へ。義経も奥州より差し合はせて、疾く疾く本意を遂げ候はんとこそ思ひ候へ。是は伊豆国近く候へば常に兵衛佐殿の御方へも御訪れ候へ」とて木曾が許より送られて、上野の伊勢三郎が許までおはしけれ。是より義盛御供して、平泉へ下りけり。

頼朝謀反の事

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治承四年八月十七日に頼朝謀反起こし給ひて、和泉の判官兼隆を夜討ちにして、同十九日相模国小早川の合戦に打ち負けて、土肥の杉山に引き篭り給ふ。大庭三郎、股野五郎、土肥の杉山を攻むる。廿六日の曙に伊豆国真名鶴崎より舟に乗りて、三浦を志して押し出だす。折節風はげしくて、岬へ船を寄せ兼ねて、二十八日の夕暮に安房国州の崎と言ふ所に御舟を馳せ上げて、其の夜は、滝口の大明神に通夜有りて、夜と共に祈誓をぞ申されけるに、明神の示し給ふぞと覚しくて、御宝殿の御戸を美しき御手にて押し開き、一首の歌をぞ遊ばしける。

源は同じ流れぞ石清水たれ堰き上げよ雲の上まで

兵衛佐殿夢打ち覚めて、明神を三度拝し奉りて、

源は同じ流れぞ石清水堰き上げて賜べ雲の上まで

と申して、明くれば州の崎を立ちて、坂東、坂西にかかり、真野の館を出で、小湊の渡して、那古の観音を拝して、雀島の大明神の御前にて形の如くの御神楽を参らせて、猟島に著き給ひぬ。加藤次申しけるは、「悲しきかなや。保元に為義切られ給ふ。平治に義朝討たれ給ひて後は、源氏の子孫皆絶え果てて弓馬の名を埋んで星霜を送り給ふ。偶々も源氏思ひ立ち給へば、不運の宮に与し参らせて、世を損じ給ふこそ悲しけれ」と申しければ、兵衛佐殿仰せられけるは、「斯く心弱くな思ひそ。八幡大菩薩如何でか思召し捨てさせ給ふべき」と諌め給ひけるこそ頼もしく覚ゆれ。さる程に三浦の和田小太郎、佐原十郎、久里浜の浦より小船に取り乗りて、宗徒の輩三百余人猟島へ参りて源氏に属く。安房国の住人丸太郎、安西の太夫、是等二人大将として五百余騎馳せ来たり源氏に属く。源氏八百余騎になり、いとど力付きて、鞭を上げて打つ程に、安房と上総の堺なる造海の渡をして、上総国讚岐の枝浜を馳せ急がせ給ひて、磯が崎を打ち通りて、篠部、いかひしりと言ふ所に著き給ふ。上総国の住人伊北、伊南、庁北、庁南、武射、山辺、畔隷、くはのかみの勢、都合一千余騎周淮川と言ふ所に馳せ来たつて、源氏に加はる。され共介の八郎は未だに見えず。私に広常申しけるは、「抑兵衛佐殿の安房、上総に渡りて二ケ国の軍兵を揃へ給ふなるに、未だ広常が許へ御使ひを賜はらぬこそ心得ね。今日待ち奉りて仰せ蒙らずは、千葉、葛西を催して、きさうとの浜に押し向ひて、源氏を引き立て奉らん」と議する処に、藤九郎盛長、褐の直垂に黒革威の腹巻に黒津羽の矢負ひ、塗篭藤の弓持ちて、介の八郎の許にぞ来たりける。「上総介殿に見参」と申しければ、兵衛佐殿の御使ひと申せば、嬉しさに、急ぎ出で合ひて対面す。御教書賜はり、拝見す。家の子郎等も差し遣はせよと仰せられんとこそ思ひつるに、「今まで広常が遅く参るこそ奇怪なれ」と書き給ひたるを打ち見て、「あはれ、殿の御書かな。斯くこそ有らまほしけれ」とて、則ち千葉介の許へ送る。葛西、豊田、うらのかみ、上総介の許へ馳せ寄りて、千葉、上総介を大将軍として、三千余騎開発の浜に馳せ来たり源氏につく。兵衛佐殿四万余騎になりて、上総の館に著き給ふ。斯くする程にこそ久しけれ。されども八ケ国は源氏に心有る国なりければ、我も我もと馳せ参る。常陸国には宍戸、行方、志田、東条、佐竹別当秀義、高市の平武者太郎、小野寺禅師道綱、上野国には大胡太郎、山上さゑよりの信高武蔵国には河越太郎重頼、小太郎重房同じき三郎重義、党には丹、横山、猪俣馳せ参る。畠山、稲毛は未だ参らず。秩父庄司に小山田別当は在京によりて参らず。相模国には本間、渋谷馳せ参る。大庭、股野、山内は参らず。治承四年九月十一日武蔵と下野の境なる松戸庄市河と言ふ所に著き給ふ。御勢八万九千とぞ聞こえける。此処に坂東に名を得たる大河一つ有り。此の河の水上は、上野国刀根庄、藤原と言ふ所より落ちて水上遠し。末に下りては在五中将の墨田河とぞ名付けたる。海より潮差し上げて、水上には雨降り、洪水岸を浸し流れたり。偏へに海を見る如く、水に堰かれて五日逗留し給ひ、墨田の渡両所に陣を取つて、櫓をかき、櫓の柱には馬を繋で、源氏を待ち懸けたり。兵衛佐殿は是を御覧じて、「彼奴首取れ」と宣へば、急ぎ櫓の柱を切り落して、筏にし、市河へ参り、葛西兵衛について、見参に入るべき由申したりけれども用ゐ給はず。重ねて申しければ、「如何様にも頼朝を猜むと思ふぞ。伊勢加藤次心許すな」と仰せられける。江戸太郎色を失ひける所に千葉介近所に有りながら如何有るべき。成胤申さんとて、御前に畏まつて、不便の事を申しければ、佐殿仰せられけるは、「江戸太郎八ケ国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢此の二三日水に堰かれて渡し兼ねたるに、水の渡に浮橋を組んで、頼朝が勢武蔵国王子板橋に付けよ」とぞ宣ひける。江戸太郎承りて「首を召さるるとも如何でか渡すべき」と申す所に千葉介葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井、栗川、亀無、牛島と申す所より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は江戸太郎が知行所なり。折節西国船の著きたるを数千艘取り寄せ、三日がうちに浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。佐殿神妙なる由仰せられ、さてこそ太日、墨田打ち越えて、板橋に著き給ひけり。

頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事

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さる程に佐殿の謀反奥州に聞こえければ、御弟九郎義経、本吉冠者泰衡を召して秀衡に仰せけるは、「兵衛佐殿こそ謀反起こして、八ケ国を打ち従へて、平家を攻めんとて都へ上り給ふと承りて候へ。義経かくて候ふこそ心苦しく候へ。追ひ付き奉りて、一方の大将軍をも望まばや」とぞ仰せられける。秀衡申しけるは、「今まで、君の思召し立たぬ御事こそ僻事にて候へ」とて、泉冠者を呼びて、「関東に事出で来、源氏打ち出で給ふなり。両国の兵共催せ」とぞ申しける。御曹司仰せられけるは、「千騎万騎も具足したく候へども、事延びては叶ふまじ」とて打ち出で給ふ。取り敢へざりければ、先づかつがつ三百余騎を奉りける。御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸房、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同じく四郎忠信是等を先として三百余騎馬の腹筋馳せ切り、脛の砕くるをも知らず、揉みに揉うで馳せ上る。阿津賀志の中山馳せ越え、安達の大城戸打ち通り、行方の原、ししちを見給へば、「勢こそ疎になりたるぞ」と仰せられけるに、「或いは馬の爪欠かせ、或いは脛を馳せ砕きて、少々道に止まり、是までは百五十騎御座候ふ」と申しければ、「百騎が十騎にならんまでも、打てや者共、後を顧るべからず」とて、とどろ馳けにて歩ませける。きづかはを打ち過ぎて、下橋の宿に著いて、馬を休ませて、絹河の渡して、宇都宮の大明神伏し拝み参らせ、室の八嶋を外に見て、武蔵国足立郡、小川口に著き給ふ。御曹司の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋に馳せ著きて、「兵衛佐殿は」と問ひ給へば、「一昨日是を発たせ給ひて候ふ」と申す。武蔵の国府の六所の町に著いて、「佐殿は」と仰せければ、「一昨日通らせ給ひて候ふ。相模の平塚に」とぞ申しける。平塚に著いて聞き給へば、「早足柄を越え給ひぬ」とぞ聞こえける。いとど心許無くて、駒を早めて打ち給ひける程に、足柄山を打ち越えて、伊豆の国府に著き給ふ。「佐殿は昨日此処を発ち給ひて、駿河国千本の松原、浮島が原に」と申しければ、さては程近しとて、駒を早め、急がれける。

巻第四

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頼朝義経対面の事

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九郎御曹司浮島が原に著き給ひ、兵衛佐殿の陣の前三町ばかり引き退いて、陣をとり、暫く息をぞ休められける。佐殿是を御覧じて「此処に白旗白印にて清げなる武者五六十騎ばかり見えたるは、誰なるらん、覚束なし。信濃の人々は木曾に随ひて止まりぬ。甲斐の殿原は二陣なり。如何なる人ぞ。本名実名を尋ねて参れ」とて堀弥太郎御使ひに遣はされ、家の子郎等数多引き具して参る。間を隔て弥太郎一騎進み出で申しけるは、「是に白印にておはしまし候ふは誰にて渡らせ給ひ候ふぞ。本名実名を確かに承り候へと鎌倉殿の仰せにて候ふ」と申しければ、其の中に廿四五ばかりなる男の色白く、尋常なるが、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧の裾金物打ちたるを著、白星の五枚兜に鍬形打つて猪頚に著、大中黒の矢負ひ、重藤の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗りたるが歩ませ出でて、「鎌倉殿も知召されて候ふ。童が名牛若と申し候ひしが、近年奥州に下向仕り候ひて居候ひつるが、御謀反の様承り、夜を日に継ぎて馳せ参じて候ふ。見参に入れて賜び候へ」と仰せられければ、堀弥太郎、さては御兄弟にてましましけりと馬より飛んで下り、御曹司の乳母子佐藤三郎を呼び出だして、色代有り。弥太郎一町ばかり馬を引かせけり。かくて佐殿の御前に参り、此の由を申しければ、佐殿は善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外に嬉しげにて、「さらば是へおはしまし候へ。見参せん」と宣へば、弥太郎やがて参り、御曹司に此の由を申す。御曹司も大きに悦び、急ぎ参り給ふ。佐藤三郎、同四郎伊勢三郎是等三騎召し連れて参らるる。佐殿御陣と申すは、大幕百八十町引きたりければ、其の内は八ケ国の大名小名なみ-居たり。各々敷皮にてぞ有りける。佐殿御座敷には畳一畳敷きたれ共、佐殿も敷皮にぞおはしける。御曹司は兜を脱ぎて童に著せ、弓取り直して、幕の際に畏まつてぞおはしける。其の時佐殿敷皮を去り、我が身は畳にぞ直られける。「それへそれへ」とぞ仰せらるる。御曹司しばらく辞退して敷皮にぞ直られける。佐殿御曹司をつくづくと御覧じて先づ涙にぞ咽ばれける。御曹司も其の色は知らね共、共に涙に咽び給ふ。互に心の行く程泣きて後、佐殿涙を抑へて、「扨も頭殿に後れ奉りて、其の後は御行方を承り候はず。幼少におはし候ふ時、見奉りしばかり也。頼朝池の尼の宥められしによりて、伊豆の配所にて伊東、北条に守護せられ、心に任せぬ身にて候ひし程に奥州へ御下向の由はかすかに承つて候ひしかども、音信だにも申さず候ふ。兄弟有りと思召し忘れ候はで、取り敢へず御上り候ふ事、申し尽くし難く悦び入り候ふ。是御覧候へ。斯かる大功をこそ思ひ企てて候へ、八ケ国の人々を始めとして候へども、皆他人なれば身の一大事を申し合はする人もなし。皆平家に相従ひたる人々なれば、頼朝が弱げを守り給ふらんと思へば、夜も夜もすがら平家の事のみ思ひ、又ある時は、平家の討手上せばやと思へども、身は一人なり。頼朝自身進み候へば、東国覚束なし。代官上せんとすれば、心安き兄弟もなし。他人を上せんとすれば、平家と一つに成りて、返つて東国をや攻めんと存ずる間、それも叶ひ難し。今御辺を待ち付けて候へば、故左馬頭殿生き返らせ給ひたる様にこそ存じ候へ。我等が先祖八幡殿の後三年の合戦にむなうの城を攻められしに、多勢皆亡ぼされて、無勢になりて、厨河のはたに下り下りて、幣帛を俸げて王城を伏し拝み、「南無八幡大菩薩御覚えを改めず、今度の寿命を助けて本意を遂げさせて給べ」と祈誓せられければ、誠に八幡大菩薩の感応にや有りけん、都におはする御弟刑部丞内裏に候ひけるが、俄に内裏を紛れ出で、奥州の覚束無きとて、二百余騎にて下られける。路次にて勢打ち加はり、三千余騎にて厨河に馳せ来たつて、八幡殿と一つになりて遂に奥州を従へ給ひける。其の時の御心も、頼朝御辺を待ち得参らせたる心も、如何でか是に勝るべき。今日より後は魚と水との如くにして、先祖の恥をすすぎ、亡魂の憤りを休めんとは思召されずや。御同心も候はば、尤も然るべし」と宣ひも敢へず、涙を流し給ひけり。御曹司兎角の御返事も無くして、袂をぞ絞られける。是を見て大名小名互ひの心の中推量られて、皆袖をぞ濡らされける。暫く有りて、御曹司申されけるは、「仰せの如く、幼少の時御目にかかりて候ひけるやらん。配所へ御下りの後は、義経も山科に候ひしが、七歳の時鞍馬へ参り、十六まで形の如く学問を仕り、さては都に候ひしが、内々平家方便を作る由承り候ひし間、奥州へ下向仕りて、秀衡を頼み候ひつるが、御謀反の由承りて、取り敢ず馳せ参る。今は君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候ふ心地してこそ存じ候へ。命をば故頭殿に参らせ候ふ。身をば君に参らする上は、如何仰せに従ひ参らせでは候ふべき」と申しも敢へず、又涙を流し給ひけるこそ哀れなれ。さてこそ此の御曹司を大将軍にて上せ給ひけり。

義経平家の討手に上り給ふ事

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御曹司寿永+三年に上洛して平家を追ひ落し、一谷、八嶋、壇浦、所々の忠を致し、先駆け身をくだき、遂に平家を攻め亡ぼして、大将軍前の内大臣宗盛父子を生捕り、三十人具足して上洛し、院内の見参に入つて後、去ぬる元暦+元年に検非違使五位尉になり給ふ。大夫判官、宗盛親子具足して、腰越に著き給ひし時、梶原申しけるは、「判官殿こそ大臣殿父子具足して、腰越に著かせ給ひて候ふなれ。君は如何御計らひ候ふ。判官殿は身に野心を挟みたる御事にて候ふ。其の儀如何にと申すに一谷の合戦に庄三郎高家、本三位の中将生捕り奉り、三河殿の御手に渡りて候ふを、判官大きに怒り給ひて、三河殿は大方の事にてこそあれ、義経が手にこそ渡すべきものを、奇怪の者の振舞かな。寄て討たんと候ひしを、景時が計らひに土肥次郎が手に渡してこそ判官は静まり給ひしか。其の上「平家を打ち取りては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし。地に二人の王なしと雖も、此の後は二人の将軍や有らんずらん」と仰せ候ひしぞかし。かくて武功の達者一度も慣れぬ船軍にも風波の難を恐れず、舟端を走り給ふ事鳥の如し。一谷の合戦にも城は無双の城なり。平家は十万余騎なり。味方は六万五千余騎なり。城は無勢にて寄手は多勢こそ、軍の勝負は決し候ふに、是は城は多勢、案内者寄手は無勢、不案内の者共なり。容易く落つべきとも見え候はざりしを、鵯鳥越とて鳥獣も通ひ難き巌石を無勢にて落し、平家を遂に追ひ落し給ふ事は凡夫の業ならず。今度八嶋の軍に大風にて浪おびたたしくて、船の通ふべき様も無かりしを、只船五艘にて馳せ渡し、僅に五十余騎にて、憚る所無く八嶋の城へ押し寄せて、平家数万騎を追ひ落し、壇浦の詰軍までも遂に弱げを見せ給はず。漢家本朝にも是程の大将軍如何であるべきとて、東国西国の兵共一同に仰ぎ奉る。野心を挿みたる人にておはすれば、人ごとに情をかけ、侍までも目をかけられし間、侍共「あはれ侍の主かな。此の殿に命を奉る事は塵よりも惜しからじ」と申して、心をかけ奉りて候ふ。それに左右無く鎌倉中へ入れ参らせ給ひて御座候はん事いぶせく候ふ。御一期の程は君の御果報なれば、さり共と存じ候ふ。御子孫の世には如何候はんずらん。又御一期と申しても何とか御座候はん」と申しければ、君此の由を聞召して、「梶原が申す事は偽などは有らじなれども、一方を聞きて相計らはん事は政道のけがるる所也。九郎が著きたるなれば、明日是にて梶原に問答せさせ候ふべし」とぞ仰せられける。大名小名是を聞きて、「今の御諚の如くにては、判官もとより誤り給はねば、若し助かり給ふ事も有りなん。されども景時が逆櫓立てんとの論の止まざる所に壇浦にて互に先駆け争ひて、矢筈を取り給ひし、其の遺恨に斯様に讒言申せば、遂には如何有らんずらん」と申しける。召し合はせんと仰せられ、言ふ時に梶原甘縄の宿所に帰りて、偽申さぬ由起請を書きて参らせければ、此の上はとて大臣殿をば腰越より鎌倉に受け取り、判官をば腰越に止めらるる。判官「先祖の恥を清め、亡魂の憤りを休め奉る事は本意なれども、随分二位殿の気色に相適ひ奉らんとてこそ身を砕きては振舞ひしか、恩賞に行はれんずるかと思ひつるに、向顔をだにも遂げられざる上は日頃の忠も益なし。あはれ、是は梶原奴が讒言ごさんなれ。西国にて切りて捨つべき奴を、哀憐を垂れ助け置きて、敵となしぬるよ」と後悔し給へども、甲斐ぞ無き。鎌倉には二位殿、河越太郎を召して、「九郎が院の気色良き儘に、世を乱さんと内々企むなり。西国の侍共付かぬ先に、腰越に馳せ向ひ候へ」と仰せられければ、河越申されけるは、「何事にても候へ、君の御諚を背き申すべきにては候はず候へ共、且は知召して候ふ様に女にて候ふ者を判官殿の召し置かれて候ふ間、身に取りては痛はしく候ふ。他人に仰せ付けられ候へ」と申し捨ててぞ立たれける。理なれば重ねても仰せ出だされず、又畠山を召して仰せられけるは、「河越に申し候へば、親しくなり候ふとて、叶はじと申す。さればとて世を乱さんと振舞ひ候ふ九郎を、其の儘置くべき様なし。御辺打ち向ひ給ひ候ふべし。吉例なり。さも候はば伊豆駿河両国を奉らん」と仰せられければ、畠山万に憚らぬ人にて申されけるは、「御諚背き難く候へ共、八幡大菩薩の御誓にも、人の国より我が国、他の人よりも我が人をこそ守らんとこそ承り候へ。他人と親きとを比ぶれば、譬ふる方なし。梶原と申すは一旦の便によりて召し使はるる者なり。彼が讒言により、年来の忠と申し、御兄弟の御仲と申し、たとひ御恨み候ふ共、九国にても参らさせ給ひて、見参とて、重忠に賜はり候はんずる伊豆駿河両国を勧賞の引手物に参らせ給ひて、京都の守護に置き参らせ給ひ候ひて、御後ろを守らさせ給ひて候はん程の御心安き事は何事か候ふべき」と憚る所無く申し捨てて立たれける。二位殿理と思召しけるにや、其の後は仰せ出ださるる事もなし。腰越には此の事を聞き給ひて、野心を挿まざる旨数通の起請文を書き進じられけれ共、猶御承引無かりければ重ねて申状をぞ参らせられける。

腰越の申状の事

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源義経恐れ乍ら申し上げ候ふ意趣は、御代官の其の一つに撰ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、会稽の恥辱を雪ぐ。勲賞行はるべき所に、思ひの外に虎口の讒言に依つて莫大の勲功を黙止せらる。義経犯す事なうして、咎を蒙り、誤りなしと雖も、功有りて御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。

倩々事の意を案ずるに、以て良薬口に苦く、忠言耳に逆らう、先言なり。茲に因って、讒者の実否を糾されず、鎌倉中へだに入れられざる間、素意を述ぶるに能はず。徒らに数日を送る。此の時に当たつて永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀既に絶え、宿運極めて空しきに似たるか、将又先世の業因を感ずるか。悲しき哉、此の条、故亡父尊霊再誕し給はずむば、誰の人か愚意の悲嘆を申し披かん、何れの人か哀憐を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚を父母に受け、幾の時節を経ずして、故頭殿御他界の間、孤子となつて、母の懐の中に抱かれて、大和国宇陀郡に赴きしより以来、一日片時も安堵の思ひに住せず、甲斐無き命は存ずと雖も、京都の経廻難治の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖として、土民百姓等に服仕せらる。

然れども幸慶忽ちに純熟して、平家の一族追討の為に上洛せしむる。先づ木曾義仲を誅戮の後平家を攻め傾けんが為に、或る時は峨々たる巌石に駿馬に策つて、敵の為に命を亡ぼさん事を顧みず。或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、屍を鯨鯢の腮に懸く。加之甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併ら亡魂の憤を休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は他事なし。

剰へ義経五位尉に補任の条、当家の重職、何事か是に如かん。然りと雖も今の愁深く歎切なり。仏神の御助に非ずは、争か愁訴を達せん。是に因つて、諸寺諸社の牛王宝印の御裏を以て全く野心を挿まざる旨、日本国中の大小の神祇冥道を請じ、驚かし奉つて、数通の起請文を書き進ずと雖も、猶以て御宥免なし。

夫我が国は神国なり。神は非礼を享け給ふべからず。憑む所他に有らず。偏へに貴殿広大の御慈悲を仰ぎ、便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計を廻らして、誤無き旨を宥ぜられ、芳免に預からば、積善の余慶家門に及び、栄華を永く子孫に伝へ、仍つて年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に尽くさず、併ら省略せしめ候ひ畢んぬ。義経恐惶謹言。

元暦十二年六月五日 源義経進上 因幡守殿へ

とぞ書かれたる。是を聞召して、二位殿を始め奉りて御前の女房達に至るまで、涙をぞ流されける。扨こそ暫く差し置かれけれ。判官は都に院の御気色よくて、京都の守護には義経に過ぎたる者有らじと言ふ御気色なり。万事仰ぎ奉る。かくて秋も暮れ、冬の初めにもなりしかば、梶原が憤安からずして、頻に讒言申しければ、二位殿さもとや思はれける。

土佐坊義経の討手に上る事

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二階堂の土佐坊召せとて召されける。鎌倉殿四間所におはしまして、土佐坊召され参る。梶原「土佐坊参りて候ふ」と申しければ、鎌倉殿「是へ」と召す。御前に畏まる。源太を召して、「土佐に酒」とぞ仰せられける。梶原殊の外にもてなしけり。鎌倉殿仰せられけるは、「和田畠山に仰せけれども、敢て是を用ゐず。九郎が都に居て院の御気色良きにより、世を乱さんとする間、河越太郎に仰せけれども、縁あればとて用ゐず。土佐より外に頼むべき者なし。しかも都の案内者なり。上りて九郎打ちて参らせよ。其の勲功には安房上総賜ぶ」とぞ仰せられける。土佐申しけるは、「畏まり承り候ふ。御一門を亡ぼし奉れと仰せ蒙り候ふこそ嘆き入り存じ候ふ」と申しければ、鎌倉殿気色大きに変はり、悪しく見えさせ給へば、土佐謹んでこそ候ひける。重ねて仰せられけるは、「さては九郎に約束したる事にや」と仰せられければ、土佐思ひけるは、詮ずる所、親の首を斬るも君の命なり。上と上との合戦には侍の命を捨てずしては打つべきに有らずと思ひ、「さ候はば仰せに従ひ候はん。恐にて候へば、色代ばかり」と申す。鎌倉殿「さればこそ、土佐より外に誰か向ふべきと思ひつるに少しも違はず。源太是へ参り候へ」と仰せられければ畏まつてぞ居たりける。「有りつる物は如何に」と仰せ有りければ、納殿の方よりして、身は一尺+二寸有りける手鉾の蛭巻白くしたるを細貝を目貫にしたるを持つて参る。「土佐が膝の上に置け」とぞ宣ひける。「是は大和の千手院に作らせて秘蔵して持ちたれども、頼朝が敵討つには柄長きものを先とす。和泉判官を討ちし時に、容易く首を取つて参らせたりしなり。是を持ちて上り、九郎が首を刺し貫き参らせよ」と仰せられけるは、情無くぞ聞こえける。梶原を召して、「安房、上総の者共、土佐が供せよ」とぞ仰せられける。承りて、詮無き多勢かな、させる寄合の楯つき軍はすまじい、狙ひ寄りて夜討にせんと思ひければ、「大勢は詮無く候ふ。土佐が手勢ばかりにて上り候はん」と申す。「手勢は如何程あるぞ」と宣へば、「百人ばかりは候ふらん」「さては不足なし」とぞ仰せられける。土佐思ひけるは、大勢を連れ上りなば、若し為果せたらん時、勲功を配分せざらんも悪し。為んとすれば安房、上総、畠多く田は少なし、徳分少なくて不足なりと、酒飲む片口に案じつつ、御引出物賜はりて、二階堂に帰り、家の子郎等呼びて申しけるは、「鎌倉殿より勲功をこそ賜はつて候へ。急ぎ京上りして所知入せん。疾く下りて用意せよ」とぞ申しける。「それは常々の奉公か。又何によりての勲功候ぞ」と申せば、「判官殿の討ちて参らせよとの仰せ承りて候ふ」と言ひければ、物に心得たる者は、「安房、上総も命有りてこそ取らんずれ。生きて二度帰らばこそ」と申す者も有り。或いは「主の世におはせば、我等もなどか世にならざるらん」と勇む者も有り。されば人の心は様々なり。土佐はもとより賢き者なれば、打ち任せての京上りの体にては叶ふまじとて、白布を以て、皆浄衣を拵へて、烏帽子に四手を付けさせ、法師には頭巾に四手を付け、引かせたる馬にも尾髪に四手付け、神馬と名づけ引きける。鎧腹巻唐櫃に入れ、粗薦に包み、注連引き熊野の初穂物と言ふ札を付けたり。鎌倉殿の吉日、判官殿の悪日を選びて、九十三騎にて鎌倉を立ち、其の日は酒匂の宿にぞ著きたりける。当国の一の宮と申すは、梶原が知行の所なり。嫡子の源太を下して、白栗毛なる馬白葦毛なる馬二疋に、白鞍置かせてぞ引きたる。是にも四手を付け、神馬と名づけたり。夜を日に継ぎて打つ程に、九日と申すに京へ著く。未だ日高しとて、四の宮河原などにて日を暮し、九十三騎三手に分けて、白地なる様にもてなし、五十六騎にて我が身は京へ入り、残りは引き下りてぞ入りにける。祇園大路を通りて、河原を打ち渡りて、東洞院を下りに打つ程に、判官殿の御内に信濃国の住人に江田源三と言ふ者有り。三条京極に女の許に通ひけるが、堀河殿を出でて行く程に、五条の東洞院にて鼻突にこそ行き会ひたれ。人の屋陰の仄暗き所にて見ければ、熊野詣と見なして、何処の道者やらんと、先陣を通して後陣を見れば、二階堂の土佐と見なして、土佐が此の頃大勢にて熊野詣すべしとこそ覚えねと思ひ案ずるに、我等が殿と鎌倉殿と下心よくもおはせざる間、寄りて問はばやと思ひけれども、有りの儘にはよも言はじ。中々知らぬ顔にて、夫奴を賺して問はばやと思ひて待つ所に、案の如く後れ馳せの者共、「六条の坊門油小路へは何方へ行くぞ」と問ひければ、云々に教へけり。江田追ひ著きて、「何の国に誰と申す人ぞ」と問ひければ、「相模国二階堂の土佐殿」とぞ申しける。後に来る奴原の佗びけるは、「さもあれ、只身の一期の見物は京とこそ言へ、何ぞ日中に京入はせで、道にて日の暮し様ぞ。我等共物は持ちたり、道は暗し」と呟きければ、今一人が言ひけるは、「心短き人の言ひ様かな。一日も有らば見んずらん」と言ひければ、今一人の夫が言ひけるは、「和殿原も今宵ばかりこそ静ならんずれ。明日は都は件の事にて大乱にて有らんずれ。されば我々までも如何有らんずらんと恐ろしきぞ」も申しければ、源三是を聞きて、是等が後に付きて物語をぞしたりけれ。「是も地体相模国の者にて候ふが、主に付きて在京して候ふが、我が国の人と聞けばいとどなつかしきぞや」なんどと賺されて、「同国の人と聞けば申し候ふぞ。げに鎌倉殿の御弟九郎判官殿を討ち参らせよとの討手の使ひを賜はつて上られ候ふ。披露は詮無く候ふ」と申しける。江田是を聞きて、我が宿所へ行くに及ばず、走り帰りて、堀河にて此の由を申す。判官少しも騒がず、「遂にしてはさこそ有らんずらん。さりながら御辺行き向ひて、土佐に言はんずる様は、「是より関東に下したる者は、京都の仔細を先に鎌倉殿へ申すべし。又関東より上らん者は、最前に義経が許に来たりて、事の仔細を申すべき所に、今まで遅く参る尾篭なり。急度参るべき」と、時刻を移さず召して参れ」と仰せられける。江田承りて、土佐が宿所、油小路に行きて見れば、皆馬共鞍下し、すそ洗ひなどしける。兵五六十人並居て、何とは知らず評定しける。土佐坊脇息にかかりてぞ居ける。江田行きて、仰せ含めらるる旨を言ひければ、土佐陳じ申しける様は、「鎌倉殿の代官に熊野参詣仕り候ふ。さしたる事は候はねども、最前に参じ候はんと存じ候ふ所に、途より風の心地にて候ふ間、今夜少し労り、明日参じて御目にかかり候ふべき旨、只今子にて候ふ者を進じ候はんと仕り候ふ。折節御使畏まり入り候ふ由申させ給へ」と申しければ、江田帰りて此の由を申す。判官日頃は侍共に向ひては、荒言葉をも宣はざりしが、今は大きに怒つて、「事も事にこそ依れ、異議を言はする事は、御辺の臆めたるに依つてなり。あれ程の不覚人の弓矢取る奉公をするか。其処罷り立ち候へ。向後義経が目にかかるな」とぞ仰せられける。宿所に帰り候はんとしけるが、此の事を聞きながら帰りては、臆めたるべしと帰らざりけり。武蔵、御酒盛半に、宿所へ帰りけるが、御内に人も無くやあるらんと思ひて参りたり。判官御覧じて、「いしうおはしたり。只今かかる不思議こそあれ。源三と言ふのさ者を遺はしたれば、あれが返事に従ひて帰り来たれる間、鼻を突かせて行方を知らず、御辺向ひて、土佐を召して参れ」と仰せ有りければ、畏まつて、「承り候ふ。もとより弁慶に仰せ蒙り候はん事を」とて、やがて出で立つ。「侍共数多召し具すべきか」と仰せられければ、弁慶「人数多にては敵が心づけ候はん」と出仕直垂の上に黒革威の鎧、五枚兜の緒を締め、四尺+五寸の太刀帯いて、判官の秘蔵せられたりける大黒と言ふ馬に乗り、雑色一人ばかり召し具して、土佐が宿へぞ打ち入りける。壷の中縁の際まで打ち寄せて、縁にゆらりと下り、簾をざつと打ち上げて見れば、郎等共七八十人座敷に列りて、夜討の評定する所に、弁慶多くの兵共の中を色代に及ばず踏み越えて、土佐が居たる横座にむずと鎧の草摺を居懸けて、座敷の体を睨み廻し、其の後土佐をはたと睨み、「如何に御辺は如何なる御代官なりとも、先づ堀河殿へ参りて、関東の仔細を申さるべきに、今まで遅く参る、尾篭の致る所ぞ」と言ひければ、土佐仔細を述べんとする所に、弁慶言はせも果てず、「君の御酒けにてあるぞ。鼻突き給ふな。いざさせ給へ」と手を取つて引つ立つる。兵共色を失ひて、土佐思ひ切らば、打ち合はんずる体なれ共、土佐が色損じて返答に及ばず、「やがて参り候はん」と申しける上は、侍共力及ばず、「暫く。馬に鞍置かせん」と言ひけるを、「弁慶が馬の有る上、今まで乗りつる馬に鞍置きて何にせん。早乗り給へ」とて、土佐も大力なれども、弁慶に引き立てられて、縁の際まで出でにけり。弁慶が下部心得て、縁の際に馬引き寄せたり。弁慶土佐を掻き抱き、鞍壷にがはと投げ乗せ、我が身も馬の尻にむずと乗り、手綱土佐に取らせて叶はじと思ひ、後ろより取り、鞭に鐙を合はせて、六条堀川に馳せ著き、此の由申し上げたりければ、判官南向の広廂に出で向ひ給ひて、土佐を近く召して、事の仔細を尋ねらる。土佐陳じ申しける様は、「鎌倉殿の御代官に熊野へ参り候ふ。明日払暁に参り候はんとて、今宵風の心地にて候ふ間、参ら/ず候ふ所に、御使重なり候ふ程に、恐れ存じ候ひて参りて候ふなり」。判官、「汝は義経追討の使とこそ聞く。争か争ふべき」。土佐、「努々存じ寄らざる事に候ふ。人の讒言にてぞ候ふらん。何れか君にて渡らせ給はぬ。権現定めて知見し坐し候はん」と申せば、「西国の合戦に疵を蒙り、未だ其の疵癒えぬ輩が、生疵持ちながら熊野参詣に苦しからぬか」と仰せられければ、「然様の人一人も召し具せず候ふ。熊野のみつの御山の間、山賊満ち満ちて候ふ間、若き奴原少々召し具して候ふ。それをぞ人の申し候はん。」判官、「汝が下部共の「明日京都は大戦にて有らんずるぞ」と言ひけるぞ。其はやは争ふ」と仰せられければ、土佐、「斯様に人の無実を申し付け候はんに於ては、私には陳じ開き難く候ふ。御免蒙り候ひて、起請を書き候はん」と申しければ、判官「神は非礼を享け給はずと言へば、よくよく起請を書け」とて、熊野の牛王に書かせ、「三枚は八幡宮に収め、一枚は熊野に収め、今三枚は土佐が六根に収めよ」とて焼いて飲ませ、此の上はとて許されぬ。土佐許されて出でざまに、「時刻移してこそ冥罰も神罰も蒙らめ。今宵をば過ぐすまじき物を」と思ひける。宿へ帰りて、「今宵寄せずは、叶ふまじきぞや」とて、各々犇めきける。判官の御宿には、武蔵を初めとして侍共申しけるは、「起請と申すは、小事にこそ書かすれ、是程の事に今宵は御用心あるべく候ふ」と申せば、判官、さらぬ体にて、「何事か有らん」と、事もなげにぞ仰せられける。「さりながら、今宵打ち解くる事候ふまじ」と申せば、判官、「今宵何事も有らば、只義経に任せよ。侍共皆々帰れ」と仰せられければ、各々宿所へぞ帰りける。判官は宵の酒盛に酔ひ給ひて、前後も知らず臥し給ふ。其の頃判官は静と言ふ遊女を置しき者にて、「是程の大事を聞きながら、斯様に打ち解け給ふも、只事ならぬ事ぞ」とて、端者を土佐が宿所へ遣はして、景気を見する。端者行きて見るに、只今兜の緒を締め、馬引つ立て、既に出でんとす。猶立ち入りて奥にて見すまして申さんとて、震ひ震ひ入る程に、土佐が下部是を見て、「此処なる女は只者ならず」と申しければ、「さもあるらん、召し捕れ」とて、彼の「女を捕へ、上げつ下しつ拷問す。暫くは落ちざりけれども、余りに強く攻められて、有りの儘に落ちにける。斯様の者を許しては悪しかるべしとて、斬りにけり。土佐が勢百騎、白川の印地五十人相語らひ、京の案内者として、十月十七日の丑の刻許りに六条堀河に押し寄せたり。判官の御宿所には、今宵は夜も更け、何事もあるまじきと各々宿へ帰る。武蔵坊、片岡六条なる宿へ行きてなし。佐藤四郎、伊勢三郎室町なる女の許へ行きてなし。根尾、鷲尾堀川の宿へ行きてなし。其の夜は下部に喜三太ばかりぞ候ひける。判官も其の夜は更くるまで酒盛して、東西をも知らず臥し給ひける。斯かる所に押し寄せ、鬨をつくる。され共御内には人音もせず。静敵の鯨波の声に驚き、判官殿を引き動かし奉り、「敵の寄せたる」と申せども、前後も知り給はず。唐櫃の蓋を開けて、著長引き出だし、御上に投げ掛けたりければ、がはと起き、「何事ぞ」と宣へば、「敵寄せて候ふ」ぞと申せば、「あはれ女の心程けしからぬ物はなし。思ふに土佐こそ寄せたるらめ。人は無きか、あれ斬れ」とぞ仰せられける。「侍一人もなし。宵に暇賜はつて、皆々宿へ帰り候ひぬ」と申せば、「さる事有らん。さるにても男は無きか」と仰せられければ、女房達走り廻りて、下部に喜三太ばかりなり。喜三太参れと召されければ、南面の沓脱に畏まつてぞ候ひける。「近ふ参れ」と召しけれ共、日頃参らぬ所なれば、左右無く参り得ず。「彼奴は時も時にこそよれ」と仰せられければ、蔀の際まで参りたり。「義経が風の心地にて、惘然とあるに、鎧著て馬に乗りて出でん程、出で向ひて、義経を待ち付けよ」と仰せられける。「承り候ふ」とて、喜三太走り向ひ、大引両の直垂に、逆沢瀉の腹巻著て、長刀ばかりをおつ取り、縁より下へ飛んで下りけるが、「あはれ御出居の方に、人の張替の弓や候ふらん」と申せば、「入りて見よ」と仰せける。走り入りて見ければ、白箆に鵠の羽を以て矧ぎたる、沓巻の上十四束に拵へて、白木の弓の握太なるを添へてぞ置きたる。あはれ、物やと思ひて、出居の柱に押し当て、えいやと張り、鐘を撞く様に、弦打ちやうちやうどして、大庭にぞ走り出でけり。下も無き下郎なりけれども、純友、将門にも劣らず、弓矢を取る事、養由を欺く程の上手なり。四人張りに十四束をぞ射ける。我が為にはよしと悦びて、門外に向ひ出でて、閂/の-木を外し、扉の片方押し開き、見ければ、星月夜のきらめきたるに、兜の星もきらきらとして、内冑透きて射よげにぞ見えたりける。片膝付いて、矢継早に指し詰め引き詰め散々に射る。土佐が真先駆けたる郎等五六騎射落し、矢場に二人失せにけり。土佐叶はじとや思ひけん、ざつと引きにけり。「土佐穢し。かくて鎌倉殿の御代官はするか」とて、扉の蔭に歩ませ寄て申しけるは、「今宵の大将軍は誰がしが承りたるぞ。名告り給へ。闇討ち無益なり。かく申すは鈴木党に、土佐坊昌俊なり。鎌倉殿の御代官」と名告りけれども、敵の嫌ふ事も有りと思ひ、音もせず。判官大黒と言ふ馬に金覆輪の鞍置かせて、赤地の錦の直垂に、緋威の鎧、鍬形打つたる白星の兜の緒を締め、金作りの太刀帯いて、切斑の征矢負ひて、滋籐の弓の真中握り、馬引き寄せ、召して、大庭に駆け出で、鞠の懸にて、「喜三太と召しければ、喜三太申しけるは、「下無き下郎、心剛なるによつて、今夜の先駆承つて候ふ。喜三太と申す者なり。生年廿三、我と思はん者は寄りて組め」とぞ申しける。土佐是を聞きて、安からず思ひければ扉の隙より狙ひ寄りて、十三束よつ引いてひやうど射る。喜三太が弓手の太刀打を羽ぶくらせめてつと射通す。かいかなぐりて捨て、喜三太弓をがはと投げ棄て、大長刀の真中取つて、扉左右へ押し開き、敷居を蹈まへて待つ所に敵轡を並べて喚いて駆け入る。以て開いて散々に斬る。馬の平首、胸板、前の膝を散々に斬られて、馬倒れければ、主は倒まに落つる所を長刀にて刺し殺し、薙ぎ殺す。斯かりければ、それにて多く討たれたり。されども大勢にて攻めければ、走り帰つて御馬の口に縋る。差し覗き、御覧ずれば、胸板より下は血にぞなりたる。「汝は手を負うたるか」「さん候」と申す。「大事の手ならば退け」と仰せられければ、「合戦の場に出でて死ぬるは法」と申せば、「彼奴は雄猛者」とぞ宣ひける。「何ともあれ、汝と義経とだに有らば」とぞ仰せられける。され共判官も駆け出で給はず。土佐も左右無く駆けも入らず。両方軍はしらけたる所に武蔵坊六条の宿所に臥したりけるが、今宵は何とやらん、夜が寝られぬぞや。さても土佐が京にあるぞかし。殿の方覚束なし。廻りて帰らばやと思ひければ、草摺のしどろなる、兵土鎧の札良きに大太刀帯き、棒打ち突きて、高足駄履きて、殿の方へからりからりとしてぞ参りける。大門は閂/の-木を鎖されたるらんと思ひて、小門より差し入り、御馬屋の後ろにて聞きければ、大庭に馬の足音六種震動の如し。あら心憂や、早敵の寄せたりける物をと思ひて、御馬屋に差し入りて見れば、大黒はなし。今宵の軍に召されけると思へば、東の中門につと上りて見れば、判官喜三太ばかり御馬副にて、只一騎控へ給へり。弁慶是を見て、「あら心安や、さりながら憎さも憎し。さしも人の申しつるを聞き給はで、胆潰し給ひ候はん」と呟き言して、縁の板踏みならし、西へ向きてどうどうと行きける。判官あはやと思召して、差し覗き見給へば、大の法師の鎧著たるにてぞ有りける。土佐奴が後ろより入りけるかとて、矢差し矧げて馬打ち寄せ、「あれに通る法師は誰か。名告れ。名告らで誤ちせられ候ふな」と仰せられけれ共、札良き鎧なりければ、左右無く裏は掻かじなどと思ひて、音もせず。射損ずる事も有りと思召し、矢をば箙に差し、太刀の柄に手を掛け、すはと抜いで、「誰ぞ、名告らで斬らるな」とてやがて近づき給へば、「此の殿は打物取りては樊■、張良にも劣らぬ人ぞ」と思ひて、「遠くは音にも聞き給へ。今は近し、目にも見給へ。天児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とて、判官と御内に一人当千の者にて候ふ」とぞ申しける。判官「興ある法師の戯かな、時にこそよれ」とぞ仰せられける。「さは候へども、仰せ蒙り候へば、此処にて名告り申すべき」と猶も戯をぞ申しける。判官、「されば土佐奴に寄せられたるぞ」。弁慶、「さしも申しつる事を聞召し入れ候はで、御用心なども候はで、左右無く彼奴原を門外まで、馬の蹄を向けさせぬるこそ安からず候へ」と申しければ、「如何にもして彼奴を生捕つて見んずる」と仰せられければ、「只置かせ給へ。しやつが有らん方に弁慶向ひて、掴んで見参に入れ候はん」と申しければ、「人を見て、人を見るにも弁慶が様なる人こそ無けれ。喜三太奴に軍せさせたる事は無けれども、軍には誰にも劣らじ。大将軍は御辺に奉るぞ。軍は喜三太奴にせさせよ」と仰せられける。喜三太櫓に上がりて、大音上げて申しけるは、「六条殿に夜討ち入りたり。御内の人々は無きか。在京の人は無きか。今夜参らぬ輩は、明日は謀反の与党たるべし」と呼ばはりける。此処に聞き付け、彼処に聞き付け京白川一つになりて騒動す。判官殿の侍共を始めとして、此処彼処より馳せ来たる。土佐が勢を中に取り篭めて散々に攻む。片岡八郎、土佐が勢の中に駆け入りて、首二つ、生捕り三人して見参に入る。伊勢三郎、生捕り二人、首三つ取りて参らする。亀井六郎、備前平四郎二人討ちて参る。彼等を始めとして、生捕り分捕思ひ思ひにぞしける。其の中にも軍の哀れなりしは、江田源三にて止めたり。宵には御不審にて京極に有りけるが、堀河殿に軍有りと聞きて、馳せ参り、敵二人が首取りて、「武蔵坊、明日見参に入れて賜び候へ」と言ひて、又軍の陣に出でけるが、土佐が射ける矢に首の骨箆中責めてぞ射られける。矧げたる矢を打ち上げて、引かん引かんとしけるが、只弱りにぞ弱りける。太刀を抜き、杖に突き、はうはう参り、縁へ上がらんとしけれども、上がり兼ねて、「誰か御渡り候ふ」と申しければ、御前なる女房立ち出でて、「何事ぞ」と答へければ、「江田源三にて候ふ。大事の手負うて、今を限りと存じ候ふ。見参に入れて賜び候へ」と申しければ、判官是を聞き給ひて、浅ましげに思召して、火を点し差し上げて御覧ずれば、黒津羽の矢の夥しかりけるを、射立てられてぞ伏したりける。判官、「如何に人々」と仰せられければ、息の下にて申す様、「御不審蒙りて候へ共、今は最後にて候ふ。御赦免を蒙り、黄泉を心安く参り候はばや」と申しければ、「もとより汝久しく勘当すべきや。只一旦の事をこそ言ひつるに」と仰せられて、御涙に咽び給へば、源三世に嬉しげに打ち頷きたり。鷲尾七郎近く有りけるが、「如何に源三、弓矢取る者の矢一つにて死するは無下なる事ぞ。故郷へ何事も申し遺はさぬぞ」と言ひけれども、返事もせず。「和殿の枕にし給ふは君の御膝ぞ」、源三「御膝の上にて死に候へば、何事をか思ひ置き候ふべきなれども、過ぎにし春の頃親にて候ふ者の、信濃へ下りしに、「構へて暇申して、冬の頃は下れ」と申しし間、「承る」と申して候ひしに、下人が空しき死骸を持ちて下り、母に見せて候はば、悲しみ候はんずる事こそ、罪深く覚えて候へ。君都におはしまさん程は、常の仰せを蒙りたく候へ」と申せば、「それは心安く思へ。常々問はするぞ」と仰せられければ、世に嬉しげにて涙を流しける。限りと見えしかば、鷲尾寄りて念仏を進めければ、高声に申し、御膝の上にして、二十五にて亡せにけり。判官、弁慶、喜三太を召して「軍は如何様にしなしたるぞ」と仰せられければ、「土佐が勢は二三十騎ばかりこそ」と申せば、「江田を討たせたるが安からぬに、土佐奴が一類一人も漏らさず、命な殺しそ。生捕りて参らせよ」と仰せられける。喜三太申しけるは、「敵射殺すこそ安けれ。生きながら取れと仰せ蒙り候ふこそ、以ての外の大事なれ。さりながらも」とて、大長刀持つて走り出でければ、弁慶「あはや、彼奴に先せられて叶はじ」と鉞引提げて飛んで出で、喜三太は卯の花垣の先をつい通りて、泉殿の縁の際を西を指してぞ出でける。此処に黄■毛なる馬に乗りたる者、馬に息つがせて、弓杖にすがりて控へたり。喜三太走り寄つて、「此処に控へたるは誰そ」と問ひければ、「土佐が嫡子、土佐太郎生年十九」と名乗つて歩ませ向ふ。「是こそ喜三太よ」とて、づと寄る。叶はじとや思ひけん、馬の鼻を返して落ちけるを、余すまじとて追つ掛けたり。早打の長馳したる馬の、終夜軍には責めたりけり。揉め共揉め共一所にて躍る様なり。大長刀を以て開いてちやうど斬り、左右の烏頭づと斬る。馬倒まに転びければ、主は馬より下にぞ敷かれける。取つて押へて、鎧の上帯解きて、疵一つも付けず、搦めて参りけり。下部に仰せ付け、御馬屋の柱に立ちながら、結ひ付けさせられける。弁慶喜三太に先をせられて、安からず思ひて、走り廻る所に、南の御門に節縄目の鎧著たる者一騎控へたり。弁慶走り寄つて、「誰そ」と問ふ。「土佐が従兄弟、伊北五郎盛直」とぞ申しける。「是こそ弁慶よ」とて、づと寄る。叶はじとや思ひけん、鞭を当ててぞ落ちける。「穢し、余すまじ」とて追つ掛けて、大鉞を以て開いてむずと打つ。馬の三頭に猪の目の隠るる程打ち貫き、えいと言うてぞ引きたりける。馬こらへずしてどうど伏す。主を取つて押へて、上帯にて搦めて参りける。土佐太郎と一所に繋ぎ置く。昌俊は味方の討たれ、或いは落ち行くを見て、我は太郎、五郎を捕られて、生きて何かせんとや思ひけん、其の勢十七騎にて思ひ切つて戦ひけるが、叶はじとや思ひけん、徒武者駆け散らして、六条河原まで打つて出で、十七騎が十騎は落ちて、七騎になる。賀茂河を上りに鞍馬を指して落ち行く。別当は判官殿の御師匠、衆徒は契深くおはしければ、後は知らず、判官の思召す所もあれとて、鞍馬百坊起こつて、追手と一つになりて尋ねけり。判官「無下なる者共かな。土佐奴程の者を逃しける無念さよ。しやつ逃すな」と仰せられければ、堀河殿をば在京の者共に預けて判官の侍一人も残らず追つ掛けける。土佐は鞍馬をも追ひ出だされて、僧正が谷にぞ篭りける。大勢続いて攻めければ、鎧をば貴船の大明神に脱ぎて参らせ、或る大木の空洞にぞ逃げ入りける。弁慶片岡は土佐を失ひて、「何ともあれ、是を逃しては良き仰せはあるまじ」とて、此処、彼処尋ね歩く程に、喜三太向ひなる伏木に上りて立ちたり。「鷲尾殿の立ち給へる後ろの木の空洞に、物の働く様なる事こそ怪しけれ」と申せば、太刀打ち振りてづと寄りて見れば、土佐叶はじとや思ひけん、木の空洞よりづと出でて、真下りに下る。弁慶喜びて、大手を拡げて、「憎い奴が何処まで」とて追つ掛く。聞こゆる足早なりければ、弁慶より三段ばかり先立つ。遥かなる谷の底にて、片岡「此処に待つぞ。只遺こせよ」とぞ申しける。此の声を聞きて、叶はじとや思ひけん、岨をかい廻りて上りけるを、忠信が大雁股を差し矧げて、余すまじとて、下り矢先に小引に引きて差し当てたる。土佐は腹をも切らで、武蔵坊にのさのさと捕られける。さて鞍馬へ具して行き、東光坊より大衆五十人付けてぞ送られける。「土佐具して参りて候ふ」と申しければ、大庭に据ゑさせ、縁に出でさせ給ひて、「如何に昌俊、起請は書くよりして験あるものを、何しに書きたるぞ。生きて帰りたくは返さんずる、如何」と仰せられければ、頭を地に付けて、「猩々は血を惜しむ。犀は角を惜しむ。日本の武士は名を惜しむ」と申す事の候ふ。生きて帰りて侍共に面を見えて何にかし候ふべき。只御恩には疾く疾く首を召され候へ」とぞ申しける。判官聞召して、「土佐は剛の者にて有りけるや。さてこそ鎌倉殿の頼み給ふらめ。大事の召人を切るべきやらん、斬るまじきやらん、それ武蔵計らへ」と仰せられければ、「大力を獄屋に篭めて、獄屋踏み破られて詮なし。やがて斬れ」とて、喜三太に尻綱取らせて、六条河原に引き出だし、駿河次郎が斬手にて斬らせけり。相模八郎、同太郎は十九、伊北五郎は三十三にて斬られけり。討ち漏らされたる者共、下りて鎌倉殿に参りて、「土佐は仕損じて、判官殿に斬られ参らせ候ひぬ」と申せば、「頼朝が代官に参らせたる者を、押へて斬る事こそ遺恨なれ」と仰せられければ、侍共「斬り給ふこそ理よ、現在の討手なれば」とぞ申しける。

義経都落の事

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とにもかくにも討手を上せよとて、北条四郎時政大将にて都へ上る。畠山は辞退申したりけれ共、重ねて仰せられければ、武蔵-七党相具して、尾張国熱田宮に馳せ向ふ。後陣は山田四郎朝政、一千余騎にて関東を門出すると聞こえけり。十一月一日大夫判官、三位を以て院へ奏聞せられけるは、「義経命を捨てて朝敵を平げ候ひしは、先祖の恥を清めんずる事にては候へども、逆鱗を止め奉らんが為なり。然れば朝恩として別賞をも行はるべき所に、鎌倉の源二位、義経に野心を存するに依つて、追討の為に官軍を放ち遣はす由承り候ふ。所詮逢坂関より西を賜はるべき由をこそ存じ候へども、四国九国ばかりを賜はつて罷り下り候はばや」とぞ申されける。是に依つて理なる朝旨なるべき間、公卿僉議有り。各々申されけるは、「義経が申す処も不便なれども、是に宣旨を下されば、源二位の憤深かるべし。又宣旨を下されずは、木曾が都にて振舞し如く、義経が振舞はば、世は世にても候ふべからず。所詮とても源二位討手を上せ候ふなる上は、義経に宣旨を賜び下して、近国の源氏共に仰せ付けて、大物にて討たせらるべく候ふや」と各々申されければ、宣旨を下されけり。斯かりければ、判官は西国へ下らんとて出で立ち給ふ。折節西国の兵共、其の数多く上りたりける中にも、緒方三郎維義が上りけるを召して「九国を賜はりて下るぞ、汝頼まれてや」と仰せられければ、維義申しけるは、「菊池次郎が折節上洛仕りて候ふなれば、定めて召され候はんずらん。菊池を誅せられば、仰せに従ひ候ふべき由申す。判官/は弁慶、伊勢三郎を召して、「菊池と緒方と何れにてあるらん」と仰せられければ、「とりどりにこそ候へども、菊池こそ猶も頼もしき者にて候へ。但し猛勢なる事は、緒方勝りて候ふらん」と申しければ、「菊池頼まれよ」と仰せられければ、菊池次郎申しけるは、「尤も仰せに従ひ参らせたく候へども、子にて候ふものを関東へ参らせて候ふ間、父子両方へ参り候はん事如何候ふべきや」と申したりければ、「さらば討て」とて、武蔵坊、伊勢三郎を大将軍にて、菊池が宿へ向けられける。菊池矢種ある程射尽くして、家に火をかけて自害してんげり。さてこそ緒方三郎参りけり。判官は叔父備前守を伴ひて、十一月三日に都を出で給ふ。「義経が国入の初めなれば、引き繕へ」とて、尋常にぞ出で立たれける。其の頃世にもてなしける磯の禅師が娘、静と言ふ白拍子を狩装束せさせてぞ召し具せられける。我が身は赤地の錦の直垂に小具足ばかりにて、黒き馬の太く逞しきが、尾髪飽くまで足らひたるに、白覆輪の鞍置いてぞ乗り給ふ。黒糸威の鎧著て、黒き馬に白覆輪の鞍置きて乗りたる者五十騎、萌黄威の鎧に鹿毛なる馬に乗りたる者五十騎、毛つるべに其の数打たせて、其の後は打込みに百騎、二百騎打ちける。以上其の勢一万五千余騎なり。西国に聞こえたる月丸と言ふ大船に、五百人の勢を取り乗せて、財宝を積み、二五疋の馬共立てて、四国路を志す。船の中、波の上の住こそ悲しけれ。伊勢をの海士の濡衣、乾す隙も無き便かな。入江入江の葦の葉に、繋ぎ置きたる藻苅舟、荒磯かけて漕ぐ時は、渚々に島千鳥、折知り顔にぞ聞こえける。霞隔てて漕ぐ時は沖に鴎の鳴く声も敵の鬨かと思ひける。風に任せ、潮に従ひて行く程に、伏し拝み奉れば、住吉、右手を見れば、西宮蘆屋の浦、生田の森を外処になし、和田の岬を漕ぎ過ぎて、淡路の瀬戸も近くなる。絵島が磯を右手になして漕ぎ行く程に、時雨の隙より見給へば、高き山のかすかに見えければ、船の中にて是を見て、「此の山はどの国の何処の山ぞ」と申しければ、「そんぢやう、其の国の山」と申せども、何処を見分けたる人もなし。武蔵坊は船端を枕にして臥したりけるが、がはと起きて、せがいの平板につい立ちて申しけるは、「遠くも無かりけるものを、遠き様に見なし給ひたりける。播磨国書写の岳の見ゆるや」とぞ申しける。「山は書写の山なれども、義経心にかかる事あるは、此の山の西の方より、黒雲の俄かに禅定へ切れて、かかる日だにも西へ傾けば、定めて大風と覚ゆるぞ。自然に風落ち来たらば、如何なる島蔭荒磯にも船を馳せ上げて、人の命を助けよや」とぞ仰せられける。弁慶申しけるは、「此の雲の景気を見て候ふに、よも風雲にては候はじ。君は何時の程に思召し忘れ給ひて候ふぞ。平家を攻めさせ給ひし時、平家の君達多く波の底に屍を沈め、苔の下に骨を埋み給ひし時仰せられ候ひし事は、今の様にこそ候へ。「源氏は八幡の護り給へば、事に重ねて日に添へ、安穏ならん」と仰せられ候ひし。如何様にても候へ、是は君の御為悪風とこそ覚え候へ。あの雲砕けて御船にかからば、君も渡らせ給ふまじ、我等も二度故郷へ帰らん事不定なり」とぞ申しける。判官是を聞召して、「何かさる事有らん」とぞ仰せられける。弁慶申しけるは、「君は度々弁慶が申す事を御用ゐ候はでこそ、御後悔は候へ。さ候はば、見参に入り候はん」とて、揉烏帽子引つこうで太刀長刀は持たざりけり。白箆に鵠の羽にて矧ぎたる矢に白木の弓取り添へ、舳につつ立ちて、人に向ひて物を言ふ様に、掻き口説きて申す様、「天神七代地神五代は神の御代、神武天皇より四十一代の帝以来、保元、平治とて両度の合戦に如かず。是等両度にも鎮西八郎御曹司こそ五人張に十五束を射給ひ、名を揚げ給ひし。それより後は絶えて久しくなりたり。さては源氏の郎等等の中に、弁慶こそ形の如くも、弓矢取つて人数に言はれたれ。風雲の方へ支へて射んずる程に、風雲ならば射るとも消え失せじ。天の待つ如くにてある間、平家の死霊ならばよもたまらじ。それに験無くは、神を崇め奉り、仏を尊み参らせて、祈り祭もよも有らじ。源氏の郎等ながら、俗姓正しき侍ぞかし。天津児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが子、西塔の武蔵坊弁慶」と名告つて、矢継早に散々に射たりければ、冬の空の夕日明りの事なれば、潮も輝きて、中差何処に落ち著くとは見えねども、死霊なりければ、掻き消す様に失せにけり。船の中には是を見て、「あら恐ろしや武蔵坊だに無かりせば、大事出で来てまし」とぞ申し合ひける。「押せや、者共」とて漕ぐ程に、淡路国水島の東を幽に見て行く程に、先の山の北の腰に、又黒雲の車輪の様なるが出で来たる。判官「あれは如何に」と仰せられければ、弁慶「是こそ風雲よ」と申しも果てねば、大風落ち来たる。頃は十一月上旬の事なれば、霰交りて降りければ、東西の磯も見え分かず。麓には、風烈しく、摂津国武庫山颪、日の暮るるに随ひて、いとど烈しくなりにけり。判官■取水手に仰せられけるは、「風の強きに帆を気長に引けよ」と仰せられければ、帆を下さんとすれ共、雨に濡れて蝉本つまりて下らず。弁慶片岡に申しけるは、「西国の合戦の時度々大風に会ひしぞかし。綱手を下げて引かせよ。苫を捲きて付けよ」と下知しければ、綱を下げ、苫を付けけれども、少しも効なし。河尻を出でし時、西国船の石多く取り入れたりければ、葛を以て中を結ひ、投げ入れたりけれども、綱も石も底へは沈み兼ねて、上に引かれて行く程の大風にてぞ有りける。船腹を叩く波の音に驚き、馬共の叫ぶこそ夥しき。今朝まではさりともと思ひける人、船底にひれ伏して、黄水を嘔くこそ悲しけれ。是を御覧じて、「只帆の中を破つて、風を通せ」とて、薙鎌を以て帆の中を散々に破つて風を通せども、舳には白波立てて、千の鉾を突くが如し。さる程に日も暮れぬ。先にも船が行かねば、篝火も焚かず。後にも船続かねば、海士の焚く火も見えざりけり。空さへ曇りたれば、四三の星も見えず。只長夜の闇に迷ひける。せめて我が身一人の御身ならば、如何せん。都におはしましける時、人知れず情深き人にておはしまししかば、忍びて通ひ給ひける女房廿四人とぞ聞こえし。其の中にも御志深かりしは、平大納言の御娘、大臣殿の姫君、唐橋の大納言、鳥養の中納言の御娘、此の人々は皆流石に優なる御事にてぞおはしける。其の外静などを始めとして、白拍子五人、惣じて十一人、一つ船に乗り給へる。都にては皆心々におはしけれ共、一所に差し集ひ、中々都にて、とにもかくにもなるべかりしものをと悲しみ給ひけり。判官心許なさに立ち出で給ひて、「今宵は何時にかなりぬらん」と宣へば、「子の時の終にはなりぬらん」と申せば、「あはれ疾くして夜の明けよかし。雲を一目見てとにもかくにもならん」などと仰せられける。「抑侍の中にも下部の中にも、器量の者やある。あの帆柱に上りて、薙鎌にて蝉の綱を切れ」とぞ仰せられける。弁慶、「人は運の極になりぬれば、日来おはせぬ心の著かせ給へる」と呟きける。判官、「それは必らず御辺を上れと言はばこそ。御辺は比叡の山育の者にて叶ふまじ。常陸坊は近江の湖にて、小舟などにこそ調練したりとも、大船には叶ふまじ。伊勢三郎は上野の者、四郎兵衛は奥州の者なり。片岡こそ常陸国鹿島行方と言ふ荒磯に素生したる者なり。志田三郎先生の浮島に有りける時も、常に行きて遊びけるに、「源平の乱出で来候はば、葦の葉を舟にしたりとも異朝へも渡りなん」と嘆じける。片岡上れ」と仰せられければ、承つて、やがて御前を立ちて、小袖直垂脱ぎ、手綱二筋撚りて胴に巻き、髻引き崩して押し入れ、烏帽子に額結ひて、刀の薙鎌取つて手綱に差し、大勢の中を掻き分けて、柱寄せに上り、手を掛けて見ければ、大の男の合はせて抱くに、指しも合はぬ程の柱の高さは、四五丈もあるらんと思ふ程なり。武庫山よりおろす嵐に詰められて、雪と雨とに濡れて氷り、只銀箔を伸べたるにぞ似ける。如何にもして登るべきとも覚えず。判官是を見給ひて、「あ、したり片岡」と力を添へられて、えいと声を出だし登り上がれば、するりと落ち落ち、二三度しけるが、命を棄てて上りける。二丈ばかり上り上がりて聞きければ、物の音船の中に答へて、地震の様になりて聞こえけり。あはや何やらんと聞く所に、浜浦より立ちたる風の、時雨につれて来たる。「それ聞くや■取、後ろより風の来るぞ。波をよく見よ、風を切らせよ」と言ひも果てざりければ、吹きもて来て、帆にひしひしと当つるかとすれば、風につきてざざめかし走りけるが、何処とは知らず、二所に物のはたはたとなきければ、船の中に同音にわつとぞ喚きける。帆柱は蝉の本より二丈ばかり置きて、ふつと折れにけり。柱海に入りければ、船は浮き、先にづと馳せ延びける。片岡するりと下りて、船ばりを踏まへ、薙鎌を八の綱に引つかけて、かなぐり落ちたりければ、折れたる柱を風に吹かせて、終夜波に揺られける。さる程に暁にもなりければ、宵の風は鎮まりたるに、又風吹き来たる。弁慶「是は何処より吹きたる風やらん」と言へば、五十ばかりなる■取出でて、「是は又昨日の風よ」と申せば、片岡申しけるは、「あは男、よく見て申せ。昨日は北の風吹きかはす。風ならば巽か南にてぞあるらん。風下は摂津国にてやあるらん」と申せば、判官仰せられけるは、「御辺達は案内を知らぬ者なり。彼等は案内者なれば、只帆を引きて吹かせよ」とて、弥帆の柱を立てて、弥帆を引きて走らかす。暁になりて、知らぬ干潟に御船を馳せ据ゑたり。「潮は満つるか、引くか」「引き候ふ」と申せば、「さらば潮の満つるを待て」とて、船腹波に叩かせて、夜の明くるを待ち給へば、陸の方に大鐘の声こそ聞こえけれ。判官「鐘の声の聞こゆるは、渚の近きと覚ゆるぞ。誰かある。船に乗りて行きて見よ」と仰せられければ、如何なる人にか承るべきと、固唾を呑む所に、「幾度なりとも、器量の者こそ行かんずれ。片岡行きて見よ」と仰せられける。承りて逆沢瀉の腹巻著て、太刀ばかり帯いて、究竟の船乗なりければ、端舟に乗り、相違無く磯に押し著けて上がりて見れば、海士の塩焼く苫屋の軒を並べたり。片岡寄りて問はばやと思ひけれども、我が身は心打ち解けねば、苫屋の前を打ち過ぎ、一町ばかり上がりて見れば、大きなる鳥居有り。鳥居に付きて行きて見れば、古りたる神を斎ひ参らせたる所なり。片岡近付て拝み奉れば、齢八旬に長けたる老人、只一人佇みにけり。「是はどの国の何処の所ぞ」と問ひければ、「此処に迷ふは常の事、国に迷ふこそ怪しけれ。さらぬだに此の所は二三日騒動する事の有るに、判官の、昨日是を出でて、四国へとて下り給ひしが、夜の間に風変はりたり。此の浦にぞ著き給ふらんとて、当国の住人豊島の蔵人、上野判官、小溝太郎承りて、陸に五百疋の名馬に鞍皆具置きて、磯には三十艘の杉舟に掻楯をかき、判官を待ち懸けたるぞ。若し其の方様の人ならば、急ぎ一先づ落ちて遁れ給へ」と仰せられければ、片岡さらぬ体にて申しけるは、「是は淡路国の者にて候ふが、一昨日の釣に罷り出で、大風に放されて、只今是に著きて候ふなり。有りの儘に知らせ給へ」と申しければ、古歌をぞ詠じ給ひける。

漁火の昔の光仄見えて蘆屋の里に飛ぶ蛍かなと詠じて掻き消す様に失せにけり。後に聞きければ、住吉の明神を斎ひ奉りたる所なり。憐みを垂れ給ひけるとぞ覚えける。片岡やがて帰り参りて、此の由申しければ、「さては船を押し出だせ」と仰せられけれども、潮は干たり、御船を出だし兼ねて、心ならず夜をぞ明かしける。

住吉大物二ケ所合戦の事

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「天に口無し、人を以て言はせよ」と、大物浦にも騒動す。宵には見えぬ船の夜の中に著きて、苫を取らせず、是ぞ怪しけれ。何舟にてある、引き寄せて見んとて、五百余騎三十艘の舟に取り乗り、押し出だす。潮干なれ共小船なり、足は浅し、究竟の■取は乗せたり、思ふ様に漕ぎかけて、大船を中に取り篭め、漏らすなとぞ罵りける。判官御覧じて、「敵が進めばとて、味方は周章つな。義経が船と見ば左右無くよも近づかじ。狼藉せば武者に目なかけそ。柄長き熊手を拵へて、大将と覚しからん奴を手捕にせよ」とぞ宣ひける。武蔵坊申しけるは、「仰せはさる事にて候へ共、船の中の軍は大事のものにて候ふ。今日の矢合は余の人は望あるべからず。弁慶仕り候はん」と申しければ、片岡是を聞きて、「僧党の法には、無縁の人を弔ひ、結縁の者を導くこそ法師とは申せ。軍とだに言へば、御辺の先立つ事は如何ぞ。退き給へ、経春矢一つ射ん」とぞ申しける。弁慶是を聞きて、「御辺より外は、此の殿の御内に弓矢取る者は無きか」とぞ申しける。佐藤四郎兵衛是を聞きて、御前に畏まつて申しけるは、「かかる事こそ御座候へ。此の人共が先駆論ずる間に、敵は近づきぬ。あはれ、仰せを蒙りて、忠信先を仕り候はばや」と申しければ、判官、「いしう申したる者かな。望めかしと思ひつる所に」とて、やがて忠信に先駆を賜はつて、三滋目結の直垂に、萌黄威の鎧に、三枚兜の緒を締め、怒物作の太刀帯き、鷹護田鳥尾の矢廿四指したるを頭高に負ひなして、上矢に大の鏑二つ指したりける、節巻の弓持ちて、舳に打ち渡りて出で合ひたり。豊島の冠者、上野判官、両大将軍として、掻楯かいたる小船に取り乗りて、矢比に漕ぎ寄せて申しけるは、「抑此の御船は判官殿の御船と見参らせて候ふ。かく申すは豊島冠者と上野判官と申すものにて候ふ。鎌倉殿の御使と申し、此の所に左右無く落人の入らせ給ひ候ふを、漏らし参らせ候はん事、弓矢の恥辱にて候ふと存ずる間、参りて候ふ」と申しければ、「四郎兵衛忠信と申す者にて候ふぞ」と、言ひも果てず、つい立ち上がる。豊島冠者言ひけるは、「代官は自身に同じ」とて、大の鏑を打ちはめて、よく引きてひやうど射る。鏑は遠鳴して船端にどうど立つ。四郎兵衛是を見て、「ときのつくりと日の敵は、真中をふつと射ちぎりたるこそ面白けれ。忠信程の源氏の郎等を戯笑せらるる武士とこそ覚えね。手並を見給へ」とて三人張に十三束三つがけ取つて交ひ、よく引きてひやうど射る。鏑は遠鳴して、大雁股の手先、内冑に入るとぞ見えし、首の骨をかけず、ふつと射ちぎりて、雁股は鉢付に立つ。首は兜の鉢につれて、海へたぶとぞ入りにける。上野判官是を見て、「さな言はせそ」とて、押し違へて、箙の中指取つて、よつ引いてひやうど射る。忠信が矢差し矧げて立ちたる弓手の兜の鉢を射削りて、鏑は海へ入る。忠信是を見て、「地体此の国の住人は敵射る様をば知らざりける。奴に手並の程を見せん」とて、尖矢を差し矧げて、小引きに引きて待つ。敵一の矢射損じて、念も無げに思ひなして、二の矢を取つて交ひ、打ち上ぐる所を、よつ引きてひやうど射る。弓手の脇の下より右手の脇に五寸許り射出だす。即ち海へたぶと入る。忠信次の矢をば矧げながら御前に参りける。不覚とも高名とも沙汰の限りとて、一の筆にぞ付けられける。豊島冠者と上野判官討たれければ、郎等共矢比より遠く漕ぎ退けたり。片岡、「如何に四郎兵衛殿、軍は何とし給ひたり」と言へば、「手の上手が仕りて候ふ」と申しければ、「退き給へ。さらば経春も矢一つ射て見ん」と言ひければ、さらばとて退きにけり。片岡白き直垂に黄白地の鎧著て、わざと兜は著ざりけり。折烏帽子に烏帽子懸して、白木の弓脇に挟み、矢櫃一合せがいの上にからと置きて、蓋を取りて除けければ、箆をば揉めで節の上を掻き刮げて、羽をば樺矧に矧ぎたる矢の、石■と黒樫と強げなる所を拵へて、周り四寸、長さ六寸に拵へて、角木割を五六寸ぞ入れたりける。「何ともあれ、是を以て、主を射ばこそ、鎧の裏かかぬ共言はれめ、四国のかた杉舟の端薄なるに、大勢は込み乗りて、船足は入りたり、水際を五寸ばかり下げて、矢目近にひやうど射るならば、鑿を以て割る様にこそ有らんずらめ。水舟に入らば、ふみ沈めふみ沈めて、皆失せんとするものを。助舟寄らば、精兵小兵をば嫌ふべからず。釣瓶矢に射てくれよ」とぞ申しける。兵共「承る」と申しける。片岡せがいの上に片膝突いて、差し詰め引き詰め、散々にこそ射たりけれ。船腹に石■の木割を十四五射立てて置きたりければ、水一はた入る。周章狼狽きて、踏み返し、目の前にて杉舟三艘まで失せにけり。豊島冠者亡せにければ、大物浦に船を漕ぎ寄せて、空しき体を舁きて、泣く泣く宿所へぞ帰りける。武蔵坊は常陸坊を呼びて申しけるは、「安からぬ事かな。軍すべかりつるものを。かくて日を暮さん事は宝の山に入りて、手を空しくしたるにてこそあれ」と後悔する所に、小溝太郎は大物に軍有りと聞きて、百騎の勢にて大物浦に馳せ下りて、陸に上げたりける船を五艘押し下し、百騎を五手に分けて、我先にと押し出だす。是を見て、弁慶は黒革威、海尊は黒糸威の鎧著たり。常陸坊は元より究竟の■取なりければ、小船に取り乗り、武蔵坊はわざと弓矢をば持たざりけり。四尺+二寸有りける柄装束の太刀帯いて、岩透と言ふ刀をさし、猪の目彫りたる鉞、薙鎌、熊手舟にからりひしりと取り入れて、身を放さず持ちける物は、石■の木の棒の一丈+二尺有りけるに、鉄伏せて上に蛭巻したるに、石突したるを脇に挟みて、小舟の舳に飛び乗る。「様も無き事、此の舟をあの中にするりと漕ぎ入れよ。其の時熊手取りて敵の舟端に引つかけ、するりと引き寄せてがはと乗り移り、兜の真向、篭手の番、膝の節、腰骨、薙打ちに散々に打たんずる程に、兜の鉢だにも割れば、主奴が頭もたまるまじ。只置いて物を見よ」と呟き言して、疫神の渡る様にて押し出だす。味方は目をすまして是を見る。小溝太郎申しけるは、「抑是程の大勢の中に、只二人乗つて寄る者は、何者にてかあるらん」と言へば、或る者是を見て、「一人は武蔵坊、一人は常陸坊」とぞ申しける。小溝是を聞きて、「それならば手にもたまるまじぞ」とて、船を大物へぞ向けさせける。弁慶是を見て声を上げて、「穢しや、小溝太郎とこそ見れ。返し合はせよや」と言ひけれ共、聞きも入れず引きけるを、「漕げや海尊」と言ひければ、舟端を踏まへて、ぎしめかしてぞ漕ぎたりける。五艘の真中へするりと漕ぎ入れければ、熊手を取つて敵の舟に打ち貫き、引き寄せゆらりと乗り移り、艫より舳に向きて、薙打ちにむずめかして、拉ぎ付けてぞ通りける。手に当たる者は申すに及ばず、当たらぬ者も覚えず知らず海へ飛び入り飛び入り亡せにけり。判官是を見給ひて、「片岡あれ制せよ。さのみ罪な作りそ」と仰せられければ、「御諚にて候ふ。さのみさのみ罪な作られそ」と言ひければ、弁慶是を聞きて、「それを申すぞよ、末も通らぬ青道心、御諚を耳にな入れそ。八方を攻めよ」とて散々に攻む。杉船二艘は失せて、三艘は助かり、大物浦へぞ逃げ上がりける。其の日判官軍に勝ちすまし給ひけり。御舟の中にも手負ふ者十六人、死ぬるは八人ぞ有りける。死したる者をば、敵に首を取られじと、大物の沖にぞ沈めける。其の日は御舟にて日を暮し給ふ。夜に入りければ、人々皆陸に上げ奉り給ひて、志は切なけれども、斯くては叶ふまじとて、皆方々へぞ送られける。二位大納言の姫君は、駿河の次郎承つて送り奉る。久我大臣殿の姫君をば喜三太が送り奉る。其の外残りの人々は、皆縁々に付けてぞ送り給ひける。中にも静をば志深くや思はれけん、具し給ひて、大物浦をば立ち給ひて、渡辺に著いて、明くれば、住吉の神主長盛が許に著き給ひて、一夜を明かし給ひて、大和国宇陀郡岸岡と申す所に著き給ひて、外戚に付けて、御親しき人の許に暫しおはしけり。北条四郎時政、伊賀伊勢の国を越えて、宇陀へ寄すると聞こえければ、我故人に大事をかけじとて、文治+元年十二月十四日の曙に、麓に馬を乗り捨てて、春は花の名山と名を得たる吉野の山にぞ篭られける。

巻第五

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判官吉野山に入り給ふ事

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都に春は来たれども、吉野は未だ冬篭る。況や年の暮れなれば、谷の小河も氷柱ゐて、一方ならぬ山なれども、判官飽かぬ名残を棄て兼ねて、静を是まで具せられたりける。様々の難所を経て、一二の迫、三四の峠、杉の壇と言ふ所迄分け入り給ひけり。武蔵坊申しけるは、「此の君の御伴申し、不足無く見するものは面倒なり。四国の供も一船に十余人取り乗り奉り給ひて、心安くも無かりしに、此の深山まで具足し給ふこそ心得ね。斯く御伴して歩き、麓の里へ聞こえなば、賎しき奴原が手に懸かりなどして、射殺されて名を流さん事は、口惜しかるべし。如何計らふ、片岡。いざや一先づ落ちて身をも助からん」と申しければ、「それも流石あるべき。如何ぞ、只目な見合はせそ」とこそ申しける。判官聞き給ひ、苦しき事にぞ思召しける。静が名残を棄てじとすれば、彼等とは仲を違ひぬ。又彼等が仲を違はじとすれば、静が名残棄て難く、とにかくに心を砕き給ひつつ、涙に咽び給ひけり。判官武蔵を召して仰せられけるは、「人々の心中を義経知らぬ事は無けれども、僅の契を捨て兼ねて、是まで女を具しつるこそ、身ながらも実に心得ね。是より静を都へ帰さばやと思ふは如何あるべき」。武蔵坊畏まつて申しけるは、「是こそゆゆしき御計らひ候よ。弁慶もかくこそ申したく候ひつれども、畏をなし参らせてこそ候へ。斯様に思召し立ちて、日の暮れ候はぬ先に、疾く疾く御急ぎ候へ」と申せば、何しに返さんと言ひて、又思ひ返さじと言はん事も侍共の心中如何にぞやと思はれければ、力及ばず「静を京へ帰さばや」と仰せられければ、侍二人雑色三人御伴申すべき由を申しければ、「偏へに義経に命を呉れたるとこそ思はんずれ。道の程よくよく労りて、都へ帰りて、各々はそれよりして何方へも心に任すべし」と仰せ蒙つて、静を召して仰せけるは、「志尽きて、都へ帰すには有らず。是迄引き具足したりつるも志愚かならぬ故、心苦しかるべき旅の空にも人目をも顧みず、具足しつれども、よくよく聞けば、此の山は役の行者の踏み初め給ひし菩提の峰なれば、精進潔斎せでは、如何でか叶ふまじき峰なるを、我が身の業に犯されて、是まで具し奉る事、神慮の恐れ有り。是より帰りて、禅師の許に忍びて、明年の春を待ち給へ。義経も明年も実に叶ふまじくは、出家をせんずれば、人も志有らば、共に様をも変へ、経をも誦み、念仏をも申さば、今生後生などか一所に有らざらん」と仰せられければ、静聞きもあへず、衣の袖を顔にあてて、泣くより外の事ぞ無き。「御志尽きせざりし程は、四国の波の上までも具足せられ奉る。契尽きぬれば、力及ばず、只憂き身の程こそ思ひ知りて悲しけれ。申すに付けても如何にぞや、過ぎにし夏の頃よりも唯ならぬ事とかや申すは、産すべきものにも早定めぬ。世に隠れも無き事にて候へば、六波羅へも鎌倉へも聞こえんずらん。東の人は情無きと聞けば、今に取り下されて、如何なる憂き目をか見んずらん。只思召し切りて、是にて如何にもなし給へ。御為にも自らが為にも、中々生きて物思はんよりも」と掻き口説き申しければ、「只理をまげて都へ帰り給へ」と仰せられけれども、御膝の上に顔をあて、声を立ててぞ泣き伏しける。侍共も是を見て、皆袂をぞ濡らしける。判官鬢の鏡を取り出だして、「是こそ朝夕顔を写しつれ。見ん度に義経見ると思ひて見給へ」とて賜びにけり。是を賜はりて、今亡き人の様に胸に当ててぞ焦れける。涙の隙よりかくぞ詠じける。見るとても嬉しくもなし増鏡恋しき人の影を止めねば

と詠みたれば、判官枕を取り出だして、「身を離さで是を見給へ」とて、かくなん。

急げども行きもやられず草枕静に馴れし心慣に

それのみならず、財宝を其の数取り出だして賜びけり。其の中に殊に秘蔵せられたりける、紫檀の胴に羊の革にて張りたりける啄木の調の鼓を賜はりて、仰せられけるは、「此の鼓は義経秘蔵して持ちつるなり。白川の院の御時、法住寺の長老の入唐の時、二つの重宝を渡されけり。めいぎよくと言ふ琵琶、初音と言ふ鼓是なり。めいぎよくは内裏に有りけるが、保元の合戦の時、新院の御前にて焼けてなし。初音は讚岐の守正盛賜はりて秘蔵して持ちたりけるが、正盛死去の後、忠盛是を伝へて持ちたりけるを、清盛の後は誰か持ちたりけん、屋嶋の合戦の時わざとや海へ入れられけん、又取り落してや有りけん、浪に揺られて有りけるを、伊勢の三郎熊手に懸けて取り上げたりしを、義経取つて鎌倉殿に奉る」とぞ宣ひける。静泣く泣く是を賜はりて持ちけり。今は何と思ふ共、止まるべきに有らずとて、勢を二つに分けけり。判官思ひ切り給ふ時は、静思ひ切らず、静思ひける時は、判官思ひ切り給はず、互に行きもやらず、帰りては行き、行きては帰りし給ひけり。嶺に上り、谷に下り行きけり。影の見ゆるまでは、静遙々と見送りけり。互に姿見えぬ程に隔てば、山彦の響く程にぞ喚きける。五人の者共やうやうに慰めて、三四の峠までは下りけり。二人の侍、三人の雑色を呼びて語りけるは、「各々如何計らふ。判官も御志は深く思ひ給ひつれ共、御身の置所無く思召して行方知らず失せさせ給ふ。我等とても麓に下り、落人の供し歩きては如何でか此の難所をば遁るべき。是は麓近き所なれば、棄て置き奉りたりとても、如何にもして麓に返り給はぬ事はよも有らじ。いざや一先づ落ちて身を助けん」とぞ言ひける。恥をも恥と知り、又情をも棄てまじき侍だにも、斯様に言ひければ、まして次の者共は、「如何様にも御計らひ候へかし」と言ひければ、或る古木の下に敷皮敷き、「是に暫く御休み候へ」とて申しけるは、「此の山の麓に十一面観音の立たせ給ひて候ふ所有り。親しく候ふ者の別当にて候へば、尋ねて下り候ひて、御身の様を申し合はせて、苦しかるまじきに候はば、入れ参らせて暫く御身をもいたはり参らせて、山伝ひに都へ送り参らせたくこそ候へ」と申しければ、「ともかくも良き様に各計らひ給へ」とぞ宣ひける。

静吉野山に棄てらるる事

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供したる者共、判官の賜びたる財宝を取りて、掻き消す様にぞ失せにける。静は日の暮るるに随ひて、今や今やと待ちけれども、帰りて事問ふ人もなし。せめて思ひの余りに、泣く泣く古木の下を立ち出でて、足に任せてぞ迷ひける。耳に聞こゆるものとては、杉の枯葉を渡る風、眼に遮るものとては、梢まばらに照す月、そぞろに物悲しくて、足をはかりに行く程に、高き峰に上りて、声を立てて喚きければ、谷の底に木魂の響きければ、我を言問ふ人のあるかとて、泣く泣く谷に下りて見れば、雪深き道なれば、跡踏みつくる人もなし。又谷にて悲しむ声の、峰の嵐にたぐへて聞こえけるに、耳を欹てて聞きければ、幽に聞こゆるものとては、雪の下行く細谷河の水の音、聞くに辛さぞ勝りける。泣く泣く嶺に帰り、上がりて見ければ、我が歩みたる後より外に雪踏み分くる人もなし。かくて谷へ下り、峰へ上りせし程に、履きたる靴も雪に取られ、著たる笠も風に取らる。足は皆踏み損じ、流るる血は紅をそそくが如し。吉野の山の白雪も、染めぬ所ぞ無かりける。袖は涙に萎れて、袂に垂氷ぞ流れける。裾は氷桂に閉ぢられて、鏡を見るが如くなり。然れば身もたゆくして働かされず。其の夜は夜もすがら山路に迷ひ明かしけり。十六日の昼程に判官には離れ奉りぬ。今日十七日の暮まで独り山路に迷ひける、心の中こそ悲しけれ。雪踏み分けたる道を見て、判官の近所にや御座すらん。又我を棄てし者共の、此の辺にやあるらんと思ひつつ、足を計りに行く程に、やうやう大道にぞ出でにけり。是は何方へ行く道やらんと思ひて、暫く立ち休らひけるが、後に聞けば宇陀へ通ふ道なり。西を指して行く程に、遙かなる深き谷に燈火幽に見えければ、如何なる里やらん、売炭の翁も通はじなれば、唯炭竈の火にても有らじ。秋の暮ならば、沢辺の蛍かとも疑ふべき。斯くて様々近づきて見ければ、蔵王権現の御前の燈篭の火にてぞ有りける。差し入り見たりければ、寺中には道者大門に満ち満ちたり。静是を見て、如何なる所にて渡らせ給ふらんと思ひて、或る御堂の側に暫らく休み、「是は何処ぞ」と人に問ひければ、「吉野の御岳」とぞ申しける。静嬉しさ限りなし。月日こそ多けれ、今日は十七日、此の御縁日ぞかし。尊く思ひければ、道者に紛れ、御正面に近づきて拝み参らせければ、内陣外陣の貴賎中々数知らず。大衆の所作の間は苦しみの余りに衣引き被ぎ伏したりけり。務めも果てしかば、静も起きて念誦してぞ居たりける。芸に従ひて思ひ思ひの馴子舞する中にも面白かりし事は、近江国より参りける猿楽、伊勢の国より参りける白拍子も、一番舞うてぞ入りにける。静是を見て、「あはれ、我も打ち解けたりせば、などか丹誠を運ばざらん、願はくは権現、此の度安穏に都へ帰し給へ、また飽かで別れし判官、事故無く今一度引き合はせさせ給へ。さも有らば母の禅師とわざと参らん」とぞ祈り申しける。道者皆下向して後、静正面に参りて念誦して居たりける所に、若大衆の申しけるは、「あら美しの女の姿や、只人共覚えず、如何なる人にて御座すらん。あの様なる人の中にこそ面白き事もあれ。いざや勧めて見ん」とて、正面に近づきしに、素絹の衣を著たりける老僧の、半装束の数珠持ちて立ちしが、「あはれ権現の御前にて、何事にても候へ、御法楽候へかし」と有りしかば、静是を聞きて、「何事を申すべきとも覚えず候ふ。近き程の者にて候ふ。毎月に参篭申すなり。させる芸能ある身にても候はばこそ」と申しければ、「あはれ此の権現は霊験無双に渡らせ給ふ物を。且は罪障懺悔の為にてこそ候へ。此の垂跡は芸有る人の、御前にて丹誠運ばぬは、思ひに思ひを重ね給ふ。面白からぬ事なりとも、我が身に知る事の程を丹誠を運びぬれば、悦びに又悦びを重ね給ふ権現にて渡らせ給ふ。是私に申すには有らず、偏へに権現の託宣にて渡らせ給ふ」と申されければ、静是を聞きて、恐ろしや、我は此の世の中に名を得たる者ぞかし。神は正直の頭に宿り給ふなれば、斯くて空しからん事も恐れ有り。舞までこそ無く共、法楽の事は苦しかるまじ。我を見知りたる人はよも有らじと思ひければ、物は多く習ひ知りたりけれども、別して白拍子の上手にて有りければ、音曲文字うつり心も言葉も及ばず、聞く人涙を流し、袖を絞らぬは無かりけり。遂に斯くぞ謡ひける。

在りのすさみの憎きだに在りきの後は恋しきに、飽かで離れし面影を何時の世にかは忘るべき。別れの殊に悲しきは親の別れ、子の別れ、勝れてげに悲しきは夫妻の別れなりけり

と、涙の頻りに進みければ、衣引き被きて臥しにけり。人々是を聞き、「音声の聞事かな。何様只人にてはなし。殊に夫を恋ふる人と覚ゆるぞ。如何なる人の此の人の夫となり、是程心を焦すらん」とぞ申しける。治部の法眼と申す人是を聞きて、「面白きこそ理よ。誰そと思ふたれば、是こそ音に聞こえし静よ」と申しければ、同宿聞きて、「如何にして見知りたるぞ」と言へば、「一年都に百日の日照の有りしに、院の御幸有りて、百人の白拍子の中にも、静が舞ひたりしこそ三日の洪水流れたり。さてこそ日本一と言ふ宣旨を下されたりしか、其の時見たりしなり」と申しければ、若大衆共申しけるは、「さては判官殿の御行方をば、此の人こそ知りたるらめ。いざや止めて聞かん」と申しければ、同心に尤も然るべしとて、執行の坊の前に関を据ゑて、道者の下向を待つ処に、人に紛れて下向しけるを、大衆止めて、「静と見奉る、判官は何処に御座しますぞ」と問ひければ、「御行方知らず候ふ」とぞ申しける。小法師原共荒らかに言ひけるは、「女なりとも、所にな置きそ。唯放逸に当たれ」と罵りければ、静如何にもして隠さばやと思へども、女の心のはかなさは、我が身憂き目に逢はん事の恐ろしさに、泣く泣く有りの儘にぞ語りける。然ればこそ情有りける人にて有りける物をとて、執行の坊に取り入れて、やうやうに労り、其の日は一日止めて、明けければ馬に乗せて人を付け、北白川へぞ送りける。是は衆徒の情とぞ申しける。

義経吉野山を落ち給ふ事

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さて明けければ、衆徒講堂の庭に集会して、九郎判官殿は中院谷に御座すなり。いざや寄せて討ち取りて、鎌倉殿の見参に入らんとぞ申しける。老僧是を聞きて、「あはれ詮無き大衆の僉議かな。我が為の敵にも有らず。然ればとて朝敵にてもなし。只兵衛佐殿の為にこそ不和なれ。三衣を墨に染めながら、甲冑をよろひ、弓煎を取りて、殺生を犯さん事、且は隠便ならず」と諌めければ、若大衆是を聞きて、「それはさる事にて候へども、古治承の事を聞き給へ。高倉の宮御謀反に、三井寺など与し参らせ候ひしかども、山は心変はり仕り、三井寺法師は忠を致し、南都は未だ参らず、宮は奈良へ落ちさせ給ひけるが、光明山の鳥居の前にて流矢に中つて薨れさせ給ひぬ。南都は未だ参らずと雖も、宮に与し参らせたる咎によつて、太政の入道殿伽藍を滅ぼし奉りし事を、人の上と思ふべきに有らず、判官此の山に御座する由関東に聞こえなば、東国の武士共承りて、我が山に押し寄せて、欽明天皇の自ら末代までと建て給ひし所、刹那に焼き亡ぼさん事、口惜しき事には有らずや」と申しければ、老僧達も「此の上はともかくも」と言ひければ、其の日を待ち暮し、明くれば廿日の暁、大衆僉議の大鐘をぞ撞きにける。判官は中院谷と言ふ所に御座しけるが、雪空山に降り積みて、谷の小河もひそかなり。駒の蹄も通はねば、鞍皆具も付けず、下人共を具せざれば、兵糧米も持たれず、皆人労れに臨みて、前後も知らず臥しにけり。未だ曙の事なるに、遥かの麓に鐘の声聞こえければ、判官怪しく思召して、侍共を召して仰せられけるは、「晨朝の鐘過ぎて、又鐘鳴るこそ怪しけれ。此の山の麓と申すは欽明天皇の御建立の吉野の御岳、蔵王権現とて霊験無双の霊社にて渡らせ給ふ。並びに吉祥、駒形の八大金剛童子、勝手ひめぐり、しき王子、さうけこさうけの明神とて、甍を並べ給へる山上なり。然ればにや執行を始めとして、衆徒華飾世に越えて、公家にも武家にも従はず、必ず宣旨院宣は無くとも、関東へ忠節の為に甲冒をよろひ、大衆の僉議するかや」とぞ宣ひける。備前の平四郎は「自然の事候はんずるに、一先づ落つべきかや。又返して討死するか、腹を切るか其の時に臨んで周章狼狽きて叶はじ。良き様に人々計らひ申され候へや」と申しければ、伊勢の三郎「申すに付けて臆病の致す所に候へども、見えたる験も無くて、自害無役なり。衆徒に逢うて討死詮なし。唯幾度もあしきのよからん方へ、一先づ落ちさせ給へや」と申しければ、常陸坊是を聞きて、「いしくも申され候ふものかな。誰も斯くこそ存じ候へ。尤も」と申しければ、武蔵坊申しけるは、「曲事を仰せられ候ふぞとよ。寺中近所に居て、麓に鐘の音聞こゆるを、敵の寄するとて落ち行かんには、敵寄せぬ山々はよも有らじ。只君は暫し是に渡らせ御座しませ。弁慶麓に罷り下り、寺中の騒動を見て参り候はん」と申しければ、「尤もさこそ有りたけれども、御辺は比叡の山にて素生したりし人なり。吉野十津川の者共にも見知られてやあるらん」と仰せられければ、武蔵坊畏まつて申しけるは、「桜本に久しく候ひしかども、彼奴原には見知られたる事も候はず」と申しも敢へず、やがて御前を立ち、褐の直垂に、黒糸威の鎧著て、法師なれども、常に頭を剃らざりければ、三寸許り生ひたる頭に、揉鳥帽子に結頭して、四尺二寸有りける黒漆の太刀を、鴨尻にぞ帯きなしたり。三日月の如くにそりたる長刀杖につき、熊の皮の頬貫帯きて、咋日降りたる雪を時の落花の如く蹴散らし、山下を指して下りけり。弥勒堂の東、大日堂の上より見渡せば、寺中騒動して、大衆南大門に僉議し、上を下へ返したる。宿老は講堂に有り、小法師原は僉議の中を退つて逸りける。若大衆の鉄漿黒なるが、腹に袖付けて、兜の緒を締め、尻篭の矢、筈下りに負ひなして、弓杖に突き、長刀手々に提げて、宿老より先に立ち、百人ばかり山口にこそ臨みけれ。弁慶是を見て、あはやと思ひ、取つて返して、中院谷に参りて、「騒ぐまでこそ難からめ。敵こそ矢比になりて候へ」と申しければ、判官是を聞き給ひて、「東国の武士か吉野法師か」と仰せられければ、「麓の衆徒にて候ふ」と申しければ、「扨は適ふまじ。それ等は所の案内者なり。健者を先に立て、悪所に向ひて追ひ掛けられて叶ふまじ。誰か此の山の案内を知りたる者有らば、先立て一先づ落ちん」と仰せられける。武蔵坊申しけるは、「此の山の案内知る者朧げにても候はず、異朝を訪ふに、育王山、香風山、嵩高山とて三つの山有り。一乗とは葛城、菩提とは此の山の事なり。役の行者と申し奉りし貴僧精進潔斎し給ひて、優婆塞の、宮の移ひをも見し、鳥音を立てしかば、かはせの浪にや妙智剣と崇め奉りし、生身の不動立ち給へり。さる間此の山は不浄にてはおぼろげにても人の入る山ならず。それも立ち入りて見る事は候はねども、粗々承り候ふ。三方は難所にて候ふ。一方は敵の矢先、西は深き谷にて、鳥の音も幽なり。北は龍返しとて、落ちとまる所は山河の滾りて流るるなり。東は大和の国宇陀へ続きて候ふ。其方へ落ちさせ給へや」とぞ申しける。

忠信吉野に留まる事

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十六人思ひ思ひに落ちかかる所に、音に聞こえたる剛の者有り。先祖を委しく尋ぬるに、鎌足の大臣の御末、淡海公の後胤、佐藤憲高が孫、信夫の佐藤庄司が二男、四郎兵衛藤原の忠信と言ふ侍有り。人も多く候ふに、御前に進み出で、雪の上に跪きて申しけるは、「君の御有様と我等が身を物によくよく譬ふれば、屠所に赴く羊歩々の思ひも如何でか是には勝るべき。君は御心安く落ちさせ給ひ候へ。忠信は是に止まり候ひて、麓の大衆を待ち得て、一方の防矢仕り、一先づ落し参らせ候はばや」と申しければ、「尤も志は嬉しけれども、御辺の兄継信が、屋嶋の軍の時、義経が為に命を棄て、能登殿の矢先に中つて失せしかども、是まで御辺の付き給ひたれば、継信も兄弟ながら未だある心地してこそ思ひつれ。年の内は思へば幾程もなし。人も命有り、我も存命へたらば、明年の正月の末、二月の初めには陸奥へ下らんずれば、御辺も下りて、秀衡をも見よかし。又信夫の里に留め置きし妻子をも、今一度見給へかし」と仰せられければ、「さ承り候ひぬ。治承三年の秋の頃、陸奥を罷り出で候ひし時も、「今日よりして君に命を奉りて、名を後代に上げよ。矢にも中り死にけると聞かば、孝養は秀衡が忠を致すべし。高名度々に及ばば、勲功は君の御計らひ」とこそ申し含められしか。命を生きて故郷へ帰れと申したる事も候はず。信夫に留め候ひし母一人候ふも、其の時を最期とばかりこそ申し切りて候ひしか。弓矢取る身の習ひ、今日は人の上、明日は御身の上、皆かくこそ候はん。君こそ御心弱く渡らせ給ひ候ふ共、人々それ良き様に申させ給ひ候へや」とぞ申しける。武蔵坊是を聞きて申しけるは、「弓矢取る者の言葉は綸言に同じ。言葉に出だしつる事を翻す事は候はじ。唯心安く御暇を賜はりたし」とぞ申しける。判官暫く物も仰せられざりけるが、やや有りて、「惜しむとも適ふまじ。さらば心に任せよ」とぞ仰せられける。忠信承りて嬉しげに思ひて、只一人吉野の奥にぞ止まりける。然れば夕には三光の星を戴き、朝にはけうくんの霧を払い、玄冬素雪の冬の夜も、九夏三伏の夏の朝にも、日夜朝暮片時も離れ奉らず仕へ奉りし御主の、御名残も今ばかりなりければ、日頃は坂上の田村丸、藤原の利仁にも劣らじと思ひしが、流石に今は心細くぞ思ひける。十六人の人々も、面々に暇乞して、前後不覚にぞなりにける。又判官、忠信を近く召して仰せられけるは、「御辺が帯きたる太刀は、寸の長き太刀なれば、流れに臨んでは叶ふまじ。身疲れたる時、太刀の延びたるは悪しかりなん。是を以て最後の軍せよ」とて、金作の太刀の二尺七寸有りけるに、剣の樋かきて、地膚心も及ばざるを取り出だして賜はりけり。「此の太刀寸こそ短けれども、身に於ては一物にてあるぞ、義経も身に変へて思ふ太刀なり。それを如可にと言ふに、平家の兵、兵船を揃へし時に、熊野の別当の、権現の御剣を申し下して賜はりしを、信心を致したりしに依りてや、三年に朝敵を平らげて、義朝の会稽の恥をも雪ぎたりき。命に代へて思へども、御辺も身に代へれば取らするぞ。義経に添うたりと思へ」とぞ仰せられける。四郎兵衛是を賜はりて戴き、「あはれ御帯刀や。是御覧候へ。兄にて候ひし継信は、屋嶋の合戦の時、君の御命に代はり参らせて候ひしかば、奥州の秀衡が参らせて候ひし、大夫黒賜はりて、黄泉にても乗り候ひぬ。忠信忠を致し候へば、御秘蔵の御帯刀賜はり候ひぬ。是を人の上と思召すべからず。誰も誰も皆かくこそ候はんずれ」と申しければ、各涙をぞ流しける。判官仰せられけるは、「何事か思ひ置く事のある」「御暇賜はり候ひぬ。何事を思ひ置くべしとも覚え候はず。但し末代までも弓矢の瑕瑾なるべし。少し申し上げたき事の候へ共、恐れをなして申さず候ふ」と申しければ、「最後にてあるに、何事ぞ、申せかし」と仰せを蒙り、跪きて申しけるは、「君は大勢にて落ちさせ給はば、身は是に一人止まり候ふべし。吉野の執行押し寄せ候ひて、「是に九郎判官殿の渡らせ給ひ候ふか」と申し候はんに、「忠信」と名乗り候はば、大衆は極めたる華飾の者にて候へば、大将軍も御座しまさざらん所にて、私軍益なしとて帰り候はん事こそ、末代まで恥辱になりぬべく候へ。今日ばかり清和天皇の御号を預かるべくや候ふらん」とぞ申しける。「尤もさるべき事なれども、純友将門も天命を背き参らせしかば、遂に亡びぬ。況してや言はん、「義経は院宣にも叶はず、日頃好有りつる者共心変はりしつる上、力及ばず、今日を暮し夕を明かすべき身にても無ければ、遂に遁れ無からんもの故に、清和の名を許しけり」と言はれん事は、他の謗をば、如何すべき」と仰せられければ、忠信申しけるは、「様にこそより候はんずれ。大衆押し寄せて候はば、箙の矢を散々に射尽くし、矢種尽きて、太刀を抜き、大勢の中へ乱れ入り切りて後に、刀を抜き、腹を切り候はん時、「誠に是は九郎判官と思ひ参らせ候はんずるなり。実には御内に佐藤四郎兵衛と言ふ者なり。君の御号を借り参らせて、合戦に忠を致しつるなり。首を持つて鎌倉殿の見参に入れよ」とて、腹掻き切り死なん後は、君の御号も何か苦しく候はん」とぞ申しける。「尤も最後の時、斯様にだに申し分けて死に候ひなば、何か苦しかるべき、殿原」と仰せられて、清和天皇の御号を預かる。是を現世の名聞、後世の訴とも思ひける。「御辺が著たる鎧は如何なる鎧ぞ」と仰せ有りければ、「是は継信が最後の時著て候ひし」と申せば、「それは能登守の矢にたまらず透りたりし鎧ぞ、頼む所なし。衆徒の中にも聞こゆる精兵の有りけるぞ。是を著よ」とて、緋威の鎧に白星の兜添へて賜はりけり。著たりける鎧脱ぎて、雪の上に差し置き、「雑色共に賜び候へ」と申しければ、「義経も著替へべき鎧もなし」とて、召しぞ替へられける。実に例無き御事にぞ有りける。「さて故郷に思ひ置く事は無きか」と仰せられければ、「我も人も衆生界の習ひにて、などか故郷の事思ひ置かぬ事候ふべき。国を出でし時、三歳になり候ふ子を、一人留め置きて候ひしぞ。彼の者心付きて、父は何処にやらんと尋ね候ふべきなれば、聞かまほしくこそ候へ。平泉を出でし時、君ははや御たち候ひしかば、鳥の鳴いて通る様に、信夫を打ち通り候ひしに、母の御所に立ち寄り、暇乞ひ候ひしかば、齢衰へて、二人の子供の袖にすがりて悲しみ候ひし事、今の様に覚へ候へ。「老の末になりて、我ばかり物を思ふ、子供に縁の無き身なりけり。信夫の庄司に過ぎ別れ、偶々近づきて不便にあたられし伊達の娘にも過ぎ分れ、一方ならぬ嘆きなれども、和殿原を成人させて、一所にこそ無けれども、国の内に有りと思へば、頼もしくこそ思ひつるに、秀衡何と思召し候ふやらん、二人の子供を皆御供せさせ給へば、一旦の恨みはさる事なれども、子供を成人せさせて、人数に思はれ奉るこそ嬉しけれ。隙無く合戦に会ふとも、臆病の振舞して、父の屍に血をあえし給ふなよ。高名して、四国西国の果に在すとも、一年二年に一度も命の有らん程は、下りて見もし、見えられよ。一人止まりて、一人絶えたるだに悲しきに、二人ながら遙々と別れては、如何せん」と申す声をも惜しまず泣き候ひしを振り捨てて、「さ承り候ふ」とばかり申して打ち出で候ふより此のかた、三四年遂に音信も仕らず。去年の春の頃、わざと人を下して、「継信討たれ候ひぬ」と告げて候ひしかば、斜ならず悲しみ候ひけるが、「継信が事はさて力及ばず、明年の春の頃にもなりなば、忠信が下らんと言ふ嬉しさよ。早今年の過ぎよかし」なんど待ち候ふなるに、君の御下り候はば、母にて候ふ者、急ぎ平泉へ参り、「忠信は何処に候ふぞ」と申さば、継信は屋嶋、忠信は吉野にて討たれけると承りて、如何ばかり歎き候はんずらん。それこそ罪深く覚えて候へ。君の御下り候ひて、御心安く渡らせ御座しまし候はば、継信忠信が孝養は候はずとも、母一人不便の仰せをこそ預かりたく候へ」と申しも果てず、袖を顔に押し当てて泣きければ、判官も涙を流し給ふ。十六人の人々も皆鎧の袖をぞ濡らしける。「さて一人留まるか」と仰せられければ、「奥州より連れ候ひし若党五十四人候ひしが、或いは死に或いは故郷へ返し候ひぬ。今五六人候ふこそ死なんと申すげに候へ」「さて義経が者は留まらぬか」と仰せられければ、「備前、鷲尾こそ留まらんと申し候へども、君を見つぎ参らせよとて留め申さず候ふ。御内の雑色二人も「何事も有らば一所にて候ふ」と申し候ふ間、留まるげに候ふ」と申しければ、判官聞召して、「彼等が心こそ神妙なれ」とぞ仰せける。

忠信吉野山の合戦の事

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それ師の命に代はりしは、内供智興の弟子証空阿闍梨、夫の命に代はりしは、薫豊が節女なりけり。今命を捨て身を捨てて、主の命に代はり、名をば後代に残すべき事、源氏の郎等に如くはなし。上古は知らず、末代に例有り難し。義経今は遙かにのびさせ給ふらんと思ひ、忠信は三滋目結の直垂に、緋威の鎧、白星の兜の緒を締め、淡海公より伝はりたるつつらいと言ふ太刀三尺五寸有りけるを帯き、判官より賜はりたる黄金造りの太刀を帯副にし、大中黒の廿四さしたる、上矢には青保呂、鏑の目より下六寸ばかりあるに、大の雁股すげて、佐藤の家に伝へて差す事なれば、蜂食の羽を以て矧いだる一つ中差を何れの矢よりも一寸筈を出だして指したりけるを、頭高に負ひなし、節木の弓の戈短く射よげなるを持ち手勢七人、中院の東谷に留まりて、雪の山を高く築きて、譲葉榊葉を散々に切り差して、前には大木を五六本楯に取りて、麓の大衆二三百人を今や今やとぞ待ちたりける。未の終申の刻の始めになりけるまで待ちけれ共、敵は寄せざりけり。かくて日を暮すべき様もなし。「いざや追ひ著き参らせて、判官の御伴申さん」と陣を去りて二町ばかり尋ね行きけれども、風烈しくて雪深ければ、其の跡も皆白妙になりにければ、力及ばず、前の所へ帰りにけり。酉の時ばかりに大衆三百人ばかり谷を隔てて押し寄せて、同音に鬨をぞつくりける。七人も向ひの杉山の中より幽に鬨を合はせけり。さてこそ敵此処に有りとは知られけれ。其の日は執行の代官に川つら法眼と申して悪僧有り。寄足の先陣をぞしたりける。法師なれども尋常に出で立ちけり。萌黄の直垂に紫糸の鎧著て、三枚兜の緒締めて、しんせい作りの太刀帯き、石打の征矢の二十四差したるを頭高に負ひなして、二所籐の弓の真中取りて、我に劣らぬ悪僧五六人前後に歩ませて、真先に見えたる法師は四十ばかりに見えけるが、褐の直垂に黒革威の腹巻、黒漆の太刀を帯き、椎の木の四枚楯突かせ、矢比にぞ寄せたりける。川つらの法眼楯の面に進み出でて、大音揚げて申しけるは、「抑此の山には鎌倉殿の御弟判官殿の渡らせ給ひ候ふ由承りて、吉野の執行こそ罷り向ひ候へ。私等は、何の遺恨候はねば、一先づ落ちさせ給ふべく候ふか、又討死遊ばし候はんか。御前に誰がしが御渡り候ふ。良き様に申され候へや」と賢々しげに申したりければ、四郎兵衛是を聞きて、「あら事も愚や、清和天皇の御末、九郎判官殿の御渡り候ふとは、今まで御辺達は知らざりけるか。日頃好みあるは、訪ひ参らせたらんは、何の苦しきぞ。人の讒言に依つて鎌倉殿御仲当時不和に御座しますとも、■なれば、などか思召し直し給はざらん、あはれ末の大事かな。仔細を向うて聞けと言ふ御使、何者とか思ふらん。鎌足の内大臣の御末、淡海公の後胤、佐藤左衛門憲たかには孫、信夫の庄司が二男、四郎兵衛の尉藤原の忠信と言ふ者なり。後に論ずるな、慥に聞け、吉野の小法師原」とぞ言ひける。川つらの法眼是を聞きて、賎しげに言はれたりと思ひて、悪所も嫌はず、谷越に喚いてぞかかる。忠信是を見て、六人の者共に逢ひて申しけるは、「是等を近づけては悪しかるべし。御辺達は是にて敵の問答をせよ。某は中差二三つに弓持ちて、細谷河の水上を渡り、敵の後ろに狙ひ寄り、鏑一つぞ限にて有らん。楯突いて居たる悪僧奴が、首の骨か押付かを一矢射て、残の奴原追ひ散らし、楯取りて打ち被き、中院の峰に上りて、突き迎へて、敵に矢を尽くさせ、味方も矢種の尽きば、小太刀抜き、大勢の中へ走り入りて、切り死に死ねや」とぞ申しける。大将軍がよかりければ、付き添ふ若党も一人として悪きはなし。残りの者共申しけるは、「敵は大勢にて候ふに、仕損じ給ふなよ」と申しければ、「置いて物を見よ」とて、中差、鏑矢一おつ取り添へて、弓杖突き、一番の谷を走り上がりて、細谷河の水上を渡り、敵の後ろの小暗き所より狙ひ寄りて見れば、枝は夜叉の頭の如くなる臥木有り。づと登り上がりて見れば、左手に相付けて、矢先に射よげにぞ見えたりける。三人張に十三束三つ伏取つて矧げ、思ふ様に打ち引きて、鏑元へからりと引き掛けて、暫し固めてひやうど射る。末強に遠鳴して、楯突きたる悪僧の弓手の小腕を、楯の板を添へてづと射切り、雁股は手楯に立つ。矢の下にがはとぞ射倒したる。大衆大いに呆れたる所に、忠信弓の下を叩いて喚くやう、「よしや者共、勝に乗りて、大手は進め、搦手は廻れや。伊勢の三郎、熊井太郎鷲尾、備前は無きか。片岡の八郎よ、西塔の武蔵坊は無きか。しやつ原逃すな」と喚きければ、川つらの法眼是を聞きて、「真や判官の御内には、是等こそ手にもたまらぬ者共なれ。矢比に近づきては適ふまじ」とて、三方へ向いてざつと散る。物に譬ふれば、龍田、初瀬の紅葉葉の嵐に散るに異ならず。敵追ひ散らして、楯取つて打ち披き、味方の陣へ突き迎へて、七人は手楯の陰に並み居たり。敵に矢をぞ尽くさせける。大衆手楯を取られ、安からぬ事に思ひ、精兵を選つて矢面に立ち、散々に射る。弓の弦の音、杉山に響く事夥し。楯の面に当たる事、板屋の上に降る霰、砂子を散らす如くなり。半時ばかり射けれ共、矢をば射ざりけり。六人の者共思ひ切りたる事なれば、「何時の為に命をば惜しむべきぞ。いざや軍せん」とぞ申しける。四郎兵衛是を聞きて申しけるは、「只置ひて矢種を尽くさせよ。吉野法師は今日こそ軍の始めなれ、やがて矢も無き弓を持ち、其の門弟と渦巻いたらんずる隙を守りて、散々に射払ひて、味方の矢種尽きば、打物の鞘を外し、乱れ入りて討死せよ」と言ひも果てざりけるに、大衆所々に佇まひて立ちたり。「あはれ隙や、いざや軍せん」とて、射向の袖を楯として、散々にこそ射たりけれ。暫く有りて後ろへぱつとのいて見れば、六人の郎等も四人は打たれて二人になる。二人も思ひ切りたる事なれば、忠信を射させじとや思ひけん。面に立ちてぞ防ぎける。一人は医王禅師が射ける矢に、首の骨を射られて死ぬ。一人は治部の法眼が射ける矢に脇壷射られて失せにけり。六人の郎等皆討たれければ、忠信一人になりて、「中々えせ方人有りつるは、足に紛れて悪かりつるに」と言ひて、箙を探りて見ければ、尖矢一つ、雁股一つぞ射残して有りける。あはれよからん敵出で来よかし。尋常なる矢一つ射て、腹切らんとぞ思ひける。河つらの法眼は其の日の矢合に仕損じて、何の用にも合はせで、其の門弟三十人ばかり、疎に渦巻いて立ちたる、後ろより其の丈六尺許りなる法師の、極めて色黒かりけるが、装束も真黒にぞしたりけるが、褐の直垂に、黒革を二寸に切つて一寸は畳みて威したる鎧に五枚兜のためしたるを猪頚に著なして、三尺九寸有りける黒漆の太刀に、熊の皮の尻鞘入れてぞ帯きたりける。逆頬箙矢配尋常なるに、塗箆に黒羽を以て矧ぎたる矢の箆の太さは笛竹などの様なるが、箆巻より上十四束にたぶたぶと切りたるを、掴差しに差して頭高に負ひなし、糸包の弓の九尺ばかり有りける四人張を杖に突き、臥木に登りて申しけるは、「抑此の度衆徒の軍拝見して候ふに、誠に憶持も無くしなされて候ふ物かな。源氏を小勢なればとて、欺きて仕損ぜられて候ふかや。九郎判官と申すは、世に超えたる大将軍なり。召し使はるる者一人当千ならぬはなし。源氏の郎等も皆討たれ候ひぬ。味方の衆徒大勢死に候ひぬ。源氏の大将軍と大衆の大将軍と運比べの軍仕り候はん。かく申すは何者ぞやと思召す、紀伊国の住人鈴木党の中に、さる者有りとは、予て聞召してもや候ふらん。以前に候ひつる河つらの法眼と申す不覚人には似候ふまじ。幼少の時よりして腹悪しきえせものの名を得候ひて、紀伊国を追ひ出だされて、奈良の都東大寺に候ひし、悪僧立つる曲者にて東大寺も追ひ出だされて、横川と申す所に候ひしが、それも寺中を追ひ出だされて、川つらの法眼と申す者を頼みて、此の二年こそ吉野には候へ。然ればとて横川より出で来たり候ふとて、其の異名を横河の禅師覚範と申す者にて候ふが、中差参らせて現世の名聞と存ぜうずるに、御調度給ひては、後世の訴へとこそ存じ候はんずれ」と申して、四人張りに十四束を取つて矧げ、かなぐり引きによつ引きてひやうど放つ。忠信弓杖突きて立ちたるを、弓手の太刀打をば射て射越し、後ろの椎の木に沓巻せめて立つ。四郎兵衛是を見て、はしたなく射たる物かな、保元の合戦に鎮西の八郎御曹司の、七人張りに十五束を以て遊ばしたりしに、鎧著たるものを射貫き給ひしが、それは上古の事末代には如何でか是程の弓勢あるべしとも覚えず、一の矢射損じて、二の矢をば直中を射んとや思ふらん。胴中射られて叶はじと思ひければ、尖矢を差し矧げてあてては、差し許し差し許し二三度しけるが、矢比は少し遠し、風は谷より吹き上ぐる、思ふ所へはよも行かじ、仮令射中てたりとも、大力にて有るなれば、鎧の下に札良き腹巻などや著たるらん、裏掻かせずしては、弓矢の疵になりなん、主を射ば射損ずる事もあるべし、弓を射ばやとぞ思ひける。大唐の養由は、柳の葉を百歩に立て、百矢を射けるに百矢は中りけるとかや。我が朝の忠信は、こうがいを五段に立てて射外さず。まして弓手のものをや。矢比は少し遠けれども、何射外すべきとぞ思ひける。矧げたる矢をば雪の上に立て、小雁股を差し矧げて、小引に引きて待つ所に覚範一の矢を射損じて、念無く思ひなして、二の矢を取つて番ひ、そぞろ引く所をよつ引いてひやうど射る。覚範が弓の鳥打をはたと射切られて、弓手へ棄げ捨て、腰なる箙かなぐり棄て、「我も人も運の極めは、前業限り有り。さらば見参せん」とて、三尺九寸の太刀抜き、稲妻の様に振りて、真向に当てて喚いて懸かる。四郎兵衛も思ひ設けたる事なれば、弓と箙を投げ棄てて、三尺五寸のつつらいと言ふ太刀抜きて待ち懸けたり。覚範は象の牙を磨くが如く喚いて懸かる。四郎兵衛も獅子の怒をなして待ち懸けたり。近づくかとすれば、逸りきつたる太刀の左手も右手も嫌はず、■打ちに散々に打つてかかる。忠信も入れ交へてぞ斬り合ひける。打ち合はする音のはためく事、御神楽の銅拍子を打つが如し。敵は大太刀を持つて開いたる、脇の下よりづと寄りて、新鷹の鳥屋を潛らんとする様に、錏を傾け乱れ入りてぞ切つたりける。大の法師攻め立てられて、額に汗を流し、今は斯うとぞ思ひける。忠信は酒も飯もしたためずして、今日三日になりければ、打つ太刀も弱りける。大衆は是を見て、「よしや覚範勝に乗れ、源氏は受太刀に見え給ふぞ。隙な有らせそ」と、力を添へてぞ切らせける。暫しは進みて切りけるが、如何したりけん、是も受刀にぞなりにける。大衆是を見て、「覚範こそ受刀に見ゆれ。いざや下り合ひて助けん」と言ひければ、「尤もさあるべし」とて、落ち合ふ大衆誰々ぞ。医王禅師、常陸の禅師、主殿助、薬院の頭、かへりさかの小聖、治部の法眼、山科の法眼とて、究竟の者七人喚きて懸かる。忠信是を見て、夢を見る様に思ふ所に、覚範叱つて申しけるは、「こは如何に衆徒、狼藉に見え候ふぞや、大将軍の軍をば、放ち合はせてこそ物を見れ。落ち合ひては末代の瑕瑾に言はんずる為かや。末の世の敵と思はんずるぞや」と申す間「落ち合ひたりとても、嬉しとも言はざらんもの故に、只放ち合はせて物を見よ」とて、一人も落ち合はず。忠信は憎し、彼奴一引き引きて見ばやとぞ思ひける。持ちたる太刀を打ち振りて、兜の鉢の上にからりと投げ懸けて、少しひるむ所を帯副の太刀を抜きて走りかかりて、ちやうど打つ。内冑へ太刀の切先を入れたりけり。あはやと見ゆる所に、錏を傾けてちやうど突く。鉢付をしたたかに突かれけれ共、頚には仔細なし。忠信は三四段ばかり引いて行く。大の臥木有り。たまらずゆらりとぞ越えにける。覚範追ひ掛けてむずと打つ。打ち外して臥木に太刀を打ち貫きて、抜かん抜かんとする隙に、忠信三段ばかりするすると引く。差し覗きて見れば、下は四十丈許りなる磐石なり。是ぞ龍返しとて、人も向はぬ難所なる。左手も右手も、足の立て所も無き深き谷の、面を向くべき様もなし。敵は後ろに雲霞の如くに続きたり。此処にて切られたらば、敢無く討たれたるとぞ言はれんずる。彼処にて死にたらば、自害したりと言はれんと思ひて、草摺掴んで、磐石へ向ひて、えいや声を出だして跳ねたりけり。二丈許り飛び落ちて、岩の間に足踏み直し、兜の錏押しのけて見れば、覚範も谷を覗きてぞ立ちたりける。「正無く見えさせ給ふかや。返し合はせ給へや。君の御供とだに思ひ参らせ候はば、西は西海の博多の津、北は北山、佐渡の島、東は蝦夷の千島までも御伴申さんずるぞ」と申しも果てず、えい声を出だして跳ねたりけり。如何したりけん、運の極めの悲しさは、草摺を臥木の角に引き掛けて、真逆様にどうど転び、忠信が打物提げて待つ所へ、のさのさと転びてぞ来たりける。起上がる所を、以て開いてちやうど打つ。太刀は聞こゆる宝物なり。腕は強かりけり。兜の真向はたと打ち割り、しや面を半ばかりぞ切り付けける。太刀を引けば、がはと伏す。起きん起きんとしけれども、只弱りに弱りて、膝を抑へて唯一声、うんとばかりを後言にして、四十一にてぞ死ににける。思ふ所に斬り伏せて、忠信は斬し休みて、抑へて首を掻き、太刀の先に貫きて、中院の峰に上りて、大の声を以て、「大衆の中に此の首見知りたる者やある。音に聞こえたる覚範が首をば義経が取りたるぞ。門弟有らば取りて孝養せよ」とて雪の中へぞ投げ入れたる。大衆是を見て、「覚範さへも叶はず、まして我等さこそ有らんず。いざや麓に帰りて、後日の僉議にせん」と申しければ、穢し、共に死なんと申す者も無くて、「此の儀に同ず」と申して、大衆は麓に帰りければ、忠信独り吉野に捨てられて、東西を聞きければ、甲斐無き命生きて、「我を助けよ」と言ふ者も有り。空しき輩も有り。忠信郎等共を見けれども、一人も息の通ふ者なし。頃は廿日の事なれば、暁かけて出づる月宵は未だ暗かりけり。忠信は必らず死なれざらん命を死なんとせんも詮なし。大衆と寺中の方へ行かんとぞ思ひける。兜をば脱いで高紐に掛け、乱したる髪取り上げ、血の付きたる太刀拭ひて打ちかつぎ、大衆より先に寺中の方へぞ行きける。大衆是を見て、声々に喚きける。「寺中の者共は聞かぬかや。判官殿は山の軍に負け給ひて、寺中へ落ち給ふぞ。それ逃がし奉るな」とぞ喚きける。風は吹く、雪は降る。人々是を聞き付けず。忠信は大門に差し入りて、御在所の方を伏し拝み、南大門を真下りに行きけるが、左の方に大なる家有り。是は山科の法眼と申す者の坊なり。差し入りて見れば、方丈には人一人もなし。庫裡の傍らに法師二人児三人居たり。様々の菓子共積みて、瓶子の口包ませ立てたりけり。四郎兵衛是を見て、「是こそ良き所なれ。何ともあれ、汝が酒盛の銚子はそれんずらん」と、太刀打ちかたげて縁の板をがはと踏みて、荒ららかにづと入る。児も法師も如何でか驚かであるべき。腰や抜けたりけん、高這にして三方へ逃げ散る。忠信思ふ座敷にむずと居直り、菓子共引き寄せて、思ふ様にしたためて居たる所に、敵の声こそ喚きけれ。忠信是を聞きて、提子盃取り廻らん程に、時刻移しては叶はずと思ひ、酒に長じたる男にて、瓶子の口に手を入れて、傍らを引きこぼして打ち飲みて、兜は膝の下に差し置き、小しも騒がず、火にて額焙りけるが、重き鎧は著たり、雪をば深く漕ぎたり。軍疲れに酒は飲みつ、火にはあたる、敵の寄手喚くをば、夢に見て眠り居たりけり。大衆此処に押し奇せて、「九郎判官是に御渡り候ふか、出でさせ給へ」と言ひける声に驚いて、兜を著、火を打ち消して、「何に憚りをなすぞや。志のある者は此方へ参れや」と申しけれども、命を二つ持ちたらばこそ、左右無くも入らめ、只外に渦巻いゐたり。山科の法眼申しけるは、「落人を入れて、夜を明かさん事も心得ず、我等世にだにも有らば、是程の家一日に一つづつも造りけん。只焼き出だして射殺せ」とこそ申しける。忠信是を聞きて、敵に焼き殺されて有りと言はれんずるは、念も無き事なり。手づから焼け死にけると言はれんと思ひて、屏風一具に火を付けて、天井へなげ上げたり。大衆是を見て、「あはや内より火を出だしたるは。出で給はん所を射殺せ」とて、矢を矧げ太刀長刀を構へて待ちかけたり。焼き上げて忠信、広縁に立ちて申しけるは、「大衆共万事を鎮めて是を聞け。真に判官殿と思ひ奉るかや。君は何時か落ちさせ給ひけん。是は九郎判官殿にては、渡らせ給はぬぞ。御内に佐藤四郎兵衛藤原の忠信と言ふ者なり。我が討ち取る人の、討ち取りたりと言ふべからず。腹切るぞ。首を取りて、鎌倉殿の見参に入れよや」とて、刀を抜き、左の脇に刺し貫く様にして、刀をば鞘にさして、内へ飛んで帰り、走り入り、内殿の引橋取つて、天井へ上りて見ければ、東の鵄尾は未だ焼けざりけり。関板をがはと踏み放し、飛んで出で見ければ、山を切りて、かけ作りにしたる楼なれば、山と坊との間一丈余りには過ぎざりけり。是程の所を跳ね損じて、死ぬる程の業になりては力及ばず。八幡大菩薩、知見を垂れ給へと祈誓して、えい声を出だして跳ねたりければ、後ろの山へ相違無く飛び付きて、上の山に差し上がり、松の一叢有りける所に鎧脱ぎ、打ち敷きて、兜の鉢枕にして、敵の周章狼狽く有様を見てぞ居たりける。大衆申しけるは、「あら恐ろしや。判官殿かと思ひつれば、佐藤四郎兵衛にて有りけるものを。欺られ多くの人を討たせつるこそ安からね。大将軍ならばこそ首を取つて鎌倉殿の見参にも入れめ。憎し、只置きて焼き殺せや」とぞ言ひける。火も消え、炎も鎮まりて後、焼けたる首をなりとも、御坊の見参に入れよとて、手々に探せ共、自害もせざりければ、焼けたる首もなし。さてこそ大衆は、「人の心は剛にても剛なるべき者なり。死して後までも屍の上の恥を見えじとて、塵灰に焼け失せたるらめ」と申して、寺中にぞ帰りける。忠信、其の夜は蔵王権現の御前にて夜を明かし、鎧をば権現の御前に差し置きて、廿一日の曙に御岳を出でて、二十三日の暮程に、危き命生きて、二度都へぞ入りにける。

吉野法師判官を追ひかけ奉る事

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さても義経、十二月廿三日にくうしやうのしやう、しいの嶺、譲葉の峠と言ふ難所を越えて、こうしうが谷にかかりて、桜谷と言ふ所にぞ御座しける。雪降り埋み氷凍て、一方ならぬ山路なれば、皆人疲れに臨みて、太刀を枕にしなどして臥したりけり。判官心許無く思召して、武蔵坊を召して仰せられけるは、「抑此の山の麓に義経に頼まれぬべきものやある。酒を乞ひて疲れを休めて、一先づ落ちばや」とぞ仰せける。弁慶申しけるは、「誰か心安く頼まれ参らせ候はんとも覚えず候ふ。但し此の山の麓に弥勒堂の立たせ御座しまし候ふ。聖武天皇の御建立の所にて、南都の勧修坊の別当にて渡らせ給ひ候へば、其の代官に御岳左衛門と申し候ふ者、俗別当にて候ふ」と申しければ、「頼む方は有りけるごさんなれ」と仰せられて、御文遊ばして、武蔵坊に賜ぶ。麓に下りて、左衛門に此の由言ひければ、「程近く御座しましけるに、今まで仰せ蒙らざりけるよ」とて、身に親しき者五六人呼びて、様々の菓子積み、酒、飯共に長櫃二合、桜谷へぞ参らせける。是程心安かりける事をと仰せられて、十六人の中に二合の長櫃掻き据ゑて、酒に望みをなす人も有り、飯をしたためんとする人も有り。思ふげに取り散らして行はんとし給ふ所に東の杉山の方に人の声幽に聞こえけるを怪しとや思召されけん、「売炭の翁も通はねば、炭焼とも覚えず。峰の細道遠ければ、賎が爪木の斧の音共思はれず」と後ろをきつと見給へば、一昨日中院の谷にて四郎兵衛に打ち洩らされたる吉野法師、未だ憤り忘れずして、甲冑をよろひて、百五十ぞ出で来たる。「すはや、敵よ」と宣ひければ、骸の上の恥をも顧みず、皆散り散りにぞなりにける。常陸坊は人より先に落ちにけり。跡を顧みければ、武蔵坊も君も未だ元の所に働かずして居給ふ。「我等が是まで落つるに、此の人々留まり給ふは如何なる事をか思召すやらん」と申しも果てざりけるに、二合の長櫃を一合づつ取りて、東の磐石へ向けて投げ落とし、積みたる菓子をば雪の外に心静かに掘り埋みてぞ落ち給ひける。弁慶は遙かの先に延びたる常陸坊に追ひ著き、「各々跡を見るに、曇無き鏡を見るが如し。誰も命惜しくは、履を逆さまに履きて落ち給へや」とぞ申しける。判官是を聞き給ひて、「武蔵坊は奇異の事を常に申すぞとよ。如何様に履をば逆様に履くべきぞ」と仰せ有りければ、武蔵坊申しけるは、「さてこそ君は梶原が船に逆櫓と言ふ事を申しつるに、御笑ひ候ひつる」と申せば、「真に逆櫓と言ふ事も知らず。まして履を逆さまに履くと言ふ事は、今こそ初めて聞け。さらば善悪履きて、末代の瑕瑾にもなるまじくは履くべし」とぞ宣ひける。弁慶「さらば語り申さん」とて、十六の大国、五百の中国、無量の粟散国までの代々の帝の次第次第其の合戦の様を語り居たれば、敵は矢比に近づけども、真円に立ち並びて、静々とぞ語らせて聞き給ふ。「十六の大国の内に、西天竺と覚えて候ふ、しらない国、波羅奈国と申す国有り。彼の国の境に香風山と申す山有り。麓に千里の広野有り。此の香風山は宝の山とて、容易く人をも入れざりしを、波羅奈国の王、此の山を取らんと思召して、五十一万騎の軍兵を具して、しらない国へ打ち入り給ふ。彼の国の王も賢王にて渡らせ給ひける間、予て是を知り給ふ事有り。香風山の北の腰に千の洞と言ふ所有り。是に千頭の象有り。中に一の大象有り。国王此の象を取りて飼ひ給ふに、一日に四百石を食む。公卿僉議有りて、「此の象を飼ひ給ひては、何の益かましまさん」と申されければ、帝の仰せには、「勝合戦に遭ふ事無からんや」と宣旨を下し給ひしに、思ひの外に此の戦出で来にければ、武士を向けられず、此の象を召して御口を耳にあてて、「朕が恩を忘るるな」と宣旨を含めて、敵の陣へ放ち給ふ。大象怒をなして、悪象なれば、天に向ひて一声吼えければ、大なる法螺貝千揃へて吹くが如し其の声骨髄に通りて堪え難し。左の足を差し出だして、其方を踏みければ、一度に五十人の武者を踏み殺す。七日七夜の合戦に五十一万騎皆討たれぬ。供奉の公卿侍三人上下十騎に討ちなされ、香風山の北の腰へ逃げ篭り給ふ。頃は神無月廿日余りの事なれば、紅葉麓に散り敷きて、むらむら雪の曙を踏みしだきて落ち行く。国王御身を助けん為にや、履を逆さまに履きて落ち給ふ。先は後、後は先にぞなりにける。追手是を見て、「是は異朝の賢王にてましませば、如何なる謀にてやあるらん。此の山は虎臥す山なれば、夕日西へ傾きては、我等が命も測り難し」とて、麓の里にぞ帰りける。国王御命を助かり給ひて、我が国へ帰りて、五十六万騎の勢を揃へて、今度の合戦に打ち勝つて、悦び重ね給ひしも、履を逆さまに履き給ひし謂はれなり。異朝の賢王もかくこそましませしか、君は本朝の武士の大将軍、清和天皇の十代の御末になり給へり。「敵奢らば我奢らざれ。敵奢らざる。我奢れ」と申す本文有り、人をば知るべからず、弁慶に於ては」とて、真先に履いてぞ進みける。判官是を見給ひて、「奇異の事を見知りたるや。何処にて是をば習ひけるぞ」と仰せられければ、「桜本の僧正の許に候ひし時、法相三論の遺教の中に書きて候ふ」と申しけり。「あはれ文武二道の碩学や」とぞ讚めさせ給ふ。武蔵坊「我より外に心も剛に案も深き者有らじ」と自称して、心静かに落ちけるに、大衆程無くぞ続きける。其の日の先陣は治部の法限ぞしたりける。衆徒に会うて申しけるは、「此処に不思議のあるは如何に。今までは谷へ下りてある跡の、今は又谷より此方へ来たる、如何」と申しければ、後陣に医王禅師と言ふ者走り寄りて、是を見て、「さる事あるらん。九郎判官と申すは、鞍馬育の人なり、文武二道に越えたり、付き添ふ郎等共も一人当千ならぬはなし。其の中に法師二人有り。一人は園城寺の法師に常陸坊海尊とて修学者なり。一人は桜本の僧正の弟子、武蔵坊と申すは、異朝我が朝の合戦の次第を明々に存じたる者にてある間、香風山の北の腰にて、一頭の象に攻め立てられて、履を逆さまに履き落ちたる、波羅奈国の帝の先例を引きたる事もあるらん。隙な有らせそ、只追ひ掛けよや」と申しけり。矢比になるまでは音もせで、近づきて同音に鬨をどつと作りければ、十六人一同に驚く所に、判官「もとより言ふ事を聞かで」と宣ひければ、聞かぬ由にて錏を傾けて、揉みに揉うでぞ落ち行きける。此処に難所一つ有り。吉野河の水上白糸の滝とぞ申しける。上を見れば五丈ばかりなる滝の、糸を乱したるが如し。下を見れば三丈歴々とある紅蓮の淵、水上は遠し、雪汁水に増りて、瀬々の岩間を叩く波、蓬莱を崩すが如し。此方も向ひも水の上は二丈ばかりなる磐石の屏風を立てたるが如し。秋の末より冬の今まで、降り積む雪は消えもせで、雪も氷も等しく、偏へに銀箔を延べたるが如し。武蔵坊は人より先に川の端に行きて見ければ、如何にして行くべき共見えず。然れども人をいためんとや思ひけん、又例の事なれば、「是程の山河を遅参し給ふか。是越し給へや」とぞ申しける。判官宣ひけるは、「何として是をば越すべきぞ。只思ひ切つて腹切れや」とぞ宣ひける。弁慶申しけるは、「人をば知るべからず、武蔵は」とて川の端へ寄りけるが、双眼を塞ぎ祈誓申しける。「源氏の誓まします八幡大菩薩は、何時の程に我が君をば忘れ参らせ給ふぞ。安穏に守り納受し給へ」と申す。目を開き、見たりければ、四五段許り下に興ある節所有り。走り寄りて見れば、両方差し出でたる山先の如くに水は深くたぎりて落ちたるが、向ひを見れば岸の崩れたる所に、竹の一叢生ひたる中に、殊に高く生ひたる竹三本、末は一つにむつれて、日頃降りたる雪に押されて、河中へ撓みかかりたるが、竹の葉には瓔珞を下げたるに似たる垂氷ぞ下りける。判官も是を見給ひて、「義経とても越えつべしとは覚えねども、いでや瀬踏みして見ん。越し損じて川へ入らば、誰も続きて入れよ」と仰せければ、「さ承り候ひぬ」とぞ申しける。判官其の日の装束は赤地の錦の直垂に紅裾濃の鎧に白星の兜の緒をしめ、黄金造りの太刀帯き、大中黒の矢頭高に負ひなし、弓に熊手を取り添へ、左手の脇にかい挟み、川の端に歩み寄りて、草摺搦んで錏を傾け、えい声を出だして跳ね給ふ。竹の末にがはと飛び付きて、相違無くするりと渡り給ふ。草摺の濡れたりけるを、さつさつと打ち払ひ、「其方より見つるよりは、物にては無かりけり。続けや殿原」と仰せを蒙り、越す者は誰々ぞ。片岡、伊勢、熊井、備前、鷲尾、常陸坊、雑色駿河次郎、下部には喜三太、是等を始めて十六人が十四人は越えぬ。今二人は向ひに有り、一人は根尾の十郎、一人は武蔵坊なり。根尾越えんとする所に、武蔵坊射向の袖を控へて申しけるは、「御辺の膝の顫ひ様を見るに、堅固叶ふまじ。鎧脱ぎて越せよや」と申しける。「皆人の著て越ゆる鎧を、某一人脱ぐべき様は如何に」と言ひければ、判官是を聞き給ひて、「何事を申すぞ。弁慶」と問ひ給へば、「根尾に鎧脱ぎて渡れと申し候ひし」と申せば、「和君が計らひにひらに脱がせよ」とぞ仰せける。皆人は三十にも足らぬ健者共なり。根尾は其の中に老体なり。五十六にぞなりにける。「理を枉げて都に留まれ」と、度々仰せけれ共、「君にて渡らせ給ひし程は、御恩にて妻子を助け、君又斯くならせ給へば、我都に留まりて、初めて人に追従せん事詮なし」とて、思ひ切りてぞ、是まで参りける。仰せに従ひて、鎧に具足を脱ぎ置き、かくても叶ふべしとも覚えねば、弓の弦を外し集めて、一つに結び、端を向ひに投げ越して、「其方へ引け。強く控へよ。ちやうど取り付け」とて、下のもろき淵を水に付けてぞ引き越しける。弁慶一人残りて、判官の越え給ひつる所をば越さず、川上へ一町ばかり上りて、岩角に降り積みたる雪を、長刀の柄にて打ち払ひて申しけるは、「是程の山河を越え兼ねて、あの竹に取り付き、がたりびしりとし給ふこそ見苦しけれ。其処退き給へ。此の川相違無く跳ね越えて見参に入らん」と申しければ、判官是を聞き給ひて、「義経を偏執するぞ。目な見遣りそ」と仰せられて、頬貫の緒の解けたるを結ばんとて、兜の錏を傾けて御座しける時、えいやえいやと言ふ声ぞ聞こえける。水は早く岩波に叩きかけられ、只流れに流れ行く。判官是を御覧じて、「あはや仕損じたるは」と仰せられて、熊手を取り直し、河端に走り寄り、たぎりて通る総角に引つ掛け、「是見よや」と仰せられければ、伊勢の三郎づと寄りて、熊手の柄をむずと取る。判官差し覗きて見給へば、鎧著て人に勝れたる大の法師を熊手に掛けて宙に提げたりければ、水たぶたぶとしてぞ引き上げける。今日の命生きて、御前に苦笑してぞ出で来ける。判官是を御覧じて、余りに憎さに、「如何に、口の利きたるには似ざりけり」と仰せられければ、「過は常の事、孔子のたはれと申す事候はずや」と狂言をぞ申しける。皆人は思ひ思ひに落ち行け共、武蔵坊は落ちもせず、一叢有りける竹の中に分け入りて、三本生ひたる竹の本に、物を言ふ様に、掻き口説き申しけるは、「竹も生ある物、我も生ある人間、竹は根ある物なれば、青陽の春も来たらば、また子をも差し代へて見るべし。我等は此の度死しては、二度帰らぬ習ひなれば、竹を伐るぞ。我等が命に代はれ」とて、三本の竹を切り、本には雪をかけ、末をば水にかけてぞ出だしたりける。判官に追ひ著き参らせて、「跡を斯様にしたためたる」と申しける。判官跡を顧み給へば、山河なればたぎりて落つる。昔の事を思召し出でて感じ給ひけるは、「歌を好みしきよちよくは舟に乗りて翻し、笛を好みしほうちよは竹に乗りてくつがへす。大国の穆王は壁に上りて天に上がる。張博望は浮木に乗りて巨海を渡る。義経は竹の葉に乗りて今の山川を渡る」とぞ宣ひて、上の山にぞ上がり給ふ。ある谷の洞に風少しのどけき所有り。「敵河を越えば、下矢先に一矢射て、矢種尽きば腹を切れ、彼奴原渡り得ずは、嘲弄して返せや」とぞ仰せける。大衆程無く押し寄せ、「賢うぞ越え給ひたり。此処や越ゆる、彼処や越ゆ」と口々に罵りけり。治部の法眼申しけるは、「判官なればとて、鬼神にてもよも有らじ。越えたる所はあるらん」と向ひを見れば、靡きたる竹を見付けて、「然ればこそ是に取り付きて越えんには、誰か越さざらん。寄れや者共」とぞ申しける。鉄漿黒なる法師、腹巻に袖付けて著たるが、手鉾長刀脇に挟みて、三人手に手を取り組みて、えい声を出だしてぞ跳ねたりける。竹の末に取り付きて、えいやと引きたりければ、武蔵が只今本を切つて刺したる竹なれば、引きかつぐとぞ見えし。岩波に叩きこめられて、二度とも見えず、底の水屑となりにけり。向ひには上の山にて十六人、同音にどつと笑ひ給へば、大衆余り安からずして、音もせず、日高の禅師申しけるは、「是は武蔵坊と言ふ痴の者奴が所為にてあるぞ。暫く居ては中々痴の者がまし。又水上をめぐらんずるは日数を経てこそめぐらんずれ。いざや帰りて僉議せん」とぞ申しける。「穢し、ついでに跳ね入りて死なん」と言ふ者一人もなし。「尤も此の義に付けや」とて、元の跡へぞ帰りける。判官是を御覧じて、片岡を召して仰せけるは、「吉野法師に逢うて言はんずる様は、「義経が此の河越し兼ねて有りつるに、是まで送り越えたるこそ嬉しけれ」と言ひ聞かせよ。後の為もこそあれ」と仰せければ、片岡白木の弓に大の鏑取りて交ひ、谷越しに一矢射かけて、「御諚ぞ御諚ぞ」と言ひかけけれども、聞かぬ様にしてぞ行きける。弁慶は濡れたる鎧著て、大なる臥木に上りて、大衆を呼びて申しけるは、情ある大衆有らば、西塔に聞こえたる武蔵が乱拍子見よぞと申しける。大衆是を聞き入るる者も有り。「片岡囃せや」と申しければ、誠や中差にて弓の本を叩いて、万歳楽とぞ囃しける。弁慶折節舞ふたりければ、大衆も行き兼ねて、是を見る。舞は面白く有りけれども、笑事をぞ歌ひける。

春は桜の流るれば、吉野川とも名付けたり。秋は、紅葉の流るるなれば、龍田河とも言ひつべし。冬も末になりぬれば、法師も紅葉て流れたりと折り返し折り返し舞ふたれば、誰とは知らず衆徒の中より、「痴の奴にてあるぞや」とぞ言ひける。「汝共、何とも言はば言へ」とて、其の日は其処にて暮しけり。黄昏時にもなりしかば、判官侍共に仰せけるは、「そも御岳左衛門はいしう志有りて参らせつる酒肴を、念無く追ひ散らされたるこそ本意無けれ。誰か其の用意相構へたる者有らば参らせよ。疲れ休めて一先づ落ちん」とぞ仰せける。皆人は「敵の近づき候ふ間、先にと急ぎ候ひつる程に、相構へたる者も候はず」と申しければ、「人々は唯後を期せぬぞとよ。義経は我が身ばかりは構へて持ちたるぞ」とて、間同じ様に立ち給ふぞと見えしに、何時の程にか取り給ひけん、橘餅を廿ばかり檀紙に包みて、引合より取り出ださせ給ひけり。弁慶を召して、「是一つづつ」と仰せければ、直垂の袖の上に置きて、譲葉を折りて敷き、「一つをば一乗の仏に奉る、一つをば菩提の仏に奉る。一つをば道租神に奉る。一つをば山神護法に」とて置きたりけり。餅を見れば十六有り、人も十六人、君の御前に一差し置き、残りをば面々にぞ配りける。「今一つ残るに仏の餅とて四つ置きたるに、取り具して、五つをば某が得分にせん」と申す。皆人々是を賜はつて、手々に持ちてぞ泣きける。「哀なりける世の習ひかな、君の君にて渡らせ給はば、是程に志を思ひ参らせば、毛良き鎧、骨強き馬などを賜はつてこそ、御恩の様にも思ひ参らせ候ふべきに、是を賜はつて、然るべき御恩の様に思ひなし、悦ぶこそ悲しけれ」とて、鬼神を欺き、妻子をも顧みず、命をも塵芥とも思はぬ武士共、皆鎧の袖をぞ濡らしける、心の中こそ申すばかりはなし。判官も御涙を流し給ふ。弁慶も頻りに涙はこぼるれ共、さらぬ体にもてなし、「此の殿原の様に人の参らせたる物を、持ちて賜べばとて泣かれぬものを、泣かんとするは、痴の者にてこそあれ。戒力は力に及ばざる事なり。身を助け候はんばかりに、我も持ちたり。殿原も手々に取りて持たぬこそ不覚なれ。異ならねども是に持ちて候ふ」とて、餅廿ばかりぞ取り出だしける。君もいしうしたりと思召しけるに、御前に跪きて、左の脇の下より黒かりける物の大なるを取り出だし、雪の上にぞ置きたりける。片岡何なるらんと思ひて、差し寄りて見れば、刳形打ちたる小筒に酒を入れて持ちたりけり。懐より土器二つ取り出だし、一つをば君の御前に差し置きて、三度参らせて、筒打ち振りて申す様、「飲手は多し、酒は筒にて小さし。思ふ程有らばこそ。少しづつも」とて飲ませ、残る酒をば持ちたる土器にて差し受け差し受け三度飲みて、「雨も降れ、風も吹け、今夜は思ふ事なし」とて、其の夜はそれにて夜を明かす。明くれば十二月二十三日也。「さのみ山路は物憂し、いざや麓へ」と宣ひて、麓を指して下り、北の岡、しげみが谷と言ふ所までは出で給ひたりけるが、里近かりければ、賎の男賎の女も軒を並べたり。「落人の習ひは鎧を著ては叶ふまじ。我等世にだにも有らば、鎧も心に任せぬべし。命に過ぎたる物有らじ」とて、しげみが谷の古木の下に鎧腹巻十六領脱ぎ棄てて、方々にぞ落ち給ふ。「明年の正月の末、二月の初めには奥州へ下らんずれば、其の時必らず一条今出川の辺にて行き合ふべし」と仰せければ、承りて各々泣く泣く立ち別れ、或いは木幡、櫃河、醍醐、山科へ行く人も有り。鞍馬の奥へ行くも有り。洛中に忍ぶ人も有り。判官は侍一人も具し給はず、雑色をも連れ給はず、しきたへと申す腹巻召し、太刀脇挟み、十二月二十三日の夜打ち更けて、南都の勧修坊の許へぞ御座しける。

巻第六

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忠信都へ忍び上る事

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さても佐藤四郎兵衛は、十二月二十三日に都へ帰りて、昼は片辺に忍び、夜は洛中に入り、判官の御行方を尋ねけり。然れども人まちまちに申しければ、一定を知らず、或いは吉野河に身を投げ給ひけるとも聞こゆる。或いは北国へかかりて、陸奥へ下り給ひける共申し、聞きも定めざりければ、都にて日を送る。兎角する程に、十二月二十九日になりにけり。一日片時も心安く暮すべき方も無くて、年の内も今日ばかりなり。明日にならば、新玉の年立ち返る春の初めにて、元三の儀式ならば、事宜しからず、何処に一夜をだにも明かすべき共覚えず、其の頃忠信他事無く思ふ女一人四条室町に小柴の入道と申す者の娘に、かやと申す女なり。判官都に在せし時より見始めて浅からぬ志にて有りければ、判官都を出で給ひし時も、摂津国河尻まで慕ひて、如何ならん船の中浪の上までもと慕ひしかども、判官の北の御方数多一つ船に乗せ奉り給ひたるも、あはれ詮無き事かなと思ふに、我さへ女を具足せん事も如何ぞやと思ひしかば、飽かぬ名残を振り捨てて、独り四国へ下りしが、其の志未だ忘れざりければ、二十九日の夜打ち更けて、女を尋ね行きけり。女出で逢ひて、斜ならず悦びて我が方に隠し置き、様々に労り、父の入道に此の事知らせたりければ、忠信を一間なる所に呼びて申しけるは、「仮初に出でさせ給ひしより以来は何処にとも御行方を承らず候ひつるに、物ならぬ入道を頼みて、是まで御座しましたる事こそ嬉しく候へ」とて、其処にて年をぞ送らせけり。青陽の春も来て、岳々の雪むら消え、裾野も青葉交りになりたらば、陸奥へ下らんとぞ思ひける。斯かりし程に、「天に口なし、人を以て言はせよ」と、誰が披露するとも無けれども、忠信が都に在る由聞こえければ、六波羅より探すべき由披露す。忠信是を聞きて、「我故に人に恥を見せじ」とて、正月四日京を出でんとしけるが、今日は日も忌む事有りとて、立たざりけり。五日は女に名残を惜しまれて立たず、六日の暁は一定出でんとぞしける。すべて男の頼むまじきは、女也。昨日までは連理の契り、比翼の語らひ浅からず、如何なる天魔の勧にてや有りけん、夜の程に女心変りをぞしたりける。忠信京を出でて後、東国の住人梶原三郎と申す者在京したりけるに、始めて見え初めてんげり。今の男と申すは、世にある者なり。忠信は落人なり。世にある者と思ひ代ゆべしと思ひ、此の事を梶原に知らせて、討つか搦むるかして鎌倉殿の見参に入れたらば、勲功疑あるべからずなど思ひ知らせんと思ひけり。斯かりければ、五条西洞院に有りける梶原が許へ使をぞやりける。急ぎ梶原女の許へぞ行きける。忠信をば一間なる所に隠し置き、梶原三郎をぞもてなしける。其の後耳に口を当てて囁きけるは、「呼び立て申す事は、別の仔細になし。判官殿の郎等佐藤四郎兵衛と申す者有り。吉野の軍に討ち洩らされて、過ぎぬる廿九日の暮方より是に有り。明日は陸奥へ下らんと出で立つ。下りて後に知らせ奉らぬとて、恨み給ふな。我と手を砕かず共、足軽共差し遣はし、討むるかして、鎌倉殿の見参に入れて、勲功をも望み給へ」とぞ申しける。梶原三郎是を聞きて、余りの事なれば、中々兎角物も言はず。唯疎ましきものの哀れに理無きを尋ぬるに、稲妻陽炎、水の上に降る雪、それよりも猶あたなるは、女の心なりけるや。是をば夢にも知らずして是を頼て、身を徒らになす忠信こそ無慙なれ。梶原三郎申しけるは、「承り候ひぬ。景久は一門の大事を身にあてて、三年在京仕るべく候ふが、今年は二年になり候ふ。在京の者の両役は叶はぬ事にて候ふ。然ればとて忠信追討せよと言ふ宣旨院宣もなし。欲に耽つて合戦に忠を致したりとても、御諚ならねば、御恩もあるべからず。仕損じては一門の瑕瑾になるべく候ふ間、景久叶ふまじ。猶も御志切なからん人に仰せられ候へ」と言ひ捨て、急ぎ宿へ帰りつつ、色をも香をも知らぬ無道の女と思ひ知り、遂に是をば問はざりけり。斯様に梶原に疎まれ、腹を据ゑ兼ねて、六波羅へ申さんと思ひつつ、五日の夜に入りて、半物一人召し具して、六波羅へ参り、江馬の小四郎を呼び出だして、此の由伝へければ、北条にかくと申されたり。「時刻を移さず寄せて捕れ」とて、二百騎の勢にて四条室町にぞ押し寄せたり。昨日一日今宵終夜、名残の酒とて強ひたりければ、前後も知らず臥したりけり。頼む女は心変りして失せぬ。常に髪梳りなどしける半物の有りけるが、忠信が臥したる所へ走り入りて、荒らかに起こして、「敵寄せて候ふぞ」と告げたりける。

忠信最期の事

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忠信敵の声に驚き起上がり、太刀取り直し、差し屈みて見ければ、四方に敵満ち満ちたり。遁れて出づべき方もなし。内にて独言に言ひけるは、「始めある物は終有り。生ある者必ず滅す。其の期は力及ばずや。屋嶋、摂津国、長門の壇浦、吉野の奥の合戦まで、随分身をば亡き物とこそ思ひつれども、其の期ならねば今日まで延びぬ。然りとは雖も、只今が最期にて有りけるを、驚くこそ愚なれ。然ればとて犬死すべき様なし」とて、ひしひしとぞ出で立ちける。白き小袖に黄なる大口、直垂の袖を結びて肩に打ち越し、咋日乱したる髪を未だ梳りもせず、取り上げ、一所に結ひ、烏帽子引き立て押し揉うで、盆の窪に引き入れ、烏帽子懸を以て額にむずと結ひて、太刀を取り差し、俯きて見れば、未だ仄暗くて、物の具の色は見えず、敵はむらむらに控へたり。中々中を通りて、紛れ行かばやとぞ思ひける。され共敵甲胃をよろひ、矢を矧げて、駒に鞭を進めたり。追ひ掛けて散々に射られんず。薄手負うて死にもやらず、生けながら六波羅へ取られなんず。判官の御座する所知らんずらんと問はば、知らずと申さば、さらば放逸に当たれとて糾問せられ、一旦知らずと申すとも、次第に性根乱れなん後は有りの儘に白状したらば、吉野の奥に留まりて、君に命を参らせたる志無になりなん事こそ悲しけれ。如何にもして此処を逃ればやとぞ思ひける。中門の縁に差し入りて見ければ、上に古りたる座敷有り。直と上りて見ければ、上薄く、京の板屋の癖として、月は洩り、星は溜れど葺きければ、所々は疎なり。健者にてある間、左右の腕を挙げて、家を引き上げつと出でて、梢を鳥の飛ぶが如くに散り散つてぞ落ちて行く。江馬の小四郎是を見て、「すはや敵は落つるぞ。只射殺せ」とて精兵共に散々に射さす。手にもたまらざりければ、矢比遠くぞなりにける。また夜の曙なれば、町里小路に外し置きたる雑車、駒の蹄しどろにして、思ふ様にも駈けざりければ、かくて忠信をぞ失ひける。其の儘落ち行かば、中々し果すべかりつるに、我が行方を案じ思うて、片辺は在京の者に下知して差し塞がれなん。洛中は北条殿父子の勢を以て探されん。とても遁れぬもの故に、末々の奴原の手にかけて、射殺されんこそ悲しけれ。一両年も判官の住み給ひし六条堀河の宿所に参りて、君を見参らすると思ひて、其処にてともかくもならばやと思ひて、六条堀川の方へぞ行きける。去年まで住み馴れ給ひし跡を帰り来て見れば、今年は何時しか引きかへて、門押し立つる者も無く、縁と等しく塵積り、蔀、遣戸皆崩れたり。御簾をば常に風ぞ捲く。一間の障子の内に分け入りて見れば、蜘蛛の糸を乱したり。是を見るに付けても、日頃はかくは無かりしものをと思ひければ、猛き心も前後不覚にこそなりにけれ。見たき所を見廻りて、扨出居に差し出でて、簾所々に切りて落し、蔀上げて太刀取り直し、衣の袖にて押し拭ひ、「何にてもあれ」と独言言ひて北条の二百余騎を只一人して待ちかけたり。あはれ敵や、良き敵かな。関東にては鎌倉殿の御舅、都にては六波羅殿、我が身に取りては過分の敵ぞかし。あたら敵に犬死せんずるこそ悲しけれ。よからん鎧一両、胡■一腰もがな、最後の軍して腹切りなんと思ひ居たりけるが、誠に是は鎧一両残されし事の有りしぞかし。去年の十一月十三日に都を出でて、四国の方へ下り給ひし時、都の名残を捨て兼ねて、其の夜は鳥羽の湊に一夜宿し給ひたりし時に、常陸坊を召して「義経が住みたる六条堀河には、如何なる者の住まんずらん」と仰せければ、常陸坊申しけるは、「誰か住み候はん。自ら天魔の住処とこそなり候はん」と申しければ、「義経が住み馴らしたる所に天魔の住処とならん事憂かるべし。主の為に重き甲冑を置きつれば、守となりて悪魔を寄せぬ事のあるなるぞ」とて、小桜威の鎧四方白の兜、山鳥の羽の矢十六差して、丸木の弓一張添へて置かれたりしぞかし。未だ有りもやすらんと思ひて、天井にひたひたと上がりて差し覗きて見れば、巳の時許りの事なれば、東の山より日の光射したる、隙間より入りて輝きたるに、兜の星金物ぎがとして見えたり。取り下して草摺長に著下し、矢掻き負ひ、弓押し張り、素引打して、北条殿の二百余騎遅しと待つ所に、間もすかさず押し寄せたり。先陣は大庭に込み入りて、後陣は門外に控へたり。江馬の小四郎義時鞠の懸を小楯に取りて宣ひけるは、「穢し四郎兵衛。とても逃るまじきぞ。顕に出で給へ。大将軍は北条殿、斯く申すは江間の小四郎義時と言ふ者なり。はやはや出で給へ」と言へば、忠信是を聞きて、縁の上に立ちたる蔀の下がはと突き落し、手矢取りて差し矧げ申しけるは、「江馬の小四郎に申すべき事有り。あはれ御辺達は法を知り給はぬものかな。保元平治の合戦と申すは、上と上との御事なれば、内裏にも御所にも恐をなし、思ふ様にこそ振舞ひしか。是はそれに似るべくもなし。某と御辺とは私軍にてこそあれ、鎌倉殿と左馬頭殿の御君達、我等が殿も御兄弟ぞかし。例へば人の讒言によりて、御仲不和になり給ふとも、是ぞ讒言寃なれば、思し召し直したらん時は、あはれ一つの煩ひかな」と言ひも果てず、縁より下へ飛んで降り、雨落に立ちて、差詰め差詰め散々に射る。江間の小四郎が真先かけたる郎等三騎、同じ枕に射伏せたり。二騎に手負せければ、池の東の端を門外へ向けて嵐に木の葉の散る如く、群めかしてぞ引きにける。後陣是を見て、「穢し江馬殿、敵五騎十騎も有らばこそ、敵は一人也。返し合はせ給へや」と言はれて、馬の鼻を取つて返し、忠信を中に取り込めて散々に攻むる。四郎兵衛も十六差したる矢なれば、程無く射尽くして、箙をかなぐり捨てて、太刀を抜きて、大勢の中へ乱れ入りて、手にもたまらず散々に斬り廻る。馬人の嫌ひ無く、大勢其処にて斬られけり。さて鎧づきして身を的にかけて射させけり。精兵の射る矢は裏を掻く。小兵の射る矢は筈を返して立たざりけり。然れども隙間に立つも多ければ、夢を見る様にぞ有り。とてもかくても遁れぬもの故に、弱りて後押へて首を取られんも詮なし。今は腹切らばやと思ひて、太刀を打ち振りて縁につつと上がり、西向に立ち、合掌して申しけるは、「小四郎殿へ申し候ふ。伊豆、駿河の若党の、殊の外の狼藉に見え候ふを、万事を鎮めて剛の者の腹切る様を御覧ぜよや。東国の方へも主に志も有り、珍事中夭にも会ひ、又敵に首を取らせじとて自害する者の為に、是こそ末代の手本よ、鎌倉殿にも自害の様をも、最期の言葉をも見参に入れて賜べ」と申しければ、「さらば静に腹を切らせて首を取れ」とて、手綱を打ち捨て是を見る。心安げに思ひて、念仏高声に三十遍ばかり申して、願以此功徳と廻向して、大の刀を抜きて、引合をふつと切つて、膝をつい立て居丈高になりて、刀を取り直し、左の脇の下にがはと刺し貫きて、右の肩の下へするりと引き廻し、心先に貫きて、臍の下まで掻き落し、刀を押し拭ひて打ち見て、「あはれ刀や、舞房に誂へて、よくよく作ると言ひたりし効有り。腹を切るに少しも物の障る様にも無きものかな。此の刀を捨てたらば、屍に添へて東国まで取られんず。若き者共に良き刀、悪しき刀など言はれん事も由なし。黄泉まで持つべき」とて、押し拭ひて鞘にさして、膝の下に押しかいて、疵の口を掴みて引き開け、拳を握りて腹の中に入れて、腸縁の上に散々に掴み出だして、「黄泉まで持つ刀をばかくするぞ」とて、柄を心先へ、鞘は折骨の下へ突き入れて、手をむずと組み、死にげも無くて息強げに念仏申して居たり。さても命死に兼ねて、世間の無常を観じて申しけるは、「あはれなりける娑婆世界の習ひかな。老少不定の境、げに定は無かりけり。如何なる者の、矢一に死をして、後までも妻子に憂き目を見すらん。忠信如何なる身を持ちて、身を殺すに、死に兼ねたる業の程こそ悲しけれ。是も只余りに判官を恋しと思ひ奉る故に、是まで命は長きかや。是ぞ判官の賜びたりし御帯刀、是を御形見に見て、黄泉も心安かれ」とて、抜いて、置きたる太刀を取りて、先を口に含みて、膝を押へて立ち上がり、手を放つて俯伏に、がはと倒れけり。鍔は口に止まり、切先は鬢の髪を分けて、後ろにするりとぞ通りける。惜しかるべき命かな。文治二年正月六日の辰の刻に、遂に人手にかからず、生年廿八にて失せにけり。

忠信が首鎌倉へ下る事北条殿の郎等、伊豆の住人、みまの弥太郎と申す者、四郎兵衛が死骸のあたり立ち寄りて、首を掻き持ちて、六波羅へ行き、大路を渡して、東国へ下るべきとぞ聞こえける。然れども朝敵の者の獄門に懸けらるべきこそ大路を渡せ、是は頼朝が敵義経が郎等をや。別て渡さるべき首ならずと、公卿より仰せられければ、北条理とて渡さず。小四郎五十騎の勢を具して、首を持たせて関東へ下る。正月廿日に下著し、二十一日に鎌倉殿の見参に入れて、「謀反の者の首取りて候ふ」と申しければ、「何処の国の、誰がしと申す者ぞ」と御尋ねある。「判官殿の郎等佐藤四郎兵衛と申す者にて候ふ」と申しければ、「討手は誰」と仰せければ、北条とぞ申しける。始めたる事にては無けれ共、いしうし給ひつるとの御気色なり。自害の体、最後の時の言葉、細々と申されければ、鎌倉殿「あはれ剛の者かな。人毎に此の心を持たばや。九郎につきたる若党一人として愚かなる者無けれ。秀衡も見る所有りてこそ多くの侍共の中に、是等兄弟をば付けつらめ。如何なれば、東国に是程の者無かるらん。余の者百人を召し使はんよりも九郎が志をふつと忘れて、頼朝に仕へば、大国小国は知らず、八ケ国に於ては何れの国にても一国は」とぞ仰せける。千葉、葛西是を承り、「あはれ由無き者の有様かな。生きてだにも候ふ物ならば」とぞ申しける。畠山申されけるは、「心及ばず、よくこそ死に候へばこそ君も御気色にて候へ。生きて取り下り参らせ候はんずるに、判官殿の御行衛知らぬ事はよも有らじとて、糾問強くせられ参らせなば、生きたる甲斐も候ふまじ。遂に死ぬべき者の、余の侍共に顔を守られんも心憂かるべし。忠信程の剛の者の日本を賜ぶとも、判官殿の御志を忘れ参らせて、君に堅固使はれ参らせ候ふまじき物をや」と、残る所無くぞ申されける。大井宇都宮のは袖を引き、膝をさして、「よくよく申し給へる物かな。初めたる事にては無けれども」とぞ囁きける。「後代の例に首をば懸けよ」とて、堀の弥太郎承りて、座敷より立ちて、由井の浜八幡の鳥居の東にぞ懸けける。三日過ぎて御尋ね有りければ、「未だ浜に候ふ」と申しければ、「不便なり。国遠ければ、親しき者知らで取らざるらめ。剛の者の首を久しく晒しては、所の悪魔となる事有り。首を召し返せ」とて、只も捨てられず、左馬頭殿の御孝養に作られたる勝長寿院の後ろに埋めらる。猶も不便にや思し召されけん、別当の方へ仰せ有りて、一百三十六部の経を書きて供養せられけり。昔も今も是程の弓取有らじとぞ申しける。

判官南都へ忍び御出ある事

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さても判官は南都勧修坊の許へ御座しましたりける程に、勧修坊是を見奉りて、大きに悦び、幼少の時より崇め奉りける普賢、虚空蔵の渡らせ給ひける仏殿に入れ奉りて、様々に労り奉る。折々毎に申されけるは、「御身は三年に平家を亡ぼし給ひ、多くの人の命を失ひ給ひしかば、其の罪如何でか逃れ給ふべき。一心に御菩提心を起こさせ給ひて、高野粉河に閉ぢ籠り、仏の御名を唱へさせ給ひて、今生幾程ならぬ来世を助からんと思し召されずや」と勧め奉り給ひければ、判官申させ給ひけるは、「度々仰せ蒙り候へども、今一両年もつれなき髻付けてこそつらつら世の有様も見ん」とこそ宣ひけれ。然れども若しや出家の心も出で来給ふと尊き法文などを常には説き聞かせ奉り給ひけれども、出家の御心は無かりけり。夜は御徒然なる儘に、勧修坊の門外に佇み、笛を吹き鳴らし、慰ませ給ひける程に、其の頃奈良法師の中に、但馬の阿闍梨と言ふ者有り。同宿に和泉、美作、弁君、是等六人与して申しけるは、「我等南都にて悪行無道なる名を取りたれども、別に為出だしたる事もなし。いざや、夜々佇みて、人の持ちたる太刀奪ひて、我等が重宝にせん」とぞ言ひける。「尤も然るべし」とて、夜々人の太刀を奪り歩く。樊■が謀をなすも斯くやらん。但馬の阿闍梨申しけるは、「日頃は有りとも覚えぬ冠者極めて色白く、背も小さきが、良き腹巻著て、黄金造りの太刀の心も及ばぬを帯き、勧修坊の門外に夜な夜な佇むが、己が太刀やらん、主の太刀やらん、主には過分したる太刀なり。いざ寄りて奪らん」とぞ申しける。美作申しけるは、「あはれ詮無き事を宣ふものかな。此の程の九郎判官殿の吉野の執行に攻められて、勧修坊を頼みて御座すると聞く。只置かせ給へ」と申せば、「それは臆病の至る所ぞ。など奪らざらん」と言へば、「それはさる事にて便宜悪しくては如何あるべからん」と申しければ、「然ればこそ毛を吹いて疵を求むるにてあれ。人の横紙を破るになれば、さこそあれ」とて勧修坊の辺を狙ふ。「各々六人、築地の蔭の仄暗き所に立ちて、太刀の鞘に腹巻の草摺を投げかけて、「此処なる男の人を打つぞや」と言はば、各々声に付きて走り出で、「如何なる痴者ぞ。仏法興隆の所に度々慮外して罪作るこそ心得ね。命な殺しそ。侍ならば髻を切つて寺中を追へ。凡下ならば耳鼻を削りて追ひ出だせ」とて、奪らぬは不覚人共」とて、ひしひしと出で立ち進みけり。判官は何時もの事なれば、心を澄まして、笛を吹き給ひて御座しけり。興がる風情にて通らんとする者有り。判官の太刀の尻鞘に腹巻の草摺をからりとあてて、「此処なる男の人を打つぞや」と言ひければ、残りの法師共「さな言はせそ」とて三方より追ひかかりたり。斯かる難こそ無けれと思し召し、太刀抜いて、築地を後ろに宛てて待ち懸け給ふ所に長刀差し出だせば、ふつと切り、長刀小刃刀の間に四つ切り落し給へり。斯様に散々に切り給へば、五人をば同じ枕に切り伏せ給ふ。但馬手負うて逃げて行くを、切所に追つかけ、太刀の脊にて叩き伏せ、生けながら掴んで捕り給ふ。「汝は南都にては誰と言ふ者ぞ」と問ひ給へば、「但馬の阿闍梨」と申しければ、「命は惜しきか」と宣へば、「生を受けたる者の、命惜しからぬ者や御座候ふ」と申しければ、「さては聞くには似ず、汝は不覚人なりけるや。首を切つて捨てばやと思へども、汝は法師なり。某は俗なり。俗の身として僧を切らん事仏を害し奉るに似たれば、汝をば助くるなり。此の後斯様の狼藉すべからず。明日南都にて披露すべき様は、「某こそ源九郎と組むだりつれ」と言はば、さては剛の者と言はれんずるぞ。印は如何にと人問はば、無しと答へては、人用ゐべからず。是を印にせよ」とて、大の法師を取つて仰け、胸を踏まへ、刀を抜きて、耳と鼻を削りて放されけり。中々死したらばよかるべしと、歎きけれども甲斐ぞ無き。其の夜南都をば掻き消す様にぞ失せにける。判官は此の中夭に会はせ給ひて、勧修坊に帰りて、持仏堂に得業を呼び奉りて、暇申して、「是にて年を送りたく候へども、存ずる旨候ふ間、都へ罷り出で候ふ。此の程の御名残尽くし難く候ふ。若し憂き世にながらへ候はば、申すに及ばず。又死して候ふと聞召し候はば、後世を頼み奉る。師弟は三世の契りと申し候へば、来世にて必ず参会し奉り候ふべし」とて、出でんとし給へば、得業は「如何なる事ぞや。暫く是に御座しまし候ふべきかと存じ候ひつるに、思ひの外御出で候はんずるこそ心得難く候へ。如何様人の中言について候ふと覚え候ふ。たとひ如何なる事を人申し候ふ共、身として用ゐべからず。暫し是に御座しまして、明年の春の頃、何方へも渡らせ給へ。努々叶ひ候ふまじ」と、御名残惜しき儘留め奉り給へば、判官申されけるは、「今宵こそ名残惜しく思し召され候ふとも、明日門外に候ふ事御覧じ候ひなば、義経が愛想も尽きて思し召されんずる」と仰せられければ、勧修坊是を聞きて、「如何様にも今宵中夭に会はせ給ふと覚えて候ふ。此の程若大衆共朝恩の余りに夜な夜な人の太刀を奪ひ取る由承りつるが、御帯刀世に超えたる御太刀なれば、取り奉らんとて、し奴原が切られ参らせて候ふらん。それに付けては何事の御大事か候ふべき。聊爾に聞こえ候はば、得業が為に節々なる様も候ふらん。定めて関東へも訴へ、都に北条御座しまし候へば、時政私には適ふまじとて、関東へ仔細を申されんずらん。鎌倉殿も左右無く宣旨院宣無くては、南都へ大勢をばよも向けられ候はじ。其の程の儀にて候はば、御身平家追討の後は都に御座しまして、一天の君の御覚えもめでたく、院の御感にも入り給ひしかば、宣旨院宣も申させ給はんに、誰か劣るべき。御身は都に在京して、四国九国の軍兵を召さんに、などか参らで候ふべき。畿内中国の軍兵も一つになりて参るべし。鎮西の菊地、原田、松浦、臼杵、戸次の者共召されんずに参らずは、片岡、武蔵などの荒者共を差し遣はし、少々追討し給へ。他所は乱るる事も候ひなん。半国一つになり、荒乳の中山、伊勢の鈴鹿山を切り塞ぎ、逢坂の関を一つにして、兵衛佐殿の代官関より西へ入れん事あるべからず。得業も斯くて候へば、興福寺、東大寺、山、三井寺、吉野、十津川、鞍馬、清水一つにして参らせん事は安き事にてこそ候へ。それも適ふまじく候はば、得業が一度の恩をも忘れじと思ふ者二三百人、彼等を召して城郭を構へ、櫓をかき、御内に候ふ一人当千の兵共を召し具して、櫓へ上がりて弓取りて候はば、心剛なる者共に軍せさせて、余所にて物を見候ふべし。自然味方亡び候はば、幼少の時より頼み奉る本尊の御前にて、得業持経せば、御身は念仏申させ給ひて、腹を切らせ給へ。得業も剣を身に立てて、後生まで連れ参らせん。今生は御祈りの師、来世は善智識にてこそ候はんずれ」と世に頼もしげにぞ申されける。是に付けても暫く有らまほしく思はれけれども、世の人の心も知り難く、我が朝には義経より外はと思ひつるに、此の得業は世に超えたる人にて御座しけると思し召されければ、やがて其の夜の内に南都を出でさせ給ひけり。争でか独りは出だし参らせんなれば、我が為心安き御弟子六人を付け奉り、京へぞ送り奉りける。「六条堀河なる所に暫く待ち給へ」とて、行方知らず失せ給ひぬ。六人の人々空しくぞ帰りける。それより後は勧修坊も判官の御行方をば知り奉らず。され共奈良には人多く死にぬ。但馬や披露したりけん、判官殿勧修坊の許にて謀反起こして、語らふ所の大衆従はぬをば、得業判官に放ち合はせ奉るとぞ風聞しける。

関東より勧修坊を召さるる事

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南都に判官殿在します由六波羅に聞こえければ、北条大きに驚き、急ぎ鎌倉へ申されけり。頼朝梶原を召して仰せられけるは、「南都の勧修坊と言ふ者の、九郎に与して世を乱するなるが、奈良法師も大勢討たれてあるなり。和泉、河内の者共九郎に思ひつかぬ先に、これ計らへ」と仰せられければ、梶原申しけるは、「それこそゆゆしき御大事にて候へ。僧徒の身として、然様の事思し召し立ち候はんこそ不思議に候へ」と申す所に、又北条より飛脚到来して、判官南都には在せず、得業の計らひにて隠し奉る由申されければ、梶原申しけるは、「さらば宣旨院宣をも御申し候ひて、勧修坊を是へ下し奉りて、判官の御行方を御尋ね候へ。陳状に随ひて、死罪流罪にも」と申しければ、急ぎ堀の藤次親家に仰せ付けられ、五十余騎にて馳せ上り、六波羅に著きて、此の由を申しければ、北条殿親家を召し具して、院の御所に参じて、仔細を申されければ、院宣には「まろが計らひにあるべからず。勧修坊と言ふは、当帝の御祈りの師、仏法興隆の有験、広大慈悲の智識なり。内裏へ巨細を申さでは叶ふまじ」とて、内裏へ仰せられければ、「仏法興隆の験たる人にても、然様に僻事などを企てんに於ては、朕も叶はせ給ふべからず。頼朝が憤る所理ならずと言ふ事なし。義経も本朝の敵たる上は、勧修坊を渡すべし」と宣旨下りければ、時政悦びをなして、三百余騎にて南都に馳せ下りて、勧修坊にして宣旨の趣披露せられたり。得業是を聞きて、「世は末代と言ひながら、王法の尽きぬるこそ悲しけれ。上古は宣旨と申しければ、枯れたる草木も花咲き実を結び、空飛ぶ翼も落ちけるとこそ承り伝へしに、然れば今は世も斯様なれば、末の代も如何有らんずらん」とて、涙に咽び給ひけり。「仮令宣旨院宣なりとも、南都にてこそ屍を捨つべけれども、それも僧徒の身として穏便ならねば、東国の兵衛佐は諸法も知らぬ人にてあるなるに、次もがな関東へ下りて兵衛佐を教化せばやと思ひつるに、下れと仰せらるるこそ嬉しけれ」とて、やがて出で立ち給ひけり。公卿殿上人の君達学問の志御座しましければ、師弟の別れを悲しみ、東国まで御供申すべき由を申し給へども、得業仰せられけるは、「努々あるべからず。身罪過の者にて召し下され候ふ間、咎とて其の難をば争か遁れさせ給ふべき」と諌め給へば、泣く泣く後に止まり給ふ。「ともかくもなりぬと聞召されば、跡を弔はせ給へ。若し存命へて如何なる野の末、山の奥にも有りと聞き給はば、訪ひ渡らせ給へ」と、泣く泣く思ひ切りて出で給ふ。此の別れを物に譬ふれば、釈尊入滅の時十六羅漢、五百人の御弟子、五十二類に至るまで悲しみ奉りしも、争か是には勝るべき。かくて得業北条に具せられて、平の京へ入り給ふ。六条の持仏堂に入れ奉りて、様々にぞ労り奉る。江馬の小四郎申されけるは、「何事をも思し召し候はば、承り候ひて、南都へ申すべく候ふ」と申されければ、何事をか申すべき。但し此の辺に年来知りたる方候ふ。是へ参り候ふを聞きては尋ぬべき人に候ふが、来たられ候はぬは、如何様にも世に憚りをなし候ひてと覚え候ふ。苦しかるまじく候はば、此の人に見参し下らばや」と仰せられければ、義時「御名をば何と申すぞ。元は黒谷に居られ候ふ。此の程は東山に法然房」と仰せられければ、「さては近き所に御座しまし候ふ上人の御事候」とて、やがて御使を奉る。上人大きに悦びて急ぎ来たり給ふ。二人の智識御目を見合はせ、互ひに涙に咽び給ひけり。勧修坊仰せられけるは、「見参に入りて候ふ事は悦び入りて候へども、面目無き事の候ふぞ。僧徒の法として謀反の人に与したりとて、東国まで取り下され候ふ。其の難を逃れて帰らん事も不定なり。然れば往昔より「先に立ち参らせば、弔はれ参らせん。先に立たせ給ひ候はば、御菩提を訪ひ参らせん」と契り申して候ひしに、先立ち参らせて訪はれ参らせんこそ悦び入りて候へ。是を持仏堂の前に置かせ給ひ、御目にかかり候はん度毎に思ひ出で、後世を訪ひて賜はり候へ」とて、九条の袈裟を外して奉り給へば、東山の上人泣く泣く受け取り給ひけり。東山の上人紺地の錦の経袋より一巻の法華経を取り出だし、勧修坊に参らせ給ふ。互ひに形見取り違へて、上人帰り給ひければ、得業六条に留まりて、いとど涙に咽び給ひけり。此の勧修坊と申すは、本朝大会の大伽藍、東大寺の院主、当帝の御師となり、広大慈悲の智識なり。院参し給ふ時、腰輿牛車に召されて、鮮やかなる中童子、大童子、然るべき大衆数多御供して参られし時は、左右の大臣も各々渇仰し給ひしぞかし。今は何時しか引き替へて、日来著給ひし素絹の御衣をば召されず、麻の衣の賎しきに、剃らで久しき御髪、護摩の煙にふすぶる御気色、中々尊くぞ見奉る。六波羅を出だし奉りて、見馴れぬ武士を御覧じけるだに悲しきに、浅ましげなる伝馬に乗せ奉る。所々の落馬は目も当てられず覚えたり。粟田口打ち過ぎて、松坂越えて、是や逢坂の蝉丸の住み給ひし、四宮河原を打ち過ぎて、逢坂の関越えければ、小野の小町が住み馴れし関寺を伏し拝み、園城寺を弓手になし、大津、打出の浜過ぎて、勢多の唐橋踏みならし、野路篠原も近くなり忘れんとすれど忘れず、常に都の方を顧みて行けば、様々都は遠くなりにけり。音には聞きて、目には見ぬ小野の摺針、霞に曇る鏡山、伊吹の岳も近くなる。其の日は堀の藤次鏡の宿に留まり、次の日は痛はしくや思ひけん、長者に輿を借りて乗せ奉る。「都を御出の時、かくこそ召させ参らすべく候ひしかども、鎌倉の聞こえ其の憚りにて御馬を参らせ候はんずるにて候ふ」と申しければ、得業、「道の程の御情こそ悦び入りて候へ」と仰せられけるこそ哀れなれ。夜を日に継ぎて下りける程に、十四日に鎌倉に著き給ふ。堀の藤次の宿所に入れ奉りて、四五日は鎌倉殿にも申し入れず。或る時得業に申しけるは、「御痛はしく候ひて、鎌倉殿にも申し入れず候ひつれども何時まで申さでは候ふべきなれば、只今出仕仕り候ふ。今日御見参あるべきとこそ覚え候ひぬ」と申しければ、「思ふも中々心苦し。疾くして見参に入り、御問状をも承り候ひて、愚存の旨を申し度こそ候へ」と仰せられければ、藤次頼朝へ参り、此の由申し入る。梶原を召して、「今日中に得業に尋ね聞くべき事有り。侍共召せ」と仰せられければ、承りて召しける侍は誰々ぞ。和田の小太郎義盛、佐原の十郎、千葉介、葛西の兵衛、豊田の太郎、宇都宮の弥三郎、海上の次郎、小山の四郎、長沼の五郎、小野寺の前司太郎、河越の小太郎、同じく小次郎、畠山の二郎、稲毛三郎、梶原平三父子ぞ召されける。鎌倉殿仰せられけるは、「勧修坊に尋ね問はんずる座敷には、何処の程かよかるべき」。梶原申しけるは、「御中門の下口辺こそよく候はん」と申しければ畠山御前に畏まり申されけるは、「勧修坊の御座敷の事承り候ふに、梶原は中門の下口と申し上げ候ふ。是は判官殿に与し奉りたりと言ふ、其の故と覚え候ふ。さすがに勧修坊と申すは、御俗姓と申し、天子の御師匠申し、東大寺の院主にて御座しまし候ふ。御気色渡らせ給ふによつてこそ、是までも申し下し参らせ御座しまして候へ。さこそ遠国にて候ふとも、座敷しどろにては、外処の聞こえ悪しく存じ候ふ。下口などにての御尋ねには一言も御返事は申され候はじ。只同座の御対面や候ふべからん」と申されたりければ、「頼朝もかくこそ思ひつれ」とて、御簾を日頃より高く捲かせて、御座敷には紫端の畳、水干に立烏帽子にて御見参有り。堀の藤次勧修坊を入れ奉る。鎌倉殿思し召しけるは、何ともあれ、僧徒なれば、糾問は叶ふまじ。言葉を以て責め伏せて問はんずる物をと思し召しけり。得業御座敷に居直り給ひけれども、兎角仰せ出だされたる事は無くて、笑ひて、大の御眼にてはたと睨ませてぞ御座しける。得業是を見給ひて、あはれ、人の心の中もさこそ有るらめと思はれければ、手を握りて膝の上に置きて、鎌倉殿をつくづくと守りて、御問状も陳状もさこそ有らんずらんと覚えて、人々固唾を呑みて居たりけり。頼朝堀の藤次を召して、「是が勧修坊か」と仰せられければ、親家畏まつてぞ候ひける。暫く有りて、鎌倉殿仰せられけるは、「抑僧徒と申すは、釈尊の教法を学んで、師匠の閑室に入つしより此の方、意楽を正しく、三衣を墨に染めて、仏法を興隆し経論諸経の前に眼をさらし、無縁の人を弔ひ、結縁の者を導くこそ、僧徒の法とはして候へ。何ぞ謀反の者に与して、世を乱さんとの謀世に隠れなし。九郎天下の大事になり、国土の乱を赴く者を入れ立てて、剰へ奈良法師を我に与せよと宣ふに、用者をば九郎に放ち合はせて切らせ給ふ条、甚だ隠しからず、それを不思議と思ふ所に、猶以て「四国西国の軍兵を一つになし、中国畿内の者共を召して、召されんに参らざる者をば、片岡、武蔵など申す荒者共を差し遣はし、追討して御覧ぜよ。他所は知らず、東大寺興福寺は得業が計らひなれば、叶へざらん時は討死せよ」なんどと勧め給ひたる事以ての外に覚え候ふに、人を付けて都まで送られ候ひけるは、九郎が有所に於ては、知りたるらん。虚言を構へず、正直に申され候へ。其の旨無くば、健かならん小舎人奴等に仰せ付けて、糾問を以て尋ねん時、頼朝こそ全く僻事の者には有るまじけれ」と、強かに問はれ、勧修坊兎角の返事は無くて、はらはらと涙を流し、手を握りて膝の上に置き、「万事を静めて人々聞き給へ。抑聞きも習はぬ言葉かな。和僧は如何に得業と名字を呼びたり共、不覚人にてはよも有らじ。和僧と宣ひたればとて、高名も有るまじ。都にて聞きしには、国の将軍となりて、斯かる果報にも生まれけり、情も御座すると聞きしに、果報は生まれつきの物なり。殿の為にもいやいやの弟、九郎判官には遙かに劣り給ひたる人にて有りけるや。申すに付けて詮無き事にては候へども、平治に御辺の父下野の左馬頭、衛門督に与して、京の軍に打ち負けて、東国の方へ落ち給ひし時、義平も斬られぬ、朝長も死にぬ、明くる正月の初めには、父も討たれしに、御辺の命死し兼ねて、美濃国伊吹山の辺を迷ひ歩き、麓の者共に生捕られ、都まで引き上せ、源氏の名を流し、既に誅せられ給ふべかりしが、池殿の憐み深くして、死罪流罪に申し行ひて、弥平兵衛に預け、永暦の八月の頃かとよ、伊豆の北条奈古谷の蛭が島と言ふ所に流され、廿一年の星霜を経て、田舎人となりて、さこそ頑はしくおはらすらめと思ひしに、少しも違はざりけり。あら無慙や、九郎判官と向背し給ふ事理かな。判官と申すは情も有り、心も剛なり。慈悲も深かりき。治承四年の秋の頃、奥州より馬の腹筋馳せ切り、駿河の国浮島が原に下り居て、一方の大将軍請け取りて、一張の弓を脇に挟み、三尺の剣を帯きて、西海の波に漂ひ、野山を家とし、命を捨て、身を忘れ、何時しか、平家を討ち落して、御身をせめて一両年世に有らせ奉らばやと骨髄を砕き給ひしに、人の讒言今に始めたる事にては候はね共、深き志を忘れて、兄弟の仲不和になり給ひし事のみこそ、甚だ以て愚なれ。親は一世の契り、主は三世の契りと申せども、是が始めやらん、中やらん、終やらん、我も知らず、兄弟は後生までの契りとこそ承り候へ。其の仲を違ひ給ふとて、殿をば人の数にては御座せぬ人と、世には申すげにこそ候へ。去年十二月廿四日の夜打ち更けて、日来は千騎万騎を引き具してこそ御座しまし候ひしが、侍一人をだにも具せず、腹巻ばかりに太刀帯きて、編笠と言ふ物打ち著、万事頼むとて御座したりしかば、古見ず知らぬ人なり共、争か一度の慈悲を垂れざらん、一度は勲功を望み、如何なる時は祈りしぞ、如何なる時は討ち奉るべき。是を以て校量し給へ。有らぬ様に人申したりし事の漏れ候ふげにこそ。去年の冬の暮に出家し給へと度々申ししかども、其の梶原奴が為に出家はしたくもなしと宣ひ候ひつる、其の頃判官殿帯き給ひし太刀を奮ひ取り奉らんとて、悪僧共切られ参らせて候ひしを、人の和讒を構へて申し候ひつらん。全く奈良法師与せよと申したる事なし。其の中夭に南都を落ちられし間、心の中如何ばかり遣る方も無く御座しますらんと存じ候ひて、諌めたる事候ひし。「四国九国の者を召し候へ。東大寺、興福寺は得業が計らひなり。君は天下に御覚えもいみじくて、院の御感にも入らせて候へば、在京して日本を半国づつ知行し給へ」と勧め申せしかども、得業が心を景迹して出で給へば、中々恥かしくこそ思ひ奉り候ひしか。君にも知られぬ宮仕にては候へ共、殿の御為にも祈りの師ぞかし。平家追討の為に西国へ赴き給ひしに、渡辺にて源氏の祈りしつべき者やあると尋ねられ候ひけるに、如何なる痴の者か見参に入りて候ふらん、得業を見参に入れて候ひければ、平家を呪咀して源氏を祈れと仰せられ候ひしに、其の罪遁れなんと度々辞退申ししかば、「御坊も平家と一つになるか」と、仰せられ候ひし恐ろしさに、源氏を祈り奉りし時も、「天に二つの日照し給はず、二人の国王なし」とこそ申し候へども、我が朝を御兄弟手に握り給へとこそ祈り参らせしに、判官は生れつきふえの人なれば、遂に世にも立ち給はず、日本国残る所無く、殿一人して知行し給ふ事、是は得業が祈りの感応する所に有らずや。是により外は、如何に糾問せらるる共、申すべき事候はず。形の如くも智慧ある者に、物を思はするは、何の益有るべき。如何なる人承りにて候ふぞ、疾く疾く首を刎ねて、鎌倉殿の憤を休め奉り給へや」と残る所無く宣ひて、はらはらと泣き給へば、心ある侍共、袖を濡らさぬはなし。頼朝も御簾をざと打ち下し給ひて、万事御前静まりぬ。やや有りて、「人や候ふ」と仰せられければ、佐原の十郎、和田の小太郎、畠山三人御前に畏まつてぞ候ひける。鎌倉殿、高らかに仰せられけるは、「かかる事こそ無けれ。六波羅にて尋ねきくべかりし事を、梶原申すに付けて、御坊を是まで呼び下し奉りて、散々に悪口せられ奉りたるに、頼朝こそ返事に及ばず、身の置所無けれ。あはれ人の陳状や、尤もかくこそ陳じたくはあれ、誠の上人にて御座しましける人かな。理にてこそ日本第一の大伽藍の院主ともなり給ひけれ、朝家の御祈りにも召されける、理」とぞ感ぜられける。「此の人をせめて鎌倉に三年留め奉りて、此の所を仏法の地となさばや」と仰せければ、和田の小太郎、佐原の十郎承り、勧修坊に申しけるは、「東大寺と申すは、星霜久しくなりて利益候ふ所なり。今の鎌倉と申すは、治承四年の冬の頃始めて建てし所なり。十悪五逆、破戒無慙の輩のみ多く候へば、是にせめて三年渡らせ御座しまして、御利益候へと申せと候ふ」と申したりければ、得業「仰せはさる事にて候へども、一両年も鎌倉に在りたくも候はず」とぞ仰せられける。重ねて仏法興隆の為にて候ふと申されければ、「さらば三年は是にこそ候はめ」と仰せられけり。鎌倉殿大きに悦び給ひて、「何処にか置き奉るべき」と仰せられしかば、佐原の十郎申しけるは、「あはれ、良き次にて候ふものかな。大御堂の別当になし参らせ給へかし」と申されたりければ、「いしく申したり」とて、佐原の十郎初めて奉行を承りて、大御堂の造営を仕り、勝長寿院の後ろに桧皮の御山荘を造りて入れ奉り、鎌倉殿も日々の御出仕にてぞ有りける。門外に鞍置き馬、立ち止む暇なし。鎌倉は是ぞ仏法の始めなり。折々毎に「判官殿との御仲直り給へ」と仰せられければ、「易き事に候ふ」とは申し給ひけれども、梶原平三八箇国の侍の所司なりければ、景時父子が命に従ふ者、風に草木の靡く風情なれば、鎌倉殿も御心に任せ給はず、斯くて秀衡存生の程はさて過ぎぬ。他界の後嫡子本吉の冠者が計らひと申して、文治五年四月廿四日に判官討たれ給ひぬと聞召しければ、「誰故に今まで鎌倉に存命へけるぞ。斯程憂き鎌倉殿に暇乞ひも要らず」とて、急ぎ上洛有り。院も猶御尊み深くして、東大寺に帰りて、此の程廃れたる所共造営し給ひ、人の訪ひ来るも物憂しとて、閉門して御座しけるが、自筆に二百二十六部の経を書き供養じて、判官の御菩提を弔ひて、我が御身をば水食を止めて、七十余にて往生を遂げられける。

静鎌倉へ下る事

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大夫判官四国へ赴き給ひし時、六人の女房達、白拍子五人、総じて十一人の中に、殊に御志深かりしは、北白川の静と言ふ白拍子、吉野の奥まで具せられたりけり。都へ返されて、母の禅師が許にぞ候ひける。判官殿の御子を妊じて、近き程に産をすべきにて有りしを、六波羅に此の事聞こえて、北条殿江間の小四郎を召して仰せ合はせられければ、「関東へ申させ給はでは適ふまじ」とて、早馬を以て申されければ、鎌倉殿梶原を召して、「九郎が思ふ者に静と言ふ白拍子近き程に産すべき由なり。如何あるべき」と仰せられければ、景時申しけるは、「異朝を訪ひ候ふにも、敵の子を妊じて候ふ女をば頭を砕き、骨を拉ぎ、髄を抜かるる程の罪科にて候ふなれば、若し若君にて御座しまし候はば、判官殿に似参らせ候ふとも、又御一門に似参らせ給ふとも、愚なる人にてはよも御座しまし候ふまじ。君の御代の間は何事か候ふべき。公達の御行方こそ覚束無く思ひ参らせ候へ。都にて宣旨院宣を御申し候ひてこそ下し給ひて、御座近く置き参らせさせ給ひ、御産の体御覧じて、若君にて渡らせ給ひ候はば、君の御計らひにて候ふべし。姫君にて候はば、御前に参らせさせ給ふべし」と申したりければ、さらばとて堀の藤次を御使にて都へ上られけり。藤次北条殿打ち連れ、院の御所に参りて、此の由を申しければ、院宣には、「先の勧修坊の如くにはあるべからず。時政が計らひに尋ね出だし、関東へ下すべき」と仰せ下されければ、北白河にて尋ねけれ共、遂に遁るべきには有らねども、一旦の悲しさに法勝寺と言ふ所に隠れ居たりしを尋ね出だして、母の禅師共に具足して、六波羅へ行き、堀の藤次受け取りて下らんとぞしける。磯の禅師が心の中こそ無慙なれ。共に下らんとすれば、目前憂き目を見んずらんと悲しき、又止まらんとすれば、只一人差し放つて、遥々下さん事も痛はしく、人の子五人十人持ちたるも、一人欠くれば歎くぞかし。唯一人持ちたる子なれば、止まりて悶えてあるべきとも覚えず、去りとても愚なる子かや、姿は王城に聞こえたり、能は天下第一の事なり。唯一人下さん事の悲しさに、預の武士の命をも背きて、徒跣にてぞ下りける。幼少より召し使ひし催馬楽、其駒と申しける二人の美女も主の名残を惜しみ、泣く泣く連れてぞ下りける。親家も道すがら様々に労りてぞ下りける。兎角して都を出で、十四日に鎌倉に著きたり。此の由申し上げければ、静を召して尋ぬべき事有りとて、大名小名をぞ召されける。和田、畠山、宇都宮、千葉、葛西、江戸、河越を始めとして、其の数を尽くして参る。鎌倉殿には門前に市を為して夥し。二位殿も静を御覧ぜられんとて、幔幕を引き、女房其の数参り集り給ひけり。藤次ばかりこそ静を具して参りたれ。鎌倉殿是を御覧じて、優なりけり、現在弟の九郎だにも愛せざりせばとぞ思し召しける。禅師も二人の女も連れたりけれども、門前に泣き居たり。鎌倉殿是を聞召して、「門に女の声として泣くは、何者ぞ」と御尋ね有りければ、藤次「静が母と二人の下女にて候ふ」と申しければ、鎌倉殿、「女は苦しかるまじ、召せ」とて召されけり。鎌倉殿仰せられけるは、「殿上人には見せ奉らずして、何故九郎には見せけるぞ。其の上天下の敵になり参らせたる者にてあるに」と仰せければ、禅師申しけるは、「静十五の年までは、多くの人仰せられしかども、靡く心も候はざりしかども、院の御幸に召し具せられ参られて、神泉苑の池にて雨の祈りの舞の時、判官殿に見え初められ参らせて、堀川の御所へ召され参らせしかば、唯仮初の御遊の為と思ひ候ひしに、わりなき御志にて、人々数多渡らせ給ひしかども、所々の御住居にてこそ渡らせ給ひしに、堀川殿に取り置かれ参らせしかば、清和天皇の御末、鎌倉殿の御弟にて渡らせ給へば、是こそ身に取りては、面目と思ひしに、今斯かるべしと、予ては夢にも争か知り候ふべき」と申しければ、人々是を聞きて、「「勧学院の雀は蒙求を囀る」といしう申したるものかな」とぞ讚められける。「さて九郎が子を妊じたる事は如何に」「それは世に隠れ無き事にて候へば、陣じ申すに及ばず、来月は産すべきにて候ふ」とぞ申しける。鎌倉殿梶原を召して、「あら恐ろし、それ聞け景時、既にえせ者の種を継がぬ先に、静が胎内を開けさせて、子を取つて亡へ」とぞ仰せける。静も母も是を聞きて、手に手を取り組みて、顔に顔を合はせて、声も惜しまず悲しみけり。二位殿も聞召して、静が心の中、さこそと思ひ遣られて、御涙に咽び給ふ。幔膜の中に落涙の体夥し。忌々しくぞ聞こえける。侍共承りて「斯かる情無き事こそ無けれ。さらぬだに関東は遠国とて恐ろしき事に言はるるに、さしも静を失ひて、名を流し給はん事こそ浅ましけれ」とぞ呟きける。此処に梶原此の事を聞きて、つい立ち御前に参り、畏まつてぞ居たりける。人々是を見て、「あな心憂や、又如何なる事をか申さんずらん」と耳を欹ててぞ聞きけるに、「静の事承り候ふ。少人こそ限り候はんずれ。母御前をさへ亡ひ参らせ給はん、其の御罪争か遁れさせ給ふべき。胎内に宿る十月を待つこそ久しく候へ。是は来月御産あるべきにて候へば、源太が宿所を御産所と定めて、若君姫君の左右を申し上べき」と申したりければ、御前なる人々袖を引き、膝を差し、「此の世の中は如何様、末代と言ひながら徒事は有らじ、是程に梶原が人の為に良き事申したる事はなし」とぞ申しあへり。静是を聞き、「都を出でし時よりして梶原と言ふ名を聞くだにも心憂かりしに、まして景時が宿所に有りて、産の時自然の事あらば、黄泉の障ともなるべし。あはれ同じくは堀殿の承りならば、如何に嬉しかりなん」と、工藤左衛門して申したりければ、鎌倉殿に申し入れければ、「理なれば易き事なり」と仰せられて、堀の藤次に返し賜ぶ。「時に取つて親家が面目」とぞ申しける。藤次は急ぎ宿所へ帰りて、妻女に会ひて言ひけるは、「梶原既に申し賜はつて候ひつるに、静の訴訟にて親家に返し預かり参らせ候ひぬ。判官殿聞召さるる所も有り。是によくよく労り参らせよ」とて、我は傍に候ひて、館をば御産所と名付けて、心ある女房達十余人付け奉りてぞもてなしける。磯の禅師は都の神仏にぞ祈り申しける。「稲荷、祇園、賀茂、春日、日吉山王七社、八幡大菩薩、静が胎内にある子を、仮令男子なりとも女子になして給べ」とぞ申しける。かくて月日重なれば、其の月にもなりにけり。静思ひの外に堅牢地神も憐み給ひけるにや、痛む事も無く、其の心付くと聞きて、藤次の妻女、禅師諸共に扱ひけり。殊に易くしたりけり。少人泣き給ふ声を聞きて、禅師余りの嬉しさに、白き絹に押し巻きて見れば、祈る祈りは空しくて、三身相応したる若君にてぞ御座しける。唯一目見て「あな心憂や」とて打ち臥しけり。静是を見て、いとど心も消えて思ひけり。「男子か、女子かや」と問へども答へねば、禅師の抱きたる子を見れば、男子なり。一目見て、「あら心憂や」とて衣を被きて臥しぬ。やや有りて、「如何なる十悪五逆の者の、偶々人界に生を受けながら、月日の光をだにも定かに見奉らずして、生れて一日一夜をだにも過さで、やがて冥途に帰らんこそ無慙なれ。前業限りある事なれば、世をも人をも恨むべからずと思へども、今の名残り別れの悲しきぞや」とて、袖を顔に押し当ててぞ泣き居たり。藤次御産所に畏まつて申しけるは、「御産の左右を申せと仰せ蒙つて候ふ間、只今参りて申し候はんずる」と申しければ、「とても逃るべきならねば、疾く疾く」とぞ言ひける。親家参りて此の由を申したりければ、安達の新三郎を召して、「藤次が宿所に静が産したり、頼朝が鹿毛の馬に乗りて行き、由井の浜にて亡ふべき」と仰せられければ、清経御馬賜はつて打ち出で、藤次の宿所へ入りて、禅師に向ひて、「鎌倉殿の御使に参りて候ふ。少人若君にて渡らせ給ひ候ふ由聞召して、抱き初め参らせよと御諚にて候ふ」と申しければ、「あはれ、はかなき清経かな。賺さば実と思ふべきかや。親をさへ失へと仰せられし敵の子、殊に男子なれば疾く失へとこそ有るらめ。暫し最後の出立せさせん」と申されければ、新三郎岩木ならねば、流石哀れに、思ひけるが、心弱く待ちけるが、斯くて心弱くて叶ふまじと思ひ、「事々しく候ふ。御出立も要り候ふまじ」とて、禅師が抱きたるを奪ひ取り、脇に挟み馬に打ち乗り、由井の浜に馳せ出でけり。禅師悲しみけるは、「存命へて見せ給へと申さばこそ僻事ならめ、今一度幼き顔を見せ給へ」と悲しみければ、「御覧じては中々思ひ重なり給ひなん」と情無き気色にもてなして、霞を隔て遠ざかる。禅師は裏無をだにも履き敢へず、薄衣も被かず、其駒ばかり具して、浜の方へぞ下りける。堀の藤次も禅師を訪ひて、後に付きてぞ下りける。静も共に慕ひけれ共、堀が妻女申しけるは、「産の則なり」とて、様々に諌め取り止めければ、出でつる妻戸の口に倒れ臥してぞ悲しみける。禅師は浜に尋ね、馬の跡を尋ぬれども、少人の死骸もなし、今生の契りこそ少なからめ、空しき姿を今一度見せ給へと悲しみつつ、渚を西へ歩みける所に、稲瀬河の端に、浜砂に戯れて、子供数多遊びけるに逢うて、「馬に乗つたる男の、くかと泣きたる子や棄てつる」と問へば、「何も見分け候はねども、あの水際の材木の上にこそ投げ入れ候ひつれ」と言ひける。藤次が下人下りて見ければ、只今までは蕾む花の様なりつる少人の、何時しか今は引きかへて、空しき姿尋ね出だして、磯の禅師に見せければ、押し巻きたる衣の色は変はらねども、跡無き姿となり果てけるこそ悲しけれ。「若しや若しやと浜の砂の暖かなる上に、衣の端を打ち敷きて置きたりけれども、事切れ果てて見えしかば、取りて帰りて、母に見せて悲しませんも中々罪深しと思ひて、此処に埋まんとては、浜の砂を手にて掘りたれども、此処もあさましき牛馬の蹄の通ふ所とて痛はしければ、さしも広き浜なれども、捨て置くべき所もなし。唯空しき姿を抱きて宿所にぞ帰りける。静是を受け取り、生を変へたるものを、隔て無く身に添へて悲しみけり。「哀傷とて、親の歎きは殊に罪深き事にて候ふなる物を」とて、藤次が計らひにて、少人の葬送、故左馬頭殿の為に作られたりける勝長寿院の後ろに埋みて帰りけり。「かかる物憂き鎌倉に一日にてもあるべき様なし」とて、急ぎ都へ上らんとぞ出で立ちける。

静若宮八幡宮へ参詣の事

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磯の禅師申しけるは、「少人の事は、思ひ設けたる事なればさて置きぬ。御身安穏ならば若宮へ参らんと、予ての宿願なれば、争か只は上り給ふべき。八幡はあら血を五十一日忌ませ給ふなれば、精進潔斎してこそ参り給はめ。其の程は是にて日数を待ち候へ」とて、一日一日と逗留す。さる程に鎌倉殿三島の御社参とぞ聞こえける。八箇国の侍共御供申しける。御社参の徒然に、人々様々の物語をぞ申しける。其の中に河越の太郎静が事を申し出だしたりければ、各々「斯様の次ならでは争か下り給ふべき。あはれ音に聞こゆる舞を一番御覧ぜられざらんは無念に候ふ」と申しければ、鎌倉殿仰せられけるは、「静は九郎に思はれて、身を華飾にするなる上、思ふ仲を妨げられ、其の形見にも見るべき子を亡はれ、何のいみじさに頼朝が前にて舞ふべき」と仰せられければ、人々「是は尤も御諚なり。さりながら如何して見んずるぞ」と申しける。抑如何程の舞なれば、斯程に人々念を懸けらるるぞ」と仰せられければ、梶原「舞に於ては日本一にて候ふ」とぞ申しける。鎌倉殿「事々しや、何処にて舞うて、日本一とは申しけるぞ」、梶原申しけるは、「一年百日の旱の候ひけるに、賀茂河、桂川皆瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候ひけるに、次第久しき例文、「比叡の山、三井寺、東大寺、興福寺などの有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて仁王経を講じ奉らば、八大龍王も知見納受垂れ給ふべし」と申しければ、百人の高僧貴僧仁王経を講ぜられしかども、其の験も無かりけり。又或る人申しけるは、「容顔美麗なる白拍子を百人召して、院御幸なりて、神泉苑の池にて舞はせられば、龍神納受し給はん」と言へば、さらばとて御幸有りて、百人の白拍子を召して舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其の験も無かりけり。「静一人舞ひたりとても、龍神知見あるべきか。而も内侍所に召されて、禄重き者にて候ふに」と申したりけれども、「とても人数なれば、唯舞はせよ」と仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむじやうの曲と言ふ白拍子を半らばかり舞ひたりしに、みこしの岳、愛宕山の方より黒雲俄に出で来て、洛中にかかると見えければ、八大龍王鳴り渡りて、稲妻ひかめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を出だし、国土安穏なりしかば、さてこそ静が舞に知見有りけるとて、「日本一」と宣旨を賜はりけると承りし」と申しければ、鎌倉殿是を聞召して、さては一番見たしとぞ仰せられける。誰にか言はせんずると仰せられければ、梶原申しけるは、「景時が計らひにて舞はせん」とぞ申しける。鎌倉殿「如何あるべき」とぞ仰せられける。梶原申しけるは、「我が朝に住せん程の人の、君の仰せを争か背き参らせ候ふべき。其の上既に死罪に定まりて候ひしを景時申してこそ宥め奉りて候ひしか。善悪舞はせ参らせ候はんずる」と申しければ、「さらば行きて賺せ」と仰せられけり。梶原行きて、磯の禅師を呼び出だして、「鎌倉殿の御酒気にこそ御渡り候へ。斯かる所に川越の太郎御事を申し出だされ候ひつるに、あはれ音に聞こえ給ふ御舞、一番見参らせばやとの御気色にて候ふ。何か苦しく候ふべき。一番見せ奉り給へかし」と申したりければ、此の由を静に語れば、「あら心憂や」とばかりにて、衣引き被きて臥し給ひけるが、「すべて人の斯様の道を立てける程の、口惜しき事は無かりけり。此の道ならざらんには、斯かる一方ならぬ嘆きの絶えぬ身に、さりとて憂き人の前にて、舞へなどと、容易く言はれつるこそ安からね。中々伝へ給ふ母の心こそ恨めしけれ。然れば舞はば舞はせんと思し召しけるか」とて、梶原には返事にも及ばず。禅師梶原に此の由を言ひければ、相違して帰りけり。御所には今や今やと待ち給ひける所に、景時参りたり。二位殿の御方より「如何に返事は」と御使有り。「御諚と申しつれども、返事をだにも申され候はぬ」と申しければ、鎌倉殿も「もとより思ひつる事を。都に帰りて有らん時、内裏、院の御所にて、兵衛佐は舞舞へとは言はざりけるかと御尋ね有らん時、梶原を使にて舞へと申し候ひしかども、何のいみじさに舞ひ候ふべきとて、遂に舞はずと申さば、頼朝が威の無きに似たり。如何あるべき。誰にてか言はすべき」と仰せられければ、梶原申しけるは、「工藤左衛門こそ都に候ひし時も、判官殿常に御目に懸けられし者にて候へ。而も京童にて口利にて候ふ。彼に仰せ付けらるべく候はん」と申しければ、「祐経召せ」とて召されけり。其の頃左衛門塔の辻に候ひけるを、梶原連れてぞ参りける。鎌倉殿仰せられけるは、「梶原以て言はすれども、返事をだにもせず。御辺行きて賺して舞はせてんや」と仰せられければ、斯かるゆゆしき大事こそ無けれ。御諚にてだにも従はぬ人を、賺せよとの御諚こそ大事なれと思ひて、思ひ煩ひ、急ぎ宿に帰り、妻女に申しけるは、「鎌倉殿よりいみじき大事を承りてこそ候へ。梶原を御使にて仰せられつるにだに用ゐ給はぬ静を賺して舞はせよと仰せ蒙りたるこそ、祐経が為には大事に候へ」と言ひければ、女房、「それは梶原にもよるべからず。左衛門にもよるべからず。情は人の為にも有らばこそ。景時が田舎男にて、骨無き様の風情にて、舞を舞ひ給へとこそ申しつらめ。御身とてもさこそ御座せんずらめ。只様々の菓子を用意して、堀殿の許へ行きて、訪ひ奉る様にて、内々こしらへ賺し奉らんに、などか叶はざるべき」と、世に易げに言ひける。祐経が妻女と申すは、千葉介が在京の時儲けたりける京童の娘、小松殿の御内に冷泉殿の御局とて、大人しき人にてぞ有りける。叔父伊東の次郎に仲を違ひて、本領を取らるるのみならず、飽かぬ中を引き分けられて、其の本意を遂げんが為に、伊豆へ下らんとしけるを、小松殿祐経に名残りを惜しませ給ひて、年こそ少し大人しけれども、是を見よとて祐経に見え初めて、互ひの志深かりけり。治承に小松殿薨れさせ給ひて後は、頼む方無かりければ、祐経に具足せられて、東国へ下りけり。年久しくなりたれ共、流石に狂言綺語の戯れも未だ忘れざりければ、賺さん事も易しとや思ひけん、急ぎ出で立ち、藤次が宿所へ行きけり。祐経先づ先に行きて、磯の禅師に言ひけるは、「此の程何と無く打ち紛れ候へば、疎なりとぞ思し召され候ふらん。三島の御参詣にて渡らせ給ひ候ひつる程に、是も召し具せられ、日々の御社参にて渡らせ給へば、精進無くては叶ひ難く候ふ間、打ち絶え参り候はねば、返す返す恐入りて候ふ。祐経が妻女も都の者にて候ふ。堀殿の宿所まで参りて候ふ。それそれ禅師、良き様に申させ給へ」と申して、我が身は帰る体にもてなして、傍らに隠れてぞ候ひける。磯の禅師静に此の由を語れば、「左衛門の常に訪ひ給ふだに有り難く思ひ参らせつるに、女房の御入までは思ひも寄らざる嬉しさにて候ふ」とて、我が方をこしらへてぞ入れける。藤次が妻女諸共に行きてぞもてなしける。人を賺さんとする事なれば、酒宴始めて幾程も無かりけるに、祐経が女房今様をぞ歌ひける。藤次が妻女も催馬楽をぞ歌ひける。磯の禅師珍しからぬ身なれどもとて、貴賎と言ふ白拍子をぞ数へける。催馬楽、其駒も主に劣らぬ上手共なりければ、共に歌ひて遊びけり。春の夜の朧の空に雨降りて、殊更世間閑也。壁に立ち添ふ人も聞け、終日の狂言は千年の命延ぶなれば、我も歌ひ遊ばんとて、別の白拍子をぞ数へける。音声文字うつり、心も言葉も及ばれず。左衛門の尉、藤次、壁を隔てて是を聞きて、「あはれ打ち任せの座敷ならば、などか推参せざるべき」とて、心も空に憧るるばかりなり。白拍子過ぎければ、錦の袋に入れたる琵琶一面、纐纈の袋に入りたる琴一張取り出だして、琵琶をば其駒袋より取り出だして、緒合はせて、左衛門の尉の女房の前に置く。琴をば催馬楽取り出だし琴柱立て、静が前にぞ置きたりける。管絃過ぎければ、又左衛門の妻女心ある様の物語などせられつつ、今や言はまし言はましとぞ思ひける。「昔の京をば難波の京とぞ申しけるに、愛宕郡に都を立てられしより此の方、東海道を遙かにして、由比の、足利より東、相模の国をさか上り、由比の浦、ひつめの小林、鶴岡の麓に今八幡を斎ひ奉る。鎌倉殿にも氏神なれば、判官殿をなどか守り奉り給はざらん、和光同塵は結縁の始め、八相成道は利物の終、何事か御祈りの感応無からんや、当国一の無双にて渡らせ給へば、夕は参籠の輩門前市をなす。朝には参詣の輩肩を並べて踵を継ぐ。然れば日中には適ひ候ふまじ。堀殿の妻女、若宮の案内者にて御座します。妾も此の所巨細の者にて候へば、明日又夜をこめて御参詣候ひて思し召す御宿願も遂げさせ御座しまし、其の次に御腕差法楽し参らさせ給ひ候ひなば、鎌倉殿と判官殿と御仲も直らせ御座しまし候ひて思し召す儘なるべし。奥州に渡らせ給ひ候ふ判官殿も聞召し伝へさせ給はば、我が為に丹誠を致し参らせ給ふと聞召しては、如何ばかり嬉しとこそ思し召し候はんずれ。偶々斯かる次ならでは、争でかさる事候ふべき。理を枉げて御参詣候へ。余りに見奉りてよりいとど愚かに思ひ参らせず候へば、せめての事に申し候ふなり。御参詣候はば、御供申し候はん」とぞ賺しける。静是を聞きて、実にもとや思ひけん、磯の禅師を呼びて、「如何あるべき」と言ひければ、禅師もあはれさも有らまほしく思ひければ、「八幡の御託宣にてこそ候へ。是程深く思しける嬉しさよ、疾く疾く参らせ給へ」と言ひければ、「さらば昼は適ふまじ。寅の時に参りて、辰の時に形の如く舞ひて帰らばや」とぞ申しける。左衛門の女房、祐経にはや聞かせたくて、かくと言はせければ、祐経壁を隔てて聞く事なれば、使の出でぬ間に、馬に打ち乗り、急ぎ鎌倉殿へ参りて、侍につと入れば、君を初め参らせて、侍共「如何にや如何にや」と問ひ給へば、「寅の時の参詣、辰の時の御腕差」と高らかに申したりければ、鎌倉殿やがて御参詣有りけり。静舞ひぬると聞きて、若宮には門前市をなす。「拝殿廻廊の前、雑人奴等がえいやづきをして、物の差別も聞こえ候はず」と申しければ、小舎人を召して、「放逸に当たり、追ひ出だせ」と仰せける。源太承りて、「御諚ぞ」と言ひけれども用ゐず。小舎人原放逸に散々に打つ。男は烏帽子を打ち落し、法師は笠を打ち落さる。疵をつく者其の数有りけれども、「是程の物見を一期に一度の大事ぞ。傷はつくとも入らんず」とて身の成り行く末代知らずして、潛り入る間、中々騒動する事夥し。佐原の十郎申しけるは、「あはれ予て知り候はば、廻廊の真中に舞台を張りて参らせ奉り候はんずるものを」と申しけり。鎌倉殿聞召して、「あはれ是は誰が申しつるぞ」と御尋有りければ、「佐原の十郎申して候ふ」と申す。「佐原故実の者なり。尤もさるべし。やがて支度して参らせよ」と仰せられけり。十郎承りて、急ぎの事なりければ、若宮修理の為に積み置かれたる材木を一時に運ばせて、高さ三尺に舞台を張りて、唐綾、絞紗を以てぞ包みたる。鎌倉殿御感有りける。静を待つに、日は既に巳の時ばかりになるまで参詣なし。「如何なる静なれば、是程に人の心を尽くすらん」などぞ申しける。遙かに日闌けて、輿を舁きてぞ出で来たる。左衛門の尉、藤次が女房諸共に打ち連れて廻廊にぞ詣でたりける。禅師、催馬楽、其駒其の日の役人也ければ、静と連れて廻廊の舞台へ直る。左衛門の女房は同じ姿なる女房達三十余人引き具して、桟敷に入りける。静は神前に向ひて念誦してぞ居たりける。先づ磯の禅師、珍しからねども、法楽の為なれば、催馬楽に鼓打たせて、すきもののせうしやと言ふ白拍子を数へてぞ舞ひたりける。心も言葉も及ばれず。「さしも聞こえぬ禅師が舞だにも、是程に面白きに、まして静が舞はん時、如何に面白からん」とぞ申し合ひける。静、人の振舞、幕の引様、如何様にも鎌倉殿の御参詣と覚えたり。祐経が女房賺して、鎌倉殿の御前にて舞はすると覚ゆる。あはれ何ともして、今日の舞を舞はで帰らばやとぞ千種に案じ居たりける。左衛門の尉を呼びて申しけるは、「今日は鎌倉殿の御参詣と覚え候ふ。都にて内侍所に召されし時は、内蔵頭信光に囃されて舞ひたりしぞかし。神泉苑の池の雨乞の時は、四条のきすはらに囃されてこそ舞ひて候ひしか。此の度は御不審の身にて召し下され候ひしかば、鼓打ちなどをも連れても下り候はず。母にて候ふ人の形の如くの腕差を法楽せられ候はば、我々は都へ上り、又こそ鼓打用意して、わざと下りて法楽に舞ひ候はめ」とて、やがて立つ気色に見えければ、大名小名是を見て、興醒めてぞ有りける。鎌倉殿も聞召して、「世間狭き事かな。鎌倉にて舞はせんとしけるに、鼓打ちが無くて、遂に舞はざりけりと聞こえん事こそ恥かしけれ。梶原、侍共の中に鼓打つべき者やある。尋ねて打たせよ」と仰せられければ、景時申しけるは、「左衛門の尉こそ小松殿の御時、内裏の御神楽に召されて候ひけるに、殿上に名を得たる小鼓の上手にて候ふなれと申したりければ、さらば祐経打ちて舞はせよ」と仰せ蒙りて申しけるは、「余りに久しく仕らで鼓の手色などこそ思ふ程に候ふまじけれども、御諚にて候へば仕りてこそ見候はめ。但し鼓一ちやうにては叶ふまじ、鉦の役を召され候へ」と申したり。鉦は誰かあるべきと仰せられける。「長沼の五郎こそ候へ」と申しければ、「尋ね打たせよ」と仰せければ、「眼病に身を損じて、出仕仕らず」と申しければ、「さ候はば、景時仕りて見候はばや」と申せば、「なんぼうの、梶原は銅拍子ぞ」と左衛門に御尋ね有り。「長沼に次いでは梶原こそ」と申したりければ、「さては苦しかるまじ」とて、鉦の役とぞ聞こえける。佐原の十郎申しけるは、「時の調子は大事の物にて候ふに、誰にか音取を吹かせばや」と申せば、鎌倉殿「誰か笛吹きぬべき者やある」と仰せられければ、和田の小太郎申しけるは、「畠山こそ院の御感に入りたりし笛にて候へ」と申しければ、「如何でか畠山の賢人第一の、異様の楽党にならんは、仮初なりともよも言はじ」と仰せられければ、「御諚と申して見候はん」とて、畠山の桟敷へ行きけり。畠山に此の仔細を「御諚にて候ふ」と申しければ、畠山、「君の御内きりせめたる工藤左衛門鼓打ちて、八箇国の侍の所司梶原が銅拍子合はせて、重忠が笛吹きたらんずるは、俗姓正しき楽党にてぞ有らんずらむ」と打ち笑ひ、仰せに従ひ参らすべき由を申し給ひつつ、二人の楽党は所々より思ひ思ひに出で立ち出でられけり。左衛門の尉は、紺葛の袴に、木賊色の水干に、立烏帽子、紫檀の胴に羊の皮にて張りたる鼓の、六の緒の調を掻き合はせて、左の脇にかい挟みて、袴の稜高らかに差し挟み、上の松山廻廊の天井に響かせ、手色打ち鳴らして、残の楽党を待ちかけたり。梶原は紺葛の袴に山鳩色の水干、立烏帽子、南鐐を以て作りたる金の菊形打ちたる銅拍子に、啄木の緒を入れて、祐経が右の座敷に直りて、鼓の手色に従ひて、鈴虫などの鳴く様に合はせて、畠山を待ちけり。畠山は幕の綻より座敷の体を差し覗きて、別して色々しくも出で立たず、白き大口に、白き直垂に紫革の紐付けて、折烏帽子の片々をきつと引き立てて、松風と名づけたる漢竹の横笛を持ち、袴の稜高らかに引き上げて、幕ざと引き上げ、づと出でたれば、大の男の重らかに歩みなして舞台に上り、祐経が左の方にぞ居直りける。名を得たる美男なりければ、あはれやとぞ見えける。其の年廿三にぞなりける。鎌倉殿是を御覧じて、御簾の内より「あはれ楽党や」とぞ讚めさせ給ひける。時に取りては、おくゆかしくぞ見えける。静是を見て、よくぞ辞退したりける。同じくは舞ふ共、斯かる楽党にてこそ舞ふべけれ、心軽くも舞ひたりせば、如何に軽々しく有らんとぞ思ひける。禅師を呼びて、舞の装束をぞしたりける。松に懸かれる藤の花、池の汀に咲き乱れ、空吹く風は山霞、初音ゆかしき時鳥の声も、折知り顔にぞ覚えける。静が其の日の装束には、白き小袖一襲、唐綾を上に引き重ねて、白き袴踏みしだき、割菱縫ひたる水干に、丈なる髪高らかに結ひなして、此の程の歎きに面瘠せて、薄化粧眉ほそやかに作りなし、皆紅の扇を開き、宝殿に向ひて立ちたりける。さすが鎌倉殿の御前にての舞なれば、面映ゆくや思ひけん、舞ひ兼ねてぞ躊躇ひける。二位殿は是を御覧じて、「去年の冬、四国の波の上にて揺られ、吉野の雪に迷ひ、今年は海道の長旅にて、瘠せ衰へ見えたれども、静を見るに、我が朝に女有り共知られたり」とぞ仰せられける。静其の日は、白拍子多く知りたれども、殊に心に染むものなれば、しんむじやうの曲と言ふ白拍子の上手なれば、心も及ばぬ声色にて、はたと上げてぞ歌ひける。上下あと感ずる声雲にも響くばかりなり。近きは聞きて感じけり。声も聞こえぬもさこそあるらめとてぞ感じける。しんむしやうの曲半ばかり数へたりける所に祐経心なしとや思ひけん、水干の袖を外して、せめをぞ打ちたりける。静「君が代の」と上げたりければ、人々是を聞きて、「情無き祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、

しづやしづ賎のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな

吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき

と歌ひたりければ、鎌倉殿御簾をざと下し給ひけり。鎌倉殿、「白拍子は興醒めたるものにて有りけるや。今の舞ひ様、歌の歌ひ様、怪しからず。頼朝田舎人なれば、聞き知らじとて歌ひける。賎のをだまき繰り返し」とは、頼朝が世尽きて九郎が世になれとや。あはれおほけなく覚えし人の跡絶えにけりと歌ひたりければ、御簾を高らかに上げさせ給ひて、軽々しくも讚めさせ給ふものかな。二位殿より御引出物色々賜はりしを、判官殿御祈りの為に若宮の別当に参りて、堀の藤次が女房諸共に打ち連れてぞ帰りける。明くれば都にとて上り、北白川の宿所に帰りてあれども、物をもはかばかしく見入れず、憂かりし事の忘れ難ければ、問ひくる人も物憂しとて、只思ひ入りてぞ有りける。母の禅師も慰め兼ねて、いとど思ひ深かりけり。明暮持仏堂に引き籠り、経を読み、仏の御名を唱へて有りけるが、かかる憂世にながらへても何かせんとや思ひけん、母にも知らせず、髪を切りて、剃りこぼし、天龍寺の麓に草の庵を結び、禅師諸共に行ひ澄ましてぞ有りける。姿心、人に勝れたり、惜しかるべき年ぞかし、十九にて様を変へ、次の年の秋の暮には思ひや胸に積りけん、念仏申し、往生をぞ遂げにける。聞く人貞女の志を感じけるとぞ聞こえける。

巻第七

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判官北国落の事

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文治二年正月の末になりぬれば、大夫判官は、六条堀河に忍びて御座しける時も有り、又嵯峨の片辺に忍びて御座しける時も有りけるが、都には判官殿の御故に、人々多く損じければ、義経故民の煩ひとなり、人数多損ずるなれば、如何なる所にも有りと聞き、見ばやと思はれければ、今は奥州へ下らばやとて、別々になりける侍共をぞ召されける。十六人は一人も心変はり無くてぞ参りける。「奥州へ下らんと思ふに何れの道にかかりてかよからんずるぞ」と仰せられければ、各々申しけるは、「東海道こそ名所にて候へ、東山道は切所なれば、自然の事有らんずる時は、避けて行くべき方もなし。北陸道は越前の国敦賀の津に下りて、出羽国の方へ行かんずる船に便船してよかるべし」とて道は定め、「さて姿をば如何様にしてか下るべき」と様々に申しける中に、増尾の七郎申しけるは、「御心やすく御下りあるべきにて候はば、御出家候ひて、御下り候へ」と申しければ、「遂にはさこそ有らんずらめども、南都の勧修坊の千度出家せよと教化せられしを背いて、今身の置所無き儘に、出家しけると聞こえんも恥かしければ、此の度は如何にもして、様を変へもせで下らばや」と宣ひければ、片岡申しけるは、「さらば山伏の御姿にて御下り候へ」と申しければ、「いさとよ、それも如何有らんずらん、都を出でん日よりして、日吉山王、越前の国に気比の社、平泉寺、加賀の国下白山、越中国に蘆峅、岩峅、越後の国にはをき、国上、出羽の国には羽黒山とて、山社多き所なれば、山伏の行き逢ひて、一乗菩提の峰、釈迦岳の有様、八大金剛童子の護身さし、富士の峰、山伏の礼義などを問ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき」と仰せければ、武蔵坊申しけるは、「それ程の事安き事候ふ。君は鞍馬に御座しまししかば、山伏の事は粗々御存じ候ふらん。常陸坊は園城寺に候ひしかば、申すに及ばず、弁慶は西塔に候ひしかば、一乗菩提の事粗々存じ仕りて候へば、などか陳ぜで候ふべき。山伏の勤には、懺法阿弥陀経をだにも、詳かに読み候ひぬれば、堅固苦しくも候ふまじ。只思し召し立たせ給へ」とぞ申しける。「どこ山伏と問はんずる時はどこ山伏とか言はんずる」「越後国直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより此方にては、羽黒山伏の熊野へ参り、下向するぞと申すべき。それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべき」と申しければ、「羽黒の案内知りたらん者や有る。羽黒にはどの坊に誰がしと言ふ者ぞと問はんずる時は如何せんずる」。弁慶申しけるは、「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ふ者申し候ひしは、大黒堂の別当の坊に荒讚岐と申す法師に弁慶は少しも違はぬ由申し候ひしかば、弁慶をば荒讚岐と申し候ふべし。常陸坊をば小先達として筑前坊」とぞ申しける。判官仰せられけるは、「もとより法師なれば、御辺達は戒名せずとも苦しかるまじ。何ぞ男の頭巾篠県笈掛けたらんずるが、片岡或いは、伊勢の三郎、増尾などと言ひたらんずるは、似ぬ事にて有らんずるは如何に」「さらば皆坊号をせよ」とて、思ひ思ひに名をぞ付きける。片岡は京の君、伊勢の三郎をば宣旨の君、熊井太郎は治部の君とぞ申しける。さては上野坊、上総坊、下野坊などと言ふ名を付きてぞ呼びける。判官殿は殊に知る人御座しければ、垢の付きたる白き小袖二つに矢筈付けたる地白の帷子に、葛大口村千鳥を摺にしたる柿の衣に、古りたる頭巾、目の際までひつこうで、戒名をば、大和坊とぞ申しける。思ひ思ひの出立をぞしける。弁慶は大先達にて有りければ、袖短かなる浄衣に、褐の脛巾にごんづ履いて、袴の括高らかに結ひて、新宮様の長頭巾をぞ県けたりける。岩透と言ふ太刀あひぢかに差しなして、法螺貝をぞ下げたりける。武蔵坊は喜三太と言ふ下部を強力になして、県けさせたる笈の足に、猪の目彫りたる鉞に八寸ばかり有りけるをぞ結ひ添へたる。天頂には四尺五寸の大太刀を真横様にぞ置きたりける。心つきも出立も、あはれ先達やとぞ見えける。総じて勢は十六人、笈十挺有り。一挺の笈には鈴、独鈷、花皿、火舎、閼伽坏、金剛童子の本尊を入れたりけり。一挺の笈には、折らぬ鳥帽子十頭、直垂大口などをぞ入れたりける。残り八挺の笈には、皆鎧腹巻をぞ入れたりける。斯様に出で立ち給ふ事は正月の末、御吉日は二月二日なり。判官殿の奥州へ下らんとて、侍共を召して、「斯様に出で立つと雖も、猶も都に思ひ置く事のみ多し。中にも一条今出川の辺に有りし人は、未だ有りもやすらん。連れて下らんなど言ひしに、知らせずして下りなば、さこそ名残も深く候はんずらめ。苦しかるまじくは、連れて下らばや」と宣ひければ、片岡武蔵坊申しけるは、「御供申すべき者は、皆是に候ふ。今出河には誰か御渡り候ふやらん。北の方の御事候ふやらむ」と申しければ、此の頃の御身にては、流石にそよとも仰せられかねて、つくづくと打ち案じ思ひてぞ御座しける。弁慶申しけるは、「事も事にこそより候はんずれ、山伏の頭巾篠県に笈掛けて、女房を先に立てたらんずるは、さしも尊き行者にも有らじ。又敵に追ひ掛けられん時は、女房を静に歩ませ奉り、先に立てたらんはよかるまじく候ふ」と申しけるが、思へばいとほしや、此の人は久我の大臣殿の姫君、九つにて父大臣殿には後れ参らせ給ひぬ。十三にて母北の方に後れ参らせ給ひぬ。其の後は乳母の十郎権頭より外に頼む方ましまさず。容顔美しく、御情深く渡らせ給ひけれども、十六の御年までは幽なる御住なりしを、如何なる風の便にか此の君に見え初められ参らせ給ひしより此の方、君より外にまた知る人も渡らせ給はぬぞかし。惆悵の藤は松に離れて、便なし。三従の女は男に離れて力なし。また奥州へ下り給ひたるとても、情も知らぬ東女を見せ奉らんも痛はしく、御心の中も推量に朧けならではよも仰せられ出ださじ。さらば具し奉りて下らばやと思ひければ、「あはれ、人の御心としては、上下の分別は候はず。移れば変はる習ひの候ふに、さらば入らせ御座しまして、事の体をも御覧じて、誠にも下らせ御座しますべきにても候はば、具足し参らせ給ひ候へかし」と申しければ、判官世に嬉しげにて、「いざさらば」とて、柿の衣の上に薄衣被き給ひ御出ある。武蔵も浄衣に衣被きして、一条今出河の久我の大臣殿の古御所へぞ御座しましける。荒れたる宿のくせなれば、軒の忍に露置きて、籬の梅も匂有り。彼の源氏の大将の荒れたる宿を尋ねつつ、露分け入り給ひける古き好も今こそ思ひ知られける。判官をば中門の廊下に隠し奉りて、弁慶は御妻戸の際に参り、「人や御渡り候ふ」と問ひければ、「何処より」と答ふる。「堀河の方より」と申しければ、御妻戸を開けて見給へば、弁慶にてぞ有りける。日頃は人伝にこそ聞き給ひしに、余りの御嬉しさに北の方簾の際に寄り給ひて、「人は何処にぞ」と問ひ給へば、「堀河に渡らせ給ひ候ふが、「明日は陸奥へ御下り候ふ」と申せと仰せの候ひつるは、「日頃の御約束には如何なる有様もしてこそ具足し参らせ候はんと申しては候へども、道々も差し塞がれて候ふなれば、人をさへ具足し参らせて、憂き目を見せ参らせ候はん事いたはしく思ひ参らせ候へば、義経御先に下り候ひて、若し存命へて候はば、春の頃は必ず必ず御迎ひに人を参らせ候ふべし。それまでは御心長く待たせ御座しまし候へと申せ」とこそ仰せられ候ひつれ」と申しければ、「此の度だにも具して下り給はぬ人の、何の故にかわざと迎ひには賜はるべき。あはれ下り著き給はざらん先に、老少不定の習ひなれば、ともかくもなりたらば、とても遁れざりけるもの故に、など具して下らざりけんと後悔し給ひ候ふ共、甲斐有らじ。御志有りし程は、四国西国の波の上までも具足せられしぞかし。然れば何時しか変はる心のうらめしさよ。大物浦とかやより、都へ帰されし其の後は思ひ絶えたる言の葉を、又廻り来たるとかく慰め給ひしかば、心弱くも打ち解けて、二度憂き言の葉にかかりぬるこそ悲しけれ。申すに付けて如何にぞやと覚ゆれども、知られず知られで、我如何にもなりなば、後世までも実に残すは、罪深き事と聞く程に申し候ふぞ。過ぎぬる夏の頃より、心乱れて苦しく候ひしを、只ならぬとぞや人の申し候ひしか、月日に添へて夕も苦しくなりまされば、其の隠れあるまじ。六波羅へも聞こえて、兵衛佐殿は情無き人と聞けば、捕りも下されざらん。北白川の静は、歌を歌ひ、舞も舞へばこそ、一の咎は遁れけれ。我々はそれにも似るべからず。只今憂き名を流さん事こそ悲しけれ。何と言うても、人の心強さなれば力なし」と打ち口説き、涙も堰き敢へず覚えければ、武蔵坊も涙に咽びけり。燈火の明にて、常に住み馴れ給ひつる御障子の引手の元を見ければ、御手跡と覚えて、

つらからば我も心の変はれかしなど憂き人の恋しかるらん

とぞ遊ばされたりけるを、弁慶見て、未だ御事をば忘れ参らせさせ給はざりけると哀れにて、急ぎ判官にかくと申せば、判官さらばとて御座して、「御心短の御怨かな。義経も御迎ひに参りて候へ」とて、つと入り給ひたりければ、夢の心地して、問ふにつらさの御涙いとど堰き敢へ給はず。判官「さても義経が今の姿を御覧ぜられば、日来の御志も興醒めてこそ思し召され候はめ有らぬ姿にて候ふものを」と仰せられければ、「予しに聞きし御姿の、様の変はりたるやらん」と仰せられければ、「これ御覧じ候へ」とて、上の衣を押し除け給ひたれば、柿の衣に小袴、頭巾をぞ著給ひける。北の方見習はせ給はぬ御心には、げに疎からば恐ろしくも覚えぬべけれども、「扨我をば如何様に出で立たせて具し給ふべきぞや」と仰せられければ、武蔵坊「山伏の同道には、少人の様にこそ作りなし参らせ候はんずれ。容顔も御つくろひ候はば、苦しく御わたらせ候ふまじく候ふ。御年の程も良き程に見えさせ御座しまし候へば、つくろひ申すべく候ふが、只御振舞こそ御大事にて候はんずれ。北陸道と申すは、山伏の多き国にて候へば、花の枝などを、「これ少人へ」と参らせ言はん時は、男子の言葉を習はせ給ひて、衣紋掻き繕ひ、姿を男の如く御振舞候へ、此の年月の様に、たをやかに物恥かしき御心つき御振舞にては、堅固叶はせ給ひ候ふまじく候ふ」と申しければ、「然れば人の御徳に、習はぬ振舞をさへして下らんずると思ふ也。はや夜も更くるに、疾く疾く」と仰せられければ、弁慶御介錯にぞ参りける。岩透と言ふ刀を抜きて、清水を流したる御髪の丈にあまるを御腰に比べて情無くもふつと切る。末をば細く刈りなして、高く結ひ上げて、薄化粧に御眉細く作り、御装束は匂ふ色に花やうを引き重ねて、裏山吹一襲、唐綾の御小袖、播磨浅黄の帷を上にぞ著せ奉る。白き大口顕紋紗の直垂を著せ奉り、綾の脛巾に草鞋履かせ奉り、袴の括高く結ひ、白打出の笠をぞ著せ奉る。赤木の柄の刀にだみたる扇差し添へ、遊ばさねども漢竹の横笛を持ち奉る。紺地の錦の経袋に法華経の五の巻を入れて懸けさせ奉る。我が身一つだにも苦しかるべきに万の物を取り付け奉りたれば、しどけなげにぞ見え給ふ。是や此の王昭君が胡国の夷に具せられて下りけん心の中も、今こそ思ひ知られける。斯様に出で立ち給ひて、四間の御出居に燈火数多かき立てて、武蔵坊を側らに置きて、北の方を引き立て、御手を取りて彼方此方へ歩ませ奉り、「義経山伏に似るや、人は児に似たるぞ」と仰せける。弁慶申しけるは、「君は鞍馬に渡らせ給ひしかば、山伏にも馴れさせ給ひ候ひつれば、申すに及ばず候ふ。北の方は何時習はせ御座しまさねども、御姿少しも児にたがはせ御座しまし候はず。何事も戒力と申す御事にて渡らせ給ひ候ひける」と申す中にも、哀れを催す涙の頻りに零れけれども、さらぬ体にてぞ有りける。さる程に二月二日まだ夜深に、今出川を出でんとし給ふ。西の妻戸に人の音しける、如何なる者なるらんと御覧ずれば、北の方の御乳母に十郎権頭兼房、白き直垂に褐の袴著て、白髪交りの髻引き乱し、頭巾打ち著、「年寄り候ふとも、是非とも御伴申し候はん」とて参りたり。北の方「妻子をば誰に預け置きて参るべき」と宣へば、「相伝の御主を妻子に思ひ代へ参らすべきか」と申しも敢へず、涙に咽びけり。六十三になりける儘に、良き丈な山伏にてぞ有りける。兼房涙を仰へて申しけるは、「君は清和天皇の御末、北の方は久我殿の姫君ぞかし。只仮初に花紅葉の御遊、御物詣なりとも、ようの御車などこそ召さるべきに、遙々東の路に徒跣にて出で立ち給ふ御果報の程こそ、目も当てられず悲しけれ」とて、涙を流しければ、残りの山伏共も、「理なり、誠に世には神も仏もましまさぬか」とて各々浄衣の袖をぞ絞りける。さて御手に手を取り組みて歩ませ奉れども、何時か習はせ給はねば、只一所にぞ御座しける。をかしき事を語り出だして、慰め奉りて進め給ひけり。まだ夜深に今出川をば出でさせ給ひけれども、八声の鳥もしどろに鳴きて、寺々の鐘の声早打ち鳴らす程に明けけれども、漸々粟田口まで出で給ふ。武蔵坊片岡に申しけるは、「如何せん、いざや北の方の御足早くなし奉るべし。片岡に申せ」と言ひければ、御前に参りて申しける様は、「斯様に御渡り候はば、道行くべしとも存じ候はず。君は御心静かに御下り候へ。我等は御先に下り候ひて、秀衡に御所造らせて、御迎ひに参り候はん」と申して、御先に立ちければ、判官の仰せには、「如何に人の御名残惜しく思ひ参らせ候へ共、是等に棄てられては叶ふまじ。都の遠くならぬ先に、兼房御伴して帰れ」と仰せられて、棄て置きて進み給へば、さしも忍び給ひし御人の御声を立てて仰せられけるは、「今より後は道遠しとも悲しむまじ。誰に預け置きて、何処へ行けとて捨て給ふぞ」とて、声を立てて悲しみ給へば、武蔵又立ち帰り、具足し奉りける。粟田口を過ぎて、松坂近く成りければ、春の空の曙に霞に紛ふ雁の、微に鳴きて通りけるを聞き給ひて、判官かくぞ続け給ふ。

み越路の八重の白雲かき分けて羨ましくも帰るかりがね

北の方もかくぞ続け給ふ。

春をだに見捨てて帰るかりがねのなにの情に音をば鳴くらん

所々打ち過ぎければ、逢坂の蝉丸の住給ふ藁屋の床を来て見れば、垣根に忍交りの忘草打ち交り、荒れたる宿の事なれば、月の影のみ昔に変はらじと、思ひ知られて哀なり。軒の忍を取り給ひて奉り給へば、北の方都にて見しよりも、忍ぶ哀れの打ち添ひて、いとど哀れに思し召して、かくぞ続け給ふ。

住み馴れし都を出でて忍草置く白露は涙なりけり

かくて大津の浦も近くなる。春の日の長きに歩む歩むとし給へども、関寺の入相の鐘今日も暮れぬと打ち鳴らし、怪しの民の宿借る程になりぬれば、大津の浦にぞかかり給ひける。

大津次郎の事

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此処に憂き事ぞ出で来たる。天に口なし、人を以て言はせよと誰披露するとしも無けれ共、判官山伏になりて、其の勢十余人にて、都を出で給ふと聞こえしかば、大津の領主山科左衛門、園城寺の法師を語らひて、城郭を構へて相待つ。然れども判官は、大津の渚に大なる家有り。是は塩津、海津、山田、矢橋、粟津、松本に聞こえたる商人の宗徒の者、大津次郎と申す者の家なり。弁慶宿を借らせけるは、「羽黒山伏の熊野に年籠りして下向し候ふ。宿を賜び候へ」と借らせたりければ、宿伝ふ習ひなれば、相違無く宿を参らせたり。さよ打ち更けて、懺法阿弥陀経を同音にぞ誦み給ひける。是ぞ勤めの始めなる。大津二郎は左衛門の召しにて城に有り。大津二郎が女、物越に見奉りて、あら美しの山伏児や、遠国の道者とは宣へども、衣裳の美しさは、如何にも只人には有らず、但し判官殿の山伏になりて下り給ふなるに、山伏大勢留めて、城に聞こえては身の為も大事なり。次郎を呼びて此の事を知らせて、判官にてましまさば、城まで申さずとも、私にも討つても、搦めても、鎌倉殿の見参に入れて、勲功に与りたらば、然るべきと思ひければ、城へ使を遣はして、男を呼びよせて、一間なる所へ招き入れて言ひけるは、「時しもこそ多けれ。今夜しも我々判官殿に宿を借し参らせて候ふは、如何せんずる。御辺の親類我が兄弟を集めて搦めばや」とぞ申しける。男申しけるは、「「壁に耳、石に口」と言ふ事有り。判官殿にて御座すればとて、何か苦しかるべき。搦め参らせたればとて、勲功も有るまじ。実の山伏にて渡らせ給ふに付けては、金剛童子の恐れ有り、実に又判官殿にて御座しませばとても、忝くも鎌倉殿の御弟にてましませば恐有り。我思ひかかり奉りても、容易かるべき事ならず。かしがましかしがまし」とぞ言ひける。女是を聞きて、「地体が和男は妻子に甲斐々々しくあたるばかりを本とする男なり。女の申す事は上つ方の御耳に入らぬ事やある。城へ、いでさらば参りて申さん」とて、小袖取りて打ち被き、やがて走り出でてぞ行きける。大津次郎是を見て、彼奴を放し立てては悪しかりなんとや思ひけん、門の外に追ひ著きて、「汝、今に始めたる事か、風になびく苅萱、男に従ふ女」とて、引き伏せて、心の行く行くぞさやなみける。彼の女は極めたるえせ者なりければ、大路に倒れて喚きけるは、「大津二郎は極めたる僻事の奴にて候ふぞ。判官の方人するぞ」とぞ申しける。所の者是を聞きて申しけるは、「大津二郎が女こそ例の酔狂して、男に打たるるとて喚くは。又多くの法師の嘆きともならんや。只放し合はせて、打たせよ」とて、取りさゆる者無ければ、ふすふす打たれて臥しにけり。大津二郎は直垂取りて著て、御前に参りて、火打ち消して申しけるは、「かかる口惜しき事こそ御座候はね。女奴が物に狂ひ候ふ。是聞召され候へ。何とも御語り候へ。今夜は是にて明かさせ給ひて、明日の御難をば何として逃れさせ給ひ候ふべき。是に山科左衛門と申す人城郭を構へて判官殿を待ち申し候ふ。急ぎ御出候へ。是に小船を一艘持ちて候ふに、召され候ひて、客僧達の御中に船に心得させ給ひて候はば、急ぎ御出候へ」と申しける。弁慶申しけるは、「身に誤りたる事は候はねども、左様に所に煩ひ候はんずるには、取り置かれ候ひては、日数も延び候はんず。さ候はば暇申して」とて出で給ひければ、「船をば海津の浦に召し棄てて、疾く愛発の山を越えて、越前の国へ入らせ給へ」と申しける。判官出でさせ給へば、大津二郎も船津に参り、御船こしらへてぞ参らせける。かくて大津次郎山科左衛門の許に走り帰りて申しけるは、「海津の浦に弟にて候ふ者中夭に逢ひて、傷を蒙りて候ふと承はり候ふ間、暇申して、別の事候はずは、やがてこそ参り候はん」と申しければ、「それ程の大事は疾く疾く」とぞ申しける。大津二郎家に帰りて、太刀取つて脇に挟み、征矢掻き負ひ、弓押し張り、御船に躍り入りて、「御供申し候はん」とて、大津の浦をば押し出だす。瀬田の川風劇しくて、船に帆をぞ掛けたりける。大津二郎申しけるは、「此方は粟津大王の建て給ふ石の塔山、此処に見え候ふは唐崎の松、あれは此叡山」と申す。山王の御宝殿を顧み給へば、其の行先は竹生島と申して拝ませ奉る。風に任せて行く程に、夜半ばかりに西近江、何処とも知らぬ浦を過ぎ行けば、磯浪の聞こえければ、此処は何処ぞと問ひ給へば、「近江の国堅田の浦」とぞ申しける。北の方是を聞召して、かくぞ続け給ひける。

しぎが臥すいさはの水の積り居て堅田を波の打つぞやさしき白鬢の明神をよそにて拝み奉り、三河の入道寂照が、

鶉鳴く真野の入江の浦風に尾花浪寄る秋の夕暮

と言ひけん古き心も今こそ思ひ知られけれ。今津の浦を漕ぎ過ぎて、海津の浦にぞ著きにける。十余人の人々を上げ奉りて、大津二郎は御暇申すなり。此処に不思議なる事有り。南より北へ吹きつる風の、今又北より南へぞ吹きける。判官仰せられけるは、「彼奴は同じ次の者ながらも情ある者かな。知らせばや」と思し召し、武蔵坊を召して、「知らせて下らば、後に聞きてあはれとも思ふべし。知らせばや」と宣へば、弁慶大津次郎を招きて、「和君なれば知らするぞ。君にて渡らせ給ふなり。道にてともかくもならせ給はば、子孫の守りともせよ」とて、笈の中より、萌黄の腹巻に小覆輪の太刀取り添へてぞ賜びにける。大津二郎是を賜はつて、「何時までも御伴申したく候へ共、中々君の御為悪しく候はんずれば、暇申して、何処にも君の渡らせ御座しまさん所を承りて、参りて見参らせ候はん」とて帰りけり。下郎なれども情有りてぞ覚えける。大津二郎家に帰りて見ければ、女は一昨日の腹を据ゑ兼ねて、未だ臥してぞ有りける。大津次郎、「や御前御前」と言ひけれ共、音もせず、「あはれ、わ女は詮無き事を思ふなり。山伏留めて判官殿と号して、既に憂き目を見んとせしよな。船に乗せて海津の浦まで送り、船賃など責めたれば、法も無く物を言ひつる間、憎さにかなぐり奪りたる物を見よ」とて、太刀と腹巻とを取り出だして、がはと置きければ、寝乱れ髪の隙より、恐ろしげなる眼しばたたき、流石に今は心地取り直したる気色にて、「それも妾が徳にてこそあれ」とて、大笑みに笑みたる面を見れば、余りに疎ましくぞ有りける。男言ふとも、女の身にては如何など制しこそすべきに、思ひ立ちぬるこそ恐ろしけれ。

愛発山の事

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判官は海津の浦を立ち給ひて、近江国と越前の境なる愛発の山へぞかかり給ふ。一昨日都を出で給ひて、大津の浦に着き、昨日は御船に召され、船心に損じ給ひて、歩み給ふべき様ぞ無き。愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立ち枯れ、巌石峨々として、道すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。何時踏み習はせ給はねば、左右の御足より流るる血は紅を注くが如くにて、愛発の山の岩角染めぬ所は無かりける。少々の事こそ柿の衣にも恐れけれ。見奉る山伏共余りの御痛はしさに、時々代はり代はりに負ひ奉りける。かくて山深く分け入り給ふ程に、日も既に暮れにけり。道の傍二町ばかり分け入りて、大木の下に敷皮を敷き、笈をそばだてて、北の方を休め奉る。北の方「恐ろしの山や、是をば何山と言ふやらん」と問ひ給へば、判官、「是は昔はあらしいの山と申しけるが、当時は愛発の山と申す」と仰せければ、「面白や、昔はあらしいの山と言ひけるを、何とて愛発の山とは名づけけん」と宣へば、「此の山は余りに巌石にて候ふ程に、東より都へ上り、京より東へ下る者の、足を踏み損じて血を流す間、あら血の山とは申しけるなり」と宣へば、武蔵坊是を聞きて、「あはれ是程跡方無き事を仰せ候ふ御事は候はず、人の足より血を踏み垂らせばとて、あら血の山と申し候はんには、日本国の巌石ならん山の、あら血山ならぬ事は候はじ。此の山の仔細は弁慶こそよく知りて候ふ」と申せば、判官、「それ程知りたらば、知らぬ義経に言はせんよりも、など疾くよりは申さぬぞ」と仰せければ、弁慶、「申し候はんとする所を、君の遮りて仰せ候へば、如何でか弁慶申すべき、此の山をあら血の山と申す事は、加賀の国に下白山と申すに、女体后の、龍宮の宮とて御座しましけるが、志賀の都にして、唐崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其の月近くなり給ひしかば、同じくは我が国にて誕生あるべしとて、加賀の国へ下り給ひける程に、此の山の禅定にて、俄に御腹の気付き給ひけるを、明神「御産近づきたるにこそ」とて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてんげり。其の時産のあら血をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。さてこそあらしいの山、あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて笑ひ給ひけり。


三の口の関通り給ふ事

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夜も既に明けければ、あら血の山を出でて、越前の国へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に若狭へ通ふ道有り。能美山に行く道も有り。そこを三の口とぞ申しける。越前国の住人敦賀の兵衛、加賀国の住人井上左衛門両人承りて、愛発の山の関屋を拵へて、夜三百人、昼三百人の関守を据て、関屋の前に乱杭を打ちて、色も白く、向歯の反りたるなどしたる者をば、道をも直にやらず、判官殿とて搦め置きて、糾問してぞひしめきける。道行き人の判官殿を見奉りては、「此の山伏達も此の難をばよも逃れ給はじ」とぞ申しける。聞くに付けても、いとど行先も物憂く思し召しける所に、越前の方より浅黄の直垂著たる男の、立文持ちて忙はしげにてぞ行き逢ひける。判官是を見給ひて、「何ともあれ、彼奴は仔細有りて通る奴にてあるぞ」と宣ひけるに、笠の端にて顔隠して通さんとし給ふ所に十余人の中を分け入りて、判官の御前に跪きて、「斯かる事こそ候はね。君は何処へとて御下り候ふぞ」と申しければ、片岡、「君とは誰そ。此の中に汝に君と傅かるべき者こそ覚えね」と言ひければ、武蔵坊是を聞きて、「京の君の事か、宣旨の君の事か」と言ひければ、彼の男、「何しに斯くは仰せ候ふぞ。君をば見知り参らせて候ふ間、斯くは申し候ふぞ。是は越後の国の住人上田左衛門と申す人の内に候ひしが、平家追討の時も御伴仕りて候ひし間、見知り奉り候ふ。壇の浦の合戦の時、越前と能登、加賀三箇国の人数著到付け給ひし武蔵坊と見奉るは僻事か」と申せば、如何に口の利きたる弁慶も力無くて伏目になりにけり。「詮無き御事かな。此の道の末には君を待ち参らせ候ふものを。只是より御帰り候へかし。此の山の峠より東へ向うて、能美越にかかりて、燧が城へ出でて、越前の国国府にかかりて、平泉寺を拝み給ひて、熊坂へ出でて、菅生の宮を外処に見て、金津の上野へ出でて、篠原、安宅の渡をせさせ給ひて、根上の松を眺めて、白山の権現を外処にて礼し給ひ、加賀国宮越に出でて、大野の渡りし給ひて、阿尾が崎の端を越えて、たけの、倶利伽羅山を経て、黒坂口の麓を五位庄にかかりて、六動寺の渡して、奈呉の林を眺めて、岩瀬の渡、四十八箇瀬を越え、宮崎郡を市振にかかりて、寒原なかいしかと申す難所を経て、能の山を外処に伏し拝み給ひて、越後国国府に著きて、直江の津より船に召して、米山を冲懸に三十三里のかりやはまかつき、しらさきを漕ぎ過ぎて、寺お泊に船を著け、国上弥彦を拝みて、九十九里の浜にかかりて、乗足、蒲原、八十里の浜、瀬波、荒川、岩船と言ふ所に著きて、須戸うと道は雪白水に、山河増さりて叶ふまじ。いはひが崎にかかりて、おちむつやなかざか、念珠の関、大泉の庄、大梵字を通らせ給ひて、羽黒権現を伏し拝み参らせ、清河と言ふ所に著きて、すぎのをか船に棹さして、あいかはの津に著かせ給ひて、道は又二つ候ふ。最上郡にかかりて、伊奈の関を越えて、宮城野の原、榴の岡、千賀の塩竃、松島など申す名所名所を見給ひては、三日、横道にて候ふ。それより後さうたう、亀割山を越えては、昔出羽の郡司が娘小野の小町と申す者の住み候ひける玉造、室の里と申す所、又小町が関寺に候ひける時、業平の中将東へ下り給ひけるに、妹の姉歯が許へ文書きて言伝しに、中将下り給ひて、姉歯を尋ね給へば、空しくなりて、年久しくなりぬと申せば、「姉歯が標は無きか」と仰せられければ、ある人「墓に植ゑたる松をこそ姉歯の松とは申し候へ」と申しければ、中将姉歯が墓に行きて、松の下に文を埋めて読み給ひける歌、

栗原や姉歯の松の人ならば都の土産にいざと言はましものを

と詠み給ひける名木を御覧じては、松山一つだにも超えつれば、秀衡の館は近く候ふ。理に枉げて此の道にかからせ給ふべし」と申しければ、判官是を聞き給ひて、「是は只者にてはなし。八幡の御計らひと覚ゆるぞ。いざや此の道にかかりて行かん」と仰せられければ、弁慶申しけるは、「かからせ給ふべき。わざと憂き目を御覧ぜんと思し召されば、かからせ給ふべし。彼奴は君を見知り参らせ候ふに於ては、疑も無き作事をして、君を欺り参らせんとこそすると覚え候ふ。先へ遣りても、後へ返しても、良き事はあるまじ」と申しければ、「良き様に計らへ」とぞ仰せられける。武蔵坊立ち添ひて、「どの山をどの迫にかかりて行かんずるぞ」と問ふ様にもてなし、弓手の腕を差し伸べて、頚をつかみ、逆様に取つて伏せ、強胸を踏まへて、刀を抜きて、心先に差し当てて、「汝有りの儘に申せ」と責めければ、顫ひ顫ひ申しけるは、「誠には上田左衛門が内に候ひしが、恨むる事候ひて、加賀国井上左衛門が内に候ふ。「君を見知り参らせて候ふ」と申して候へば、「罷り向ひ参らせて賺し参らせ、候へ」と仰せられ候へ共、如何でか君をば疎に存じ参らすべき」と申しければ、「それこそ己が後言よ」とて、真中二刀刺し貫き、頚掻き離し、雪の中に踏み込うで、さらぬ体にてぞ通り給ふ。井上が下人平三郎と言ふ男にてぞ有りける。余りに下郎の口の利きたるは、却つて身を食むとは是なり。さて十余人の人々、とてもかくてもと打ちふてて、関屋をさしてぞ御座しける。十町ばかり近づきて、勢を二手に分けたりけり。判官殿の御供には武蔵坊、片岡、伊勢の三郎、常陸坊、是を始めとして七人、今一手には北の方の御供として、十郎権頭、根尾、熊井亀井、駿河、喜三太御供にて、間五町ばかりぞ隔てける。先の勢は木戸口に行き向ひたりければ、関守是を見て、「すはや」と言ふこそ久しけれ、百人ばかり七人を中に取り籠めて、「是こそ判官殿よ」と申しければ、繋ぎ置かれたる者共、「行方も知らぬ我等に憂き目を見せ給ふ。是こそ判官の正身よ」と喚きければ、身の毛もよだつばかりなり。判官進み出でて仰せられけるは、「抑羽黒山伏の、何事をして候へば、是程に騒動せられ候ふやらん」と宣へば、「何条羽黒山伏。判官殿にてこそ御座しませ」と申しければ、「此の関屋の大将軍は誰殿と申すぞ」と問ひ給へば、「当国の住人敦賀の兵衛、加賀の国の井上左衛門と申す人にて候へ。兵衛は今朝下り候ひぬ。井上は金津に御座する」と申しければ、「主も御座せざらん所にて、羽黒山伏に手かけて、主に禍かくな。其の儀ならば此の笈の中に羽黒の権現の御正体、観音の御座しますに、此の関屋を御室殿と定めて、八重の注連を引きて、御榊を振れ」とぞ仰せられける。関守共申しけるは、「げにも判官にて御座しまさずは、其の様をこそ仰せらるべく候ふに、主に禍をかくべからん様は如何にぞ」と咎めける。弁慶是を聞きて、「形の如く先達候はんずる上は、山法師原が申す事を御咎め候ひては詮なし。やあ大和坊其処退き候へ」とぞ申しける。言はれて関屋の縁にぞ居給へる。是こそ判官にて御座しましけれ。弁慶申しけるは、「是は羽黒山の讚岐坊と申す山伏にて候ふが、熊野に参りて、年籠りにして、下向申し候ふ。判官殿とかやをば、美濃国とやらん尾張国とやらんより生捕りて、都へ上るとやらん。下るとやらむ承り候ひしが、羽黒山伏が判官と言はるべき様こそなかれ」と言ひけれども、何と陣じ給へ共、弓に矢を矧げ、太刀長刀の鞘を外してぞ居たりける。後の人々も七人連れてぞ来たりける。いとど関守共然ればこそとて、大勢の中に取り籠めて、「只射殺せ」とぞ喚きければ、北の方消え入る心地し給ひけり。或る関守申しけるは、「しばらく鎮まり給へ。判官ならぬ山伏殺して後の大事なり。関手を乞うて見よ。昔より今に至るまで、羽黒山伏の渡賃関手なす事は無きぞ。判官ならば仔細を知らずして関手をなして通らんと急ぐべし。現の山伏ならば、よも関手をばなさじ。是を以て知るべき」とて、賢々しげなる男進み出でて申しけるは、「所詮山伏なりとても、五人三人こそ有らめ、十六七人の人々に争か関手を取らではあるべき。関手なして通り給へ。鎌倉殿の御教書にも乙家甲家を嫌はず、関手取りて兵糧米にせよと候ふ間、関手を賜はり候はん」とぞ申しける。弁慶言ひけるは、「事あたらしき事を言はるるものかな。何時の習ひに羽黒山伏の関手なす法やある。例無き事は適ふまじき」と言ひければ、関守共是を聞きて、「判官にては御座せぬ」と言ふも有り、或ひは「判官なれども、世に超えたる人にて御座しませば、武蔵坊などと言ふ者こそ斯様には陳ずらめ」など申す。又或る者出でて申しけるは、「さ候はば、関東へ人を参らせて、左右を承り候はん程、是に留め奉り候はん」と申しければ、弁慶、「是は金剛童子の御計にてこそ。関東の御使上下の程、関屋の兵糧米にて道せん食はで、御祈祷申して、心安く暫く休みて下さるべし」とて、ちつとも騒がず十挺の笈は関屋の内へ取り入れて、十余人の人々、むらむらと内へ入りて、つつとしてぞ居たる。猶も関守怪しく思ひけり。弁慶関守に向つて問はず語りをぞし居たる。「此の少人は出羽国の酒田の次郎殿と申す人の君達、羽黒山にて金王殿と申す少人なり。熊野にて年籠りして、都にて日数を経て、北陸道の雪消えて、山家山家に伝ひて、粟の斎料など尋ねて、斎食などなりとも取りて下るべく候ひつるに、余りに此の少人故郷の事をのみ仰せられ候ふ間、未だ雪も消え候はねども、此の道に思ひ立ち候ひて、如何せんずると歎き候ひつるに、是にて暫日数を経候はん事こそ嬉しく候へ」と物語共して、草鞋脱ぎ足洗ひ、思ひ思ひに寝ぬ起きぬなど、したり顔に振舞ひければ、関守共、「是は判官にては御座せぬげなり。只通せや」とて、関の戸を開きたれ共、急がぬ体にて一度には出でずして、一人二人づつ、静かに立ち休らひ立ち休らひぞ出で給ふ。常陸坊は人より先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊と未だ関の縁にぞ居給へり。弁慶申しけるは、「関手御免候ふ上、判官にてはなしと言ふ仰せ蒙り候ひぬ。旁々以て悦び入りて候へども、此の二三日少人に物を参らせ候はず候へば、心苦しく候ふ。関屋の兵糧米少し賜はり候ひて、少人に参らせて、通り候はばや。且は御祈祷、且は御情にてこそ候へ」と言ひければ、関守共、「物も覚えぬ山伏かな。判官かと申せば、口強に返事し給ふ。又斎料乞ひ給ふ事は如何」と申しければ、賢しき者、「実は御祈祷にてこそあれ。それ参らせよ」と言ひければ、唐櫃の蓋に白米一蓋入れて参らせける。弁慶是を取りて、「大和坊、是を取れ」と言ひければ、傍らより差し出でて、受け取り給ひけり。弁慶長押の上につい居て、腰なる法螺の貝取り出だし、夥しく吹き鳴らし、首に懸けたる大苛高の数珠取つて押し揉みて、尊げにぞ祈りける。「日本第一大霊権現、熊野は三所権現、大嶺八大金剛童子、葛城は十万の満山の護法神、奈良は七堂の大伽藍、初瀬は十一面観音、稲荷、祇園、住吉、賀茂、春日大明神、比叡山王七社の宮、願はくは判官此の道にかけ参らせて愛発の関守の手にかけて留めさせ奉り、名を後代に揚げて、勲功たいくわいならば、羽黒山の讚岐坊が験徳の程を見せ給へ」とぞ祈りける。関守共頼もしげにぞ思ひける。心中には「八幡大菩薩願はくは送護法迎護法となりて、奥州まで相違無く届け奉り給へ」と祈りける心こそ哀れなる祈りとは覚ゆれ。夢に道行く心地して、愛発の関をも通り給ふ。其の日は敦賀の津に下りて、せいたい菩薩の御前にて一夜御通夜有りて、出羽へ下る舟を尋ね給へども、未だ二月の初めの事なれば、風はげしくて、行き通ふ舟も無かりけり。力及ばず夜を明かして、木芽と言ふ山を越えて、日数も経れば越前の国の国府にぞ著き給ふ。それにて三日御逗留有りけり。

平泉寺御見物の事「横道なれども、いざや当国に聞こえたる平泉寺を拝まん」と仰せける。各々心得ず思ひけれ共、仰せなればさらばとて、平泉寺へぞかかられける。其の日は雨降り、風吹きて世間もいとど物憂く、夢に道行く心地して、平泉寺の観音堂にぞ著き給ふ。大衆共是を聞きて、長吏の許へぞ告げたりける。政所の勢を催して、寺中と一つになりて、僉議しけるは、「当時関東は山伏禁制にて候ふに、此の山伏は只人とも見えず、判官は大津坂本愛発の山をも通られて候ふなる。寄せて見ばや、如何様にも是を判官にて御座すると覚え候ふ」と僉議す。尤もとて大衆出で発つ。彼の平泉寺と申すは山門の末寺なり。然れば衆徒の規則も山上に劣らず、大衆二百人、政所の勢も百人、直兜にて夜半ばかりに観音堂にぞ押し懸けたる。十余人は東の廊下にぞ居たりける。判官と北の方は西の廊下にぞ御座したる。弁慶参りて、「今はこそと覚え候ふ。是は余の所には似るべくも候はず。如何御計らひ候ふ。さりながら叶はざるまでは、弁慶陳じて見候はん間、叶ふまじげに候はば、太刀を抜き、「憎い奴原」など申して飛んで下り候はば、君は御自害候へ」とぞ申して出でける。大衆に問答の間、「憎い奴原」と言ふ声やすると耳を立ててぞ聞き給ふ。心細くぞ有りける。衆徒申しけるは、「抑是は何処山伏にて候ふぞ。打ち任せては留まらぬ所にて候ふぞ」と申しければ、弁慶申しけるは、「出羽の国羽黒山の山伏にて候ふ」「羽黒には誰と申す人ぞ」「大黒堂の別当に讚岐の阿闍梨と申す者にて候ふ」と答へけり。「少人をば誰と申すぞ」「酒田の次郎殿と申す人の御子息金王殿とて、羽黒山にはかくれ無き少人にて候ふぞ」と言ひければ、衆徒是を聞きて、「此の者共は判官にては無き者ぞ。判官にて御座しまさんには、争か是程に羽黒の案内をば知り給ふべき。金王と申すは、羽黒には名誉の児にて候ふなるぞ」。長吏事を聞きて、座敷に居直りて、武蔵坊を呼びて、「先達の坊に申すべき事候ふ」と言へば、弁慶も長吏に膝を組みかけてぞ居たりける。長吏申されけるは、「少人の事承り候ふこそ心も言葉も及ばず御座しまし候ふなれ。学問の精は如何様に御座しまし候ふぞ」と言ひければ、「学問に於ては羽黒には並も御座しまし候はず。申すに付けても、過言にて候へ共、容顔に於ては山三井寺にも御座しまし候ふべき」と誉めたりけり。「学問のみにも候はず、横笛に於ては日本一とも申すべし」と言ひければ、長吏の弟子に和泉美作と申しける法師は極めて案深き寺中一のえせ者なり。長吏に申しけるは、「女ならばこそ琵琶弾く事は常の事にて候ふ。是は女ぞと疑ふ所に、笛の上手と申すこそ怪しく候へ。げに児か笛吹かせて見候はん」と申す。長吏げにもとて、「あはれ、さ候はば音に聞こえさせ給ふ御笛を承り候ひて、世の末の物語にも伝へ候はばや」とぞ申されける。弁慶是を聞きて、「安き事や」と返事はしたれども、両眼真暗になる様にぞ覚えける。さてしもあるべき事ならねば、其の様を少人に申し候はんとて、西の廊下に参りて、「かかる事こそ候はね。有りても有らぬ事を申して候ふ程に、御笛を遊ばさせ参らせて、承るべき由申し候ふ。如何仕るべく候ふ」と申しければ、「さりとては吹かずとも出で給へ」と判官仰せられければ、「あら心憂や」とて、衣引き被き臥し給ふ。衆徒は頻りに「少人の御出で遅く候ふ」と申せば、弁慶「只今只今」と答へて居たりけり。和泉と申す法師言ひけるは、「流石に我が朝には熊野羽黒とて、大所にて候ふぞかし。それに左右無く名誉の児を平泉寺にて呼び出だして、散々に嘲哢したりけると聞こえん事、此の寺の恥に有らずや。少人を出だし奉りもてなす様にて、其の序でに吹かせたらんは苦しからじ」と申しければ、「尤も然るべし」とて、長吏の許に念一、弥陀王とて名誉の児有り。花折りて出で立たせ、若大衆の肩頚に乗りてぞ来たりける。正面の座敷長吏、東は政所、西は山伏、本尊を後ろにし奉りて、仏壇の際に南へ向けて、少人の座敷をぞしたりける。二人の児座敷に直りければ、弁慶参りて「御出候へ」と申しければ、北の方只暗に迷ひたる心地して出で立ち給ふ。昨日の雨にしほれたる顕紋紗の直垂に下には白なへ色を召したりければ、猶も美しくぞ見え給ひける。御髪尋常に結ひなして、赤木の柄の刀に彩みたる扇差し添へて、御手に横笛持ちて御出である。御伴には十郎権頭、片岡、伊勢の三郎、判官殿は殊に近くぞ御座しける。自然の事有らば、人手には掛くまじきものをとぞ思し召しける。正面に出で給へば、殊に其の時は燈火を高く挑げたり。北の方扇取り直し、衣紋掻き繕ひ、座敷に直り給ふ。今までは頑はしき所も御座しまさず。武蔵坊心安く思ひけり。何ともあれ、仕損ずる程ならば、差し違へてこそ如何にもならめと思ひければ、長吏に膝をきしりてぞ居たりける。弁慶申しけるは、「詞候はぬ事、笛に於ては日本一ぞかし。但し仔細一つ候ふ。此の少人羽黒に御座しまし候ふ時も明暮笛に心を入れて、学問の御心も空々に御渡り候ひし程に、去年の八月に羽黒を出でし時、師の御坊、今度の道中上下向の間、笛を吹かじと言ふ誓事をなし給へとて、権現の御前にて金を打たせ奉りて候へば、少人の御笛をば御免候へかし。是に大和坊と申す山伏候ふが、笛は上手にて候ふ。常に少人も是にこそ御習ひ候へ。御代官に是を参らせ候はばや」と申しければ、長吏是を聞きて感じ申しけるは、「あはれ人の親の子を思ふ道有り。師匠の弟子を思ふ志是なり。如何でか御いたはしく、それ程の御誓をば是にて破り参らせ候ふべき。疾く疾く御代官にても候へ」と申しければ、武蔵坊余りの嬉しさに腰を抑へ、空へ向ひて溜息ついてぞ居たりける。「早々参りて、大和坊、御代官に笛を仕れ」と言はれて、判官仏壇の蔭のほの暗き所より出で給ひて、少人の末座にぞ居給ひける。大衆「さらば管絃の具足参らせよ」と申しければ、長吏の許よりくさきのこうの琴一張、錦の袋に入れたる琵琶一面取り寄せ、琴をば御客人にとて北の方に参らせける。琵琶をば念一殿の前に置き、笙の笛をば弥陀王殿の前に置き、横笛は判官の御前に置き、かくて管絃一切れ有りければ、面白しとも言ふも愚か也。只今までは合戦の道にてあるべかりつるに、如何なる仏神の御納受にてや、不思議にぞ覚えし。衆徒も是を見て、「あはれ児や、あはれ笛の音や。念一、弥陀王殿をこそ、良き児と有り難く思ひつるに、今此の児と見比ぶれば、同じ口にも言ふべくもなし」などと若大衆共口々にぞささやきける。長吏寺中に帰りけり。小夜更けて長吏の本より様々に菓子積みなどして、瓶子添へて、観音堂に送りけり。皆人疲れにのぞみつ。「いざや酒飲まん」ととりどりに申しけるを、武蔵坊、「あはれ詮無き殿原かな。欲しさの儘に誰も飲まんずる程に、程無く酒気には本性を正すものなれば、しばらく「少人に参らせよ」「先達の御坊、京の君」などと言ふとも、後は味気無き娑婆世界の習ひ、「北の方に今一つ申せ」「熊井や片岡に思ひざしせん」「伊勢の三郎持ちて来よ」「いで飲まん弁慶」などと言はん程に、焼野の雉子の頭を隠して、尾を出だしたる様なるべし」「酒は上下向の間断酒にて候ふ」とて、長吏の許へぞ返しける。「希有なる山伏達にて有りけるよ」とて、急ぎ僧膳仕立て、御堂へ送りけり。各々僧膳したためて、夜も曙になりければ、今夜の懺法をぞ読みける。伊勢の三郎を使にて、長吏に暇をぞ乞はれける。心ある大衆達、徒歩にてむらむら消え残る雪を踏み分けて、二三町ぞ送りける。恐ろしく思はれし平泉寺をも、鰐の口を逃れたる心地して、足早に通られける。かくて菅生の宮を拝みて、金津の上野へ著き給ふ。唐櫃数多舁かせて、引馬其の数有り。ゆゆしげなる大名五十騎ばかりにぞ逢ふたりける。「是は如何なる人ぞ」と問ひければ、「加賀の国井上左衛門と申す人なり。愛発関へ行くぞ」と申しける。判官是を聞き給ひ、「あはれ遁れんとすれども遁れぬものかな。今はかくぞ」と宣ひて、刀の柄に手を打ち掛け給ひて、北の方の後ろに後ろを差し合はせて、笠の端にて顔を隠して通さんとし給ふ所に、折節風烈しく吹きたりけり。笠の端を吹き上げたりければ、井上一目見参らせて、判官と御目を見合はせ奉り、馬より飛んで下り、大道に畏まつて申しけるは、「かかる事こそ候はね。途中にて参り合ひ参らせ候ふこそ無念に存じ候へ、候ふ所は井上と申して、程遠き所にて候ふ間、彼方へとも申さず候ふ。山伏の色代は恐れにて候ふ。疾く疾く」と申して、我が身馬引き寄せて、左右無くも乗らず、遙かに見送り奉り、御後ろ遠ざかる程にもなりぬれば、各々馬にぞ乗りたりける。判官は余りの事に行きもやり給はず、しきりに見顧り給ひつつ、「七代まで弓矢の冥加あれ」とぞ、面々に申しけるぞあはれなる。其の日は細呂木と言ふ所に井上著きて、家の子郎等共を呼びて申しけるは、「今日行き合ひ参らする山伏をば誰とか見奉る。是こそ鎌倉殿の御弟判官殿よ。あはれ日頃の様におはさんには、国の騒動、道路の大事とこそなるべきに、此の御有様になり給へる御事のいとほしさよ。討ち奉りたらば、千年万年過ぐべきか。余りの痛はしさに難無く通し奉りてこそ」と言ひければ、家の子郎等共是を聞きて、井上の心の中、あはれ情も慈悲も深かりける人やと頼もしくぞ覚えける。判官其の日篠原に泊り給ひけり。明けければ、斉藤別当実盛が手塚の太郎光盛に討たれけるあいの池を見て、安宅の渡りを越えて、根上の松に著き給ふ。是は白山の権現に法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜有り。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み参らせて、其の日は剣の権現の御前に参り給ひて、御通夜有りて、終夜御神楽参らせて、明くれば林の六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀の国富樫と言ふ所も近くなる。富樫介と申すは、当国の大名也。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して判官を待ち奉るとぞ聞こえける。武蔵坊申しけるは、「君は是より宮腰へ渡らせ御座しませ、弁慶は富樫が館の様を見て参り候はん」と申しければ、「偶々有るとも知られで通る道のあるに、寄りては何の詮ぞ」と仰せられければ、弁慶申しけるは、「中々行きてこそよく候へ。山伏大勢にて通ると聞こえ、大勢にて追ひ掛けられては悪しく候はんずれば、弁慶ばかり罷り候はん」とて、笈取つて引つ掛けて、只一人行きける。富樫が城を見れば、三月三日の事なれば、傍には鞠小弓の遊び、傍には闘鶏、又管絃、酒盛にぞ見えける。酒に酔ひたる所も有り。武蔵坊相違無く館の内に入りて、侍の縁の際を通りて、内を差しのぞき見れば、管絃只今盛なり。武蔵坊大の声を上げて、「修行者の候ふ」と申しける。管絃の調子も外れにけり。「御内只今機嫌悪しく候ふ」と申しければ、「上つ方こそ候ふとも、御後見の御方にそれ申して賜び候へや」とて、強ひて近くぞ寄りたりける。仲間雑色二三人出でて、「罷り出でられ候へ」と言ひけれ共、聞きも入れず。「狼籍なり。さらば掴んで出だせ」とて、左右の腕に取り付きて、押せども圧せども、少しも働らかず。「さらば所にな置いそ。放逸に当たりて出だせ」とて、大勢近づきければ、拳を握りて、散々に張りければ、或いは烏帽子打ち落され、髻かかへて間所へ入るも有り。「此処なる法師の狼籍するぞ」とて騒動す。富樫介も大口に押し入れ烏帽子著て、手鉾杖に突きて、侍にぞ出でにける。弁慶是を見て、「これ御覧ぜられ候へ、御内の者共狼籍し候ふ」とて、やがて縁にぞ上がりける。富樫これを見て、「如何なる山伏ぞ」と言へば、「是は東大寺勧進の山伏にて候ふ」「如何に御身一人は御座するぞ」「同行の山伏多く候へども、先様に宮腰へやり候ひぬ。是は御内勧進の為に参りて候ふ。伯父にて候ふ美作の阿闍梨と申すは、東山道を経て、信濃国へ下り候ふ。此の僧は讚岐の阿闍梨と申し候ふが、北陸道にかかり、越後に下り候ふ。御内の勧進は如何様に候ふべき」と申しければ、富樫「よくこそ御出候へ」とて、加賀の上品五十疋女房の方より罪障懺悔の為にとて、白袴一腰、八花形に鋳たる鏡、さては家の子郎等女房達下女に至るまで、思ひ思ひに勧進に入り、惣じて名帳につく百五十人、「勧進の物は、只今賜はるべく候へども、来月中旬に上り候はんずれば、其の時賜はり候はん」とて、預け置きてぞ出でにける。馬に乗せられて、宮腰まで送られけり。行きて判官を尋ね奉れども見え給はず。それより大野の湊にて参り逢ひけり。「如何に今まで久しく、如何に」と仰せられければ、「様々にもてなされて、経を誦みなどして、馬にて是まで送られて候ふ」と申しければ、武蔵を人々上げつ、下しつ、守りける。其の日は竹橋に泊り給ひて、明くれば倶利伽羅山を越えて、馳籠が谷を見給ひて、是は平家の多く亡びし所にてあるなるにとて、各々阿弥陀経を読み、念仏申し、彼の亡魂を弔ひてぞ通られける。兎角し給ふ程に、夕日西へかかりて、黄昏時にもなりぬれば、松永の八幡の御前にして、夜を明かし給ひけり。

如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事

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夜も明けければ、如意の城を船に召して、渡をせんとし給ふに、渡守をば平権守とぞ申しける。彼が申しけるは、「暫く申すべき事候ふ。是は越中の守護近き所にて候へば、予て仰せ蒙りて候ひし間、山伏五人三人は言ふに及ばず、十人にならば、所へ仔細を申さで、渡したらんは僻事ぞと仰せ付けられて候ふ。既に十七八人御渡り候へば、怪しく思ひ参らせ候ふ。守護へ其の様を申し候ひて渡し参らせん」と申しければ、武蔵坊是を聞きて、妬げに思ひて、「や殿、さりとも此の北陸道に羽黒の讚岐見知らぬ者やあるべき」と申しければ、中乗に乗つたる男、弁慶をつくづくと見て、「実に実に見参らせたる様に候ふ。一昨年も一昨々年も、上下向毎に御幣とて申し下し賜はりし御坊や」と申しければ、弁慶嬉しさに、「あ、よく見られたり見られたり」とぞ申しける。権守申しけるは、「小賢しき男の言ひ様かな。見知り奉りたらば、和男が計らひに渡し奉れ」と申しければ、弁慶是を聞きて、「抑此の中にこそ九郎判官よと、名を指して宣へ」と申しければ、「あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ怪しく思ひ奉れ」と申しければ、弁慶「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて人々に怪しめらるるこそ詮無けれ」と言ひけれども、返事もせで打ち俯きて居給ひたり。弁慶腹立ちたる姿になりて、走り寄りて舟端を踏まへて、御腕を掴んで肩に引つ懸けて、浜へ走り上がり、砂の上にがはと投げ棄てて、腰なる扇抜き出だし、労はしげも無く、続け打ちに散々にぞ打ちたりける。見る人目もあてられざりけり。北の方は余りの御心憂さに声を立てても悲しむばかりに思し召しけれども、流石人目の繁ければ、さらぬ様にて御座しけり。平権守是を見て、「すべて羽黒山伏程情無き者は無かりけり。「判官にてはなし」と仰せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程痛はしく情無く打ち給へるこそ心憂けれ。詮ずる所、是は某が打ち参らせたる杖にてこそ候へ。かかる御労はしき事こそ候はね。是に召し候へ」とて、船を差し寄する。■取乗せ奉りて申しけるは、「さらばはや船賃なして越し給へ」と言へば、「何時の習ひに羽黒山伏の船賃なしけるぞ」と言ひければ、「日頃取りたる事は無けれども、御坊の余りに放逸に御座すれば、取りてこそ渡さんずれ。疾く船賃なし給へ」とて船を渡さず。弁慶、「和殿斯様に我等に当たらば、出羽の国へ一年二年のうちに来たらぬ事はよも有らじ。酒田の湊は此の少人の父、酒田次郎殿の領なり。只今当たり返さんずるものを」とぞ威しけり。然れども権守、「何とも宣へ、船賃取らで、えこそ渡すまじけれ」とて渡さず。弁慶、「古へ取られたる例は無けれ共、此の僻事したるによつて取らるるなり」とて、「さらばそれ賜び候へ」とて、北の方の著給へる帷の尋常なるを脱がせ奉りて、渡守に取らせけり。権守是を取りて申しけるは、「法に任せて取りては候へども、あの御坊のいとほしければ参らせん」とて、判官殿にこそ奉りける。武蔵坊是を見て、片岡が袖を控へて、「痴がましや、只あれもそれも同じ事ぞ」と囁きける。かくて六動寺を越えて、奈呉の林をさして歩み給ひける。武蔵忘れんとすれ共、忘られず。走り寄りて判官の御袂に取り付きて、声を立てて泣く泣く申しけるは、「何時まで君を庇ひ参らせんとて、現在の主を打ち奉るぞ。冥顕の恐も恐ろしや。八幡大菩薩も許し給へ。浅ましき世の中かな」とて、さしも猛き弁慶が伏し転び泣きければ、侍共一つ所に顔を並べて、消え入る様に泣き居たり。判官「是も人の為ならず。斯程まで果報拙き義経に、斯様に志深き面々の、行末までも如何と思へば、涙の零るるぞ」とて、御袖を濡らし給ふ。各々此の御言葉を聞きて、猶も袂を絞りけり。かくする程に日も暮れければ、泣く泣く辿り給ひけり。やや有りて北の方、「三途の河をわたるこそ、著たる物を剥がるるなれ。少しも違はぬ風情かな」とて、岩瀬の森に著き給ふ。其の日は此処に泊り給ひけり。明くれば黒部の宿に少し休ませ給ひ、黒部四十八箇瀬の渡を越え、市振、浄土、歌の脇、寒原、なかはしと言ふ所を通りて、岩戸の崎と言ふ所に著きて、海人の苫屋に宿を借りて、夜と共に御物語有りけるに、浦の者共、搗布と言ふものを潛きけるを見給ひて、北の方かくぞ続け給ひける。四方の海浪の寄る寄る来つれどもいまぞ初めて憂き目をば見る

弁慶是を聞きて、忌々しくぞ思ひければ、かくぞ続け申しける。

浦の道浪の寄る寄る来つれども今ぞ初めて良き目をば見る

かくて岩戸の崎をも出で給ひて、越後の国の府、直江津花園の観音堂と言ふ所に著き給ふ。此の本尊と申すは、八幡殿安倍の貞任を攻め給ひし時、本国の御祈祷の為に直江の次郎と申しける有徳の者に仰せ付けて、三十領の鎧を賜びて、建立し給ひし源氏重代の御本尊なりければ、其の夜はそれにて夜もすがら御祈念有りけり。

直江の津にて笈探されし事

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此処に越後の国府の守護鎌倉へ上りてなし。浦の代官はらう権守と言ふ者有り。山伏著き給ふと聞きて、浦の者共を催して、櫓櫂などを乳切木材棒にして、網人共を先として、理非も弁へぬ奴原が二百余人観音堂を押し巻きたり。折節侍共、方々へ斎料尋ねに行きければ、判官只一人御座しける所に押し寄す。直江の御堂に騒動する事聞こえければ、弁慶走り合はんと急ぐ。判官問答し給ひけるは、昨日までは羽黒山伏と宣ひしが、今は羽黒近ければ、引き代へて、「熊野より羽黒へ参り候ふが、船を尋ねて是に候ふ。先達の御坊は旦那尋ねに御座しまして候ふ。是は御留守に候ふ。何事ぞ」などと問答し給ふ所に武蔵坊物の翔りたる様にてぞ出で来たり申しけるは、「あの笈の中には三十三体の聖観音京より下し参らせ候ふが、来月四日の頃には御宝殿に入れ参らせ候はんずるぞ。各々身不浄なる様にて、左右無く近づきて権現の御本地汚し給ふな。仰せらるべき事有らば、外処にて仰せられ候へ。権現を汚し参らせ給ふ程ならば、笈を滌がざらんより外はあるまじ」と威しけれ共、少しも用ゐずして、口々に罵りけり。権守申しけるは、「判官殿、道々も陳じて通り給ふ事、其の隠れなし。是には今程守護こそ留守にて候へども、形の如くも此の尉が承つて候ふ間、上つ方まで聞召し候はんずる事にて候ふ間、斯様に申し候ふ。さ候はば、心休めに笈を一挺賜はつて見参らせ候はん」と申しければ、「是は御本尊の渡らせ御座しまし候ふ笈を、不浄なる者に左右無く探させん事恐れにてはあれども、和殿原が疑をなし、好む禍なれば、罪を蒙らんは汝等次第よ。すは見よ」とて手に当たる笈一挺取つて投げ出だす。何と無く取りて出だしたるが、判官の笈にてぞ有りける。武蔵坊是を見て、あはやと思ひける所に三十三枚の櫛を取り出だして、「是は如何」と申しければ、弁慶あざ笑ひて、「えいえい、何も知り給はずや、児の髪をば梳らぬか」と言ひければ、権守理と思ひければ、傍らに差し置きて、唐の鏡取り出だし、「是は如何」と言へば、「児を具したる旅なれば、化粧の具足を持つまじき謂れが有らばこそ」と言ひければ、「理」とて八尺の掛帯、五尺の鬘、紅の袴、重の衣を取り出だして、「是は如何に。児の具足にも是が要るか」と申しければ、「法師が伯母にて候ふ者、羽黒の権現の惣の巫にて候ふが、鬘袴色良き掛帯買うて下せ」と申し候ふ程に、「今度の下りに持ちて下り、喜ばせんが為にて候ふぞ」と言ひければ、「それはさもさうず」と申す。「さ候はば、今一挺の笈御出し候へ。見候はばや」と申す。「何挺にてもあれ、心に任す」とて、又一挺投げ出だす。片岡が笈にてぞ有りける。此の笈の中には兜籠手臑当、柄も無き鉞をぞ入れたりける。兎角すれども強くからげたり。暗さは暗し。解き兼ねてぞ有りける。弁慶は手を合はせて、南無八幡と祈念して、「其の笈には権現の渡らせ給ひ候ふぞ。返す返す不浄にして罰当たり給ふな」と申しければ、「御正体にて渡らせ給はば、必ず開けずとも知るべき」とて、笈の掛緒を取つて引き上げて振りたりければ、籠手臑当鉞がからりひしりと鳴りければ、権守胸打ち騒ぎ、「斯かる事こそ候はね。実に御正体にて渡らせ給ひ候ひけるを」とて、「是受け取り給へ」と申しければ、弁慶、「然ればこそさしも言ひつる事を。笈滌がざらんには、左右無く受け取り給ふな、御坊達」と言ひければ、左右無く人受け取らず。「予て言はぬ事か、滌がずは祈れ。清めには物が多く要らんずるぞ」と言ひければ、権守、「理を枉げて、受け取り給へ」と言へば、「笈滌がずは、権守が許に御正体を振り棄て奉りて、我等は羽黒に参りて、大衆を催して、御迎ひに参らんずるなり」と威されて、寄せたりける者も一人一人散り散りにぞなりける。権守一人は大事になりて、「笈を滌ぎ候はんには、幾ら程物の要り候ふぞ」と言ひければ、「権現も衆生利益の御慈悲なれば、形の如くにてこそ有らんずれ。先づ御幣紙の料に檀紙百帖、白米三石三斗、黒米三石三斗、白布百反、紺の布百反、鷲の羽百尻、黄金五十両、毛揃へたる馬七疋、粗薦百枚、これ敷きて積みて参らせば、形の如くなりとも、滌ぎて奉らん」とぞ申しける。権守「如何に思ひ候ふとも極めて貧なる者にて候ふ。叶ひ難く候へ」とて米三石、白布三十反、鷲の羽七尻、黄金十両、毛揃へたる神馬三疋、「是より外は持ちたるものも候はず。然るべく候はば、申し上げて賜はり候へ」と詫びければ、「いでさらば権現の御腹なぐさめ参らせん」とて兜、籠手、臑当の入りたる笈に向ひて、何事をか申し、「むつむつかんかんらんらん蘇波訶蘇波訶」と申して、「おんころおんころ般若心経」などぞ祈りける。笈を突き働かして、「権現に其の旨申し上げ候ひぬ。世の例なれば、かくは執り行ひ候ひぬ。是等は御辺の計らひにて、羽黒へ届けて参らせて賜び候へ」とて、権守が許にぞ預けける。さて夜も更けければ、片岡直江の湊へ下りて見れば、佐渡より渡したりける船に、苫をも葺かず主も無く、櫓櫂■なども有りながら、波に引かれ揺られゐたり。片岡是を見て、「あはれ物やな、此の船を取つて乗らばや」と思ひて、観音堂に参りて、弁慶にかくと言ひければ、「いざさらば此の船取りて、今朝の嵐に出ださん」とて、湊に下り、十余人取り乗りて押し出だす。妙観音の岳より下したる嵐に帆引き掛けて、米山を過ぎて、角田山を見付けて、「あれ見給へや、風は未だ嵐風弱くならば、櫓を添へて押せや」とぞ申しける。青島の北を見給へば、白雲の山腰を離れて、宙に吹かれて出で来るを、片岡申しけるは、「国の習ひは知らず、此の雲こそ風雲と覚ゆれ。如何すべき」と言ひも果てねば、北風吹き来たりて、陸には砂を上げ、沖には潮を巻いてぞ吹きたりける。蜑の釣舟の浮きぬ沈みぬを見給ふにも、「我が船もかくぞ有らめ」と思ひ給ふに、心細くして、遙かの沖に漂ひ給ひけり。「とても叶ふまじくは、只風に任せよ」とて、御舟をば佐渡の島へ馳せ付けて、まほろし加茂潟へ船を寄せんとしけれども、浪高くして寄せ兼ねて、松かげが浦へ馳せもて行く。それも白山の岳より下したる風はげしくて、佐渡の島を離れて、能登の国珠州が岬へぞ向けたりける。さる程に日も暮方になりければ、いとど心ぞ違ひける。御幣を接いで、笈の足に挟みて祈られけるは、「天を祭る事はさる事にて候へ、此の風を和らげて、今一度陸に著けて、ともかくもなさせ給へ」とて笈の中より白鞘巻を取り出だして、「八大龍王に参らせ候ふ」とて、海へ入れ給ふ。北の方も紅の袴に唐の鏡取り添へて、「龍王に奉る」とて海に入れさせ給ひけり。然れども風は止む事なし。さる程に日も既に暮れぬれば、黄昏時にもなりにけり。いとど心細くぞ覚えける。能登国石動の岳より又西風吹きて船を東へぞ向けたりける。あはれ順風やとて、風に任せて行く程に、夜も夜半ばかりになれば、風も静まり、波も和らぎければ、少し人々心安くて、風をはかりに行く程に、暁方に其処とも知らぬ所に御舟を馳せ上げて、陸に上がりて、苫屋に立ち寄りて、「是をば何処と言ふぞ」と問ひければ、「越後の国寺泊」とぞ申しける。「思ふ所に著きたるや」と悦びて、其の夜の中に国上と言ふ所に上がりて、みくら町に宿を借り、明くれば弥彦の大明神を拝み奉りて、九十九里の浜にかかりて、蒲原の館を越えて、八十八里の浜などと言ふ所を行き過ぎて、荒川の松原、岩船を通りて、瀬波と言ふ所に左胡■、右靭、せんが桟などと言ふ名所名所を通り給ひて、念珠の関守厳しくて通るべき様も無ければ、「如何せん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「多くの難所をのがれて、是まで御座しましたれば、今は何事か候ふべき。さりながら用心はせめ」とて、判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高に持たせ奉り、弁慶大の■杖に突き、「あゆめや法師」とて、しとと打ちて行きければ、関守共是を見て、「何事の咎にて、それ程苛み給ふ」と申しければ弁慶答へけるは、「是は熊野の山伏にて候ふが、是に候ふ山伏は、子々相伝の者にて候ふが、彼奴を失ふて候ひつるに、此の程見付けて候ふ間、如何なる咎をも当ててくれうず候ふ。誰か咎め給ふべき」とて、いよいよ隙無く打ちてぞ通りける。関守共是を見て、難無く木戸を開けて通しけり。程無く出羽の国へ入り給ふ。其の日ははらかいと言ふ所に著き給ひて、明くれば笠取山などと言ふ所を過ぎ給ひて、田川郡三瀬の薬師堂に著き給ふ。是にて雨降り、水増さりければ、二三日御逗留有りけり。此処に田川郡の領主田川の太郎実房と言ふ者有り。若かりし時より数多子を持ちたりけるが、皆先立てて十三になる子一人持ちたりけるが、瘧病をして、万事限りになりにけり。羽黒近き所なれば、然るべき山伏など請じて祈られけれども、其の験もなし。此の山伏達御座する由を伝へ聞きて、郎等共に申しけるは、「熊野羽黒とて、何れも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野権現と申すは、いま一入尊き御事なれば、行者達もさこそ御座すらん。請け奉りて、験者一座せさせ奉りて見ばや」とぞ申しける。妻女も子の痛はしさに、「急ぎ御使参らせ給へ」とて、実房が代官に大内三郎と言ふ者を三瀬の薬師堂へ参らする。客僧達へ斯くと申しければ、判官仰せられけるは、「請用は得たけれども、我等が不浄の身にては何を祈りても其の験やあるべき。詮も無からぬもの故に、行きても何かせん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「君こそ不浄に渡らせ給へ。我等は都を出でしより、精進潔斎もよく候へば、たとひ験徳の程は無く共、我等が祈り候はん景気の、恐ろしさになどか悪霊も死霊もあらはれざるべき。偶々の請用にて候ふに、只御出で候へかし」と申して、各々寄合ひ笑ひ戯れ奉りければ、「是は秀衡が知行の所にて候へば、定めて是も伺候の者にて候はめ。何か苦しく候はん、知らせさせ給へ」と申しければ、弁慶聞きて、「あはれや殿、親の心を子知らずとて、人の心は知り難し。自然の事有らば、後悔先に立つべからず。君の御下著の後、実房参らぬ事は有らじ。其の時の物笑にも知らすべからず」とぞ申しける。「さて祈手は誰をかすべき。護身は君、数珠押し揉みて候はん為には、弁慶に過ぎ候ふまじ」とて、出で立ち給ひけり。御供には武蔵坊、常陸坊、片岡、十郎権頭四人田川が許へ入らせ給ふ。持仏堂に入れ奉る。田川見参に入り、子をば乳母に介錯せさせて、具してぞ出で来たる。験者始め給ふに、よりまはしに十二三ばかりなる童をぞ召されける。判官護身し給へば、弁慶数珠をぞ揉みける。此の人々祈り給ひける景気心中の恐ろしさにや、口走る。幣帛静まりければ、悪霊も死霊も立ち去り、病人即ち平癒す。験者いよいよ尊くぞ見え給ふ。其の日は止め奉りけり。日々に発こりける瘧病今は相違なし。いとど信心増さり、喜悦斜ならず、仮初なれども、権現の御威光の程も思ひ知られて、尊く思し召しけり。御祈りの布施とて、鹿毛なる馬に黒鞍置きて参らせける。砂金百両、「国の習ひにて候ふ」とて、鷲の羽百尻、残る四人の山伏に小袖一重ねづつ参らせて、三瀬の薬師堂へ送り奉る。使帰りけるに、「御布施賜はり候ふ事、さる事に候へども、是も道の習ひにて候へば、羽黒山にしばらく参籠し候はんずれば、下向の時賜はるべく候ふ。其の間預け申し候ふべし」とて返されけり。かくて田川をも発ち給ひ、大泉の庄大梵字を通らせ給ひ、羽黒の御山を外処にて、拝み給ふにも、御参籠の御志は御座しましけれども、御産の月既に此の月に当たらせ給ふに、万恐れをなして、弁慶ばかり御代官に参らせらる。残りの人々はにつけのたかうらへかかりて、清河に著き給ふ。弁慶はあげなみ山にかかりて、よかはへ参り会ふ。其の夜は五所の王子の御前に一夜の御通夜有り。此の清川と申すは、「羽黒権現の御手洗なり。月山の禅定より北の腰に流れ落ちけり。熊野には岩田河、羽黒には清川とて流れ清き名水なり。是にて垢離をかき、権現を伏し拝み奉る。無始の罪障も消滅するなれば、此処にては王子王子の御前にて御神楽など参らせて、思ひ思ひの馴子舞し給へば、夜もほのぼのと明けにけり。やがて御船に乗り給ひて、清川の船頭をばいや権守とぞ申す。御船支度して参らせけり。水上は雪白水増さりて、御船を上せ兼ねてぞ有りける。是や此のはからうさの少将庄の皿島と言ふ所に流されて、「月影のみ寄するはたなかい河の水上、稲舟のわづらふは最上川の早き瀬、其処とも知らぬ琵琶の声、霞の隙に紛れる」と謡ひしも今こそ思ひ知られけれ。かくて御船を上する程に、禅定より落ちたぎる滝有り。北の方、「是をば何の滝と言ふぞ」と問ひ給へば、白糸の滝と申しければ、北の方かくぞ続け給ふ。

最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白糸の滝

最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝とすさみつつ、鎧の明神、冑の明神伏し拝み参らせて、たかやりの瀬と申す難所を上らせ、煩ひて御座する所に、上の山の端に猿の声のしければ、北の方かくぞ続け給ひける。

引きまはすかちはは弓に有らねどもたが矢で猿を射て見つるかな

かくて差し上らせ給ふ程に、見るたから、たけ比べの杉などと言ふ所を見給ひて、矢向の大明神を伏し拝み奉り、会津の津に著き給ふ。判官、「寄道は二日なるが、湊にかかりては、宮城野の原、榴が岡、千賀の塩亀など申して、三日に廻る道にて候ふに、亀割山を越えて、へむらの里、姉歯の松へ出でては直に候ふ。何れをか御覧じて通らせ給ふべき」と仰せられければ、「名所名所を見たけれども、一日も近く候ふなれば、亀割山とやらんにかかりてこそ行かめ」とて、亀割山へぞかかり給ひける。

亀割山にて御産の事

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各々亀割山を越え給ふに、北の方御身を労り給ふ事有り。御産近くなりければ、兼房心苦しくぞ思ひける。山深くなる儘に、いとど絶え入り給へば、時々は傅り奉りて行く。麓の里遠ければ、一夜の宿を取るべき所もなし。山の峠にて道の辺二町ばかり分け入りて、或る大木の下に敷皮を敷き、木の下を御産所と定めて宿し参らせけり。いよいよ御苦痛を責めければ、恥づかしさもはや忘れて、息吹き出だして、「人々近くて叶ふまじ。遠く退けよ」と仰せられければ、侍共皆此処彼処へ立ち退きけり。御身近くは十郎権頭、判官殿ばかりぞ御座しける。北の方「是とても心安かるべきには有らね共、せめては力及ばず」とて、又絶え入り給ひけり。判官も今はかくぞとぞ思し召しける。猛き心も失ひ果てて、「斯かるべしとは予て知りながら、是まで具足し奉り、京をば離れ、思ふ所へは行き著かず、道中にて空しくなし奉らん事の悲しさよ。誰を頼みて、是まで遙々有らぬ里に御身をやつし、義経一人を慕ひ給ひて、かかる憂き旅の空に迷ひつつ、片時も心安き事を見せ聞かせ奉らず、失ひ奉らん事こそ悲しけれ。人に別れては片時もあるべしとも覚えず、只同じ道に」と掻き口説き涙も堰き敢へず悲しみ給へば、侍共も、「軍の陣にては、かくは御座せざりしものを」と皆袂をぞ絞りける。しばらく有りて息吹き出だして、「水を」と仰せられければ、武蔵坊水瓶を取りて出でたりけれども、雨は降る、暗さは暗し、何方へ尋ね行くべきとは覚えねども、足に任せて谷を指してぞ下りける。耳を欹てて谷川の水や流るると聞きけれ共、此の程久しく照りたる空なれば、谷の小川も絶え果てて、流るる水も無かりければ、武蔵只掻き口説き、独言に申しけるは、「御果報こそ少なく御座するとも、斯様に易き水をだにも、尋ね兼ねたる悲しさよ」とて、泣く泣く谷に下る程に、山河の流るる音を聞き付けて悦び、水を取りて嶺に上らんとすれども、山は霧深くして、帰るべき方を失ひけり。貝を吹かんとすれども、麓の里近かるらんと思ひて、左右無く吹かず。然れども時刻移りては叶ふまじと思ひて、貝をぞ吹きたりける。嶺にも貝を合はせたる。弁慶とかくして水を持ちて、御枕に参りて参らせんとしければ、判官涙に咽びて仰せられけるは、「尋ねて参りたる甲斐もなし。はや言切れ果て給ひぬ。誰に参らせんとて、是まではたしなみけるぞや」とて泣き給へば、兼房も御枕にひれ伏してぞ泣き居たり。弁慶も涙を抑へて、御枕に寄りて、御頭を動かして申しけるは、「よくよく都に留め奉らんと申し候ひしに、心弱くて是まで具足し参らせて、いま憂き目を見せ給ふこそ悲しけれ。仮令定業にて渡らせ給ふとも、是程に弁慶が丹誠を出だして尋ね参りて候ふ水を、聞召し入りてこそ如何にもならせ給ひ候はめ」とて、水を御口に入れ奉りければ、受け給ふと覚しくて、判官の御手に取り付き給ひて、又消え入り給へば、判官も共に消え入る心地して御座しけるを、弁慶、「心弱き御事候ふや。事も事にこそより候へ。そこ退き給へ、権頭」とて、押し起こし奉り、御腰を抱き奉り、「南無八幡大菩薩、願はくは御産平安になし給へ。さて我が君をば捨て給ひ候ふや」と祈念しければ、常陸坊も掌を合はせてぞ祈りける。権頭は声を立ててぞ悲しみける。判官も今は掻き昏れたる心地して、御頭を並べて、ひれふし給ひけり。北の方御心地つきて、「あら心憂や」とて、判官に取り付き給へば、弁慶御腰を抱き上げ奉れば、御産やすやすとぞし給ひける。武蔵少人のむづかる御声を聞きて、篠懸に押し巻きて抱き奉る。何とは知らねども、御臍の緒切り参らせて、浴せ奉らんとて、水瓶に有りける水にて洗ひ奉り、「やがて御名を付け参らせん。是は亀割山、亀の万劫を取りて、鶴の千歳になぞらへて、亀鶴御前」とぞ付け奉る。判官是を御覧じて、「あら幼なの者の有りさまやな。何時人となりぬとも見えぬ者かな。義経が心安からばこそ、又行末も静かならめ。物の心を知らぬ先に、疾く疾く此の山の巣守になせ」と宣ひけり。北の方聞召して、今まで御身を悩まし奉りたるとも思し召されず、「怨めしくも承り候ふものかな。偶々人界に生を受けたるものを、月日の光をも見せずして、むなしくなさん事、如何にぞや。御不審蒙らば、それ権頭取り上げよ。是より都へは上るとも、如何でかむなしく為すべき」と悲しみ給へば、武蔵是を承つて、「君一人を頼み参らせて候へば、自然の事も候はば、また頼み奉るべき方も候ふまじきに、此の若君を見上げ参らせんこそ頼もしく候へ。是程美しく渡らせ給ふ若君を、争か失ひ参らせ候ふべき」とて、「果報は伯父鎌倉殿に似参らせ給ふべし。力は甲斐々々しくは候はねども、弁慶に似給へ。御命は千歳万歳を保ち給へ」とて、是より平泉は又さすがに程遠く候ふに、道行人に行き会うて候はんに、はかなとはしむづかりて、弁慶恨み給ふな」とて、篠懸に掻い巻きて、帯の中にぞ入れたりける。其の間三日に下り著き給ひけるに、一度も泣き給はざりけるこそ不思議なれ。其の日はせひの内と言ふ所にて、一両日御身労はり、明くれば馬を尋ねて乗せ奉り、其の日は栗原寺に著き給ふ。それよりして亀井の六郎、伊勢の三郎御使にて、平泉へぞ遣はされける。

判官平泉へ御著きの事

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秀衡判官の御使と聞き、急ぎ対面す。「此の程北陸道にかかりて、御下りとは略承り候ひつれども、一定を承らず候ひつるに依つて、御迎ひ参らせず。越後、越中こそ恨み有らめ、出羽の国は秀衡が知行の所にて候へば、各々何故御披露候ひて、国の者共に送られさせ御座しまし候はざりけるぞ。急ぎ御迎ひに人を参らせよ」とて、嫡子泰衡の冠者を呼びて、「判官殿の御迎ひに参れ」と申しければ、泰衡百五十騎にてぞ参りける。北の方の御迎ひには御輿をぞ参らせける。「かくも有りける物を」と仰せられて、磐井の郡に御座しましたりければ、秀衡左右無く我が許へ入れ参らせず、月見殿とて常に人も通はぬ所に据ゑ奉り、日々の■飯をもてなし奉る。北の方には容顔美麗に心優なる女房達十二人、其の外下女半物に至るまで、整へてぞ付け奉る。判官と予ての約束なりければ、名馬百疋、鎧五十両、征矢五十腰、弓五十張、御手所には桃生郡、牡鹿郡、志太郡、玉造、遠田郡とて、国の内にて良き郡、一郡には三千八百町づつ有りけるを、五郡ぞ参らせける。侍共には勝れたる胆沢、江刺、はましの庄とて、此の中分々に配分せられけり。「時々は何処へも出で、なぐさみ給へ」とて、骨強き馬十疋づつ、沓行縢に至るまで、志をぞ運びける。「所詮今は何に憚るべき、只思ふ様に遊ばせ参らせよ」とて、泉の冠者に申し付けて、両国の大名三百六十人を選つて、日々の■飯を供へたる。やがて御所つくれとて、秀衡が屋敷より西にあたりて、衣川とて地を引き、御所つくりて入れ奉る。城の体を見るに、前には衣川、東は秀衡が館なり。西はたうくが窟とて、然るべき山に続きたり。斯様に城郭を構へて、上見ぬ鷲の如くにて御座しけり。昨日までは空山伏、今日は何時しか男になりて、栄華開いてぞ御座しける。折々毎に北陸道の御物語、北の方の御振舞など仰せられ、各々申し出だし、笑草にぞなりける。かくて年も暮れければ、文治三年になりにけり。


巻第八

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継信兄弟御弔の事

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さる程に判官殿高館に移らせ給ひて後、佐藤庄司が後家の許へも折々御使遣はされ、憐み給ふ。人々奇異の思ひをなす。或る時武蔵を召して仰せられけるは、継信忠信兄弟が跡を弔はせ給ふべき由仰せられける。「其の次に四国西国にて討死したる者共、忠の浅深にはよるべからず。死後なれば名張に入れて弔へ」と仰せくださるる。弁慶涙を流し、「尤も忝候ふ。上として斯様に思し召さるる事、誠に延喜天暦の帝と申すとも、如何でか斯様には渡らせ御座しまし候はん。急ぎ思し召し立ち給へ」と申しければ、さらば貴僧達を請じ、仏事執り行ふべき由仰せ付けらる。武蔵此の事秀衡に申しければ、入道も且は御志の程を感じ、且は彼等が事を今一入不便に思ひ、しきりに涙にぞ咽びける。兄弟の母尼公の方へも御使有りけり。孫共後家共引き具して参る。御志の余りに御自筆にも法華経遊ばされ、弔はせ給ふ。有り難き例には人々申しあへり。尼公申されけるは、「兄弟の者の孝養、誠に身においては有り難き御志、又は死後の名何事か是に越え申すべし。是程の御志を、此の世に存命へて候はば、如何ばかりか忝ひ参らせ候はんといよいよ涙つくし難く候ふ。然れども今は思ひ切り参らせ候ふ。幼き者共を相続き君へ参らせ候はん、未だ童名にて候ふ」と申しければ、判官、「それは秀衡が名をも付くべけれども、兄弟の者共の名残形見なれば、義経名を付けべし。さりながらも秀衡に聞かせよ」と仰せられて、御使有りければ、入道承り、「内々申し上げたき折節候ふ。恐れ入るばかりに候ふ」と申しければ、「さらば秀衡計らひて」と宣へば、秀衡、「承る」と申して、髪取り上げ、烏帽子著せ、御前に畏まる。判官御覧じて、継信が若をば佐藤三郎吉信、忠信が子をば佐藤四郎義忠と付け給ふ。尼公斜ならず悦び、「如何に和泉の三郎、予て申せし物、我が君へ奉れ」と申しければ、佐藤の家に伝はれる重代の太刀を進上す。北の方へは唐綾の御小袖、巻絹など取り添へて奉る。其の外侍達にもそれぞれに参らせける。尼公いとど涙に咽び、「あはれ同じくは兄弟の者共御供して下り、御前にて孫共に烏帽子を著せなば、如何ばかり嬉しからまし」と流涕焦れければ、二人の嫁も亡き人の事を一入思ひ出だし、別れし時の様に、声も惜しまず悲しみけり。君も哀れに思し召し、御涙を流させ給ふ。御前なりし人々、秀衡は申すに及ばず、袂を顔に押し当てて、各々涙をぞ流しける。判官盃取り上げ給ひ、吉信に下さる。盃のけうはい、当座の会釈、誠に大人しく見えければ、「さても継信によくも似たるものかな。汝が父屋嶋にて義経が命にかはりしをこそ源平両家の目の前、諸人目を驚かし、類有らじと言ひしが、実に我が朝の事は言ふに及ばず、唐土天竺にも主君に志深き者多しと雖も、かかる例なしとて、三国一の剛の者と言はれしぞかし。今日よりしては、義経を父と思へ」と仰せられて、御座近く召されて、後の髪を撫でさせ給ひ、御涙堰き敢へ給はず。其の時亀井、片岡、伊勢、鷲尾、増尾の十郎、権守、荒き弁慶を始めとして、声を立ててぞ泣きにける。暫く有りて御涙を止め、義忠に御盃下され、「汝が父、吉野山にて大衆追つ掛けたりしに、義経を庇ひ、一人峰に留まらんと言ひしを、義経も留めん事を悲しみ、一所にと千度百度言ひしに、侍の言葉は綸言にも同じ。猶し汗の如しとて、既に自害せんとせし儘に、力及ばず、一人峰に残し置きたりしに、数百人の敵を六七騎にて防ぎ、剰へ鬼神の様に言はれし横川の覚範を討ち取り、都に上り、江馬の小四郎を引き受け、其の所をも切り抜けしに、普通の者ならば、それより是へ下るべきに、義経を慕ひ、在所を知らずして、六条堀河の古き宿所に帰り来て、義経を見ると思ひて、是にて腹を切らんとて、自害したりし志、何時の世に忘るべき。例無き志、剛の者とて鎌倉殿も惜しみ給ひ、孝養し給ふと聞く。汝も忠信に劣るまじき者かな」とて、又御落涙有りけり。判官伊勢の三郎を召して、小桜威、卯花威の鎧を二人に下されけり。尼公涙を止めて、「あら有りがたの御諚や。侍程剛にても剛なるべき者はなし。我が子ながらも剛ならずは、斯程までは御諚もあるまじ。汝等も成人仕り、父共が如く、君の御用に立ち、名を後代に上げよ。不忠を仕らば、父に劣れる者とて傍輩達に笑はれんぞ。後指を指されば、家の傷なるべし。御前にて申すぞ。よく承り止めよ」とぞ申しける。各々是を聞きて、「兄弟が剛なりしも道理かな。只今尼公の申す様、奇特なり」とぞ感じける。


秀衡死去の事

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文治四年十二月十日頃より入道重病を受けて、日数重なりて弱り行けば、耆婆、扁鵲が術だにも敢て叶ふべきと見えざれば、秀衡娘子息其の外所従をあつめて、泣く泣く申されけるは、「限りある業病を受け、命を惜しむなど聞きし事、極めて人の上にてだにも言ふ甲斐無き事に思ひつるに、身の上になりて思ひ知られたるなり。其の故は入道此の度命を惜しく存ずる事は、判官殿入道を頼みに思し召して、遙かの道を妻子具して御座したるに、せめて十年心安く振舞はせ奉らで、今日明日に入道死しぬるならば、闇の夜に燈火を消したる如くに、山野に迷ひ給はん事こそ口惜しく存ずれ。是ばかりこそ今生に思ひ置く事、冥途の障と覚ゆれ。然れども叶はぬ習ひなれば、力なし。判官殿に参り、最期の見参申したく存ずれども、余りに苦しく、合期ならず。是へ申さんは恐有り。此の旨を御耳に入れよ。又各々此の遺言を用ゆべきか。用ゆべきに有らば、言ふべき事を静かに聞くべし」と宣へば、各々「争か背き申すべき」と申されければ、苦しげなる声にて、「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なり共首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。仮令下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つ共」と言ひ置きて、是を最期の言葉にて十二月廿一日の曙に遂にはかなくなりぬ。妻子眷属泣き悲しむと雖も、甲斐ぞ無き。判官殿へ此の由申されければ、馬に鞭を打ち御座したり。むなしき体に向ひて歎き給ひけるは、「境遙かの道を是まで下る事も、入道を頼み奉りてこそ下り候へ。父義朝には二歳にて別れ奉りぬ。母は都に御座すれども、平家に渡らせ給へば、互ひに快からず。兄弟有りと雖、幼少より方々に有りて、寄合ふ事も無く、剰へ頼朝には不和なり。如何なる親の歎き、子の別れと言ふとも、是には過ぎじ」と悲しみ給ふ事限なし。只義経が運の窮むる所とて、さしも猛き心を引きかへて歎き給ひけり。亀割山にて産れ給へる若君も、判官殿と同じ様に白衣を召して、野辺の送りをし給へり。見奉るにいとど哀れぞ勝りける。同じ道にと悲しみ給へども、むなしき野辺は只独り、送り捨ててぞ帰り給ひぬ。あはれなりし事共なり。


秀衡が子供判官殿に謀反の事

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かくて入道死しけれども変はる事も無く、兄弟の子供打ち替へ打ち替へ、判官殿へ出仕して、其の年も暮れにけり。明くる二月の頃、泰衡が郎等何事をか聞きたりけん、夜更け、人静まりてひそかに来たり、泰衡に言ひけるは、「判官殿泉の御曹司と一つにならせ給ひ、御内を討ち奉らんと用意にて候ふ。合戦の習ひ、人に先を取られぬれば、悪しき御事にて候ふなり。急ぎ御用意あるべし」と語りける程に、泰衡安からぬ事に思ひ、「さらば用意あるべし」とて、二月廿一日入道の孝養仏事を営まんと用意しけるが、仏事をば差し置き、一腹の舎弟泉の冠者を夜討にしけるこそうたてけれ。それを見て、兄の西木戸、比爪の五郎、弟のともとしの冠者、此の事人の上ならずとて、各々心々になりにけり。六親不和にして、三宝の加護なしとは是なり。判官も、さては義経にも思ひかからんとて、武蔵を召して、廻文を書かせらる。九州には菊地、原田、臼杵、緒方、急ぎ参るべき由を仰せ下されて、雑色駿河次郎に賜びぬ。夜を日に継ぎて、京に上り、筑紫へ下らんとす。如何なる者か言ひけん、此の由六波羅に聞きて、駿河を召し捕りて、下部廿四人差し添へて、関東へ下されけり。鎌倉殿廻文を御覧じて、大きに怒り、「九郎は不思議の者かな。同じ兄弟と言ひながら、頼朝を度々思ひ替へるこそ不思議なれ。秀衡も他界しつ。奥も傾きぬ。攻めんに何程の事あるべき」と仰せ有りければ、梶原御前に候ひけるが、仰せにて候へども、愚の御計らひにて候ふや。宣旨なりて秀衡を召されけるに、昔将門八万余騎、今の秀衡十万八千余騎にて、片道を賜はらば参るべき由申しけるに、さては叶はずとて止められ、遂に京を見ずとこそ承りて候へ。秀衡一人にても妨げ候はば、念珠、白川両関をかため、判官殿の御下知に従ひて、軍を仕り候はば、日本国の勢を以て、百年二百年戦ひ候ふとも、一天四海民の煩とはなり候ふとも、打ち従へん事叶ひ候ふまじ。只泰衡を御賺し候ひて、御曹司を討ち参らさせ給ひ、其の後御攻め候はば、然るべく候はんずる由を申しければ、「尤も然るべし」とて、頼朝「私の下知ばかりにて適ふまじ」とて、院宣を申されけり。泰衡が義経を討ちたらば、本領に常隆を添へて、子々孫々に至るまで賜はるべき由なり。鎌倉殿御下知を添へて遣はさる。泰衡何時しか故入道の遺言を背いて、領承申しぬ。但し御宣旨を賜はりて討ち奉るべき由申しければ、さらばとて、安達の四郎清忠を召して、此の二三年知行をいくまみたるらん。検見に罷り下るべき由仰せ出ださるる。承り候ひて、清忠奥へぞ下りける。さる程に泰衡俄に狩をぞ始めける。判官も出でて狩し給ふ。清忠粉れ歩きて見奉るに、疑無き判官殿にて御座します。軍は文治五年四月廿九日巳の時と定めけり。此の事義経は夢にも知り給はず。斯かりし所に民部の権少輔基成と言ふ人有り。平治の合戦の時、失せ給ひし悪衛門督信頼の兄にて御座します。謀反の者の一門なればとて、東国に下られたりけるを、故入道情をかけ給へり。其の上秀衡が基成の娘に具足して、子供数多有り。嫡子二男泰衡、三男和泉の三郎忠致、是等三人が外祖父なり。然れば人重くし奉り、少輔の御寮とぞ申す。此の子供より先に嫡子西木戸太郎頼衡とて、極めて丈高く、ゆゆしく芸能もすぐれ、大の男の剛の者、強弓精兵にて、謀賢くあるを、嫡子に立てたりせばよかるべきに、男の十五より内に儲けたる子をば、嫡子に立てぬ事なりとて、当腹二男を嫡子に立てける。入道思へば敢無かりけり。此の基成は判官殿に浅からず申し承り候はれけり。此の事ほのかに聞きて、あさましく思ひて、孫共を制せばやと思はれけれ共、恥づかしくも所領を譲りたる事もなし。我さへ彼等に預けられたる身ながら勅勘の身なり。院宣下る上、何と制するとも適ふまじ。余り思へば悲しくて、判官殿へ消息を奉る。「殿を関東より討ち奉れとて院宣下りぬ。此の間の狩をば栄耀の狩と思し召すや。命こそ大切に候へ、一先づ落ちさせ給ふべくもや候ふらん。殿の親父義朝は、舎弟信頼に与せられ、謀反の為にひくはの死罪に行はれ給ひぬ。又基成東国に遠流の身となり、御辺も是に御渡り候へば、ちしの縁深かりけると思ひ知られて候ひつるに、又後れ参らせて、歎き候はん事こそ口惜しく候へ。同道に御供申し候はんこそ本意にて候ふべきに、年老ひ、身甲斐々々しく候はで、甲斐無き御孝養を申さん事行くも止るも同じ道」と掻き口説き、泣く泣く遣はされけり。判官此の文御覧じて、御返事には、「文悦び入り候ふ。仰せの如く、何方へも落ち行くべきにて候へ共、勅勘の身として空を飛び、地を潛るとも適ひ難し。此処にて自害の用意仕るべし。然ればとて錆矢の一つも放つべきにても候はず。此の御恩今生にてはむなしくなりぬ。来世にては必ず一仏浄土の縁となり奉るべし。是は一期の秘記にて候ふ。御身を放さず、御覧候へ」と唐櫃一合御返事にそへて遣はされけり。其の後も文有りけれども、自害の用意仕るとて、御返事にも及ばず。然れば産して七日になり給ふ北の方を呼び出だし参らせて、「義経は関東より院宣下りて失はるべく候ふ。昔より女の罪科と言ふ事なし。他所へ渡らせ給ひ候へ。義経は心静かに自害の用意仕るべし」と宣へば、北の方聞召しもあへず、袖を顔に押し当てて、「幼きより片時も放れじと慕ひし乳母の名残を振り捨てて付き奉りて下りけるは、斯様に隔て奉らん為かや。女の習ひ片思ひこそ恥づかしくも候へども、人の手に懸けさせ給ふな」と御傍をはなれじとし給へば、判官も涙ながら持仏堂の東の正面をしつらひて、入れ奉り給ひけり。

鈴木の三郎重家高館へ参る事

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重家を御前に召され、「抑和殿は鎌倉殿より御恩賜はるに、世に無き義経が許に来たり、幾程無く斯様の事出で来たるこそ不便なれ」と宣へば、鈴木申しけるは、「さん候。鎌倉殿より甲斐の国にて所領一所賜はりて候ひしが、寝ても寤めても君の御事片時も忘れ参らせず。余りに御面影身にしみて参りたく存じ候ひし間、年来の妻子など熊野の者にて候ひしを、送り遣はし候ひて、今は今生に思ひ置く事いささかも候はず。但し心にかかる事候ふは、一昨日著き申す道にて、馬の足を損ざし候ひて傷み候へ共、御内の案内如何と存じ、申し入れず候ふ。今斯く候へば、然るべき、是こそ期したる弓矢にて候へ。仮令是に参り会ひ候はずとも、遠き近きの差別にてこそ候はんずれ、君討たれさせ給ひぬと承り候はば、何の為に命をかばひ候ふべき。所々にて死候はば、死出の山路も遙かに離り奉るべきに、心安く御供仕り候はん」とて、世に心地よげに申しければ、判官も御涙に咽び、打ち頷き給ひけり。さて鈴木申し上げけるは、「下人に腹巻ばかりこそ著せて参じて候へ。討死の上具足の善悪は要るまじく候へども、後に聞こえ候はん事無下に候はんか」と申しければ、鎧は数多させたるとて、敷目に巻きたる赤糸威の究竟の鎧を取り出だし、御馬に添へ下さる。腹巻は舎弟亀井に取らせけり。

衣河合戦の事

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さる程に、寄手長崎の大夫のすけを初めとして、二万余騎一手になりて押し寄せたり。「今日の討手は如何なる者ぞ」「秀衡が家の子、長崎太郎大夫」と申す。せめて泰衡、西木戸などにても有らばこそ最期の軍をも為め、東の方の奴原が郎等に向ひて、弓を引き矢を放さん事あるべからずとて、「自害せん」と宣ひけり。此処に北の方の乳母親に十郎権頭、喜三太二人は家の上に上りて、遣戸格子を小楯にして散々に射る。大手には武蔵坊、片岡、鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢の三郎、備前の平四郎、以上人々八騎なり。常陸坊を初めとして残り十一人の者共、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、其の儘帰らずして失せにけり。言ふばかり無き事共なり。弁慶其の日の装束には黒革威の鎧の裾金物平く打ちたるに、黄なる蝶を二つ三つ打ちたりけるを著て、大薙刀の真中握り、打板の上に立ちけり。「囃せや殿原達、東の方の奴原に物見せん。若かりし時は叡山にて由ある方には、詩歌管絃の方にも許され、武勇の道には悪僧の名を取りき。一手舞うて東の方の賎しき奴原に見せん」とて、鈴木兄弟に囃させて、

嬉しや滝の水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずと二人、東の奴原が鎧冑を首諸共に衣河に斬り付け流しつるかな

とぞ舞ふたりける。寄手是を聞きて、「判官殿の御内の人々程剛なる事はなし。寄手三万騎に、城の内は僅十騎ばかりにて、何程の立合せんとて舞舞ふらん」とぞ申しける。寄手の申しけるは、「如何に思し召し候ふとも、三万余騎ぞかし。舞も置き給へ」と申せば、「三万も三万によるべし。十騎も十騎によるぞ。汝等が軍せんと企つる様の可笑しければ笑ふぞ。叡山、春日山の麓にて、五月会に競馬をするに、少しも違はず。可笑しや鈴木、東の方の奴原に手並の程を見せてくれうぞ」とて、打物抜きて鈴木兄弟、弁慶轡を並べて、錏を傾ぶけて、太刀を兜の真向に当てて、どつと喚きて駆けたれば、秋風に木の葉を散らすに異ならず。寄手の者共元の陣へぞ引き退く。「口には似ざる物や。勢にこそよれ。不覚人共かな、返せや返せや」と喚きけれども、返し合はする者もなし。斯かりける所に鈴木の三郎、照井の太郎と組まんと、「和君は誰そ」「御内の侍に照井の太郎高治」「さて和君が主こそ鎌倉殿の郎等よ。和君が主の祖父清衡後三年の戦の時、郎等たりけるとこそ聞け、其の子に武衡、其の子に秀衡、其の子に泰衡、然れば我等が殿には五代の相伝の郎等ぞかし。重家は鎌倉殿には重代の侍なり。然れば重家が為には合はぬ敵なり。然れども弓矢取る身は逢ふを敵、面白し、泰衡が内に恥ある者とこそ聞け。それが恥ある武士に後ろ見する事やある。穢しや、止まれ止まれ」と言はれて返し合はせ、右の肩切られて、引きて退く。鈴木既に弓手に二騎、右手に三騎切り伏せ、七八騎に手負ほせて、我が身も痛手負ひ、「亀井の六郎犬死すな。重家は今は斯うぞ」と是を最期の言葉にて、腹掻き切つて伏しにけり。「紀伊国鈴木を出でし日より、命をば君に奉る。今思はず一所にて死し候はんこそ嬉しく候へ。死出の山にては必ず待ち給へ」とて、鎧の草摺かなぐり捨てて、「音にも聞くらん、目にも見よ、鈴木の三郎が弟に亀井の六郎生年廿三、弓矢の手並日頃人に知られたれども、東の方の奴原は未だ知らじ。初めて物見せん」と言ひも果てず、大勢の中へ割つて入り、弓手あひ付け、右手に攻め付け、切りけるに、面を向ふる者ぞ無き。敵三騎打ち取り、六騎に手を負せて、我が身も大事の傷数多負ひければ、鎧の上帯押しくつろげ、腹掻き切つて、兄の伏したる所に同じ枕に伏しにけり。さても武蔵は、彼に打ち合ひ、是に打ち合する程に、喉笛打ち裂かれ、血出づる事は限りなし。世の常の人などは、血酔などするぞかし。弁慶は血の出づればいとど血そばへして、人をも人とも思はず、前へ流るる血は鎧の働くに従ひて、朱血になりて流れける程に、敵申しけるは、「此処なる法師、余りのもの狂はしさに前にも母衣かけたるぞ」と申しけり。「あれ程のふて者に寄合ふべからず」とて、手綱を控へて寄せず。弁慶度々の戦に慣れたる事なれば、倒るる様にては、起上がり起上がり、河原を走り歩くに、面を向ふる人ぞ無き。さる程に増尾の十郎も討死す。備前の平四郎も敵数多討ち取り、我が身も傷数多負ひければ、自害して失せぬ。片岡と鷲尾一つになりて軍しけるが、鷲尾は敵五騎討ち取りて死にぬ。片岡一方隙きければ、武蔵坊伊勢の三郎と一所にかかる。伊勢の三郎敵六騎討ち取り、三騎に手負せて、思ふ様に軍して深手負ひければ、暇乞して、「死出の山にて待つぞ」とて自害してんげり。弁慶敵追ひ払うて、御前に参りて、「弁慶こそ参りて候へ」と申しければ、君は法華経の八の巻を遊ばして御座しましけるが、「如何に」と宣へば、「軍は限になりて候ふ。備前、鷲尾、増尾、鈴木兄弟、伊勢の三郎、各々軍思ひの儘に仕り、討死仕りて候ふ。今は弁慶と片岡ばかりになりて候ふ。限にて候ふ程に、君の御目に今一度かかり候はんずる為に参りて候ふ。君御先立ち候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶先立ち参らせ候はば、三途の川にて待ち参らせん」と申せば判官、「今一入名残の惜しきぞよ。死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打ち出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に止めんとすれば、味方の各々討死する。自害の所へ雑人を入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、仮令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば実に三途の河にて待ち候へ。御経もいま少しなり。読み果つる程は、死したりとも、我を守護せよ」と仰せられければ、「さん候」と申して、御簾を引き上げ、君をつくづくと見参らせて、御名残惜しげに涙に咽びけるが、敵の近づく声を聞き、御暇申し立ち出づるとて、又立ち返り、かくぞ申し上げける。

六道の道の衢に待てよ君後れ先立つ習ひ有りとも

かく忙はしき中にも、未来をかけて申しければ、御返事に、

後の世も又後の世も廻り会へ染む紫の雲の上まで

と仰せられければ、声を立ててぞ泣きにける。さて片岡と後合に差し合はせ、一ちやう町を二手に分けて駆けたりければ、二人に駆け立てられて、寄手の兵共むらめかして引き退く。片岡七騎が中に走り入りて戦ふ程に、肩も腕もこらへずして、疵多く負ひければ、叶はじとや思ひけん、腹掻き切り亡せにけり。弁慶今は一人なり。長刀の柄一尺踏折りてがはと捨て、「あはれ中々良き物や、えせ片人の足手にまぎれて、悪かりつるに」とて、きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合はせて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらりはらりと切り付け、馬より落つる所は長刀の先にて首を刎ね落し、脊にて叩きおろしなどして狂ふ程に、一人に斬り立てられて、面を向くる者ぞ無き。鎧に矢の立つ事数を知らず。折り掛け折り掛けしたりければ、簔を逆様に著たる様にぞ有りける。黒羽、白羽、染羽、色々の矢共風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるるに異ならず。八方を走り廻りて狂ひけるを、寄手の者共申しけるは、「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかり如何に狂へ共、死なぬは不思議なり。音に聞こえしにも勝りたり。我等が手にこそかけずとも、鎮守大明神立ち寄りて蹴殺し給へ」と呪ひけるこそ痴がましけれ。武蔵は敵を打ち払ひて、長刀を逆様に杖に突きて、二王立に立ちにけり。偏に力士の如くなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ見給へあの法師、我等を討たんとて此方を守らへ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて近づく者もなし。然る者申しけるは、「剛の者は立ちながら死する事あると言ふぞ。殿原あたりて見給へ」と申しければ、「我あたらん」と言ふ者もなし。或る武者馬にて辺を馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬にあたりて倒れけり。長刀を握りすくみてあれば、倒れ様に先へ打ち越す様に見えければ、「すはすは又狂ふは」とて馳せ退き馳せ退き控へたり。され共倒れたる儘にて動かず。其の時我も我もと寄りけるこそ痴がましく見えたりけれ。立ちながらすくみたる事は、君の御自害の程、人を寄せじとて守護の為かと覚えて、人々いよいよ感じけり。

判官御自害の事

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十郎権頭、喜三太は、家の上より飛び下りけるが、喜三太は首の骨を射られて失せにける。兼房は楯を後ろにあてて、主殿の垂木に取り付きて、持仏堂の広庇に飛び入る。此処にしやさうと申す雑色、故入道判官殿へ参らせたる下郎なれども「彼奴原は自然の御用に立つべき者にて候ふ。御召し使ひ候へ」と強ちに申しければ、別の雑色嫌ひけれども、馬の上を許され申したりけるが、此の度人々多く落ち行けども、彼ばかり留まりてんげり。兼房に申しけるは、「それ見参に入れて給はるべきや。しやさうは御内にて防矢仕り候ふなり。故入道申されし旨の上は、下郎にて候へども、死出の山の御伴仕り候ふべし」とて散々に戦ふ程に、面を向かふる者なし。下郎なれども彼ばかりこそ、故入道申せし言葉を違へずして留まりけるこそ不便なれ。「さて自害の刻限になりたるやらん、又自害は如何様にしたるを良きと言ふやらん」と宣へば、「佐藤兵衛が京にて仕りたるをこそ、後まで人々讚め候へ」と申しければ、「仔細なし。さては疵の口の広きこそよからめ」とて、三条小鍛冶が宿願有りて、鞍馬へ打ちて参らせたる刀の六寸五分有りけるを、別当申し下して今の剣と名付けて秘蔵しけるを、判官幼くて鞍馬へ御出の時、守刀に奉りしぞかし。義経幼少より秘蔵して身を放さずして、西国の合戦にも鎧の下にさされける。彼の刀を以て左の乳の下より刀を立て、後ろへ透れと掻き切つて、疵の口を三方へ掻き破り、腸を繰り出だし、刀を衣の袖にて押し拭ひ、衣引き掛け、脇息してぞ御座しましける。北の方を呼び出だし奉りて宣ひけるは、「今は故入道の後家の方にても兄人の方にても渡らせ給へ。皆都の者にて候へば、情無くはあたり申し候はじ。故郷へも送り申すべし。今より後、さこそ便を失ひ、御歎き候はんとこそ、後の世までも心にかかり候はんずれども、何事も前世の事と思し召して、強ちに御歎きあるべからず」と申させ給へば、北の方、「都を連れられ参らせて出でしより、今まで存命へてあるべしとも覚えず、道にてこそ自然の事も有らば先づ自らを亡はれんずらんと思ひしに、今更驚くに有らず。早々自らをば御手にかけさせ給へ」とて、取り付き給へば、義経、「自害より先にこそ申したく候ひつれ共、余りの痛はしさに申し得ず候ふ。今は兼房に仰せ付けられ候へ。兼房近く参れ」と有りけれども、何処に刀を立て参らすべしとも覚えずして、ひれ伏しければ、北の方仰せられけるは、「人の親の御目程賢かりけり。あれ程の不覚人と御覧じ入りて、多くの者の中に女にてある自らに付け給ひたれ。我に言はるるまでもあるまじきぞ。言はぬ先に失ふべきに暫くも生けて置き、恥を見せんとするうたてさよ。さらば刀を参らせよ」と有りしかば、兼房申しけるは、「是ばかりこそ不覚なるが理にて候へ。君御産ならせ給ひて三日と申すに、兼房を召されて、「此の君をば汝が計らひなり」と仰せ蒙りて候ひしかば、やがて御産所に参り、抱き初め参らせてより、其の後は出仕の隙だにも覚束無く思ひ参らせ、御成人候へば、女御后にもせばやとこそ存じて候ひつるに、北の政所打ち続きかくれさせ給へば、思ふに甲斐無き歎きのみ、神や仏に祈る祈りはむなしくて、斯様に見なし奉らんとは、露思はざりしものを」とて、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、「よしや嘆くとも、今は甲斐有らじ。敵の近づくに」と有りしかば、兼房目も昏れ心も消えて覚えしかども、「かくては叶はじ」と、腰の刀を抜き出だし、御肩を押へ奉り、右の御脇より左へつと刺し透しければ、御息の下に念仏して、やがてはかなくなり給ひぬ。御衣引き披け参らせて、君の御傍に置き奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母の抱き参らせたる所につと参り、「御館も上様も、死出の山と申す道越えさせ給ひて、黄泉の遙かの界に御座しまし候ふなり。若君もやがて入らせ給へ」と仰せ候ひつると申しければ、害し奉るべき兼房が首に抱き付き給ひて、「死出の山とかやに早々参らん。兼房急ぎ連れて参れ」と責め給へば、いとど詮方無く、前後覚えずになりて、落涙に堰き敢へず、「あはれ前の世の罪業こそ無念なれ。若君様御館の御子と産れさせ給ふも、かくあるべき契りかや。「亀割山にて巣守になせ」と宣ひし御言葉の末、実に今まで耳にある様に覚ゆるぞ」とて、又さめざめと泣きけるが、敵はしきりに近づく。かくては叶はじと思ひ、二刀刺し貫き、わつとばかり宣ひて、御息止まりければ、判官殿の衣の下に押し入れ奉る。さて生まれて七日にならせ給ふ姫君同じく刺し殺し奉り、北の方の衣の下に押し入れ奉り、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と申して我が身を抱きて立ちたりけり。判官殿未だ御息通ひけるにや、御目を御覧じ開けさせ給ひて、「北の方は如何に」と宣へば、「早御自害有りて御側に御入り候ふ」と申せば、御側を探らせ給ひて、「是は誰、若君にて渡らせ給ふか」と御手を差し渡させ給ひて、北の方に取り付き給ひぬ。兼房いとど哀れぞ勝りける。「早々宿所に火をかけよ」とばかり最期の御言葉にて、こと切れ果てさせ給ひけり。

兼房が最期の事十郎権頭、「今は中々心に懸かる事なし」と独言し、予てこしらへたる事なれば、走りまはりて火をかけたり。折節西の風吹き、猛火は程無く御殿につきけり。御死骸の御上には遣戸格子を外し置き、御跡の見えぬ様にぞこしらへける。兼房は焔に咽び、東西昏れて有りけるが、君を守護し申さんとて、最期の軍少なくしたりとや思ひけん、鎧を脱ぎ捨て、腹巻の上帯締め固め、妻戸よりづと出で見れば、其の日の大将長崎太郎兄弟、壷の内に控へたり。敵自害の上は何事かあるべきとてゐたりけるを、兼房言ひけるは、「唐土天竺は知らず、我が朝に於て、御内の御座所に馬に乗りながら控ゆべきものこそ覚えね。かく言ふ者をば誰かと思ふ、清和天皇十代の御末、八幡殿には四代の孫、鎌倉殿の御舎弟九郎大夫判官殿の御内に、十郎権頭兼房、もとは久我の大臣殿の侍なり。今は源氏の郎等なり。樊■を欺く程の剛の者、いざや手並を見せてくれん。法も知らぬ奴原かな」と言ふこそ久しけれ。長崎太郎が右手の鎧の草摺半枚かけて、膝の口、鎧の鐙靼金、馬の折骨五枚かけて斬り付けたり。主も馬も足を立て返さず倒れけり。押し懸かり首をかかんとせし処に、兄を討たせじと弟の次郎兼房に打つてかかる。兼房走り違ふ様にして、馬より引き落し、左の脇に掻い挟みて、「独り越ゆべき死出の山、供して越えよや」とて、炎の中に飛び入りけり。兼房思へば恐ろしや、偏に鬼神の振舞なり。是は元より期したる事なり。長崎二郎は勧賞に与り、御恩蒙り、朝恩に驕るべきと思ひしに、心ならず捕はれて、焼け死するこそ無慙なれ。


秀衡が子供御追討の事

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かくて泰衡は判官殿の御首持たせ、鎌倉へ奉る。頼朝仰せけるは、「抑是等は不思議の者共かな。頼みて下りつる義経を討つのみならず、是は現在頼朝が兄弟と知りながら、院宣なればとて、左右無く討ちぬるこそ奇怪なれ」とて、泰衡が添へて参らせたる宗徒の侍二人、其の外雑色、下部に至るまで、一人も残さず首を斬りてぞ懸けられける。やがて軍兵差し遣はし、泰衡討たるべき僉議有りければ、先陣望み申す人々、千葉介、三浦介、左馬介、大学頭、大炊介、梶原を初めとして望み申しけれども、「善悪頼朝私には計らひ難し」とて、若宮に参詣有りけるに、畠山夢想の事有りとて、重忠を初めとして、都合其の勢七万余騎奥州へ発向す。昔は十二年まで戦ひける所ぞかし、今度は僅に九十日の内に攻め落されけるこそ不思議なれ。錦戸、比爪泰衡、大将以下三百人が首を、畠山が手に取られける。残る所、雑人等に至るまで、皆首を取りければ数を知らざる所なり。故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、争か斯様になり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。口惜しかりしものなり。

 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。