続古事談/第五
衣にてなづれどつきぬ石の上によろづ代をへよ滝のしらいと
人々見て、或は興じ、或は無益なりなどいひ合へる程に、二条の帥長実、和せられたりける。
しれ物のよしなし事をする法師つひに人やにゐるとこそきけ
人々笑ひのゝしりて止みにけり。
前左衛門基俊といふ人、老の後、師頼大納言誘はれければ、故堀河左大臣(〈俊房〉)の許に向ひたりけるに、月前歎㆑老といふ題にて、人々歌詠みけるに、一句の序代あるべしと、責められければ、遁れ難くて、かくぞ書きたりける。
仲秋十二日猶正好之夕也。浮生八十廻是非㆓暮齢㆒哉。
月前歎老誠矣斯言、其詞云、
昔みし人は夢路に入果てゝ月とわれとになりにけるかな
典薬頭雅忠が夢に、七八歳計りなる小童、寝殿に走り行きていふ様、先祖康頼、懇に祈りし志にこたへて、文書を守りて、二三代相離れぬに、此程火事あらんずるに、慎むべしと見て、廿日計りありて、家焼けにけり。されども文書一巻も焼かずとぞ。昔は諸道に斯く守宮神達添ひければ、験も冥加もありけるにこそ。
医師采女正盛親が許へ、十七八計なる女来りて、前のあななし、いかゞすべきといひければ、是を見て力及ばずといひければ、泣々帰りにけり。後に秀成といふ医師之を聞きて、其女を呼びて、針のかたなにて、皮を裂切りたりければ、世の常の人の【 NDLJP:145】やうになりにけり。希有の事なり。
采女正俊通といふ医師ありけり。七十余にて、布のなほしに、紫の指貫を着て、人に会ひにけり。
もがさといふ病は、新羅国より起りたり。筑紫の人、魚買ひける船離れて、彼国に着きて、その人うつり病みて来れりけるとぞ。天平九年官符に、此病痢にならん時、にらきを煮て、多く食ふべしとあり。後の人、斯くして験あり。夫を雅忠、熱気の程食ひ染めずば、熱気冷めて後、猶忌むべしといひけり。されど食ひて多く験ありとぞ。
後朱雀院、かさを病み給ひけるに、典薬頭相成、宜しくなり給へり。水止むべき由申しけるを、雅忠未だ若かりけるが、見奉りて、此御瘡いつ水止むべしとも見えずと申しけり。其後嵯峨の滝殿の阿闍梨、重源といふ者は、重秀が孫なり。夫を召して見せ給ひければ、雅忠が申す様に申して罷出づとて、故資仲、帥の五位蔵人なりけるに会ひて、此御瘡いつ癒え給ふべしといふ事見えず。雅忠心得たる医師なり。明日御胸病み給はゞ、大事なるべしと申しけり。誠に御胸病みて、亡せ給ひにけり。かさ病む人胸病むは、終の事なりとなむ。
富家殿灸治し給ひけるに、重康申さく、日神股にあり、灸き給ふべからず。此上忠康申さく、内股外股異なり、医書明堂図に見えたり。外股憚るべし。玉篇切韻、誠に忠康が申すが如し。是に依りて重康を召さず。忠康灸き奉る。兄弟中悪くして、常に斯る事ありけり。忠康は、雅忠が実子にはあらず。上野守良基が子也。雅忠幼くより子にして、道を伝へたる也。医道の課試、忠康迄したり。其後する人なし。」典薬頭滋秀が申しけるは、典薬別当の公卿は、必ず大臣になる也。六条左大臣・小野宮右大臣是也とぞ。自然の事にや、又故あるにや、覚束なし。慥に考ふべし。
唐人のいひける計りにて、薬は合せて服すべきなり。反魂香といふ物あり。死人の魂を返す香なり。一銖も違ひぬれば、来ることなし。斯ればこと薬も、よく計りを定むべきなり。
遍教僧都、慶命座主の童なりけるを得て、母にいふやう、今日大僧都をなむ得たる。【 NDLJP:146】母火をともしてみていはく、大僧正なり。果して大僧正に至る。母の相、遍教に勝れりけり。
丹波守貞嗣、北山に詣で、百寺の金鼓打ちけるに、洞照といふ相人いふやう、君の顔色あし。恐らくは鬼神の為に犯されたる歟。貞嗣。心地違ふことなし、常の如しといふ。洞照疾く帰るべき由をいふ程に、貞嗣俄に絶え入りて、蘇りて家に帰りて、物の怪あらはれていはく、別の事なし。我等遊びつる前を通りつれば、胸を踏みたるなりとぞいひける。天狗の仕業なり。さて三日ありて死にけり、洞照が相、神の如し。
晴明大舎人にて、笠を着て勢田橋を行くに、玆光之を見て、一道の達者ならむずる事を知りて、其由をいひければ、晴明陰陽師具曠が許に行きたるに用ひず。又保憲がり行きたるに、其相を見てもてなしけり。晴明は術法の物なり、才覚は優長ならずとぞ。晴明・光栄論じける。保憲が時、光栄をば前に出す事なしと、晴明申しければ、愛弟とにくまんこと、なほひとしからずとぞ、光栄申しける。晴明がいはく、百家集我に伝ふ。光栄には伝へず。是れ其証なりといひければ、光栄、百家集我が許にあり、又暦道伝ふとぞいひける。
大外記頼隆真人は、近澄が子なり、広澄・善澄が甥なり。諸道を極めたる才人なり。明経・紀伝・竿・陰陽・暦道等文迄学びたりけり。常にいひける、医道明法未だ口入れずとぞいひける。一条院御時、斉信民部卿に付きて、明経准得業生を望み申しけるに、斉信卿、本道に許すや否や知らん為に、善澄を召して、明経道に大成を顕はすべき者、誰かあると問はれければ、善澄申しけるは、貞清と申す者こそ、師説を伝へて、深く経典に通達せる者なれば、末代のやむごとなき者なりと。斉信本意違ひて、重ねて問はる。頼隆といふ者はいかに。善澄気色変りて、わきをかきて申しける。頼隆は非常の者なり。たゞ明経一道のみならず、百家九流をくゞれる者なり。此時斉信卿直問して云く、頼隆若し将来に国器に当らずば、斉信、不実の者を吹噓する責を蒙るべしと申されけり。遂に宣旨下りにけり。若かくて明経を捨てゝ、紀伝に入らむとて、式部大輔匡衡朝臣のがり行きたりければ、匡衡いひけるは、汝は一道【 NDLJP:147】の長者すべき相あり。若し他道に入らば、必ずしも長者に至るべからず。たゞ本道にあるべしと教へけり。
友則朝臣近江の任に、頼隆其国の目代しけるに、洞照相して云く、この生才学得長、国宝なるべし。更に執鞭を好むべからずとなむいひける。頼隆いひけるは、我れ別の学問せず、広澄が子にして、弟善澄と明経道の相論の時使して、往返聞く所の事、一生の才学なりとぞいひける。安海供奉は、広澄・善澄が弟なり。
昔は諸道の博士などは、装束執する事なかりけるにや、光栄といひける陰陽師、上東門の御産の時、浅ましげなる上の絹指貫に、ひらくつ履きて、紐もかゝで中門より入りて、階隠の間より上りて、懐より白虫を取出して、勾欄のひらけたに当てゝ、大指して殺しけり。うへの衣の下には、布の襖といふ物をぞ着たりける。
祇園の社焼失の御時(〈久安四〉)、卜行はるゝに、陰陽師泰親卜ひ申して云く、六月壬癸日、内裏焼亡あるべし。六月廿六日、壬子土御門内裡焼けにけり。希有の事と人いひけり。本文に云く、卜は十にして、七あたるを神とす。泰親が卜は七当る。上古に恥ぢずとぞ。鳥羽院仰せられける。
登昭といふ宿曜師大殿(〈師実〉)、幼くおはしましける時、宿曜の勘文に、十九にて大臣になり給ふべしと、勘へたりけるに、果して其儘十九(〈康平三〉)にて、大臣になり給ひにけり。宇治殿(〈頼通〉)、感じ給ひけり。又しげ岡の川人が勘文に、貞観以後壬午の年(〈長久三〉)、聖人生るべしといへり。此年大殿生れ給へり。白川院此由を聞召して、件の勘文に、平地九丈の大水出づべしといへる年、其水出でず。信じ難き事なりとぞ仰せられける。
左舞人光末申しけるは、円融寺供養の時、兼助・茂助、青海波舞ひ、好茂・身高・信正・光高、輪台舞ふ。是は舞の仙なり。近くは正方・光高・青海波舞ひ、正助・時助・則高・光末輪台仕うまつる。是れいみじき事なり。光高は、兼時が弟子なり。左右の舞絶えなむずる道なり。正方死なむとする時、正助、胡飲酒の事を問ひければ、孫子に教へたり。夫に問へとなむいひける。さて正助は、子に習ひけり。斯く程よき者、正助に先立ちて、僅に廿余計りにて失せにけり。光末又子なし。女子の子にて、光貞・【 NDLJP:148】光則あれども、光貞には舞皆教へたれども、其身中風して目見えず、光則には、僅に半分教へたり。光末七十に余りにたり。教へ果つべからず。左右の舞、絶えなんとするとぞ申しける。其後右舞は、助忠死にて絶えにけり。忠方・忠節僅に舞ひしかども、それだに伝へたる子もなし。既に絶え果てにたり。左の舞、光近迄は、さすがに伝へたりしかども、其後絶えにけり。胡飲酒は村上の御時、忠義公殿上人の時、たび〳〵御前にて、此舞を奏して、多く好茂に伝へられけり。其後彼の好茂が流れ、右の舞なれども、之を舞ふなり。白河院の御時、臨時楽ありけるに、正助失せて後、胡飲酒舞ふべき者なかりければ、時助を召して、父正方この上正助、此舞を伝へて、たび〳〵奏しき。汝定めて見習ひなん、仕うまつれと仰せられければ、未だ習はぬよし申しけるを、猶仕うまつれ、汝が子助忠・正助に習ひたる由聞召す。彼にいひ合せて、仕うまつれと仰せられければ、志ぶ〳〵に仰事なれば、仕うまつる計りなりとて、罷り立ちにけり。此詞、ねいなりとなん人々いひける。さて其度舞ひて、賞蒙りにけり。時助が子助忠、たび〳〵舞うて、勧賞蒙れり。助忠、正連に殺されて後、永く此舞絶えにけり。但し後冷泉院の御時、殿上人の舞御覧じけるに、雅実のおとゞ童にて、正助に此舞を習ひて舞はれけり。勅禄を賜はる時、感にたへず、祖父土御門大臣(〈師房〉)座を立ちて、禄を取りて舞はれけり。是れ当時欣感のみにあらず、村上の御時、実資大臣納蘇利舞はれたる時、清慎公立ちて舞ひ給ふ旧貫なり。白河院五十の御賀の時、此大臣の子雅定、童にて又之を舞ふ。助忠死にて後、此舞絶えたる事を、悼み思食して、白河院、此大臣に仰せられて、助忠が子忠方に教へしむ。大臣雅定を師として、忠方に教へしむ。さて最勝寺供養の時、始めて此舞を奏す。父忠助に習はずといへども、之は正助が同じ流なり。正助が生きたりける時、外孫正連〈童名峯丸〉に、胡飲酒教ふべき由、白河院、頭弁実政朝臣して、仰せられければ、正助峯丸を具して、御前にて教へにけり。されども正連罪蒙りて、彼が流絶えにけりとぞ。
中院入道右大臣(〈雅定〉)童の時の時、公私所々にて、度々胡飲酒舞はれけり。中納言の後、舞の装束して、白河院の御前に召して、舞はせられけるに、廿余年を経て、舞の手つゆ【 NDLJP:149】忘れず、舞はれたりけり。あり難き事になむ人申しける。但し納言已上、舞の装束して舞ふ事覚束なし。左舞人光季が申しけるは、若くより正方・正助・助忠、胡飲酒度々見るに、皆違ひたり。此事覚束なし。習ひ伝へん事違ふべからず。若し此舞手様々多かる歟。又本体の手を舞ひえぬにや、心得ずとなむ申しける。
久我大臣(〈雅実〉)語られけるは、童にて、宇治殿の御前にて、此舞を御覧ぜし時、正助が教へたる秘する手を舞ひたりしかば、後に正助腹立ちて、其手をばたやすく舞はずとなんいひける。此日宇治殿、正助を階の下に召して、御衣二かつけられけり。香染白なり。忠時が嫡子景時、纒ひ失せにき。忠成又盗人に殺されにき。其後此舞永く絶えにけり。世の末になる事、斯様の事にも思ひ知るべし。
採桑老は、正方・時助・助忠、伝へて舞ひけり。違ふ事なし。光季が申しけるは、正方が舞ひしは、殊にめでたかりき。是れ其骨勝れたるなるべし。此舞も、助忠死にて後、永く絶えにけり。
白河院、天王寺の舞人公貞を召して、此舞を近方に教へしめて、朝覲行幸に舞はせられけり。此事、時の人うけざりけり。公貞が舞を用ひられば、公貞舞ふべし。公貞舞ふまじくば、舞を習ふまじとぞ傾きける。但し後冷泉院の御時、蘇莫者を召して御覧じけり。此舞は、天王寺の舞人の外には、舞はぬ舞なり。宇治殿聞き給ひて、近衛官人、雅楽の者ならずして、召さるゝ事、いかゞあるべからむと仰せられけり。若此儀にて、公貞には舞はせられざりけるにや、近方が採桑老、多くの氏の流にはあらず、天王寺の流なり。
宇治殿の卅講に、公近蘇支摩利といふ舞を舞ひけるを、正方見て、此舞は空舞なり。父よしもち申しゝは、天暦の御時、舞御覧の時、此舞は絶えたる由奏しけるを、宣旨にて新しく作りて舞ひたりけれども、其後習ひ伝へずとなむ申しける。左の一のつらに、則高・光季、右の一のつらに時助・助忠立ちたり。皆父子なり。見る人いみじき事になんいひける。
一条院の御時、清涼殿にて、臨時楽聞召しけるに、舞人身高・兼時・好茂、とり〴〵にいみじかりければ、各賞蒙りけり。一度に三人まで、勧賞余りなりと、人思へりけれ【 NDLJP:150】ども、何れも劣らざりけるなるべし。楽の行事にて、備前前司相方朝臣、御前の庭に召して、禄賜ひけり。此日文範の民部卿、八十に余りて、させる召なきに参りて、座にさぶらひて、舞の程にうそぶきければ、主上より、始めて見る人、願を解かずといふ事なし。老狂ひとなむいひ合へりける。
同御時、相撲のぬきての日、あらゝき舞といふ舞御覧じけり。是は薬師寺風俗とぞ。女姿にて、始は人のたけの程にて、やう〳〵高くなりて、二丈に及びけり。従女ありけり。其後御門程なくかくれおはしましければ、やがて此人なし。
白河院の御時、童舞御覧じけるに、左には光季が孫千手丸、戟を振りけり。右には時助が弟子鶴法師丸出でて、戟を振らんとしけるを、三条内大臣能長、座におはしけるが、大声を放ちて、正助が孫峯丸を置きて、時助が弟子戟振るべからずとて、追入れられければ、峯丸出でて振りけり。人々いはれありと思へりけり。
元正といひし楽人は、横笛の上手なり。それが童にて、八幡にありけるを、いみじき天性なるによりて、八幡別当頼清、楽人正清を呼びて、笛教ふべき由いひければ、子に教ふべしとて聞かざりければ、奈良の楽人惟季を呼びて、此童に笛教へよといひければ、我れ子孫なし。心に入れて習はゞ、秘すべかずとて教へけり。皇帝習ひける時、頼清米百五十石取らせけり。惟季、此楽を正近に習ひける時、山階寺の真範取られたりける例なり。
正清・惟季共に正近が弟子なれども、少し違ひて、互にうけぬ所ありけり。正清がいひけるは、賢き弟子、愚なる子には及ぶべからず。惟季いひける、正清生れぬ先に教へん子あるべしと、予て知らんやとぞいひける。正近は、楽所の預り頼義が弟子なり。頼義は左右なき者なり。惟季程なく亡せにければ、皇帝団乱旋、此八幡の童伝へたるなり。此元正が子に、元方といふ者ありき。父に及ぶべからず。楽も捗捗しく覚えざりしにや、内の舞御覧の時、皇帝いぶかしと申して、楽人共に誹られしものなり。
経信大納言いはれけるは、玄象といふ琶琶は、調べ得ぬ時あり。資通大弐、此琵琶をひきける時、調べえざりければ、父済政いふ。今日琵琶仕ふまつるまじき日なり。【 NDLJP:151】琵琶のひがめるなりとぞ申しける。経信、白河院の御遊に、呂の遊の後、律に調べなす時、遂に調べ得ず。古人のいふ事、誠なるかなとぞいはれける。
鳥羽院の御時、賭弓に陵王の広序を舞ひけるに、正清俄に故障ありて、笛吹きかけたりける時、侍従大納言成通中将にて、幔の外に立ちて広序を吹きたりける。時の人、いみじき事に申しけり。
白川院の御時、飛香舎にて、中宮(〈賢子〉)大原野の行啓の試楽ありけるに、大皷打つべき楽人なかりければ、人々に問はれけるに、政長師賢朝臣仕うまつるべき由申しければ、其由仰せらるゝに、各辞し申しけれども、許されず。遁れ難くて、政長大鼓俄に承りて、一拍子の誤もなく、仕うまつられける。いみじき事となん、人々ほめ合へりける。重代管絃の家、誠に人に異なる事なり。此二人は兄弟なり。政長、横笛の上手なり。後冷泉院の殿上の歌合の日、童にて御遊の時、笛吹きたりけり。堀川院の御師なり。朝覲行幸に、始めて御笛吹かせ給ひけるに、御笛の師にて、其賞に、子息有賢、殿上許されけり。師賢は和琴の上手なり。父資通卿申しける。御遊の時、和琴仕うまつるもの少なし。師賢頗其骨ある由申しければ、宇治殿召して、琴をたびて試み給ひけり。二位中納言俊家卿拍子取りて、呂律歌うたはれけるに、誠に其骨いみじくて、聞く人感歎しけり。其頃内裏に臨時楽ありけるに、御遊の時、殿上許されて、和琴仕うまつりけりとぞ。
神楽は、近衛舎人の仕業なり。其中に多くの氏の者、昔より殊に伝へうたふ、今に絶えず。ことものは、今は捗々しくうたふ者なし。宇治殿の東三条にて、神楽し給ひけるに、下野公親、此道に長じたる聞えありけり。多く時助又家風を伝へたるものなり。召合せて聞召すべしと、人々申しければ、公親本拍子、時助末拍子、しながとりいせんまの歌仕うまつるべき由、公親に仰せられけるに、未だ習はずと申して、歌はざりけり。時助之を歌ふ。此家風猶勝れりとて、次の日時助を召して、禄たびけり。時助が子助忠之を伝へて、殊に堪能なりければ、堀川天皇階下に召して、うけ習ひ給ひて、常に此神楽ありけり。蔵人盛家其骨を得て、人長を仕りけり。斯る程に、時助・助忠父子、かたきの為に殺されにけり。君より始めて、此道の絶えぬる【 NDLJP:152】事を歎き給ひて、助忠が末の子忠方・近方、未だいとけなき童にてありけるを、召出でて男になして、忠方は歌の骨あるによりて、神楽の風俗を歌はしむ。ゆたちみや人といふ歌は、助忠が外知る人なし。助忠忝く君に授け奉れり。内侍所御神楽の時、本拍子家俊朝臣、末拍子近方仕うまつれりけるに、主上御簾の内におはしまして、拍子を取りて、此歌を近方に教へ給ひけり。誠に希代の勝事、未だ昔にもあらぬ事なり。父に習ひ伝へんは世の常の事なり。賤しき孤にて、斯る面目を施す事、此道の絶えざる事を、世の人感涙を流しけり。
人長、是も近衛舎人することなり。昔尾張安居兼時、むねと此事にたへたりけり。尾張時頼といふ人長うせて後、すべき者やなかりけむ、下野安行、兼時が孫なるによりて、宇治殿召出でて、其芸を試み給ふに、家風落さず優美なりければ、兼時も、近衛にてつかうまつれる例によりて、選び用ひられけり。但し番長より下つ方、人長する事久しく絶えて、其装束慥に知る人なし。時の議ありて、定め仰せられけり。此安行も、程なく亡せにければ、中臣宗武、家に伝へずといへとも、容体勝れたるによりて、宇治殿召して、此事を勤めしめ給ひけり。天暦の御時、仲秀といふ人長ありけり。それが孫に、紀本武といふ人長ありけり。重代の者といへども、庭火の前に進み出でて、かなでける事柄、兼武には及ばずとぞ、時の人いひける。斯様の事、物のがらによる事なり。中原氏の人長、兼武より始まれるなり。其子近友・兼近も人長なり。兼近殿の随身にてありける時、松尾行幸に、御供に候て、社頭にて人長装束して、還御の時、其装束ながら、弓胡籙負ひて、御供に候ひけり。扶宣も人長なり。骨なかりけるにや、茨田重方といふ者は、五位の後まで人長しけり。今の世には、秦氏兼方が流れのみ、する事になりたり。それだに捗々しく習ひたる者聞えず。兼弘物のふしにて、始めて人長しけるには、ふたあゐのかうし布の狩袴にふせぐみして、金銀の造花の枝を附けたりけり。
鳥羽院小六条内裏におはしましけるに、仕ひ陪従御桟敷を渡して御覧じける時、仰ありて、人長兼弘、馬に乗りて上げつゝ、御前を渡りけり。
近衛舎人は、能き人の近く召仕ふ者にて、事に触れて情あり。みめもよく芸能振舞、【 NDLJP:153】人に異なるべき者なり。斯れば昔の者共は、皆さのみこそありしか、今の世には、みめの悪く能のなきのみならず、心ぎは浅ましき者どもなり。永く失せにたる者なり。
御堂(〈通長〉)承香殿のはざまを過ぎ給ひけるに、女房氷に歌を書きて、御随身清武に取らせたりけるを、陣に着かせ給ひけるに、もて参りたりければ、文字皆消えて見えざりけり。歎き給ひけるに、懐よりたゝうがみに写して、取出でたりけり。斯様に心ばせある者にぞありける。
近衛舎人は、弓矢を具すといへども、武勇には及ばぬ者なり。宇治殿の御随身に、四郎先生行武といふ者ありけり。馬盗人を捕へて、殿にゐて参りたりければ、御随身は、近習の者なり。斯様の事、けぢかゝらぬ〔ずイ〕と宣ひて、捗々しく沙汰なかりければ、いつとなく搦め置きて止みにけり。
右大将通房、春日使せられけるに、かたの大将にて、大二条殿出立の所へおはしけるに、宇治殿ひきいで物の馬二疋奉られける。出羽の一栗毛、後の糟毛なり。此かす毛は、高名のあがり馬なり。のりたまる人なし。殿の御随身助友を召して、乗せられたりけるに、尻動かず、釘にてうち付けたらんやうにて、落ちざりければ、見る人あざみ感じけり。殿、紅梅の御衣をかづけ給ひけり。
京極の大殿(〈師実〉)の賀茂詣には、院の御随身近友・敦季より始めて、舞人したる中に、下毛野敦時、物のふしにて、独り舞人に入れりけり。東三条の南面渡りに、右府生敦重、骨なしといふあがり馬に乗りて、再び落ちにけり。下の社にて、御馬馳する時、敦重、御厩別当盛中に告げて云く、骨なしの御馬仕うまつるに能はず、敦時が馬に乗換へんと申しければ、許されを蒙りて乗換へてけり。御馬をあぐる時、敦時骨なしに乗りて、あぐる事極まりなし。見る人猶堪へ難し。然るを敦時側にて左右に居ること、すな地〔平地イ〕に居たるが如し。見る人驚き感ぜずといふ事なし。次日、大将殿より禄給ひけり。
法性寺殿の賀茂詣に、舞人兼弘は、とりかけといふ肥馬に当りて、仕うまつるに能はずと申しければ、敦延が馬に乗換ふべき由仰せられけり。敦延怒に乗りて、南庭【 NDLJP:154】渡るに、寝殿の西のほどにて走り出でて、梅木の下より、東の中門の廊に向きて走りければ、人々立騒ぎけるに、殿御笏をならし給ひければ、廊の際にて止まりて、遣水より南ざまに行きにけり。後の年番長忠利此馬に乗りて、此処彼処にて引かれて、膝をつきて、下の社にて止まりにけり。御馬馳する時、琴持武通是に乗りて、散散にあげて走らせたりけり。忠利が為め面目なき事なり。
宇治左大臣の賀茂詣に、六の葦毛といふくせものを、うつし馬に牽かれたりけるに、近衛貞弘といふ者乗りて、一度も堪らず流して、歩にて渡りにけり。一条京極にて渡りし馬に乗りて、下の社へ参りたりけり。後日に召して、纒頭たびける人怪しみければ、よく乗りたりとにはあらず、心高く乗らむと思ひ寄る纒頭なりとなん宣ひける。
京極大殿臨時客の日、尊者堀川左大臣(〈俊房〉)の随身敦久、六条右大臣前駈盛正を召して、御衣を脱ぎて給ひけるを見て、通俊民部卿殿を負はれざらましかば、今日御衣は給はらざらましといひければ、人々笑ひけり。
大饗の鷹飼は、中門を通りて、幔門の本にて、鷹はすうるなり。それに東三条は、中門より幔門の下まで、遥に遠し。下毛野公久といふたかゝひ、西の中門より、鷹もすゑで歩み入りたりけるを、上達部の座よりあらはに見えけるに、錦のほうし着たる者、手を空しくして歩み来ければ、人々千秋万歳のいるは何事ぞと笑ひけり。其後中門のとにて、鷹をすゑているなり。
盛重は、童名今犬丸なり。下臈なれども、心際うるせく、すくよかなる者なり。斯れば次第の昇進、多くは別功の賞なり。盗人射止めて兵衛尉になり、仲正が郎等搦めて、大夫尉に止まる。大夫尉三人、此時始まるなり。鳥羽院の御時、仁寛阿闍梨、謀叛起す由落書ありければ、千手丸といふ童を搦め取りて問はるゝに、承伏しにけり。別当宗忠卿、検非違使盛重・重時を召して、仁寛召取るべき由仰下すに、盛重は即ち鞭を上げて、醍醐に行向ひければ、僧共告を得て、山へ逃げ入りける折に行向ひて、やがて召具して参りにけり。重時は家に帰りて出立ちける程に、遅くなりにけり。此度盛重石見守になり、其子盛通、検非違使になりにけり。
【 NDLJP:155】白河院、法勝寺へ御幸ありけるに、大雨降りて、水夥しく出でて、浮橋流れたりけるに、盛重後陣に仕うまつりたりけるが、沓脱ぎてくゝり高く上げて、御車の先に進み出でて、浅瀬を踏ませて、御車を渡しけり。斯様の折につけたる振舞人に過ぎたりけり。白河院うせおはしましける御忌に、丈六の阿弥陀の三尊作りて、仏具花筥迄整へ具して、供養しけり。車廿輛、僧毎に長櫃十六合引きける。一日の見物にてありけり。僧に車引く事、是より出来るなり。昔は帝王の御忌に、御所にて私の仏供養する事は、便なき事とてせざりけり。後冷泉院の御忌に、大宮右大臣大納言(〈家俊〉)の時、せられたりける、時の人かたぶきにけり。世下りては、斯様の事沙汰なし。さて盛重も、するなるべし。重時も、御仏事せんと申しけれども、鳥羽院御墓所にて、すべき由仰せられけり。如何なる盛重許されて、御所にてするに、重時許されざるらんと、憤りけり。いはれある事なり。又此盛重、千僧供ひくとて、やう〳〵の物を整へて、我身子供より、始めて人夫五千人に持たせて、山へ上りけり。院御桟数をして御覧じけり。
保輔といふ者は、元方の民部卿の孫、致忠朝臣の子なり。故国章の三位の家に強盗入りにけり。保輔が仕業と聞えて、彼が郎等さし申して、さう物どもあらはれにけり。又忠信朝臣を射たる事、兵衛尉維時を殺さんとする事、皆保輔が所為の由、郎等白状によりて、検非違使所々を窺ふと雖も搦め得ず、顕光中納言の家に籠りたる由聞えて、検非違使并に武芸の者、滝口に至るまで、彼の家を囲みて、捜り求むるに、中納言の北方、車に乗りて出でむとするに、疑ひて車を去らしめず。父致忠には、看督長下部を附けて、簾もかけぬ車に乗せて守りけり。此家にもなかりければ、三日の内に奉るべき由、父致忠が請文を奉らしむ。此事によりて、諸衛の官人、弓箭を負ひて、内裏に候ふ。京中静ならず、搦めて奉りたらむ者、勧賞行なはるべき由、宣旨下りけり。父致忠は、左衛門の弓場に下されけり。保輔責に堪へず、北山花園寺にて、出家の由聞えければ、検非違使馳向つて尋ぬるに、逃げにけり。切捨てたる髪・狩衣・指貫を取りて帰りにけり。其後保輔法師、窃に従者左大将の随身忠延といふ者の許へ来りけるを、謀を廻して搦めてけり。保輔逃ぐるに能はず、刀を抜き【 NDLJP:156】て腹を刺切りて、腸を引出でたりけり。検非違使此由申して、禁獄せられにけり。此賞に、忠延、左馬医師になされけり。保輔次の日、獄中にて死にけり。獄より取出でて、ゐて行くとて葬礼して、念仏僧具して行きければ、公家咎め仰せられて、検非違使過状奉りけるとぞ。
中頃の事にや、奈良に説法能くする僧綱ありけり。或所の法事の導師に行きて、多くの布施取りて帰りけるに、日暮るゝ程に、怪しの尼公門に来て、大和国の者なり、物したべすものたべず、今宵計り日暮れぬやどし給へとて止まりぬ。夜更くる程に、門をこと〴〵しく叩く者あり、何事ぞと問へば、使庁の使なり、是に宿れる尼は、盗人にかゝりたる者なり、逃がさるべからずといふ時に、此尼を縛りて、受取らむずる使を待つ程に、夜更けて判官といふ者来りて、門を叩けば、盗人請取に来ると思ひて門を開けて、坊主、此検非違使に会はむとするに、此判官といふ者走り寄りて、此坊主に取付きて、刀を抜きて差当てゝ、汝若し働かば、刺殺してん。坊中のものおとせば、汝を殺すべし。倉塗籠開けよといひて、万の物心の儘に取りて、馬十疋計りに負せて、此坊主をも馬に乗せて、あはたの山にゐて行きて云く、此事若し沙汰せば、三日が内に殺すべし。後の世には仏種を絶たんと、誓言をせさせて許してけり、稀有の事なり。
斉信民部卿別当の時、法住寺にて、文行・正輔、先祖の事をいひていさかひて、正輔盃を文行に投懸けたりければ、文行太刀を抜かんとしけるを、河内前司重通が父大力にて、抜かせざりけり。正輔が一族三人、文行を捕へんとしければ、文行庭へ躍り下りたりければ、文行が郎等、君酔ひ給ひにけりとて、矢をはげて向ひければ、正輔が方人え捕へず、文行胡録負ひて、法住寺の内にて、馬に乗りて出でにけり。別当参りて申請けられければ、たびてけり。三日政所に候ひてゆりにけり。文行いひける、坂東のまうさなりせば、斯くはいたさゞらまし。京は口惜しき所なりといひて、東国にぞ下りける。其時此助けたりし郎等を殺してけり。彼日の事を、東国の人に聞かせじとなるべし。此事を、世の人よしあしは、未だ定めずとぞ。
白河院位の御時、山三井寺の大衆起りたりける頃、八幡行幸ありけるに、宣旨にて、【 NDLJP:157】下野前司義家仕うまつりけるに、本官なき物にて、殿の前駈をぞしたりける。還御の時、束帯を脱ぎて、衣冠にて胡録負ひて、御輿近く候らひけるに、胡録の後をば、腰の上より引廻したりけるをなん、見る人いみじきと賞めける。
嘉承元年の夏、世中騒がしくして、東西二京に死ぬる者多かりけり。其中に 所の御筆結能定、病附きて、七日といふに死にけり。櫃に入れて、黄なる衣覆ひて、人離れたる所に捨てつ。四日を経て、道行く人聞きければ、櫃の中に音しけり、怪しみて見るに、蘇りたり。水を飲ませて、彼が家に告げたりければ、妻子悦びて、連帰りて日頃経て、心地例ざまになりて語りける、死して後、恐ろしき者共我を追立てて、暗き野を行くに、此世にて見し人更になし。たゞ風の音水の音計り耳に聞ゆ。若き童子の我を知りたると覚しき、後に添ひてて離れず。閻魔王宮に至りて、二階の門を入る。冥官其数あり、壇の下には、罪人或は縛られ、或は首伽したる者共並居たり。遥に見上ぐれば、冠うへのきぬ着たる人卅余人、あぐらにつき並居たり。平緒はあれど太刀佩かず、我罪を判じて、地獄へ遣はす、かなへに入るゝに、此具したりつる童子、閻魔王に申さく、此人は寿限未だ尽きず、許さるべきなり。王是を聞かず。童子怒りて云く、閻王なりとも、争でか我がいはん事をば違ふべきとて、火を持ちて王宮を焼かんとす。煙みち〳〵て、王宮の内くれ塞がりぬ。此時王驚きて、冥官と共に、重ねて文を考ふるに、誠に命尽きず。王功徳を作り、罪を恐るべき由をいひて、此童に取らせつ。童子是を具して、故郷に帰る。大なる穴の口に至りて、我を押入ると思ふ程に、蘇へりけり。つら〳〵此事を思へば、年来不動を頼み奉りて本尊とす。生々加護の誓違はず、斯くし給ふ。尊くめでたき事、限りなしとぞいひける。
続古事談第五終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。