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続古事談 第三
 
 
臣節
 
宇治左府、妻戸の内に居て、大内記令明といふ博士、其前に候ひけるに、雑人の近く前を通りければ、制しけれども、猶過ぎけるを見て、此の令明さめと泣きければ、怪しみて問はれければ、申すやう、関白殿いとけなうおはしましゝ時は、雖制、雑人御前近く過ぐる事なかりき。今は制すれども猶用ひず、世の下れる事哀れにて泣く也とぞ申しける。誠にさる事なり。

民部卿大納言といふ人宰相にて、堀川の大臣に、途にあひにけり。宰相小野宮の説なりとて、車かけ外さず、唯抑へたりければ、大臣九条の説とて、前をおろされざりけり。其後はかけ外しけりとぞ。

左大弁経頼といふ人ありけり。五十に及びて、蔵人頭になりたりけるを、あながちに喜びければ、教恵座主といふ人諫めて云く、かく喜ばるゝこそ、無益の事と覚ゆれと誹りければ、此の人いふやう、是はよく案ぜられぬなり。天下の人、いくそばくぞ。公卿廿余人は論ぜず、其外たま貫首になれり。是れ大きなる喜びにあらずや。教恵のいふやう、是は大乗の観なり。兎角申すに及ばずとなむ。

道方の民部卿、頭左中弁とて、位階の上臈にてありけるに、各望み申しけるに、道方なるべしと聞きて、説孝、脇の陣の床子の座にて、南に向つて念じ入れたりけるに、夢の如く春日山を見て、頼もしく思ひて、道方にいふやう、争でか我を越え給ふべきとて、涙を拭ひたりければ、血の涙にて袖につきたりければ、道方恐をなして、此度はなるまじきよしを申してけり。此説孝は、左大弁迄なりたりけるに、三条院東宮の御時、み厨屋の事によりて、びむなく思召されたりければ、昇進叶はじとや思ひけん、弁を捨てゝ、播磨になりたりけり。

為房、宰相になりて喜び申しけるに、子孫六人、前駈したりけり。為隆・顕隆、中弁にオープンアクセス NDLJP:129てあり、重隆靱負佐なり。其外孫どもなり。其外孫どもなり。世の人、子孫繁昌殊の外なりとなむいひける。

宇治殿臨時客に、堀川右大臣尊者にて、事果てゝ出でられける時、兼頼・俊家・能長・基平、皆子孫なり。上達部にて出でられければ、まつを取りて前行せられけり。是れ又子孫繁昌と、人々申しけり。

鳥羽院大嘗会の御襖に、内大臣俄に服暇になりて、一大納言俊明節下を勤むべき由被仰けるを、江師洩り聞きて、五代太政大臣の子孫なる右大将(〈家忠〉)を措きて、受領経たる民部卿、此事を勤む。心得ずと、独りごちけるを、白川院聞かせ給ひて、げにとや思召しけん、右大将にあらため仰せられけり。江師に、誠にさやいはれけるかと人問ひければ、慥に覚えず、蔵人弁顕隆、物いひ悪き人なりとなむいらへける。

江師(〈匡房〉)歳十一にて、父成衡朝臣に具して、土御門大臣の御許に参りて、此春より詩を作るなりと申しけるを、猶疑ひて、雪裏見松貞といふ題を出して、作らせけるに、抄物切韻も具せず、筆を染めて、やがて書立てまつりければ、誠に優の事なりとて、此詩を内に持ちて参りて、御覧ぜさせられければ、叡感ありて、学問料給はりけり。是より名誉盛なりけり。

江家の書籍は、昔より焼失せず、匡房卿、二条高倉に倉を作りて、ふみ共を置きけるを、京中火災恐るべしと人申しければ、江師いひける、日本国失せずば、此文失すべからず。朝家失すべき期来らば、此ふみ失すべし。火災を恐るべからずとぞ。仁平の頃彼文皆焼けにけり。恐らくは其後朝家なきが如し。

殿上の逍遥は、代の始毎に必ずある事なり。鳥羽院より後絶えにけり。後冷泉院御時、経成の中納言、蔵人頭にてありけるに、殿上人を具して、六条斎院大膳職におはしましけるに、まづ参りて、夫より大井に向ひけるに、堀川右大臣御子左の民部卿(〈長家卿〉)より始めて、人々大宮近衛の御門に車立てゝ、見られけるに、経成うるさしとて、中御門より出でて、南さまに行きければ、人々車を馳せて騒ぎけり。経成なほ無愛の者なりとぞいひ合はれける。此経成をば荒者とて、頭の時も荒頭といひ、別当の時も荒別当とぞいひける。この度の逍遥の和歌の序を、式部大輔国成朝臣オープンアクセス NDLJP:130書きたるに、命黄頭而棹水郷と書きたりける。是も経成をいふなるべし。経信朝臣の歌に、あらしのやまと詠めるも、此心とぞ人申しける。此経成すくよかなる人にて、公事奉行許さゞりけり。

此人別当の時、上東門院、東北院作りて供養し給ひけるに、公家大赦行ひ給ひけり。別当此由を聞きて、人を遣して、獄にありける海賊三人が手足を斬りてけり。時の人、赦行はれずば、三人死なざらまし。大赦却りて死罪なりとぞ歎きける。

此経成は、宰相になりて後の年の冬、別当になりたりけり。中納言になりて、別当を辞して、次年亡せにけり。されば公卿の間十五年、別当にてありける。此人の祖父重光大納言も別当にて、十八年ありけり。此経成別当の時、三井寺の強盗の首浜人丸といふ童ありけり。死罪に行ふ。惟尊法橋罪業の由諫めければ、別当罪業なるまじき由、たびかへしいひければ、惟尊舌を巻きて帰りにけり。いとこはき人なるべし。

この人納言を望みける時、八幡に詣でて祈りけり。獄を治むる間、死罪に行ふ者、覚ゆる所卅人、是れ君の為めなり。其事道理を背かば、此度の所望叶ふべからず。若しことわりに背かずば、叶ふべしと申しけるに、中納言になりにけり。されば神明道理を捨て給はぬなるべし。八幡の別当戒信、語りけるなり。

大入道殿〔〈法興院兼家卿〉〕、摂政におはしける時、法住寺のおとゞより始めて、多くの上達部、一種物を具して、参り集まり給ひけり。兼て契ありけるなるべし。閑院の大将は、銀の鯉の腹の中に、こなまずふえこみ、折櫃に入れて、いれられたり。

小一条大将(〈済時〉)は、銀の鮨鮎の桶に、鮎を折櫃に入れて、いれられたり。左衛門督重光は、酒一瓶子雉一枝、春宮権大夫公季は銀の〔索イ〕餅、修理大夫懐遠爼、摂政殿の御儲あり。盃酌管絃ありて、人々の禄、随身のこしさし迄賜ひけり。右大臣自ら馬の綱取りて、出で給ひけり。

右大将通房〔〈宇治殿〉〕、臨時祭の舞人せられけるに、宇治殿にて、拍子合ありけるに、人々参り集りて、舞の師武方に纒頭せられけり。盃酌重なりて、人皆酔ひにけり。播磨守行任朝臣を殿上人の座に召して、酒のませられけるに、おほきなる鉢にて、十盃オープンアクセス NDLJP:131のみたりけり。事の外の大飲とぞ人々いひける。

昔は一の所の昼のおろしをば、女房、寝殿の妻戸口にて手を叩けば、六位の職事参りて取出でて、蔵人所の大盤に置きて、分け食ひけり。範永といひし人、勾当にて参りて、取りて帰りける程に、そり渡殿にて踏辷りて、さかさまに倒れて、散々に打散らしてけり。範永後にいひける、出家して失せなんとぞ覚えしと語りけり。

宇治殿平等院作りて、荘園寄せられける時、所々の米を少しづつ、長櫃の蓋に、砂子のやうに立列べて、其上に小さき蓋を作りて立てゝ、其所のよねと書きて、持ちて参りて、御覧ぜさせけるに、河内国玉櫛の荘の米、一によかりけり。

松殿(〈基房公〉)御時、内の女房、宇治に参りて遊びけるに、和歌会ありければ、人々あまた参りけるに、刑部卿重家朝臣あにおとゝ・清輔・季経など、一車にて参りける道にて、各いひける。宇治にては、水干装束を着合ひたるに、清輔おとなしき人にて、あやくずかみしもを着たりけるに、和歌の後、連歌あらむずらん。其時季経、あやくずをたてぬきに着る人なればといひたらんに、清輔けしきばみて、そばひら見廻して、此連歌は、清輔放ちては、誰かは附くべきとて、おりべのかみに之をなさばやと、附けむずるなりと、各約束し固めてけり。案の如く和歌の会果てゝ、人々連歌する時、約束のまゝ、季経あやくずをたてぬきに着る人なればといひ出でたるに、清輔、そばひら見けしきばみ、振舞はんとする程に、重家そばより、おりべのかみにこれをなさばやと附けたるに、清輔こは如何にと、支度違ひて、何となくおびえて、躍り上りたり。此事を知らぬ人は、何ともえ心得ず、怪しげに思ひたるに、あにおとゝ三人、此の次第を語りたるにぞ、其座の人々、腹をきりて笑ひ合ひたりける。一座の比興なり。此重家の朝臣、物をかしくいひて、斯様の座にていみじかりし人なり。今の世には、さる人更になし。其時白拍子の会ありけり。若千歳にぞありける。

六条摂政(〈基実〉)に、甲斐権守なにがしとかやいふ、なま君達ありき。御倉の預りしける侍の壻なり。東三条の上官の廓の北のつぼにて、馬を見給ふに、随身敦隆、ひきて参れり。人々少々北の縁に居たり。此権守が前にて、西に向つて、此馬高くあがりて、落立つ程に、前の足二をもて、此権守が左右の指貫の上をふまへつ。権守あオープンアクセス NDLJP:132わて騒ぎて、西枕に倒れ伏して、足をあがけども、馬ふまへて、やゝ久しくのかず。随身馬より下りて、引退けたるに、権守烏帽子横様になつて起上りて、浅ましき気色にて、立ちて罷りにき。左右の指貫は、馬の足形に、穴明きてぞありし。日の不祥とは、斯様の事にこそ。

宇治殿高陽院の歌合に、歌詠み人未定なりければ、兼長・経衡を召合せて、試みありけるに、持に定められけるに、兼長父の服暇になりて、経衡を入れられにけり。此人々うせて後、為仲朝臣陸奥守にてありける時、国より頼家が許へ、歌を詠みて送れりけるに、其上の人、残り止まる人、君と我となりといへり。頼家怒りて曰く、為仲、其上六人の中に入らず。斯くいふ事安からずとぞいひける。歌読六人とは、範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家、或は棟仲・経衡・義清・頼家・重成・頼実なり。

堀川右大臣(〈頼宗〉)、宇治殿の御前にて、和歌の事申しては、是は殿はえ知召さじ。頼宗こそ知りて侍れとて、板敷を扇にて叩かれければ、宇治殿笑ひ給ひけり。和歌の事は、自讃もあしからぬことにや。

土御門右府歌合せられけるに、棟仲、つゆつゝまると詠みたりけるを、かたきの方難じければ、棟仲、万葉集の歌といひて、当座によろしき歌を詠みて、証歌にいたしたりけり。後に彼の右府感じ給ひけり。此事を江帥いひけるは、心ばせはあれども、そら事は便なき事なりとぞ。

大殿(〈師実〉)、やよひのつごもりに、斎院に参り給ひて、次官惟実して、女房にたまはせけり。三月に閏月ありけるに、

   春はまだ残れるものを桜花しめの中には散りにけるかな

女房の返しありけり。

堀河院御時、内の女房、車あまた色々のきぬ出しこぼして、花みに花山へ向はれけり。さるべき上達部殿上人、馬車を列ねて相随ふ。女官少々、馬に乗りてさぶらひけり。栗栖野の辺にて、車あまたあり、花を折りて簾に挿したり。是を見て東さまに馳せうたれぬ。此人々の府生行高があるを遣して、誰ぞと問はれければ、行高馳せ着きて問へば、車より扇のつまを折りて、歌を書きてたびたりければ、是を取りオープンアクセス NDLJP:133て帰り参れり。此車なる肥後の君、返歌せられけり。花山に行着きて、人々まづまりをあげて、みぎりの本に畳敷きて、管絃ありけり。蔵人広房、題を出し序を書く。杯酌たびありて、俊頼朝臣連歌、

   けふをまちける山ざくらかな

師時朝臣つけて曰く、

   むれてくる大宮人やかざすとて

内へ帰り参りて、歌をかうじけり。さても途なりつる車を尋ね聞けば、中宮女房なりけり。いみじき事にぞ、世の人いひける。

式部少輔成佐といふ博士、在生の時、事善は無益の事なり。後世の為に、理観をこらすべきなりと、常にいひけり。死して後、菅登宣といひし者の夢に、かたちいみじく衰へて、くずの袴に青ばみたる衣を着てありければ、後世はいかにと問ひければ、三途を免かれずといひければ、平生の時たてられし義はいかにと問ひければ、閻魔王の疑問を得て、其義を述ぶるに能はずとなむいひける。生を隔てつれば、才学の者も、思ふ程の事いひ開き難きにこそ。哀れなる事なり。

堀河院の御時、五位蔵人にて、兵部大輔通輔といふ人ありけり。若くて失せにけり。其の人の子公明が夢に、詩を作りて、

   初受下地五濁浪〈[#返り点「一」は底本ではなし]〉  漸重上界三銖衣

父母千日の講を行ひて、後世を弔ひければ、其しるしにて、天上に生れけるにや。

堀河左大臣は、一上にて卅余年、八十にあまるまで、出家の心もなかりける人の八十七の年の春、人の諫にはあらで、俄に出家して、山に登りて、引繕ひて受戒して、其年の冬、僅に一両日悩みて失せにけり。其時華厳経の外題を書き、不軽品刹利居士懺悔如意輪経寿命経の終不堕三悪道の文を読まれければ、傍なる人問ひければ、年来の持経にて、思出でてとぞいはれける。さて手洗ひて、五色の糸ひきて、念仏卅返計り申して、息絶えにけり。此時紫雲家の上に覆へりけり。西ざまに棚びきけり。葬送の夜、いひ知らず香しき香満ちたりけり。決定往生の人なり。世の常に異なる道心なけれども、宿善ある人臨終には、斯るにこそ。めでたく尊き事なオープンアクセス NDLJP:134り。後年に、彼の家にて、人々如法経書きけるに、池の蓮皆赤き中に、白蓮花一茎咲きたりけり。不思議の事なり。此経書きける程に、出家の人十余人ありけり。功徳者に恥ぢずとぞ人いひける。

一条院御時、権中将成信・光少将重家といふ若き有職の殿上人ありけり。さそひ出でて、内裏より霊山寺に行きて、かしら下して、三井寺に向ひにけり。中将は年廿二、少将は廿五なり。時の左右大臣の御子なり。父の大臣各驚きさわぎて、三井寺に馳向ひ給ひけり。権中将は村上の御子、入道兵部卿親王(〈致平〉)の御子なりけり。一条左大臣(〈雅信〉)の女の御腹なり。左大臣殿(〈道長〉)の上の姉妹なり。是によりて左大臣、年頃子にし給へり。才学深からねども、心ばへ人に勝れたり。去りにし年の夏、左大臣殿、稍久しく悩み給ひし時、此中将、朝夕あとまくらに附添ひて、扱ひ奉る事怠らず。月重り日積りて、秋にも成行くに、仕うまつる人、或は看病の心倦み、或はいえ難き事を疑ひて、其志変り行くを見て、此中将、世のはかなく、人の心定めなき事を顧みて思ふやう、かばかり官位権勢双ぶ事なき御身だに、病をうけつれば、少しの益なく、二世の謀を失ふ。しかじ仏道に入らむにはと。是より世を厭ふ心を萌し初めしなりとぞ宣ひける。光少将は、右大臣顕光の独り子なり。村上第五の内親王(〈盛子〉)の御腹なり。此人も年頃此心ありけるを、中将と契をなして、同じく行きて、頭剃られにけり。善知識あへるなるべし。是より先に此中将、少将の、時々内より豊楽院に行きて、見廻りけり。人何の心と知らず。後に是を思ふに、彼所破れ傾ける事、恰も姑蘇台の如し。無常の観念を増して、弥発心を堅くせむためなるべし。出家の前の日、頭弁行成、外記の政事に就きて、暫し眠られける夢に、人ありて、ふみを取らせければ、誰がふみぞと問へば、権中将のふみといふ。夢心地に、出家の由告げたると思ひて、驚きにけり。さて中将に会ひて、夢を語られければ、中将笑ひて、正夢にこそ侍らめといひけり。日頃出家の心深き由を、此弁にも語られけるなり。

 
続古事談第三
 
 

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