粗忽の使者
粗忽の使者と云ふお話を申上げます、粗忽の者を使つて寄來すと云ふは誠に可笑樣ですが、昔は御大名方が御本丸へ御登城遊ばす時に、殿樣方が種々御自慢の御話を爲さいます ○「是は松平殿、御貴殿何にか面白いお話は御座らぬかな 松「左樣別に面白いと云ふ事も御座らんが、拙者は米を飯に致す事を存じ居るが、如何で御座るな ○「是は恐入り申した、シテ何う云ふ事を致すと米が飯になりますな 松「左樣先づ一升の米を水にて硏ぎまして、釜へ入れ水を入れ片手を入れて、水が是程あると一升の飯が出來ますが 紀州公「然らば二升の時は 松「左れば二升の時はエー兩の手を入れて、是れだけ水があれば二升の飯が出來申す 紀「然らば三升になると 松「三升の時は二本手を入れた上へ足を片ツぽふ入れまする 紀「然らば四升の時は 松「四升の時は二本の手を入れた上へ兩足を入れまする」抔と云ふて居られます、皆な殿樣方が御自慢話で持切る、其の中に 赤井御門守「松平殿、御貴公の御家來の內に何にか面白い人物は御座るまいか 松「されば別に面白いと申す程の者も御座らんが、極極粗忽にて物忘れを致す者が御座るが 赤井「夫は面白い、然らば其者を拙者の屋敷へ御使に御遣はしになるまいか 松「夫れは安い事、早速使に遺はしましよう」と殿樣同志で話が極つたのだが、遣られる人こそ宜ひ面の皮だ、殿樣御城から御歸りになると、直に御家來の粗忽者じぶ田次武衛門へ丸の內の赤井御門守樣へ使者を云ひ附けました、そんな事は少しも知らない、じぶ田次武衛門御玄關へ出て來て、モー直に馬丁と辨當と間違て 次武「コリやア辨當は居らんか、辨當〳〵と呼びますると馬丁は 馬「若し旦那辨當ではありますまゐ、馬丁ではありませんか 次武「如何にもベツ當であつた」と笑ふ 次武「拙者丸の內へ使者に參る、供の者は 馬「ヘイお供揃ひは出來て居ります 次武「左樣か、馬を是へふつぱつて參れ 馬「馬は最前から居ります 次武「コラ斯樣に小さい馬では乘れんではないか 馬丁「旦那馬鹿ア云つちやア叶ません、夫れは犬で 次武「成程馬は此處に居つたか」と馬に乘ましたが、是も反對に乘つて 次武「コリヤ馬丁此馬には頭がないぞ 馬丁「冗談云つちやア叶ません、首は後ろにありますヨ 次武「成程、氣の毒だが、其頭を取つて此方へつけて吳れ、馬丁「そんな事は出來ません 次武「此の馬は不自由だナ 馬丁「何處の馬だツて同じです 次武「夫では拙者が尻を持あげるから馬を廻せ 馬丁「馬鹿を云つては叶ません」とやう〳〵と馬を乘りかへてシト〳〵と遣つて參りましたのが、丸の內赤井御門守樣の御屋敷、御使者アーと云ふ觸れ込みで、使者の間へ通ると當家の重役で田中三太夫、御年輩の御方禿た頭の眞中に蜻蛉見たやうな髷をつけて、夫れへ參りまして 三「是は〳〵御使者御苦勞に存じます、拙者事は赤井御門守の家來田中三太夫と申す者、以後は御見知り置れて御別懇に願はしふ存じます 次武「コレは〳〵御叮嚀なる御挨拶、自分事はヱーソノ何んで御座る、松平まさめの正の家來、ヱーじぶ田次武ヱーソノじぶ田次武左衛門は手前が舍弟で御座る、ヱー其の手前事は、ヱーじぶ田次武右衛門と申す者、以後御見知り置れて御別懇に願ひまするで、なア 三「手前は田中三太夫で、而て御使者の御口上は 次武「ハイ、手前事は松平まさめの正の家來じぶ田次武右衛門と申しまする者、御見知り置れて御心安く願ひます 三「御名前の儀は兩三度伺ひましたが、シテ御使者の御口上は 次武「ハイ、是ははや困つた事が出來致して御座る、武士にあるまじき事で、當家の御座敷を拜借して切腹致さんければならん事が出來致しました、ハイ實は面目次第も御座らんが、使者の口上ぶち忘れたで御座る、切腹致すは最と安き事では御座るが、某も武士のはしくれ、イザ戰塲に於て殿の御馬前にて討死致すは望む處なれど、使者の口上ぶち忘れて切腹致すは殘念至極に御座りまする」ハラ〳〵と淚をこぼしました 三「夫は〳〵近頃御氣の毒千萬、何にとかして御思ひ出しになる御工夫は御座りますまいか 次武「ハイ、御親切なる御心添へ有難き仕合に存ずる 三「若し貴公には最前より頻りにいしきを御つめりになるやうであるが、夫れは何んの爲で御座るな 次武「ハイ、御見出しに預り面目なき次第であるが、まア一と通り御聞き下さい、拙者幼少の節に學問等を致す時に、能く物忘れを致す、スルと兩親が手前のこの尻をつめり吳れますると、痛ひ〳〵と心得て思ひ出した事が御座るテ、夫れが今に於て習慣と相成りまして、物忘れを致す度に此の尻をつめりますると、痛ひ〳〵と心得て思ひ出して御座る、武士は相身互ひ身、甚だ御無禮では御座るが、手前の尻を一寸御つめり下さらんか 三「何んと仰せらるゝ、貴公御幼少の節物忘れを致されると、御兩親が貴殿の尻をつめりますとか、夫れは何よりも安い事、御遠慮なく衣類を御まくり下さい、御つめり申しませう 次武「夫は千萬忝い、何分宜しく、甚だ失禮」と尻をまくる 三「サアつめりました、如何で御座らうな 次武「おつめり下さるか存ぜぬが一向に通じませんな 三「なか〳〵堅い御尻で御座いますな、是では如何で御座るな 次武「御つめり下さるか存ぜんが、恰で蠅のとまり居る樣で御座る 三「ムヽ是でも通じませんかな 次武「如何で御座らふ、御當家に指の先に力のある御家來がありませうならば、御撰み出しを願ひたいもので、左なくば此處を拜借して切腹致し度、此儀御許しを願ひまする 三「イヤ决して御短慮なされてはなりませんぞ、短慮功を爲さずと申す事も御座れば、只今同役共と相談の仕り、早速指の先に力のある者を是へ連れ參りますれば少しお控へ下されたい 次武「何分宜しく願ひ奉つる 三「委細承知仕る」と直に次の室へ退り、種々相談致して居りました、御話は變りまして、最前御使者の參りまする時、使者の室の此方に大工が仕事をして居りましたが、御使者と云ふので皆逃ましたが、其中に大工の留と云ふ人物が逃げそこねて、委細樣子を聞きまして、やう〳〵庭へ出て參りまして、一人でゲタ〴〵笑つて居りますから友達が、 熊「ヲイ留、何を笑つて居やアがるのだ、面白くもねエ 留「處がな皆な聞きねヱ、俺は可笑つて堪らねヱよ 熊「何んだ 留「他じやアねヱが、今日此の屋敷へ使者が來たらふ、其使者がヨ、先づ此方からは田中三太夫さんで、拙者事なんてヱもので御座いとやツつけるとな、其使者が妙な面をして田舍の言葉ヨ、手前事はヱーと云つて暫く考えて居て、やう〳〵松平まさめの家來、又ヱーと呻吟て、じぶ田次武左衛門は舍弟で、ヱーと呻吟やアがつて、又やう〳〵思ひ出して、じぶ田次武右衛門と申す者で御座る、とやう〳〵挨拶をするとな、田中の旦那が而て使者の口上はと聞くとな、使者の口上打ち忘れたと云つて、切腹をするから座敷を貸せと云ふのだ、 熊「ソイツは大變だ 留「マア聞けツてヱば、田中さんも大變に心配をして、何うか思ひ出す工夫はないかと聞くとな、へんてこな顏を爲ながら尻を自分でつめツて居るから、何う云ふ譯だと聞くと、使者が云ふには、子供の時に能く手習かなんかするに、物忘れ致し、其時に親父やお母が尻をつめツて吳れた、スルと痛い〳〵と思つて、思ひ出した事が御座るから、氣の氣だが三太夫さんに尻をつめツて吳れと賴んだのだ、三太夫さん宜しい遠慮なく尻をまくれと、尻をまくらして一生懸命でつめると、當人一向に通じませんと來るのだ、終には田中さんも額へ靑筋を出して、土手をかじつてつめつたが一向に通じませんだ 熊「オイ留公、土手と云ふのは何んだ 留「三太夫さんは齒が無いから土手じやアないか、夫れだからな餘り可哀想だから俺が是から往つて、一番尻をつめつてやらうと思ふのだ 熊「廢せよ、夫れだから汝の事をお煙草盆と云ふのだ、何んて云ふと人より先へ出たがる 留「默つて居ろ、ベラ棒め此方は是でも江戶子だ、人の困るのを見て居られるかイ、一番つめつて助けて遣るのだ、若し尻が堅くつて氣が付なければ、此の釘拔でつめつて遣るのだ、 熊「オイ無暗な事をするな 留「宜ひつて事よ」とヅカ〳〵と御中の口へ遣つて參りまして 留「ヘイ御免ねヱ 侍「コラ其方は職人體だが口が違やアせんか、此處は御中の口だぞ 留「ヘイ、違やアしません、一寸田中の旦那を呼で御吳なさいまし 侍「何に田中樣を、オー只今恰當是へ御出になつた 留「ヤア田中の旦那、只今は御骨折でアノ尻は餘程堅いかな 三「是は怪しからん奴じや、偖は其方御使者の室へ立寄たナ 留「イヱ旦那、實は皆なが逃ましたが、俺許り逃げそくなつてな、聞ともなしに聞きました、誠に氣の毒な侍だ、俺は孩兒の時から指の先に馬鹿に力があるのですから、俺に一番尻をつめらしてお吳なさいましな 三「馬鹿を云へ、當家の武士に力のある者がないと云つて、職人を賴んでつめらした抔と他人に聞れると御當家の外聞になる、左樣な事は叶ん 留「そんな事を云はずにつめらして御吳なせヱ、若し噓だと思ふなら今お前さんの尻をつめつて見やう 三「コレ何を致す、怪しからん奴だ、然し一寸此方へ上れ、少々相談を致すから 留「畏りました、乄々」と一と間へ上り込で參りました、田中さんは同役と種々御相談をなされて、夫れでは一ツ彼の者へ云ひ付けて見やう、と留公に向ひ 三「コレ職人 留「ヘイ 三「只今相談致した處が、急の事ゆへ一寸差支へるから、其方一ツつめつてくれ、當家の家來のつもりで、何分賴む宜ひか 留「ヘイ、やツつけますとも有難ヱ 三「其のやツつける抔とぞんざいな口をきいてはならぬ、成る丈ケ言葉を侍らしく致せヨ 留「ヘイ宜しふ御座ゐ、何んでも上へ御の字を附て、下へ奉るを附けたら宜らふ、今日は好御天氣で御座り奉つるとは何うだイ 三「第一侍になるには其頭では叶ぬ、御同役に一寸髮を結てもらヘ、夫れから印半纒を脫ぎコラ〳〵腹掛を取れ、其紋付の着物を着て、帶を乄ろ、ヱー然う下の方へ締ては叶ぬ、モツと上の方へ、夫れから其袴を穿のだが、袴を穿た事があるか 留「馬鹿にしちやア叶ねヱ、是れで二度目だ、一遍は親分の葬式の時に穿ましたヨ 三「何んと云ふがさつな奴だ、シテ其方の名前は何と云ふのだ 留「俺は留公と云ひます 三「只留公ではあるまい、留吉とか留次郞とか、留なんとか云ふのだらう 留「夫れがな、子供の內は留坊で、今では大槪留公、又人におごつてでも遣ると、留兄イ何んて云ひますぜ 三「シテ名字は何んと云ふな 留「何んだイ、其の名字なんて 三「困るなア、中村とか又田中とか何んとか名字があるだらう 留「夫れがネ、名字は確か大工だ 三「馬鹿大工と云ふ名字があるか、夫れでは宜しい、中村氏の御名前を拜借して中村留太夫と云ふ名になれ 留「夫れでは俺が留太夫でお前さんが三太夫、恰で伊勢のおしが二人出來上つた 三「拙者が只今彼方へ參り、其方次の間に控へて居れ、必ず失禮があつてはならんぞ 留「ヘイ宜しふ御座います」と是から三太夫さん、使者の間へ參りますると、使者は只茫然して居ります 三「御免、如何で御座るな、少しは思ひ出しになりましたかナ 次武「ハイ、是は〳〵拙者事は松平正目の正の家來じぶ田次武右衛門と申す者、以後は御見知り置れまして御別懇に願はしう存じます、テハアー 三「是は驚ろきました、拙者は最前より度々御目通りを致したる田中三太夫でお見忘れは恐れ入ります 次武「ヤア是は〳〵何んとも失禮、御見忘れ申した 三「如何で御座るナ、思ひ出しになりましたかナ 次武「何んで御座らふナ 三「イヱ御使者の口上を 次武「成る程然う〳〵遂失念致した 三「益々驚ろき入りました、小身者では御座りますが、中村留太夫と申す者、アレに控へ居りますが、如何致しませうや 次武「千萬忝けない事で、何分よろしく御願ひ奉つる事で 三「委細承知致した、御次に控へし中村留太夫、早々是へ、中村留太夫留太夫と呼びましたが 留「留公から無官で何うだイ俺の服裝は、黑紋付に袴穿、我ながら男が十段もあがりやアがつた、一番此の服裝で町內を步行て見てイものだ、何んて云やアがるだらふ、アラ留さん一寸御覽なさいヨ、眞實に立派な事だ、アー云ふ人を一ぺん亭主にして見たいは、と來るに相違ない、有難ひ 三「御次に控へし留太夫、コレ 留「オイ 三「コレ留太夫殿、是へ〳〵」と云はれて留公 留「眞平御免なせエ、 三「コレ失禮があつてはならん、叮嚀に致せ 留「宜しう御座り奉つる 三「只今申上げました中村留太夫に御座りまする 次武「是は〳〵始めて御面會を仕る、手前事は松平正目の正の家來じぶ田次武右衛門と申し、至つて不骨者、御見知り置れて御別懇に願ひまするで、はい 三「是れ留太夫、御挨拶をせんか 留「何んだイ、ゑへさつなんて、ヘイ宜ふ御座り奉つるヨ、御私事は御中村御留太夫樣と申し奉つる者で、御私樣の御指の先へ御力が御座り奉つるから、御前樣お尻樣を御つめり奉つる樣な譯で御座り奉つる、恐惶謹言 三「コラ〳〵何を申す」と留公の袖を引張ると 留「オイ然う袖を引張つては叶ねヱ、何んぼ借物でき切ると叶ねヱ 三「コラ〳〵と目で知らせますると、留公キヨロ〳〵しながら 留「御田中三太夫さん、是に御出奉つては御私樣が、御口が御聞き奉つらねエから早くあちらへ御引込み奉つれ 三「然らば失禮の無い樣に 留「宜しふ御座り奉つる」と三太夫さんは次の間へ引退りました 留「オイ御前さん、尻を早く御まくり奉つれ、オイ御まくり奉つれヨ 次武「何んと仰せられるか、何分判り兼まするテ 留「何んでも宜しふ御座り奉つるから、尻を御まくり奉つれヨ、オイ誰か其處を御覗き奉つて御笑ひ奉つるナ、御覗き奉つて困り奉つるヨ 次武「然らば失禮」と尻をまくると 留「何んだイ毛むくじやらな御尻樣で御座り奉つるな」と指にて使者の尻をつめつて 留「如何で御座り奉つるな 次武「御親切に御つめり下さるかは知らんが、一向に通じませんな 留「何うだイ、是では 次武「恰で蠅がとまり居る樣で御座る 留「何んだツて蠅がとまり居る樣で奉つるか、よし今度は一件だぞ」と懷中から釘拔を取り出し 留「オイ此方を御向き奉つては困り奉つるヨ、ソラ何うで御座り奉つるな」と釘拔にて尻をつめると 次武「是は早や餘程堪へますわイ 留「何んだ餘程堪へ奉つると來たナ、夫れ思ひ出し奉れ 次武「是は堪へ難のふ御座り奉つる 留「奉つると來たな、ヤレ、ヱンヤラヤアー 次武「オー痛々………留「ウントコラアー 次武「オーイタヽヽヽ 留「ヨイトコラアー 次武「オーイタヽヽヽ 留「ヤレ閻魔のこイ 次武「思ひ出して御座る、思ひ出して御座る」田中三太夫間の唐紙を排て 三「してお使者の御口上はナ 次武「ハイ、屋敷を出る折聞ずに參りました。