粉河寺


明石海人


 遠く高野山を望む紀の川のほとりのある古い町に、曾て私は疾を養つてゐた。西国三番の札所へ詣る道の両側に、古風な白壁の屋並をつらねてゐるその町はいつも蜜柑の香に染みてゐた。見わたす紫雲英田が囀りの音にけむる頃ともなれば、日毎白衣に鐸を振る巡礼の唄が賑ひ、やがてこの辺には珍らしいアカシヤの並木に白い房花が匂ひはじめる頃には、夜の間に獲つた紀の川の鮎が朝毎に笹の葉に載せてひさいで歩かれた「こないにしてゐたら気楽でよからうのし」町外れに自炊してゐる私の処へも、 ときに訪れる近在のお女将さんらしい鮎売の一人が、肩の籠を下しながらそんなことを言つて世智辛い世相をかこつたがその尻上りの音調が妙に私の郷愁を唆つた。

 中学へ入つてはじめての学期試験のとき、やはりこんな曇りの日の朝縁側で博物のノートをひろげてゐた事があつた。すだれ越しの庭先には、木蓮やゆすら梅などが青葉をひろげ、竹を編んだ垣根の向ふには、昔ながらの東海道が東西に延びてゐた。まだバスなどはなく幌馬車が喇叭を鳴らしながら駛ったり、荷馬車や荷車が時たま通るくらいなもので、やや広い道の両側には、敷いた砂利がいつまでも埋れずにのこされ、ところどころに草が生えてゐた。冬になると、街道添ひの農家では、道の真中だけ残し一面にむしろを敷きつらねて、籾を干すのであつた。私の家の垣根の外へも、近所のお内儀さんが、毎朝のやうに断りを言つては筵をひろげた。その日も蚕豆が黒い莢ごと干されてあつた。鮎売の言葉からなんとはなしにそんなことが思ひ出された。

 私の生活は至つて孤独であつた。隔日に医者へ行くほかには、一日中口をきかないやうなことも珍らしくなかつた。私は次第に人の言葉に渇いてゆき、路上や店先や停車場などで、男や女や老人や子供達の会話に耳を傾けたが、早口な関西弁でどこか馴染みがたく、どうかすると私を一層惨めな孤独に陥れた。さう云ふ会話の中から、時として故郷のアクセントが一節の銀髪のやうに流れて来るとき、それが停車場などだつたりすると私の感傷は猶更ときめいて、その人の後姿をいつまでもぼんやり見送つてゐる事もあつた。

 ある日貨車から積み卸される貨物の中に、生木綿の包装に青く印刷された故郷の町の精麦会社の名を見た。無造作に投げ出される袋が崩れるやうに、投げ出された儘の形でいしだたみの上に横たはると、ゴジママックの字劃が袋の脹らみに随つて軟らかにうねつてゐるのも物憂く眼に沁みて、いつか、その工場の四角な赤煉瓦の煙突や黒い板塀やそれに続く場末の風景から、はては親しい者の面影などがそれからそれへと思ひ出された。

 私はまたよくその古い大きな寺へ歩を向けた。仁王門の前には朱塗りの橋が架けられ、旗を掲げて甘酒を売る茶店もあつた。アメリカ移民の多い土地柄だけに、絵馬堂には戦利品の鉄砲や鋳びた日本刀などと並んで碧い服の人形や金門湾の写真やバンガロー風の住宅の前にぎこちない洋服姿を並べた写真などがかけならべてあつた。夏になるとその辺の老人や子守娘などが蟬時雨の中で昼寝をしてゐた。築山の竜舌蘭は岩角に怪奇な針を立て、秋晴の日には、銀杏の古木が鬼子母堂のあたり一面に明るい落葉を降らせた。「父母の恵は深き粉河寺」巡礼の歌声を聞き乍ら、老杉の樹立に深く余韻を曳く蒼古の鐘を撞き鳴らしたり、地面に輪を描く子供達の遊びに遠い憶ひを繰りながら、蜩の声がやみ、山門の提灯に灯の入るのも忘れてゐることもあつた。

 一夏妻が子供を伴れて訪れて来た。緋鯉や亀のゐるその寺の池の畔で、私達はよく時を過した。どうしてこんな処に来てゐるのかそんなことには何の屈托もなく、円い麩をちぎつては投げながら独りで興じてゐる子供の背に、私達は悲しい微笑を交した。日々は毒茸のやうに沓く美しく追憶の中へ潰えていつた。或る日、私達は寺の裏山にある見晴台へ登つた。既に青い実になつてゐる蜜柑畑の下には白壁の屋並が広がり、紀州富士と呼ばれる竜門の裾を環つてゆく夕靄の中に紀の川が一筋白く光つてゐる。何時癒るともないこの身の疾。瞬きはじめる星の光に、私は幼い日の譚の中のさまざまな奇蹟などを思つてゐた。妻はしきりに衣食の企てを語つた。

 また或る日、私は子供を連れて花の咲き初めた稲田のあひだをさまよひながら、とある池の畔へきた。岸につづく一面のうきくさは仄かな花を撒らし、池心は折からの風にか黝い水皺を立ててゐた。野蒜のびるの花を摘んでゐる子供の傍に立つて池の面を見てゐると、不意に吸ひ込まれるやうな戦きが閃く。私が今水の底へ落ちたらこの子はどうするであらう。すでに秋の気配を見せて荒涼たる風物の中に、ただ一つ動いてゐる吾が子の何と云ふかそけさ。併し子供は私の傍にゐると云ふだけで、見知らぬ国の、ほかに人影のない池の畔で、次第に迫つてくる夕闇のなかに何の不安もなく白い花を摘んでゐる。之が私の子として生れて来た小さい生命の生涯の姿なのではあるまいか。やがてどんなにか厳しい人生の孤独をさまよはねばならない運命なのであらう。未知の土地の池の畔で病める父と共に草の花を摘んでゐたこの夕べを、物心ついて後この子はどんな心で思ひかへすことであらう。幾日かの後別れ去れば、また会ふ日もはかられぬ父と子の縁のせめてものかたみに、この夕べの記憶なりとも残してをきたいひたぶるな思ひに、慌しく子の名を呼び、訝しく見上げる子を抱き上げ、ともすれば萍の中から誘ひかける水魔の眼を遁れるやうに、私は一散に堤の道を走つた。

 大和境の山々に葡萄の紫が玉を綴る頃、妻と子は故郷の町へ帰つて往つた。――その後再び相見る日もなくて私は盲ひて了まつたのだが。


「なに、ぢき快くなりませう」医師の言葉に暗い望みをかけて日ごと黄色い油剤を射つてゐたが、アカシヤの花が散り、紀の川の鮎が孕み、またアカシヤの花が散り、やがて高野の奥峰に雪が光る頃になつても何の験もなかつた。三度アカシヤの花が咲き、巡礼の鐸の音が賑ひ始める頃、私は新しい薬をもとめて、瀬戸の内海に臨む療院へ遷つて行つた。

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