筧の話
本文
編集- 私は散歩に出るのに二つの
路 を持っていた。一つは渓 に沿った街道で、もう一つは街道の傍から渓に懸 かった吊橋 を渡って入ってゆく山径 だった。街道は展望を持っていたがそんな道の性質として気が散りやすかった。それに比べて山径の方は陰気ではあったが、心を静かにした。どちらへ出るかはその日その日の気持が決めた。 - しかし、いま私の話は静かな山径の方をえらばなければならない。
- 吊橋を渡ったところから径は杉林のなかへ入ってゆく。杉の
梢 が日を遮 り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。ゴチック建築のなかをたどってゆくときのような、ひしひしと迫って来る静寂と孤独とが感じられた。私の眼はひとりでに下へ落ちた。径の傍 らには種々の実生 や蘚苔 、羊歯 の類がはえていた。この径ではそういった矮小 な自然がなんとなく親しく―彼らが陰湿な会話をはじめるお伽噺 のなかでのように、眺 められた。また径の縁には赤土の露出が雨滴にたたかれて、ちょうど風化作用に骨立った岩石そっくりの恰好 になっているところがあった。その削り立った峰の頂にはみな一つずつ小石が載っかっていた。ここへは、しかし、日が全く射 して来ないのではなかった。梢の隙間 を洩 れて来る日光が、径のそこここや杉の幹へ、蝋燭 で照らしたような弱い日なたを作っていた。歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんななかへ現われては消えた。なかには「まさかこれまでが」と思うほどの淡いのが草の葉などに染まっていた。試 しに杖 をあげて見るとささくれまでがはっきりと写った。 - この径を知ってから間もなくのころ、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかをことにしばしば歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも
氷室 から来るような冷気が径へ通っているところだった。一本の古びた筧 がその奥の小暗いなかからおりて来ていた。耳を澄まして聴 くと、幽 かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。私の期待はその水音だった。 - どうしたわけで私の心がそんなものに
惹 きつけられるのか。心がわけても静かだったある日、それを聞き澄ましていた私の耳がふとそのなかに不思議な魅惑がこもっているのを知ったのである。その後追いおいに気づいて行ったことなのであるが、この美しい水音を聴いていると、その辺 りの風景のなかに変な錯誤が感じられて来るのであった。香 もなく花も貧しいのぎ蘭がそのところどころ生 えているばかりで、杉の根方はどこも暗く湿っぽかった。そして筧といえばやはりあたりと一帯の古び朽ちたものをその間に横たえているに過ぎないのだった。「そのなかからだ」と私の理性が信じていても、澄み透 った水音にしばらく耳を傾けていうと、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、訝 かしい魅惑が私の心を充 たして来るのだった。 - 私はそれによく似た感情を、露草の青い花を眼にするとき経験することがある。
草叢 の緑とまぎれやすいその青は不思議な惑わしを持っている。私はそれを、露草の花が青空や海と共通の色を持っているところから起る一種の錯覚だと快く信じているのであるが、見えない水音の醸 し出す魅惑はそれにどこか似通っていた。 - すばしこく枝移りする小鳥のような不定さは私をいらだたせた。
蜃気楼 のようなはかなさは私を切なくした。そして深秘はだんだん深まってゆくのだった。私に課せられている暗欝 な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。束 の間の閃光 が私の生命を輝かす。そのたびに私はあっあっと思った。それは、しかし、無限の生命に眩惑 されるためではなかった。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかったのである。何という錯誤だろう!私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきり見ようとするとたん一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。 - 筧は雨がしばらく降らないと水が
涸 れてしまう。また私の耳も日によってはまるっきり無感覚のことがあった。そして花の盛りが過ぎてゆくのと同じように、いつのころからか筧にはその深秘がなくなってしまい、私ももうその傍に佇 むことをしなくなった。しかし私はこの山径を散歩しそこを通りかかるたびに自分の宿命について次のようなことを考えないではいられなかった。 - 「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」
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