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立花朝鮮記
 
豊臣秀吉公朝鮮御征伐の時西海南海之諸大名浮田秀家毛利輝元島津義久加藤清正黒田長政小西行長是等を先として宗徒之大名数拾人其勢拾三万余騎文禄元年正月に筑紫迄進発す同三月秀吉公東国北国すへて日本一州之人数拾万騎を率して肥前国名護屋に著陣し給ふ高麗へ向ふ人数之大将は浮田秀家毛利輝元両将たり先陣は加藤主計頭清正小西摂津守行長也各秀吉公之御下知を得て既に渡海して朝鮮に到り先手合に釜山海登萊之城を攻落せり其後諸将都へ進発之評議をなす秀家何も諸将に向て先此所迄著陣すこと太閤へ一左右を啓し其命に随て可働哉又此儘に都表へや進発せん各いかにと有けれは諸将僉議区々にして一決しかたし其時福島左衛門大夫正則進出て申されしは凡今度日本之地を離れ高麗之地に赴より始て命をは太閤に奉り骸を朝鮮の地に曝さんとこそ思ひ定て候へと申もおこかましく候得とも三千の兵一致して命を軽んする時は万軍敗るにやすしと云り況や是は十万余の人数なれは進て戦を決せんに何の不足かあらん各いかにと申されし時加藤主計頭進出て抑武具を肩に懸る者戦場に望んて誰か命を惜へきましてや今度は上古にも其例を聞さる朝鮮征伐の為に何も指向らるゝに其先陣を承たる某に候へは猶以今度の働大事にこそ覚え候我身命のすたる事は扨置進ましきに進みとゝまる間敷にとゝまり事を仕損したらんは上の御為又は末代日本の瑕瑾に非や評議といつは何も其てたてを一致せん為也福島殿の詞近頃傍若無人に候と申されしかは夫より互に異論におよひ既に事出来候はんとすれとも列坐の諸将穏便の沙汰にしかしと制して和順させしむ其時に小早川隆景立花左近将監宗茂に向て申されけるは御辺は既に秀吉公も西国一の武勇と仰らるゝ人に候へい若年たりといへとも其所存覆蔵なく申され候へと有時左近も再三辞退に及ひあかとも諸将各頻に申され候へと有しかは宗茂も辞退に不及所詮若輩の某申たる事少も事の用に立へきにて候はぬとも申さねは又却て貴命を軽んするに似て候へは愚意を可申にて候某手の虜に是より都迄の道の程相尋候得はまた杏々遠きよし申て候多人数は不日に集められぬものにて候若詮議不調都への発向遅々にせは大軍都へ馳集り是より向ふ道終ミチスカラ難所にて防候はゝ由々敷難義成へし一刻も早く都へ打入都にて合戦をも遂又は敵退かは王城を守りいか様にも評議然へう存候と申され候時何も至極に候去なから朝鮮の都へ人数いまた集るましき考や候と各申されけれは其事にて候大軍集りたらんには釜山海登萊をはしめ城々に少人数を籠へき理なく候大勢ならんには一定大軍を指向て防へきとこそ存候と申されけれは各此儀尤と同して滞留なく都へ進発す行長清正相好からすして数度同士軍せんとすされとも清正此軍終て帰朝の後行長事いか様重罪に行るへしとて家臣の憤をもやめて終に事をは仕出さゝりけり諸軍勢各進て都へ入に案のことく朝鮮の王李昭無勢にして防に便なく清正行長両道にわかりさきんして攻来るに李昭は義州と云所へ落その夫人王子は兀良哈ヲランカイと云所に落られしを清正是を追事数十日終に兀良哈ヲランカイより都への道咸鏡道を平けんとする所に敵兵前後を遮るといへとも一度も不覚をとらす行長は清正にさきんして都に入然ともさせる功もなし大明より朝鮮へ加勢の為勇兵オープンアクセス NDLJP:309三千余騎を遣はす秀吉公是を聞賜ひて又六万騎を渡海させしむ大明の援兵既に平壌の安定舘と云所まて競来る行長四千余騎を率て馳向ひ是を打敗る大明の帝王聞給ひて安からぬ事にや思はれけん李如松と云者に二十万騎を打添て朝鮮加勢の為に差向らるゝ道すから人数馳加て其勢五拾万におよへり行長か籠れる平壌の城を攻囲む行長労をつんて防といへとも猛勢退治する事叶すして郎従多く討せ其身は王城へ退く李如松利を得て開城と云所迄押来て王城に陣する日本の人数を攻んとす日本の諸将各評議して王城の門々に勢を分つて守しむ李如松大軍たりといへとも日本の兵機健成におそれてさうなく攻す王城の諸将は又かれか猛勢に気をのまれてかけらす斥候のせり合計也最初の先手は加藤遠江守前野但馬守たり両人相計て物見を出し敵のやうを見たるに日本の軍勢は多き時十万にこす事希なり近年秀吉の御人数こそ上古にも例なき大軍といへとも夫には猶増る四拾万に余る大軍なれは目もおよひかたき程也それによつて遠江守も但馬守も大に気をのまれて見えし所に敵勢の中より斥候を出すやうにして六七千堅固に備てかゝりけれは但馬守遠江守一さゝへもせす敗軍す是に依て諸将相計誰か先手仕て可然と詮議区也隆景申されけるは小勢にては候へとも立花左近将監宗茂こそ先を仕てあやまつましき仁と存候其故は元就か代に大友と合戦する事度々に及ひ勝負互に候ひし或時元就四万余騎を率して九州へ打出しに大友修理大夫義鎮三万余騎を師て筑前国多々良浜にして軍を八に分て戦しに大友か軍七重敗れ候処に左近親父伯耆守僅二三千騎にて六七千の敵を切崩し大友か勝利となる事九国中国に其かくれなく候されは左近将監宗茂は其子といひ身に取て希代の誉有上家来にはさこそ覚の者もあらんすれは立花か三千は余人の一万にもおとるましけれは只々左近将監殿然へう候其上太閤へ聞しめされるも宜しからんと存候と被申けれは諸侯此儀に同す左近申されけるは若輩の某かやうの大事の先手を仕事覚なく候併各御評議の上にて被仰付上は某能向て善悪に付然へき事にてこそ候はんすれは辞退をは仕間敷候さらんには但馬守遠江守ことくに我等は輙く引取候事罷成間敷候へは時宜により一戦仕へく候各無用と思しめさは家来許指出候はんと申されけれは諸将御辺出馬をせられすしては叶ひかたし去なから一戦をはしめらるゝ事は堅無用に候と再三申されけれは左うけ給候併敵取かけは是非なく一戦仕へく候と申さる各尤に候自然軍をはしめられは早速一左右を告らるへしとて衆議一決して各陣所にかへらる其後左近将監も陣屋に帰り一家の輩を集て宗茂か一命こそ今宵限りに成つれ旧功のよしみなれは各宗茂と一所に兎も角もこそ思はれんすれはよくしたゝめて夜の明るを待へし明朝大明朝鮮の大軍に向ひ一戦を決し十死一生の働をなし当家の興亡を究んとこそ思ひ定てあれ何もいかにと申されけれは小野和泉池辺龍右衛門内田忠兵衛十時但馬なと云者とも進出て天晴一期の思ひ出にて候へ日本の地を離高麗の地に骸をさらさん事こそ何自以本望にこそ候と何れも勇あへる中に小野和泉申けるは明日の軍こそ一定味方の勝利に成へきにて候其故は昨日被官をさし遣し味方のやうを見せ申候に但馬守殿遠江守殿の人数は働迄もなく只敵大勢成を見て敵相する者もなく崩立て引たるを慥に見届参候されは明日此方より斥オープンアクセス NDLJP:310候を出し敵のやうを窺は昨日のことく敵も斥候のやうにひそかに備を出し一戦をなすへきにて候さあらんには某か一手に誰にても一頭相添られ候へ旗本迄もなく某一手にて一戦を手いたふ仕候は輙敵をは追崩し候はん敵機を屈せは大軍たりとも必定打勝へく候若又仕損したらんには敵備をみたし追来たるへし其時中備御旗本にて押返し一戦をとけられは追来る敵をは輙く追はらはるへきにて候兎角某先手仕へきにて候と申けれは宗茂の一老なるうへ既に太閤も日本又内の七本の鑓柱と被仰程の和泉なれは誰あつて不及異儀宗茂も和泉か申所けにもとや思はれけん立花三左衛門と和泉を相備に立らる池辺龍右衛門進出て申けるは此小人数を日本の軍のことく備をあまたに分て敵対せは爰かしこに隔られあしかるへく候唯前中後三備にして然へく存候と申されけれは宗茂もさ思ふそとて先備は小野和泉立花三左衛門中備は十時伝右衛門後備は宗茂と如此定らるゝ処黒田長政其日南大門の守護也日暮て隆景陣所に来り宗茂をよひ明日一戦を決らるへきよし大に不宜候と申されけれは宗茂申されけるは所詮敵の色を見すして合戦仕へきとも仕間敷とも申かたく候明日罷出敵を見きり時宜によつてこそともかくも仕らんと申されけれは隆景も長政も尤に候左候はゝ自然合戦をはしめられんには早速告知らさるへしとて長政宗茂陣所に帰りぬ其夜丑の刻許に宗茂十時但馬森下備中と云者に足軽二三十人相添斥候の為に差出さるゝに敵は前日勝利を得て宵より勢を出し都近く押寄人数を爰かしこに伏置たり備中但馬流石武辺功者成によりはや其色をさとり少高き所にあかり鉄炮五六拾挺打はなさせしかは敵の伏勢大にさはく高き所に少森有陰に敵二三百人も伏てあらんと見えたるに態と鉄炮をはうたせす但馬備中四五十騎一度にかけ込けれは敵立足もなく敗北す其儘六七町引取すつはをとつて敵勢一万余り早天より押出人数を伏て相待候東白みに成候はゝ諸勢大軍にて続き申へきと存候早々御馬を出され敵の先勢を追払はるへうもや候と申送けれは其儘に宗茂人数を押出し都を三里計も出たらんと覚しかは日出けり敵合間近なり先陣既に鎗を合すると見えし処に中備の十時伝右衛門先備に唯一人懸込和泉に向て各は中備にくりかへられ先を某にせさせて給候へと申けれは和泉大に腹を立御辺軍法を破而已ならす何の覚有て此和泉を越て先せんとは申さるゝや思ひもよらすと申けれは伝右衛門泪を流し不覚に各を存候て申にては諸神も照覧是なく候敵は目に余る程の大軍にて候へはいかに各勇機を励れ候とも人の根機も左様につゝかぬものなれは貴辺両人の内一人もかけられは宗茂の備大によはるへきにて候某先を仕り善悪に付敵の備乱るゝ時各一戦とけられは一定味方の利蓮と存候此軍をはしめ今日は大かた日本高麗分目の軍と存候へは日本の為且は宗茂の為に候へは加様に申にて候そ八幡大菩薩私の軍功を立ん為にはあらすと申けれは和泉をはしめ各感涙をなかし備をくりかへ伝右衛門に先をさせたり先手敵に逢と一時に都へ合戦始めたるよし申送らる是によつて毛利輝元備前宰相小早川隆景を先として各人数を押出さる去程に宗茂は備を三にわけ我身は前に川をあて後に森をたよつて備たり先手と間を隔る事二十町計也敵勢二三千鉾矢に備て閑にかゝる先手八百余一面に円備合かゝりに閑にかゝる敵をつくとひとしく某(天野源右衛門)オープンアクセス NDLJP:311拾騎計かけよせて見候へは尺寸の間もなく堅備たる敵なれは馬を入へきやうなく既に引返さんとする処也十時伝右衛門内田忠兵衛と名乗て馬をかけよせ鑓を以て真先に扣へたる敵をなけつきにして其儘馬を乗込五六騎切て落す某も一所に乗込其外皆つゝいて馬を入七八十騎切落せは敵勢瞳と崩て引退処に左の方より敵二三千閑に備て攻かゝる何も此敵に馬の鼻を引むくる所に右の方森より敵二三千出来て閑にかゝる味方も是を見て左右に分て備を立る処にはしめ崩れたる敵の跡より又六七千騎急に責かゝるよつて三方の敵防かたく見ゆる所に伝右衛門惣勢を一所に集め敵近つかは間近に引受一方に向て戦はゝ三方の敵味方を小勢と見て取包むへし其時粉骨を尽し切ぬけ中備まて引とらい敵い己と三備一つに乱て追かゝるへし其時中備入替りて戦はゝ此敵は安く払はんするそとて一所に備て待かけたり間近く成しかは敵大筒を打かけ黒烟を立喚てかゝる味方の勢も気を屈せす左右の敵には目もかけす前よりかゝる敵六七千に一文字にかけ合しはらく戦へは左右よりかゝる敵一に成て跡を遮り攻寄時一時に取てかへし一文字に切ぬけ中備まて引取たり此時伝右衛門数多手を負て終に死す其外手負死人百余人也小野和泉入替て戦へとも敵は大軍といひ気に乗したる敵ゆへさうなく崩れす既にあやうく見ゆる処に宗茂二千余騎一度にかけ付其間三町計隔て鬨をとつとあけ左の方より横鑓にかゝるを見て敵陣一度に崩て引退宗茂八百余騎堅固に備て残る勢には追討にうたせらる敵を討事二千余人此時池辺龍右衛門をはしめとして究竟の手柄のものとも十余人戦死す其外手負死人二百余に及へり此戦卯の刻にはしまり巳の半程におはれり宗茂もふばし人馬のいきを休て扣へらる其時某(天野源右衛門)申せしは何も働前に候是に篠飯を持て候まいるましきやといへはいつれも功者の衆望なしといふ宗茂是を聞て是へ持来れと有時和泉に試をして進せらるへしとて差出せしを和泉丸飯一取て漸にくひたり宗茂は丸飯を三つ取て少もさはりなく其儘喰某も一つ取てくはんとするにくはれすして終に捨たり此時宗茂の器量よのつねならぬ事をしれりかゝる処に黒田甲斐守長政大谷刑部少輔吉隆両人来られ貴辺は少人数を以て以前も申せしことく数万の敵に向て合戦を決せらるゝ事不覚に候しかも跡勢もつゝかさるに只今の勝利驚入てこそ候へいか様敵は先勢を討せいかつて大勢押来らんなれは小勢といひ手負死人多けれい疾く引とらるへし一戦の功誰か是にまさるへく候御辺直に勝負を決せらるを見なから跡に扣しを臆したるとこそ思召るへけれとも八幡大菩薩左にはあらす御存知のことく我等は南大門の守護なれともしたしく申談る故自然卒爾の働もあらは相とゝめ申さん為人数をも残置二三十騎にて参り候本より此期に及て一所にともかくもとは存れとも流石に一国を領する長政か宗茂の旗につかんは口おしく存てこそ扣へ候つれ貴辺利なくは無勢たりとも某も一戦を決し一所に骸をさらさんと思定しに唯今の働感するに余り有事也と申さるゝ時吉隆申されけるは余り無勢成上いまた跡より来る勢一人も見えす理をまけて引るへしと再三申されけれは宗茂某人数余り競過程遠く敵を追行つれはいまた一人も引来らす某罷向て下知を加へ引取へし各は疾く御引有へしと申されけれは長政も御引有て人数を召具来るへしと吉隆申さるゝ時長政以前もオープンアクセス NDLJP:312申せしことく宗茂以前敵対仕らるゝ所に是非なく扣罷在さへ無念成に今又ひかんには末代長政か瑕瑾と存候間得こそ引間敷けれと申さる宗茂夫は余り成事也疾々御引あれと頻に申さる時さらは我等参申迄合戦をはしめらるへからす迚両人はかへられたり扨都より打出たる軍勢其日午時計に隆景を先として押来る日本惣勢の先陣は立花宗茂二陣は小早川隆景三陣は浮田秀家夫より段々に備たり敵のやうを見るに其あひ遠けれは分明には見えされとも先三十万余もあらんかと見えたり宗茂陣場のむかふ二里計隔て山のことくに少高所あり敵勢其所を押越時はくろみわたつてひとへに大山の茂りたるを見るかことし三陣秀家其勢三千計敵近つかは宗茂にさきんして一戦をなさんと進出て見えしか敵の大勢を見て引ともなく進ともなくためらふと見えしか四五町余退く此時毛利家の先手三備より宗茂へ軍使を以申けるは秀家の勢押出たるは定て先をせんとの為なるへし宗茂には今朝もいさき能一戦とけられつれは此方へ先をせさせ給はり候へ其上秀家と毛利は雌雄を争事なれは是非とも先を仕度候御免あれかしと申越れけれは宗茂手の者共今日の合戦には幾度も当手こそ先をすへけれ誰にか先をさすへき思ひもよろぬ事と申あひし時宗茂何も愚か成事をいふものかな私の功を思へはこそ前後の争もあれ勝利にさへなれは誰に先をせさせたりとも上の忠そかし苦からす其上彼者共先をして利を得ん事思ひよらす迚先をせらるへきよし返事せられけれは隆景の先手栗屋四郎兵衛手島一島井上五郎兵衛其勢三千余宗茂備の脇を押通足場を立て敵を待程なく敵も近つけり其勢二万余先立て五つに備たり敵の人数色くろみ備閑にしていきほひ殊之外見事也間近に成と拍子をそろへ太皷をならし大筒を打黒烟を立て押寄しに毛利家の先手一支もせす敗軍す其朝宗茂の先手十時伝右衛門小野和泉宗茂へ向て時分よく候と申せとも宗茂兎角の返事なく牀机にかゝり敵を見て居られたりしはし有て(天野)時分然へうもやと申時宗茂託睨み何をか知とて立もあかられす又しはし有て時分遅るへうもやと申時宗茂敵合少遠し其上毛利家の者とも足纒にならんすれは皆引とらせて高名不覚も紛ぬことく一手を以て鑓をせんするそと申されけれは和泉を始め尤と感して畏居たり漸しはらく有て時分能そとて立あかり此度は前後の備もなく三千余の勢一所に備先を望て一騎かけすな下知なきに矢をはなすなと堅く下知して足なみそろへて進たり敵は弥競かゝつて毛利家の者とも引払たる跡を備も乱さす閑に払てよせ来る宗茂勢の立様を見て敵少しらふて見えたり其合間近く成しかは鉄炮二百挺余入替三度うたせ敵勢いろめくやうに見ゆるとひとしく三千余騎ぬきつれてかけ入四五百騎一度に切落せは敵二万計立足もなく敗北す宗茂急に下知して追はせらる跡よりつゝく数万の敵勢同士崩に崩立て一支もせす敵踏止らんとするに入替々々切崩す事六ケ度也大きなる川有寒国故氷厚くはつて常に往還の者其上をわたる然るに大勢汗水に追なされて一度にかけ込けれは氷たまらすぬけて人馬水に溺て死する者幾千万と云数を知らすはしめ押渡る敵の惣勢二三十万騎もあらんと見えしか僅二三万騎に打なされ川向ひに四五騎にてひかへたる味方の中にかけ込這々の体にて引退くかゝる処浮田毛利家の人数も一二万騎程も押来る弥敵は敗北してけり是日本高麗の雌雄のオープンアクセス NDLJP:313合戦たり文禄二年正月廿六日の晩景に宗茂一手を以て日本の勝利となれり抑日本におゐて源平両家の争元弘建武の乱より以来勇剛の名将多しといへともいまた聞す四千にたらぬ兵を以三十万の敵を破ると云事を佞人有て宗茂の忠戦を蔽といへとも終に天命を得て速に上聞に達し感を得たり凡朝鮮におゐて軍忠の諸将多しといへとも他家は多人数を以てせり宗茂は小勢を以て諸将に抽て大功をなせり朝鮮一の働は加藤主計頭清正一の戦功は立花左近将監宗茂一の佞人は小西摂津守行長也朝鮮渡海の輩偏執の族は知らす誰か是をしらさるへき其後は宗茂させる敵に合されは異なる合戦もせさりき此比朝鮮軍の事とも区に沙汰すといへとも虚多く実すくなし皆賄賂によるかゆへなり其時は某(天野)宗茂の手に付渡海して諸家の事とも粗聞見しに此比の沙汰と大に相違せり然るに今寺沢志摩守所望に依て他家の事をは知す立花か軍の仕やうを書記後世いか成沙汰もあれ八幡薩埵私の増减無之者也

 天野源右衛門書出す書物也源右衛門事は方々武者修行仕たる者也

  延宝九載龍集辛酉春三月朔旦聴雨渉禿穎于浪華城存心軒下

                        梅林処士朱印  印文福住道祐

道祐奥書云

天野源右衛門貞成父安田大膳貞成幼名岩福事若州武田義頼初称安田作兵衛正義天正十年壬午廿一歳事明智光秀後改天野源右衛門貞成歴仕豊臣秀長卿森長一立花宗茂寺沢正成広高父子慶長八年卒歳四十二云々右貞成孫天野作兵衛貞能所語也

 天保五年十二月五日雇人令書写手狡了             伴信友

 此記高松侯御蔵本を以写由宇都宮高麗帰陣物語同

天保十二年八月十六日以津田氏蔵本一校              信友

件本奥書云                此本称朝鮮南大門合戦記

右之書原本柳川侯の臣井本藤太か所蔵也此書の作者天野源右衛門始は安田作兵衛と称し明智光秀か士也光秀逆心して本能寺を襲ひたる時先登して信長を鑓付たるは此作兵衛也秀吉一統の後九州に逃下り天野源右衛門と改名し立花家の寓客となり文禄中宗茂に属して朝鮮に渡海し戦功あり帰朝の後寺沢志摩守に仕へて八千石を領す此書は即志州の為に著す所也寺沢家断絶の後此書世に不伝僅に柳川諸士の家に存せるのみにして知る者なし余甞て大野武矩か回恩録を読て始て此書名を知れり仍て門人柳川侯の士某に頼み藩中を捜索せしめ漸にして一本を求得たり即喜て拱壁を獲たるか如し速に小高生に托して謄写せしむ別に校合すへき本なけれは誤字と覚る処あれとも一に皆原本に従へり此書の東国に伝いる事い全く余か戦記を僻好するの功とや云へき

 文化壬申秋                       清水正徳識


 明治三十五年一月再校                  近藤圭造

 
 

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