空󠄁家の怪



「その理由はお話したくもなく、又󠄂お聞きにならん方がよいかと存じますが」私は云つた。

「然し、あなた」果して、元検事は頰のこけた鬚だらけの頭に、神経質らしい眼をギロリと光らせながら、腹立しげに云つた。

「すつかり約束を取り定めて、それもあなたの方から望んで置きながら、いざ金の受渡をするばかりになつた時に、理由は云えぬが破談にするでは、私もそうですかと云つて引下るわけにはいかんです」

 私はこの元検事であつた白田から、彼の持家である郊外の一戸建三軒の家を買取る約束をしたのであつたが、ある理由で、急にそれを取消す為に、こうして彼を訪ねたので、彼の不機嫌なのも無理はなかつた。

「ご尤です」私は静ママに答えた。

「別に強いて隠す必要もありませんから、そう仰しやるなら、お話しいたしましよう。実は私はあの家について、面白くない噂を聞きましたのです」

「ふゝん」彼の口許に冷笑が現われた。

 私は先刻から主人の顔と縁に吊してある岐阜提燈とを等分に見ていた。提燈に電燈が入れてあつたのは、いかにも、この慾の深そうな主人にふさわしい趣味であつた。然し、木の香の高い新築の座敷は、広々と取り巻かれた庭から、夕立の後のさわやかな風を呼込んで中々居心地がよかつた。

「現在空家になつている端の家ですね」

 私は相手の顔付には一向無頓着で話をつゞけた。

「あの家に入つた人には、屹度祟りがあると云うじやありませんか」

「それだけの理由ですか」彼は意外と云う風であつた。

「えゝ、まあ、それだけの理由です。しかし、こうやつて伺うについては、噂の出所については充分調べたつもりです」

「はゝあ、どう云うことを調べられたのですか」

「十五六年前だそうですが、何某と云う、なんでも当峙は知識階級の殺人と云うので、騒がれた男があつたそうですね」

「あつたようです」

「その事件は本人は極力犯行を否認するし、弁護人も証拠不充分を力説したにも拘らず、遂に死刑になつたそうですね」

「あなたは何の為に、そう云う話をするのです」白田の声はやゝ鋭かつた。

「彼がかつて問題の家に住んでいたのです」

「え、彼が?」元検事は明かママに狼狽した。私は腹のうちで手をうつた。

「あなたは最近あの家を手に入れられたのですから、御存じないのも無理はないのですが、彼は法に問われるようになる少し前に、家族の者とあの家に引移つて佗住居をしていたのです。彼が死刑になつてからも、家族はまだ暫く住んでいました」

「本当かね」

「ほんとうですとも。この遺族たちは最後にはすつかり収入がなくなつて、みじめな生活をしたそうです。彼の母親はもう七十に近い高齢だそうですが、心労と貧乏とですつかり瘦せ衰えて、最後の息を引取る時には、半狂乱で係りの検事――名前は聞き洩らしましたが、母親は息子はなんの罪もないのに、その検事のために死刑にせられたのだと思いつめて、その検事を罵りつゞけて死んだのだそうで、実に物凄かつたと云います」

「そんな筈はない」彼は独語のように呟いた。顔色が少し変つたようであつた。

 しめたと私は思つた。私は一体堪え性がないので、笑いを嚙み殺して、こゝまで話すには随分骨が折れた。実は私はこゝへ一つの企みがあつて来たので、単に家を買う事を破談にする為にだけでなく一人の可哀相な老人を救ける為であつたのだ。

 私は学校を出てから数年しか経たない一青年会社員で、家族と云つては妻と一人の子供に過ぎなかつたし、借家住居が身分相当であり、又󠄂格別不都合な事もなかつたが、幸い死んだ父󠄁が、少しぱかりの遺産を残して置いて呉れたので、この頃の流行の群衆心理にかぶれて、郊外に自分の家を持ちたいとあせつたのであつた。で、私はいろな売手とその仲介人に逢つた。私はこの世の中に売手と仲買人とが無限にあるのは驚かざるを得なかつた。

 こうした売手の中に、或時、私は藤井と云う老人を見出した。紹介者が私の友人であつたし、彼が他の多くの悪賢い売手達と違つて、十分信頼の出来る人であつたので、私は可成打解けて話した。それに、始め私は彼の持家である郊外の三四軒の一群から、一軒だけ買う積りだつたのだが借地の関係から一軒だけ放すのが面倒な事になつたり、地代の事で地主と折合がつかなかつたり、又󠄂借家のうちに久しく家賃を払わない横着者がいたので、それを立退かせてからでなくては買えないと云うような事が起つたりして、この老持主とは、仲介人であつた友人の家で度々落ち合つた。時にはお互いに拙い碁を囲んだりした。で結局その家の売買は纏らなかつたが、藤井老人とはすつかり心易くなつて終つた。

 彼はその外見程は老けていなかつたらしい。もう大分薄くなつている頭髮をいつも短く刈つて、小肥りの背の稍低い老人であつた。丸い心もち赤い顔は時に彼を卑しく見せる事があつたが、全体から受ける感じは、如何にも善良な好々爺で、話す時には、対手をまともに見ないで、時々恥かしそうに上眼で覗つては、急いでチラと視線を外らすと云う風であつた。

 彼はなんでも彼の女房をひどく恐れているらしかつた。彼女は善良な彼が下らない金儲けに手を出しては、多くもない財産を減すママ度に彼を怒鳴りつけるらしかつた。彼は古い役所の測量手で、方々へ出張しては測量に従事したのであつた。彼はその零細な出張旅費を貯蓄しては――物価が今日とは比較にならぬ程安かつた時代だから、こうした事が出来たのであろう――だんだんに家作を買い込んだのだつた。彼が恩給がつくようになつて退職した時には、可成りの家作持になつていた。

 そうしてそれらの家作が、いつか、買い込んだ当時の数倍の値を持つようになつていた。だから彼は、もし、好い大家さんで収つているなら、衣食には十分な余裕があるのであつた。所が彼にはもつと金を儲けたいと云う慾望があつた。私は慾塑と云うより寧ろ趣味と云つた方が適切かと思う。何故なら暮しに少しも不自由のない、人を計るなどと云う事を、夢にも知りそうにないこの老人が、恐い女房からは叱責せられ、幾度かの失敗でさんざん酷い目に逢つて置きながら、どうしても相場に手を出す事を止めなかつたのは、単に金が欲しいと云う事だけではないように思えるからである。

 彼は相場に失敗しては、一軒ずつ彼の貸家を失つて行つた。――私に売ろうとしたのも、つまり相場の尻拭いであつた。彼はポツリポツリと私にいろの愚痴を話して聞かせた。彼は別に私に訴える積りで話すのではなかつたけれども、聞いている私はいかにも同情に耐えなかつた。終いにはなんだか滑稽に似た感じがする事があつた。

 或時、彼は私にその頃訴訟沙汰になつていた事件を話した。

 彼は例の如く差迫つた追敷の算段に困じて、一戸建三軒の家を抵当に三千円借りた――この家は矢張り郊外にあつたが、私の最初買おうとした家ではなかつた――所が、彼に云わすと相手が悪かつた。彼は家を抵当に金を借りた積であったが、正しくは借りたのではなかつた。彼は三千円で家を売つたのであつた。その代りに何月何日までに三千円持参すれば、いつでも売戾すと云う所謂戾し証がついていた。之は後に聞いた所によると、よくやる事だそうで、詰り抵当にとつただけでは、いろ油断のならぬ事があつて、対手次第では面倒な事が起るので、一旦買つた事にしておいて、その代りに、いつでも買値で売戾すと云う約束をして置くのである。こうすれば貸した方では安心していられるし――利子は家賃で十分出来る訳である借りた方では詰り抵当にしてあるのと同じ意味であるから、双方便利であると云うのである。で、藤井老人は対手が元検事であると云うので、すつかり信用して、先方の云うまゝに契約したのであつた。

 彼は約束の期限から二三日遅れて、三千円を買主の所へ持参した。別に先方から催促もなかつたし期限が二三日遅れると云う事はそう珍らしい事でもなし、喧しく云えば、延滞日歩を払えば好い位の考えで、白田――買主の名である――の所へ出かけたのであつた。所が元検事はしかつめらしい顔を一層しかつめらしくして、既に期限が切れた以上は戾し証は無効であると云つて、三百円を押し戾した。彼は事の意外に驚いた。元々抵当の積りであつたと云つて、売戾す事を再三嘆願した。然し白田は頑として聞き入れなかつた。こうして藤井老人は時価七千円の家作を旨々と三千円で買われて終つたのであつた。

 藤井老人は時価七千円のものを三千円で売る筈がないと云う事と、借家人は少しも持主の変つた事を知らずに、引続き彼に家賃を支払つていた事――之は元検事は彼に差配が依頼してあつたに過ぎないと抗弁した――などを挙げて訴訟を試み、一方では横領の刑事訴訟を起すなど、いろと骨を折つたが、丁度私と家の売買を交渉中に、すべてが無効である事が明かママになつた。

 老人はこの話を情けないような、悟つたような、諦めてはいるが、諦め切れないと云つたような表情で話した。私の青春の血は逆上した。私はこの老人に欠点があるにせよ、彼の家作をその真価の半分に充たない金額で騙し取りのようにした人間を憎まざるを得なかつた。

 私は直ぐに私の親友で、貧乏しながらも、いつでも弱い者の肩を持つて、押通している変り者の弁護士大島を訪ねた。

「ハ丶丶丶丶」彼は大きな口を開けて笑つた。

「よくある奴さ。仕方がないね。売つちやつたんだからね、時価だろうが、なかろうが知つた事じやないよ。戾し証は期限が切れりや無効なのは当然さ」

「然し、君、それは余り酷いじやないか」私は腹を立てた。

「常識で考えたつて、時価の半分にも足らぬ金で、他人に譲渡すママ馬鹿はないじやないか。こう云う気の毒な人を法の力で保護出来ないなんて事があるものか」

「駄目だよ。法律を知らない人の失策は、法律ではどうにもならんよ。そう云う横着な奴は、腕力でやつゝけてやれよ」

「それは無茶だ。君にも似合わんじやないか、第一なぐつたつて、家を返さなければ何にもならん」

「ふゝん。だから旨い智慧で取り返すさ。法律では歯に報いるに歯を以てする事は必ずしも禁じてないよ」

「――」私には意味が分らなかつた。

「騙されて盗られたものは、騙して取返しても必ずしも罪にはならんと云うのさ」彼は云つた。

 私は友人の言葉に暗示を得た。それから私は根気強く元検事白田の性行を調べた。そうして私は計らずも、彼が在職中にある無辜の人を死刑に陥れた事を知つた。無論、多少弁護士との間に感情の疎隔はあつたにしても、彼としても故意に陥れたのではなかつた。彼は種々の証拠からそう信じて、判官に最後の断案を下さしたのであつたが、後でその証拠が疑わしいものである事が判つた。それに彼の貪慾な性質が煩いして、彼は左遷せられ、やがて退職したのであつた。氷の如く冷か ママな彼も、この事件だけは酷く気にしていると云う事であつた。

 それから私は家の方を調べて、現在一軒だけ空家になつている事と、その家には兎角人がいつかないで、よく死人を出すと云う事で、近所の噂に上つている事を知つた。

 私は一計を案じた。やがて私は仲人を介して、今は白田の持家である元は藤井老人のものであつた三軒の家を買取る話を進めた。話が有利であつたので、元検事は大分乗気であつた。九分通り話の定つた時に、私は約束を取消しに出かけた。そうして既に述べたように彼に借家の因縁話を持ちかけたのである。

 私の計画は成功した。彼は私の話を大分気にし出したのである。

「それで今でも時々」私は続けた。

「真夜中に物凄い老婆の呻き声が聞えたり、頸にまざと紫がゝつた縄の跡のある男が恨めしそうに朦朧と出て来ると言う話です」

「もう沢山だ」彼は叫んだ。

「あなたはそんな取るに足らぬ風説で、私の持家にけちをつけようと云うのだね」

「どういたしまして、そんな積は少しもありません。ですから始めにお話したくないと云つたのです」

「そんな噂は少しも破談の理由にならない」

「然し、あの家へ越して来た人達が、続けて三度まで、這入ると間もなく死人を出したのは事実です」

「それは偶然です」

「成程それは偶然かも知れません。然し、現在私の見た事実はどうなりますか」

「あなたが?」彼は疑ぐり深い眼で私を見た。

 いよ本舞台に這入つて来た。思つたより容易く運んだので、こゝだと私は一層緊張した。私は低い底力のある声でゆつくりと話出した。

「昨日の昼の事です。私は近々私のものになる家の、中でもあの空家はもしかすると、私自身が這入る事になるかも知れないので、一層よく見て置きたいと思いまして、一人であの家に行つたのでした。昨日は御承知の通り、空に一点の雲もない天気でした。私はカン照りつける陽に汗がダクダクになりながら二畤頃でしたか、あの家の前に立つたのです。中をよく見ようと思つて来たのですが、近頃聞いた気味の悪い噂が何となく気になりまして、這入るのが変に躊躇せられるのです。暫く外に佇んでいましたが、終いには私の考えが馬鹿々々しくなつて来ました。フヽンと思わず自分を冷笑しながら、泥坊ママと間違われないように、一応隣りへ断つて置きまして、裏口へ廻ると、ガラリと雨戸を開きました。プーンと徽臭い、長く空家になつていた家特有の香が鼻を打ちます。私は思い切つて中へ踏み込みました。明るい所から急に這入つたので、暫くは眼潰しを喰つた人のようにボンヤリ立つていました。やがて眼が馴れて来ると、雨戸の隙や、節穴から洩れて来る白い光で、中は案外よく見えます。廊下から座敷の方へ歩いて行きますと、座敷の突当りの白い壁に、庭の立木が何本もハッキリと逆様に写つています。私がふとそれを眺めますと、不思議! その影がざわざわと動き出しました。そして、それらの影がだん寄つて、最後に一つになると見る間に、それが髮を長く振り乱した女の姿になつたじやありませんか。私はギョッとして、それでもじつともう一ぺん見詰めますと、壁の上には又元の通り、鮮かママに木の影が写つています。

 なあんだ、気の故かと思いましたが、もう座敷へ踏み込む勇気がありません。早鐘のように打つ胸を押えて,引返そうと思うとたんに、一種異様な低い呻き声が聞えたのです。私ははつと立すくんで、声のする方を見ますと、なんと叫んだか、どうして家を出たか、全で覚えていません。兎に角、球を転すように外へ飛出しました。むこうの部屋には瘦せ衰えた鬚だらけの男が、無念そうに凄い顔をして、ハッタと私を睨みつけていたのです。そして、その男の頸にはこの薄暗い閉された室の中で、ありと紫色の太い縊られた跡がついているのです。私はあんな恐しい眼に逢つたのは生れて始ママめてです」

「――」元検事は何とも云わなかつた。彼の眼には恐怖の色が現われていた。

 私はもう十分だと思つた。私は茫然としている彼を残して暇を告げた。

 賢明なる読者諸君の既に察して居られる通り、私が白田に話した所の物語は一二の事実を除く外、跡形もない作り事であつた。私はこの作り話を近所の噂に上らせるように、誠しやかに隣りの家の人にも話して置いた。然しこんな子供だましのような計画が成功するかどうか、甚だ心許ない次弟であつた。



 土用が開けても暑さは相変らず厳しかつた。私は次々と仲介人の持込んで来る売家の話で忙しかつたので、藤井老人の家の事は忘れるとはなしに、半月余りを送つたのであつた。所へ、或る朝ヒョッコリと藤井老人が訪ねて来た。彼は例の家が彼の手に戾る事を告げた。彼は相変らず私の顔を偸見ながら、遠慮勝に話したが、どことなく嬉しそうであつた。

「それは結構でしたね。じや訴訟が成功したんですね」

 私は案外容易く私の謀計が成就したのを喜びながら、そ知らぬ顔で聞いた。

「いゝえ、そうじやないのです」彼は答えた。

「一昨日白田さんに呼ばれましてね、私のやり方が酷かつたから勘弁して呉れと云うような事で、戾証通り三千円で戾して上げようと云うのです」

「へえ、そうでしたか。じやまあ、良心が咎めたとでも云うのでしようかね」

「そうらしいのです」

「何にしても結構でした」

 それから暫く藤井老人はもじしていたが、云い憎そうに口を切つた。

「つきまして折り入つてお願いがあるのですが、いかゞでしよう」一寸息をついで、ちらりと私を盗見ながら、

「その何です。訴訟のなんのと云つて騒いでいた時分には、ちやんと三千円を供託しまして、いつでも買戾せるようにしていたのですが、いよ駄目と極つて、すつかり諦めて終つてから、ついその金も使つて終つたのです。差当り三千円なければ、折角向こうが折れて来たのに、何んママにもならなくなるのですが、どうでしよう、一つあの家で一時三千円御融通願えませんでしようか。それとも相当の価で買つて頂ければそれに越した事はないのですが」

 私はもと家を買う積だつたし、いくらかの遊金は持つていたから、こゝで彼を助けてやらなければ、折角こゝまで漕ぎつけた甲斐がない、所謂仏作つて魂入れずと云う訳になるから、借りてもよし、又󠄂場合に依つては買つてもよし、兎に角彼の相談に乗る事にして、一度その家を見て置こうと云うので正午少し前、彼と共に家を出掛けた。

 問題の家は思つたよりしつかりした建て方で、古くはあつたが、見すぼらしくはなかつた。端の家は依然として空家であつたが、明るい感じのする小じんまりした家であつた。

 私はつい二週間程前に白田検事の前で喋つた事を思い出して、思わずニヤリとした。藤井老人が隣りへ断りに行つてる間に、ふと中へ這入つて見たくなつたので、裏口に廻つて、台所の硝子障子に手をかけて見るとガラガラと開いた。私は中へ這入つた。空家の中へ入ると云う事は何となく無気味なものである。座敷の閾を跨ぎながら、私はふと壁を見た。雨戸の隙間から無論日は洩れていたが壁には樹の影も何にも写つていなかつた。私は可笑しかつた。

 それから私は雨戸を開けようと思つて縁側に出た。その時である。私は向うの部屋から、確に、低い呻き声を聞いた。はつと私の血は逆流した。私はワナワナと震える手を握りしめながら、後を振り向いた。おゝ、そこには大きな男が恨めしそうな顔をして、こつちを睨んでいるではないか。そしてその頸には紫色の紐のあとがアリとついているではないか。

 私の足が私ママ身体を支󠄂える事が出来なくなつた。あたりが一層暗くなつた。然し、男の顔だけはハッキリいつまでも眼に写つていた。だんだん意識を失いかけた。

 突然アハヽヽヽと云う笑い声が聞えた。はてと我に返ると、友人の大島弁護士が私の傍に立つている。私は空家の施敷の一隅に蹲つていた。

「ハヽヽヽヽ。案外臆病だな、君は」彼は云つた。

「君は何かい。あの検事の古手が君の話位で閉口して、この家を素直に元の持主に返したと思つているのかい。お人好しだね。そんな生優しい検事さんじやないぜ。御自身で実地調査に当空家へ御出張の砒、僕が君を威かしたように、先生をやつつけなかつたら、どうして成功するものか。ハヽヽヽヽ。然し、僕も道楽とは云いながら、君が流布した噂を近所から聞き込んで、検事さんを威したり、今日は又󠄂藤井老人の後をつけて、君が一緒にやつて来るのを知つて、先廻りしたり、いやはや、随分苦心したぜ。ハヽヽヽヽ」

 彼は頸に巻いた紫色の風呂敷を外しながらこう云つた。

 いつの間に来たか、台所の入口で藤井老人が胡散そうに私等二人を見ていた。

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。