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- 註:この作品には、被差別部落民に対する蔑称が用いられています。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。
この書の世に出づるにいたりたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。労作終るの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまへにさゝぐ。
第壱章
(一)
蓮華寺では下宿を兼ねた。瀬川丑松が急に転宿を思ひ立つて、借りることにした部屋といふのは、其蔵裏つゞきにある二階の角のところ。寺は信州下水内郡飯山町二十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古刹で、丁度其二階の窓に倚凭つて眺めると、銀杏の大木を経てゝ飯山の町の一部分も見える。さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前に見るやうな小都会、奇異な北国風の屋造、板葺の屋根、または冬期の雪除として使用する特別の軒庇から、ところ/″\に高く顕れた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光景が香の烟の中に包まれて見える。たゞ一際目立つて此窓から望まれるものと言へば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建築物であつた。
丑松が転宿を思ひ立つたのは、実は甚だ不快に感ずることが今の下宿に起つたからで、尤も賄でも安くなければ、誰も斯様な部屋に満足するものは無からう。壁は壁紙で張りつめて、それが煤けて茶色になつて居た。粗造な床の間、紙表具の軸、外には古びた火鉢が置いてあるばかりで、何となく世離れた、静寂な僧坊であつた。それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に映つて、妙に佗しい感想を起させもする。
今の下宿には斯ういふ事が起つた。半月程前、一人の男を供に連れて、下高井の地方から出て来た大日向といふ大尽、飯山病院へ入院の為とあつて、暫時腰掛に泊つて居たことがある。入院は間もなくであつた。もとより内証はよし、病室は第一等、看護婦の肩に懸つて長い廊下を往つたり来たりするうちには、自然と豪奢が人の目にもついて、誰が嫉妬で噂するともなく、『彼は穢多だ』といふことになつた。忽ち多くの病室へ伝つて、患者は総立。『放逐して了へ、今直ぐ、それが出来ないとあらば吾儕挙つて御免を蒙る』と腕捲りして院長を脅すといふ騒動。いかに金尽でも、この人種の偏執には勝たれない。ある日の暮、籠に乗せられて、夕闇の空に紛れて病院を出た。籠は其儘もとの下宿へ舁ぎ込まれて、院長は毎日のやうに来て診察する。さあ今度は下宿のものが承知しない。丁度丑松が一日の勤務を終つて、疲れて宿へ帰つた時は、一同『主婦を出せ』と喚き立てるところ。『不浄だ、不浄だ』の罵詈は無遠慮な客の口唇を衝いて出た。『不浄だとは何だ』と丑松は心に憤つて、蔭ながらあの大日向の不幸を憐んだり、道理のないこの非人扱ひを慨いたりして、穢多の種族の悲惨な運命を思ひつゞけた――丑松もまた穢多なのである。
見たところ丑松は純粋な北部の信州人――佐久小県あたりの岩石の間に成長した壮年の一人とは誰の目にも受取れる。正教員といふ格につけられて、学力優等の卒業生として、長野の師範校を出たのは丁度二十二の年齢の春。社会へ突出される、直に丑松はこの飯山へ来た。それから足掛三年目の今日、丑松はたゞ熱心な青年教師として、飯山の町の人に知られて居るのみで、実際穢多である、新平民であるといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
『では、いつ引越していらつしやいますか。』
と声をかけて、入つて来たのは蓮華寺の住職の匹偶。年の頃五十前後。茶色小紋の羽織を着て、痩せた白い手に珠数を持ち乍ら、丑松の前に立つた。土地の習慣から『奥様』と尊敬められて居る斯の有髪の尼は、昔者として多少教育もあり、都会の生活も万更知らないでも無いらしい口の利き振であつた。世話好きな性質を額にあらはして、微な声で口癖のやうに念仏して、対手の返事を待つて居る様子。
其時、丑松も考へた。明日にも、今夜にも、と言ひたい場合ではあるが、さて差当つて引越しするだけの金が無かつた。実際持合せは四十銭しかなかつた。四十銭で引越しの出来よう筈も無い。今の下宿の払ひもしなければならぬ。月給は明後日でなければ渡らないとすると、否でも応でも其迄待つより外はなかつた。
『斯うしませう、明後日の午後といふことにしませう。』
『明後日?』と奥様は不思議さうに対手の顔を眺めた。
『明後日引越すのは其様に可笑いでせうか。』丑松の眼は急に輝いたのである。
『あれ――でも明後日は二十八日ぢやありませんか。別に可笑いといふことは御座ませんがね、私はまた月が変つてから来つしやるかと思ひましてサ。』
『むゝ、これはおほきに左様でしたなあ。実は私も急に引越しを思ひ立つたものですから。』
と何気なく言消して、丑松は故意と話頭を変へて了つた。下宿の出来事は烈しく胸の中を騒がせる。それを聞かれたり、話したりすることは、何となく心に恐しい。何か穢多に関したことになると、毎時もそれを避けるやうにするのが是男の癖である。
『なむあみだぶ。』
と口の中で唱へて、奥様は別に深く掘つて聞かうともしなかつた。
(二)
蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤務の儘の服装で居る。白墨と塵埃とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下駄穿、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞恥――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹匠町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。『彼処へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か』と言つたやうな顔付をして、酷しい軽蔑の色を顕して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅猿しくもあり、腹立たしくもあり、遽に不愉快になつてすたすた歩き初めた。
本町の雑誌屋は近頃出来た店。其前には新着の書物を筆太に書いて、人目を引くやうに張出してあつた。かねて新聞の広告で見て、出版の日を楽みにして居た『懴悔録』――肩に猪子蓮太郎氏著、定価までも書添へた広告が目につく。立ちどまつて、其人の名を思出してさへ、丑松はもう胸の踊るやうな心地がしたのである。見れば二三の青年が店頭に立つて、何か新しい雑誌でも猟つて居るらしい。丑松は色の褪せたズボンの袖嚢の内へ手を突込んで、人知れず銀貨を鳴らして見ながら、幾度か其雑誌屋の前を往つたり来たりした。兎に角、四十銭あれば本が手に入る。しかし其を今茲で買つて了へば、明日は一文無しで暮さなければならぬ。転宿の用意もしなければならぬ。斯ういふ思想に制せられて、一旦は往きかけて見たやうなものゝ、やがて、復た引返した。ぬつと暖簾を潜つて入つて、手に取つて見ると――それはすこし臭気のするやうな、粗悪な洋紙に印刷した、黄色い表紙に『懴悔録』としてある本。貧しい人の手にも触れさせたいといふ趣意から、わざと質素な体裁を択んだのは、是書の性質をよく表して居る。あゝ、多くの青年が読んで知るといふ今の世の中に、飽くことを知らない丑松のやうな年頃で、どうして読まず知らずに居ることが出来よう。智識は一種の饑渇である。到頭四十銭を取出して、欲いと思ふ其本を買求めた。なけなしの金とはいひ乍ら、精神の慾には替へられなかつたのである。
『懴悔録』を抱いて――買つて反つて丑松は気の衰頽を感じ乍ら、下宿をさして帰つて行くと、不図、途中で学校の仲間に出逢つた。一人は土屋銀之助と言つて、師範校時代からの同窓の友。一人は未だ極く年若な、此頃準教員に成つたばかりの男。散歩とは二人のぶら/\やつて来る様子でも知れた。
『瀬川君、大層遅いぢやないか。』
と銀之助は洋杖を鳴し乍ら近いた。
正直で、しかも友達思ひの銀之助は、直に丑松の顔色を見て取つた。深く澄んだ目付は以前の快活な色を失つて、言ふに言はれぬ不安の光を帯びて居たのである。『あゝ、必定身体の具合でも悪いのだらう』と銀之助は心に考へて、丑松から下宿を探しに行つた話を聞いた。
『下宿を? 君はよく下宿を取替へる人だねえ――此頃あそこの家へ引越したばかりぢやないか。』
と毒の無い調子で、さも心から出たやうに笑つた。其時丑松の持つて居る本が目についたので、銀之助は洋杖を小脇に挾んで、見せろといふ言葉と一緒に右の手を差出した。
『是かね。』と丑松は微笑みながら出して見せる。
『むゝ、「懴悔録」か。』と準教員も銀之助の傍に倚添ひながら眺めた。
『相変らず君は猪子先生のものが好きだ。』斯う銀之助は言つて、黄色い本の表紙を眺めたり、一寸内部を開けて見たりして、『さう/\新聞の広告にもあつたツけ――へえ、斯様な本かい――斯様な質素な本かい。まあ君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。はゝゝゝゝ、よく君の話には猪子先生が出るからねえ。嘸かしまた聞かせられることだらうなあ。』
『馬鹿言ひたまへ。』
と丑松も笑つて其本を受取つた。
夕靄の群は低く集つて来て、あそこでも、こゝでも、最早ちら/\灯が点く。丑松は明後日あたり蓮華寺へ引越すといふ話をして、この友達と別れたが、やがて少許行つて振返つて見ると、銀之助は往来の片隅に佇立んだ儘、熟と是方を見送つて居た。半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕餐の煙は町の空を籠めて、悄然とした友達の姿も黄昏れて見えたのである。
(三)
鷹匠町の下宿近く来た頃には、鉦の声が遠近の空に響き渡つた。寺々の宵の勤行は始まつたのであらう。丁度下宿の前まで来ると、あたりを警める人足の声も聞えて、提灯の光に宵闇の道を照し乍ら、一挺の籠が舁がれて出るところであつた。あゝ、大尽が忍んで出るのであらう、と丑松は憐んで、黙然として其処に突立つて見て居るうちに、いよ/\其とは附添の男で知れた。同じ宿に居たとは言ひ乍ら、つひぞ丑松は大日向を見かけたことが無い。唯附添の男ばかりは、よく薬の罎なぞを提げて、出たり入つたりするところを見かけたのである。その雲を突くやうな大男が、今、尻端折りで、主人を保護したり、人足を指図したりする甲斐々々しさ。穢多の中でも卑賤しい身分のものと見え、其処に立つて居る丑松を同じ種族とは夢にも知らないで、妙に人を憚るやうな様子して、一寸会釈し乍ら側を通りぬけた。門口に主婦、『御機嫌よう』の声も聞える。見れば下宿の内は何となく騒々しい。人々は激昂したり、憤慨したりして、いづれも聞えよがしに罵つて居る。
『難有うぞんじます――そんなら御気をつけなすつて。』
とまた主婦は籠の側へ駈寄つて言つた。籠の内の人は何とも答へなかつた。丑松は黙つて立つた。見る/\舁がれて出たのである。
『ざまあ見やがれ。』
これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であつた。
丑松がすこし蒼ざめた顔をして、下宿の軒を潜つて入つた時は、未だ人々が長い廊下に群つて居た。いづれも感情を制へきれないといふ風で、肩を怒らして歩くもあり、板の間を踏み鳴らすもあり、中には塩を掴んで庭に蒔散らす弥次馬もある。主婦は燧石を取出して、清浄の火と言つて、かち/\音をさせて騒いだ。
哀憐、恐怖、千々の思は烈しく丑松の胸中を往来した。病院から追はれ、下宿から追はれ、其残酷な待遇と恥辱とをうけて、黙つて舁がれて行く彼の大尽の運命を考へると、嘸籠の中の人は悲慨の血涙に噎んだであらう。大日向の運命は軈てすべての穢多の運命である。思へば他事では無い。長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となつたまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じやうな量見で、危いとも恐しいとも思はずに通り越して来たものだ。斯うなると胸に浮ぶは父のことである。父といふのは今、牧夫をして、烏帽子ヶ嶽の麓に牛を飼つて、隠者のやうな寂しい生涯を送つて居る。丑松はその西乃入牧場を思出した。その牧場の番小屋を思出した。
『阿爺さん、阿爺さん。』
と口の中で呼んで、自分の部屋をあちこち/\と歩いて見た。不図父の言葉を思出した。
はじめて丑松が親の膝下を離れる時、父は一人息子の前途を深く案じるといふ風で、さま/″\な物語をして聞かせたのであつた。其時だ――一族の祖先のことも言ひ聞かせたのは。東海道の沿岸に住む多くの穢多の種族のやうに、朝鮮人、支那人、露西亜人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違ひ、その血統は古の武士の落人から伝つたもの、貧苦こそすれ、罪悪の為に穢れたやうな家族ではないと言ひ聞かせた。父はまた添付して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希望、唯一つの方法、それは身の素性を隠すより外に無い、『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅はうと決して其とは自白けるな、一旦の憤怒悲哀に是戒を忘れたら、其時こそ社会から捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのである。
一生の秘訣とは斯の通り簡単なものであつた。『隠せ。』――戒はこの一語で尽きた。しかし其頃はまだ無我夢中、『阿爺が何を言ふか』位に聞流して、唯もう勉強が出来るといふ嬉しさに家を飛出したのであつた。楽しい空想の時代は父の戒も忘れ勝ちに過ぎた。急に丑松は少年から大人に近いたのである。急に自分のことが解つて来たのである。まあ、面白い隣の家から面白くない自分の家へ移つたやうに感ずるのである。今は自分から隠さうと思ふやうになつた。
(四)
あふのけさまに畳の上へ倒れて、暫時丑松は身動きもせずに考へて居たが、軈て疲労が出て眠て了つた。不図目が覚めて、部屋の内を見廻した時は、点けて置かなかつた筈の洋燈が寂しさうに照して、夕飯の膳も片隅に置いてある。自分は未だ洋服の儘。丑松の心地には一時間余も眠つたらしい。戸の外には時雨の降りそゝぐ音もする。起き直つて、買つて来た本の黄色い表紙を眺め乍ら、膳を手前へ引寄せて食つた。飯櫃の蓋を取つて、あつめ飯の臭気を嗅いで見ると、丑松は最早嘆息して了つて、そこ/\にして膳を押遣つたのである。『懴悔録』を披げて置いて、先づ残りの巻煙草に火を点けた。
この本の著者――猪子蓮太郎の思想は、今の世の下層社会の『新しい苦痛』を表白すと言はれて居る。人によると、彼男ほど自分を吹聴するものは無いと言つて、妙に毛嫌するやうな手合もある。成程、其筆にはいつも一種の神経質があつた。到底蓮太郎は自分を離れて説話をすることの出来ない人であつた。しかし思想が剛健で、しかも観察の精緻を兼ねて、人を吸引ける力の壮んに溢れて居るといふことは、一度其著述を読んだものゝ誰しも感ずる特色なのである。蓮太郎は貧民、労働者、または新平民等の生活状態を研究して、社会の下層を流れる清水に掘りあてる迄は倦まず撓まず努力めるばかりでなく、また其を読者の前に突着けて、右からも左からも説明して、呑込めないと思ふことは何度繰返しても、読者の腹の中に置かなければ承知しないといふ遣方であつた。尤も蓮太郎のは哲学とか経済とかの方面から左様いふ問題を取扱はないで、寧ろ心理の研究に基礎を置いた。文章はたゞ岩石を並べたやうに思想を並べたもので、露骨なところに反つて人を動かす力があつたのである。
しかし丑松が蓮太郎の書いたものを愛読するのは唯其丈の理由からでは無い。新しい思想家でもあり戦士でもある猪子蓮太郎といふ人物が穢多の中から産れたといふ事実は、丑松の心に深い感動を与へたので――まあ、丑松の積りでは、隠に先輩として慕つて居るのである。同じ人間であり乍ら、自分等ばかり其様に軽蔑される道理が無い、といふ烈しい意気込を持つやうになつたのも、実はこの先輩の感化であつた。斯ういふ訳から、蓮太郎の著述といへば必ず買つて読む。雑誌に名が出る、必ず目を通す。読めば読む程丑松はこの先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな気がした。穢多としての悲しい自覚はいつの間にか其頭を擡げたのである。
今度の新著述は、『我は穢多なり』といふ文句で始めてあつた。其中には同族の無智と零落とが活きた画のやうに描いてあつた。其中には多くの正直な男女が、たゞ穢多の生れといふばかりで、社会から捨てられて行く光景も写してあつた。其中には又、著者の煩悶の歴史、歓し哀しい過去の追想、精神の自由を求めて、しかも其が得られないで、不調和な社会の為に苦みぬいた懐疑の昔語から、朝空を望むやうな新しい生涯に入る迄――熱心な男性の嗚咽が声を聞くやうに書きあらはしてあつた。
新しい生涯――それが蓮太郎には偶然な身のつまづきから開けたのである。生れは信州高遠の人。古い穢多の宗族といふことは、丁度長野の師範校に心理学の講師として来て居た頃――丑松がまだ入学しない以前――同じ南信の地方から出て来た二三の生徒の口から泄れた。講師の中に賤民の子がある。是噂が全校へ播つた時は、一同驚愕と疑心とで動揺した。ある人は蓮太郎の人物を、ある人はその容貌を、ある人はその学識を、いづれも穢多の生れとは思はれないと言つて、どうしても虚言だと言張るのであつた。放逐、放逐、声は一部の教師仲間の嫉妬から起つた。嗚呼、人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』で殺される猶太人もなからうし、西洋で言囃す黄禍の説もなからう。無理が通れば道理が引込むといふ斯世の中に、誰が穢多の子の放逐を不当だと言ふものがあらう。いよ/\蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に別離を告げて行く時、この講師の為に同情の涙を流すものは一人もなかつた。蓮太郎は師範校の門を出て、『学問の為の学問』を捨てたのである。
この当時の光景は『懴悔録』の中に精しく記載してあつた。丑松は身につまされるかして、幾度か読みかけた本を閉ぢて、目を瞑つて、やがて其を読むのは苦しくなつて来た。同情は妙なもので、反つて底意を汲ませないやうなことがある。それに蓮太郎の筆は、面白く読ませるといふよりも、考へさせる方だ。終には丑松も書いてあることを離れて了つて、自分の一生ばかり思ひつゞけ乍ら読んだ。
今日まで丑松が平和な月日を送つて来たのは――主に少年時代からの境遇にある。そも/\は小諸の向町(穢多町)の生れ。北佐久の高原に散布する新平民の種族の中でも、殊に四十戸ばかりの一族の『お頭』と言はれる家柄であつた。獄卒と捕吏とは、維新前まで、先祖代々の職務であつて、父はその監督の報酬として、租税を免ぜられた上、別に俸米をあてがはれた。それ程の男であるから、貧苦と零落との為め小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかつた。丑松が根津村の学校へ通ふやうになつてからは、もう普通の児童で、誰もこの可憐な新入生を穢多の子と思ふものはなかつたのである。最後に父は姫子沢の谷間に落着いて、叔父夫婦も一緒に移り住んだ。異つた土地で知るものは無し、強ひて是方から言ふ必要もなし、といつたやうな訳で、終には慣れて、少年の丑松は一番早く昔を忘れた。官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、たゞ先祖の昔話としか考へて居なかつた位で。
斯ういふ過去の記憶は今丑松の胸の中に復活つた。七つ八つの頃まで、よく他の小供に調戯はれたり、石を投げられたりした、其恐怖の情はふたゝび起つて来た。朦朧ながらあの小諸の向町に居た頃のことを思出した。移住する前に死んだ母親のことなぞを思出した。『我は穢多なり』――あゝ、どんなに是一句が丑松の若い心を掻乱したらう。『懴悔録』を読んで、反つて丑松はせつない苦痛を感ずるやうになつた。
第弐章
(一)
毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛りの少年の群は、一時に溢れて、其騒しさ。弁当草履を振廻し、『ズック』の鞄を肩に掛けたり、風呂敷包を背負つたりして、声を揚げ乍ら帰つて行つた。丑松もまた高等四年の一組を済まして、左右に馳せちがふ生徒の中を職員室へと急いだのである。
校長は応接室に居た。斯人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草の烟は丁度白い渦のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
斯校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶したいと言ふのが斯人の主義で、日々の挙動も生活も凡て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾としか思はなかつた。是主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌を授与されたのである。
丁度その一生の記念が今応接室の机の上に置いてあつた。人々の視線は燦然とした黄金の光輝に集つたのである。一人の町会議員は其金質を、一人は其重量と直径とを、一人は其見積りの代価を、いづれも心に商量したり感嘆したりして眺めた。十八金、直径九分、重量五匁、代価凡そ三十円――これが人々の終に一致した評価で、別に添へてある表彰文の中には、よく教育の施設をなしたと書いてあつた。県下教育の上に貢献するところ尠からずと書いてあつた。『基金令第八条の趣旨に基き、金牌を授与し、之を表彰す』とも書いてあつた。
『実に今回のことは校長先生の御名誉ばかりぢや有ません、吾信州教育界の名誉です。』
と髯の白い町会議員は改つて言つた。金縁眼鏡の議員は其尾に附いて、
『就きましては、有志の者が寄りまして御祝の印ばかりに粗酒を差上げたいと存じますが――いかゞでせう、今晩三浦屋迄御出を願へませうか。郡視学さんも、何卒まあ是非御同道を。』
『いや、左様いふ御心配に預りましては実に恐縮します。』と校長は倚子を離れて挨拶した。『今回のことは、教育者に取りましても此上もない名誉な次第で、非常に私も嬉敷思つては居るのですが――考へて見ますと、是ぞと言つて功績のあつた私ではなし、実は斯ういふ金牌なぞを頂戴して、反つて身の不肖を恥づるやうな次第で。』
『校長先生、左様仰つて下すつては、使に来た私共が困ります。』
と痩せぎすな議員が右から手を擦み乍ら言つた。
『御辞退下さる程の御馳走は有ませんのですから。』
と白髯の議員は左から歎願した。
校長の眼は得意と喜悦とで火のやうに輝いた。いかにも心中の感情を包みきれないといふ風で、胸を突出して見たり、肩を動つて見たりして、軈て郡視学の方へ向いて斯う尋ねた。
『どうですな、貴方の御都合は。』
と言はれて、郡視学は鷹揚な微笑を口元に湛へ乍ら、
『折角皆さんが彼様言つて下さる。御厚意を無にするのは反つて失礼でせう。』
『御尤です――いや、それではいづれ後刻御目に懸つて、御礼を申上げるといふことにしませう。何卒皆さんへも宜敷仰つて下さい。』
と校長は丁寧に挨拶した。
実際、地方の事情に遠いものは斯校長の現在の位置を十分会得することが出来ないであらう。地方に入つて教育に従事するものゝ第一の要件は――外でもない、斯校長のやうな凡俗な心づかひだ。曾て学校の窓で想像した種々の高尚な事を左様いつ迄も考へて、俗悪な趣味を嫌ひ避けるやうでは、一日たりとも地方の学校の校長は勤まらない。有力者の家なぞに、悦びもあり哀みもあれば、人と同じやうに言ひ入れて、振舞の座には神主坊主と同席に座ゑられ、すこしは地酒の飲みやうも覚え、土地の言葉も可笑しくなく使用へる頃には、自然と学問を忘れて、無教育な人にも馴染むものである。賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ。
帽子を執つて帰つて行く人々の後に随いて、校長はそこ迄見送つて出た。軈て玄関で挨拶して別れる時、互に斯ういふ言葉を取替した。
『では、郡視学さんも御誘ひ下すつて、学校から直に御出を。』
『恐れ入りましたなあ。』
(二)
『小使。』
と呼ぶ校長の声は長い廊下に響き渡つた。
生徒はもう帰つて了つた。教場の窓は皆な閉つて、運動場に庭球する人の影も見えない。急に周囲は森閑として、時々職員室に起る笑声の外には、寂しい静かな風琴の調がとぎれ/\に二階から聞えて来る位のものであつた。
『へい、何ぞ御用で御座ますか。』と小使は上草履を鳴らして駈寄る。
『あ、ちよと、気の毒だがねえ、もう一度役場へ行つて催促して来て呉れないか。金銭を受取つたら直に持つて来て呉れ――皆さんも御待兼だ。』
斯う命じて置いて、校長は応接室の戸を開けて入つた。見れば郡視学は巻煙草を燻し乍ら、独りで新聞を読み耽つて居る。『失礼しました。』と声を掛けて、其側へ自分の椅子を擦寄せた。
『見たまへ、まあ斯信濃毎日を。』と郡視学は馴々敷、『君が金牌を授与されたといふことから、教育者の亀鑑だといふこと迄、委敷書いて有ますよ。表彰文は全部。それに、履歴までも。』
『いや、今度の受賞は大変な評判になつて了ひました。』と校長も喜ばしさうに、『何処へ行つても直に其話が出る。実に意外な人迄知つて居て、祝つて呉れるやうな訳で。』
『結構です。』
『これといふのも貴方の御骨折から――』
『まあ其は言はずに置いて貰ひませう。』と郡視学は対手の言葉を遮つた。『御互様のことですからな。はゝゝゝゝ。しかし吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦も御察し申す。』
『勝野君も非常に喜んで呉れましてね。』
『甥がですか、あゝ左様でしたらう。私の許へも長い手紙をよこしましたよ。其を読んだ時は、彼男の喜ぶ顔付が目に見えるやうでした。実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』
郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとしたので。尤も席順から言へば、丑松は首座。生徒の人望は反つて校長の上にある程。銀之助とても師範出の若手。いかに校長が文平を贔顧だからと言つて、二人の位置を動かす訳にはいかない。文平は第三席に着けられて出たのであつた。
『それに引換へて瀬川君の冷淡なことは。』と校長は一段声を低くした。
『瀬川君?』と郡視学も眉をひそめる。
『まあ聞いて下さい。万更の他人が受賞したではなし、定めし瀬川君だつても私の為に喜んで居て呉れるだらう、と斯う貴方なぞは御考へでせう。ところが大違ひです。こりやあ、まあ、私が直接に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向つて、まさかに其様なことが言へもしますまいが――といふのは、教育者が金牌なぞを貰つて鬼の首でも取つたやうに思ふのは大間違だと。そりやあ成程人爵の一つでせう。瀬川君なぞに言はせたら価値の無いものでせう。然し金牌は表章です。表章が何も難有くは無い。唯其意味に価値がある。はゝゝゝゝ、まあ左様ぢや有ますまいか。』
『どうしてまた瀬川君は其様な思想を持つのだらう。』と郡視学は嘆息した。
『時代から言へば、あるひは吾儕の方が多少後れて居るかも知れません。しかし新しいものが必ずしも好いとは限りませんからねえ。』と言つて校長は嘲つたやうに笑つて、『なにしろ、瀬川君や土屋君が彼様して居たんぢや、万事私も遣りにくゝて困る。同志の者ばかり集つて、一致して教育事業をやるんででもなけりやあ、到底面白くはいきませんさ。勝野君が首座ででもあつて呉れると、私も大きに安心なんですけれど。』
『そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有さうなものですがなあ。』と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。
『方法とは?』と校長も熱心に。
『他の学校へ移すとか、後釜へは――それ、君の気に入つた人を入れるとかサ。』
『そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧くやらないと――あれで瀬川君はなか/\生徒間に人望が有ますから。』
『さうさ、過失の無いものに向つて、出て行けとも言はれん。はゝゝゝゝ、余りまた細工をしたやうに思はれるのも厭だ。』と言つて郡視学は気を変へて、『まあ私の口から甥を褒めるでも有ませんが、貴方の為には必定御役に立つだらうと思ひますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいといふ積りだ。一体瀬川君は何処が好いんでせう。どうして彼様な教師に生徒が大騒ぎをするんだか――私なんかには薩張解らん。他の名誉に思ふことを冷笑するなんて、奈何いふことがそんならば瀬川君なぞには難有いんです。』
『先づ猪子蓮太郎あたりの思想でせうよ。』
『むゝ――あの穢多か。』と郡視学は顔を渋める。
『あゝ。』と校長も深く歎息した。『猪子のやうな男の書いたものが若いものに読まれるかと思へば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年の身をあやまる原因なんです。その為に畸形の人間が出来て見たり、狂見たやうな男が飛出したりする。あゝ、あゝ、今の青年の思想ばかりは奈何しても吾儕に解りません。』
(三)
不図応接室の戸を叩く音がした。急に二人は口を噤んだ。復た叩く。『お入り』と声をかけて、校長は倚子を離れた。郡視学も振返つて、戸を開けに行く校長の後姿を眺め乍ら、誰、町会議員からの使ででもあるか、斯う考へて、入つて来る人の様子を見ると――思ひの外な一人の教師、つゞいてあらはれたのが丑松であつた。校長は思はず郡視学と顔を見合せたのである。
『校長先生、何か御用談中ぢや有ませんか。』
と丑松は尋ねた。校長は一寸微笑んで、
『いえ、なに、別に用談でも有ません――今二人で御噂をして居たところです。』
『実はこの風間さんですが、是非郡視学さんに御目に懸つて、直接に御願ひしたいことがあるさうですから。』
斯う言つて、丑松は一緒に来た同僚を薦めるやうにした。
風間敬之進は、時世の為に置去にされた、老朽な小学教員の一人。丑松や銀之助などの若手に比べると、阿爺にしてもよい程の年頃である。黒木綿の紋付羽織、垢染みた着物、粗末な小倉の袴を着けて、兢々郡視学の前に進んだ。下り坂の人は気の弱いもので、すこし郡視学に冷酷な態度が顕れると、もう妙に固くなつて思ふことを言ひかねる。
『何ですか、私に用事があると仰るのは。』斯う催促して、郡視学は威丈高になつた。あまり敬之進が躊躇して居るので、終には郡視学も気を苛つて、時計を出して見たり、靴を鳴らして見たりして、
『奈何いふ御話ですか。仰つて見て下さらなければ解りませんなあ。』
もどかしく思ひ乍ら椅子を離れて立上るのであつた。敬之進は猶々言ひかねるといふ様子で、
『実は――すこし御願ひしたい件が有まして。』
『ふむ。』
復た室の内は寂として暫時声がなくなつた。首を垂れ乍ら少許慄へて居る敬之進を見ると、丑松は哀憐の心を起さずに居られなかつた。郡視学は最早堪へかねるといふ風で、
『私は是で多忙しい身体です。何か仰ることがあるなら、ずん/\仰つて下さい。』
丑松は見るに見かねた。
『風間さん、其様に遠慮しない方が可ぢや有ませんか。貴方は退職後のことを御相談して頂きたいといふんでしたらう。』斯う言つて、軈て郡視学の方へ向いて、『私から伺ひます。まあ、風間さんのやうに退職となつた場合には、恩給を受けさして頂く訳に参りませんものでせうか。』
『無論です、そんなことは。』と郡視学は冷かに言放つた。『小学校令の施行規則を出して御覧なさい。』
『そりやあ規則は規則ですけれど。』
『規則に無いことが出来るものですか。身体が衰弱して、職務を執るに堪へないから退職する――其を是方で止める権利は有ません。然し、恩給を受けられるといふ人は、満十五ヶ年以上在職したものに限つた話です。風間さんのは十四ヶ年と六ヶ月にしかならない。』
『でも有ませうが、僅か半歳のことで教育者を一人御救ひ下さるとしたら。』
『其様なことを言つて見た日にやあ際涯が無い。何ぞと言ふと風間さんは直に家の事情、家の事情だ。誰だつて家の事情のないものはありやしません。まあ、恩給のことなぞは絶念めて、折角御静養なさるが可でせう。』
斯う撥付けられては最早取付く島が無いのであつた。丑松は気の毒さうに敬之進の横顔を熟視つて、
『どうです風間さん、貴方からも御願ひして見ては。』
『いえ、只今の御話を伺へば――別に――私から御願する迄も有ません。御言葉に従つて、絶念めるより外は無いと思ひます。』
其時小使が重たさうな風呂敷包を提げて役場から帰つて来た。斯のしらせを機に、郡視学は帽子を執つて、校長に送られて出た。
(四)
男女の教員は広い職員室に集つて居た。其日は土曜日で、月給取の身にとつては反つて翌の日曜よりも楽しく思はれたのである。茲に集る人々の多くは、日々の長い勤務と、多数の生徒の取扱とに疲れて、さして教育の事業に興味を感ずるでもなかつた。中には児童を忌み嫌ふやうなものもあつた。三種講習を済まして、及第して、漸く煙草のむことを覚えた程の年若な準教員なぞは、まだ前途が長いところからして楽しさうにも見えるけれど、既に老朽と言はれて髭ばかり厳しく生えた手合なぞは、述懐したり、物羨みしたりして、外目にも可傷しく思ひやられる。一月の骨折の報酬を酒に代へる為、今茲に待つて居るやうな連中もあるのであつた。
丑松は敬之進と一緒に職員室へ行かうとして、廊下のところで小使に出逢つた。
『風間先生、笹屋の亭主が御目に懸りたいと言つて、先刻から来て待つて居りやす。』
不意を打たれて、敬之進はさも苦々しさうに笑つた。
『何? 笹屋の亭主?』
笹屋とは飯山の町はづれにある飲食店、農夫の為に地酒を暖めるやうな家で、老朽な敬之進が浮世を忘れる隠れ家といふことは、疾に丑松も承知して居た。けふ月給の渡る日と聞いて、酒の貸の催促に来たか、とは敬之進の寂しい苦笑で知れる。『ちよツ、学校まで取りに来なくてもよささうなものだ。』と敬之進は独語のやうに言つた。『いゝから待たして置け。』と小使に言含めて、軈て二人して職員室へと急いだのである。
十月下旬の日の光は玻璃窓から射入つて、煙草の烟に交る室内の空気を明く見せた。彼処の掲示板の下に一群、是処の時間表の側に一団、いづれも口から泡を飛ばして言ひのゝしつて居る。丑松は室の入口に立つて眺めた。見れば郡視学の甥といふ勝野文平、灰色の壁に倚凭つて、銀之助と二人並んで話して居る様子。新しい艶のある洋服を着て、襟飾の好みも煩くなく、すべて適はしい風俗の中に、人を吸引ける敏捷いところがあつた。美しく撫付けた髪の色の黒さ。頬の若々しさ。それに是男の鋭い眼付は絶えず物を穿鑿するやうで、一時も静息んでは居られないかのやう。これを銀之助の五分刈頭、顔の色赤々として、血肥りして、形も振も関はず腕捲りし乍ら、談したり笑つたりする肌合に比べたら、其二人の相違は奈何であらう。物見高い女教師連の視線はいづれも文平の身に集つた。
丑松は文平の瀟洒とした風采を見て、別に其を羨む気にもならなかつた。たゞ気懸りなのは、彼新教員が自分と同じ地方から来たといふことである。小諸辺の地理にも委敷様子から押して考へると、何時何処で瀬川の家の話を聞かまいものでもなし、広いやうで狭い世間の悲しさ、あの『お頭』は今これ/\だと言ふ人でもあつた日には――無論今となつて其様なことを言ふものも有るまいが――まあ万々一――それこそ彼教員も聞捨てには為まい。斯う丑松は猜疑深く推量して、何となく油断がならないやうに思ふのであつた。不安な丑松の眼には種々な心配の種が映つて来たのである。
軈て校長は役場から来た金の調べを終つた。それ/″\分配するばかりになつたので、丑松は校長を助けて、人々の机の上に十月分の俸給を載せてやつた。
『土屋君、さあ御土産。』
と銀之助の前にも、五十銭づゝ封じた銅貨を幾本か並べて、外に銀貨の包と紙幣とを添へて出した。
『おや/\、銅貨を沢山呉れるねえ。』と銀之助は笑つて、『斯様にあつては持上がりさうも無いぞ。はゝゝゝゝ。時に、瀬川君、けふは御引越が出来ますね。』
丑松は笑つて答へなかつた。傍に居た文平は引取つて、
『どちらへか御引越ですか。』
『瀬川君は今夜から精進料理さ。』
『はゝゝゝゝ。』
と笑ひ葬つて、丑松は素早く自分の机の方へ行つて了つた。
毎月のこととは言ひ乍ら、俸給を受取つた時の人々の顔付は又格別であつた。実に男女の教員の身にとつては、労働いて得た収穫を眺めた時ほど愉快に感ずることは無いのである。ある人は紙の袋に封じた儘の銀貨を鳴らして見る、ある人は風呂敷に包んで重たさうに提げて見る、ある女教師は又、海老茶袴の紐の上から撫でゝ、人知れず微笑んで見るのであつた。急に校長は椅子を離れて、用事ありげに立上つた。何事かと人々は聞耳を立てる。校長は一つ咳払ひして、さて器械的な改つた調子で、敬之進が退職の件を報告した。就いては来る十一月の三日、天長節の式の済んだ後、この老功な教育者の為に茶話会を開きたいと言出した。賛成の声は起る。敬之進はすつくと立つて、一礼して、軈て拍子の抜けたやうに元の席へ復つた。
一同帰り仕度を始めたのは間も無くであつた。男女の教員が敬之進を取囲いて、いろ/\言ひ慰めて居る間に、ついと丑松は風呂敷包を提げて出た。銀之助が友達を尋して歩いた時は、職員室から廊下、廊下から応接室、小使部屋、昇降口まで来て見ても、もう何処にも丑松の姿は見えなかつたのである。
(五)
丑松は大急ぎで下宿へ帰つた。月給を受取つて来て妙に気強いやうな心地にもなつた。昨日は湯にも入らず、煙草も買はず、早く蓮華寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日を過したのである。実際、懐中に一文の小使もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。悉皆下宿の払ひを済まし、車さへ来れば直に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。
引越は成るべく目立たないやうに、といふ考へであつた。気掛りなは下宿の主婦の思惑で――まあ、この突然な転宿を何と思つて見て居るだらう。何か彼放逐された大尽と自分との間には一種の関係があつて、それで面白くなくて引越すとでも思はれたら奈何しよう。あの愚痴な性質から、根彫葉刻聞咎めて、何故引越す、斯う聞かれたら何と返事をしたものであらう。そこがそれ、引越さなくても可ものを無理に引越すのであるから、何となく妙に気が咎める。下手なことを言出せば反つて藪蛇だ。『都合があるから引越す。』理由は其で沢山だ。斯う種々に考へて、疑つたり恐れたりして見たが、多くの客を相手にする主婦の様子は左様心配した程でも無い。さうかうする中に、頼んで置いた車も来る。荷物と言へば、本箱、机、柳行李、それに蒲団の包があるだけで、道具は一切一台の車で間に合つた。丑松は洋燈を手に持つて、主婦の声に送られて出た。
斯うして車の後に随いて、とぼ/\と二三町も歩いて来たかと思はれる頃、今迄の下宿の方を一寸振返つて見た時は、思はずホツと深い溜息を吐いた。道路は悪し、車は遅し、丑松は静かに一生の変遷を考へて、自分で自分の運命を憐み乍ら歩いた。寂しいとも、悲しいとも、可笑しいとも、何ともかとも名の附けやうのない心地は烈しく胸の中を往来し始める。追憶の情は身に迫つて、無限の感慨を起させるのであつた。それは十一月の近いたことを思はせるやうな蕭条とした日で、湿つた秋の空気が薄い烟のやうに町々を引包んで居る。路傍に黄ばんだ柳の葉はぱら/\と地に落ちた。
途中で紙の旗を押立てた少年の一群に出遇つた。音楽隊の物真似、唱歌の勇しさ、笛太鼓も入乱れ、足拍子揃へて面白可笑しく歌つて来るのは何処の家の子か――あゝ尋常科の生徒だ。見れば其後に随いて、少年と一緒に歌ひ乍ら、人目も関はずやつて来る上機嫌の酔漢がある。蹣跚とした足元で直に退職の敬之進と知れた。
『瀬川君、一寸まあ見て呉れ給へ――是が我輩の音楽隊さ。』
と指し乍ら熟柿臭い呼吸を吹いた。敬之進は何処かで飲んで来たものと見える。指された少年の群は一度にどつと声を揚げて、自分達の可傷な先生を笑つた。
『始めえ――』敬之進は戯れに指揮するやうな調子で言つた。『諸君。まあ聞き給へ。今日迄我輩は諸君の先生だつた。明日からは最早諸君の先生ぢや無い。そのかはり、諸君の音楽隊の指揮をしてやる。よしか。解つたかね。あはゝゝゝ。』と笑つたかと思ふと、熱い涙は其顔を伝つて流れ落ちた。
無邪気な音楽隊は、一斉に歓呼を揚げて、足拍子揃へて通過ぎた。敬之進は何か思出したやうに、熟と其少年の群を見送つて居たが、軈て心付いて歩き初めた。
『まあ、君と一緒に其処迄行かう。』と敬之進は身を慄はせ乍ら、『時に瀬川君、まだ斯の通り日も暮れないのに、洋燈を持つて歩くとは奈何いふ訳だい。』
『私ですか。』と丑松は笑つて、『私は今引越をするところです。』
『あゝ引越か。それで君は何処へ引越すのかね。』
『蓮華寺へ。』
蓮華寺と聞いて、急に敬之進は無言になつて了つた。暫時の間、二人は互に別々のことを考へ乍ら歩いた。
『あゝ。』と敬之進はまた始めた。『実に瀬川君なぞは羨ましいよ。だつて君、左様ぢやないか。君なぞは未だ若いんだもの。前途多望とは君等のことだ。何卒して我輩も、もう一度君等のやうに若くなつて見たいなあ。あゝ、人間も我輩のやうに老込んで了つては駄目だねえ。』
(六)
車は遅かつた。丑松敬之進の二人は互に並んで話し/\随いて行つた。とある町へ差掛かつた頃、急に車夫は車を停めて、冷々とした空気を呼吸し乍ら、額に流れる汗を押拭つた。見れば町の空は灰色の水蒸気に包まれて了つて、僅に西の一方に黄な光が深く輝いて居る。いつもより早く日は暮れるらしい。遽に道路も薄暗くなつた。まだ灯を点ける時刻でもあるまいに、もう一軒点けた家さへある。其軒先には三浦屋の文字が明白と読まれるのであつた。
盛な歓楽の声は二階に湧上つて、屋外に居る二人の心に一層の不愉快と寂寥とを添へた。丁度人々は酒宴の最中。灯影花やかに映つて歌舞の巷とは知れた。三味は幾挺かおもしろい音を合せて、障子に響いて媚びるやうに聞える。急に勇しい太鼓も入つた。時々唄に交つて叫ぶやうに聞えるは、囃方の娘の声であらう。これも亦、招ばれて行く妓と見え、箱屋一人連れ、褄高く取つて、いそ/\と二人の前を通過ぎた。
客の笑声は手に取るやうに聞えた。其中には校長や郡視学の声も聞えた。人々は飲んだり食つたりして時の移るのも知らないやうな様子。
『瀬川君、大層陽気ぢやないか。』と敬之進は声を潜めて、『や、大一座だ。一体今宵は何があるんだらう。』
『まだ風間さんには解らないんですか。』と丑松も聞耳を立て乍ら言つた。
『解らないさ。だつて我輩は何にも知らないんだもの。』
『ホラ、校長先生の御祝でさあね。』
『むゝ――むゝ――むゝ、左様ですかい。』
一曲の唄が済んで、盛な拍手が起つた。また盃の交換が始つたらしい。若い女の声で、『姉さん、お銚子』などと呼び騒ぐのを聞捨てゝ、丑松敬之進の二人は三浦屋の側を横ぎつた。
車は知らない中に前へ行つて了つた。次第に歌舞の巷を離れると、太鼓の音も遠く聞えなくなる。敬之進は嘆息したり、沈吟したりして、時々絶望した人のやうに唐突に大きな声を出して笑つた。『浮世夢のごとし』――それに勝手な節を付けて、低声に長く吟じた時は、聞いて居る丑松も沈んで了つて、妙に悲しいやうな、可痛しいやうな心地になつた。
『吟声調を成さず――あゝ、あゝ、折角の酒も醒めて了つた。』
と敬之進は嘆息して、獣の呻吟るやうな声を出し乍ら歩く。丑松も憐んで、軈て斯う尋ねて見た。
『風間さん、貴方は何処迄行くんですか。』
『我輩かね。我輩は君を送つて、蓮華寺の門前まで行くのさ。』
『門前迄?』
『何故我輩が門前迄送つて行くのか、其は君には解るまい。しかし其を今君に説明しようとも思はないのさ。御互ひに長く顔を見合せて居ても、斯うして親しくするのは昨今だ。まあ、いつか一度、君とゆつくり話して見たいもんだねえ。』
やがて蓮華寺の山門の前まで来ると、ぷいと敬之進は別れて行つて了つた。奥様は蔵裏の外まで出迎へて喜ぶ。車はもうとつくに。荷物は寺男の庄太が二階の部屋へ持運んで呉れた。台所で焼く魚のにほひは、蔵裏迄も通つて来て、香の煙に交つて、住慣れない丑松の心に一種異様の感想を与へる。仏に物を供へる為か、本堂の方へ通ふ子坊主もあつた。二階の部屋も窓の障子も新しく張替へて、前に見たよりはずつと心地が好い。薬湯と言つて、大根の乾葉を入れた風呂なども立てゝ呉れる。新しい膳に向つて、うまさうな味噌汁の香を嗅いで見た時は、第一この寂しげな精舎の古壁の内に意外な家庭の温暖を看付けたのであつた。
第参章
(一)
もとより銀之助は丑松の素性を知る筈がない。二人は長野の師範校に居る頃から、極く好く気性の合つた友達で、丑松が佐久小県あたりの灰色の景色を説き出すと、銀之助は諏訪湖の畔の生れ故郷の物語を始める、丑松が好きな歴史の話をすれば、銀之助は植物採集の興味を、と言つたやうな風に、互ひに語り合つた寄宿舎の窓は二人の心を結びつけた。同窓の記憶はいつまでも若く青々として居る。銀之助は丑松のことを思ふ度に昔を思出して、何となく時の変遷を忍ばずには居られなかつた。同じ寄宿舎の食堂に同じ引割飯の香を嗅いだ其友達に思ひ比べると、実に丑松の様子の変つて来たことは。あの憂欝――丑松が以前の快活な性質を失つた証拠は、眼付で解る、歩き方で解る、談話をする声でも解る。一体、何が原因で、あんなに深く沈んで行くのだらう。とんと銀之助には合点が行かない。『何かある――必ず何か訳がある。』斯う考へて、どうかして友達に忠告したいと思ふのであつた。
丑松が蓮華寺へ引越した翌日、丁度日曜、午後から銀之助は尋ねて行つた。途中で文平と一緒になつて、二人して苔蒸した石の階段を上ると、咲残る秋草の径の突当つたところに本堂、左は鐘楼、右が蔵裏であつた。六角形に出来た経堂の建築物もあつて、勾配のついた瓦屋根や、大陸風の柱や、白壁や、すべて過去の壮大と衰頽とを語るかのやうに見える。黄ばんだ銀杏の樹の下に腰を曲め乍ら、余念もなく落葉を掃いて居たのは、寺男の庄太。『瀬川君は居りますか。』と言はれて、馬鹿丁寧な挨拶。やがて庄太は箒をそこに打捨てゝ置いて、跣足の儘で蔵裏の方へ見に行つた。
急に丑松の声がした。あふむいて見ると、銀杏に近い二階の窓の障子を開けて、顔を差出して呼ぶのであつた。
『まあ、上りたまへ。』
と復た呼んだ。
(二)
銀之助文平の二人は丑松に導かれて暗い楼梯を上つて行つた。秋の日は銀杏の葉を通して、部屋の内へ射しこんで居たので、変色した壁紙、掛けてある軸、床の間に置並べた書物と雑誌の類まで、すべて黄に反射して見える。冷々とした空気は窓から入つて来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽な思を送るのであつた。机の上には例の『懴悔録』、読伏せて置いた其本に気がついたと見え、急に丑松は片隅へ押隠すやうにして、白い毛布を座蒲団がはりに出して薦めた。
『よく君は引越して歩く人さ。』と銀之助は身辺を眺め廻し乍ら言つた。『一度瀬川君のやうに引越す癖が着くと、何度でも引越したくなるものと見える。まあ、部屋の具合なぞは、先の下宿の方が好ささうぢやないか。』
『何故御引越になつたんですか。』と文平も尋ねて見る。
『どうも彼処の家は喧しくつて――』斯う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色はもう顔に表れたのである。
『そりやあ寺の方が静は静だ。』と銀之助は一向頓着なく、『何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出されたさうだねえ。』
『さう/\、左様いふ話ですなあ。』と文平も相槌を打つた。
『だから僕は斯う思つたのさ。』と銀之助は引取つて、『何か其様な一寸したつまらん事にでも感じて、それで彼下宿が嫌に成つたんぢやないかと。』
『どうして?』と丑松は問ひ反した。
『そこがそれ、君と僕と違ふところさ。』と銀之助は笑ひ乍ら、『実は此頃或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居の側に猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳の人になると、捨てられた猫を見たのが移転の動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君の様子を見るのに、何処か身体の具合でも悪いやうだ。まあ、君は左様は思はないかね。だから穢多の逐出された話を聞くと、直に僕は彼の猫のことを思出したのさ。それで君が引越したくなつたのかと思つたのさ。』
『馬鹿なことを言ひたまへ。』と丑松は反返つて笑つた。笑ふには笑つたが、然しそれは可笑くて笑つたやうにも聞えなかつたのである。
『いや、戯言ぢやない。』と銀之助は丑松の顔を熟視つた。『実際、君の顔色は好くない――診て貰つては奈何かね。』
『僕は君、其様な病人ぢや無いよ。』と丑松は微笑み乍ら答へた。
『しかし。』と銀之助は真面目になつて、『自分で知らないで居る病人はいくらも有る。君の身体は変調を来して居るに相違ない。夜寝られないなんて言ふところを見ても、どうしても生理的に異常がある――まあ僕は左様見た。』
『左様かねえ、左様見えるかねえ。』
『見えるともサ。妄想、妄想――今の患者の眼に映つた猫も、君の眼に映つた新平民も、皆な衰弱した神経の見せる幻像さ。猫が捨てられたつて何だ――下らない。穢多が逐出されたつて何だ――当然ぢや無いか。』
『だから土屋君は困るよ。』と丑松は対手の言葉を遮つた。『何時でも君は早呑込だ。自分で斯うだと決めて了ふと、もう他の事は耳に入らないんだから。』
『すこし左様いふ気味も有ますなあ。』と文平は如才なく。
『だつて引越し方があんまり唐突だからさ。』と言つて、銀之助は気を変へて、『しかし、寺の方が反つて勉強は出来るだらう。』
『以前から僕は寺の生活といふものに興味を持つて居た。』と丑松は言出した。丁度下女の袈裟治(北信に多くある女の名)が湯沸を持つて入つて来た。
(三)
信州人ほど茶を嗜む手合も鮮少からう。斯ういふ飲料を好むのは寒い山国に住む人々の性来の特色で、日に四五回づゝ集つて飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張茶好の仲間には泄れなかつた。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も亦茶椀を口唇に押宛て乍ら、香ばしく焙られた茶の葉のにほひを嗅いで見ると、急に気分が清々する。まあ蘇生つたやうな心地になる。やがて丑松は茶椀を下に置いて、寺住の新しい経験を語り始めた。
『聞いて呉れ給へ。昨日の夕方、僕はこの寺の風呂に入つて見た。一日働いて疲労れて居るところだつたから、入つた心地は格別さ。明窓の障子を開けて見ると紫菀の花なぞが咲いてるぢやないか。其時僕は左様思つたねえ。風呂に入り乍ら蟋蟀を聴くなんて、成程寺らしい趣味だと思つたねえ。今迄の下宿とは全然様子が違ふ――まあ僕は自分の家へでも帰つたやうな心地がしたよ。』
『左様さなあ、普通の下宿ほど無趣味なものは無いからなあ。』と銀之助は新しい巻煙草に火を点けた。
『それから君、種々なことがある。』と丑松は言葉を継いで、『第一、鼠の多いには僕も驚いた。』
『鼠?』と文平も膝を進める。
『昨夜は僕の枕頭へも来た。慣れなければ、鼠だつて気味が悪いぢやないか。あまり不思議だから、今朝其話をしたら、奥様の言草が面白い。猫を飼つて鼠を捕らせるよりか、自然に任せて養つてやるのが慈悲だ。なあに、食物さへ宛行つて遣れば、其様に悪戯する動物ぢや無い。吾寺の鼠は温順しいから御覧なさいツて。成程左様言はれて見ると、少許も人を懼れない。白昼ですら出て遊んで居る。はゝゝゝゝ、寺の内の光景は違つたものだと思つたよ。』
『そいつは妙だ。』と銀之助は笑つて、『余程奥様といふ人は変つた婦人と見えるね。』
『なに、それほど変つても居ないが、普通の人よりは宗教的なところがあるさ。さうかと思ふと、吾儕だつて高砂で一緒になつたんです、なんて、其様なことを言出す。だから、尼僧ともつかず、大黒ともつかず、と言つて普通の家の細君でもなし――まあ、門徒寺に日を送る女といふものは僕も初めて見た。』
『外にはどんな人が居るのかい。』斯う銀之助は尋ねた。
『子坊主が一人。下女。それに庄太といふ寺男。ホラ、君等の入つて来た時、庭を掃いて居た男があつたらう。彼が左様だあね。誰も彼男を庄太と言ふものは無い――皆な「庄馬鹿」と言つてる。日に五度づつ、払暁、朝八時、十二時、入相、夜の十時、これだけの鐘を撞くのが彼男の勤務なんださうだ。』
『それから、あの何は。住職は。』とまた銀之助が聞いた。
『住職は今留守さ。』
斯う丑松は見たり聞いたりしたことを取交ぜて話したのであつた。終に、敬之進の娘で、是寺へ貰はれて来て居るといふ、そのお志保の話も出た。
『へえ、風間さんの娘なんですか。』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。『此頃一度校友会に出て来た――ホラ、あの人でせう?』
『さう/\。』と丑松も思出したやうに、『たしか僕等の来る前の年に卒業して出た人です。土屋君、左様だつたねえ。』
『たしか左様だ。』
(四)
其日蓮華寺の台所では、先住の命日と言つて、精進物を作るので多忙しかつた。月々の持斎には経を上げ膳を出す習慣であるが、殊に其日は三十三回忌とやらで、好物の栗飯を炊いて、仏にも供へ、下宿人にも振舞ひたいと言ふ。寺内の若僧の妻までも来て手伝つた。用意の調つた頃、奥様は台所を他に任せて置いて、丑松の部屋へ上つて来た。丑松も、銀之助も、文平も、この話好きな奥様の目には、三人の子のやうに映つたのである。昔者とは言ひ乍ら、書生の談話も解つて、よく種々なことを知つて居た。時々宗教の話なぞも持出した。奥様はまた十二月二十七日の御週忌の光景を語り聞かせた。其冬の日は男女の檀徒が仏の前に集つて、記念の一夜を送るといふ昔からの習慣を語り聞かせた。説教もあり、読経もあり、御伝抄の朗読もあり、十二時には男女一同御夜食の膳に就くなぞ、其御通夜の儀式のさま/″\を語り聞かせた。
『なむあみだぶ。』
と奥様は独語のやうに繰返して、やがて敬之進の退職のことを尋ねる。
奥様に言はせると、今の住職が敬之進の為に尽したことは一通りで無い。あの酒を断つたらば、とは克く住職の言ふことで、禁酒の証文を入れる迄に敬之進が後悔する時はあつても、また/\縒が元へ戻つて了ふ。飲めば窮るといふことは知りつゝ、どうしても持つた病には勝てないらしい。その為に敷居が高くなつて、今では寺へも来られないやうな仕末。あの不幸な父親の為には、どんなにかお志保も泣いて居るとのことであつた。
『左様ですか――いよ/\退職になりましたか。』
斯う言つて奥様は嘆息した。
『道理で。』と丑松は思出したやうに、『昨日私が是方へ引越して来る時に、風間さんは門の前まで随いて来ましたよ。何故斯うして門の前まで一緒に来たか、それは今説明しようとも思はない、なんて、左様言つて、それからぷいと別れて行つて了ひました。随分酔つて居ましたツけ。』
『へえ、吾寺の前まで? 酔つて居ても娘のことは忘れないんでせうねえ――まあ、それが親子の情ですから。』
と奥様は復た深い溜息を吐いた。
斯ういふ談話に妨げられて、銀之助は思ふことを尽さなかつた。折角言ふ積りで来て、それを尽さずに帰るのも残念だし、栗飯が出来たからと引留められもするし、夜にでもなつたらば、と斯う考へて、心の中では友達のことばかり案じつゞけて居た。
夕飯は例になく蔵裏の下座敷であつた。宵の勤行も済んだと見えて、給仕は白い着物を着た子坊主がして呉れた。五分心の灯は香の煙に交る夜の空気を照らして、高い天井の下をおもしろく見せる。古壁に懸けてある黄な法衣は多分住職の着るものであらう。変つた室内の光景は三人の注意を引いた。就中、銀之助は克く笑つて、其高い声が台所迄も響くので、奥様は若い人達の話を聞かずに居られなかつた。終にはお志保までも来て、奥様の傍に倚添ひ乍ら聞いた。
急に文平は快活らしくなつた。妙に婦人の居る席では熱心になるのが是男の性分で、二階に三人で話した時から見ると、この下座敷へ来てからは声の調子が違つた。天性愛嬌のある上に、清しい艶のある眸を輝かし乍ら、興に乗つてよもやまの話を初めた時は、確に面白い人だと思はせた。文平はまた、時々お志保の方を注意して見た。お志保は着物の前を掻合せたり、垂れ下る髪の毛を撫付けたりして、人々の物語に耳を傾けて居たのである。
銀之助はそんなことに頓着なしで、軈て思出したやうに、
『たしか吾儕の来る前の年でしたなあ、貴方等の卒業は。』
斯う言つてお志保の顔を眺めた。奥様も娘の方へ振向いた。
『はあ。』と答へた時は若々しい血潮が遽にお志保の頬に上つた。そのすこし羞恥を含んだ色は一層容貌を娘らしくして見せた。
『卒業生の写真が学校に有ますがね、』と銀之助は笑つて、『彼頃から見ると、皆な立派な姉さんに成りましたなあ――どうして吾儕が来た時分には、まだ鼻洟を垂らしてるやうな連中もあつたツけが。』
楽しい笑声は座敷の内に溢れた。お志保は紅くなつた。斯ういふ間にも、独り丑松は洋燈の火影に横になつて、何か深く物を考へて居たのである。
(五)
『ねえ、奥様。』と銀之助が言つた。『瀬川君は非常に沈んで居ますねえ。』
『左様さ――』と奥様は小首を傾げる。
『一昨々日、』と銀之助は丑松の方を見て、『君が斯のお寺へ部屋を捜しに来た日だ――ホラ、僕が散歩してると、丁度本町で君に遭遇したらう。彼時の君の考へ込んで居る様子と言つたら――僕は暫時そこに突立つて、君の後姿を見送つて、何とも言ひ様の無い心地がしたねえ。君は猪子先生の「懴悔録」を持つて居た。其時僕は左様思つた。あゝ、また彼の先生の書いたものなぞを読んで、神経を痛めなければ可がなあと。彼様いふ本を読むのは、君、可くないよ。』
『何故?』と丑松は身を起した。
『だつて、君、あまり感化を受けるのは可くないからサ。』
『感化を受けたつても可いぢやないか。』
『そりやあ好い感化なら可いけれども、悪い感化だから困る。見たまへ、君の性質が変つて来たのは、彼の先生のものを読み出してからだ。猪子先生は穢多だから、彼様いふ風に考へるのも無理は無い。普通の人間に生れたものが、なにも彼の真似を為なくてもよからう――彼程極端に悲まなくてもよからう。』
『では、貧民とか労働者とか言ふやうなものに同情を寄せるのは不可と言ふのかね。』
『不可と言ふ訳では無いよ。僕だつても、美しい思想だとは思ふさ。しかし、君のやうに、左様考へ込んで了つても困る。何故君は彼様いふものばかり読むのかね、何故君は沈んでばかり居るのかね――一体、君は今何を考へて居るのかね。』
『僕かい? 別に左様深く考へても居ないさ。君等の考へるやうな事しか考へて居ないさ。』
『でも何かあるだらう。』
『何かとは?』
『何か原因がなければ、そんなに性質の変る筈が無い。』
『僕は是で変つたかねえ。』
『変つたとも。全然師範校時代の瀬川君とは違ふ。彼の時分は君、ずつと快活な人だつたあね。だから僕は斯う思ふんだ――元来君は欝いでばかり居る人ぢや無い。唯あまり考へ過ぎる。もうすこし他の方面へ心を向けるとか、何とかして、自分の性質を伸ばすやうに為たら奈何かね。此頃から僕は言はう/\と思つて居た。実際、君の為に心配して居るんだ。まあ身体の具合でも悪いやうなら、早く医者に診せて、自分で自分を救ふやうに為るが可ぢやないか。』
暫時座敷の中は寂として話声が絶えた。丑松は何か思出したことがあると見え、急に喪心した人のやうに成つて、茫然として居たが。やがて気が付いて我に帰つた頃は、顔色がすこし蒼ざめて見えた。
『どうしたい、君は。』と銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めて、『はゝゝゝゝ、妙に黙つて了つたねえ。』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
と丑松は笑ひ紛して了つた。銀之助も一緒になつて笑つた。奥様とお志保は二人の顔を見比べて、熱心に聞き惚れて居たのである。
『土屋君は「懴悔録」を御読みでしたか。』と文平は談話を引取つた。
『否、未だ読んで見ません。』斯う銀之助は答へた。
『何か彼の猪子といふ先生の書いたものを御覧でしたか――私は未だ何にも読んで見ないんですが。』
『左様ですなあ、僕の読んだのは「労働」といふものと、それから「現代の思潮と下層社会」――あれを瀬川君から借りて見ました。なか/\好いところが有ますよ、力のある深刻な筆で。』
『一体彼の先生は何処を出た人なんですか。』
『たしか高等師範でしたらう。』
『斯ういふ話を聞いたことが有ましたツけ。彼の先生が長野に居た時分、郷里の方でも兎に角彼様いふ人を穢多の中から出したのは名誉だと言つて、講習に頼んださうです。そこで彼の先生が出掛けて行つた。すると宿屋で断られて、泊る所が無かつたとか。其様なことが面白くなくて長野を去るやうになつた、なんて――まあ、師範校を辞めてから、彼の先生も勉強したんでせう。妙な人物が新平民なぞの中から飛出したものですなあ。』
『僕も其は不思議に思つてる。』
『彼様な下等人種の中から、兎に角思想界へ頭を出したなんて、奈何しても私には其理由が解らない。』
『しかし、彼の先生は肺病だと言ふから、あるひは其病気の為に、彼処まで到つたものかも知れません。』
『へえ、肺病ですか。』
『実際病人は真面目ですからなあ。「死」といふ奴を眼前に置いて、平素考へて居るんですからなあ。彼の先生の書いたものを見ても、何となく斯う人に迫るやうなところがある。あれが肺病患者の特色です。まあ彼の病気の御蔭で豪く成つた人はいくらもある。』
『はゝゝゝゝ、土屋君の観察は何処迄も生理的だ。』
『いや、左様笑つたものでも無い。見たまへ、病気は一種の哲学者だから。』
『して見ると、穢多が彼様いふものを書くんぢや無い、病気が書かせるんだ――斯う成りますね。』
『だつて、君、左様釈るより外に考へ様は無いぢやないか――唯新平民が美しい思想を持つとは思はれないぢやないか――はゝゝゝゝ。』
斯ういふ話を銀之助と文平とが為して居る間、丑松は黙つて、洋燈の火を熟視めて居た。自然と外部に表れる苦悶の情は、頬の色の若々しさに交つて、一層その男らしい容貌を沈欝にして見せたのである。
茶が出てから、三人は別の話頭に移つた。奥様は旅先の住職の噂なぞを始めて、客の心を慰める。子坊主は隣の部屋の柱に凭れて、独りで舟を漕いで居た。台所の庭の方から、遠く寂しく地響のやうに聞えるは、庄馬鹿が米を舂く音であらう。夜も更けた。
(六)
友達が帰つた後、丑松は心の激昂を制へきれないといふ風で、自分の部屋の内を歩いて見た。其日の物語、あの二人の言つた言葉、あの二人の顔に表れた微細な感情まで思出して見ると、何となく胸肉の戦慄へるやうな心地がする。先輩の侮辱されたといふことは、第一口惜しかつた。賤民だから取るに足らん。斯ういふ無法な言草は、唯考へて見たばかりでも、腹立たしい。あゝ、種族の相違といふ屏擋の前には、いかなる熱い涙も、いかなる至情の言葉も、いかなる鉄槌のやうな猛烈な思想も、それを動かす力は無いのであらう。多くの善良な新平民は斯うして世に知られずに葬り去らるゝのである。
斯の思想に刺激されて、寝床に入つてからも丑松は眠らなかつた。目を開いて、頭を枕につけて、種々に自分の一生を考へた。鼠が復た顕れた。畳の上を通る其足音に妨げられては、猶々夢を結ばない。一旦吹消した洋燈を細目に点けて、枕頭を明くして見た。暗い部屋の隅の方に影のやうに動く小な動物の敏捷さ、人を人とも思はず、長い尻尾を振り乍ら、出たり入つたりする其有様は、憎らしくもあり、をかしくもあり、『き、き』と鳴く声は斯の古い壁の内に秋の夜の寂寥を添へるのであつた。
それからそれへと丑松は考へた。一つとして不安に思はれないものはなかつた。深く注意した積りの自分の行為が、反つて他に疑はれるやうなことに成らうとは――まあ、考へれば考へるほど用意が無さ過ぎた。何故、あの大日向が鷹匠町の宿から放逐された時に、自分は静止として居なかつたらう。何故、彼様に泡を食つて、斯の蓮華寺へ引越して来たらう。何故、あの猪子蓮太郎の著述が出る度に、自分は其を誇り顔に吹聴したらう。何故、彼様に先輩の弁護をして、何か斯う彼の先輩と自分との間には一種の関係でもあるやうに他に思はせたらう。何故、彼の先輩の名前を彼様他の前で口に出したらう。何故、内証で先輩の書いたものを買はなかつたらう。何故、独りで部屋の内に隠れて、読みたい時に密と出して読むといふ智慧が出なかつたらう。
思ひ疲れるばかりで、結局は着かなかつた。
一夜は斯ういふ風に、褥の上で慄へたり、煩悶したりして、暗いところを彷徨つたのである。翌日になつて、いよ/\丑松は深く意を配るやうに成つた。過去つた事は最早仕方が無いとして、是から将来を用心しよう。蓮太郎の名――人物――著述――一切、彼の先輩に関したことは決して他の前で口に出すまい。斯う用心するやうに成つた。
さあ、父の与へた戒は身に染々と徹へて来る。『隠せ』――実にそれは生死の問題だ。あの仏弟子が墨染の衣に守り窶れる多くの戒も、是の一戒に比べては、寧そ何でもない。祖師を捨てた仏弟子は、堕落と言はれて済む。親を捨てた穢多の子は、堕落でなくて、零落である。『決してそれとは告白けるな』とは堅く父も言ひ聞かせた。これから世に出て身を立てようとするものが、誰が好んで告白けるやうな真似を為よう。
丑松も漸く二十四だ。思へば好い年齢だ。
噫。いつまでも斯うして生きたい。と願へば願ふほど、余計に穢多としての切ない自覚が湧き上るのである。現世の歓楽は美しく丑松の眼に映じて来た。たとへ奈何なる場合があらうと、大切な戒ばかりは破るまいと考へた。
第四章
(一)
郊外は収穫の為に忙しい時節であつた。農夫の群はいづれも小屋を出て、午後の労働に従事して居た。田の面の稲は最早悉皆刈り乾して、すでに麦さへ蒔付けたところもあつた。一年の骨折の報酬を収めるのは今である。雪の来ない内に早く。斯うして千曲川の下流に添ふ一面の平野は、宛然、戦場の光景であつた。
其日、丑松は学校から帰ると直に蓮華寺を出て、平素の勇気を回復す積りで、何処へ行くといふ目的も無しに歩いた。新町の町はづれから、枯々な桑畠の間を通つて、思はず斯の郊外の一角へ出たのである。積上げた『藁によ』の片蔭に倚凭つて、霜枯れた雑草の上に足を投出し乍ら、肺の底までも深く野の空気を吸入れた時は、僅に蘇生つたやうな心地になつた。見れば男女の農夫。そこに親子、こゝに夫婦、黄に揚る塵埃を満身に浴びながら、我劣らじと奮闘をつゞけて居た。籾を打つ槌の音は地に響いて、稲扱く音に交つて勇しく聞える。立ちのぼる白い煙もところ/″\。雀の群は時々空に舞揚つて、騒しく鳴いて、軈てまたぱツと田の面に散乱れるのであつた。
秋の日は烈しく照りつけて、人々には言ふに言はれぬ労苦を与へた。男は皆な頬冠り、女は皆な編笠であつた。それはめづらしく乾燥いだ、風の無い日で、汗は人々の身体を流れたのである。野に満ちた光を通して、丑松は斯の労働の光景を眺めて居ると、不図、倚凭つた『藁によ』の側を十五ばかりの一人の少年が通る。日に焼けた額と、柔嫩な目付とで、直に敬之進の忰と知れた。省吾といふのが其少年の名で、丁度丑松が受持の高等四年の生徒なのである。丑松は其容貌を見る度に、彼の老朽な教育者を思出さずには居られなかつた。
『風間さん、何処へ?』
斯う声を掛けて見る。
『あの、』と省吾は言淀んで、『母さんが沖(野外)に居やすから。』
『母さん?』
『あれ彼処に――先生、あれが吾家の母さんでごはす。』
と省吾は指差して見せて、すこし顔を紅くした。同僚の細君の噂、それを丑松も聞かないでは無かつたが、然し眼前に働いて居る女が其人とはすこしも知らなかつた。古びた上被、茶色の帯、盲目縞の手甲、編笠に日を避けて、身体を前後に動かし乍ら、踖々と稲の穂を扱落して居る。信州北部の女はいづれも強健い気象のものばかり。克く働くことに掛けては男子にも勝る程であるが、教員の細君で野面にまで出て、烈しい気候を相手に精出すものも鮮少い。是も境遇からであらう、と憐んで見て居るうちに、省吾はまた指差して、彼の槌を振上げて籾を打つ男、彼は手伝ひに来た旧からの出入のもので、音作といふ百姓であると話した。母と彼男との間に、箕を高く頭の上に載せ、少許づつ籾を振ひ落して居る女、彼は音作の『おかた』(女房)であると話した。丁度其女房が箕を振る度に、空殻の塵が舞揚つて、人々は黄色い烟を浴びるやうに見えた。省吾はまた、母の傍に居る小娘を指差して、彼が異母の妹のお作であると話した。
『君の兄弟は幾人あるのかね。』と丑松は省吾の顔を熟視り乍ら尋ねた。
『七人。』といふ省吾の返事。
『随分多勢だねえ、七人とは。君に、姉さんに、尋常科の進さんに、あの妹に――それから?』
『まだ下に妹が一人と弟が一人。一番年長の兄さんは兵隊に行つて死にやした。』
『むゝ左様ですか。』
『其中で、死んだ兄さんと、蓮華寺へ貰はれて行きやした姉さんと、私と――これだけ母さんが違ひやす。』
『そんなら、君やお志保さんの真実の母さんは?』
『最早居やせん。』
斯ういふ話をして居ると、不図継母の呼声を聞きつけて、ぷいと省吾は駈出して行つて了つた。
(二)
『省吾や。お前はまあ幾歳に成つたら御手伝ひする積りだよ。』と言ふ細君の声は手に取るやうに聞えた。省吾は継母を懼れるといふ様子して、おづ/\と其前に立つたのである。
『考へて見な、もう十五ぢやねえか。』と怒を含んだ細君の声は復た聞えた。『今日は音さんまで御頼申して、斯うして塵埃だらけに成つて働けて居るのに、それがお前の目には見えねえかよ。母さんが言はねえだつて、さつさと学校から帰つて来て、直に御手伝ひするのが当然だ。高等四年にも成つて、未だ蛗螽捕りに夢中に成つてるなんて、其様なものが何処にある――与太坊主め。』
見れば細君は稲扱く手を休めた。音作の女房も振返つて、気の毒さうに省吾の顔を眺め乍ら、前掛を〆直したり、身体の塵埃を掃つたりして、軈て顔に流れる膏汗を拭いた。莚の上の籾は黄な山を成して居る。音作も亦た槌の長柄に身を支へて、うんと働いた腰を延ばして、濃く青い空気を呼吸した。
『これ、お作や。』と細君の児を叱る声が起つた。『どうして其様な悪戯するんだい。女の児は女の児らしくするもんだぞ。真個に、どいつもこいつも碌なものはありやあしねえ。自分の子ながら愛想が尽きた。見ろ、まあ、進を。お前達二人より余程御手伝ひする。』
『あれ、進だつて遊んで居やすよ。』といふのは省吾の声。
『なに、遊んでる?』と細君はすこし声を震はせて、『遊んでるものか。先刻から御子守をして居やす。其様なお前のやうな役に立たずぢやねえよ。ちよツ、何ぞと言ふと、直に口答へだ。父さんが過多甘やかすもんだから、母さんの言ふことなぞ少許も聞きやしねえ。真個に図太い口の利きやうを為る。だから省吾は嫌ひさ。すこし是方が遠慮して居れば、何処迄いゝ気に成るか知れやしねえ。あゝ必定また蓮華寺へ寄つて、姉さんに何か言付けて来たんだらう。それで斯様に遅くなつたんだらう。内証で隠れて行つて見ろ――酷いぞ。』
『奥様。』と音作は見兼ねたらしい。『何卒まあ、今日のところは、私に免じて許して下さるやうに。ない(なあと同じ農夫の言葉)、省吾さん、貴方もそれぢやいけやせん。母さんの言ふことを聞かねえやうなものなら、私だつて提棒(仲裁)に出るのはもう御免だから。』
音作の女房も省吾の側へ寄つて、軽く背を叩いて私語いた。軈て女房は其手に槌の長柄を握らせて、『さあ、御手伝ひしやすよ。』と亭主の方へ連れて行つた。『どれ、始めずか(始めようか)。』と音作は省吾を相手にし、槌を振つて籾を打ち始めた。『ふむ、よう。』の掛声も起る。細君も、音作の女房も、復た仕事に取懸つた。
図らず丑松は敬之進の家族を見たのである。彼の可憐な少年も、お志保も、細君の真実の子では無いといふことが解つた。夫の貧を養ふといふ心から、斯うして細君が労苦して居るといふことも解つた。五人の子の重荷と、不幸な夫の境遇とは、細君の心を怒り易く感じ易くさせたといふことも解つた。斯う解つて見ると、猶々丑松は敬之進を憐むといふ心を起したのである。
今はすこし勇気を回復した。明に見、明に考へることが出来るやうに成つた。眼前に展る郊外の景色を眺めると、種々の追憶は丑松の胸の中を往つたり来たりする。丁度斯うして、田圃の側に寝そべり乍ら、収穫の光景を眺めた彼の無邪気な少年の時代を憶出した。烏帽子一帯の山脈の傾斜を憶出した。其傾斜に連なる田畠と石垣とを憶出した。茅萱、野菊、其他種々な雑草が霜葉を垂れる畦道を憶出した。秋風が田の面を渡つて黄な波を揚げる頃は、䰗に当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。夜の休息を知らせる鐘が鳴り渡つて、軈て見廻りに来る舎監の靴の音が遠く廊下に響くといふ頃は、沈まりかへつて居た朋輩が復た起出して、暗い寝室の内で雑談に耽つたことを憶出した。終には往生寺の山の上に登つて、苅萱の墓の畔に立ち乍ら、大な声を出して呼び叫んだ時代のことを憶出して見ると――実に一生の光景は変りはてた。楽しい過去の追憶は今の悲傷を二重にして感じさせる。『あゝ、あゝ、奈何して俺は斯様に猜疑深くなつたらう。』斯う天を仰いで歎息した。急に、意外なところに起る綿のやうな雲を見つけて、しばらく丑松はそれを眺め乍ら考へて居たが、思はず知らず疲労が出て、『藁によ』に倚凭つたまゝ寝て了つた。
(三)
ふと眼を覚まして四辺を見廻した時は、暮色が最早迫つて来た。向ふの田の中の畦道を帰つて行く人々も見える。荒くれた男女の農夫は幾群か丑松の側を通り抜けた。鍬を担いで行くものもあり、俵を背負つて行くものもあり、中には乳呑児を抱擁へ乍ら足早に家路をさして急ぐのもあつた。秋の一日の烈しい労働は漸く終を告げたのである。
まだ働いて居るものもあつた。敬之進の家族も急いで働いて居た。音作は腰を曲め、足に力を入れ、重い俵を家の方へ運んで行く。後には女二人と省吾ばかり残つて、籾を振つたり、それを俵へ詰めたりして居た。急に『かあさん、かあさん。』と呼ぶ声が起る。見れば省吾の弟、泣いて反返る児を背負ひ乍ら、一人の妹を連れて母親の方へ駈寄つた。『おゝ、おゝ。』と細君は抱取つて、乳房を出して銜へさせて、
『進や。父さんは何してるか、お前知らねえかや。』
『俺知んねえよ。』
『あゝ。』と細君は襦袢の袖口で眶を押拭ふやうに見えた。『父さんのことを考へると、働く気もなにも失くなつて了ふ――』
『母さん、作ちやんが。』と進は妹の方を指差し乍ら叫んだ。
『あれ。』と細君は振返つて、『誰だい其袋を開けたものは――誰だい母さんに黙つて其袋を開けたものは。』
『作ちやんは取つて食ひやした。』と進の声で。
『真実に仕方が無いぞい――彼娘は。』と細君は怒気を含んで、『其袋を茲へ持つて来な――これ、早く持つて来ねえかよ。』
お作は八歳ばかりの女の児。麻の袋を手に提げた儘、母の権幕を畏れて進みかねる。『母さん、お呉な。』と進も他の子供も強請み付く。省吾も其と見て、母の傍へ駈寄つた。細君はお作の手から袋を奪取るやうにして、
『どれ、見せな――そいつたツても、まあ、情ない。道理で先刻から穏順しいと思つた。すこし母さんが見て居ないと、直に斯様な真似を為る。黙つて取つて食ふやうなものは、泥棒だぞい――盗人だぞい――ちよツ、何処へでも勝手に行つて了へ、其様な根性の奴は最早母さんの子ぢやねえから。』
斯う言つて、袋の中に残る冷い焼餅らしいものを取出して、細君は三人の児に分けて呉れた。
『母さん、俺にも。』とお作は手を出した。
『何だ、お前は。自分で取つて食つて置き乍ら。』
『母さん、もう一つお呉な。』と省吾は訴へるやうに、『進には二つ呉れて、私には一つしか呉ねえだもの。』
『お前は兄さんぢやねえか。』
『進には彼様な大いのを呉れて。』
『嫌なら、廃しな、さあ返しな――機嫌克くして母さんの呉れるものを貰つた例はねえ。』
進は一つ頬張り乍ら、軈て一つの焼餅を見せびらかすやうにして、『省吾の馬鹿――やい、やい。』と呼んだ。省吾は忌々敷といふ様子。いきなり駈寄つて、弟の頭を握拳で打つ。弟も利かない気。兄の耳の辺を打ち返した。二人の兄弟は怒の為に身を忘れて、互に肩を聳して、丁度野獣のやうに格闘を始める。音作の女房が周章てゝ二人を引分けた時は、兄弟ともに大な声を揚げて泣叫ぶのであつた。
『どうしてまあ兄弟喧嘩を為るんだねえ。』と細君は怒つて、『左様お前達に側で騒がれると、母さんは最早気が狂ひさうに成る。』
斯の光景を丑松は『藁によ』の蔭に隠れ乍ら見て居た。様子を聞けば聞くほど不幸な家族を憐まずには居られなくなる。急に暮鐘の音に驚かされて、丑松は其処を離れた。
寂しい秋晩の空に響いて、また蓮華寺の鐘の音が起つた。それは多くの農夫の為に、一日の疲労を犒ふやうにも、楽しい休息を促すやうにも聞える。まだ野に残つて働いて居る人々は、いづれも仕事を急ぎ初めた。今は夕靄の群が千曲川の対岸を籠めて、高社山一帯の山脈も暗く沈んだ。西の空は急に深い焦茶色に変つたかと思ふと、やがて落ちて行く秋の日が最後の反射を田の面に投げた。向ふに見える杜も、村落も、遠く暮色に包まれて了つたのである。あゝ、何の煩ひも思ひ傷むことも無くて、斯ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩を感ずれば感ずる程、余計に他界の自然は活々として、身に染みるやうに思はるゝ。南の空には星一つ顕れた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳にして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
『しかし、其が奈何した。』と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を激厲ますやうに言つた。『自分だつて社会の一員だ。自分だつて他と同じやうに生きて居る権利があるのだ。』
斯の思想に力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白く、槌の音は冷々とした空気に響いて、『藁を集めろ』などゝいふ声も幽に聞える。立つて是方を向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。
(四)
『おつかれ』(今晩は)と逢ふ人毎に声を掛けるのは山家の黄昏の習慣である。丁度新町の町はづれへ出て、帰つて行く農夫に出逢ふ度に、丑松は斯挨拶を交換した。一ぜんめし、御休所、笹屋、としてある家の前で、また『おつかれ』を繰返したが、其は他の人でもない、例の敬之進であつた。
『おゝ、瀬川君か。』と敬之進は丑松を押留めるやうにして、『好い処で逢つた。何時か一度君とゆつくり話したいと思つて居た。まあ、左様急がんでもよからう。今夜は我輩に交際つて呉れてもよからう。斯ういふ処で話すのも亦た一興だ。是非、君に聞いて貰ひたいこともあるんだから――』
斯う慫慂されて、丑松は敬之進と一緒に笹屋の入口の敷居を跨いで入つた。昼は行商、夜は農夫などが疲労を忘れるのは茲で、大な炉には『ぼや』(雑木の枝)の火が赤々と燃上つた。壁に寄せて古甕のいくつか並べてあるは、地酒が溢れて居るのであらう。今は農家は忙しい時季で、長く御輿を座ゑるものも無い。一人の農夫が草鞋穿の儘、ぐいと『てツぱ』(こつぷ酒)を引掛けて居たが、軈て其男の姿も見えなくなつて、炉辺は唯二人の専有となつた。
『今晩は何にいたしやせう。』と主婦は炉の鍵に大鍋を懸け乍ら尋ねた。『油汁なら出来やすが、其ぢやいけやせんか。河で捕れた鰍もごはす。鰍でも上げやせうかなあ。』
『鰍?』と敬之進は舌なめずりして、『鰍、結構――それに、油汁と来ては堪へられない。斯ういふ晩は暖い物に限りますからね。』
敬之進は酒慾の為に慄へて居た。素面で居る時は、からもう元気の無い人で、言葉もすくなく、病人のやうに見える。五十の上を一つか二つも越したらうか、年の割合には老たといふでも無く、まだ髪は黒かつた。丑松は『藁によ』の蔭で見たり聞いたりした家族のことを思ひ浮べて、一層斯人に親しくなつたやうな心地がした。『ぼや』の火も盛んに燃えた。大鍋の中の油汁は沸々と煮立つて来て、甘さうな香が炉辺に満溢れる。主婦は其を小丼に盛つて出し、酒は熱燗にして、一本づゝ古風な徳利を二人の膳の上に置いた。
『瀬川君。』と敬之進は手酌でちびり/\始め乍ら、『君が飯山へ来たのは何時でしたつけねえ。』
『私ですか。私が来てから最早足掛三年に成ります。』と丑松は答へた。
『へえ、其様に成るかねえ。つい此頃のやうにしか思はれないがなあ。実に月日の経つのは早いものさ。いや、我輩なぞが老込む筈だよ。君等がずん/\進歩するんだもの。我輩だつて、君、一度は君等のやうな時代もあつたよ。明日は、明日は、明日はと思つて居る内に、もう五十といふ声を聞くやうに成つた。我輩の家と言ふのはね、もと飯山の藩士で、少年の時分から君侯の御側に勤めて、それから江戸表へ――丁度御維新に成る迄。考へて見れば時勢は還り変つたものさねえ。変遷、変遷――見たまへ、千曲川の岸にある城跡を。彼の名残の石垣が君等の目にはどう見えるね。斯う蔦や苺などの纏絡いたところを見ると、我輩はもう言ふに言はれないやうな心地になる。何処の城跡へ行つても、大抵は桑畠。士族といふ士族は皆な零落して了つた。今日迄踏堪へて、どうにかかうにか遣つて来たものは、と言へば、役場へ出るとか、学校へ勤めるとか、それ位のものさ。まあ、士族ほど役に立たないものは無い――実は我輩も其一人だがね。はゝゝゝゝ。』
と敬之進は寂しさうに笑つた。やがて盃の酒を飲乾して、一寸舌打ちして、それを丑松へ差し乍ら、
『一つ交換といふことに願ひませうか。』
『まあ、御酌しませう。』と丑松は徳利を持添へて勧めた。
『それは不可。上げるものは上げる、頂くものは頂くサ。え――君は斯の方は遣らないのかと思つたが、なか/\いけますねえ。君の御手並を拝見するのは今夜始めてだ。』
『なに、私のは三盃上戸といふ奴なんです。』
『兎に角、斯盃は差上げます。それから君のを頂きませう。まあ君だから斯様なことを御話するんだが、我輩なぞは二十年も――左様さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終には教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少の月給で、長い時間を働いて、克くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今茲で我輩が退職するのは智慧の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪へさへすれば、仮令僅少でも恩給の下る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休めて了つたら、奈何して活計が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様な真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆れるまで鞭撻たれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。』
(五)
急に入つて来た少年に妨げられて、敬之進は口を噤んだ。流許に主婦、暗い洋燈の下で、かちや/\と皿小鉢を鳴らして居たが、其と見て少年の側へ駈寄つた。
『あれ、省吾さんでやすかい。』
と言はれて、省吾は用事ありげな顔付。
『吾家の父さんは居りやすか。』
『あゝ居なさりやすよ。』と主婦は答へた。
敬之進は顔を渋めた。入口の庭の薄暗いところに佇立んで居る省吾を炉辺まで連れて来て、つく/″\其可憐な様子を眺め乍ら、
『奈何した――何か用か。』
『あの、』と省吾は言淀んで、『母さんがねえ、今夜は早く父さんに御帰りなさいツて。』
『むゝ、また呼びによこしたのか――ちよツ、極りを遣つてら。』と敬之進は独語のやうに言つた。
『そんなら父さんは帰りなさらないんですか。』と省吾はおづ/\尋ねて見る。
『帰るサ――御話が済めば帰るサ。母さんに斯う言へ、父さんは学校の先生と御話して居ますから、其が済めば帰りますツて。』と言つて、敬之進は一段声を低くして、『省吾、母さんは今何してる?』
『籾を片付けて居りやす。』
『左様か、まだ働いてるか。それから彼の……何か……母さんはまた例のやうに怒つてやしなかつたか。』
省吾は答へなかつた。子供心にも、父を憐むといふ目付して、黙つて敬之進の顔を熟視つたのである。
『まあ、冷さうな手をしてるぢやないか。』と敬之進は省吾の手を握つて、『それ金銭を呉れる。柿でも買へ。母さんや進には内証だぞ。さあ最早それで可から、早く帰つて――父さんが今言つた通りに――よしか。解つたか。』
省吾は首を垂れて、萎れ乍ら出て行つた。
『まあ聞いて呉れたまへ。』と敬之進は復た述懐を始めた。『ホラ、君が彼の蓮華寺へ引越す時、我輩も門前まで行きましたらう――実は、君だから斯様なこと迄も御話するんだが、彼寺には不義理なことがしてあつて、住職は非常に怒つて居る。我輩が飲む間は、交際はぬといふ。情ないとは思ふけれど、其様な関係で、今では娘の顔を見に行くことも出来ないやうな仕末。まあ、彼寺へ呉れて了つたお志保と、省吾と、それから亡くなつた総領と、斯う三人は今の家内の子では無いのさ。前の家内といふのは、矢張飯山の藩士の娘でね、我輩の家の楽な時代に嫁いて来て、未だ今のやうに零落しない内に亡くなつた。だから我輩は彼女のことを考へる度に、一生のうちで一番楽しかつた時代を思出さずには居られない。一盃やると、きつと其時代のことを思出すのが我輩の癖で――だつて君、年を取れば、思出すより外に歓楽が無いのだもの。あゝ、前の家内は反つて好い時に死んだ。人間といふものは妙なもので、若い時に貰つた奴がどうしても一番好いやうな気がするね。それに、性質が、今の家内のやうに利かん気では無かつたが、そのかはり昔風に亭主に便るといふ風で、何処迄も我輩を信じて居た。蓮華寺へ行つたお志保――彼娘がまた母親に克く似て居て、眼付なぞはもう彷彿さ。彼娘の顔を見ると、直に前の家内が我輩の眼に映る。我輩ばかりぢやない、他が克く其を言つて、昔話なぞを始めるものだから、さあ今の家内は面白くないと見えるんだねえ。正直御話すると、我輩も蓮華寺なぞへ彼娘を呉れたくは無かつた。然し吾家に置けば、彼娘の為にならない。第一、其では可愛さうだ。まあ、蓮華寺では非常に欲がるし、奥様も子は無し、それに他の土地とは違つて寺院を第一とする飯山ではあり、するところからして、お志保を手放して遣つたやうな訳さ。』
聞けば聞くほど、丑松は気の毒に成つて来た。成程、左様言はれて見れば、落魄の画像其儘の様子のうちにも、どうやら武士らしい威厳を具へて居るやうに思はるゝ。
『丁度、それは彼娘の十三の時。』と敬之進は附和して言つた。
(六)
『噫。我輩の生涯なぞは実に碌々たるものだ。』と敬之進は更に嘆息した。『しかし瀬川君、考へて見て呉れたまへ。君は碌々といふ言葉の内に、どれほどの酸苦が入つて居ると考へる。斯うして我輩は飲むから貧乏する、と言ふ人もあるけれど、我輩に言はせると、貧乏するから飲むんだ。一日たりとも飲まずには居られない。まあ、我輩も、始の内は苦痛を忘れる為に飲んだのさ。今では左様ぢや無い、反つて苦痛を感ずる為に飲む。はゝゝゝゝ。と言ふと可笑しく聞えるかも知れないが、一晩でも酒の気が無からうものなら、寂しくて、寂しくて、身体は最早がた/\震へて来る。寝ても寝られない。左様なると殆んど精神は無感覚だ。察して呉れたまへ――飲んで苦しく思ふ時が、一番我輩に取つては活きてるやうな心地がするからねえ。恥を御話すればいろ/\だが、我輩も飯山学校へ奉職する前には、下高井の在で長く勤めたよ。今の家内を貰つたのは、丁度その下高井に居た時のことさ。そこはそれ、在に生れた女だけあつて、働くことは家内も克く働く。霜を掴んで稲を刈るやうなことは到底我輩には出来ないが――我輩がまた其様な真似をして見給へ、直に病気だ――ところが彼女には堪へられる。貧苦を忍ぶといふ力は家内の方が反つて我輩より強いね。だから君、最早斯う成つた日にやあ、恥も外聞もあつたものぢや無い、私は私でお百姓する、なんて言出して、馬鹿な、女の手で作なぞを始めた。我輩の家に旧から出入りする百姓の音作、あの夫婦が先代の恩返しだと言つて、手伝つては呉れるがね、どうせ左様うまく行きツこはないさ。それを我輩が言ふんだけれど、どうしても家内は聞入れない。尤も、我輩は士族だから、一反歩は何坪あるのか、一束に何斗の年貢を納めるのか、一升蒔で何俵の籾が取れるのか、一体年に肥料が何の位要るものか、其様なことは薩張解らん。現に我輩は家内が何坪借りて作つて居るかといふことも知らない。まあ、家内の量見では、子供に耕作でも見習はせて、行く/\は百姓に成つて了ふ積りらしいんだ。そこで毎時でも我輩と衝突が起る。どうせ彼様な無学な女は子供の教育なんか出来よう筈も無い。実際、我輩の家庭で衝突の起因と言へば必ず子供のことさ。子供がある為に夫婦喧嘩もするやうなものだが、又、その夫婦喧嘩をした為に子供が出来たりする。あゝ、もう沢山だ、是上出来たら奈何しよう、一人子供が増れば其丈貧苦を増すのだと思つても、出来るものは君どうも仕方が無いぢやないか。今の家内が三番目の女の児を産んだ時、えゝお末と命けてやれ、お末とでも命けたら終に成るか、斯う思つたら――どうでせう、君、直にまた四番目サ。仕方が無いから、今度は留吉とした。まあ、五人の子供に側で泣き立てられて見たまへ。なか/\遣りきれた訳のものでは無いよ。惨苦、惨苦――我輩は子供の多い貧乏な家庭を見る度に、つく/″\其惨苦を思ひやるねえ。五人の子供ですら食はせるのは容易ぢやない、若しまた是上に出来でもしたら、我輩の家なぞでは最早奈何していゝか解らん。』
斯う言つて、敬之進は笑つた。熱い涙は思はず知らず流れ落ちて、零落れた袖を湿したのである。
『我輩は君、これでも真面目なんだよ。』と敬之進は、額と言はず、頬と言はず、腮と言はず、両手で自分の顔を撫で廻した。『どうでせう、省吾の奴も君の御厄介に成つてるが、彼様な風で物に成りませうか。もう少許活溌だと好いがねえ。どうも女のやうな気分の奴で、泣易くて困る。平素弟に苦められ通しだ。同じ自分の子で、どれが可愛くて、どれが憎いといふことは有さうも無ささうなものだが、それがそれ、妙なもので、我輩は彼の省吾が可愛さうでならない。彼の通り弱いものだから、其丈哀憐も増すのだらうと思ふね。家内はまた弟の進贔顧。何ぞといふと、省吾の方を邪魔にして、無暗に叱るやうなことを為る。そこへ我輩が口を出すと、前妻の子ばかり可愛がつて進の方は少許も関つて呉れんなんて――直に邪推だ。だからもう我輩は何にも言はん。家内の為る通りに為せて、黙つて見て居るのさ。成るべく家内には遠ざかるやうにして、密と家を抜け出して来ては、独りで飲むのが何よりの慰藉だ。稀に我輩が何か言はうものなら、私は斯様に裸体で嫁に来やしなかつたなんて、其を言はれると一言も無い。実際、彼奴が持つて来た衣類は、皆な我輩が飲んで了つたのだから――はゝゝゝゝ。まあ、君等の目から見たら、さぞ我輩の生涯なぞは馬鹿らしく見えるだらうねえ。』
述懐は反つて敬之進の胸の中を軽くさせた。其晩は割合に早く酔つて、次第に物の言ひ様も煩く、終には呂律も廻らないやうに成つて了つたのである。
軈て二人は斯の炉辺を離れた。勘定は丑松が払つた。笹屋を出たのは八時過とも思はれる頃。夜の空気は暗く町々を包んで、往来の人通りもすくない。気が狂つて独語を言ひ乍ら歩く女、酔つて家を忘れたやうな男、そんな手合が時々二人に突当つた。敬之進は覚束ない足許で、やゝともすれば往来の真中へ倒れさうに成る。酔眼朦朧、星の光すら其瞳には映りさうにも見えなかつた。拠なく丑松は送り届けることにして、ある時は右の腕で敬之進の身体を支へるやうにしたり、ある時は肩へ取縋らせて背負ふやうにしたり、ある時は抱擁へて一緒に釣合を取り乍ら歩いた。
漸の思で、敬之進を家まで連れて行つた時は、まだ細君も音作夫婦も働いて居た。人々は夜露を浴び乍ら、屋外で仕事を為て居るのであつた。丑松が近くと、それと見た細君は直に斯う声を掛けた。
『あちや、まあ、御困りなすつたでごはせう。』
第五章
(一)
十一月三日はめづらしい大霜。長い/\山国の冬が次第に近いたことを思はせるのは是。其朝、丑松の部屋の窓の外は白い煙に掩はれたやうであつた。丑松は二十四年目の天長節を飯山の学校で祝ふといふ為に、柳行李の中から羽織袴を出して着て、去年の外套に今年もまた身を包んだ。
暗い楼梯を下りて、北向の廊下のところへ出ると、朝の光がうつくしく射して来た。溶けかゝる霜と一緒に、日にあたる裏庭の木葉は多く枝を離れた。就中、脆いのは銀杏で、梢には最早一葉の黄もとゞめない。丁度其霜葉の舞ひ落ちる光景を眺め乍ら、廊下の古壁に倚凭つて立つて居るのは、お志保であつた。丑松は敬之進のことを思出して、つく/″\彼の落魄の生涯を憐むと同時に、亦た斯の人を注意して見るといふ気にも成つたのである。
『お志保さん。』と丑松は声を掛けた。『奥様に左様言つて呉れませんか――今日は宿直の当番ですから何卒晩の弁当をこしらへて下さるやうに――後で学校の小使を取りによこしますからツて――ネ。』
と言はれて、お志保は壁を離れた。娘の時代には克くある一種の恐怖心から、何となく丑松を憚つて居るやうにも見える。何処か敬之進に似たところでもあるか、斯う丑松は考へて、其となく俤を捜して見ると、若々しい髪のかたち、額つき――まあ、どちらかと言へば、彼の省吾は父親似、斯の人はまた亡くなつたといふ母親の方にでも似たのであらう。『眼付なぞはもう彷彿さ』と敬之進も言つた。
『あの、』とお志保はすこし顔を紅くし乍ら、『此頃の晩は、大層父が御厄介に成りましたさうで。』
『いや、私の方で反つて失礼しましたよ。』と丑松は淡泊した調子で答へた。
『昨日、弟が参りまして、其話をいたしました。』
『むゝ、左様でしたか。』
『さぞ御困りで御座ましたらう――父が彼様いふ風ですから、皆さんの御厄介にばかり成りまして。』
敬之進のことは一時もお志保の小な胸を離れないらしい。柔嫩な黒眸の底には深い憂愁のひかりを帯びて、頬も紅く泣腫れたやうに見える。軈て斯ういふ言葉を取交した後、丑松は外套の襟で耳を包んで、帽子を冠つて蓮華寺を出た。
とある町の曲り角で、外套の袖袋に手を入れて見ると、古い皺だらけに成つた手袋が其内から出て来た。黒の莫大小の裏毛の付いたやつで、皺を延ばして填めた具合は少許細く緊り過ぎたが、握つた心地は暖かであつた。其手袋を鼻の先へ押当てゝ、紛とした湿気くさい臭気を嗅いで見ると、急に過去つた天長節のことが丑松の胸の中に浮んで来る。去年――一昨年――一昨々年――噫、未だ世の中を其程深く思ひ知らなかつた頃は、噴飯したくなるやうな、気楽なことばかり考へて、この大祭日を祝つて居た。手袋は旧の儘、色は褪めたが変らずにある。それから見ると人の精神の内部の光景の移り変ることは。これから将来の自分の生涯は畢竟奈何なる――誰が知らう。来年の天長節は――いや、来年のことは措いて、明日のことですらも。斯う考へて、丑松の心は幾度か明くなつたり暗くなつたりした。
さすがに大祭日だ。町々の軒は高く国旗を掲げ渡して、いづれの家も静粛に斯の記念の一日を送ると見える。少年の群は喜ばしさうな声を揚げ乍ら、霜に濡れた道路を学校の方へと急ぐのであつた。悪戯盛りの男の生徒、今日は何時にない大人びた様子をして、羽織袴でかしこまつた顔付のをかしさ。女生徒は新しい海老茶袴、紫袴であつた。
(二)
国のみかどの誕生の日を祝ふために、男女の生徒は足拍子揃へて、二階の式場へ通ふ階段を上つた。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四年を、いづれも受持々々の組の生徒を引連れて居た。退職の敬之進は最早客分ながら、何となく名残が惜まるゝといふ風で、旧の生徒の後に随いて同じやうに階段を上るのであつた。
斯の大祭の歓喜の中にも、丑松の心を驚かして、突然新しい悲痛を感ぜさせたことがあつた。といふは、猪子蓮太郎の病気が重くなつたと、ある東京の新聞に出て居たからで。尤も丑松の目に触れたは、式の始まるといふ前、審しく読む暇も無かつたから、其儘懐中へ押込んで来たのであつた。世には短い月日の間に長い生涯を送つて、あわただしく通り過ぎるやうに生れて来た人がある。恐らく蓮太郎も其一人であらう。新聞には最早むつかしいやうに書いてあつた。あゝ、先輩の胸中に燃える火は、世を焼くよりも前に、自分の身体を焚き尽して了ふのであらう。斯ういふ同情は一時も丑松の胸を離れない。猶繰返し読んで見たさは山々、しかし左様は今の場合が許さなかつた。
其日は赤十字社の社員の祝賀をも兼ねた。式場に集る人々の胸の上には、赤い織色の綬、銀の章の輝いたのも面白く見渡される。東の壁のところに、二十余人の寺々の住職、今年にかぎつて蓮華寺一人欠けたのも物足りないとは、流石に土地柄も思はれてをかしかつた。殊に風采の人目を引いたのは、高柳利三郎といふ新進政事家、すでに檜舞台をも踏んで来た男で、今年もまた代議士の候補者に立つといふ。銀之助、文平を始め、男女の教員は一同風琴の側に集つた。
『気をつけ。』
と呼ぶ丑松の凛とした声が起つた。式は始つたのである。
主座教員としての丑松は反つて校長よりも男女の少年に慕はれて居た。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものゝ胸に伝へるのであつた。軈て、『君が代』の歌の中に、校長は御影を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌は胸の上に懸つて、一層其風采を教育者らしくして見せた。『天長節』の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあつたが、是はまた場慣れて居る丈に手に入つたもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、斯ういふ一場の挨拶ですらも、人々の心を酔はせたのである。
平和と喜悦とは式場に満ち溢れた。
閉会の後、高等四年の生徒はかはる/″\丑松に取縋つて、種々物を尋ねるやら、跳るやら。あるものは手を引いたり、あるものは袖の下を潜り抜けたりして、戯れて、避けて行かうとする丑松を放すまいとした。仙太と言つて、三年の生徒で、新平民の少年がある。平素から退け者にされるのは其生徒。けふも寂しさうに壁に倚凭つて、皆の歓び戯れる光景を眺め乍ら立つて居た。可愛さうに、仙太は斯の天長節ですらも、他の少年と同じやうには祝ひ得ないのである。丑松は人知れず口唇を噛み〆て、『勇気を出せ、懼れるな』と励ますやうに言つて遣りたかつた。丁度他の教師が見て居たので、丑松は遁げるやうにして、少年の群を離れた。
今朝の大霜で、学校の裏庭にある樹木は大概落葉して了つたが、桜ばかりは未だ秋の名残をとゞめて居た。丑松は其葉蔭を選んで、時々私語くやうに枝を渡る微風の音にも胸を踊らせ乍ら、懐中から例の新聞を取出して展げて見ると――蓮太郎の容体は余程危いやうに書いてあつた。記者は蓮太郎の思想に一々同意するものでは無いが、兎も角も新平民の中から身を起して飽くまで奮闘して居る其意気を愛せずには居られないと書いてあつた。惜まれて逝く多くの有望な人々と同じやうに、今また斯の人が同じ病苦に呻吟すると聞いては、うたゝ同情の念に堪へないと書いてあつた。思ひあたることが無いでもない、人に迫るやうな渠の筆の真面目は斯うした悲哀が伴ふからであらう、斯ういふ記者も亦たその為に薬籠に親しむ一人であると書いてあつた。
動揺する地上の影は幾度か丑松を驚かした。日の光は秋風に送られて、かれ/″\な桜の霜葉をうつくしくして見せる。蕭条とした草木の凋落は一層先輩の薄命を冥想させる種となつた。
(三)
敬之進の為に開いた茶話会は十一時頃からあつた。其日の朝、蓮華寺を出る時、丑松は廊下のところでお志保に逢つて、この不幸な父親を思出したが、斯うして会場の正面に座ゑられた敬之進を見ると、今度は反対に彼の古壁に倚凭つた娘のことを思出したのである。敬之進の挨拶は長い身の上の述懐であつた。憐むといふ心があればこそ、丑松ばかりは首を垂れて聞いて居たやうなものゝ、さもなくて、誰が老の繰言なぞに耳を傾けよう。
茶話会の済んだ後のことであつた。丁度庭球の遊戯を為るために出て行かうとする文平を呼留めて、一緒に校長はある室の戸を開けて入つた。差向ひに椅子に腰掛けたは運動場近くにある窓のところで、庭球狂の銀之助なぞが呼び騒ぐ声も、玻璃に響いて面白さうに聞えたのである。
『まあ、勝野君、左様運動にばかり夢中にならないで、すこし話したまへ。』と校長は忸々敷、『時に、奈何でした、今日の演説は?』
『先生の御演説ですか。』と文平が打球板を膝の上に載せて、『いや、非常に面白く拝聴ひました。』
『左様ですかねえ――少許は聞きごたへが有ましたかねえ。』
『御世辞でも何でも無いんですが、今迄私が拝聴つた中では、先づ第一等の出来でしたらう。』
『左様言つて呉れる人があると難有い。』と校長は微笑み乍ら、『実は彼の演説をするために、昨夜一晩かゝつて準備しましたよ。忠孝といふ字義の解釈は奈何聞えました。我輩の積りでは、あれでも余程頭脳を痛めたのさ。種々な字典を参考するやら、何やら――そりやあもう、君。』
『どうしても調べたものは調べた丈のことが有ます。』
『しかし、真実に聞いて呉れた人は君くらゐのものだ。町の人なぞは空々寂々――いや、実際、耳を持たないんだからねえ。中には、高柳の話に酷く感服してる人がある。彼様な演説屋の話と、吾儕の言ふことゝを、一緒にして聞かれて堪るものかね。』
『どうせ解らない人には解らないんですから。』
と文平に言はれて、不平らしい校長の顔付は幾分か和いで来た。
其時迄、校長は何か言ひたいことがあつて、それを言はないで、反つて斯ういふ談話をして居るといふ風であつたが、軈て思ふことを切出した。わざ/\文平を呼留めて斯室へ連れて来たのは、どうかして丑松を退ける工夫は無いか、それを相談したい下心であつたのである。『と云ふのはねえ、』と校長は一段声を低くした。『瀬川君だの、土屋君だの、彼様いふ異分子が居ると、どうも学校の統一がつかなくて困る。尤も土屋君の方は、農科大学の助手といふことになつて、遠からず出掛けたいやうな話ですから――まあ斯人は黙つて居ても出て行く。難物は瀬川君です。瀬川君さへ居なくなつて了へば、後は君、もう吾儕の天下さ。どうかして瀬川君を廃して、是非其後へは君に座つて頂きたい。実は君の叔父さんからも種々御話が有ましたがね、叔父さんも矢張左様いふ意見なんです。何とか君、巧い工夫はあるまいかねえ。』
『左様ですなあ。』と文平は返事に困つた。
『生徒を御覧なさい――瀬川先生、瀬川先生と言つて、瀬川君ばかり大騒ぎしてる。彼様に大騒ぎするのは、瀬川君の方で生徒の機嫌を取るからでせう? 生徒の機嫌を取るといふのは、何か其処に訳があるからでせう? 勝野君、まあ君は奈何思ひます。』
『今の御話は私に克く解りません。』
『では、君、斯う言つたら――これはまあ是限りの御話なんですがね、必定瀬川君は斯の学校を取らうといふ野心があるに相違ないんです。』
『はゝゝゝゝ、まさか其程にも思つて居ないでせう。』と笑つて、文平は校長の顔を熟視つた。
『でせうか?』と校長は疑深く、『思つて居ないでせうか?』
『だつて、未だ其様なことを考へるやうな年齢ぢや有ません――瀬川君にしろ、土屋君にしろ、未だ若いんですもの。』
この『若いんですもの』が校長を嘆息させた。庭で遊ぶ庭球の球の音はおもしろく窓の玻璃に響いた。また一勝負始まつたらしい。思はず文平は聞耳を立てた。その文平の若々しい顔付を眺めると、校長は更に嘆息して、
『一体、瀬川君なぞは奈何いふことを考へて居るんでせう。』
『奈何いふことゝは?』と文平は不思議さうに。
『まあ、近頃の瀬川君の様子を見るのに、非常に沈んで居る――何か斯う深く考へて居る――新しい時代といふものは彼様物を考へさせるんでせうか。どうも我輩には不思議でならない。』
『しかし、瀬川君の考へて居るのは、何か別の事でせう――今、先生の仰つたやうな、其様な事ぢや無いでせう。』
『左様なると、猶々我輩には解釈が付かなくなる。どうも我輩の時代に比べると、瀬川君なぞの考へて居ることは全く違ふやうだ。我輩の面白いと思ふことを、瀬川君なぞは一向詰らないやうな顔してる。我輩の詰らないと思ふことを、反つて瀬川君なぞは非常に面白がつてる。畢竟一緒に事業が出来ないといふは、時代が違ふからでせうか――新しい時代の人と、吾儕とは、其様に思想が合はないものなんでせうか。』
『ですけれど、私なぞは左様思ひません。』
『そこが君の頼母しいところさ。何卒、君、彼様いふ悪い風潮に染まないやうにして呉れたまへ。及ばずながら君のことに就いては、我輩も出来るだけの力を尽すつもりだ。世の中のことは御互ひに助けたり助けられたりさ――まあ、勝野君、左様ぢや有ませんか。今茲で直に異分予を奈何するといふ訳にもいかない。ですから、何か好い工夫でも有つたら、考へて置いて呉れたまへ――瀬川君のことに就いて何か聞込むやうな場合でも有つたら、是非それを我輩に知らせて呉れたまへ。』
(四)
盛んな遊戯の声がまた窓の外に起つた。文平は打球板を提げて出て行つた。校長は椅子を離れて玻璃の戸を上げた。丁度運動場では庭球の最中。大人びた風の校長は、まだ筋骨の衰頽を感ずる程の年頃でも無いが、妙に遊戯の嫌ひな人で、殊に若いものゝ好な庭球などゝ来ては、昔の東洋風の軽蔑を起すのが癖。だから、『何を、児戯らしいことを』と言つたやうな目付して、夢中になつて遊ぶ人々の光景を眺めた。
地は日の光の為に乾き、人は運動の熱の為に燃えた。いつの間にか文平は庭へ出て、遊戯の仲間に加つた。銀之助は今、文平の組を相手にして、一戦を試みるところ。流石の庭球狂もさん/″\に敗北して、軈て仲間の生徒と一緒に、打球板を捨てゝ退いた。敵方の揚げる『勝負有』の声は、拍手の音に交つて、屋外の空気に響いておもしろさうに聞える。東よりの教室の窓から顔を出した二三の女教師も、一緒になつて手を叩いて居た。其時、幾組かに別れて見物した生徒の群は互ひに先を争つたが、中に一人、素早く打球板を拾つた少年があつた。新平民の仙太と見て、他の生徒が其側へ馳寄つて、無理無体に手に持つ打球板を奪ひ取らうとする。仙太は堅く握つた儘、そんな無法なことがあるものかといふ顔付。それはよかつたが、何時まで待つて居ても組のものが出て来ない。『さあ、誰か出ないか』と敵方は怒つて催促する。少年の群は互ひに顔を見合せて、困つて立つて居る仙太を冷笑して喜んだ。誰も斯の穢多の子と一緒に庭球の遊戯を為ようといふものは無かつたのである。
急に、羽織を脱ぎ捨てゝ、そこにある打球板を拾つたは丑松だ。それと見た人々は意味もなく笑つた。見物して居る女教師も微笑んだ。文平贔顧の校長は、丑松の組に勝たせたくないと思ふかして、熱心になつて窓から眺めて居た。丁度午後の日を背後にしたので、位置の利は始めから文平の組の方にあつた。
『壱、零。』
と呼ぶのは、網の傍に立つ審判官の銀之助である。丑松仙太は先づ第一の敗を取つた。見物して居る生徒は、いづれも冷笑を口唇にあらはして、仙太の敗を喜ぶやうに見えた。
『弐、零。』
と銀之助は高く呼んだ。丑松の組は第二の敗を取つたのである。『弐、零。』と見物の生徒は聞えよがしに繰返した。
敵方といふのは、年若な準教員――それ、丑松が蓮華寺へ明間を捜しに行つた時、帰路に遭遇つた彼男と、それから文平と、斯う二人の組で、丑松に取つては侮り難い相手であつた。それに、敵方の力は揃つて居るに引替へ、味方の仙太はまだ一向に練習が足りない。
『参、零。』
と呼ぶ声を聞いた時は、丑松もすこし気を苛つた。人種と人種の競争――それに敗を取るまいといふ丑松の意気が、何となく斯様な遊戯の中にも顕はれるやうで、『敗るな、敗けるな』と弱い仙太を激厲ますのであつた。丑松は撃手。最後の球を打つ為に、外廓の線の一角に立つた。『さあ、来い』と言はぬばかりの身構へして、窺ひ澄まして居る文平を目がけて、打込んだ球はかすかに網に触れた。『触』と銀之助の一声。丑松は二度目の球を試みた。力あまつて線を越えた。ああ、『落』だ。丑松も今は怒気を含んで、満身の力を右の腕に籠め乍ら、勝つも負けるも運は是球一つにあると、打込む勢は獅子奮進。青年の時代に克くある一種の迷想から、丁度一生の運命を一時の戯に占ふやうに見える。『内』と受けた文平もさるもの。故意と丑松の方角を避けて、うろ/\する仙太の虚を衝いた。烈しい日の光は真正面に射して、飛んで来る球のかたちすら仙太の目には見えなかつたのである。
『勝負有。』
と人々は一音に叫んだ。仙太の手から打球板を奪ひ取らうとした少年なぞは、手を拍つて、雀躍して、喜んだ。思はず校長も声を揚げて、文平の勝利を祝ふといふ風であつた。
『瀬川君、零敗とはあんまりぢやないか。』
といふ銀之助の言葉を聞捨てゝ、丑松はそこに置いた羽織を取上げながら、すご/\と退いた。やがて斯の運動場から裏庭の方へ廻つて、誰も見て居ないところへ来ると、不図何か思出したやうに立留つた。さあ、丑松は自分で自分を責めずに居られなかつたのである。蓮太郎――大日向――それから仙太、斯う聯想した時は、猜疑と恐怖とで戦慄へるやうになつた。噫、意地の悪い智慧はいつでも後から出て来る。
第六章
(一)
天長節の夜は宿直の当番であつたので、丑松銀之助の二人は学校に残つた。敬之進は急に心細く、名残惜しくなつて、いつまでも此処を去り兼ねる様子。夕飯の後、まだ宿直室に話しこんで、例の愚痴の多い性質から、生先長い二人に笑はれて居るうちに、壁の上の時計は八時打ち、九時打つた。それは翌朝の霜の烈しさを思はせるやうな晩で、日中とは違つて、めつきり寒かつた。丑松が見廻りの為に出て行つた後、まだ敬之進は火鉢の傍に齧り付いて、銀之助を相手に掻口説いて居た。
軈て二十分ばかり経つて丑松は帰つて来た。手提洋燈を吹消して、急いで火鉢の側に倚添ひ乍ら、『いや、もう屋外は寒いの寒くないのツて、手も何も凍んで了ふ――今夜のやうに酷烈しいことは今歳になつて始めてだ。どうだ、君、是通りだ。』と丑松は氷のやうに成つた手を出して、銀之助に触つた。『まあ、何といふ冷い手だらう。』斯う言つて、自分の手を引込まして、銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めたのである。
『顔色が悪いねえ、君は――奈何かしやしないか。』
と思はず其を口に出した。敬之進も同じやうに不審を打つて、
『我輩も今、其を言はうかと思つて居たところさ。』
丑松は何か思出したやうに慄へて、話さうか、話すまいか、と暫時躊躇する様子にも見えたが、あまり二人が熱心に自分の顔を熟視るので、つい/\打明けずには居られなく成つて来た。
『実はねえ――まあ、不思議なことがあるんだ。』
『不思議なとは?』と銀之助も眉をひそめる。
『斯ういふ訳さ――僕が手提洋燈を持つて、校舎の外を一廻りして、あの運動場の木馬のところまで行くと、誰か斯う僕を呼ぶやうな声がした。見れば君、誰も居ないぢやないか。はてな、聞いたやうな声だと思つて、考へて見ると、其筈さ――僕の阿爺の声なんだもの。』
『へえ、妙なことが有れば有るものだ。』と敬之進も不審しさうに、『それで、何ですか、奈何な風に君を呼びましたか、其声は。』
『「丑松、丑松」とつゞけざまに。』
『フウ、君の名前を?』と敬之進はもう目を円くして了つた。
『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑出して、『馬鹿なことを言ひたまへ。瀬川君も余程奈何かして居るんだ。』
『いや、確かに呼んだ。』と丑松は熱心に。
『其様な事があつて堪るものか。何かまた間違へでも為たんだらう。』
『土屋君、君は左様笑ふけれど、確かに僕の名を呼んだに相違ないよ。風が呻吟つたでも無ければ、鳥が啼いたでも無い。そんな声を、まさかに僕だつて間違へる筈も無からうぢやないか。どうしても阿爺だ。』
『君、真実かい――戯語ぢや無いのかい――また欺ぐんだらう。』
『土屋君は其だから困る。僕は君これでも真面目なんだよ。確かに僕は斯の耳で聞いて来た。』
『其耳が宛に成らないサ。君の父上さんは西乃入の牧場に居るんだらう。あの烏帽子ヶ嶽の谷間に居るんだらう。それ、見給へ。其父上さんが斯様な隔絶れた処に居る君の名前を呼ぶなんて――馬鹿らしい。』
『だから不思議ぢやないか。』
『不思議? ちよツ、不思議といふのは昔の人のお伽話だ。はゝゝゝゝ、智識の進んで来た今日、そんな馬鹿らしいことの有るべき筈が無い。』
『しかし、土屋君。』と敬之進は引取つて、『左様君のやうに一概に言つたものでもないよ。』
『はゝゝゝゝ、旧弊な人は是だから困る。』と銀之助は嘲るやうに笑つた。
急に丑松は聞耳を立てた。復た何か聞きつけたといふ風で、すこし顔色を変へて、言ふに言はれぬ恐怖を表したのである。戯れて居るので無いといふことは、其真面目な眼付を見ても知れた。
『や――復た呼ぶ声がする。何だか斯う窓の外の方で。』と丑松は耳を澄まして、『しかし、あまり不思議だ。一寸、僕は失敬するよ――もう一度行つて見て来るから。』
ぷいと丑松は駈出して行つた。
さあ、銀之助は友達のことが案じられる。敬之進はもう心に驚いて了つて、何かの前兆では有るまいか――第一、父親の呼ぶといふのが不思議だ、と斯う考へつゞけたのである。
『それはさうと、』と敬之進は思付いたやうに、『斯うして吾儕ばかり火鉢にあたつて居るのも気懸りだ。奈何でせう、二人で行つて見てやつては。』
『むゝ、左様しませうか。』と銀之助も火鉢を離れて立上つた。『瀬川君はすこし奈何かしてるんでせうよ。まあ、僕に言はせると、何か神経の作用なんですねえ――兎に角、それでは一寸待つて下さい。僕が今、手提洋燈を点けますから。』
(二)
深い思に沈み乍ら、丑松は声のする方へ辿つて行つた。見れば宿直室の窓を泄れる灯が、僅に庭の一部分を照して居るばかり。校舎も、樹木も、形を潜めた。何もかも今は夜の空気に包まれて、沈まり返つて、闇に隠れて居るやうに見える。それは少許も風の無い、閴とした晩で、寒威は骨に透徹るかのやう。恐らく山国の気候の烈しさを知らないものは、斯うした信濃の夜を想像することが出来ないであらう。
父の呼ぶ声が復た聞えた。急に丑松は立留つて、星明りに周囲を透して視たが、別に人の影らしいものが目に入るでも無かつた。すべては皆な無言である。犬一つ啼いて通らない斯の寒い夜に、何が音を出して丑松の耳を欺かう。
『丑松、丑松。』
とまた呼んだ。さあ、丑松は畏れず慄へずに居られなかつた。心はもう底の底までも掻乱されて了つたのである。たしかに其は父の声で――皺枯れた中にも威厳のある父の声で、あの深い烏帽子ヶ嶽の谷間から、遠く斯の飯山に居る丑松を呼ぶやうに聞えた。目をあげて見れば、空とても矢張地の上と同じやうに、音も無ければ声も無い。風は死に、鳥は隠れ、清しい星の姿ところ/″\。銀河の光は薄い煙のやうに遠く荘厳な天を流れて、深大な感動を人の心に与へる。さすがに幽な反射はあつて、仰げば仰ぐほど暗い藍色の海のやうなは、そこに他界を望むやうな心地もせらるゝのであつた。声――あの父の呼ぶ声は、斯の星夜の寒空を伝つて、丑松の耳の底に響いて来るかのやう。子の霊魂を捜すやうな親の声は確かに聞えた。しかし其意味は。斯う思ひ迷つて、丑松はあちこち/\と庭の内を歩いて見た。
あゝ、何を其様に呼ぶのであらう。丑松は一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。自分の精神の内部の苦痛が、子を思ふ親の情からして、自然と父にも通じたのであらうか。飽くまでも素性を隠せ、今日までの親の苦心を忘れるな、といふ意味であらうか。それで彼の牧場の番小屋を出て、自分のことを思ひ乍ら呼ぶ其声が谿谷から谿谷へ響いて居るのであらうか。それとも、また、自分の心の迷ひであらうか。といろ/\に想像して見て、終には恐怖と疑心とで夢中になつて、『阿爺さん、阿爺さん。』と自分の方から目的もなく呼び返した。
『やあ、君は其処に居たのか。』
と声を掛けて近いたのは銀之助。つゞいて敬之進も。二人はしきりに手提洋燈をさしつけて、先づ丑松の顔を調べ、身の周囲を調べ、それから闇を窺ふやうにして見て、さて丑松からまた/\父の呼声のしたことを聞取つた。
『土屋君、それ見たまへ。』
敬之進は寒さと恐怖とで慄へ乍ら言つた。銀之助は笑つて、
『どうしても其様なことは理窟に合はん。必定神経の故だ。一体、瀬川君は妙に猜疑深く成つた。だから其様な下らないものが耳に聞えるんだ。』
『左様かなあ、神経の故かなあ。』斯う丑松は反省するやうな調子で言つた。
『だつて君、考へて見たまへ。形の無いところに形が見えたり、声の無いところに声が聞えたりするなんて、それそこが君の猜疑深く成つた証拠さ。声も、形も、其は皆な君が自分の疑心から産出した幻だ。』
『幻?』
『所謂疑心暗鬼といふ奴だ。耳に聞える幻――といふのも少許変な言葉だがね、まあ左様いふことも言へるとしたら、其が今夜君の聞いたやうな声なんだ。』
『あるひは左様かも知れない。』
暫時、三人は無言になつた。天も地も閴として、声が無かつた。急に是の星夜の寂寞を破つて、父の呼ぶ声が丑松の耳の底に響いたのである。
『丑松、丑松。』
と次第に幽になつて、啼いて空を渡る夜の鳥のやうに、終には遠く細く消えて聞えなくなつて了つた。
『瀬川君。』と銀之助は手提洋燈をさしつけて、顔色を変へた丑松の様子を不思議さうに眺め乍ら、『どうしたい――君は。』
『今、また阿爺の声がした。』
『今? 何にも聞えやしなかつたぢやないか。』
『ホウ、左様かねえ。』
『左様かねえもないもんだ。何も声なぞは聞えやしないよ。』と言つて、銀之助は敬之進の方へ向いて、『風間さん、奈何でした――何か貴方には聞えましたか。』
『いゝえ。』と敬之進も力を入れた。
『ホウラ。風間さんにも聞えなければ、僕にも聞えない。聞いたのは、唯君ばかりだ。神経、神経――どうしても其に相違ない。』
斯う言つて、軈て銀之助はあちこちと闇を照らして見た。天は今僅かに星の映る鏡、地は今大な暗い影のやう。一つとして声のありさうなものが、手提洋燈の光に入るでもなかつた。『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出して、『まあ、僕は耳に聞いたつて信じられない。目に見たつて信じられない。手に取つて、触つて見て、それからでなければ其様なことは信じられない。いよ/\こりやあ、僕の観察の通りだ。生理的に其様な声が聞えたんだ。はゝゝゝゝ。それはさうと、馬鹿に寒く成つて来たぢやないか。僕は最早斯うして立つて居られなくなつた――行かう。』
(三)
其晩、寝床へ入つてからも、丑松は父と先輩とのことを考へて、寝られなかつた。銀之助は直にもう高鼾。どんなに丑松は傍に枕を並べて居る友達の寝顔を熟視つて、その平穏な、安静な睡眠を羨んだらう。夜も更けた頃、むつくと寝床から跳起きて、一旦細くした洋燈を復た明くしながら、蓮太郎に宛てた手紙を書いて見た。今はこの病気見舞すら人目を憚つて認める程に用心したのである。時々丑松は書きかけた筆を止めて、洋燈の光に友達の寝顔を窺つて見ると、銀之助は死んだ魚のやうに大な口を開いて、前後も知らず熟睡して居た。
全く丑松は蓮太郎を知らないでも無かつた。人の紹介で逢つて見たことも有るし、今歳になつて二三度手紙の往復もしたので、幾分か互ひの心情は通じた。然し、蓮太郎は篤志な知己として丑松のことを考へて居るばかり、同じ素性の青年とは夢にも思はなかつた。丑松もまた、其秘密ばかりは言ふことを躊躇して居る。だから何となく奥歯に物が挾まつて居るやうで、其晩書いた丑松の手紙にも十分に思つたことが表れない。何故是程に慕つて居るか、其さへ書けば、他の事はもう書かなくても済む。あゝ――書けるものなら丑松も書く。其を書けないといふのは、丑松の弱点で、とう/\普通の病気見舞と同じものに成つて了つた。『東京にて、猪子蓮太郎先生、瀬川丑松より』と認め終つた時は、深く/\良心を偽るやうな気がした。筆を投つて、嘆息して、復た冷い寝床に潜り込んだが、少許とろ/\としたかと思ふと、直に恐しい夢ばかり見つゞけたのである。
翌朝のことであつた。蓮華寺の庄馬鹿が学校へやつて来て、是非丑松に逢ひたいと言ふ。『何の用か』を小使に言はせると、『御目に懸つて御渡ししたいものが御座ます』とか。出て行つて玄関のところで逢へば、庄馬鹿は一通の電報を手渡しした。不取敢開封して読下して見ると、片仮名の文字も簡短に、父の死去したといふ報知が書いてあつた。突然のことに驚いて了つて、半信半疑で繰返した。確かに死去の報知には相違なかつた。発信人は根津の叔父。『直ぐ帰れ』としてある。
『それはどうも飛んだことで、嘸御力落しで御座ませう――はい、早速帰りまして、奥様にも申上げまするで御座ます。』
斯う庄馬鹿が言つた。小児のやうに死を畏れるといふ様子は、其愚しい目付に顕はれるのであつた。
丑松の父といふは、日頃極めて壮健な方で、激烈しい気候に遭遇つても風邪一つ引かず、巌畳な体躯は反つて壮夫を凌ぐ程の隠居であつた。牧夫の生涯といへばいかにも面白さうに聞えるが、其実普通の人に堪へられる職業では無いのであつて、就中西乃入の牧場の牛飼などと来ては、『彼の隠居だから勤まる』と人にも言はれる程。牛の性質を克く暗記して居るといふ丈では、所詮あの烏帽子ヶ嶽の深い谿谷に長く住むことは出来ない。気候には堪へられても、寂寥には堪へられない。温暖い日の下に産れて忍耐の力に乏しい南国の人なぞは、到底斯ういふ山の上の牧夫に適しないのである。そこはそれ、北部の信州人、殊に丑松の父は素朴な、勤勉な、剛健な気象で、労苦を労苦とも思はない上に、別に人の知らない隠遁の理由をも持つて居た。思慮の深い父は丑松に一生の戒を教へたばかりで無く、自分も亦た成るべく人目につかないやうに、と斯う用心して、子の出世を祈るより外にもう希望もなければ慰藉もないのであつた。丑松のため――其を思ふ親の情からして、人里遠い山の奥に浮世を離れ、朝夕炭焼の煙りを眺め、牛の群を相手に寂しい月日を送つて来たので。月々丑松から送る金の中から好な地酒を買ふといふことが、何よりの斯牧夫のたのしみ。労苦も寂寥も其の為に忘れると言つて居た。斯ういふ阿爺が――まあ、鋼鉄のやうに強いとも言ひたい阿爺が、病気の前触も無くて、突然死去したと言つてよこしたとは。
電報は簡短で亡くなつた事情も解らなかつた。それに、父が牧場の番小屋に上るのは、春雪の溶け初める頃で、また谷々が白く降り埋められる頃になると、根津村の家へ下りて来る毎年の習慣である。もうそろ/\冬籠りの時節。考へて見れば、亡くなつた場処は、西乃入か、根津か、其すら斯電報では解らない。
しかし、其時になつて、丑松は昨夜の出来事を思出した。あの父の呼声を思出した。あの呼声が次第に遠く細くなつて、別離を告げるやうに聞えたことを思出した。
斯の電報を銀之助に見せた時は、流石の友達も意外なといふ感想に打たれて、暫時茫然として突立つた儘、丑松の顔を眺めたり、死去の報告を繰返して見たりした。軈て銀之助は思ひついたやうに、
『むゝ、根津には君の叔父さんがあると言つたツけねえ。左様いふ叔父さんが有れば、万事見ては呉れたらう。しかし気の毒なことをした。なにしろ、まあ早速帰る仕度をしたまへ。学校の方は、君、奈何にでも都合するから。』
斯う言つて呉れる友達の顔には真実が輝き溢れて居た。たゞ銀之助は一語も昨夜のことを言出さなかつたのである。『死は事実だ――不思議でも何でも無い』と斯の若い植物学者は眼で言つた。
校長は時刻を違へず出勤したので、早速この報知を話した。丑松は直にこれから出掛けて行きたいと話した。留守中何分宜敷、受持の授業のことは万事銀之助に頼んで置いたと話した。
『奈何にか君も吃驚なすつたでせう。』と校長は忸々敷調子で言つた。『学校の方は君、土屋君も居るし、勝野君も居るし、其様なことはもう少許も御心配なく。実に我輩も意外だつた、君の父上さんが亡くならうとは。何卒、まあ、彼方の御用も済み、忌服でも明けることになつたら、また学校の為に十分御尽力を願ひませう。吾儕の事業が是丈に揚つて来たのも、一つは君の御骨折からだ。斯うして君が居て下さるんで、奈何にか我輩も心強いか知れない。此頃も或処で君の評判を聞いて来たが、何だか斯う我輩は自分を褒められたやうな心地がした。実際、我輩は君を頼りにして居るのだから。』と言つて気を変へて、『それにしても、出掛けるとなると、思つたよりは要るものだ。少許位は持合せも有ますから、立替へて上げても可のですが、どうです少許御持ちなさらんか。もし御入用なら遠慮なく言つて下さい。足りないと、また困りますよ。』
と言ふ校長の言葉はいかにも巧みであつた。しかし丑松の耳には唯わざとらしく聞えたのである。
『瀬川君、それでは届を忘れずに出して行つて下さい――何も規則ですから。』
斯う校長は添加して言つた。
(四)
丑松が急いで蓮華寺へ帰つた時は、奥様も、お志保も飛んで出て来て、電報の様子を問ひ尋ねた。奈何に二人は丑松の顔を眺めて、この可傷しい報知の事実を想像したらう。奈何に二人は昨夜の不思議な出来事を聞取つて、女心に恐しくあさましく考へたらう。奈何に二人は世にある多くの例を思出して、死を告げる前兆、逢ひに来る面影、または闇を飛ぶといふ人魂の迷信なぞに事寄せて、この暗合した事実に胸を騒がせたらう。
『それはさうと、』と奥様は急に思付いたやうに、『まだ貴方は朝飯前でせう。』
『あれ、左様でしたねえ。』とお志保も言葉を添へた。
『瀬川さん。そんなら準備して御出なすつて下さい。今直に御飯にいたしますから。是から御出掛なさるといふのに、生憎何にも無くて御気の毒ですねえ――塩鮭でも焼いて上げませうか。』
奥様はもう涙ぐんで、蔵裏の内をぐる/\廻つて歩いた。長い年月の精舎の生活は、この女の性質を感じ易く気短くさせたのである。
『なむあみだぶ。』
と斯の有髪の尼は独語のやうに唱へて居た。
丑松は二階へ上つて大急ぎで旅の仕度をした。場合が場合、土産も買はず、荷物も持たず、成るべく身軽な装をして、叔母の手織の綿入を行李の底から出して着た。丁度そこへ足を投出して、脚絆を着けて居るところへ、下女の袈裟治に膳を運ばせて、つゞいて入つて来たのはお志保である。いつも飯櫃は出し放し、三度が三度手盛りでやるに引きかへ、斯うして人に給仕して貰ふといふは、嬉敷もあり、窮屈でもあり、無造作に膳を引寄せて、丑松はお志保につけて貰つて食つた。其日はお志保もすこし打解けて居た。いつものやうに丑松を恐れる様子も見えなかつた。敬之進の境涯を深く憐むといふ丑松の真実が知れてから、自然と思惑を憚る心も薄らいで、斯うして給仕して居る間にも種々なことを尋ねた。お志保はまた丑松の母のことを尋ねた。
『母ですか。』と丑松は淡泊とした男らしい調子で、『亡くなつたのは丁度私が八歳の時でしたよ。八歳といへば未だほんの小供ですからねえ。まあ、私は母のことを克く覚えても居ない位なんです――実際母親といふものゝ味を真実に知らないやうなものなんです。父親だつても、矢張左様で、この六七年の間は一緒に長く居て見たことは有ません。いつでも親子はなれ/″\。実は父親も最早好い年でしたからね――左様ですなあ貴方の父上さんよりは少許年長でしたらう――彼様いふ風に平素壮健な人は、反つて病気なぞに罹ると弱いのかも知れませんよ。私なぞは、ですから、親に縁の薄い方の人間なんでせう。と言へば、まあお志保さん、貴方だつても其御仲間ぢや有ませんか。』
斯の言葉はお志保の涙を誘ふ種となつた。あの父親とは――十三の春に是寺へ貰はれて来て、それぎり最早一緒に住んだことがない。それから、あの生の母親とは――是はまた子供の時分に死別れて了つた。親に縁の薄いとは、丁度お志保の身の上でもある。お志保は自分の家の零落を思出したといふ風で、すこし顔を紅くして、黙つて首を垂れて了つた。
そのお志保の姿を注意して見ると、亡くなつた母親といふ人も大凡想像がつく。『彼娘の容貌を見ると直に前の家内が我輩の眼に映る』と言つた敬之進の言葉を思出して見ると、『昔風に亭主に便といふ風で、どこまでも我輩を信じて居た』といふ女の若い時は――いづれこのお志保と同じやうに、情の深い、涙脆い、見る度に別の人のやうな心地のする、姿ありさまの種々に変るやうな人であつたに相違ない。いづれこのお志保と同じやうに、醜くも見え、美しくも見え、ある時は蒼く黄ばんで死んだやうな顔付をして居るかと思ふと、またある時は花のやうに白い中にも自然と紅味を含んで、若く、清く、活々とした顔付をして居るやうな人であつたに相違ない。まあ、お志保を通して想像した母親の若い時の俤は斯うであつた。快活な、自然な信州北部の女の美質と特色とは、矢張丑松のやうな信州北部の男子の眼に一番よく映るのである。
旅の仕度が出来た後、丑松はこの二階を下りて、蔵裏の広間のところで皆と一緒に茶を飲んだ。新しい木製の珠数、それが奥様からの餞別であつた。やがて丑松は庄馬鹿の手作りにしたといふ草鞋を穿いて、人々のなさけに見送られて蓮華寺の山門を出た。
第七章
(一)
それは忘れることの出来ないほど寂しい旅であつた。一昨年の夏帰省した時に比べると、斯うして千曲川の岸に添ふて、可懐しい故郷の方へ帰つて行く丑松は、まあ自分で自分ながら、殆んど別の人のやうな心地がする。足掛三年、と言へば其程長い月日とも聞えないが、丑松の身に取つては一生の変遷の始つた時代で――尤も、人の境遇によつては何時変つたといふことも無しに、自然に世を隔てたやうな感想のするものもあらうけれど――其精神の内部の革命が丑松には猛烈に起つて来て、しかも其を殊に深く感ずるのである。今は誰を憚るでも無い身。乾燥いだ空気を自由に呼吸して、自分のあやしい運命を悲しんだり、生涯の変転に驚いたりして、無限の感慨に沈み乍ら歩いて行つた。千曲川の水は黄緑の色に濁つて、声も無く流れて遠い海の方へ――其岸に蹲るやうな低い楊柳の枯々となつた光景――あゝ、依然として旧の通りな山河の眺望は、一層丑松の目を傷ましめた。時々丑松は立留つて、人目の無い路傍の枯草の上に倒れて、声を揚げて慟哭したいとも思つた。あるひは、其を為たら、堪へがたい胸の苦痛が少許は減つて軽く成るかとも考へた。奈何せん、哭きたくも哭くことの出来ない程、心は重く暗く閉塞つて了つたのである。
漂泊する旅人は幾群か丑松の傍を通りぬけた。落魄の涙に顔を濡して、餓ゑた犬のやうに歩いて行くものもあつた。何か職業を尋ね顔に、垢染みた着物を身に絡ひ乍ら、素足の儘で土を踏んで行くものもあつた。あはれげな歌を歌ひ、鈴振鳴らし、長途の艱難を修行の生命にして、日に焼けて罪滅し顔な巡礼の親子もあつた。または自堕落な編笠姿、流石に世を忍ぶ風情もしをらしく、放肆に恋慕の一曲を弾じて、銭を乞ふやうな卑しい芸人の一組もあつた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、自分の身の上と思ひ比べた。奈何に丑松は今の境涯の遣瀬なさを考へて、自在に漂泊する旅人の群を羨んだらう。
飯山を離れて行けば行く程、次第に丑松は自由な天地へ出て来たやうな心地がした。北国街道の灰色な土を踏んで、花やかな日の光を浴び乍ら、時には岡に上り時には桑畠の間を歩み、時にはまた街道の両側に並ぶ町々を通過ぎて、汗も流れ口も乾き、足袋も脚絆も塵埃に汚れて白く成つた頃は、反つて少許蘇生の思に帰つたのである。路傍の柿の樹は枝も撓むばかりに黄な珠を見せ、粟は穂を垂れ、豆は莢に満ち、既に刈取つた田畠には浅々と麦の萌え初めたところもあつた。遠近に聞える農夫の歌、鳥の声――あゝ、山家でいふ『小六月』だ。其日は高社山一帯の山脈も面白く容を顕して、山と山との間の深い谷蔭には、青々と炭焼の煙の立登るのも見えた。
蟹沢の出はづれで、当世風の紳士を乗せた一台の人力車が丑松に追付いた。見れば天長節の朝、式場で演説した高柳利三郎。代議士の候補者に立つものは、そろ/\政見を発表する為に忙しくなる時節。いづれ是人も、選挙の準備として、地方廻りに出掛けるのであらう。と見る丑松の側を、高柳は意気揚々として、すこし人を尻目にかけて、挨拶も為ずに通過ぎた。二三町離れて、車の上の人は急に何か思付いたやうに、是方を振返つて見たが、別に丑松の方では気にも留めなかつた。
日は次第に高くなつた。水内の平野は丑松の眼前に展けた。それは広濶とした千曲川の流域で、川上から押流す泥砂の一面に盛上つたところを見ても、氾濫の凄じさが思ひやられる。見渡す限り田畠は遠く連ねて、欅の杜もところ/″\。今は野も山も濃く青い十一月の空気を呼吸するやうで、うら枯れた中にも活々とした自然の風趣を克く表して居る。早く斯の川の上流へ――小県の谷へ――根津の村へ、斯う考へて、光の海を望むやうな可懐しい故郷の空をさして急いだ。
豊野と言つて汽車に乗るべきところへ着いたは、午後の二時頃。車で駈付けた高柳も、同じ列車を待合せて居たと見え、発車時間の近いた頃に休茶屋からやつて来た。『何処へ行くのだらう、彼男は。』斯う思ひ乍ら、丑松は其となく高柳の様子を窺ふやうにして見ると、先方も同じやうに丑松を注意して見るらしい。それに、不思議なことには、何となく丑松を避けるといふ風で、成るべく顔を合すまいと勉めて居た。唯互ひに顔を知つて居るといふ丈、つひぞ名乗合つたことが有るではなし、二人は言葉を交さうともしなかつた。
軈て発車を報せる鈴の音が鳴つた。乗客はいづれも埒の中へと急いだ。盛な黒烟を揚げて直江津の方角から上つて来た列車は豊野停車場の前で停つた。高柳は逸早く群集の中を擦抜けて、一室の扉を開けて入る。丑松はまた機関車近邇の一室を択んで乗つた。思はず其処に腰掛けて居た一人の紳士と顔を見合せた時は、あまりの奇遇に胸を打たれたのである。
『やあ――猪子先生。』
と丑松は帽子を脱いで挨拶した。紳士も、意外な処で、といふ驚喜した顔付。
『おゝ、瀬川君でしたか。』
(二)
夢寐にも忘れなかつた其人の前に、丑松は今偶然にも腰掛けたのである。壮年の発達に驚いたやうな目付をして、可懐しさうに是方を眺めたは、蓮太郎。敬慕の表情を満面に輝かし乍ら、帰省の由緒を物語るのは、丑松。実に是邂逅の唐突で、意外で、しかも偽りも飾りも無い心の底の外面に流露れた光景は、男性と男性との間に稀に見られる美しさであつた。
蓮太郎の右側に腰掛けて居た、背の高い、すこし顔色の蒼い女は、丁度読みさしの新聞を休めて、丑松の方を眺めた。玻璃越しに山々の風景を望んで居た一人の肥大な老紳士、是も窓のところに倚凭つて、振返つて二人の様子を見比べた。
新聞で蓮太郎のことを読んで見舞状まで書いた丑松は、この先輩の案外元気のよいのを眼前に見て、喜びもすれば不思議にも思つた。かねて心配したり想像したりした程に身体の衰弱が目につくでも無い。強い意志を刻んだやうな其大な額――いよ/\高く隆起した其頬の骨――殊に其眼は一種の神経質な光を帯びて、悲壮な精神の内部を明白と映して見せた。時として顔の色沢なぞを好く見せるのは彼の病気の習ひ、あるひは其故かとも思はれるが、まあ想像したと見たとは大違ひで、血を吐く程の苦痛をする重い病人のやうには受取れなかつた。早速丑松は其事を言出して、『実は新聞で見ました』から、『東京の御宅へ宛てゝ手紙を上げました』まで、真実を顔に表して話した。
『へえ、新聞に其様なことが出て居ましたか。』と蓮太郎は微笑んで、『聞違へでせう――不良かつたといふのを、今不良いといふ風に、聞違へて書いたんでせう。よく新聞には左様いふ間違ひが出て来ますよ。まあ御覧の通り、斯うして旅行が出来る位ですから安心して下さい。誰がまた其様な大袈裟なことを書いたか――はゝゝゝゝ。』
聞いて見ると、蓮太郎は赤倉の温泉へ身体を養ひに行つて、今其帰途であるとのこと。其時同伴の人々をも丑松に紹介した。右側に居る、何となく人格の奥床しい女は、先輩の細君であつた。肥大な老紳士は、かねて噂に聞いた信州の政客、この冬打つて出ようとして居る代議士の候補者の一人、雄弁と侠気とで人に知られた弁護士であつた。
『あゝ、瀬川君と仰るんですか。』と弁護士は愛嬌のある微笑を満面に湛へ乍ら、快活な、磊落な調子で言つた。『私は市村です――只今長野に居ります――何卒まあ以後御心易く。』
『市村君と僕とは、』蓮太郎は丑松の顔を眺めて、『偶然なことから斯様に御懇意にするやうになつて、今では非常な御世話に成つて居ります。僕の著述のことでは、殊にこの市村君が心配して居て下さるんです。』
『いや。』と弁護士は肥大な身体を動つた。『我輩こそ反つて種々御世話に成つて居るので――まあ、年だけは猪子君の方がずつと若い、はゝゝゝゝ、しかし其他のことにかけては、我輩の先輩です。』斯う言つて、何か思出したやうに嘆息して、『近頃の人物を数へると、いづれも年少気鋭の士ですね。我輩なぞは斯の年齢に成つても、未だ碌々として居るやうな訳で、考へて見れば実に御恥しい。』
斯ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふ情が表れて、創意のあるものを忌むやうな悪い癖は少許も見えなかつた。そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種々な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。
猶深く聞いて見ると、これから市村弁護士は上田を始めとして、小諸、岩村田、臼田なぞの地方を遊説する為、政見発表の途に上るのであるとのこと。親しく佐久小県地方の有権者を訪問して草鞋穿主義で選挙を争ふ意気込であるとのこと。蓮太郎はまた、この友人の応援の為、一つには自分の研究の為、しばらく可懐しい信州に踏止まりたいといふ考へで、今宵は上田に一泊、いづれ二三日の内には弁護士と同道して、丑松の故郷といふ根津村へも出掛けて行つて見たいとのことであつた。この『根津村へも』が丑松の心を悦ばせたのである。
『そんなら、瀬川さんは今飯山に御奉職ですな。』と弁護士は丑松に尋ねて見た。
『飯山――彼処からは候補者が出ませう? 御存じですか、あの高柳利三郎といふ男を。』
蛇の道は蛇だ。弁護士は直に其を言つた。丑松は豊野の停車場で落合つたことから、今この同じ列車に乗込んで居るといふことを話した。何か思当ることが有るかして、弁護士は不思議さうに首を傾げ乍ら、『何処へ行くのだらう』を幾度となく繰返した。
『しかし、是だから汽車の旅は面白い。同じ列車の内に乗合せて居ても、それで互ひに知らずに居るのですからなあ。』
斯う言つて弁護士は笑つた。
病のある身ほど、人の情の真と偽とを烈しく感ずるものは無い。心にも無いことを言つて慰めて呉れる健康な幸福者の多い中に、斯ういふ人々ばかりで取囲かれる蓮太郎の嬉しさ。殊に丑松の同情は言葉の節々にも表れて、それがまた蓮太郎の身に取つては、奈何にか胸に徹へるといふ様子であつた。其時細君は籠の中に入れてある柿を取出した。それは汽車の窓から買取つたもので、其色の赤々としてさも甘さうに熟したやつを、択つて丑松にも薦め、弁護士にも薦めた。蓮太郎も一つ受取つて、秋の果実のにほひを嗅いで見乍ら、さて種々な赤倉温泉の物語をした。越後の海岸まで旅したことを話した。蓮太郎は又、東京の市場で売られる果実なぞに比較して、この信濃路の柿の新しいこと、甘いことを賞めちぎつて話した。
駅々で車の停る毎に、農夫の乗客が幾群か入込んだ。今は室の内も放肆な笑声と無遠慮な雑談とで満さるゝやうに成つた。それに、東海道沿岸などの鉄道とは違ひ、この荒寥とした信濃路のは、汽車までも旧式で、粗造で、山家風だ。其列車が山へ上るにつれて、窓の玻璃に響いて烈しく動揺する。終には談話も能く聞取れないことがある。油のやうに飯山あたりの岸を浸す千曲川の水も、見れば大な谿流の勢に変つて、白波を揚げて谷底を下るのであつた。濃く青く清々とした山気は窓から流込んで、次第に高原へ近いたことを感ぜさせる。
軈て、汽車は上田へ着いた。旅人は多くこの停車場で下りた。蓮太郎も、妻君も、弁護士も。『瀬川君、いづれそれでは根津で御目に懸ります――失敬。』斯う言つて、再会を約して行く先輩の後姿を、丑松は可懐しさうに見送つた。
急に室の内は寂しくなつたので、丑松は冷い鉄の柱に靠れ乍ら、眼を瞑つて斯の意外な邂逅を思ひ浮べて見た。慾を言へば、何となく丑松は物足りなかつた。彼程打解けて呉れて、彼程隔ての無い言葉を掛けられても、まだ丑松は何処かに冷淡しい他人行儀なところがあると考へて、奈何して是程の敬慕の情が彼の先輩の心に通じないのであらう、と斯う悲しくも情なくも思つたのである。嫉むでは無いが、彼の老紳士の親しくするのが羨ましくも思はれた。
其時になつて丑松も明に自分の位置を認めることが出来た。敬慕も、同情も、すべて彼の先輩に対して起る心の中のやるせなさは――自分も亦た同じやうに、『穢多である』といふ切ない事実から湧上るので。其秘密を蔵して居る以上は、仮令口の酸くなるほど他の事を話したところで、自分の真情が先輩の胸に徹へる時は無いのである。無理もない。あゝ、あゝ、其を告白けて了つたなら、奈何に是胸の重荷が軽くなるであらう。奈何に先輩は驚いて、自分の手を執つて、『君も左様か』と喜んで呉れるであらう。奈何に二人の心と心とがハタと顔を合せて、互ひに同じ運命を憐むといふ其深い交際に入るであらう。
左様だ――せめて彼の先輩だけには話さう。斯う考へて、丑松は楽しい再会の日を想像して見た。
(三)
田中の停車場へ着いた頃は日暮に近かつた。根津村へ行かうとするものは、こゝで下りて、一里あまり小県の傾斜を上らなければならない。
丑松が汽車から下りた時、高柳も矢張同じやうに下りた。流石代議士の候補者と名乗る丈あつて、風采は堂々とした立派なもの。権勢と奢侈とで饑ゑたやうな其姿の中には、何処となく斯う沈んだところもあつて、時々盗むやうに是方を振返つて見た。成るべく丑松を避けるといふ風で、顔を合すまいと勉めて居ることは、いよ/\其素振で読めた。『何処へ行のだらう、彼男は。』と見ると、高柳は素早く埒を通り抜けて、引隠れる場処を欲しいと言つたやうな具合に、旅人の群に交つたのである。深く外套に身を包んで、人目を忍んで居るさへあるに、出迎への人々に取囲かれて、自分と同じ方角を指して出掛けるとは。
北国街道を左へ折れて、桑畠の中の細道へ出ると、最早高柳の一行は見えなかつた。石垣で積上げた田圃と田圃との間の坂路を上るにつれて、烏帽子山脈の大傾斜が眼前に展けて来る。広野、湯の丸、籠の塔、または三峯、浅間の山々、其他ところ/″\に散布する村落、松林――一つとして回想の種と成らないものはない。千曲川は遠く谷底を流れて、日をうけておもしろく光るのであつた。
其日は灰紫色の雲が西の空に群つて、飛騨の山脈を望むことは出来なかつた。あの千古人跡の到らないところ、もし夕雲の隔てさへ無くば、定めし最早皚々とした白雪が夕日を帯びて、天地の壮観は心を驚かすばかりであらうと想像せられる。山を愛するのは丑松の性分で、斯うして斯の大傾斜大谿谷の光景を眺めたり、又は斯の山間に住む信州人の素朴な風俗と生活とを考へたりして、岩石の多い凸凹した道を踏んで行つた時は、若々しい総身の血潮が胸を衝いて湧上るやうに感じた。今は飯山の空も遠く隔つた。どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫時自分を忘れるといふ其楽しい心地に帰つたであらう。
山上の日没も美しく丑松の眼に映つた。次第に薄れて行く夕暮の反射を受けて、山々の色も幾度か変つたのである。赤は紫に。紫は灰色に。終には野も岡も暮れ、影は暗く谷から谷へ拡つて、最後の日の光は山の巓にばかり輝くやうになつた。丁度天空の一角にあたつて、黄ばんで燃える灰色の雲のやうなは、浅間の煙の靡いたのであらう。
斯ういふ楽しい心地は、とは言へ、長く続かなかつた。荒谷のはづれ迄行けば、向ふの山腹に連なる一村の眺望、暮色に包まれた白壁土壁のさま、其山家風の屋根と屋根との間に黒ずんで見えるのは柿の梢か――あゝ根津だ。帰つて行く農夫の歌を聞いてすら、丑松はもう胸を騒がせるのであつた。小諸の向町から是処へ来て隠れた父の生涯、それを考へると、黄昏の景気を眺める気も何も無くなつて了ふ。切なさは可懐しさに交つて、足もおのづから慄へて来た。あゝ、自然の胸懐も一時の慰藉に過ぎなかつた。根津に近けば近くほど、自分が穢多である、調里(新平民の異名)である、と其心地が次第に深く襲ひ迫つて来たので。
暗くなつて第二の故郷へ入つた。もと/\父が家族を引連れて、この片田舎に移つたのは、牧場へ通ふ便利を考へたばかりで無く、僅少ばかりの土地を極く安く借受けるやうな都合もあつたからで。現に叔父が耕して居るのは其畠である。流石に用心深い父は人目につかない村はづれを択んだので、根津の西町から八町程離れて、とある小高い丘の裾のところに住んだ。
長野県小県郡根津村大字姫子沢――丑松が第二の故郷とは、其五十戸ばかりの小部落を言ふのである。
(四)
父の死去した場処は、斯の根津村の家ではなくて、西乃入牧場の番小屋の方であつた。叔父は丑松の帰村を待受けて、一緒に牧場へ出掛ける心算であつたので、兎も角も丑松を炉辺に座ゑ、旅の疲労を休めさせ、例の無慾な、心の好ささうな声で、亡くなつた人の物語を始めた。炉の火は盛に燃えた。叔母も啜り上げ乍ら耳を傾けた。聞いて見ると、父の死去は、老の為でもなく、病の為でも無かつた。まあ、言はゞ、職業の為に突然な最後を遂げたのであつた。一体、父が家畜を愛する心は天性に近かつたので、随つて牧夫としての経験も深く、人にも頼まれ、牧場の持主にも信ぜられた位。牛の性質なぞはなか/\克く暗記して居たもの。よもや彼の老練な人が其道に手ぬかりなどの有らうとは思はれない。そこがそれ人の一生の測りがたさで、不図ある種牛を預つた為に、意外な出来事を引起したのであつた。種牛といふのは性質が悪かつた。尤も、多くの牝牛の群の中へ、一頭の牡牛を放つのであるから、普通の温順しい種牛ですら荒くなる。時としては性質が激変する。まして始めから気象の荒い雑種と来たから堪らない。広濶とした牧場の自由と、誘ふやうな牝牛の鳴声とは、其種牛を狂ふばかりにさせた。終には家養の習慣も忘れ、荒々しい野獣の本性に帰つて、行衛が知れなくなつて了つたのである。三日経つても来ない。四日経つても帰らない。さあ、父は其を心配して、毎日水草の中を捜して歩いて、ある時は深い沢を分けて日の暮れる迄も尋ねて見たり、ある時は山から山を猟つて高い声で呼んで見たりしたが、何処にも影は見えなかつた。昨日の朝、父はまた捜しに出た。いつも遠く行く時には、必ず昼飯を用意して、例の『山猫』(鎌、鉈、鋸などの入物)に入れて背負つて出掛ける。ところが昨日に限つては持たなかつた。時刻に成つても帰らない。手伝ひの男も不思議に思ひ乍ら、塩を与へる為に牛小屋のあるところへ上つて行くと、牝牛の群が喜ばしさうに集まつて来る。丁度其中には、例の種牛も恍け顔に交つて居た。見れば角は紅く血に染つた。驚きもし、呆れもして、来合せた人々と一緒になつて取押へたが、其時はもう疲れて居た故か、別に抵抗も為なかつた。さて男は其処此処と父を探して歩いた。漸く岡の蔭の熊笹の中に呻吟き倒れて居るところを尋ね当てゝ、肩に掛けて番小屋迄連れ帰つて見ると、手当も何も届かない程の深傷。叔父が聞いて駈付けた時は、まだ父は確乎して居た。最後に気息を引取つたのが昨夜の十時頃。今日は人々も牧場に集つて、番小屋で通夜と極めて、いづれも丑松の帰るのを待受けて居るとのことであつた。
『といふ訳で、』と叔父は丑松の顔を眺めた。『私が阿兄に、何か言つて置くことはねえか、と尋ねたら、苦しい中にも気象はしやんとしたもので、「俺も牧夫だから、牛の為に倒れるのは本望だ。今となつては他に何にも言ふことはねえ。唯気にかゝるのは丑松のこと。俺が今日迄の苦労は、皆な彼奴の為を思ふから。日頃俺は彼奴に堅く言聞かせて置いたことがある。何卒丑松が帰つて来たら、忘れるな、と一言左様言つてお呉れ。」』
丑松は首を垂れて、黙つて父の遺言を聞いて居た。叔父は猶言葉を継いで、
『「それから、俺は斯の牧場の土と成りたいから、葬式は根津の御寺でしねえやうに、成るなら斯の山でやつてお呉れ。俺が亡くなつたとは、小諸の向町へ知らせずに置いてお呉れ――頼む。」と斯う言ふから、其時私が「むゝ、解つた、解つた」と言つてやつたよ。すると阿兄は其が嬉しかつたと見え、につこり笑つて、軈て私の顔を眺め乍らボロ/\と涙を零した。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。』
斯ういふ父の臨終の物語は、言ふに言はれぬ感激を丑松の心に与へたのである。牧場の土と成りたいと言ふのも、山で葬式をして呉れと言ふのも、小諸の向町へ知らせずに置いて呉れと言ふのも、畢竟るところは丑松の為を思ふからで。丑松は其精神を酌取つて、父の用意の深いことを感ずると同時に、又、一旦斯うと思ひ立つたことは飽くまで貫かずには置かないといふ父の気魄の烈しさを感じた。実際、父が丑松に対する時は、厳格を通り越して、残酷な位であつた。亡くなつた後までも、猶丑松は父を畏れたのである。
やがて丑松は叔父と一緒に、西乃入牧場を指して出掛けることになつた。万事は叔父の計らひで、検屍も済み、棺も間に合ひ、通夜の僧は根津の定津院の長老を頼んで、既に番小屋の方へ登つて行つたとのこと。明日の葬式の用意は一切叔父が呑込んで居た。丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏帽子ヶ獄の麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。其晩は鼻を掴まゝれる程の闇で、足許さへも覚束なかつた。丑松は先に立つて、提灯の光に夜路を照らし乍ら、山深く叔父を導いて行つた。人里を離れて行けば行くほど、次第に路は細く、落ち朽ちた木葉を踏分けて僅かに一条の足跡があるばかり。こゝは丑松が少年の時代に、克く父に連れられて、往つたり来たりしたところである。牛小屋のある高原の上へ出る前に、二人はいくつか小山を越えた。
(五)
谷を下ると其処がもう番小屋で、人々は狭い部屋の内に集つて居た。灯は明々と壁を泄れ、木魚の音も山の空気に響き渡つて、流れ下る細谷川の私語に交つて、一層の寂しさあはれさを添へる。家の構造は、唯雨露を凌ぐといふばかりに、葺きもし囲ひもしてある一軒屋。たまさか殿城山の間道を越えて鹿沢温泉へ通ふ旅人が立寄るより外には、訪ふ人も絶えて無いやうな世離れたところ。炭焼、山番、それから斯の牛飼の生活――いづれも荒くれた山住の光景である。丑松は提灯を吹消して、叔父と一緒に小屋の戸を開けて入つた。
定津院の長老、世話人と言つて姫子沢の組合、其他父が生前懇意にした農家の男女――それらの人々から丑松は親切な弔辞を受けた。仏前の燈明は線香の烟に交る夜の空気を照らして、何となく部屋の内も混雑して居るやうに見える。父の遺骸を納めたといふは、極く粗末な棺。其周囲を白い布で巻いて、前には新しい位牌を置き、水、団子、外には菊、樒の緑葉なぞを供へてあつた。読経も一きりになつた頃、僧の注意で、年老いた牧夫の見納めの為に、かはる/″\棺の前に立つた。死別の泪は人々の顔を流れたのである。丑松も叔父に導かれ、すこし腰を曲め、薄暗い蝋燭の灯影に是世の最後の別離を告げた。見れば父は孤独な牧夫の生涯を終つて、牧場の土深く横はる時を待つかのやう。死顔は冷かに蒼めて、血の色も無く変りはてた。叔父は例の昔気質から、他界の旅の便りにもと、編笠、草鞋、竹の輪なぞを取添へ、別に魔除と言つて、刃物を棺の蓋の上に載せた。軈て復た読経が始まる、木魚の音が起る、追懐の雑談は無邪気な笑声に交つて、物食ふ音と一緒になつて、哀しくもあり、騒がしくもあり、人々に妨げられて丑松は旅の疲労を休めることも出来なかつた。
一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移住以来十七年あまりも打絶えて了つたし、是方からも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の『お頭』が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然謝絶られるやうな浅猿しい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
『どうかして斯の「おじやんぼん」(葬式)は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。』
斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
翌日の午後は、会葬の男女が番小屋の内外に集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側と定まつて、軈ていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁がれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁草履穿、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ/\の風俗、紋付もあれば手織縞の羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光景は、素朴な牛飼の生涯に克く似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯真心こもる情一つに送られて、静かに山を越えた。
式も亦た簡短であつた。単調子な鉦、太鼓、鐃鈸の音、回想の多い耳には其も悲哀な音楽と聞え、器械的な回向と読経との声、悲嘆のある胸には其もあはれの深い挽歌のやうに響いた。礼拝し、合掌し、焼香して、軈て帰つて行く人々も多かつた。棺は間もなく墓と定めた場処へ移されたので、そこには掘起された『のつぺい』(土の名)が堆高く盛上げられ、咲残る野菊の花も土足に踏散らされてあつた。人々は土を掴んで、穴をめがけて投入れる。叔父も丑松も一塊づゝ投入れた。最後に鍬で掻落した時は、崖崩れのやうな音して烈しく棺の蓋を打つ。それさへあるに、土気の襄上る臭気は紛と鼻を衝いて、堪へ難い思をさせるのであつた。次第に葬られて、小山の形の土饅頭が其処に出来上るまで、丑松は考深く眺め入つた。叔父も無言であつた。あゝ、父は丑松の為に『忘れるな』の一語を残して置いて、最後の呼吸にまで其精神を言ひ伝へて、斯うして牧場の土深く埋もれて了つた――もう斯世の人では無かつたのである。
(六)
兎も角も葬式は無事に済んだ。後の事は牧場の持主に頼み、番小屋は手伝ひの男に預けて、一同姫子沢へ引取ることになつた。斯の小屋に飼養はれて居る一匹の黒猫、それも父の形見であるからと、しきりに丑松は連帰らうとして見たが、住慣れた場処に就く家畜の習ひとして、離れて行くことを好まない。物を呉れても食はず、呼んでも姿を見せず、唯縁の下をあちこちと鳴き悲む声のあはれさ。畜生乍らに、亡くなつた主人を慕ふかと、人々も憐んで、是から雪の降る時節にでも成らうものなら何を食つて山籠りする、と各自に言ひ合つた。『可愛さうに、山猫にでも成るだらず。』斯う叔父は言つたのである。
やがて人々は思ひ/\に出掛けた。番小屋を預かる男は塩を持つて、岡の上まで見送り乍ら随いて来た。十一月上旬の日の光は淋しく照して、この西乃入牧場に一層荒寥とした風趣を添へる。見れば小松はところ/″\。山躑躅は、多くの草木の中に、牛の食はないものとして、反つて一面に繁茂して居るのであるが、それも今は霜枯れて見る影が無い。何もかも父の死を冥想させる種と成る。愁ひつゝ丑松は小山の間の細道を歩いた。父を斯の牧場に訪れたは、丁度足掛三年前の五月の下旬であつたことを思出した。それは牛の角の癢くなるといふ頃で、斯の枯々な山躑躅が黄や赤に咲乱れて居たことを思出した。そここゝに蕨を采る子供の群を思出した。山鳩の啼く声を思出した。其時は心地の好い微風が鈴蘭(君影草とも、谷間の姫百合とも)の花を渡つて、初夏の空気を匂はせたことを思出した。父は又、岡の上の新緑を指して見せて、斯の西乃入には柴草が多いから牛の為に好いと言つたことを思出した。其青葉を食ひ、塩を嘗め、谷川の水を飲めば、牛の病は多く癒ると言つたことを思出した。父はまた附和して、さま/″\な牧畜の経験、類を以て集る牛の性質、初めて仲間入する時の角押しの試験、畜生とは言ひ乍ら仲間同志を制裁する力、其他女王のやうに牧場を支配する一頭の牝牛なぞの物語をして、それがいかにも面白く思はれたことを思出した。
父は斯の烏帽子ヶ嶽の麓に隠れたが、功名を夢見る心は一生火のやうに燃えた人であつた。そこは無欲な叔父と大に違ふところで、その制へきれないやうな烈しい性質の為に、世に立つて働くことが出来ないやうな身分なら、寧そ山奥へ高踏め、といふ憤慨の絶える時が無かつた。自分で思ふやうに成らない、だから、せめて子孫は思ふやうにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒子孫に行はせたい。よしや日は西から出て東へ入る時があらうとも、斯志ばかりは堅く執つて変るな。行け、戦へ、身を立てよ――父の精神はそこに在つた。今は丑松も父の孤独な生涯を追懐して、彼の遺言に籠る希望と熱情とを一層力強く感ずるやうに成つた。忘れるなといふ一生の教訓の其生命――喘ぐやうな男性の霊魂の其呼吸――子の胸に流れ伝はる親の其血潮――それは父の亡くなつたと一緒にいよ/\深い震動を丑松の心に与へた。あゝ、死は無言である。しかし丑松の今の身に取つては、千百の言葉を聞くよりも、一層深く自分の一生のことを考へさせるのであつた。
牛小屋のあるところまで行くと、父の残した事業が丑松の眼に映じた。一週すれば二里半にあまるといふ天然の大牧場、そここゝの小松の傍には臥たり起きたりして居る牝牛の群も見える。牛小屋は高原の東の隅に在つて、粗造な柵の内には未だ角の無い犢も幾頭か飼つてあつた。例の番小屋を預かる男は人々を款待顔に、枯草を焚いて、猶さま/″\の燃料を掻集めて呉れる。丁度そこには叔父も丑松も待合せて居た。男も、女も、斯の焚火の周囲に集つたかぎりは、昨夜一晩寝なかつた人々、かてゝ加へて今日の骨折――中にはもう烈しい疲労が出て、半分眠り乍ら落葉の焼ける香を嗅いで居るものもあつた。叔父は、牛の群に振舞ふと言つて、あちこちの石の上に二合ばかりの塩を分けてやる。父の飼ひ慣れたものかと思へば、丑松も可懐しいやうな気になつて眺めた。それと見た一頭の黒い牝牛は尻毛を動かして、塩の方へ近いて来る。眉間と下腹と白くて、他はすべて茶褐色な一頭も耳を振つて近いた。吽と鳴いて犢の斑も。さすがに見慣れない人々を憚るかして、いづれも鼻をうごめかして、塩の周囲を遠廻りするものばかり。嘗めたさは嘗めたし、烏散な奴は見て居るし、といふ顔付をして、じり/\寄りに寄つて来るのもあつた。
斯の光景を見た時は、叔父も笑へば、丑松も笑つた。斯ういふ可愛らしい相手があればこそ、寂しい山奥に住まはれもするのだと、人々も一緒になつて笑つた。やがて一同暇乞ひして、斯の父の永眠の地に別離を告げて出掛けた。烏帽子、角間、四阿、白根の山々も、今は後に隠れる。富士神社を通過ぎた頃、丑松は振返つて、父の墓のある方を眺めたが、其時はもう牛小屋も見えなかつた――唯、蕭条とした高原のかなたに当つて、細々と立登る一条の煙の末が望まれるばかりであつた。
第八章
(一)
西乃入に葬られた老牧夫の噂は、直に根津の村中へ伝播つた。尾鰭を付けて人は物を言ふのが常、まして種牛の為に傷けられたといふ事実は、些少からず好奇な手合の心を驚かして、到る処に茶話の種となる。定めし前の世には恐しい罪を作つたことも有つたらう、と迷信の深い者は直に其を言つた。牧夫の来歴に就いても、南佐久の牧場から引移つて来た者だの、甲州生れだの、いや会津の武士の果で有るのと、種々な臆測を言ひ触らす。唯、小諸の穢多町の『お頭』であつたといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
『御苦労招び』(手伝ひに来て呉れた近所の人々を招く習慣)のあつた翌日、丑松は会葬者への礼廻りに出掛けた。叔父も。姫子沢の家には叔母一人留守居。御茶漬後(昼飯後)は殊更温暖く、日の光が裏庭の葱畠から南瓜を乾し並べた縁側へ射し込んで、いかにも長閑な思をさせる。追ふものが無ければ鶏も遠慮なく、垣根の傍に花を啄むもあり、鳴くもあり、座敷の畳に上つて遊ぶのもあつた。丁度叔母が表に出て、流のところに腰を曲め乍ら、鍋を洗つて居ると、そこへ立つて丁寧に物を尋ねる一人の紳士がある。『瀬川さんの御宅は』と聞かれて、叔母は不思議さうな顔付。つひぞ見掛けぬ人と思ひ乍ら、冠つて居る手拭を脱つて挨拶して見た。
『はい、瀬川は手前でごはすよ――失礼乍ら貴方は何方様で?』
『私ですか。私は猪子といふものです。』
蓮太郎は丑松の留守に尋ねて来たのであつた。『もう追付け帰つて参じやせう』を言はれて、折角来たものを、兎も角も其では御邪魔して、暫時休ませて頂かう、といふことに極め、軈て叔母に導かれ乍ら、草葺の軒を潜つて入つた。日頃農夫の生活に興を寄せる蓮太郎、斯うして炉辺で話すのが何より嬉敷といふ風で、煤けた屋根の下を可懐しさうに眺めた。農家の習ひとして、表から裏口へ通り抜けの庭。そこには炭俵、漬物桶、又は耕作の道具なぞが雑然置き並べてある。片隅には泥の儘の『かびた芋』(馬鈴薯)山のやうに。炉は直ぐ上り端にあつて、焚火の煙のにほひも楽しい感想を与へるのであつた。年々の暦と一緒に、壁に貼付けた錦絵の古く変色したのも目につく。
『生憎と今日は留守にいたしやして――まあ吾家に不幸がごはしたもんだで、その礼廻りに出掛けやしてなあ。』
斯う言つて、叔母は丑松の父の最後を蓮太郎に語り聞かせた。炉の火はよく燃えた。木製の自在鍵に掛けた鉄瓶の湯も沸々と煮立つて来たので、叔母は茶を入れて款待さうとして、急に――まあ、記憶といふものは妙なもので、長く/\忘れて居た昔の習慣を思出した。一体普通の客に茶を出さないのは、穢多の家の作法としてある。煙草の火ですら遠慮する。瀬川の家も昔は斯ういふ風であつたので其を破つて普通の交際を始めたのは、斯の姫子沢へ移住してから以来。尤も長い月日の間には、斯の新しい交際に慣れ、自然と出入りする人々に馴染み、茶はおろか、物の遣り取りもして、春は草餅を贈り、秋は蕎麦粉を貰ひ、是方で何とも思はなければ、他も怪みはしなかつたのである。叔母が斯様な昔の心地に帰つたは近頃無いことで――それも其筈、姫子沢の百姓とは違つて気恥しい珍客――しかも突然に――昔者の叔母は、だから、自分で茶を汲む手の慄へに心付いた程。蓮太郎は其様なことゝも知らないで、さも/\甘さうに乾いた咽喉を濡して、さて種々な談話に笑ひ興じた。就中、丑松がまだ紙鳶を揚げたり独楽を廻したりして遊んだ頃の物語に。
『時に、』と蓮太郎は何か深く考へることが有るらしく、『つかんことを伺ふやうですが、斯の根津の向町に六左衛門といふ御大尽があるさうですね。』
『はあ、ごはすよ。』と叔母は客の顔を眺めた。
『奈何でせう、御聞きでしたか、そこの家につい此頃婚礼のあつたとかいふ話を。』
斯う蓮太郎は何気なく尋ねて見た。向町は斯の根津村にもある穢多の一部落。姫子沢とは八町程離れて、西町の町はづれにあたる。其処に住む六左衛門といふは音に聞えた穢多の富豪なので。
『あれ、少許も其様な話は聞きやせんでしたよ。そんなら聟さんが出来やしたかいなあ――長いこと彼処の家の娘も独身で居りやしたつけ。』
『御存じですか、貴方は、その娘といふのを。』
『評判な美しい女でごはすもの。色の白い、背のすらりとした――まあ、彼様な身分のものには惜しいやうな娘だつて、克く他が其を言ひやすよ。へえもう二十四五にも成るだらず。若く装つて、十九か二十位にしか見せやせんがなあ。』
斯ういふ話をして居る間にも、蓮太郎は何か思ひ当ることがあるといふ風であつた。待つても/\丑松が帰つて来ないので、軈て蓮太郎はすこし其辺を散歩して来るからと、田圃の方へ山の景色を見に行つた――是非丑松に逢ひたい、といふ言伝を呉々も叔母に残して置いて。
(二)
『これ、丑松や、猪子といふ御客様がお前を尋ねて来たぞい。』斯う言つて叔母は駈寄つた。
『猪子先生?』丑松の目は喜悦の色で輝いたのである。
『多時待つて居なすつたが、お前が帰らねえもんだで。』と叔母は丑松の様子を眺め乍ら、『今々其処へ出て行きなすつた――ちよツくら、田圃の方へ行つて見て来るツて。』斯う言つて、気を変へて、『一体彼の御客様は奈何いふ方だえ。』
『私の先生でさ。』と丑松は答へた。
『あれ、左様かつちや。』と叔母は呆れて、『そんならそのやうに、御礼を言ふだつたに。俺はへえ、唯お前の知つてる人かと思つた――だつて、御友達のやうにばかり言ひなさるから。』
丑松は蓮太郎の跡を追つて、直に田圃の方へ出掛けようとしたが、丁度そこへ叔父も帰つて来たので、暫時上り端のところに腰掛けて休んだ。叔父は酷く疲れたといふ風、家の内へ入るが早いか、『先づ、よかつた』を幾度と無く繰返した。何もかも今は無事に済んだ。葬式も。礼廻りも。斯ういふ思想は奈何に叔父の心を悦ばせたらう。『ああ――これまでに漕付ける俺の心配といふものは。』斯う言つて、また思出したやうに安心の溜息を吐くのであつた。『全く、天の助けだぞよ。』と叔父は附加して言つた。
平和な姫子沢の家の光景と、世の変遷も知らずに居る叔父夫婦の昔気質とは、丑松の心に懐旧の情を催さした。裏庭で鳴き交す鶏の声は、午後の乾燥いだ空気に響き渡つて、一層長閑な思を与へる。働好な、壮健な、人の好い、しかも子の無い叔母は、いつまでも児童のやうに丑松を考へて居るので、其児童扱ひが又、些少からず丑松を笑はせた。『御覧やれ、まあ、あの手付なぞの阿爺さんに克く似てることは。』と言つて笑つた時は、思はず叔母も涙が出た。叔父も一緒に成つて笑つた。其時叔母が汲んで呉れた渋茶の味の甘かつたことは。款待振の田舎饅頭、その黒砂糖の餡の食ひ慣れたのも、可懐しい少年時代を思出させる。故郷に帰つたといふ心地は、何よりも深く斯ういふ場合に、丑松の胸を衝いて湧上るのであつた。
『どれ、それでは行つて見て来ます。』
と言つて家を出る。叔父も直ぐに随いて出た。何か用事ありげに呼留めたので、丑松は行かうとして振返つて見ると、霜葉の落ちた柿の樹の下のところで、叔父は声を低くして
『他事ぢやねえが、猪子で俺は思出した。以前師範校の先生で猪子といふ人が有つた。今日の御客様は彼人とは違ふか。』
『それですよ、その猪子先生ですよ。』と丑松は叔父の顔を眺め乍ら答へる。
『むゝ、左様かい、彼人かい。』と叔父は周囲を眺め廻して、やがて一寸親指を出して見せて、『彼人は是だつて言ふぢやねえか――気を注けろよ。』
『はゝゝゝゝ。』と丑松は快活らしく笑つて、『叔父さん、其様なことは大丈夫です。』
斯う言つて急いだ。
(三)
『大丈夫です』とは言つたものゝ、其実丑松は蓮太郎だけに話す気で居る。先輩と自分と、唯二人――二度とは無い、斯ういふ好い機会は。と其を考へると、丑松の胸はもう烈しく踊るのであつた。
枯々とした草土手のところで、丑松は蓮太郎と一緒に成つた。聞いて見ると、先輩は細君を上田に残して置いて、其日の朝根津村へ入つたとのこと。連は市村弁護士一人。尤も弁護士は有権者を訪問する為に忙しいので、旅舎で別れて、蓮太郎ばかり斯の姫子沢へ丑松を尋ねにやつて来た。都合あつて演説会は催さない。随つて斯の村で弁護士の政論を聞くことは出来ないが、そのかはり蓮太郎は丑松とゆつくり話せる。まあ、斯ういふ信濃の山の上で、温暖な小春の半日を語り暮したいとのことである。
其日のやうな楽しい経験――恐らく斯の心地は、丑松の身にとつて、さう幾度もあらうとは思はれなかつた程。日頃敬慕する先輩の傍に居て、其人の声を聞き、其人の笑顔を見、其人と一緒に自分も亦た同じ故郷の空気を呼吸するとは。丑松は唯話すばかりが愉快では無かつた。沈黙つて居る間にも亦た言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。まして、蓮太郎は――書いたものゝ上に表れたより、話して見ると又別のおもしろみの有る人で、容貌は厳しいやうでも、存外情の篤い、優しい、言はゞ極く平民的な気象を持つて居る。左様いふ風だから、後進の丑松に対しても城郭を構へない。放肆に笑つたり、嘆息したりして、日あたりの好い草土手のところへ足を投出し乍ら、自分の病気の話なぞを為た。一度車に乗せられて、病院へ運ばれた時は、堪へがたい虚咳の後で、刻むやうにして喀血したことを話した。今は胸も痛まず、其程の病苦も感ぜず、身体の上のことは忘れる位に元気づいて居る――しかし彼様いふ喀血が幾回もあれば、其時こそ最早駄目だといふことを話した。
斯ういふ風に親しく言葉を交へて居る間にも、とは言へ、全く丑松は自分を忘れることが出来なかつた。『何時例のことを切出さう。』その煩悶が胸の中を往つたり来たりして、一時も心を静息ませない。『あゝ、伝染りはすまいか。』どうかすると其様なことを考へて、先輩の病気を恐しく思ふことも有る。幾度か丑松は自分で自分を嘲つた。
千曲川沿岸の民情、風俗、武士道と仏教とがところ/″\に遺した中世の古蹟、信越線の鉄道に伴ふ山上の都会の盛衰、昔の北国街道の栄花、今の死駅の零落――およそ信濃路のさま/″\、それらのことは今二人の談話に上つた。眼前には蓼科、八つが嶽、保福寺、又は御射山、和田、大門などの山々が連つて、其山腹に横はる大傾斜の眺望は西東に展けて居た。青白く光る谷底に、遠く流れて行くは千曲川の水。丑松は少年の時代から感化を享けた自然のこと、土地の案内にも委しいところからして、一々指差して語り聞かせる。蓮太郎は其話に耳を傾けて、熱心に眺め入つた。対岸に見える八重原の高原、そこに人家の煙の立ち登る光景は、殊に蓮太郎の注意を引いたやうであつた。丑松は又、谷底の平地に日のあたつたところを指差して見せて、水に添ふて散布するは、依田窪、長瀬、丸子などの村落であるといふことを話した。濃く青い空気に包まれて居る谷の蔭は、霊泉寺、田沢、別所などの温泉の湧くところ、農夫が群れ集る山の上の歓楽の地、よく蕎麦の花の咲く頃には斯辺からも労苦を忘れる為に出掛けるものがあるといふことを話した。
蓮太郎に言はせると、彼も一度は斯ういふ山の風景に無感覚な時代があつた。信州の景色は『パノラマ』として見るべきで、大自然が描いた多くの絵画の中では恐らく平凡といふ側に貶される程のものであらう――成程、大きくはある。然し深い風趣に乏しい――起きたり伏たりして居る波濤のやうな山々は、不安と混雑とより外に何の感想をも与へない――それに対へば唯心が掻乱されるばかりである。斯う蓮太郎は考へた時代もあつた。不思議にも斯の思想は今度の旅行で破壊されて了つて、始めて山といふものを見る目が開いた。新しい自然は別に彼の眼前に展けて来た。蒸し煙る傾斜の気息、遠く深く潜む谷の声、活きもし枯れもする杜の呼吸、其間にはまた暗影と光と熱とを帯びた雲の群の出没するのも目に注いて、『平野は自然の静息、山嶽は自然の活動』といふ言葉の意味も今更のやうに思ひあたる。一概に平凡と擯斥けた信州の風景は、『山気』を通して反つて深く面白く眺められるやうになつた。
斯ういふ蓮太郎の観察は、山を愛する丑松の心を悦ばせた。其日は西の空が開けて、飛騨の山脈を望むことも出来たのである。見れば斯の大谿谷のかなたに当つて、畳み重なる山と山との上に、更に遠く連なる一列の白壁。今年の雪も早や幾度か降り添ふたのであらう。その山々は午後の日をうけて、青空に映り輝いて、殆んど人の気魄を奪ふばかりの勢であつた。活々とした力のある山塊の輪郭と、深い鉛紫の色を帯びた谷々の影とは、一層その眺望に崇高な趣を添へる。針木嶺、白馬嶽、焼嶽、鎗が嶽、または乗鞍嶽、蝶が嶽、其他多くの山獄の峻しく競ひ立つのは其処だ。梓川、大白川なぞの源を発するのは其処だ。雷鳥の寂しく飛びかふといふのは其処だ。氷河の跡の見られるといふのは其処だ。千古人跡の到らないといふのは其処だ。あゝ、無言にして聳え立つ飛騨の山脈の姿、長久に荘厳な自然の殿堂――見れば見る程、蓮太郎も、丑松も、高い気象を感ぜずには居られなかつたのである。殊に其日の空気はすこし黄に濁つて、十一月上旬の光に交つて、斯の広濶い谿谷を盛んに煙るやうに見せた。長い間、二人は眺め入つた。眺め入り乍ら、互に山のことを語り合つた。
(四)
噫。幾度丑松は蓮太郎に自分の素性を話さうと思つたらう。昨夜なぞは遅くまで洋燈の下で其事を考へて、もし先輩と二人ぎりに成るやうな場合があつたなら、彼様言はうか、此様言はうかと、さま/″\の想像に耽つたのであつた。蓮太郎は今、丑松の傍に居る。さて逢つて見ると、言出しかねるもので、風景なぞのことばかり話して、肝心の思ふことは未だ話さなかつた。丑松は既に種々なことを話して居乍ら、未だ何も蓮太郎に話さないやうな気がした。
夕飯の用意を命じて置いて来たからと、蓮太郎に誘はれて、丑松は一緒に根津の旅舎の方へ出掛けて行つた。道々丑松は話しかけて、正直なところを言はう/\として見た。それを言つたら、自分の真情が深く先輩の心に通ずるであらう、自分は一層先輩に親むことが出来るであらう、斯う考へて、其を言はうとして、言ひ得ないで、時々立止つては溜息を吐くのであつた。秘密――生死にも関はる真実の秘密――仮令先方が同じ素性であるとは言ひ乍ら、奈何して左様容易く告白けることが出来よう。言はうとしては躊躇した。躊躇しては自分で自分を責めた。丑松は心の内部で、懼れたり、迷つたり、悶えたりしたのである。
軈て二人は根津の西町の町はづれへ出た。石地蔵の佇立むあたりは、向町――所謂穢多町で、草葺の屋造が日あたりの好い傾斜に添ふて不規則に並んで居る。中にも人目を引く城のやうな一郭、白壁高く日に輝くは、例の六左衛門の住家と知れた。農業と麻裏製造とは、斯の部落に住む人々の職業で、彼の小諸の穢多町のやうに、靴、三味線、太鼓、其他獣皮に関したものの製造、または斃馬の売買なぞに従事して居るやうな手合は一人も無い。麻裏はどの穢多の家でも作るので、『中抜き』と言つて、草履の表に用ふ美しい藁がところ/″\の垣根の傍に乾してあつた。丑松は其を見ると、瀬川の家の昔を思出した。小諸時代を思出した。亡くなつた母も、今の叔母も、克く其の『中抜き』を編んで居たことを思出した。自分も亦た少年の頃には、戸隠から来る『かはそ』(草履裏の麻)なぞを玩具にして、父の傍で麻裏造る真似をして遊んだことを思出した。
六左衛門のことは、其時、二人の噂に上つた。蓮太郎はしきりに彼の穢多の性質や行為やらを問ひ尋ねる。聞かれた丑松とても委敷は無いが、知つて居る丈を話したのは斯うであつた。六左衛門の富は彼が一代に作つたもの。今日のやうな俄分限者と成つたに就いては、甚だ悪しざまに罵るものがある。慾深い上に、虚栄心の強い男で、金の力で成ることなら奈何な事でもして、何卒して『紳士』の尊称を得たいと思つて居る程。恐らく上流社会の華やかな交際は、彼が見て居る毎日の夢であらう。孔雀の真似を為る鴉の六左衛門が東京に別荘を置くのも其為である。赤十字社の特別社員に成つたのも其為である。慈善事業に賛成するのも其為である。書画骨董で身の辺を飾るのも亦た其為である。彼程学問が無くて、彼程蔵書の多いものも鮮少からう、とは斯界隈での一つ話に成つて居る。
斯ういふことを語り乍ら歩いて行くうちに、二人は六左衛門の家の前へ出て来た。丁度午後の日を真面にうけて、宏壮な白壁は燃える火のやうに見える。建物幾棟かあつて、長い塀は其周囲を厳しく取繞んだ。新平民の子らしいのが、七つ八つを頭にして、何か『めんこ』の遊びでもして、其塀の外に群り集つて居た。中には頬の紅い、眼付の愛らしい子もあつて、普通の家の小供と些少も相違の無いのがある。中には又、卑しい、愚鈍しい、どう見ても日蔭者の子らしいのがある。是れを眺めても、穢多の部落が幾通りかの階級に別れて居ることは知れた。親らしい男は馬を牽いて、其小供の群に声を掛けて通り、姉らしい若い女は細帯を巻付けた儘で、いそ/\と二人の側を影のやうに擦抜けた。斯うして無智と零落とを知らずに居る穢多町の空気を呼吸するといふことは、可傷しいとも、恥かしいとも、腹立たしいとも、名のつけやうの無い思をさせる。『吾儕を誰だと思ふ。』と丑松は心に憐んで、一時も早く是処を通過ぎて了ひたいと考へた。
『先生――行かうぢや有ませんか。』
と丑松はそこに佇立み眺めて居る蓮太郎を誘ふやうにした。
『見たまへ、まあ、斯の六左衛門の家を。』と蓮太郎は振返つて、『何処から何処まで主人公の性質を好く表してるぢや無いか。つい二三日前、是の家に婚礼が有つたといふ話だが、君は其様な噂を聞かなかつたかね。』
『婚礼?』と丑松は聞咎める。
『その婚礼が一通りの婚礼ぢや無い――多分彼様いふのが政治的結婚とでも言ふんだらう。はゝゝゝゝ。政事家の為ることは違つたものさね。』
『先生の仰ることは私に能く解りません。』
『花嫁は君、斯の家の娘さ。御聟さんは又、代議士の候補者だから面白いぢやないか――』
『ホウ、代議士の候補者? まさか彼の一緒に汽車に乗つて来た男ぢや有ますまい。』
『それさ、その紳士さ。』
『へえ――』と丑松は眼を円くして、『左様ですかねえ――意外なことが有れば有るものですねえ――』
『全く、僕も意外さ。』といふ蓮太郎の顔は輝いて居たのである。
『しかし何処で先生は其様なことを御聞きでしたか。』
『まあ、君、宿屋へ行つて話さう。』
第九章
(一)
一軒、根津の塚窪といふところに、未だ会葬の礼に泄れた家が有つて、丁度序だからと、丑松は途中で蓮太郎と別れた。蓮太郎は旅舎へ。直に後から行く約束して、丑松は畠中の裏道を辿つた。塚窪の坂の下まで行くと、とある農家の前に一人の飴屋、面白可笑しく唐人笛を吹立てゝ、幼稚い客を呼集めて居る。御得意と見えて、声を揚げて飛んで来る男女の少年もあつた――彼処からも、是処からも。あゝ、少年の空想を誘ふやうな飴屋の笛の調子は、どんなに頑是ないものゝ耳を楽ませるであらう。いや、買ひに集る子供ばかりでは無い、丑松ですら思はず立止つて聞いた。妙な癖で、其笛を聞く度に、丑松は自分の少年時代を思出さずに居られないのである。
何を隠さう――丑松が今指して行く塚窪の家には、幼馴染が嫁いて居る。お妻といふのが其女の名である。お妻の生家は姫子沢に在つて、林檎畠一つ隔てゝ、丑松の家の隣に住んだ。丑松がお妻と遊んだのは、九歳に成る頃で、まだ瀬川の一家族が移住して来て間も無い当時のことであつた。もと/\お妻の父といふは、上田の在から養子に来た男、根が苦労人ではあり、他所者でもあり、するところからして、自然と瀬川の家にも後見と成つて呉れた。それに、丑松を贔顧にして、伊勢詣に出掛けた帰途なぞには、必ず何か買つて来て呉れるといふ風であつた。斯ういふ隣同志の家の子供が、互ひに遊友達と成つたは不思議でも何でも無い。のみならず、二人は丁度同い年であつたのである。
楽しい追憶の情は、唐人笛の音を聞くと同時に、丑松の胸の中に湧上つて来た。朦朧ながら丑松は幼いお妻の俤を忘れずに居る。はじめて自分の眼に映つた少女の愛らしさを忘れずに居る。あの林檎畠が花ざかりの頃は、其枝の低く垂下つたところを彷徨つて、互ひに無邪気な初恋の私語を取交したことを忘れずに居る。僅かに九歳の昔、まだ夢のやうなお伽話の時代――他のことは多く記憶にも残らない程であるが、彼の無垢な情緒ばかりは忘れずに居る。尤も、幼い二人の交際は長く続かなかつた。不図丑松はお妻の兄と親しくするやうに成つて、それぎり最早お妻とは遊ばなかつた。
お妻が斯の塚窪へ嫁いて来たは、十六の春のこと。夫といふのも丑松が小学校時代の友達で、年齢は三人同じであつた。田舎の習慣とは言ひ乍ら、殊に彼の夫婦は早く結婚した。まだ丑松が師範校の窓の下で歴史や語学の研究に余念も無い頃に、もう彼の若い夫婦は幼いものに絡ひ付かれ、朝に晩に『父さん、母さん』と呼ばれて居たのであつた。
斯ういふ過去の歴史を繰返したり、胸を踊らせたりして、丑松は坂を上つて行つた。山の方から溢れて来る根津川の支流は、清く、浅く、家々の前を奔り流れて居る。路傍の栗の梢なぞ、早や、枯れ/″\。柿も一葉を留めない程。水草ばかりは未だ青々として、根を浸すありさまも心地よく見られる。冬籠の用意に多忙しい頃で、人々はいづれも流のところに集つて居た。余念も無く蕪菜を洗ふ女の群の中に、手拭に日を避け、白い手をあらはし、甲斐々々しく働く襷掛けの一人――声を掛けて見ると、それがお妻で、丑松は斯の幼馴染の様子の変つたのに驚いて了つた。お妻も亦た驚いたやうであつた。
其日はお妻の夫も舅も留守で、家に居るのは唯姑ばかり。五人も子供が有ると聞いたが、年嵩なのが見えないは、大方遊びにでも行つたものであらう。五歳ばかりを頭に、三人の女の児は母親に倚添つて、恥かしがつて碌に御辞儀も為なかつた。珍しさうに客の顔を眺めるもあり、母親の蔭に隠れるもあり、漸く歩むばかりの末の児は、見慣れぬ丑松を怖れたものか、軈てしく/\やり出すのであつた。是光景に、姑も笑へば、お妻も笑つて、『まあ、可笑しな児だよ、斯の児は。』と乳房を出して見せる。それを咬へて、泣吃逆をし乍ら、密と丑松の方を振向いて見て居る児童の様子も愛らしかつた。
話好きな姑は一人で喋舌つた。お妻は茶を入れて丑松を款待して居たが、流石に思出したことも有ると見えて、
『そいつても、まあ、丑松さんの大きく御成なすつたこと。』
と言つて、客の顔を眺めた時は、思はず紅くなつた。
会葬の礼を述べた後、丑松はそこ/\にして斯の家を出た。姑と一緒に、お妻も亦た門口に出て、客の後姿を見送るといふ様子。今更のやうに丑松は自他の変遷を考へて、塚窪の坂を上つて行つた。彼の世帯染みた、心の好ささうな、何処やら床しいところのあるお妻は――まあ、忘れずに居る其俤に比べて見ると、全く別の人のやうな心地もする。自分と同い年で、しかも五人子持――あれが幼馴染のお妻であつたかしらん、と時々立止つて嘆息した。
斯ういふ追懐の情は、とは言へ、深く丑松の心を傷けた。平素もう疑惧の念を抱いて苦痛の為に刺激き廻されて居る自分の今に思ひ比べると、あの少年の昔の楽しかつたことは。噫、何にも自分のことを知らないで、愛らしい少女と一緒に林檎畠を彷徨つたやうな、楽しい時代は往つて了つた。もう一度丑松は左様いふ時代の心地に帰りたいと思つた。もう一度丑松は自分が穢多であるといふことを忘れて見たいと思つた。もう一度丑松は彼の少年の昔と同じやうに、自由に、現世の歓楽の香を嗅いで見たいと思つた。斯う考へると、切ない慾望は胸を衝いて春の潮のやうに湧き上る。穢多としての悲しい絶望、愛といふ楽しい思想、そんなこんなが一緒に交つて、若い生命を一層美しくして見せた。終には、あの蓮華寺のお志保のことまでも思ひやつた。活々とした情の為に燃え乍ら、丑松は蓮太郎の旅舎を指して急いだのである。
(二)
御泊宿、吉田屋、と軒行燈に記してあるは、流石に古い街道の名残。諸国商人の往来もすくなく、昔の宿はいづれも農家となつて、今はこの根津村に二三軒しか旅籠屋らしいものが残つて居ない。吉田屋は其一つ、兎角商売も休み勝ち、客間で秋蚕飼ふ程の時世と変りはてた。とは言ひ乍ら、寂れた中にも風情のあるは田舎の古い旅舎で、門口に豆を乾並べ、庭では鶏も鳴き、水を舁いで風呂場へ通ふ男の腰付もをかしいもの。炉で焚く『ぼや』の火は盛んに燃え上つて、無邪気な笑声が其周囲に起るのであつた。
『左様だ――例のことを話さう。』
と丑松は自分で自分に言つた。吉田屋の門口へ入つた時は、其思想が復た胸の中を往来したのである。
案内されて奥の方の座敷へ通ると、蓮太郎一人で、弁護士は未だ帰らなかつた。額、唐紙、すべて昔の風を残して、古びた室内の光景とは言ひ乍ら、談話を為るには至極静かで好かつた。火鉢に炭を加へ、其側に座蒲団を敷いて、相対に成つた時の心地は珍敷くもあり、嬉敷くもあり、蓮太郎が手づから入れて呉れる茶の味は又格別に思はれたのである。其時丑松は日頃愛読する先輩の著述を数へて、始めて手にしたのが彼の大作、『現代の思潮と下層社会』であつたことを話した。『貧しきものゝなぐさめ』、『労働』、『平凡なる人』、とり/″\に面白く味つたことを話した。丑松は又、『懴悔録』の広告を見つけた時の喜悦から、飯山の雑誌屋で一冊を買取つて、其を抱いて内容を想像し乍ら下宿へ帰つた時の心地、読み耽つて心に深い感動を受けたこと、社会といふものゝ威力を知つたこと、さては其著述に顕はれた思想の新しく思はれたことなぞを話した。
蓮太郎の喜悦は一通りで無かつた。軈て風呂が湧いたといふ案内をうけて、二人して一緒に入りに行つた時も、蓮太郎は其を胸に浮べて、かねて知己とは思つて居たが、斯う迄自分の書いたものを読んで呉れるとは思はなかつたと、丑松の熱心を頼母しく考へて居たらしいのである。病が病だから、蓮太郎の方では遠慮する気味で、其様なことで迷惑を掛けたく無い、と健康なものゝ知らない心配は絶えず様子に表はれる。斯うなると丑松の方では反つて気の毒になつて、病の為に先輩を恐れるといふ心は何処へか行つて了つた。話せば話すほど、哀憐は恐怖に変つたのである。
風呂場の窓の外には、石を越して流下る水の声もおもしろく聞えた。透き澄るばかりの沸し湯に身体を浸し温めて、しばらく清流の響に耳を嬲らせる其楽しさ。夕暮近い日の光は窓からさし入つて、蒸し烟る風呂場の内を朦朧として見せた。一ぱい浴びて流しのところへ出た蓮太郎は、湯気に包まれて燃えるかのやう。丑松も紅くなつて、顔を伝ふ汗の熱さに暫時世の煩ひを忘れた。
『先生、一つ流しませう。』と丑松は小桶を擁へて蓮太郎の背後へ廻る。
『え、流して下さる?』と蓮太郎は嬉しさうに、『ぢやあ、願ひませうか。まあ君、ざつと遣つて呉れたまへ。』
斯うして丑松は、日頃慕つて居る其人に近いて、奈何いふ風に考へ、奈何いふ風に言ひ、奈何いふ風に行ふかと、すこしでも蓮太郎の平生を見るのが楽しいといふ様子であつた。急に二人は親密を増したやうな心地もしたのである。
『さあ、今度は僕の番だ。』
と蓮太郎は湯を汲出して言つた。幾度か丑松は辞退して見た。
『いえ、私は沢山です。昨日入つたばかりですから。』と復た辞退した。
『昨日は昨日、今日は今日さ。』と蓮太郎は笑つて、『まあ、左様遠慮しないで、僕にも一つ流させて呉れたまへ。』
『恐れ入りましたなあ。』
『どうです、瀬川君、僕の三助もなか/\巧いものでせう――はゝゝゝゝ。』と戯れて、やがて蓮太郎はそこに在る石鹸を溶いて丑松の背中へつけて遣り乍ら、『僕がまだ長野に居る時分、丁度修学旅行が有つて、生徒と一緒に上州の方へ出掛けたことが有りましたツけ。まだ覚えて居るが、彼の時の投票は、僕がそれ大食家さ。しかし大食家と言はれる位に、彼の頃は壮健でしたよ。それからの僕の生涯は、実に種々なことが有ましたねえ。克くまあ僕のやうな人間が斯うして今日迄生きながらへて来たやうなものさ。』
『先生、もう沢山です。』
『何だねえ、今始めたばかりぢや無いか。まだ、君、垢が些少も落ちやしない。』
と蓮太郎は丁寧に丑松の背中を洗つて、終に小桶の中の温い湯を掛けてやつた。遣ひ捨ての湯水は石鹸の泡に交つて、白くゆるく板敷の上を流れて行つた。
『君だから斯様なことを御話するんだが、』と蓮太郎は思出したやうに、『僕は仲間のことを考へる度に、実に情ないといふ心地を起さずには居られない。御恥しい話だが、思想の世界といふものは、未だ僕等の仲間には開けて居ないのだね。僕があの師範校を出た頃には、それを考へて、随分暗い月日を送つたことも有ましたよ。病気になつたのも、実は其結果さ。しかし病気の為に、反つて僕は救はれた。それから君、考へてばかり居ないで、働くといふ気になつた。ホラ、君の読んで下すつたといふ「現代の思潮と下層社会」――あれを書く頃なぞは、健康だといふ日は一日も無い位だつた。まあ、後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、あゝ猪子といふ男は斯様なものを書いたかと、見て呉れるやうな時が有つたら、それでもう僕なぞは満足するんだねえ。むゝ、その踏台さ――それが僕の生涯でもあり、又希望でもあるのだから。』
(三)
言はう/\と思ひ乍ら、何か斯う引止められるやうな気がして、丑松は言はずに風呂を出た。まだ弁護士は帰らなかつた。夕飯の用意にと、蓮太郎が宿へ命じて置いたは千曲川の鮠、それは上田から来る途中で買取つたとやらで、魚田楽にこしらへさせて、一緒に初冬の河魚の味を試みたいとのこと。仕度するところと見え、摺鉢を鳴らす音は台所の方から聞える。炉辺で鮠の焼ける香は、ぢり/\落ちて燃える魚膏の煙に交つて、斯の座敷までも甘さうに通つて来た。
蓮太郎は鞄の中から持薬を取出した。殊に湯上りの顔色は病気のやうにも見えなかつた。嗅ぐともなしに『ケレオソオト』のにほひを嗅いで見て、軈て高柳のことを言出す。
『して見ると、瀬川君はあの男と一緒に飯山を御出掛でしたね。』
『どうも不思議だとは思ひましたよ。』と丑松は笑つて、『妙に是方を避けるといふやうな風でしたから。』
『そこがそれ、心に疚しいところの有る証拠さ。』
『今考へても、彼の外套で身体を包んで、隠れて行くやうな有様が、目に見えるやうです。』
『はゝゝゝゝ。だから、君、悪いことは出来ないものさ。』
と言つて、それから蓮太郎は聞いて来た一伍一什を丑松に話した。高柳が秘密に六左衛門の娘を貰つたといふ事実は、妙なところから出たとのこと。すこし調べることがあつて、信州で一番古い秋葉村の穢多町(上田の在にある)、彼処へ蓮太郎が尋ねて行くと、あの六左衛門の親戚で加も讐敵のやうに仲の悪いとかいふ男から斯の話が泄れたとのこと。蓮太郎が弁護士と一緒に、今朝この根津村へ入つた時は、折も折、丁度高柳夫婦が新婚旅行にでも出掛けようとするところ。無論先方では知るまいが、確に是方では後姿を見届けたとのことであつた。
『実に驚くぢやないか。』と蓮太郎は嘆息した。『瀬川君、君はまあ奈何思ふね、彼の男の心地を。これから君が飯山へ帰つて見たまへ――必定あの男は平気な顔して結婚の披露を為るだらうから――何処か遠方の豪家からでも細君を迎へたやうに細工へるから――そりやあもう新平民の娘だとは言ふもんぢやないから。』
斯ういふ話を始めたところへ、下女が膳を持運んで来た。皿の上の鮠は焼きたての香を放つて、空腹で居る二人の鼻を打つ。銀色の背、樺と白との腹、その鮮しい魚が茶色に焼け焦げて、ところまんだら味噌の能く付かないのも有つた。いづれも肥え膏づいて、竹の串に突きさゝれてある。流石に嗅ぎつけて来たと見え、一匹の小猫、下女の背後に様子を窺ふのも可笑しかつた。御給仕には及ばないを言はれて、下女は小猫を連れて出て行く。
『さあ、先生、つけませう。』と丑松は飯櫃を引取つて、気の出るやつを盛り始めた。
『どうも済みません。各自勝手にやることにしようぢや有ませんか。まあ、斯うして膳に向つて見ると、あの師範校の食堂を思出さずには居られないねえ。』
と笑つて、蓮太郎は話し/\食つた。丑松も骨離の好い鮠の肉を取つて、香ばしく焼けた味噌の香を嗅ぎ乍ら話した。
『あゝ。』と蓮太郎は箸持つ手を膝の上に載せて、『どうも当世紳士の豪いには驚いて了ふ――金といふものゝ為なら、奈何なことでも忍ぶのだから。瀬川君、まあ、聞いて呉れたまへ。彼の通り高柳が体裁を飾つて居ても、実は非常に内輪の苦しいといふことは、僕も聞いて居た。借財に借財を重ね、高利貸には責められる、世間への不義理は嵩む、到底今年選挙を争ふ見込なぞは立つまいといふことは、聞いて居た。しかし君、いくら窮境に陥つたからと言つて、金を目的に結婚する気に成るなんて――あんまり根性が見え透いて浅猿しいぢやないか。あるひは、彼男に言はせたら、六左衛門だつて立派な公民だ、其娘を貰ふのに何の不思議が有る、親子の間柄で選挙の時なぞに助けて貰ふのは至当ぢやないか――斯う言ふかも知れない。それならそれで可さ。階級を打破して迄も、気に入つた女を貰ふ位の心意気が有るなら、又面白い。何故そんなら、狐鼠々々と祝言なぞを為るんだらう。何故そんなら、隠れてやつて来て、また隠れて行くやうな、男らしくない真似を為るんだらう。苟くも君、堂々たる代議士の候補者だ。天下の政治を料理するなどと長広舌を振ひ乍ら、其人の生涯を見れば奈何だらう。誰やらの言草では無いが、全然紳士の面を冠つた小人の遣方だ――情ないぢやないか。成程世間には、金に成ることなら何でもやる、買手が有るなら自分の一生でも売る、斯ういふ量見の人はいくらも有るさ。しかし、彼男のは、売つて置いて知らん顔をして居よう、といふのだから酷しい。まあ、君、僕等の側に立つて考へて見て呉れたまへ――是程新平民といふものを侮辱した話は無からう。』
暫時二人は言葉を交さないで食つた。軈てまた蓮太郎は感慨に堪へないと言ふ風で、病気のことなぞはもう忘れて居るかのやうに、
『彼男も彼男なら、六左衛門も六左衛門だ。そんなところへ娘を呉れたところで何が面白からう。是から東京へでも出掛けた時に、自分の聟は政事家だと言つて、吹聴する積りなんだらうが、あまり寝覚の好い話でも無からう。虚栄心にも程が有るさ。ちつたあ娘のことも考へさうなものだがなあ。』
斯う言つて蓮太郎は考深い目付をして、孤り思に沈むといふ様子であつた。
聞いて見れば聞いて見るほど、彼の政事家の内幕にも驚かれるが、又、この先輩の同族を思ふ熱情にも驚かれる。丑松は、弱い体躯の内に燃える先輩の精神の烈しさを考へて、一種の悲壮な感想を起さずには居られなかつた。実際、蓮太郎の談話の中には丑松の心を動かす力が籠つて居たのである。尤も、病のある人ででも無ければ、彼様は心を傷めまい、と思はれるやうな節々が時々其言葉に交つて聞えたので。
(四)
到頭丑松は言はうと思ふことを言はなかつた。吉田屋を出たのは宵過ぎる頃であつたが、途々それを考へると、泣きたいと思ふ程に悲しかつた。何故、言はなかつたらう。丑松は歩き乍ら、自分で自分に尋ねて見る。亡父の言葉も有るから――叔父も彼様忠告したから――一旦秘密が自分の口から泄れた以上は、それが何時誰の耳へ伝はらないとも限らない、先輩が細君へ話す、細君はまた女のことだから到底秘密を守つては呉れまい、斯ういふことに成ると、それこそ最早回復が付かない――第一、今の場合、自分は穢多であると考へたく無い、是迄も普通の人間で通つて来た、是から将来とても無論普通の人間で通りたい、それが至当な道理であるから――
種々弁解を考へて見た。
しかし、斯ういふ弁解は、いづれも後から造へて押付けたことで、それだから言へなかつたとは奈何しても思はれない。残念乍ら、丑松は自分で自分を欺いて居るやうに感じて来た。蓮太郎にまで隠して居るといふことは、実は丑松の良心が許さなかつたのである。
あゝ、何を思ひ、何を煩ふ。決して他の人に告白けるのでは無い。唯あの先輩だけに告白けるのだ。日頃自分が慕つて居る、加も自分と同じ新平民の、其人だけに告白けるのに、危い、恐しいやうなことが何処にあらう。
『どうしても言はないのは虚偽だ。』
と丑松は心に羞ぢたり悲んだりした。
そればかりでは無い。勇み立つ青春の意気も亦た丑松の心に強い刺激を与へた。譬へば、丑松は雪霜の下に萌える若草である。春待つ心は有ながらも、猜疑と恐怖とに閉ぢられて了つて、内部の生命は発達ることが出来なかつた。あゝ、雪霜が日にあたつて、溶けるといふに、何の不思議があらう。青年が敬慕の情を心ゆく先輩の前に捧げて、活きて進むといふに、何の不思議があらう。見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は蓮太郎の感化を享けて、精神の自由を慕はずには居られなかつたのである。言ふべし、言ふべし、それが自分の進む道路では有るまいか。斯う若々しい生命が丑松を励ますのであつた。
『よし、明日は先生に逢つて、何もかも打開けて了はう。』
と決心して、姫子沢の家をさして急いだ。
其晩はお妻の父親がやつて来て、遅くまで炉辺で話した。叔父は蓮太郎のことに就いて別に深く掘つて聞かうとも為なかつた。唯丑松が寝床の方へ行かうとした時、斯ういふ問を掛けた。
『丑松――お前は今日の御客様に、何にも自分のことを話しやしねえだらうなあ。』
と言はれて、丑松は叔父の顔を眺めて、
『誰が其様なことを言ふもんですか。』
と答へるには答へたが、それは本心から出た言葉では無いのであつた。
寝床に入つてからも、丑松は長いこと眠られなかつた。不思議な夢は来て、眼前を通る。其人は見納めの時の父の死顔であるかと思ふと、蓮太郎のやうでもあり、病の為に蒼ざめた蓮太郎の顔であるかと思ふと、お妻のやうでもあつた。あの艶を帯つた清しい眸、物言ふ毎にあらはれる皓歯、直に紅くなる頬――その真情の外部に輝き溢れて居る女らしさを考へると、何時の間にか丑松はお志保の俤を描いて居たのである。尤もこの幻影は長く後まで残らなかつた。払暁になると最早忘れて了つて、何の夢を見たかも覚えて居ない位であつた。
第拾章
(一)
いよ/\苦痛の重荷を下す時が来た。
丁度蓮太郎は弁護士と一緒に、上田を指して帰るといふので、丑松も同行の約束した。それは父を傷けた種牛が上田の屠牛場へ送られる朝のこと。叔父も、丑松も其立会として出掛ける筈になつて居たので。昨夜の丑松の決心――あれを実行するには是上も無い好い機会。復た逢はれるのは何時のことやら覚束ない。どうかして叔父や弁護士の聞いて居ないところで――唯先輩と二人ぎりに成つた時に――斯う考へて、丑松は叔父と一緒に出掛ける仕度をしたのであつた。
上田街道へ出ようとする角のところで、そこに待合せて居る二人と一緒になつた。丑松は叔父を弁護士に紹介し、それから蓮太郎にも紹介した。
『先生、これが私の叔父です。』
と言はれて、叔父は百姓らしい大な手を擦み乍ら、
『丑松の奴がいろ/\御世話様に成りますさうで――昨日はまた御出下すつたさうでしたが、生憎と留守にいたしやして。』
斯ういふ挨拶をすると、蓮太郎は丁寧に亡くなつた人の弔辞を述べた。
四人は早く発つた。朝じめりのした街道の土を踏んで、深い霧の中を辿つて行つた時は、遠近に鶏の鳴き交す声も聞える。其日は春先のやうに温暖で、路傍の枯草も蘇生るかと思はれる程。灰色の水蒸気は低く集つて来て、僅かに離れた杜の梢も遠く深く烟るやうに見える。四人は後になり前になり、互に言葉を取交し乍ら歩いた。就中、弁護士の快活な笑声は朝の空気に響き渡る。思はず足も軽く道も果取つたのである。
東上田へ差懸つた頃、蓮太郎と丑松の二人は少許連に後れた。次第に道路は明くなつて、ところ/″\に青空も望まれるやうに成つた。白い光を帯び乍ら、頭の上を急いだは、朝雲の群。行先にあたる村落も形を顕して、草葺の屋根からは煙の立ち登る光景も見えた。霧の眺めは、今、おもしろく晴れて行くのである。
蓮太郎は苦しい様子も見せなかつた。この石塊の多い歩き難い道を彼様して徒歩つても可のかしらん、と丑松はそれを案じつゞけて、時々蓮太郎を待合せては、一緒に遅く歩くやうに為たが、まあ素人目で眺めたところでは格別気息の切れるでも無いらしい。漸く安心して、軈て話し/\行く連の二人の後姿は、と見ると其時は凡そ一町程も離れたらう。急に日があたつて、湿つた道路も輝き初めた。温和に快暢い朝の光は小県の野に満ち溢れて来た。
あゝ、告白けるなら、今だ。
丑松に言はせると、自分は決して一生の戒を破るのでは無い。是が若し世間の人に話すといふ場合ででも有つたら、それこそ今迄の苦心も水の泡であらう。唯斯人だけに告白けるのだ。親兄弟に話すも同じことだ。一向差支が無い。斯う自分で自分に弁解いて見た。丑松も思慮の無い男では無し、彼程堅い父の言葉を忘れて了つて、好んで死地に陥るやうな、其様な愚な真似を為る積りは無かつたのである。
『隠せ。』
といふ厳粛な声は、其時、心の底の方で聞えた。急に冷い戦慄が全身を伝つて流れ下る。さあ、丑松もすこし躊躇はずには居られなかつた。『先生、先生』と口の中で呼んで、どう其を切出したものかと悶いて居ると、何か目に見えない力が背後に在つて、妙に自分の無法を押止めるやうな気がした。
『忘れるな』とまた心の底の方で。
(二)
『瀬川君、君は恐しく考へ込んだねえ。』と蓮太郎は丑松の方を振返つて見た。『時に、大分後れましたよ。奈何ですか、少許急がうぢや有ませんか。』
斯う言はれて、丑松も其後に随いて急いだ。
間も無く二人は連に追付いた。鳥のやうに逃げ易い機会は捕まらなかつた。いづれ未だ先輩と二人ぎりに成る時は有るであらう、と其を丑松は頼みに思ふのである。
日は次第に高くなつた。空は濃く青く透き澄るやうになつた。南の方に当つて、ちぎれ/\な雲の群も起る。今は温暖い光の為に蒸されて、野も煙り、岡も呼吸し、踏んで行く街道の土の灰色に乾く臭気も心地が好い。浅々と萌初めた麦畠は、両側に連つて、奈何に春待つ心の烈しさを思はせたらう。斯うして眺め/\行く間にも、四人の眼に映る田舎が四色で有つたのはをかしかつた。弁護士は小作人と地主との争闘を、蓮太郎は労働者の苦痛と慰藉とを、叔父は『えご』、『山牛蒡』、『天王草』、又は『水沢瀉』等の雑草に苦しめられる耕作の経験から、収穫に関係の深い土質の比較、さては上州地方の平野に住む農夫に比べて斯の山の上の人々の粗懶な習慣なぞを――流石に三人の話は、生活といふことを離れなかつたが、同じ田舎を心に描いても、丑松のは若々しい思想から割出して、働くばかりが田舎ではないと言つたやうな風に観察する。斯ういふ思ひ/\の話に身が入つて、四人は疲労を忘れ乍ら上田の町へ入つた。
上田には弁護士の出張所も設けて有る。そこには蓮太郎の細君が根津から帰る夫を待受けて居たので。蓮太郎と弁護士とは、一寸立寄つて用事を済ました上、また屠牛場で一緒に成るといふことにしよう、其種牛の最後をも見よう――斯ういふ約束で別れた。丑松は叔父と連立つて一歩先へ出掛けた。
屠牛場近く行けば行く程、亡くなつた牧夫のことが烈しく二人の胸に浮んで来た。二人の話は其追懐で持切つた。他人が居なければ遠慮も要らず、今は何を話さうと好自由である。
『なあ、丑松。』と叔父は歩き乍ら嘆息して、『へえ、もう今日で六日目だぞよ。兄貴が亡くなる、お前がやつて来る。葬式を出す、御苦労招びから、礼廻りと、丁度今日で六日目だ。あゝ、明日は最早初七日だ。日数の早く経つには魂消て了ふ。兄貴に別れたのは、つい未だ昨日のやうにしか思はれねえがなあ。』
丑松は黙つて考へ乍ら随いて行つた。叔父は言葉を継いで、
『真実に世の中は思ふやうに行かねえものさ。兄貴も、是から楽をしようといふところで、彼様な災難に罹るなんて。まあ、金を遺すぢや無し、名を遺すぢや無し、一生苦労を為つゞけて、其苦労が誰の為かと言へば――畢竟、お前や俺の為だ。俺も若え時は、克く兄貴と喧嘩して、擲られたり、泣かせられたりしたものだが、今となつて考へて見ると、親兄弟程難有いものは無えぞよ。仮令世界中の人が見放しても、親兄弟は捨てねえからなあ。兄貴を忘れちやならねえと言ふのは――其処だはサ。』
暫時二人は無言で歩いた。
『忘れるなよ。』と叔父は復た初めた。『何程まあ兄貴もお前の為に心配して居たものだか。ある時、俺に、「丑松も今が一番危え時だ。斯うして山の中で考へたと、世間へ出て見たとは違ふから、そこを俺が思つてやる。なか/\他人の中へ突出されて、内兜を見透かされねえやうに遂行げるのは容易ぢやねえ。何卒してうまく行つて呉れゝば可が――下手に学問なぞをして、つまらねえ思想を起さなければ可が――まあ、三十に成つて見ねえ内は、安心が出来ねえ。」と斯ういふから、「なあに、大丈夫――丑松のことなら俺が保証する。」と言つてやつたよ。すると、兄貴は首を振つて、「どうも不可もので、親の悪いところばかり子に伝はる。丑松も用心深いのは好が、然し又、あんまり用心深過ぎて反つて疑はれるやうな事が出来やすまいか。」としきりに其を言ふ。其時俺が、「左様心配した日には際限が無え。」と笑つたことサ。はゝゝゝゝ。』と思出したやうに慾の無い声で笑つて、軈て気を変へて、『しかし、能くまあ、お前も是迄に漕付けて来た。最早大丈夫だ。全くお前には其丈の徳が具はつて居るのだ。なにしろ用心するに越したことはねえぞよ。奈何な先生だらうが、同じ身分の人だらうが、決して気は許せねえ――そりやあ、もう、他人と親兄弟とは違ふからなあ。あゝ、兄貴の生きてる時分には、牧場から下つて来る、俺や婆さんの顔を見る、直にお前の噂だつた。もう兄貴は居ねえ。是からは俺と婆さんと二人ぎりで、お前の噂をして楽むんだ。考へて見て呉れよ、俺も子は無しサ――お前より外に便りにするものは無えのだから。』
(三)
例の種牛は朝のうちに屠牛場へ送られた。種牛の持主は早くから詰掛けて、叔父と丑松とを待受けて居た。二人は、空車引いて馳けて行く肉屋の丁稚の後に随いて、軈て屠牛場の前迄行くと、門の外に持主、先づ見るより、克く来て呉れたを言ひ継ける。心から老牧夫の最後を傷むといふ情合は、斯持主の顔色に表れるのであつた。『いえ。』と叔父は対手の言葉を遮つて、『全く是方の不注意から起つた事なんで、貴方を恨みる筋は些少もごはせん。』とそれを言へば、先方は猶々痛み入る様子。『私はへえ、面目なくて、斯うして貴方等に合せる顔も無いのでやす――まあ畜生の為たことだからせえて(せえては、しての訛、農夫の間に用ゐられる)、御災難と思つて絶念めて下さるやうに。』とかへす/″\言ふ。是処は上田の町はづれ、太郎山の麓に迫つて、新しく建てられた五棟ばかりの平屋。鋭い目付の犬は五六匹門外に集つて来て、頻に二人の臭気を嗅いで見たり、低声に㗅つたりして、やゝともすれば吠え懸りさうな気勢を示すのであつた。
持主に導かれて、二人は黒い門を入つた。内に庭を隔てゝ、北は検査室、東が屠殺の小屋である。年の頃五十余のでつぷり肥つた男が人々の指図をして居たが、其老練な、愛嬌のある物の言振で、屠手の頭といふことは知れた。屠手として是処に使役はれて居る壮丁は十人計り、いづれ紛ひの無い新平民――殊に卑賤しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明白と目につく。一人々々の赤ら顔には、烙印が押当てゝあると言つてもよい。中には下層の新平民に克くある愚鈍な目付を為乍ら是方を振返るもあり、中には畏縮た、兢々とした様子して盗むやうに客を眺めるもある。目鋭い叔父は直に其と看て取つて、一寸右の肘で丑松を小衝いて見た。奈何して丑松も平気で居られよう。叔父の肘が触るか触らないに、其暗号は電気のやうに通じた。幸ひ案じた程でも無いらしいので、漸と安心して、それから二人は他の談話の仲間に入つた。
繋留場には、種牛の外に、二頭の牡牛も繋いであつて、丁度死刑を宣告された罪人が牢獄の内に押籠められたと同じやうに、一刻々々と近いて行く性命の終を翹望んで居た。丑松は今、叔父や持主と一緒に、斯繋留場の柵の前に立つたのである。持主の言草ではないが、『畜生の為たこと』と思へば、別に腹が立つの何のといふ其様な心地には成らないかはりに、可傷しい父の最後、牧場の草の上に流れた血潮――堪へがたい追憶の情は丑松の胸に浮んで来たのである。見れば他のは佐渡牛といふ種類で、一頭は黒く、一頭は赤く、人間の食慾を満すより外には最早生きながらへる価値も無い程に痩せて、其憔悴しさ。それに比べると、種牛は体格も大きく、骨組も偉しく、黒毛艶々として美しい雑種。持主は柵の横木を隔てゝ、其鼻面を撫でゝ見たり、咽喉の下を摩つてやつたりして、
『わりや(汝は)飛んでもねえことを為て呉れたなあ。何も俺だつて、好んで斯様な処へ貴様を引張つて来た訳ぢやねえ――是といふのも自業自得だ――左様思つて絶念めろよ。』
吾児に因果でも言含めるやうに掻口説いて、今更別離を惜むといふ様子。
『それ、こゝに居なさるのが瀬川さんの子息さんだ。御詑をしな。御詑をしな。われ(汝)のやうな畜生だつて、万更霊魂の無えものでも有るめえ。まあ俺の言ふことを好く覚えて置いて、次の生には一層気の利いたものに生れ変つて来い。』
斯う言ひ聞かせて、軈て持主は牛の来歴を二人に語つた。現に今、多くを飼養して居るが、是に勝る血統のものは一頭も無い。父牛は亜米利加産、母牛は斯々、悪い癖さへ無くば西乃入牧場の名牛とも唄はれたであらうに、と言出して嘆息した。持主は又附加して、斯種牛の肉の売代を分けて、亡くなつた牧夫の追善に供へたいから、せめて其で仏の心を慰めて呉れといふことを話した。
其時獣医が入つて来て、鳥打帽を冠つた儘、人々に挨拶する。つゞいて、牛肉屋の亭主も入つて来たは、屠された後の肉を買取る為であらう。間も無く蓮太郎、弁護士の二人も、叔父や丑松と一緒になつて、庭に立つて眺めたり話したりした。
『むゝ、彼が御話のあつた種牛ですね。』と蓮太郎は小声で言つた。人々は用意に取掛かると見え、いづれも白の上被、冷飯草履は脱いで素足に尻端折。笑ふ声、私語く声は、犬の鳴声に交つて、何となく構内は混雑して来たのである。
いよ/\種牛は引出されることになつた。一同の視線は皆な其方へ集つた。今迄沈まりかへつて居た二頭の佐渡牛は、急に騒ぎ初めて、頻と頭を左右に振動かす。一人の屠手は赤い方の鼻面を確乎と制へて、声を摚と音して牛の身体が板敷の上へ横に成つたは、足と足とが引締められたからである。持主は茫然として立つた。丑松も考深い目付をして眺め沈んで居た。やがて、種牛の眉間を目懸けて、一人の屠手が斧(一方に長さ四五寸の管があつて、致命傷を与へるのは是管である)を振翳したかと思ふと、もう其が是畜生の最後。幽な呻吟を残して置いて、直に息を引取つて了つた――一撃で種牛は倒されたのである。
(四)
日の光は斯の小屋の内へ射入つて、死んで其処に倒れた種牛と、多忙しさうに立働く人々の白い上被とを照した。屠手の頭は鋭い出刃庖丁を振つて、先づ牛の咽喉を割く。尾を牽くものは直に尾を捨て、細引を持つものは細引を捨てゝ、いづれも牛の上に登つた。多勢の壮丁が力に任せ、所嫌はず踏付けるので、血潮は割かれた咽喉を通して紅く板敷の上へ流れた。咽喉から腹、腹から足、と次第に黒い毛皮が剥取られる。膏と血との臭気は斯の屠牛場に満ち溢れて来た。
他の二頭の佐渡牛が小屋の内へ引入れられて、撃ち殺されたのは間も無くであつた。斯の可傷しい光景を見るにつけても、丑松の胸に浮ぶは亡くなつた父のことで。丑松は考深い目付を為乍ら、父の死を想ひつゞけて居ると、軈て種牛の毛皮も悉皆剥取られ、角も撃ち落され、脂肪に包まれた肉身からは湯気のやうな息の蒸上るさまも見えた。屠手の頭は手も庖丁も紅く血潮に交れ乍ら、あちこちと小屋の内を廻つて指揮する。そこには竹箒で牛の膏を掃いて居るものがあり、こゝには砥石を出して出刃を磨いで居るものもあつた。赤い佐渡牛は引割と言つて、腰骨を左右に切開かれ、其骨と骨との間へ横木を入れられて、逆方に高く釣るし上げられることになつた。
『そら、巻くぜ。』と一人の屠手は天井にある滑車を見上げ乍ら言つた。
見る/\小屋の中央には、巨大な牡牛の肉身が釣るされて懸つた。叔父も、蓮太郎も、弁護士も、互に顔を見合せて居た。一人の屠手は鋸を取出した、脊髄を二つに引割り始めたのである。
回向するやうな持主の目は種牛から離れなかつた。種牛は最早足さへも切離された。牧場の草踏散らした双叉の蹄も、今は小屋から土間の方へ投出された。灰紫色の膜に掩はれた臓腑は、丁度斯う大風呂敷の包のやうに、べろ/\した儘で其処に置いてある。三人の屠手は互に庖丁を入れて、骨に添ふて肉を切開くのであつた。
烈しい追憶は、復た/\丑松の胸中を往来し始めた。『忘れるな』――あゝ、その熱い臨終の呼吸は、どんなに深い響となつて、生残る丑松の骨の膸までも貫徹るだらう。其を考へる度に、亡くなつた父が丑松の胸中に復活るのである。急に其時、心の底の方で声がして、丑松を呼び警めるやうに聞えた。『丑松、貴様は親を捨てる気か。』と其声は自分を責めるやうに聞えた。
『貴様は親を捨てる気か。』
と丑松は自分で自分に繰返して見た。
成程、自分は変つた。成程、一にも二にも父の言葉に服従して、それを器械的に遵奉するやうな、其様な児童では無くなつて来た。成程、自分の胸の底は父ばかり住む世界では無くなつて来た。成程、父の厳しい性格を考へる度に、自分は反つて反対な方へ逸出して行つて、自由自在に泣いたり笑つたりしたいやうな、其様な思想を持つやうに成つた。あゝ、世の無情を憤る先輩の心地と、世に随へと教へる父の心地と――その二人の相違は奈何であらう。斯う考へて、丑松は自分の行く道路に迷つたのである。
気がついて我に帰つた時は、蓮太郎が自分の傍に立つて居た。いつの間にか巡査も入つて来て、獣医と一緒に成つて眺めて居た。見れば種牛は股から胴へかけて四つの肉塊に切断られるところ。右の前足の股の肉は、既に天井から垂下る細引に釣るされて、海綿を持つた一人の屠手が頻と其血を拭ふのであつた。斯うして巨大な種牛の肉体は実に無造作に屠られて了つたのである。屠手の頭が印判を取出して、それぞれの肉の上へ押して居るかと見るうちに、一方では引取りに来た牛肉屋の丁稚、編席敷いた箱を車の上に載せて、威勢よく小屋の内へがら/\と引きこんだ。
『十二貫五百。』
といふ声は小屋の隅の方に起つた。
『十一貫七百。』
とまた。
屠られた種牛の肉は、今、大きな秤に懸けられるのである、屠手の一人が目方を読み上げる度に、牛肉屋の亭主は鉛筆を舐めて、其を手帳へ書留めた。
やがて其日の立会も済み、持主にも別れを告げ、人々と一緒に斯の屠牛場から引取らうとした時、もう一度丑松は小屋の方を振返つて見た。屠手のあるものは残物の臓腑を取片付ける、あるものは手桶に足を突込んで牛の血潮を洗ひ落す、種牛の片股は未だ釣るされた儘で、黄な膏と白い脂肪とが日の光を帯びて居た。其時は最早あの可傷しい回想の断片といふ感想も起らなかつた。唯大きな牛肉の塊としか見えなかつた。
第拾壱章
(一)
『先づ好かつた。』と叔父は屠牛場の門を出た時、丑松の肩を叩いて言つた。『先づまあ、是で御関所は通り越した。』
『あゝ、叔父さんは声が高い。』と制するやうにして、丑松は何か思出したやうに、先へ行く蓮太郎と弁護士との後姿を眺めた。
『声が高い?』叔父は笑ひ乍ら、『ふゝ、俺のやうな皺枯声が誰に聞えるものかよ。それは左様と、丑松、へえ最早是で安心だ。是処まで漕付ければ、最早大丈夫だ。どのくれえ、まあ、俺も心配したらう。あゝ今夜からは三人で安気に寝られる。』
牛肉を満載した車は二人の傍を通過ぎた。枯々な桑畠の間には、其車の音がから/\と響き渡つて、随いて行く犬の叫び声も何となく喜ばしさうに聞える。心の好い叔父は唯訳も無く身を祝つて、顔の薄痘痕も喜悦の為に埋もれるかのやう。奈何いふ思想が来て今の世の若いものゝ胸を騒がせて居るか、其様なことはとんと叔父には解らなかつた。昔者の叔父は、斯の天気の好いやうに、唯一族が無事でさへあれば好かつた。軈て、考深い目付を為て居る丑松を促して、昼仕度を為るために急いだのである。
昼食の後、丑松は叔父と別れて、単独で弁護士の出張所を訪ねた。そこには蓮太郎が細君と一緒に、丑松の来るのを待受けて居たので。尤も、一同で楽しい談話をするのは三時間しか無かつた。聞いて見ると細君は東京の家へ、蓮太郎と弁護士とは小諸の旅舎まで、其日四時三分の汽車で上田を発つといふ。細君は深く夫の身の上を案じるかして、一緒に東京の方へ帰つて呉れと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。もと/\友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟は弁護士の為に尽したいから。其は細君も万々承知。夫の気象として、左様いふのは無理もない。しかし斯の山の上で、夫の病気が重りでもしたら。斯ういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。『奥様、其様に御心配無く――猪子君は私が御預りしましたから。』と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。
先輩が可懐しければ其細君までも可懐しい。斯う思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢つた時からして、何となく人格の奥床しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞が有るでも無く、左様かと言つて可厭に澄まして居るといふ風でも無い――まあ、極く淡泊とした、物に拘泥しない気象の女と知れた。風俗なぞには関はない人で、是から汽車に乗るといふのに、其程身のまはりを取修ふでも無い。男の見て居る前で、僅かに髪を撫で付けて、旅の手荷物もそこ/\に取収めた。あの『懴悔録』の中に斯人のことが書いてあつたのを、急に丑松は思出して、兎も角も普通の良い家庭に育つた人が種族の違ふ先輩に嫁く迄の其二人の歴史を想像して見た。
汽車を待つ二三時間は速に経つた。左右するうちに、停車場さして出掛ける時が来た。流石弁護士は忙しい商売柄、一緒に門を出ようと為るところを客に捕つて、立つて時計を見乍らの訴訟話。蓮太郎は細君を連れて一歩先へ出掛けた。『あゝ何時復た先生に御目に懸れるやら。』斯う独語のやうに言つて、丑松も見送り乍ら随いて行つた。せめてもの心尽し、手荷物の鞄は提げさせて貰ふ。其様なことが丑松の身に取つては、嬉敷も、名残惜敷も思はれたので。
初冬の光は町の空に満ちて、三人とも羞明い位であつた。上田の城跡について、人通りのすくない坂道を下りかけた時、丑松は先輩と細君とが斯ういふ談話を為るのを聞いた。
『大丈夫だよ、左様お前のやうに心配しないでも。』と蓮太郎は叱るやうに。
『その大丈夫が大丈夫で無いから困る。』と細君は歩き乍ら嘆息した。『だつて、貴方は少許も身体を関はないんですもの。私が随いて居なければ、どんな無理を成さるか知れないんですもの。それに、斯の山の上の陽気――まあ、私は考へて見たばかりでも怖しい。』
『そりやあ海岸に居るやうな訳にはいかないさ。』と蓮太郎は笑つて、『しかし、今年は暖和い。信州で斯様なことは珍しい。斯の位の空気を吸ふのは平気なものだ。御覧な、其証拠には、信州へ来てから風邪一つ引かないぢやないか。』
『でせう。大変に快く御成なすつたでせう。ですから猶々大切にして下さいと言ふんです。折角快く成りかけて、復た逆返しでもしたら――』
『ふゝ、左様大事を取つて居た日にや、事業も何も出来やしない。』
『事業? 壮健に成ればいくらでも事業は出来ますわ。あゝ、一緒に東京へ帰つて下されば好いんですのに。』
『解らないねえ。未だ其様なことを言つてる。奈何してまあ女といふものは左様解らないだらう。何程私が市村さんの御世話に成つて居るか、お前だつて其位のことは考へさうなものぢやないか。其人の前で、私に帰れなんて――すこし省慮の有るものなら、彼様なことの言へた義理ぢや無からう。彼様いふことを言出されると、折角是方で思つたことも無に成つて了ふ。それに今度は、すこし自分で研究したいことも有る。今胸に浮んで居る思想を完成めて書かうといふには、是非とも自分で斯の山の上を歩いて、田園生活といふものを観察しなくちやならない。それには実にもつて来いといふ機会だ。』と言つて、蓮太郎はすこし気を変へて、『あゝ好い天気だ。全く小春日和だ。今度の旅行は余程面白からう――まあ、お前も家へ行つて待つて居て呉れ、信州土産はしつかり持つて帰るから。』
二人は暫時無言で歩いた。丑松は右の手の鞄を左へ持ち変へて、黙つて後から随いて行つた。やがて高い白壁造りの倉庫のあるところへ出て来た。
『あゝ。』と細君は萎れ乍ら、『何故私が帰つて下さいなんて言出したか、其訳を未だ貴方に話さないんですから。』
『ホウ、何か訳が有るのかい。』と蓮太郎は聞咎める。
『外でも無いんですけれど。』と細君は思出したやうに震へて、『どうもねえ、昨夜の夢見が悪くて――斯う恐しく胸騒ぎがして――一晩中私は眠られませんでしたよ。何だか私は貴方のことが心配でならない。だつて、彼様な夢を見る筈が無いんですもの。だつて、其夢が普通の夢では無いんですもの。』
『つまらないことを言ふなあ。それで一緒に東京へ帰れと言ふのか。はゝゝゝゝ。』と蓮太郎は快活らしく笑つた。
『左様貴方のやうに言つたものでも有ませんよ。未来の事を夢に見るといふ話は克く有ますよ。どうも私は気に成つて仕様が無い。』
『ちよツ、夢なんぞが宛に成るものぢや無し――』
『しかし――奇異なことが有れば有るものだ。まあ、貴方の死んだ夢を見るなんて。』
『へん、御幣舁ぎめ。』
(二)
不思議な問答をするとは思つたが、丑松は其を聞いて、格別気にも懸けなかつた。彼程淡泊として、快濶た気象の細君で有ながら、左様なことを気に為るとは。まあ、あの夢といふ奴は児童の世界のやうなもので、時と場所の差別も無く、実に途方も無いことを眼前に浮べて見せる。先輩の死――どうして其様な馬鹿らしいことが細君の夢に入つたものであらう。しかし其を気にするところが女だ。と斯う感じ易い異性の情緒を考へて、いつそ可笑しくも思はれた位。『女といふものは、多く彼様したものだ。』と自分で自分に言つて見た時は、思はず彼の迷信深い蓮華寺の奥様を、それからあのお志保を思出すのであつた。
橋を渡つて、停車場近くへ出た。細君はすこし後に成つた。丑松は左の手に持ち変へた鞄をまた/\右の手に移して、蓮太郎と別離の言葉を交し乍ら歩いた。
『そんなら先生は――』と丑松は名残惜しさうに聞いて見る。『いつ頃まで信州に居らつしやる御積りなんですか。』
『僕ですか。』と蓮太郎は微笑んで答へた。『左様ですなあ――すくなくとも市村君の選挙が済むまで。実はね、家内も彼様言ひますし、一旦は東京へ帰らうかとも思ひましたよ。ナニ、これが普通の選挙の場合なら、黙つて帰りますサ。どうせ僕なぞが居たところで、大した応援も出来ませんからねえ。まあ市村君の身になつて考へて見ると、先生は先生だけの覚悟があつて、候補者として立つのですから、誰を政敵にするのも其味は一つです。はゝゝゝゝ。しかし、市村君が勝つか、あの高柳利三郎が勝つか、といふことは、僕等の側から考へると、一寸普通の場合とは違ふかとも思はれる――』
丑松は黙つて随いて行つた。蓮太郎は何か思出したやうに、後から来る細君の方を振返つて見て、やがて復た歩き初める。
『だつて、君、考へて見て呉れたまへ。あの高柳の行為を考へて見て呉れたまへ。あゝ、いくら吾儕が無智な卑賤しいものだからと言つて、蹈付けられるにも程が有る。どうしても彼様な男に勝たせたくない。何卒して市村君のものに為て遣りたい。高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地が無さ過ぎるからねえ。』
『では、先生は奈何なさる御積りなんですか。』
『奈何するとは?』
『黙つて帰ることが出来ないと仰ると――』
『ナニ、君、僅かに打撃を加へる迄のことさ。はゝゝゝゝ。なにしろ先方には六左衛門といふ金主が附いたのだから、いづれ買収も為るだらうし、壮士的な運動も遣るだらう。そこへ行くと、是方は草鞋一足、舌一枚――おもしろい、おもしろい、敵はたゞ金の力より外に頼りに為るものが無いのだからおもしろい。はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
『しかし、うまく行つて呉れると好いですがなあ――』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
斯ういふ談話をして行くうちに、二人は上田停車場に着いた。
上野行の上り汽車が是処を通る迄には未だ少許間が有つた。多くの旅客は既に斯の待合室に満ち溢れて居た。細君も直に一緒になつて、三人して弁護士を待受けた。蓮太郎は巻煙草を取出して、丑松に勧め、自分もまた火を点けて、其を燻し/\何を言出すかと思ふと、『いや、信州といふところは余程面白いところさ。吾儕のやうなものを斯様に待遇するところは他の国には無いね。』と言ひさして、丑松の顔を眺め、細君の顔を眺め、それから旅客の群をも眺め廻し乍ら、『ねえ瀬川君、僕も御承知の通りな人間でせう。他の場合とは違つて選挙ですから、実は僕なぞの出る幕では無いと思つたのです。万一、選挙人の感情を害するやうなことが有つては、反つて藪蛇だ。左様思ふから、まあ演説は見合せにする考へだつたのです。ところが信州といふところは変つた国柄で、僕のやうなものに是非談話をして呉れなんて――はあ、今夜は小諸で、市村君と一緒に演説会へ出ることに。』と言つて、思出したやうに笑つて、『この上田で僕等が談話をした時には七百人から集りました。その聴衆が実に真面目に好く聞いて呉れましたよ。長野に居た新聞記者の言草では無いが、「信州ほど演説の稽古をするに好い処はない、」――全く其通りです。智識の慾に富んで居るのは、斯の山国の人の特色でせうね。これが他の国であつて見たまへ、まあ僕等のやうなものを相手にして呉れる人はありやしません。それが信州へ来れば「先生」ですからねえ。はゝゝゝゝ。』
細君は苦笑ひをしながら聞いて居た。
軈て、切符を売出した。人々はぞろ/\動き出した。丁度そこへ弁護士、肥大な体躯を動り乍ら、満面に笑を含んで馳け付けて、挨拶する間も無く蓮太郎夫婦と一緒に埒の内へと急いだ。丑松も、入場切符を握つて、随いて入つた。
四番の上りは二十分も後れたので、それを待つ旅客は『プラットホオム』の上に群つた。細君は大時計の下に腰掛けて茫然と眺め沈んで居る、弁護士は人々の間をあちこちと歩いて居る、丑松は蓮太郎の傍を離れないで、斯うして別れる最後の時までも自分の真情を通じたいが胸中に満ち/\て居た。どうかすると、丑松は自分の日和下駄の歯で、乾いた土の上に何か画き初める。蓮太郎は柱に倚凭り乍ら、何の文字とも象徴とも解らないやうなものが土の上に画かれるのを眺め入つて居た。
『大分汽車は後れましたね。』
といふ蓮太郎の言葉に気がついて、丑松は下駄の歯の痕を掻消して了つた。すこし離れて斯の光景を眺めて居た中学生もあつたが、やがて他を向いて意味も無く笑ふのであつた。
『あ、ちよと、瀬川君、飯山の御住処を伺つて置きませう。』斯う蓮太郎は尋ねた。
『飯山は愛宕町の蓮華寺といふところへ引越しました。』と丑松は答へる。
『蓮華寺?』
『下水内郡飯山町蓮華寺方――それで分ります。』
『むゝ、左様ですか。それから、是はまあ是限りの御話ですが――』と蓮太郎は微笑んで、『ひよつとすると、僕も君の方まで出掛けて行くかも知れません。』
『飯山へ?』丑松の目は急に輝いた。
『はあ――尤も、佐久小県の地方を廻つて、一旦長野へ引揚げて、それからのことですから、まだ奈何なるか解りませんがね、若し飯山へ出掛けるやうでしたら是非御訪ねしませう。』
其時、汽笛の音が起つた。見れば直江津の方角から、長い列車が黒烟を揚げて進んで来た。顔も衣服も垢染み汚れた駅夫の群は忙しさうに駈けて歩く。やがて駅長もあらはれた。汽車はもう人々の前に停つた。多くの乗客はいづれも窓に倚凭つて眺める。細君も、弁護士も、丑松に別離を告げて周章しく乗込んだ。
『それぢや、君、失敬します。』
といふ言葉を残して置いて、蓮太郎も同じ室へ入る、直に駅夫が飛んで来てぴしやんと其戸を閉めて行つた。丑松の側に居た駅長が高く右の手を差上げて、相図の笛を吹鳴らしたかと思ふと、汽車はもう線路を滑り初めた。細君は窓から顔を差出して、もう一度丑松に挨拶したが、たゞさへ悪い其色艶が忘れることの出来ないほど蒼かつた。見る見る乗客の姿は動揺して、甲から乙へと影のやうに通過ぎる。丑松は喪心した人のやうになつて、長いこと同じところに樹ゑたやうに立つた。あゝ、先輩は行つて了つた、と思ひ浮べた頃は、もう汽車の形すら見えなかつたのである。後に残る白い雲のやうな煙の群、その一団一団の集合が低く地の上に這ふかと見て居ると、急に風に乱れて、散り/″\になつて、終に初冬の空へ掻消すやうに失くなつて了つた。
(三)
何故人の真情は斯う思ふやうに言ひ表すことの出来ないものであらう。其日といふ其日こそは、あの先輩に言ひたい/\と思つて、一度となく二度となく自分で自分を励まして見たが、とう/\言はずに別れて了つた。どんなに丑松は胸の中に戦ふ深い恐怖と苦痛とを感じたらう。どんなに丑松は寂しい思を抱き乍ら、もと来た道を根津村の方へと帰つて行つたらう。
初七日も無事に過ぎた。墓参りもし、法事も済み、わざとの振舞は叔母が手料理の精進で埒明けて、さて漸く疲労が出た頃は、叔父も叔母も安心の胸を撫下した。独り精神の苦闘を続けたのは丑松で、蓮太郎が残して行つた新しい刺激は書いたものを読むにも勝る懊悩を与へたのである。時として丑松は、自分の一生のことを考へる積りで、小県の傾斜を彷徨つて見た。根津の丘、姫子沢の谷、鳥が啼く田圃側なぞに霜枯れた雑草を蹈み乍ら、十一月上旬の野辺に満ちた光を眺めて佇立んだ時は、今更のやうに胸を流れる活きた血潮の若々しさを感ずる。確実に、自分には力がある。斯う丑松は考へるのであつた。しかし其力は内部へ/\と閉塞つて了つて、衝いて出て行く道が解らない。丑松はたゞ同じことを同じやうに繰返し乍ら、山の上を歩き廻つた。あゝ、自然は慰めて呉れ、励ましては呉れる。しかし右へ行けとも、左へ行けとも、そこまでは人に教へなかつた。丑松が尋ねるやうな問には、野も、丘も、谷も答へなかつたのである。
ある日の午後、丑松は二通の手紙を受取つた。二通ともに飯山から。一通は友人の銀之助。例の筆まめ、相変らず長々しく、丁度談話をするやうな調子で、さま/″\慰藉を書き籠め、さて飯山の消息には、校長の噂やら、文平の悪口やら、『僕も不幸にして郡視学を叔父に持たなかつた』とかなんとか言ひたい放題なことを書き散らし、普通教育者の身を恨み罵り、到底今日の教育界は心ある青年の踏み留まるべきところでは無いと奮慨してよこした。長野の師範校に居る博物科の講師の周旋で、いよ/\農科大学の助手として行くことに確定したから、いづれ遠からず植物研究に身を委ねることが出来るであらう――まあ、喜んで呉れ、といふ意味を書いてよこした。
功名を慕ふ情熱は、斯の友人の手紙を見ると同時に、烈しく丑松の心を刺激した。一体、丑松が師範校へ入学したのは、多くの他の学友と同じやうに、衣食の途を得る為で――それは小学教師を志願するやうなものは、誰しも似た境遇に居るのであるから――とはいふものゝ、丑松も無論今の位置に満足しては居なかつた。しかし、銀之助のやうな場合は特別として、高等師範へでも行くより外に、小学教師の進んで出る途は無い。さも無ければ、長い/\十年の奉公。其義務年限の間、束縛されて働いて居なければならない。だから丑松も高等師範へ――といふことは卒業の当時考へないでも無い。志願さへすれば最早とつくに選抜されて居たらう。そこがそれ穢多の悲しさには、妙にそちらの方には気が進まなかつたのである。丑松に言はせると、たとへ高等師範を卒業して、中学か師範校かの教員に成つたとしたところで、もしも蓮太郎のやうな目に逢つたら奈何する。何処まで行つても安心が出来ない。それよりは飯山あたりの田舎に隠れて、じつと辛抱して、義務年限の終りを待たう。其間に勉強して他の方面へ出る下地を作らう。素性が素性なら、友達なんぞに置いて行かれる積りは毛頭無いのだ。斯う嘆息して、丑松は深く銀之助の身の上を羨んだ。
他の一通は高等四年生総代としてある。それは省吾の書いたもので、手紙の文句も覚束なく、作文の時間に教へた通りをそつくり其儘の見舞状、『根津にて、瀬川先生――風間省吾より』としてあつた。『猶々』とちひさく隅の方に、『蓮華寺の姉よりも宜敷』としてあつた。
『姉よりも宜敷。』
と繰返して、丑松は言ふに言はれぬ可懐しさを感じた。やがてお志保のことを考へる為に、裏の方へ出掛けた。
(四)
追憶の林檎畠――昔若木であつたのも今は太い幹となつて、中には僅かに性命を保つて居るやうな虫ばみ朽ちたのもある。見れば木立も枯れ/″\、細く長く垂れ下る枝と枝とは左右に込合つて、思ひ/\に延びて、いかにも初冬の風趣を顕して居た。その裸々とした幹の根元から、芽も籠る枝のわかれ、まだところ/″\に青み残つた力なげの霜葉まで、日につれて地に映る果樹の姿は丑松の足許にあつた。そここゝの樹の下に雄雌の鶏、土を浴びて静息として蹲踞つて居るのは、大方羽虫を振ふ為であらう。丁度この林檎畠を隔てゝ、向ふに草葺の屋根も見える――あゝ、お妻の生家だ。克く遊びに行つた家だ。薄煙青々と其土壁を泄れて立登るのは、何となく人懐しい思をさせるのであつた。
『姉よりも宜敷。』
とまた繰返して、丑松は樹と樹の間をあちこちと歩いて見た。
楽しい思想は来て、いつの間にか、丑松の胸の中に宿つたのである。昔、昔、少年の丑松があの幼馴染のお妻と一緒に遊んだのは爰だ。互に人目を羞ぢらつて、輝く若葉の蔭に隠れたのは爰だ。互に初恋の私語を取交したのは爰だ。互に無邪気な情の為に燃え乍ら、唯もう夢中で彷徨つたのは爰だ。
斯ういふ風に、過去つたことを思ひ浮べて居ると、お妻からお志保、お志保からお妻と、二人の俤は往つたり来たりする。別にあの二人は似て居るでも無い。年齢も違ふ、性質も違ふ、容貌も違ふ。お妻を姉とも言へないし、お志保を妹とも思はれない。しかし一方のことを思出すと、きつと又た一方のことをも考へて居るのは不思議で――
あゝ、穢多の悲嘆といふことさへ無くば、是程深く人懐しい思も起らなかつたであらう。是程深く若い生命を惜むといふ気にも成らなかつたであらう。是程深く人の世の歓楽を慕ひあこがれて、多くの青年が感ずることを二倍にも三倍にもして感ずるやうな、其様な切なさは知らなかつたであらう。あやしい運命に妨げられゝば妨げられる程、余計に丑松の胸は溢れるやうに感ぜられた。左様だ――あのお妻は自分の素性を知らなかつたからこそ、昔一緒にこの林檎畠を彷徨つて、蜜のやうな言葉を取交しもしたのである。誰が卑賤しい穢多の子と知つて、其朱唇で笑つて見せるものが有らう。もしも自分のことが世に知れたら――斯ういふことは考へて見たばかりでも、実に悲しい、腹立たしい。懐しさは苦しさに交つて、丑松の心を掻乱すやうにした。
思ひ耽つて樹の下を歩いて居ると、急に鶏の声が起つて、森閑とした畠の空気に響き渡つた。
『姉よりも宜敷。』
ともう一度繰返して、それから丑松は斯の場処を出て行つた。
其晩はお志保のことを考へ乍ら寝た。一度有つたことは二度有るもの。翌る晩も其又次の晩も、寝る前には必ず枕の上でお志保を思出すやうになつた。尤も朝になれば、そんなことは忘れ勝ちで、『奈何して働かう、奈何して生活しよう――自分は是から将来奈何したら好からう』が日々心を悩ますのである。父の忌服は半ば斯ういふ煩悶のうちに過したので、さていよ/\『奈何する』となつた時は、別に是ぞと言つて新しい途の開けるでも無かつた。四五日の間、丑松はうんと考へた積りであつた。しかし、後になつて見ると、唯もう茫然するやうなことばかり。つまり飯山へ帰つて、今迄通りの生活を続けるより外に方法も無かつたのである。あゝ、年は若し、経験は少し、身は貧しく、義務年限には縛られて居る――丑松は暗い前途を思ひやつて、やたらに激昂したり戦慄へたりした。
第拾弐章
(一)
二七日が済む、直に丑松は姫子沢を発つことにした。やれ、それ、と叔父夫婦は気を揉んで、暦を繰つて日を見るやら、草鞋の用意をして呉れるやら、握飯は三つも有れば沢山だといふものを五つも造へて、竹の皮に包んで、別に瓜の味噌漬を添へて呉れた。お妻の父親もわざわざやつて来て、炉辺での昔語。煤けた古壁に懸かる例の『山猫』を見るにつけても、亡くなつた老牧夫の噂は尽きなかつた。叔母が汲んで出す別離の茶――其色も濃く香も好いのを飲下した時は、どんなにか丑松も暖い血縁のなさけを感じたらう。道祖神の立つ故郷の出口迄叔父に見送られて出た。
其日は灰色の雲が低く集つて、荒寥とした小県の谷間を一層暗欝にして見せた。烏帽子一帯の山脈も隠れて見えなかつた。父の墓のある西乃入の沢あたりは、あるひは最早雪が来て居たらう。昨日一日の凩で、急に枯々な木立も目につき、梢も坊主になり、何となく野山の景色が寂しく冬らしくなつた。長い、長い、考へても淹悶するやうな信州の冬が、到頭やつて来た。人々は最早あの桅染の真綿帽子を冠り出した。荷をつけて通る馬の鼻息の白いのを見ても、いかに斯山上の気候の変化が激烈であるかを感ぜさせる。丑松は冷い空気を呼吸し乍ら、岩石の多い坂路を下りて行つた。荒谷の村はづれ迄行けば、指の頭も赤く腫れ脹らんで、寒さの為に感覚を失つた位。
田中から直江津行の汽車に乗つて、豊野へ着いたのは丁度正午すこし過。叔母が呉れた握飯は停車場前の休茶屋で出して食つた。空腹とは言ひ乍ら五つ迄は。さて残つたのを捨てる訳にもいかず、犬に呉れるは勿体なし、元の竹の皮に包んで外套の袖袋へ突込んだ。斯うして腹をこしらへた上、川船の出るといふ蟹沢を指して、草鞋の紐を〆直して出掛けた。其間凡そ一里許。尤も往きと帰りとでは、同じ一里が近く思はれるもので、北国街道の平坦な長い道を独りてく/\やつて行くうちに、いつの間にか丑松は広濶とした千曲川の畔へ出て来た。急いで蟹沢の船場迄行つて、便船は、と尋ねて見ると、今々飯山へ向けて出たばかりといふ。どうも拠ない。次の便船の出るまで是処で待つより外は無い。それでもまだ歩いて行くよりは増だ、と考へて、丑松は茶屋の上り端に休んだ。
霙が落ちて来た。空はいよ/\暗澹として、一面の灰紫色に掩はれて了つた。斯うして一時間の余も待つて居るといふことが、既にもう丑松の身にとつては、堪へ難い程の苦痛であつた。それに、道を急いで来た為に、いやに身体は蒸されるやう。襯衣の背中に着いたところは、びつしより熱い雫になつた。額に手を当てゝ見れば、汗に濡れた髪の心地の悪さ。胸のあたりを掻展げて、少許気息を抜いて、軈て濃い茶に乾いた咽喉を霑して居る内に、ポツ/\舟に乗る客が集つて来る。あるものは奥の炬燵にあたるもあり、あるものは炉辺へ行つて濡れた羽織を乾すもあり、中には又茫然と懐手して人の談話を聞いて居るのもあつた。主婦は家の内でも手拭を冠り、藍染真綿を亀の甲のやうに着て、茶を出すやら、座蒲団を勧めるやら、金米糖は古い皿に入れて款待した。
丁度そこへ二台の人力車が停つた。矢張斯の霙を衝いて、便船に後れまいと急いで来た客らしい。人々の視線は皆な其方に集つた。車夫はまるで濡鼠、酒代が好いかして威勢よく、先づ雨被を取除して、それから手荷物のかず/\を茶屋の内へと持運ぶ。つゞいて客もあらはれた。
(二)
丑松が驚いたのは無理もなかつた。それは高柳の一行であつた。往きに一緒に成つて、帰りにも亦た斯の通り一緒に成るとは――しかも、同じ川舟を待合はせるとは。それに往きには高柳一人であつたのが、帰りには若い細君らしい女と二人連。女は、薄色縮緬のお高祖を眉深に冠つたまゝ、丑松の腰掛けて居る側を通り過ぎた。新しい艶のある吾妻袍衣に身を包んだ其嫋娜とした後姿を見ると、斯の女が誰であるかは直に読める。丑松はあの蓮太郎の話を想起して、いよ/\其が事実であつたのに驚いて了つた。
主婦に導かれて、二人はずつと奥の座敷へ通つた。そこには炬燵が有つて、先客一人、五十あまりの坊主、直に慣々しく声を掛けたところを見ると、かねて懇意の仲ででも有らう。軈て盛んな笑声が起る。丑松は素知らぬ顔、屋外の方へ向いて、物寂しい霙の空を眺めて居たが、いつの間にか後の方へ気を取られる。聞くとは無しについ聞耳を立てる。座敷の方では斯様な談話をして笑ふのであつた。
『道理で――君は暫時見えないと思つた。』と言ふは世慣れた坊主の声で、『私は又、選挙の方が忙しくて、其で地方廻りでも為て居るのかと思つた。へえ、左様ですかい、そんな御目出度ことゝは少許も知らなかつたねえ。』
『いや、どうも忙しい思を為て来ましたよ。』斯う言つて笑ふ声を聞くと、高柳はさも得意で居るらしい。
『それはまあ何よりだつた。失礼ながら、奥様は? 矢張東京の方からでも?』
『はあ。』
この『はあ』が丑松を笑はせた。
談話の様子で見ると、高柳夫婦は東京の方へ廻つて、江の島、鎌倉あたりを見物して来て、是から飯山へ乗込むといふ寸法らしい。そこは抜目の無い、細工の多い男だから、根津から直に引返すやうなことを為ないで、わざ/\遠廻りして帰つて来たものと見える。さて、坊主を捕へて、片腹痛いことを吹聴し始めた。聞いて居る丑松には其心情の偽が読め過ぎるほど読めて、終には其処に腰掛けても居られないやうになつた。『恐しい世の中だ』――斯う考へ乍ら、あの夫婦の暗い秘密を自分の身に引比べると、さあ何となく気懸りでならない。やがて、故意と無頓着な様子を装つて、ぶらりと休茶屋の外へ出て眺めた。
霙は絶えず降りそゝいで居た。あの越後路から飯山あたりへかけて、毎年降る大雪の前駆が最早やつて来たかと思はせるやうな空模様。灰色の雲は対岸に添ひ徊徘つた、広濶とした千曲川の流域が一層遠く幽に見渡される。上高井の山脈、菅平の高原、其他畳み重なる多くの山々も雪雲に埋没れて了つて、僅かに見えつ隠れつして居た。
斯うして茫然として、暫時千曲川の水を眺めて居たが、いつの間にか丑松の心は背後の方へ行つて了つた。幾度か丑松は振返つて二人の様子を見た。見まい/\と思ひ乍ら、つい見た。丁度乗船の切符を売出したので、人々は皆な争つて買つた。間も無く船も出るといふ。混雑する旅人の群に紛れて、先方の二人も亦た時々盗むやうに是方の様子を注意するらしい――まあ、思做の故かして、すくなくとも丑松には左様酌れたのである。女の方で丑松を知つて居るか、奈何か、それは克く解らないが、丑松の方では確かに知つて居る。髪のかたちこそ新婚の人のそれに結ひ変へては居るが、紛れの無い六左衛門の娘、白いもの花やかに彩色して恥の面を塗り隠し、野心深い夫に倚添ひ、崖にある坂路をつたつて、舟に乗るべきところへ下りて行つた。『何と思つて居るだらう――あの二人は。』斯う考へ乍ら、丑松も亦た人々の後に随いて、一緒にその崖を下りた。
(三)
川舟は風変りな屋形造りで、窓を附け、舷から下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。それに、艫寄の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。立てば頭が支へる程。人々はいづれも狭苦しい屋形の下に膝を突合せて乗つた。
やがて水を撃つ棹の音がした。舟底は砂の上を滑り始めた。今は二挺櫓で漕ぎ離れたのである。丑松は隅の方に両足を投出して、独り寂しさうに巻煙草を燻し乍ら、深い/\思に沈んで居た。河の面に映る光線の反射は割合に窓の外を明くして、降りそゝぐ霙の眺めをおもしろく見せる。舷に触れて囁くやうに動揺する波の音、是方で思つたやうに聞える眠たい櫓のひゞき――あゝ静かな水の上だ。荒寥とした岸の楊柳もところ/″\。時としては其冬木の姿を影のやうに見て進み、時としては其枯々な枝の下を潜るやうにして通り抜けた。是から将来の自分の生涯は畢竟奈何なる。斯う丑松は自分で自分に尋ねることもあつた。誰が其を知らう。窓から首を出して飯山の空を眺めると、重く深く閉塞つた雪雲の色はうたゝ孤独な穢多の子の心を傷ましめる。残酷なやうな、可懐しいやうな、名のつけやうの無い心地は丑松の胸の中を掻乱した。今――学校の連中は奈何して居るだらう。友達の銀之助は奈何して居るだらう。あの不幸な、老朽な敬之進は奈何して居るだらう。蓮華寺の奥様は。お志保は。と不図、省吾から来た手紙の文句なぞを思出して見ると、逢ひたいと思ふ其人に復た逢はれるといふ楽みが無いでもない。丑松はあの寺の古壁を思ひやるごとに、空寂なうちにも血の湧くやうな心地に帰るのであつた。
『蓮華寺――蓮華寺。』
と水に響く櫓の音も同じやうに調子を合せた。
霙は雪に変つて来た。徒然な舟の中は人々の雑談で持切つた。就中、高柳と一緒になつた坊主、茶にしたやうな口軽な調子で、柄に無い政事上の取沙汰、酢の菎蒻のとやり出したので、聞く人は皆な笑ひ憎んだ。斯の坊主に言はせると、選挙は一種の遊戯で、政事家は皆な俳優に過ぎない、吾儕は唯見物して楽めば好いのだと。斯の言葉を聞いて、また人々が笑へば、そこへ弥次馬が飛出す、其尾に随いて贔顧不贔顧の論が始まる。『いよ/\市村も侵入んで来るさうだ。』と一人が言へば、『左様言ふ君こそ御先棒に使役はれるんぢや無いか。』と攪返すものがある。弁護士の名は幾度か繰返された。其を聞く度に、高柳は不快らしい顔付。ふゝむと鼻の先で笑つて、嘲つたやうに口唇を引歪めた。
斯ういふ他の談話の間にも、女は高柳の側に倚添つて、耳を澄まして、夫の機嫌を取り乍ら聞いて居た。見れば、美しい女の数にも入るべき人で、殊に華麗な新婚の風俗は多くの人の目を引いた。髪は丸髷に結ひ、てがらは深紅を懸け、桜色の肌理細やかに肥えあぶらづいて、愛嬌のある口元を笑ふ度に掩ひかくす様は、まだ世帯の苦労なぞを知らない人である。さすが心の表情は何処かに読まれるもので――大きな、ぱつちりとした眼のうちには、何となく不安の色も顕れて、熟と物を凝視めるやうな沈んだところも有つた。どうかすると、女は高柳の耳の側へ口を寄せて、何か人に知れないやうに私語くことも有つた。どうかすると又、丑松の方を盗むやうに見て、『おや、彼の人は――何処かで見掛けたやうな気がする』と斯う其眼で言ふことも有つた。
同族の哀憐は、斯の美しい穢多の女を見るにつけても、丑松の胸に浮んで来た。人種さへ変りが無くば、あれ程の容姿を持ち、あれ程富有な家に生れて来たので有るから、無論相当のところへ縁付かれる人だ――彼様な野心家の餌なぞに成らなくても済む人だ――可愛さうに。斯う考へると同時に、丁度女も自分と同じ秘密を持つて居るかと思ひやると、どうも其処が気懸りでならない。よしんば先方で自分を知つて居るとしたところで、其が奈何した、と丑松は自分で自分に尋ねて見た。根津の人、または姫子沢のもの、と思つて居るなら自分に取つて一向恐れるところは無い。恐れるとすれば、其は反つて先方のことだ。斯う自分で答へて見た。第一、自分は四五年以来、数へる程しか故郷へ帰らなかつた――卒業した時に一度――それから今度の帰省が足掛三年目――まあ、あの向町なぞは成るべく避けて通らなかつたし、通つたところで他が左様注意して見る筈も無し、見たところで何処のものだか解らない――大丈夫。斯う用心深く考へても見た。畢竟自分が二人の暗い秘密を聞知つたから、それで斯う気が咎めるのであらう。彼様して私語くのは何でも無いのであらう。避けるやうな素振は唯人目を羞ぢるのであらう。あの目付も。
とはいふものゝ、何となく不安に思ふ其懸念が絶えず心の底にあつた。丑松は高柳夫婦を見ないやうにと勉めた。
(四)
千曲川の瀬に乗つて下ること五里。尤も、其間には、ところ/″\の舟場へも漕ぎ寄せ、洪水のある度に流れるといふ粗造な船橋の下をも潜り抜けなどして、そんなこんなで手間取れた為に、凡そ三時間は舟旅に費つた。飯山へ着いたのは五時近い頃。其日は舟の都合で、乗客一同上の渡しまで。丑松は人々と一緒に其処から岸へ上つた。見れば雪は河原にも、船橋の上にも在つた。丁度小降のなかを暮れて、仄白く雪の町々。そこにも、こゝにも、最早ちら/\灯が点く。其時蓮華寺で撞く鐘の音が黄昏の空に響き渡る――あゝ、庄馬鹿が撞くのだ。相変らず例の鐘楼に上つて冬の一日の暮れたことを報せるのであらう。と其を聞けば、言ふに言はれぬ可懐しさが湧上つて来る。丑松は久し振りで飯山の地を踏むやうな心地がした。
半月ばかり見ないうちに、家々は最早冬籠の用意、軒丈ほどの高さに毎年作りつける粗末な葦簾の雪がこひが悉皆出来上つて居た。越後路と同じやうな雪国の光景は丑松の眼前に展けたのである。
新町の通りへ出ると、一筋暗く踏みつけた町中の雪道を用事ありげな男女が往つたり来たりして居た。いづれも斯の夕暮を急ぐ人々ばかり。丑松は右へ避け、左へ避けして、愛宕町をさして急いで行かうとすると、不図途中で一人の少年に出逢つた。近いて見ると、それは省吾で、何か斯う酒の罎のやうなものを提げて、寒さうに慄へ乍らやつて来た。
『あれ、瀬川先生。』と省吾は嬉しさうに馳寄つて、『まあ、魂消た――それでも先生の早かつたこと。私はまだ/\容易に帰りなさらないかと思ひやしたよ。』
好く言つて呉れた。斯の無邪気な少年の驚喜した顔付を眺めると、丑松は最早あのお志保に逢ふやうな心地がしたのである。
『君は――お使かね。』
『はあ。』
と省吾は黒ずんだ色の罎を出して見せる。出して見せ乍ら、笑つた。
果して父の為に酒を買つて帰つて行くところであつた。『此頃は御手紙を難有う。』斯う丑松は礼を述べて、一寸学校の様子を聞いた。自分が留守の間、毎日誰か代つて教へたと尋ねた。それから敬之進のことを尋ねて見た。
『父さん?』と省吾は寂しさうに笑つて、『あの、父さんは家に居りやすよ。』
よく/\言ひ様に窮つたと見えて、斯う答へたが、子供心にも父を憐むといふ情合は其顔色に表れるのであつた。見れば省吾は足袋も穿いて居なかつた。斯うして酒の罎を提げて悄然として居る少年の様子を眺めると、あの無職業な敬之進が奈何して日を送つて居るかも大凡想像がつく。
『家へ帰つたらねえ、父さんに宜敷言つて下さい。』
と言はれて、省吾は御辞儀一つして、軈てぷいと駈出して行つて了つた。丑松も雪の中を急いだ。
(五)
宵の勤行も終る頃で、子坊主がかん/\鳴らす鉦の音を聞き乍ら、丑松は蓮華寺の山門を入つた。上の渡しから是処迄来るうちに、もう悉皆雪だらけ。羽織の裾も、袖も真白。其と見た奥様は飛んで出て、吾子が旅からでも帰つて来たかのやうに喜んだ。人々も出て迎へた。下女の袈裟治は塵払を取出して、背中に附いた雪を払つて呉れる。庄馬鹿は洗足の湯を汲んで持つて来る。疲れて、がつかりして、蔵裏の上り框に腰掛け乍ら、雪の草鞋を解いた後、温暖い洗ぎ湯の中へ足を浸した時の其丑松の心地は奈何であつたらう。唯――お志保の姿が見えないのは奈何したか。人々の情を嬉敷思ふにつけても、丑松は心に斯う考へて、何となく其人の居ないのが物足りなかつた。
其時、白衣に袈裟を着けた一人の僧が奥の方から出て来た。奥様の紹介で、丑松は始めて蓮華寺の住職を知つた。聞けば、西京から、丑松の留守中に帰つたといふ。丁度町の檀家に仏事が有つて、これから出掛けるところとやら。住職は一寸丑松に挨拶して、寺内の僧を供に連れて出て行つた。
夕飯は蔵裏の下座敷であつた。人々は丑松を取囲いて、旅の疲労を言慰めたり、帰省の様子を尋ねたりした。煤けた古壁によせて、昔からあるといふ衣桁には若い人の着るものなぞが無造作に懸けてある。其晩は学校友達の婚礼とかで、お志保も招ばれて行つたとのこと。成程左様言はれて見ると、其人の平常衣らしい。亀甲綛の書生羽織に、縞の唐桟を重ね、袖だゝみにして折り懸け、長襦袢の色の紅梅を見るやうなは八口のところに美しくあらはれて、朝に晩に肌身に着けるものかと考へると、その壁の模様のやうに動かずにある着物が一層お志保を可懐しく思出させる。のみならず、五分心の洋燈のひかりは香の煙に交る室内の空気を照らして、物の色艶なぞを奥床しく見せるのであつた。
さま/″\の物語が始まつた。驚き悲しむ人々を前に置いて、丑松は実地自分が歴て来た旅の出来事を語り聞かせた。種牛の為に傷けられた父の最後、番小屋で明した山の上の一夜、牧場の葬式、谷蔭の墓、其他草を食ひ塩を嘗め谷川の水を飲んで烏帽子ヶ嶽の麓に彷徨ふ牛の群のことを話した。丑松は又、上田の屠牛場のことを話した。其小屋の板敷の上には種牛の血汐が流れた光景を話した。唯、蓮太郎夫婦に出逢つたこと、別れたこと、それから飯山へ帰る途中川舟に乗合した高柳夫婦――就中、あの可憐な美しい穢多の女の身の上に就いては、決して一語も口外しなかつた。
斯うして帰省中のいろ/\を語り聞かせて居るうちに、次第に丑松は一種不思議な感想を起すやうに成つた。それは、丑松の積りでは、対手が自分の話を克く聞いて居て呉れるのだらうと思つて、熱心になつて話して居ると、どうかすると奥様の方では妙な返事をして、飛んでも無いところで『え?』なんて聞き直して、何か斯う話を聞き乍ら別の事でも考へて居るかのやうに――まあ、半分は夢中で応対をして居るのだと感づいた。終には、対手が何にも自分の話を聞いて居ないのだといふことを発見した。しばらく丑松は茫然として、穴の開くほど奥様の顔を熟視つたのである。
克く見れば、奥様は両方の眶を泣腫らして居る。唯さへ気の短い人が余計に感じ易く激し易く成つて居る。言ふに言はれぬ心配なことでも起つたかして、時々深い憂愁の色が其顔に表はれたり隠れたりした。一体、是は奈何したのであらう。聞いて見れば留守中、別に是ぞと変つた事も無かつた様子。銀之助は親切に尋ねて呉れたといふし、文平は克く遊びに来て話して行くといふ。それから斯の寺の方から言へば、住職が帰つたといふことより外に、何も新しい出来事は無かつたらしい。それにしても斯の内部の様子の何処となく平素と違ふやうに思はれることは。
軈て袈裟治は二階へ上つて行つて、部屋の洋燈を点けて来て呉れた。お志保はまだ帰らなかつた。
『奈何したんだらう、まあ彼の奥様の様子は。』
斯う胸の中で繰返し乍ら、丑松は暗い楼梯を上つた。
其晩は遅く寝た。過度の疲労に刺激されて、反つて能く寝就かれなかつた。例の癖で、頭を枕につけると、またお志保のことを思出した。尤も何程心に描いて見ても、明瞭に其人が浮んだためしは無い。どうかすると、お妻と混同になつて出て来ることも有る。幾度か丑松は無駄骨折をして、お志保の俤を捜さうとした。瞳を、頬を、髪のかたちを――あゝ、何処を奈何捜して見ても、何となく其処に其人が居るとは思はれ乍ら、それで奈何しても統一が着かない。時としては彼のつつましさうに物言ふ声を、時としては彼の口唇にあらはれる若々しい微笑を――あゝ、あゝ、記憶ほど漠然したものは無い。今、思ひ出す。今、消えて了ふ。丑松は顕然と其人を思ひ浮べることが出来なかつた。
第拾参章
(一)
『御頼申します。』
蓮華寺の蔵裏へ来て、斯う言ひ入れた一人の紳士がある。それは丑松が帰つた翌朝のこと。階下では最早疾に朝飯を済まして了つたのに、未だ丑松は二階から顔を洗ひに下りて来なかつた。『御頼申します。』と復た呼ぶので、下女の袈裟治は其を聞きつけて、周章てゝ台処の方から飛んで出て来た。
『一寸伺ひますが、』と紳士は至極丁寧な調子で、『瀬川さんの御宿は是方様でせうか――小学校へ御出なさる瀬川さんの御宿は。』
『左様でやすよ。』と下女は襷を脱し乍ら挨拶した。
『何ですか、御在宿で御座ますか。』
『はあ、居なさりやす。』
『では、是非御目に懸りたいことが有まして、斯ういふものが伺ひましたと、何卒左様仰つて下さい。』
と言つて、紳士は下女に名刺を渡す。下女は其を受取つて、『一寸、御待ちなすつて』を言捨て乍ら、二階の部屋へと急いだ。
丑松は未だ寝床を離れなかつた。下女が枕頭へ来て喚起した時は、客の有るといふことを半分夢中で聞いて、苦しさうに呻吟つたり、手を延ばしたりした。軈て寝惚眼を擦り/\名刺を眺めると、急に驚いたやうに、むつくり跳ね起きた。
『奈何したの、斯人が。』
『貴方を尋ねて来なさりやしたよ。』
暫時の間、丑松は夢のやうに、手に持つた名刺と下女の顔とを見比べて居た。
『斯人は僕のところへ来たんぢや無いんだらう。』
と不審を打つて、幾度か小首を傾げる。
『高柳利三郎?』
と復た繰返した。袈裟治は襷を手に持つて、一寸小肥りな身体を動つて、早く返事を、と言つたやうな顔付。
『何か間違ひぢやないか。』到頭丑松は斯う言出した。『どうも、斯様な人が僕のところへ尋ねて来る筈が無い。』
『だつて、瀬川さんと言つて尋ねて来なすつたもの――小学校へ御出なさる瀬川さんと言つて。』
『妙なことが有ればあるもんだなあ。高柳――高柳利三郎――彼の男が僕のところへ――何の用が有つて来たんだらう。兎も角も逢つて見るか。それぢやあ、御上りなさいツて、左様言つて下さい。』
『それはさうと、御飯は奈何しやせう。』
『御飯?』
『あれ、貴方は起きなすつたばかりぢやごはせんか。階下で食べなすつたら? 御味噌汁も温めてありやすにサ。』
『廃さう。今朝は食べたく無い。それよりは客を下の座敷へ通して、一寸待たして置いて下さい――今、直に斯部屋を片付けるから。』
袈裟治は下りて行つた。急に丑松は部屋の内を眺め廻した。着物を着更へるやら、寝道具を片付けるやら。そこいらに散乱つたものは皆な押入の内へ。床の間に置並べた書籍の中には、蓮太郎のものも有る。手捷く其を机の下へ押込んで見たが、また取出して、押入の内の暗い隅の方へ隠蔽すやうにした。今は斯の部屋の内にあの先輩の書いたものは一冊も出て居ない。斯う考へて、すこし安心して、さて顔を洗ふつもりで、急いで楼梯を下りた。それにしても何の用事があつて、彼様な男が尋ねて来たらう。途中で一緒に成つてすら言葉も掛けず、見れば成る可く是方を避けようとした人。其人がわざ/\やつて来るとは――丑松は客を自分の部屋へ通さない前から、疑心と恐怖とで慄へたのである。
(二)
『始めまして――私は高柳利三郎です。かねて御名前は承つて居りましたが、つい未だ御尋ねするやうな機会も無かつたものですから。』
『好く御入来下さいました。さあ、何卒まあ是方へ。』
斯ういふ挨拶を蔵裏の下座敷で取交して、やがて丑松は二階の部屋の方へ客を導いて行つた。
突然な斯の来客の底意の程も図りかね、相対に座る前から、もう何となく気不味かつた。丑松はすこしも油断することが出来なかつた。とは言ふものゝ、何気ない様子を装つて、自分は座蒲団を敷いて座り、客には白い毛布を四つ畳みにして薦めた。
『まあ、御敷下さい。』と丑松は快濶らしく、『どうも失礼しました。実は昨晩遅かつたものですから、寝過して了ひまして。』
『いや、私こそ――御疲労のところへ。』と高柳は如才ない調子で言つた。『昨日は舟の中で御一緒に成ました時に、何とか御挨拶を申上げようか、申上げなければ済まないが、と斯う存じましたのですが、あんな処で御挨拶しますのも反つて失礼と存じまして――御見懸け申し乍ら、つい御無礼を。』
丁度取引でも為るやうな風に、高柳は話し出した。しかし、愛嬌のある、明白した物の言振は、何処かに人を嫵けるところが無いでもない。隆とした其風采を眺めたばかりでも、いかに斯の新進の政事家が虚栄心の為に燃えて居るかを想起させる。角帯に纏ひつけた時計の鎖は富豪の身を飾ると同じやうなもの。それに指輪は二つまで嵌めて、いづれも純金の色に光り輝いた。『何の為に尋ねて来たのだらう、是男は。』と斯う丑松は心に繰返して、対手の暗い秘密を自分の身に思比べた時は、長く目と目を見合せることも出来ない位。
高柳は膝を進めて、
『承りますれば御不幸が御有なすつたさうですな。さぞ御力落しでいらつしやいませう。』
『はい。』と丑松は自分の手を眺め乍ら答へた。『飛んだ災難に遭遇まして、到頭阿爺も亡くなりました。』
『それは奈何も御気の毒なことを。』と言つて、急に高柳は思ひついたやうに、『むゝ、左様々々、此頃も貴方と豊野の停車場で御一緒に成つて、それから私が田中で下りる、貴方も御下りなさる――左様でしたらう、ホラ貴方も田中で御下りなさる。丁度彼の時が御帰省の途中だつたんでせう。して見ると、貴方と私とは、往きも、還りも御一緒――はゝゝゝゝ。何か斯う克く/\の因縁づくとでも、まあ、申して見たいぢや有ませんか。』
丑松は答へなかつた。
『そこです。』と高柳は言葉に力を入れて、『御縁が有ると思へばこそ、斯うして御話も申上げるのですが――実は、貴方の御心情に就きましても、御察し申して居ることも有ますし。』
『え?』と丑松は対手の言葉を遮つた。
『そりやあもう御察し申して居ることも有ますし、又、私の方から言ひましても、少許は察して頂きたいと思ひまして、それで御邪魔に出ましたやうな訳なんで。』
『どうも貴方の仰ることは私に能く解りません。』
『まあ、聞いて下さい――』
『ですけれど、どうも貴方の御話の意味が汲取れないんですから。』
『そこを察して頂きたいと言ふのです。』と言つて、高柳は一段声を低くして、『御聞及びでも御座ませうが、私も――世話して呉れるものが有まして――家内を迎へました。まあ、世の中には妙なことが有るもので、あの家内の奴が好く貴方を御知り申して居るのです。』
『はゝゝゝゝ、奥様が私を御存じなんですか。』と言つて丑松は少許調子を変へて、『しかし、それが奈何しました。』
『ですから私も御話に出ましたやうな訳なんで。』
『と仰ると?』
『まあ、家内なぞの言ふことですから、何が何だか解りませんけれど――実際、女の話といふものは取留の無いやうなものですからなあ――しかし、不思議なことには、彼奴の家の遠い親類に当るものとかが、貴方の阿爺さんと昔御懇意であつたとか。』斯う言つて、高柳は熱心に丑松の様子を窺ふやうにして見て、『いや、其様なことは、まあ奈何でもいゝと致しまして、家内が貴方を御知り申して居ると言ひましたら、貴方だつても御聞流しには出来ますまいし、私も亦た私で、どうも不安心に思ふことが有るものですから――実は、昨晩は、その事を考へて、一睡も致しませんでした。』
暫時部屋の内には声が無かつた。二人は互ひに捜りを入れるやうな目付して、無言の儘で相対して居たのである。
『噫。』と高柳は投げるやうに嘆息した。『斯様な御話を申上げに参るといふのは、克く/\だと思つて頂きたいのです。貴方より外に吾儕夫婦のことを知つてるものは無し、又、吾儕夫婦より外に貴方のことを知つてるものは有ません――ですから、そこは御互ひ様に――まあ、瀬川さん左様ぢや有ませんか。』と言つて、すこし調子を変へて、『御承知の通り、選挙も近いてまゐりました。どうしても此際のところでは貴方に助けて頂かなければならない。もし私の言ふことを聞いて下さらないとすれば、私は今、こゝで貴方と刺しちがへて死にます――はゝゝゝゝ、まさか貴方の性命を頂くとも申しませんがね、まあ、私は其程の決心で参つたのです。』
(三)
其時、楼梯を上つて来る人の足音がしたので、急に高柳は口を噤んで了つた。『瀬川先生、御客様でやすよ。』と呼ぶ袈裟治の声を聞きつけて、ついと丑松は座を離れた。唐紙を開けて見ると、もうそこへ友達が微笑み乍ら立つて居たのである。
『おゝ、土屋君か。』
と思はず丑松は溜息を吐いた。
銀之助は一寸高柳に会釈して、別に左様主客の様子を気に留めるでもなく、何か用事でも有るのだらう位に、例の早合点から独り定めに定めて、
『昨夜君は帰つて来たさうだね。』
と慣々しい調子で話し出した。相変らず快活なは斯の人。それに遠からず今の勤務を廃めて、農科大学の助手として出掛けるといふ、その希望が胸の中に溢れるかして、血肥りのした顔の面は一層活々と輝いた。妙なもので、短く五分刈にして居る散髪頭が反つて若い学者らしい威厳を加へたやうに見える。友達ながらに一段の難有みが出来た。丑松は何となく圧倒れるやうにも感じたのである。
心の底から思ひやる深い真情を外に流露して、銀之助は弔辞を述べた。高柳は煙草を燻し/\黙つて二人の談話を聞いて居た。
『留守中はいろ/\難有う。』と丑松は自分で自分を激厲ますやうにして、『学校の方も君がやつて呉れたさうだねえ。』
『あゝ、左にか右にか間に合せて置いた。二級懸持ちといふやつは巧くいかないものでねえ。』と言つて、銀之助は恰も心から出たやうに笑つて、『時に、君は奈何する。』
『奈何するとは?』
『親の忌服だもの、四週間位は休ませて貰ふサ。』
『左様もいかない。学校の方だつて都合があらあね。第一、君が迷惑する。』
『なに、僕の方は関はないよ。』
『明日は月曜だねえ。兎に角明日は出掛けよう。それはさうと、土屋君、いよ/\君の希望も達したといふぢやないか。君から彼手紙を貰つた時は、実に嬉しかつた。彼様に早く進行らうとは思はなかつた。』
『ふゝ、』と銀之助は思出し笑ひをして、『まあ、御蔭でうまくいつた。』
『実際うまくいつたよ。』と友達の成功を悦ぶ傍から、丑松は何か思ひついたやうに萎れて、『県庁の方からは最早辞令が下つたかね。』
『いゝや、辞令は未だ。尤も義務年限といふやつが有るんだから、ただ廃めて行く訳にはいかない。そこは県庁でも余程斟酌して呉れてね、百円足らずの金を納めろと言ふのさ。』
『百円足らず?』
『よしんば在学中の費用を皆な出せと言はれたつて仕方が無い。其位のことで勘免して呉れたのは、実に難有い。早速阿爺の方へ請求つてやつたら、阿爺も君、非常に喜んでね、自身で長野迄出掛けて来るさうだ。いづれ、其内には沙汰があるだらうと思ふよ。まあ、君と斯うして飯山に居るのも、今月一ぱい位のものだ。』
斯う言つて銀之助は今更のやうに丑松の顔を眺めた。丑松は深い溜息を吐いて居た。
『別の話だが、』と銀之助は言葉を継いで、『君の好な猪子先生――ホラ、あの先生が信州へ来てるさうだねえ。昨日僕は新聞で読んだ。』
『新聞で?』丑松の頬は燃え輝いたのである。
『あゝ、信毎に出て居た。肺病だといふけれど、熾盛な元気の人だねえ。』
と蓮太郎の噂が出たので、急に高柳は鋭い眸を銀之助の方へ注いだ。丑松は無言であつた。
『穢多もなか/\馬鹿にならんよ。』と銀之助は頓着なく、『まあ、思想から言へば、多少病的かも知れないが、しかし進んで戦ふ彼の勇気には感服する。一体、肺病患者といふものは彼様いふものか知らん。彼の先生の演説を聞くと、非常に打たれるさうだ。』と言つて気を変へて、『まあ、瀬川君なぞは聞かない方が可よ――聞けば復た病気が発るに極つてるから。』
『馬鹿言ひたまへ。』
『あはゝゝゝゝ。』
と銀之助は反返つて笑つた。
遽然丑松は黙つて了つた。丁度、喪心した人のやうに成つた。丁度、身体中の機関が一時に動作を止めて、斯うして生きて居ることすら忘れたかのやうであつた。
『奈何したんだらう、また瀬川君は――相変らず身体の具合でも悪いのかしら。』と斯う銀之助は自分で自分に言つて見た。やゝしばらく三人は無言の儘で相対して居た。『今日は僕は是で失敬する。』と銀之助が言出した時は、丑松も我に帰つて、『まあ、いゝぢやないか』を繰返したのである。
『いや、復た来る。』
銀之助は出て行つて了つた。
(四)
『只今猪子といふ方の御話が出ましたが、』と高柳は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。『あの、何ですか、瀬川さんは彼の方と御懇意でいらつしやるんですか。』
『いゝえ。』と丑松はすこし言淀んで、『別に、懇意でも有ません。』
『では、何か御関係が御有なさるんですか。』
『何も関係は有ません。』
『左様ですか――』
『だつて関係の有やうが無いぢやありませんか、懇意でも何でも無い人に。』
『左様仰れば、まあ、そんなものですけれど。はゝゝゝゝ。彼の方は市村君と御一緒のやうですから、奈何いふ御縁故か、もし貴方が御存じならば伺つて見たいと思ひまして。』
『知りません、私は。』
『市村といふ弁護士も、あれでなか/\食へない男なんです。彼様な立派なことを言つて居ましても、畢竟猪子といふ人を抱きこんで、道具に使用ふといふ腹に相違ないんです。彼の男が高尚らしいやうなことを言ふかと思ふと、私は噴飯したくなる。そりやあもう、政事屋なんてものは皆な穢い商売人ですからなあ――まあ、其道のもので無ければ、可厭な内幕も克く解りますまいけれど。』
斯う言つて、高柳は嘆息して、
『私とても、斯うして何時まで政界に泳いで居る積りは無いのです。一日も早く足を洗ひたいといふ考へでは有るのです。如何せん、素養は無し、貴方等のやうに規則的な教育を享けたでは無し、それで此の生存競争の社会に立たうといふのですから、勢ひ常道を踏んでは居られなくなる。あるひは、貴方等の目から御覧に成つたらば、吾儕の事業は華麗でせう。成程、表面は華麗です。しかし、これほど表面が華麗で、裏面の悲惨な生涯は他に有ませうか。あゝ、非常な財産が有つて、道楽に政事でもやつて見ようといふ人は格別、吾儕のやうに政事熱に浮かされて、青年時代から其方へ飛込んで了つたものは、今となつて見ると最早奈何することも出来ません。第一、今日の政事家で政論に衣食するものが幾人ありませう。実際吾儕の内幕は御話にならない。まあ、斯様なことを申上げたら、嘘のやうだと思召すかも知れませんが、正直な御話が――代議士にでもして頂くより外に、さしあたり吾儕の食ふ道は無いのです。はゝゝゝゝ。何と申したつて、事実は事実ですから情ない。もし私が今度の選挙に失敗すれば、最早につちもさつちもいかなくなる。どうしても此際のところでは出るやうにして頂かなければならない。どうしても貴方に助けて頂かなければならない。それには先づ貴方に御縋り申して、家内のことを世間の人に御話下さらないやうに。そのかはり、私も亦、貴方のことを――それ、そこは御相談で、御互様に言はないといふやうなことに――何卒、まあ、私を救ふと思召して、是話を聞いて頂きたいのです。瀬川さん、是は私が一生の御願ひです。』
急に高柳は白い毛布を離れて、畳の上へ手を突いた。丁度哀憐をもとめる犬のやうに、丑松の前に平身低頭したのである。
丑松はすこし蒼めて、
『どうも左様貴方のやうに、独りで物を断めて了つては――』
『いや、是非とも私を助けると思召して。』
『まあ、私の言ふことも聞いて下さい。どうも貴方の御話は私に合点が行きません。だつて、左様ぢや有ますまいか。なにも貴方等のことを私が世間の人に話す必要も無いぢや有ませんか。全く、私は貴方等と何の関係も無い人間なんですから。』
『でも御座ませうが――』
『いえ、其では困ります。何も私は貴方等を御助け申すやうなことは無し、私は亦、貴方等から助けて頂くやうなことも無いのですから。』
『では?』
『ではとは?』
『畢竟そんなら奈何して下さるといふ御考へなんですか。』
『どうするも斯うするも無いぢや有ませんか。貴方と私とは全く無関係――はゝゝゝゝ、御話は其丈です。』
『無関係と仰ると?』
『是迄だつて、私は貴方のことに就いて、何も世間の人に話した覚は無し、是から将来だつても矢張其通り、何も話す必要は有ません。一体、私は左様他人のことを喋舌るのが嫌ひです――まして、貴方とは今日始めて御目に懸つたばかりで――』
『そりやあ成程、私のことを御話し下さる必要は無いかも知れません。私も貴方のことを他人に言ふ必要は無いのです。必要は無いのですが――どうも其では何となく物足りないやうな心地が致しまして。折角私も斯うして出ましたものですから、十分に御意見を伺つた上で、御為に成るものなら成りたいと存じて居りますのです。実は――左様した方が、貴方の御為かとも。』
『いや、御親切は誠に難有いですが、其様にして頂く覚は無いのですから。』
『しかし、私が斯うして御話に出ましたら、万更貴方だつて思当ることが無くも御座ますまい。』
『それが貴方の誤解です。』
『誤解でせうか――誤解と仰ることが出来ませうか。』
『だつて、私は何も知らないんですから。』
『まあ、左様仰れば其迄ですが――でも、何とか、そこのところは御相談の為やうが有さうなもの。悪いことは申しません。御互ひの身の為です。決して誰の為でも無いのです。瀬川さん――いづれ復た私も御邪魔に伺ひますから、何卒克く考へて御置きなすつて下さい。』
第拾四章
(一)
月曜の朝早く校長は小学校へ出勤した。応接室の側の一間を自分の室と定めて、毎朝授業の始まる前には、必ず其処に閉籠るのが癖。それは一日の事務の準備をする為でもあつたが、又一つには職員等の不平と煙草の臭気とを避ける為で。丁度其朝は丑松も久し振の出勤。校長は丑松に逢つて、忌服中のことを尋ねたり、話したりして、軈てまた例の室に閉籠つた。
この室の戸を叩くものが有る。其音で、直に校長は勝野文平といふことを知つた。いつも斯ういふ風にして、校長は斯の鍾愛の教員から、さま/″\の秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口、其他時間割と月給とに関する五月蠅ほどの嫉みと争ひとは、是処に居て手に取るやうに解るのである。其朝も亦、何か新しい注進を齎して来たのであらう、斯う思ひ乍ら、校長は文平を室の内へ導いたのであつた。
いつの間にか二人は丑松の噂を始めた。
『勝野君。』と校長は声を低くして、『君は今、妙なことを言つたね――何か瀬川君のことに就いて新しい事実を発見したとか言つたね。』
『はあ。』と文平は微笑んで見せる。
『どうも君の話は解りにくゝて困るよ。何時でも遠廻しに匂はせてばかり居るから。』
『だつて、校長先生、人の一生の名誉に関はるやうなことを、左様迂濶には喋舌れないぢや有ませんか。』
『ホウ、一生の名誉に?』
『まあ、私の聞いたのが事実だとして、其が斯の町へ知れ渡つたら、恐らく瀬川君は学校に居られなくなるでせうよ。学校に居られないばかりぢや無い、あるひは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなるかも知れません。』
『へえ――学校にも居られなくなる、社会からも放逐される、と言へば君、非常なことだ。それでは宛然死刑を宣告されるも同じだ。』
『先づ左様言つたやうなものでせうよ。尤も、私が直接に突留めたといふ訳でも無いのですが、種々なことを綜めて考へて見ますと――ふふ。』
『ふゝぢや解らないねえ。奈何な新しい事実か、まあ話して聞かせて呉れ給へ。』
『しかし、校長先生、私から其様な話が出たといふことになりますと、すこし私も迷惑します。』
『何故?』
『何故ツて、左様ぢや有ませんか。私が取つて代りたい為に、其様なことを言ひ触らしたと思はれても厭ですから――毛頭私は其様な野心が無いんですから――なにも瀬川君を中傷する為に、御話するのでは無いんですから。』
『解つてますよ、其様なことは。誰が君、其様なことを言ふもんですか。其様な心配が要るもんですか。君だつても他の人から聞いたことなんでせう――それ、見たまへ。』
文平が思はせ振な様子をして、何か意味ありげに微笑めば微笑むほど、余計に校長は聞かずに居られなくなつた。
『では、勝野君、斯ういふことにしたら可でせう。我輩は其話を君から聞かない分にして置いたら可でせう。さ、誰も居ませんから、話して聞かせて呉れ給へ。』
斯う言つて、校長は一寸文平に耳を貸した。文平が口を寄せて、何か私語いて聞かせた時は、見る/\校長も顔色を変へて了つた。急に戸を叩く音がする。ついと文平は校長の側を離れて窓の方へ行つた。戸を開けて入つて来たのは丑松で、入るや否や思はず一歩逡巡した。
『何を話して居たのだらう、斯の二人は。』と丑松は猜疑深い目付をして、二人の様子を怪まずには居られなかつたのである。
『校長先生、』と丑松は何気なく尋ねて見た。『どうでせう、今日はすこし遅く始めましたら。』
『左様――生徒は未だ集りませんか。』と校長は懐中時計を取出して眺める。
『どうも思ふやうに集りません。何を言つても、是雪ですから。』
『しかし、最早時間は来ました。生徒の集る、集らないは兎に角、規則といふものが第一です。何卒小使に左様言つて、鈴を鳴らさせて下さい。』
(二)
其朝ほど無思想な状態で居たことは、今迄丑松の経験にも無いのであつた。実際其朝は半分眠り乍ら羽織袴を着けて来た。奥様が詰て呉れた弁当を提げて、久し振で学校の方へ雪道を辿つた時も、多くの教員仲間から弔辞を受けた時も、受持の高等四年生に取囲かれて種々なことを尋ねられた時も、丑松は半分眠り乍ら話した。授業が始つてからも、時々眼前の事物に興味を失つて、器械のやうに読本の講釈をして聞かせたり、生徒の質問に答へたりした。其日は遊戯の時間の監督にあたる日、鈴が鳴つて休みに成る度に、男女の生徒は四方から丑松に取縋つて、『先生、先生』と呼んだり叫んだりしたが、何を話して何を答へたやら、殆んど其感覚が無かつた位。丑松は夢見る人のやうに歩いて、あちこちと馳せちがふ多くの生徒の監督をした。
銀之助が駈寄つて、
『瀬川君――君は気分でも悪いと見えるね。』
と言つたのは覚えて居るが、其他の話はすべて記憶に残らなかつた。
斯ういふ中にも、唯一つ、あの省吾に呉れたいと思つて、用意したものを持つて来ることだけは忘れなかつた。昼休みには、高等科から尋常科までの生徒が学校の内で飛んだり跳ねたりして騒いだ。なかには広い運動場に出て、雪投げをして遊ぶものもあつた。丁度高等四年の教室には誰も居なかつたので、そこへ丑松は省吾を連れて行つて、新聞紙に包んだものを取出して見せて、
『君に呈げようと思つて斯ういふものを持つて来ました。帳面です、内に入つてるのは。是は君、家へ帰つてから開けて見るんですよ。いいかね。学校の内で開けて見るんぢや無いんですよ――ね、是を君に呈げますから。』
と言つて、丑松は自分の前に立つ少年の驚き喜ぶ顔を見たいと思ふのであつた。意外にも省吾は斯の贈物を受けなかつた。唯もう目を円くして、丑松の様子と新聞紙の包とを見比べるばかり。奈何して斯様なものを呉れるのであらう。第一、それからして不思議でならない。と言つたやうな顔付。
『いゝえ、私は沢山です。』
と省吾は幾度か辞退した。
『其様な、君のやうな――』と丑松は省吾の顔を眺めて、『人が呈げるツて言ふものは、貰ふもんですよ。』
『はい、難有う。』と復た省吾は辞退した。
『困るぢやないか、君、折角呈げようと思つて斯うして持つて来たものを。』
『でも、母さんに叱られやす。』
『母さんに? 其様な馬鹿なことが有るもんか。私が呈げるツて言ふのに、叱るなんて――私は君の父上さんとも懇意だし、それに、君の姉さんには種々御世話に成つて居るし、此頃から呈げよう/\と思つて居たんです。ホラ、よく西洋綴の帳面で、罫の引いたのが有ませう。あれですよ、斯の内に入つてるのは。まあ、君、其様なことを言はないで、是を家へ持つて帰つて、作文でも何でも君の好なものを書いて見て呉れたまへ。』
斯う言つて、其を省吾の手に持たして居るところへ、急に窓の外の方で上草履の音が起る。丑松は省吾を其処に残して置いて、周章てゝ教室を出て了つた。
(三)
東の廊下の突当り、二階へ通ふやうになつて居る階段のところは、あまり生徒もやつて来なかつた。丑松が男女の少年の監督に忙しい間に、校長と文平の二人は斯の静かな廊下で話した――並んで灰色の壁に倚凭り乍ら話した。
『一体、君は誰から瀬川君のことを聞いて来たのかね。』と校長は尋ねて見た。
『妙な人から聞いて来ました。』と文平は笑つて、『実に妙な人から――』
『どうも我輩には見当がつかない。』
『尤も、人の名誉にも関はることだから、話だけは為るが、名前を出して呉れては困る、と先方の人も言ふんです。兎に角代議士にでも成らうといふ位の人物ですから、其様な無責任なことを言ふ筈も有ません。』
『代議士にでも?』
『ホラ。』
『ぢやあ、あの新しい細君を連れて帰つて来た人ぢや有ませんか。』
『まあ、そこいらです。』
『して見ると――はゝあ、あの先生が地方廻りでもして居る間に、何処かで其様な話を聞込んで来たものかしら。悪い事は出来ないものさねえ。いつか一度は露顕れる時が来るから奇体さ。』と言つて、校長は嘆息して、『しかし、驚ろいたねえ。瀬川君が穢多だなぞとは、夢にも思はなかつた。』
『実際、私も意外でした。』
『見給へ、彼の容貌を。皮膚といひ、骨格といひ、別に其様な賤民らしいところが有るとも思はれないぢやないか。』
『ですから世間の人が欺されて居たんでせう。』
『左様ですかねえ。解らないものさねえ。一寸見たところでは、奈何しても其様な風に受取れないがねえ。』
『容貌ほど人を欺すものは有ませんさ。そんなら、奈何でせう、彼の性質は。』
『性質だつても君、其様な判断は下せない。』
『では、校長先生、彼の君の言ふこと為すことが貴方の眼には不思議にも映りませんか。克く注意して、瀬川丑松といふ人を御覧なさい――どうでせう、彼の物を視る猜疑深い目付なぞは。』
『はゝゝゝゝ、猜疑深いからと言つて、其が穢多の証拠には成らないやね。』
『まあ、聞いて下さい。此頃迄瀬川君は鷹匠町の下宿に居ましたらう。彼の下宿で穢多の大尽が放逐されましたらう。すると瀬川君は突然に蓮華寺へ引越して了ひましたらう――ホラ、をかしいぢや有ませんか。』
『それさ、それを我輩も思ふのさ。』
『猪子蓮太郎との関係だつても左様でせう。彼様な病的な思想家ばかり難有く思はないだつて、他にいくらも有さうなものぢや有ませんか。彼様な穢多の書いたものばかり特に大騒ぎしなくても好ささうなものぢや有ませんか。どうも瀬川君が贔顧の仕方は普通の愛読者と少許違ふぢや有ませんか。』
『そこだ。』
『未だ校長先生には御話しませんでしたが、小諸の与良といふ町には私の叔父が住んで居ます。其町はづれに蛇堀川といふ沙河が有まして、橋を渡ると向町になる――そこが所謂穢多町です。叔父の話によりますと、彼処は全町同じ苗字を名乗つて居るといふことでしたツけ。其苗字が、確か瀬川でしたツけ。』
『成程ねえ。』
『今でも向町の手合は苗字を呼びません。普通に新平民といへば名前を呼捨です。おそらく明治になる前は、苗字なぞは無かつたのでせう。それで、戸籍を作るといふ時になつて、一村挙つて瀬川と成つたんぢや有るまいかと思ふんです。』
『一寸待ちたまへ。瀬川君は小諸の人ぢや無いでせう。小県の根津の人でせう。』
『それが宛になりやしません――兎に角、瀬川とか高橋とかいふ苗字が彼の仲間に多いといふことは叔父から聞きました。』
『左様言はれて見ると、我輩も思当ることが無いでも無い。しかしねえ、もし其が事実だとすれば、今迄知れずに居る筈も無からうぢやないか。最早疾に知れて居さうなものだ――師範校に居る時代に、最早知れて居さうなものだ。』
『でせう――それそこが瀬川君です。今日まで人の目を暗して来た位の智慧が有るんですもの、余程狡猾の人間で無ければ彼の真似は出来やしません。』
『あゝ。』と校長は嘆息して了つた。『それにしても、よく知れずに居たものさ、どうも瀬川君の様子がをかしい/\と思つたよ――唯、訳も無しに、彼様考へ込む筈が無いからねえ。』
急に大鈴の音が響き渡つた。二人は壁を離れて、長い廊下を歩き出した。午後の課業が始まると見え、男女の生徒は上草履鳴らして、廊下の向ふのところを急いで通る。丑松も少年の群に交り乍ら、一寸是方を振向いて見て行つた。
『勝野君。』と校長は丑松の姿を見送つて、『成程、君の言つた通りだ。他の一生の名誉にも関はることだ。まあ、もうすこし瀬川君の秘密を探つて見ることに為ようぢやないか。』
『しかし、校長先生。』と文平は力を入れて言つた。『是話が彼の代議士の候補者から出たといふことだけは決して他に言はないで置いて下さい――さもないと、私が非常に迷惑しますから。』
『無論さ。』
(四)
時間表によると、其日の最終の課業が唱歌であつた。唱歌の教師は丑松から高等四年の生徒を受取つて、足拍子揃へさして、自分の教室の方へ導いて行つた。二時から三時まで、それだけは丑松も自由であつたので、不図、蓮太郎のことが書いてあつたとかいふ昨日の銀之助の話を思出して、応接室を指して急いで行つた。いつも其机の上には新聞が置いてある。戸を開けて入つて見ると、信毎は一昨日の分も残つて、まだ綴込みもせずに散乱した儘。その読みふるしを開けた第二面の下のところに、彼の先輩のことを見つけた時は、奈何に丑松も胸を踊らせて、『むゝ――あつた、あつた』と驚き喜んだらう。
『何処へ行つて是新聞を読まう。』先づ心に浮んだは斯うである。『斯の応接室で読まうか。人が来ると不可。教室が可か。小使部屋が可か――否、彼処へも人が来ないとは限らない。』と思ひ迷つて、新聞紙を懐に入れて、応接室を出た。『いつそ二階の講堂へ行つて読め。』斯う考へて、丑松は二階へ通ふ階段を一階づゝ音のしないやうに上つた。
そこは天長節の式場に用ひられた大広間、長い腰掛が順序よく置並べてあるばかり、平素はもう森閑としたもので、下手な教室の隅なぞよりは反つて安全な場処のやうに思はれた。とある腰掛を択んで、懐から取出して読んで居るうちに、いつの間にか彼の高柳との間答――『懇意でも有ません、関係は有ません、何にも私は知りません』と三度迄も心を偽つて、師とも頼み恩人とも思ふ彼の蓮太郎と自分とは、全く、赤の他人のやうに言消して了つたことを思出した。『先生、許して下さい。』斯う詑びるやうに言つて、軈て復た新聞を取上げた。
漠然とした恐怖の情は絶えず丑松の心を刺激して、先輩に就いての記事を読み乍らも、唯もう自分の一生のことばかり考へつゞけたのであつた。其から其へと辿つて反省すると、丑松は今、容易ならぬ位置に立つて居るといふことを感ずる。さしかゝつた斯の大きな問題を何とか為なければ――左様だ、何とか斯の思想を纏めなければ、一切の他の事は手にも着かないやうに思はれた。
『さて――奈何する。』
斯う自分で自分に尋ねた時は、丑松はもう茫然として了つて、其答を考へることが出来なかつた。
『瀬川君、何を君は御読みですか。』
と唐突に背後から声を掛けた人がある。思はず丑松は顔色を変へた。見れば校長で、何か穿鑿を入れるやうな目付して、何時の間にか腰掛のところへ来て佇立んで居た。
『今――新聞を読んで居たところです。』と丑松は何気ない様子を取装つて言つた。
『新聞を?』と校長は不思議さうに丑松の顔を眺めて、『へえ、何か面白い記事でも有ますかね。』
『ナニ、何でも無いんです。』
暫時二人は無言であつた。校長は窓の方へ行つて、玻璃越しに空の模様を覗いて見て、
『瀬川君、奈何でせう、斯の御天気は。』
『左様ですなあ――』
斯ういふ言葉を取交し乍ら、二人は一緒に講堂を出た。並んで階段を下りる間にも、何となく丑松は胸騒ぎがして、言ふに言はれぬ不快な心地に成るのであつた。
邪推かは知らないが、どうも斯の校長の態度が変つた。妙に冷淡しく成つた。いや、冷淡しいばかりでは無い、可厭に神経質な鼻でもつて、自分の隠して居る秘密を嗅ぐかのやうにも感ぜらるゝ。『や?』と猜疑深い心で先方の様子を推量して見ると、さあ、丑松は斯の校長と一緒に並んで歩くことすら堪へ難い。どうかすると階段を下りる拍子に、二人の肩と肩とが触合ふこともある。冷い戦慄は丑松の身体を通して流れ下るのであつた。
小使が振鳴らす最終の鈴の音は、其時、校内に響き渡つた。そここゝの教室の戸を開けて、後から/\押して出て来る少年の群は、長い廊下に満ち溢れた。丑松は校長の側を離れて、急いで斯の少年の群に交つた。
やがて生徒は雪道の中を帰つて行つた。いづれも学問する児童らしい顔付の殊勝さ。弁当箱を振廻して行くもあれば、風呂敷包を頭の上に戴せて行くもある。十露盤小脇に擁へ、上草履提げ、口笛を吹くやら、唱歌を歌ふやら。呼ぶ声、叫ぶ声は、犬の鳴声に交つて、午後の空気に響いて騒しく聞える、中には下駄の鼻緒を切らして、素足で飛んで行く女の児もあつた。
不安と恐怖との念を抱き乍ら、丑松も生徒の後に随いて、学校の門を出た。斯うしてこの無邪気な少年の群を眺めるといふことが、既にもう丑松の身に取つては堪へがたい身の苦痛を感ずる媒とも成るので有る。
『省吾さん、今御帰り?』
斯う丑松は言葉を掛けた。
『はあ。』と省吾は笑つて、『私も後刻で蓮華寺へ行きやすよ、姉さんが来ても可と言ひやしたから。』
『むゝ――今夜は御説教があるんでしたツけねえ。』
と思出したやうに言つた。暫時丑松は可懐しさうに、駈出して行く省吾の後姿を見送りながら立つた。雪の大路の光景は、丁度、眼前に展けて、用事ありげな人々が往つたり来たりして居る。急に烈しい眩暈に襲はれて、丑松は其処へ仆れかゝりさうに成つた。其時、誰か斯う背後から追迫つて来て、自分を捕へようとして、突然に『やい、調里坊』とでも言ふかのやうに思はれた。斯う疑へば恐しくなつて、背後を振返つて見ずには居られなかつたのである――あゝ、誰が其様なところに居よう。丑松は自分を嘲つたり励ましたりした。
第拾五章
(一)
酷烈しい、犯し難い社会の威力は、次第に、丑松の身に迫つて来るやうに思はれた。学校から帰へつて、蓮華寺の二階へ上つた時も、風呂敷包をそこへ投出す、羽織袴を脱捨てる、直に丑松は畳の上に倒れて、放肆な絶望に埋没れるの外は無かつた。眠るでも無く、考へるでも無く、丁度無感覚な人のやうに成つて、長いこと身動きも為ずに居たが、軈て起直つて部屋の内を眺め廻した。
楽しさうな笑声が、蔵裏の下座敷の方から、とぎれ/\に聞えた。聞くとも無しに聞耳を立てると、其日も亦た文平がやつて来て、人々を笑はせて居るらしい。あの邪気ない、制へても制へきれないやうな笑声は、と聞くと、省吾は最早遊びに来て居るものと見える。時々若い女の声も混つた――あゝ、お志保だ。斯う聞き澄まして、丑松は自分の部屋の内を歩いて見た。
『先生。』
と声を掛けて、急に入つて来たのは省吾である。
丁度、階下では茶を入れたので、丑松にも話しに来ないか、と省吾は言付けられて来た。聞いて見ると、奥様やお志保は下座敷に集つて、そこへ庄馬鹿までやつて来て居る。可笑しい話が始つたので、人々は皆な笑ひ転げて、中にはもう泣いたものが有るとのこと。
『あの、勝野先生も来て居なさりやすよ。』
と省吾は添付して言つた。
『左様? 勝野君も?』と丑松は徴笑み乍ら答へた。遽然、心の底から閃めいたやうに、憎悪の表情が丑松の顔に上つた。尤も直に其は消えて隠れて了つたのである。
『さあ――私と一緒に早く来なされ。』
『今直に後から行きますよ。』
とは言つたものゝ、実は丑松は行きたくないのであつた。『早く』を言ひ捨てゝ、ぷいと省吾は出て行つて了つた。
楽しさうな笑声が、復た、起つた。蔵裏の下座敷――それはもう目に見ないでも、斯うして声を聞いたばかりで、人々の光景が手に取るやうに解る。何もかも丑松は想像することが出来た。定めし、奥様は何か心に苦にすることがあつて、其を忘れる為にわざ/\面白可笑しく取做して、それで彼様な男のやうな声を出して笑ふのであらう。定めし、お志保は部屋を出たり入つたりして、茶の道具を持つて来たり、其を入れて人々に薦めたり、又は奥様の側に倚添ひ乍ら談話を聞いて微笑んで居るのであらう。定めし、文平は婦人子供と見て思ひ侮つて、自分独りが男ででも有るかのやうに、可厭に容子を売つて居ることであらう。嘸。そればかりでは無い、必定また人のことを何とかかんとか――あゝ、あゝ、素性が素性なら、誰が彼様な男なぞの身の上を羨まう。
現世の歓楽を慕ふ心は、今、丑松の胸を衝いてむら/\と湧き上つた。捨てられ、卑しめられ、爪弾きせられ、同じ人間の仲間入すら出来ないやうな、つたない同族の運命を考へれば考へるほど、猶々斯の若い生命が惜まるゝ。
『何故、先生は来なさらないですか。』
斯う言ひ乍ら、軈て復た迎へにやつて来たのは省吾である。
あまり邪気ないことを言つて督促てるので、丑松は斯の少年を慫慂かして、いつそ本堂の方へ連れて行かうと考へた。部屋を出て、楼梯を下りると、蔵裏から本堂へ通ふ廊下は二つに別れる。裏庭に近い方を行けば、是非とも下座敷の側を通らなければならない。其処には文平が話しこんで居るのだ。丑松は表側の廊下を通ることにした。
(二)
古い僧坊は廊下の右側に並んで、障子越しに話声なぞの泄れて聞えるは、下宿する人が有ると見える。是寺の広く複雑つた構造といつたら、何処に奈何いふ人が泊つて居るか、其すら克くは解らない程。平素は何の役にも立ちさうも無い、陰気な明間がいくつとなく有る。斯うして省吾と連立つて、細長い廊下を通る間にも、朽ち衰へた精舎の気は何となく丑松の胸に迫るのであつた。壁は暗く、柱は煤け、大きな板戸を彩色つた古画の絵具も剥落ちて居た。
斯の廊下が裏側の廊下に接いて、丁度本堂へ曲らうとする角のところで、急に背後の方から人の来る気勢がした。思はず丑松は振返つた。省吾も。見ればお志保で、何か用事ありげに駈寄つて、未だ物を言はない先からもう顔を真紅にしたのである。
『あの――』とお志保は艶のある清しい眸を輝かした。『先程は、弟が結構なものを頂きましたさうで。』
斯う礼を述べ乍ら、其口唇で嬉しさうに微笑んで見せた。
其時奥様の呼ぶ声が聞えた。逸早くお志保は聞きつけて、一寸耳を澄まして居ると、『あれ、姉さん、呼んでやすよ。』と省吾も姉の顔を見上げた。復た呼ぶ声が聞える。驚いたやうに引返して行くお志保の後姿を見送つて、軈て省吾を導いて、丑松は本堂の扉を開けて入つた。
あゝ、精舎の静寂さ――丁度其は古蹟の内を歩むと同じやうな心地がする。円い塗柱に懸かる時計の針の刻々をきざむより外には、斯の高く暗い天井の下に、一つとして音のするものは無かつた。身に沁み入るやうな沈黙は、そこにも、こゝにも、隠れ潜んで居るかのやう。目に入るものは、何もかも――錆を帯びた金色の仏壇、生気の無い蓮の造花、人の空想を誘ふやうな天界の女人の壁に画かれた形像、すべてそれらのものは過去つた時代の光華と衰頽とを語るのであつた。丑松は省吾と一緒に内陣迄も深く上つて、仏壇のかげにある昔の聖僧達の画像の前を歩いた。
『省吾さん。』と丑松は少年の横顔を熟視り乍ら、『君はねえ、家眷の人の中で誰が一番好きなんですか――父さんですか、母さんですか。』
省吾は答へなかつた。
『当てゝ見ませうか。』と丑松は笑つて、『父さんでせう?』
『いゝえ。』
『ホウ、父さんぢや無いですか。』
『だつて、父さんはお酒ばかり飲んでゝ――』
『そんなら君、誰が好きなんですか。』
『まあ、私は――姉さんでごはす。』
『姉さん? 左様かねえ、君は姉さんが一番好いかねえ。』
『私は、姉さんには、何でも話しやすよ、へえ父さんや母さんには話さないやうなことでも。』
斯う言つて、省吾は何の意味もなく笑つた。
北の小座敷には古い涅槃の図が掛けてあつた。普通の寺によくある斯の宗教画は大抵模倣の模倣で、戯曲がゝりの配置とか、無意味な彩色とか、又は熱帯の自然と何の関係も無いやうな背景とか、そんなことより外に是ぞと言つて特色の有るものは鮮少い。斯の寺のも矢張同じ型ではあつたが、多少創意のある画家の筆に成つたものと見えて、ありふれた図に比べると余程活々して居た。まあ、宗教の方の情熱が籠るとは見えない迄も、何となく人の心を嫵ける樸実なところがあつた。流石、省吾は未だ子供のことで、其禽獣の悲嘆の光景を見ても、丁度お伽話を絵で眺めるやうに、別に不思議がるでも無く、驚くでも無い。無邪気な少年はたゞ釈迦の死を見て笑つた。
『あゝ。』と丑松は深い溜息を吐いて、『省吾さんなぞは未だ死ぬといふことを考へたことが有ますまいねえ。』
『私がでごはすか。』と省吾は丑松の顔を見上げる。
『さうさ――君がサ。』
『はゝゝゝゝ。ごはせんなあ、其様なことは。』
『左様だらうねえ。君等の時代に其様なことを考へるやうなものは有ますまいねえ。』
『ふゝ。』と省吾は思出したやうに笑つて、『お志保姉さんも克く其様なことを言ひやすよ。』
『姉さんも?』と丑松は熱心な眸を注いだ。
『はあ、あの姉さんは妙なことを言ふ人で、へえもう死んで了ひたいの、誰も居ないやうな処へ行つて大きな声を出して泣いて見たいのツて――まあ、奈何して其様な気になるだらず。』
斯う言つて、省吾は小首を傾げて、一寸口笛吹く真似をした。
間も無く省吾は出て行つた。丑松は唯単独になつた。急に本堂の内部は閴として、種々の意味ありげな装飾が一層無言のなかに沈んだやうに見える。深い天井の下に、いつまでも変らずにある真鍮の香炉、花立、燈明皿――そんな性命の無い道具まで、何となく斯う寂寞な瞑想に耽つて居るやうで、仏壇に立つ観音の彫像は慈悲といふよりは寧ろ沈黙の化身のやうに輝いた。斯ういふ静寂な、世離れたところに立つて、其人のことを想ひ浮べて見ると、丁度古蹟を飾る花草のやうな気がする。丑松は、血の湧く思を抱き乍ら、円い柱と柱との間を往つたり来たりした。
『お志保さん、お志保さん。』
あてども無く口の中で呼んで見たのである。
いつの間には四壁は暗くなつて来た。青白い黄昏時の光は薄明く障子に映つて、本堂の正面の方から射しこんだので、柱と柱との影は長く畳の上へ引いた。倦み、困み、疲れた冬の一日は次第に暮れて行くのである。其時白衣を着けた二人の僧が入つて来た。一人は住職、一人は寺内の若僧であつた。灯は奥深く点いて、あそこにも、こゝにも、と見て居るうちに、六挺ばかりの蝋燭が順序よく並んで燃る。仏壇を斜に、内陣の角のところに座を占めて、金泥の柱の側に掌を合はせたは、住職。一段低い外陣に引下つて、反対の側にかしこまつたは、若僧。やがて鉦の音が荘厳に響き渡る。合唱の声は起つた。
『なむからかんのう、とらやあ、やあ――』
宵の勤行が始つたのである。
あゝ、寂しい夕暮もあればあるもの。丑松は北の間の柱に倚凭り乍ら、目を瞑り、頭をつけて、深く/\思ひ沈んで居た。『若し自分の素性がお志保の耳に入つたら――』其を考へると、つく/″\穢多の生命の味気なさを感ずる。漠然とした死滅の思想は、人懐しさの情に混つて、烈しく胸中を往来し始めた。熾盛な青春の時代に逢ひ乍ら、今迄経験つたことも無ければ翹望んだことも無い世の苦といふものを覚えるやうに成つたか、と考へると、左様いふ思想を起したことすら既にもう切なく可傷しく思はれるのであつた。冷い空気に交る香の煙のにほひは、斯の夕暮に一層のあはれを添へて、哀しいとも、堪へがたいとも、名のつけやうが無い。遽然、二人の僧の声が絶えたので、心づいて眺めた時は、丁度読経を終つて仏の名を称へるところ。間も無く住職は珠数を手にして柱の側を離れた。若僧は未だ同じ場処に留つた。丑松は眺め入つた――高らかに節つけて読む高祖の遺訓の終る迄も――其文章を押頂いて、軈て若僧の立上る迄も――終には、蝋燭の灯が一つ/\吹消されて、仏前の燈明ばかり仄かに残り照らす迄も。
(三)
夕飯の後、蓮華寺では説教の準備を為るので多忙しかつた。昔からの習慣として、定紋つけた大提灯がいくつとなく取出された。寺内の若僧、庄馬鹿、子坊主まで聚つて会つて、火を点して、其を本堂へと持運ぶ。三人はその為に長い廊下を往つたり来たりした。
説教聞きにとこゝろざす人々は次第に本堂へ集つて来た。是寺に附く檀家のものは言ふも更なり、其と聞伝へたかぎりは誘ひ合せて詰掛ける。既にもう一生の行程を終つた爺さん婆さんの群ばかりで無く、随分種々の繁忙しい職業に従ふ人々まで、其を聴かうとして熱心に集ふのを見ても、いかに斯の飯山の町が昔風の宗教と信仰との土地であるかを想像させる。聖経の中にある有名な文句、比喩なぞが、普通の人の会話に交るのは珍しくも無い。娘の連はいづれも美しい珠数の袋を懐にして、蓮華寺へと先を争ふのであつた。
それは丑松の身に取つて、最も楽しい、又最も哀しい寺住