真美大観/眞美大觀序 (フェノロサ)


眞美大觀序

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日本に於て、東洋の古代美術の精神を觀んと欲せは、京畿地方殊に京都の大寺巨刹に於てせさるへからす。寺院は美術の守護者として、各派美術の歴史に關繋あること、猶ほ歐洲殊に伊太利の寺院に藏めたる繪畫彫刻の當該寺院に關繋あるか如し。而して此理や歐人多くは之を知らさるなり。夫れ往時の風俗嗜好を知るは、繪畫より好きはなし。余は日本に來て、初めて之を觀しより茲に二十年。其間幾たひか京都に遊ひ、松樹蓊鬱幽寂淸麗の寺院を訪ひ、古代の美術を見、轉た當時を追懷して、未た曾て蕭然敬を起さすんはあらす。猶ほ人のサンタクロースに遊ひ、フラリに遊ひ、アッシシ市のサンフランシスコに遊ふか如し、渇仰の念自ら禁へさるものあり。夫れ然り、獨り日本に於けるのみならす、支那に在ても、其國美術の薀底を極めんと欲せは、賣人の店頭に於てすへからす、又豪富の寶庫に於てすへからす、必すや寺院に於てせさるへからす。古來美術家は毎に其精神を傾寫して、祭壇佛像奉物等に手腕を振ひたれはなり。是れ歐洲に於けるも亦然りとす。乃ち獨り當世の氣風を永く存して此に見るへきのみならす、畫家の流派、民智の程度亦永く此に藏めて亡ひす。若し善く之を研究せんと欲せは、往て親く之を觀るに非すんは能はす。而して世間此便あるもの甚た少し。今や此書出てゝ、古代の美術を蒐集し、之を愛好する人々の資料に供し、復た僅々たる旅行家のみをして、獨り其研究を擅にせさらしむ。必すや大に世人の渇望を醫するに足るものあらん。余は世人の爲に此書の出るを賀するものなり。

夫れ京畿の地、佛寺尤も多く、以て其地を淸靈ならしむ。而して禪宗の大寺自ら率先して、此舉に出てしは尤も宜きを得たるものなり。夫れ美術の眞價は、精神に在て形體に在らさることを教へたるものは主として禪宗の力に依る。禪寺は單に外來の教旨を守るに止らす、旁ら廣く美術界に感化を及ほし、一派の畫風此より起り、乃ち其大家を以て稱せらるるものにして、此門の名僧たりしもの甚た多し。蓋し禪宗の宗旨、自覺を貴ふより見るときは、凡そ木石花卉水雲の如き自然の眞美は、皆以て自家を照すの淨鏡と爲すへく、寫して以て自家心境の玄妙を觀想せしむへし。余は嘗て書を著して、日本の美術を論するに當り、京都の大禪寺を以て足利時代畫風の四柱と稱したり、其功や沒すへからす。夫れ美術は余の好んて多年研究する所、今本書編輯者の、世に一臂の力を盡さんことを求めるに當たりては、余は深く自ら榮とせすんはあらす。

日本の國寶たるへき美術の、傳へて以て今日に至り、能く其信を失ふことなかりしは、深く慶すへき所なり。而して之を學ふものには二重の趣味を與ふ。即ち佛教より見るの趣味、及ひ美としての趣味、是なり。蓋し、歐人の今日に至るまて佛教を論する者、皆南方教の偶像論に依れり。然れとも佛教の眞價を解せんと欲すれは、北方佛教に如くは無し。其材料の富瞻なる、其理想の深淵なる、大に前者に勝るものあり。歐人の彼か如く熱誠研鑽を事とするの人にして、能く此に由らは、眞成の解釋を得たるを疑はす。而かも歐人之を爲す者甚た多からす。夫れ佛教に於てく研究すへきは、啻に儀式上竝びに審美上の形式は、如何にして古印度より脱化し來りし乎を窮むへきのみならす、之を入るるの時、國人の信仰は如何なりし乎を知るに在り。今基督教を捉へて、使徒の當時に存せさりしと云ふの故を以て、當時に見さる一切の言辭若くは精神上審美上の形式を除き去るときは、必すや索然基督教の價値を減殺せん。凡そ大宗教は其生する所の土地より、廣く新たに、精神上修育上の形式を生せしむへき原料を供するを以て、其本職とせさるへからす、而して大宗教の大宗教たる所以の實、亦正に此に存す。盖し宗教の形式は、自から地方に因て相分る、一方のものは取て以て他方に施すへきからす、然れとも人類の性情には限界なし。種子は元と他日大樹たるの元素を含むと雖、遽かに其一小粒子に見れは鬱然天を蓋ひ、美化爛漫、香を四方に放つを想ふへからす。只此元素あり、而して後土地空氣の成分を吸収して、乃ち此に至る。佛教猶ほ此の如し。基督教猶ほ此の如し。佛陀も基督も、共に自家説く所の法理の精神、必す他日凡百未知の人種に施して、以て之を化成すへきを豫想したるに相違なし。花は根柢に坐せす。根柢生長して始めて枝上に生す。乃ち支那日本に於ける佛教の眞價は、熱帶異境の死文書に就て求むへからす。現在生存する日本人支那人の中に於て始めて能く求むへし。基督教は希伯拉に起る、然れとも今や基督教は希伯拉に在らす。佛教は印度に起る、然れとも今や佛教は印度に在らさるなり。歐人の此等の事實を解すること能はさる者は、併せて其將に研究せんとする佛教の本質を解することと能はさる者なり。本書の編輯者か此に見る所ありて、帝國大學教授高楠氏の如き、學識あり兼て心を此に寄するの人を得て、其力に依り此理を釋明せんと試むるは、本書の體裁に於て、最も宜きに稱ふものなり。

審美上より之を論するに、蓋し本書は載する所の繪畫に就て、各其歴史を盡くすこと能はす、亦之を盡くすは本書の初めより自ら期せさる所なり。今之をして精く論次して、遺憾なからしめんとせは、英文亦數千頁の多きに亙らさるへからす。故に勢ひ之を他日に讓らさるを得す。思ふに能く研鑽して眞成の歴史を編輯することを得は、美術上より日本國民の抱負を表明せる名匠の工夫を審かにするを得ん。

按するに、美術の美術たる根本は、外形にあらさるなり。苟も外形にあらは、手腕の敏なる者、若くは視察の精なる者は、皆能く之を盡さん。又科學的なるにあらさるなり。苟も科學的なるにあらは、明暗遠近の宜きを得たるもの皆以て之を稱するに足らん。又抽象的なるにあらさるなり。主觀的なるにあらさるなり。苟も抽象的主觀的なるにあらは、李龍眠の畫線の美なる、ベリニの設色の妙なる、て亦以其三昧を得たりと爲ささるへからす。然らは美術の美術たるを得る所以のものは、何くにか存する。他なし、美術の根本たるへきものは、其精神的なるに存す。即ち語を換へて言はは、根柢より建設的なるに在り。是れ猶ほ思想の建設的なるか如く、愛の建設的なるか如く、信仰の建設的なるか如く、性格の建設的なるか如くし。夫れ色彩と線條とは美術家の非凡なる想像力と、描寫せんとする所の物と、相融和密著して、始めて兩なから宜きを得て、茲に生氣を發し、眞を得、混然塗抹の迹を留めす。盖し眞成の美術家は猶ほ僧侶の如し。僧侶は世俗の凡眼視ること能はさる所の絶高の眞理を世人に解説するを以て本務と爲す。良工亦工夫ありて、凡手の擬すへからさる雅趣を生し、描寫の眞を得、觀る者をして始めて心を安せしむ。吾人は是に於て乎乃ち叫ふ「何故に人曾て之を爲ささりし乎、何故に予自ら之を爲ささりし乎」と。是れ實に稀世の大詩歌に於て聞く所なり。高妙なる大美術に於て聞く所なり。余は衷情此感想に堪ふる能はす。乃ち本書各繪畫の下、録する所の文甚た短しと雖、苟も觀る人をして、聊か美術の極地を窺はしむることを得は、本書説明者の望足れりと謂ふへし。

千八百九十九年三月十六日 日本東京に於て

ヱルネスト、ヱフ、フエノロサ

底本

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  • 田島志一編 『真美大観 第一册』 日本佛教眞美協會、1899年。