真田大助の死
本文
編集一
編集- 元和三年五月七日、豊臣家の武運
傾 いてさしも栄華の影を止 めず、頼みの大阪城さへ今は危 しと見えた時であつた。 其朝 、城方 の飛将 真田 佐衛門佐 幸村 は城を出て茶臼山 に陣を取つた、毛利 豊前守 勝永 は天王寺表 へ進んだ、大野 主馬介 治房 は岡山表 に進んだ、茶臼山を西とし天王寺を中 に岡山を東 として人数 を立て、寄手 の徳川勢十三万人に迫つたのである、城方の計画は城中七万人の数を尽して打つて出 で秀頼公 の出馬を乞 ふて、乾坤一擲 、勝敗を今日の一戦に定めやうと云 ふのであつた。夫 れは幸村の建策 で、諸将に異議もなく秀頼公も其 覚悟で戦 の手配は既 に定められてある、今は秀頼公の出馬を待つばかりとなつた。昨日 の戦 に城方では後藤又兵衛 、木村重成 、薄田隼人 等 の驍将 枕 を並べて討死 してゐる、城方の士気も衰へてゐる、目に余る徳川方の大軍を引受 けては籠城に希望 も無い、勝敗を一戦で定 めやうとするのも此外 に道が無いからで、夫 れほどまでに城の運命は迫つてゐるのであつた。- だが、
此 一戦、大勢 はもう徳川方の利 と見えてゐる、兵数 も徳川方が遥かに多い、城方に頼むところは、只 駈引 と気と、である、而 して秀頼公の出馬は全軍の気を引立てるだけの力を以 てゐる、士卒 も「今日が死に時である、生きて逃げるとも日本の内には片足も止められぬ」と覚悟してゐる、其覚悟に秀頼公の出馬とある、衰へた士気も自然に振 ふ事となる、さうして真田幸村の智 は軍 の駈引に無双の力を現はす、其 智と其 気とで或 は勝つかとの一縷 の望みも出来てくる、だが秀頼公の出馬が無くば敗軍の後 を受けた城方の気は緩む、諸将の駈引も中心を失ふ、統一もつかなくなる、恁 うなつては幸村の智も及びもつかぬ、滅亡の悲運に任せる外 はない。 - 茶臼山に出た幸村は
恁 う考へてゐた、幸村が絶えず城の方 をふり返るのも其為めであつた。 - 其時
陣所 見廻 りとして大野 修理亮 治長 が来た。 - 「
上様 には最早 、桜の御門までお出 でなされた、戦 の首尾は如何 、お問合 せに参つた」と修理は云ふ。 - 「天下の事は今日
一日 が分目 でござる、上様御出馬 とあれば味方軍気 も百倍と存ずる、御覧あれ、敵との間は六七町ぢや、軍 も只今 始まらう、只今船場 に明石 掃部助 が備へてござるが、あの人数を此山 の蔭 から一町先 に出しまする、夫 れを合図に此手 も合戦に及ぶ次第でござるから最早兎角 の間 は無い、上様には早々 御出馬を願はねばなりませぬぞ」と幸村は焦 つた声で云つた。 - 修理は快諾して馬に
鞭 つて帰つた。 - 時は過ぎた、明石掃部は
幟 を絞 り蔭に沿 ふて静かに茶臼山の横手 から先に出た、幸村が正面から敵にかゝれば掃部は横から敵陣を衝崩 す手筈であつた、而 して幸村は敵の忠心、徳川家康公の本陣へ衝進 む筈で其手 を崩せば勝利の見込みに十に一ぐらゐはあると幸村は考へてゐた。 - 幸村は
更 に城の方を顧 る、城中桜の門には秀頼公が、父太閤の北条征伐に用ゐた時の儀容 を其儘 に緋縅 しの鎧 に錦の直垂 を着け、床几 に靠 つて城外の形勢 を瞰下 してゐた、城外の味方は雀躍 して喜んだ、秀頼公は城方 尊敬 の中心である、中心動いて士気振 ふ。 - だが、だが、門を
限 りにして秀頼公の、本陣は進まなかつた、徳川方は既に火蓋 を切らとしてゐる、戦期 は刻一刻 と迫つてゐる。 - 幸村は手を
翳 して眉 を顰 めた、城中には兎角軍議に茶々を入れたがる奥向 がある、其為 に是まで幾度 軍機 を誤まつたかも知れぬ、性懲りもなく又 もや奥向から出馬を遮 つたのではあるまいか――、とは幸村の懸念であつた。 - 懸念は遂に事実となつた、秀頼公は
依然 動かぬ、大事 の際 に何 の躊躇 、遠くして仔細 は分らぬが、大略 の光景 は幸村の胸に読み得られた。振いかけた士気も稍 白 む。 - 「是非もない」と幸村は
嗟嘆 。 - 彼は前歯の欠けた口を
屹 と結んだ、其面 には深い覚悟と此際 にも動ぜぬ沈着の色とを湛 へて、子息の真田 大助 を呼んだ。 - 「大助、そちとも別れねばならぬぞ」。
- 「は」と大助は不審の眼を父に注ぐ。
- 「大事は去つた、最早及ばぬ、父はこゝにて討死ぢや、
其方 は城内 に帰つて上様御前途 を見届けい」。 - 「えい、
惜 かせられ」と大助は声に恨 を有 つて「父上の討死後 に見て大助何 とて城へ去 にまする、死すればお供にと予 て覚悟を定 めてござりまする」。 - 「其の覚悟も折によれぢや、
可 う聞かう」、と幸村は大助の手を握つて「予 は一言 の義によつて上様お味方に参じた、一身 もとより君に捧げてある、されど豊臣御家譜代 でない故 城中には予の心知 らぬ輩 のある兎角は悪 しう推 して万一二心 有 たぬか、と予を疑ふ者さへある、見よ見よ秀頼様御出馬のないも大方 其輩 の弁口 であらう。 - さればこそ予は
其方 を帰す、其方上様お側 にあらば、誰が予の心の疑はうぞ、其方城に帰らば父への孝、父の心の証 も立つわ」。 - 大助は
黙 して凝予 と考へた。 - 「
得心 であらうの」と幸村は手を放した。 - 「父上」と大助は幸村の
鞍 に取 ついた。 - 「
其方 にも似ぬ、未練ぢやのう」と穏 かに幸村は叱 つた。 - 「大助は未練ぢや、不得心でござりまする」と大助は
欷歔 げた、さしぐむ涙は瞼に光つた。 - 「父上、大助が胸も、ちとは汲ませ、
合戦 此方 片時もお傍を離れぬ大助にござりますぞ、今 討死の際 逃げたりと人に云はるゝも口惜 しうござります、父上の心の証は討死にて立ちまする、大助が名は何処 に立ちまする」。 - 「愚かや大助、帰れと云ふは生きよと云ふにあらず、落城
明日 にも迫 つつる、父とて子とて逃るゝ事か、上様お側に死ぬがそちの役ぢや恁 くてこそ予が義も立ち、そちが名も立つとは知らぬか、討死の遅速 を争ひ、暫時 の別れを惜しんで何 にする、父に導かれずば死ねぬ其方 にでもあるまじ、最後まで予が心、其方が告げずば誰 が上様に聞 え上 ぐる、父子供 にこゝに死して誰 告 ぐる人なくては切ぬけて逃延 びたりと云はるゝも、其疑 ひの解くる日は無し、恁 くても其方は不得心か」。 - 「
疾 くまゐらぬか」と厳 かに云つて幸村は鞍にすがつた大助の手をもぎ放した。馬は一揺 ぎして間 が隔たる。握り合つた其 刹那 の手と手との温 みが父子の別れであつた。 - しみじみと大助は父の顔を見た、
- 「さらば
冥途 にて又会ひまする」。 - 「おう、冥途に待たうぞ」と幸村も名残惜しげに
打目戌 つた、日 は正午を過ぎて曇る日に蒸し暑く、軈 て大風の吹く前の静けさが一陣に満ちてゐた、幸村四十六歳、大助弱齡 十六歳であつた。
二
編集- 大助
陣 を去る頃、戦 は既に開かれてゐた、凄 ましい銃声が四方に聞えてゐた、茶臼山、天王子、毘沙門池、岡山に亘 る戦線には敵、味方入乱 れて戦つてゐた。 此 最中に何事ぞ、徳川方の使者が城に入つて来た、和睦の使 であつた。- 和睦の二字を
先 づ耳を傾けたのは秀頼公の母君淀殿であつた、淀殿はさすがに女性 である、天地を揺 る鬨 の声、火薬の響、且 つは此頃 の味方の不利に、気を打たれてゐた折柄 である、和睦は淀殿に取つて大旱 の雲である。 - 和睦は
此方 から云ひたい事、夫 れを敵から申込む、――勿怪 と見たのが淀殿である、勝色 の敵に和睦の要は無い、要の無いに和睦と云ふ、夫れを眉唾 ものだと疑ふだけの余裕は無かつた。 - 淀殿は母である、秀頼公とて母の意見を
斥 け兼 ねた、決戦の覚悟はおぞくも挫 けた、今 敵の首将家康公の陣と睨 み合つてゐた大野主馬治房、速水 甲斐守 (守久 )は秀頼公の使の命 によつて城に引返した。 - 無残や夫れが
遠目 には、城中に異変あつて逃入つたと眺められた、徳川方は鬨をあげて一斉 に進む、城方はたぢろく。 此時 秀頼公はまだ桜門 に胡床 に靠 つて戦 の樣を見渡してゐた、大助が其前に着いた時は大野速水の二将が引返した時であつた、其後からは城方の兵が雪崩 を打つて退 いて来た。又 其後からは敵方が追い迫つて来た。- 秀頼公は
嚇 と怒つた、和睦の使は味方の気を挫 く詭計 と分つた。 - 「最後の一戦、
予 が出るであらう」と突立 つた、だが此 覚悟はもう遅かつた目の前には退く味方が殺到する、浮足 立 つては馬を進める余地もない、さればとて最早 頽勢 を盛返 す事は出来ぬ。城外にある味方の苦戦が思ひやられたが、夫れを救ふ手段 もない。 - 無念の
拳 を握つて秀頼公は本丸千畳敷に引返した、大助も後より従つた、人々の顔には絶望の色が蒼 ずんだ、徳川方は既に門々に逼 つた。 - 場内に火を放つた者がある、
折悪 や風は其前 から烈 しく吹き出してゐた。火の手は処々 にあがる、城中乱 れて諸門 は敵の手に打破 られる。 - 本丸では
狭間 に銃砲を配るべき遑 も無かつた。軍兵 は多くても徒 らに狼狽 へてゐる、名を得た人々は引返 し返 し合 せて口々に悪戦したが、勝に乗つた敵は岩打 つ潮 のやうに押寄せて隙を求めて乱れ入る。 - 千畳敷からは
矢 叫 び、砲 の音、燃えおつる櫓 の音が手に取るやうに聞かれた、而 して遠く近くに起る鬨の声は一城を揺 る。 - 秀頼公は奥の御所へ入つた、其後へ七十一歳の老将
郡 主馬 が戦ひ疲れて帰つて来た彼は千畳敷の片隅に具足を解 き正しく押並べて奧に向つて一礼した後、脇差 で腹に突立てた、郎等の成田 兵蔵 も腹を切つた、真野 蔵人 、中島 式部 も傷に喘 ぎながら来て主馬の骸 と押並んで刀 に伏 した、広い千畳敷の処々は血に彩 られた、而 して彼方 此方 の隅には追はるゝやうに人々が往来 した。軈 て薄い炎の舌が何処 からとなく移つて隅々に煙 が走つた、千畳敷の人は去つて淋しく捨てられた骸の上に炎が覗 いた。 - と、老母、妻子を連れて迷ひ込んで来たのは
毛利 河内 であつたが、炎に追はれてすぐ立去つた。 - 秀頼公の
馬廻 り野々村 伊予守 、堀田 図書 は傷を負ふて帰つて来たが、火に遮 られて千畳敷にも入れず、本丸と二の丸との間に並んで割腹した。 此時 秀頼公は奥の御所に静かに最後の時を待つてゐた。津川 左近 が太閤以来の馬験 を捧 げて南表 から帰つて来た、左近は近頃 讒言 の為に秀頼公の前を遠ざけられてゐたが、今日 は撰 ばれて馬験を預つてゐたのであつた。- 彼は馬験を正しく
押直 して手をついた。 - 「
御馬験 を岡山へ立てましたけれど、後口 より崩れ立つて一戦にも及ばず味方は総敗軍となりました、私 儀 は先陣討死が本意と思ひましたれど、御馬験を敵の手に渡すが口惜しくこれまで持つて参りました」と云 つた。 - 秀頼公は頷いた、
其面 は白く蒼 ずんでゐた。
三
編集- 「上様、世は今を限りと
思召切 り、恐れ多き事ながらお覚悟大切 にござります、敵は早 大手 を攻破 り二の丸へ押込みましてござりまする」と今木 源右衛門 が云つた。 - 「もとより覚悟である、
其方 は天主へ参つて切腹の坐を設 れ、予は母上と共に軈 て参るであらう」と秀頼公は鬱 した声であつた。 - 源右は去つた。
- あたりの諸道具は
焼草 として次第に天主閣へ運ばれた、秀頼公は一切の取片付 を黙つて、打目戌 つた、而 して源右が帰つて来て「用意整のひました」と云ふのを聞くと、軽く笑つて帳 の内 の淀殿の前に出た。 - 「母上、御一緒に」と
咡 いた。 - 「天主へとか」と淀殿は悲痛の声を
圧 しつけるやうに絞つて「待ちませうぞ」と涙を浮べる。
:「いや、いや腹切るは急ぎませぬん、何とて死なせませう、天下の武将、太閤様世取りをさう手易うは死なせませぬ」と淀殿は首をふつて泣伏した。
- 「時まてばのう、時まてばのう」と身を
顫 かせて女性の執拗 、此期 になつても、最後の我子の為に後日の策を夢 んでゐるので、狂ふたやうな其耳には時の勢ひ、物の道理も聞分かぬのであつた。 - 「母上、どの時を待ちまする、運命
極 まつた今、秀頼既 に思極 めてをりますぞ、母上にはまだ〳〵永らへて悲しい後を見らるゝ思召 か」。 - 気強く云つて
面 を背 けて秀頼公は淀殿の手を執 つた、帳 を出ると秀頼北 の方 も後に従つた、北の方 も後に従つた、北の方は敵方家康将軍の孫娘、秀忠御焼けの姫である。 - 其
後 に局女房、小姓、近臣が従つた、最後に真田大助が従つた、其他五六百人は何時 となく散じてゐた。 - 天主閣には既に今木源右が焼草籠めて火をかけるばかりに用意してあつた。
- 大野修理が南表から駈つけて「お覚悟
早 うござります、味方今方 軍 を盛返 しえござりまする」と告げた。 - 「いや、いや、
敵 既 に二の丸に籠入 つてをりますぞ、盛返したとは僻目 でござらう」と修理に快からぬ津川左近が云つた。 - 「
先 づ暫時 」と老功 の速水甲斐守が手をあげて「先陣破られても後陣の盛返す例 は毎度ある事、暫時お覚悟はお持ちあるやう」と云つた。秀頼公も頷いて天主を下つて月見の櫓に移つた、だが万一のの頼みも空 となつた、敵精は愈 よ迫つて見下 せば二の丸に渦まいてゐる、西天の残日は焰焰 の中に惨 まし光を漂はせてゐる、櫓にも瞬く間に火が絡 まる、淀殿は一足先に東の櫓に移る。 - 幸村の陣に加はつてゐた
渡辺 内蔵助 が血に塗 れて秀頼公の前に踽 き出た、中途 我邸 へ立寄つて来たので左右の手には幼い子供の手を牽 いてゐた。 - 「内蔵は
重傷 にござりまする、最早お供は叶 はづ、お先を仕 つりまする」。 - 苦しげに別れを告げて、内蔵助は子供を
刺殺 し、己 も十文字に腹を切つた。 - 秀頼公についてゐた内蔵助の母
昌栄尼 も刃に伏す、其介錯 は今木源右衛門であつた。 - 秀頼
附 老女 お茶 、侍女 お愛 は源右に綣 つて手を合せた、源右は心得て二人を刺殺した。 - 「
予 、一人の為に皆の恁 うなるが。不便 である」と秀頼公は凝乎 と人々の死骸を見た。 - 淀殿のゐる東の櫓へ移ると、こゝにも赤ずんだ
黒煙 が、立浪 のやうに崩 れ入 つてゐた。 - 秀頼公は本丸
朱山楼 の下蘆田廓 に火を避けた。 - 大助も
夫 れに従つた、大助は客将の子息、近臣でも小姓でも無い、直ちに秀頼公の側に従 く事 は出来ぬ、で彼は間 は隔てながら影の形に従ふ如く廓に移つた、秀頼公は廓の糒倉 深く移つた、大助は其出口 に止つた。日は暮れかけた。 - 後れて城に入つた人が、幸村討死した、と告げた、大助は淋しく
笑 んだ儘 口も開かず、藁 を敷いて倉中 に坐つた、首には母から贈つて来た水晶の珠数 をかけてゐた。 黄昏 の樹間 を通して彼方 の火の手が空に開いてゐる、火の粉は樹間 に乱点 する、風が熱い気を吹き送る、煙が渦 く、其間 を士卒が足疾 に去り又 来 る。- 奥の方から速水甲斐守が手招きをした、
其傍 には大野治長もゐた、毛利豊前も居た、其他勇将 驍士 もゐた。 - 「大助殿」と甲斐は近々と顔を見て「
昨日 は武勇の組打 して逞 しう振舞 はれ痛手まで負はれたとのう、――流石 は真田殿御子息、甲斐感服仕 つる、さてのう」。 - と世にも
可憐 しげに甲斐は優しい語調であつた。 - 「
最早 上様御武運 も尽き戦 も果てました、で其許 も退散のされてのう、否 、其許 忠義上様にも可 う知られてある、ぢやが、旧臣譜代さへ逃走 る今の折柄 ぢや、客分の真田殿御子息が上様御供 最後までさるゝに当らぬ儀ぢや、と云ふも上様始め其許 武勇を惜しまれてぢや、で甲斐より人を添へて其許を真田 河内 殿へ送らうと存 ずる」。 - 真田河内守は大助の叔父、今は敵方に
加 つて寄手 の中にゐるのである。 - だが大助は首を振つた。
- 「甲斐殿お言葉、大助身に取りいかう迷惑に存じまする、大助こゝに参りましたは父幸村申付けけ、上様ご
前途 見届けて腹切れと申渡された故でござりまする、さなくば疾 うに父上諸共 討死しましたのぢや」と屹 とした。 - 「
否 、其儀 ぢや、真実 は上様も、徳川殿と和平を結ばれたでな、明日 にも上様には御出城なさる筈ぢや、で、其許 一人切腹にも及ばぬ儀ぢや」。 - 「なれども大助も上様御出城をお見届け致しまする、其上にて大助は父上との
盟 ひ、冥土 の父に追及 き申しまする」。 - 潔く云つて元の座に返つた。
- 「武勇の
血脈 恐ろしきものぢや」と甲斐は感嘆した。
四
編集- 日は全く暮れて
櫓楼 を焼く火は愈 よ凄く天を焦した。 - 大助の傍には郎等
青木 清左衛門 が侍してゐた、清左は信濃の出生、幸村譜代の臣、力 七八人を兼 ね、脚 は一昼夜に三十里を往来 して疲 を覚へぬと云 ふ勇士であつた。 - 幸村が慶長五年から紀州高野山に籠居した時、清左は幸村の奥方と、嬰児の大助とを預つて信州
津鏡 の山奥に隠れてゐた。 - 山奥に十四年間清左は
猪鹿 を猟して市に売り、僅 かの料 を得て大助を養育してゐた、春秋二度には紀州を訪づれて幸村の安否を尋ね、大助の生長を告げもしてゐた。 - 大助は
殆 んど清左の手に育てられた。 - 七、八才の頃には獲物を売りにゆく清左の後を
慕 ふてよく泣いてゐた、清左が猪鹿を提 げ、大助を背負ふて山谷 の難所を超え五里七里の道を市に下る日 も屡々 あつた。 恁 うして去年の慶長十九年になつて、清左は大助を連れて紀州に着き、次で幸村と共に大阪城に入つたのであつた。- 主従とは
夫 へ、大助に取つて清左は父同様で、清左から見ると大助は子同様の慈愛を有 つてゐた、手塩にかけた十六歳の若武者を眼に入れたいほど可憐 しむのである。 - 幸村が大助と別れる時、
殊更 清左を撰 んで大助に従はせたのも其為 であつた。 親 しい中の主従は今、静かに坐して外の火の手を見ては秀頼公の最期の時を待つてゐた、速水甲斐守は、和睦が整つたと云つた、明日にも秀頼公御出城と云つた、が、大助も清左も夫 れを信じなかつた、何 れも今宵 の中 に「上様御生害 」と云ふ悲しいたよりが奧から漏れる事と推 してゐた。- 奧には速水、大野や、毛利豊前、同長門などの面々が
額 を鳩 めて密義を凝 らしてゐるらしかつた。 - 「清左」と大助は
密 やかに呼んだ、朧 ろに奧から照る灯 の中 に荒木清左衛門は手をついて髯面 をさし延 べた。 - 「なう、清左、大助は若年
故 、父上にも最後に未練でもあつてはと思はれたであろ、其方 を附添 わしたのも見苦しくば刺殺せとの思召 さうな、されば大助切腹すれば介錯は其方 に頼まうぞ」。 - 「いかにも介錯は清左が
仕 る」と大助を見た、豊かな頰 、紅 の唇、凛々 しい目鼻立 ちに面 の薄紅 、生々 とした若衆 の姿の、血に塗 るゝ様がまざ〳〵と清左の目先 にちらついた。 - 「さて、
其後 にぢゃ、大助は其方 に頼みたい事がある」と大助は思ひ込んだ風情であつた。 - 「いや、お覚悟は
大慶 でござりまする――が、はて、死後のお頼み?」 - 「
大儀 の無心 じや、如何 あらうかのう」。 - 「ふむ、お頼み無心、心得ませぬのう」と清左は六つかしく眉を動かして、
又 「ほゝう」と笑 つた。 - 「
然 うでござつた、実 にもご幼少の折には負 うたり抱 いたりしてお育て申した清左ぢや、此期 になつてお頼みと仰 せらるゝからには、多分 、お腹召 された後々 までも、昔のやうに清左に負はれて死出 三途 の道に去 なう、とのお心ぢやな」。 - 「
否 」と大助は心苦しげに僅 かに笑 んで「いかにも大助は久しう我儘 云ふて、其方 に数々の難儀をさせた、山奥から其方に負はれて市に出た事もあり〳〵と覚えてある。 - されば去年
上 つて父上に会うたる折、我等 母上の御介抱は云はねど、清左が丹誠 にて恁 う成長致しました、と申しあげた、其時 父上も、幸村は父なれど夫程 の介抱はせず、清左が恩情は父母に勝るぞと仰せられた、其方 に受けたる恩、百に一つも報 ぬが我等は残念ぢや。 - されど今は及ばぬ、
其上 に其方に頼みのある、我儘は許せ、我等も最早 其方の教へで冥途の旅の一人立 、淋しいとは思はぬ、さて大儀の頼み外 ならず、我等切腹した後 は、其方は疾 う疾 う城を出で……」。 - 「
何 とござる」と清左は大 の目を瞋 らして大助を睨 んだ。
五
編集- 「清左に城を
出 いとぢやな、御父、子の討死外 にして此 清左何処 へ参ると思はるゝ、介錯の刀其儘 に主従の骸 串刺 ぢや、死出 の山路 に殿 に追 つつき、お身様 御最後恁 う恁 うと注進 するが清左の役ぢや、出城 八幡 なりませぬぞ」。 - 「待て」。
- 「
否 、聞く耳の有 ちませぬ」と清左は掌 で耳を塞 いだ。 - 「これまでぢや」と大助は清左に向つて手をついて
恭々 しく一礼した。 - 耳を塞いで、清左は不審の目を
張 つた。 - つと離れて大助は肌を脱ぐ、
其手 は早くも腰刀 にかゝつた、腹切 る覚悟と清左は見たので、彼は慌 てゝ耳の手を放 すと其儘 、大助に飛付 いたのである。 - 「えい、短気も折によりまする、上様の
御生害 見届けもせで……」。 大 く毛 ぶかい清左の腕を、大助は優しく払はうとしてはら〳〵と涙を落した。- 「大助一生の
終 に大切の頼みするに、其方 が聞くまじと耳塞 ぐ故ぞ、切らせい」と肩を揺 つてせき上げた。 凝乎 と見た清左の目にも涙があつた。- 「おう」と
唸 いて彼は四辺 を顧 へつてこみ上 る悲憤に腹を波打たせた。 - 「是非もない、今年まで十六年、清左お望みに背いた事は無い。
今日限 りのお頼みなりや――」。 - 「聞いて
呉 るゝか」。 - 「お恨みが残念ぢや、
兎 も角 う仰 せられい、ご切腹の後の大儀とやら、疾 う疾 う仰せられい」。 - いずれは死すべき大助である、後の事は別として、清左には清左の
腹 があつた、守育 てた大助の最期の不足を見るに堪へなかつた。 - 大助は
漸 く刀を収め肌を合せた。 - 「清左
聞届 け呉れて満足ぢや」と姿を正した。 其 喜 びを見るにつけても清左は又 不安が湧く、主 の幸村には死後 れる、こゝで又大助を見殺しにして家なき犬 同様にのそ〳〵と城を出る、武士 として夫 れが成るかと思ふのであつた、だが、分別 盛 りの彼は夫 れを色にも見せなかつた、「何 なりと仰せられい、清左もお身様の意地には魂負 けのし申したよ」と神妙に微笑 んだ。- 「別儀にあらず、
我等 頼みと云 ふは母上の事ぢや」と大助は云つた。 - 「むゝ母様の」。
- 大助の母は幸村の妻で、其人は去年の秋、信州から
供 も連れず、女の一人旅で、狂女 の体 を装 うて、途中の災難も切 ぬけ、無事に紀州の高野山道に着いてゐた。 - 今は幸村の兵術の弟子、
郷士 大会 の孫四郎 の家に身を寄せてゐる、其事は去年孫四郎の消息で知れてゐたが、幸村は城中へも迎へず対面も許さなかつた、大助も父の許しがなくて一度も会はずにゐた。 - 大助は今、其母を思ふのであつた。
- 「母上はのう、
女性 の事ぢや、父上も、大助も討死と聞かせたら、此世の中に最早 頼みもない、其時 こそ真 の狂女 にならせられう、大助、死後の心残りはこれ一つぢや。 万一 、心乱 れて世に彷徨 はせられたら、大助が母は信州より狂い出 で住所 もなし、真田も死後の外聞を思はぬか、苦しき討死、不覚悟 ぢや、あの体 を見よ――と、世の人の口の端 にもかゝるであらう。斯 くては父上の恥辱此上 もない、先祖への不孝、大助死後の無念である。其方 に出城 を望むんも其為 ぢや、頼 むはこゝぢや、其方何 とぞして紀州に落ち、母上お供して故郷へ去 んで呉 れ、御一生 の介抱、其方の他には頼む者の無い」。- 「むう」と力なく清左は
首垂 れた。 - 「大助一念、
今生 の頼みをさめ、清左かうぢや」。 - と大助は坐を
退 つて手をついた。 - 「
勿体 なうござる」と清左は抱くやうに寄り添ふて大助の手を引上 げた。 - 「しかと、しかと清左お受けを致しまする、さりとはお身様、孝と云ひ、義と云ひ、
可 うも左程に大人びられた、お育て申した清左も面目 、嘻 しうござる、嘻しうござりまする」。 - 彼は悲しさ嘻しさ取りまぜて涙に
咽 せて、其涙 の目にしみ〳〵と大助を見た。 - 「とは云へ、左程に生れさせたを世にも立てず、十六歳の
一期 が残念にござる、誰 見 て呉れる人もなきか、真田大助誰 が育てた、青木清左を賞 めて呉れ」。 - 武骨の男が
又 、泣いた。 - しめやかな主従の物語りに夜は
深 けわたる、廓の外は物騒がしく、物の焼くる音 崩 れる響、炎の煽 り、遥かに鬨 の声もあがる近くには不穏 な人のどよめきもする、糒倉 の奧秀頼公の座所 には人々の咳 の漏るゝのみ折々 出 てゆく人は敵への使者か、其面 には悉 く悲痛の色が深い。 - 五月八日の
暁 が来た、敵勢 既に本丸に入つて、廓の外を馬の嘶声 、人の動揺 、甲冑 の音が重く広く取 まいてゐた。 - 敵方の使者が入つて来た、味方の使者が出て行つた、使者は時々往復した。
- 「
御和睦 か」と云ふ声がちら〳〵と聞えた、軈 て奧がぞめいて、一団の女中の群が外へ出た、其中 に葵の紋の打かけを深く頭に蔽 うた女性があつた、問ふまでも無く秀頼公の北の方千姫であつた。 - 千姫は家康公の孫、秀忠公の愛姫、
夫 れを家康方へ渡すとなれば、或は和睦か――、との思ひが大助の胸に浮んだ。 - 「
愈 よ御和睦か、此期 に於 て何故の和睦」と大助は思つた、清左も思 は同じであつた、主従は黙して顔を見合せた。 - 時は経つた、使者は又往復した、何事かの起る前の様に不安な気が
倉内 に満つ。 - と、
俄 かに表が騒 しく、おどろ〳〵と貝 の音 がする、銃声 二度三度して弾丸の一つは倉内を貫いた、奥に絶望の唸きが起つた。 - 「御和睦
破 れたり」。 - 声なき声が大助の胸に響いた、大助は
莞爾 として藁 の上に押直つた、清左は奥を透 かして膝を立てた。 - 奧から速水甲斐が出て大助を招いた。
此時 、奧では焼草を積んで生残つた人々が秀頼公の前に居並んでゐた、主従男女、大助までも加へて僅 かに三十六人であつた。- 秀頼公はつく〴〵と人々を見た。「予は太閤の子、天下を知るべき身であつた、今は天運
極 まつて昨日 までは十万の大将たりし今身 に添ふはこればかりの人となつたよ」。 凝乎 と見 て一人 一人 に声をかけた。- 「
修理 は予の介錯、豊前は幼 き者、女共の介錯せい」。 - 最後に
恁 う云つた、太閤より譲られ薬研藤四郎 の刀を腹に突立 てた、年二十三才、修理が後 に廻 つて介錯する。 - 淀殿は物狂はしく悲運を
呪 ふたが軈 て同じく修理の手に介錯された、次々に割腹の骸 が並んで女房衆では大蔵卿局 、饗場局 、宮内卿局 、おあいの方、右京太夫 、お玉 などが無惨の枕を並べる、小姓衆の中には大助が交 つて腹を切つた、介錯は毛利豊前守勝永であつた。 - 青木清左衛門は大助の
一瞥 を最後の名残として溢 るゝ涙を拳 に払つて、大野修理から敵方へ送る使 の中に交 つた、炎 え上 る廓を後 に城を去つたのであつた。
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