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元和三年五月七日、豊臣家の武運かたむいてさしも栄華の影をとどめず、頼みの大阪城さへ今はあやうしと見えた時であつた。
其朝そのあさ城方しろかた飛将ひしょう真田さなだ佐衛門佐さえもんのすけ幸村ゆきむらは城を出て茶臼山ちゃうすやまに陣を取つた、毛利もうり豊前守ぶぜんのかみ勝永かつなが天王寺表てんのうじおもてへ進んだ、大野おおの主馬介しゅめのすけ治房はるふさ岡山表おかやまおもてに進んだ、茶臼山を西とし天王寺をなかに岡山をひがしとして人数にんずを立て、寄手よせての徳川勢十三万人に迫つたのである、城方の計画は城中七万人の数を尽して打つて秀頼公ひでよりこうの出馬をふて、乾坤一擲けんこんいってき、勝敗を今日の一戦に定めやうとふのであつた。れは幸村の建策けんさくで、諸将に異議もなく秀頼公もその覚悟でいくさの手配はすでに定められてある、今は秀頼公の出馬を待つばかりとなつた。
昨日きのういくさに城方では後藤又兵衛ごとうまたべえ木村重成きむらしげなり薄田隼人すすきだはやと驍将ぎょうしょうまくらを並べて討死うちじにしてゐる、城方の士気も衰へてゐる、目に余る徳川方の大軍を引受ひきうけては籠城に希望のぞみも無い、勝敗を一戦でめやうとするのも此外このほかに道が無いからで、れほどまでに城の運命は迫つてゐるのであつた。
だが、この一戦、大勢たいせいはもう徳川方のものと見えてゐる、兵数へいすうも徳川方が遥かに多い、城方に頼むところは、ただ駈引かけひきと気と、である、そうして秀頼公の出馬は全軍の気を引立てるだけの力をもってゐる、士卒しそつも「今日が死に時である、生きて逃げるとも日本の内には片足も止められぬ」と覚悟してゐる、其覚悟に秀頼公の出馬とある、衰へた士気も自然にふるふ事となる、さうして真田幸村のいくさの駈引に無双の力を現はす、その智とその気とであるいは勝つかとの一縷いちるの望みも出来てくる、だが秀頼公の出馬が無くば敗軍ののちを受けた城方の気は緩む、諸将の駈引も中心を失ふ、統一もつかなくなる、うなつては幸村の智も及びもつかぬ、滅亡の悲運に任せるほかはない。
茶臼山に出た幸村はう考へてゐた、幸村が絶えず城のかたをふり返るのも其為めであつた。
其時陣所じんしょ見廻みまわりとして大野おおの修理亮しゅりのすけ治長はるながが来た。
上様うえさまには最早もはや、桜の御門までおでなされた、いくさの首尾は如何いかが、お問合といあわせに参つた」と修理は云ふ。
「天下の事は今日一日いちにち分目わけめでござる、上様御出馬ごしゅつばとあれば味方軍気ぐんきも百倍と存ずる、御覧あれ、敵との間は六七町ぢや、いくさ只今ただいま始まらう、只今船場ふなば明石あかし掃部助かもんのすけが備へてござるが、あの人数を此山このやまかげから一町先ちょうさきに出しまする、れを合図に此手このても合戦に及ぶ次第でござるから最早兎角とかくひまは無い、上様には早々そうそう御出馬を願はねばなりませぬぞ」と幸村はいらつた声で云つた。
修理は快諾して馬にむちうつて帰つた。
時は過ぎた、明石掃部ははたしぼり蔭に沿ふて静かに茶臼山の横手よこてから先に出た、幸村が正面から敵にかゝれば掃部は横から敵陣を衝崩つきくずす手筈であつた、そうして幸村は敵の忠心、徳川家康公の本陣へ衝進つきすすむ筈で其手そのてを崩せば勝利の見込みに十に一ぐらゐはあると幸村は考へてゐた。
幸村はさらに城の方をかえりみる、城中桜の門には秀頼公が、父太閤の北条征伐に用ゐた時の儀容ぎよう其儘そのまま緋縅ひおどしのよろいに錦の直垂ひたたれを着け、床几しょうぎつて城外の形勢ありさま瞰下みくだしてゐた、城外の味方は雀躍こおどりして喜んだ、秀頼公は城方しろかた尊敬そんけいの中心である、中心動いて士気ふるふ。
だが、だが、門をかぎりにして秀頼公の、本陣は進まなかつた、徳川方は既に火蓋ひぶたを切らとしてゐる、戦期せんきは刻一刻こくいっこくと迫つてゐる。
幸村は手をかざしてまゆひそめた、城中には兎角軍議に茶々を入れたがる奥向おくむきがある、其為そのために是まで幾度いくたび軍機ぐんきを誤まつたかも知れぬ、性懲りもなくまたもや奥向から出馬をさえぎつたのではあるまいか――、とは幸村の懸念であつた。
懸念は遂に事実となつた、秀頼公は依然やはり動かぬ、大事だいじきわなん躊躇ちゅうちょ、遠くして仔細しさいは分らぬが、大略おおよそ光景ありさまは幸村の胸に読み得られた。振いかけた士気もややしらむ。
「是非もない」と幸村は嗟嘆さたん
彼は前歯の欠けた口をきっと結んだ、其面そのおもてには深い覚悟と此際このきわにも動ぜぬ沈着の色とをたたへて、子息の真田さなだ大助だいすけを呼んだ。
「大助、そちとも別れねばならぬぞ」。
「は」と大助は不審の眼を父に注ぐ。
「大事は去つた、最早及ばぬ、父はこゝにて討死ぢや、其方そち城内しろに帰つて上様御前途ごぜんとを見届けい」。
「えい、かせられ」と大助は声にうらみつて「父上の討死あとに見て大助なにとて城へにまする、死すればお供にとかねて覚悟をさだめてござりまする」。
「其の覚悟も折によれぢや、う聞かう」、と幸村は大助の手を握つて「一言いちごんの義によつて上様お味方に参じた、一身いっしんもとより君に捧げてある、されど豊臣御家譜代ふだいでないゆえ城中には予の心らぬやからのある兎角はしうすいして万一二心ふたごころたぬか、と予を疑ふ者さへある、見よ見よ秀頼様御出馬のないも大方おおかた其輩そのやから弁口べんこうであらう。
さればこそ予は其方そちを帰す、其方上様おそばにあらば、誰が予の心の疑はうぞ、其方城に帰らば父への孝、父の心のあかしも立つわ」。
大助はもくして凝予じっと考へた。
得心とくしんであらうの」と幸村は手を放した。
「父上」と大助は幸村のくらとりついた。
其方そちにも似ぬ、未練ぢやのう」とおだやかに幸村はしかつた。
「大助は未練ぢや、不得心でござりまする」と大助は欷歔すすりあげた、さしぐむ涙は瞼に光つた。
「父上、大助が胸も、ちとは汲ませ、合戦かっせん此方このかた片時もお傍を離れぬ大助にござりますぞ、いま討死のきわ逃げたりと人に云はるゝも口惜くやしうござります、父上の心の証は討死にて立ちまする、大助が名は何処どこに立ちまする」。
「愚かや大助、帰れと云ふは生きよと云ふにあらず、落城明日あすにもせまつつる、父とて子とて逃るゝ事か、上様お側に死ぬがそちの役ぢやくてこそ予が義も立ち、そちが名も立つとは知らぬか、討死の遅速ちそくを争ひ、暫時しばしの別れを惜しんでなんにする、父に導かれずば死ねぬ其方そちにでもあるまじ、最後まで予が心、其方が告げずばたれが上様にきこぐる、父子ともにこゝに死してたれぐる人なくては切ぬけて逃延にげのびたりと云はるゝも、其疑そのうたがひの解くる日は無し、くても其方は不得心か」。
くまゐらぬか」とおごそかに云つて幸村は鞍にすがつた大助の手をもぎ放した。馬は一揺ひとゆるぎしてあいだが隔たる。握り合つたその刹那せつなの手と手とのぬくみが父子の別れであつた。
しみじみと大助は父の顔を見た、
「さらば冥途めいどにて又会ひまする」。
「おう、冥途に待たうぞ」と幸村も名残惜しげに打目戌うちまもつた、は正午を過ぎて曇る日に蒸し暑く、やがて大風の吹く前の静けさが一陣に満ちてゐた、幸村四十六歳、大助弱齡じゃくれい十六歳であつた。


大助じんを去る頃、たたかいは既に開かれてゐた、すさましい銃声が四方に聞えてゐた、茶臼山、天王子、毘沙門池、岡山にわたる戦線には敵、味方入乱いりみだれて戦つてゐた。
この最中に何事ぞ、徳川方の使者が城に入つて来た、和睦の使つかいであつた。
和睦の二字をづ耳を傾けたのは秀頼公の母君淀殿であつた、淀殿はさすがに女性にょしょうである、天地をゆすときの声、火薬の響、つは此頃このごろの味方の不利に、気を打たれてゐた折柄おりがらである、和睦は淀殿に取つて大旱たいかんの雲である。
和睦は此方こなたから云ひたい事、れを敵から申込む、――勿怪もっけと見たのが淀殿である、勝色かちいろの敵に和睦の要は無い、要の無いに和睦と云ふ、夫れを眉唾まゆつばものだと疑ふだけの余裕は無かつた。
淀殿は母である、秀頼公とて母の意見をしりぞねた、決戦の覚悟はおぞくもくじけた、いま敵の首将家康公の陣とにらみ合つてゐた大野主馬治房、速水はやみ甲斐守かいのかみ守久もりひさ)は秀頼公の使のめいによつて城に引返した。
無残や夫れが遠目とおめには、城中に異変あつて逃入つたと眺められた、徳川方は鬨をあげて一斉いっせいに進む、城方はたぢろく。
此時このとき秀頼公はまだ桜門さくらもん胡床こしょうつていくさの樣を見渡してゐた、大助が其前に着いた時は大野速水の二将が引返した時であつた、其後からは城方の兵が雪崩なだれを打つて退しりぞいて来た。また其後からは敵方が追い迫つて来た。
秀頼公はかっと怒つた、和睦の使は味方の気をくじ詭計てだてと分つた。
「最後の一戦、が出るであらう」と突立つきたつた、だがこの覚悟はもう遅かつた目の前には退く味方が殺到する、浮足うきあしつては馬を進める余地もない、さればとて最早もはや頽勢たいせい盛返もりかえす事は出来ぬ。城外にある味方の苦戦が思ひやられたが、夫れを救ふ手段てだてもない。
無念のこぶしを握つて秀頼公は本丸千畳敷に引返した、大助も後より従つた、人々の顔には絶望の色があおずんだ、徳川方は既に門々にせまつた。
場内に火を放つた者がある、折悪おりわるや風は其前そのまえからはげしく吹き出してゐた。火の手は処々しょしょにあがる、城中乱みだれて諸門しょもんは敵の手に打破うちやぶられる。
本丸では狭間さまに銃砲を配るべきいとまも無かつた。軍兵ぐんぺいは多くてもいたずらに狼狽うろたへてゐる、名を得た人々は引返ひきかえかえあわせて口々に悪戦したが、勝に乗つた敵は岩打いわううしおのやうに押寄せて隙を求めて乱れ入る。
千畳敷からはさけび、つつの音、燃えおつるやぐらの音が手に取るやうに聞かれた、そうして遠く近くに起る鬨の声は一城をゆする。
秀頼公は奥の御所へ入つた、其後へ七十一歳の老将こおり主馬しゅめが戦ひ疲れて帰つて来た彼は千畳敷の片隅に具足をき正しく押並べて奧に向つて一礼した後、脇差わきざしで腹に突立てた、郎等の成田なりた兵蔵ひょうぞうも腹を切つた、真野まの蔵人くらんど中島なかじま式部しきぶも傷にあえぎながら来て主馬のむくろと押並んでやいばした、広い千畳敷の処々は血にいろどられた、そうして彼方あち此方こちの隅には追はるゝやうに人々が往来ゆききした。やがて薄い炎の舌が何処どこからとなく移つて隅々にけぶりが走つた、千畳敷の人は去つて淋しく捨てられた骸の上に炎がのぞいた。
と、老母、妻子を連れて迷ひ込んで来たのは毛利もうり河内かわちであつたが、炎に追はれてすぐ立去つた。
秀頼公の馬廻うままわ野々村ののむら伊予守いよのかみ堀田ほった図書ずしょは傷を負ふて帰つて来たが、火にさえぎられて千畳敷にも入れず、本丸と二の丸との間に並んで割腹した。
此時このとき秀頼公は奥の御所に静かに最後の時を待つてゐた。
津川つがわ左近さこんが太閤以来の馬験うましるしささげて南表みなみおもてから帰つて来た、左近は近頃ちかごろ讒言ざんげんの為に秀頼公の前を遠ざけられてゐたが、今日きょうえらばれて馬験を預つてゐたのであつた。
彼は馬験を正しく押直おしなおして手をついた。
御馬験おうましるしを岡山へ立てましたけれど、後口あとくちより崩れ立つて一戦にも及ばず味方は総敗軍となりました、わたくしは先陣討死が本意と思ひましたれど、御馬験を敵の手に渡すが口惜しくこれまで持つて参りました」とつた。
秀頼公は頷いた、其面そのおもては白くあおずんでゐた。


「上様、世は今を限りと思召切おぼしめしきり、恐れ多き事ながらお覚悟大切たいせつにござります、敵ははや大手おおて攻破せめやぶり二の丸へ押込みましてござりまする」と今木いまき源右衛門げんうえもんが云つた。
「もとより覚悟である、其方そちは天主へ参つて切腹の坐をつくれ、予は母上と共にやがて参るであらう」と秀頼公はうっした声であつた。
源右は去つた。
あたりの諸道具は焼草やきくさとして次第に天主閣へ運ばれた、秀頼公は一切の取片付とりかたづけを黙つて、打目戌うちまもつた、そうして源右が帰つて来て「用意整のひました」と云ふのを聞くと、軽く笑つてちょううちの淀殿の前に出た。
「母上、御一緒に」とささやいた。
「天主へとか」と淀殿は悲痛の声をしつけるやうに絞つて「待ちませうぞ」と涙を浮べる。

:「いや、いや腹切るは急ぎませぬん、何とて死なせませう、天下の武将、太閤様世取りをさう手易うは死なせませぬ」と淀殿は首をふつて泣伏した。

「時まてばのう、時まてばのう」と身をわななかせて女性の執拗かたいじ此期このごになつても、最後の我子の為に後日の策をゆめんでゐるので、狂ふたやうな其耳には時の勢ひ、物の道理も聞分かぬのであつた。
「母上、どの時を待ちまする、運命きわまつた今、秀頼すで思極おもいきわめてをりますぞ、母上にはまだ永らへて悲しい後を見らるゝ思召おぼしめしか」。
気強く云つておもてそむけて秀頼公は淀殿の手をつた、ちょうを出ると秀頼きたかたも後に従つた、北のかたも後に従つた、北の方は敵方家康将軍の孫娘、秀忠御焼けの姫である。
うしろに局女房、小姓、近臣が従つた、最後に真田大助が従つた、其他五六百人は何時いつとなく散じてゐた。
天主閣には既に今木源右が焼草籠めて火をかけるばかりに用意してあつた。
大野修理が南表から駈つけて「お覚悟はようござります、味方今方いまがたいくさ盛返もりかえしえござりまする」と告げた。
「いや、いや、てきすでに二の丸に籠入こめいつてをりますぞ、盛返したとは僻目ひがめでござらう」と修理に快からぬ津川左近が云つた。
暫時しばし」と老功ろうこうの速水甲斐守が手をあげて「先陣破られても後陣の盛返すためしは毎度ある事、暫時お覚悟はお持ちあるやう」と云つた。秀頼公も頷いて天主を下つて月見の櫓に移つた、だが万一のの頼みもくうとなつた、敵精はいよいよ迫つて見下みおろせば二の丸に渦まいてゐる、西天の残日は焰焰えんえんの中にいたまし光を漂はせてゐる、櫓にも瞬く間に火がからまる、淀殿は一足先に東の櫓に移る。
幸村の陣に加はつてゐた渡辺わたなべ内蔵助くらのすけが血にまみれて秀頼公の前によろめき出た、中途ちゅうと我邸わがやしきへ立寄つて来たので左右の手には幼い子供の手をいてゐた。
「内蔵は重傷おもでにござりまする、最早お供はかなはづ、お先をつかまつりまする」。
苦しげに別れを告げて、内蔵助は子供を刺殺さしころし、おのれも十文字に腹を切つた。
秀頼公についてゐた内蔵助の母昌栄尼しょうえいにも刃に伏す、其介錯そのかいしゃくは今木源右衛門であつた。
秀頼つき老女ろうじょちゃ侍女こしもとあいは源右にすがつて手を合せた、源右は心得て二人を刺殺した。
、一人の為に皆のうなるが。不便ふびんである」と秀頼公は凝乎じっと人々の死骸を見た。
淀殿のゐる東の櫓へ移ると、こゝにも赤ずんだ黒煙くろげむりが、立浪たつなみのやうにくずつてゐた。
秀頼公は本丸朱山楼しゅざんろう下蘆田廓しもあしだくるわに火を避けた。
大助もれに従つた、大助は客将の子息、近臣でも小姓でも無い、直ちに秀頼公の側にことは出来ぬ、で彼はあいだは隔てながら影の形に従ふ如く廓に移つた、秀頼公は廓の糒倉いいくら深く移つた、大助は其出口そのでぐちに止つた。日は暮れかけた。
後れて城に入つた人が、幸村討死した、と告げた、大助は淋しくんだまま口も開かず、わらを敷いて倉中そうちゅうに坐つた、首には母から贈つて来た水晶の珠数じゅずをかけてゐた。
黄昏たそがれ樹間このまを通して彼方かなたの火の手が空に開いてゐる、火の粉は樹間じゅかん乱点らんてんする、風が熱い気を吹き送る、煙がうずまく、其間そのあいだを士卒が足疾あしばやに去りまたきたる。
奥の方から速水甲斐守が手招きをした、其傍そのそばには大野治長もゐた、毛利豊前も居た、其他勇将ゆうしょう驍士ぎょうしもゐた。
「大助殿」と甲斐は近々と顔を見て「昨日きのうは武勇の組打くみうちしてたくましう振舞ふるまはれ痛手まで負はれたとのう、――流石さすがは真田殿御子息、甲斐感服つかまつる、さてのう」。
と世にも可憐いとしげに甲斐は優しい語調であつた。
最早もはや上様御武運ごぶうんも尽きいくさも果てました、で其許そのもとも退散のされてのう、いな其許そのもと忠義上様にもう知られてある、ぢやが、旧臣譜代さへ逃走にげはしる今の折柄おりがらぢや、客分の真田殿御子息が上様御供おとも最後までさるゝに当らぬ儀ぢや、と云ふも上様始め其許そのもと武勇を惜しまれてぢや、で甲斐より人を添へて其許を真田さなだ河内かわち殿へ送らうとぞんずる」。
真田河内守は大助の叔父、今は敵方にくわわつて寄手よせての中にゐるのである。
だが大助は首を振つた。
「甲斐殿お言葉、大助身に取りいかう迷惑に存じまする、大助こゝに参りましたは父幸村申付けけ、上様ご前途せんど見届けて腹切れと申渡された故でござりまする、さなくばうに父上諸共もろとも討死しましたのぢや」ときっとした。
いな其儀そのぎぢや、真実まことは上様も、徳川殿と和平を結ばれたでな、明日あすにも上様には御出城なさる筈ぢや、で、其許そのもと一人切腹にも及ばぬ儀ぢや」。
「なれども大助も上様御出城をお見届け致しまする、其上にて大助は父上とのちかひ、冥土めいどの父に追及おいつき申しまする」。
潔く云つて元の座に返つた。
「武勇の血脈けつみゃく恐ろしきものぢや」と甲斐は感嘆した。


日は全く暮れて櫓楼ろろうを焼く火はいよいよ凄く天を焦した。
大助の傍には郎等青木あおき清左衛門せいざえもんが侍してゐた、清左は信濃の出生、幸村譜代の臣、ちから七八人をね、あしは一昼夜に三十里を往来ゆききしてつかれを覚へぬとふ勇士であつた。
幸村が慶長五年から紀州高野山に籠居した時、清左は幸村の奥方と、嬰児の大助とを預つて信州津鏡つがねの山奥に隠れてゐた。
山奥に十四年間清左は猪鹿しししかを猟して市に売り、わずかのしろを得て大助を養育してゐた、春秋二度には紀州を訪づれて幸村の安否を尋ね、大助の生長を告げもしてゐた。
大助はほとんど清左の手に育てられた。
七、八才の頃には獲物を売りにゆく清左の後をしたふてよく泣いてゐた、清左が猪鹿をげ、大助を背負ふて山谷さんこくの難所を超え五里七里の道を市に下る屡々しばしばあつた。
うして去年の慶長十九年になつて、清左は大助を連れて紀州に着き、次で幸村と共に大阪城に入つたのであつた。
主従とはへ、大助に取つて清左は父同様で、清左から見ると大助は子同様の慈愛をつてゐた、手塩にかけた十六歳の若武者を眼に入れたいほど可憐いとしむのである。
幸村が大助と別れる時、殊更ことさら清左をえらんで大助に従はせたのも其為そのためであつた。
したしい中の主従は今、静かに坐して外の火の手を見ては秀頼公の最期の時を待つてゐた、速水甲斐守は、和睦が整つたと云つた、明日にも秀頼公御出城と云つた、が、大助も清左もれを信じなかつた、いずれも今宵こよいうちに「上様御生害しょうがい」と云ふ悲しいたよりが奧から漏れる事とすいしてゐた。
奧には速水、大野や、毛利豊前、同長門などの面々がひたいあつめて密義をらしてゐるらしかつた。
「清左」と大助はひそやかに呼んだ、おぼろに奧から照るともしなかに荒木清左衛門は手をついて髯面ひげつらをさしべた。
「なう、清左、大助は若年ゆえ、父上にも最後に未練でもあつてはと思はれたであろ、其方そち附添つきそわしたのも見苦しくば刺殺せとの思召おぼしめしさうな、されば大助切腹すれば介錯は其方そちに頼まうぞ」。
「いかにも介錯は清左がつかまつる」と大助を見た、豊かなほほくれないの唇、凛々りりしい目鼻立めはなだちにおもて薄紅うすくれない生々いきいきとした若衆わかしゅの姿の、血にまみるゝ様がまざと清左の目先めさきにちらついた。
「さて、其後そののちにぢゃ、大助は其方そちに頼みたい事がある」と大助は思ひ込んだ風情であつた。
「いや、お覚悟は大慶たいけいでござりまする――が、はて、死後のお頼み?」
大儀たいぎ無心むしんじや、如何どうあらうかのう」。
「ふむ、お頼み無心、心得ませぬのう」と清左は六つかしく眉を動かして、また「ほゝう」とわらつた。
うでござつた、にもご幼少の折にはうたりいたりしてお育て申した清左ぢや、此期このごになつてお頼みとおおせらるゝからには、多分おおかた、お腹召された後々のちのちまでも、昔のやうに清左に負はれて死出しで三途さんずの道になう、とのお心ぢやな」。
いや」と大助は心苦しげにわずかにんで「いかにも大助は久しう我儘わがまま云ふて、其方そちに数々の難儀をさせた、山奥から其方に負はれて市に出た事もありと覚えてある。
されば去年のぼつて父上に会うたる折、我等われら母上の御介抱は云はねど、清左が丹誠たんせいにてう成長致しました、と申しあげた、其時そのとき父上も、幸村は父なれど夫程それほどの介抱はせず、清左が恩情は父母に勝るぞと仰せられた、其方そちに受けたる恩、百に一つもむくぬが我等は残念ぢや。
されど今は及ばぬ、其上そのうえに其方に頼みのある、我儘は許せ、我等も最早もはや其方の教へで冥途の旅の一人立ひとりだち、淋しいとは思はぬ、さて大儀の頼みほかならず、我等切腹したのちは、其方はう城を出で……」。
なんとござる」と清左はだいの目をいからして大助をにらんだ。


「清左に城をいとぢやな、御父、子の討死そとにしてこの清左何処いずこへ参ると思はるゝ、介錯の刀其儘そのままに主従のむくろ串刺くしざしぢや、死出しで山路やまじ殿とのつつき、お身様みさま御最後うと注進ちゅうしんするが清左の役ぢや、出城しゅつじょう八幡はちまんなりませぬぞ」。
「待て」。
いな、聞く耳のちませぬ」と清左はたなそこで耳をふさいだ。
「これまでぢや」と大助は清左に向つて手をついて恭々うやうやしく一礼した。
耳を塞いで、清左は不審の目をつた。
つと離れて大助は肌を脱ぐ、其手そのては早くも腰刀こしがたなにかゝつた、腹切はらきる覚悟と清左は見たので、彼はあわてゝ耳の手をはなすと其儘そのまま、大助に飛付とびついたのである。
「えい、短気も折によりまする、上様の御生害ごしょうがい見届けもせで……」。
ふとぶかい清左の腕を、大助は優しく払はうとしてはらと涙を落した。
「大助一生のおわりに大切の頼みするに、其方そちが聞くまじと耳塞みみふさぐ故ぞ、切らせい」と肩をゆすつてせき上げた。
凝乎じっと見た清左の目にも涙があつた。
「おう」とうめいて彼は四辺あたりみかへつてこみあぐる悲憤に腹を波打たせた。
「是非もない、今年まで十六年、清左お望みに背いた事は無い。今日限かぎりのお頼みなりや――」。
「聞いてるゝか」。
「お恨みが残念ぢや、おおせられい、ご切腹の後の大儀とやら、う仰せられい」。
いずれは死すべき大助である、後の事は別として、清左には清左のはらがあつた、守育もりそだてた大助の最期の不足を見るに堪へなかつた。
大助はようやく刀を収め肌を合せた。
「清左聞届ききとどけ呉れて満足ぢや」と姿を正した。
そのよろこびを見るにつけても清左はまた不安が湧く、しゅの幸村には死後しにおくれる、こゝで又大助を見殺しにして家なきいぬ同様にのそと城を出る、武士さむらいとしてれが成るかと思ふのであつた、だが、分別ぶんべつざかりの彼はれを色にも見せなかつた、「なんなりと仰せられい、清左もお身様の意地には魂負こんまけのし申したよ」と神妙に微笑ほほえんだ。
「別儀にあらず、我等われら頼みとふは母上の事ぢや」と大助は云つた。
「むゝ母様の」。
大助の母は幸村の妻で、其人は去年の秋、信州からともも連れず、女の一人旅で、狂女きょうじょていよそうて、途中の災難もきりぬけ、無事に紀州の高野山道に着いてゐた。
今は幸村の兵術の弟子、郷士ごうし大会おおえ孫四郎まごしろうの家に身を寄せてゐる、其事は去年孫四郎の消息で知れてゐたが、幸村は城中へも迎へず対面も許さなかつた、大助も父の許しがなくて一度も会はずにゐた。
大助は今、其母を思ふのであつた。
「母上はのう、女性にょしょうの事ぢや、父上も、大助も討死と聞かせたら、此世の中に最早もはや頼みもない、其時そのときこそまこと狂女きょうじょにならせられう、大助、死後の心残りはこれ一つぢや。
万一まんいち心乱こころみだれて世に彷徨さまよはせられたら、大助が母は信州より狂い住所すみかもなし、真田も死後の外聞を思はぬか、苦しき討死、不覚悟ふかくごぢや、あのていを見よ――と、世の人の口のにもかゝるであらう。
くては父上の恥辱此上このうえもない、先祖への不孝、大助死後の無念である。其方そち出城しゅつじょうを望むんも其為そのためぢや、たのむはこゝぢや、其方なにとぞして紀州に落ち、母上お供して故郷へんでれ、御一生ごいっしょうの介抱、其方の他には頼む者の無い」。
「むう」と力なく清左は首垂うなたれた。
「大助一念、今生こんじょうの頼みをさめ、清左かうぢや」。
と大助は坐を退さがつて手をついた。
勿体もったいなうござる」と清左は抱くやうに寄り添ふて大助の手を引上ひきあげた。
「しかと、しかと清左お受けを致しまする、さりとはお身様、孝と云ひ、義と云ひ、うも左程に大人びられた、お育て申した清左も面目めんぼくうれしうござる、嘻しうござりまする」。
彼は悲しさ嘻しさ取りまぜて涙にせて、其涙そのなみだの目にしみと大助を見た。
「とは云へ、左程に生れさせたを世にも立てず、十六歳の一期いちごが残念にござる、たれて呉れる人もなきか、真田大助が育てた、青木清左をめて呉れ」。
武骨の男がまた、泣いた。
しめやかな主従の物語りに夜はけわたる、廓の外は物騒がしく、物の焼くるおとくずれる響、炎のあおり、遥かにときの声もあがる近くには不穏ふおんな人のどよめきもする、糒倉いいくらの奧秀頼公の座所ざしょには人々のしわぶきの漏るゝのみ折々おりおりてゆく人は敵への使者か、其面そのおもてにはことごとく悲痛の色が深い。
五月八日のあかつきが来た、敵勢てきせい既に本丸に入つて、廓の外を馬の嘶声いななき、人の動揺どうよう甲冑かっちゅうの音が重く広くとりまいてゐた。
敵方の使者が入つて来た、味方の使者が出て行つた、使者は時々往復した。
御和睦ごわぼくか」と云ふ声がちらと聞えた、やがて奧がぞめいて、一団の女中の群が外へ出た、其中そのなかに葵の紋の打かけを深く頭におおうた女性があつた、問ふまでも無く秀頼公の北の方千姫であつた。
千姫は家康公の孫、秀忠公の愛姫、れを家康方へ渡すとなれば、或は和睦か――、との思ひが大助の胸に浮んだ。
いよいよ御和睦か、此期このごおいて何故の和睦」と大助は思つた、清左もおもいは同じであつた、主従は黙して顔を見合せた。
時は経つた、使者は又往復した、何事かの起る前の様に不安な気が倉内そうないに満つ。
と、にわかに表がさわがしく、おどろかいがする、銃声じゅうせい二度三度して弾丸の一つは倉内を貫いた、奥に絶望の唸きが起つた。
「御和睦やぶれたり」。
声なき声が大助の胸に響いた、大助は莞爾にっこりとしてわらの上に押直つた、清左は奥をかして膝を立てた。
奧から速水甲斐が出て大助を招いた。
此時このとき、奧では焼草を積んで生残つた人々が秀頼公の前に居並んでゐた、主従男女、大助までも加へてわずかに三十六人であつた。
秀頼公はつくと人々を見た。「予は太閤の子、天下を知るべき身であつた、今は天運きわまつて昨日きのうまでは十万の大将たりし今身いまみに添ふはこればかりの人となつたよ」。
凝乎じっ一人ひとり一人ひとりに声をかけた。
修理しゅりは予の介錯、豊前はおさなき者、女共の介錯せい」。
最後にう云つた、太閤より譲られ薬研藤四郎やけんとうしろうの刀を腹に突立つったてた、年二十三才、修理がうちろまわつて介錯する。
淀殿は物狂はしく悲運をのろふたがやがて同じく修理の手に介錯された、次々に割腹のむくろが並んで女房衆では大蔵卿局おおくらきょうのつぼね饗場局あえばのつぼね宮内卿局くないきょうのつぼね、おあいの方、右京太夫うきょうだいふ、おたまなどが無惨の枕を並べる、小姓衆の中には大助がまじつて腹を切つた、介錯は毛利豊前守勝永であつた。
青木清左衛門は大助の一瞥いちべつを最後の名残としてあふるゝ涙をこぶしに払つて、大野修理から敵方へ送る使つかいの中にまじつた、あがる廓をあとに城を去つたのであつた。
 

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