相沢事件第1審判決文
判決
宮城県仙台市東六番町一番地
士族戸主
台湾歩兵第一連隊 (原所属)
予備役陸軍歩兵中佐従五位勲四等 相沢三郎
明治二十二年九月九日生
右の者に対する用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に付、当軍法会議は検察官陸軍法務官
主文
被告人を死刑に処す。
押収に係る軍刀一振 (証第一号) は之を没収す。
理由
被告人は明治三十六年九月仙台陸軍地方幼年学校に入校し、逐次陸軍中央幼年学校、陸軍十官学校の課程を終え、同四十三年十二月陸軍歩兵少尉に任ぜられ、爾来各地に勤務し累進して、昭和八年八月陸軍歩兵中佐に進級と同時に歩兵第四十一連隊付に、越えて同十年八月一日台湾歩兵第一連隊付に補せられ未だ赴任するに至らずして同月二十三日待命仰付けられ、
同九年三月当時陸軍少将永田鉄山の陸軍省軍務局長に就任後、前記同志の言説等に依り同局長を以て其の職務上の地位を利用し名を軍の統制に
翌十二日朝西田方を
尚前記の如く永田局長の背部に第一刀を加えんとしたる際、前示新見大佐が之を阻止せんとし被告人の腰部に抱き付かんとしたるより、右第一刀を以て永田局長の背部を斬ると同時に新見大佐の上官たることを認識せずして同大佐の左上膊部に斬付け因て同部に長さ約十五糎幅約四糎深さ骨に達する切創を負わしめたるものなり。
証拠を按ずるに判示事実は
一 被告人の当公廷に於ける判示被告人の経歴より愈々陸軍省軍務局長永田鉄山殺害の最後の決意を固むるに至る迄の事実に付、判示同趣旨の供述、
一 被告人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分は予てより永田少将が軍務局長たる事は陸軍を毒するものと信じたる為七月十九日辞職を勧告したるが之に応ずる色なく、次で同月下旬粛軍に関する意見書を取上げ村中、磯部を免官せしむる話等を聞き益々永田局長が陸軍を攪乱するものと認め彼を斥ける為には殺害せねばならぬかと思い居たる矢先、八月一日台湾へ転任の事を知り赴任の上は容易に上京の機会を得難く赴任前に決行しなければならぬと考え、同局長殺害の為特に軍刀を佩び八月十日福山を出発し十一日品川駅著同夜西田税方に赴き一泊したり、西田方へ行けば何か変った話があるかも知れぬ故万一血を見ずに納まれば之に越したことはないと思い一屢〔ママ〕の望みを期待して西田の家へ行きたるに大蔵[栄一]大尉が来合せ、西田や大蔵の話に依り此の現時の憂うべき大勢を覆す様な計画はやつて居らぬから此の現状は継続すると考え、之は如何しても血を
翌日西田方を出て陸軍省に行き山岡整備局長に転任の挨拶を為し夫れより其の部屋を出て永田局長の部屋に行きたり、其の際の服装は軍服に軍刀を吊り永田局長の部屋に
一 被告人に対する予審第七回訊問調書中同人の供述として、自分は軍閥重臣閥の大逆不逞と題する文書、教育総監更迭の事情と題する文書及八月二日小川[三郎]大尉から受取りたる粛軍に関する意見書を読み、永田局長が国体原理に基き皇軍を指導統制し皇基を
一 被告人に対する予審第十一回訊問調書中同人の供述として、村中の作成したる教育総監更迭事情要点と題する文書や出所不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する文書中に、真崎教育総監の更迭は統帥権干犯なりと書き在るを見て自分も同感したるが其の外に深き根拠なし、尚右文言に書き在る如く永田局長が総監罷免を大臣に進言したる事は事実ならんと推測したるものにして、之と云う確証は持ち居らざる旨の記載、
一 証人西田税に対する予審第一回訊問調書中同人の供述として、昭和十年八月十一日夜相沢三郎は自分方へ訪ね来り宿泊し翌朝食事を共にしたる後出発されたるが、前夜相沢が来訪後大蔵大尉が自分方へ訪ね来りたる旨の記載、
一 同証人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分は相沢より東京の情勢如何と尋ねられた様に思う、之に対し自分は其の後変化なしと云う様な意味を簡単に答えたと思う旨の記載、
一 同証人に対する予審第三回訊問調書中同人の供述として、相沢中佐を知ってより相当の年月を経其の間会いたる回数も相当多き為何時如何なる話を為したるや一々記憶せざれども、永き間に自分の永田に対する認識即永田は我々の国家改造の理想実現を阻害する一人なりと云う事を断片的に話したかと思う、七月中旬頃に相沢中佐は自分方へ参り一泊したることあり、其の夜大蔵が来る様に記憶す、当夜教育総監更迭のありたる直後なりしを以て其れに付ての話も出た様にも思う、尚相沢中佐より永田局長を訪ね行つたとか云う事を聞きたる旨の記載、
一 被告人の当公廷に於ける八月十一日夜西田税方に於て愈々永田局長殺害の最後の決心を致し、翌十二日午前九時過頃西田方を立出で同九時半頃陸軍省に参り
自分が永田局長を斬る際同所に居合せたる来客の軍人は東京憲兵隊長新見大佐にして自分の為に負傷したることを後に知りたるが当時同大佐なることを知らず、自分は先きに述べたる如く永田局長が来訪中の軍人の所に遁れ其の軍人と一緒になったとき同局長の背部に一刀を加え斬付けたるものなれば、其の一刀に依り永田局長を斬り次で其の来客の軍人新見大佐の左腕を斬ったものと認むる旨の供述、
一 被告人に対する予審第六回訊問調書中同人の供述として、自分は局長室に這入て行きたる当時は永田局長を一刀両断の下に殺害し得るものと思い居り彼の様に同同長を追詰める様な場面を生ずるとは思い居らざりし為、他の人に危害を加える事になると云う事は当時思わざりしが、今より考うると若し自分の目的を邪魔する者あれば当然その者を斬っても目的を達する事に努めたと思う故、当時同室の一軍人が自分を抑止した事が事実なれば自分は其の邪魔を除く為に斬払ったものと思う、八月十二日麴町憲兵分隊に於て分隊長より新見大佐が負傷し居ると云う事を聞き自分が斬ったものと思いたる皆の記載、
一 証人新見英夫に対する予審第一回訊問調書中同人の供述として、自分は昭和十年八月十二日永田軍務局長に報告の為陸軍省に到り同局長室に行きたるは午前九時過頃と思う、自分は報告準備等を為し居りたる際歩兵の襟章を付けたる軍服の一軍人が抜刀を大上段に構え局長と腰掛の処にて向い合い、局長は確か手を挙げ防ぐ形を為し居るを見、其の犯人を取押えんと机の左側迄行きたるとき局長は自分の方に危難を避け来り、犯人も局長の後より迫り来りたれば自分は犯人の腰部に抱き付き局長を背後より斬らんとするを抑止したるに振払われて倒れ、更に起上つて犯人を追わんとしたるも其の際左手を切られ居ることを知り追跡出来ざりき、尚自分は犯人より振払われるや犯人が局長を軍事課長室に通ずるドアの処に追詰めたるを見たるが、其の後の状況に付ては記憶なき旨の記載、
一 同証人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分が起上らんとする際左腕に痛みを感じ犯人に斬られたることを知りたり、犯人の相沢三郎なることを知りたるは負傷の翌日なりしと思う旨の記載、
一 証人出月三郎に対する予審訊問調書中同人の供述として、自分は昭和十年八月十二日東京憲兵隊長新見英夫大佐の左腕の負傷を診察したるが、
一 昭和十年八月十二日付陸軍一等軍医正竹内釼の作成に係る死体検案書中判示永田鉄山の創傷の部位程度に照応する記載、
一 同日付同軍医正の作成に係る死亡診断書中永田鉄山は昭和十年八月十二日午前十一時三十分陸軍省軍務局長室に於て刀創に因る脱血に依り死亡したる旨の記載、
一 同日付陸軍一等軍医出月三郎の作成に係る診断書中判示新見英夫の創傷の部位程度に照応する記載、
一 押収に係る軍刀一振 (証第一号) の存在
を総合
依て判示事実は其の証明ありたるものとす。
法律に照すに、被告人の判示
昭和十一年五月七日
〔第一師団軍法会議〕
裁判長 判士 陸軍少将 内藤 正一
裁判官 陸軍法務官 杉原 瑝太郎
裁判官 判士 陸軍歩兵大佐 木村 民蔵
〃〔裁判官判士陸軍〕 輜重兵大佐 立石 益太
〃〔裁判官判士陸軍〕 歩兵中佐 若松 平治
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