異本小田原記

 
 
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解題
 
 
異本小田原記 五巻
 
本書は小田原北条の祖先伊勢平氏の由来より筆を起し、北条早雲伊豆に崛起し、追日勢力を得、子の氏綱父に継ぎて更に近国を従へ、古河公方晴氏を将とし之を戴き、関東諸国を号令し、益其の領土を拡張し、遂には晴氏の命を用ひず、また小弓御所義明も討滅しぬ。此の時に当り氏康は、由井浜に八幡宮の大鳥居を建立し、乱世中無双の大法会を行ひ、人の耳目を驚かし、関東の武士皆靡かざるものなオープンアクセス NDLJP:10きに至れり。然れども此の間に於ける大小の合戦は諸所に継続し氏政に至る。豊臣秀吉天下を掌握し、其の命を奉ぜざるものなきに、独り北条氏小田原城に拠り、天下の軍勢を引受け、遂に天正十八年滅亡に筆を止めたり。

本書作者不詳なり。亡父真頼記して曰く、「此の書は天正十八年までにて書き止めてあり。記者詳ならず。一部の上にて考ふるに、天正十八年頃の作なり。さるは文章の書きざま、其の頃の趣見ゆればなり」と、按ずるに本文中往々方言を交へたる所ありて、其の意解し難きものあり。されば小田原記落城後、北条氏の遺臣などの記せしものにやあらん。猶能く考ふべし。

此の他別に小田原記と称するものあり。同名異本なれば掲げて参考に供すべし。予が蔵本に左の一本あり。

一、小田原記  写本五巻

本書作者不詳なり。最初巻一の書出しに、「仁王五十六代の帝清和天皇第六皇子貞純親王」云々と筆を起し、巻五の末に「箕輪城軍の事」とあるに筆を止めたり。此の本調査するに群書類従巻三百八十四に収めたる相州兵乱記と同一の本なり。相州兵乱記一名関東兵乱記といひ、四巻本なり。今小田原記と比較するに、小田原記は事蹟多く、相州兵乱記は事蹟を省略したり。又同一の文章と雖、大同小異の差あり。亡父真頼、相州兵乱記に記して曰く、「相州兵乱記は慶長已後、徳川氏の執政の世の中となりて後、編集せしものなるべし。その故は下巻三十二丁の左のひらに、私に云、此人の建立ありし寺、武州江戸神田の浄心寺とて、今にあり。彼尼公の木像もありしとなりと見えたり。そのかきざま江戸の賑ひてよりの後のものなることいちじるし」。

又云、「此の書小田原記と題せるあり。相州兵乱記と大同小異なり。太田道灌が江戸城の事なども見えたり」。以て本書の時代を知るべし。

本書は前にも記したる如く、作者不詳なればも、相州兵乱記には作者の序文を掲げ、作者は元北条家の遺臣なることを明記し、先親が北条家五代間の合戦の勝劣を記し置きしを重撰して、相州兵乱記と名づけたることを記したり。然れオープンアクセス NDLJP:11ども序文には憚る所ありしか、名を掲げず。按ずるに前条に記せし如く、小田原記五巻本は、相州兵乱記よりも事蹟多く掲げたれば、此の本恐らくは相州兵乱記の原本歟。序文にも「彼の日記大綱を抜きて、己に加へて重撰して」云々と記せればなり。記して後の考を竢つ。

また国書解題にも、小田原記の種類を左の通り掲げたり。

一、小田原記  写本九巻

解題に云、小田原北条五代の記にして、早雲より氏直自殺の事に至るまでの事蹟を記す。奥書に右之一部文禄二年(二二五三)九月相州小田原にて誌之于時二十五歳也とあれど姓名を記さず。もと北条家に仕へたるものなるべし。

一、小田原記  写本一巻

解題に云、北条与関白不快之事(中略)高見原合戦之事等を記す。

一、小田原記  写本十巻  横井宗可

解題に云、天文以後文禄年間に及ぶ。小田原北条五代間の盛衰汚隆を実録したるものなり。末に北条五代間の年代及び系図あり(中略)自序あり、此の時七十歳にて之を綴れりといふ。

以上列記せし小田原記と、今回玆に採収せし小田原記とは、全く別本にして而も天正時代の作と考ふれば、異本小田原記と題し、世に紹介する事としたるなり。但本書類本なければ。本のまゝにしたるも多く、闕字の場合も補ふこと能はず、観覧の諸士これを諒せよ。

 

  大正三年四月 黑川眞道 識

 
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例言
 

、「異本小田原記」は原本片仮名なるも、本編には悉く平仮名に改めたり。

本書は他に類本なきを以て、讎校対索の途なく、校訂上の困難実に容易ならざるものありしも、僅に原本欠字の場合に□を箝し或は何字欠損とし、其他読み難き個所若しくは識者の後考に竢つべきものに限り、其左側に縦線を施して之を明かにしたるの外、校訂の結果全く読誦の晦渋を避け得たりしと信ず。

 
 
目次
 
 
伊勢平民の由来応仁の乱伊勢新九郎駿河に下る伊勢新九郎北条を継ぐ北条早雲茶々丸を討つ上杉定政死去三浦時高同義同合戦北条早雲小田原城を奪ふ北条早雲三浦義同合戦三浦義同義意等戦死北条早雲死去浅草観音縁起北条早雲上杉朝興合戦上杉憲房死去里見義弘鎌倉へ押寄す北条氏康上杉朝興合戦朝興敗軍上杉朝興死去北条氏綱上杉朝定を攻む北条氏綱足利義明合戦足利基頼戦死足利義明戦死北条氏綱死去
 
北条氏康上杉憲政を敗る武田晴信上杉憲政を敗る上杉憲政長尾景虎に頼る北条氏康武田晴信合戦武田・今川・北条和睦足利晴氏幽閉せらる上杉景虎管領となる上杉景虎の驍勇上杉景虎鶴岡八幡宮参詣上杉景虎上洛河中島合戦北条氏政松山の城を攻む上杉憲勝降る北条氏康鵠台を陥る坂東の八平氏
 
上杉謙信臼井城を攻む武田信玄北条氏康合戦徳川家康武田信玄合戦三増峠合戦北条氏康死去御方が原合戦武田信玄死去上杉謙信死去
 
武田勝頼天目山に逃る武田勝頼自尽織田信長信忠弑せらる滝川一益北条氏邦合戦滝川一益敗軍明智光秀討たる徳川家康北条氏直対陣徳川家康北条氏直和睦長久手の合戦
 
豊臣秀吉小田原へ進軍韮山城合戦北条氏勝敗走秀吉小田原城を囲む八王子の城陥る佐野の城陥る北条氏勝降る豊臣・北条和睦成る北条氏政氏輝自殺北条亡ぶ

 
 
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異本小田原記 巻之一
 
 
伊勢平氏由来の事
 
桓武天王第五王子一品高明親王を、葛原と号す。彼親王に二人御子あり。兄高棟王の子孫平氏、今の西洞院流是なり。弟高見王の子息上総介高望の子孫平家、武家に下り、清盛公の一門是なり。然るに清盛公悪逆故、寿永・元暦に一門悉く滅び、平氏は永く絶えたりしに、伊勢平民の由来清盛より五代先に、従四位下越前守正慶の子に、右京亮季衡といふ人あり。其人の子七人あり、一男を右京進盛光といふ。其子右衛門尉盛行、平家歿家の頃病気にて、西国下向の頃都に留り、程なく逝去。子息盛長并摂津守恒平等、頼朝へ召出され、文治五年奥州へ御下向の御供申し忠功を抽んづ。其後都へ上り、院参して従四位下兵庫助に任ず。以来本国なれば、伊勢国に居住、関東へも出仕しける。其より三代目伊勢守俊継の代、正応二年の春、豊前守に任じて中国に下りし時、初めて伊勢を名字とし、伊勢豊前守と号す。其後関東へ下向して、射礼弓馬の式法仰付けらるゝ時、又伊勢守に任ず。其時伊勢の伊勢守と号す。其子盛継は、足利殿縁者なりしかば、元弘の頃、尊氏将軍上洛の時、御供申し上洛ある。此人、天性細工の妙匠を得たり。上総国の住人大坪道禅といふ人、鞍を作り鐙を打つ。恰も天工を得たり。時の人、馬の再来かといふ。彼道禅普く諸国を廻り、弟子を尋ねる。此伊勢守にまさる人なしとて、鞍・鐙の大事の妙工を、悉く相伝す。扨こそ伊勢守の家に、此細工を専とす。此人、尊氏の御息達初め皆早世の後、誕生の時、蟇目の役を相勤められてより後、御子息達繁昌ありしとて、御名を付け、仮の父と仰せられ、代々公方、彼例に任せ、御子誕生の時、必ず御名をば、伊勢守家より名付け申す。盛継の子息伊勢肥前守盛経、元弘合戦に、手越河原にて討死しければ、其弟勘解由左衛門、彼忠功にて伊勢守に任じて、宝岳院殿の近習奉行引付の頭人なり。後には執事の代を相勤む。法名昭禅、彼道禅の一弟子にて、作の鞍の元祖なり。是より代々、公方の仮の御オープンアクセス NDLJP:168父、名付の父母として、伊勢守、管領にも相劣らず、出頭し奉る。然るに尊氏将軍より八代過ぎ、慈照院東山殿と申す公方の御時、今出河殿、御猶子の契約ありし頃。君の一子出来給ひ、是を取立て申され、公方相続の旨、山名殿に仰付けらる。今出川殿方の大名と、大に異論出来て、天下の乱れける。応仁の乱是を応仁の乱と申す。其頃伊勢守貞親、公方の御幼少の時養君なりしかば、管領四職を差越え、万事政道を取行ふ。貞親の弟伊勢備中守貞勝、彼乱の時、山名入道と深き知音なりしかば、細川右京大夫、公方へさゝへ申しければ、御所の御勘を蒙り、窃に花の御所を忍び出で。伊勢国に下向し、今出川殿、北畠の国司を御憑みありて、御下向ありし処に、上野・一色・佐々木の大原・荒尾・三山宮・斎藤以上十人下向あり、三年ありしとかや。此時貞勝の子息新九郎氏長、備中国より伊勢へ参られ、今出川殿へ見参ありしかども、御旅亭の事なれば、さのみいつまであるべき。関東伊豆国には一門もあり、其上公方の政智御坐します。其上駿河国守護人今川上野介義忠は、父備中守の聟にて、新九郎には姉聟にて御坐すかた、たよりあり、弓矢修行に下らんと思ひ立ちて、伊勢太神宮へ参宮ありて、行未の弓矢の名誉と冥加を祈念し給へば、不思儀の霊夢を蒙り、一の神符を求めける。諸願忽成就して、子孫繁昌疑ひなしと悦び、何れも語らひ寄りける。牢人荒木・山中・多目・荒河・佐竹・大道寺・伊勢新九郎七人は、何れも劣らぬ勇士の、弓馬合戦の達者なり。太神宮の御前に参り、七人神水を呑み誓ひけるは、侍の習立身して、知国挙名事あらんには、残る七人、何れも家人となり、力を合すべし。少も変佞の心あるまじ。皆々立身せんと思はゞ、他国にて卒爾に人に随ふまじ。其中仕合よきを主と頼み、何も親しく取立つべしとて、応仁三〈己丑〉年二月伊勢を立ちて、先尾張の国に暫く留りける。京にも其頃戦あり、尾張衆も皆京に登り、さしたる合戦もなければ、爰にて武勇の名を挙げんも、さのみ不有と、伊勢新九郎駿河に下る駿河国に下り、今川殿の妾人おもひもの北河殿と申す御方は、新九郡姉君にて御坐す。彼御子に、龍王殿は甥なれば、是へ官仕ありし。暫く駿河に御坐し、残る六人も、先づ牢人の体にて、駿河国に住してけり。其頃文明十一年の頃、京合戦和談になり、山名殿は公方へ降参なされ、山名方の敗軍共、国々へ下り、猶々己が本意を達せんとて、国々へ下り、公方の御下知をも用ひず、遠オープンアクセス NDLJP:169州の住人横地・勝間田等京より逃下り、遠州にて逆心して、己が領地を相す。近辺を押領し、公方の御下知に随はず。遠州は今川の分国なりしかば、義忠自ら軍勢引率して、悉く退治ある。横地・勝間田方々敗軍ありしが、彼悪党猶留り、義忠御帰陣の時、遠州塩見坂にて、義忠矢に当り、御討死なり。御供の軍勢馳付け、悪党残らず討取りける。然るに駿河国にて、今川家老臣三浦二郎左衛門・朝比奈又太郎・丸島上総守・同土佐守等乱を起す。依之家中二つになりて合戦す。義忠の御前北河殿并御息龍王丸をば、御姉聟の三条殿、其頃駿河御下向ありしかば、御同道ありて、山西へ窃に隠し申す。扨駿河は大に乱れ、已に合戦に及びしかども、両方に大将もなく、贔屓贔屓に馳付きけり。諸軍呆れて見えける程に、新郎扱を入れ、両方を和談あらば、大将龍王殿を出し申すべきと、斯くて色々扱ひ給ふ程に、家老の衆和談あり、龍王殿は、山西の小河法栄が本より、府中の御館へ帰り給ふ。即ち御元服ありて氏親と号す。七歳になり給ひしかども、警常十二三差にも越えて、利根の髫髪うなゐなり。家老共悦ぶ事限りなし。新九郎此時の忠功比類なしとて、氏親より、駿河国高国寺の城を下さる。下方在・依田・橋原・柏原・吉原を知行す。早右の六人を与力とし、今川殿の先をかけ給ふ。依之今に於て駿河吉原の池にへの川端に、早雲公を神に祭りてこれありとなり。于時天正十年午の年まで、此宮あり。予参詣す。所の人はらはし神と申すなり。
 
早雲韮山に移る事
 
関東公方成氏は、上杉憲忠を誅せられて後、上杉顕定・持朝・定政父子・長尾入道等に打負け、去る長禄元町年、鎌倉を追落され、下総国古河の県に落ち給ふ。鎌倉に御所なくて叶ふまじとて、東山殿御弟香巌院と申して、天龍寺の僧にて御坐すを、廿九歳にて還俗、政智と号し、左馬頭に任じ、同年の十二年十九日関東へ下さる。然れども関東久しく古河殿の下知に随ひ、其恵を慕ひければ、諸人古河殿を一度鎌倉へ入るゝ事をのみ願ひ、政智を鎌倉へ入れ奉らんとは申さず。依之上杉管領の分国伊豆の北条に御所を立て、左兵衛督殿と申し、後には氏満と改名あり、堀越の御所とも申す。オープンアクセス NDLJP:170伊豆の侍、悉く彼の御下知を仰ぐ。其頃新九郎早雲は、高国寺の城にありしが、伊豆国の北条は、新九郎母方の伯父なり。伊勢新九郎北条を継ぐ北条殿病死して子なかりしかば、彼一門桑原平内左衛門・田中内膳、堀越殿へ申上げ、新九郎を北条の遺跡にと望み申す間、氏満の下知として、長亨二〈戊申〉年十月、韮山の城に移り、北条の跡を継ぐ。即北条後家に女子一人あり。新九郎は、京都小笠原備前守が聟なりしが、妻女は早世しければ、彼後家を、氏満の下知にて、新九郎に給はり、女を、子息氏綱にも給はりける。扨こそ伊勢を改名して、北条氏綱と号しける。其時早雲と一同に下りし六人の侍、并遠江国の住人笠原といふ侍、合せて七人、皆早雲の与力の侍となり、韮山城に集りける。天性福者にておはしければ、土民百姓まで恵み給へば、諸人万民おしなべて、此人をと馳走申す事限なし。然るに氏満の御所に御子二人あり。兄をば茶々丸殿と申して別腹なり。弟をば御小児とて当腹なり。兄茶々丸殿は勝れたる上戸にて、酒狂の不行器ありしかば、継母、父へさゝへ申し、二男の若子を、家督にせんと思召し、色々讒言ありしを実と思ひ、狂人と号し、茶々丸を籠へ入れ申されける。是を能く知りたる御内衆かはみ申して、御膳を参らする次に、小刀を一本忍びやかに参らせけるを、茶々丸殿、籠の番衆の寝入りたる間に、小刀を以て番衆を刺殺し、番衆の太刀を取りて籠より出で、御所へ押込み、継母を生害し奉り、其外日頃若君を讒言申す人々を討ち給ふ。其時二男の小児は、母の討たれ給ふ事を聞き、悲み思召し遁世あり、駿河国まで落行き給ふを、今河殿愍れみ給ひ、京都へ送り奉る。京公方御養子になされ御出家にて、天龍寺の香巌院に入れ給ふが、此人如何なる果報にや、後に還俗ありて、京公方となり、天下の将軍になり給ふ。法住院義澄是なり。扨又伊豆にては、茶茶丸殿と父氏満合戦ありしかば、不慮の事なれば、氏満の侍方々に分散して、夢にも是を知らず。延徳三〈辛亥〉年四月三日五十七歳にて、子息茶々丸が為に自害し給ふ。新九郎韮山より馳せ参りしかども、早自害し給ひ、力なく御死骸を葬礼の為に、三島の宝苗院へ送り奉り、御教養懇に営み、勝童院殿九山公と号し奉る。其後御所の侍方々より集り、北条早雲茶々丸を討つ早雲を大将として、茶々丸殿を攻め奉る。茶々丸殿若き大将なれば、一たまりもたまらず、願成就院へ馳入り、無力自害し給へば、伊豆の侍共悉く馳オープンアクセス NDLJP:171付き、早雲庵の手に随はずといふ事なし。本より土民百姓、皆以て早雲を願ひける間、不残御所の跡を押領す。其時茶々丸殿の侍戸山といふ者、早雲の野宿して御坐せし御堂へ忍入りて、火を懸け夜討しける。運の極めにや、早雲もいたく寝入り給ふ。御枕の上まで火掩ひけるに、笠原走り来り、手にて火を搔除け、早雲を助け奉りける。されども左の手を焼き給ふ。指も皆焼落ち生薑はじかみの如くなりしとかや。扨夜討の敵も皆逃落ち、或は討取られけり。依之伊豆国にて、生薑をはじかみといふ事なし。早雲に恐れて、せうがとばかり申す。其頃如何なる者かしたりけん、早雲の門に落書を立てけり。

   草の名も所によりて替りけり伊豆の生薑は伊勢のはじかみ

本名伊勢氏なれば、かくいひける。去程に頓て狩野介を攻め給ふ。狩野介は、伊東が聟なりしかば、弟の円覚といふ法華の僧を大将として加勢をなす。早雲へは、今川殿より加勢として、葛山備中守を大将とし、岩本以下馳向ふ。狩野介討負け、名越の国清寺にて自害しければ、伊豆国に名ある侍悉く馳着きける。就中伊豆の中には、松下は三浦の住人、江梨よりは鈴木・井田・富永・田子の山本などいふ人々、皆早雲下知に随ひける。其威勢、猶遠近に掩ひける程に、軍勢は自ら招かざるに集り、攻めざるに順ひ着く事、唯吹く風の、草木を靡かすに異ならず。

 
三浦介滅亡の事
 
上杉定政死去去明応三年十月五日、上杉定政重病に臥し、終に空しくなり給ふ。此人文武の達人にて、上杉棟梁なれば、諸人仰ぎ奉りしに、世を早くし給ひしより、弥上杉滅亡の時已に至りぬと、歎かぬ人もなかりけり。山の内方の人々、殊に何の分も知らぬ由なり。扇谷殿滅亡こそ、当方の悦びなれ。朝良若輩なれば、関東をば一族に、山内より御下知あらんこそ、目出度けれと申しける。亦其頃三浦介時高と、子息新介義同と、不和の合戦あり。父時高忽に討たれにけり。其故如何にと問へば、先年永享の乱に、時高公方持氏を威し申し、其軍忠他に異なりと忠賞ありし程に、富貴日頃に越えたり。然れども男子なくて、已に三浦の家絶えなんとす。依之一門なればとオープンアクセス NDLJP:172て、上杉修理亮高救の子を養子にして、義同と名付け一跡を与へんとす。彼義同器量双びなく、才覚人に越えければ、郎等共を初め三浦の一門、是をもてなしける所に、時高晩年に及んで、実子一人出来す。時高夫婦大に喜び、是を養ひ立て家督を継がせ、猶子新介義同を追出さばやと思ひければ、折に触れて面目なくあたりけれども、義同は少しも色に出さず、弥孝行をなし、おとなしやかに振舞ひける。家老面面、此条不可然と、時高を諫めしかども、用ひずして、後には近辺に召仕ふ侍に申付け、義同を討つべき由下知しければ、義同述懐して、髪鬢を切つて三浦を忍び出で、相州西郡諏訪原摠世寺といふ会下寺へ引籠りて、会下僧の姿になりにける。依之三浦の一門被官の輩、心あるは、時高の作法、義を背けりと爪弾をして、多く以て三浦を退き、義同入道の跡を尋ねて、摠世寺へこそ籠りける。去程に義同が勢、程なく大勢になると聞えければ、義同の実母は、大森実頼の女にて、小田原の大森式部大輔とも箱根別当とも、親しき一門なれば、此人々より、加勢合力ありしかば、義同威勢を振ひ、三浦へ取て返し、三浦時高同義同合戦父時高が籠りける新井の城へ押寄せ、明応九年九月廿三日、夜討にこそしたりける。城中には敵寄すべしとは思もかけず、油断して居たりければ、寄手案内なれば安々と乱れ入りて、鬨の声を上げける程に、こは如何にと周章す。中村民部少輔とて、相模国梅沢の住人ありしが、走り廻りて是を見て、こは如何に、父に向つて弓を引くは、八逆の罪人ぞや。汝等が武運頓て尽くべしと罵り、切て出でて討死す。其間に三浦介一族若党、皆自害して滅びにけり。此時高、主君を傾け奉り、其忠賞に誇りしかども、彼御罰あたり、我が子に討たれて亡びける。されば昔より今に至るまで、主に対して不義ありし者、必ず滅ぶる事疑ひなし。唐の安禄山が、主君玄宗皇帝を傾け、養母揚貴妃を害し、天下を奪ひしかども、己が子の安慶緒に失はれけり。安慶緒も其報ありて、吏明虎に討たれて、程なく禄山が跡絶えたり。されば、今の新介義同も、行末如何あらんと、皆人申沙汰しけるに、果して滅び失せにけり。
 
三島参籠霊夢の事
 
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宗瑞庵主、家老共に語り給ふ。昔は源平左右に相双びて、朝家の御守たり。世を治め国を鎮む。保元・平治の頃源氏衰へ、平氏世を保ち繁昌す。治承・養和に源氏起りて、寿永・元暦に平氏悉く滅びて、源氏又世を治めて、三代の後は、又北条、平氏として世を知す。是九代にして滅びぬ。尊氏源氏にて世を保ち、京鎌倉の両公方にてありしかども、持氏卿失せ給ひぬ。今堀越殿源氏にて、是れ又滅び畢ぬ。源氏の人々流竄して、滅すべき時節到来す。陰尽き陽来る事珍しからず。今の管領上杉両家、藤原家なれば、世を治る事相応なし。我等は平氏なれば、源氏の尽きぬるころほひ、必ず世を保つべき時至る。如何にもして両上杉を討亡し、国を保つべきとぞほのめかれければ、六人の人々、可然御計ひかなと賀し申されける。頓て三島の大明神へ参籠ありて、様々の御立願あり、殊更七代までは、北条を継ぎて、関東より権を執らばやと信心不二にぞ祈りける。〈私に云、早雲の内室北条時政の末葉の姫なれば、かく云々。〉 抑彼三島大明神と申すは、御本社は四国伊予国に御鎮座あり。人王第七の御帝孝霊天皇と申すは、忝も彼御神の化身なり。本地大通智勝仏にて御坐す。依之彼御神の氏人、伊予の河野の一門、今に至るまで、大通の通の字を名乗りける。越智の姓是なり。備中国吉津宮・讃岐国一の宮も、彼神の御子なり。当社も亦其神の御子とかや。衆生済度の為に舟にめされて、四国より遥々と、此地へ御垂跡ありしとかや。是は本地東方の薬師仏にて御坐す。霊神の利生まちにして、効験あらたなる神徳なり。早雲深く此神に祈誓ましましけるが、祈願忽に成就すべき、其瑞相にやありけん、其次年正月二日の夜、あらたなる夢の告あり。たとへば大きに平なる原中に、大杉二本ありしを、鼠一疋来りて、根よりそろと喰折りぬ。其後彼鼠、虎となりてけると見て、夢は即ち覚めにける。早雲此夢を自判して云く、関東は是れ両上杉の国なり。二本の杉、即両上杉なるべし。我は子の年にて、上杉を亡すべき者なれば、頓て喰折りぬべし。是れ即関東を亡し、子孫永代、東国の主たるべき瑞夢なりと大に悦び、種々の捧物を奉り、弥上杉対治の謀をぞ廻らしける。

 
小田原軍の事大森敗北の沙汰
 
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相模国住人大森式部少輔入道、寄柄庵主といふ者あり。人臣の祖天児屋根命の御末、中関白道陸公の胤孫なり。文武智謀人に勝れ、弓は養由が跡を継ぎ、打物は張良に耻ぢず。されば四十年の乱中にも、彼入道父子、扇谷殿の御家風にて、敵を破り強陣を退くる事、呉子孫子が秘する所を得たり、然る間遠近其威に服す。今東国の勢多く以て扇谷を背けども、大森父子兄弟相州に居住して、威盛に家富み栄え兵も多ければ、山内殿も家老等も、彼に背かれん事を愁へて、交り深くし近付きける。就中式部入道、小田原の城を取立て伊豆・相模の軍兵を催し、扇谷殿の御方をしければ、近辺の軍勢、皆彼下知にぞ随ひける。去程に伊豆国には、早雲庵宗瑞、家老共を集めて語り給ひしは、偖世間の様体を見るに、上杉の両家不和にして、自滅の合戦あり。然れども彼両家、何れも大身なれば、亡ぶる間久しかるべし。鷸蚌相挟則鳥乗其弊といへり。其弊に乗り、上杉家を亡すべき事を案ずるに、大森寄柄庵入道、小田原に在りて、如何にも叶ひ難し。然れども箱根山をだに取りなば、小田原を亡すべき謀少し。先づ大森と和睦して、交りを深くし、たばかりて討つべしと思ふは如何にとありしかば、家老の面々、皆可然とぞ感じける。頓て大森方へ使者を立て、種種の送物、数を尽しけれども、大森入道約諾して、和を請ふ者謀ありといふ事ありとて、打解くる事なし。互に使者のみにて、さのみ入魂し給はず。然れども数年の後に、明応三年八月廿六日、大森入道寄柄庵逝去ある。子息信濃守藤頼の代になりて、頻に早雲親み通ひければ、後にはやゝ打解けて、折節の会交ありければ、弥深くぞ語らひける。或時新九郎入道宗瑞、小田原へ使者を立てゝ申しけるは、此の間当国の山どもにて、多日鹿狩仕候故に、他山の鹿箱根山へ集まると見え候間、此方の勢子を入れて、御分国の方より入れて、鹿を此方へ押して追入れ度存ずるといへども、貴国の方へ、人衆を廻し候はん事、如何恐入候。枉げて御免を蒙らばやと申しけるに、大森信濃守若輩故に、運尽き果てけるにや、斯る謀とは知らずして、安き御事なりと免しける。早雲大に喜び、武勇かしこき若者共を数百人勝り、足軽の勢子になし、物慣れたる手垂共数百人、犬引に作り立て、竹鎗を持たせ夜討の支度をさせ、熱海日金の山より打越え、追々に石橋や湯本の辺へ隠し置きて、其相図を待ち居たり。オープンアクセス NDLJP:175時刻も已に来りければ、千頭の牛に、角毎に松明を結び付け、夜に入りて、小田原の上なる石かけ山・箱根山へ追懸け上りて、石橋こめかみの辺より、螺を吹上げ鬨を作り、板橋の町屋へ火を懸けたり。小田原の城には、折節軍兵共、上杉合戦の加勢に行きて、残る人々少なければ、山々の松明を見て、是は如何にして防ぐべきぞや。敵は何十万やあらんと、あはてふためく所に、西郡の住人成田の某、大森の前に来りて、敵已に山上に満々みちたり。用意の兵なくて叶ふまじ。急ぎで岡崎辺へ落ちさせ給ひ、重ねて軍兵を催し、城を取返すべし。急がせ給へ。某防矢射て、落し申さんといひも果てず、先陣已に大手の門前まで攻近づきければ、鎧取りて肩に打懸け、馬の上にて、高ひほしとめ、小具足も固めず、手勢六騎長刀水車に廻し、敵の中へ割つて入り、敵の先陣多目玄番允が同心粟田六郎を打つて落し、終に討死してける。其間に大将大森吏部藤頼を初めとして、小具足計にて切合ひけるが、深手あまた負ひければ、散々になりて落行きける、早雲入道最前に進み給ひ、戦ふ事風の発する如く、攻むること河の決するが如くなりしかば、敵一返も返さず、城を落しければ、則追払ひて小田原の城へ移り入り給ふ。北条早雲小田原城を奪ふ爰に松田左衛門といふ人あり。是は公方家の忠臣たりし故に、終に上杉の下知に随つて、相州西郡にて、度々合戦したりけるが、早雲小田原へ入り給ふと聞き大に喜び、最前に馳せ来つて一つになる。此外群臣功積相随ふ事、誠に骨節屈神の如し。武勇の程こそ目出度けれ。大森は同国実田城に引籠る。

 
立河原合戦の事
 
小田原の城は、扇谷殿の領分なりしかば、大きに驚き。分国の勢を以て攻取るべしと聞えければ、早雲賢き謀に、扇谷殿へ使者を立て、先づ御旗下になり御下知に随ひ可申由、武州寺尾住人諏訪右馬助を以て、再三和談を請ひければ、扇谷殿、誠とや思召しけん、小田原をも攻められず。扇谷は、定政御死後の事なれは、当屋形上杉五郎朝良若年にして、欺き易かりしかば、弥山内より攻亡さんとて、已に人衆を催されける。依之駿河の今川氏輝は、上杉と親しかりければ、扇谷殿へ加勢あり、小田原オープンアクセス NDLJP:176とも、暫しは和談の体なれば、是も加勢の為に、松田左衛門頼重、八十騎にて馳加はる。此勢を合せて、扇谷の五郎朝良大将軍として、武州立河原に陣を張る。山内の管領上杉民部大輔可諄入道、并当屋形憲房、東八州の軍兵を催し、永正元〈甲子〉年九月廿七日、立河原へ押寄せたり。鬨の声矢叫の音、声々に名乗り合ひ、唯雷の天地を轟かす如し。上杉同流なれば、互に恥を辱らし、義を金石に比し、命を毫毛よりも軽くし、切りつ切られつ戦ひける。鋒よりも火花を散らし、一日戦ひ暮しけるに、夜に入りければ、山内の加勢として、越後の軍勢馳来りければ、朝良荒手に懸負けて、開靡きて落ちて行く。河越の城に籠りつゝ、梅酸の渇を休めける。顕定・憲房、此次に扇谷を攻亡すべしとて、同十月より、両大将并に越州の上杉民部大輔房能・長尾義景以下、東国并越州の勢を払つて、河越の城を取巻きて攻入り、息をもつがせず戦ひける。城中に籠る勢、義を重んじ命を軽んじ、一足も引かず、面々請取りし所をば、少も引退かずして、防ぎ戦ふと雖、荒手を入替へ攻めければ、手負死人数を知らず、残り少なになり行き、今は叶はじとや思はれけん、家老曽我兄弟出合ひて、亦和融の義調ひしかば、顕定・憲房囲を解きて、諸軍を引率して、上州に帰り給ふ。朝良は、江戸の城にぞ籠られける。
 
可諄討死の事
 
斯る処に上杉の家老長尾六郎為景逆心を起し、越後の守護人上杉民部大輔房能を、越後の雨溝といふ処にて打殺し、越州を乗取りしかば、管領顕定入道、当屋形憲房を相伴ひ、上州より打立ち越州へ押寄せ、永正六年七月廿八日、長尾六郎を攻め給へば、為景軍に打負けて、越中国西浜へ落行きける。可諄・憲房戦に打勝ち、猶国中并近辺を下知して在国したりしに、明る永正七年六月十二日、越後の一揆共、高梨摂津守を大将として、為景に語らはれて、悉く蜂起しければ、憲房、椎屋といふ処へ押寄せ、攻め給ひけるが、忽に打負けて、憲房、妻有の庄に引籠り、猶軍勢を催し、上州の勢を待ちて、彼を対治あるべしと宣ふ処に、長尾・高梨、勝誇りたる威勢、なじかは少もためらふべき、即打立ち押寄せければ、同六月廿日、顕定入道長森原へ出合ひ、散々にオープンアクセス NDLJP:177戦ひ、長尾六郎を追立てける所に、高梨摂津守馳来つて、顕定を討取り申しける。此人は、上杉家中興の管領にて、十四歳にて上州に来り、去る応仁元年管領に補せられ、久しく武将と仰がれ、今年五十七歳と聞えし。法名海蔵寺殿皓峯可諄大居士とぞ申しける。やみと高梨に討たれ給ふ。故に長尾が勢、雲霞の如く集りしかば、憲房越後の在国叶はずして、上州へ帰り、白井の城にぞ籠りける。此折節、上杉の長臣、無二の忠功をなしける長尾左衛門尉景春入道伊玄、逆心を起し、同名六郎と一味して、已に打立ちければ、近親の家子三戸駿河守・太田備中守、種々諫めけるは、昔より普代の主に向つて弓引く人、一人として運を持たず、必ず滅ぶといへり。然らば今度の謀叛、必ず味方の負なるべし。思ひ留り給ふべしといひけれども、伊玄入道用ひずして、軍兵を相催し、沼田の庄へ陣を張る。亦小田原の城主伊勢新九郎早雲も、彼六郎と一味して、已に相州住吉の城を取立て出張す。此時上杉民部少輔入道・定芳の被官上田の蔵人入道、彼早雲が下知に随ひ、武州神奈川へ出張して、権現山を城に構へたり。近年の乱逆に、国衰へ諸侯力を屈しゝかば、四夷弊に乗りて起る事、蜂の如し。就中伊玄入道は、当家の重臣一門の耳目なりしが、不義の六郎と組しけるこそ浅間しけれ。憲房の周章、唯𤍠湯にて手を濯ぐが如し。
 
権現山合戦の事
 
去る程に上田蔵人入道、武州神奈川へ打つて出で、熊野権現山を城廓に取立て、小田原の宗瑞と引合ひ、謀叛の色を立てにけり。早雲小田原には、子息新九郎を留め、我身は松田・大道寺以下の軍勢を引率し、高麗寺山并に住吉の古城を取立て楯籠る。上杉家の人々評合しけるは、当方の人衆少なしと雖、敵の勢に比ぶれば、味方十人敵一人程にも及ばず、驚くべきに足らずと、静に手分をして、沼田の勢を押落さば、小田原越州などの敵は、恐るゝに足らずとて、管領は猶白井に御座して、伊玄入道に取向ひ給ふ。亦神奈川の城だに攻落さば、其外は自ら落つべし。但し大将には、末々の一門国々の催勢など向つては不可叶と、上田が主の治部少輔入道建芳大将として、神奈川へ押寄する。管領よりも、加勢には、成田下総守・渋江孫二郎・藤田虎寿丸・オープンアクセス NDLJP:178大石源左衛門・長尾孫太郎が名代に矢野安芸入道・長尾但馬守名代に成田中務丞、其外武州の南一揆を狩催し、雲霞の軍勢にて、永正七年七月十一日、神奈川の権現山の城を、稲麻竹葦の如く取巻きたり。彼山は四方嶮岨にて、岸高く峙ち、南は海、北は深田なり。西には小山続きたりしを、其間を掘切りて、山に続きたる本学寺の地蔵堂を根城に取立て、越州小田原よりの加勢をこし、寄手を見下し散々に射る。寄手は大勢なれば事ともせず、喚き叫んで切つて入る。神奈川の住人間宮の某と名乗りて、黒鎧に四つ目結の笠印、浜風に吹翳し、木戸を開きて切つて出づる。寄手も之を討取れとて、射向の袖を差翳して、一面に切結ぶ。城中の兵共、間宮討たすな討たすなと声々に叫びて、追ひつ捲りつ、半時計戦ひけるが、終に打負けて、後の城へ引いて入る。寄手弥勝に乗り、続いて城へ入らんとする処に、籠る勢共叶はずとや思ひけん、木戸を下して引籠る。寄手の先陣武州稲毛の住人田島といふ者、鎌鑓にて木戸の縄を切ほどく。是を見て城中より、大石を十計投出す。田島甲の鉢に打当てられ、辷り落ちければ、続く兵皆一同に引退く。然れども後陣の軍兵、重ねて押寄せ十一日より十九日まで、夜昼九日攻められて、其上出城の本学寺山を取られければ、叶はずとや思ひけん、城に火をかけ、同十九日夜中に、上田を初め行方知れず落ちければ、皆悉く敗北す。則憲房使者を以て、京都へ訴へ申し、六郎を誅すべき由さゝへ申す。其状云々、

御上洛之路次中如何無御心元候。抑一心院之事、大概無相違相調候所、去年越州罷立以来、彼寺領等有違乱之族相煩候。口惜存候。然而不図御上某偏失本意候。雖然於時宜者、事成候間、門主之御前公方様上意越御代官等、御刷候者、定治部少輔入道建芳不及兎候。拙子弥涯分可意見候、不御選屈候。抑去六月十二日於推屋一戦失利候、所存之外候。然所長尾六郎・高梨摂津守競来候間、廿日遂一戦可諄討死、不申次第候。椎屋一戦以後、妻有之庄某立馬候。国中如此之上力、関東人馬自井候所、長尾左衛門入道伊玄起逆心、彼六郎致一味、沼田之庄内打入、号相俣地令張陣候間、于今有此方取向候。古河様無御余儀建芳無等閑候間、別条之子細無之候。伊勢新九オープンアクセス NDLJP:179郎入道宗瑞・長尾六郎相談、相州令出張、高麗寺并住吉之古要害取立令蜂起候。然間建芳被官上田蔵人入道令力宗瑞、神奈川権現山取地利、致慮外候間、建芳自身向彼地罷立候。然間自当方去十一日攻彼城候所、同十九日夜中令没落候。然間所々之要害令自落候由注進到来候。相州口者先此分候。将亦長尾六郎非民部大輔房能、重而可諄身体如此之条、為家郎両代之主人候事、天下無比類題目候歟。関東越州之為体、幸淵庭御存知之事候上者、以御次上聞、彼六郎并高梨被御追伐候様御申奉頼候。然間近国之諸士之方被御内書候者、何可上意候。特細河右京大夫・畠山尾張守・大内左京大夫・伊勢伊勢守方此方寄々有御伝語、可然様申御沙汰頼存由、御届可肝要候。関越如斯之上、剰可諄討死之間、公方様御入洛御礼可申上由延行候。弥罷失本意候。少静謐之形候者、可言上仕覚悟候。随而就越州松山之儀、被下御内書候間、先其御礼又者越州之体如斯次第、為_上聞。雖老者候、倩木村式部入道差上候。能々御面談有然御取刷頼存候。令口上可_尊意。恐惶敬白。

  八月三日 藤原憲房在判

   拝皇上乗院

       御同宿中

 
義同討死の事
 
相州岡崎の城主三浦介義同、後には陸奥守入道道寸といふ。文武二道の良将なり。其子息次郎義意を三浦新井城に籠め、我身は相州岡崎に居住して、管領の命に随ひ、相州中郡を知行して、威勢近辺に双なし。此の岡崎の城と申すは、昔頼朝の御時、三浦大介義明の弟岡崎悪四郎義実が住みし城とぞ聞えし。三浦の一門数年住みし処、要害厳しく支度せり。子息荒二郎義意を、上総守護人真里谷三河守が聟にして、隣交の盟厚くして、弥光彩門戸に集まる。相州は申すに及ばず、武州の兵共、多く来つて相随ふ。小田原の早雲、如何にもして三浦を攻落し、相州平均に治めばやと思はれければ、永正九年八月十三日、伊豆・相模の勢を催し、岡崎へ押寄せたり。三浦介・佐オープンアクセス NDLJP:180保田豊後守以下、切つて出て合戦す。北条早雲三浦義同合戦敵味方の鬨の声、太山も崩れて海に入り、坤軸も折れて沈むかと、覚ゆる計の有様なり。三つ鱗の簇と、中白の旗入交り、十文字に割つて通り、巴の字に追廻し、東西南北に馳違ひて戦ひしが、運や尽きけん、さしも至剛の三浦介、散々に打破られ、一二の木戸も攻破られ、結城に籠りけり。心は飽まで進めども、家子郎等走寄り、一先落ちて、重ねて兵を催し、此欝念を遂ぐべしとて、城の搦手より落ちて、同国の住吉の城に落行きける。其後亦住吉をも落されて、三浦の城へ落行き、度々人衆を集めて合戦に及びしかども、一陣破れぬれば、残党全からず。終に打勝つ事なくて、口惜くや思ひけん、遥にあつて鎌倉へ出陣しけるを、早雲聞あへず押寄せて攻め給へば、散々に懸負け三浦へ引返す。小田原勢追かけ追かけ攻めければ、三浦陸奥守父子、新井の城に楯籠る。早雲三浦へ押寄せ、白井城を取りて、三年まで食せずに攻め給ふ。上杉修理大夫朝興是を聞きて、三浦落居せば難儀なるべし。大衆を出し早雲を追払ひ、陸奥守に力を付けんとて、相州中郡へ簇を出さる。早雲是を聞き、人に先をせらるゝに利なしとて、遮つて中郡へ押寄せ、卯の刻より未の刻まで、入替へ攻め戦ふ。早雲入道堅を破り利を砕く。頃刻に変化してはかりごとを廻らされけれは、敵一度も終に利を得ず、上杉勢悉く敗北せしを、追廻つて突臥せ切伏せける程に、一返も返さず、江戸を指して引いて行く。三浦に籠る勢ども、兵粮尽果て、此後詰を頼みしに、上彩打負くと聞えければ、こは如何にと仰天す。早雲は上杉を追払ひ、猶新井の城を攻落さんと、急に攻めければ、城の中の兵ども、大森越後守・佐保田河内守、陸奥守の前に来つて申しけるは、敵已に後詰の軍に打勝ちて押寄せ候。味方数月の軍に、矢種尽き兵減じて候へば、近日落居あらんと覚え候。然らば忍びて城を落ち、上総へ御渡り、荒二郎の舅真里谷殿を頼み、軍勢を催し、三浦へ帰り、此城を取るべき謀あまたあり。二年の間には過ぐべからずと申しければ、陸奥守是を聞きて申しけるは、事新きし申様に似たれども、当家は三浦大介義明、頼朝卿に忠を尽して討死せし後、累代此所の主として、一門大名諸国の守領九十三人門葉百司五百人、日本に誰かは知らず。然る処に中頃元弘の乱に、三浦介時継入道、時行に与して初めて逆心を起し、熱田にて生捕られ、六条河原にて討たれ、其オープンアクセス NDLJP:181子高縄、高倉殿の逆心に同じて、討たれて已に衰へ、勢少く成行きけれども、相州には肩を双ぶる人なし。然して後父時高不義の振舞して、持氏を亡し申し、其忠賞に誇り、亦大名となりしかども、其御罰にや、我を追出し給ひしに、我等勢を催して、此城へ攻め来つて、時高を亡し申しける。又其報忽ち来つて、所こそ多きに、父の亡せし此城にて、義同亦失せなんとす。是天命に非ずや。運已に尽きぬる上は、縦ひ落行きたりとも、微運の我等何程か遁るべき。犬死せんより、命を限りの戦して、弓矢の義を専にすべし。運の通塞も軍の吉凶も非謂。所を一足も引くまじと、夜もすがら最後の酒盛し、明くる永正十五年七月十一日辰の刻に打つて出で、小田原の先陣を二町計追立て切捲り、枕を双べて討死す。三浦義同義意等戦死三浦前陸奥守従四位下平朝臣義同・子息弾正少弼従五位下平義意并に家親・大森越後守・佐保田河内守・同彦四郎・三須三河守、以下百余軍の屍は、巨港の岸に散り、血は長城の窟に満つ。されば今に至るまで、其怨霊共此所に留りて、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声して、野人村老の毛孔を寒からしむ。其後毎年七月十一日、荒井の地に亡霊荒れて、往来の人の現に見え、言葉を交す事度々なりとかや。恐ろしとも愚なり。早雲は三崎に城を取立て、房州の敵を防ぎ給ふ。義同の勢所々より召出されて、此城の在番す。大将には、横江越前守を置き給ふ。小林平六左衛門を初めとして、与力卅騎、手勢八十騎、三浦組十騎、其外雑兵合せて二百余軍、彼横江越前守に相随ふ。此横江、本国尾州の住人なりしが、弓矢修行に東国に下りて、北条殿に所縁ありて、一方の大将を承る。此人精兵の強弓、故実名誉の達者なり。或時氏綱、此横江神助を師とし、鳴弦の御相伝ありける。昔大唐楚の荘王猟に出でさせ給ひしに、白猿一疋出でて、人の射る矢を取つて、折棄てける。王腹を立て、養由を召して射させ給ふ。養由承り之を射る。猿木の上へ登り遶りて駈くる。此矢樹を遶つて猿を射落す。是より天下の人、養由が弓を恐る。鳴弦を聞きて、けだもの地に落つ。其後日本にて義家朝臣、帝王の御悩の時、彼養由が伝の如く、弦を鳴らし給へば、聞く人身の毛をよだて恐れける。まして変化の者も退きける。其の後は人武威も薄くなり、信心も少くなりて、彼の相伝の通りしても、不思議あらはれず。頼政卿の時さへ、鵺をば箭にて射落し給ふ。況んや末オープンアクセス NDLJP:182代には、能々狙ひて射落すに如かず。然れども鳴弦弓法の秘事、神道古法なりとぞ聞えし。
 
氏綱公方を聟に取る事
 
北条早雲死去其後永正十六年六月十五日、早雲庵宗瑞、伊豆国基山の城にて逝去し給ふ。即当国修禅寺にて、一片の煙になし申しける。遺言ありし洛陽の紫野より、大徳寺派の長老を呼下し奉り、小田原の湯本に御円丘を築き、山号をば、金湯山といへしとなり。則称は早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門と号す。哀なるかな昨日までは、弓箭の棟梁として、威勢を東国に振ひ、今日は又引替へ、卵塔一掬の露と消え果て給ふ。彼沙羅林の春の空を尋ぬれば、万徳の花萎れて、一化の縁衣を尽す。観喜国の林の風を問へば、五衰の露消えて、巨徳の楽早く空し。況や不定短命の境に、誰人か此苦を離るべき。小田原には、北条新九郎殿早雲の御在世より、御移りありければ、昔に替らず豪傑の士を撫で、義士を愛し、孝弟を大本とし、忠臣烈婦を感じ給へば、諸軍勢の来復する事限なし。況や普代旧功の輩ども、日を追うて忠をなさんと励みしかば、権威も日頃に勝れける。此氏綱に鍾愛の女あり。容顔美麗にして、昔の楊貴妃李夫人ともいひつべしと沙汰しければ、古河の公方左馬頭高基、御家督の晴氏の御台所になし申さんとて、奇流西堂を以て、此旨仰下さる。氏綱畏つて承り、御返事申しけるは、当家の曩祖、王氏を出でて年久し。代々衰へ匹夫の武臣となり、無官無位の凡下となり、将軍高位を聟にし奉らん事、甚恐れありと辞退ありしかども、重ねて御使あり。昔伊予入道頼義、奥州へ御下向の時、上野介直方が聟になり給ひ、八幡太郎以下の君達出来給へり。源氏今に繁昌なりき。亦頼朝卿流人の時、時政の聟になり、御子孫目出度しと見えたり。それより北条も、権勢を九代まで取したすし、上下目出度吉例なれば、兎角宮仕に参らるべしとて御迎あり、北条殿を、公方の御後見に御頼みありて、御代をすさるべしとて、両方共に御祝着は限りなし。
 
走湯山参詣の事
 
オープンアクセス NDLJP:183

北条殿の分国は、伊豆・相模両国漸く治まりぬ。其外皆管領の分国なり。其頃氏綱伊豆山へ御参詣あり。御家老面々皆御供なり。当山の別当般若院、道中まで迎に参る。扨登山なされ、紫宸殿に御再拝なされ、竈の宮へ御参りある。其後別当に仰付けられ、縁起を御尋ある。当社権現は、往古に高麗国より御舟にめされ、当国へ御渡りあり、相模の国中郡の高麗寺山に上らせ給ひぬ。依之此山を高麗寺と申すなるべし。其後仙人、当山へ請じ奉りければ、爰に移居まして以来霊験威光不勝計。弘法大師御参籠ありて、深秘の法を修し、尊神の霊光を仰ぎ給ふ。信心祈誓の妙業は三世の事を通達し、行時如法の修行は四曼の理を証得す。今に至つて、真言の仏法当山に流布して、法の光も明なり。右大将軍頼朝卿、御逆心の初めも、当社に御祈誓ありてこそ、御世をば治め給ひ、弥御信心ありて、毎年自身の御奉幣、色々の捧物ども、御自筆の御願書あり。其外曽我時宗兄弟が、弓矢もあり太刀もあり。尊氏将軍の御劔もあり。色々様々御見物ありて、御下向の次に、真名鶴が崎といふ処に、鵐が巌谷と号して、大なる石穴あり。是は昔頼朝卿、石橋の軍に負けて籠り給ひて、運を開き給ひし所なり。此所を御見物ありて、浦人ども召され、鮑を取らせて、潜きをさせて、御酒宴あり。扨御舟に乗り給ひ、小田原へ帰らせ給ふに、白魚一つ船中へ飛入りける。唐には、周王の御舟へ魚飛入り、我朝には、清盛の舟へ魚の入りける例、何れも目出度瑞相なりとて御祝ありて、夜に入りければ、舟に篝を焚連れて、早河の浦に帰り給ふ。

 
早雲寺建立の事
 
去程に早雲公の遺言に任せ、相州湯本に、真覚に一寺を建立ありて、山号金湯山、寺号は早雲寺と号す。仏殿はつとう山門衆寮の食堂以下、大徳寺を移し、即普請成就しければ、紫野へ北流の以天和尚を請じ下し、住持に据ゑ申しければ、近国他国の出家、皆朝讚暮請隙なしと見えけり。氏綱公を初め御一族家老衆、何れも尊敬ありし上は、誠に仏の出世成道の如し。近辺の出家衆より賀頌あり。

 才首座

オープンアクセス NDLJP:184金地挙揚臨済禅 住持南浦以心伝 鳳毛就領纔八万 方丈連雲容大千

    和 早雲寺以天和尚

扶桑喝起大唐禅 南浦宗風正眼伝 這裡不労修造手 吾方方丈尽三千

    又 龍源

万境無心到処禅 大灯々下一灯伝 斬新日月舎元殿 更道長安隔五千

    又 宗泉

清浄伽藍即是禅 何論真指与単伝 入門一句耳聾喝 驚倒法筵賢却千

    再和 早雲寺以天和尚

翁々尊和尉拈禅 文字総持伝不伝 大法今春久昌讖 二株頼桂保秋千

 
浅草沙汰の事
 
大永二年九月の初、古河の御所へ御使あり。御使者は、富永三郎左衛門尉とぞ聞えし。其帰りに富永、武蔵の浅草へ参詣しけるに、其日観音の縁日にて、十八日の事なるに、常より人群集す。殊更不思議なる事あり。弁才天の堂の辺より、銭涌出づる事あり。寺僧共制しけれども、参詣の人是を用ひず、多く此銭を取る。富永も奇異の思を成し、帰り参りて後、此事を言上す。氏綱を初め奉り、諸人不思議といふ処に、蓮乗院奏せられければ、家老面々此由を語り給へば、法印語り申しけるは、彼浅草寺は、人王卅四代推古天王の御時、定居〈戊子〉年建立なり。浅草観音縁起本尊は聖観音、関東最初の伽藍、霊験無双の処なり。種々の旧説、不思議の事、旧記に載する所不勝計。彼本尊、生身の薩埵にて、水中より浮び出でさせ給ひける。頼みを掛くる輩は、三世の所願を叶へ給ふ。冥感は、新月の眼に満つるより甚し。玄応は、疾風の身にオープンアクセス NDLJP:185入るが如し。又弁才天と申すは、即法身の大士なり。八臂の具足は、八大観音の惣体なり。三光天子と現じて、威光を万方に耀し、八大龍土となりて、恩波を四海に灑ぎ給ふ。福徳才智の本尊、武勇敬愛の霊神なり。今国土乱逆年久しく、民窮し苦しめば、大慈大悲の誓願、霊神の功徳ありて、福聚海無量の御誓空しからず。是より人民富貴なるべし。就中弁才天は観音の御分身、北条家の守護神、御紋は是大蛇の鱗とかや。御当家には、殊更御崇敬尤なり。委しく演説す。依之当座伺候の大名小名、一門家中、皆信心の首を傾けて、彼浅草へ種々の祈願を懸けられたり。亦御城北の堀の内へ、即法印を以て、江の島の弁才天を移し奉り、当城の鎮守と崇め奉り、武運の長久を祈られけり。今の弁才天の宮是なり。
 
江戸合戦の事
 
上杉の家臣太田源六・同源次三郎謀叛を起して、小田原へ注進し、相図を定めしかば、大永四年正月十三日、氏綱伊豆・相模の軍兵を引率して、江戸へ寄せ給ふ。江戸の城には、北条早雲上杉朝興合戦上杉修理大夫朝興居住したりけるが、居ながら敵を請くる事、武略なきに似たりとて、品川小杉へ打向ひて、敵を侍懸くる処に、小田原勢、渋谷へ廻りて江戸へ押入る。朝興城より打つて出で、彼勢と懸合ひ散々に戦ひける処に、太田源六兄弟、予て内通しければ、跡より敵を引入れければ、朝興前後の敵に怺へかね、板橋を指して引いて行く。板橋の某・其弟市太夫以下討死しければ、爰にも叶はず、同国の河越の城に楯籠つて、暫く息をぞ続ぎにける。氏綱は江戸の城に打入り、首ども実検あり。古河の住人宇多河和泉守以下、降参の者共に申付け、普請懇に沙汰し給ひ、本城に富永四郎左衛門、二の丸に遠山四郎兵衛、月亭に太田父子を申付けらる。当所芳林院の孤月和尚参られ、此城の重宝とて、当城開基太田道灌が、天下無双の詩人万里を呼下し、江戸の城の景記を書きしを取り出し、談儀あり。氏綱を初め、箱根以下大に感歎ありて、和尚にも引出物、御馬にて参らせ給ひ、彼記をば小田原へ御持参あり、一枚は箱根殿御所望、一枚は屋形の御重宝になされける。其記の写、

静勝軒銘詩并序

オープンアクセス NDLJP:186文之所以為_文不亦武之備乎。武之所以為_武不亦文之要乎。其要在静則其備必得勝也。窃惟太田左金吾公道灌、厥先廼丹陽人、而五六葉之祖始家相州也。公規武蔵豊島江戸之地城塁、従京師蓮府之命其君而割拠。康正乙亥騒屑以来廿有余霜、高揚帝旗武之五十子。禍自戯下起、公之爺道真倡将師屯兵於上湯赤城之麓河北矣。戯下両岐相分、其一者退憑嶮於武之鉢塁。公在江戸緩頬慮両岐、厥挙不能達焉。遂守忠孝之至道一怒着鞭自南馳引将河而出同於針原、酣戦鋒鏑凝血雷霆扶威、公凱歌未休、追而囲鉢塁鉢塁求救於東兵、不日其兵鳴皷而相応矣。公能量彼我之道士卒於上陽白井之南、雖負尸之攻四面草木無悉非敵兵也。当是時堅守公之符契敵軍者、江戸河越二城而己。不幾東兵皷𥀷之声衰、鉢塁亦潰矣。公以時不_失出白井、僅率数百余騎凌数万之敵兵、直帰江戸。旌旗増色而復使将帥建幟於鉢塁。公汗馬之労百戦積功穫万全者、為天下国家而不江戸城是起本也。凡関以西之諸侯望風而靡者往々有之矧関以東之八州大半属指呼矣。城営之中有燕室静勝、西為含雪貫重々之窓櫺、而戸功鑿径三二尺之円竅、円竅之中望千万仭之富士、則旦雲暮煙頃刻之隠顕、昨陰今晴造次之態度、作者結舌画師閣筆。西者兌也、兌者沢也、沢者地之潤和也。兌之訃辞曰君子以朋友講習、公之徳沢弥滔而覃万物之謂也。東為泊船上下天光一碧、万頃并呑数州。東者震也、震者雷也、雷者天之号令也。震之卦辞曰君子恐懼修省、公之軍令弥厳靖国家士卒之謂也。震兌両扉之名雖拾遺其義、寔係于周易矣。且夫静勝二字見于尉繚子之秘策也。其詞云兵以静勝国以専勝矣。施子美之解云兵法欲蕭也。粛則兵得其利、将権欲一也。一則国得其利、蕭々之馬悠々之旌、此則兵之静也。則祐攻海塩也、寂若人、揚素将隋也、馭戎厳整各以静而勝也。加之范景仁作長嘯胡騎之賊、遂号長嘯公。夏夷之間競誦厥名、長嘯則文而静也。却胡騎武而勝也。公鳴皷拍盾麾白羽赤霄、新設塁壁遠駕橋梁、則不戦而千里外折衝。公平日繋志翰墨法軍旅、和気藹然晌有識鑒。神農氏薬方・軒轅氏兵書・史伝小説・桑域二十一有一代集貯数千余函而渉猟、又家集十一分其類而聚焉。号砕玉類題。所賦詠炙人口。昔黄冠之師揚仁叔以其堂静勝。趙宋之余崇亀官至兵侍。蔵書万巻扁居曰静勝。重名節オープンアクセス NDLJP:187文有武、百姓歌厥徳、頗与公合符。宜哉公静勝軒矣。倉禀紅陳之富栽栗而雑皂莢、市鄽交易之楽担薪而換柳絮、僉曰一都会也。城中之五六井雖大旱其水無縮。其塁営之為形曰子城中城曰外城凡三重。有二十又五之石門各掛飛橋、懸崖千万仭而下臨無地弓場毎旦駆幕下之士数百人其弓手上中下、有甲冑踴躍而射者、有祖褐而射者、有跼踏而射者怠則罰金三百片、命有司貯以為試射之茶資。一月之中操戈挙鉦閱士卒両三回、其令甚厳也。予東遊之次駐草驢於江戸者連歳、公需静勝之銘厥義不拒也。営中之風致・築波之遠望・隅田之晩眺、一々載村菴蕭菴二老之叙跋、故重不毛挙。公要関左諸老所作若干首及予一篇同掛壁間、与洛社之詩板水月相映。可千載下之美譚也。銘曰、

静為天徳 維天何言 勝為地勢 維地有源 東呉西嶺 万象一軒 仁者必勇 信況及豚 鉄鋳塁壁 能守弥敦 松茂柏悦 子々孫々

又一方に詩あり、是は箱根殿御所望なり。箱根殿とは、氏綱の舎弟、初は金剛院の別当、還俗の後長綱と号す

 龍源

霜鬢帰来東定州 指麾此百万貔貅 幽軒不出知天下 江碧白鴎千戸侯

 竺雲

静自勝時心自閑 天上秀十眸間 滄波倒浸士峯雪 一朶芙容百億山

 万里

庭宇枝安鳥漸眠 遠波送碧数州天 主人窻置博山対 一縷吹残富士煙

 正宗

兵皷声中築□降 関君延容日臨 風帆多少載詩去 吹雪士峯晴随

 龍沢

オープンアクセス NDLJP:188籍々威名関以東 又知天下有英雄 皷𥀷不起城辺静 駆使江山入敦中

 横川

江戸城高不 我公豪気甲東関 三州富士天辺雪 収作青油幕下山

 □彦

伝聞静勝軒中景 四面窓扉一々開 野濶青丘呑帯芥 天晴碧海望蓬□ 商帆似自平蕪□ 漁火如従遠樹来 吾老無期泊船処 開心西嶺雪成

斯くて孤舟和尚、一々講釈ありけり。其後和尚、金剛院に住し給ひ、小田原へ参られし梁天の師なり。氏綱は帰陣なされ、小机の城普請仰せられて、御馬を入れらる。上杉憲房は鉢形へ入りて人衆を遣し、河越衆に力を合せ江戸の城を夜駈にして、取返すべしと打立つ処に、運や尽き給ひけん、同国高上庄平居の陣にて重病に犯されて、色々の養生を尽し、宮々社々の立願も限りなかりしかども、定業や来りけん、累年まで終に平愈なくして、上杉憲房死去大永五年四月十六日、生年五十九歳、終に果敢なくなり給ふ。龍洞院法名道憲大成と号し奉る。誠に此人関東長者にて、諸軍もよく親しみ奉り、政道も私なかりしに、斯くなり給へば、相随ふ人々も伝聞き、秦の始皇沙丘に崩じ給ひ、漢梵の機に乗る事をのみ悲み、孔明籌筆駅にて死し給ひて、呉魏便を得し事を愁みしが如く、五更に灯消えて破窓の雨に向ひ、中流に船を失ひて、一瓢の浪に漂ふらんも、斯くやと覚えたり。此事敵に聞えなば、押寄せられて叶ふまじと、偸に葬礼を致して、悲を隠し声を呑む。扨あるべきにあらざれば、京都へ御意を請け、古河殿へ申し、彼家督憲政、幼稚にして叶ひ難しとて、公方の御子を一人養子にし奉り、憲広と名を付奉り、管領と定めて、長尾・白倉・大石・小幡等の長者共、彼名代に関東の成敗を司りて、諸家を支配する事元の如く、分国は無為にぞ治まりける。

 
小弓御所御発向の事
 
オープンアクセス NDLJP:189

其頃源右兵衛佐義明朝臣と聞えしは、古河の公方政氏の次男、高基公方の御弟なり。先年彼御父子御兄弟不和の事ありて、奥州へ牢人し給ひけるに、其頃上総国の守護代武田豊三・真里谷三河守と、同国の侍原野次郎胤栄といふ者、上総の小弓城に在城して所領を論じ、合戦度々に及びける。是は下総の守護人千葉介が家来なれば、千葉勢を加勢に請ひて、武田毎度討負けゝる儘、武田安からず思ひてけれども、己れ計にては、始終本意を達し難しとて、義明を奥州より呼び請ひ申し、大将軍として軍兵を催しける。彼義明は、累代武将の家に生れ、心あくまで不敵にして、力強く骨太に打物の達者、当代無双の英雄なり。されば上総・下総房州の辺にて、管領を背きし輩、一人も残らず馳集りて随ひける。其勢近国に掩ひければ、三年の間に、原野次郎終に打負け、小弓の城を落されて引退く。義明即ち小弓の城へ移らせ給ふ。依之小弓の城、小弓の御所と申すとかや。其後原が家子高城越前守父子を討取り、同下野守を追落して、両国中残る所なく靡きければ、終には原野次郎をも討ち給ふ。近国の兵共、我もと群り来りて附随ふ。安房国住人里見義弘は、猛勢の大将なりしが、いかゞ思ひけん義明に随ひける。義明血気無双の人なりければ、味方の大勢に移り、頓て八ヶ国を討取り、古河の公方を配流し奉りて、鎌倉に御所を立て、関東の公方になるべき事、案の内にありて、思ひ止みけれども早已に色に顕はれて、ほのめかしければ、附随ふ血気の若者共、皆可然とぞ勧めける。古河の御所の御味方の人人、中々安からず思ひける。小田原氏綱も、古河の御所の舅なれば、内々口惜く思はれけれども、大敵の上杉と敵対の頃なれば、先々小弓殿とは無事の体にて、互に使者に及び、折々の捧物などありけるとなり。是も暫時の智謀なり。

 
義弘合戦の事
 
大永六年十二月の頃、安房の守護人里見左馬頭義弘、小弓の義明の下知に随つて、数百艘の兵船を用意し、窃に相州鎌倉へ押渡り、社家へ乱入し、宮寺の神宝を奪取り、仏閣を破り、里見義弘鎌倉へ押寄す鶴岡の宝蔵を破却すと聞えければ、氏綱大に驚き、こは如何に田舎の夷なりとも、是程の狼藉をばすべき。我朝は神国なり、殊に里見は源氏にて、八幡宮の氏オープンアクセス NDLJP:190人なり。礼を存ぜば、寄進をこそ奉るべきに、神罰をも顧ず、斯るためし前代未聞の悪逆なり。斯る放逸なる凡下の奴原、一々に召取りて、後代の悪習を懲らしめよとて、伊豆・相模の逸雄の若者共、我先にと打立ち、鎌倉へ馳向つて、四方を囲みて攻めければ、案の如く房州勢、物取りに散りて、一所へも打寄せず。神罰や当りけん、一方の大将里見左近大夫、馬より落ちて討たれにければ、義弘叶はずや思はれけん、早々舟に取乗り引退く。小田原勢舟に乗りて追懸けたり。両陣の兵共、渡中に帆を突きて、舷を叩き時を作る。塩に追ひ風に随ひて、押合ひ攻戦ひしが、神罰にや当りけん、房州の先陣悪逆をなしける軍勢共、一人も残らず討たれ、義弘小勢になりて引退く。
 
府中軍の事
 
享禄三年の夏の頃、上杉修理大夫朝興は、河越の城にありけるが、小田原の氏綱を退治して、先年の恥を雪ぐべしと、難波田弾正・町田蔵人以下、宗徒の兵五百騎を引率し、武州府中迄出陣してけると聞えければ、氏綱是を聞き、何程の事のあるべき。押寄せて蹴散らさんとて、子息新九郎氏康を押向けらる。氏康生年十六歳、軍は今日を初めなり。器量骨柄父を越え謀かしこく、弓馬の業も達者なり。腕の力筋太く股村肉厚くして、肩を双ぶる人ぞなき。乳夫子めのとごの志水小太郎を初め、我に劣らぬ若者ども、今日を晴とかせぎける。同六月十二日、上杉の陣へ押寄せたり。北条氏康上杉朝興合戦所は武蔵府中玉河の端小沢原といふ処へ押寄せ、一矢射ると見えしが、太山の崩るゝやうに抜連れて切て懸り、十文字に割つて通り、巴の字に追廻し、東西南北に打破り馳違ふ。頃は六月炎天にて、草木もゆるがず照る日に、軍勢共喚き叫んで攻戦ふ声、息をつぎあへず、唯坤軸も折れて、忽沈むかと覚ゆる計に聞えける。小田原勢は小勢にて、大将も若ければ、相随ふ兵共、何れも若き兵共にて、今日の軍に、大将上杉を討取らずば、何の時をか待つべき。唯討取らんと進む。然れども何れも大将の下知を請け、懸る時も一同にかけ、引く時も静に引く。聚散変に応じ、進退度に当りしかば、一度も終に打負けず、互に味方を助けて、引くなと計なり。上杉方は大勢なれども、人の心調はずして、懸くる時も続かず、引く時も助けず、思々心々に戦ひければ、一度もオープンアクセス NDLJP:191勝つ事なく、毎度押立てられにけり。夜に入りければ、上杉勢散々に掛負け引退く。

朝興敗軍氏康は初陣に敵を押落し、抑初め吉しと悦んで、勝鬨を上げ、猶幕の内へ帰り手負を助け、心静に兵糧遣ひ、扨馬を入れ給ふ。

 
外郎が事
 
去程に相州小田原守護の政道、私なく民を撫でしかば、近国他国の人民、恵に懐き家を移し、津々浦々の町人戦人、西国北国より群り来る。昔の鎌倉も、いかで是程ならんやと覚ゆる計に見えにける。東は一色より板橋に至るまで、其間一里の柵を張り、売買数を尽しける。山海の珍物琴基書画の細工に至るまで、尽さずといふ事なし。異国の唐物未だ目に見ず、まして聞きも及ばざる器物の、幾等といふ事なく積み置きたり。交易売買の利潤は、京境の辻にも過ぎたり。民の竈も豊饒にして、東西の業繁昌せり。小泉といふ人、町奉行を承る。賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして、物の奸直を糺しければ、人の歎きもなかりける。其中にも、京都より外郎といふ町人来りて、種々の薬を売る。中にも透順香とて霊薬を売る。長生不死の薬とて、氏綱へも進上す。則小泉彼町人を同心に伴ひ登城す。彼薬の効能不勝計。第一には口中臭気を除き、睡眠を去り命を延ぶると言上す。外郎の申しけるは、此霊薬は、唐にて仙家の秘薬なりしに、我等が先祖伝之、鎌倉建長の開山大覚禅師来朝の時、御供いたし、本朝に渡り候てより、即小田原にあるべき由仰付けられて、明神の前に町屋を下され、小田原に住みける。外郎といふは是なり。其頃松田孫太郎・佐藤四郎兵衛・高橋将監・笠原能登守・鈴木兵庫助以下若侍共、寄合ひて申しけるは、武勇の家に生れしは、本よりも本望なれども、我等が生涯こそ余りなれ。唯明暮合戦のみにて、詩歌管絃に心を寄する事もなし。空しく愚蒙を晴らさずして、年月を送る事勿体なしとて、京都より連歌の達者を呼下し、各和歌をぞ嗜みける。此人人卯月の頃、曽我故里の劔沢の藤を見んとて、各打連れ、河を打渡り、成田・飯泉を過ぎて、大友に懸りて、時宗助成が育ちし曽我の里に至り、劔沢の藤を詠め、滝の本に寄りて、

オープンアクセス NDLJP:192 横江神助

   滝水にうつらふ影も重り行く松に契りて咲けるふじなみ

 朝倉右京

   袖ふれし春やむかしの花のかも忘る計に咲けるふじなみ

 
河越城攻むる事
 
武州の国司上杉扇谷修理大夫朝興は、度々の合戦に打負け、江戸の城をも攻落され、安からず思はれけれども、力及ばず、如何にもして氏綱を亡さばやと、骨髄に徹して思ひ暮らしけるが、重病を請けて已に逝去せしに、子息五郎朝定を初め、三田・萩谷以下の老臣を呼出し遺言しけるは、我己に定業の病を請け、命尽きなんとす。汝等たしかに我遺言を聞きて、背く事なかれ。我れ氏綱と合戦をする事、已に十四度、一度も打勝つ事なし。是生々世々の恥辱と思へば、蒙念ともなるべし。我死なば、早々仏事作善の営よりも、先づ彼を退治して、国家を治むべしと庭訓して、天文六年卯月下旬、朝の露と消え給ふ。上杉朝興死去子息五郎朝定、生年十三歳にて家督を継ぎけるが、父の遺言に任せ、仏事作善を抛ちて、先づ武州の神大寺といふ処に、古要害を取立て城として、氏綱を退治せんと支度しければ、氏綱是を聞き給ひて、同七月十一日、逆寄に河越の三木といふ処まで押寄せたり。北条氏綱上杉朝定を攻む先駈の兵には、井浪・橋本多目・荒河を足軽大将と定め、松田・志水・朝倉・石巻を、五手に備へて待懸けたり。上杉五郎是を聞きて、伯父左近大夫・曽我丹波守を相添へ、武州上州兵二千余騎にて懸合ひ、火出づる程こそ戦ひける。去程に入乱れて、我もとかせぎけるに、如何したりけん、大将上杉左近大夫朝成、深入して生捕られければ、残る兵散々に引いて行き、防ぐべき軍勢なければ、朝定若武者なり、叶ひ難く見えける間、城を落ちて松山の城へ行く。難波田弾正、甲斐々々しく頼まれて残党を集め、河越を攻むべしと聞えければ、氏綱即逆寄に松山に押寄せて、息をもつがせず攻め給ふ。弾正父子切つて出で、散々に切合ひ突合ひ防ぎ戦ひけれども、勝誇りたる小田原勢、是を事ともせず、終に敵を追入れて、町屋近辺在々所々悉く焼払ひて、即ち馬を入れ給ふ。
オープンアクセス NDLJP:193
 
小弓義明と合戦の事
 
小弓の御所義明の威勢広大になりしかば、元より侈る人にて、関東を退治して、惣領家を差越え、関東の長者となるべしと企て給ふ由聞えければ、古河殿より、氏綱を内内御頼みありて、小弓殿退治あるべきとなり。氏綱も、義明の威勢強ければ、我が為にも悪かりなんと、予て思はれければ、則御請を申さる。分国の勢を合せ、小弓へ発向の用意ありし処に、八州諸家傾き申しけるは、義明と甲すは、近代無双の名大将にて、公方の御跡をも継ぎ給ふべき人なれば御退治は如何あらん。唯和平になされて、北条氏綱足利義明合戦末々は御所に取立て、鎌倉に居ゑ申され候へと詫びけれども、氏綱終に用ひ給はず、已に打立つと聞えければ、義明は聞召して、急ぎ中途に馳向つて防げとて、御舎弟基顆と御息小弓の御曹司を先駈の大将として、里見義弘を副将軍に定め、房州両総州の軍兵を催し、同国鵠の台に陣を張りて、市河を前にあてゝ待懸けたり。此国府台の城と申すは、上代景行天皇の御宇に、日本武尊の東夷征伐の為に、関東へ御下向ありて御帰りの時、此河の浅深を知らずして、渡り兼ね給ふ処に、鵠の鳥一つ飛来りて、河の瀬ぶみをして、此国府台に上り、羽を垂れて尊に向ひ奉る。日本武尊大に感じ給ひ、即汝に此山を取らすべし。永代此山の主たるべしと宣命ありし。後に鵠あまた住みし故に、鵠の台と名付けるなるべし。近国無双の城廓なり。去ぬる文明十一年七月十五日、上杉家臣の太田道灌が、臼井の城を攻めし時、初めて城に取立てけるなり。義明も御馬を出され、敵遅しと待ち給ふ。去程に氏綱は、天文六年十月四日、小田原を打立ち江戸の城に着き、着到を付け給へば、方々より大勢馳加はりて、二万余騎とぞ記しける。軍の評定あるべしとて、諸勢大将の前に集る。或は、敵は要害に懸りて大勢、まして而も案内者なれば、少し延引して攻められ、敵怺へ兼ねて進まんか、其時打囲みて亡すべしといふもあり、或は小弓殿より、関東中へ御教書をなされ、御加勢を召され候間、猶予の評定せば、皆々御請け申しては、ゆゝしき大事なれば、唯急に攻落し可然といふ。評議両遍に分れたる処に、根来金石斎、末座より進出でて申しけるは、兵書に、天の時は、地の利にしかず、地の利は、人の和にしオープンアクセス NDLJP:194かずと見えたり。然るに今小弓殿の行跡を聞くに、自身の武勇に漫じて威勢に募り、悪日吉方を選ばず。無理に懸けて天道を恐れず。是良将の好まざる所に非ずや。二には惣領家を差越え無礼の振舞、関東の公方とならんとの御企、天の悪む処に非ずや。三には真里谷入道恕閑、随分輔佐し申しけるに、御勘気を蒙りて頓て死にける。是恩を仇に報ずる罰遁れ難し。真里谷入道の亡魂、恨をなすと聞き候ぞや。是皆天理を背き私の侈なり。亡び給ふべき時到りぬ。たとへば今度要害にも籠り給へ。御運尽きぬる故は、明日押寄せられんに、一定御味方の御勝軍なるべし。猶予の評定不可然と甲しければ、大将大きに悦び、金石を近く召され、銀劔一振・黒馬の逸物に、御紋の鞍置きて給はり、明日の軍に先駈して、敵を攻落し候へとぞ仰せける。去程に明日五日の朝、合戦と定まりしかば、先陣は宵よりも、河の端に忍び寄り、明けなば松戸を越さんと、堤の下にぞ控へける。夜已に明けゝれば、小田原勢河端に打望む。一陣は箱根殿を初めとして、松田・志水・狩野・笠原、二陣は遠山・山中・多目・荒川・金石斎以下の兵、雲霞の如く押寄する。小弓勢の先陣椎津・村上・堀江・鹿島以下、河端に控へて待懸けたりしが、物見の兵を、御旗本へ参らせて申しけるは、敵已に河を越え候。其勢雲霞の如し。二三万騎と見え候。味方の御勢にて、常の如くに対揚の御合戦叶ふべからず。小を以て大を討つ事叶ひ難し。唯今急に御旗を動し、河中に勝負を決するか、味方引くやうにもてなし、敵の先陣半越えん時、急に取挫ぎ河へ押はめ候はゞ、必ず御味方の勝なるべしと、委細に申遣しければ、諸軍此儀可然といふ処に、義明聞召し大に笑ひ給ひ、合戦の例にて、一足も引けば、虎も鼠になり、一足も進めば、鼠も虎となるといへり。引くまねせんに、敵に利を付くる端なるべし。其上勢の多少に依るべからず。兵の剛臆によるべし。氏綱が武勇、我が片手にや及ぶべき。何程の事かあるべき。河を渡らせ近々と引寄せ、我が手に懸けて氏綱を討取りて後に、東国を安々と治むべし。年月の本望爰にあり。氏綱を逃すべからずと、扇を打振り給ふ。運の尽きぬるあさましさ、たとへていはん方もなし。小田原の先陣、一度に颯と馬を打入れて、弓の本強取違へて、疋馬に流をせき上げて、向の岸にぞ駈上る。椎津隼人佐・鹿島の郡司以下、散々に駈合ひ、命を惜まず乱合ひてオープンアクセス NDLJP:195鑓を合せ、切つつ突きつ、火を散らして戦ひけるが、駈立てられて引退く所に、里見義弘・逸見山城以下強弓勢共、喚き叫んで射立てけれ共、小田原勢事ともせず進みければ、両方より射る矢に、先陣数百人、痛手負ひて進み兼ねたり。是を見て先手の大将小弓の御曹司と御所御弟基頼、喚いて切つて懸り給ふ。氏綱御覧じて、爰に深入するは、先手の大将の旗と見ゆるぞ。入立てゝ討取れや者共と下知すれば、伊東・朝倉・桑原・石巻の一人当千の兵共、両方より取巻きて散々に攻めければ、大将の馬の平頭二太刀切られ、犬居に伏せば、下立ちて戦ひしが、脇下内胃吹返しの外れ二所突かれ、気尽き力たゆみて、終に討死し給ひける。足利基頼戦死逸見入道、義明の御前に来りて申しけるは、今朝の軍に、御味方の軍兵、数多討死仕りぬ。其上先手の大将の御馬印も見えず候。若し割つて御通りか、亦御討死か、如何様味方の負軍なるべし。爰を落ちて、重ねて兵を催して、今日の恥を清がんといひければ、義明大きに怒つて、如何様味方の兵共、臆病にてこそ負けつらん。いで義明先駈して、強勢の程を汝等に知らせんとて、真先かけて打つて出づ。其日の装束には、赤地の錦のひたゝれに、桐の裾金物を打つたる唐綾繊の鎧着て、来国行三尺二寸の面影といふ太刀、二尺七寸赤銅作りの重代の御太刀二振佩いて、法城寺の大長刀を茎短に取り、鬼月毛といふ名馬に、御紋の梨地の鞍置きて、紅の大総懸け、白泡かませ、唯一しゆんに進んで駈け給へば、佐々木少二郎以下馬廻二十四騎、馬を揃へて駈出でたり。義明の御馬は、奥州の葛西殿より、六部一の名馬とて、去年進られたりける、三の戸たちの早馬、駈足の逸物なれば、主は本より屈竟の乗手にて、人より一段計先立ちて、敵軍へ駈入り、鎧の端へさはるを幸と、踏倒し切落す。是を大将と見てければ、前後より取籠め、我れ討取らんと攻めけれども、本より馬強なる打物の達者なれば、自ら武勇の人に勝れたるを憑みて、軍立大逸りにて、逃ぐる敵を追立て切て落し、味方の兵も続かざるに、大勢の中に駈入りける。小田原勢の中に、安藤といふ者、荒皮の黒き鎧に、鎖錏の甲に鍬形打つて着たりけるが、長太刀を抜きて差翳し、義明を目に掛け、近々と寄せける処を、義明御覧じて、弓手の方へ下り立ちて、開打にしとゝ打ち、甲の錏の鎖をかけず打つて、首を丁と打落し、余る太刀にて、左に懸る敵を払ふ。其刃に胸を冷オープンアクセス NDLJP:196し、敵敢て近付かざりければ、とある岡に打寄りて、続く味方を待給ひ、鎧に余る血を、笠符にて押拭ひ、息を休めて居たりける処に、義弘以下の兵共は、大将の行方も知らず、氏綱の旗本懸合ひけるが、五十騎に打なされ、東の山際へ筋違に落行きければ、猶帰り来りて、義明を助けんとする兵も少し。こは如何にと見る処に、小田原の中に、八州無双と聞えし強弓、横井神助と申す者にて候。請けて御覧ぜよと、いひもはなさず丁と射る。義明の栴檀の板をかけず射通し、矢先三寸余り射貫きければ、さしもの猛将なれども、足利義明戦死一筋にて目昏れ、太刀を杖につき、立竦みにこそ死に給ふ。横井、靱を叩いて矢叫し、敵の大将をば射留めたるぞと叫びける処に、御所の御馬廻三騎馳来り、神助を討取らんと、切つて懸る。神助が息小林平左衛門といふ者馳来り、馬より飛下り、向ふ敵一騎討つて落し、二人を追散らしける間に、神助馬に打乗り、打つれてこそ切合ひける。其間に松田弥二郎、直達に馬を馳懸けて、一太刀打つて当倒し、義明の首をば取つてけり。さしもの大将なれども、運尽き果て、やみと討たれ給ふ。佐々木四郎・逸見八郎・佐野藤三・町野十郎以下御馬廻、深入して戦ひけるが、大将の御討死と聞きて、今は誰れが為にか軍をすべきと、各馬を乗放し、大将の死骸を枕とし、自害する外の事あらじと、各馳行く処に、逸見山城入道、右の臂切れて、草摺に立つ矢少々折かけ、馳来りて申しけるは、皆々自害し給ふ処、武士の本望なり。然れども小弓に残し置きし若公達をば、誰かは隠し申すべき、定めてやみと生捕申して、名将の御一跡を、匹夫の蹄にかけん事口惜しかるべし。歎きても余りあり。此度の命を全うし、君達を落し申す謀をなし、時節を見合せ、先君の恨を死後に報し給はゞ、君も嘻しく思召すべしと、理を尽して申しければ、此人々一同に申しけるは、口惜さ事を宣ふものかな。爰を遁れ、再び誰に面を合すべき。自害せんと待つ処に、山城重ねて申しけるは、是は各の誤なり。死を一途に定むるは、近うして安し。謀を万代に残すは、遠くして難しといへり。唯とくと勧められて、此人々相伴ひ小弓へ帰り、若君の御供申し、御宝物を取り、御殿に火を懸け、房州へこそ落行きけれ。山城守主従二騎、義明の御死骸の辺にて、馬より飛下り扇を上げ、是は此日頃鬼神の様に申しつる、鎮東の将軍源の義明と聞えさせ給ひし御内のオープンアクセス NDLJP:197侍、逸見山城守といふ者なり。小田原方に、我と思はん者あらば、押寄せて首を取れと、扇を挙げて招きければ、小田原の住人山中修理亮と名乗りて、近々と寄せければ、山城馳寄りて、御辺は氏綱の家人何がしと見ゆるぞ。我首取つて高名にせよと打つてかゝる。山城が郎等、主を討たせじと馳双ぶ処に、修理亮が郎等あまた馳来りて取籠めければ、終に山城守、修理亮に首をば取られにけり。彼義明朝臣は、久しく両総州に逆威を振ひ、諸人龍蛇の毒を恐れ、万民虎狼の害を歎きしに、忽に亡されて跡永く絶えしかば、氏綱の武功の程、感ぜぬ人もなかりける。
 
八幡宮建立の事
 
今度小弓殿は、高家といひ強将なれば、合戦打勝つとも、二戦三戦して、やう城を取るべきなどと、予て小田原衆ども思ひしに、氏綱の武勇人に勝れ、謀かしこき故に、終に容易く討取り給ふ。然れども様々信心をなされ、御立願もありしとかや。其願を果されん為め、又は子孫の武運をも祈らん為め、鶴ヶ岡八幡宮建立ある。此宮寺、頼朝の初めて御建立ありてより、代々将軍家の御崇敬あり、関東無双の霊場なり。然れども近代乱逆隙なくして、久しく修造なければ、宮々社々の朱の玉垣朽果てゝ、楼閣多く退転す。依之氏綱大檀那として、神宮寺参宮、弁才天の社・白旗の明神・鐘楼・惣門・朱の玉里・石橋を初め、百八十間の廊下まで、金銀を鏤め、花のたるき、雲形簷牙の構、成風の功、数目経営事成り、綺麗の粧なりしかども、民の煩もなく、国のつひえもなかりければ、氏綱の御威光、日を追ひ月に重なりけり。
 
氏綱連歌の事
 
斯る弓馬合戦の隙なきに。氏綱常に歌道に御心を寄す。駿河より宗長を節々招き越し、連歌をぞなされける。又小田原福田寺の住持愛阿といふ者、衆に勝れたる連歌の達者、又松田長慶も、隠なき名人なり。彼是三四人月次の御会ありて、隠し名を付け、田舎連歌と号し、京にて点を取り給ふ。惣じて時衆の僧、昔より和歌を専とし、金瘡の療治を事とす。依之御陣の先へも召連れ、金瘡をも療治し、又死骸を治め、オープンアクセス NDLJP:198或は最後の十念をも受け給ひけるほどに、何れの大将も同道ありて、賞翫あるとぞ聞えし。其頃早河心明院にて、千句の連歌あり。又月次の会もあり。氏綱公も毎度御出なり。

   発句

菊の露月にやましら玉の庭 氏綱

八千代の椿秋をふるかな 長慶

名もしるき岩の松虫音にたてゝ 宗長

   又

更け行く野辺の鹿の音夜半月 飛鳥井二楽公融

下葉うつらふ庭のむら萩 竹庵

今朝はかつ萩の上風吹過ぎて 氏綱

此外日々の連歌ども、余り多きまゝ畧之畢。

 
氏綱逝去の事
 
天文十年の夏の頃、氏綱不予の事あり。定業や来りけん、医王如来の誓約も、祈るに其験もなく、者婆扁鵲が霊薬も、施すに験なくて、次第に重り給ひしかば、終に同七月十九日、五十五歳にて空しくなり給ひける。北条氏綱死去一門の歎き申す計りなし。即湯本早雲寺にて、一返の煙になし奉る。別称は春松院殿快翁活公居士と名付け申し、七日七日の作善、言葉にも述べ難し。四十九日に当る日、小田原中の僧綱を集めて、一千部の頓写あり、結願の願文をば、氏康自筆に草案あり。物毎に愁を曳き悲を添ふ秋の色、光陰不待人無常迅速なる理、貴も行き賤も行き、皆古になりぬる哀れさ。道師富楼那の弁舌を借りて、数刻演説し給へば、一門旧臣は申すに及ばず、簾中の女房達、聴聞の為に参り集りし通俗男女、皆袖をぞ絞りける。
 
由井浜大鳥居建立の事
 
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其後氏康は、先老の遺願をも果し、且は武運栄久をも祈られん為に、鶴ヶ岡の八幡宮の大鳥居を建立あり。天文十一年卯月十日、修造終りしかば、先例に任せ、一切経を転読あり。諸国の僧侶、清浄の僧侶、別して南都七大寺・高野山槙の尾・三井寺・鎌倉五山家・雪下の院家衆・極楽寺・称名寺の律宗衆、集りて勤之。近代未聞の作善なり。殷々たる梵言は、本地三身の高聴にも達し、玲々たる鈴の声は、垂迹五能の応化をも助けんとぞ覚えける。其外金銀の幣帛・太刀・長刀・馬・鞍に至るまで、心の及ばざる宝物を進らせらる。斯る乱逆の世の中に、無双の大法会無事に遂げられて、多年の念願、一時に望み足りぬと、氏康喜悦の眉を開き、小田原へ帰らせ給ふが、宮寺の奉行せし大道寺にも、御馬御腰物下されけり。

 
 
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異本小田原記 巻之二
 
 
河越夜軍の事
 
天文十二年の頃、関東管領上杉兵部大輔憲政と、駿河守護今川新五郎氏親と相談して、駿河勢・小田原衆の籠りし長久保の城を攻むると聞えければ、北条氏康、長久保へ加勢を遣すべき由、仰せられける処に、両上杉、長久保の後詰の為に、北条殿の城武州河越を攻落すべしとて、両上杉東八ヶ国の勢を払つて、八万余騎にて、同年九月廿六日発向し、憲政は砂窪に旗を立て、先勢を以て河越の城を、稲麻竹葦の如くに取巻きたり。河越の城には、北条左衛門大夫籠りけり。本より無双の猛将にて、関東・伊豆・駿河・甲州境の戦に、毎度魁殿の働、寡を以て多に勝ち、万死を出でて一生に逢ふ。其の上氏康へ無二の信臣たりしかば、本は福島左衛門なりしを、追年北条を贈オープンアクセス NDLJP:200り、北条左衛門太夫といふ。後には上総介とぞ申しける。役人の指物には、黄色のねりを四の四方にして、八幡を大文字を書きければ、時の人、地黄八幡の左衛門太夫とぞ名付けゝる。されば斯る大剛の兵なれば、伊豆・相模の兵僅に三千余騎にて、上杉勢八万を引請け、昼夜旦暮に戦ひける。其勢暴に漲り来りて、平地忽に江河となり、太山崩れて海を埋むとも、却て頭を動かす可らずと見えにける。其頃古河の公方晴氏卿へ、憲政使者を参らせ、今度管領へ御合力ありて、河越へ御動座をなされ、氏康を御対治あらば、公方を鎌倉へ居ゑ奉り、仰奉るべき由言上す。此公方は、古氏綱の御聟にて、氏康とも親しく御坐せしかば、氏康も、代官を以て申上げられけるは、如何に管領の申さるゝといふ共、唯今何の科によりて、当家を御対治あるべきや。公方様はたとひ如何なる事ありとも、御動座あるべからず。今度の合戦、味方勝つとも敵の勝ちても、皆公方の御家人にて、御下知を請くる事なれば、一方への御加勢謂なしと、細々と言上せられければ、公方聞召して、上杉への御合力はなかるべしと定まりける間、氏康悦び、頓て後詰の勢を出し、上杉を追落せと評定ある処に、難波田弾正・小野三河守、古河殿へ参り言上しけるは、今度氏康言上に付きて、管領へ御合力なき由承り候。実にて候はゞ、甚以て不可然存ずるなり。抑公方管領は、尊氏将軍より以来、代々君臣水魚の忠徳にて、終に絶えざりしに、長春院殿の御代に、君臣不快ありし後に、斯様に関東の乱となり、誰か安全に凌がせ給ふ。今度たま君臣合体にて、管領関東を始め、御代に附け奉るべき由にて、已に打立ち候へば、早早御加勢あり、御動産然るべし。氏康御縁者にて、不便に思召す事尤なれども、祖父早雲より已に三代に至るまで、伊豆・相模・武州に及び、国郡を治むると雖、何れの所か、公方へ奉りて候や。己が威勢の募るに任せて、公方管領をも滅して、関東を治めんと計らひ候なれば、今度彼を御対治ありて、御世を持たせ給ふべき由、頻に言上ありしかば、公方即ち納得ありて、天文十二年十月二十七日、河越へ御動座ありて、御旗を立て給へば、関東分国の御勢馳集り、河越を取巻きて、食攻にこそ詰めにける。去程に籠城も、兵糧連送の路を塞がれ、已に飢に及ばんとす。とても死なん命を打つて出で、華やかに討死すべき由、各申しける所に、氏康も、左衛門太夫を攻落されてはオープンアクセス NDLJP:201叶ふまじ。急ぎ後詰の勢を出し、上杉を追散らすべし。さりながら敵に味方を比ぶべからず。唯九牛が一毛なれば、一散に戦ひて、叶ひ難くば謀あるべし。其間に籠城の兵共怺へ兼ね、打つて出でなば専なし。能々城を堅固に持ちて、後詰の軍を待つべしと、城中の兵共に知らせたく思へども、通路なければ叶はじ。如何せんと宣ふ処に、彼左衛門太夫が弟福島弁千世とて、生年十七歳になりける児、容儀骨柄美麗にして、氏康秘蔵の小性なりけるが、進み出でて申しけるは、此事城中へ知らせざらんは、ゆゝしき御大事なり。如何なる人なりとも、左右なく通り難し。某敵陣をたばかり、城へ駈入りて申すべし。又余の御使者ならば、敵に若し生捕られて、白状する事もあるべし。弁千世に於ては、縦ひ身をずたに裂かれ、骨を寸々に砕かるとも、此事をいふべからず。哀れ自らが参るべしとて、氏康へ最後の暇を請ひ、唯一騎敵中を静々と打つて通り、大手の門前へ駈寄せぬれば、敵も城中の兵共も、こはいかに、敵か味方かと見る所に、城中に籠りし木村といふ者見知りて、爰へ歩ませ寄るは、弁千世殿にて御坐しますぞや。馳向つて引入れ申せとて、十騎計馳出でける。弁千世も口鐙を合せて馳入りて、虎口の難を遁れ、大将の謀を細々と申しければ、左衛門太夫を初め、伊豆・相模の兵ども、大に勇み進みける。氏康は、小田原・長久保・三浦へも、五百騎三百騎の軍兵を分ちて、馬廻手勢駈けらる。千余騎先づ武州砂窪へ打つて出で、敵陣を見渡せば、公方管領の御勢、雲霞の如し。山河万里に満々たり。然れども氏康も軍勢も、大敵を見て恐れず、小敵を侮らず、世祖光武の心根を移したりし兵なれば、是を事ともせず、静に手分をせられける。氏康より、謀に公方へ申上げられけるは、河越籠城の兵共、已に飢に及び候間、命計御助に預らば、城并領地をば公方様へ進上すべき由、再三歎き申しければ、公方聞召し汝が参らせずとも、明日は已に城を攻落し、御支配あるべし。其上伊豆・相模の強兵ども、三千人籠りければ、是を皆誅せられなば、氏康小田原にも怺へ難かるべし。一人も助けば、後の禍となるべし。唯討取りて、氏康をも対治あるべしと聞えければ、氏康亦常陸国小田の政治の陣代菅谷といふ者を憑み、此の如く取囲まれ、すべき様なし。御辺を頼み候間、如何にもして、籠城の左衛門太夫を助け給へ。さあらば河越をば、其方へ明渡すべオープンアクセス NDLJP:202し。其上憲政とも、無事にして帰るべし。合戦をなさば、多勢に無勢、叶ひ難しと詫びければ、菅谷此由を披露す。上杉勢是を聞きて、さればこそ、氏康小田原勢若干ならん。我等が片手の小指にも及ばずと欺きて、物の数ともせず。此条耳にも入れず。唯河越を攻むべしと評定しける処に、氏康は敵を謀りすまし、天文十三年四月廿日、上杉を夜討にすべしとて、先笠原越前守を以て、敵陣へ忍びを付けて、体をうかゞひけるに、上杉衆、小田原勢などの懸るべしとは思ひもかけず。氏康は定めて、明日明後日は逃げて行くべし。河越を攻落して後に、小田原をも取るべしといふもあり、又氏康へ内通して、音信に及ぶもありける。中々合戦を、胸に持ちたるは少しと申しければ、時分はよきぞや、懸れとて、皆一同に打立ちける。頃は四月廿日、宵過ぐる程なりしかば、月もやう出でしかども、天曇り定かならず、小田原勢、わざと松明をば持たずして、紙を切つて鎧の上に懸け、肩衣のやうにし、相言葉を定め、皆重き差物馬鎧を懸けず、首を取るべからず、切捨と約束し、前にあるかとせば、後へ廻り、四方に変化して、一所に寄るなと下知し給ひ、子の刻計に下立ち、砂窪へ切つて入る。管領の勢は、小田原衆を侮りて油断しければ、俄にあはてふためき懸合せけるが、小田原勢四方に馳込み、前後より切つて入る。氏康は、大道寺を初めとして、印浪いなみ・荒河・諏訪・橋本、鑓を投入れ、十文字に駈破り、巴の字に追廻し、太刀の鍔音天地を轟かし、前後に入乱れ左右に散じて、攻め戦ふ程に、上杉憲政の旗本へ追付き、小野播州・本間江州・倉賀野三河守討死し、難波田は灯明寺口の古井へ落ちて討たれにけり。軍兵三千余人討死し、大将憲政叶はず敗北しければ、氏康勢追懸け追懸け、北条氏康上杉憲政を敗る討取りける所に、多目周防守は、氏康の旗本にありしが、あげ螺を吹立てければ、諸軍皆引帰して集りければ、周防守申しけるは、今夜の軍、不思議に味方の御勝なり。其上敵八万騎に味方八千余騎、十が一に及ばざる勢にて、斯様に勝利を得る事、古今ためし少し。敵取つて返さば、又味方のうかんぬる処、却て敵に利を付けなん。夜暁天に及ぶなれば、明けなば各勝つて甲の緒をしめ、松山の城へ引籠りて、今日の休息すべしと評定して、四方を駈廻り、士卒の気を励ましける所に、左衛門太夫城を払つて切つて出で、御所を追散らす。一陣破れぬれば、残党全からず。公方勢オープンアクセス NDLJP:203も頼み切つたる上杉を追散らされて、なじかは怺ふべき。一さゝへもさゝへず、乱れ散りて落行きける。去程に上杉普代太田源左衛門・藤田左衛門佐以下、悉く氏康へ降参す。又氏康弥大勢になりて、龍の雲を得たるが如く、虎を林に放したるに異ならず。氏康、左衛門太夫を召され、今度河越にて苦労の段、浅からざる所なり。心の智謀深さ故に、剛敵を退治し、抜群の功、東国無双の働なりと、御感斜ならず。其後氏康、軽部豊前守を使にて、古河殿へ言上す。其状に云。

連々公方様御刷偏雖其曲存候 既骨肉同性被宮仕候上、若君様御誕生以来者、猶以忠信一三昧令逼塞候所、去年号長久保之地駿州取詰所、憲政為後詰河越取巻、御動座之儀申上由其聞候得省、氏康事御膝下能有候得者、以代官度々言上。此刻一方向御懇切可迷惑候。唯何方ヘモ御発向候者、不善悪如何様之御威光可仰由申上候所、過半有御納得、御誓句之御書謹而頂戴、再三経拝読安堵思所、難波田弾正・小野因幡守以下依申上候而翻上意御馬、及両年御旗之間、城中三千余人籠置候者共、運糧用路塞之間、各及難儀由承付而、河越籠城者共身命今明難計、御赦免候者要害明渡可申由申上所、御納得御返答上、氏康武州砂窪打出、以諏訪右馬助・小田政治代官菅谷隠岐守、雖未聞不見仁候、従御備中招出、相頼河越籠城者共、被相扶候者、其方為警固要害唯今明渡可進。氏康被召出由申上所、御腹立以外之間、伊豆・相模者共、悉此城集置事、自掛天網来間、一人不漏候御腹立ニテ、如此之段并不申上之由、断々返答、重而者難上聞之由申使挨拶候。時節不移諸軍下立、砂窪押寄之間、氏康時節到来難一戦、両口同時切勝、憲政馬廻為始倉賀野三河守三千余人討捕。就中此度之諸軍之讒言根本人難波田弾正左衛門尉内幡守討留、散累年宿望事、唯氏康心底正路之儀、天道之憐不空故、開運条不思議次第候。然間先年亡父氏綱以若干計儀、内々御憑候間、諸侍背無止義明様奉退治、抽関東諸士忠懃事、都鄙無其隠所候。無幾程其先忠御忘可給哉。可其子孫事、君子逆道何事也。不善与善不悪与悪、臣以何可仰哉。爰許能々為御分別啓達候。恐惶謹言。

  十一月二日 平氏康

オープンアクセス NDLJP:204    進上簗田中務大輔殿

 
上杉敗北龍若最後の事
 
去程に土杉の人々、氏康に打負け、上州へ帰りしかども、次第々々に勢軽く成行きければ、小田原へ内通する者も多かりける。然れども太田美濃守は、猶岩付に在城して、江戸・河越へ人衆を懸け、度々の合戦やむ隙なし。其外忍の成田下総守・新田・長尾・由良・深谷・安中・山上・和田・倉賀野以下、長野信濃守を初めとして、大名数万騎ありければ、度々の戦に負けしか共、国をば終に取られず。此管領幼稚にして、父憲房に殿し給ひ、我まゝに成人し給ひければ、仮にも民の愁を知らず、人の嘲を顧みず、偽りを極め色に耽り、酒宴にのみ日を送る。依之佞人は日を追うて集り、賢人は自ら去る。されば上杉家、此時に至りて絶え果つべしと、見る人眉をぞ顰めける。其頃菅野大膳・上原兵庫助といふ佞臣あり。才短にして、官禄人よりも高からん事を望み、功少なくして、忠賞世に越えん事を思ひしかば、色々へつらひ憲政の気に入りて、政務を己が儘に乱りしかば、上杉の家風衰へ行く事、日頃に百倍せり。強は弱を貪り、弱は強に随ふ。国中に党を立つる者多くあれば、党の強を頼みて主を欺く。普代の名家も、当代出頭の下臈の為に掩はれ、外様の体面目を失ふ。されば兵、大将の下知を待つものなれば、度々の合戦に、我れ一大事と戦ふ者なくして、毎度打負け給ひける。爰に亦信方と上原相談して申しけるは、甲州の国司武田晴信、悪逆無道にして父を追出し、終に自ら滅すべき時節到来す。其上氏康へも内通ありて、当方へ敵対すと見えたり。押寄せて攻落すべしとて、天文十五年十月に、上杉勢笛吹峠を越して、甲州へ人衆を出す所に、晴信悪処へ敵を引請け、散々に攻めければ、上杉勢、甲州の戦にも打負け、散々になりて引返す。武田晴信上杉憲政を敗る其後弥威勢僅になりて、成田・由良・白倉以下、小田原へ音信して、降人とならん事を望みける。上杉方、虎の山に靠る恐れをなし、氏康は、龍の水を得たる如くに勢増す。去程に天文廿年三月十日、氏康三万騎の着到にて、上州へ発向して、上杉憲政の御館を攻めらる。太田美濃守・曽我兵庫・和田・長野・大熊等打つて出で、中途に敵を待懸けたり。小田原衆先陣北条左衛門太オープンアクセス NDLJP:205夫・子息善九郎・同新六郎・横井越前守・大谷諏訪等、一陣に進んで切つてかゝる。上杉方、爰を先途と戦ひしかども、悉く討負け引退く。上杉御館にもたまらず、厩橋の城に引籠る。小田原衆御館を放火して、御馬を入れらる。上杉の近臣曽我兵庫助・本庄宮内少輔等申しけるは、斯様に小田原次第に大勢になりて、出勢に及ばゝ、頓て上州をば取るべし。如何にも評定を廻らし、当国無為の謀を回らし候はんとぞ、宅間・岡庭など評定しける。此分にては、以後必ず当家滅亡すべし。越後の景虎は、当世無双の勇士なり。是を召され、上杉を下され、大将にせば、小田原退治容易すかるべしと申す。誠に此議可然と一同に申せば、憲政合点ありて、城には子息龍若殿を留め、憲政越後へ出行ありて、何とぞ上州破れざるやうにとの儀なり。景虎、憲政を迎取りて大に悦び、御敵退治相違あるまじと申す。上杉憲政長尾景虎に頼る頓て契約ありて、上州一国憲政隠居分に、其外は手柄次第に切取るべしとの約束なり。即上杉の系図并重代の御所作りの太刀・天子の御旗等、景虎に譲らるゝ。御旗は錦にて、一本は御帝の御自筆に、

   千早振海中雲之幡之手仁東塵於払秋風

又一本に龍あり、

   天子旌旗勢如飛作活龍高擡頭角処雲自八

又一本には虎あり、

   六韜舐爪伝三略弄牙金弥猛西山白清風未味先

此三本并篠に飛雀の幕を下さる。此憲政は、三歳の時、父管領憲房逝去ありし程に、家来の長者共、公方へ申上げて、公方高基の二男を申請けて、上杉憲広と号し、管領の家を継がせ、其後憲政成人の上、憲広は隠居あり、上総の宮原といふ所に居住ある。上杉を改め本姓に復し、左馬頭源の晴直と号す。宮原の御所と申すは是なり。憲政は少年の頃より栄花にのみ誇り、民の弊、世の嘲を知らず。武勇も勝れずして家を亡し、子息龍若を差置き、家来の子景虎、而も二代逆心したる人を養子にして、家督を渡されし事、氏神春日大明神の神罰やらんと、諸人疎み果てける。子息龍若をば、家人共寄合ひ、果報尽きたる人を頼みにせんより、此人を小田原へ出し、其忠節に、所領の一所も安堵せんと談合して、即小田原方へ出す。氏康請取り即誅せらオープンアクセス NDLJP:206る。彼家人共目方新介を初め、一門悉く磔に懸けらる。忽に主の天罰蒙りけると、悪まぬ人もなかりける。

 
加島合戦の事
 
天文廿三年二月中旬、駿河へ小田原より御馬を出さる。先陣松田尾張守・北条常陸守・笠原能登守・志水大道寺を初めとして、下方庄へ打入り、吉原・柏原に陣を取る。今川義元、其頃尾張の敵蜂起して、三州迄発向しける間、其敵に対陣ある故、小田原衆に向はんずる事ならずして、甲斐国司武田大膳大夫晴信は、義元の小舅なり、其上晴信甲州を取る事、彼義元の影なれば、今度義元の代官として、甲州へ晴信出勢して、富士の大宮通り瀬古・ひんな・あつはらを通りて、富士川の端加島の柳島といふ処に、加藤下野といふ地下侍の屋敷を陣屋に用ふ。小山弥三郎・馬場民部を先陣として、大宮・あつはら辺へ足軽を出合ひ、日々に矢軍に及ぶ。同三月三日、氏康御父子出陣ある。大将は天の香久山に御旗を立てられ、池にへの河端に人数を備へ給ふ。甲州勢は加島より、苅屋河の辺へ人衆を出し、河を越えつ越えられつ、一日戦ひ暮らしける。小田原方には、大橋山城守・桑原平内・諏訪右馬助乗すけ一番鑓、其次に越智弾正といふ者、北条氏康武田晴信合戦白糸の鎧に鹿の角打つたる甲を着て物見に出で、小田といふ侍と鑓を合せ、互に名乗りて其敵を討ちける処に、敵大勢懸り組留め、已に討死と見ゆる処に、原美濃守といふ者、紺糸の鎧に、半月の二間計両方へ出でたる差物にて、甲の真額に原美濃守平虎胤と書きて猪首に着、駿の馬に乗り、太刀を抜いて切つて入る。敵二騎討落し、弾正を連れて除く。是は下総国千葉の侍なりしが、父原能登守友胤といふ者、小弓の御所合戦の頃、総州より浪人して甲州へ行き、信虎に奉公して、度々高名して討死す。其子美濃守父に勝りて大剛の者なれば、信虎烏帽子子にして虎胤と名付く。是亦高名比類なし。近年は北条殿へ参りて御奉公申す。度々の高名ありしなり。甲州衆は敵ながら、皆昔の傍輩なれば皆見知り、是ぞ討取らんと進む中にも、小山田が勢の中より、武者五騎切つて出で、虎胤を追懸けたり。美濃が脇に武州江戸の住人太田源六といふ大力の剛の者、樫の棒にて、甲州衆の先駈の武者を馳寄せオープンアクセス NDLJP:207打落す。亦振上げて、甲を微塵に打砕かんとす。美濃守立返りて、是は甲州にて、我等の目をかけし者にて候。命をば助け給はり候へ、源六殿とて、源六と同心して、静に引いて入る。甲州衆是等が勢を見て、叶はずや思ひけん、懸らず。然れども源六は、馬を射られける。美濃は手負を助け、手も負はず帰る。此人々御感に預り、大将より御褒美を下されける。其日互に相引にして、明後日有無の勝負とある処に、瀬古の善徳寺の長老、府中臨済寺の長老は御兄弟にて、今河殿の御一家なり。此両和尚、両方へ御扱を入れ給ひ、以来共に近国の取合よしなしとて、御和談ありて可然とて、様々仰せらるゝ程に、三大将共に善徳寺へ出合ひ給ひ、和談の御祝御盃取交しあり。即ち盟会の験にとて、氏康の一男氏政は、晴信の聟になり、義元の家督氏真、氏康の聟にと約諾ありて、目出度御帰陣なり。武田・今川・北条和睦其後御祝儀の使者三方へ往来す。同年秋の末、古河公方晴氏卿、逆臣共の勧によりて、小田原を対治あるべき御企あり。先年河越にて、不義の御有様ありしかども、流石に御妹聟なりしかば、今に如在なく仰ぎ奉り給ふ処に、動もすれば御謀叛を起させ給ふ。今度は召捕り奉るべしとて、同十月四日古河の城へ押寄せ散々に攻戦ふ。公方家にも一色・二階堂・簗田・沼田以下軍兵共、爰を先途と戦ひしかども、小田原衆に猛気を砕かれ、終に攻落されにける。扨公方を捕り奉り、相州波多野の中、曽谷と申す処へ押籠め申しける。扨色々御扱に及び、晴氏卿は御隠居あり、御子義氏を公方になしける。足利晴氏幽閉せらる是は氏綱の御息女の腹に出来給ひし若公なれば、小田原よりも御馳走は限りなし。即ち京公方より御吹挙あり、勅使を立てられ、左馬頭に補任あり、葛西谷に移し奉らる。
 
三浦軍の事
 
弘治二年の春よりも、長尾景虎上杉と改名して、管領と称す。太田美濃守資正、武州岩付に在城して、彼が下知に随ひ、近年小田原へ降参しける上杉の譜代衆へ触れ送り、上杉殿、名誉の若大将出来給へば、本の如く管領へ出仕可然由いひければ、成田中務を初めとして、皆彼下知に随ひ、多く以て上杉景虎に申通じける。景虎関東へ越山して、上州白井に馬を立てらる。此折しも房州里見義弘、上杉と一味して、兵船八オープンアクセス NDLJP:208十艘に取乗り、相州三浦へ押渡る。三浦に有合ふ小田原衆、海賊梶原備前守を初めとして、富永三郎左衛門・遠山丹波守、叫び喚いて切合ひける、房州勢叶はず、舟に乗り漕戻る。小田原衆、三崎の城より追懸け、舟に乗移り打合ひける。塩に追風に引かれて、敵の舟は引いて行く。味方は是を追懸け、よしや死して、海鮮の腹の中に葬らるゝとも、返して人口には嘲られまじと、機を進めて戦ひ暮らしけるに、夜に入りしかば、大風吹きて、房州勢の乗りし舟、沖を指して吹送る。味方は陸に打上りて、今日の息をぞ休めける。
 
結城政勝加勢を請ふ事
 
弘治元年の夏、下野結城殿伊勢参宮ありて下向の時小田原へ参り、出仕申度由、海蔵寺の和尚を以て申入れらる。予てより御旗下との儀にて、御太刀・御鷹など進上せらるゝとの事なれば、奏者には及ばずといへども、此和尚関東下向の時、結城殿より扶助に預り、今又当参の時分なれば、斯様に取持ち給ふ。和尚申されけるは、此結城殿、文武両道は申すに及ばず、弓馬・歌・兵法・水練、一として至らずといふ芸もなし。近年は仏道に心掛け給ひ、曹洞下善迦和尚にまみえ、禅法悟入を志し候。且又詩文を好み、先年結城、安穏寺にて蓮花を御覧じ、
 政勝

安穏寺前湖水天 行人抛年夕陽辺 秋風惟処太平曲 白露団々多少蓮

   和 皎月

客和扉残暑天 携詩道自東海辺 吟心乍入清香国 千里同風君子蓮

斯様に作り給ふ。文武二道の名将にて候由御披露ある。次の日に彼結城政勝、海蔵寺并山角遠江御同心にて出仕あり、毛氈十枚金子十五両進上なされ、即御対面あり。色々の御馳走。次日又本光寺に於て、天十郎に舞を舞せ御馳走。其後政勝、常陸の小田氏治と合戦可仕候、御加勢被成下との儀なり。最も御加勢あるべし、心易くオープンアクセス NDLJP:209あるべしと被仰ける。其後政勝御暇申候へども、平にして日と、海蔵寺へ御同道あり、花見の御遊あり。

 政勝

緑樹重陰細雨斜 清遊何幸寄香車 小庭紅葉待君意 四月留春一朶花

忘れめや仮寐の露の明ぼのヽ消えせぬ雪に庭の卯の花  綱周

忘るともよしや形見の露ながらおき別れ行く常夏の花  満春

こゝろあるや清き砌に色そひて君が袂に咲き匂ふはな  栄甫

宿からやまた残りける足引の山路のおくの山ざくら花  一春

其後結城へ帰り給ひ、其暮に御加勢所望ある。依之遠山丹波守・富永五百余騎にて発向す。壬生上総介、鹿沼・宇都宮よりも加勢あり。下野の那須隼人・茂呂因幡守加勢により、政勝大軍になり小田へ発向、海老島にて合戦、悪所を構へ待懸くる処へ、加勢大軍加はりしかば、小田叶はず引く。追討にいたし。氏治は小田へも入らず、土浦まで引退く。弘治二年四月五日、土浦の山王山合戦是なり。富永が子亀、幼少にて高名仕り、結城より褒美あり。扨又政勝は、小田原の加勢故に、百年先に小田へ取られし鹿窪を取返し申したるとて、大に悦び給ひ、使者あり。

 
沼田陣の事
 
其年の九月、景虎、太田美濃守・和田長野を引率して。上州へ出張、沼田の庄に在陣。氏康も小田原より御馬を出され、松田・大道寺・山角・伊勢足軽衆に、橋本・多目・荒河、其外上州・野州衆に、壬生中務大輔・茂呂因幡・佐野隼人・結城左衛門督悉く参陣す。十月三日より御対陣の処に、景虎俄に病気差起りて、頓て引入るにより、此方も御馬入れらるゝなり。同三年二月改元あり、永禄に移る。永禄元年四月中旬、関東公方義氏、鶴岡八幡宮へ初めて社参、或は先例を追ひ、御供には一色・高・二階堂・沼田・蒔田の吉良左兵衛佐参らる。是は氏康の妹聟にて御坐す故に、人、蒔田の御所と申す。小田原より大道寺駿河守参り、後陣に候す。言語道断の作法なり。
オープンアクセス NDLJP:210
 
古河御所薨去の事
 
永禄三年七月十八日、古河殿〔〈晴氏〉〕御年四十にて御他界あり。是故高基の御子なり。御前は氏綱の御娘にて、氏康殊に御いとりしもの妹なり。余りに深く歎息ありて、絶入り給ひしかとや。やう労り助け奉りける。其後中陰過ぎければ、せめての事に、六字の名号を句の上に置き、六首の御歌を遊ばさる。哀れに優しき御事とぞもてはやしける。

   なきあとを歎くばかりの涙河ながれの末のながき滝津瀬

   むつまじく結ぶ契のむつごとも空しき空にむらさきの雲

   哀れさを跡に残してあぢきなやあけぼのてらす有明の月

   みつ潮に御法の舟のみなし棹弥陀の誓と身はなりにける

   誰れもみな頼みをかけよ他念なく他力の心ぞたゞ仏なる

   二なき不思議の誓願不思議やな深き願ぞふたいとはなれ

 
天狗沙汰の事
 
其年の八月、足柄の城御普請御順見の為に、御馬出さる。御帰りに、関東の最乗寺へ御参詣あり。当寺開山了庵和尚、此山に山居ありしを、大森寄柄庵常に信じ、此寺を建立しける。されば関東・奥州まで、此の和尚の法孫として、諸寺悉く当寺の住を勤め、一年替に臨番なり。七堂伽藍の建立なり。七月廿八日、彼住寺替りなり。又開山の弟子道流といふ大力の僧ありしが、生れながら天狗となり、此山を守護せんといふ大誓願を起し、即天狗となり、山中に住み、悪智識の住をなせば、必ず来りて障砕をなす事疑なしなんどと、寺僧ことしく語りければ、御供の面々大に疑をなし、末世の不思議なりなどと叫きけるに、大風悉く吹落ち、寺の屋根皆吹取りて去る。真に風もなく晴れたる天気に、如此の事、天狗の所意無疑と御信仰あり。即普請仰付けられ、本の如く修造ありし。かゝる生天狗も今もありし。相州の不思議是なるべし。了庵和尚は曹洞の開基、道元七代の法孫なり。
オープンアクセス NDLJP:211
 
笠原越前追善の事
 
武州小机の城代笠原越前守は、いにしへ寺殿の忠臣たり。長綱に付き、氏綱・氏康の忠功不勝計。去弘治三年七月八日、小田原に於て逝去あり。法名雲昌慶公庵主と号す。此人武勇才芸双なく、和歌の道にも達者なり。氏康を初め奉り、諸臣の歎息限りなし。唯父母に別れたるに同じ。今年七月七日、第三年忌に当りしかば、彼子息能登守方へ、御追悼の御詩歌共あり、皆々歌を送らる。其歌数百種余り、御屋形の詩もあり。
   悼雲昌庵主 氏康

歿後秋風残異驚 忌辰七月已相迎 双星大有年々会 離恨明朝別様情

   和 隣松

這□従来非 三周一夢値芳迎 歓悲拭恨詩歌席 倰孚半言難

歌どもは余りに多くして記すに及ばず。

 
忍成田家伝の事
 
武蔵国に七党あり。先づ丹の党と申すは、宣化天皇の末孫丹治の姓にて、青木勅使河原安保是なり。横山党・猪俣党は、敏逹天皇の末葉小野姓にて、荻野・岡辺・横山是なり。児玉党は在道にて、本在・倉賀野是なり。私党は私市の姓、河原・久下是なり。其外は大方亡びて今はなし。又四家と申す家あり。其第一は忍の成田是なり。其系図を尋ぬるに、初の先祖は、大職冠十代の御末に、法城寺の関白太政大臣従一位道長公の御孫、式部大輔任隆、武蔵の国司となりて、幡羅郡に居住あり。彼御子式部大輔助隆は、伊予入道頼義の御叔父なり。然るに頼義、奥州の貞任・宗任御追罸の大将軍として御下向あり、武蔵国御通り、此郡へ御馬を寄せられ、諸士悉く出仕申す。助隆も大将へ御出仕の処に、大将は、助隆伯父なれば、見舞の為め御尋ね、中途にて相逢ふオープンアクセス NDLJP:212故、助隆も下馬仕れば、大将も御下馬にて、互に下馬の礼あり。彼例今に至つて、大将に対面の時互に下馬は、此家の作法なり。鎌倉殿にも、代々此礼式を御存知なり。此助隆に四人の子あり、一男は成田殿、二男は別府殿、三男は奈良殿、四男は玉井殿とて、兄弟相双びて御坐す。別府殿をは、左衛門尉行隆と申す。此行隆に二人子あり、兄をば左衛門佐行助・弟治部大輔義行、兄弟二人を西別府・東別府と申す。義行の子別府小太郎義重・其子行重、寿永三年の頃、源大夫義経の御供中、一谷の先駈し、鎌倉殿より勲功に預り、此家別けて繁昌す。其家よりも亦、北南といふ名字の侍別れたり。斯様に根本は一流にて、嫡庶歴然たれども、末に至りて、成田も玉井・奈良・別府も、何れも牛角の家となりて、少も其身の仕合よきに随ひ、其下知を請くる。又却て下知をなす時もありし。されば文明年中まで、成田・酒巻両別府・久下・奈良・玉井・須賀・忍・南なんどといふ地侍、何れも牛角の体にて、公方管領の下知に随ひけるが、其後関東大に乱れ、我々の意地を立て威を振ふ時になりしかば、其頃成田下総守入道宗蓮、心かさある人にて、忍を打つて忍の城に移りければ、早近隣の諸人もてなしければ、それより頓て忍の城を築立つる。此城始の中なれば、早々普請の捗行かざりしかば、近隣の諸将へ、毎年人足を雇ひ、多年に此城の要害を取立つる。然れば初は皆頼まれて、人足を借しけれども、後に数年、此事絶えずして、自ら忍殿へ役を出すやうに成行き、彼下知に随ひける。宗蓮一代の中、近隣の諸家を残らず下知し、其子下総守長泰の時分、地侍千騎の大将となりし。人は唯威の付くやうに振舞ふべき者なりと、氏綱批判ありしとかや。
 
長尾景虎管領に押成る事
 
関東管領上杉山内修理大夫憲政、去る天文廿年の秋、氏康に打負けて、上野国に怺り得ず、上杉景虎管領となる越後へ越して、長尾景虎を養子にし、上杉の系図を渡し、管領職を譲る。永禄二年四月より、景虎上州へ来り、回文を以て、関東の諸将へ申しけるは、去る永享の頃、関東方持氏謀叛を起し、彼追罰後、御息両人結城に於て又逆心。同上杉に仰付けられ退治す。其後たま成氏公御免を蒙り、鎌倉に入りしかども、又候や謀叛オープンアクセス NDLJP:213を起し、上杉憲忠を殺し給ふ。故京公方より、重ねて上杉顕定に仰付けられ、関東諸士悉く管領の下知に随ひ、成氏方を退治可仕の由勅諚、并公方の御下知の間、諸士普く畏り、上杉に随ひ、処々の合戦に打勝つ。京都より政知公方御下向あり、伊豆の国に御坐す。頓て成氏を、鎌倉を追出し申す処に、古河関宿の辺に漂泊して、やゝもすれば旧功の輩と語らひ、合戦を企つといへども、関東の事は、京より管領に仰付けらるゝ上は、誰あつてか、彼亡君の下知を可請や。然るに伊勢早雲・同氏綱、政知公御逝去の隙を窺ひ、小田原の城に入り、己が力を以て近辺を押領するに及ばず、古河殿をそのゝかし、彼下知と号し謀叛を起し、古河殿を己が聟とし、京都へ御敵をなす。早く誅罰をいたし、古河殿を追払ひ、関東可静の由、公方よりの御内書ありとて、京都よりの御教書の写、并憲政管領の譲状を添へ、東八州を諸共に披見の間、諸家不残発向して景虎に随ひ、彼下知を仰ぐ。大将八十六人軍勢十万余騎、先づ諸勢を遣し、小田原衆の籠りし沼田城・厩橋城を攻落し、諸家の人質を取りて、厩橋に入置きけり。関東公方は、関宿城に御坐しけるを、攻め奉るべしと聞えければ、結城・壬生を初めとして、小田原方の大名馳集りて守護し奉る。小田原より、太田大膳亮以下三百騎にて参り籠る。然る処に結城の家来下妻の城主多賀谷修理大夫逆心を起し、景虎方の諸将小田・宇都宮・佐竹・那須と相談し、結城の城へ寄すると聞えければ、同永禄三〈庚申〉年正月四日、結城春朝、公方に御暇申して、結城へ帰る処に、簗田中務大輔、景虎に語らはれ、古河の辺にて結城を討取るべしとて、五百余人待懸けゝる処に、結城方に、山河中書といふ者、真先に乗入り、晴朝も同じく切つて入る。簗田人衆を追捲り百余人討取りしかば、残りは悉く退きける。扨晴朝は、左右なく結城城に帰城し、同六日に、城の近辺悉く焼払ひ、我が持の城富谷・小栗・大島等の小城を悉く明けて、結城一所に人数を集め、八千余騎役所々々に備へて待つ処に、同七日、小田・佐竹小山・下妻・多賀谷・榎本・宇都宮、三方より攻寄せける。結城衆待懸けたる事なれば、三手に分れて突いて出で、散々に相戦ふ。寄手打負け方々へ退散す。晴朝一身の忠節と、公方よりも感状を給はる。景虎は厩橋より打立ちて、武州岩付の城主太田美濃守入道三楽斎を案内として、本庄・深谷・新田の長尾・館林の由良・毛呂を初めとして、オープンアクセス NDLJP:214上州衆を近衆に打たせ、小田原へ押寄する。已に先陣武州神奈川に着きしかば、小田原方にも評定ありて、松田・石巻・神尾・大谷・多目・小智・橋本を先とし、国府津前・一色・酒勾に出張して待懸けたり。軍将の下知として、野村源左衛門・同平氏左衛門・勝部与三・松山吉右衛門・越智弾正・安藤弥兵衛・田中五郎左衛門・藤巻民部以下伏兵になりて、大磯・小礒・梅沢の辺に差遣し、敵の隙を窺ひける。去る程に景虎の先陣、已に花水の河を渡りし注進ありしかば、重ねて軍評定ありて、此軍勢を防がん事、縦へば大河の水の出でたるを、手に留めんといふに同じ。諸勢悉く籠城し、城を堅固に固め、敵の勢をひすがせよ。関東の諸勢数万騎発向なれば、兵糧尽きん事疑なし。諸勢疲れて引心地付きたる時分、此方より軍勢を出し、敵のつつひえに来りて討つべし。先づ籠城の用意せよとて、近郷の土民等まで悉く城に入れ、或は山入して、在々所々残らず引払ひ、口々に出張の勢悉く打入れ、所々に伏兵をまりをひれて置き、敵の体を窺ひ見る。景虎手にさはる者なく、小田原表へ押寄せ、蓮池の門まで押寄す。彼門は松山・大道寺堅めければ、左右なく押寄するに能はず、人衆を備へ対陣す。景虎新参の関東衆に、強みを見せんと思ひ、金ざねを紅糸にて威したる大袖の鎧に、萠黄緞子に篠に雀すいに縫ひたる具足羽織着て、管領より譲りの朱采配を腰にさし、諸手へ乗込み下知して、敵の矢表を南東へ乗わり味方を勇め、凡そ人を、塵一筋程に思ひたる振舞なり。関東の諸将、上杉家の大やうなる管領の体にのみ習ひて、

上杉景虎の驍勇斯く景虎のいらひとき振舞を見て皆舌を鳴らし、此大将の下知を請けむ事如何と、恐れぬ人もなかりけり。去る程に景虎、小田原を一旦に攻破らん事も、敵堅固の備へにて叶はず、又長陣せんも、長途の事にて叶はず。先づ小田原表を引払ひ、此次に八幡宮に拝賀して、管領の披露せんとて、鎌倉へ引返す。甘縄の城に、北条常陸守籠りしを攻落さんとて押寄せけるに、此城当国無双の名城なり。元来用意の事なれば、諸勢を悉く加勢して、兵糧玉薬卓山に籠め置きければ、中々攻落す事叶はずとて、長尾弾正に申付け押へ置きて、上杉景虎鶴岡八幡宮参詣八幡宮へ参賀す。公方管領の拝賀の旧例を追ひ、小幡・大石の老臣を前後に打たせ、梶原に代々の如く太刀を持たせんとて尋ねけれども、其頃梶原家絶えたりしかば、太田美濃守が二男を、梶原源太と号し、彼家を継がオープンアクセス NDLJP:215せ、太刀を持たせ行列を正し参宮し、御宝前にて音楽ありて、諸院家衆・小別当其外神主等、追々沙金を取らせ、即下向を待つ。諸将辻々を警固して、所々にての礼あり。然るに忍の城主成田下総守長康は、大町辺に馬を立て、管領の下向を待ちけるが、成田が家には、昔伊予入道頼義・八幡太郎義家より以後、家例ありて、大将と一度に下馬して、至つて礼法の事なり。今の成田も、昔の例を追ひ、諸将馬より下り、床儿にての礼なれども、成田は、景虎にも、予て斯様の事は知りけると思ひ、馬上にて待ちけるに、景虎大に怒り申しけるは、昔の大将は伯父なれば、礼もありつらん。今主従の作法には叶ふべからずとて、挊者かせものに申付けて、成田を散々悪口し、馬より引落し、砂土につくばせけり。成田素襖袴にて、泥砂の上につくばはせ、鳥帽子打落して、土付けなどして、散々面目を失ひけれども、景虎入道大強剛の大将にて、少も立逢ふならば、其場にて討果すべき模様なれば、是非なくして我陣屋に帰りて、家老共を集め、扨も我れ地戦ひの時は、千騎の大将として、武州には、誰にか劣るべきと思ふに、殊更今度景虎へも一番に参り、忠功ことなからめ、斯様に侈り、人の見る前にて、恥辱を与へられ、無念類なし。所詮小田原と一味して、此怨を晴らすべしと、早々其夜引払ひ、酒巻・別府・玉井以下千余人、忍の領地へ帰りしかば、是を見て関東の諸士、いや成田は千騎の大将さへ、斯の如くにし給ふ、まして我々、景虎に奉公叶ふまじと、悉く引払ひ、己が城々へ帰り行く。太田美濃守・安房の里見・上州衆の外は、多分皆散々に成行く中にも、武州戸倉の城主大石源左衛門定重入道は、一番に小田原へ随ひける。斯様に皆引いて行きければ、景虎の人衆二万余騎計になりて、武州府中までやう引取る。六所の明神へ参詣す。此時小田原方中条出羽守・毛呂太郎等、越後勢の小荷駄奉行神崎を追散らし突崩し、荷物を悉く取りしかば、景虎武州府中に馬を立て、民屋を追捕し、兵糧を用意し、上州へ帰り参らる。景虎小田原発向とは是なり。其時景虎狂歌を詠み給ふ。

   味方にも敵にも早う成田殿長泰刀切れもはなれず

 
手島美作守の事
 
オープンアクセス NDLJP:216

爰に成田が家老手島美作守と、成田が二男の小児とを二人、景虎人質に取り、厩橋の城に入置きける。謙信帰城あるべき前の日、夜の番しける挊者一人来りて、手島を物蔭へ呼出し、さゝやきけるは、手島殿は成田長泰の御別心か、明日は即生害あらんとの風説に候。さ候はゞ御命を助け可申候。忍へ帰り給はゞ、殿は五千貫はどの大名と承り候。我等に三千貫の知行給ふべきやと申す。美作守大に驚き、是は何より安き事なりとて深く語らひ、三千貫の所領の状を書き与へ、偏にたますといふ。夜廻の衆悦び、馳廻りて其の用意し、河舟など才覚し置き、扨帰りて、手島を夫男に作りなし、金熊手抔かたげさせ、已に出でむとす。手島、成田の若君も、何とぞ落し申さんといふ。夜廻聞きて、美作殿一人さへ大切なり、其の上若君の事は、又屋敷さへ捨てゝ別心ある上は、是非に及ばず、跡に置き奉りて出で給へといひければ、窺入り給ひし隙に、夜廻りに付きて番所を忍び出で舟に乗り、早々逃れ出でて、忍へ帰りける。若君は千島を尋ねて出で給へども見えず、跡より追手懸りしかば、河へ飛入りて、空しくなり失せ給ふこそ無慙なれ。手島美作守忍へ帰り、己が家へも入らず、先づ子息の左馬助を呼出し城へ使を立て、我数度の忠功して、更に一度も不忠なし。今何の故に捨殺し給はんとの儀、甚以て口惜し。小田原へ参り、氏康へ奉公仕るべし。御暇申すとて、已に打立ちけるを、長泰の子息五郎色々に留め、手島美作守を呼び、誠に代々の家老といひ忠節といひ、道理至極せりと詫び給へば、無是非美作守又忍へ立帰り、本の如くに家老となり、彼夜廻を取立て、三千貫の所を与へ、侍になしけるとぞ聞えし。此恨みにより、終には手島は成田の子息の氏長と一味して、長泰をば追出しけると聞えし。

 
景虎上洛の事
 
景虎上杉になり、関東表へ威勢を振ひ、諸公を手に付け鎌倉へ社参し、山内の旧跡に一宿して、其より上州に帰り、頓て越後に帰陣あり。迚もの儀に上洛し、公方へ出仕申すべしとて、我手勢の中、大力にて無病の弓馬に達者なる者を三百人勝りて、下々迄も斯様に選び連れて、同年五月に北国通を上洛し、四条に旅宿し、先づ時の所司代オープンアクセス NDLJP:217三好修理大夫所へ申入れられけるは、上杉景虎上洛関東管領上杉山内憲政が子上杉景虎、継目の出仕の為に上洛申すとありしかども、三好方へ、内々使者を以てなりとも、此段予て沙汰なきとや思ひけん、風気とて出合はず。中両日ありて、又申入れられけれ共、他行とて返事なし。景虎宿の亭主を呼びて、京の事共尋ねける。三好殿政道をばいかゞ申すぞと問ふ。亭主答へて云く、三好殿は、前代なき慈悲人にて、都人悦び候。常には何方へ御出あると問ふ。亭主が云く、御鷹野とて、一年二度づつ御下向あり、又毎月北野信心ありて御参詣あり、明後日爰許御通あるべしと申す。景虎大に悦びて、其の用意せよとて、矢の根に鼻油引き、弓に弦かけ鑓を硎ぎ、鉄炮に火縄挿縄しける程に、亭主驚き三好方へ参り、越後衆とやらん申す旅人、三好殿天神御参詣と聞きて、殊の外用意仕り候由、ありの儘に申す。三好驚き、頓て松山新入斎を使とし、景虎に対面あり、公方義輝公へ出仕を遂げさせける。景虎、金銀・御馬・越後布以下悉く進上仕り、室町殿より輝の一字を下され、輝虎と改名し、管領に補任し、状の裏書網代興を御免あり。輝虎御前近く寄りて申しけるは、三好等余りに侈り、公方様を蔑如にし奉ると見え候。若し過分の振舞あらば、急ぎ越州へ御下向候べし。我等罷上り、三好一門等退治仕り、重ねて御上洛なし奉り、君の御代を鎮め奉るべしと、御約束仕り帰国す。
 
河中島合戦の事
 
永禄四年八月、上杉輝虎、信州西条山に攻上り、海津の城を攻め給ふべき由聞えしかば、信玄、同月十八日甲州を立ち、同廿四日河中島に至り給ふ。小田原よりも、五島伊賀守・村岳兵庫加勢として、信州へ発向。信玄より西条山の下の道を取切り、越後の道を差塞ぐと雖、輝虎引退かず。猶西条山に陣を取りければ、同廿九日信玄、海津の城へ引入りけるに、河中島合戦同九月十日西条山へ押寄せ、合戦あるべしと相定めけるに、其夜輝虎河を越し、明くる卯の刻に、逆寄に懸り合ひ戦を初め、自身切つて入り、信玄弟左馬助を初めとし、山本勘介・初鹿源五郎等を討取り引返す。されども信玄大勢なれば事ともせず、其場をば終に引かず。輝虎其年三十四歳。河中島の合戦とは是オープンアクセス NDLJP:218なり。輝虎は越後帰陣なり。
 
松山合戦の事
 
武州岩付の太田美濃守資正、輝虎の下知に依つて、小田原方上田又二郎が籠りし松山の城を攻取り、上杉左衛門太夫憲勝を籠め、己が同心被官二千余人籠城す。小田原より氏政御出勢ありて、松山を攻めらるべしとなり。武田大膳大夫信玄も、小田原と一味にて、北条氏政松山の城を攻む松山の加勢として発向ある。永禄四年十二月十一日より、諸士相攻めける。此城は昔上田左右衛門築き、其後難波田弾正久しくふまへたる要害。近年は小田原より普請ありしかば、嶮難なる構にて、籠る勢多かり、兵糧水木玉薬卓山ありしかば、中々落つべきやうもなし。されども寄手入替り攻め寄せ、叫び喚いて攻めけるに、城中にても、爰を先途と防ぎければ、寄手の方よりも、甲信両国より、金鑿ども呼越して城中へ掘入る。鉄炮揃へ金鑿を打落せば、竹束を作り立て之を防ぐ。惣廻輪の櫓を掘倒し、惣廻輪を乗取る。城中難儀に及びければ、美濃守一人にて、後詰叶はずして、輝虎と里見義弘へ催促す。輝虎は去る九月、河中島にて信玄と組んで、勝劣を決せず無念なり。今度は自身加労し、両大将ながら討取り、関東の敵の根切をせんとて、越州・上州は申すに及ばず、下野の宇都宮・壬生・鹿沼まで引率し、房州の里見へも触送り、同十一月廿七日越後を立ち、深雪の中なれば、人馬共にかんぢきを踏み、山中を凌ぎ越して、二月上旬に、やう武州石戸に着きしかば、爰に陣を取り、敵を窺ひ見んとしける所に、すぐれ式部少輔、氏政の御前に参り、輝虎已に五三里近所にて着陣仕り候へども、敵城へは通路塞り、夢にも存ずまじ。某降人になりて城に入り、大将をだまし、扱になし申さんといひて、福島伊賀守に証人を渡し、夜に紛れ城に入り、余りに城勢疲れ給ふと聞きて、力を合せんと、敵に紛れ参りたる由申しければ、城中には日頃の懇情の人あり。太田美濃守とは、割なき仁なれば、斯く仇はあらんやと、運の極めの悲さは、皆是を馳走あり。其後勝式部少輔、まことしやかに申しけるは、真や信玄・氏政詰軍を払ひ、近日総攻あるべしと、金鑿を用意し竹束を作りて、中々矢鉄炮もあたらぬ様に用意して押寄すと聞く。越後の勢は寒国にオープンアクセス NDLJP:219て、三月の末迄は、人馬は出す事難し。扨又美濃守一人の後詰叶はず。里見殿も、三浦三崎の城の合戦に打負け、当年は思も寄らずとこそ聞え候へ。たゞ降参ありて、一所懸命の地に安堵し給へかし。時分もあらば、など立身も又なからんと、大将を初め、諸人に申聞かせける。其折節甲州の奉行人飯富源四郎景仲といふ口利の巧者、城中の持口へ使を遣し、物頭共三四人招き越して、色々賺し扱を入れ、唯降人になり城を渡し給へ。さらば各へ証人を渡すべし。一所の知行安堵偽なしと、牛王血判の誓状にて、城中へ申しければ、実にも勝式部申さるゝ如く、後詰もなき籠城に、詰腹切りて専なしと、上杉憲勝降る憲勝和談相済み、三月三日城を渡し出でければ、上杉輝虎是を知らず、里見義高・太田美濃守・壬生・宇都宮相侍悉く催し、同六日松山へ出張す。されども城は早落ちければ、輝虎大に腹を立て、美濃守に向つて、斯様に臆病なる大将に城を持たせ、輝虎に手持を失はする条奇怪なりと怒りしかば、美濃守籠りたる人数・鉄炮・玉薬・兵糧の書付、并憲勝の人質共を出して、如此と申す。其時輝虎人質共誅罰し、太田と中直りしける。扨次日卯の刻より足軽を出し、働きかけゝれども、武田方も小田原衆も、切所をば構へたり。勝つて甲の緒をしめ、出合ひ給はず。陣所を替へて、夜中に御勢を悉く打入れ給ふ。輝虎無念なりと怒りけれども、慕ふべきやうもなく、せめての事に、此辺に敵の城はなきかと、案内に問へば、私市の城に、小田伊賀守累代居住と申す。是はさのみ小田原方人といふにはあらねど、成田が弟なれば、是を攻めよとて押寄せ、一日一夜攻戦ひ、悉く破却の処に、城主降参し、美濃守に属し、色々詫びければ、助けて追出す。彼城に籠りし茂呂因幡守も、同じく命をば助り、小田原へ参る。上杉左衛門太夫憲勝には、武州都筑の郡にて、三百貫地を給はる。勝式部にも御感状下さる。扨又輝虎上州厩橋の城へ入り、城主長尾弾正入道、今度松山の加勢催促に応ぜずして、遅参とて切腹させ、城には北条を籠め置き、直に下野へ発向し、小山の城を攻めらる。小山弾正両三日合戦しけれども、終に打負け、家老まで人質を出し、扱を入れ和談になり、以後は輝虎の御旗下にとの儀にて、馬を入れらる。其次に佐野をも攻めらる。是は佐野小太郎政縄は、初のより輝虎に随ひ、異儀なしとは雖、家老共、やゝもすれば小田原へ音信し、佐野殿まで勧め、今度松山のオープンアクセス NDLJP:220加勢無之との腹立故、輝虎押寄せ、三日三夜入替り攻め給ふ。佐野も色々扱ひ、人質出し和談になり、卯月十日、輝虎馬を打入れ給ふ。
 
尺八のはやる事
 
其頃小田原氏康の伯父幻庵と甲すは、久野といふ処に居住ある程に、久野幻庵と申す。此人初めは箱根別当に契約にて、出家になし奉り、真言の学残らず学し給ふ。然るに伊勢の家に鞍の妙工あり。早雲幼少より嗜み給ふ。然れども北条の系図を請けて、子息氏綱は北条なれば、不伝之。幻庵出家の御身なれども、天然細工に天骨を得、伝ふる処の鞍の寸法、悉く習ひ極め給ふ。是のみに限らず、弓の細工を伝へ給ひ、矢をはぎ弦をさし給ふに双なし。又右台を作り、茶臼を作り給ふ事勝れたり。其後武勇もかしこく御坐しければ、又武家に還し奉りぬ。此頃は尺八を切り給ふ事名誉なり。幻庵切の尺人とて、一節切の尺八、都鄙に流浮し、禁中よりも御所望ありけり。依之尺八悉くはやり、小田原の若侍共、皆是をもてあそぶ。
 
高野台合戦の事
 
武州江戸の住人に、太田新六資高といふ人、大力剛兵の誉、八州に双びなし。凡三十人して動しけるしたゝか者なりけり。物の類を以て集る事なれば、其弟に太田源次三郎・同源四郎とて、共に大刀の兵ども集りていひけるは、それ兵は、剛強計にては、末代までの高名にはなり難し、それを如何にといふに、今武州の中にて、我等兄弟に上を越す武者あるべからず。如何なる鬼神なりとも、三人して随へんに、何程かあるべき。然れどもさのみ賞翫にも預らず、今に一城の主にもならず。先祖道灌は非力なれども、功兵にて、末代までも名を上ぐるのみなり。我々随分奉公を勤め、父子二代小田原へ奉公し、去る大永三年、江戸の城へ氏綱を引入れ、管領を追落し、ある城には遠山を据ゑ置き給へば、猶以て万事心に叶はず。いざや同名美濃守入道三楽斎と相談し、房州の里見義弘と引合ひ、江戸の城を攻落し、永く豊島郡を知行して、本より道灌の跡を継ぎて、江戸城を取るべしと思ふは如何にといひければ、オープンアクセス NDLJP:221二人の弟共、最も可然とぞ進みける。此程の大事なれば、左右なくはいはじとて、彼源六郎が菩提の寺法音寺といふ法華寺の番神堂に集り、神水を呑み、此事思ひ定めぬれば、二度返すべからずと敬白し、扨太田三楽方へ此由を云遣す。三楽大に悦び、即房州へ使者を立て、里見殿を招きしかば、義弘一国の勢并総州の軍兵を催して、総州高野台へ出張す。かゝりし程に、彼法音寺師檀の好を忘れ、此由を太田が家人三橋に申す。太田家人又主従の好を忘れ、大悪心を起し、彼僧同心して、小田原へ太田逆心の由、ありのまゝに申して、小田原より太田が討手として、遠山丹波・同隼人佐押寄せければ、源六兄弟相図相違して、夜中に岩付へ落行きけり。彼が一跡を彼家人に給はり、太田兵五と号しける。不日に打立ち給ひ、鵠の台へ御発向ある。江戸遠山丹波守・富永三郎左衛門・小金・高城・滝辰、小田原勢の見えざる先に、早市河の端まで寄せて備へたり。永禄七年正月七日早朝、氏康父子、伊豆・相模・中武蔵の軍勢を引率し、押寄せ給へば、暁天に及び、房州の先勢麗より繰入りて、中段に備へたり。富永・遠山・高城等、敵の引くとや思ひけん、さしもに高き鵠の台を、一文字に押登りて、一息ついで見たりければ、態と難所に引請けんと、中段に備へたり。去程に江戸の遠山丹波守父子・富永四郎以下切て入り、□の声を上るともともく攻登る。房州には、柾木大膳先駈にて、黒河権右衛門・河崎なといふ大力の兵、今度敵になりし太田源六・同源次三郎・同源四郎・長南七郎といふ逸雄の若者共、一面に打つて懸る。小田原衆は、敵をかさに請け、次第々々に追登らんとす。房州勢は敵を見下し、大石を落すが如く、一度に叫んで切つて落す。太田源六郎、遠山丹波守が父子の勢を、能く見知りて打つて懸る。遠山を初め、進む兵を六騎切つて落し、其頃相州無双の強兵と聞えし志水に渡り合ひ、つげの棒にて太刀を打折られ、かひふつて逃延びける。余りに無念なれば、又太刀にて打てば折れぬべしとて、鉄の棒を八天に作り、常に秘蔵しける。後の軍には取寄せ、七寸廻りの大棒を打振り打つて廻り、如何にもして志水を打落さんと乗廻る処に、志水終に見えず。依之口惜しやとて、甲の鉢釣中を嫌はず、当るを幸に打つて廻る程に、人馬多く打殺さる。太田下野守といふ人、小田原勢の先手なりしが、源六が有様を見て、是は我が聟の源六なるとや思ひけん、オープンアクセス NDLJP:222乗寄せ、如何に源六は、まさなき謀叛をしける者かな。我れ味方にあれば、如何にもして、先非を悔ゐて降参せよ。命計は助くべし。又今日の振舞厳めしや。去ながら馬は、何の科によりて打つや。人をこそ打ため。馬を多く打倒す条、罪作りなるべしと、言葉を懸けゝれば、いしくも宣ふものかな。人計打つべし。請けて見給へとて、闇打に舅の下野を丁と打つ。下野守も、太刀にて打そむけんとしけれども、大力に打たれて、何かは耐るべき。前なる深田へ転び落つ。情なき次第なり。是を初めて柾木大膳以下切つて懸り、突いて入りける程に、富永三郎左衛門尉・山角四郎左衛門尉・諏訪伊勢守・河村修理亮を初めて、小田原の先勢の百四十騎討死し、已に引色になりし処に、北条上総介地黄八幡の簇を靡し、横合に切つて懸る。里見殿先陣荒手に駈立てられ、しどろになりて引いて入る。二陣入変りて切つて出づる処に、氏政御覧じて、上総介討たすな続けと声をかけ、御馬を一散に駈出し給へば、上総介猶気を得て、敵の中に打つて入り、太刀の鍔音、鉄炮の声山河に響き夥し。本より上総介敵を目にかけ、猿の林を伝ひ、龍の水を得たるが如くに、四方八面に当り戦ひければ、房州勢五十騎計討死し、上総介は、木村・堀内・佐板横江・間宮以下、軍兵廿四五騎に打なされたりしかば、鎧の袖中の吹返に中りし矢の節折投げ、逃ぐるを追うて進みける。氏政自身駈付け給ひ、敵を追散らし、晩の戦には小田原勢打勝ちける。されども朝の軍に利なくして、遠山を初め討死しければ、房州勢は喜ぶ事限りなし。日已に暮れければ、相引に引き、明る八日房州衆は、小田原勢は定めて昨日の戦に、随分の侍大将共討たれぬ。又若干手負ひぬれば、今日休息して手負を助け、明日こそ寄せんずらんとて油断しけるに、大将より、昼より前は、各鎧脱ぐべからず。馬の鞍下すべからずと触れけれども、夕陽に及びしかば、戦は定めて明日なるべしとて、高ひぼを外し休みける。大将の陣屋には、小田原方の先手富永・遠山を討取り、目出度しとて盃を出し、酒盛さかもり半なりし処に、小田原方の物見、由井の源三殿の内横江忠兵衛と大橋山城守とて、忍びの上手あり。敵陣近く忍び寄り、帰り参りて申しけるは、御合戦あらば、必定味方の御勝なるべし。敵昨日今日の勝軍に誇り、殊外に油断して、殊に大将の本陣にて酒宴最中なり。最も先陣用心の輩少々あれども、諸軍草臥れ、オープンアクセス NDLJP:223中々唯今懸り揉立て給はゞ、皆敗軍と見えたりと申す。氏政大に感悦し、即打立ち二手に作り、両方より切つて懸り、貝皷を鳴らし、さしも高き鵠の台も、崩れよと攻め給へば、案の如く房州衆一耐りも耐らず敗軍す。然れども里見民部兄弟・柾木左近・菅野盛返し攻戦ひ、小田原先陣木内上野守以下、あまた爰にて討死す。されども後あばらになりしかば、房州衆は枕を双べて討死なり。太田美濃守と、小田原衆志水志摩介と組んで落ち、美濃守を取て抑へ、已に首を取らんとする処に、美濃守が家人才田若狭守落合ひて、上なる志水が首を取りて、下なる主を助けて落行きける。又小田原方山角伊予守といふ人、昨日の合戦に先駈しける敵柾木弾正とやらんを、今日は某組討にすべしといひしが、案の如く今日柾木弾正を討取り、自称の高名是なりと申す。大将義弘も、馬を射られて歩行立になり給ひ、已に危く見えし処に、安西とかやいふ者引返し、北条氏康鵠台を陥る我馬に懐き乗せ、早々落行き給へば、跡に留り防ぎける。小田原方には、是を大将と知らずあるにや、追懸けても討たざりける。此時残り留りて討死の人々、秋元・加藤・武田七郎・鳥居・多賀・佐貫・黒河等、以上二千余人と聞えし。太田源次三郎・同源六討洩らされ宿所に帰り、女房に向ひ、和主が父、我に言葉を懸け給ひし間、頭を打ちしなり。如何に痛みてありつらんといふ。女房大に歎きて、扨は父御前をば、打殺し給ひつらんとて尋ねければ、案の如く深田の中より死骸を取出し、形の如く孝養して、頓て尼になり、父の菩提を弔ひけるとかや。其尼公の寺、今江戸神田成真寺是なり。又里見重代の太刀大きつほう小きつほうといひしも、此合戦に失せけるとかや。小田原方も此由を聞きて、随分尋ねけれども、終に見えざりける。
 
成田父子不快の事
 
爰に忍の成田の旗下に、羽丹生の城主羽丹生豊前守といふ人あり。其両家老河田の藤井修理・志水の木戸陳斎といふ者あり。木戸陳斎は、越後輝虎へ心を寄せ、豊前守鷹野に出でし跡に、城を乗取りければ、羽丹生と藤井一同に懸り、数度合戦ありしかども終に打負け、〔〈欠字〉〕浪人して成田を頼まれ、木戸陳斎には輝虎加勢して、成田とオープンアクセス NDLJP:224合戦数度に及ぶ。忍の近所に盃尻といふ要害を構へ、成田の城の隙を窺ひ、夜懸苅田の競合止む事なし。然れども成田は大勢、木戸は小勢にて、終に成田を追落す事なし。或時成田盃尻へ取上げ攻めらるゝ処に、思も寄らざるに、太田美濃守盃尻の後詰の為に出張ある。木戸陳斎是に力を得、突いて出づる間、成田方悉く敗北す。陳斎出張し追懸けゝれば、余りに急に敗られて、城にさへ入る事もならず、遠州に逃げて行く。仔細は太田道誉出張と聞きて、城にも城戸をさし、用心の最中なれば、急に入る事なくして、無止むやみに散々になり、次日の早朝に、城に帰り入り給ふ。成田一生の不覚是なり。其後此恥を雪がんと、色々工夫しけれども終に叶はず。又此長泰老年に及びけれども、子息氏長に家督を譲る事もなく、唯常に色を好み酒を愛し、城外に別業を立て、小築といふ女房を京より呼下し、寵愛双なし。諸家老一門、是を嘲り諫めけれども用ひず。豊島美作守は、氏長に恨める仔細あり。子息氏長并御母儀へ申しけるは、長泰老体の御身にて、斯様に無行儀の作法、一門も他門も嘲り疎み果て申候。此時何とぞ皆々と談合ありて、大殿を無理に隠居なさるやうに才覚いたし、若殿を世に立て申すべしと申せば、母は本より女なり。氏長は不孝の人にて、唯兎も角も豊島計らひたるべしと談合せらる。長泰は是をば知らず、梅阿弥といふ同朋一人御供にて、小築といふ妾の方へ出でられ酒宴の処に、家中一門豊島に語らはれ、私市の小田伊賀守を初め、豊島左馬助・別府兄弟本城へ取込み、父長泰を早城へ入れじとの用意なり。然れば門も皆さし、入るべきやう無之処に、長泰心きゝの人にて、水落しの樋を潜り、本城へ入り給ふ。梅阿弥も同じく潜りけるに、すはや樋より入らせ給ふといふ間、皆々樋の口々を堅めける。三友十兵衛といふ者、樋の口に鑓を持ちて待構へ、長泰を突く。長泰は塚原卜伝一の弟子にて、兵法の達者にて、樋の口より突く鑓を、口にて咬へ給へば、十兵衛鑓を引く間に長泰を引出す。梅阿弥も出でければ、十兵衛逃延びける。扨本城へ入り、子息氏長を捕へ成敗に及ぶ所に、諸家中申合せたる事なれども、長泰は代々の主なれば、又討つべきやうもなし。氏長も是非に及ばざる所に、又長泰申されけるは、最も氏長年たくるまで家督を渡さゞる事、腹立の所謂あり。されども我一度盃尻を攻落して後、隠居せんと志したれば、彼是オープンアクセス NDLJP:225延引して、斯く父子の不和なる事、口惜き次第なりと宣ひける処に、成田の菩提所立円寺といふ長参老り、扱を入れて、先づ長泰をば無理に引立て、立円寺へ入れ給ふ。豊島美作守も、中々害心あれども、普代の主なれば、先々御供に参り、諸人参り、扨扨氏長の、御父に向ひて、斯様の逆心ためしなし。天道に違ひ給ふとて、皆々涙を流す。長泰、豊島に向ひ、汝が空泣そらなき無用。此逆心、己が業と覚えたりと宣ひける。理ながら可笑しかりし。去る程に又氏長方蜂起し、次に長泰誅せらるべしと、多勢向ふと聞えしが、立円寺の出家僧衆迄、皆々鉄炮に火縄かけ、鑓長刀用意して待懸けし。向城よりも左右なく懸り得ず、怺へて時を移す所に、此事小田原へ聞えければ、氏政より、桑原といふ侍御使に参り、扨々氏長、父を追出し候事、前代未聞なり。頓て御馬を出され、氏長退治ありて、長泰本理に仰付くべきの由御使なり。爰にて長泰思案し、父子の不和尤なれども、小田原より、子の氏長を討せても無慙なるべし。其上成田代々の家を、今度小田原に退治されなば、知行は定めて小田原へぞ召されんずらん。小田原より取られんより、子の氏長に取られんは、家中の儀に付きてもましなるべしと談合ありて、即入道となりて、蘆泊と号し、袈裟衣にて、小田原よりの使者に対面し、長泰年寄り候へば隠居仕り、早出家仕り候。氏長に家を譲り候上は、万事我等に替らず、仰付けられ下さるべしとの御返事なれば、此上はとて、小田原よりも御出馬はなし。長泰心ならず、永禄九年の秋隠居し給へども、三年まで父子の対面はなかりしに、三年目永禄十二年、駿州薩埵山合戦に氏長出張の時、初めて父子対面ありて、本城の留主居の為に、蘆泊本城へ入りしとなり。斯様に父に逆心ありし其報にて、無程彼家の末まで、皆亡び果てしとなり。
 
京公方の事
 
永禄七年七月四日、京の所司代三好修理大夫長慶逝去ありしかば、此事知れなば、公方より三好家御退治あるべしとて、葬礼も致さず隠し置きて、御煩の由披露す。京には、公方と三好と多年不和にて、やう近年和談にて、公方江州より御入洛の処に、又近江の侍共、三好を誅すべしとて、攻上りしかども、悉く打負けゝるに、三好殿もオープンアクセス NDLJP:226斯様に逝去あれば、三好の一門并家来の篠原・松山・松永なんど、三好日向守・同山城を勧め、明る八年五月十九日、室町殿へ押寄せて、御腹めさせ奉りけり。然れ共長慶逝去なり。京都を治むべきやうもなければ、頓て左馬頭義栄と申す人を取立て、公家よりも征夷将軍にしける。然れども故なく公方義輝を殺し申しける故にや、義栄将軍も、其年の中に病に冒されて逝去あり。三好が一族も、程なく亡び失せにけり。
 
上総軍の事
 
其頃房州里見より、上総国半国押領し、大龍・池和田・勝浦といふ三つ城あり、大龍には柾木大膳、勝浦には柾木左近、池和田には多賀といふ者在城す。小田原方富永・遠山・大道寺・多目等発向して、数日合戦なり。千葉家より椎名、原より佐久間等加勢として発向し、三つの城を悉く破却して攻落さんとす。三人の大将共、爰を先途と防ぎけれども叶はず、悉く引籠る。小田原方より入替へ攻めければ、皆落城す。上総国中残らず御支配なり。
 
関東諸家の事
 
坂東の八平氏坂東の八平氏といふは、三浦上総・千葉・北条・大庭・常陸・大極・秩父・葛西を申す。是は頼朝の頃より、尊氏の時分までありし。其後戦国に悉く滅び、尊氏将軍の時代より永禄の頃まで、八家といふ屋形あり。那須・結城・千葉・小山・宇都宮・小田・佐竹・里見、是を八家と申す。是は公方家より、朱采配并屋形の号を御免ある故に、八家と申す。其外をば、屋形とは申さず。東海道にては、吉良・今河・近江の佐々木・六角・中国には大内介大友、此外は上代には、屋形とはいはず、近代に小田原と甲州と、中国の毛利元就に、屋形号御免あるなり。屋形号なければ、正月家中衆烏帽子にての出仕はならざるなり。是は京公方万松院殿・光源院殿二代、公方よりの御免なり。
 
 
オープンアクセス NDLJP:227
 
異本小田原記 巻之三
 
 
臼井城合戦の事
 
永禄七千年年月、総州鵠台に合戦、小田原方打勝ち、已に御馬入れられける。越後の輝虎入道、房州と一味の間、出勢相催すと雖、越州雪深き所にて、馬人共に、冬の中は不自由にて、彼合戦の期、已に退きけれども、同三月下旬、下総国臼井の城へ発向す。彼臼井の城主原式部大輔は、千葉介国胤の近親にて、代々此城に在城す。然れども武勇も勝れ、所領も多ければ、時人千葉に勝る原と申す。されば主人千葉介は、同国千葉に在城し、原は此城に居住す。此城要害も堅からず、平城なれども、数代居住の地なればとて、此所に住しける。原は千葉家来なれども、主にも劣らぬ大名にて、与力衆に、小金の高城なんどとて、百騎二百騎の大名あまたあり。殊に謙信、近日発向の由聞えければ、千葉介より椎津・椎名以下数百騎楯籠り、小田原よりも、松田孫太郎并与力引具し、同籠しけれども、越州の大勢を防ぐべき様更になし。然れども其頃無双の軍配の名人白井入道、折節弓箭修行に来りて、此城にありしが、敵陣を勘へ見て申しけるは、今度大敵発向すといへども、更に恐るべからず。敵陣の上に立つ気、何れも殺気にして、田老に消ゆる。味方の陣中に立つ軍気、皆律気にして王相に消ゆる間、敵敗軍疑なしと申しければ、皆頼もしくぞ思ひける。果して、打勝ちけるぞ不思議なる。去程に輝虎衆河田・柿崎・内藤・長野・太田美濃守・其子梶原を初めとして、是程の小城、何程の事あるべき。上杉謙信臼井城を攻む唯一攻に揉落せと下知して、一旦に取巻き攻め給ふ。城中より原大蔵丞・高城胤辰突いて出で、暫く戦つて二陣に譲る。二番に東金の平山并酒井切つて出で、散々に戦ふ。敵も荒手を入替へ攻めにける。三番に、日已に夕陽に及びしかば、城主原が家老佐久間先駈として、松田孫太郎同心侍百五十余騎突いて出で、一面に進み、敵の一陣二陣を切払ひ追立て、輝虎の旗本まで追付く。孫太郎其日の装束、高角の甲の緒をしめ、朱具足にて、金を以て獅子を付オープンアクセス NDLJP:228けける鎧着て、黒馬の太く逞しきに乗り、大長刀八文字に開き持ち、与力の侍前後に引具し、真先に進み、敵八人自ら切つて落し、其後長刀をば下人に持たせ、樫の木の棒にて馬上の敵を叩き落し、捻首にして差上げ、組の侍蔭山新四郎・橋本以下、何れも高名させ、一足も退かず。越後勢は日已に暮れぬ。終日の軍に疲れ、本陣へ引返す。味方も城へ引いて入り、終日の息を休めらる。次日は悪日とて、城よりは足軽にても出さず、輝虎不思議に思ひ、昨日の軍、城中の勝軍なりし程に、今日早朝より突いて出でんと思ひしに、城中草臥れてやあらん。又今日の風雨に恐れてや出でざるらん。攻めてみよと押寄せ給へば本庄の某、輝虎に向つて申しけるは、城中には、真やらん、軍配の名人白井入道籠りしとかや申候。今日は干晦日とて、先負の日にて候。依之城中より人衆出でずと覚え候と申す。海野隼人、某も斯様に存候と申しも果てずに、片山の岸夥しく崩れ、其ひやくに打たれて、山際に控へたる越後勢数十人打たれ、人馬悉く死にければ、すはや今日悪日の験なり。懸るべからずとあけ貝を吹き、人衆を繰入るゝ処に、城より逆寄に、松田孫太郎先に進んで、追懸け突いて出る。越後勢を散々に追立て、切つて廻る。原も是を見て、城を払つて突いて出る。越後勢散々に突立てられ、本陣へ追打に、悉く追付き討取る。今日も松田自身敵七人討取り、馬をも射られ、歩立になりて、猶も追立て切つて懸る。輝虎此有様を見て、岩舟に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼が事なるべし。扨もいかめしき奴かなと誉め給ふ。其後輝虎叶はずと思ひ、頓て引返しけるを、原・松田追懸け、越後勢を悉く討取りけり。今度の松田が振舞、日頃よりは勝れたりとて、小田原にて御感状を給はり、并田島といふ処にて、二百貫の所領を給はりける。其よりも松田孫太郎を、鬼孫太郎とぞ申しける。
 
上州表発向の事
 
永禄七年の夏、小田原より氏政御馬を出され、下総国古河県に在陣ありて、小山の城を攻落さる。北条陸奥守殿衆を入れ置く。宇都宮も降参す。結城晴朝は、亡父政勝の代より重恩を蒙り、代々忠功もありけるが、今度氏政出張ありて、結城所領歿収せオープンアクセス NDLJP:229らるとの儀なりと聞えければ、結城の家人多賀谷・水谷を初めとして、悉く籠城し、即佐竹義重と一味しければ、佐竹よりも加勢あり、小山の城番手衆と互に足軽を出し、百塚・犬塚の辺にて、度々の競合あり。佐野の城にも、越後と一味なれば、御手遣ありしかども、越後の勢加勢して、中々城中堅固なり。古河の城普請仰付けられ、七月上旬帰陣なり。
 
唐人着船の事
 
永禄九年の春、三浦三崎の浦へ唐人着船、錦繍・織物・種々の焼物・沈香・麝香・珊瑚・虎珀の玉・あらゆる売物持来る。其頃関東富貴にて、悉く諸人買取り、売買の利を得て帰国しける。其中に唐人あまた、かゝる目出たき所へこそ往くべけれとて、帰国に能はず、当所に留まる。即小田原に居住、町屋を給はり、商人となり、今も其子孫、あまた小田原にありとかや。同十年の春、越後の輝虎上州へ来り、河越へ手遣の由聞えければ、小田原より御馬を出され、上州本庄の城を攻められ、本庄宮内少輔を攻落し、輝虎の籠りし厩橋の城を攻められけれども、輝虎出でず。之に依つて御馬を入れられける。
 
今河歿落の事隆埵合戦の事
 
永禄十一年九月、信玄駿河国を乗取る。其仔細は、信玄大慾深き人にて、先年親父信虎を追出し、甲斐国を乗取る間、信虎駿河へ牢人ありて、聟の今河義元を頼まる。義元討死の後、駿河の家中に物謂出来、家老と出頭の面々、心々に分れて、家中殊外さだつ。此時分武田信虎・子息上野介等、今河の家老一門瀬戸陸奥守・朝比奈等を相語らひ、廃河を乗取らんと企みしを、氏真聞き給ひ、信虎父子を追出してけり。信虎駿河を取る事叶はず、子息信玄とは不和なれども、此事を談合し、駿河を己が力にこそ叶はずとも、信玄に取らせ、中を直り、半国をも知行せんとや思ひけん、内々甲州へ使者を遣し、予て内談せし今河の家中にて、日頃逆心思ひ立ちける葛山備中守・瀬名陸奥守・子息中務少輔・朝比奈兵衛太夫・三浦与一等を、信玄へ引付け給ふ。此の人々、オープンアクセス NDLJP:230信玄よりたばかられ、或は駿河一国給ふべし。或は遠江一国与へんなどとすかされ、普代の恩を忘れ、一門の好をも顧みず、重代相伝の主人氏真を背きて、己等が慾心の為に、他国の武田信玄を引出す。信玄大に悦び、うつぶさ通りに松野といふ処より、由井の宿へ出張す。氏真も清見寺へ出向ひ、庵原安房守・新野式部少輔、先手の大将として、薩埵山・倉沢の辺、千五百騎出張す。同十二月十二日、矢合あるべしと定めし所に、駿河の侍大将朝比奈兵衛太夫・葛山・今河の一門なりし瀬名奥州を初めとして、武田上野・其子左衛門以下廿二人、手の者合せて六七百、皆信玄にたばかられ、役所を捨てゝ落行きける。氏真本陣あらはになり、旗本侍七八十残りしかば叶はず、府中の御館に帰り給ふ処に、彼逆心の廿二頭敵になり、引入りける間、氏真府中に怺へ兼ね、山西へ引取り給ふ。信玄は久野に野陣を居ゑ、河河衆を手に付け、其人質を甲州へ越し、又小田原へも寺島甫庵を使者として、色々の進物を上られ、氏真不行器故、追出して候。駿河国はあの分に候はゞ、家康に取られ候はんまゝ、信玄方より取り候なり。富士郡は、河より其方をば、小田原へ差上候はんと申され候。氏康父子大に忿り、彼使者甫庵を禁籠し、同十二年正月十八日、氏政父子、小田原を出馬ありて、三島の新経寺に本陣を居ゑらるゝ。松田尾張守・同肥後守・同右兵衛太夫・北条新三郎・狩野入道・北条常陸守・同治部少輔・五島伊賀守・大道寺駿河守・多目周防守・荒河豊後守・橋本次郎右衛門尉・下田下総守・千葉介国胤・原式部大輔・高木越前守・笠原能登守・大石信濃守・内藤大和守四万五千余騎、三島より蒲原まで、段々に備へける。信玄も久野より出張して、武田左馬助を大将として、奥津清見寺へ出勢なり。小田原衆は、三崎の城より、北条美濃守氏規・大道寺孫九郎舟をさし出す。伊豆のめらこ浦より、鈴木・渡辺・富永・太田・安藤・梶原三河守・間宮新左衛門、三百余艘の兵船を揃へ、三保が崎へ漕寄する。甲州衆は、舟の上は無調練にて、不案内なれば、悉く舟を捨てゝ上る。武田信玄北条氏康合戦同正月廿五日、氏康・氏政清見寺表へ御発向あり、薩埵山へ人衆を懸け給ふ。信玄も清見寺へ出張して、興津河原へ人衆を出し、辰巳の刻より未の刻まで、三ヶ度の競合あり。甲州衆、三度ながら敗北なり。其時松田右兵衛太夫、比類なき高名しで、御感状を給ばる。其後甲州衆、陣を堅固に固め、人衆を出さず。唯僅の足軽競合オープンアクセス NDLJP:231計りなり。小田原方は、伊豆国近くして、万事雑物自由なり。敵は、甲州の大山を越え、通路難儀にて、軍勢迷惑しける。斯る処に又氏真は、掛河の城に籠り給ふに、信玄、三河の家康へ使を立て、氏真不行器ゆゑ、駿府を追出し候間、遠江に在陣なり。三河より出張して、遠江を取り給へ。駿河より加勢をすべし。大井川を切つて、其方は御知行候へ。此方は我々知行すべし。万事は頼み申すとの儀なり。去程に家康、同正月廿三日掛河へ発向し、天王山にて、家康衆初度の懸合に打負くる。同廿八日の合戦氏真衆討負け、同三月まで対陣ありて、更に勝負見えず。然る処に家康、小倉内蔵助を以て、氏真へ申され候は、家康こと、今河殿の御恩を以て、父子已に二代岡崎を取返し、其上御烏帽子子に被成被下、御縁者に被仰付、斯様に立身仕候事、更に忘れ奉る事なし。それにより人質を差上げ、御無沙汰に存ぜず候処に、讒人の申様ありて、斯様に敵対申す事本意にあらず。去ながら是は一旦の申様にてこそあれ。和談なされ、遠江をば、迚もの御事に家康に給はり候へ。さなくば信玄取り申すべし。信玄に取られさせ給はんより、家康に給はり候はゞ、起請文を以て、家康御旗下になり、信玄を、小田原と談合いたし、二方より攻落し、府中へ氏真公を入れ申すべしと、再三申さるゝ間、氏真合点まし、家康起請文を奉り、此由を氏康と御相談ある。氏康も此由聞召し、最も可然との御返事なり。使は小倉内蔵助なり。扨和談相調ひ、氏真は掛河を家康に渡され、掛河より舟に乗り、家康より松平若狭守を以て送り奉り、伊豆の戸倉の城に、暫く御坐します。徳川家康武田信玄合戦扨家康より相図を定められ、府中へ発向し、信玄の留守居山県と合戦あり。府中の御館は、先日信玄焼き給ふ間、其焼跡に、山県が衆与力同心張陣しけるを、家康発向して攻め給へば、半時計戦ひけるが、叶はずして山県久野へ引取る。花沢・藤枝に籠りし氏真衆悦び、皆家康と一手になり、清見が関に、信玄入道陣を張り、小田原衆と前後より揉合ひ討取る。今度甲州へ降参の駿河衆を召捕るべき由悦びける処に、信玄是を聞きて、透間を算へ、其の夜の中に早々甲州へ引入りける。明くる四月六日、家康江尻まで被出けるに、氏康より、信玄落ちたる由御使ありし程に、皆目出度と罵り、頓て氏真の御迎として、日根野備中・牟礼江右衛門・朝比奈参りて、戸倉城より府中へ帰り入り給ふ。依オープンアクセス NDLJP:232之家康は、掛河城に松平和泉守を置きて、岡崎へ帰り給ふ。氏真は、府中に入り給へども、焼けたる跡、坐すべき所なくて、小倉内蔵助・森河日向守・岡部次郎右衛門・同大蔵・安部大蔵少輔・久野弾正に、御館の普請仰付けられ、先づ戸倉の城へ帰り、普請出来るを待ち給へとて、氏康・氏政本望を遂げられ、氏真本理ありて、目出度小田原へ帰らせ給ふ。大宮・長久保・蒲原・善徳寺・江尻の城には、氏真の人衆を置き給ふべけれども、今度皆分散しければ、小田原衆を入れ置き給ふ。
 
信玄籏を落す事
 
去程に信玄、今度江尻を落されし事を無念に思ひ、御坂越に人衆を出し、厨屋通りを排苑といふ処に出張しけるに、先手は三島へ乱防し、明神の神殿を打破り、戸帳を皆外し取り、内陣を見奉るに、神鏡の外に、本尊と覚しき物なし。諸勢共申しけるは、甲州は小国なれども、如何なる小社にも、皆本尊神体を、殊勝に作り奉りて居ゑ奉る。是武田殿代々仰神の故なり。三島は、海道に聞えたる大社にて、何として本尊もなきやらん。何とも知れぬ石の様なる物を、綿の如くなるに包みてあり。是若し本尊か。其外は何もなし。唯宮のある計にて尊き事なし。斯様の神もなき宮に、何の罰あらん。宝蔵も打破りて取れと申しけるに、吉田の某、其頃牢籠して甲州へ下り、父子共に信玄に手書してありしが、余りに勿体なく、うたてく覚えければ、進み出でて申しけるは、それ神道は、陰陽の根元、易道の本地にて、形もなく影もなし、鏡といふは、神といふ文字なり。神道には濁を嫌ふにより、鏡のがの字を除きて、かみと計り申すなり。是神道の根本なり。鏡則神なり。何の神形をか求めん。鏡は空虚にて曇なし。是を神と申すなり、斯様の大社を、左様に浅ましくせん事、誠に以て狼藉なりと申しも果てずに、雲一村箱根山の方より立ち、本陣へ帰りしと、三島の神主民部少輔が、中野といふ侍を以て、後に小田原へ申上げける。誠に神罰にや当りけん、小田原衆福島治部大輔・山角紀伊守、高国寺の番手に行きけるを、夜出でける物見共、夜討に出づると思ひ、帰りて敵は寄すと告げたりしかば、信玄早々引取りけるが、大水出来て、けいか島の辺の小屋并民屋皆流れ、兵糧荷物残らず流し、信玄重代の八オープンアクセス NDLJP:233幡大菩薩の小簇を捨てゝ敗軍なり。是を聞きて高国寺籠城衆、城を払つて追懸け、小荷駄を押取り、彼簇まで皆分捕して帰る。信玄一代の不覚と聞えし。神宝を犯しける信玄衆、駿河先方朝比奈小九郎兵衛、忽に仕人となる。不思議の事なり。
 
信玄小田原出張の事
 
斯様に駿河へ御加勢ありて、小田原の人衆少なければ、信玄其隙を窺ひ、今度小田原衆の思寄らざる方より確氷峠を越して、武蔵国江戸・葛西に懸り、人衆を二手に分けて、小田原へ寄する。一手は八王子口より町田に懸り、つくい滝山を攻むる体にて、道筋を追捕す。一手は江戸の城を攻むる体にて、江戸・品河・縄鳥辺を焼きて、民屋を追捕す。不思議なり此乱の時に、信玄の侍竹森といふ者、花村といふ者二人、品河観音堂を焼き、本尊を取りて財宝を追捕し、甲州へ行きて後、彼観音の仏罰当り、大に乱気せしかば、又余の処へ送りしに、同じく是も乱気して、後にはもてあつかひ、往来の乞食聖を頼み、品河へ返しける。此仏三年の後、色々の不思議を現し、品河へ自ら返るべき由託し宣ひ、終に品川へ返り給ふ。誠に末世の不思議なり。然れども御堂も焼け、斎き居ゑ奉るべき処もなく、乱世の頃、誰れ建立すべきやうもなくして、路の傍に乞食法師等、仮の草堂を作りて安置し奉る。今も森の辺に辻堂見ゆるは、此観音の事なるべし。其頃江戸の城には、富永神四郎在城しけるが、若輩にて而も小勢なり。葛西に遠山、本郷に太田・篠原・山角・寺尾・諏訪右馬助等ありしども、人衆は過半、駿河加勢として小田原へ召され、勢微なれば、各在所を焼かざるを肝要として、甲州衆を喰留め、合戦すべきやうなし。六郷に行方弾正居たりける。同じく己れが屋敷の近所なる八幡を要害に構へ、稲毛の田島・横山・駒林等引率し、橋を焼落し、甲州衆を通さず。信玄は、品河の宇多河石見守・鈴木等を追散らして、六郷の橋落ちければ、池上へ懸り、池上寺を追捕しける。此寺甲州身延の上人弟子なりしが、彼僧出でて色々申しければ、寺をば焼かず、此僧を案内者とし、矢口の渡りを舟にて渡り、稲毛の平間といふ所へ渡り、稲毛十六郷を追捕す。此時にや、江戸芳林院を焼き、本尊仏経を押取り、李太白の墨跡を取りしとかや。甲州にて、信玄重実と聞えし李オープンアクセス NDLJP:234太白の掛物是なり。大円寺を初めとして、寺悉く焼取り、本尊仏経迄奪ひ取りて通りける。敵地は尤も斯くあるべけれども、余りなる事なり。其頃六郷に、行方弾正居住しける。其辺の郷民等、皆六郷に集まる。又八王子の筋へ、信玄の弟逍遥軒と四郎勝頼発向す。又小机には、長綱代笠原能登守在城しければ、此次に我が城へも寄せらるゝかと待懸けたれども、小机へは懸らず、片倉神太寺といふ山を、筋違にかたひらといふ処に出勢す。此近所蒔田といふ処に、吉良左衛佐殿居住なり。左兵衛佐は、其頃大橋山城守・北見・関加賀守など相具して、小田原に在城あり。此吉良殿は、氏康の御妹聟にて、御台所は、蒔田に御坐します。折節人数もなければとて、多目周防守、其頃青木といふ処に居住したりけるが、蒔田殿の御所を焼かせては、甲斐なき命生きて専なしとて、我が構を捨て、栗田・藤巻などといふ同心共を召連れ、蒔田を守護す。軽部豊前守、折節蒔田にありしかば、各吉良殿屋敷の前なる山に上り、鉄炮をしかけ待ちければ、敵是へも来らず、藤沢にかゝり、かうすまへ河迄働く。藤沢には、大谷居住したりしかども、小田原に在城しければ、悉く追捕す。小田原勢、多く以て駿州へ分遣すといへども、残る人衆多勢なれば、北条左衛門佐氏忠・同常陸守・大道寺駿河守政繁、一色に在陣す。石巻下野守・九島道随入道、いさいたろう持堅む。爰に於て軍の評定あり。松田入道・北条幻庵長綱の申されけるは、今度信玄、駿河の口へ出張して、此方の人衆を悉くすかし、今信濃路より攻め来る。故に是迄入るとはいへども、別の仔細無之。此方の人衆悉く城へ入れ、籠城堅固に固め、敵を外方とざまになし、時々人数を出し、敵を疲らかし候はんに、甲州衆長途の長陣に兵糧尽きて、引退く事疑なし。先づ此方の人衆を引きて、籠城可然と申す。此儀最も可然。先年輝虎入道寄せ来り、引いて入る時、小荷駄を此方より取られ、命からにて退散あり。今度も其の如くなるべしと評定して、一色表の人数并いたいたの人衆をも引取り、地下人町人まで、近郷は悉く城へ入れ、遠所は皆曽我・山田・島・河村、思々に入りしかば、信玄手にさはる者なく、蓮池門まで攻入り、民屋少々焼きけれども、取るべき兵糧少もなければ、倦んで見ゆる処を、三浦衆の手より、足軽を出して合戦す。されども城より制して引入れければ、信玄両三月を在陣し、食つまり迷惑し、海辺をオープンアクセス NDLJP:235夜中に、人数を少々たこ越に、風祭・湯本の辺へ遣はし、民屋少々焼きて、それを能き機とや思ひけん、早々引退き、まりこ河を渡り、飯泉にて人衆を集め、夜の間に引退き、大磯・平塚・八幡を打過ぎ、あつきの河を渡り、三増峠まで引取り給ふ。信玄已に引退くと聞きて、北条陸奥守・同左衛門佐・秩父新太郎・上田案独斎・遠山衆、取る物も取敢へず追之。三増峠合戦又小田原へ参らんとて、北条常陸守・富永・高城・中条出羽守参りしが、同じく後れ馳に追懸くる。敵の引くを追ふ事は、常の習といひながら、軍勢手分定まらず、大逸りにはやり、味方の危きこと限なし。信玄は三増峠といふ屈竟の要害をかたどり、人衆を備へたる所へ、小田原衆打つて懸り合戦を初め、一番の合戦には、信玄方吻頭浅梨監物・栗原などといふ侍を、あまた小田原方へ討つて取りける。即此由を小田原へ申上げらるゝ。氏康父子二万余人、已に出張の処に、信玄山の上に隠したる人数内藤・山県逍遥軒、思も寄らざる小田原衆の後へ突いて懸りければ、小田原衆前後に敵を請け、防ぎ兼ねて見ゆる。信玄是を見て、旗本を崩して揉立て懸りければ、小田原敗軍して、半原山へ逃上る。中にも陸奥守残留り、自身の太刀打数度に及ぶ。甲州衆も、是を能き敵と見たりけん、大勢懸りて討たんとす。大石遠江守申しけるは、爰は大将軍御討死の場にあらず。某討死して落し参らせんと、取つて返し切つて懸り、大勢を追返して防ぎけるを、甲州衆あまた馳寄りて、手取り足取り、生捕にこそしたりけれ。其隙に陸奥守は、遥に落ち給ひけるが、馬を射させ、已に敵は追懸る。遁れぬ処なり。自害せんと鎧脱ぎ給ふ処に、師岡といふ者、馬より飛下り、主を懐き乗せて落行きけり。此人々なかりせば、危かりし命なり。氏康御父子、三里此方萩野の宿まで馳着き給へども、信玄其後、勝つて甲の緒をしめて、早々引入りければ、労して功なしとて、御馬を入れ給ふ。三増峠合戦是なり。其時手柄の人々、御感状を給はる。

昨廿日夜甲陣怨敵一人浅利討捕、誠高名之至無比類感悦候。仍刀一腰包永遣之候。弥可軍忠之状如件。

  元亀二〈甲午〉十月廿一日 氏政

    比々野大学殿

オープンアクセス NDLJP:236
 
蒲原落城の事
 
去る程に今度小田原表合戦の事に付きて、小田原衆・駿河在番衆、多く以て小田原へ帰り、大宮善徳寺の城に人衆なしとや聞きけん、信玄大宮通りを打つて出で、あつはらを過ぎ、加島へ出張し、悉く放火し、富士河を渡り、岩淵の宿を焼きて、蒲原へ押寄する。蒲原には、北条新三郎籠りしが、小勢なれば、定めて聞落にせんずらんと、甲州勢共侮りしに、少もひるまず。信玄取巻き、段々に攻寄せければ、城には新三郎が弟の小児を留め、新三郎・狩野新八郎両人突いて出で、甲州衆を悉く追立て、信玄の近臣小幡弾正を初め、甲州衆を悉く討取りけるに、城に野心の者ありて、甲州衆を引入れければ、北条新三郎・狩野新八郎・新三郎・弟少将・度部以下三百余人、本城へ引返し、一人も残らず切死に死す。此新三郎、一門に勝れたる勇者なりし程に、氏康殊に賞翫ありて、人しも多きに、蒲原に置き給ひしが、不図に討死し、最後に大悪念をや起しけん、霊魂化して常は此山に留り、樵夫草刈の童、是を恐るゝ事限りなし。天正の頃、此山中に山居の僧ありしに、常には来りて、物語などしける。彼僧も猛き人にて、何者ぞと尋ねければ、是は北条新三郎某が亡魂といひて失せにけり。今も蒲原の地下人は、此化物を見るとぞ聞えし。去程に信玄、手にさはる物なく、駿府に押して行き、御館を取るべしとある処に、御館普請最中なり。奉行人は岡部次郎大将にて、久野弾正・森河日向・酒井きはめの介等、切つて出で合戦す。謙信牢人城といふ者、信玄に申すは、此の者先年より存知て候。中々力攻には落ち難く候。なにとぞ仕り、味方になるやうにと才覚仕り、府中さへ御手に入れ候はゞ、残りは容易く候べしと申すにより、信玄臨済寺の長老を以て、色々扱ひ給ひ、岡部次郎右衛門十増倍の立身にて、御扶助あるべし、味方になり給へとありて、人質を渡さるゝ故、次郎右衛門を初として、籠る処の侍共、大欲に耽り、皆信玄に随ひ付きける。扨こそ府中の館、無相違信玄の手に入り、即彼等を先手にて、花沢の城を攻めらるゝ。此城は大原肥前・子息三浦右衛門佐父子籠りしが、散々に戦ひ、甲州衆をあまた討取り、城は落ちず。然るに岡部次郎右衛門たばかりて、信玄衆を引入れける間、肥前父子城を退く。オープンアクセス NDLJP:237之藤枝の城も落ちてけり。氏真今は府中へ帰り給ふ事も叶はず、戸倉の城より小田原へ参られしかば、早河に置き申されける間、早河殿と申しける。其後氏康一期の後、信玄より色々申され、氏政へ和談を入れ申され、又甲相和談ありて、氏真斯くてましませば、信玄の為め気遣ありければ、後には小田原をも追出し奉りけるとぞ聞えし。
 
三郎を越州へ養子の事
 
永禄十一年の暮に、北条三郎入道長綱法名幻庵。今度蒲原に於て、子息三郎兄弟討死ありしかば、老後に愁歎限なし。日夜伏沈み給ひける間、命も危く見えければ、氏康の七男童名郷西堂といひしを、大屋形の計らひとして、幻庵へ奉り給ふ。幻庵の末子、幸ひ女子にて坐しけるに合せ、即元服ありて三郎と名付け、所領残なく譲り給ふ。斯りける処に、武蔵国住人太田道誉、子息源五郎と父子不和ありて、道誉は追出され、子息源五郎は、小田原の簇下となり給ふ。即御縁者になり、氏康の御聟に、源五郎なりける。此太田は、千騎の大将にて、越後謙信の無二の味方にて、小田原の敵なりしが、一夜の中に味方になりしかば、謙信も力を落し、関東出張すべき便を失ひ、此後は小田原と和談をし、関東へ構なく、越前・加賀を退治せんとて、三河の家康とも和談し、又小田原へも使を以て申さるゝは、謙信父為景、早雲寺殿と入魂いたし、互に加勢して合力候以来、北条殿に更に意趣なし。唯養父憲政に憑まれ、上州を小田原に取られ申さずとの儀なり。然りといへども武田信玄と鋒楯に及びぬ。北国の敵を退治いたし、数年方々の合戦隙なく候間、謙信本意を失ふ。今に於ては日頃の意趣を忘れ、小田原と和談をいたし、氏康御子あまた坐します。某未だ子を持たず候へば、一人申請け、一跡を渡し奉り、謙信は隠居いたし、頓て北国へ馬を出し、北国残らず打随へ、京都へ登り、義昭公方を迎へ奉り、越後に御所を立て、都支配も越州より仕るべきとの覚悟なりと、色々仰せられ、御合点に於ては、牛王血判の起請文進ずべしの儀なり。氏政は此事如何にと疑ひ給ふ処に、氏康聞召し、此条最も可然。謙信終に表裏なき弓取なり。更に謀にて申すには不有。さりながら御子息あまオープンアクセス NDLJP:238たある中に、何れか越後へ越し可奉と評定ある処に、幻庵の猶子し給ふ三郎殿可然と、各談合ありて、即其段御返答ある。謙信大に悦び、即ち使者を立て起請文を奉り、御契約ありて、元亀元年正月、三郎夫婦を越後へ移し、上杉三郎景虎と名付け給ふ。此謙信は子なくして、甥の喜平次景勝をも、猶子にせられしが、此景勝親父は、長尾越前守とて、謙信の姉聟なりしを、先年聊怨ありて、信州池尻の水に沈め給ふ。其頃景勝幼少なれば、姉君色々申され助け置き給ふ。今謙信の養子なれども、父の恨を思ひければ、謙信一期後、君は腹黒の仔細あらんと推量して、小田原と一味し、三郎殿を一跡に置き奉らば、北条殿より後見ありて、行末まで目出度かるべしと、計らひけるとぞ聞えし。其後謙信一期後、三郎殿は、景勝が為に自害して失せ給ふ。御前は、久野に帰り給ひしを、右衛門佐殿に合せたりしかども、幸なくて、御子一人もなし。右衛門佐殿は、其頃氏真の御前の召仕へ給ふ富樫介が女を思ひ、男女の子供あまた出来ける。
 
氏康薨逝の事
 
元亀元年の秋の頃より、氏康御病気にて、様々御療治あるといへども、更に其甲斐なく、日々に重らせ給ふ。箱根山の別当・国府津護摩堂・花の木の蓮乗院にて、百座の御祈念、其外方々の御立願ありしかども、定業や来りけん、元亀元年十月三日、御年五十六にて御逝去あり。北条氏康死去御一門は不及申、御家老中面々歎息し、惜み奉る事、父母の別れに過ぎたり。同五日泣々葬り奉る。別称は東陽岱公居士号大聖院、誠に一生仁義正しくまし、慈悲又深重なり。諸芸の達者にて、和歌の道逍遥院殿御弟子にて、関東には其頃無双なり。国家安全に治め給ふ故、随ひ申す兵は、吹く風の草木を靡かすに同じ。昔享禄三年六月、御年十六歳にて、武州小沢原陣より初めて、一生の御勝利三十六ヶ度、終に一度も敵にあげまきを見せ給はず。日本広しといへども、古今例なき名将なり。御墓寺は、小田原にありしかども、小田原に早雲寺ある上は、あまた建立に及ばず。下総国古河御所は、御妹聟にて御坐します故に、古河御オープンアクセス NDLJP:239前よりの御望みにて、即古河御城下に、会下寺を建立ありて、大聖院と号し、御位牌を立てられける。
 
氏真小田原除く事
 
御中陰の日数も、やう過行きければ、氏政は、伊豆の三島へ、御鷹狩に御出張ある処に、信玄思ひけるは、氏真小田原に居住し、氏政の懇情、其上普代の侍猶多し。家康も内々芳情あり。以来六かしとや思ひけん、窃に氏政へ人を参らせ、兎角氏真を討ち申度の由を申す。今河より伝へし定家の伊勢物語を参らせて、色々頼み申入る。氏政父御屋形御薨逝の後、如何思召しけん、其旨内々合点あり。已に甲州より忍びて、氏真を殺し申さん為に、討手の侍来る由聞えければ、此事隠すとすれども、氏真の御前は、氏政の御姉なれば、頓て此事を聞付け給ひ、氏真も御前も、彼普代の侍共、皆腹立ち、早々小田原を引払ひ、浜松へ落ち給ふ。氏真は家康を頼み、子供引具し、浜松へ落ち給へば、家康予て約束の事なれば、則近所に屋形を造り、氏真を据ゑ申し、馳走限りなし。抑今河の家は、代々小田原と縁者にて、殊に早雲・氏綱二代重恩の家なり。別ては氏真は、御兄弟の契ありしに、今何の恨みありて、信玄に語らはれ、今河殿を追出し、斯く情なき御振舞、謂なし。誠に頼む木の本に、雨もたまらぬ風情かなと、小田原の諸臣、爪弾しけれども、氏康御他界の砌にて、誰か此事申上ぐるに及ばず。唯余所より、斯く批判せん事を悲みける。
 
信玄死去を隠す事
 
元亀三年十二月、信玄遠州表へ働く。信長・家康は予て一味なりしかば、尾州より家康へ加勢あり、信玄いのやへ押す処を、家康衆、足軽を懸けて合戦を初め、攻の戦ふ間、家康衆・尾州の加勢衆敗軍なり。御方が原合戦是を遠州御方が原の一戦といふ。ほつたの郷へ、敵をやり過し合戦あらば、家康勝になるべきを、家康衆逸りて合戦をしかけ、負になりしと批判あり。其明る年正月十一日、信玄三河の野田の城を攻落すとて、不慮に鉄炮に中りて、武田信玄死去此疵色々養生しけれども叶はず、終に逝去あり。遺言ありて、彼オープンアクセス NDLJP:240死去を隠す。唯御病気と計ありて風説なり。是は四方皆敵なり。御逝去と聞きなば、小田原殿御無事も破れん事を迷惑して、斯く計らびける。されども其事大方風聞しければ、其実否を知らん為に、小田原より板部・岡江雪御使に参る。是は信玄病気、御心元なしとの御使者なり。甲州衆殊外迷惑し、色々謀をなす。信玄の舎弟逍遥軒、よく兄に似給ふ故、夜に入り、逍遥軒を屏風の中に寝させ、扨江雪を近所まで召寄せ、寝ながら返事有之。さすがの江雪も、夜の事にてはあり、其上髪鬚蓬々として御坐し候故見違へ、信玄と存知罷帰り、正しく信玄は御存生にて候。唯御病気にてまします。対面仕りたるとの申様なり。是により小田原にては、信玄の死し給ふ事を申すは説なりといひ、御存生と計、皆存じ候なり。
 
関宿城降参の事
 
其年天正元年十月下旬、関宿の城主簗田中務大輔逆心して、佐竹と一味す。依之小田原より氏政御出張、関宿へ御取詰め合戦なり。此城、二方は大河にて、要害無双の所なり。江戸衆・小金衆・臼井の衆・千葉家来衆は、皆舟にて河より押寄する。去程に持口を請取り、方々より攻寄する。籠城方にも、ふんけんと小造なんどいふ一人当千の侍共、突いて出で防ぎ戦ふ。其日大勢攻寄り、城よりも切つて出で、大手にて攻合ひ、小田原方武州石浜城主千葉次郎殿、黄色の陣羽織を着て一番に懸り、城方の物頭菊間図書といふ者と組んで落ち、千葉爰にて討死なり。扨敵引入る間、小田原方一同に追懸り、塀へ乗る。陸奥守内津野戸が下人藤五郎一番に乗る間、其時彼津野戸に御尋ありて、小林といふ名字を給はる。然れども日已に暮れければ、大将下知して、上貝を吹きて、城には乗らざりけり。此時佐竹越後衆加勢ありて、関宿の後詰とて、羽丹生へ出張あり。然れども味方の備堅固なれば、佐竹衆後詰叶はず退散なり。明くる五月十一日、佐竹宇都宮より、色々扱を申上ぐる間。城を渡し、簗田は佐竹へ除きにける。関宿合戦は是なり。此時石浜の千葉殿に、女子ありて男子なし。氏政の御下知にて、北条常陸守氏繁の三男を養子して、彼息女に合せ、千葉の一跡相続あり。然れ共此千葉二郎幼少なればとて、与力の侍并石浜の城を、木内上野に預オープンアクセス NDLJP:241けらるゝ。上野討死の後は、子息木内宮内少輔支配あり。彼与力衆は、板橋肥後守・板橋城主松戸越前守・赤塚の城主犬塚等なり。以上石浜領は、四千貫の所なり。然るに千葉二郎成人の間、石浜を返し給はるべきと、度々申上げらるゝ。木内が家老宇月内蔵助と申す者申上ぐるは、宮内少輔も、已に石浜居住の後、父は討死す。其後数数の高名、軍忠不勝計。石浜の御改易、難有き事なるべしと、頻に申す間、此事延引しける。千葉二郎の内に須藤といふ者、主の所望空しき事を無念に思ひて、石浜へ忍びて行き、彼宇月といふ者を召していひけるが、石浜の惣泉寺といふ会下の寺の中にて行会ひ、刺違へて死にけり。此由小田原へ聞えける間、千葉二郎の所行なりとて、本領をば終に返されず。
 
勝頼縁辺の事
 
天正三年五月、勝頼三河へ出張して、長篠の城を攻むる。此城には、奥平九八郎籠る。九八郎は家康の聟なれば、家康・信長両勢にて後詰なり。勝頼は城を巻ほぐして、合戦を初めけるに、悉く討負け、内藤・馬場其外の家人物大将やう落行き、甲州へ入りしかども、僅小勢になりける。斯る時分、小田原より御馬を出されて攻めければ、甲州を取るべしと評定して、松山といふ侍を使として、様々手を入れ、御旗下になし、御縁者に被成可被下候と、達つて申上げらるゝにより、氏政の御妹を勝頼に給はり、釼待与三左衛門、御輿添に参る。小田原衆、目出度しと祝ふ事限りなし。同年房州里見殿も旗下になり、柾木庄兵衛を証人に越し給ふ。是は上総国小滝に在城せし、柾木左近が子なり。
 
越後三郎が事
 
上杉謙信死去天正六年二月九日、越後の輝虎俄に煩に付き、四十九歳にて逝去あり。辞世の一言の詞を書き給ふ。四十九歳一夢栄、一期栄花一盃酒。遺言には、分国を二つに分けて〔〈此間六字欠損〉〕政の御一跡まで、嫡子三郎景虎に譲りて、〔〈此間五字欠損〉〕喜平次景勝に譲らるゝ。景勝は甥にて、輝虎の〔〈此間四字欠損〉〕是こそ惣領なるべきに、輝虎幼少の時、父為景討死あオープンアクセス NDLJP:242りしかば、国人ども、一門の長尾義景を、為景の息女に合せて、長尾の大将分にして、越国を治め、輝虎は猿丸殿とて幼かりしを、出家にせんとて、廻国の聖に預けて、上方へ登せ奉る。輝虎幼きより賢き人にて、諸国の武勇の手立を聞き、国々の名将の働を聞き覚えて、五ヶ年目に彼聖と同心して、本国に帰り給ふ。万事利発にして、唯人ならず見えければ、国人共、又是をもてなしける間、義景も他人ならねば、是を聞きて悦び、頓て取立て、家督を相続せしめ給ふ。されば義景は、姉聟ながら一門なれば、諸人も猶義景を敬ひける。輝虎其頃長尾太郎景虎とて、若き人にて、而も血気の勇将にて、幼少の昔、義景我を出家にせんとありし事を口惜しく思ひ、又唯今も国侍共、義景を用ひらるゝ事を無念に思ひ、信濃国池尻といふ河にて、心易き侍に申付け、舟に栓をさし、義景を乗せ、栓を抜きて、水に入れ害し給ふ。其子二人あり。一人は女子、一人は今の景勝なり。二人ながら輝虎養子にし、姉をば越中の神保が子、越後へ証人に来りしに合せ、是に上杉を給はり、上杉上条と号す。弟は長尾喜平次景勝と名付け、養子にてあれど、彼も父が子なれば、輝虎に父を殺されし恨みあるべしと、内々思はれしがば、小田原より三郎殿を申請け、惣領に立置き、上杉三郎景虎と申し、諸家中にて、悉く一跡は此人なるべしとある処に、輝虎逝去の後、葬礼にも及ばず、景勝、本城をば輝虎に譲られんとて、無理に本城へ移り、三郎殿家老山中兵部を追出し、二の丸に三郎殿御坐したるに、取懸けんとしける。三郎、俄の事にてはあり、大に騒ぎ給ふ処に、本丸より景勝衆鉄炮を打懸けゝる間、三郎是非に及ばず、御館へつばみ、憲政公の御前にて、諸老臣を集め評定の処に、老臣は過半、三郎殿御道理至極なり。さらば御分国を二つに分けて、御跡を両はたにて知行被成可然との儀にて、謙信の老臣北条丹後守、景勝へ参り、意見申すは、唯今までは、信長とは御無事の体なれども、信長透間算の男にて、斯様の時分、御分国へ取懸け可申候。左様に候はゞ、いらざる三郎殿との御兄弟の合戦故、謙信の御骨折にて取り給ふ国を、信長に取られん事、無念の次第に候。越後を上野三郎殿に渡し、能登・越中御知行候て、加賀・越前まで御退治可然と申候へ共、景勝、三郎小田原の子なれば、北条より加勢し、以後には景勝退治あるべし。其時は却て大事なり。唯今次に誅せらるゝ事、何オープンアクセス NDLJP:243の仔細あるべき。早々三郎を退治し、越後を治むべしとて、中々北条を悪口し、意見を聞かず。北条、此上は力不及とて罷帰り、御館へ参り三郎に随ふ。然るに此上丹後が子息、厩橋の城主北条弥五郎、上州の勢を引具し、三郎方にて春日山に陣を取り、景勝を攻落すべしとの用意にて、大勢にて押寄する。爰に景勝の普代の侍荻田と申す者の子、荻田孫三郎と申し、其年十七歳になりしが、其母多年十七夜を信心し、毎月火の物を断ち日待しける。其年の正月十七日、荻田孫三郎、夢に北条弥五郎を突落したると見たり。不思議に思ひしに、又二月十七日、同様の夢を見る。此由母に語る。母大に驚き、弥五郎殿は御家老の一男なり。我れ多年月を信じ奉る事も、汝が武運長久の為なり。若し弥五郎殿と、喧嘩なんども致すべしとの、天の告やらん。必々慎むべし。人に語るべからずと、深く制しけるとかや。不思議なり。其年三月一日、丹後守、本城を攻めんとて、春日山に在陣ありし程に、景勝申すは、丹後守春日山に在陣を、逆寄にて打散らすべし。其用意せよとて、我方の人衆を悉く寄せ、輝虎の知行分を書付け、我等日頃目をかけし者共今度又集りし軍勢共に、其夜悉く知行の書出を取らせ、明日春日山へ逆寄の合戦あるべし。多分討死せん事もあるべし。今夜計なりとも、汝等に悦せんとの儀なり。されば侍共、此殿の御代になれかしと勇む。扨明る早天に、一番鐘に揃ひ、二番鐘に打立ち候へと、予 相図を定めしかば、軍勢共、終夜用意して待つ処に、夜半計に一番鐘を鳴らす間、未明に打立ち、春日山へ押寄する。春日山の敵は、上野より遥々と昨日参り草臥れ、中々敵の寄せんとは思ひも懸けざるに、俄に未明に押寄せける程に、闇さは闇し、大将の行方も知れず。素裸にて方々へ逃散る。北条五郎も馬に打乗り、早々御館へ除く処を、荻田孫三郎、〈後号主馬助、〉伏兵になりて道の片辺に居たりしが、闇くして誰とは知れざれども、馬上の敵を突く。丹後守突かれて、其場をば除きしかども、丹後守終に其疵にて、明る日に死す。扨こそ三郎方の上州衆も、悉く敗軍して、中々景勝を攻めんといふ儀なし。此事小田原へ、飛脚を以て被申候間、即北条治部大輔・太田大膳遠山丹波・富永四郎左衛門・毛呂もろ勝呂すぐろ、其外軍兵二万余騎にて、越後へ加勢の為め発向すべき由被仰付、甲州勝頼へも御馬を被出、不日に景勝退治可有との儀なり。勝頼承オープンアクセス NDLJP:244り已に人衆を出し、越後追伐あるべきとの儀にて、出馬ある処に、景勝、勝頼へ使を以て、御詫言申さるゝは、今度三郎を退治仕候はゞ、上野一国を進上仕り、御縁者に被仰付候はゞ、一方の御先を可仕候間、ひらさら此方へ御加勢可下との儀なり。其上謙信多年掘らせ置きたる金共、悉く進上申す。勝頼の両出頭人、日頃は色に耽る由聞き及び、長坂長閑斎・跡部大炊助に数千両の金を取らせ、色々詫言申せば、両出頭人、此金に目がくれ、上野一国御手に可入事、何より以て第一なり。三郎殿御縁者なれども、別に御得分なし。信玄の御世にも、氏真は甥なれども、駿河を御手に入れんとて、敵にてもあらぬに、信玄は御退治ありし。是は御縁者迄なり。御一門にてはなし。其上景勝、御先手に加はり候はん事、先づ以て目出度き事なり。唯景勝方へ御合力可然と、皆々勧め申候間、勝頼、景勝と和談し、頓て御加勢ありて、三郎殿を攻め給ふ。越後にて、勝頼は、兄弟の好ありければ、甲州勢を頼もしく待ち給へども、其甲斐もなく、却て敵になり、小田原勢は、程遠くして来らず、御館に軍勢少く、其の上平城に兵糧もなく、大敵を防ぐべきやうなくして、養祖憲政并三郎景虎、終には叶はず、同三月十八日に自害して、御館に火を懸けしかば、景虎方の侍残らず討死し、景勝越後の主となり給ふ。されば三郎殿御前は、幻庵長綱の御息女なりしかば、頓て越後より送る。是は後には、右衛門佐殿御内室になし奉りける。上杉北条殿も、景勝の姉聟なれども、御館方の人なりとて、越後を景勝追出し申す。勝頼今度大欲に耽り、義理を違へ、三郎を殺し給ふとて、関東諸家、爪弾して是を謗り申す。果して運命尽きて、其れより十年の中に、亡び果てにける。
 
 
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異本小田原記 巻之四
 
 
戸倉合戦の事
 
去る越後の合戦より、相州・甲州不和となりて、互に国の境に人衆を出し、用心厳しかりけり。先づ相州の国境には、小田原より城々へ人衆を置き、所謂長久保に志水、獅子浜の城に大石越後守、泉頭の城に大勝・多目周防守籠城す。戸倉は沼津の城に近しとて、小田原の老臣松田尾張守が子息松田新六郎、其頃は笠原が養子にて、笠原新六郎と申しける。此人六百騎の大将なりしが、去年より戸倉の城に在城なり。其頃駿河国は、甲州の領地なりしかば、伊豆の境目沼津の城に、勝頼衆高坂源五郎、二百余騎にて籠る。笠原新六郎も、手勢百八十余騎にて、戸倉在城、互に近所なりしかば、苅田をさせ、夜駈の足軽競合度々なり。此新六郎若輩より、武勇の道無器用にして、欲深き事無双なり。然れば高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願ひ、折にふれ不忠のみ多かりしかば、小田原にても、氏政・氏直、さのみ御馳走なかりしかば、新六郎内々不足に思ひ、時分よくば、謀叛も起しけんものをとためらひけり。然る所に沼津の城主高坂源五郎、三島の心経寺といふ僧を以て、勝頼の御意なりとて、色々新六郎をたばかり、伊豆一国の守護になされ、新六郎を勝頼の聟に可成候間、此方へ降参あり、忠功可然と語らひける。笠原元来大慾深き男、其上内々小田原にて不足もあり、時分よしと存じ、即甲州方になり、勝頼へ内通し、甲州勢・海野組の衆二百余騎にて、戸倉の城へ籠る。小田原にて此由を聞きて、戸倉の城の抑に、戸倉并大平といふ所に一城を取り、北条右衛門佐氏尭、七百余騎にて籠る。然る所に天正九年十二月、大平の城の油断をや計りけん、笠原新六郎三百余騎、大平の城へ発向す。右衛門佐殿、家老笠原平左衛門と申しけるは、居ながら敵を待つ事、武略なきに似たり。此方よりも人衆を出し、中途にて一戦可然と、二百余騎を引率して、手白山といふ所へ馳向ひ、敵も味方も鼻合に出合ひ、競合を初の、悉く討勝つ処に、オープンアクセス NDLJP:246味方より先月降参して、敵の方にありし安井治太夫といふ者、笠原平左衛門を見知り、最前の競合の時、味方の手負に紛れ、傍より忍び寄り、笠原平左衛門を突落す。此平左衛門は、右衛門佐殿家老にて、武蔵の小机の城代なりしかば、多勢にてありしが、運の尽きたる故にや、手勢をば皆小机に留め、二十余騎にて、折節小田原にありしが、今度戸倉の軍急なりとて、先月大平の城へ来り、右衛門佐殿衆を引率し、先一番軍に、戸倉衆を悉打取り、草臥を少しく休息したる所を狙はれて、やみと討たれにけり。去程に平左衛門を初め、能き侍多く大平衆に討たれたる由、小田原へ注進す。又笠原新六郎、平左衛門を討取り大に悦び、重ねて大平城へ押寄せ城を乗取り、右衛門佐殿を討つべき事、案の内なりと悦ぶ事限りなし。頓て甲州へ飛脚を立て、此由斯くと注進申し、近日大平へ発行の由聞ゆ。右衛門佐殿は、去年より在城ありて、度度の合戦に、家老并与力侍悉く討死し、殊更草臥れ、呆れたる体なり。
 
戸倉の城落つる事
 
去程に明る天正十年正月、小田原には軍評定あり。右衛門佐殿永々大平城に在陣し、殊更笠原平左衛門討たれ、人衆も皆疲れたるべし。さあらんには定めて大平城、頓て落つべし。番手の勢を遣し、右衛門佐殿に替るべしとて、玉縄の城主北条左衛門太夫氏勝に仰付けらる。氏勝不日に打立ちて発向す。組の侍大将に、間宮備前守・朝倉能登守・行方弾正・大谷帯刀等五百余騎にて、正月下旬に小田原を立ち、箱根山を越し、大平の城へ入らんとす。右衛門佐殿内長谷河と申す者参りて申すやう、各大平御番手に入り給ふ由聞きて、敵三島辺まで、伏兵を置き申由風聞仕候間、御人衆を山越に大平へ御越し可然。直に人衆を押し給はゞ敵突いて懸り、不意の一戦あるべし。さあらんには大事にて、大平の人衆も引取り、替るべき事なるまじと申す。左衛門太夫聞きて、其儀尤なり。然れども敵をも見ずして、廻りて入らば、早や味方の弱きに似たり。縦ひ戸倉・沼津の人衆を、中途に懸けたりとも、何程の事あらん。蹴散らして通るべしとて少も廻らず、八幡大菩薩と書きし大旗を差翳し、直に押して通り、右衛門佐殿人衆を安々と替らせ、大平に籠りける。左衛門太夫が威勢にやオープンアクセス NDLJP:247恐れけん、中々敵よりは、人衆を懸けんともせざりしかば、其後は終に足軽軍もなし。却て味方より攻めらるゝかと、用心厳しかりける。左衛門太夫是を見て、何迄斯様にあんけんとして待つべき。急ぎ人衆を出し、戸倉を攻落し、笠原新六郎を討取るべしとて、同三月中旬、戸倉・大平の間手白山といふ処まで出張の所に、戸倉の城より出家一人来り、左衛門太夫前に畏り申しけるは、是は笠原新六郎使にて御座候。今日御出勢の由、罷向ひ一矢可仕候へ共、主人勝頼、不図に信長の為に自害して亡び給ふ由、只今告来り候。左候はゞ軍も無益なり。只城を渡し申すべし。御勢を向けられ可然と申す。左衛門太夫聞きて、尤可然。さりながら、是非は小田原へ申してこそとて、即飛脚を以て此通り申上ぐる。氏政聞召し、評定ありて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀、申すに及ばざる次第なれ共、父尾張守度々の忠功に思召替へられ、命をば御免なり。出家入道して可罷出。城をば請取り、甲州衆をば、何卒討取り可然との御下知なり。左衛門太夫承り、即新六郎に出家させ、城を請取るべき由申し、甲州よりの加勢衆にも、早々城を明けて、除き給へとの使なり。甲州衆も、是非とも此城を枕に仕るべし。中々罷帰り申すまじと申す。左衛門太夫申すは、沼津の城も五三日以前に明けて、皆々除き給ふ。各も何か苦しからん。只御除き可然と、重ねて申せば、左候はゞ笠原新六郎殿を、人質に給はるべし。左候はゞ除かんといふ。さらば人質を参らせんとて、新六郎が名代として、御宿又太郎といふ、笠原が身を離さぬ小性の、誠に容顔比類なき児、十六歳になりしを、またらかけといふ名馬に乗せて、何事もあらば乗抜けよと、窃に申聞けて人質に出す。然れども甲州方にも心得、其の馬には乗せず、小荷駄に乗せ、殊更中に取包み、二三町も過ぎし時、前後より敵取巻く様なりしかば、即人質をも打果し、甲州衆二百余人、一所に皆討たれにけり。
 
甲州合戦の事
 
去る程に甲州勝頼滅亡し、勝頼の御前は、氏政の御連枝にて御坐しければ、御前の侍早野内匠助、御前の御骨を首に懸け、御形見の御状取持ち、泣々小田原へ参り、甲州のオープンアクセス NDLJP:248有様懇に申上げしは、去る正月廿八日、信濃国の木曽殿は信玄の聟にて、一方の大将にも憑みし仁なりしに、勝頼に恨ありて、忽に重恩の好を忘れ、叛逆を企てける。勝頼大に忿り、已に武田相模守を大将として、今福筑前・横田十郎兵衛以下、鳥居峠へ遣し、木曽を退治ある。木曽殿是を聞き、此事風説に候。先づ人衆を引き、御糺明あるべしと献じける。然れども勝頼用ひずして、已に合戦に及ぶ。信長是を聞き、頓て木曽義昌に加勢あり、織田源五・遠山豊前を初め三万余騎、木曽殿へ加勢故、甲州勢小山田左京を初め、五百余人討死し、悉く引返す。勝頼弥腹を立て、自身打立ち、信濃国諏訪に在陣して、木曽退治の評定す。信長の一男織田城之介数万騎を引率して、信州平屋・波合へ発向す。伊奈の下条伊豆守・同兵庫頭、平屋へ発向して、これを防がんとする所に、敵は大勢なり、叶ふまじと怺へたる所に、彼下条が内下条九左衛門・原・熊谷・宮崎・佐々木・市岡などいふ者共、上方衆へ内通し、主を捨てゝ引きければ、下条伊豆守力なく引いて帰る。上方勢悦び、三日路の難所を、手にさはる物なく下る。伊奈・松尾の城主小笠原掃部太夫は、信玄の姪聟にて、頼もしく思はれし人なりしが、如何思ひけん、信長衆と一つになる。此伊奈は大事の所とて、高遠・大島・飯田とて三つの城を構へ、高遠には、勝頼弟仁科五郎大将として楯籠る。軍勢あまたあり。大島には、日向大和守・仁科肥前守を籠む。飯田へは、小幡因幡守・弟五郎兵衛・波多源左衛門を籠めたりける。猶も心元なしとて、大島の城へは、逍遥軒入道信綱大将として、安中七郎・小原丹波・依田能登守、七百余人にて籠りしが、飯田の城は自落し、大島の城は、地下人敵へ内通し、悉く引入れければ、大将逍遥軒も、聟の松尾の城主小笠原も、降人となるの由申越せしかば、是を聞きて早々引取り、一戦にも及ばず。是のみならず江尻の城主穴山梅雪斎入道、家康と内通し、山下より府中へ迎を越し、人質に置きける内室并子供を引取る間、府中の者共是を留めんとしければ、五百人計の兵共来り、悉打散らして引取り、下山へ帰る。此由諏訪へ注進す。勝頼大に驚き、是は如何にと評定す。是を聞きて諸軍悉く敗軍し、勝頼を捨て皆府中へ帰る。一門の輩譜代相伝の家老共、皆散々に成行き、二月廿八日諏訪より甲州新府中へ帰陣の時、千騎計には過ぎず。扨何方へか籠り、一先づ敵を防ぐべきと評定する所に、オープンアクセス NDLJP:249小山田申すは、我等が在所の都留つるの郡は、渓谷嶮岨にして、当地無双の所なり。是へ御籠り候へ。某は御先へ参り、頓て用意仕るべしとて、己が領所へ行きければ、勝頼父子力を得、頓て打立ち給ひけるが、新府中に召置きける人質共呼出し、木曽を初めとして、不忠をなしたる人の親や或は子供を皆刺殺し、忠戦をして死したる人の人質には、金銀を与へ、其後新府の館に火を掛け、其夜は漸う柏尾といふ所迄引取りける。然る所に駿河の先方岡部次郎右衛門と穴山一味し、家康衆を同道し、西郡より乱れ入る。又是を第一の憑みとしける小山田も、忽に心替りして、彼小山田が妹聟武田左衛門佐は、勝頼の従弟なりしが、是も逆心し、小管五郎兵衛・小山田八左衛門と引合ひて、小山田が人質を奪ひ取りて、郡内へ逃行く。すはや郡内も敵になりしといふ程に、悉く敗北し、国中広しといへども、足を立つべき所なく、焼野の雉の、犬鷹に逢ひたるやうに、隠家もなし。さなきだに甲州衆は、侍も地下人も、情を知らざる処にて、慾心に耽りては、親子兄弟をもいはず殺害し、斯様に主人をもいはず追出す事、是非に及ばざる次第なり。勝頼父子、天目山へと志し、田野といふ山家へ辿り行きしに、武田勝頼天目山に逃る譜代の侍甘利左衛門・大熊備前守・秋山摂津守・辻弥兵衛大将にて、地下人共七八百人引率して切つて懸り、鉄炮を打懸くる。それのみならず滝川左近将監・河尻肥前守大将にて五千余騎、勝頼の跡を尋ねて追懸くる。勝頼父子、重代の下人共に皆背かれ、天正十年二月十一日の朝、田野といふ所に籠りし時は、四十三人ならではなし。是にては中々叶はず、自害せん。敵の追付かぬ先に、最後の用意せよとて、各涙を流し、今を限の物語。中にも哀れを留めしは、勝頼の御前は、氏康の御娘にて御坐します。小田原より召連れられし早野内匠助・清水又七郎・劒持但馬守を召し、最後の御形見を被下、此有様小田原へ参り申上げ、亡跡弔ひ奉るべしと被仰付。勝頼も、汝等疾々御供申し、小田原へ参り候へと仰せられしかども、御前中々落ち給はず。先年越後の三郎を退治なされし時、様々申上ぐる事共御用ひなくして、弟の三郎を殺し給ひし。今いかに命の惜しきとて何の面目ありて小田原へ参るべき。只同じ道にと宣ひ、思召切り給ふ。彼人々をば、早々帰り、此由申上げて、我後生弔ひ候べき由被仰付。早野・清水も御供に討死と申候へ共、さらば草の蔭迄の御勘当オープンアクセス NDLJP:250なり。御死骸をも治め、此有様をも小田原へ帰り参り申し、御跡をも弔ひ申さんは、中々最後の御供より勝りなりと、達つて仰付けらるゝ故、早野内匠介・清水兄弟は早早能退き、上の山にて、武田勝頼自尽勝頼の御最後の有様見て後に、御死骸共敵人に乞請けて、葬礼いたし、頓て髻切り、小田原へ参りけり。其中に劔持但馬守計、道より取つて返し、御前の介錯仕り、己も討死しけるとかや。勝頼父子御自害の後、土屋右衛門尉・秋山源三・小山田式部・金丸助六・秋山・神林・多田久蔵・大龍寺和尚を初めとして、四十三人討死しける。勝頼弟仁科五郎信守、十八歳になりけるが、去る二月廿九日、信州高遠の城に籠りしを、城之介人数押寄せて攻めければ、小山田備中兄弟・保科弾正・渡部金太夫切つて出で、数刻の合戦に玉薬も尽きしかば、大将を初めて妻子を害し、皆自害しけるに、其中に保科弾正一人、妻子を害し自害しけるを、即ち生捕りて助けゝる。是は内通やありけん、又信長、甲州の恵林寺に、公方義昭御使大和淡路守・成福院を隠し置き、佐々木をも同じく隠し置きたる由を聞きて、出せと使を越しけれども、彼住持快川国師出さず。其時信長大に忿り、彼僧不思議者かな。檀那なれども、勝頼が死骸を野原に取散らして治めざる事、僧に似合はず、只焼殺すに如かじとて、大勢押し寄せ、寺中に隠し置き、悪党を捜すべし、出家は山門へ上れと下知して、皆追上げて武士共押寄せ、一同に火を放ち、出家八十四人、一時の中に焼殺す。
 
滝川関東管領の事
 
甲斐・信濃・駿河・上野、信長の国となりしかば、先づ駿河は、氏真と今度約束ありて、氏真も譜代の家人共を催し、下方の庄まで出勢の所に、出馬あり。駿州今川の分国なれば、即時旧功の侍千余騎馳集る。信長是を感じ、今度駿河国を半国、氏真へ給ふべしとの儀なり。然るに駿河国は、家康多年所望の国なり。殊に武田と競合ひ、田中・持舟以下彼武勇を以て攻落し、粉骨の忠節勝げて計ふべからず。其上家康駿河にて成人し給ひ、当国是非との所望故、駿河は家康へ給はる。去乍ら江尻の城、并穴山入道の所領は本の如く穴山に、其外甲州西郡下山・南部・万沢、今度の忠節に穴山に給はる。信濃の松本、其頃は深志といふ。木曽殿今度の忠節に、深志を加恩に下され、信州伊オープンアクセス NDLJP:251奈をも、毛利河内に下さる。河中島四郡〈高井・水内更級・垣科〉を森勝三に、甲州を河尻肥前守、上野国を滝川左近将監一益に下さる。即上野国大名、皆滝川が支配と仰付けらる。所謂小幡上総守・内藤大和守・和田石見守・由良信濃守・長尾但馬守・安中左近・成田下総守・上田安独斎・木内宮内少輔・高山遠江守・信濃に真田安房守、以下皆滝川下知に付く。滝川が居城上州厩橋の城へ人質を入れ置き、滝川へ出仕いたす。此滝川、本国近江国甲賀山家の地侍、一ヶ年身の者なりしが、若輩より鉄炮を打習ひ、上手の聞えありし程に、信長へ召出され、一騎合の侍なりしが、近年度々の高名ありて、大将の号を許され、一方の固めとなる。去る天正三年、伊賀国の地侍共、多分信長に随はざりしを、発向して退治す。此伊賀国は、応仁の頃ほひ、仁木伊賀守が守護の国なりしかども、其後代々衰へ、伊賀国には住したりといへども、所領は僅の体なり。皆地侍共押領す。彼地侍と申すは、昔より服部党是なり。彼一族に、竹の谷・宮田・森田・原なんどいふ、義理をも礼義をも知らざる不道の凡下の者共、日頃は伊勢の国司に随ふ体にて、時々の出仕などして、己が国にのみ住し、他国へは終に出でず。彼等が一門等属の族、近国の山々浦々にて、山賊海賊を業とし、狩漁をのみ専としける問、日本今戦国となりて、伊賀衆と号して、小田原を初め国々に、五十人三十人召置きて、余り伏兵に用ひける。さればにや信長にも、一円随はず、城之介殿より人衆を度々向けられしかども、却て皆伊賀衆に打取られ、誠に信長の無念類なし。誰にても伊賀衆・甲賀衆を退治せん者に、管領を給はるべしとの儀なり。滝川承り、我等は近江国に取をも伊賀隣郷の住人、多年案内を存じて候。御勢を被下候へ。馳向つて退治仕るべしと申請け、五百余騎にて馳向ひ、三方より押込み、伊賀一州の服部党侍は申すに及ばず、土民百姓までも、名ある者をば、一人も残らず薙切にいたし、三歳四歳の女子供皆刺殺し、不日に伊賀国を退治し、此時服部党は、皆亡び失せにけり。扨滝川、此由斯くと申上げ、又甲賀に陣を取り、重ねて使を立て、甲賀衆を此勢に退治仕り申すべき由言上す。信長聞きて、此滝用は、日本に双なき武勇の士なりといへども、情も知らぬ田舎夫なり。甲賀は、己が本国生地なり。たとひ信長申付くといへども、己が在所退治の事、詫言いたすべき事なるに、是非退治可仕の申様、不道なオープンアクセス NDLJP:252る申事なりどて、其後は余り賞翫なかりしと聞えしが、今甲斐・信濃・上州を退治し、彼滝川不敵なる強将なれば、関東の管領に似合ひたり。以来は是非共小田原までも退治すべきは是なるべしとて、関東の惣追捕使に任ぜらるゝ。
 
信長の事
 
爰に穴山梅雪の子息勝千代を、家康の聟にと約束の祝言あり。信長の御意にて此儀相済み、其後駿河通りを信長帰洛し、安土の城へ帰り給ふ。家康も穴山も、今度分国拝領の御礼、一は甲州御退治目出度しとの儀にて上洛あり。信長大に悦び、猿楽をいたさせ、両客を馳走あり。其の後両人は、泉州堺の津見物せんとて、堺へ下向の間に、信長は京上りし、同六月二日、六条本能寺といふ日蓮宗の寺に御坐しける処に、信長の臣の日向守光秀といふ者あり。信長甥織田七兵衛信澄は、彼明智日向守が聟なり。信澄、父を信長に殺され、多年無念に思ひ、時分あらばと待ち居けるに、舅日向守光秀、信長に恨みありて、已に逆心に及ぶ間、彼七兵衛と密談し、中国発向の門出に、出仕と号して本能寺へ押寄せ、主の信長を忽に討取り放火して、頓て子息城之助を攻むる。織田信長信忠弑せらる城之助信忠、妙覚寺といふ寺に在陣ありしが、是を聞きて、寺中狭く防戦叶ひ難しとて、二条の新御所へ取籠りしを、明智即時に押寄せ、近衛殿の御屋形より打破り押込み、火を懸けしかば、城之助殿叶はず自害。一日の中に、信長父子亡びしかば、家康も穴山も大に驚き、本国へ帰り給ふ。穴山は、主人勝頼を敢なく亡したる因果報ひ、本国へ帰るとて、今治の田原といふ所にて、郷民共に討たれて、敢なく亡び失せにける。不思議なり。其子勝千代も、頓て疱瘡にて早世し給ふぞ不思議なり。武田陸奥守入道法名梅雪斎、穴山左衛門ともいふ。今年四十二歳、勝頼の姉聟なり。家康は、本道は不用心なればとて、伊賀国を廻り、伊勢へ落行き、それより舟に乗り、三河の大浜に着きて、岡崎へ帰陣ありしと聞えし。
 
滝川一益合戦の事
 
去程に滝川左近将監一益は、上州三の輪の城に居住して、追捕使になりて、東国を管オープンアクセス NDLJP:253領す。彼下知に随ふ勢、内藤大和守・小幡上野守・由良信濃守・安中左近・深谷勝兵衛・成田下総守・上田案独斎・高山遠江守・木内宮内少輔・長尾新五郎・真田安房守・和田等なり。此人々の人質を三の輪に入れ置きて、何れも二心なく一益に随ひける。然る所に六月二日、信長公御討死の由、同七日飛脚到来す。一益是を披見して、悲の涙袖に満ち、即篠岡平右衛門・津田次右衛門・滝川儀太夫以下の家老を呼びて、此事を有の儘に語り、羽書を開きて読聞かす。甥の儀太夫進み出でて申しけるは、是程の大事をば、たとひ談合ある共、如何にも隠密にこそあるべきに、左様に人々の聞く所にて、無勿体御披露、まさなしと諫めければ、左近将監申しけるは、諫言最も義に当れり。然れ共悪事千里を行く事なれば、此事程なく隠れあるとも、他人の口より洩れなば、人の心も揃ふまじ。自身皆々に申聞かせ、人質をも返すべしとて、上野衆を呼び羽書を見せ、此事を有の儘に語る。内藤・小幡・由良・長尾以下、此旨を聞きて、寄合ひて申しけるは、扨も此大将程、義士の人あるまじきぞや。今朝告げ来る一大事を、我等に隔心なく宣ひ、人質を返し給ふ事、当代無双の振舞なり。上に義を専にするを、争か下として恥ぢざらん。人質をも其儘置きて、二心なく随ひ申すべしと評定して、此由を滝川に申しける。龍吟きて雲起り、虎嘯きて風生ずるも斯くやらん。上下水魚の忠徳、当代比類あるべからず。上野衆一同に申しけるは、此儘是に御坐さば、何までも御馳走申すべし。又上洛あらば御供いたし、送り申すべしと、誠に余儀もなげに申しければ、滝川感涙を流し、各の志近頃本懐なり。我主の敵なれば、明智を討たんと思ふなり。然れども信長公の御子中将殿・三七殿・御弟の上野介殿以下、何れも近所に坐せば、定めて討取り給ふべし。我れなしとても、羽柴は中国にあり、柴田は越国にあり、此人々頓て攻登るべし。然らば退治易かるべし。只小田原の北条の人人、信長公御果を悦び、定めて我を討取りて、上野を治むべしと出勢あるべし。是より遮つて軍兵を出し、一戦を遂ぐべし。各の合力頼むなりとて、其用意して打立ちければ、内藤・小幡・由良・安中・上田・高山・深谷・成田・未部・長尾・倉賀野以下の軍勢馳集る。滝川、己が城には、滝川彦二郎を残し、松枝の城には、津田小平次・稲田九蔵を留め、其勢一万八千余騎、先づ使を小田原へ遣して申しけるは、信長公は討たれ給ふオープンアクセス NDLJP:254間、我等は主の敵を討たんと思ひ、罷上るなり。来りて城を請取り給へといひやりければ、鉢形城主北条安房守氏邦是を聞きて、扨は滝川上るらん。我追懸けて討取るべしと真先に進み、金久保へ押寄する。氏直は小田原より御馬を出され、富田・石神に陣を張り、本庄に旗を立つる。後陣は深谷・熊谷に満々みちたり。氏邦前後を見繕らふに及ばず、鬨の声を上ぐると等しく、一文字に突いて懸る。滝川が先陣上野衆に懸合ひ、滝川一益北条氏邦合戦汗馬東西に馳違へ、追つ返しつ突合ひ切合ひ、旌旗南北に開分れて、火出づる程に揉合ひける。安房守方には、石山大学・保坂大学助を始め、二百余騎討たれ、大略手を負ひ、又上野衆は、佐伯伊賀守を初め、八十人討たれ、手負は数知らず。頃は天正十年六月十九日、草もゆるがず照らす日に、大勢と懸合ひ、余りに力尽きしかば、安房守終に打負けて引退く。小田原勢松田尾張守・大道寺駿河守先陣に進む。上州勢は水辺に下り居て、今朝よりの息を休め、汗馬を洗ひ、手負を助く。滝川是を見て、今度は某向ふべし。上野衆は暫く休みて、一陣に続けといひて、真先に進む。相随ふ兵には、滝川儀太夫・津田次右衛門・同八郎五郎・同理介・富田喜太郎・牧野伝蔵・谷崎忠右衛門・栗田金右衛門・日置文左衛門・岩田市右衛門・太田五右衛門以下、手勢三千余騎、玉村の市へ発向す。松田以下の小田原勢、一箭射ると見えしが、偽りて引退く。滝川勝に乗つて追懸けたり。小田原勢遠引して、四方より取巻き、一人も漏らさず討つべしと、四方より囲をなす、避来鋭其惰気とは、此等の事をや申すべき。滝川が先陣篠岡以下、前後の敵を見て、今はなすべき手立なし。よしや微運の我等、生きて退くには、何計の事かあるべき。命を限りの軍し、弓矢の義を専にすべしと、一同に叫びて鑓を投入れて、十文字に懸合ひ、巴の字に追廻り、互に切落し打落す。太刀の鍔音、矢叫の声、鉄炮の音、天地を響かし、さしもに広き武蔵野に、余る計ぞ聞えける。已に夕陽に及びしかば、終には猛勢破り難くて、滝川が頼切つたる篠岡を初め、津田次右衛門・弟八郎五郎・同理介・岩田市右衛門・弟平蔵・栗田金右衛門・太田五右衛門等、以上五百余騎討たれ、過半手をこそ負ひにける。滝川一益敗軍滝川一戦に打負け、心は猛く思へども、散々に落行きければ、一返しも返さず引きけるが、猶残党を集め、亦上野衆に、合力して給はれ、今一戦と請ひけれども、余りに草臥れ候間、今日は叶ひオープンアクセス NDLJP:255難し。後日の御合戦あるべしといひければ、力及ばず、滝川引退きて城に帰り、今日討死したる味方の実名を帳に付け、或寺へやり、孝養して後、上野衆を集め、少も怯みたる気色なく、鼓を打つて諷を歌ひ、兵の交り頼みある中と、舞ひければ、倉賀野淡路守、名残今はと啼く鳥とはやして、通宵酒宴し、太刀長刀秘蔵の掛物取出し、上野衆に取らせ暇を請ひ、懇にして暁天に打立ち上洛す。上州衆皆名残を惜み涙を流し、皆人質を出し之を送る。扨松枝へ着きて、津田小平次を伴ひ、小室・臼井より人質共を皆返し、諏訪へ行き、木曽路を通り、伊勢の国かろしまといふ知行へ帰りける。人皆感じける。
 
若御子対陣の事
 
滝川上りしかば、上州衆は、悉く小田原へ出仕なり。信濃国小室にありし道家彦八も、川中島の毛利勝三も、名城を捨てゝ上洛す。此時羽柴筑前守、中国より攻上り、信長の三男三七信孝と相談し、池田・中川以下評定して、先づ織田七兵衛信澄を誅伐し、不日に攻上り、山崎合戦に打勝ち、同十四日明智叶はず、小栗栖といふ所にて自害したりしを、明智光秀討たる首を取り本望を達す。家康も、明智退治の為に、尾州清洲まで出で給ひしかども、秀吉が為に光秀亡びしかば、駿河へ帰り、甲州へ打入り、先立て本多といふ侍を甲府へ遣しければ、河尻肥前守、本多を殺す。甲州の者共、河尻を悪みし折節、此事ありしかば、地下人起り来りて、彼河尻を誅伐し、頓て家康へ此由申す。家康甲州へ打入り、武田家の牢人共悉く抱へ、新府中に在陣あり。去程に天正十年八月、徳川家康北条氏直対陣甲州・信州を打取らん為に、碓氷の峠を越えて、信濃路より氏直御馬を出さる。大道寺駿河守・松田尾張守・遠山丹波守・山角紀伊守・芳賀伯耆守・伊勢備中守・内藤大和守・多目周防守、其外千葉・臼井・両酒井・高城等、上州衆には、長尾但馬守・由良信濃守・深谷・本庄・和田・成田・皆河・壬生・鹿沼以下、四万八千余騎、甲州梶賀原へ出張す。家康の先手酒井左衛門尉・大須賀五郎左衛門・本多中務・石川長門、其外甲州の武河の侍穴山家人案内者にて数万騎、乙骨おつこつの辺に張陣す。已に敵味方二里程の間なり。山を隔てしかば、敵の間近く来りしも知らず、山上江右衛門・大谷帯刀物見に出で、家康衆オープンアクセス NDLJP:256の陣の立てやう、備さだちて引色に見ゆる。急ぎ御合戦然るべしと申す。氏直も予て斯くこそあらん、急いで人衆を出し、敵を悉く討果し、甲州を治めん事、此時にありと勇み給ふ。松田・遠山・安藤備前守諫め申しけるは、内々小田原にて、大殿御評定は是にて候。御坂越に右衛門佐殿御出張、善光寺口まで御働きあらん。秩父口より湯の平・東郡へ新太郎殿御出張、其上にて郡内の一揆共、予て内通申す仔細あり。旁一所に揉合ひ、新府へ攻寄せ、家康を追払はん事案の中なり。相図の一左右を待たせ給ふべしと、頻に留め申す。氏直は大に腹立ち給ひ、敵已に引色になる。此時敵を遁しては口惜しかるべし。唯打立ち候へ。爰を遁しては、某世にあるまじとて、髪を払ひ髻切らんとし給ふ。諸老臣、さりともと留の奉れば、獅子の歯噛をして、力なく止り給ふ。誠に此時合戦あらば、家康は退治疑あるまじものをと、後日に皆々後悔すれども甲斐ぞなき。家康は案の如く、岡部次郎右衛門宿払にて、新府へ引入り、味方も頓て跡を追うて行く。其日互に足軽を出し、行列を乱さず、油断あらば取懸け、勝負を決せんとの儀なり。家康衆よりは、曲淵勝左衛門乗廻し行く。味方よりは、山上江右衛門乗出し、互に詞をかけ、両方へ引分る。扨北条美濃守は、御坂山に在陣し、右衛門佐は三坂を越し、東郡・黒駒表へ出張し、川端まで人衆を出し、立合ふ者二三十人討取り、即市川の辺うはろ山へ在陣の所に、古府中にありし家康の衆、鳥居彦右衛門・水野以下、発向の由を聞きて、先づ三坂口大事なりとて、右衛門佐殿うはろ山を捨て、御坂表へ人衆を入れ給ふ所に、黒駒より二里上の当の木といふ村にて、右衛門佐殿の後陣に打ちし内藤大和守一組の衆、鳥居・水野と取合はれ、合戦なり。先手衆一騎打に大山を登りしかば、左右なく返す事叶はず。御坂山と申すは、人馬も中々、三人と双ぶ事不自由の所なれば、後陣に軍ありとも知らず。内藤一手の人衆、とても遁れずと思切り、其組にありし侍伊豆国の住人田中五郎左衛門・間宮・中野以下、組の侍卅六人、都合七十人、敵の中へ一文字に突いて入り、散々に追捲り、枕を双べて討死なり。扨又氏直・家康、若御子に於て対陣ある。敵も味方も、互に武勇勝れたる名将にて、共に多勢なりしかば、終に勝劣なくして数日の対陣なり。其間足軽競合所々にありしかども、何れも勝劣は付かざりけり。上州衆は小田原方オープンアクセス NDLJP:257になり、甲州衆は家康方になるといへども、昨日までは、共に武田の家人傍輩なれば、互に恥ぢて、足軽軍又は苅田競合にも言葉を交し、共に尋常なる振舞見事なり。斯る所に美濃守氏規、若年の昔、家康と駿河にてのちなみ浅からざりしかば、扱を入れ、徳川家康北条氏直和睦氏直・家康和談ありて、氏直は上野国残らず知行し、家康は甲信両国残らず知行し、氏直・家康の聟になりて、以来まで入魂あるべしとの扱相済み、互に証人を出し、其後両将対面あり。扨同十一月下旬に、小田原へ御帰陣なり。是を若御子御対陣といふ。
 
朝比奈弥太郎鬼に逢ふ事
 
其年極月、小田原より駿河へ御祝儀の御使あり。石巻隼人佐に、河尻下野守相添へ、十種十荷進上あり。家康喜び限りなく、両使に小袖馬など給はる。又家康よりは、朝比奈弥太郎使として、十種十荷を進上。依之十九日、朝比奈に御対面あり。御太刀御馬下さる。同廿一日駿河に帰る頃、朝比奈は、本国駿河の住人にて、今川氏真普代相伝の侍なり。然れば氏真流浪の後まで随身ありしが、先年天正三年長篠合戦の時、氏真より家康へ見舞の為に、彼朝比奈を遣さるゝ所に、甲州方の大将馬場を討取りしかば、家康・信長大に感じ、氏真へ所望ありて、家康へ仕へ、武勇の名を上げ、度々高名もあり。其性天然正直にて、天道を恐れければ、家康懇し給ひ、斯様の使にも遣しける。此人小田原より駿河へ、日金越に帰りけるに、夕暮に、日金堂の麓の物凄き木影に、六七尺計の、男とも見えず、法師とも山伏とも見えざるやうの者、髪は剃りしかども、さながら僧の形にもあらず、色黒く筋太く、声高なる異類の形にて、木刀やらん、熊手金さい棒やらん打かたげ、松明をとぼし、道の傍に立つ。何者やらんと問へば、此山の上、日金の辺の者なり。人の迎に出でたり。御不審あるまじと申す。朝比奈が、供の侍に向つて、彼異体の者申すは、若き女の上り候はん。早く上り候へ。上にて待つ者ありと言伝す。朝比奈不思議に思ひ打過ぎけるに、下より十六七計の女の童、恐ろしげなる風情にて、闇さは闇し、辿る上る。愈不思議に思ひ、彼僧の申せし言を、女に申し聞かせて過ぎけるが、猶も不思議にありし程に、馬を暫く控へ、オープンアクセス NDLJP:258待つて様子を聞きけるに、其女半町程過ぎし頃、山上にて大に叫ぶ声聞え、又物を打倒す音夥し。是を不思議と思ひ乍ら過ぐる所に、箱根山の麓の玉沢といふ所に、死人を葬礼して人あまた集り、はや煙と焼上ぐる。朝比奈馬を留めて、地下人を近付け、此死人は何者ぞと問へば、是は箱根山中の関守に、半田といふ人の女、十七にて早世仕りたるを、葬り申すと答へければ、朝比奈正直第一の人にて、誠やらん、箱根の奥又日金の辺にも、地獄ありと聞えしが、扨は今見つる女は、此死人の霊魂なるべし。道の傍にありしは、疑なく鬼ならん。恠しき事を見るなりと申しければ、其頃関東伊豆・駿河・相模にて、専ら朝比奈、鬼を見たり、女地獄に落ちたりなんど沙汰ありけり。真は日金の地蔵の御堂守の法師の娘を、麓の里に置きけるが、父の本に帰りけるに、日暮れければ、父の法師、迎に出でしにてぞありし。其法師と行逢はざるに、山の犬来りて喰はんとせしを、彼女大に叫びければ、父の法師馳来りて、山の犬を打殺しける声の、いかめしく聞えけるを、朝比奈が連れし者聞きて、斯く申しける。時分に半田とて、山中の関守、世に情なき者の女死にければ、誠に地獄に堕ちたるらんと、地下人にも沙汰せしとなり。今も箱根や日金には地獄ありと、伊豆辺の地下人は申すとかや。
 
上方軍の事
 
其頃上方には、明智を討取り、信長の惣領城之介殿の子息三郎と申して、三歳になりしを、羽柴筑前守、主と名付け、我れ其執権となりて、天下を治めんと謀る。信長の二男伊勢国司と、三男信孝又天下を争ふ。柴田修理・滝川など、三七信孝を取立てんとしける間、天正十一年四月廿一日、江州賤ヶ岳合戦に柴田打負け、同廿四日越前にて自害す。三七信孝は、尾州内海にて自害ある。伊勢の国司は、家康を頼み給ひ、又佐佐内蔵助も、信雄と一味して、秀吉に敵をなす。天正十二年四月、尾州小牧表にて、信雄、家康と一味し、秀吉と対陣す。秀吉には、西国・中国より加勢あり、十五万余騎。然る処に秀吉人衆を分け、三河国を攻めんとす。長久手の合戦家康衆も人衆を分け、長久手にて合戦、家康衆討勝ちて、森武蔵守・池田勝入を討取る。其後度々合戦。毎度家康打勝オープンアクセス NDLJP:259ち給ふ。扨信雄いかゞし給ひけるか、秀吉と和談あり、家康とも扱になり、終に秀吉天下の主となり、官は太政大臣、凡人の絶えてなかりし関白になり給ふ。
 
佐竹対陣上州対治の事
 
天正十二年四月、長沼の皆川山城守が城を御調儀の為、小田原より御馬を出され、藤岡へ御陣を張り給ふ。佐竹義重、後詰の為出勢あり。然るに敵も味方も、互に切所を構へ、佐竹衆は大和田に在陣す。壬生上総介、佐竹方を背き、小田原方になりしかば、佐竹衆と足軽競合度々なり。壬生上総介・本馬勘解由・黒河、晴れなる高名いたし、両人御感状を下さる。両方互に難所にて、寄せて合戦すべき様なし。百日に及ぶ長陣なれば、諸軍屈し、若侍共、陣屋の前に馬場をいたし馬を乗る。佐竹衆も退屈にや思ひけん、陣屋の前にて花火をくゝり、夜々花火を立てゝ慰みける所に、北条陸奥守方へ、佐竹義重の臣義久方より扱を入れ、互に牛王血判の状取交し、和談相調ひ、佐竹衆人数打入れける所、小田原衆、此人数の行列見物せんとて、岩舟山へ上る。佐竹勢之を気遣して又引返す。依之小田原方、山より下るべしとの御下知にて、皆下りければ、佐竹衆打入りける。其後八月上旬、厩橋の城を明けて、上州衆の人質共を入れ置かる。小田原衆、皆堅く守護しける中にも、新田・館林の両城主長尾但馬守・由良信濃守を、内々改易し、両知行歿取し、所易あるべしとて、窃に両人を厩橋へ呼越し、即城へ入れ、堅く守護人を置きて、伴に来りし家老共をも、皆押籠めんとしけるを、不審に存じ、由良弟能登守以下、矢場・北金井掃部助など、早々引返して、諸家中の人人を催しける間、彼の両家人共大に腹立て、由良殿、母儀を大将として城に籠り、用心厳しくして待懸けたり。其頃の長尾に子なくして、由良殿の子を養子してければ、今由良・長尾は兄弟なり。由良方には、簗井・大沢・両林とて、五人の臣下あり。長尾方にも、白石豊前・矢野・淵名上野介なんどといふ軍兵、城を堅くして待懸けて居たりし処に、小田原より中条出羽守大将分にて、松山衆・忍衆三百にて発向して、城を渡すべき由使を立てらるゝ。城よりの返事に、大将両人共に厩橋にあり、定めて頓て帰り給はん。其時彼下知によりて城を渡し申さん。さもなくて、中々私に城を渡すオープンアクセス NDLJP:260事ある可らずと返答す。扨は攻落せとて、日々に攻めけれ共、中々外輪をも破り得ず、徒に日をぞ送りける。斯る処に大将中条出羽守、或日天曇り霧深き時、窃に城際に寄りて城を窺ひけるを、由良の侍大将大沢甚兵衛といふ者、是も忍びやかに城を出で、敵軍を窺ひ見んとて、道にて両人行逢ひ、互に打物にて戦ひ、中条手負ひ引きけれども、大沢も唯一人、敵陣近ければ、続いても追はず引行く処に、中条岸の高下へ行懸り、終に伏して死しけるを、由良方のかせもの、彼死人を見れば、団を持ちたる人なりし間、如何様唯人ならずとて、太刀・刀・守護袋まで取持ちて帰りけり。軍乱の最中なれば、誰が首とも知らず、確に是は大沢甚兵衛が打ちし人なりと沙汰あり。扨首にかけし守護袋を取りて開いて見れば、若衆より取交したる知音の誓状あり。其中に中条出羽守殿へと書きたる文あり。扨こそ中条が首とは知れにける。其後重ねて陸奥守発向ありて、両城を攻めらるゝといへども、城元来要害よく、軍勢は普代の侍共、今度を最後と防ぎ戦ひければ、寄手は数百騎討たれて、中々城は落つべきやうもなし。去程に由良も長尾も、召籠められて坐しけるに、家人共斯様に強りて、城を渡さず、合戦度々あらば、両人ともに生害あるべし。又城を渡し給はゞ、懸命の地千貫づつ参らせ置かんと、小田原家老衆誓言を以て申されければ、両人納得ありて、家人共の方へ、其通り使札ありしかば、兎も角も主の命に随はんとの儀にて、即城を渡しける。無念といふも愚なり。扨も不思議なり去々年、若御子陣の時、新田・館林の若侍共、小歌を習ひ来り、殊外面白しとて、諸人是を謳ひける。其歌は、我は焼野の雉子、我はやけ野の雉子、思ひ出でてはほろと鳴く、といふ歌なりけるが、三年ひたもの歌ひ、今年故郷を焼野のやうに思ひ出でて、鳴きけるこそ不思議なり。
 
松田由来の事
 
小田原一家老松田尾張守、本国相州の松田、其末葉三流あり。一流は大和国に居住。京公方に代々近習松田対馬守といふ一流、相州に居住。松田左衛門尉といふ一流は、備前に居住し、赤松に与力す。然るに中頃備前国浦上の一乱により、松田尾張守

〈今尾張親父也〉・筑前守兄弟二人、相州の左衛門尉を尋ねて下り、早雲・氏綱二代に仕へ大功あオープンアクセス NDLJP:261り。左衛門尉が遺跡を継ぎ、兄尾張守は死して、其跡今の尾張守是なり。同心与力相続しける。弟筑前守に子四人あり。一男は孫太郎、後に肥後守といふ。今の六郎左衛門が父なり。二男右兵衛太夫といふ。三男源七郎、是八王子大石遠江守といふ人、三増合戦に甲州へ生捕られ、其跡に女子一人ありしかば、氏康の御意にて、彼源七を大石が聟として、其跡を継がしめ、大石四郎左衛門と申す。八王子の代々の城主を大石源左衛門と申す。今の源左衛門にも子なくして、氏康の二男を養子にし、大石の源三と申して、由井に居住ある。今の陸奥守殿是なり。大石源左衛門伯父を、大石遠江守といふ。其弟を大石信濃といふ。是も子なくして、松田六郎左衛門弟を養子にして、大石惣四郎といふ。後には信濃守といひしなり。六郎左衛門は後に太田新六、江戸を落ちて後に、彼名代として、武州江戸の城代となり、彼が所領を給はり、太田の六郎左衛門といふ。後に又松田を名乗りしなり。

 
岩付太田味方になる事
 
武州岩付の城主太田美濃守入道資正法名道誉は、源三位入道宗葉なり。其先祖太田備中入道道真より五代相続して、太田家督を継ぎ、岩付の城主なり。先祖は太田道真・其子左衛門入道道灌・其子道俊・其子道薫・其子源五入道道可、其子今の道誉なり。此人久しく上杉の下知に随ひ、関東皆小田原に降りけれども、独猶岩付に在城して、憲政の旧好を慕ひ、越後の輝虎と一味す。此時関東方并甲斐・信濃に至る迄、義理をも知らず、人々は、扨々太田殿は、近所の小田原へ一味なされず、遠所の越後と一味は、謀なき大将と沙汰しける。太田是を聞きて、我家は道真・道灌、不思議の業を以て、名を天下に上げ、誉を八州に振ふ。然れども第一に義の当る所を業として、終に不義の弓矢を取らず。故に久しく世に佳名を知らる。今管領牢人となり、諸人小田原へ降参は臆病の至りか、又は恨ある人、敵にぞならん。我は管領より外に大将を持たず。今何の恨ありて、小田原と一味すべきとて、佐竹と房州と一味して、小田原へ敵をなす。此道誉常に諸牢人を集め、或時は軍評定す。自他国の弓矢の功者手立の物語を聞き、朝夕懸合の沙汰、城攻の様子怠る事なし されば上を学ぶ下なれば、岩オープンアクセス NDLJP:262付千騎の侍、何れも武勇を好む事、他国に又比類なし。此道誉に四人の子あり。男子二人女子二人、男子は太田源五郎資房といひて、先腹惣領なり。其次女子なり。忍の成田下総守内室なり。其外当腹、八王子大石信濃守が女の腹に、二人の子あり。今の梶原源太政景是なり。然るに道誉、宿願の仔細あり、鎌倉へ参詣ありしに、夢中に若武者一人来りて曰く、我は是梶原景季なり。汝が子となるべしといひて覚めけり。不思議の夢と思ひ、岩付に帰り、持仏堂の過去帳に書付けたり。道誉内室又夢想を見て、即懐姙なり。其後度々奇異の事多くあり。程なく誕生あり。此子の胞衣を埋めんとて土中を掘りしに、壺一つ掘出す。其中に鞍一口と鏑矢の根を掘出す。弥不思議に思ひけるに、古河公方義氏御元服の時、禁中より左馬頭に補任ありて、鎌倉へ社参ありし日、道誉二男の童、御太刀を持つべきとの上意にて、御太刀の役に参る。頼朝公よりの例なり。尊氏御所より、代々梶原名字、御太刀の役なるべしとて、彼童を、長尾郷に居住しける梶原上野介が後家の養子として、彼童を、梶原源太政景と名付けらる。道誉大に悦び、彼孕みたる時の告共を語りける。扨こそ源太が再来どぞ、人皆知つたりける。其後輝虎管領になりし時、又源太に太刀を持たせけり。父母愛子なり。家人ども、惣領の源五郎より之をもてなしける。此源太、弓矢打物達者にて、鬼にも神にも逢ふべき器量なり。和歌の道に心を掛け、手蹟・早歌・乱舞・馬上・鞠の上手、諸芸に名を顕しける。兄の源五資高は、武勇は勝れ、数度の高名を顕はすといへども、口上悪しく吃なりければ、公儀不調法なり。依之源太こそよき大将なれ。御家督を是に渡し給はゞ、如何に目出たからんと、下々の申しけるを、母儀大に喜び、内々道誉に此由を申されける。道誉は、弓矢の道は達者なれども、女性などの歎く事を、いなやといはざる人にて、当腹の寵愛に迷ひ、此事合点し、越後輝虎へ申し、源太成人の後隠居して、家督を譲るべきと内談已に極まる。兄の源五是を聞きて、相伝の家老柏原太郎左衛門・河名辺越前に此事を相談す。両人大に忿り、岩付家は、道灌以来二男に継ぐべき例なし。源五殿弓矢の道も勝れ、家中当りも懇情なり。民を哀み給ふ事もよき大将なり。其上太田殿は源家なり。梶原は平家なり。平家の家を継ぎ給ふ人、又源氏になり給はんも、氏神の照覧あるべし。是は如何様オープンアクセス NDLJP:263御前様の御計らひなり。少も差置き給はゞ、当家滅亡あるべしとて、岩付の家に三人の武者大将あり。一人は三戸駿河守、一人は太田下野守とて、武州本郷の城主、一人は太田新六入道無安とて、此三人道誉の下に、千余騎の軍兵を三つに三百づつ預り、一方の大将となりて、道誉の名代に、方々へ働く人々なり。彼三人衆へ、両家を相談す。三人一同、是は誠に一大事なり。兎角惣領を取立て申すべしと一同密談して、岩付の神明にて神水を呑みて、時分を待ちけるを、道誉夢にも知らずして、或時房州里見殿へ軍評定の為に、雑兵八十騎にて打越え給ふ間に、よき隙なりとて、日頃の談合の衆、小田原へ使を越し、源五郎を小田原氏政の妹聟として、小田原の旗下になし、弟の源太并其母をも召籠め、母儀をば、小田原へ人質に渡しける。道誉是を聞きて、房州より帰りけれども、中々岩付近所までも寄付かば打殺せと、小田原より富永検見に来り、番を附置きける間、是非なく、忍の成田は聟なれば、是を頼りに忍へ牢人なり。其後河名辺与助といふ者、岩付へ忍入りて、源太を籠より盗出し、忍へ同心して来りければ、道誉大に喜び、河名辺越前といふは、代々の家老なれば、郎是をも越前守と号し、源太が家老に定めける。其後佐竹義重此由を聞き、扨も不慮の仕合ありて、千余の味方を敵になしける事無念なり、然れども一将は求め難しといへば、道誉を呼越して、一所懸命の地を与へんとて、道誉父子を呼越して、片野といふ城を預け、小田の境目に置き給ふ。是は大敵の小田の境目なれば、佐竹方にも大切の所なれども、道誉名将なれば、小勢にて籠りける。道誉の息女、佐竹の妾となりし故に、かく賞翫と聞えし。即道誉を三楽と号す。或時小田原衆と佐竹方と、常陸の飯沼にて対陣しけるに、小田原衆より落書あり。

   岩付て今は片野にありながら何を栄花に三楽といふ

三楽是を見て、即又落書を書きて立返す。

   岩付て小田原までは太田のみ是を栄花に三楽といふ

是は先年遠山を、小田原へ追込みし事を思出でて、よみけると聞えし。其頃常陸小田政治逝去なされ、女子一人御坐す間、京都へ申上、公方の末の御子一人申下して、家督を継がせ申す。是を氏治と申すとなり。但し是は他家なれ、名乗字相オープンアクセス NDLJP:264違存ぜず候。小田殿下に宍戸・菅谷などとて、大名あまたあり。小田を根城として、木だまり・土浦以下、あまたの名城あり。其頃小田殿若大将にて、自身の働きを好み給ふ。小田家の臣下共申しけるは、大将軍は謀を廻らして、勝つ事をば、千里の外に得るといへり。各罷向つて稼ぎ申すべし、御自身の御合戦は、御無用と諫め奉りけれども、京家の若待衆、味方の大勢を頼みて、頻に屋形の御出馬ありて、御自身御下知をもなされ然るべしと申しける故、小田殿是非共御出張とある事なれば、彼家来共寄合ひ、扨は危げもなく、而も合戦し易き敵をと待ちけれども、さる敵もなく。爰に佐竹方太田三楽、片野の城にあり。是は弓箭功者の強敵なれども、小勢なれば、何程の事かあるべき。而も片野近所に、手ばへ山仏乗寺といふ能き陣城あり。是へ御動座ありて、太田と御合戦然るべしとて、小田勢三千騎にて御出ある。即彼仏乗寺に本陣を居ゑらるゝ。

 
梶原小田城を取る事
 
三楽父子は、片野の城に、雑兵合せて六百にて籠る。敵は三千余人、仏乗寺山に在陣なり。彼手ばへ山仏乗寺と申すは、三方は切立ちたる如くの大山、一方は地下りにて、急ぎては上るも叶はず、降るも遅し。中々寄せては一戦も叶ひ難し。又此方は首の上のやうなる処に、敵を請けて、日夜旦暮に荒手を入替へ懸らば、終には何として、小を以て大に勝つべきや。然れども敵多勢なればとて、戦はずして落つる法やある。唯一筋に思切りて突いて懸り、晴なる討死すべしと思ふ。如何に皆々は思ふぞといへば、河名辺以下の侍、岩付より是まで附添ひ参る人々、一人も命を公に奉らずといふ事やあるべき。兎も角も御意に随ひ申すべしと、一同に申しければ、さては最後の出立せんと、一同に神水を呑み、一足も引くまじと、思ひ切つてぞ居たりける。三楽斎、佐竹殿へ早馬を立て、小田殿片野を攻め給ふ間、差違へ小田を攻落さんと、小田へ発向仕る間、多分小田を取るべし。後詰の御勢御出し憑み申すと使を立て、三楽手ばへ山へ懸り、鉄炮を卅丁計打かけゝれば、諸人大にあざ笑ひて、鉄炮をも打たず、あな哀や、三楽が小勢にて、何程の事かあらん。唯押潰してん。唯あオープンアクセス NDLJP:265へしらひ、明日片野を乗取らんと、声々に申しける。三楽暫くあへしらひ、日の暮れぬ間に、源太は三百にて、木樵の通る道を尋ねて、山越に小田へ馳せ向ふ。三楽も小田の方へ除く。其間に、すは三楽が逃ぐるぞ。城を取れとて、片野へ入る敵もあり、三楽を追懸くるもありけれども、彼仏乗寺山難所にて、左右なく下り兼ねて時刻移りし間、源太は小田の城へ着くと、屋形御帰陣と触れ廻り、即城へ乗込んで、先づ侍衆の人質のある所へ人衆を越して、人質共を捕へ、あまた敵を討取りける。諸人大にあわてゝ、是は屋形の御人衆にはなし。敵の御城へ入りたるとて、蛛の子を散らす如く分散しけるを追懸け、あまた討つてけり。其間に佐竹衆、多賀谷修理大夫・袋畠越前守以下、数千にて馳せ来りければ、小田城をば、終に三楽父子落してけり。小田殿は、敵に城を取られて、先づ木だまりの城へ入り給ふ。三楽六百の小勢にて、三千の敵の城を取る。ためし少き次第なり。
 
梶原母を盗出す事
 
然るに三楽惣領の太田源五は、小田原の聟となりて、小田原と一味なり。梶原母は、小田原に人質に取りて置きける。此母儀は、大石信濃守が息女なり。大石に男子なく、女子二人あり。一人は梶原が母是なり。一人は松田肥後が子を聟にして、大石の跡を継がせ、大石惣四郎と申す。後に信濃といふ。依之梶原が母をも、松田肥後守預り召籠めける。梶原が普代の侍金子出羽守と申す者、其頃隅屋大隅守といふ者を討ちて、梶原が家中を除きけるが、後に片野へ来り、度々の合戦に高名して、帰参訴訟申すと雖、更に免許なかりける。其後金子申すは、左様に御座候はゞ、御母儀を盗み取り進ずべしと申す。其時梶原大に喜び、最もさあらば免すべしとて、金子を呼び、一通の文を自筆に書きて、金子に持たせて、窃に小田原へ越す。金子小田原へ来り、彼人質のある家の後の塀を二重乗りて、帳台の閑所のおとしを破りて、納戸の中へ入りて見れば、其夜廿三夜の月侍にて、女房達比丘尼達寄合ひ、双紙の談議あり。中々対面すべきやうなし。余り迷惑して。葦垣のよしを一本投さて窓より彼文を、母儀の袖の中へ入る。母儀驚き騒ぐ。談議聞きける人々、何事と申す。されども母儀、オープンアクセス NDLJP:266文の手にさはりしを不思議に思ひ、諸人騒ぐべからず。唯今鼠の袖に入りしなりと申され、諸人を鎮め閑所へ入りて文を見れば、梶原が自筆にて、迎に人を越すといふ文章あり。喜びて金子に対面あり、最も今夜入るべきなれども、先刻の文の時、人も聞きつらん。用意なり難し。来月の今夕、参るべき番衆に酒を呑ませて、女共をも散らし、雪陰の壁をも切りて侍つべしとて、返事を書きて給はる。金子返事を持ち帰り、梶原に見せければ、大に悦び、来月廿三日、又金子を小田原へ越す。今度必定迎ふれば、里見殿へ、此由三橋美作守を使として、舟十艇房州より借り、小田原浦に所々に浮べ置き、又塀を乗りて彼所に来る。母は其夜は酒を儲け、若き女共を集め、今夜月待の結願なれば、喜び祝儀なりとて、番衆の方に出して、夜更くるまで酒宴あり。番衆女共酒を勧められ、酔伏し正体なし。其間に雪隠の下の壁を破り、母儀并乳母の女房を盗み出し、早々早河口に帰り、相図の火を上げしかば、所々より舟を寄せて、相違なく常陸国へ帰り、二度梶原父子に対面あり、喜びは限なし。即彼金子に色々の引出物を給はりける。其後梶原は、小田に在陣しけるが、後には佐竹殿と不和の仔細ありて、小田原へ使を立て、御味方になり申すべし。御馬を出され、佐竹を御攻あるべし。御先を打つて、佐竹を取るべきと申す。誠に源太武勇の達人なり。案内は知りければ、佐竹退治容易すかるべきと喜び、飯沼の常陸守と調じ合せて、既に先陣出張あるべきに極まる所に、松田尾張守申しけるは、最も梶原、味方申す所は吉事なれども、兄の源五郎御味方になり、御縁者になり給ひ、忠節比類なし。彼が心分をも御存知なり。梶原を味方には如何あるべき。其上六百余人の小勢を以て、小田三千騎を傾け、又当方の人質をも盗取るやうなる、すゝどき謀ある源太なれば、何やうの逆心を以て申してん、旁御遠慮あるべき由申しければ、氏政合点まし御出張なし。梶原は、小田原出張を待ちて、一合戦と心懸け、佐竹の境目を焼き、今や今やと待ちけれども、出勢なかりければ、徒に籠城して、三年まで佐竹と合戦しける。攻手は梶原が舅と、真壁の道無・下妻の多賀谷衆なり。さる程に合戦には毎度打勝ちけれども、兵糧尽きて、又佐竹へ降参して、已に切腹せんとありけれども、父三楽佐竹の縁者故に、源太助かり、本の如くに片野に居住しける。岩付の源五郎は、後オープンアクセス NDLJP:267に大和守といふ。武州戸田の渡しの上長瀬といふ所にて、討死ありしが、男子なくして、女子一人ありしを、家老太田備中・同無安・柏原相談して、小田原へ申して、氏政二男を申請けて聟として、一跡相続し、太田十郎氏房と号す。源五郎殿後室は、氏政の御妹なれば、十郎殿と御前は、従弟にて御坐しける。
 
 
オープンアクセス NDLJP:267
 
異本小田原記 巻之五
 
 
北条・関白不快の事
 
天正十八年の春、相州小田原退治の由来は、先年天正十年、信長御生害の時、甲斐・信濃、明国ならば、家康甲州へ入国ありて、信長の臣河尻肥前守を討取り、甲斐国を治めんとし給ひし時、甲州の住人大村三右衛門・同伊賀といふ者、小田原へ注進いたしけるにより、小田原衆甲州へ出張、郡内を討取り、若御子迄御馬を出され、家康と対陣ありて、所々に足軽競合百ヶ日に及ぶ所に、北条美濃守氏規、先年駿河国にて氏真の時分、家康と入魂ありし故に、家康へ扱を入れ給ひ、小田原と無事になされ、然るべきなり。あつかひ筋目は、今度武田持分の国の中、甲斐・信濃家康へ渡し、上野は北条へ渡し、其上にて、家康の女を氏政へ迎取り、縁者になり、自今以後猶以て入魂にとの事オープンアクセス NDLJP:268にて、無事相調ひ、北条殿御馬入なり。依之北条家へ打取る処の甲州郡内は、家康へ遣し、扨三河より御輿入祝儀相済みての後、北条より家康へ申されけるは、先年相約しける如く、甲斐・信濃二ヶ国は、残らず家康へ渡し申し、上野の国は残らず此方へ知行すべき所に、家康方の真田安房守、沼田を知行する事謂なし。急ぎ沼田を、此方へ御渡しあるべしとの儀なり。道理至極しければ、家康、真田に、沼田を明け、北条殿へ遣すべしとの仰なり。真田承り、さ候はゞ、替地を給はるべし、明け進ずべしと申す。然れども家康分国に、沼田の替地になるべき処なし。以来給ふべき儘、唯渡し候へと重ねて仰せらる。真田申す様、左候はゞ、川中島四郡御手に付かず、景勝近年知行仕候。是を連々切捕り申すべき儘、川中島を可下と申す。然れ共其頃秀吉とも敵なれば、上方の大敵を引請けて、北国の敵対も無益なり。唯明け渡し、上田計知行し、時分を待ち、替地給ふべしと仰合はされけれ共、真田は新参の侍なれば是を用ひず、已に逆心しければ、家康衆平岩・鳥居・柴田抔、甲州武河組の侍共、悉く上田へ発向し、真田と合戦し、皆散々打負け、其上真田へは、関白其頃羽柴筑前と申しける時分、上方へ申上げければ、加勢可遣由景勝へ下知ある。景勝より数万の侍上田へ発向する間、家康衆上田攻落す事ならずして引帰る、之を聞き家康腹立ち給ひしとなり。其後関白殿の下知に付き給ふ。北条美濃守氏直、代官として上洛あり。沼田の事、北条へ給はるべしとの儀も被申上。関白殿聞分け給ひ、国境の儀を懇に聞き申付けらるべき間、家老なりとも差上せ候へ。沼田をば給はるべし。其上北条上洛して、出仕可被申由なり。依之板部岡江雪斎を、小田原より代官に差上せ、右の段々申上ぐる。即天正十七年十二月、氏政・氏直上洛可仕約束あるによりて、津田隼人正・富田左近将監を下し、沼田を小田原へ渡し給はる。但し沼田の中なくるもは、真田代々の墓所なれば、真田に給はるべし。其外は北条の支配たるべきの由、被仰付なり。去程に鉢形の城主安房守氏邦、沼田を給はり、沼田の城へ移り給ふ。爰に安房守の中首の猪俣小平六範綱が末葉、猪俣能登守といふ者、智慧分別もなき田舎武者なり。沼田の中なくるも計手に入れざる事、思へば無念なりとて、即なくるもの城を攻取り、真田が衆を追出し、沼田一円に北条方に知行す。真田此由関白殿へ訴ふ。秀吉聞オープンアクセス NDLJP:269き給ひ大に怒り、明王院を以て、氏政・氏直上洛し、出仕可申と相極め候間、沼田を渡す処に、約束を変改し其儀なし。剰へ上意を得ずして、なくるもを取る事、第一の提目逆儀、是に過ぎたるなし。急ぎ出勢して、北条退治あるべしとなり。依之小田原より石巻左馬允康昌を使とし上洛あり、某頓て上洛仕るべし。又上州なくるもの事、全く以て北条下知にあらず。辺土の郎従共、不案内の慮外なり。急ぎ進退をいたすべしと云々。然れども関白終にいはず、使の石巻をも捕へて、籠に入れ置き、已に小田原難題の使を下し、諸国へも其の分相触れ、明年小田原発向との由聞えけり。

   条々

、北条事近年蔑公儀、不上洛、殊於関東雅意狼藉不是非。然間其年可御誅伐処、駿河大納言家康卿依緑者、種々懇望候間、以条数仰出候へば、御請申に付、可御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事。

、先年家康被定条数、家康表裏の様に申上候間、美濃守被御対面上は、堺目之儀被聞召届、有様に可仰付候間、郎従差越候へと被仰出候の処、江雪差上詫、家康与北条国切之評儀如何と御尋ぬる処、其意趣者甲斐・信濃之中城々、右家康手柄次第可申付、上野の中は北条可申付由相定、甲信両国は、則家康被申付ば、上野沼田儀は、北条不自力、却て家康相違之様に申成寄事、於左右北条出仕迷惑之旨申上候かと被思召。於其儀者沼田へ被下候。乍去上野の中真田持来候知行三分二沼田城に相付、北条に可下候三分一は、真田被仰付候条、其中に有之城は、真田可相抱由被仰定。右に北条へ被下候三分二の替地は、家康より真田へ相渡旨被御極、北条山洛可仕との一札出候上は、則被遣御上使、沼田可相渡と被仰出、江雪被返下候事。

、当年極月上旬、氏政可出仕之旨、御請一札差上候。依之被遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事。

、沼田要害請取られ候上は、右之一札に相任、則可罷上と被思召候処、真田相抱候なくるもの城を取り、表裏仕る上は、非御対面候。彼使雖オープンアクセス NDLJP:270生害助命候事。

、秀吉若輩之時孤となりて、信長卿の属幕下、身を山野に撫で、骨を海岸に砕き、干戈を枕として夜半に寝ね夙に起きて、軍忠をつくし戦功をはげます。然るに中頃より蒙君恩名を知らる。因玆西国征伐被仰付、対大敵雌雄。剰明智日向守光秀以無道之故信長公。此注進を聞届、弥組表押詰而存分不時刻上洛、逆徒光秀伐頸、奉恩恵、雪会稽。其後柴田修理亮勝家、信長公之忘厚恩、国家を乱し叛逆之条、是又令退治訖。此外諸国之叛者討之降者追之。無麾下。就中一言之表裏否有之、以此故相叶、天命哉、既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕臣、開万機政。然処氏直背天道之正理、対帝都好謀。何不天罰哉。古旗云巧所不拙誠。所詮普天下逆勅命輩、早不誅伐。来歳国携節施を進発、可氏直首事、不踵者也。

  天正十七年十一月廿四日

              北条左京大夫どのへ

氏政此状を披見ありて、舎弟陸奥守殿に向つて、是御覧候へ。彼の秀吉と申す冠者が分とし、斯様なる事申候。聊の関白と申すは、遠江国にて松下といふ地下侍の被官にて、藤吉郎とかや申しけるが、其身才覚もやありけん、又は果報や増しけん、信長直参の侍となり、手を下しての高名はなけれども、其身すくやかにて謀才かしこく、度々勝利ありしかば、信長引立て、両国の大将をさせし時分、彼の果報故に、処々打靡けたる頃、信長生害にて、諸人の心落着かざりし頃、秀吉謀を以て敵陣と和談し、毛利より加勢を請けて切つて上り、信長の三男信孝を大将にて山崎合戦、信長衆と共に明智を退治し、はや信孝を蔑にいたす。仔細は信長無双の大将なれども、天罰を知らず、主の義昭の御蔭にて京入し、天下に旗を立てながら、頓て義昭を追出し申し、我身天下を支配せんとしける報にや、信長城之介討たれて後、二男信雄と三男信孝、信長の跡を争ふ心あり。又秀吉、はや他人を主にせんといふ心なく、己れ天下を取らんと計る。唯我身取らんといふは、諸人手に附かざる故に、城之介の子息三歳になり、主にせんと名付け、信長衆を相付け、三七信孝を討たんとす。柴田・滝川、三オープンアクセス NDLJP:271七贔屓に秀吉と戦ひ利なく、柴田自害しければ、信孝をも、頓て秀吉切腹させ、信長の思を忘れ、城之介子息をも主にはせず。己れ下賤の身として、太政大臣に上りて、征夷将軍にならんといひけれども、公方義昭世に落ち給へども、さすが室町殿の子孫とて、中々許し給はず。依之公家を威しだまして関白になる。斯様に表裏のみいたし、就中柴田が信孝への忠をなされけれども、不運故に亡びける。又信雄は甲斐なき人にて、秀吉に随ふ事、信長の主君を蔑にせし報なるべし。此秀吉、日本に未だ聞かざる不思議の者なり。昔の入鹿の大臣が振舞なるべし。世末代なれども、天照太神・春日大明神の国家を守り給ふなれば、争て斯様の者、久しく世を保つべき。されば今亡ぶべき時節到来して、天運尽き、関東へ下向して、長途長陣に兵糧尽き果て、退屈の時分、此方より突いて出で合戦せば、偏に惟盛が、頼朝を追伐使に下向し、一合戦もせずして、水鳥に驚きて上りし如くに敗軍すべしと、爪弾してあざむき給ふ。天正十七年十月の初め、秀吉出張の用意とて、箱根の山中に新城を取立て、前の岱崎を取入る。是は昔の関所の跡にて祈処なり。尾張守甥松田右衛門太夫在城なり。然れども松田小勢なれば、大敵防ぎ難かるべしとて、相州甘縄城主北条左衛門太夫氏勝を差遣す。其与力侍は、間宮備前守・朝倉能登守・行方弾正忠等なり。其外加勢池田民部少輔・山中大炊助・椎津隼人正、其外又小田原より北条一家、大名一組より五騎づつ加勢あり。豊臣秀吉小田原へ進軍明る天正十八年三月十九日、関白秀吉小田原北条退治として発向、其前参内あり節刀を賜はる。同出陣祝連歌あり。

      発句

   関こえて行末なびくかすみかな 紹巴

 
山中合戦の事
 
同月廿七日、先陣は沼津・三杉福・三島に着く。関白殿は、浮島原に着陣なり。伊豆国韮山城には、韮山城合戦北条美濃守氏規籠りしを、羽柴左衛門太夫・戸田民部少輔・蜂須賀阿波守・生駒雅楽頭・前野但馬守・中川右衛門・森右近・明石左近太夫・筒井伊賀守等馳向つて、日夜朝暮攻戦ふ。城中にも勝れたる軍兵あまたありしかば、少もひるまず相戦オープンアクセス NDLJP:272ふ。剰へ近付けなば、町口にて、城中に籠り小笠原十郎左衛門と横井越前などいふ大功の者、上方衆・福島衆を追懸け、鉄炮打かけ、悉く追討に討取る。依之急に攻落さんともせず、唯取廻して揉落さんとす。山中の城をば、関白の甥近江中納言の手の衆中村式部少輔・堀尾帯刀・山内対馬守・一柳伊豆守、唯一時に攻落さんと、揉みに揉んで攻上る。城中にても、岱崎に進出でたる間宮備前守、年已に七十に及ぶ。命はいつの為に惜まんとて、自身切つて出で、散々に攻戦ふ。上方衆一柳伊豆守を初め、数十人打つて落す。早玉薬矢種も尽きしかば、小田原よりの加勢、寄合勢皆引いて上る。間宮一党百十余人、散々に戦ひ枕を双べて討死す。爰に駿河大納言家康の衆、日頃沼津に在城して、此所の案内者なれば、山の中の木樵の通ふ古道より、一騎打に、城の後より隔てゝ箱根へ通る。又小田原より、山中の城合戦心元なしとて、山上江右衛門・諏訪部を、物見に差越し給ふ。山中の城の東の上の山より、敵陣を見渡せば、南の方より日食の方、長谷川藤五郎・木村常陸守・堀左衛門等押す有様、山越に夥しく見ゆる。又北の方の山の中木の間より、家康衆一騎打続きて押行く体、中々数万のやうに見えしかば、如何様此体にて、今夜の中に小田原迄、山の中の人衆押すと見えたり。急ぎ帰り其用意すべしとて、物見に行きし廿騎計の者を差連れ、帰り上りければ、関白岱崎より遥の下の山にて是を見、あれ見よ、城は早自落して、人衆除くと見えたるぞ。押懸れと下知し給ふ。中村式部少輔家中の者渡部勘兵衛・藪内匠といふ者二人、諸人に先立ち先陣なり。城にありし松田右兵衛太夫を初め、間宮備前・同式部・同源十郎・同監物・池田民部少輔・椎津隼人正・佐藤左衛門尉・栗本備前・山下兵庫・同源二・山岡左京・片山・富田等、悉く防ぎ戦ひ、皆枕を双べて討死なり。やう遁るる者は深手負ひ、敵の中に交りけるとぞ聞えし。本城にありし左衛門太夫氏勝も、討死を一扁に思切り、静りて居りしかども、数万の敵共長途の長陣に疲れ、粮尽きけるか、分捕を論じ、本城へ入るべきともせず、倉を破り財宝を奪ひ合ふ。其間に左衛門太夫静に引いて上る。已に暮れければ、韮山に篝の見ゆるを、小田原の方とや見たりけん、北条氏勝敗走河上藤兵衛を初め左衛門太夫衆悉く方角を失ひ、伊豆の方へ落ちて行く。左衛門太夫は、山の中にて自害せんとありしを、間宮能登守・木村三河守・堀内日オープンアクセス NDLJP:273向守・左衛門太夫弟新八郎・新三等馳来り、取つて引立て落ちて行く。左衛門太夫、軍の習、負けてもはけやらねども、面目なく、小田原へ奏ふも無念なりとて、山の中にて、一族郎従十八人髻切棄て、久野の方を廻り、甘縄の城にぞ籠りける。
 
関白囲小田原給ふ事松田内通の事
 

去程に小田原にも、予て用意の事なれば、先大手なれば、箱根口・宮城野口には、松田入道父子大将にて、上田上野介・原式部大夫、其外安房里見の人衆、上総万木境と、滝・東金・小金・相馬の勢、一万三千騎にて固めたり。同湯本の口にて千葉介、但国胤は逝去して、子息新介幼少にて、原名代として八千余騎、竹の花向、北条陸奥守氏照・成田下総守氏長・皆川山城守・壬生上総介一万五千余騎なり。其外いさい田口は、太田十郎氏房、久野口も同人なり。其外小峯には、北条左衛門佐氏忠早河口には右衛門佐氏尭大将分にて、其外数万騎固めたり。其外北条新太郎・同彦太郎・伊勢備中守・同備後守・大和兵部大夫・山角上野守・同紀伊守・同四郎左衛門・同左近大夫・多目彦八郎・山中主税之助・福島伊賀入道道晬・石巻勘解由左衛門・南条山城守・同左京大夫・同民部・同左馬助・小西隼人・富永内膳・大藤左衛門尉・依田大膳亮・荒河豊前守・大森甲斐守・清水太郎左衛門・遠山右衛門尉・大道寺孫九郎・安藤備前守・同兵部・同弥兵衛・梶原三河守・内藤左近大夫・相馬次郎・上田常陸守・酒井左衛門・芳賀伊予守・同伯耆守・朝倉右京進・伊藤右馬助・大藤式部大夫・原豊前守・荒木兵衛尉・為田・安中・佐倉・布河・長南・大須賀・高守・内藤大和守・小幡・小泉・安中左近将監・由良信濃守・長尾但馬守・木内宮内少輔已下、関東の諸軍勢数万余騎、小田原の城に楯籠る。此処北条五代の在城にて、兵糧水木沢山に、玉薬矢種もあり。たとひ日本一州攻来り、五年三年攻戦ふ共、左右なく落城し難くこそ見えにけり。扨又敵の陣取は、関白殿旗本には、九州島津兵庫頭・大友右兵衛督・中国の毛利陸奥守、左は長岡越中・津侍従・浮田宰相・近江中納言家中中村式部少輔・堀尾帯刀・一柳が人衆山内対馬守・大柿少将・松ヶ島侍従・尾張内大臣・其家中筒井左衛門・天野周防守・土方勘兵衛・滝河下総守、其次に長曽我部と加藤左馬助は、海賊にて船手に陣を取る。駿河大納言家康内衆榊原式部・大久保七郎右衛門・酒オープンアクセス NDLJP:274井左衛門・井伊兵部・松平因幡・牧野右馬允。又東南の浜路には、長谷川藤五郎・羽柴左衛門督・池田三左衛門・脇坂中務・安房里見左馬頭、西南に間なく陣を以て打続く。塩路遥に見渡せば、取梶面梶に差搔きて、艦舳に旗を立てたる数万の兵船漕連れて、海上俄に陸地の如く、帆影に見ゆる山もなく、思ひしよりは震し。頃は卯月の上旬、山郭公二声三声、関白の陣屋辺に音信れしかば、発句に、

   啼きたてよ北条山のほとゝぎす

敵を調伏の祝句なりと、諸人奉感けり。扨又関白卯月朔日に、足柄・箱根を越えて、同三日に小田原を囲み、秀吉小田原城を囲む斯様に近く攻寄する事仔細なきにあらず。小田原の老臣松田尾張入道の一男笠原が養子笠原新六郎といふ者あり。先年伊豆国戸倉の城にありし時、武田勝頼に語らはれ、相伝の主北条殿へ謀叛を起し、己が城へ甲州衆を引入れけり。然れども程なく勝頼亡びしかば、声倉に籠りし甲州衆残らず討取り、新六郎は降参したりしを、父尾張守代々の忠功により、彼が命を助け給ふ。出家入道して、父が知行河村辺に流浪しけるが、此時父逆心を起し、一度小田原を滅し、己が本意を達せんとす。依之内々関白殿へ使を越し内通して、小田原を亡す案内せんと申す。二度謀叛を起す輩は、早く誅すべしと、古人のいへるも理なり。父尾張守、武勇に於ては、勝れたる人なれども天性奸佞至極の大慾深き人にて、子息新六郎政尭に勧められ、忽に謀叛を起し、普代の主を傾けんとす。此の入道が先祖松田左衛門尉頼秀、早雲へ忠功ありしより以来、君臣数年の旧功の好を忘れ、斯様にある所、誠に武運の冥加尽きけると、人爪弾をしけるとなり。氏政・氏直諸老臣を集め評定ありしは、敵箱根山を越し来る由、急ぎ人衆を出し、石橋山の辺に備へ、敵の軍勢共、大山を越し来る疲に乗り、一戦の中に勝負を決し、家の安否を定むべしと仰ありしかば、松田入道進み出でて申しけるは、抑彼関白と申すは、凡下なりしが、武勇勝れける故に、信長彼を大将になし、方々の下知を預け給ふ。向ふ処の随はずといふ事なし。されば信長の時の諸大将佐々・滝川・柴田等、信長亡びて後、皆関白に討たれ、信長の子供も彼に背き亡び、残るは皆随ひ、又其後ためしなき関白になり、西園北国の諸勢残らず随向の時、已に山中を一時に揉落し、其勢燃え立つ火の如し。其上敵をかりに詣け、皆オープンアクセス NDLJP:275皆勢一戦に利なからんには、重ねて合戦しにくし。先年越後の景虎・武田の信玄等、此表へ発向せしか共、大聖院殿上天なされ、終に人衆を出し給はず。籠城を彼処になされしかば、敵軍長途の長陣に兵糧尽きて、引越えなんとする処を、味方より足軽をかけ、或は小荷駄を追落し、或は放火しける間、味方勝たずといふ事なし。されば近国の敵だにも如此にして、今度大勢と申す西国・北国の諸勢、永々在陣叶ふまじ。兵糧尽きたる時に、味方より時々夜討し、西国勢の馬物具を分捕して遊ぶならば、真に面白く候ひなんと、誠しやかに申しければ、運命や尽きけん、権勢にや阿りけん、老臣共尤々と評儀しける。松田、味方は斯様に調へ、窃に関白殿へ申しけるは、城の西南の角石垣山と申すは、嶮難の地、屈竟の要害なり。箱根山の前より、樵夫の通る道の候。夫より窃に御人衆を上せられ、御陣を目指し、小田原を目の下に御覧候はゞ、当方の人衆、思も寄らざる処なれば、驚入可申。其時我等内通して、御勢を引入れ申すべしと、懇に申入る。関白殿大に悦び、先づ使の僧に引出物給はり、小田原滅亡、唯松田才覚にあるべしとて、頓て卯月朔日より、人衆を石垣山の松森の間へ上げ、陣屋を作り矢倉を上げ、四方の壁を杉原にて張りしかば、一夜の中に白壁屋形出来ける。さて普請出来ければ、関白殿陣座あり。城の前に松の枝共切りすかしければ、小田原勢胆を潰し、こは彼関白は天狗か神か、斯様に一夜の中に見事なる屋形出来けるぞやと、松田が教へたるとは夢にも知らず、諸人恐怖の思をなすも理なり、同十六日の夜、皆川山城守百余騎計にて、降人になりて出でにけり。

 
所々小田原方敗軍の事
 
関白殿の副将軍筑前守利家・子息肥前守利長、三万騎にて、二月十六日加賀国を出で、越後より関東へ起り、上杉景勝馳加はる。信濃より毛利河内守・真田安房守・同源三郎馳加はる。松平修理大夫、家康の衆なりしが、信州より同じく馳加はる。上州松枝城には、小田原老臣大道寺駿河守政繁籠りしが、北国の諸勢に取巻れ、叶はずや思ひけん、四月十日降参して城を渡し、先駈の人衆に馳加はる。此大道寺は、本国近江の住人なりしが、彼が四代の先祖早雲君と同じく下向して、小田原を取立てし七人のオープンアクセス NDLJP:276中なり。今又三家老なり。されば尽未来際までも、斯く替り果てまじきに、何の眼ありてか、降参不義のことあるや。但し時の命の棄て難さに、此の如くやありけんと、諸人悪まぬはなし。同上野西牧城に、武州青木城主多目周防守・相州藤沢の大谷帯刀左衛門籠りしを、松平修理大夫一手にて亡し落し、多目・大谷を初め、残らず討取りける。同国石倉の城主も、松平修理大夫方へ降参す。即城を請取りけるが、いかゞ思ひけん、修理大夫を、対面の座敷にて忽に討ちける。舎弟松平新六郎其座にありしかば、即切つて懸り、兄を討ちし石倉を初め、あまたの者を討取らる。若輩の身にて、さすがに葦田の名を挙げける。此兄弟は、信玄の旧臣葦田右衛門佐が子なり。父は勝頼一期の後、家康へ随ひ忠戦を励まし、信州岩尾城にて討死す。されば家康感悦の余り、子息両人を取立て元服させ、松平を給はり、一門の如くに憐れみ給ふ。兄弟も父に劣らず、武勇も勝れけるとぞ聞えし。大道寺案内して、松枝衆先駈にて、松山の城へ押寄せ、城主上田案独斎は小田原籠城して、留守居に難波田因幡守・木呂久丹波守・金子紀伊守・若林和泉守・山田等、様々降参を申す間、命を助け三の丸に妻子共を人質に入置き、同先駈の勢に馳加はる。同十九日鉢形の城に押寄する処に、沼田の城代猪俣能登守、主より先に降参す。是は猪俣小平六範綱が子孫にて、武勇の家なれども、運や尽きけん、人より先に臆しける。安房守氏邦も、元来武勇さのみ勝れざる人なりしかば、力及ばで降参し、城下の寺に入りて、恒向出家入道して、沙弥の姿になり給ふ。此由追々関白殿へ注進申す。然れども関白余り御感なし。城自落の段忠功なれども、一所も攻落す事なきは、武威少なきに似たりとある儀なり。依之同廿二日、八王寺の城へ押寄す。氏政の舎弟北条陸奥守氏照居城なり。氏照は小田原にまし、本城に横地監物、中の丸に中山勘解由・狩野一庵・近藤出羽守籠らしめ、筑前守使を以て申すやう、関白殿発向に付きて、処々の要害何れも明渡され候。当城も早々御渡し候へ。さなくば則攻落し可申とある処に、即其使を討果し、中々渡すべき様なし。さらば攻落すべしとて、諸勢打立ち押寄す。大道寺・上田・難波田・木呂久・金子・山田・小幡上総守以下の降参の侍共、一万五千余騎、一面此に思切つて励まし、本領に安堵せんと、廿三日亥の刻より打立ち、丑の刻はや町を押破り、オープンアクセス NDLJP:277思ひの儘に押寄せけり。本城は事の外遠きまゝ、此様子も知らず、又味方の運尽き、朝霞深く棚曳きて、未明に敵の寄するも見えず、近々と押上る。されども予て用意の事なれば、石弓を切つて落す。先陣数百余人、唯一捲りに打落さる。されば敵は多勢なれば、重ねて二陣押寄する。斯くある所に、味方に野心の者ありて、櫓に火をかけゝる程に、悉く敗北し、中山と狩野は、城下の曲輪に自害し、大石信濃守は、切つて出で討死す。横地は落行きけるを、山の中にて自害を勧めんとや思ひけん、又害心をや思ひけん、年来召仕へし小性来り、爰は遁れぬ所なり。早御自害あるべしとて、山の中にて生害す。彼氏照と申すは、氏政の弟の中にも武勇勝れて、殊に大名なり。上杉の老臣に、大石源左衛門定久といふ人あり。是は木曽左馬頭義仲十二代の末葉なり。代々武蔵の守護代なりしが、上杉亡びて後氏康へ降参し、後に男子なくして、氏康二男を聟にとり名跡を継がせ、由井源三と号す。然るに大石の家、滅亡の時節や来りけん、大石名字皆男子なくして、大石信濃守・松田が子を養子にし、同隼人佐は、大道寺が子を養子して一跡を継がしむ。然る所に先年三増合戦に、源三打負け、遁れ難き時、山上に於て飯縄神へ祈念し、十ヶ年の間女人禁制の由立願有之、其時の祈念を果さんとて、終に御前の方へ入り給はぬ事数年なりしかば、彼女性是をば夢にも知らずして、陸奥守疎みて、仇あると恨みて、終に思ひ沈め、早世ありしとかや。死後に書置きし文言を見て、氏照後悔ありしかども叶はず、氏照も是を本意なくや思ひ給ひて、終にそれより女人を禁制ありて、一世唯出家の行儀に同じ。扨大石には因もあればとて、本姓になり返り、北条陸奥守氏照と申候。滝山の城名城なれども、八王子の城陥る滝には落つるといふ事ありて、城の名には禁忌なりとて、八王子に移りけれども、終に運尽きければ斯く落城しける。又下野国榎木・小山の両城も、陸奥守の城なり。榎木には近藤出羽守籠りしを、結城の春朝先陣にて、是も不日に攻落す。
 
佐野城落つる事由来
 
野州佐野の城は、北条左衛門佐氏忠の城なり。氏忠、我身は小田原小峯に居住して、佐野の城には、佐野の旧臣共をぞ籠置、きける。抑此佐野の城と申すは、秀郷の末葉オープンアクセス NDLJP:278なり。佐野修理亮宗綱は、足利又太郎忠綱より十六代なり。龍神より相伝ふ平石といふ鎧、忠綱より伝はりたる綱切といふ太刀も、此家にありとかや。去る天正十二年十二月晦日夜、上州館林長尾照長、隙を窺ひ、佐野の領分彦間の城を乗取る。宗綱元来大血気の勇将にて、明くる正月朔日早天に、郎従共にも知らせず、栗田といふ曲者一人召連れ、窃に彦間の城を窺ひける折節、矢倉より鉄炮にて打ちしかば、宗綱を打落す。彼栗田肩に引かけ、半町計退きしかども、城の大勢追懸け、終に宗綱の首を取る。其時宗綱に男子なく、一跡絶えなんとす。爰に佐野の家老大貫越中守・竹沢源三・津布久駿河守・山上美濃守・飯塚・高瀬・小見・赤見など評定して、当時威勢強大なればとて、小田原の御子を申請けて、宗綱の息女に合せ、主の為に二心ありしとて、神水を呑みける。然る折節宗綱父昌綱の弟天徳寺と申す僧あり。佐竹と内縁ありて、佐竹の末子を申請け、従とすといへり。家老共是を聞かず、天徳寺を追出す。天徳寺、弟の侍者と申す僧に寺を譲り、京都へ上り、黒谷に居住す。扨小田原弟氏忠を、佐野名跡と定めける。其後大貫に申付けて、彼侍者をも生害して、数年佐野を押領す。今度も氏忠は小田原に籠りて、唐沢山の本城には大貫を籠め、高瀬は免鳥に在城し、飯塚は奈良淵にありて、証人を小田原へ遣しけり。今度秀吉公、彼天徳寺を召出し、佐野の城へ向けらるゝ。天徳寺、家人共の方へ申遣しけるは、我れ佐野を、関白殿より給はりし間、普代の家人共、急ぎ味方へ参るべしと申す。家人共并国民共大に悦びける。中にも赤見申すは、評定も事による。普代の主なり、急ぎ引入れ申すべしとて、皆此儀に同ず。大貫聞きて、勇士たる者、二心あるを以て恥とす。佐野の城陥る我れ苟も氏忠の御後見として本城にあり。各は何れも計らひ給へ。某に於ては討死すとも、小田原の味方たるべしと、本城に引籠る間、残党一味して、大貫を討取り、即天徳寺を引入れしかば、佐野は左右なく落ちてけり。
 
岩付城落つる事
 
武州岩付の城は、氏政二男太田十郎氏房の居城なり。氏房は、春日左衛門尉・河合出羽・細谷以下三千余人小田原に籠り、岩付には、伊達与兵衛、二の丸に妹尾下総・片岡オープンアクセス NDLJP:279源太左衛門、其外太田備中守・宮城美作守楯龍る。寄手の大将は、浅野弾正忠・木村常陸守・同弥一右衛門・家康衆本多中務少輔・鳥居彦右衛門尉・平岩主計頭、都合一万三千余騎にて、同五月廿日押寄する。城より物見を出し、是を見る処に、敵はや見付け追懸くる。物見の兵共、急に追懸けられ、廻るに道なくして、案内者なれば、堀の中に浅き所の唯一所ありしを渡し、逃帰る。追懸くる敵、堀浅きと心得、悉く打入り、水に沈み、あわてふためく処を、城中より鉄炮にて悉く討取る。然れども多勢なれば、残らず打入り渡し、堀を越え塀際へ着き、ぬきさらして攻戦ふ。弾正中務は本城を攻むる。鳥居・平岩は新曲輪を請取り攻むる。木村常陸并梶原は、加和気の曲輪を請取り攻むる。中にも鳥居彦右衛門、鳥居の紋の旗を差連れ、新曲輪を乗入り、隠居曲輪に到る処に、城中よりも、爰を先途と攻戦ふ間、鳥居内に安藤孫四郎・寺田喜兵衛・小田切又三郎・一宮左太夫などいふ兵三十余人討たれける。城中より、新曲輪の軍急なりとて、山口平内・山角彦三郎・佐板板部・岡など、爰を先途と防ぎしが、巳より午の刻の終まで、三ヶ度の合戦に、上方衆多く討たれ、味方にも山口・平内・山角彦三郎・穂坂大炊助等討死しける。終に叶はず、妹尾下総守・片岡源太左衛門討死しければ、残る大将の伊達を初め、降人になりて城を渡しける。扨浅野弾正本城に入り、城中に籠りし女童等を詮索して、能き侍の妻子を捕へ、小田原表へやり、はたものにしけるぞ不便なる。又家老の妻子并太田十郎の御前をば、二の丸に入置き、番を附け置きけるに、太田十郎の姑御前は、氏政の妹故太田源五郎殿後室なり。御息女の十郎殿の御前と、家老の女子供、一人も散らさず前後に引連れ、敵の大将の本陣へ出でられ、此由を申され、乗物をこひ、小田原へ参らる。関白殿大に感じ、一所懸命安堵ありしとなり。
 
氏勝降参の事
 
北条左衛門太夫氏勝は、山中の城攻落され、無念無双なれども、多勢に無勢力及ばず、居城相州甘縄の城へ引籠り、打残されたる家子郎等を集め、此城を枕として討死するより外はなしと、一扁に思ひて居たりしに、氏直より御使あり、栗田といふ侍なオープンアクセス NDLJP:280り。山中の儀、全く未練の働にあらず。早く小田原へ籠城あるべしとありしかども、氏勝も家子郎等も、面目なくや思ひけん、唯此の城にて討死とのみ申して、終に小田原へ参らず。栗田小田原へ帰り、左衛門太夫は心替りと見え候。日頃のふりとは、殊の外変り候と申す。果して此の如し。爰に又家康卿、日頃左衛門太夫を知り給ひしかば、北条氏勝降る本多中務の内に、都筑弥左衛門・松下三郎左衛門等、左衛門太夫と知人なれば、彼両人を使として、関白殿へ降参然るべしとありしかども、重代の、武恩棄て難し。其上何の恨みありて、唯今敵になるべきとて、更に合点なかりし処に、松下三郎左衛門が門族に、龍達和尚といふ禅僧あり。其頃左衛門太夫が墓所の寺龍宝寺といふに住寺あり。氏勝師資の契浅からず、松下彼僧と相談して、可然に取繕ひ申しければ、左衛門太夫忽翻り、同廿一日家康卿迄参り、出家入道の姿になる。黒衣に袈裟かけ、家康卿御同道にて、関白殿へ出仕し、本領安堵の御教書を下さる。是を初めとして、北条普代の士、伊豆下田の城主志水上野守も、出家入道して、城を渡し降参す。其外佐倉と東金・両酒井・庁南・武田源三・河越・大道寺・小金・遠山等、城悉く明渡す。北条五代年暦百八十年の普代重恩を捨て、斯様に残らず降参は何事ぞや。日頃年頃北条殿の政道悪きやらん、又諸人臆病にて、関白殿の威にや恐れけん、知らず何故ぞや。唯昔相模守高時、運尽き自害しけるに、日本一州門族、同月に悉く亡び果てしも斯くやらんと、思ふ計の事共なり。
 
松田隠謀露顕の事
 
爰に上野国〈本ノマヽ〉〕忍の城は、成田下総守氏長居城なり。氏長并弟左衛門佐・同土佐守・同肥前守・当摩豊後守・同又十郎以下引率して五百余騎、小田原に籠り、留守居の侍酒巻靱負以下四百余騎楯籠る。石田治部少輔三成大将にて、出羽・奥州軍勢数万騎取巻き、日夜攻めしかども、要害勝れて中々攻落し難し。さらば水攻にせんと、大河をせき留め、水攻にしけれども、中々城へ水は上らず。此城水辺なれども、炎天には多分水尽くる事あり。其上多勢籠城しける程に、如何にと申しけるに、却て水を敵よりせき上げければ、水卓山にて、味方の満足とぞ申しける。然るに城の本人下オープンアクセス NDLJP:281総守氏長、日頃連歌の上手にてありしかば、了意といふ名人を抱へ置き、多年此道を嗜みしに、了意の上洛し、先年紹巴と同道して、関白殿へ謁し申し、予て御存知ありし程に、了意を以て内々忠節可申由被申入。関白殿大に悦び、内々出仕あるべしとの儀なり。然る処に何者か申したりけん、北条殿へ此儀を申上ぐ、即成田役所へ横目を附置く。成田の計略も叶はず。依之内々忍の城も可渡由、飛礼を遣すべきにてありしかども、其儀なし。互に寄手も籠城衆も、対陣してぞありける。去程に松田尾張守入道が内通して、六月十五日彼が持口より、人衆を可引入由議定す。同十六日の晩、一味の族笠原新六郎・二男松田左馬助・三男弾三郎・松田が聟内藤左近・松田肥後守を振舞ひ、尾張守新六郎此事を語り、面々其用意をせよ。明日長岡越中守・池田三左衛門・堀久太郎が人衆を、我等が役所へ引入るべき由申す。二男左馬助大に驚き、まはりも何事に斯様に浅ましき事仰せられ候や。普代相伝の主を傾け、何程の栄華をか開くべき。唯思召留り給へと、にがしく申す。新六郎を初め父入道大に怒り、斯様に思ひ立つも、汝等を世にあらせんと思へばなり。不忠不孝の申しやう哉と、以の外に腹立す。左馬助、迚も此事留るまじと思ひければ、先中延べんと存じ、さては御同心申すべし。さりながら十五日は不成就日なり。十六日の夜になされ可然と申す。当座の人々、可然とぞ延べにけり。されども左馬助には気遣をして、横目を附置きければ、登城すべきやうなし。我が寝屋に入り、風気とて籠り居て、小性を近付け、鎧櫃の中に入られ、彼小性を付けて、城へ荷はせ参り、座敷にて櫃より出で、此由申上げらる。氏政・氏直大に驚き、又は左馬助の忠を感悦し、即江雪斎を使とし、松田入道父子を呼上げ召籠めて、役所へは人衆を置きしかば、上方衆相図時刻になりて、押詰めしかども、朝より籏の色も変り、中々引入るべきやうなし。たばかりにや申しけんとて、中々悪心厳しくしたりける。左馬助が振舞、恥かしなし。されども忠とやいはん不孝とやせん、忠功は孝子の門にありといへば、孝は欠けたり。義を守り忠を尽すといへども、親を殺す恨あり。如かず唯自害しなんには。爰は唯愚人分別及ばざる次第なり。
オープンアクセス NDLJP:282
 
小田原落城の事
 
爰に羽柴下総守雄利方より、太田十郎氏房へ、小田原和談の使ありて、互に持口より出合ひ、扱の事相談あり。又韮山の城主美濃守氏規若輩の時、家康卿駿河にての御なじみありて、日頃入魂浅からず。故に内々御使ありしは、東国の城悉く開渡す処に、去る三月廿九日より、于今堅固に持固めたる事、比類なき働の由風聞、最も大慶なり。此方太田十郎・羽柴下総相寄り、和談の扱に及ぶ。貴殿と某、多年の知音なり。同じく又此相談可申とて、再三の使ありしかば、美濃守小田原へ来り、家康卿と相談懇なり。豊臣・北条和睦成る武蔵・相模両国安堵にて、氏直上方へ参勤あるべしと相定められ、即和談相調ふなり。同六日尾張守入道父子を生害させ、氏直は山上郷右衛門計御供にて、家康卿の陣所へ入りて、内府信雄相談し、関白殿へ出仕ある。
 
氏政・氏照〔〈輝カ〉〕最後の事
 

去程に和談相調ひ、脇坂中務大輔・片桐市正奉行として、籠城衆を方々へ出す。七日より九日まで、数万の者出づる。七月九日、氏政・氏照は城を出で、医者の田村安清が宿所に移り給ふ処に、思も寄らざるに、同十一日の晩に、古河備前・蒔田権之佐・佐々淡路・堀田若狭守・榊原式部大輔検使として、切腹あるべしとの使なり。無念類はなかりける。予て斯くとだに存じなば、城を枕に討死すべきに、運尽きてたばかられ、 北条氏政氏輝自殺氏政今年五十三歳、従四位下左京大夫平朝臣号截流軒・氏輝陸奥守従五位下平朝臣号心隙院、兄弟自害し給ひ介錯は舎弟美濃守氏規、御首を打つて落し、即自害に及ぶ処に、井伊兵部走り寄り、懐補を助け申す。其紛れに、陸奥守の首を、小性の小角牛太郎盗取り落ちたりしを、やう賺して取返して、くきやうに居ける牛太郎忰なれども、主の為を思ひしとて、家康へ召出し給ふ。北条亡ぶ天正十八年七月十一日、北条五代繁昌一時に亡びて、斯くなり果つるも不思議なり。頼朝の天下を取り給ふは、後白河法皇の勅諚により、父の敵の平家をば亡し給ふ。尊氏卿は、後醍醐院の勅諚にて、六波羅を亡し、天下を知り給ふ。其外古今大身となりし人々、皆主人の威を借り国オープンアクセス NDLJP:283を知り給ふ。北条早雲より以来、孤独の身を以て、次第に国郡を随へ、八ヶ国を治め、五代の栄華、上代にもためしなし。ましてや末代には有難し。されば運命尽きぬれば、斯く亡ぶる事、力なき次第、是非に及ばざるなり。全く関白の武勇強く、小田原の弱きにはあらず。時節到来して、一業感ずる処なり。氏直は甲斐なき命ながらへ、家老旧功の侍共を召連れて、紀伊国高野山に参り、同冬山より下り、天野といふ処にありしを、関白殿大坂へ呼び給ひ対面して、伯耆国を給はるべきとの儀なりしが、運命や此時に縮りけん、文禄元年十一月四日、卅一歳にて早世なり。法名は松巌院大囲徹公居士と号す。古歌に、

   乱るゝも乱すも人の科ならず時到りぬとみゆる世の中

右小田原の城即家康拝領。本多中務・榊原式部大輔入替る。此時家康へ先年不忠して、高天神の城、甲州方へ渡したる小笠原与入郎、小田原にありしを、家康より成敗なされ候。家康今迄の領国三河・遠江駿河・甲斐・信濃を上げて、小田原の跡武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野・下野へ国改なり。是を江戸御打入と申す事。

大道寺は、普代の主へ不忠して、一戦も無之事、似合はざる上に義ありとて、江戸桜田に被誅畢。子二人助かり、一人は出家になる。後江戸本泉寺の住寺弟子になる。但し大道寺駿河守は、氏直の御供に、高野へ上りしといふ人あり。不審なり。此両説如何。

右小田原城請取る刻、本丸に板部・岡江雪斎罷在る処家康卿召寄せ、成瀬伊賀守を以て、御使とし、去年其方為使罷登り、堅御請申上、其段違変、斯様に天下の乱を起す事、北条偽か汝が好曲か、速に可申上由被仰。江雪斎申すは、去年上洛仕り、直に対面仕り申上る。今日御使にては難申由申す。関白殿即江雪をはがひ付にいましめ、御前に引居ゑさせ、汝は主の使として、堅約を申上、斯様に違乱に及ぶ事、旦又主の家をも滅し、悪逆の臣なりと被仰。江雪申すは、全く北条殿に違背なし。安房守家人等不図及違乱候申分仕候へども、無御承引。是運の尽くる処なり。又天下を引請け百ヶ日余り籠城、面目の至りなり。別に無申上様。御芳恩に首を可刎の由申す。関白汝をば可磔と思召候へ共、申様一段なり。命を助け召仕ふべしとて、即オープンアクセス NDLJP:284御免を蒙り、以御意岡と改名す。

此五三年此方、宗仁と申す数寄者、小田原へ下りて、茶の湯殊の外はやり、御屋形を初め、諸人弄之。此頃は早河の辺に茶屋を造り、萩窪・久野の野辺にも茶屋あり。御一門衆年寄衆、異風の茶の湯とて、或は順礼になり俵を荷ひ、或は行人や虚無僧になり、茶屋へ入る事日々なり。斯様の慰み、不宜の瑞相なりと、心ある人申しけるが、果して三四年の中に、哀れなる体に成行きけり。不思議なり。

由良・長尾は、領地歿収して浪人となり、母儀一万石、牛久にて給はる。

関白殿奥州迄御支配、黒河迄御下向なり。浅野弾正・石田治部少輔・大谷刑部少輔三手に分け、奥州の検地を改め給ふ。

忍の城主成田下総守、今度忠節可申由恐れ申候。其儀露顕仕相違故、関白殿腹立被成、知行召上げて、其上一命の代に、黄金千両可上之由被仰付。成田千騎の大将なれども、千両の黄金を出す事不叶、九百両出し、やう命助かりける。されども成田の妹無双の美人なり。関白殿聞召し、即召出し、下野小山の中、百々塚に御野陣の時よりおもひものとなす。此人の訴訟にて、一所懸命の地とて、烏山にて一万貫給はる。

古河御所義氏御逝去ありて男子なく、女子一人御坐すを、家老共取立て御所と名付け置き候処に、関白殿御意にて、古河の御所の一門、小弓御所の御孫国朝を督に被仰付。是は国朝の妹、関白殿の妾となせば、内縁たる故なり。

     関白殿小田原陣の時

    禁制

一、軍勢甲乙人等乱妨狼藉之事

一、放火之事

一、対地下人百姓非分之儀申懸る事

右之条々若於違犯之輩者、忽可罪科者也

  天正十八年三月吉日

 
 

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