甲陽軍鑑/品第廿二
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【 NDLJP:77】甲陽軍鑑品第廿二
行 の能き筋目はかり各家老衆中上らる晴信公仰せらるゝは尤も旁 意見の所少しもあしき儀なし【一本ニ能筋目計廿一ケ条書立を以申上らるトアリ】乍㆑去駿州義元へ加勢の事は堅く相止め申べく子細は五年以前父信虎公を追出申す時義元を頼み駿河へ方便 出だし信虎公を駿府にとゞめ置まいらせらるゝ偏へに義元へむざい故也義元如㆑此の段精に入我等甲州をふみしづめ候様に分別せられ候憶意は信虎公は舅と申老功の大将なれば我旗下に仕 事ならず某は又義元に二 年おとり候へは旗下にせんと有る覚悟なるへきなりさある所に加勢をこひ候はゝ我らは義元のはた下に究り候加勢をこひ候共あなたなどより人質を出し是非共我等参るかさなくば家老の者共如何ほども進すべきなど申に付て人数を呼候はゝそれはあなたをこなたの旗下に仕ての儀也義元は我等より年兄なり国も駿河、遠州、三河、三ケ国結句尾州織田弾正忠など駿府へ出仕いたし候へは尾州へも少は手を懸られたる程の物なり北条氏康より妹子を駿府へ人質に差こさるゝ如㆑此の処へ加勢こひ候はゝ我等は義元の旗下に究りたると世間の取り沙汰ありて以来われら何程弓矢をとりさかりても一度は義元の旗下より出たりと駿遠三尾のかせ侍迄にいはれんも口惜き次第ならん其上父信虎公駿府にましゝゝ候へは父の御さげすみにあづかる事も無念なれは駿河より加勢の儀は中々思ひもよらぬ事にて候所詮小国小人数をもつて大国大敵にとりかくるこそ大事と聞き及ひ候それさへ仕様を以て勝利を得たる事弓矢の作法なり是は信濃より当国へ取懸るなれバあなたは、懸り敵こなたは待味方、殊更我等は地戦ひなり五年巳来度々当方にあふて勝利を失たる人々諏訪頼茂、木曽、小笠原、村上四人何と申合候共誰を大将にと仕間敷事にて評儀あふやうにてもかわりて一段味方の合戦仕よく候て勝利疑ひなし今度は、わかげなりといふ共晴信に一入任おかれ候へと有て信濃の国よりかゝへ置き給ふ、すつは七十人の内より三十人【 NDLJP:78】足手すくやか成者えらひ出し妻子を人質にとり甘利備前に十人、飯富兵部に十人、板垣信形に十人、右三十人の人質を三処に預け、扨其すつは三十人を村上方へ十人頼茂方へ十人小笠原方へ十人指越し様子を見候て二人づゝ罷帰り此方より出むかひ候侍に申渡し、すつは共は又敵地へ罷越候へと晴信公すつは共に直に仰付られ指越給ふ扨又甲州信州境目迄右人質預たる板垣甘利飯富三人の侍大将のうちにて慥に心安き侍を一手より二三騎づゝいだしてすつはの信州より注進の一左右を聞きはや馬にて甲府へ参り申上へきと仰含らるゝ就㆑中甲州四郡の人数を府中へ忍ひ〳〵めしよせられやがておたて【おたてはハ御舘ナルベシ】の堀をひろげらるゝと、さた有て内々侍大将衆と備へ定の談合あり待給ふ扨こそ敵方は四人の大将うちよりて信州甲州の境成るせさはに陣取て三日馬をやすめ其後甲府へいらんと談合究て陣取たり此儀をすつは共はしり帰り委く申し上るに敵のさたには甲府堀をひろげらるゝと有事尤も大軍むくと聞き籠城の支度ならは出向ひて一戦は有間敷候たゞ甲府のおたてを取まきてあらは夜合戦有へきとの敵味方共にさたなりと言上申す晴信公即時に侍大将足軽大将をめしよせられ時刻をうつさずわれいちましに打立候へ子細は一日も敵休み候てわかみこ口、む川口などへ分て、はたらき候はみかたも人数を分ずば成間数候さ候へば八千の人数を二手にわけてはあやうき合戦と覚へたり信州大国故敵方は味方一倍に積りても一万六千にて候味方一人に敵二人あてがひにすれば此方は地戦にて候間度々の合戦なり其中に諏訪の頼茂と村上義清を切くづしたらんには木曽、小笠原両大将はをのれと覚へずしてをしつけをみせ、にげちらんと下知あそばし即時に打立、にらざき或は武川辺に陣取たり人数上下のしたゝめ一人にて三人前こしらへ其夜半に打立、明る卯辰の刻に軍初と内談して次 日戦あり甲州勢一備も出すまじと敵ゆだん仕罷有により軍なされ、始よき様成物也乍去三時斗の内に九度戦有、諏訪衆は飯富兵部村上衆は甘利備前板垣信形小笠原衆は郡内小山田左兵衛御旗本は味方くづるゝ方へすけ給ふ各足軽大将の中に原美濃九度の戦に、よりをきらず人を討て其の内に采配を手に懸けたる侍を両度に二ツ以上九度の戦に十一頸をとり申候此原美濃守廿歳ばかりの時晴信公御父信虎公御目利 に原美濃守は十度の合戦あらば十一度手にあはんと仰らるゝごとく箇様の働、度々の義にてしかも其合戦に鑓疵刀疵六処手をはるゝ也是は四十六歳の時也此合戦天文十一年壬寅初の三月九日辰の刻に甲州方より軍始まり未の刻に終る信濃勢を打取其数を千六百廿一の頸帳をもつて勝時を取おこなひ給ふみかたの手おひ死人あまたあり飯富兵部甘利備前手負なりせさは合戦とは是也信玄公廿二歳の御時なり
甲信境せざは合戦之事
天文十一年壬寅二月中旬に信濃の国大身衆小笠原、諏訪頼茂、村上義清、木曽殿【木曽義高】尽く申合せ甲州武田晴信公退治いたすべきとの評議の事甲府へきこへ武田の家老板垣信形、飯富兵部、甘利備前、諸角豊後原加賀守日向大和守其外皆々家老衆足軽大将弓矢功者の武篇者打寄り談合仕る一ツ書をもつて晴信公へいさめ申上る其一ツ書に
一駿州義元公へ御頼み有て義元の御馬を出さるゝかさなくは人数壱万の御加勢をこはれ御尤の事
一海尻の城をあけられ小山田備中小宮山丹後守をもめしよせられ甲斐国中へつぼみなさるゝにおいては敵競かゝつて甲府迄も参り候はゞたぶ〳〵と入たて有無の御一戦なさるゝに付ては十が九御勝利たるべく候事
一敵諏訪衆村上衆二手にわけて境目迄参りいかにもつゝしみて働き申すべし武川口へ典廐様わかみこ口へ屋形様御旗を向けられ境目にて待合戦になされ候て然るべく候事
右軍の書立足軽大将武者奉行旗奉行各談合申し