甲陽軍鑑/品第四十下

 
オープンアクセス NDLJP:172甲陽軍鑑品第四十下 巻第十四 目録上同
唐国諸葛孔明八陣図 

向ハ円ナルヘシ魚鱗ぎよりん ●鶴翼くわくよく八の ●長蛇ちやうじや ●偃月ゑんげつ☾ ●鋒矢ほうや个 ●方向ほうよう○ ●衡軛かうやく ●井鴈行せいがんかう オープンアクセス NDLJP:173春向はるはむかふきたに ●あき南也むかふみなみ○□△是を以て相をとる有口伝

右をよく信玄公伝受ありて、其後工夫を被成新軍法其外諸法度の仕置をあそばし給ふ事皆是信玄公と合て四大将何も取合故也、さるにつき軍法は先当代四大将よりはしまる、むかしはありといへ共、尊氏公四代目の御時分からして連々取失たるとみへ候軍法の儀は信玄公、謙信公、両君なれ共是も三分二は信玄公より濫觴する

   当代日本の四大将は御歳増次第先へ書す

伊豆国平氏大聖院北条氏康公五十六歳にて元亀元年十月三日に他界病死

甲州源氏法性院大僧正武田信玄公五十三歳にて天正元年四月十二日他界病死

越国管領入道上杉謙信輝虎公四十九歳にて天正六年三月十三日に他界病死

尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生

   右のつぎ大将衆大小老若共に名高き武士は

​丹波​​一赤井悪右衛門​  ​四国土佐​​一長宗家部​  ​伊予ノ​​一くるしま​  ​安芸毛利家​​吉川​  ​越前​​一朝倉叔父金吾​  ​あき​​一小早川​   ​江州北郡​​一浅井備前​  ​三好家​​一松永弾正​  ​安房里見家​​一柾木大膳​  ​上杉家​​一太田三楽​  ​あいづ​​一盛氏​  ​上総​​一万喜少弼​     合十三人此外右四大将のしたに如形武士あれ共日昼の日のことくにて主を持候へば大将といはず十三大将の中にも主持あれ共それは其君軽き故我まゝになりて如件

右四大将より大身衆日本国にも、中国にも、毛利殿つくしに大伴殿、関東に上杉殿と有つれ共、はや生替うまれかはりにて前代ほどなき故か当時は先四人の御侍衆なり扨又四大将につぎ十三大将をあわせて十七人の大将案此比扶案国の名将と名をよぶ氏康公一代一の覚、河越の夜軍信玄公一代一のおぼへ十八歳の時しかも少人数にて大敵を引請、にらさき合戦其後一年一月の内に信州戸石合戦并笛吹到下にて信玄公二十四歳の時大敵を引請け一月に両度合戦、又関東発向に四十二日の問数ヶ所の要害へ取よせ一度もけがなくしかも蓮池までせめ入小田原放火の帰陣にみませ合戦勝利の事、輝虎一代一のおぼへ十四歳にて二千の人数をもつて七千の敵にしかも我下知にて勝利を得る小田原蓮池へせめ入信玄公のごとく放火はなけれ共謙信公は信玄公より十年まへなる故まづ手がらなり頓て又三年の間に氏康公氏政公信玄公三大将を相手にして輝虎は一大将なれ共松山落城をきゝ、しりぞかず、しかもきさいの城を攻おとし城王はおしの成田がおとうと、小田の助三郎といふ者をはじめ雑兵三千なでぎりにいたされ、のがるゝ事信長は二十七歳の時八百の人数にて二万の大敵義元公にかち其後公方様御供申天下へ仕すへまいらせ三年の間公方を守護し奉り其以後都支配の事、いづれも此外自余の大将衆おぼへに成程の事はいかほども御座あれ共それは際限なし、四大将のはたらき前代にもためしまれなる儀これなりと申其余も其家々近辺に於て勿論大剛なる儀共さこそは御座あるべけれとも事ながうして際限なし、さるに付あまねくさたの有斗り、紙面に書のせ申候就中前の四大将取合は氏康公にちがふたる人は信玄公へ申入信玄にちがふたる人は謙信公へ申入謙信公にちがふたる人は信長公へ申入信長公に違ふたる人は又信玄公へ頼み大身、小身老若によらず右の四大将をまほり所に仕る故なかあしうして戦ありつれど、はや氏康公信玄公他界まします、謙信公は此書物かき立始め申す四年目、三月他界なり其時分より高坂弾正も少つゝ相煩ひ候て罷有、輝虎公他界の年極月までもながらふまじきと存知我等命のうちに是へかきのせ候間病中にて事つゞかすとも首尾不合の様に存せらるまじく候

 長坂長閑老  跡部大炊介殿 参 高坂弾正

甲州武田 法性院大僧正機山信玄公軍法新しくなされたるに付て古歌ひき給ふ

  しなてるやかた岡山のいひにうへてふせる旅人あはれ親なし    聖徳太子

  いかるかやとみのおがはのたえばこそ我大君のみなはわすれめ   達磨返歌

此歌は昔し聖徳太子と達磨大師対面の歌也、達磨大師も日本国へわたり給ひ、やまとの国片岡山に乞食のごとくしてまします、臨済の録に片岡山下老野狐とありげに候、ぼん人は努々ゆめ是を存ぜす聖徳太子達磨大師はいづれも三世をさとる仏のよりあひにて互に知てこそ右の歌の上に達磨は盾土へ帰り給ふ事定て日本に仏心宗其比は時季相応なき故ならん、事長しあらと云ふと宣ひて件の歌は聖徳のも達磨のも長ければ人の会得なるまじきとて定家卿のみじかう歌二首によみて、人の合点いたすやうにオープンアクセス NDLJP:174あそばすときこへたり、扨又いやしくも信玄公分別才覚のまねをもつて、工夫思案して唐国諸葛孔明陣をとりしき備へまふけ城をかまへらるゝ儀、尋て是をならひ陣取を大小二にして其外人数備、三ツのかまへ、かずのはたらきやうを仕り我子孫計りにあらず誰人なりと云共、扶桑戦国の中において数万の衆をひきいて軍さをやるにうたがひをさだめさせ、まいらせんがための信玄が軍法如此と宣ふ也、扨又軍法の儀は別に一巻有

関東の上杉管領花の制札に 此桜花一枝も折取候はゞ、あたり八間、流罪死罪に仰付らるべき者也仍て如件と立られたるなり、扨又信玄公甲府穴山小路真立寺と申す法花寺に紅梅の甲斐一国の事は申に及ばず近国にもさのみ多くなし、さるに付右の真立寺より花の制札を申請るに付則禁制の札に

此花一枝一葉たりといふ共、たをり取輩これあるにおいては、げんかう、かうやうの例にまかせて申付べき者也件のごとしと、あそばす子細は花といふ物はたゝ尋常のせいたう、らうせきにちがひ花の主是をおしむは又こん春のため、折取は見ぬものゝためいづれもやさしき、なさけあるに、るざい死罪はあまりなるとの義にて候以上

山本勘介駿河より甲府へ始めて召しよせられたる時、信玄公勘介に駿河今川家の肖語うはさを尋ねなさるゝ、山本勘介申すは義元公の御家むかしより、高家にてまします子細は公方たへば吉良つぐ、吉良たへば今川つぐとある謂れにて、家風いづれも少しとして、ひだちの入る事御座有るまじく候、しかも駿河、遠州三河三ケ国のあるじなれば様子けだかく物の名人のあつまりにて、殊更能き家老衆沢山にして中名小名迄に武道専ら心がけ申す事、是非に及ばず候其上臨済寺雪斎の義元公かひぞへに御座ありて、公事沙汰万事の指し引きあさからざる故、尾張国織田弾正なども、駿府へ出仕いたすにつき末々は都迄も義元公御仕置なさるべしと各々風聞にて候へ共我等式は一段あやふく存知奉つる、いはれは雪斎明日にも遷化においては家老衆のさばき縦ひよく共、雪斎と申す物しりのさばきより、おとりなりと諸人かろく存ずべしさありて雪斎のごとくなる、長老をまた尋ね給はゞ今川家の事悉皆坊主なくてはならぬ家と諸人思ひ候てケ様に批判申さば、扨て以来あやうき事なりと申上る故、それより山本勘介きゝおよびたるほど、分別才覚ありて、工夫の知略よろしく思案の宏才者なり、一文字をひかず共、学問なくとも物識といふは此の勘介ならん是れはたゞ智者と申す者也とて、信虎公信玄公二代へかけて四人の足軽大将と此山本勘介をそへて五人衆に其年からなされ給ふなり

むろが入道諸我入道がいはく名大将と申せ共一国斗りの大将をば世間のとなへもさのみ大きくは申さぬなりせめて二ケ国も取りて其近国三ケ国程有る我持つ国共に五ケ国にて鋒をふりて名をとり三ケ国四ケ国五ケ国を支配なさるゝ大将は敵多くして沙汰多し如此の多き敵と戦ひて種々の智略あれば、それをさたして名をよぶなり、一国斗りにては敵すくなければ名もすくなし、扨又かずの敵にあふて何方にても一代越度なき大将の二代目にては、安大事の二事あり、先づやすきといふは前代の威光を以て後代の大将少しの儀をも四方にて大きにさたする事もあり是れをやすしといはん、扨又少しのあしき儀をも、大きう世間にあしうとりなす事、是れも大事と云ふ、やす大事の中に安はまれなるべし子細は四方へひゞきわたる大将の二代目をば少し斗りのほまれある儀前代よりおとりといふてひだちをうつ事ある故これもつて大事はおほうして、やすきはまれなりと、むろが入道世間の批判これなり

或る時又むろが入道、馬場美濃に語りていはく人のおづる名大将の二代目は、大略九年は、くるしからずして十年めは、かならずあやうし其謂れは先づ三年は先代の威光にて何かと取まはして大事なし又三年はかはりめに仕合せよき衆、さゞめきわたればそれにつきて悉くいさみて是れ又大事なし、扨其後三年はあしき仕置といひながらとかくして都合九年也如此ありて十年めは大きにあやうしそれすぎばかならず敵方生れ替りになり其仕置に大事ありて此方は大吉ならんとむろが入道がかんがへ工夫これなり

阿部加賀守がいはく三ケ国共もち給ふ大将は何に付ても世間に名をとなへ申す也、子細は駿河今川氏真公馬のあか薬、元来は公方光源院殿御秘蔵の御馬わづらひて五畿内四国中国のはくらくにてもかなはざる所に、乞食のやうなる聖が来り今の御馬に舎人とねり衆三条河にて水をかくる処へ行きあたり某なをし申さんとて彼の聖此薬一服にて御馬平癒の条、公方より此薬方を書き付けあげよとある儀にて候処に其時分一宮随巴と申す弓の射手光源院殿御前へ出頭人なれば、随巴是をかき付けらるゝ其後光源院殿御切腹あるに付て随巴駿河へ下り氏真公薬数寄をあそばすをもつて、随巴が訓へまいらせて諸人にオープンアクセス NDLJP:175下さるゝ故氏真公のあかぐすりと申しならはすなり

内藤修理内方の母死去なり、此隠居一向宗なれバとて甲州の内とゞろきと云ふ寺の一向坊主悉く来るさる程に余宗のごとく死人の膳いかにも見事に内藤申し付けらるゝ時、一向宗の出家だち申すは我宗のならひにて御阿弥陀様へ能く食を進上申せばわきへはいらぬ事にて候と申して亡者にむけず内藤修理申さるゝ、それは何としてさやう法外なる立派なりとあれば、上人阿弥陀こそ肝要なれわきへ食をそなゆるはまよひの心にて一向宗から余宗をおかしく存ずるといはるゝ、内藤修理申すは亡者かつへば如何ととふたれば上人答て云く阿弥阿様へさへ食を備ゆればそれが悉くの衆生へ施しになるといはるゝ、内藤修理手を合てさても殊勝也他宗にちがふて造作ざうさも御座なき御宗旨哉一尊の施し万人にわたるとは珍敷き先づ重宝なる一向宗かなとほむれば上人悦んでさる程に我宗ほど殊勝なるはなしと、上人いんげん也、然れば内藤修理自身上人の膳をすへ残り百人余りの坊主達に一切膳をすへず是れはいかんと坊主達申して膳をこへば、そこにて内藤修理申さるゝは、やら御口のちがうたる事哉上人さへまいり候はゝ脇々の坊主だちは、はら一ぱいかと存知て如此と申す其後は坊主達侘言して亡者にも膳をすへ、みなの坊主も余宗のごとくに執り行ふは、内藤修理、理窟の故一向宗恥をかく也

甲州に関口と申す馬乗の上手にて曲乗は本の事にてなしと申せ共是は一入重宝なり一丈二尺ある、がけをとびおろし、よこ一尺五寸ある土居の上をも早道、いつさんをのり、くわんの木通りいたやの上をはやみちにやり其外あら馬強馬のり候て馬の薬がひ迄上手なれば関東奥にも此関口ほどなるは終にみぬとある儀を東国の博労共、大誓文にて申すなれば凡そ日本国中にも三人とあるまじきとさたなり

甲州武田の譜代衆随分の侍に今福浄閑若き時分よりためし物をよくきる人にてしかも上手なればすでにすへものを切りて其頸の落るにわきざしをもつて切口へつきつらぬきてしたへおとさぬやうに中にてあぐるほど、手をからしたる、ためし物の上手にて侍衆大身小身共に浄閑に頼まぬはなし、さる程に其年四十七八迄千人に及び切り給ふとさたあれ共定めて一二百人も切り給ふべし此人何としてやらん能き子供幾人も病死する、扨又今福浄閑参学などして心もこびたる人なれバ下劣の批判に取りあはず子供の死するも、ふまひ因果と申されて少しもとりあひなし、或る時信州岩村田法興和尚甲州へ御座有りつるに今福浄閑此の和尚へ見廻申さるゝ時法興和尚今福入道へ教化に其方はよきとしにてためしものゝ罪につくり勿躰なしとの尊意也今福入道申さるゝは我等の切候はゞこそ囚人の科がきりまいらする儀なりといはるれば、知識もそれは先づ尤もなりとて、しばらく間をおき法興和尚仰らるゝ、今福入道此いろりへすみを入れて給はり候へとありければ、浄閑畏て候とて炭を持らて炉辺へよる時和尚宣ふ大きなる炭を火箸にてはいかゞなり、定めてさすが武田の幕下歴々の今福入道指を以て炭を入れ給へとあれば浄閑又物の興ある人にて諸芸に達し既にのうなどする事も、古保庄太夫などゝ立ちあふても、結句今福浄閑ましなり、ケ様の人なればすみをいかにも面白う入らるゝ、さてたちのく時浄閑手をぬぐわるゝそこにて和尚宣ふ、今福入道は何として手ぬぐふぞとあれば今の炭にてよごれ申し候と返事なり、扨て和尚宣ふは炭焼の手こそよごれ候はんずれとあれば今福入道申す炭焼はしたゝめてこれをいだすなれば今は炭とりたる手こそよごれ申すべけれといへば扨こそ先刻其方がためし物の儀科ありとも究てくびきる今福浄閑に其罪あらんと法興和尚のすゝめにて今福入道其の後ためしものきらざるなり

信玄公御仕置にもろのさかひめ、侍大将衆へ近国他国の大将の行儀作法仕形聞出し次第善悪共に一ツ書にて言上いたせとあるに付、或年遠州いぬい天野宮内右衛門と申す侍大将の所より進上仕る書付に美濃の岐阜織田信長へまはり一尺の桃三ツなりたるを枝折りに仕り霜月中の十日にあげつれば信長指し引きのさへたる名大将にて、うへはことをやぶりても、内心には時により一段ねれたる事の多き武士にてましませば右の桃を大きに心いはひして一ツは信長きこしめし又一ツは嫡子城之助信忠へ参らせられ三ツめをば遠州浜松徳川家康公へ送り給ふ、家康よのつねならず恭なく返事を被成其桃をかくして捨て家康食ひ給ふ事なし此儀を天野宮内右衛門かき付てあぐる、一ツかき多き中に是はさせる儀にてなきと存候てこそすゑにいかにもそさうに書きたるを信玄公御覧あり、其書付を御手へ取り給ひしばらく目をふさぎまして後御眼をひらき宣ふは家康今年は定めて三十斗りにても有らん四十に及び殊に大身の信長にいつ位も一本ニハ信長に五つ位もトアリましの、しまり所ある分別ありさすがに武士の心ばせなき者ならバ年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨オープンアクセス NDLJP:176をつくしせんかうのほまれかたのごとくなれば海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井、江北の浅井備前守、四国の長宗家部、会津の盛氏、若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此其出世とは年明ば吉事也、此心は馬場美濃、内藤修理高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり

或時信玄公宣ふ人が人にしてみせ或はいふつ、しつ、有りてきかする事も有る一切のことわざ上中下共に一人につき三ツあるぞ、第一に其位より出来る事一ツあり、第二に不出来なる事一ツあり、第三に出来も不出来もなく其身位ほど仕る事あり、扨又其みる人聞く人はまづ無分別なる者の批判に出来たるをみては上手とほめ同してしてハ仕手ナルベシが不出来なるを見聞ては下手といふてそしる三度三様の取りさたにてそれは口計り利根にて心の至らぬ者共の昨日が今日にかはる人にはほめられて、曲なしたゞそしりてくれよかし是れは見聞が人の事、就中其芸者は出来も不出来もなきやうに其位ほどに仕るを功者と云ふ又元来噐用にて其みちの学をよくしていかにも会得の上我工夫よければ心のつき所に志してむかしの儀、ふまへ所にいたし其人ならひの後学をもつて味を少しづゝあたらしう分別して出来も不出来もなきやうなるは、いつもよその出来たるほどあらん、さるに付て是は其道の上手とて此人を四方にあまねく右の通りに沙汰するを名付て名人ともいふ儀なり、できふできのあるは上手のうちにていまだいたらぬ心ならんかと宣ふなり

或時長遠寺所へ振舞に馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山県三郎兵衛、原隼人佐、小山田弥三郎其外各大身衆寄りあふて、一日の雑談有り右の内山県三郎兵衛駿河江尻の城代なる故遠州浜松の家康うはさをよく聞て申さるゝ、内藤殿には関東安房佐竹会津までの事をかたり給へ、小山田殿は小田原近所なれバ北条家の事を語り給へ、高坂殿馬場美濃殿は越後越中迄の儀をかたりなされよとありて山県申さるゝ扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん信玄公の奉行衆公事さバく様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふ事はまだ十年過ぎてもあるまじあの若き家康申付ける三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて仏かうりき仏高力、罪作左どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家公事に武藤殿桜井殿若き時今井殿計り宿老今福浄閑中老なるが四人歳もかたぎも各別なるを奉行に信玄公仰付けられたる様子に此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なり全集ニ △其上酒井左衛門尉石川伯耆守とて両家老つり合あり又大須賀五郎左衛門鳥井彦右衛門松平左近大久保七耶右衛門とて四人何も劣らぬ士大将つり合也本多作左衛門土井豊後若手に本多平八榊原小平太加様の士大将をしたて老功の衆死ても跡おかず若又老功の衆邪欲にて逆心あり共跡よりつゞく士大将多なれば上見ぬ鷲なるぞ其上信玄公の人を召仕ハるゝごとく七ツの色ありと聞く一に家の老両人二に続く家老多し三に奉行四に出頭人万事を披露する五に御前よしの衆咄し万づを膝本にて仕といへ共人の発者就中弓矢乃義少もいゐハぞ候六賄人ひざ本近く寄候へども人乃奏者余の義に毛頭いろはず七ニ何と利発なり共右筆成事なし扠家康人の取成にて所知くれず讒にて迷惑させず我為能存ずる者を取立候へば彼下の諸奉公人家康方を仮初にも跡にせず如此にて能国には居らるゝ上方をも東とも付そひ能しり殊ニ三川園風弓矢に賢き強みの者共也と語れば馬場云々トアリと山県三郎兵衛かたれば、馬場美濃内藤高坂各申さるゝは何様家康たゞものにてはなしと、各いはるゝ中に馬場美濃申さるゝは家康身の上を我等見及びたる儀あり美濃が命を今廿年いきて此考へあたるか、ためしたく候廿年いくれば八十に今少し也かねのくさりでつなぎてもならぬ事をねがうたりと云ふて笑はるゝ、高坂弾正申すは家康身上をば何と馬場殿は考へ給ふぞと、とへば美濃申さるゝさすがの弾正殿我等よりはやくかんがへ有るべき物をといへば、小山田弥三郎手をあはせて御両所の考へをねがはくはきかんとしきりに所望する高坂申すは美濃殿のを承りたさに我等下座から申さんとて弾正則ちいふ家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひそれ故、ふたりけんごなれ共信長敵は上方十四ケ国の間にて信長に国とられぬを、もとにして信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故、かくのごとく次第に大身なる家康はいつまでも三河一国遠州三ケ一ならば終には家康信長被官のやうになりて後祝言は申しつ信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて三ツの桃を一ツ送る共強敵大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はんそれに大事なくば家康果報の儀少々の籔神はかんがへなりかね申さんと高坂がいへば馬場美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ内藤修理も同誓文にて右の通りなり

或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて口すさびの物がたり是れなり、その大身衆は馬場美濃守真田源太左衛門丞、内藤修理正、山県三郎兵衛尉、保科弾正忠、同兵部介、高坂弾正少弼、小幡上総守、原隼人佐、岡部次郎右衛門尉、小山田弥三郎、土屋右衛門尉、朝比奈駿河守右十三人の中に土屋右衛門尉申す皆宿老衆聞き給へ侍武士道のかせぎは申すに及ばず一切につゐて善悪の儀人を証人に立つるはおろかなり只我心を証人に仕候はゞよからんと存ずる是れ如何といへば、馬場美濃いかにもそれ尤もに候と申さるゝ但しさやうの人は我心清きまとに大略の人をあさくみて自慢の意地ある者なり、とてもの儀に慢気なくして年増をばうやまい年おとりを引きたて、同年をばたがひにうちとけ其中によく近オープンアクセス NDLJP:177づく人のたらぬ事ある共よく異見を仕り惣別人も我もよきやうにと存知少しもへつらふたる儀いでば心に心を耻る人は何に付けても大きにほめたる事なりといふて、此次に侍の大身ともに不覚をかき越度をとりたるあしき人のうはさはあたまをはられたるばかりにてはなし其不覚と申す事いくつもあるぞ、第一に悪きうそを、さかしらに申す人、第二に武士と武士が中あしきとて座敷にても路次にても慮外の事、第三に親兄弟の敵ねらはぬ事、第四に侍衆たがひに被官共いひ事に付、云ひ過し仕る方より傍輩達をたのみはやく佗言はざるは無心懸の侍にて候、付たりあなた奉行ならば則時そくじに我者成敗なり、第五に相知行などにて我ばかり徳のあるやうにいたし傍輩を慾徳の事にてたしぬく事、第六に能き武士の手柄あるをそねむ事、第七に身上心安くなき以前に色好みの事、第八に武道具はたしなまずして入らざる儀に物をいるゝ事、第九に口論の時我ひいきの人多ければ強くいひ、贔負すくなければことばすくなき事、第十に委しき近付きのよき道具をしらずして、もちたるを我はよきとしりても又いひこなしてとる事、第十一に出家町人百姓にあふてかさつを申す事、第十二に少しの心ばせをいたし五百千の中にも一二人にすぐれたるやうに存知過言申す事、第十三に武士が町人の金銀沢山に持ちたるを見いれむこになる事但し女人ぢやうよくは又めかけなどにはくるしからざるが、ほんの内かたには大きに勿体なし、第十四に我女房よき縁者の時馳走候て何とぞ様子ありて縁類なうなれば其内儀を無馳走にいたす事、第十五に我仕合せよき時はおごり無仕合せの時める事、第十六に我よきちかづきなり共又はほまれの武士なり共あしもとのよはきをあなづり未練の侍をも仕合せよきをば誉る事以上十六ケ条

右十六の内我よき近づきか、又は大略の知人にてもよき武士ならば仕合せよきもあしきもあしう仕るべからず

未練の侍なり共主君の御崇敬においては、ほめこそせず共珍重はいもう尤もなり、子細は其人をあがむるにあらず我君をあがむる儀なり君をあがむるは我身を思ふ道理なり、いはれは主君の御かげ故、をのれが渇命をつなくほどに如

人に慮外の儀座敷にて友傍輩の脇指又はひざなどにとりはづし我足さはりたらば縦へ其人と中よくとあしくと、慇懃に畏り手をつき三度戴くべし、いたゞかる人も中よくとあしくと其時はいかにもうちとけ是れは迷惑と申してあなたの手をいたゞくふりに仕るは、是れたけき武士の作法ならん人がいたゝくとてそれにのりかほをそらし大きなる体をする人は十人九人臆病に御座候

路次にてひとりは馬に乗りあしだをはき、一人はかちにて行けば其人と互に中よくとあしくと、かちの人ものかげへかくるゝ事尤もなり、扨又馬にのり或はあしだをはく人は是も又其人と中よくと悪くとかすみからおりて時宜をいたせ、あいてのかくるゝは人を六ケ敷馬よりおろすまじきといふ事なれば、是は侍の時宜ふかし人の時宜するに此方より時宜をせざるは、大非義にて候中あしくは用心のためにも馬よりおりあしだをぬく事、よき武士の作法なり扨あゆみ行く人はあなた時宜をし給はゝ中あしく共うちとけがほにてぼくりはく人、ぬぎたらば、こなたはざうりをぬぎ馬よりおりたらばあぶみをおさへ申さんと口にていひ候へ若し又かくれあはせぬ内に、馬をのりとをす共おろす事はかならず堪忍せよ、子細は相手が武士の作法をしらず候、武士が武士の作法をしらねば女のごとくなり、うはき者有て時宜いたすにおりよなどゝいはゝ、それはおるべからずおるゝほどならば定まりてかならすうちはたせ、就中親兄弟の敵、かちにてとをるにねらはるゝ人、馬上に於ては、馬に乗りたる者そこにてよくうそをいへ、其うそは君の御使に参る御免候へと、慇懃にいひてのりとをせ、それは又そこにてねらふ人もうたぬといふて不覚ふかくにはならざるぞ、子細は馬にて乗りたてばおひつかるまじきなり、殊更座敷にて侍のつきあひにさかづきは中あしき人のさし給ふ共、慇懃にいたゞきいくたびものむべし、相手慇懃にせばさす人も猶慇懃にせよ、又少し意趣あるを失念して不慮に盃さすに、いやといはゝ無理にのませよ、さゝるゝ人も心ならずいやと申す共、其後は無是非のむべからず、さるにつきてたがひによき武士は、いづれも甲乙あるまじ甲乙なくばうちはたすべきなり、然れば頼み奉る主君の御用にたゝずして少しの儀に身上を破る儀、君臣共におほひなる損にてはなきか是れをもつてつねに遠慮して、ふかくつゝしむ侍を奥意有るよき武士とは申すなりと右十三人のひはんありて、其後おの座敷をたち申され候如件敵うちの事、先づねらはるゝ人は常にね所をかへ昼夜用心して其上路次を行くにかたき待ちて居ると聞けば脇道を通り跡へもどり、何やうに仕りても、うたれぬごとくに分別尤もなり、此儀を無案内なる人々、比興といふ共不苦信玄家の作法はかくの分にて候

オープンアクセス NDLJP:178ねらふ人は其身のけがをしたる意趣ならば夜昼共にねらふてしほす時、かたな脇指或は鑓長刀まではくるしかるまじ、扨又親兄弟師匠伯父従弟迄のかたきうちならば弓鉄炮にても仕すますを手がらにいたし候へ我意趣切りにもかたきうちにも、かたきの家へしのびこみて切りすますは一入よき心ばせと申さんなり、よそは何ともあれ信玄家の作法如

はなしめしうど、家の内に居り候はゝ、麁忽に其居家へおしこむべからず、うちに科人いくたりありて何道具をもらたると聞き定め其上もし此方にあはてもの候て、敵味方を見さかへず切りつ、つきつするものなれば、其遠慮尤に候され共無案内なる人のさたに名の高き武士さやうの場にて右の科人の居家へ むざとおしこまぬをよき武士にひだちうち申すべき様子なき故是をさいはいと思ひあしきとひなんをいふは臆病なる侍の女の批判にあひ似たり、其人をばあすならふ侍と是れをいふ子細は諸木の中に名のなき木一本あり、此木が申す杉より檜の木がまし、ひの木もこめなるはよしなどゝ沙汰するを余の木共がとひやうに其方は何とゝいへば彼の名のなき木がそれがしは檜の木のぢやうに、あすならふと云ふて終に何にもならざる間、此の木の名をあすならふと名づくるごとく、よき武士をそねんで手がらのなき男はあすならふ男と是を名づけんとて内藤修理いふて笑ひ候以上

右はなしうちの者、家の内或はそとにても、各かゝりぬる所へ、誰にても最前にかゝつて切りむすびか、ゝつゝひきつみだれて勝負をするに脇からもうしろからも別人よりて刀又は長道具弓などにてそのとが人をころし候はゞ定てころしたる人、是をしとめてありとあるは、大きに非儀なり、子細は人のよりかぬるを、ぬき出、かゝる心はすぐれたり、其上人のきりあふ所へよこからもうしろからもかゝりては、しよからんさるにつきはじめ、まづきりあふ人の手柄一なり、二番目にころす人もはじめ勝負いたす人につゞきての手柄なり此わかりは人のかゝらぬに一人勝負をはじむる意地は人にすぐれてやさしく此者合戦せりあひにもかくのごとくの上は、定めて一番鑓ならん、扨又人にたゝかはせて仕よき所へ参るは右の人よりはる間のある必ばせなる故是をばほそ心ばせと、むかしが今に至るまで武士の作法にて候と馬場美濃守申しさだむるなり一本ニ是をばほそこゝろバせと云投又はなし討の成敗者逃たるを切留ざるを比興な云其上被官とど手討するに手負たるをそしるべからず但逃て押付をみせ切らるゝ義にはあらず云々トアリ

馬場美濃守申す、右はなしうちの者手がらにて、討手の人をきりころして後、各科人をしとむるといふ共一の手がらはかばねの上まではじめぬき出たる人の手がらならん、子細は勝負をして、人を一人きりころすにおいてはちとくたびるゝものにて候、それは後の世にも度々勝負なされつけたる人、此合点尤もなるべし合戦せりあひの時おひ頸の事はいかんもあれ、辛労して仕る高名はしるし一ツにても、ちとくたびれ候、草臥は又次の勝負は存分のごとく成りかぬるなり、但しいかにさきへかゝりても科人に手をおふせずして立ちのき、縦ひ一二ケ所切り付けても、つゞいて出る人にわたして引きこみたらんにはそれ又跡に出る人一ツなり、ことに座中ほどにて其場へ出で人なみに少しの首尾に逢ふ共ケ様の人はすぐれたる武士と馬場美濃守ほめられ候如

関東上野国峯の城主、小幡上総守は、信玄家へ牢人なるを、信玄公御ほこさきの威勢をもつて、上野へ小幡上総本意仕る此小幡は同国簔輪の城主長野信濃守むこなり然れば件の信濃守弘治三年丁己年よりやさしくも信玄公と取りあひ大剛の武士なる故七年の間楯をつき、永禄六癸亥年に簑輪洛城仕り長野が一党を悉く退治あそばす其後小幡上総を甲府へ召し寄せられ御諚に女房を離別仕候へ武田御家の譜代衆に縁辺仰合有るべきと原隼人佐、内藤修理正、両使を以ての上意なり、小幡上総畏て御返事申上る、此儀を長野信濃守御誅罰の以前に仰下さるゝに付ては、尤上意にまかせ少しも違変申しあぐまじ、其いはれは我古主の上杉則政をうとみ其意趣を以て越国の輝虎に、にくまれ同名小幡三河守我あひむこにて候へ共よくをかまへ輝虎たちがけを以て計略仕り、それがし内の者を悉く引き付け此上総をうたんと仕る刻、我等甲府へはしり参り信玄公御扶持を得奉り、いはんや信州日向において、五千貫の堪忍分を仰せ付らるゝ其後やがて本領へ帰参いたす義、ひとへに信玄公御めぐみ故なれば何事に付ても、上意背きがたき事一方ならず候へども、此女房の儀は我等旧妻と申しながら、長野信濃守御退治如此にていづかたへも参るべき方なくして女落所らくしよなくて流浪いたすならば、旧妻の恥、悉皆小幡上総が悪名にて候間、御成敗是れあるとても此女房において離別申間敷と申し切りて返事なり、さるほどに内藤衆隼人衆、小幡上総宿をとりまく、上総は主被官共に三騎にて参れば何様になさるゝともいとやすき事なるに、信玄公小幡が此御返事を聞し召し尤も申し分聞へてあり其意地にてこそ武田信玄が先手を申付てもさのみたがう事なし其方は近年上杉則政みだりなる家の作法かとうたがひ候て如此なれども此上は大義理のたゞしきオープンアクセス NDLJP:179道にめんじてゆるすとあり信玄公御意にて其節甥にてまします武田典厩を小幡上総守むこになさるゝなり

馬場美濃申す此度小幡上総はつよき御返事をいたされ大小上下共に諸傍輩のほむる人の手本になるほどの儀なり先義理専らの事なる故、ほめながらも一入おくふかく、しかもつよみ第一のほまれ也、ケ様の調ひたるつよみを、信玄公はすき給ふかと思へば、又此したにて何ぞの出入によの人にても今の小幡にてもつよみなる事を申したらば縦へしんそこから生れつきてつよき人のいふ共、御成敗なされん、度々これは我等の一入おほへて候其御臆意は何と有る事ぞ、批判して見給へと、小山田弥三郎に、馬場美濃守とへば、小山田弥三郎言下よりいふ、縦へば出家が法門のならひぜつはのごとくなるつよみにて候人まねのつよみはかざりたる儀にてさながら女人のごとくなり、さありて女の作法は武士道のやくにたゝぬ事にてありと、小山田弥三郎申せば馬場美濃守又問ふ百人にひとり身をすてゝ義理をたてば如何と云ふそこにて小山田弥三郎左様の所を信玄公のよく見知り給ふ大将にて御座あれば自然ゆるしなさるゝ事も有るべきと申せば、馬場美濃守、小山田殿かやうのせんさくにて心をつきなされよ名大将と申しながら信玄公なさるゝ儀一入水上の葫蘆子ころしのごとくへんずるは聞きおよふだる善知識仏法商量の事かくの分と推量申し候、然れば趙州禅は項羽兵をもちうるがごとしと云ふ事をも某しならひ申したりと馬場美濃守、小山田弥三郎に云ひをしゆるなり

もろが入道が云はく、国三ケ国をももち給ふ大将の下に、奉公人その色々多し、一にふだい衆、大身小身共に、二に先方衆大身小身共に、三には前方衆の中に忠節人、大身小身共に、四に降参の侍是れは大身斗りに有り小身者は皆先方衆と申候如此の儀国持大将よその国を一ツも二ツも或は三ツきり取りて仕置の時我譜代の衆斗りにてもならねば、其国の侍を様子品々により、かゝへ給ふ時の事也、五に旗下と云ふは国半国から一国二ケ国の大将を云ふ、六に国持と国持が両方無事をば、たがひにみかたと云ふ、七に牢人衆とは他国より此家中へ頼みをかけきたる侍をそれに扶助せしめ、其本国を手に入れては、本領をくれさなく共其身の武功分別心ざしの届きたるを見合せ人数をあづけとりたてらるゝ大身衆是は譜代衆と大略同事なり、さるほどに右を委しく申せば第一に信玄公御家にて信濃に真田、上野に小幡越後より来る大熊是三人は牢人の大身とて信玄公御取立なり、此内真田小幡は先方の取立衆と申さん、子細は信濃上野信玄公御手に入るほどに如此大熊は牢人とりたてなり、第二に駿河先方の中に、朝比奈駿河守是は又忠節人なり古主今川氏真公御無分別にて武藤と申すおぼへのなき牢人者の子に新三郎と云ふ分別なきせがれに恋慕まし三浦右衛門介になされ崇敬ある此右衛門残党なる、侫人故おとな衆をそねみさゝへていはんや朝比奈兵衛太夫をゆくなきものにせんとたくみ惣別仕置あしければとても人にとらせむより駿河遠州をば氏真公伯父にてまします、信玄公へとらせ申さん其いはれは今川殿もち来り三ケ国の内三河国一国は八年の間に岡崎家康にとられたりと申して信玄公へ朝比奈兵衛太夫忠節いたす兵衛太夫をかへて後ち、駿河守になれば被成信玄公御意をもつて朝比奈駿河守と名乗る、第三に駿河国にて岡部次郎右衛門城をよく持ちたるとて、是は又先方衆の中にて取りたてなり忠節もなく手柄もなく只国なみにかゝへらるゝを大小共に先方衆と申すなり、第四に信州木会殿飛弾の国江間、常陸越中の神保など、信玄公へ起請をもつて侘言有る是を降参の大身と申す、第五に越前の浅倉殿、関東安房の里見殿、関東たがや、江州の浅井備前守、上総の万喜、宇都宮殿、是等はみかたと云ふなり北条氏政は父氏康公元亀元年午十月他界有りてやがて氏政公数通の起請にて信玄公へ侘言被成既に旗下にとある事なれども対々の国がさにて結句氏政もち、大国なる故人数は一倍あれ共武功の恐れにてかくの如し去る程に三河家康も信長はたしたなり三河国を信長取りて家康にくるれば被官なり、我辛労して一国の主になる信長尾張一国ならば互に尾張三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふかやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば武士道無案内のやうに候と小宮山内膳小山田彦三郎両人にもろが入道が教へたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、右もろが入道は信濃侍也是も信玄公へ忠節の人にて候が弓箭の功者ほまれの武士なり

浅利がいはく、能き大将の内にては、女も手柄あり悪き大将の下には覚への武士も臆病になる子細は義経公にてしづか少々の男まさりに切りてまはる此静は伊勢わたらひいそむらのうまれなり

曽根内匠がいはく信玄公の御弓箭信州村上殿五郡持ち給ひても信濃国甲州より広ければ武田勢より村オープンアクセス NDLJP:180上勢大陣なり、其上村上頼平公武勇のほまれ近国にならぶかたなし殊に越後為景にかち、越後の内をもせめとる大将と信玄公十八歳より数度の合戦ある間に同く信州大身衆諏訪殿、小笠原殿木曽殿各同事にて信玄公と戦ひ就中上杉衆、是は猶以て大敵なり小田原北条殿ひろき国を持ち給へば是れ以て大敵なり日本に弓箭の儀若手の家康と信長申しあはせられ無事にいたし、信玄公とあひたゝかふ時は是又大敵なり、又輝虎は日本に当代の強将なれ共、此大将衆にから給ふ是によつて信玄公御武勇当代の無双也、然るに此少し以前に日本国中にて、ケ様の大将ありやと内藤修理に会根内匠とふ内藤あざらへ笑ふていはく、旁随分利口なれどもいまだわかき故せばき事をいはるゝ物哉中国安芸国、毛利元就は大内、尼子、大伴とて三人の大将は国を八ケ国七ケ国或は五ケ国よりうちなるはなし、此大将衆と毛利元就安芸国四分一ほど持ちて戦ひ終に勝利を得右三大将の国を大方切り取り、今安芸の毛利とひゞく其元就は我朝にて昔しの事は扨置きぬ近代尊氏義貞より以後には件の元就公なりと内藤修理申さるれば曽根内匠又問ふ信玄公と元就と武勇いづれ多少ぞといへば内藤修理答へていはく元就公の武勇信玄公よりちとうへなり、子細はもとが甲州一国ほどももたぬ元就にて其上国数多き敵の故如此但し信玄公の御弓箭は軍法の儀、古今まれなり是を以てさたせば末代によき大将衆信玄公をほめ奉らんと内藤修理、曽根、真田、三枝三人の若者に申しをしゆるなり

三枝勘解由左衛門内藤修理正に問ふ余所の家中には我大将を他国の大将より、縦武勇おとりにても此方抜群、上のやうに申す事各々かくの分なるに信玄公の御家斗り有り体にさたなさるゝ事、貴殿にかぎらず宿老衆武道のほまれあるも大略なるも大も小も悉皆此家風なるは如何ぞと、三枝内藤にとへば内藤いはくおとりを、ましと云ひ、ましをおとりと云ふ事は町人女人のせんさく也町人は商買を専らにしていかやうなるいやしき者をも殿様とあがめ候は、売物うりはらはんと云ふ儀にて候へのごとし就中女人は人にかくるゝも我つまに能く思はれ、同くかほにべにおしろいをぬりて男によくしたしまんと云ふ意地のかざりなりいづれもかざらば内心軽薄のいたす所にて武士には大きにきらひ申し候と内藤修理正いはるれば三枝勘解由左衛門又とふ、扨是は武田の家風にて廿七代共に此通りかと云へば内藤こたへて申す尤代々せんさくありといへども十が八ツは当屋形信玄公より一入せんさくつようして此通りなりと内藤修理物語りにて候なり

内藤修理正いはく、昔し頼朝公諸代衆土佐正尊と申す侍、舎弟義経公の討手に都へのぼる忍びて罷在るを義経の近習に伊勢三郎義義盛賢きはかりごとを以て方便たばかりて是をとひをとして我君に申す義経聞召しいそぎ正尊を召し寄せ既に誅罰なさるゝ処に正尊君の為にいつはつて起請を書く故、のがれがたき所をゆるされ申此儀を贔負の町人正尊のはかりごと浅からずとほむる、其ほむる町人又伊勢三郎義盛が偽りて土佐が中間に義経公討手の隠密をとひおとしたる儀を正尊贔負の族、沙汰す義盛は比興のうそつきかなとそしる事、是町人のせんさくにて武士のことわざに聊もなき事也、若し又侍の批判にさやうなるは弱将の下にて臆病侍のせんさくならんと三枝に内藤が心をつけてをしゆるなり

女人のかざりて心いつはる事につき恵林寺快川和尚知勝国師尊意を得奉る其歌に、鳥の子を十づゝ十はかさぬとも女に心ゆるす可らずと有は、まづむかし坂東八ケ国のあるじ将門公を俵藤太討ち奉るに将門若君の御乳おちの人に俵藤太はかりごとをもつてふみかよはせちぎりをこめて将門の七人に変じ給ふ其いきをしるべとせよと右の御乳人にをしへられ弓箭をもつて俵藤太将門を射殺し奉る女はひいきも正にならずにくむも正にならず、ふがいなくかざる人間なれば男子道にかさる人をば女侍と信玄公の仰らるゝ右の俵藤太が子孫は近江国日野の蒲生が一党是也、今近江国に蒲生忠三郎と云ふて利口なる若者あり是又三河の家康などに少し相似たる武士にて江州にも浅井備前守にづきて此忠三郎心ばせ有るときく彼の蒲生が家は一代弱く一代強し子細は王威を以て将門公をうつ将門も名大将なる故是を討つ罰あり両方かけてよはみつよみ件の家の侍大将各番にて忠三郎が親の蒲生をば下劣の作り歌に日野の蒲生は武者げたよ陣と申せばしもごしおこる具足をうりやれ衣めせと歌にうたふなれ共子息の忠三郎は常ならぬわかものときく親と子はちがふなり一ツに申すは女人町人のかざる取さたにて武士にはきらふといふ事を内藤修理正、三枝、真田、会根内匠にくはしくかたつてきかするなり

永禄十丁卯年に太郎義信自害まして後は信玄公跡をつぎなさるべき惣領御座なし、然れ共又其年誕生ある四郎勝頼公嫡子を信玄公養子に被成吉田左近助を以て御使として御曹司を太郎信勝と名付け参らせられ武田の重代行平の御太刀左文字の御腰物をゆづり武田廿八代目と相定めらるゝ子細は四オープンアクセス NDLJP:181郎勝頼公母は、諏訪の頼茂のむすめ、勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也四郎が父は苟も信玄なればいづかたへたよりても、是は然るべしとあるの儀にて信玄公の跡目にと今の御曹子を有之さありて此太郎信勝七歳にて信玄公にはなれまいらせられ候間信勝廿一歳迄十五年の間父勝頼公に陣代と有る事也然ば右の太郎信勝公十一歳の時小姓衆多き中にて近習友野形部むすこ、又一郎と日向源藤斎むすこ伝次と扇切りいたせと太郎殿御意の時、友野又一郎腰にさしたる扇をぬく、日向伝次は手に持ちたる扇を腰にさしてゆびをたてゝむかふ時信勝早みへたるぞ、おけ、せぬ扇切に伝次はかちたる事心の逸物なるをほめ給ひ日向に褒美あそばす、是を高坂弾正聞ていはく此御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就、北条氏康、北越の輝虎、尾州信長、三州の家康、祖父信玄公おさな立に相似たる信勝にてましませばと、只今武田家、万事まつりごとみだりになり、去々年長篠にて勝頼公御分別相違故、長坂長閑、跡部大炊助、両人のいさめをもつて信玄公取立の衆尽く討死候て猶家風あしくなり終に武田の滅却に付ては太郎信勝公のよき生れつきもいらず、むなしく相果て給はんとなみだをながすばかりなり又奥州よりかうさき織部高崎織部と申す牢人、此比甲州へきたる此人物語に奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思儀なり万海と云ふ行人の生れがはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす後を考へのために如此なりと高坂弾正書

或時高坂弾正少弼と、内藤修理亮物語の時高坂がいはく人をつかふて見るに鈍なる者は無念にてかならず卒爾なりと云ふ、内藤がいはく一様に上手なる人は万事にわたり、物をよく聞き知るなりそれ聞きしらざる芸者は下手ならんと内藤修理亮申すなり

信玄公惣別出家衆に対面は、毘沙門堂においてなさるゝ、或時恵林寺智勝国師二番目の弟子、南化和尚登城の時分、信玄公南化にとひ給ふいかなるか是過去仏、南化答て云昨夜金烏飛入海、信玄公又いかなるか是現在仏、南化云ふ暁天依旧一輪紅、信玄公如何是れ未来仏、南化云ふ明夜陰晴未知、信玄公南化和尚を拝しなさるゝ也

或時長禅寺春国和尚の弟子高山和尚登城の刻毘沙門堂にて、信玄公高山和尚に問ひ給ふ、高山は富士と何れ、高山答て云ふ脚下をみよ、信玄公宣く仰之弥高、高山云ふ珍重、信玄公高山和尚を拝し給ふ也

信玄公東美濃御陣前に、高坂、山県、内藤、馬場美濃、真田源太左衛門、同兵部介、小山田弥三郎、小山田備中、朝比奈駿河守、岡部二郎右衛門其外駿河侍、各又小幡、安中を始め、上野侍此衆を召して、信玄公仰らるゝ予が煩ひかくの分に平愈して三年の間に都へ入り候はゞ、又五年の内には六十余州を治め取て旁を国持に申付る時其国の大小をくぢどりさするならば、其多少は面々の果報次第、扨又国と郡のなみに入る事、必ず忠節をぬきんずる人は国主也、少しも手柄劣たるは郡取らんと思へ、国なみにいるる事郡のなみにいる事、武功の故ならんと、大身衆へ信玄公直に仰せ渡さるゝ間大身衆の事は申すに及ばす是を聞ほどの諸侍大小ともにいさむなり

或時小山田弥三郎申す、馬場殿内藤殿山県殿高坂殿、聞き給へ町人は武辺の義も力の強き物斗り手柄をすると思ふとみへて、普光院殿を討ち奉る赤松左京太夫を贔負の町人誉めて書きたる物の本に、赤松が力を三百人力と書き付けたる由申して笑ひ候へば、馬場美濃申さるゝ、されば侍衆が商の雑談仕るに左様のぶあんない成る事多うしてさこそ侍を町人おかしく思ひ笑ふらめ其道々によりて家の事になきは取りさたおかしき者にて候と馬場美濃いはるゝ也

高坂が云く人の人を馳走して悪き事三ツあり、一ツに医者知らずして薬くるゝ事、二ツに過馬すぎうま人にのする事、三ツに鰒の振舞此三ケ条にて傍輩にけがあらば腹を切らずば見苦しからん、又死ぬるもいな物なれば所詮是は連々遠慮尤も也

高坂がいはく名大将は、大略出家にすく者なり或時越後の謙信曹洞家の法興和尚にあふて大なる栗を輝虎とりて此和尚に進じ奉りて、謙信宣ふ此栗を十里にたしてまいり候へとあれば、和尚其栗をうけ取りていはく、則ち此栗をむき五りとかみわりてくひ候はんと和尚宣へば謙信殊の外機嫌能くましたると聞也

高坂が他国の事なれども聞きて爰にかく家康の内、内藤三左衛門と云ふ者傍輩の、人くらひ馬はなれたるに右の三左衛門道にて行きあふて、食ひふせらるゝ、馬は力ある物にてだきころばして三左衛門既にくひころさるゝにより此者しかもつはものにて脇指をぬき馬のふへをおしはなす故馬死する其後三左衛門腹をきらんといひければ、家康申さるゝ少しもくるしからぬ儀なり、馬牛の頸きるなどゝいふは又各別のとオープンアクセス NDLJP:182りさたにて有りとて三左衛門身上子細なし、家康此ほどの国持ちなれども道理非をわけたる大将故如此悪き大将ならば馬をころしたるとて三左衛門に腹を切らせん、家康はさなくして赦免の儀国持大将のくはしきせんさく手本是也と存知高坂弾正が爰に書きしるすなり

真田源太左衛門、同兵部介、長篠にて討死の後、弟武藤喜兵衛に兄の跡を勝頼公下され真田安房守と申す此安房守或時、高坂弾正に問ふ信長長篠におひて当屋形勝頼公にかち其勢をもつて、越前の朝倉、伊勢国司、名をたやす、さありて四国西国関東奥までも末にはおさめん事去年長篠合戦に、信長勝利を得て一入如此、然れ共信長只今の仕置頼朝、北条家、或は尊氏などのやうに代替り迄無事に候て末代迄も人の沙汰するほど、信長仕置も可之と、高坂弾正殿見給ひ候哉、願はくは此批判被成候へと真田安房守いへば弾正いはく信長の仕置今はまづあやうし、子細は内の衆に大国をくれて国主に各を仕らるゝ其中に名人のなき事は有るまじ、さありて明日にも、信長病死ならば子息城介殿二代の大身なる故何としても、よろづこまかに有るまじ、又仕出での侍は、何事もめいさいなれば、本からの大身と仕出での大身とくらぶれば一ツ時代には仕出での方かつ物にて候、さなくして信長仕置さへよくば嫡子城介信忠も、舎弟伊勢国司に定めらるゝ三助も殊の外能くむまれつきたる大将ときこへ候間、少しも子細なく、信長死後にもおさまり候はんと高坂弾正が真田安房守にいひをしゆるなり

真田安房守、又高坂弾正に問ふ、大敵のおさへにならばせめて一国をあたへずしては、都あやうからん爰をもつて信長も又此外別に仕置有るまじ、但し何とぞ今の仕様より様子よきもやう御座あるや、願はくは高坂弾正殿、工夫をきかんと、真田安房守いへば、高坂弾正申、我等式の存ずる事ありとてもそれはふかゝらぬ儀なり、四年以前に他界まします信玄今迄御在世に付ては天下の仕置なさるゝ事なにうたがひあらんや、子細は伊勢、越前、河内、和泉四国其外紀伊国、大和国小身なる者共まで信玄公へ申通し法性院殿都入を相待とある事なり、さありて三河の家康をさへおしつぶせば、信長大身にてもそれはあまり手間とらぬ事、若手の家康強敵にて、しかも懸引よく仕るやさしき武士なり、去ながら此家康も申の極月に我城ぎはにてをくれをとる翌年の二月一本ニ二月ヲ正月トス、のだの城へ信玄公とりつめ給ひ四郎殿、典厩両大将をもつて彼城菅沼新八郎をせめらるゝ時家康なればこそ、のだのうへの山まで出、山県三郎兵衛組衆各馬場美濃守、二の手にてをしはらひ終には、のだ落城する其節家康より信長へ小栗大山小栗大六ナルベシといふ家康近習の者を五度まで使にこせ共、信長出ずして菅沼新八郎城をわたす、此新八郎、駿河岡部二郎右衛門に、おとらぬ剛の者也とて信玄公御家に置給はんとあれども、奥平九八郎人質家康にある故奥平が人質と菅沼新八郎を、替物になされ候其三月めの四月十二日に、信玄公御他界なくんば何としても家康、めつきやく酉の年中に仕らん、家康さへ滅却なれば、信玄公都入に子細はなし然れば其春東美濃へ発向なさるゝ時三月十五日前十四日に我等をめしよせられ全集ニ△謙信家康に頼まれ申合たるト聞漸雪も消候へば輝虎信州へ働候ハん為に其方は海津へ罷帰るべし但其方手勢三千乃内千五百を合て二千忰源五郎に預け候へ其方には信州勢一万五千云々トアリ信州勢一万五千の人数あづくる間手につけて北越の輝虎おさへ候へと有て、信玄公御諚に我煩ひさへ如此平愈ならば来年中に都に旗を立ん、さありて天下の仕置とは都をさして申いはれは、日本の主、帝王の御座なさるゝ故なり、去程に信玄が此わずらひかように後まで平愈候て三年の内に都へ上り参内をとげ 勅命をもつて都の意見仕らば天下に信玄がゐではあやうし、又都あたりに、内の者大身をおくもあやうし、山城の内には禁中への恐れに城はなく屋数がまへをよくして、其屋敷まもりに、逍遥軒をさしをき都近国には敵をおさゆるために馬場山県内藤小山田弥三郎、又は木曽殿、小幡安中あひきなど、かようなる者を、一国に一人づゝ郡代に定めて、其外は我譜代の小身なる者共をいかほども取立中のあしきを目付横目に尋ねてそれをまぜあはせ、一国の内いくたりもおき、其後日本を皆おさめば遠国には又国二ツ三ツくれてもおく仕置ならはたとへ、信玄が死する跡にて何たる分別なき侍に代をつがするとも、三年はたもたん、まへの大将死して三年たもつやうにするは前代の手がらなり、四年目からは後の大将分別よければ、ほまれ、あしければ恥なり就中天下の儀二代たもつは、たゝの家百代たもつより弓箭を取てのほまれなりと、信玄公の仰られつるを存ずれば今信玄の仕置城介殿、三助殿、信長に相似て如形の若き衆たちにても信長死後にはあぶなしと高坂弾正が真田安房守にをしへて信長公の御うはさを申いたし候中に真田安房申は、此比信玄公御看経のつつでに御したの諸侍大小上下共に七難即滅、七福即生とあそばし又其次に不動の呪を、一人に百返づゝくり給ひ候は、其方高坂弾正、土屋右衛門、曽根内匠、三枝勘解由左衛門、真田喜兵衛と度々の御意なりとて、高坂弾正、真田安房守も声をあげてなきながらざしきを立なり

或る時土屋右衛門尉が高坂弾正に問ひていはく、奉公人の武道たしなめと申せば喧嘩数寄になるいかオープンアクセス NDLJP:183にも人よくせよと申せば、武士道無心懸になる、此間は何としめして家風をよく仕らん願は高坂弾正殿分別をきかんといへば、高坂いはく別の事なし奉公人の行義作法面々が腰にさすかたな脇ざしのごとくに仕れと仕置なされよ子細は刀脇指よくとぎて其上によくはをつけてさすは人きらんと申事なれども常はさやをせねばさゝれ申さず候、人をきる物とてつぶみにてさゝば、さす人もあやまちを致しかたなわきさしもくさりて用にたゞず打くづしてくぎにうちて後は、すたらん、あやまちすまじきとてぬけぬ様に鞘へをしこみよくとぎたてたるとて、おしみてはもつけず候へばなまぎれにて、又すたらん所詮よくとぎて能くはをつけて、よくさやをしてよくぬけるやうに、あまりはやうになくなされ差てこそ本の事なれ、其中に小脇差をばちと抜かぬるほどにつめてさし給へいそがはしき所にて我しらずおつればよき人にはひだちをうつ、悪き人をば譏る、其故如此扨又奉公人の行義嗜過て喧嘩ずきは刀脇差をつぶみにて指と同事、人あひよき無心懸になるは、はも付ずして、さしてなまぎれにて捨らるゝ心なりと、高坂弾正長篠合戦の前四月甲州東郡恵林寺にて、土屋右衛門に語り教る也

或る時馬場美濃守所へ振舞に内藤修理、山県三郎兵衛、土屋右衛門尉、小山田弥三郎、高坂弾正、真田源太左衛門小幡上総此衆参られ万づ雑談の中に小山田弥三郎申は各聞給へ世間に物のわかりをいひて人におしゆる事、がくもんしやのわざなり、しかればがくもんしやの中に、物しりは多し智者はすくなからん一文字をひかぬ人にも智者あらん山本勘介など智者といふ者なりと、信玄公御諚なれば、扨物しらずとも又智者といふて、別なりといへば、そこにて馬場美濃申さるゝ、小山田殿宜ふことく、松木桂琳学問して物をよくよむにより、唐の諸葛孔明の事を某尋て候へば諸葛百姓なれども、大将の是をかゝへなされ度ため、いかにも慇懃なる出立にて諸葛がやどへ大将自身御座候へ共二度は留主とて押返し三度目に彼諸葛、はたけをうなふて居る所へ大将行きあたり、何程も慇懃にしたまふ故、爰にては諸葛鍬を投捨今の大将を守護して、軍法を仕、いくさに其大将勝給ふ事を本に向ひて申時は松木桂琳物識かなと存る刻、甘利同心、すの原惣左衛門我等方へ見舞候間、彼の惣左衛門は真田殿家中に武辺智恵才覚弁舌たらふたる武士にて信州村上殿へ武略に真田一徳斎差越村上頼平公を信玄公、をしたをし、勝利を得給ふは、すの原がかしこき、智計の武士なる故大剛のほまれを感じ我人冥加のために某、すの原を一入慇懃にあへしらひ候へば松木桂琳是をみて、すの原が座を立かへりたる跡にて桂琳我等に申は、何とて人の同心あしがるの殊更小身なる者を、馬場殿はどの人が殊のほか慇懃になさるゝとて不審がり候間、そこにおいて我等存ずるは、諸葛いやしき百姓なれ共、大きなる大将の慇懃になされたる談議をいひながら是を不思議とうたがふは、松木桂琳口と心はあはぬと存知たるほどに物の本にむかひ談議するは物識、本にむかひよむすべしらず共、心の至りたる人を知者とこそ申らめと、馬場美濃が小山田弥三郎へあいさつ是なり

此次に高坂弾正申さるゝ、四国牢人に村上源之丞と申者は、堺の紹鴎が雑談をきゝたるとて我等にかたる数寄者と茶湯者は別なり、茶湯者と申は手前よく茶たてゝ、料理よくしていかにも塩梅よく、茶湯座敷にて振舞する人を申、扨又数寄者と申は振舞に一汁一采なりとも仕り、茶は雲脚にても心の奇麗なるを数寄者と名付てよび候、元来数寄は禅僧から出たるわざにて如件、諸宗は仏語、禅宗は仏心とて意地を肝要にして、まことおほき心指を執行、人のたつる茶を、数寄者の振舞と村上源之丞が語るときんば、数寄者と茶湯者は各別と聞候よし高坂弾正がかたる也

或る年信玄公旗本の少身なる人に、長貫と云侍と高坂弾正甥春日惣次郎と申侍と、知行百姓の堺問答にて春日惣次郎道理也、然る所に信玄公、馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山県三郎兵衛、小山田備中、真田源太左衛門、小山田弥三郎其外各を召て仰出さるゝは信玄が家にて武辺手柄の事は申に及ばず、公事沙汰其外一切の儀四ケ条は一入心つくる仕置也、第一大身衆親類の事、第二に我前へ出すゝる者出ずは出頭ナルヘシの親類共の事、第三に武田一家衆の事、第四に小身にても類親広き者共の事、右四人をば、十の理を七ツのけて三ツと聞候間、此度春日惣次郎公事理なり共、負に仕候へとて春日惣次郎、公事の理を持候へ共、高坂弾正が甥なる故其公事惣次郎負になる其節猶以て信玄公仰出さるゝ、抑も国を持、家をやすんずるよき大将のことわざ就中其家の出頭人親類共うかへ候事、大きなる悪事なり子細は大将に対し逆心のとがと同前に候何の家にも出頭いたす物なうてはかなはざるに其頭をいたして、大将に物よく申侍の親類どもまで出頭ぶりを仕り諸侍に慮外をするならば、諸人迷惑ながら機嫌をとり出頭人、親類共を用ひあがめ立るに付ては出頭人に又出頭人が、いでき又其機に入たる者をたのみ、小身なるとさま者は何とよオープンアクセス NDLJP:184き事を奉公しても大将の耳にいらず扨て悪き事あり共類親広き近付知音のひいき多くある者は悪事を吉事と申なし、さやうのまつりごとにてむほんの儀もかくして悪事出来してから、大将の耳へ入る共それは更に所詮なき儀なり、其みなもとは、出頭人の親類うかへてまはり或はよきひきもちたる奉公人共、下の手柄を中にいひ、中の手柄を上に申、又ひいきなきをば中にいひ中を下にいふ事ひいきの取さた故如此、此躰なる家中は、かならず大将たはけて内の者まかせと、分別仕れとて信玄公各家老衆へ仰せわたさるゝなり

山県三郎兵衛がいはく、武芸四門とは弓、鉄炮、兵法、馬是四なり侍は大身小身によらず右四ツをよくもあしくもならひ其上自余の事を稽古いたさば物をよみならひ同く書習ふ事肝要にて候、其後乱舞も尤なり然れば右四ツの中に、まづはじめにならわん事は馬なり、二に兵法、三に弓。四に鉄炮と申て馬を最前に習ふは馬と申物軍場にて何たる大身も、代をたて人を頼みてのらぬなりさて兵法は同、切あふ事も代のならぬわざなるは源頼朝公さへ会我の五郎夜討の時長刀を取て出給ふ間如此、三番に弓は侍家の物なり子細は国持の武道の手がらなさるゝは、おぼへの人誉れの人といはず弓箭をよくとると申候間此通りなり、しかも弓の儀は古来から、武士の家にそへ物にて是をたとへば、ふるき系図の侍の如し仕出の侍は鉄炮のごとくならん鉄炮は甚しくわざありといへども魔焰のおぢをのゝく事尠なし、弓は又うちみてわざ鉄炮ほどけはしくなきと雖共狐につかるゝ物、又は一切の不審ある物のけ、ことには弓にて鳴弦の行ある上は、武士の臆意は弓なり、就中鉄炮も所により侍の鑓わきをうち城をまき其城内へ打入敵をせむるときんば、是もつて足軽大将から下の身上の人のなさるべき儀也、扨又兵法の儀ならはず共度々きりあひに理をうる人あれば、兵法稽古なくても自然はくるしからず候間、一から十まで兵法いらぬとあるは心の剛なる人の千人にもすぐれて、是以てほめたり、然といへども百人に九十人は人をねらふか人にねらはるゝかあればかならず兵法に心ざすなり、様子ありて其時心ざすは連々遠慮なき故武士道不心懸に候、たゞ何の出入いひ事なき以前に兵法もならへば、一段心懸の侍にて候と土屋右衛門尉舎弟金丸助六郎同惣蔵兄弟三人に、山県三郎兵衛尉語り訓ゆる也

高坂が云ふ、中国牢人井上新左衛門と申侍の雑談に唐には何様に賤敷者をも心の至たるをよき人とほむる、南蛮には、ねの高直なる小袖をきて、きらのいつくしき者をよき人と申す由きけば、すへになりたる家は人の褒貶南蛮流なり

小幡上総守申さるゝ、さるほどに兵法つかひ、兵法者兵法仁三人あり先第一に兵法つかひはおもてなどつかふてならひのごとく人におしゆる是兵法つかひなり、第二に兵法者は太刀の甲乙仕りわけ、勝負のならひよくして上手なる者は、それがしかゝへおく、前原筑前などにて候、子細は彼前原を座敷の角におき五六人扇をなげつくるに二三間へだゝりて前原も木刀か何ぞ手に持たらは右の扇ぎ我身にあたらぬごとくきりおとし候、其上かうよりを、なげしにつばきをもつてつけてさがりたるを、前原しないにていくつにも切おとし候、殊更六十二間のかぶとを、同じくしなひにて打くだきなど仕る程の上手にて此前原など目も足も身もきゝたるきどくを仕る、かれが兵法者と申さんするか、第三つか原ぼくでん塚原卜伝は左様にきどくなけれ共、兵法修行仕るに、大鷹みもとすへさせ、のりがへ三疋ひかせ、上下八十人ばかりめしつれありき、兵法修行いたし諸待大小共に貴むやうに仕なす、ぼくでんなど是は兵法の名人にて御座候、扨又兵法仁と申は勿論上手につかひ少々手前あまりきどくなしとも度々勝負にかち手がらをいたす人河中島合戦に討死仕らるゝ、山本勘介扨はなみあひ備前波合備前長刀をもつて我は一人敵は二百人ばかりを、七八十人きり候て其身は堅固に罷退切所とは申ながら、何様大きなるはたらきの、なみあひ備前山本勘介両人などをば、兵法のうへに名人のぼくでん、上手の前原がうへからも、褒貶の批判は成がたく候其いはれは手がらつくの場数の儀其勝負を見たる人おほからん、剛なる手からをば敵にも味方にもたゞしき耳きく沢山にて一本ニ正しく見聞者沢山にてトアリかくれなき者也、いはんや勘介備前などは立あふたる人多く、此山本勘介なみあひ備前ふたり衆のやうなるは、兵法仁と申候はん、兵法仁は武士道にいたれば太刀つかはぬ人にもあるげに候それをいかんと申に、それがし其時は武田の御家へ参らず、飯富兵部少輔殿雑談を承りつるが、今井伊勢守殿、戸石合戦の時越後楽の退口に長身の鐘をもつて、馬はなれたる敵一人退く所へ今井伊勢守馬にて乗ころばさんと有し時、件の敵さすがの謙信衆なる故鑓をなおし今井伊勢守をつき落さんとするを件の侍は歩にてはたらき自由なり馬上は不自由なり馬を乗てにぐれば比興なり、そこにて今井伊勢守武功誉れの功者故方便たばかりて相手を見知たるやうにいはるれば、敵鑓をひきてさも候はんと挨拶オープンアクセス NDLJP:185する内に、今井伊勢守かせもの多くかけつくる、則ち内衆に申付、今の敵をうちとむる、これらは太刀をつかはず兵法しらずとも兵法仁と申て名人のぼくでんが一ツ太刀是なり、惣別ぼくでんは一ツの太刀一ツの位一太刀と申て太刀一ツを三段にわけて極位といたす、黒白を知りたる兵法つかひ故、其道の名人と名をよばれたるよし、小幡上総のむこの武田典廐信政公にかたりおしへ申さるゝなり

或る時小山田弥三郎所へ振舞として、内藤修理、馬場美濃、山県、小幡上総守、浅利、高坂弾正此衆参られ雑談のうへ馬場美濃守、小幡上総に問ふ上杉則政は誠やらん弓をいる侍には、武篇の覚なく共弓大将にせらる由、聞及んて候と申さるれば、小幡上総こたへていはく父管領の代にはさやうなけれ共則政の代に其通りにて有つると語る、そこにて内藤修理申、それは散々の儀なりさありては馬を能のらば博労をも上杉家にとめて騎馬の五百騎も千騎も預け給はんが、其分別にてこそ我より少敵の氏康に度々切負給ふは氏康のぶのよきにはあらず道理がつまりてかくの分也と、内藤修理申其次に小山田弥三郎いはく上杉則政は、人をもみしり給はねばこそ則政にて取立の人に、十人が九人微弱にて則政公の為も思はず口にて管領をあがむるばかり内々はうしろくらく、しかも又武道は臆病第一と聞へたりといへば、其後山県三郎兵衛いはく、上杉則政の儀高野聖が半弓にて鍋釜盗人を一人射殺したるとて足軽をあづけ弓大将にせらるゝなれば一事が万事にわたる故何として人を見知りなされんといへば爰におひて高坂弾正いはく、人をほむるも、そしるも我位はどさたする時は被官といへどもよき者へは悪大将心ざし及ばさる故めもさながらとゞかぬなり、惣別よき大将は三万四万の人数をつれても五千の敵に気遣給ふ事主の小人数にて大軍を引請、どこぞのつがひに切てとらんと思ふたる大身のむかしよりいかほど大きく成給ひて後までも気遣なさるゝ事、我意地にあてがひてかくの分なり但それは主もたぬ大名の事一万の人数を引まはせども、大将を持て、其先をする人は敵に向ひ余り遠慮だていかゞなり其いはれはいたらぬ者共侍大将の遠慮するを敵におつると思ひ、めしつるゝ、そう軍が気遣ひをして敵におぢ味かたの威勢よはくなるなり、則政公内衆も其あじにて、氏康に度々に、しまげられてこそありつらめと高坂が云へばあさり申さるゝはそれを考へ小幡上総殿など上杉則政公へ余り奉公だてなされず候は、一段道理にてましますと浅利が云ふて各座敷立なり

或る時信玄公宣ふ、侍の中に小身にても天然と世間に人の存知、名高く兵とよぶ冥加の武士をバ名をいひながら又人々そねみて名はど覚への場数是なしなどゝさたするもの也、さりながら爰は大将の分別する所にてあるぞ名高き者に常の者は何としてもなき者也子細は場数在まじきといふてもすぐれたる儀すくなうして二度三度あるは名の高き者のわざなり、さやうの誉れ人合戦せりあひの時、人なみにいたせば臆病と申又主の前にて出頭する者をばたゞの時はあしう申かね合戦せり合の刻、諸傍輩出頭人の頭を此時おさんと思ひ出頭いたす者、人なみにすれば、臆病をしたるとさた申事如此二ケ条は畳の上の公事さたに出頭人理をもちても非ならんと、さばくように軍の時名和無理之介が事也、扨は某前近き者のうはさはちと余分をきく儀信玄が仕形是なりと各々宿老衆へ信玄公仰せきかせらるゝなり

関東の管領上杉則政公の取立て大身になさるゝ人をば十人の内八人九人を諸傍輩次第にすへ程あしう取さた申つると聞、扨信玄公御取立の人をは前々十分によきさたなき人をも次第に各讃申候、又其人なにぞ一かど仕得たる事ありて近国他国にもほむるとある、則政公の御分別と信玄公のあそばしやう此様子仰られきかせ給へと高坂弾正に真田喜兵衛いへば、高坂答へていはく上杉則政公そでもなき人を取立給ふ故悪しき者は必ず善事あればおごり、あしき事にはめり意地不雅意なきをもつて、善悪のわきまへもなく仕合よき時こくうにおごり、うかへたるかほにて人に慮外いたし候其ごとくなる侍を、則政公取立給ひつる故諸人あなづりてこそ有つらめ、殊に信玄公は取立なさるゝほどの衆日を追て慇懃に奉公を励まし心がけもよく候て諸傍輩のそしるべきやうさらにこれなしと、真田喜兵衛に高坂弾正をしゆるなり

或る時会根内匠、高坂弾正に問ふよき大将の無行義なる事有て悪しき大将の行義よき事有は是何としたる事ぞ願くは高坂殿ひはんをし給へと、曽棍がいへば高坂いはくそれを縦へば侍の急の用にて家を出る時刀脇指をさし扇鼻紙をば忘れ罷出る儀有といへ共刀脇差は忘れず候其如くよき大将は不行義にても主の名をうる事或は徳ある義には少も悪しき事なし子細は織田信長無行義なると雖人の目利上手にて池田、柴田、滝川、木下、丹羽、河尻、佐久間などと云ふ者共武辺なければ分別すぐれいづれも少身なる衆を目利有取たて一廉の侍と近国他国へ名をよばする△全集ニ△児小姓乃森おらんハ信長乃御爪を伐るにいつもかぞへて持て行の安土の大庭乃前大堀へ入る或時御用仰付られしニ御前に五分計の針の有を取て立又た座数の廊下の戸立たるを失念被成候やらんたてゝ帰れと仰付らる畏て候とて戸を明てたてゝ帰るを信長公いかんと尋らるゝおらん申はせがれ乃御上意をもどくやうに候へばと奉存てと申上る加様に幼き者迄大将を底根より敬ひ奉る事明将にて人を能見知玉ふ故也トアリ信長扇鼻紙をばわすれて刀脇指を忘ぬ心なりオープンアクセス NDLJP:186扨又中国大内殿文ありて行義よけれ共人の目利下手にて取立給ふほどの侍十人が九人役にたゝざる者に知行を沢山くれ人のせんさく不行義にて仕置悪しうあるによりおとなの陶といふ家老に国をかすめとらるゝやうになさるゝを、大内殿行義よけれど、あしき大将と人にいはれ給ふは扇鼻紙をばたゞしう忘れずして刀脇指を忘るゝ心なりと高坂弾正会根内匠におしゆるなり

  天正三乙亥年六月吉日 高坂弾正書之

小山田古備中天文二十一信州地蔵到下の刻、越後義景と討死とき田にて同場にて栗原左衛門深手おひ四十五日目に死す同小山田左兵衛手負二十一日目に死す

小幡山城永禄四年に病死す

天文十四に、勘介咄に原美濃守信虎御呼候て其返報に相図の小幡と云ふ事北条江信虎御相伝候なり

天文十五戸石にて村上と甘利備前、横田備中討死す同年三月にきやうらいし民部馬場に成、工藤内藤に成、甘利子玉千代藤蔵に成(但後、左衛門に成永禄十年馬にふまれて死す)

天文十六信州上田原にて板垣信形村上勢と討死す