【 NDLJP:46】甲陽軍鑑命期巻品第十四 巻第六強過たる大将之事 長篠合戦の次第付 信長公家康公智謀深き事同 味方原合戦物語之事
【一本ニハ強過ぎたる大将付戸石崩、長篠合戦乃次第同味方原戦場物語の事トアリ】
第四番に強過たる大将は心武く機はしりて大略は弁舌も明らかに物をいひ智恵人にすぐれ何事につきてもよは見なることをきらひ給へどしかも常には短気なる事もなく聊も喧狂におはしまさずいかにも静に奥深くみへ奉る故家老の諫を申上るも何ぞ弱めなる事を言上して機にたがひ申さんかと存るにつき十ケ条の儀は五ツも漸々申せども心に機遣あるにつき五ケ条の事も三ケ条は其理聞へかね候者なりそれによつて家老の物いふ事皆戯言と思召主の心を本としてわがまゝなる思案許有といへども前代の父名大将にてましませば親父へ礼儀の為に心にあはねど先づ家老を召あつめ度々談合などし給へ共機の武過たる大将の下にて各申分一ツも役にたゝざる様子をあしき侍のあたま許に分別ありて前後を弁へず当座〳〵と思案する意地のきたなき人罷出前代家老衆許に口をきかせつる浦山敷に此度代がはりに大将の儀にあふて我々もよき家老の内にならんと思ひ心のむさき者ども一両人いひあはせ大将の機にあふなり誠に久しき家の奉公人なれば文学をも少しは仕り古語を引ても強きことは穿鑿なしに申上大将の機にあふやうに諫め申せば【伝解ニハ機にあふやうに何事も仕ル也トアリ】そこにて大将思食はさらば我許りにてもなし内の者にも我とひとつの工夫有りて殊更古人の詞をも申しきかすればいづれに某思案する所少しもあしからじと強き大将思し食し其古語は途中受用如㆑靠㆓虎山㆒と申して虎は猛き獣なれば餌をはみて其所へ少しも貪着なく山へ行くを猛き大将に喩へまいらせ候必ず前代の大将より後代の大【 NDLJP:47】将は一入つよみをなされねば人は誉ぬなり前後ひとつなれば後のをよわきと申して諸侍の事はさてをき地下人町人迄も大将をあなづり下知を承はらすなどゝ申すに付き此諫めにては其大将なを強み過る大物怪なりさて又いづれの家にても勝利を失ひ給ふ大将をば諸人誉めながら軽く存ずるぞまづ信州平賀成頼いかばかり覚への名大将と申したるげに候へども武田廿六代目信虎公に討ちまけて討ち死すれば其名は申し伝へず越後長尾為景越中のしかと大将なき我もちの侍どもにあふて討ち死なれば子息輝虎の十分一も四方にて名をよばず信州更科の村上殿浅からぬ覚への大将と申せども武田廿七代目の信玄入道晴信公に討ち負けて村上我持分をすて越後へ立退我よりわかき輝虎を頼み給へばこれもつて諸人村上殿をほめず候但し長尾輝虎越中加賀の衆に負け給へど何とて名高く云ふぞとおほしめすべしそれは輝虎のち又工夫ありて加賀越中の大将なき我々もちの侍を北条氏康武田信玄などのやうに真にあてごふてをくれをしる一揆【一本ニ後れをとる一揆トアリ】にはみだりにあてがはんとて輝虎家中をわれ意地ましにかゝらせ給ふ故翌年の合戦はおほきに輝虎かち給ひ加賀の尾山と云ふ所迄追討にし給ふ是は大方ならぬ弓矢の上手にて日本国中に末代迄も手本にならん然れども下劣は武勇をもゑす【ゑずハ恐れずノ誤ナルベシ】歌に作りてうたふ其歌は扨ても越後の輝虎様は関東面はおてらしあるげな加賀の鑓にはおくもり有り候〳〵とうたふ又尾州織田信長は日本にて上杉管領入道輝虎につゞきては織田右大臣信長とて信玄公他界まし〳〵て後は両大将を弓矢の花の本に申す中にも信長は六年巳来都の異見なれば武辺のつよみなる場数は輝虎といへども結句信長と名をよぶ者多し此信長をも下郎の歌に作りうたふ一に憂事金崎二にはうきこと志賀の陣三に福島野田ののき口〳〵と、うたひ申す其越前金崎の時三河家康信長を助けて若狭国へ働給ふ浅井備前越前をすけて金崎へ後詰と聞せ給ふ信長は家康をすて敗軍なるを家康は若狭侍を思ひのまゝにしづめ尋常に退き給ふ近国へきこゆる若き者の剛なる心バせなり家康廿六七歳の時分かと覚へ候が十双倍も強よからんと信玄家にても批判あり又信長野田福島の時は美濃国土岐殿譜代筋稲葉伊予守と云侍を頼み信長ふだい衆をも此伊予守が下知に付とて信長自筆の手形を稲葉に給はる尾州ふだい衆美濃の前亡【一本前亡ヲ前方トス】のさいばいにつかん事口おときとて腹立つは理なり扨敵は大坂堺衆へ阿波播摩よりも加勢あるしかも大将なき寄り合ひ衆なれバ異相なる評議ありて何時しかゝる事も存せず信長の旗本は木幡山にましませばいづれ大事と心得稲葉伊予守が下知をもつて惣陣のまはりに堀をほり柵を付け莚薦共を張内のみぬやうに仕かゞりをたくべからず用心よばはるべからず杯と法度すれば信長譜代の大身衆申は陣にて笧たかず用心よばはらず其上敵の大将は一向坊主なるに柵付莚をはり機遣するとて相葉伊像を大小上下ともに悪口いたす扨信長は叡山敵になり又越前を引出すと注進を聞き坂本にて義景と対陣にこり給ふ故か野田福島の先衆へ飛脚ばかりこし捨て信長は早々岐阜へ立のかるゝ此一左右をきゝ信長先衆夜中に引取る時稲葉伊予守右定る様子のよき様なれば各々あしう申たる衆稲葉伊予守をほむる是とても信長其時分は若けれどもよき大将故人の目利上手にてましますと信玄公御家にてもほむる就㆑中信玄は十六歳の極月より五十三歳の四月十二日の他界の日迄も終にまきたる城をまきほぐし或は敵の向ふと聞き先手を捨て甲州へ逃給ふ事日本の諸仏諸神も照覧あれ仮初にもおはしまさず昔の儀は当屋形勝頼公御存知あるまじ長坂長閑能くしり給ふべし右のごとくつよみなる大将故敵の国にて信玄公を雑人も歌にうたうたる沙汰もなしかほどよく剛強なる大将前代にもさのみなし扨末代にもあまり多くは有まじされ共文武二道の嗜おはしまし物ごとを花奢に強くとあるにゟ合戦に勝給ひても敵の大将を誹らず勝利を得ては猶以て大事に思ひ分国境目三河にては設楽郡美濃にては土岐遠山遠州にてふたまた相摸にてしんぢやう【真庄】上野にて鷹巣【一本ニ上野にては石倉鷹ノ巣又飛騨の江間トアリ】越中にて神保椎名飛弾信州には越後の境目各へ用心きびしく仕れと有る書状を指し越し事を全く仕置し給ふ又天文十三年【伝解ニハ天文十五年トス】に信州戸石にて合戦の時甘利備前守飯富兵部少輔板垣駿河守小山田備中信玄家にて宗徒の先衆村上頼平に切りくづされ信玄衆悉く敗軍して殊に先き手の侍大将甘利備前守討死する、はた本より検使の横田備中も討死なり同十郎兵衛は其年廿にて朝のせりあひに村上家にておぼへの足がる大将小島五郎左衛門をくみ打ちに仕つり深手を負てのく其外横田備中が同心共此せりあひによき者二十人にあまり手負死人有る故横田備中かへして討死の時一入早くうたれぬさありて此合戦信玄公のまけなるを山本勘介と加藤駿河と見切りをよくして諸住豊後小【 NDLJP:48】山田出羽日向大和今井伊勢守此四頭をもつてもり返へし三百廿余り討捕り漸く芝居をふまへ給ふ戸石くづれとて此合戦は信玄公大形負け給ふ様にあれ共芝居を踏みしづめ給へば村上終に敗北して信玄の是も勝なり負合戦に芝居は何としても場所ふまへられぬ者なり無案内の人々はよき者あまた討死仕たる程に信玄公の負けかと申せ共昔義経公八島の磯の合戦に二千あまりの旗本を八十三騎に討ちなされ給へど場を立ちのかされば敵は敗軍して義経公の勝なり惣別軍は唐日本にて昔の様子をもつて批判し給ふべし乍㆑去此戸石合戦信女公の御代に一の無手際なる合戦なり此時節は信玄公少しも大事になされず帰陣ありて何の仕置のさたもなく猿楽をあつめ七日の間能をさせて見物ありわかくまします時よりも皆人の存るに各別なるは信玄公なり其子細は武辺専らかと見申せば能にすき歌をよみ詩を作くり花奢風流にして遊山見物専らかと思へば諏訪の春芳甲州の八田村京の松木珪琳などゝ申す地下人町人を召し寄せ給ふ此者ども出頭してうはもるかと見れば信玄公御詞の滋くかゝるほと、ひらに【ひらに一本日々トス】慇懃に成諸侍をあがむる又大工をも不便にし給ひ数百両の金子を下され都へのぼせ菊亭殿御肝煎をもつて此大工飛弾になされ候へば飛弾定て諸侍に無礼をもいたすかと思へば小人中間衆迄にちんてうはいまうする如㆑此の人を召し遣ひ給ふにより番匠小路は飛弾に承りてたつるたくみ町銀町各町中も地下も八田村春芳珪琳それ〳〵に肝煎りゆへ地下も細工人も繁昌して諸侍ことかく事なし三畧曰四民用虚国乃無㆑儲四民用足国乃安楽とある儀にてもあらんか又一向宗の長遠寺を崇敬ある彼の僧他国へゆき計策の後に三度目には必ず日向源藤斎をこし給ひ疑もなくみかたに定めらるゝ是れも又三畧曰非㆓計策㆒無㆓以決㆑嫌定㆑疑_㆑といふ心をもつよ過ぎたる大将は計策武畧の智恵をばよはきに相似たる事とて嫌い給ふ其意地をさして過ぎたると申すなりすぎてあしきことを高坂弾正が物にたくらべて申すを能くきゝてひだちをうち給へ長坂長閑跡部大炊助殿先づ世間に土は重宝なる物にて田地家をも土の上に作くり人を助ける物なれど自然岸ぎわなどに風を防ぐとて家持ちたる者あるに霖にてじや崩れして重宝なる土が必ず人を殺すは過ぎてあしき事なり水は人間の食物をしたゝめ汚れを清め東坡も人間第一の水とほめ万に重宝なれども大水の時は迷惑いたす是れ又過ぎてあしき物なり扨て火と云ふ物は是れも人を助くる重宝なれども過れば焼亡と申して迷惑なり又風は万物をみのらせ船をやり誠に温天の時分にも風程嬉しき物はなけれども吹きすぐれば大風とて或は物を損じ人の損することおほし此地水火風をもつて天地有情非情生をなす雖㆑然すくれば失をなすなり去る程に大将の強過ぎ給へばいくたりの人を大小共に非業の死にせさせ給ふ物なりよき侍を非道にて失ひ給ふは国持大将の大なる損にて候惣別侍には色々なきやうにても四人有り第一剛強にて分別才覚ある男上 第二には剛にしで機のきいたる男中 第三に武辺の手柄を望み一道にすく男下 第四に人並忠心おとこなり 一上の剛強成る男の仕形は平生も陣の時は猶ほ以て人にもかまはず働き前にも我しはざを分別にて工夫し其場へ出ては機のきいたる才覚を以て手柄をせんと思ふより人にも一円搆はぬ者なり 二中の機のきいたる男は上の人に負けまじと機をきいて馳り廻り上の人におとりて見へぬ者なり 三下の男は只の【伝解ニハ只ノ下何ノ字アリ】儀もなく上中の人がゆかば我等もまいらんとてふたりの人に目をつけてつきそひまはる者なり 四其外の男は皆人なみと申すなり上の男は侍百人の中にふたり中の男は百人の内に六人下の男は百人の中に十二人残て八十八人は並なり其の人並の内に無心懸けなる人をさして世間に申渡る臆病人なり物前にて腰たゝず無性になる人は本の臆病者とて結句兵よりも稀れなれば侍千人の中にも漸く一人あり又右すぐれて二十人のごとくなる者千の備へには歩者に侍小者へかけて二三十もあるべしそれは勝頼公も御存知あらん定て長坂長閑跡部大炊助は猶以て知り給はん原美濃が小者ほつせん小幡山城が小者藤右衛門多田淡路か小者新六是等は度々の手柄を仕つれば結句忰者小者に手柄物あらん扨又一切の侍衆の内にも四人と又高坂弾正が小眼より見立て候開き給へ長坂長閑老弥部大炊助殿 一番に少しも戯けずして兵あり 二番に馬嫁にて兵あり 三番に利発にて臆病なる人あり 四番に馬嫁にて臆病なる人あり 一利発にて心の剛なる人をば世間の者憎むなり 一利発にて臆病なる者は人の機に入りて走り廻り近付き多し 一馬嫁にて兵は手柄をいたしてもあまり人が存ぜぬ者なり 馬嫁にて臆病なるをば人のなぶり者になり結句衆人愛多し扨又国持大将の戯給ひて衆老のよきは重宝うつ【全集伝解トモ重宝うつヲ銕抛うつトス】敵に向ふご【 NDLJP:49】とし敵の時きいておく深くしてぶじに成て其大将の様子を見て造作もなく敵になりてもかたんと思ごとく鉄炮は一町の内外おぞめども手と手を取あふ時は薬もつがせぬ物也大将よくして能き家老のなきは兵法つかいの上手の如し敵の時其家中よき者なければあさくきけども無事に成て大将につきあひ金言妙句を宣へば此大将の前にては卒爾に物もいわれず敵に成て大事なりと存るごとく兵法遣をば他国にて聞てさほど思はね共あはせ勝負をしてひと手とらぬ物とみへ候得ば是もつて遠慮なされざるは勿体なきことにて候勝頼公のそれ〳〵に機遣ひなさるゝ儀偏へに長坂長閑跡部大炊介殿よき分別肝要なり殊更強過ぎたる大将の作法は遠慮もせず何事をもつよみと斗りあそばすに付其下の諸侍遠慮もなく少しのこぜりあひにも討死の人多し右に申す百人の中にて上中下合せて二十人の兵の皆死にうする子細は数人の内より選び出されたる大剛の者共遠慮せずつよみと心がくれば死ぬより外別事なし縦へいきてもかたわになる深手をゝひ以来思ふ様の手柄のならねば、なきとひとしきなり扨は残る百人のうち八十人の侍斗り居て何事に付ても中篇に思案仕よく知たる事をもしらぬ様に取なし殊更身を大事にして兎角つよすぎたる大将の下にて討死などして妻子共に別れんより引きこまんと存知物をたくはへんとて虚病を搆へ軍役をかき武具をも嗜まねば若しあらはれやせんとてそこにて出頭衆へ草づとを恵みこゝをもつて古人も世滞流布似㆑投㆓猿檻㆒とは身を持ちたがりあがきまはる侍のしわざなり其侍が必ず奉公の忠節忠儀もなくして知行をほしがるは蔵や土蔵のしりをきる盗人よりはおとりなり其謂は盗人はあらはるれは又命を失ふ此待武士の働き卅に余り四十に及ても能事もなくて所領を望むは盗人の内にても一入未練の盗賊なりこゝを又長閑聞給へあしき人のみの侍も名大将のしやうにて大合戦に勝給ふ時は件の盗人侍共捨頸の一二は拾てまたよき大剛の衆に人うちはぐるゝ事も有べし是たゝ国持大将の肝要に分別なさるゝ所也信玄公ケ様の批判中々日本の事は不㆑及㆑申大国【全集ニ大国ヲ唐トセリ】にもさのみ稀ならんと存ずる程也強過たる大将は我働きばかり搆へ何のせんさくもなき物也扨て右に申猿のごとく成人なみの侍身にあまりたる欲を思ひあがき廻るを天道のにくみ給へばもとより強過たる大将聞出し給ひてから猿のごとくなる侍をこと〳〵く方薬払と云者になさるればよき衆は打死し残る久しき者ははらはれ人にことかき給ふにより結句右のさる侍におとりの地下人共をよび出し近習と名付置給へど終に公界をいたさねば心は猿の様にて始の衆より作法をしらず其しらぬ分がおとりにて散々あしき家中ぶりとなるは偏に大将のつよみ過て十の儀を十ながら勝様にし給ふ故也信玄公御在世のとき宣ふは十の物六ツ七ツの勝は十分也十分にかてばけがありて後は一分もかちはならぬと我等ばかりになし各家老衆へ度々仰られ候其ごとく駿河義元公あまりかさみて信長に負討れ給ひて後よき衆はわきへなり猿のごとくの侍を氏真公崇敬に付て諸侍よき作法をとり失ひ廐別当の小身なる見田村か茶碗一ツを三千貫にてかひつるを氏真公御前衆所望して是をみて見田村茶碗と名づくる是を買は七度の鑓より手がらとてほむるこれ皆作法しらぬ猿のごとくなる侍の身の程もしらず大身衆うとく人のまねをして堺の紹鴎が流の茶の湯にすく故也扨大将強過給へば常にきほふて終にけがありけがあればまけてよき侍は大形はつる能者はつれば猿のごとくなる侍ども残り居て作法あしく成作法あしければ武辺は猶もよはし、よはければつよみ過たる大将もよはき名を取給ふ扨こそ前に強過たる大将末によはき大将にひとつなりと書しるす如㆑此の大将をたそと尋ぬるに武田廿八代目の四郎勝頼公にて御座候其謂は今度長篠にて分別違ひ去年戌の極月備定めの談合を破り待て勝つ敵に此方より競ひかゝりて合戦の儀さたの外也子細は敵の大将強みも分別も四十二歳なれば年孰れもさかりの信長父子三人海道一番の家康卅四歳なれば是も分別己の時也、しかも嫡子の三郎当十七歳なれ共三十の男より打あがりたる健者にて結句家康にもひだちをうたんとかゝるじやれ者と家康も父子二人合せて五大将が十四ケ国半の勢なり但三ケ国は各境目のをさへに置べし是は中国毛利家のをさへ斗り越前は七年以前永禄十二巳年六月廿八日に信長家康両人にしまけ候へは是もつて我身の用心にて信長の国を望にあらずおさへ四千斗りにて然るべし伊賀の国其外に一万中国に一万合て二万四千但三ケ国の人衆大つもり如㆑此残りて家康国をそへて十一ケ国半なり大国中州をゆり合【一本ニ大国中小を譲り合せトアリ】、一国に八千づゝの大づもりにすればかたく九万二千五百也又みかたの国は信濃甲州駿河三ケ国扨遠州半上野半合て一国此外三河一郡美濃二郡越中二郡飛弾半国武蔵【 NDLJP:50】の内少取合すれば中の国一国程也以上五国の人衆は如㆑右積れば四万なれ共信玄公御在世の時の被㆑成様にて信州に人衆多くして少余慶あれども駿州小国にて只五千有故甲州家の惣着到四万八千なり小田原北条家の惣着到に二万二千五百すくなし北条家は七万五百と聞く信玄公の時各家老衆大づもり此分なり我等なき跡にても御心得のために如㆑此に候長坂長閑老跡部大炊介殿さて此度長篠にて信長の人衆九万二千五百といへ共堅く七万あまり有るべし子細は遠き国の衆は役義をへらすをもつて如㆑此扨みかたは遠州家康と分持ちなれば此人衆動かず駿河は信玄公御他界より三年巳来北条氏政表裏の様にて此用心に駿河勢働かず上野衆も武蔵氏政のもち成る故跡は人衆を残し置く三河美濃飛弾越中勿論境目なれば加勢をこそ尤なれ共さなくては此人衆よぶに不㆑及信州勢は越後の謙信公大強敵の老功にて殊に此比は加賀越中かけて六ケ国に及び手に入り給へば此おさへに壱万三千の人数を置き給ふ事信玄公の時より備へ定め如㆑此各甲州勢【伝解ニハ各ヲ冬の働きにトス】の多きは越後のおさへいらざる故なりさありて此度長篠にて勝頼公の人数甲州衆うへの原に加藤丹後を残し置き其余は一円に立て是八千なり上野衆四千信濃より六千合せて一万八千の内鳶が巣に千又長篠城奥平押へに千おきて残る一万六千をもつて七万あまりの人数の節所を三ツまで搆へ柵の木を三重にふりて待ちかまへてゐる所へ面もふらずかゝるは敵四人こなた一人のつもりなれ共節所と柵の木とを考れば是又敵に十万の加勢なり縦へば十七万の人数の籠りたる城を一万六千にて責めたるごとくなり信玄公つねの智畧にも千籠りたる城をば一万の人数にてせめんと定め給ふ五千にてはことあやうしと有り御出語は定めて長坂長閑跡部大炊助少しも失念あるまじき所に若屋形の然も心の剛強にましますを前代より強くと諫め申す信玄公よりつよくし給へばそれがはや強み過たると云ふことなり過れば必ずけがありといふけがあればそれを名付けて負けたると申す負くれば能き物を皆失はれて猿の様なる男斗り多く残り居てよき侍の不思儀に命助りて大勢の中に五人十人有るを人なみの猿男どもよき人を猜み討先したる侍衆の手柄をいひ出し今爰に残る衆はまへの衆の足もとほどもなきと取りさたすれどさ云ふ猿侍は三十にあまり四十に及べどもよろしくはなし討の成敗物を一度仕りたることなしそれを耻敷とも存ぜず口斗り聞く人は何もせず終には其者六十七十までもうきことなくてはつるを世間に申なす臆病武者此人なりケ様の者をば信玄公おほきに嫌い給ひ信州上田原合戦ありて後外様近習たゝらひ五左衛門と申す者三十七八迄我は何もせずして人の褒貶を申すとて信玄公立腹まし〳〵日向大和内藤修理両人を以て七ど使を立てられ七度目に書付をさしくだし給ふ其趣は其方ことすどのせりあひ合戦に何にても終に然るべきこと覚へず十度事に逢ふて九度はづるゝともせめては一ど心操あれば人の褒貶も尤もなり侍の褒貶なければ一段ぶせんさくなる物にて候へば【一本ニハ尤もなり殊に侍の正道乃褒貶にてなければ一段云々トアリ】各傍輩中の褒貶は侍衆嗜みのもとなれば行々予が戈さきの強くなる道理にて某も臆意は悦ぶといへども此たゝらひ五左衛門は旗本に於て我代に今迄幾度のせりあひ大合戦或は城を責取とき一度の手柄もなくして諸傍輩の取り沙汰仕り人に腹をたゝするは大悪党人なりとあそばして二十人衆に仰せ付られ則ちからめ取りあひ川のはたにて縛頸をきられ申す長坂長閑は能く覚へ給ふべし右のたゝらひ五左衛門がやうなる侍は地うたひ男と名付けたり子細は猿楽の太夫をのけて脇、つれ、笛、大筒、小筒、太鼓、狂言にいたる迄家職を励ます者はいづれもひと役いたす勿論其内にて上手斗りもなければ甲乙もある者なるを無嗜みにて何の役もせぬ猿楽がしらうとの所へ来りて今の太夫は下手て上手で脇つゞみ笛、太皷いづれをもよきあしきの沙汰を云て其方はと人がとへば我等は地謡の役なりと申すうたひをよくうたはゞわきかつれか立役をすべきことなれ共自慢のうたいも下手なれば何もならずして巳れが無能をば取りおきて人の芸の善悪許りいふてしらうとのまへにては芸者ぶりして能の時は地謡の中にいるさる楽のごとく人なみなる男の内にて少し口のきいたる者がはなもと斗りに思案あれば我身の三十四十になるまでもよきことなきをば不㆑知して人の善悪を申す貴殿は何をなされたると傍輩達にとはれてはことにあふたらば是非仕らんと云ふて五十に成る迄何もせで人にあしういはるゝを大事もなきと申すを地謡武士と是を云ふ大事なし侍共申すべしおとろゆる家にては此地謡男や利根にて臆病なる男やばかにて臆病なる男や惣別あしき者の繁昌するはきづのある大将の下にて出頭人が君のためを思はぬ故ぞかし箇様なるをさして末に成りたる家とは申すぞ其方長閑子息長坂源五郎信玄公の御意に違【 NDLJP:51】ひ候事まづ大かたは四ケ条なり
せがれの利根過ぎたるを信玄公嫌ひ給ふとて硯箱の上に料紙の有るを紙硯御用の時上の紙に取そへ筆台のふた斗持て参り作りばかを致事 落合彦助と土屋平三郎をすゝめ合せ喧嘩させ侫人いぢむさき事 河中島合戦の時廿人頭小人頭各能付奉る中に原大隅一入手柄の義を長坂源五郎猜とて信玄公仰らるゝは家に久しき侍のに我心やすくつかふ者共は諸人我に忠節仕る者をば日比傍輩中わろく共懇にいたし我前よく取なしてこそ我を思ふなれ縦は親の長閑が煩を直したる薬師をば定て馳走仕らん其ごとく大切に存る主用に立手柄をしたる者のしかも小者頭にて有に随分だてをする侍が我に奉公したる原大隅を憎むは能々信玄に長坂源五郎は表裏有と仰られつる事 其後古籠屋小路勝治殿の半衆と無行儀の事 是申間敷義なれ共何事に付ても以来のたくらべの為にかくの分也さて又大将の一方向なるをばきず有と申強からん所をばよくつようし給ひよはからん所をば能よはく、こはからん所をは能こはく、やはらかならん所をば能やはらかに如㆑此なるを能大将と申すケ様なる大将の下にては若き衆是非と武辺を心がくる故忠節忠功の衆をば羨ましがる者なりうらやましければ必ず其手柄なる人を崇る者なり縦ば能児若衆を是非と望めバ其若衆の親類迄を馳走するなり【全集ニハ縦ヘバ能き馬を求めん事を是非と望めば日来はけがらはしく思ふ博労迄を馳走する又物を能書ならハん云々トアリ】又物を能書ならはんと思ふ者は能書の人を馳走する心に其君を大切に是非此君の用にたゝんと存る侍は必す其君へ忠節したる人をちそうする其君を思はすして恩斗うけて用に立事を心懸ざる侍は其家にて君に忠功忠節したる人を猜む者なり此儀を能御覧じ分給へ長坂長閑跡部大炊介殿就㆑中右申す長篠合戦に馬場美濃守山県三郎兵衛内藤修理正三人三ケ条の諫を申たると阿部加賀守がかたり候 大敵にあふては隠れ遊をなさるゝ物と聞及び申候間先づ甲州へ馬を入給ひ信長家康きほひかゝつて跡をしたひ申さば信濃の内迄入たて一合戦被㆑成ばそこにては敵大軍なり共勝頼公の御勝ならんと申すに長坂長閑申すは新羅三郎公より武田始りて信玄公迄廿七代の間敵を見て引き籠り給ふことなきに廿八代目勝頼公の御代にけんをまはし給はんこといかゞと申すに付き勝頼公其儀に任せ引入給はず次に馬場美濃申すはさらば長篠の城をがぜめにあそばし候はゞみ、かた手負い死人ともに千とつもりて候子細は此長篠の城におほうして鉄炮五百挺あらん然れは一時つめには始めの鉄炮にて五百討死二番目にてはあはてうちなるべし是れは手負い五百さてこそ手負い死人ともに千とは申せども其内又手負い死人少はすくなき事も御座有るべしそれをしほに御馬を入られ尤と申す又長坂長閑申すはみかた一騎うたるればかたき千ぎのつより【つよりは強利ナルベシ】と承はるに此大敵を引請けみかた千の失墜はいかゞと申せば是れも勝頓公長坂長閑機を尤もと思し食し又馬場美濃申すはさらば城を責め落とし揥地をいたし城に屋形を置奉りて逍遥軒公を始め御親類衆を悉くうしろに陣をとらせ申惣人数は御旗本の先きそへにして山県と内藤と拙者と三頭川を越し時々のせりあひをして長陣をはるに付きてはみかたは信州より人夫の運送近し敵は河内和泉の人数もあれば長陣ならずして終には信長ひき申すべしとある所に長坂長閑申すはそれは馬場美濃あしき分別なり信長ほどの大将がたゞ引き候はんやをしかけて軍をする時は如何と長閑いへば馬場美濃申さるゝ、そこにては合戦をなされで叶はぬ事と云ふ長閑申すはあなたにしかけられて合戦なされんも此方よりすゝみ給はんもひとつ道理にて候と申上れば長閑儀を勝頼公大きに合点まし〳〵て御旗楯なしぞ明日の合戦のバすまじと御誓文なり御旗は八幡太郎義家公の御旗なり楯なしとは新羅三郎公の御具足なり此御誓文なされてより能くもあしくも変改なき武田の大将の作法なれば勝頼公御誓文の上は各家老尤と申す天正三年五月廿一日に合戦有りて三時ばかりたゝかふて柵の木際へをしつめ右は馬場美濃二番真田源太左衛門同兵部介三に土屋右衛門尉四番に穴山五番に一条殿以上五手左は山県を始て五手、中は内藤是も五手いづれも馬をば大将と役者と一そなへの中に七八人のり残りは皆馬あとにひかせ下りたつて鎗をとつて一そなへにかゝる右の方土屋衆と一条衆穴山衆は信長家の家老佐久間右衛門がかたの柵の木を二重まで破るといへどもみかたは少軍なり敵は多勢なり殊に柵の木三重まであれば城ぜめのごとくにして大将ども尽く鉄炮にあたり死するされども山県三郎兵衛しるしをば志村と云ふ被官があげてしかも甲府へ持来り敵にとられず信長此時付入にいたすならば中々国の滅却疑有まじ是とても信玄公御在世の時信濃の人衆を一万五千づゝ某にさしそへてをき給兼ての積より【伝解ニハ二千すくなく一万三千信濃に残るは云々トアリ】二千すくなく信濃に残【 NDLJP:52】れば北条殿へ機遣上野駿河勢多不㆑立故也扨其仕置当年行あたりて二千越後のおさへにおき一万千をめしつれこまんば迄御向ひに参を敵奥深く存知候は偏に信玄公未来迄も手柄をなさるゝ心也信長家には此長篠合戦を信玄公に勝たるとて塚をつきて信玄墳と名付る事是西国へおほへの為なり又小身にても家康は誠多強みを心懸全き弓取なれば三河にては信玄に勝たるとさのみいはず惣別信長家にはあたら弓取の空言をほし子細は義元に勝たる時も今川の人衆六万にかちたるといふ抑も末代にも分別し給へ三河遠州駿河三ケ国にて何として人衆六万あるべきしかも小国なれば大積にもきう〳〵二万四千の人数なるをありやうに申せば猶以て手からなれ共いらざるうそにて義元合戦などのためしまれなる本の手柄迄浅く存るなり又信長長篠にて柵の木ゆひ給ふこと強敵にあふて智畧賢き誉なるを武田武者馬をいるゝと云ふ儀それも虚言なり長篠合戦馬場を十騎とならべてのる【按に長篠の戦場は馬を十騎並べて乗る所にてなしナルヘシ】殊に信玄公の御時四年以前に元亀三年壬申極月二十二日に遠州みかたが原にて敵の大将家康三十一歳の時信長衆も佐久間右衛門、平手、林、水野を始各来て此合戦にあふ味方が原足がゝりなけれども是にさへ馬をいれず候それは敵にても家康衆よく存ずべし尾州にても平手討死なれば此衆は定めてしり候はん馬をならべて入事あるは先無案内なる批判なり家康かた九手にそなへて平手ともに十手なるが家康のうち酒井左衛門の丞手に鎗あはずしてくづるゝ其夜は【其夜ハ其余ナルヘシ】九手ながらにて鑓のあふに馬上にての鑓を鑓と申すべく候哉是れもつて武家に未聞の取りさたなり又信玄衆さいががけへおちたると申す批判もぶせんさくにて我みかたをそしる心なり子細は家康衆信長武者のく所を信玄衆おふてゆかば先づ浜松方さいががけへ飛びこみたらんにこそ武田方の軍兵もがけへ飛びこまんずれ敵右へにぐるに何とて甲州勢左のさいががけへ飛びいらん縦へ飛び入りてもそれが武士のよはみになることにてもなし只町人の批判に相似たる儀なり惣別信玄公の合戦は働き前へに取りかけんと思ふ国のゑづをもつて各侍大将打ち寄り其国の嶮難の場をさたして一の手二の手横鎗脇備後備小荷駄奉行所に依りてまほる【まほるは守ナリ】旗遊軍押勢などゝ申す事わり候ひて卒爾にがけなどへころびおつる儀いづかたにてもさのみ無㆑之左様にいたすを甲州の軍法といふ但しかり田などにゆき人夫の一二人は在郷などにて自然穴へおつることも有るべし味方が原合戦の刻みがけへ落ちたる武田武者一人もなく候家康武者もみだりに北たる衆なければ結句馬場美濃守は浜松衆の体皆勝負をして死する故此方へ向きたると信玄公御前にて家康衆をあさからずほめ候信長衆佐久間右衛門は合戦にあはず浜松の城に迯げ入り其外六七手は其夜に吉田岡崎迄落ちつるときく是れは味方が原の儀馬をいるゝと云ふに付ての事さて長篠にて柵の木もうち合ての儀は勝頼若く候とも小勢成りとも信長公老功にて大軍なれ共今戦ちとしにくうして首をふり給へは馬入ると有るはかざり詞かとみへ候長篠へ信長首途の発句は
松風に多気たくひなきあしたかな【伝解ニハ松たかくトアリ】
といふ百韻の内に山県を始め各武田の家の家老をこと〳〵くいれ武田調伏の連歌を仕たりと聞ゆおぼへの信長わかき勝頼のしかも小人衆なるに是れほど大事にいたすは是れたゞ信玄公の名高き故なり右信玄墳の事信長家康ほどの弓取り達が両大将よりあふて三年さきに死去ある信玄にかちたるといふて西国へひゞかするは大国までもかくれなき信玄の御威光つよし、抑信玄公の他界ましますは天正元年癸酉四月十二日則ち都妙心寺に石塔あり長篠合戦は天正三年乙亥五月廿一日なり是れほど大に違たるを信玄公にかてばおぼへの信長公跡の武功より長篠合戦杏々うへと思はるゝは偏へに信玄公の武勇誉れ計りにてもなく万事に調たる名大将の故なるにそれより勝頼公つよくはたらかんとし給ひつよみを過しておくれを取り給ふ勝頼公強過て国を破り給はんこと疑あるまじ侍の軽薄にほめ奉るをよきと思し食すは全体牛が尾の劒をねぶり舌をきらして死するを知らず候にひとしければこそ此本を四君子命期の巻とは名づくるなり仍て如㆑件
天正三年乙亥年六月吉日 高坂弾正書
長坂長閑老
跡部大炊助殿参