【 NDLJP:104】甲陽軍鑑品第三十
一金丸筑前飯富源四郎春日源五郎、信州諏訪え被㆑遣事 一晴信公原隼人助を召被㆑仰事 一晴信公同時法体に成る衆之事 一山本勘介申上条々の事 一信州伊奈木曽松本え働被㆓仰附㆒事 一信州とき田合戦の事
天文十九年庚戌霜月朔日に金丸筑前、飯富源四郎、春日源五郎三人を信州諏訪へ御越被㆑成上諏訪下の諏訪町人百姓十人許、又塩尻峠御番手の長坂左衛門尉同心二三人召連参候へと被㆓仰附㆒候其上右【 NDLJP:105】の三人十日計り諏訪に逗留いたし、万の取沙汰聞たて、罷帰申べきと有て是にも廿人衆頭一騎御中間頭一騎指そへ越し給ふ、扨て金丸筑前、飯富源四郎御意のごとくに致し霜月十七日に甲府へ罷帰る同十九日に御旗屋へ諏訪より参る奉共人町人百姓共召寄せられ去る十月法福寺合戦の時分桔梗原筋へ被㆓仰附㆒たる一の手板垣弥二郎二の手郡内の小山田左兵衛様子を委くとはせ給ひて其者共をば似あはしき御引を被下其日に諏訪へ御返しあり即時に板垣、小山田に指そへらるゝ御目附の島田外記横目大原隅両人を召して、板垣小山田両侍大将の様子きこしめし其次に、小山田を常のまへ召寄られ金丸筑前、飯富源四郎、春日源五郎三人を以て去る十月桔梗原筋働きの模様を御尋あり、小山田左兵衛申上る、小笠原長時晴信公へ向ひ晴において、松本へふか〳〵と働尤に候又万に一ツ此方へ出向ひ候はゞ不㆑及㆑申晴信公御利運疑なく、長時持分皆当方へ攻とりなさるべきと申候へ共、弥二郎支度のために七日延候ても後虫を煩出し候故我等斗にて枯梗原迄打出働仕るべきと申候へば、御目附横目の島田外記、原大隅申候は左様に小山田一手斗り働き、松本に木曽をそへて一両日の内に晴信公御手に入共、あやうき働をさせ申事、目附横目、かばねの上迄恥辱にて候間小山田一手の働をとめたるとある事にて、以来我等両人流浪【一本流浪ヲ流罪トス】に仰附らるゝとも是非に及ばす屋形様御為あしき事仕るましきとに申附、其理にまかせ、九月十八日に我等下の諏訪へ参着仕、十月二日迄十四日の間むなしく日をくらし二日の己の刻にやう〳〵塩尻まて罷出候へば、十月三日の朝、真田弾正方より私飛脚をくれられ、海野だいらにおひて景虎と、御対陣の由承、如何と存る所へ、飯富兵部殿承りを以て引入候へとの上意に任せ、下の諏訪迄十月十一日に引とり申候由申上らる、晴信公聞召し諏訪郡町人百姓奉公人又金丸筑前、飯富源四郎、春日源五郎三人諏訪に十日あまり逗留いたし聞申たるも就㆑中御目附、横目申上るも少しも違はず一ツ口より出るごとく成により郡内の小山田身上さはりなく【一本ニさはりなくヲ相違なくトス】御前へ召出され、極月二日に御暇被㆑下郡内へ帰る也、此儀に附晴信公被㆑成様は板垣小山田うはさの事も三人の御使衆夢にも不㆑存伊奈、木曽、松本敵方の取さたかとばかり思ひ候諏訪地下人奉公人の申をも四度に召寄られ、始め、二度め、三度目迄そとへいださず聞召其口を一度づゝに御右筆一人罷在御前にて是を書附其後三人の使衆と、それに附らるゝ、目附横目をも二度にめされ其口をも則ち書附、小山田申分にちがはざるは各々御後くらくなく、ゑこひいきの、もうとうならざるあそばし様かな、と諸人舌をふるふなり、板垣弥二郎事をば兎角のさた被㆑仰ざるは親父板垣信形忠節のかげなりと諸人批判なり如㆑件
晴信公原隼人助を召して仰らるゝ、其方父原加賀守は信虎より我等迄度々の忠節忠功有家老なり、然かも代をかぎらぬ、武田の譜代なれは、旁々以て心やすき事也、然れは忠節人の子と申、譜代の者といへば何事に附ても、宥免仕るべく候左ありても又た其方、覚悟たては、譜代をも親の覚をも思ふべからず、其方は廿父加賀守【其方ハ廿父云々トアルハ其方わざ父云々ノ誤ナルベシ】にはる〳〵まして同意也、弓矢の走り廻り父と同程なれば、加賀守に隼人は抜群おとりと存、常に武道を心懸け、大身小身によらず弓矢の道にせんさくをよくいたす武士の物語をきゝ、案内者に必す成候へ、不案内成者は一所斗にあらず両方にてあしき事あり、其いはれは如何にも隠密して能き儀をば、ふりてい、ゐきびき【ふりていゐきびき云々ハ進退動作呼吸等ヲ云シナラン】或は口ぶりを以て諸人にしられ扨人の作法に、ふるまい、衣裳、道具三色に附、饗応に物数、衣裳に高下、鑓に長短損徳の理を能く思案工夫して法度する書立など見候はゞ未だ其書付ひろまる事なく共親類傍輩に申きかせそむかざる様に可仕候所に、大事と心得少もさたなく隠密して親類傍輩にそむかする事不案内者の両方にてあしき事ありと是を云ふ、惣別国持の人をえらび、其気にあふ者共品々多く聞き、晴信公すきの人は身をつましくしてかなはざる儀に能ほどこし、巳れが家の事を肝要に存じ其身を能く知て、我わざを能仕りすぐれたるを能人と定め候、出家は文字、商人は商の道、百姓は耕作の道能く仕る其国大将の為に大き成子細は、武士弓箭に隙なくして物をしらず、自然不審有事を知識にならひ、又こゝになき用あるものをも、戦国なれば自由に求むる事ならざるに、町人其身の造作を以て京筑紫奥、北国迄の物を持きたる猶以て百姓は田地を耕作し国を富貴させ、大将の諸人を扶持し弓箭を取て勝利を得他国を攻め取り、能おさめ名をあぐる其もとは、民の耕作よくする故なり、殊更武士はつましくして其身を全く持能くつゝしんで、弓箭のすべを能せんさくして武道には何程も、てはゞ広き心のもの【 NDLJP:106】は必す心たけき故、つましくみゆれとも、道理非を分けて利の方をとりて少しも邪欲なくして、貪心なきにより、ケ様の侍は傍輩の事は不㆑及㆑申我被官百姓迄に無理成事をいはねば、取所領など茅所に成事まれなり、晴信幼少にて聞覚へたるに、金丸筑前が、おほぢ若狭が親、金丸伊賀と云ふ者世間には喧狂者のやうに申て憎む者おほく有つれ共それは左様にさたする者共、皆な無理成子細は金丸伊賀若き時より首尾不合の事さのみなく若し不㆑叶義をば如㆑此にて首尾あはずと打顕はして申、みがきたてたる心のよき者の故、人の憎むといへ共、十人に一人二人は金丸伊賀を大切に仕り、向上に【一本ニ向上ヲ高上トス】存知異見を得てよく近附く傍輩あり、然も件の伊賀戦場において度々走り廻り手柄を仕るに我ゐたる備にて、人をさきに立たる事なく、大事ののけ口にても我るたるそなへにおいて、いちあとに退き何事に付ても、きれいにと念を入たる侍成る故、伊賀守二百貫の所領を五所にてとれども、五所ながら其村茂りて、百姓富貴成といへども金丸伊賀損ずる事なく其徳多し、殊に伊賀におとらぬ被官を身上にかち、四人迄持候其被官共金丸伊賀に能くしめ奉公して、命を捨ても伊賀ため能やうにと、育内の者を金丸伊賀持候、又此比施の奉公人に、今諏訪五郎左衛門と申者は信虎の機に入たる者成るが、晴信公十一歳の春彼の五郎左衛門せなかに大成はれ物出きて死する、今すは五郎左衛門もぶへんは六七度も走りまはりたることありつるが、是はことさらみかけはおも〳〵しくて分別工夫有やうにあれども、いひだす儀跡さきもわきまへず、一円ふまへ所なく、しゆび不合成をはぢとも思はざるは、うはきにてぶせんさくの故、六七度の武篇場数も人の跡しりに付ありき、よき武士のはがいの下にて、はづれを仕て、本の鑓のごとくにまんずるは、今諏訪五郎左衛門、不案内の故なり、此者金丸伊賀ごとくに二百貫の知行を五所にて取其内百貫、親の代の所領迄悉く茅所に仕り死するきはには、馬を一疋嗜まず武具も被官も持たず飢へに及べども親類にも傍輩にもみつぐ者一人もなきは今諏訪五郎左衛門、時々信虎詞を懸け給ふに寄、奢て諸人に緩怠したるを以て諸傍輩に中の能き者なくして如㆑此、扨又武士と名乗ても不案内の侍は過言を云てしらざることをも知たる様に申て、うそ多ければ首尾不合なり、ケ様の侍に人を預け或は軍場へ使にこす事仮初にもすまじきは、せり合ひ合戦に虚言をいへば、勝といひて戦を始め味方に手負死人を出かし、かつ所をつゝしみ物こと逆にして順なる事一ツもなきは不案内のむさほりたる者をみしらず、崇敬するをもつて如㆑此必す能く嗜みて奉公申候へと原隼人助に前代の事迄引出し、晴信公被㆓仰下㆒儀板垣弥二郎への御意なりと後ちしられたり仍如㆑件
天文廿辛亥年二月十二日、【全集ニ左ノ一項アリ第一巻ノ四品ト聊カ重複ニ渉ルガ如シト雖ドモ玆ニ揚ゲテ参考ニ供ス
天文十九戊午十二月二十日片輪町乃東昌庵足利の東首座両僧を御旗屋へ召て晴信公の本卦を尋給へばゆたかなると云豊は卦にて一段能候へ共日中に斗を見る其蔀を豊にする書すり前によけれ共書より後かけ道有と申言葉に生れ当り給候間何にてもかの道一ツかれば一段ゆたかに名高く万事思召まゝ成べしと申上る晴信公宣には我科なうして父のにくみを請、目付横目を付られ苦労仕既に十八歳の春中には駿河へ差越れ義元に可㆑被㆑預と一時の間に三度乃使を給ふも違背のもやう有㆑之ばせつ害に定りつるに甘利、板垣、飯富三人の宿老使を仕ながら信虎公乃悪事に退窟故か我に心をよせ違義なきやうに申せば其時某をは甘利備前に預け典厩を御前の留守に置給駿河へ御座被㆑成御左右次第我等にも参れと仰付らるゝは駿府より直に上方へ押払給べきとの事なるを宿老三人の心をしを受る中にも一入甘利が工夫を以天道おそろしながら八幡大菩薩此御旗楯なしの前両所にて鬮を取(此所切て見へず)候へば甲州は申に及ばず信虎公切取給ふ信州の内少も違乱有まじきと思の外村上義清さいはいにて木曽、小笠原、諏訪、伊奈の者共迄に妨げられ結句甲州迄危かりけるに予が鉾先宜した故か天道に叶たるか諏訪を絶やし村上を押散してより其儘伊奈木曽、小笠原をも伐随ゆべきを甲州を三ツ四ツ程の越後を持たる景虎我を能き敵と思ひおしもなりおのこゞだて仕る若者に妨げられ信州の侍只今味方に成ては明日は又降をする上州の内にても城一二ケ所もせめ取べきに我が治めたる城郡少も景虎に取しかれてハ弓矢を取ての不覚と思ひ上野を捨ては景虎に向ひ候事一両度の間に氏康より断り故今ハはや是も妨げらるゝなれば本卦に蔀をおほいにのつと云詞に違ハず昼より後猶以かけみち有㆑之は其かたみちにハ頭をそりて天道の言葉にそふべし扠て又出家の形に成事は奥意いくばく有といへ共此上ながら天道乃詞を聞まほしたらば両僧著を取て吉凶を見られよと被㆓仰付㆒東首座は御旗屋東昌庵は八幡宮にて著をたてさせ御覧ずれバ両方ながら御法体大に吉事乃言葉おり候故都へ小松大和守を上せられ三条殿について奏聞申上翌年三十一歳天文二十辛亥年二月十三日申の刻御落髪に勅命を蒙り甲州武田源前信濃守兼ノ膳大夫晴信入道法性院機山徳栄軒信玄と号す】晴信公御出家の同時御家中の衆望み次第に法体仕る中にも信玄公御意を以て成衆、原美濃守、清岩、小幡山城は日意、山本勘介は道鬼是三人也、此外長坂左衛門尉長閑に被㆑成侍大将に真田弾正は一徳斉に成、敵方の越後長尾景虎は廿三歳の時謙信に成給ふと申候
同年同月廿八日に諏訪の郡代板垣弥二郎諏訪の在城召上られ、板垣弥二郎諏訪の在城召上られ、長坂長閑斎を指おかるゝ弥二郎は甲府につめて御奉公也
或時晴信公山本勘介を召して問給ふ、他国を切取り其国の侍を尽く伐捨て又追はらひ一人もかゝへずして、本参案斗りに其国の知行を我くるゝ【一本ニ我くるゝヲ割くるゝトス】は如何とあれば、勘介承りて申上るそれは其大将手柄だてを被㆑成末の工夫もなく外聞思ひ、ひとかわの分別と申候て悪き儀にて候、先第一国持大将の不㆑被㆑成して不㆑叶慈悲かけ候て、天道より憎み御座ありて悪事頓て出来仕りたるを我等式も度々見聞申て候、晴信公又た問給ふ関東上杉則政の様子はいかんとあれば、勘介申は則政は人をば抱へ懇あれ共又外聞を本にあそばし、国郡の主共に能く批判せらるれば、四方へ大きにひゞき諸国より人々来りて則政に奉公するならば管領則政威光は多きなりと、少敵氏康おぢ候はゞ其下の者共皆な則政をおぢ申べきとありて、大身の親類或は遠国の牢人来ればかゝへ置、新参の衆、はゞをいたし知行を過分に取り、はしりめぐり候本座衆は十人に一人ならで走り廻る者無㆑之候、縦十人の中に一人候ても新参衆の十分一所帯を取る人々成故、心武ても肩身すばりて、本座衆は新参の者共の同心のごとくにて、わきめからも本参衆に人の有やうにみへ申さず候により、物を申も言葉少く新参衆の口をまもりおづ〳〵申なれば、新参衆かさみて存るは、ふだい衆に能人なき故我々手柄にて如㆑此仕候へは上杉殿御恩にも成てならぬと、自慢いたし則政の御ためも能思はず巳々が身がまへ斗りする奉公【 NDLJP:107】人多く候、扨て又た本参衆は則政の代に忠節仕たる人は不㆑及㆑申其の身の手柄なくとも、親おほぢ親類縁類度々の忠功申たる事にて此なりをいたし、小身なるさへ有にいはんや、新参の何奉公も申さぬ奴原に仕付られ、あるなしにあてがはるゝ、口惜さとて是も則政御ためを思はず候故か、八年先きに武州川越にて氏康八千の人数に管領則政は八万余りの人数、され共則政負給ふは則政の外聞を本に被㆑成氏康を小身とていやしみ、則政公御分別ちがひ御油断故如㆑此と申上る、そこにて晴信公おほきに御わらひ仰らるゝは、惣別一国をも持つ大将の他国を伐とつて能治めんと思はゞ、先威光の名を取事をば少も思はずして、他国よりつは者共を呼びあつめ、国々の案内嶮難の地をしり、ふけんごの地をしり国の上中下をしり人の柔剛邪正をしり、盛衰をかたらせてきゝ、其者の智恵をはかつて人をば更に仕はず、わざをつかふたるを能大将と云ふ、能大将の下には勿論新参本参共に能武士あつまり其大将へ忠節を尽して奉公する様につかふこそ尤も国持のわざなれ、其わざを能せんと工まば本参新参共に忝く思ふ様に恩を施すを、物にたとへば、日月の光のごとく私なく分別する中に、忠功を尽したる侍又は若き者に親祖父軍忠つくしたる子孫ならば、如何様にも懇をし大将のためを大切に存るごとく、人をつかへば何やうなる若き者の、しかも小身なるをも本参ならばあがめんと、新参の大小老若共に思ひ悉皆は譜代の者のまねをせんとするば、大将の執する儀也、上杉則政の帰伏の侍を、馳走するを能事とて跡先の分別なく馳走して、本参には恨られて役にたゝぬ様につかひ、新参をば身に慢じて大将をかろしめて、用にたゝぬ様につかひ両方共に忠功ひかへ、少敵に切崩され合戦にまけらるゝ則政の仕形物にたとふれば、くすしの病をなほさむとて薬を与ふるに、医骨【一本ニ医骨ヲ医工トス】あしければ其薬毒になりて人を殺すを、世間のさたに薬人を殺さず、医者人を殺すと批判いたす、其ごとく大将人つかひやうあしうして、諸人の悪き様に必ず申者あれとも、晴信は諸人のあしきとは御旗楯なしも照覧あれ、左様には存ぜず、只諸人大小上下共、善悪のわざは大将詮なれは、其下の諸人皆善なり、大将悪けれは其下の諸人皆悪也、大将正しければ、ひくわんも正しく、上下共に宜しければ戦に勝、戦にかてばそこにて、大将の名四方へひゞく、其名四方へ宜くひゞけば、其の大将名をとるとは申せ、おぼへなき以前に名を取たがる事、恥の根本なり其恥をしらずして、当座人のほむるをよき事と存、忠節忠功の侍を悪擬作恨をうくるは人罰とて必被官の罰も当ると云ふ、其罰にてまけましき、少人数に大人数を持ながらまけてあしき名を取と、晴信公御出語を承はり山本勘介なみだをながしてかんじ奉るなり
或る時晴信公山本勘介をめして問給ふは、関東の管領上杉則政八年さきに、武州河越にて、北条氏康に負られぬ以前則政の家中を能く見つるかと仰らるれば、勘介申は二年罷在大形見聞て候つるが関東の儀昔より弓矢の国と申は、先つ武蔵は武の蔵とやらん承及候又た上野、下野、安房、上総、下総、常陸、越後、出羽、奥州迄も上杉殿仕置と申つる、去る程に能武士数多候て則政公の旗本に弓矢功者手柄の武士達際限なく、御座候事老若共に沢山なる儀は、つもらぬ程【つもらぬ程ハ積られぬ程ナルベシ】にて候つれ共、則政公の御分別ちがひ、人つかひ給ふ様あしく御座候と、先日も大形申上るごとく皆逆にて御座候、其子細は譜代が外様に成、新参が奥衆に成て、本参衆に機づかひあり、新参に心をゆるし、武士道の役にたつ者をば米銭の奉行、材木奉行或は山林の奉行などに被㆑成、又は武道無心懸にて、物やわらか過て、大略はよはきかたへつりたる人の、諸人に随ひ結搆ぶりにて走りありく人を、能侍とありて国郡への検使に差越し、大身衆に近づかせ給ふにより彼の柔なる侍たち、日来無心懸にて万無案内成心故、無穿鑿にて存ずるは、我等諸人に能思はれ諸人愛行ありてこそ、則政の御耳にたち、能者と思召し大事の使に参り大身衆とつきあひ申候間、此上は猶ほ以て国郡の主たちに、うつくしき者とみらるゝ儀肝要なりと心得なにもかも、無事に斗り是有所に、大身衆より鞍置馬を一疋引たつれば、此大身の則政のためをよく存る故、大身なれ共、我等やう成少身者をケ様に執して敬ふとぶせんさくの意地にてきたなき心なれば其国郡嶮難の地、見る事もなく、其大身不弁たのしきを見る事もなく、もとより不案内なれば、其身家中の強き弱きも知らず、城の堅固不堅固もしらず、其所に二十日三十日罷在、馳走せられて罷帰れは、則政公も又何のせんさくもましまさず、今の使者に辛労仕りたると有儀にて、過分の褒美を被㆑下結句知行の加恩など有を、諸人みてはうらやみ皆使者に行たる弱き人の形儀をまねてよき形義と思【 NDLJP:108】ふは管領、則政公も不案内にて御座候を物に能々たとへ申せば、公界もみぬ、奥山家の分限なる百姓が里へ出て、銭かぎりに肴を買取り巳が家へ持て帰り、隣郷の者をあつめ、饗応を仕るとて料理するすべも知らず、海老を汁にし、鯛の魚を、山桝味噌にてあへ物にし、雁白鳥を焼物にし、鯉を菓子にし蜜柑をさしみに仕候へば、能き肴共いづれを取てもたべ申べきやう是なくて皆すつるより外の事なきは不案内の故、肴かひたる代物失墜に罷成候、扨て又日数をへて肴のさがるに、塩をいたす事もなく高く買たる肴にて能と斗思ひ、くさるといふ心がけもなくて、取出て料理の時魚のなれたるせんさくもなく、無面目成はなしを上野沼田山家の奥にて則ち上杉殿家中へ参り候時、沼田見物いたす折節承候、此様子に管領則政公の人のつかひ様又た国の仕置共に、相似あひ申し候故、川越にて八万あまりの人数大身小身共に、おぼへの武士用にたゝず氏康公八千の人数に伐くづされ、管領則政勝利を失ひ負け給ふは全体山家の地下人、代物は沢山にもち候ても、料理を不㆑存して、たかくかひたるさかなを、すてたるごとくにて候と山本勘介申上るなり
或る時晴信公、山本勘介をめして仰らるゝ、いやしくも晴信、人のつかひやうは人をばつかはず、わざをつかふぞ、又た政道いたすも、わざをいたすぞ、あしきわざのなきごとくに、人をつかへバこそ心ちはよけれ就中晴信ひとの見様は無心懸の者は無案内なり無案内の者、ぶせんさく也、ぶせんさく成者は必す慮外なり、慮外なる者は必す過言を申、過言申者は必す奢易くめりやすし、おごりやすくめりやすき者は、首尾不合なり、首尾不合なる者は、必ず恥をしらず、恥をしらざる者は、何に付ても皆仕るわざあしき物なり左様の者なり共、其品々につかふ事は、国持大将のひとつの慈悲なり、国持大将慈悲結縁とは、寺社領を付、出家馳走仕或は他国の城主牢人したるを抱へ置き其国を切とりて本意の地へ安堵させ、少身の牢人をも扶助し国を取ては其先方を抱へ諸人の迷惑なき様に恵如㆑此の慈悲結縁の施にて、せりあひ合戦城を攻めおとし、又は国中仕置のために、科人死罪流罪のつみきへてのく此理により国持の、慈悲結縁肝要なり、殊更諸人申事に過といんげん【一本ニいんげんを威言トス】とは、一ツ事なれ共いんげんはある事を申ふるゝ、過言はなき事を申ふるゝなり、さるに付武士のいんげんは、申てさのみ不㆑苦いんげんの侍にはおぼへあり、憎むべからず、過言申す侍は作事成故、三度が三様にかはりて口ちがふは虚言をいふ故、右之通り也必すなをすべき事也と、晴信公被㆑仰、山本勘介感じ奉る
或る時晴信公、山本勘介をめして問給ふ、其方生国三河には近代よき大将は、なかりつるかと仰らるれは、勘介申上る近代は松平清康と申て元来徳河の末、是も源家の侍にて弓矢を取て終にけがなく、生国三河皆伐随へ同国の侍大将共を与力にいたし、既にはや尾州を手にいれんと心懸け数度の合戦せりあひに、尾州衆五千に、三河の衆千にて清康一度も負ずして皆な勝利を得られ、五年も存命に付ては、本国三河にて、与力と申侍大将衆は、悉く清康被官に罷成徳河清康を主と頼候はゞ尾州の事は申に及ばず、美濃国伊勢国迄も発向あり、近国他国に威をふるひ、松平清康は武篇の家と名をとり、遠き国の諸牢人迄はしり参じ、此家を望み清康を主君とあふぎ申さば、本国の事は扨ておきぬ、尾州の者迄、清康譜代に成申べきを、不慮の儀にて生害仕り只今子息広忠代には、他国の事は申に及ばず本国三州も、我々持の様に被㆑成候と申、清康存生ならば、三河侍今時分は皆な清康譜代とていんげん申べきに果報すくなき人の故不㆑計死様を被㆑成跡にて本国の人々さへ広忠手にまはり申さず候、いづれの国も皆な治まり申さぬ間は小身の侍町人百姓迄心さだまりなくして大将の為をよく申つ、あしく申つ仕る、殊更一城をかまへ罷在、侍大将降参いたし随身申をば与力とあるは、其国中にて、取あひある間の儀にては其国皆な治り候へバ与力は悉く被官に成申候、信州衆も後は晴信公、御被官に成候はん事五年の内にて有べく候、但し信濃衆強敵にて候間今より十年も、はたらき給ひ毛作をふり、うへ田をこね戦に御手なみをみせられ、其上降参の侍大将、或は小身の侍衆にも能く情をかけ被㆑成候はゞ信州は皆な御手に入、彼国の侍共、御被官に罷成て、後は上野の侍大将其の中に、信虎公の御代に申通じたる上杉家の人々の、晴信公の与力に可㆓罷成㆒と覚悟仕りて後上野も御手に入彼の国の衆も、末々は晴信公御被官に成申候に付ては関東御発向疑あるまじ、殊に武州滝山衆は信虎公弓矢の御手並に一両度もあひ申由に御座候間、甲州武田武士をバ何時も奥ふがく可㆑奉㆑存候間、当方の御弓矢今から十年の間肝要に御分別尤と勘介申上れば、晴信公仰らるゝは、信濃国城おほうして治まりにくし、城お【 NDLJP:109】ほく共、大将一人にて有に付ては。二三度の合戦にて過半治まり候はんずれ共、村上と小笠原と諏訪と木曽と四頭の内諏訪をば一人たをし候、残て三頭あり、其外一城を搆たる者如何程もあり、しかも、勘介申ごとく、強国がらにて、其上弓矢功者の侍共なる故、手だてにしかと乗る事なうしてむづかしくも思案工夫の四文字にて時刻を待のみ
天文二十辛亥年の、三月、四月、五月迄信州伊奈、木会、松本へ植田のこね働被㆑成又た八月より、九月十月迄苅田の働き被㆑成候、春秋の御働に何れも度々せりあひあり、信濃侍、強敵の故、合戦に負け候ても其色少も、よはくみへず、但せりあひにいづれも手柄の中に、馬場民部、其歳三十八歳、甘利左衛門尉、其歳十八歳、此両人侍大将の中に武篇仕り、すぐれたる、其年は景虎御対陣無㆑之子細は、景虎越中にて、合戦仕られ、越中侍衆、景虎へ降参の者ありて、其仕置のため右之通り也
天文二十一年壬子三月景虎地蔵峠を越かね、姉聟の義景三千の備を跡に置き早々景虎は八千の人数を引越義景へ使を立て、一戦を仕られ、のき候への由、申こされ義景いかりて若き人に
訓らるゝに及ばすといふてのく処へ甲州方の侍大将に飯富兵部、小山田備中、郡内の小山田左兵衛、真田一徳斎蘆田下野、栗原左衛門佐、此人々義景をくひとむる、義景地蔵到下へかゝるふりして、三千の人数を一手に作り、大返しといふ物に返して、一戦を始め甲州方の衆を追たて伐りくづし、競かゝりて討とり、小山田古備中討死する、是をみて御旗本前備の甘利左衛門尉、馬場民部、内藤修理此三手をもつて、追返し、越後義景衆を悉く討取先衆の中には真田一徳斎返して、義景ひかへたる唯中の備へ伐て懸り然も伐くづし、討取そこにて義景敗軍して、只二三騎にて峠を越のがるゝ、景虎は姉聟といへとも、義景をば討死もあれかしと思はるゝ故如
㆑此左ありて甲州方に討死三百七十一人雑兵共にあり、越後衆をば雑兵共に七百十三討とり、勝時を執り行ひ給ふ信州時田合戦是なり、一芝居にて、二合戦の内信玄公先衆は負け御旗本は勝と云ふ、扨又義景、二番目の敗軍三千の備を五百分けて到下か坂中に置き申され候はゞ、後もこれほど敗軍あるまじきに、景虎義景をば堀の埋草と思はれ候を義景悟り腹を立此通りされれば全く義景無功者にて崩れたるにてなし、まして未練とは申されず候、子細は何時も初合戦に諸手の人数打ちりて、敵を討取て敵よりあらてすけ来らば、縦へからの韓信樊噲といふ共、人数まとむる事ならずして敗軍は必定なり、それによつて十分一なり共をく事あり、口惜き此合戦のありて後景虎地蔵到下を越してこなたへ、はたらかす候以上