田邊誠君の故議員安倍晋太郎君に対する追悼演説


○議長(櫻内義雄君) 御報告いたすことがあります。
 議員安倍晋太郎君は、去る五月十五日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る六月十三日贈呈いたしました。これを朗読いたします。

〔総員起立〕
 多年憲政のために尽力し特に院議をもつてその功労を表彰された議員従二位勲一等安倍晋太郎君は しばしば国務大臣の重任にあたり 内政外交に多大の貢献をされ また終始 政党政治の進展につとめられました その功績はまことに偉大であります
 衆議院は 君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます
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故議員安倍晋太郎君に対する追悼演説

○議長(櫻内義雄君) この際、弔意を表するため、田邊誠君から発言を求められております。これを許します。田邊誠君。

〔田邊誠君登壇〕

○田邊誠君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員安倍晋太郎先生は、去る五月十五日、順天堂大学附属病院において逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。私がその日の朝、病院に駆けつけましたときは、先生の御遺体を乗せたひつぎが、国会正門前を通過して自宅に帰るため、病院の門を出発した直後でありました。私はそれを見送りながら、輝ける大器安倍先生の御霊の安らかなことを祈ったのであります。
 ここに、私は、諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと思います。(拍手)
 先生は、大正十三年四月二十九日、かつて本院議員であられた安倍寛・静子御夫妻の長男として、山口県大津郡油谷町でお生まれになりました。先生は、生後三カ月足らずで大伯母ヨシさんのもとに預けられ、幼少時代を過ごされました。ヨシさんは、安倍家嫡嗣である先生を厳しくも温かくしつけられました。
 長じて、先生は、県立山口中学、旧制第六高等学校に進まれました。先生は、中学、高校時代を通じ、父君が政務で東京暮らしが多かったこともあって、両親のいない生活の寂しさを紛らすため、剣道と文学に没頭されました。殊に、長身を生かし、「メン」を得意技とされた剣道の腕前は六高でも随一で、「選手監督」として活躍をされました。後年、先生と談笑した際、同じ剣道を学んだ私が「コテ」打ちの妙味を主張したのに対し、「田邊さん、剣道の真髄は真っ向みじんに打ち込むメンにあるよ。」と譲らなかったのであります。ここに、人生を真っすぐに生き抜いた人間・安倍晋太郎先生の面目躍如たるものがあったと思うのであります。
 その後、太平洋戦争において日本の敗色が濃厚になりつつあった昭和十九年九月、在学一年半で六高を繰り上げ卒業、東京帝国大学に入学されました。しかし、翌十月には、学徒動員で海軍滋賀航空隊に入隊し、予備生徒隊で生徒班長に任ぜられ、猛訓練の先頭に立たれました。翌二十年、特攻隊に志願、千葉県館山で本格的な特攻訓練を受け、いよいよ出陣というときに終戦を迎えられました。
 戦後の混乱の続く中、先生は大学に復学されましたが、講義の再開もままならず、間もなく郷里に戻られ、戦後初めての総選挙に立候補の準備を進めていた父寛氏を手伝われました。しかし、寛氏は選挙を目前にして心臓麻痺のため急逝されたのであります。戦前、大政党の金権腐敗を糾弾し、終始戦争に反対し続け、昭和十七年の翼賛選挙では非推薦で立候補するなど、反骨の政治家として、選挙民からは「昭和の吉田松陰」と慕われた父の時代が訪れたと自分のことのように喜んでおられた先生は、このとき、亡き父の遺志を継ぐべく政治家になることをしかと決意されたのであります。
 昭和二十四年四月、大学を卒業された先生は、「将来、政治家となるには新聞記者となるのが一番」と毎日新聞社に入社され、日夜の取材に若さを燃焼させる中で、生きた政治の動きをつぶさに学ばれました。
 そして、入社三年目の昭和二十六年、先生は当時公職追放中の身であった岸信介氏の長女洋子さんと結婚されました。
 昭和三十一年、既に政界に復帰されていた岳父岸氏が石橋内閣の外務大臣として入閣された際、先生は直ちに外相秘書官に身を転じられ、翌年、岸内閣が誕生するや総理秘書官に就任されました。総理官邸という国政の中枢において、政界の要人から薫陶を受けつつ政治家としての資質を存分に磨かれると同時に、来る総選挙に立候補すべく着々とその準備を進められていたのであります。しかし、選挙区は有力者がひしめき、極めて厳しい状況にありました。岸氏もそれとなく自重を促されたようでありますが、先生は頑として承知せず、「どんなことがあっても立候補する。」と、尋常ならざる覚悟をされたと聞いております。まさに「一度決めたらてこでも動かない」という先生の政治に対する一徹さを見る思いがいたします。
 かくて、昭和三十三年の第二十八回衆議院議員総選挙において、先生は、若き郷党の衆望を一身に集め、見事初当選の栄をかち取られ、政治家のスタートを切られたのであります。(拍手)
 将来を嘱望され、新進気鋭の政治家として本院に議席を得られた先生は、議運、農林水産等の各委員会を舞台に、議院の運営に、また農政を初めとする国政の審議に卓越した識見と行動力をもって縦横の活躍をされ、さらには大蔵委員長の要職につかれ、すぐれた調整力を発揮され、よくその重責を果たされたのであります。
 昭和四十九年十二月、先生は、農政における豊富な経験と力量を認められ、三木内閣の農林大臣として初入閣されました。日本経済が高度成長から安定成長に切りかわる微妙な時期にあって、当時最大の難関と言われた米価問題を見事に処理されるとともに、転換期を迎えた農政の新たな指針づくりに尽力されました。さらに先生は、福田、鈴木、中曽根の歴代内閣にあって、内閣官房長官、通商産業大臣、外務大臣の要職につかれ、先見性を遺憾なく発揮し、多くの業績を残されたのであります。
 とりわけ外務大臣としては、昭和五十七年十一月から六十一年七月までの三年八カ月にわたり在任され、連続在任記録をつくられました。この間、勝海舟の「外交の要諦は正心誠意なり」を信条に、シュルツ前米国国務長官との親交を通じて多難な時期の日米関係を揺るぎないものにされたのを初め、中断していた日ソ外相定期協議を復活し、懸案の北方領土問題の継続的交渉、北方墓参の再開に道を開くなど、日ソ関係の改善にも精力的に打ち込まれました。
 また、みずから標榜された「創造的外交」を実践され、特にイラン・イラク戦争の際、みずから戦闘下の両国を訪問し、我が国独自の立場から戦争の早期終結を強く訴えられ、中東との関係に新境地を開いた上、自主外交の第一歩をしるした功績は特筆大書すべきであると思います。(拍手)
 外務大臣退任後も、日米間の草の根レベルの人的交流を目指した日米親善交流基金、いわゆる安倍基金の創設に、さらにはソ連最高首脳としては初めてのゴルバチョフ大統領訪日実現のために尽力されるなど、国際関係の改善に大きく寄与されました。
 本年四月十八日、先生は、念願かなったゴルバチョフ大統領訪日の両院議長主催歓迎昼食会に病気を押して臨まれましたが、しかし、これが我が国外交に一時代を築かれた先生の最後の晴れ舞台となってしまったのであります。まことに痛恨の思いがいたします。
 この間、党にありまして、昭和五十一年十二月、まさに与野党伯仲時代の幕あけに国会対策委員長の要職につかれた先生は、厳しい国会運営が続く中で、常に率直にして誠心誠意与野党折衝に当たられ、話し合いによる国会運営の中枢の役割を果たされたのであります。たび重なる国対委員長会談の中で、血気にはやって退席しようとする私を制して、「田邊さん、結論が一致しないことがあってもよい、しかし、心が通じ合わないで別れては今後に続かない、徹底した話し合いをしよう。」と諭されたことを忘れることができません。政党政治の真底を見詰めておられた先生は、私よりも二歳年下であったにもかかわらず、常に兄に接する思いに駆られたのであり、日本政界の長兄と思慕されていた先生の人柄をしのばせるものと言えるでありましょう。(拍手)
 さらに先生は、政務調査会長、総務会長の重責を担われ、党務に、政務に獅子奮迅の活躍をされました。こうして、自民党に欠くことのできない領袖としてますます重きを加えられた先生は、着々と政権構想を固めながら総理・総裁への道を進まれてきました。そして、昭和六十二年、竹下内閣発足の際には幹事長に就任され、難しい政局の中で多くの重要課題を解決し、党内での評価を一気に高めるところとなったのであります。(拍手)
 一昨年三月、私は、幹事長であられた先生に、懸案の朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化交渉について相談に伺いましたところ、先生は、「日本は今日まで朝鮮全体に大きな犠牲を強いてきた歴史がある。もちろん韓国との長い交流、友誼があり、これを重んじなければならないから、韓国を越えることはできないだろうが、韓国と同様のことは朝鮮民主主義人民共和国に対しても言わなければならないし、また実行しなければならない。竹下総理にも話をして、解決に向け尽力しよう。」と約束され、その後、竹下総理の国会答弁となり、これが昨年来の日朝国交正常化交渉の扉を開く端緒となったことを思うとき、「平和のために外交はある」とする安倍全方位外交の心意気を感ずるのは私一人ではないと確信するのであります。(拍手)
 いかなる人の意見にも耳を傾け、信ずるところに向かっては即座に行動するという先生の政治姿勢に私は深い感銘を受けたのであります。
 かくして、安倍先生は、本院議員に当選すること十一回、在職三十年一月の長きに及び、昭和六十一年には永年在職議員として院議をもって名誉ある表彰を受けられました。その間、内政、外交に多大の貢献をされ、政党政治の進展に努められました功績はまことに偉大なものがあります。
 政治家安倍晋太郎先生の真骨頂は、あふるるばかりの正義感と信念の強さであったと申せましょう。かつて先生は、「私の体の中には亡き父の政治信念の血が流れている。」と申されました。戦争中、権力におもねることなく、みずからの政治信念を貫き通した父を目の当たりに見、正しいと信ずるところには、いかなる困難があろうと、命をかけても立ち向かうという政治家としての精神を学ばれた先生は、まさに父寛氏を政治の原点として、常にみずからを厳しく研さんしてこられたのであります。
 思うに先生は、温厚篤実の人でありました。生後間もなく別れる定めにあった母静子さんへの断ちがたい思慕、母親のぬくもりを知らぬまま育った孤独感から培われた揺るぎない人間愛をもとに、常に、安倍スマイルと言われる独特の人懐こい笑顔で人に接せられ、党派を超えて多くの人々を魅了されたのであります。外相時代、エチオピアの難民キャンプで飢えと寒さに震える子供たちに接して涙し、帰国後直ちに大量の毛布を送らしめたのも、その人間愛から導かれた先生の温かさのなせるわざであったと申せましょう。
 先生は、平成元年五月、総胆管結石の手術を受けて以来、健康回復に努めておられましたが、病気療養に触れながら、「ここまで培ったものを何かに生かしていく。吉田松陰先生が「死して不朽の名前を残すならば死すべし、生きて大業を成すならば生きるべし」と言っているが、日本の二十一世紀に向かって何かの大業を成す端緒をつくりたい。」と政治への情熱を切々と語っておられます。
 いよいよ政治家として「志 定まって意気盛んなり」との境地に達し、大業を成就されようとしていた先生は、志半ばにして、最愛の奥様を初め近親の方々、医師団一体となっての看護もむなしく、ついに六十七歳の生涯を閉じられたのであります。返す返すも残念でなりません。御家族の方々の御心情をお察しいたしますとき、まことに痛恨の念を禁じ得ないのであります。
 今や我が国は、国際社会の一員として世界の平和と繁栄を積極的につくり上げる責務を負っております。こうした重要な時期にあって、国の未来を託するに足るリーダーシップとすぐれた国際感覚を持った安倍先生を失いましたことは、ひとり自由民主党のみならず、国家国民にとりましてもまことに大きな損失と申さなければなりません。(拍手)
 しかし、安倍先生の残してこられた輝かしい数々の業績は、末永く内外の人々の胸中にとどめられ、いつまでも語り伝えられるであろうことを信じてやみません。
 ここに、謹んで安倍先生の生前の御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)

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