理慶尼の記

 
目次

 
 
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解題
 
理慶尼の記 一巻
本書、一名武田勝頼滅亡記といふ。作者理慶尼は、元武田氏の一族にして、勝沼氏の女なり。尼が、勝頼最期の状況を、自身目撃又は伝聞せしまゝを記したるものなり。

村山徳淳の書目解題に云、

理慶尼の記 一巻刊本 一冊

此の書、一に武田勝頼亡記と名く。理慶尼といふ者の筆記なり。天保八年、朝川鼎の跋に曰く、尼は勝沼氏にして、蓋し武田一族なり。父入道某といふ者、武田氏に叛す。永禄二年己未年十一月三日、山県昌景伐つて之を誅す。是より先き、尼、雨宮某に嫁す。時已に孕むあり。然れども某、尼が父謀叛せるを以て、オープンアクセス NDLJP:5其の連累を恐れ、離婚して家に帰らしむ。尼、遂に柏尾山慶紹阿闍梨に依りて、落彩して尼となり、庵を築きて之に居り、慶長十六年八月寂す。其の生む所の子及び従者四人山下に家し、晨昏供養して、以て尼が身を終らしむ。其の子孫今猶ほ存せり。斯の書、原其の子孫の家の伝ふる所、今大善寺の蔵する所なり。武田氏の亡ぶる、尼、当時にありて、其の耳目の親接する所のものを以て、録して冊子となし、一は山に蔵し、一は高野山に蔵す。此に謂ゆる引導院は、即ち高野山小坂坊にして、蓋し武田氏香の寺なり。事詳に高野通念集に見えたりといへり。天保八年吉田敏成の序あり。

国書解題に云、

理慶尼の記 一巻 理慶尼

武田勝頼滅亡の事蹟を、当時の見聞に随つて記述したる和文なり。本書の「続群書類従」に入れるものは、「武田勝頼滅亡記」といふ。此の版本には、善庵の奥書あり。理慶尼の略歴、本書の由来等を記せり。

理慶尼は、武田の一族にして、勝沼氏なり。父入道某、武田氏に叛きて、永禄二年己未(二二一九)十一月三日、山県昌景のために誅せらる。これより先き、尼は雨宮某に嫁して、当時已に孕めり。然れども父の謀叛に連累せんことを恐れて、婚を絶ちて家に帰り、柏尾山大善寺慶紹阿闍梨に依りて尼となり、後陽成天皇の慶長十六年辛亥(一一二七一)八月十七日、其の桂樹庵に寂したりといふ。本書は、其の大善寺と高野山引導院とに伝はりたるを、版したるものなりといふ。

以上記す所を以て、本書の内容の大要と、作者の伝記とを知るべし。本輯採収の本は、天保八年版を底本とし、更に明治三十年写真石版にせる高野山引導院原本を以て校訂す。

但し本書を、本輯に採収せし所以は、上文採収せし甲乱記に対したるなり。甲乱記は、春日摠次郎の著にして、勝頼滅亡の次第を、男子の筆に記し、是は其の次第を、女子の筆に記したるものなれば、是彼対照して看たらんには、自ら男女のオープンアクセス NDLJP:6観察の精粗あるのみならず、彼に見え是にあらず、是にありて彼にあらずといふ事ありて、研究者に於ては、最も興味あるものなれば、特に採収したるなり。読者之を諒せよ。

 

  大正五年五月 黒川真道 識

 
 
例言
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、理慶尼の記は、原本仮名書にして読誦に難く、且つ理慶尼の記憶により記したるものなれば、年号其他に誤謬多く、校訂上少なからぬ困難を感じたり。是等は可成〔 〕を附して傍註を加ふるに努め、且つ本書序文には、改竄を加へざる旨、記載しありと雖も、本編には通読を平易ならしめんが為め、出来得る限り仮名は漢字を以て填記したりと雖も原本の特徴とすべき「いうける」が如きは、之を存して苟くも改めざりき。本書は、天保八年版を底本とし、甲府市温故堂発行理慶尼真蹟石版刷を以て対照したるも、原本中文字の欠脱は、止むなく□を箝し又は〔〈以下欠〉〕として、之を明かならしめたり。

 
 
 
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理慶尼の記 〈[#天保八年吉田敏成の序]〉

軍の物語ぶみは、この近き年ごろ、ことゝ人のもてはやして、すきに出でくるも、数あまたになりもてゆけど、おほかた、後の世より、おしあてに思ひやり、物せるが故に、たゞ昔の書どもの跡にならひて、いひふるせる言ぐさをのみ、つみとりつつ、あらぬ事どもをも、作り出でたるくさはひおほかれば、誠には、たゞしきより所とも、なし難くなむありける。さるに、此理慶の尼のは、其のかみ、甲斐の国をしり給へる武田のとのの、ひと門かたぶきにたる折の事どもを、目の前に見聞きて、記しとゞめたる文にしあれば、更にいつはれるふし、かざれるあやも見えず。うち見るまゝに、あな哀れとぞうめかるゝは、おのづから、まことの筋に、人の心のうごくにこそはあめれ。しかのみにあらず、心ことばよしばみ情あり。さばかりいちはやき世のみだれに習はで、歌をさへ、こゝらよ詠えりたる、ほの昔の世の女房のおもかげ見えて、うるせき人のしわざにしあれば、之をこそ、正しきより所とオープンアクセス NDLJP:182もなして、今より行先ももて伝ふべき物語ぶみにはありけれ。かゝれど、かひ人のよこなまりに、ともすれば、みやびたらぬものいひも、うちまじりて、あかぬ所これかれおほかる。こはおのづからなる国ぶりと、時世のいきほひになむよるべければ、うはべの色ふしをのみ、とゝのへたる文のつらにおしならべて、いたくとがむべきにもあらずかし。かくて、片山の述堂ぬし、こたびかた木にゑりて、今行先にも、もてひろめられむれうに、己に筆執りてよとあり。さるは、殊にたどしき筋をと、爪くはるゝ物から、此文かきのさてあらはれんが、おなじ心にねがはしければ、さしもすまはぬぞ、人わらへなるや。仮名たがひなどいふものも、引きなほさで、さながらなるは、かの尼の手づから、物せしといふ草紙を、一文字もあやまらで、うつし取りたる本のあるによりて、中々なるさかしらをば、ぇせじの心になむありける。天保の八とせといふ年のきさらぎばかり、よし田の敏成かいつく。

 
 
 
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理慶尼の記 一名武田勝頼滅亡記
此武田殿と申せしは、天喜〔元カ〕年癸巳、〔〈脱アルカ〉〕朱雀院の太子、後の冷泉院七十代の帝の御時、むつ〔のカ〕くに貞任・宗任誇り、十二年の戦あり。其時の大将軍伊予守頼義・御嫡子八幡太郎・二男賀茂二郎・三男新羅三郎向はせ給ひて、終に滅し給ふ。彼の宗任・貞任と申せしは、おもて三尺四方、声百里〔〈に脱カ〉〕聞ゆる者なり。斯かる悪事の者、失ひ給ふとて、武田の先祖ものゝふといふ字を給はり、新羅三郎の御嫡子にてましませば、武田の太郎と申すなり。勝頼迄は、〈三二カ〉十一代にて渡らせ給ふと申し伝へけるとかや。栄華を極め、世を保ち給ふ事、又類あり難く御痛はしや。勝頼御台所の平生きたの御遊には、青陽のあしたには、花鳥はなとりに御心を染み、いろねを惜み、もとを慕ひ、歌を詠み詩を作り、又夏来にければ、卯の花・杜鵑、涼しき方をもとめ、松が根の磐井の水に、立寄り給ひて、立来る波に、言の葉を寄せ、秋は、さやけき月を友とし、琵琶・琴・〈欠字〉〔和カ〕琴・笙・篳篥揃えへ、思ひオープンアクセス NDLJP:183思ひの夜楽の遊、爪音けだかく引鳴らし、天人も影向なすやとばかりなり。秋風・木颪打過ぎて、雪の頃にもなりしかば、斯からん時のものまと〔本ノマヽ〕とて、木々の梢に積れるを、花待ちおそしと眺め給ふ。勝頼の平生されども、勝頼は、武道のことを忘れ給はず、打臥し給ふにも、鎧の袖〔〈を脱カ〉〕枕とし、起きさせ給ふにも、其事のみ、厳冬・霜雪・風雨を厭はず、弓矢の方へと、赴き給ひしかども、時移り、運命尽き果て給ふにや。木曽殿、謀叛を起し、木曽義昌の反逆尾張の国織田の上総介信長へちうし去る間、都の勢を引具し、木曽殿を先として、討つて下り、天正十年壬午三月十一日に、田野の山辺の合戦に、打負け給ふぞ哀れなる。御痛はしやな。無下むげなくも、御内みうちの人の変らずば、仮令、天下勢来るとも、五年・十年の其内は、斯かる程にはましまさじ。彼の勝頼と申せしは、心武田の家なれば、人には勝れてましませども、御内の侍、悉く心変を申されければ、力に及ばせ給はず。然れども、たてを御枕と定めさせ給ひて、何方へも落ちさせ給ふべき御心は、夢程もましまさゞりしに、爰に国人くにうど、小山田と申せし人、母の尼公を、人質に取られ参らせ、それ返さんが計に、仰はさこそ候へども、御身をまたくり給へ。自らが在所ありどころ都留の郡岩殿山と申すは、凡そ天下が向き候とも、一持持つべき山にてあり。夫へ御越し、然るべきと申されければ、勝頼聞召され、こは口惜しきいひごとや。勝頼刹なる間も、今生にあらん程、かたきに後を見すべきか。是にて待ち合はんと、大きに御腹立たせ給ふに、小山田重ねて申されけるは、恐れながら申すなり。命をまたう持つ亀は、必ず蓬萊に逢ふと伝へ聞く。彼の山に籠り給はゞ、御世に出でさせ給ふ事、程はあらじと、申されけれども、御返事のなかりければ、小山

田、涙を流し申されけるは、御大将は、さこそましますとも、御台所未だ莟みて、春待ち給ふ梢の花の我が君様、彼と申し是といふ。余りに御心強くも、折に寄りしものをと、かき口説き申しければ、勝頼新府落去勝頼、げにもと思召し、御館韮崎を出でさせ給ふ、痛はしやな。御台所の、館へ移らせ給ふ御移の時は、金銀こんごん・珠玉を鏤めたる輿車、あたりも輝く計りにて、御供の衆、数知らず、故府より新府の其間、三百余丁と申せしを、よびつるさしつる移らせ給ふ。頃は十二月廿四日なりしに、明くる弥生三日には、斯くならせ給ふとて、御名残惜しくや思召す。御床に倒れ臥し、涙を流し宣ふオープンアクセス NDLJP:184やう、只此処にありし事は、春の夜の夢ほどもなしと、仰ありて、斯くこそ詠じ給ひけれ。

   うつゝには思ほえがたき此の所あだにさめぬる春の夜の夢

と遊ばして、同落去の状況出でさせ給ふ時は、輿車にも及ばせ給はず。召しも習はぬ御馬に召され、出でさせ給ふが、御名残惜しとや思召す。遥に御覧じ、返し、かくこそ詠じ給ひけれ。

   春霞立ちいづれどもいくたびか跡をかへしてみかづきの空

弥生三日なれば、斯く詠じ行かせ給ふが、人々の気色変りて見えければ、勝頼を案じ奉り、御馬も進めず立たせ給ひて宣ふやう、など遅なはり給ふぞ。法華経五の巻に、変成男子と云ふ事あり。形こそ、女人に生るゝといふとも、心は男子に劣らめや。勝頼すはと申すなら、先づ我れ先にと思召し、御守かた〔〈な脱カ〉〕に、御心を懸けさせ給ひて、勝頼夫妻柏尾に到着落ちさせ給ふ途すがら、昔源平両家のおちあしと申すとも、是にはいかで勝るべき。其の日も暮方になりければ、柏尾かしはをと申す所へ着かせ給ふ。御台所仰せけるやうは、此寺の御本尊は、薬師如来と承はる。今夜是に通夜し、後の世を祈らばやと思ふなり。南無薬師瑠璃光如来、自ら最後既に近づきぬと覚えてあり。後の世には、一つ蓮の台の縁となし給へと。柏尾は、韮崎より東なれば、東方浄瑠璃世界を、心懸け給ひて、斯くこそ詠じ給ひけれ。

   西をいで東へ行きてのちの世の宿かしわをと頼む御ほとけ

夜もすがら祈らせ給ふ所に、ちとりどうの者共、自ら家に火を懸けて、御心を騒がしけるに、其火の光に驚き、たま召連れし人も、妻子の事思ひ軽ぜけんか、其為めに、忍びに落ち行きぬ。稍ありて、勝頼、誰れかあると宣へども、とみには御返事もなす者もなし。重ねて如何にと宣へば、土屋某、候と申す。誰彼はと尋ねさせ給へば、誰は何時の頃より見えず、之は何時より見えずと申しければ、何れも御心細くや思召す。既に其夜も明けければ、細宿こまかう石見が宿へ出でさせ給ふ。痛はしやな。女房達、昨日は馬に乗りしをさへ、世に憂き事と思はれしが、其馬人も、落行きぬれば、徒歩や跣で歩みける。御台所御覧じて、げに哀にぞ思召す。御供の人も、猶ほオープンアクセス NDLJP:185僅かなれば、御心細くや思召しける。路次にて斯くこそはべり給ひけれ。

   行くさきも頼みぞ薄きいとゞしく心よは身がやどりきくから

と遊ばし、弥生四日には、細宿石見が宿へ着き給ふ。小山田変心小山田、心変りに思ひけるやうは、能き時刻もなし。母諸共に、都留の村へ行かばやと思ひし所に、敵見えけると、申し来りければ、六日の暮方に、土屋を奏者と致し、是に御入り候事、覚悟の外にて候なり。彼の都留の郡岩殿山へ御越し、然るべきなりと、御申し頼み奉り候。又付いては、自ら母の御暇の事、能き様に頼み入るなり。尤の仰せならば、御先へ罷越し、御台所の御座の間をもしつらひ、御迎に参るべしと申しければ、其由、土屋申上げられけるに、聞召し、いやと思召しけれども、彼の者の心をそこねじと思召し、兎も角もと仰せければ、母諸共に、七日の夜半に紛れ行きて、御迎に参るかと、待ちさせ給へど、其儘見えざりければ、此方より御迎を越され給ふ所に、笹子の峠に、数多の武士陣取つて防ぎ、都留の郡へ入れざりければ、御使罷帰り、此由申上ぐる。勝頼聞召し、彼の者に誑られし事の口惜しさよと、天に上り地に沈み、御腹立たせ給へど叶はず。勝頼の後悔小山田心変の由を伝へ聞き、御陣、俄に騒ぎ立ち、あたりの家に火を懸くれば、
あるにあられぬ有様、目も当てられぬ気色なり。げに了簡のなき余りに、天目山へ御越しなされ、一持もたばやと思召し、既に細宿を出でさせ給ふ。小屋中の者共等、此方へ御越しなされん事、思も寄らずとて、数多の兵、轡を揃へ防ぎ奉れば、此処彼処に立たせ給ひて、籠の中の鳥とかや。網代の中の魚とかや。洩れて行かせ給はん方ぞなき。爰に僅なる田野と申す所に、御馬を寄せ給ひて、やすらひ給へば、御台所の仰せける様は、斯かる野原の有様、思も寄らずや。斯くあるべしと知るならば、韮崎にて、如何にもなるべき身の此迄来りて、屍の上の口惜しさよと、御涙を流し仰せければ、勝頼聞召し、自らもさこそ思ひつれども、彼の者に誑られ〔〈し脱カ〉〕と申すとも、御身痛はしきと、思ひ参らせし故なり。事は如何にと申すに、彼の都留の郡と申すは、相模近き所なれば、如何なる風の便にも、御身、故郷相模へ送り参らせ、我が身如何にもならむと思ひし故なりと宣へば、御台所聞召し、此は如何なる仰ぞや。譬へば、人許し輿車にて、故郷ふるさと相模へ送るとも、帰らん事思オープンアクセス NDLJP:186も寄らずや。一つ蓮の台の縁と、思ひ染めたる紫の雲の上まで、変らじと契を結ぶ玉の緒の、有らん限は、本よりも絶えての後も別れめやと宣へば、北の方の決心勝頼聞召し、いしうも仰せけるものかな。御身の御心、まだきより斯くこそ見奉れとて、只此在所、見苦みぐるしとの仰なるや。或文に曰、三界無安唯如火宅、又十方空と観ずれば、何処をあると定むべき。只妄想の戯なりと宣へば、御台所聞召し、誠に左様にて侍ると宣ひて、斯くこそ詠じ給ひけれ。

   野辺の露くさばのほかにきえてのち〔以下欠〕

 たいあらはこそたき所  もんちんじ宣へば、勝頼聞召し、悦びては歎き、歎きては悦び、宣ふ所へ人来り、敵ははや、善光寺辺迄参りたると申しければ、最後の盃最後の御盃と申しければ、奉りしに、御台所取上げ給ひて、勝頼にさし給ふ。又御台所へさし、御台所の御盃を、御子信勝へさし給ふ。信勝の御盃土屋に下さるゝ。夫より後は、心々の思ひざし、しゆも半の事なるに、土屋は顔近づけ、しやくたてなはし申すやう、斯かる野原の御有様見奉れば、心も乱れ気も消えて、眼も暗む計りなり。土屋の忠実斯くならせ給ふは、如何にと申すに、御内の人々の心変の上なれば、さこそは此方をも、御心や置かせ給ふらんと、朝夕気遣ひ致すなり。さもあらざりし印を、御目に懸けんとて、五つになりしわかに向つて、いひけるは、汝は幼少なれば、人の連には歩み難し。御先へ罷越し、六道の街にて、君待ち奉れ。父も御供申すべ〔しカ〕。西へ向つて手を合せ、念仏申せといひければ、父が子にてある間、承ると申して、楓の様なる手を合せ、念仏三遍申しければ、腰の刀を引抜ひんぬいて、むなもとに押当て、彼処へがばと投げ捨つる。勝頼、此由御覧じて、余りあへなき事を、致しけるものや。最後の言葉をも懸けやうずるものをと宣ひて、御涙を流し宣へば、御前なる人々まで、皆小手の鎖を湿ぬらしける。御台所、此由を聞召し、何に土屋がわかを害しつるか。哀れなると宣ひて、御衣おんぞの袂を顔に当て給ひて、暫しは御気も上り給はず。稍〻ありて、御台所仰せける〔〈は脱カ〉〕、かんろの母の心の内の不便さよと宣ひて、若が事を遊ばし、母の方へ送り給ふ。

   残りなく散るべき春のくれなれば梢の花のさきだつはうき

オープンアクセス NDLJP:187と侍りて、送らせ給へば、女房弁なくて居たりしが、御詠歌の由を承り、少し心を立直し、三度戴さ、涙の隙々に見て、恐れながらも御返し申さんとて、斯くこそ詠じ参らせけれ。

   かひあらじつぼめる花はさきだちて空しき枝のはは残るとも

其後、土屋、女房に向ひていひけるは、わかが妹二歳になりしをぞ、汝に取らするなり。何方へも連れ行き、若しながらへてあるならば、尼にもなして、父母が遺児わすれがたみとも、見るべしといひければ、女房聞いて、うたての人のいひ事や。彼の若に離れ、御身に捨てられ、又世に存命ながらへんとは思はず。同じ道にと思ふなりと、搔き口説き恨みければ、土屋、重ねていふ様は、女の分けなきとは、此とかや。彼の嬰子みどりご養育し、父兄が草の蔭を訪はせんは、幾許の忠たるべきといひけれども、更に了承せざりければ、土屋、頼もしき被官を近づけいひける様は、彼の女親子連れて、何処へも忍び置き、尼にもなして、自らが草の蔭を訪はせよと、いひければ、彼の男申すやう、此は口惜しき仰かな。何方へも行きては、何時の用に立つべきぞ。思も寄らずといひければ、自ら馬に鞍を置き、女房をき乗せて、押へて男に水口取らせ、馬のさむずに鞭を当て、十町計り追出してぞ帰りける。其後、御台所御最後も近づきぬれば、御心細くや思召しける。故郷相模へ斯くならせ給ふ言の葉を、如何なる雁の便たよりにも、言伝てばやと思召して、斯くこそ詠じ給ひける。

   帰る雁頼むぞかくの言の葉をもちて相模のこふにおとせよ

また如何にもならせ給はん後、御兄弟きやうだいの御歎かせ給はん事を思召して、

   ねにたてゝさぞなおしまむ散るはなの色をつらぬる枝の鶯

と侍りければ、御前なりし女房達、御最後の御
供申さんとて、斯くこそ侍りけれ。

   咲く時は数にもいらぬ花なれど散るにはもれぬ春の暮かな

斯くて、敵、間近く来りたる由申しければ、法華経五の巻、奉れと召されて、御心静かに遊ばし給ふ。既に御経も過ぎければ、勝頼、土屋を召され、御台所の御最後の御介錯と仰せければ、承ると申して、お前に出でけれども、初めて見奉るに、御年の頃、二十歳の内と見えさせ給ひて、色々の装束召され、容顔美麗の有様は、昔の楊貴オープンアクセス NDLJP:188妃・衣通姬・吉祥きちじやう天女と申すとも、斯程なまめいたる形はましまさじ。何処へ劒を立て参らせんと、呆れ果てゝ居たりしに、御自ら御守刀を抜かせ給ひ、御口に含ませ給ひて、うつむきに伏し給ふ。御台所自尽勝頼、此由御覧じて、急ぎ立寄り、御介錯を奉り、御死骸に抱付き、暫しは物をも宣はず。土屋兄弟三人は、御供の女房達の介錯、取りに致しける。算を乱したる有様にて、譬へん方はなけれども、昔平治元年三月十五日に、待賢門の戦の時、平家は十八万騎、源氏は凡そ三百余騎に、討ちなされさせ給ひし時、御子千寿の前、竹の小御所を忍び出で、父義朝の御前にて、仰せける様は、両家を見奉るに、平家は出づる日、咲く花なり。源氏はい〔衍カ〕る日散る花なり。義朝如何にもならせ給はん後、如何なるこんしやの手に、懸らんも口惜しや。義朝御手にかゝり、助からばやと思ひ、最後の装束〔にイ〕て参りたりと、仰せければ、義朝聞召し、いしうも申しける千寿かな。自らもさこそ思ひつれどもとて、御涙を流し仰せける。稍〻ありて、義朝の乳人めのとの鎌田は何処にぞ。政清参れと召されつゝ、南面のさんこの桜の本に、敷皮を敷き、千寿の前を移し奉り、仰せける様は、我が子なれども、いつくしきものや。恐れながらも満月の山の端出づる其影も、是にはいかで勝るべき。たけなる翡翠の簪巻揚げ給ふ。義朝差寄り給ひて、仰せけるは、汝、如何なる因果に、義朝が子となりて、斯かる憂き目を見するなり。今度には、如何なる賤の男賤の女が、胎内にも宿り、百余年齢を保てと宣ひて、電光の中に、劒を振らせ給ふと見えしかば、花の様なる千寿の御首は、前にぞ落ちたりける。義朝御首に抱付き、暫し消え入り給ふとなり。又元暦元年二月七日、一の谷の落ちあし、同じき十八日に、讚岐の八島のおちあしに、如何計りの人失せさせ給ふと申せども、此には如何で勝るべき。やう勝頼、御死骸に別れ給ひ宣ふやう、如何に土屋、自ら最後をも同じ時刻と思へども、敵待ち合はんと思ふなり。自らたち終ふる事は、家に背ける事なれど、所存の余り、之ならば苦しからじと、思ふなりと仰せければ、土屋承り、仰、誠に御理なりと〔ぞカ〕申しける。勝頼父子の応答又御子信勝に向はせ給ひて、自らは一栄一落是春秋たるが、汝無惨なれ。未だ齢足らざれば、武田の家にもなほらずして、只斯くなる事は、未だ莟める花の春にも逢はずして、嵐にもまれ落つるが如し。無オープンアクセス NDLJP:189念なりと宣へば、信勝聞召し、莞爾と笑はせ給ひて、いや此は苦しからず。爰に譬の候なり。主従の専念終に朽ちぬ。槿花の一日は自らえいをなす。くも遅くも残らめやと宣ひて、かくこそ詠じ給ひけれ。

   まだき散る花とをしむなおそくとも遂に嵐の春のゆふぐれ

と遊ばしければ、勝頼聞召し、感じ給ひ大人しや。如何なる心様かなと、思召し入り給ひて、深き御涙に咽び給ひて、御返事も弁へずして、おはします所へ敵来りければ、何れも打物抜き持ちて出で給ひ、散々に戦ひ給ふ。土屋兄弟三人も、同じく戦ひければ、先へと進む。つはものを悉く滅し給へば、後なる勢は、之をさゝへて居たりければ、善き時刻ぞと思召し、如何に土屋、敷皮直せ。御腹召さるべしと、仰せければ、承ると申して、御敷皮奉り、御介錯〔〈に脱カ〉〕参る。直らせ給ひて、御辞世とおぼしくて、斯くこそ詠じ給ひけれ。

勝頼の辞世   朧なる月もほのかにくもかすみ晴れてゆくへの西の山のは

と遊ばしければ、土屋取り敢へず、斯くこそ申し参らせけれ。

   おも影のみをしはなれぬ月なれば出づるも入るも同じ山のは

其後、毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、即成就仏身と、此文の称へさせ給ひて、

御年三十七と申すに、田野の草葉の露と消えさせ給ふ。同自尽土屋、御死骸に抱付き、やがて御供申すべしとて、深く涙に沈みける。又信勝の御介錯に、弟の土屋参る。是も直らせ給ひて、御辞世と覚しくて、斯くこそ詠じ給ひけれ。

信勝の辞世   あだに見よたれも嵐のさくら花咲き散るほどは春の夜のゆめ

弟の土屋承り、取敢ず斯くこそ、詠じ参らせけれ。

   夢と見るほどもおくれて世の中にあらしのさくら散りはのこらじ

とぞ申しける。弟の土屋見奉り、何時よりもいつくしくましますものや。ぼゝ〔おもはくイ〕眉に薄化粧、色々の装束は、楊梅桃李の花開き、霧の間に弓張月の入る風情、只此世の人とは見えさせ給はず、天人の影向やうがうかと覚しくて、雪のはだえ顕れ、何処へつるぎを立て申さんとも、おもほえ難くて居たりしに、
願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆但威仏、我人成仏と、此のもんを唱へさせ給ひて、同自尽利年十六幾にて、同じ野辺の草葉のオープンアクセス NDLJP:190露と消え給ふ。弟の土屋、御死骸に抱き付き、暫し消入りけるとかや。其後、兄の土屋いひけるは、勝頼・信勝御腹召されぬ。土屋兄弟奮戦思ひ置く事なし。いざ、敵の中へ乱れ入り、討死せんといひければ、承ると申して、御死骸に打別れ、兄弟三人、打物抜き持ち、敵の中へ乱れ入り、火焰の出し戦ひて、多くの者を滅せば、向ふ敵こそなかりけれ。兄の土屋いひけるは、迚てもながらふべき身にてなし。余りに人を失ひて、我が身の後の罪たるべし。いざ、刺違へて死なん。尤も然るべしとて、兄廿五、其次廿二、三男十九にて、刺違へてぞ失せにける。同自尽彼の者共の挙動、見る人目を驚かし、昔の樊噲・張良・楊雄が勢も、是には如何で勝るべき。一騎当千とは、此者共の事なるべし。齢と申し、所存と云ひ、惜まぬ人ぞなかりける。其後、彼のほとり此辺に、忍び居し人々、御最後の由承り、歎き悲む有様、譬へん方はあらねども、ちやうだいの事なるに、三界一徳尊釈迦牟尼如来の御入滅の二月きさらぎに、十大御弟子・十六羅漢、此外の人人、五十二類獣物・鳥類・畜類・有情・非情のたぐひまで、歎き悲むも、是には如何で勝るべき。斯くは思ひ奉れども、国の内、皆敵なれば、其目をかねて、御墓建つる人もなかりしに、爰に一夜の御宿を参らせし者、人目を忍び、御墓へ行きて、余りに御痛はしく思ひ参らせ、名号みやうがう歌を詠み奉る。

   なほ竹の林の花のみな散れば世はうぐひすのねをぞなきぬる

   むらさきの雲に月かげ入りしより心はやみの夜にぞまよへる

   あはれなりあり明ならでうき雲のかゝればともに十六夜の月

   みなそこの心はきよきかは竹の世ににごりある事ぞかなしき

   たれゆきてとはぬ御はかの秋風にうらみや深き田野の葛はら

   ふりぬともわきてやとはむあとたえし田野の山辺の苔の下道

   罪もみなありとは何をいとはましよくより見ればくうの海原

此名号歌の始に、竹の林とは、武田の御親子様の御事、花とは常の事、散るとはかくれさせ給ふ事、みな〔衍カ〕とは御一門の事なり。五文字もじに、なほ竹のと、は人々多く死すと申せども、おふや様猶御痛はしといふ事なり。下の句の上に、よは鶯といふ事は、夫に付けても、世の憂きといふ事なり。又竹のなるべし。何れも歌の其品々オープンアクセス NDLJP:191あるべし。信長、勝頼の首に対面其後、滝川、勝頼様の御首を持ちて、信長の前に来りければ、御しるしに向ひ給ひて、色々の事申されければ、御気に合はずとや思召す。面を背け、御うしろへ向かせ給ふ。信長・城の助殿、此由を見奉り、仰せける様は、御道理にて候なり。弓取の習にて、人を斯くし、又我斯くならんも知れぬなり。御晴らさせ給へ。其ぢやうには、今度心変こゝろがはり致しける人々を、皆失はんと申されければ、御前に向かせ給ふ。信長、城の助殿と仰せける様は、昔頼朝・義経御不合ごふあひに依り、奥州の秀衡を頼み、高館と申す所に、御所を建て御入り候所へ、鎌倉よりも押懸け、御申しありし時、頼朝への御恨を書き給ひて、其文を、口の内に納め、御腹召されぬ。御乳人の兼房、自らが腹を割き、御首を押入れ、御館に火を懸け、死したりしに、焰鎮まりければ、鎌倉の人々、乱れ入り、焼けたる首の中にて、義経の御首を見付け奉り、孝養きやうやう申さんと、畠山殿見給へば、御口の内より、彼のふみを吹出し給ふとなり。夫より後は、是にてましますなりとて、御入れ参らせ、七段に段の築〔けカ〕、七重に注連しめをはへ、其内に納め給ふ。其後、約束の如く、御心変り申しける人々、悉く絶されける。又尾張より向ひ奉りし人々も、信長以下勝頼の死後七十五日内に横死す信長・城の助殿を初めとし、七十五日の内に、皆々絶えられければ、此事、あづまみやこへ隠なくして申す様、唐土の虎は毛を惜み、日本の弓取は、名を惜むと申す譬の候が、武田殿は、御めい変らせ給ひて、天下に御名を広め、後代に揚げさせ給ふものかなと、申さぬ人ぞなかりける。又此世のあらまし取集めし物は、柏尾にて一夜、御宿参らせしものなり。
世を観じ見るに、人間五十年、流転の内を譬ふれば、電光・朝露・石の火・夢幻の如くなるに、世の営に打ち迷ひ、末の暗路を如何せん。誠の道に入らばやと思ひ、其頃貴き入慶紹けいせうと申せしの御弟子となり、元結切り、黒染の衣に身をなして、室のとぼその明暮に念仏申し、経を読み、心意をすまして、其暁を待つ所に、武田の御一門、落人とならせ給ひて来り、一夜の御宿と仰せければ、奉りしに、其儘、世に出でさせ給はず、終に果敢なくならせ給へば、御痛はしき事限なし。いとせめて、御名ばかりをも留め参らせ、草葉の露の消えぬ間の、忘形見にも見奉らばやと思ひて、かく記し置き参らせけるとかや。先の名号歌、詠みて奉りしものの尼なり。
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甲州柏尾山の理慶比丘尼

     けいじゆ庵之を集む

されば後〔以下无イ〕、忘形見奉れば、いとゞしく心は闇の如くに、身の置所に迷ひ、あるにもあられざりければ、御所縁ゆかりを正し参らせ、今は相模の国へ参り、中の郡とやらんの富岡の郷の内、長島と申す所に、僅の庵を結び、内ともあらぬ蘆の屋の、同じ編戸の明・暮に、御痛はしき事のみ、思ひ参らせて、如何ばかり御経の事を思ひ参らせけれども、鰥寡かんくわ寂寞の思、専にして、何れも其便たよりなかりければ、とても斯く思ふ事叶はざりければ、中々一つ御心の道へも、参らばやといふに、涙の先立ちぬ。人の只憂きもの〔衍カ〕は、浪人に勝る事あらじ。新玉の年立ち返る春来ても、花の門を替ふる事もなく、嵐身に染む秋までも、重ぬる衣あらざれば、蝉の羽薄きかたへをひきまつへぬる夜ぞ、いとゞなかりき。厳冬霜雪の冬の夜も、衾を重ぬる事もなし。斯かる悲き有様も、知る人あらねば盗人なし。斯くて、庵の編代の戸を、明けぬ暮れぬと、過ぎ行きし三歳の思如何せん。年今ははや、暫しは如何で存命へん。憂身日に添ひ衰へて、面影計り有明の月日送らん様もなし。実にや命も、白露の消えなん事を思ふにや、頼みあるかな。五ちの〔本ノマヽ〕以下虫損名は高野山〔本ノマヽ〕引導院へ〔〈以下欠〉

 

斯書、一名武田勝頼滅亡記、理慶尼所記也。尼勝沼氏、蓋武田一族也。父入道某、叛於武田氏。永禄二年己未十一月三日、山県昌景伐誅之。先是尼嫁雨宮某。時已有孕。然某、以尼父謀叛其連累、離婚遣婦。尼遂依柏尾山慶紹阿闍梨、落彩為尼、築庵居之。慶長十六年辛亥八月十七日寂。其所生子及従者四人、家於山下、晨昏供養、以終尼身。其子孫今尚在焉。一曰久保田氏、一曰水上氏、一曰佐藤氏、一曰飯室氏。斯書、原其子孫家所伝、今為大善寺蔵。武田氏之亡、尼在当時其耳目所親接、録成冊子。一則蔵諸柏尾山、一則蔵諸高野山、此所謂引導院、即高野山小坂坊、蓋武田氏香火寺也。事詳見高野通念集。余窃謂、其君臣上下、当顛沛流離之際、即以和歌従容志。其詞平坦和易、触口成章。オープンアクセス NDLJP:193浩然若其心也。其無一人不和歌、無一和歌不_工。又且工力迷敵、殆若於一手者、後惑之。是皆尼所擬作、亦不必謂其理也。丁酉正月善庵老人題。

亡友横田汝圭、遊歴到柏尾山大善寺。寺中住持持覚隆法印、出示此書、且謂曰、武田安芸守信満、住木賊原。人称木賊殿。其孫五郎信朝、移住勝沼勝沼

 
理慶尼の記大尾
 

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